※ 2011年3月27日・ 4月2日 Myspaceブログ投稿分

1979年にレコード・デビューしたカシオペア。一般的にはブレイクしたのは1982年発売のアルバム「Mint Jams」がきっかけだと言われています。勿論私もそれ以前から数曲程度知ってはいましたが、実際にファンとして聴き始めたのは翌1983年からです。

元々ロック系の趣向が強かった私は、実はフュージョンはKYLYN以外は聴いた事がなかったのですが…。それでもYMO等のインスト曲を聴いて慣れていましたので、歌の無いインスト音楽にすんなり溶け込む事ができたのだと思います。だから私は「Mint Jams」以前のファンの皆様とは全く異なるタイプでしょうね。ちなみに当時の私は、ほぼ同時期に浪花エキスプレスやザ・スクエアも聴き始めました。

つまり私にとってのカシオペア入門作は「PHOTOGRAPHS」で、当初お気に入りだった曲は「Dazzling」「Misty Lady」「Fruits Salad Sunday」等です。何よりギタリストの野呂さんがキーボードでメロディラインを弾く曲を作曲なさった事に驚きました。だってそれまでは「ギタリストはギターがメロディのテーマを取る曲しか作曲しない」と思っていましたから…。

しかも野呂さんはアレンジの天才で、各パートをご自身でアレンジされていましたし、その緻密な楽譜を有能なメンバーが演奏で正確に再現する構図が出来ていたのが80年代のカシオペアです。特に向谷さんはハイテクな演奏は勿論、音楽理論も本格的に学んだ人で、初期の頃から楽譜の書き方もメンバーに伝授されたりしていましたから、テクニックが上辺だけのものではなく、音楽理論に裏付けられたものとなっていくのには欠かせない存在であられたと思います。

そして「ベースやドラムスがこんなに格好良いものか」と衝撃を受けたのもカシオペアでした。私もそれ以前から応援していたバンドを聴いた際は、ベースとドラムのコンビネーションに注目した事なんて無かったですから…。

私も自分なりにはYMOなんかを聴いて「歌中心ではなくサウンド中心で聴いている」つもりで居たのですが、結局それはまだ未完成だった訳で、カシオペアに出会ってようやく全部の楽器パートの音をトータルで聴く聴力みたいなものが自分の中に出来あがったと思います。つまり私は、当時のカシオペアにそれまでの音楽概念や姿勢をガラッと変えさせられたんですね。

80年代のカシオペアはライブバンドのイメージが強かったですね。1年のうち、3分の2ぐらいはツアーに回っておられたんじゃないでしょうか。何よりスピード感溢れる演奏と面白い司会のコンビネーションっていうのは新鮮でしたし、唯一無二の存在でした。後に様々な時代のカシオペアのサウンドを聴き慣れた耳で改めて当時エアチェックしたテープを聴きかえすと、部分によっては後期よりも雑に感じたりするところもありますが、前期特有のスピード感は圧巻で、あれは若い時代だからこそ体力勝負で展開できたのでしょうね。

そしてカシオペアの躍進はメンバーの力だけではなく、その演奏の裏側で貢献されたスタッフの腕力なくしては実現していなかった事でしょう。カシオペアとの契約を決めたアルファレコード初代社長の村井邦彦氏、エグゼクティヴ・プロデューサーの川添象郎氏、プロデューサーの宮住俊介氏、そして歴代のマネージャー各氏等、敏腕スタッフが在籍しました。

中でも特に宮住プロデューサーは、デビュー前のカシオペアのデモテープを受け取った瞬間から「彼らをどうやって売り出していけばいいだろうか…」と、それこそ何も無いところからカシオペアをスターバンドへと押し上げた人です。アルバム作りに色々知恵を巡らせ、選曲、共演ゲスト人選、レコーディング手法等、あらゆる面でカシオペアの全体像を作ってこられた人、であると同時に、作品を客観的な目で見る事も大切な中、この人からメンバーへ助言される事も大変重要だったと思います。つまり宮住プロデューサーはカシオペアにとって無くてはならない人でした。ちなみに宮住氏は84年頃にアルファから独立して個人事務所を設立された後も、引き続き88年までカシオペアのプロデュースに務めてくださいました。私もリスペクトしているお人であります。

