カトリック清流

キリスト教(カトリック)を軸に、広く宗教・思想・社会等に思いを巡らせます。

今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう。
力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから。(マリアの賛歌)

恵みの更新

主のご復活おめでとうございます。

2022年も無事、復活徹夜祭に与ることができました。

教会には新受洗者の方もおられ
洗礼の瞬間に立ち会えたことは大きな喜びでした。

洗礼の恵みが
その方の生涯を守り、育み、導かれることを願ってやみません。

また受洗者には、洗礼の約束の更新が行われました。

私自身がカトリックの洗礼を受けたのは
2015年4月4日の復活徹夜祭においてでした。

このブログもその時の洗礼の恵みを記念して始めたものでした。

あれから7年が経ちます。

私生活では色々なことがありましたが
その合間、合間に、
その時の気分にまかせて、まったくの思いつきの、
日本語文としての体裁も無視したような言葉を
このブログに書き留めてきました。

匿名の気楽さに甘えている部分も多々あり、
当ブログを訪れて下さった皆様には
まったく申し訳ないという気持ちです。

そしてSNSが発達・普及したこの時代にあって
当ブログは対話の場としては全くの欠陥品です。

それは一つには
私自身の能力不足でもありますし、
また一つには
語られる事柄そのものの性質として
オンライン文章だけでは誤解を生じやすいため
意識的に避けている、ということもあります。
その点はご容赦頂ければ幸いです。

さて、洗礼の約束の更新の話に戻ります。

今、受洗7年目の自分がここにいます。

受洗しても3年以内で
教会に来なくなる人が多いとも聞きます。

7年というのは長くもなく短くもない期間でしょうか。

もし当ブログに何か意味があるとすれば
「人は洗礼を受けるとどうなるのか」の一つの
事例を提示することにあるのかもしれません。

それを読み手がどう受け取るかは分かりませんが
書き手としては次のように言いたいと思います。

洗礼により恵みの時は始まり、
その恵みの流れは今も変わらず流れ続けている、と。

洗礼とは文字通り水による注ぎ、洗いであり、
洗礼者ヨハネがヨルダン川で行っていた洗礼がその元型ですが
それが「洗い」として成り立つためには、
元の川の水が清らかでなければなりません。

私の信仰生活は
その清らかな流れに身を委ねることから始まり、
そして今も安心して、ゆったりと身を委ねています。

イザヤ書を読む(9)


第一部 イスラエル、ユダとエルサレムについての託宣(2-12章)

第2章

[1]
アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて啓示されたこと。

国々の平和

[2]
来たるべき時に、
ヤーウェの神殿の山は山々の頂きとして堅く立てられ、
どの峰(みね)よりも高く上げられる。
すべての国は川の流れのようにそこに向かう。

[3]
多くの民が来て言う。
「さあ、ヤーウェの山に、ヤコブの神の家に上(のぼ)ろう。
ヤーウェはご自分の道をわたしたちに示される。
わたしたちはその道を歩もう。」
まことに、教えはシオンから、
ヤーウェのことばはエルサレムから出る。

[4]
ヤーウェは、諸国の間を裁き、多くの民の仲裁をされる。
彼らはその剣(つるぎ)を鋤(すき)に、槍(やり)を鎌(かま)に打ち直す。
国は国に向かって剣を振りかざすことなく、
もはや戦うことを学ばない。

[5]
さあ、ヤコブの家よ、ヤーウェの光の中を歩もう。

ーーーーーーーーーーーー
<本文注より>
・2節の「来たるべき時」には、来たるべき平和と調和に満ちたメシア到来の時のニュアンスがある(イザヤ11:6-9参照)。

・3節で「教え」と訳したヘブライ語トーラーは、しばしば「律法」とも訳される。しかし本節のトーラーは律法の書というよりはむしろ、「ヤーウェの教えの道をどのように歩むか」を示すヤーウェの導きを意味する。

