2017年01月03日

ミッドナイト・イン・パリ2原題 Midnight in Paris
2011年 スペイン/アメリカ
監督 ウッディ・アレン
出演 キャシー・ベイツ/エイドリアン・ブロディ/ カーラ・ブルーニ
マリオン・コティヤール/レイチェル・マクアダムス/マイケル・シー
オーウェン・ウィルソン/ニーナ・アリアンダ/カート・フラージョン
トム・ヒドルストン/ミミ・ケネディ/アリソン・ピル/レア・セドゥー/コリー・ストール

では其れは、さて具体的にどの話のことなのかとなると、其の題目は定かではない、其れはいつものことではあるものの、此のストーリーの導入部にて漂う空気というのは、そこはかとなく、旧き好き時代の、日本の怪談話のように感じられるのである。
旧き好き時代とは、またあやふやなことを言うようではあるけれど 、其処は人それぞれ、何となく想う処で充分であろうし、そんなことをあえて定義する必要もない、あやふやだからこそ心地好い、其れがいちばん大切なことなのである。

兎も角、昨今よくある怪談のように、如何にもシリアスに、スプラッターじみた演出に凝っているという訳ではなく、その怪奇現象というのも、どこかしら間抜けでユーモラスにさえ思える、其処の処が、まさに監督であるアレン其の人を思わせて微笑ましい一作である。

ミッドナイト・イン・パリ3深夜、薄暗い街中の、とある路地へと辿り着くと、不意に怪しげなお迎えの車が目前に停車する。そして其れに乗り込むと、常々己の憧れていた前時代のカフェへと行き着き、会ってみたいと思っていた過去の著名人に夜毎会うことが出来る、と、そういう成り行きである。

だがしかし、其処で交わされる会話というのは、結局のところ、今現在の風潮とはきっと違い、何しろ昔は良い時代だったに違いないという作家たちの愚痴でしかなく、主人公の小説家が内心抱く、今現在に対する諦めとおよそ同じでしかない、というような物語であったように思う・・・。

というのも、実は此の作品、鑑賞したのがおよそ一年近くも前であるため、物語の細部など勿論のこと憶えておらず、実際のところ、何が話の本筋であったのかも皆目わからず、先に述べたシーンというのも、ただ個人的に印象に残っていただけのシーンであるのかも知れない、と、其れが正直なところである。

ミッドナイト・イン・パリというような事情なので、これまでに鑑賞してきたアレンの作品全般について述べることにしようと思うのであるが、おそらくは、彼の作品に関して初見であるのなら誰であれ、何といい加減でどうでもいい話なんだろうと思うのが、きっとおよそであろうし、そういう面では、良くも悪くも非常に開かれた作品であると捉えられることが多いのが、彼の映画の第一印象であろう。

だがしかし、ある程度の数、作品を鑑賞してみれば、何となく感じられる彼のポリシー、美意識というのは、高圧的ではないにせよ、かなり頑ななものであり、其れを好しとするか、もしくは其れさえも認識することができず、ただくだらないと看過してしまうかで、其の重要性について賛否分かれることになってしまう。

つまり、当然のこと、彼の作品というのは、自由な解釈を観客に委ねているいるようでいて、実は完全なる理解、もしくは共感を求めているのであり、彼の作品における見せかけの軽さや開放感、気楽さを賛美している輩というのは、まったく勘違い甚だしく、苦心の末に作品を世に送り出している作家に対して失礼ですらある訳である。

話のついでに別のジャンルの例えで余談など述べると、同じく昨年、相次いで亡くなったデビッド・ボウイとプリンス、同じく多彩で自由な作風であり、両性具有的なイメージではあったものの、およその作品的には、前者が開いた作家であり、後者は閉じた作家であったといえる。

midnightinparis_large其の姿勢を端的なエピソードにて述べると、プリンスは、或る時、コンサートの楽屋に訪ねてきた俳優のマット・デイモンに、あなたは今もミネアポリス(のような田舎)に住んでいるのかと意外そうに問われたのだけれど、おそらくは真顔であっただろう、意に介さず、特に物理的な解釈も彼には与えずに、ずっと自分の心の中に住んでいるんだよと応えたという。素晴らしくプリンスらしい応えである。

翻ってボウイは、とあるインタビューにて己が作品を例え、ある島で隔絶されて暮らす南洋の部族が、高空を飛び去る飛行機を見て、其れを神と称え、そっくり同じ形の模造品を自分たちの森に作った、そして自分の曲というのは、もしかすると其れに似ているのかも知れないと述べている。何とはわからず、ただ興味深い対象を現わしている、其れが彼の作品なのだ、おそらくは。

このような両極とも言い得る動機にて作品を制作する二人であってさえ、浅はかにもカテゴリー的には同じ類の作家であるかのように分類されてしまうのであるから、世間の目というのは、本当に盲目で当てにはならない。


castilianblue at 16:47コメント(0)トラックバック(0)面白かったです! 

