2020年09月16日

6402016年 アメリカ
原題 Swiss Army Man
監督 ダニエル・シャイナート/ダニエル・クワン
出演 ポール・ダノ/ダニエル・ラドクリフ
メアリー・エリザベス・ウィンステッド


此れまで長く映画というものを観てきたのではあるけれども、此れは、否応なく、ひとかどのモノであると言わざるを得ない。其のように見受けられる作品である。
とはいえ、マトモであるかといえば、まったくそうではない。というコトも、予め断っておかなければならないというのが、レビュウするにあたってのマナーであるとも言わざるを得ない。其れ程の、トンデモ作品である。

6402流れ着いた無人島で、当てもなく助けを待つ風情の男のもとに辿り付いたのは、ハリー・ポッター演じる、ドザエモン。勿論のこと、其の溺死体は、当初まったく意識もなく、其の男をがっかりさせるのではあるけれど、あれよあれよという内に、放屁によってジェットスキー並みのスピード感で海上を疾走し、別の陸地へと男を連れ出してくれる。

そして其の内、意識らしきものも取り戻しつつ、しかしやはり完璧には程遠く、だが他にもサバイバルな環境において様々な用途で大活躍し、その使い勝手の良さは、まさにスイスアーミーナイフ、万能ナイフの如し。男もどんどんと感情移入して行き、別れがたい存在となり、自分の秘かな恋愛話まで打ち明けるに至る。というような荒唐無稽なお話である。

ともあれ、此のようなバカげた企画を、手間と暇、そして大金をかけてまで実際に制作してしまう意気込みたるや、並ではないのは勿論、その細部までの作り込みを見るにつけ、其処にある情熱のようなモノを感じないワケにはいかない。

6401そして作中、何某かの感動のようなモノすら漂わせる本作品を観て、ただただ、バカだなぁと一笑に付してしまうことは、やはり長く映画というものを観て楽しませてもらっている身としては、どうしてもできない。映画というモノに対する愛情や信頼が確かに其処にあると感じさせる。其のようなトンデモ作品なのである。このあまりに未曽有の映画作品は。

castilianblue at 03:53コメント(0)面白かったです!す行 

2020年07月28日

4012062979_8d09f25d32原題 The Night Porter/Il portiere di notte
1994年 イタリア/アメリカ
監督 リリアーナ・カバーニ
出演 ダーク・ボガード/シャーロット・ランプリング
フィリップ・ルロワ /ガブリエル・フェルゼッティ
ジュゼッペ・アドバッティ /イザ・ミランダ /ニノ・ビニャミーニ /アメディオ・アモディオ

此の作品を、戦争犯罪に関するシリアスなドラマと捉えるか、激しい恋愛の物語と感じるか、其処の処を公平に判断しようと思うのなら、先ずは此の作品の宣伝用ポスターなどは、あえて、決して見ないでおかないようにしなければ、かなりのバイアスがかかってしまった先入観に支配されたまま、妙な期待を抱きつつ鑑賞することになる。其れは、どうしても避けられない。

世間から隠れるように、ホテルのナイトフロントで生計を立てる其の男は、戦時中、ナチス親衛隊の一員であったようである。
OIP夜の職場を利用し、秘密裏に親衛隊残党の寄り合い所として其のホテルを利用している彼らは、だがしかし、仲間内での裏切りにも神経を尖らす、安らぎのない毎日を送っているようで、やはりその後ろめたさから逃れることは、おそらく生涯無理なことであろう。

或る時、見覚えのある面影の婦人が宿泊客におり、その女性も、その男の顔を憶えていて、強制収容所での記憶が甦り、女性はひたすら恐怖におののき、その男はやはり密告を恐れているようである。

201902239_1だがしかし、其の後、あまりにも意外な展開が・・・という話の流れが、純粋に筋を追って先入観なしに観ただけの観客にとっては自然な成り行きなのであるけれど、鑑賞前に其のポスターや宣伝文句を見聞していたとしたら、当初の地味な展開の方が、むしろ意外であるのかもしれない。
其れ程に、此の作品の印象は、中盤以降、劇的に変化する。