ーーーーーーーーーーーー
<参考聖句>
・ミカ書4:1-4 新しいエルサレム
「だが終わりの日、
ヤーウェの神殿の山は
山々の頂きとして堅く立てられ、
丘々に抜きん出る。
人々はそこに流れるように訪れ、
多くの国の民が来て言う。
「さあ、ヤーウェの山に、
ヤコブの神の家に上ろう。
ヤーウェがわたしたちにその道を示し、
わたしたちがヤーウェの道を歩むように」。
なぜなら、シオンから教えが出、
エルサレムからヤーウェの言葉が来るからだ。
ヤーウェは多くの人の争いを裁き、
遠くまで、多くの国に裁決を下す。
彼らはその剣を鋤に、槍を鎌に打ち直す。
国々は互いに剣を振りかざすことなく、
再び戦いに備えることもしない。
おのおのそのぶどうの木の下や、
いちじくの木の下に座り、
脅かす者は誰もいない。
万軍の主が語られたからである。」

<参考聖句注より>
・「終わりの日」は、将来起こる出来事を予言する言葉として旧約聖書の中でしばしば用いられている。この表現は、世の終わりという考えに通じるものであるが、本節が示すように、同時にそれは新しい時代、新しい世界への分岐点でもある。

・人々に「その道」を示し、「教え」を与えられるヤーウェは、すべての国を裁く審判者である。「終わりの日」における審判を本節のように積極的な意味で捕らえて世界の変貌につながるとする思想はアモスを初めとする紀元前八世紀の預言者の間では非常に少ない。

・イザヤ書11:6-9 新しいダビデ王、楽園の回復
「狼は子羊と共に宿り、
豹(ひょう)は子山羊(こやぎ)と共に伏(ふ)し、
子牛は若獅子と共に育ち、
小さい子どもがそれらを導く。
牛は熊と共に草をはみ、
その子らは共に伏し、
獅子は牛のようにわらを食う。
乳飲み子は毒蛇の穴に戯(たわむ)れ、
乳離れした子は蝮(まむし)の巣に手を伸ばす。
わたしの聖なる山のどこにも、
害を加えるもの、滅ぼすものはいない。
水が海を覆うように、
ヤーウェを知る知識が地を満たすからである。」

<参考聖句注より>
・背景に創世記2-3章の楽園の話があると思われる。その話の中で、蛇は、最初に造られた、子どものように無邪気な男女の敵であり、神の知識を持つようになるよう彼らを誘惑して、人類の楽園生活に終止符を打った。しかしここでは子どもと蛇は友達であり、互いに平和に生きるすべての動物たちを子どもが導くのである。この平和の根底にはヤーウェを知る真の知識があり、その知識はヤーウェと共にその聖なる山にあるばかりでなく(イザヤ2:2-4参照)、すべての地を覆うようになる(ハバクク2:14参照)。

<補足>
・フランシスコ会訳で「毒蛇」「蝮(まむし)」となっている箇所は、聖書協会共同訳では「コブラ」「毒蛇」となっている。

・ハバクク書2:14
「まことに、水が海を覆うように、地はヤーウェの栄光を知ることで満たされる。」

<参考聖句注より>
ヤーウェの栄光がこの地上で普遍的に知られる時こそ、ヤーウェの業、神の正義がもたらされる時である。

ーーーーーーーーーーーー


世界平和の理想が宣言されている有名な箇所である。
特にイザヤ書2章4節はニューヨークの国際連合プラザの「イザヤ・ウォール」に刻まれていることでも知られている。

[2]
「来たるべき時に、
ヤーウェの神殿の山は山々の頂きとして堅く立てられ、
どの峰(みね)よりも高く上げられる。
すべての国は川の流れのようにそこに向かう。」

「来たるべき時に」−−−歴史のある時点でその日はきっと訪れるであろう。

「山々の頂きとして」−−−その日、最も高く見上げられるべきものは何であるか知られるであろう。

「すべての国は…そこに向かう」−−−「バベルの塔」(創世記11章)以来、世界中に散らされた民は、再び集うであろう。

[3]
「多くの民が来て言う。
「さあ、ヤーウェの山に、ヤコブの神の家に上(のぼ)ろう。
ヤーウェはご自分の道をわたしたちに示される。
わたしたちはその道を歩もう。」
まことに、教えはシオンから、
ヤーウェのことばはエルサレムから出る。」

