せっかく自分のサイトなりブログなりを立ち上げて文章を書く以上は、読む人にも「おもしろい」と感じてもらいたい。一般論はむだづかいにっき♂:良いブログを作るために、自分の文章の欠点を知っておくなんかを参考にしてもらうとして、ここでは登山系サイトらしく、「他人に読んでもらえる山行記録(体験レポート)を書くにはどうしたらよいか?」について考えてみようと思う。
せっかく自分のサイトなりブログなりを立ち上げて文章を書く以上は、読む人にも「おもしろい」と感じてもらいたい。一般論はむだづかいにっき♂:良いブログを作るために、自分の文章の欠点を知っておくなんかを参考にしてもらうとして、ここでは登山系サイトらしく、「他人に読んでもらえる山行記録(体験レポート)を書くにはどうしたらよいか?」について考えてみようと思う。
つい最近、どこかのサイトの主が「文章書きのバイブルとして本多勝一著『日本語の作文技術』を使っている」と書いているのを見かけた。それ以来すこし興味を抱いていたこの本を、偶然にも自分の所属する研究室の書棚で発見し、さっそく中身に目を通してみた。修飾語の順序や句読点の打ち方などの、分かりやすい文章を書くためのテクニックもたいへん参考になったのだが、個人的にもっとも面白いと思ったのは、「無神経な文章」という章に書かれた文章の魅力についての考察だった。
何が読者を拒否するかといえば、つまるところそれは文章が無神経に書かれている場合である。書き手の鈍感さが読者を拒否する。
本多勝一:日本語の作文技術
写真に1行コメントをそえる程度のあっさりした山行記録なら、文章の良し悪しなど気にする必要もないだろう。文章の分量が少なければ、多少よみづらくても勢いだけで最後まで読み通してもらえるからだ。だが、僕が書いているような長文記録の場合には、ある程度は「読ませる」努力をしないと読者は最後までついてこない。僕の場合、想定している読者はおもに「沢登り・山登り・あるいはそれに類する行為をしている人」であり、登山に興味のない友人・知人や、「とんかつ いもや」で検索してやってきた人が山行記録を読まないことは気にならない。万人受けする軽さよりも専門家向けの情報源としての価値を重視している以上、それはある程度しかたのないことだと思うし、そういう人にも「読ませる」文章が書けるならば今頃は文筆業で食べているはずだ。いっぽう、「沢登り」や「○○沢」など特定の沢の名前で検索してやってきた人、または日本百名谷プロジェクトなどから記録を求めてやってきた人に読んでもらえないのだとしたら、それは山行記録の内容に問題があると考えられる。「長文だから読んでもらえないのでは?」なんてのはきわめて的はずれな考え方であろう。文章の長さ自体が問題なのではない。「最後まで読ませるだけの魅力に欠ける」ことがいけないのである。
山行記録は文字どおり山行の記録であり、そのおもしろさは「山行のおもしろさ」と「記録のおもしろさ」の2つによって成り立つ。このうち「山行のおもしろさ」のほうは登山者としての力量と深く関わるものであり、僕のような二流の沢屋が頑張ってどうこうできるものでもない。できるかぎりのオリジナリティーは追求したいと思うが、それでもしょせんはママゴトの範囲であり、本物の未知未踏に挑戦するような一流の記録にかなうわけがない。しかし「記録のおもしろさ」のほうは、工夫次第でいくらでも向上する余地があると思う。料理にたとえるならば、山行は素材であり、記録の書き方は調理法だ。一流の素材でしか作れない究極のメニューもあるだろうが、普通の素材だってきちんと調理すればおいしいものができあがるはずである。ナンバーワンでもオンリーワンでもない、そんな山行の記録をより多くの人に読んでもらうためには、この「調理の腕」をみがく必要がある。読みやすい・読ませる文章を書く技術はその中核となるものであろう。文章作成に関しては生まれもってのセンスが占める割合も大きいだろうが、努力やちょっとしたコツで見違えるようになる部分も少なからずあると思う。
さて、そろそろ本題に入ろう。『日本語の作文技術』を読んで僕なりに考えた「読ませる記録」を書くための留意点である。本多氏の主張とは多少ちがうことを述べるかもしれないが、そこは僕自身のカラーということでご理解いただきたい。
