2006年06月23日
DEATH NOTE -デスノート-前編
名門・東応大学で法律を学ぶエリート大学生、夜神月。将来を嘱望される彼ではあったが、法による正義に限界を感じ、激しい無力感に襲われていた。そんな時、彼は黒い表紙に『DEATH NOTE』と書かれた一冊のノートを目にする。そこには、“このノートに名前を書かれた人間は死ぬ”の一文が。ためしに誘拐殺人犯の名前を書き込んでみると、翌日の新聞にはその男の獄中死が報じられていた。ノートが本物と悟った月は、自らの手で犯罪者を裁くことを決意するのだった。やがて連続する犯罪者の不審死が事件として表面化し、ついにインターポールが警察庁に送り込んだ天才“L”が事件解決に乗り出す。
漫画原作、という時点で地雷の匂いがぷんぷん。しかも超大人気のカリスマコミックとくれば、集客的に楽になる分、批評的には厳しくなると相場はきまっています。某有名映画サイトで25点(100点満点)のダメだしをくらった本作。賛否両論の嵐が吹き荒れておりますが、さてさて。
宣言しておきます。今回のレビューは散々な出来です。言いたいことはそれなりに言ったつもりですが、全体としてまるっきりまとまりませんでした。「長いばっかりでつまらない」典型です。まあとにかく読んでみようか、という心の広い方だけどうぞ↓
えー、大変に面白かったです。最初は8点(通常レベルでの最高点)をつけようと思ったんですが、マイナス1点は原作を全く知らない人に対してのケアが不充分という点と、ミサミサの扱いが中途半端だったということで。
主演の藤原竜也が実に良かったです。純真な正義感と、他の価値観を認めない独善的で視野の狭い性格を併せ持つ難しい役柄を見事にこなしています。原作にあるカリスマ性が感じられないという批判もあるようですが、あれは漫画だからいいんであって実写でそのままコピーするには無理のあるキャラクターです。後述しますが、時間的制約のある映画では感情移入させるために主人公には「ひょっとしたらいるかもしれない」位のリアリティは必要ですしね。その点異常なキャラは楽です。松山ケンイチ演じるLは原作内でも異常な存在ですから、リアリティは別段要求されません。
オリジナル設定として、月は最初から大学生に修整。一部に人気のシブタク等も変更。死神界も出てきません。これらは全てスピードを上げるためですね。中でも独自色が強いのは月の恋人・詩織と、既存のキャラではあるが南空ナオミとの対決シーン。この両者の使い方が絶妙でした。とりわけ原作を知る観客対策として絶大な効果をあげています。
仲睦まじい恋人の存在は、原作ファンにとっては不安を覚える所でしょう。月のキャラクター性を壊しかねない要素に見えたかもしれません。一方、南空ナオミが偽名を名乗った以降突入するオリジナル展開も、あまりにも強引なナオミの行動に違和感を抱かせます。しかしそのいずれもがキラのキャラクター性、前者は冷徹さを、後者は高度な知能を浮き彫りにする事になります。特にナオミの名を知るトリックは、それ自体は単純なものにもかかわらず、原作読者の思い込みを逆手に取ることで説得力を出すことに成功しています。
他にも重要な意味があります。原作では月は、彼を監視下に置かんとするLの誘いで捜査チームに加わります。とはいえこのエピソードをそのままやるとテニスやったり腹芸やったりで時間がかかるので完全カット。月自身がアプローチをかける事になりました。この対決の結果がその為に機能しており、展開に説得力を持たせる効果とショートカットとしての効果があるんです。本当に上手いと思います。(一方で美術館の場面では苦言を呈さざるを得ない描写があります。ナオミを前にした月はペンを取り出します。これは当然デスノートを使うという演出なんですが、全てはキラの計画通りな以上この行動はフェイントです。問題はそのフェイントを掛けられる相手が観客しか存在しないことです。劇中では月以外にとっては意味のない行為ですからね。対ナオミのトリックは監督が観客を意識してるのでオッケーですが、登場人物に観客を意識させるのが許されるのはギャグ映画だけです)
以上は表層の感想。ここから本作の本質について考えて見ます。