「ヤーウェの山に…上(のぼ)ろう」−−−山は見上げるだけのものではなく、登るためにそこにある。

「ご自分の道をわたしたちに示される」−−−しかし、その登山は案内無しではない。神は前もって安全な道を示される。私達はただその示された道を歩むだけでよい。

「ヤーウェのことばはエルサレムから出る」−−−山頂のエルサレムから神の言葉が聞こえてくる。すべての国、あらゆる言語を話す人々が、ただ一つの聖なる言語をそこで聞くであろう。

[4]
「ヤーウェは、諸国の間を裁き、多くの民の仲裁をされる。
彼らはその剣(つるぎ)を鋤(すき)に、槍(やり)を鎌(かま)に打ち直す。
国は国に向かって剣を振りかざすことなく、
もはや戦うことを学ばない。」

「ヤーウェは、諸国の間を裁き、多くの民の仲裁をされる」−−−「わたしは初めであり、終わりである。わたしのほかに神はいない」(イザヤ44:6)と言われる唯一神ヤーウェ。その言葉(ロゴス)もまた唯一のものであり、世のあらゆる分離・対立(カオス)を取り除くことであろう。

「彼らはその剣(つるぎ)を鋤(すき)に、槍(やり)を鎌(かま)に打ち直す。」−−−信頼し合う家族のように人々の間に分離がない時、人間を殺し自然を破壊する道具はもはや必要なくなるであろう。そして同じ大地の素材を使って、人間を生かし自然と共生する道具を作るであろう。

「もはや戦うことを学ばない。」−−−その日以降、世界から戦争は消えゆき、やがて戦争は過去のものとなるであろう。歴史の一章がおわり、新たな一章がはじまるであろう。

[5]
「さあ、ヤコブの家よ、ヤーウェの光の中を歩もう。」

「ヤーウェの光の中を歩もう」−−−世界に戦争がなくなった日。地上に注がれる日の光を見て、人々は何を想うであろうか。



ーーーーーーーーーーーー

祈ります。

永遠の今の中で
その日を知っておられる神が
その日の栄光と喜びの光を
今地上で悩み苦しむ私達に
注いで下さいますように。

そしてその光が
私達の希望となりますように。

父と子と聖霊のみ名によって。
アーメン。

イザヤ書を読む(8)


イザヤ書 第1章 29-31節

清められるエルサレム

[29]
「まことに、慕っていた樫の木のためにおまえたちは自らを恥じ、
自分で選んだ園のためにおまえたちは恥じ入る。

[30]
まことに、おまえたちは葉のしおれた樫の木のようになり、
水のない園のようになる。

[31]
強い者は麻のくずに、その業は火花となり、
共に燃え上がって、これを消すものはいない。」


ーーーーーーーーーーーー
<本文注より>
・表題。社会的不正に端を発したエルサレムの不忠実を清める行為は(24-28節)、エルサレムの礼拝の清めへとつながる。その住民は、園の大木の下で行われた自然礼拝に加わったことを恥じ、狼狽する。大木は聖なるもの、めざましい発展の象徴と考えられていた。

・29節。本節一行目のヘブライ語の文字どおりの訳は、「彼らは、おまえたちが慕った樫の木を恥じる」。主語が二人称から三人称へと、またその逆に入れ替わることはヘブライ語では珍しくない。本訳では翻訳上二人称に統一し、二行目と次の30節の人称に合わせた。アラム語(タルグム)も同じように二人称で統一する。

・31節。火によって罰を受ける「強い者」を「麻のくず」にたとえる背景には、文脈から、礼拝との関連があるように思われる。「強い」とは「樫の木」の強さであろう。

ーーーーーーーーーーーー
<参考聖句>
・アモス2:9 イスラエルに対して
「しかし、彼らのためにアムル人を滅ぼしたのは、このわたしだ。彼らは糸杉のように高く、樫の木のように強かったが、わたしはその上の実と下の実を滅ぼした。」