2016年07月24日

アイ・アム・レジェンド05_large原題 I Am Legend
2007年 アメリカ
監督 フランシス・ローレンス
出演 ウィル・スミス/サリー・リチャードソン/アリシー・ブラガ

シリアスで実直な分、所謂ゾンビ映画としてはかなり地味な印象の此の作品であるにもかかわらず、封切当時、意外にも興業収益ナンバーワンになった其の事実というのは、やはりひとえに主演であるウィル・スミスの人気に浴するものなのであろう。

勿論のこと不出来な作品ではないものの、撮影方法などを想うと、ちょっと驚かされ、感動を誘うようなシーンであってさえも、結局はお約束のゾンビ登場によって其の雰囲気をぶち壊されてしまう、其のギャップこそが此の映画の狙い目なのかもしれないけれど、やはり少々失笑を誘う安っぽさは否めないというのが実際である。
つまり、そのような雰囲気のある情緒的な面を表現することにおいては、結局どうしても作品のカテゴリ的に限界があり、過分なものを其処に期待してはいけないのだ、やはり。

アイ・アム・レジェンド02_largeさておき、此れまで明らかに近代的に虐げられてきた黒人たちの、昨今のアメリカ各界における其の進出度合はというと、あえて言うまでもなく非常に目覚ましいものがあり、最大の出世頭といえば勿論オバマ大統領をおいて他にはいない訳ではあるけれど、こと映画業界においては本作主演のウィル・スミスが筆頭であろうこと、疑いのないところである。

ルックス抜群な上に、クールかつ知性的な雰囲気も振り撒きつつ、よって完全無欠の人物像ではあるのだけれど、此処日本においての人気というのは、本国アメリカ程ではないように思えなくもない。其れは実際のところ、どのようなものなのであろう?やはり本邦においてさえ、黒人の人気というのは限られたものなのであろうか?

先にも触れたように、明らかな黒人が公然と国のトップに上り詰め、次期大統領はいよいよ女性と相なるのがアメリカという国である。其のようなお国柄と比較すれば、其の属国であるにもかかわらず、日本という国は何処を見回してみてもつくづく封建的で、民族や性別によって予め規定された役職の範疇を出るようなことは、自ずから先ずないというのが其の実情である。

そう、話の肝は、まさに自ずからというところで、例えば女性に生まれついて、わざわざ其の不利な条件下で大統領を目指そうという気概が、人として本当に必要なものなのか、どうなのか、其れが本当に美しいと感じられる在り方なのか、どうなのか、いや、そういう事を言うのなら、そもそも人として生まれて、人を押しのけ、とにかく上を目指そうという野心そのものに賛成し、共感などできるものなのか、どうなのかと考えてみると、まったくそうは思えない己に結局は気づかされてしまう。

黒人や女性であっても、生来の不利な条件に打ち勝つ努力さえ惜しまなければ、トップに立てる、大統領にでも成れるのだという事実は、確かに素晴らしく、其の在り方は称賛に価する。
だがしかし、そうであってさえも、人が想い描く理想像と、足下を見て日々満足の行く己が在り方を堅実に貫くことというのは、全くの別物なのである、と言わざるを得ない。

castilianblue at 01:05コメント(0)トラックバック(0)面白かったです! 