できることなら、とりたてて鑑賞するシチュエーションを考慮する必要がないのであれば、やはり、先入観なしに観ることを誰しもにお勧めしたい作品である。

castilianblue at 00:17コメント(0)まずまずです。あ行 

2020年04月07日

334288view004
原題 WHERE THE WILD THINGS ARE
2009年 アメリカ
監督 スパイク・ジョーンズ
出演 マックス・レコーズ
キャサリン・キーナー/マーク・ラファロ 

50年以上昔の絵本を原作に映画化された、ちょっと、いや、かなり世知辛い物語である。

もちろんのこと、絵本で描かれている物語は端的でページ数も少なく、子供向けに楽しげでもあるのだが、大人も観る一般向けの映画となると、ただ尺に関しての問題だけでもそうはいかず、絵本によって連想される、現実の世界でままあり得るであろうエピソード、それプラス、寓話化された突拍子もない妄想の世界が、そこでは描かれている。

やんちゃな少年が母親に叱られ、己が妄想の世界で遊ぶことになるという単純な物語を、そこから連想される家族の人柄や家庭の背景、そしてそこで起こりうると行間に感じられるようなセリフをあえて書き起こしたというのが、この映画であるのだろう。

334288view002シングルマザーである母親はいつも手一杯で、満足に子供にかまってはやれず、1人いる姉は少々歳が離れているせいで、少年と遊んではくれない。少年はフラストレーションが積もり、イライラを爆発させ、なおさら家族に敬遠される存在となってしまっている。
そんな彼がいつのまにかたどり着いたのは怪獣たちのいるところで、だがしかし、その怪獣たちもどうやら人間関係ならぬ怪獣関係で非常にぎくしゃくした社会に身を置きつつ日々暮らしているようである。

少年と比較すると、かなり大きな着ぐるみたちであるその怪獣らは、もちろん怪獣であるから、かなり粗暴である。やることなすこと見ていてかなり危なっかしく、小さな少年が近くにいるというだけで、物理的にかなりの危うさを感じさせる。
彼らはその上、話がわかるようでいて、結局は自分のやりたいこと、そしてやりたくない事に関しては、譲ろうにも譲れないという大人気ない性質のため、皆でうまくやっていこうという気持ちはあるにもかかわらず、いつ、どんなことでその感情が爆発してしまうのかと、メンタル的にも見ていてかなり危なっかしい。
だがしかし、少年も何とか彼らとうまくやっていこうと、だましだまし楽しげに振る舞いながら、子供なりに知恵を絞っているようである。

自分が今一体何をしたいのかというラジカルな点に常に立ち返るという個人主義的な考え方というのは、少なくとも今の日本の社会では、普通には見られない大人気ない在り方であるように思えるけれども、例えばアメリカの社会においては、このようなギリギリのやりとりというのは、当たり前に行われているような、そんな気がしないでもないし、その必要性というのも、わからないでもない。

だがしかし、そこで、原作の絵本を読んでこの映画も見てみたいと思い、鑑賞している子供たちには、とてもそのニュアンスは理解できないのではないだろうかということに思いあたる。

334288view003ところが実際、5歳になる子供が一緒に鑑賞していて、ただギスギスしていて嫌な気持ちになってしまうというだけではなく、途中で観るのをやめようとも言わず、それなりに思うところがある様子なのを鑑みてみると、すでに幼稚園の時点で、そのような軋轢に充分にさらされているのであろう事が察せられ、とても頼もしいような、だがしかし、あまりにも世知辛いような、そのような気にさせられてしまったものである。

生まれてまだ5年程にしかならない存在が、初めて曝されるそのような状況というのは、内心どんなにか恐怖を伴うものであろうと、正直胸が苦しくなるような想いもあるけれど、本人はそれなりに努力して凌いで行こうと、園では気を張っているようでもある。