<注より>
・「アムル人」は一種族ではなく、イスラエルが占領する以前のカナンの住民、あるいは古代の全パレスチナ人の意味がある。

・民数記13:31-33 偵察隊からの報告
「しかし、彼と共に上って行った者たちは言った。「わたしたちはあの民のところに攻め上ることはできない。あの民はわたしたちよりもずっと強いのだから」。彼らは偵察した地についてイスラエルの人々に悪く言いふらして次のように言った。「わたしたちが通って偵察した地は、住民を食い尽くす地だ。そこで見た民は皆、背が高い。わたしたちはそこで、ネフィリム人を見た---アナク人はネフィリム人の子孫である---わたしたちには、自分たちがいなごのように見え、また彼らにもそう見えたにちがいない」。」

<注より>
・住民を食い尽くす地。この表現は土地が肥沃でないので住人を養えないという意味である。
・「ネフィリム人」は、ここでは単に「巨人」と訳すことが可能かもしれない。彼らは「神の息子たち」や「人間の娘たち」の子孫として創世記6:4に初めて出る。

・創世記6:1-4 人類の堕落
「人間がこの世にふえはじめてかれらに娘たちが生まれた時、神の子らは人の娘たちを見て好ましいと思い、望むままに彼女らを妻にめとった。そこでヤーウェは、「わたしの霊はその中にいつまでもとどまらない。人はまったく肉であるから。人の日数は百二十年にすぎない」と言われた。神の子らが人の娘たちの所にはいり、娘たちが子を産んだころ、またそのあとでも、地上にネフィリムがいた。その人たちは太古の勇士で、名高い人々であった。」

・イザヤ6:11-13 イザヤの召命
「わたしは言った。「主よ、いつまでなのでしょうか。」主は言われた。「町々が荒れ果てて住む者もなく、家々には人がいなくなり、地が荒れ果てて荒廃するときまで。ヤーウェが人を遠くに移し、国の中には見捨てられた所が多くなる。それでもなお、そこに十分の一が残るが、これも焼き尽くされる。樫の木やテレビンの木が切り倒されると、切り株が残る。その切り株が聖なる種族である。」

・申命記9:3 主の業
「それ故、今日、あなたの神、主が焼き尽くす火として、あなたの前を進まれることを知りなさい。」

・ヘブライ書12:29 キリストの招き
「実に、わたしたちの神は焼き尽くす火なのです。」

ーーーーーーーーーーーー
ユダの民が心奪われていた異教礼拝。それは一体何だったのか。

それはカナン地方に古くから伝わる、豊穣崇拝としての樹木崇拝であろうか。

人々が「慕っていた樫(かし)の木」。テレビンの木(落葉樹の一種)ともいう。

その「樫の木のように強かったアムル人」(アモス2:9)は、古代の巨人ネフィリムの子孫であったという。(民数記13:31-33)

そしてこの巨人ネフィリムもまた、原初の「神の息子ら」と「人の娘たち」の間から生まれた存在であったという。(創世記6:1-4)