2016年03月21日

2014DavidBowie_Getty52199055_10161014-720x4802016年 アメリカ
監督 ヨハン・レンク

デヴィッド・ボウイほど己が内心を赤裸々に作品に反映させてきたアーティストというのも、そういない。

「あのようなマインドの持ち主とコラボレートするなんて夢物語だよ。まして2回も。直観力や遊び心があって、ミステリアスで含蓄が深くて…今回ほど圧倒的で充実感のあるプロセスには絶対にならないことが分かっているから、もうこれ以上ビデオを作る気はないね。要は太陽に手が届いたような経験だったんだ」と撮影監督に言わしめた、末期の曲である「ブラック・スター」さえ其の例に洩れることはなく、白骨化し、しかし煌びやかに飾り立てられた宇宙飛行士の姿が映し出される最初の場面、此れは内心、ボウイを一躍メジャーにした初期の歌「スペース・オディティ」に登場するトム少佐の最期の姿なのであろうことは、想像に難くない。
其れはおよそ明白なことではあるのだけれど、彼の死後、俄かにファンになった者にとっては到底判りようのない表現ではある。

そして此れまでのPVにおいても度々見られる、自身の内面に住まう各々の人格表現として、痩せた白人の男と黒人の男、そして野生的な風貌の垢抜けない若い女性が登場する。
シリアスかつ不気味ながらも、何処か滑稽に痙攣と硬直を繰り返す彼らの姿が其処に在り、やはりどの人物にもボウイの一面そのものであろうと思える人格の影、其の雰囲気が、端的ながらもはっきりと見受けられる。
そしてもう一人、画面に映り込む年老いたボウイ自身はといえば、両目を包帯でくるんでしまい、盲いながらも物質的なものではない何か別のものが見えているかのような様相である。
そんな彼は、他の三人を宥めているようでもあり、窘めているようでもあり、諭し、導いているようでもあるのだが、此のような表現を目の当たりにすると、たとえば表現者その人と実際に会って上っ面の挨拶を交わすことよりも、或る面それ以上に濃密な理解が其処には訪れることになる。
そして其れこそが、まさに優れた芸術というものの存在意義であると納得させられる。
其処には一個人としての存在を超えた人間性、つまり神性と呼ばれる類のもの、所謂普遍性が否応なしに現われるのである。

最期、十字架に磔にされ、裂けた腹部から麦藁をはみ出させ、咆哮しつつ身悶えする汚らしい男というのは、此れもまた明らかに、末期の肝臓癌に侵されて夜毎苦しんだのであろうボウイ自身の姿、其のものであるようにしか見えない。
さらに、暗い草原にて蠢く得体の知れない物体、迫り来るメデューサの頭部の如き其の化け物というのは、おそらく自身の死期を悟るボウイ自身の内に住まうこととなった、死神のイメージ以外の何者でもないだろう。

ボウイは、最期の最後まで誠実に、時に自虐的に己を表現し続け、其の死後一切の葬儀は執り行わず、火葬される場においても自身の家族さえ付き添いを望まなかったという。
欲得や情にまみれた此の世の中で、此処まで立派に潔くアーティストで在り続けた人物というのも、そういない。



castilianblue at 19:59コメント(0)トラックバック(0)素晴らしいです! 

2016年02月02日

ニュースの天才003原題 Shattered Glass
2003年 アメリカ
監督 ビリー・レイ
出演 ヘイデン・クリステンセン/ピーター・サースガード
クロエ・セビニー/スティーブ・ザーン/ハンク・アザリア
メラニー・リンスキー/ロザリオ・ドーソン

「事実は小説よりも奇なり」であるのは、当然のことである。

ニュースの天才004何故なら、当人の心持ちになってみれば当たり前のこと、書き物の著者というのは、何らかの意図を以って其れを上梓するのであり、例外はあれども其処に無作為な悪意など、およそ存在しない。むしろ、苦い薬を嫌がる子供に気づかれぬようにとオブラートに包みつつ、何事か人を啓蒙することさえ望み、文を紡いでいる、つまり其処には、そこはかとなく、善意すら漂っているというのが通常な訳であり、やはり読み物というのは、そのように在るべきなのである。

だがしかし、翻って現実というものは、結局のところ弱肉強食であり、理不尽であり、情け容赦なく人を裏切り、其の魂を消耗させるばかりである。

1_largeそもそも人というものが、成り行きに任せるだけの人生においては、そんな現実と己が欲望に流されるばかりで、其処に多少の良心が働いたとしてさえ、むしろ矛盾ばかりを多々抱える存在でしかない。そのような存在が巻き起こすこもごもに脈絡などある筈もなく、其れが何らかの意図を持って記されたフィクション以上に奇怪であるのは当たり前のこと、全く褒められたものでないことばかりなのは、当然のことである。