この映画を観たことは、己が子供の心持ちを察するということに関しては、ひとつの大きな収穫ではあったのだけれど、だがしかし、そのようなまだあまりにも幼い子供さえ生き抜いて行かざるを得ない、人間社会というものに対する、どうしようもない悲しみを伴うものでもあった。

castilianblue at 00:22コメント(0)面白かったです!か行 

2017年01月03日

ミッドナイト・イン・パリ2原題 Midnight in Paris
2011年 スペイン/アメリカ
監督 ウッディ・アレン
出演 キャシー・ベイツ/エイドリアン・ブロディ/ カーラ・ブルーニ
マリオン・コティヤール/レイチェル・マクアダムス/マイケル・シー
オーウェン・ウィルソン/ニーナ・アリアンダ/カート・フラージョン
トム・ヒドルストン/ミミ・ケネディ/アリソン・ピル/レア・セドゥー/コリー・ストール

では其れは、さて具体的にどの話のことなのかとなると、其の題目は定かではない、其れはいつものことではあるものの、此のストーリーの導入部にて漂う空気というのは、そこはかとなく、旧き好き時代の、日本の怪談話のように感じられるのである。
旧き好き時代とは、またあやふやなことを言うようではあるけれど 、其処は人それぞれ、何となく想う処で充分であろうし、そんなことをあえて定義する必要もない、あやふやだからこそ心地好い、其れがいちばん大切なことなのである。

兎も角、昨今よくある怪談のように、如何にもシリアスに、スプラッターじみた演出に凝っているという訳ではなく、その怪奇現象というのも、どこかしら間抜けでユーモラスにさえ思える、其処の処が、まさに監督であるアレン其の人を思わせて微笑ましい一作である。

ミッドナイト・イン・パリ3深夜、薄暗い街中の、とある路地へと辿り着くと、不意に怪しげなお迎えの車が目前に停車する。そして其れに乗り込むと、常々己の憧れていた前時代のカフェへと行き着き、会ってみたいと思っていた過去の著名人に夜毎会うことが出来る、と、そういう成り行きである。

だがしかし、其処で交わされる会話というのは、結局のところ、今現在の風潮とはきっと違い、何しろ昔は良い時代だったに違いないという作家たちの愚痴でしかなく、主人公の小説家が内心抱く、今現在に対する諦めとおよそ同じでしかない、というような物語であったように思う・・・。

というのも、実は此の作品、鑑賞したのがおよそ一年近くも前であるため、物語の細部など勿論のこと憶えておらず、実際のところ、何が話の本筋であったのかも皆目わからず、先に述べたシーンというのも、ただ個人的に印象に残っていただけのシーンであるのかも知れない、と、其れが正直なところである。

ミッドナイト・イン・パリというような事情なので、これまでに鑑賞してきたアレンの作品全般について述べることにしようと思うのであるが、おそらくは、彼の作品に関して初見であるのなら誰であれ、何といい加減でどうでもいい話なんだろうと思うのが、きっとおよそであろうし、そういう面では、良くも悪くも非常に開かれた作品であると捉えられることが多いのが、彼の映画の第一印象であろう。

だがしかし、ある程度の数、作品を鑑賞してみれば、何となく感じられる彼のポリシー、美意識というのは、高圧的ではないにせよ、かなり頑ななものであり、其れを好しとするか、もしくは其れさえも認識することができず、ただくだらないと看過してしまうかで、其の重要性について賛否分かれることになってしまう。

つまり、当然のこと、彼の作品というのは、自由な解釈を観客に委ねているいるようでいて、実は完全なる理解、もしくは共感を求めているのであり、彼の作品における見せかけの軽さや開放感、気楽さを賛美している輩というのは、まったく勘違い甚だしく、苦心の末に作品を世に送り出している作家に対して失礼ですらある訳である。