この「神の息子ら」と「人の娘たち」を更にさかのぼる時、アダムとエバの姿が目に浮かんでくる。

アダムとエバが、かつて神と共に暮らしていた楽園。
「エデンの園」と、そこにあった「命の木」。

そこで魂に刻み込まれたであろう、幸せの記憶。
「顔と顔を合わせて」(コリント13:12)見つめあっていた至福の記憶。

しかしそれも楽園追放の後は、次第に遠い記憶へと、忘却の彼方へと失われてゆく。

そして時代は下り、今や人々は
「自分で選んだ園」と「慕っていた樫の木」(イザヤ1:29)に心奪われ、
礼拝をささげているという。

「自分が何をしているのか分からない」(ルカ23:34)まま、
そこに真の幸せがあると信じて熱心に礼拝する人々。ユダの民。

しかしそれが導く先は、
永遠の生をもたらす「命の木」ではなく、衰え死すべき「葉のしおれた樫の木」、
川が湧き出す「エデンの園」ではなく、「水のない園」であった。

ここにおいて「命の木」と「エデンの園」の主である神の声が、預言者の口を通して響きわたる。

その声を聞くことができる者は、自らの愚かさを悟り、恥じ入ることであろう。

他方、心かたくなになり、自らの力のみに頼る「強い者」は、園も木も自分で選ばねばすまない。
そして永遠につかむことのできない幻を求めて、永遠にさまよい続ける。

しかし「神は焼き尽くす火」(申命記9:3、ヘブライ12:29)である。

慈悲か、裁きか、永遠にさまよい続けることは許さない。

「強い者は麻のくずに、その業は火花となり、
共に燃え上がって、これを消すものはいない。」(イザヤ1:31)

神の審判は、すべての目に明らかになる。

イザヤ書を読む(7)


イザヤ書 第1章 21-28節

エルサレムに対する神の裁き

[21]
忠実だった町が、どうして遊女になりさがってしまったか。
そこには公正が満ち、正義が宿っていたのに、
今は人殺しばかりだ。

[22]
あなたの銀はかなくずとなり、
あなたのぶどう酒は水で薄められている。

[23]
あなたたちの高官たちは頑な者で、盗人の仲間。
皆、賄賂を愛し、贈り物を強要する。
彼らは孤児の権利を擁護せず、
やもめの訴えは彼らに届かない。

[24]
それゆえ、万軍の主ヤーウェ、イスラエルの力ある方は言われる。
「ああ、わたしはわたしの恨みを晴らし、
わたしの仇に報復する。

[25]
わたしは手を翻しておまえに向け、
おまえのかなくずを灰汁(あく)をもってするように溶かし
不純物をすっかり取り除く。


[26]
また、わたしは、おまえの統治者たちを初めのように、
おまえの顧問を元のようにする。
その後、おまえは正義の町、忠実な町と呼ばれる。」

[27]
シオンは公正によって贖われ、
その中の悔い改める者は正義によって贖われる。

[28]
背く者と罪人は共に砕かれ、
ヤーウェを捨てる者は消え去る。


ーーーーーーーーーーーー
<本文注より>
・21-23節。本箇所は、エルサレムがヤーウェの社会正義に関する戒めを無視し、物欲に走って、夫であるヤーウェに不忠実な者、すなわち娼婦となったと、預言的なことば遣いで述べる。エルサレムとヤーウェとの関係は、不純な銀、水で薄められたぶどう酒のようになった。

・24-28節。ヤーウェは自ら、ご自分の敵(ヤーウェの戒めに従わない人々)によって抑圧された人々が受けた不正を正してくださり、自ら、エルサレムを再び以前のように「正義の町、忠実な町」となるよう清め、回復してくださるが、他方、「主を捨てる者は滅ぼされる」。

ーーーーーーーーーーーー
<参考聖句>
※今回は関連する聖句を多く取り上げた。
いわゆる「聖書で聖書を読む」ひとつの試みである。
聖句の選択は聖書協会共同訳の引照を参考にし、本文自体はフランシスコ会訳のものを使用した。

・詩編48:2-3(神の山シオン)
「主は偉大なる方、大いにたたえられるべき方。その聖なる山はわたしたちの神の都にある。麗しくそびえ立ち、全地の喜び。シオンの山は大王の都、ツァフォンのふところ。」

・ゼカリヤ8:3(主の慈しみとシオンの復興)
「主はこう仰せになる、「わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住む。エルサレムは真実の町と呼ばれ、万軍の主の山は、聖なる山と呼ばれる」。」

・イザヤ57:3-4(偶像崇拝に対する非難)
「しかし、女まじない師の子らよ、出てこい。姦淫する男と娼婦の子孫よ、お前たちは、誰に向かってからかい、誰に向かって大きく口を開き、長い舌を出すのか。」