「無神経な文章」のなかで、本多氏はまず紋切り型の表現をボロクソにこき下ろしている。紋切り型の表現とは、「ぬけるように白い肌」「嬉しい悲鳴」「ガックリと肩を落とす」「穴のあくほど見つめる」といったありきたりの表現をさす。もちろん、こういったものをいっさい使うなという主張ではなく、「紋切り型の表現を多用しさえすれば名文になると思うな」という指摘である。紋切り型の表現はなんとなく文学的で高尚な感じがするものの、結局のところは「古くさい」「借り物の」「安易な」表現であり、これらを使えば使うほど文章は低劣になっていくというのだ。今まであまり意識したことはなかったが、これには「なるほどな」と思わされた。
たとえば山行時に美しい滝を見たとする。これを記録に書く場合、もっとも単純な表現だと「美しい滝がある。」となる。だが、これではあまりに無味乾燥であり、「自分が受けた感動を表現しきれていない」と多くの人が思うであろう。では、「すごく美しい滝」「極めて美しい滝」とすればどうか。たしかに「すごく」「極めて」の分だけ表現の力強さが増し、「この人にとってはすごく美しい滝だったんだな」ということが読者にも伝わる。文章にこだわりのない人ならば、これでよしとするかもしれない。しかし、少しでも良い文章を書こうと努力している人は、こんなものではまだ満足しないだろう。そして無い知恵をしぼり、他人の文章をあれこれと参考にした末に、多くの人はやらかしてしまうのである。「小滝を越えると、目の前にまるで絵に描いたように美しい滝が現れた。」と、まさに絵に描いたような紋切り型の表現を。
自分で書いていても「あるある」と思ってしまう。でも、過去の山行記録を見直すと、意外と紋切り型の表現の使用頻度は高くなかった。今にして思えば、多くの紋切り型の表現には「堅苦しさ」や「キザっぽさ」を感じる部分があって、なんとなく使用をさけていたような気もする。あいまいな感じ方ではあったが、心のどこかで紋切り型表現の陳腐さに気付いていたのかもしれない。
では、紋切り型の表現にたよらずに良い文章を書くには一体どうしたらよいのだろうか。
美しい風景を描いて、読者もまた美しいと思うためには、筆者がいくら「美しい」と感嘆しても何もならない。美しい風景自体は決して「美しい」とは叫んでいないのだ。その風景を筆者が美しいと感じた素材そのものを、読者もまた追体験できるように再現するのでなければならない。
本多勝一:日本語の作文技術
これはまさに目からうろこ(これもかなりの紋切り型)だ。いくら美辞麗句をならべたところで、それらには美しさを表現する効果がほとんどないのである。文章のうまさと語彙の豊富さはイコールではなかった。状況をなるべく具体的に記載することによって、ありふれた単語だけを使ってもじゅうぶんに読者を引きこむ文章が書けるのだ。そしてこれは、きちんと意識さえしていればたぶん誰にでも実行できる。「言葉では表現できない美しさ」などと言うどうしようもない紋切り型を書くかわりに、少しでもその美しさを表現するよう努力すればいいのだ。必要なのはまめさであり、真摯さである。語彙が貧弱だから上手な文章が書けないとあきらめていた人は、もういちど自分の作文に希望を持とう。逆に、語彙の豊富さに油断していた人はもういちど自分の文章を見つめなおして、安易な紋切り型の表現にたよっていないかを確認してみよう。きっと格段の進展が得られるはずだ。
出来事や風景をただ客観的に羅列しただけの記録より、筆者の思ったことや感動、楽しさ、恐怖感などが伝わってくるもののほうが間違いなく面白い。だが、そんな筆者の主観を迫真のものとして読者に伝えるためには、より客観的に状況を描写することを心がけなければならない。文章は奥が深い。
山行自体はつねに過去の出来事だが、その記録は現在形で書きつづられることが多い。これには少し疑問を感じつつ、「皆がそうしているから」という理由で僕もおおよそそれにならってきた。ただ、自分の中にあまり確固とした根拠がなかったせいもあり、これまでの記録では「現在形」と「過去形」がけっこう適当に入り乱れている。前者が8割、後者が2割といったところだろうか。この点に関しても、「無神経な文章」は明確な理由付けをしてくれた。
(現在進行形の事実を語るのに、自分の体験が過去のものだからといって過去形を用いるのは、)せっかくの読者の受ける臨場感を、タワシで逆なでして消しているようなものだ。ルポの場合は、むしろ正反対に、事実の過去でさえも現在形にしてしまう方が迫力がある。
本多勝一:日本語の作文技術
現在形にはそういう効果があったのか、と非常に納得した。
もう少し書きたいことはあるが、長くなってきたのでまた後日。
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この記事へのコメント
たいへん失礼しました。慎んで訂正させていただきます。