話のついでに別のジャンルの例えで余談など述べると、同じく昨年、相次いで亡くなったデビッド・ボウイとプリンス、同じく多彩で自由な作風であり、両性具有的なイメージではあったものの、およその作品的には、前者が開いた作家であり、後者は閉じた作家であったといえる。

midnightinparis_large其の姿勢を端的なエピソードにて述べると、プリンスは、或る時、コンサートの楽屋に訪ねてきた俳優のマット・デイモンに、あなたは今もミネアポリス(のような田舎)に住んでいるのかと意外そうに問われたのだけれど、おそらくは真顔であっただろう、意に介さず、特に物理的な解釈も彼には与えずに、ずっと自分の心の中に住んでいるんだよと応えたという。素晴らしくプリンスらしい応えである。

翻ってボウイは、とあるインタビューにて己が作品を例え、ある島で隔絶されて暮らす南洋の部族が、高空を飛び去る飛行機を見て、其れを神と称え、そっくり同じ形の模造品を自分たちの森に作った、そして自分の曲というのは、もしかすると其れに似ているのかも知れないと述べている。何とはわからず、ただ興味深い対象を現わしている、其れが彼の作品なのだ、おそらくは。

このような両極とも言い得る動機にて作品を制作する二人であってさえ、浅はかにもカテゴリー的には同じ類の作家であるかのように分類されてしまうのであるから、世間の目というのは、本当に盲目で当てにはならない。


castilianblue at 16:47コメント(0)トラックバック(0)面白かったです! 

2016年07月24日

アイ・アム・レジェンド05_large原題 I Am Legend
2007年 アメリカ
監督 フランシス・ローレンス
出演 ウィル・スミス/サリー・リチャードソン/アリシー・ブラガ

シリアスで実直な分、所謂ゾンビ映画としてはかなり地味な印象の此の作品であるにもかかわらず、封切当時、意外にも興業収益ナンバーワンになった其の事実というのは、やはりひとえに主演であるウィル・スミスの人気に浴するものなのであろう。

勿論のこと不出来な作品ではないものの、撮影方法などを想うと、ちょっと驚かされ、感動を誘うようなシーンであってさえも、結局はお約束のゾンビ登場によって其の雰囲気をぶち壊されてしまう、其のギャップこそが此の映画の狙い目なのかもしれないけれど、やはり少々失笑を誘う安っぽさは否めないというのが実際である。
つまり、そのような雰囲気のある情緒的な面を表現することにおいては、結局どうしても作品のカテゴリ的に限界があり、過分なものを其処に期待してはいけないのだ、やはり。

アイ・アム・レジェンド02_largeさておき、此れまで明らかに近代的に虐げられてきた黒人たちの、昨今のアメリカ各界における其の進出度合はというと、あえて言うまでもなく非常に目覚ましいものがあり、最大の出世頭といえば勿論オバマ大統領をおいて他にはいない訳ではあるけれど、こと映画業界においては本作主演のウィル・スミスが筆頭であろうこと、疑いのないところである。

ルックス抜群な上に、クールかつ知性的な雰囲気も振り撒きつつ、よって完全無欠の人物像ではあるのだけれど、此処日本においての人気というのは、本国アメリカ程ではないように思えなくもない。其れは実際のところ、どのようなものなのであろう?やはり本邦においてさえ、黒人の人気というのは限られたものなのであろうか?

先にも触れたように、明らかな黒人が公然と国のトップに上り詰め、次期大統領はいよいよ女性と相なるのがアメリカという国である。其のようなお国柄と比較すれば、其の属国であるにもかかわらず、日本という国は何処を見回してみてもつくづく封建的で、民族や性別によって予め規定された役職の範疇を出るようなことは、自ずから先ずないというのが其の実情である。