・エレミヤ2-20(イスラエルの背信)
「まことに、お前は久しい昔に軛を打ち壊し、鎖を断ち切って言った、『わたしはもう仕えない』と。まことに、お前はあらゆる高い丘の上、あらゆる緑の木々の下で、身を横たえて娼婦を演じた。」

・エゼキエル16:32-34(背信の妻エルサレム)
「夫ではなく、見ず知らずの男と通じている不貞の女よ。そもそも娼婦とは貢がれるものである。ところが、お前は誰彼なく愛人に貢ぎ、付け届けを贈って人々を四方から呼び寄せて姦淫する。お前の姦淫はほかの女とは逆で、尋常でない姦淫を行っている。相手に金を払わせず、むしろお前が金を払っている。まるで逆である。」

・エレミヤ33:14-16(ダビデの王家)
「見よ、その日が来る----主の言葉。わたしがイスラエルの家、ユダの家に対して語った善い約束を成就する日が。その日、その時、わたしはダビデの家から正義の若木を芽生えさせる。彼は公正と正義をこの地で行う。その日、ユダは救われ、エルサレムは安らかに住む。それは『主はわれわれの正義』という名で呼ばれる。」

・エゼキエル34:16(新しい牧者)
「わたしが失われたものを捜し求め、迷ったものを連れ戻す。傷ついたものを介抱し、弱いものを力づける。しかし、肥えたもの、強いものは滅ぼす。わたしは正義によって彼らを養う。」

・エレミヤ6:30(エルサレムに迫り来る災い)
「彼らは廃棄された銀と呼ばれる。主が彼らを廃棄されたからだ。」

・エゼキエル22:17-18(エルサレムの罪と裁き)
「主の言葉がわたしにくだり、仰せになった、「人の子よ、イスラエルの家は金屑になってしまった。彼らはみな、炉の中の銅、錫、鉄、鉛であるのに、銀の屑になってしまった。」」

・ミカ3:1-3(エルサレムの指導者への非難と判決)
「わたしは言った。聞け、ヤコブの頭たち、イスラエルの家の指導者たちよ、お前たちこそ正義に精通しているはずではないのか。善を憎み、悪を愛する者、人々から皮をはぎ、その骨から肉をそぎ取る者よ。彼らはわたしの民の肉を食べ、その皮をはぎ取り、骨を打ち砕く。鍋の中の、大釜の中の肉のようにぶつ切りにする。」

・イザヤ3:14-15(エルサレムとユダに対する審判)
「主は、その民の長老と長官たちの裁きを取り上げられる。「お前たちがぶどう園を食い荒らしたのだ。貧しい者から奪い取ったものが、お前たちの家にある。どうして、お前たちはわたしの民を打ち砕き、貧しい者の顔を押しつぶすのか---万軍の主なる神の言葉」。」

・出エジプト23:8(正義と憐れみの規定)
「賄賂を受けてはならない。賄賂は見える人の目を見えなくし、正しい人の言葉をゆがめるからである。」

エゼキエル22:12(エルサレムの罪と裁き)
「賄賂を取って流血ざたを起こす者、利息を天引きし、高利を取って隣人を虐げる者がいる。お前はわたしを忘れてしまった----主なる神の言葉。」

・ミカ3:11(エルサレムの終末)
「その頭たちは賄賂を取って裁き、祭司たちは報酬に応じて教え、預言者たちは金銭と引き換えに神託を告げる。しかも、彼らは主を頼りにして言う、「主はわたしたちのうちにおられるではないか、わたしたちに災いが降りかかることはない」。」

・申命記24:17(人道上の規定)
「在留する他国の者や孤児の権利を侵してはならない。やもめから衣服を質に取ってはならない。」

・イザヤ10:1-2(主の裁きの手は伸ばされた)
「災いだ、不正の掟を定める者、苛酷な法規を記す者。弱い者の訴えを曲げ、わたしの民の貧しい者から権利を奪い、やもめを餌食とし、孤児を食い物にする。」