前にも書きましたが「原作と違うから駄目だ」は不毛な理屈だと思います。原作と同じ物を見たいなら別メディアは不要です。原作だけ読んでた方が幸せに決まってます。メディアが変わるって事は作品の特性も変わるってことです。その一方で、原作を使う以上は全く脈絡の無いことをするわけにいかないのも自明の理。原作が持つ魅力をそのメディアの特徴に合わせて変化させる必要があるんです(と、思います)。
漫画ってのは面白いメディアで、小説等に比べ絵を使う分情報量は大幅に増えます。その上文章も使用可能なので、細かい設定を与えるのも自由自在。また読者の望むスピードで読むことが可能。一方的に流すテレビや映画に比べて作品をじっくりと理解することが出来ます。「漫画なんて子供の読むもんだ」なんて意見が未だにありますが、とんでもない話ですよ。極めて濃度の高い情報伝達機能を持っているんです。しかも原作「デスノート」は圧倒的な量のネームが特徴。これを忠実に再現していくと一体どれくらいの時間が必要になるのか見当も付きませんし、2人のモノローグが大半なんて映画を観たいとはあまり思いません。
漫画がその特性を活かして世界感を拡げていくメディアだとすると、映画は余分な部分をそぎ落とす作業が不可欠なメディアです。いつでも中断可能な漫画と違い、(基本的には)映画は一気に観るしかありません。人間の集中力には限界がありますので、例えば「6時間の長編完成!」なんてことされても観客は付き合えないわけです。興行的な理由もありますが、約2時間ってのは妥当な線なんですよね。ですから軸となる部分を決めて、それを中心にしてシェイプしていく事になります。ではその軸に、カリスマコミックの数多ある魅力から何をチョイスするかなんですが。
金子監督が選んだテーマは「正義とは何か?」でした。法で裁けぬ悪人を断罪するヒーローは昔からポピュラーな存在です。この手のヒーローには、世の定めた法律を超えた絶対正義が許されています(逆説的に、無謬さを求められるがゆえに苦悩するヒーロー像も存在します。例:『スパイダーマン』)。
昨今、被害者に比べ加害者の人権が過剰に保護されているのではないかという意見が取り沙汰されています。それを受けてか冒頭、月がのうのうと暮らす犯罪者に怒りを覚える描写があります。シンプルな感情ゆえ観客は共感を覚えます。彼がデスノートという非現実の力と圧倒的な頭脳・精神力で“正義”を実行し始めた時、観客はそこにヒーローを見出しました。
しかし一個人が誤謬を排し、万人にとっての絶対的価値観を持つことなど出来るのか?
犯罪者のみを裁くはずのキラは、Lの影武者を殺した時点で殺人者に堕落しました。結局彼の理屈は恐怖政治にしか繋がらないのです。とはいえ観客は一度は彼にヒーローを見ましたし、法の限界も素直に許容する気持ちにはなれません。(一方キラに対するLもまともではありません。法を無視するキラを批判しつつも、彼自身の捜査方法は何でもあり。キラとLは立ち位置が異なるだけで、性質は同じなんです)
さて、ここでデスノートについて考えてみましょう。ノートを発動させる必要条件は相手の顔と名前が判明すること。つまり相手を特定の個人として認識するという事です。そういった存在に殺意を向けるというのは、本来通常の人間には耐えられない重責を生み出します。しかし「ノートに名前を書くだけ」な手段の”軽さ”がそれを可能にしています。これはまるで・・・。
我々は既にデスノートを手にしています。マスメディアとネットがそれです。マスメディアはワイドショー等において、ネガな印象を与えられた個人(被害者・加害者を問わず)を社会的に抹殺します。ネットも、相手の背景など関係なしに匿名で書き込むというシンプルさで攻撃を可能にしています。いずれも物理的にダメージを与えはしませんが、その本質はデスノートと同じなのです。そして両者とも、攻撃者は結果に対して責任を感じていません。これでは無差別な暴力に過ぎない。
そこでキラです。キラは個人の信念を社会的正義と完全に重ね合わせることにいささかの迷いも見せません。彼自身としては、裁きを下すことについて(精神的には)責任逃れをする気は無いんです(逮捕を逃れるのは、キラにとってはそれが正義だから)。それゆえ人は彼にヒーローを感じる。しかし前述したように、結局感情に支配されるただの人間であることが明らかにされます。観客は「正義を行いたい欲求」と「主観的私刑への嫌悪」の間に置かれることになる。それが『デスノート』のテーマなんです。「死神」や「デスノート」の存在はこれが架空のお話である事を強調しますが、芯の部分ではリアルな社会への問いかけを行っている作品なんです。