そう、話の肝は、まさに自ずからというところで、例えば女性に生まれついて、わざわざ其の不利な条件下で大統領を目指そうという気概が、人として本当に必要なものなのか、どうなのか、其れが本当に美しいと感じられる在り方なのか、どうなのか、いや、そういう事を言うのなら、そもそも人として生まれて、人を押しのけ、とにかく上を目指そうという野心そのものに賛成し、共感などできるものなのか、どうなのかと考えてみると、まったくそうは思えない己に結局は気づかされてしまう。

黒人や女性であっても、生来の不利な条件に打ち勝つ努力さえ惜しまなければ、トップに立てる、大統領にでも成れるのだという事実は、確かに素晴らしく、其の在り方は称賛に価する。
だがしかし、そうであってさえも、人が想い描く理想像と、足下を見て日々満足の行く己が在り方を堅実に貫くことというのは、全くの別物なのである、と言わざるを得ない。

castilianblue at 01:05コメント(0)トラックバック(0)面白かったです! 

2016年03月21日

2014DavidBowie_Getty52199055_10161014-720x4802016年 アメリカ
監督 ヨハン・レンク

デヴィッド・ボウイほど己が内心を赤裸々に作品に反映させてきたアーティストというのも、そういない。

「あのようなマインドの持ち主とコラボレートするなんて夢物語だよ。まして2回も。直観力や遊び心があって、ミステリアスで含蓄が深くて…今回ほど圧倒的で充実感のあるプロセスには絶対にならないことが分かっているから、もうこれ以上ビデオを作る気はないね。要は太陽に手が届いたような経験だったんだ」と撮影監督に言わしめた、末期の曲である「ブラック・スター」さえ其の例に洩れることはなく、白骨化し、しかし煌びやかに飾り立てられた宇宙飛行士の姿が映し出される最初の場面、此れは内心、ボウイを一躍メジャーにした初期の歌「スペース・オディティ」に登場するトム少佐の最期の姿なのであろうことは、想像に難くない。
其れはおよそ明白なことではあるのだけれど、彼の死後、俄かにファンになった者にとっては到底判りようのない表現ではある。

そして此れまでのPVにおいても度々見られる、自身の内面に住まう各々の人格表現として、痩せた白人の男と黒人の男、そして野生的な風貌の垢抜けない若い女性が登場する。
シリアスかつ不気味ながらも、何処か滑稽に痙攣と硬直を繰り返す彼らの姿が其処に在り、やはりどの人物にもボウイの一面そのものであろうと思える人格の影、其の雰囲気が、端的ながらもはっきりと見受けられる。
そしてもう一人、画面に映り込む年老いたボウイ自身はといえば、両目を包帯でくるんでしまい、盲いながらも物質的なものではない何か別のものが見えているかのような様相である。
そんな彼は、他の三人を宥めているようでもあり、窘めているようでもあり、諭し、導いているようでもあるのだが、此のような表現を目の当たりにすると、たとえば表現者その人と実際に会って上っ面の挨拶を交わすことよりも、或る面それ以上に濃密な理解が其処には訪れることになる。
そして其れこそが、まさに優れた芸術というものの存在意義であると納得させられる。
其処には一個人としての存在を超えた人間性、つまり神性と呼ばれる類のもの、所謂普遍性が否応なしに現われるのである。

最期、十字架に磔にされ、裂けた腹部から麦藁をはみ出させ、咆哮しつつ身悶えする汚らしい男というのは、此れもまた明らかに、末期の肝臓癌に侵されて夜毎苦しんだのであろうボウイ自身の姿、其のものであるようにしか見えない。
さらに、暗い草原にて蠢く得体の知れない物体、迫り来るメデューサの頭部の如き其の化け物というのは、おそらく自身の死期を悟るボウイ自身の内に住まうこととなった、死神のイメージ以外の何者でもないだろう。

ボウイは、最期の最後まで誠実に、時に自虐的に己を表現し続け、其の死後一切の葬儀は執り行わず、火葬される場においても自身の家族さえ付き添いを望まなかったという。
欲得や情にまみれた此の世の中で、此処まで立派に潔くアーティストで在り続けた人物というのも、そういない。



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