・ゼカリヤ7:8-10(不従順に対する主の応答)
「次のような主の言葉がゼカリヤに臨んだ。万軍の主はこう仰せになる、「正しい裁きを行い、互いに慈しみをもって思いやり、やもめと孤児、在留する他国の者と貧しい者を虐げてはならない。互いに心の中で悪を企んではならない」。」

・列王記上18:15(エリヤとオバドヤ)
「エリヤは言った、「わたしが仕える生ける万軍の主に誓って言う。わたしは今日、必ずアハブの前に姿を現す」。」

・イザヤ6:3(イザヤの召命)
「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満つ。」

・イザヤ49:26(シオンを救われる主)
「わたしは、お前を虐げる者たちに自分の肉を食わせる。彼らは新しいぶどう酒のように自分の血に酔う。こうしてすべての肉なる者は知る。わたし、主がお前の救い主、お前の贖い主、ヤコブの力ある者である。」

・詩編119:119(神の教えは命の源)
「あなたは地のすべての悪人を錆のようにみなされます。それ故、わたしはあなたの諭しを愛します。」

・イザヤ63:9-10(主の慈しみをたたえる)
「彼らが苦しんでいた時にはいつも、主も苦しまれた。ご自分に仕えるみ使いが彼らを救い、愛と憐れみをもって自ら彼らを贖い、昔はいつの日も、彼らを抱き上げ、抱えてくださった。しかし、彼らが逆らい、その聖なる霊を悲しませたので、主は、翻って彼らの敵となり、彼らに対して自ら戦われた。」

・ヨブ9:30-31(神の非情)
「たとえ、わたしがしゃぼん草で身を洗っても、灰汁で手を清めても、あなたはわたしを汚物の中に投げ捨てられるでしょう。また、わたしの着物もわたしを忌み嫌うでしょう。」

・エレミヤ2:22(イスラエルの背信)
「たとえ、灰汁で身を洗い、多くの灰を使っても、お前の罪の汚れはわたしの目の前にある----主なる神の言葉。」

・マラキ3:2(主の裁きの日)
「しかし、この方の来る日に誰が耐えられるだろう。この方の現れる時、誰が立っていられるだろう。まことに、この方は精錬する者の火、布を洗う者の灰汁のようだ。」

・エレミヤ6:29(エルサレムに迫り来る災い)
「ふいごを吹き、その火で鉛を溶かす。だが、精錬しても、その精錬は無駄だった。悪いものが取り除かれることはなかった。」

・エレミヤ9:6-7(主の嘆き)
「それ故、万軍の主はこう仰せになる、「見よ、わたしは彼らを精錬し、試みる。娘であるわたしの民に対して、ほかに何ができようか。その舌は鋭くされた矢、その口は虚偽を語る。各々、親しげに友と語りつつ、心の中では罠を仕掛ける」。」

・エゼキエル22:20(エルサレムの罪と裁き)
「炉に集めた銀、銅、鉄、鉛、錫が、火を吹きつけられて溶かされるように、怒りと憤りのうちにお前たちを集めて炉に投げ入れ、溶かしてしまう。」

・申命記16:18-19(正しい裁き手)
「あなたの神、主が部族ごとに与えてくださる、あなたのすべての町に、裁き手と役人を任命しなければならない。彼らは公正な裁きをもって民を裁かなければならない。あなたは裁きを曲げてはならない。人を分け隔てしてはならない。賄賂を受け取ってはならない。賄賂は賢い者の目を眩ませ、正しい者の言い分をゆがめるからである。」

・エレミヤ33:6-7(主のエルサレム再建の計画)
「見よ、わたしはそれに回復と修復をもたらす。わたしはそれらを癒やし、彼らに全き平和と安らぎを享受させる。わたしはユダの繁栄とイスラエルの繁栄を回復させ、それらを元どおりに建て直す。」