この前編は完全にキラ主体です。Lも脇役の域を出ていません。後編は2人の頭脳対決が全面に打ち出されることになるでしょう。今回のラストシーンは、それに向けての見事なヒキだったと思います。原作とは結末が違ってくるのも確実です。果たして今回の「正義とは何か?」に対する答えが用意されるのかも含めて、11月が楽しみです。上手く仕上げられれば邦画を代表する作品になる可能性もあります。場合によっては「なかったことにしよう」な空気になるかもしれませんが。
(シアター大都会)
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この記事へのコメント
おかげでスッカリ原作読みたい病に罹っているkossyです・・・
>ミサミサの扱いが中途半端だったということで
原作未読です。(鑑賞時点ではw)
確かにミサミサは意味不明でしたね。
でもラストがアレでしたし、後編でわかるんだな?とそのときは対して気になりませんでしたが。
>「原作と違うから駄目だ」は不毛な理屈
まったくその通りですね。
むしろ原作ファンは、「映画版がどうアレンジされているか」を見るべきです。
デスノートを原作通りに映像化したら、台詞だらけでとんでもない事になるでしょうし。
その辺り、金子監督は実に上手くまとめてましたね。
とっても面白く読ませていただきました!
なんだかいつものキャストさんとキャラクターが変わっているような気さえしました(笑)
原作との違いも楽しみつつ後編を楽しみに待ちたいと思います。
2時間とゆー制約の中で、登場人物の
キャラクター性、原作の魅力、映像化独
特の演出など、キッチリ表現されていた
と思います。
まず、観客にとって(原作を知らなく
とも)「月(キラ)」とゆー人間性を分
かり易く伝えるには、最良の演出だった
かと。
その上で、終盤の展開は原作読者でも
楽しめる展開へと発展させる。デスノー
トとゆー圧倒的なモノを手に入れた人間
の性がうまく描かれていますよね。
本作は映画用に上手くまとめてあるとはいえ、金子監督の演出スタイル自体がちょっと癖があるので必ずしも万人向けって訳じゃないですね。原作漫画なら高確率で楽しめると思います(あっちも万人向けじゃないけど)。
>たいむさん
ミサは後半で重要なキャラになるのである程度の顔見せは必要でした。しかしこの使われ方じゃ金子監督の美少女趣味を満足させるためだけだったとされても致し方ないと思われます(笑)
原作の中から核となる部分を上手く抽出したと思いますよ。漫画原作モノの中では白眉といってもいいかと。まあ「原作と違う」は永久に消えない課題でしょうけどね。
>ミチさん
一体どんなイメージを持たれていたんでしょう(汗)
実は原作にはそれほどの思い入れは無いにもかかわらず、なぜかレビューには力が入りまくってしまいました。まあ中の人が複数人格いると思ってください(笑)
原作がよく出来ているだけに「あれも見たい、これも見たい」には当然なります。それを分かりやすさを基準に破綻させずまとめてあるんですから、成功と言えるはずなんですが、評価はばらばらですねw
仰る通り、今回はデスノートの性質とキラの異常性を上手く伝えてました。
大きな事件が毎日のように報道される昨今、「デスノート」の人気が高い事は、やはり反社会的行為に対する憤りの映し鏡でありますよね。
とは言うものの、たとえ自分が持っていても世界のために使えるとは思えませんが・・・
創作物といえど世相を反映することが多いですよね。
>たとえ自分が持っていても世界のために使えるとは思えませんが・・・
デスノートを正しく使いこなせる人間など居ないでしょう。
だって、ルールが複雑すぎるんだもん(笑)。
てなわけで、遅れ馳せながら、TBありがとうございました。
確かに細かいルール多すぎますね(笑)。
どこかで見たネタですが、とりあえず失くさないように自分の名前を書いて死んでしまう、というのがありました。