だから、此の作品が嘘吐きジャーナリストをモデルにした実話であるからといって、たとえばノン・フィクションがフィクションよりも奇抜で面白いなどと思ってしまう心持ちなどというのは、むしろ腐った現実をまだ知らない子供のような無邪気な感想でしかないというのが真実であろう。

castilianblue at 00:32コメント(0)トラックバック(0)まずまずです。 

2016年01月15日

ジェシー・ジェームズの暗殺原題 The Assassination of Jesse James
by the Coward Robert Ford
2007年 アメリカ
監督 アンドリュー・ドミニク
出演 ブラッド・ピット/ケイシー・アフレック/サム・シェパード
サム・ロックウェル/メアリー=ルイーズ・パーカー/マイケル・パークス
テッド・レビン/ズーイー・デシャネル

さて、これ程までに編集によって失敗してしまった映画というものを、かつて観たことがあっただろうか?いや、ないと断言できる。それ程までにお粗末な、撮影の苦労が報われない、本当にもったいない作品である。

ジェシー・ジェームズの暗殺001というのも、ジェシー・ジェームズその人を演じているのがドル箱スターのピットであるからなのだろう、作品全体を俯瞰してみれば、どう見ても最重要人物であるべきは彼を殺した子分の男であるのにもかかわらず、その男が堂々と場面を占拠している時間が短過ぎる、その上に、付け足したように物語後半に最も興味深い、実話としては信じ難い、おかしなエピソードが描かれているのだから、観ている方は相当の違和感を覚えずにはいられない。

しかも、其処に至るまでのエピソードは冗長過ぎて、画面を眺めるに、かなりの忍耐を要する代物なのであるから、これはやはり、編集の失敗としか言い様がなく、ピットの出演部分を已む無くカットしてでも、作品としての体裁を整えるべきであっただろう。

ジェシー・ジェームズの暗殺05そしてまた、残念ながら、有名人であるらしいジェシー・ジェームズという人物に関しての知識が全くない身としては、思い入れも、何の感情移入も出来ず、なんだか妙な雰囲気のピットを、迫力ないなぁと思いながら、ただ漠然と眺めているだけの映画でしかないというのが、実際である。

それにしても、また再び、作中、妙なところでニック・ケイヴが歌っていたりと、「ジョニー・スエード」(1991年)での共演のこともあって、彼は何かピットと仲良しであったりするのだろうかと勘繰ってしまうのであるが、それもまた、どうでもいい話ではある。

castilianblue at 00:31コメント(0)トラックバック(0)もう少しがんばりましょう。 

2015年06月26日

彼が二度愛したS原題 Deception
2007年/アメリカ
監督 マーセル・ランゲネッガー
出演 ヒュー・ジャックマン/ユアン・マクレガー/ミシェル・ウィリアムズ
シャーロット・ランプリング/マギー・Q/ナターシャ・ヘンストリッジ

訳もなく、有無を言わせず過剰な親密さを求めてくる人物など、どのような場合であれ、やはり少々怪しまれて然りな訳である。

其処を、怪しむ以前におずおずと受け入れてしまうような時というのも、人にはないとは言えないのではあるけれど、やはり其れいうのは、正常なあるべき精神状態ではない、今はそんな時なのだと、ひと呼吸おいて、客観的に己を診断すべき状態ではあるのだろう。

彼が二度愛したS 3仕事を引けて家に帰れば、温かい家庭が待っている、もしくは飲みに誘ってくれるような友人が常々居るというような人間が、会社内で、よくわからない人物に、仕事以外のことで好意的に言い寄られたからといって、其処に長々と居座ったりするようなことというのは、まずない。

つまり本作の主人公である彼は、友達も恋人もなく、己の居場所であると言い得るような会社でのポジションも物理的になく、常々地味に孤独に苛まれていたということなのだろう。
けれども、実際この映画では、其処のところがあまり上手く伝わってこない。スタイリッシュなばかりの映像によって、描くべき主人公の孤独が誠実に描写されていないのである。

彼が二度愛したS 2其処が此の作品の映画としての在り方の根本的な誤りで、ユアン・マクレガーやミシェル・ウィリアムズといった、作品を選ぶ良い俳優が出演しているにもかかわらず、変に欲張り、色気を出して、より売れるであろう方向へと作品の雰囲気を傾けてしまっているという訳である。其れが故に、平凡なサスペンス映画として、観客の記憶の底に埋もれてしまうこと、必然の結果、まるでテレビ番組用の作品のような、薄っぺらさでしかないのである。

castilianblue at 21:34コメント(6)トラックバック(0)まずまずです。 
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