・エレミヤ33:10-11(主のエルサレム再建の計画)
「主はこう仰せになる、『お前たちが<この場所は荒れ果て、人も獣も住む者もいない>と言っている、寂れ、人も住人もおらず、獣も住まないユダの町々やエルサレムの巷で、再び、喜ぶ声と楽しむ声、花婿の声と花嫁の声、主の神殿に感謝の献げ物を携えて来て、<万軍の主に感謝せよ。まことに、主は慈しみ深く、その憐れみはとこしえに続く>と言う者の声が聞かれるようになる。まことに、わたしはこの地の繁栄を回復させ、以前のようにする----主の言葉』。」

・イザヤ33:5-6(祈願と救いの約束)
「主は崇められ、高き所に住み、シオンを公正と正義で満たされる。お前の時代の守りは豊かな救いと知恵と知識、主を畏れることは主から来る宝。」

・イザヤ51:5(シオンの慰めと永遠の救い)
「わたしの正義は近く、わたしの救いは現れる。わたしの腕は諸民族を裁く。島々はわたしに期待し、わたしの腕を待ち望む。」

・サムエル上2:35(エリの家に対する神の警告)
「わたしは、わたしの心と思いをくんで事を行う忠実な祭司を立てて、その者のために堅固な家を建てよう。彼はいつも、わたしの油注がれた者の前を歩む。」

・イザヤ46:12-13(重荷となる神々とイスラエルを担う真の神である主)
「わたしに聞け、強情な者ども、正義から遠ざかっている者どもよ。わたしはわたしの正義を間近にした。それは遠くない。わたしの救いが遅れることはない。わたしは救いをシオンに、わたしの誉れをイスラエルに与える。」

・イザヤ62:1-2(シオンの救い)
「シオンのために、わたしは黙ってはいない。エルサレムのために、わたしは沈黙を守らない。その正義が曙の輝きのように出て、その救いが松明のように燃え上がるまでは。諸国はお前の正義を、王はみなお前の栄光を見ることになり、お前は主の口が名づけた新しい名をもって呼ばれる。」

・イザヤ35:10(贖われた民のシオンへの帰還)
「主に買い戻された人々が、帰ってくる。歓喜しながらシオンに戻ってくる。永遠の喜びが彼らの冠となり、喜びと楽しみが彼らに追いつき、悲しみと溜息は去る。」

・イザヤ62:12(シオンの救い)
「彼らは、「聖なる民」、「主が贖われた者」と呼ばれ、お前は、「追い求められる女」、「捨てられない町」と呼ばれる。」

・イザヤ45:22(神々と、まことの神である主)
「地のすべての果てよ、わたしのほうに向きを変えよ。そうすれば、救われる。まことに、わたしが神である。ほかにはいない。」

・イザヤ56:1(すべての民の祈りの家)
「主はこう仰せになる、「公正を守り、正義を行え。まことに、わたしの救いは間もなく到来し、わたしの正義が現れる」。」

・ヨブ31:3(ヨブの潔白の証言)
「不義を行う者には災いが下らないであろうか。悪を行う者には災難が臨まないであろうか。」

・詩編1:6(真の幸福)
「正しい者の集いは主に守られ、悪い者の道は滅びに至る。」

・詩編5:5-7(保護を求める朝の嘆願)
「あなたは、悪を喜ぶ神ではありません。悪い者はみもとに留まれず、高ぶる者はみ前に立つことができません。あなたはすべて悪を行う者を憎み、偽りを言う者を滅ぼされます。主よ、あなたは血を好む者、欺く者をいとわれます。」

・詩編73:27-28(信仰の勝利)
「見よ、あなたを離れる者は滅び、あなたに不実な者はすべて断ち切られる。神のそばにいることはわたしの幸せ。わたしは主なる神を逃れ場とした。わたしはあなたのすべての業を語り告げよう。」


ーーーーーーーーーーーー

以上、「聖書で聖書を読む」の実践であった。

記事検索
最新記事
最新コメント
プロフィール

ヤコブの夜桜

2015年カトリック教会にて洗礼を受けキリスト教徒になりました。新鮮な気持ちで、見たこと考えたことなどをブログに書いています。

メッセージ