私事ですが…実は83年から86年位にかけて、当時私が応援していたバンドが次々解散していったんです(殆どのバンドが2000年代に再結成しましたが…)。当時は解散が流行っていましたね。ネットも無い時代ですから、私も解散したバンドメンバーのその後の活動はよく解りませんでしたし、首都圏に比べればライブの機会も少なかった…。そんな中でもバンドとして唯一続いていたのが、カシオペアでした。しかもカシオペアは楽器演奏がメインで、各楽器系の雑誌で随時情報を得る事ができましたから、私の中でも自然と注目度が深まっていたという訳でした。

そんなカシオペアも80年代は、順調に活動を続けて確固たる地位を築きました。


1984年には初の公式ベスト盤「THE SOUNDGRAPHY」をリリース、このタイトル曲はシングルカット発売された上に、メンバー自らマクセルカセットテープのCMにも出演。夏のヨーロッパツアーも大成功を収め、最終日のロンドン公演は日本のニュースでも報道されました。

そしてツアーを終えたメンバーは日本に戻らず、その足でニューヨークに移動、「DOWN UPBEAT」のレコーディング開始、わずか10日で完成。収録曲「Zoom」と「Down Upbeat」は当時流行していた12インチ・シングルでダンス・リミックス・バージョンも発売されました。


1984年10月5日には、カシオペアは雑誌「FMステーション」の取材で、京王プラザホテルの一室にて伝説のジャズ&フュージョングループ「ウェザー・リポート」と対談しました。

後輩のカシオペアとしては、憧れのウェザーリポートと面会できて「君たちも頑張ってるね。」と声を掛けていただいたので、大変感動された事でしょう♪ ビクター・ベイリー氏は神保さんと1982年頃に一度N.Y.でお会いになったそうで、「君を覚えているよ。」と声を掛けていただいた神保さんも「嬉しいです。」と返答されました。こうして両グループの対談は、和気藹々と進行していきました…。

すると対談の途中で、櫻井さんが「一つ質問があるのですが…」と切り出し、「ジャコ・パストリアスとずっと一緒にやってきたのに、どうしてメンバーチェンジしたのですか?」と質問したのです(苦笑)。その瞬間、他のカシオペアメンバーが「おい、ちょっとそれはマズイよ」と慌てて慌てて(^^;)…一瞬、変な空気になりかけたそうです(^^;)

しかし、そこはさすがにウェザーリポートも大人の対応をされまして(^^;) ジョー・ザビヌル氏は「14年もバンドをやっていると、メンバーが変わるのはとても自然な事だと思うよ。1981年にツアーが延期になって、バンドがガタガタしていた時、ジャコは同時に自分のアルバムも作っていて、自分のバンドでツアーに出ようとしていたんだ。それにピーター・アースキンもソロアルバムを作る事になったので、バンドは欠員だらけになったのだけど、ツアーの契約が残っていたので、ある人がオマー・ハキムとビクター・ベイリーを紹介してくれたんだ。時にはバンドが望む通りに演奏できない人も居るし、演奏できても違う事をやりたがる人も居る。メンバーチェンジする事によって、バンド自体が進歩して行くのだと思う。」と答えてくださったのです。

更に続けてベイリーも、「バンドって家族みたいなものだと思うんだ。成長してくると家族を離れて独立したくなる。それは悪い事じゃないと思う。」と答えてくださいました。(『FMステーション記事より』)


そして1985年には「カシオペアの元気が出るレコード」というTV番組風キャッチコピーで発売された「HALLE」が空前のセールスを記録し、カシオペアはゴールドディスクを受賞しました。時を同じくして建設されたジャイヴ・スタジオに於けるカシオペア初レコーディング作品でもあります。12インチでシングルカットされたタイトル曲「Halle」は初めての4人全員での共作曲として知られています。

そして同時期に、国技館のライブを収録したカシオペア初の映像作品「Casiopea Live」も発売され、更にメンバー4人全員が1stソロアルバム(野呂さん=「Sweet Sphere」向谷さん=「ミノルランド」櫻井さん=「Dewdrops」神保さん=「Cotton'」)も発表しました。

そして1986年の秋には、カシオペアは「結成10周年」を迎えました。これはカシオペアと名乗って初めて出場した1976年のYAMAHA EastWestコンテストのメンバー(野呂・櫻井・Key小池秀彦・Ds鈴木徹)の時を起算点にして86年秋が結成10周年だと判断されたようです。

しかし後の結成20周年の際は、EastWestの2回目の出場であり実際にレコードデビューしたメンバー4人(野呂・櫻井・向谷・佐々木)が初めて揃った1977年を起算点にするように変更されたようです。おそらくこれは1976年のコンテストに出場した旧カシオペアを、1977年以降のパーマネントなカシオペアと同一バンドとして扱ったかどうかの違いなのでしょうね…。それでウィキペディアでも1977年結成と記されているのだと思われます。


参考までに古~い時代に遡ってみますと……カシオペアが1976年にEastWestに出場した記録が、かつてヤマハのコンテスト・アーカイヴ・サイトで閲覧できました。現在では残念ながら閲覧する事ができませんが…。

このサイトをよく見ますと、小林泉美さんも出場されていたのですね。それにしてもカシオペアの「まぼろしの彼方」「センチメンタル・タイム」ってどんな曲だったのでしょう?(笑) この大会で野呂さんはベストギタリスト賞を受賞し、副賞としてヤマハのエレキギターも貰われました。これは後にオリジナル・モデルの数々を開発されるに至る原点だったのかも知れませんね。この話は世田谷界隈でも有名になり(笑)、翌年出場するにあたって向谷さんをカシオペアに誘う為の大きなプラス要因となったそうですよ(笑)。

結局キーボードの小池さんはスタジオの仕事が忙しくなって自然にカシオペアを離れる事となり(脱退宣言はしておられませんが…)、鈴木さんは別名・鈴木リカでプリズムに参加する為に脱退し、カシオペアは一旦2人となりました。

そして1977年、カシオペアは向谷さんが加わって3人となりましたが、ドラマーがなかなか固定しないまま、前年に続いて1977年のコンテストにも出場しました。

この年はサザンオールスターズやシャネルズも一緒に出場していた事や、審査員の中に鳴瀬喜博さん(当時バックスバニー)がいらっしゃった事でも有名ですよね。カシオペアは前年の実績から優勝候補の呼び名もあったそうです。ちなみに埼玉ブロックと記されているのは、当時の櫻井さんの居住地の埼玉で応募したからだそうです。

当初は「Midnight Rendevous」を演奏していたようで、勝ち抜いてからは演奏曲をスピーディでテクニカルな「Swallow」に変更。この途中でドラマーが佐々木隆さんに交代してデビュー時の布陣が勢揃いしたようです。鳴瀬さんからコンテストとしては異例のアンコール演奏を要求されたりもしました。そしていよいよ決勝を目の前にすると、「Swallow」はテクニカル面でハードルが高くて時々うまく決まらない可能性がある事を懸念された為、演奏曲を「Flying」に変更しました。しかし、この変更が裏目に出てしまったようですね…。

実はこの時の模様は「East West '77」というタイトルでLPレコード化されました(WT-9001~2)。カシオペアの曲は「Midnight Rendevous」と「Flying」の2曲が収録されています。

この「Flying」を聴いてみればよく解るのですが、野呂さんがメロディの頭でいきなりピックをかすってしまったのです(^^;) 結局カシオペアは優秀グループに輝いたものの、グランプリを逃してしまいました…。勿論、グランプリを逃したのはピックのせいではないと思います。審査員も大勢いらっしゃいますからねぇ…。むしろこのレコードはエフェクターとか全然掛かっていない素の音だからこそ改めてカシオペアの演奏テクニックの高さが解る面もあると思います。

ちなみに野呂さん個人としては、2年連続でベストギタリスト賞を受賞しましたが、前年の副賞は廃止された為、再びギターを貰う事はできませんでした。(^^;)


話が脱線してしまいました…。結成10周年の1986年の話に戻ります。

(その2に続く)