仙台戦で行った募金活動の報告
ゴール裏サポーターに呼びかけ、募った復興義援金ですが
169,219円 (金額は試合開始直前急いで集計したため、誤差があるかもしれません)
集まりました。
活動に協力していただいたゴール裏の仲間、
そして募金してくださった甲府サポーターに感謝します。
義援金は試合後、当日仙台の応援をリードをされた人たちを通じて、
仙台サポーターと共に、(株)ベガルタ仙台事業部へと直接届けました。
震災から半年、復興への道は進んでいますが、それでもまだたった半年
僕たちがこの活動をはじめた時に話していた、
一過性のものではなく、継続的に長期に支援し続けることが大切になるはず
そんなことをあらためて思い返した、仙台戦でした。
頑張ろう東北!頑張ろう日本!
~山梨から愛をこめて~
ファンフォーレの今月号の最終ページにマイクが持っている風船の写真
青赤(甲府)黄色(仙台)
風船には、マイクのサインと「共に強く生きよう」というマイクの直筆文字が印刷されています。
この風船は、次節ベガルタ仙台戦にて
仙台からこられる、選手・スタッフ・サポーターにむけ何かしら気持ちを伝えようと仲間とマイクの協力で作成された物です。
当日ゴール裏にて復興支援義援金の募金活動を行う予定です。
募金をしてくださった方に、お渡ししますので、選手入場時には風船で、仙台・甲府を盛り上げましょう!
※数に限りがあり(約1000個)、お一人1個行き渡らないかも知れません。なくなり次第配布は終了いたします。
当日、山梨から愛をこめて、試合を両チームを盛り上げましょう!
先日のフリーマーケットによる売り上げ金全額を、ヴァンフォーレ甲府事務局へ届けました
義援金174,619円
Jリーグを通じて被災地復興への寄付とさせていただきます。
販売ブースを無料提供してくださったモグラハウス様
店舗にて商品管理をしてくださったBlue cafe様
準備活動、当日の活動に参加した仲間たち
そして
商品を提供してくださった多くの仲間たち
みんなの気持ちにより、今回も無事終えることができました。
心よりお礼と感謝を申し上げます。
取り急ぎ、
本日のフリーマーケットにおける支援活動の報告です
¥174,619
予想をはるかに上回る金額となりました。
すべての仲間に感謝いたします。
集まった義援金は、ヴァンフォーレ事務所へ届け、
クラブを通して、日本赤十字社に全額寄付されます。
山梨から愛をこめて~ヴァンフォーレサポーター~
小学生の男の子が絵を、代表の方からのメッセージをいただきましたので報告いたします。
『長田様はじめヴァンフォーレ甲府のサポーターの皆様にご支援頂き誠にありがとうございます。
子どもたちも大変喜んでおります。
震災以前に一緒にサッカーをしていた仲間は、色々な事情でサッカーを続けられない子どもたちもいます。なので今回贈っていただいたボールを有意義に使えたらと考えています。
ご支援本当にありがとうございました。
山梨県は梅雨入りしたと聞きます。
これから体調を崩しやすい季節となりますので、
皆様にはお体のほうご自愛ください。』
まだまだ多くの方が、避難生活を続けています。
子どもたちが、安心して笑顔で
大好きなサッカーをしたり、
試合を観戦したりできる日が来るまで。
被災地の方々や子供たちのことを忘れずに、
自分たちにできることを続けていくことが
大事だと思います。
(長田)
6月26日(日)11時~16時 アイメッセ山梨
【フリマ出品商品を求めています!】
自宅に必要のない、物はありませんか?
引き出物や、贈答品など、フリマ出品商品を求めています!
商品受付は Blue Cafe にて行っています
受付日時
6月22日(水)20時~23時
6月24日(金)20時~23時
6月25日(土)18時~23時
前回はたくさんの方の協力で数多くの物品が集まりました。結果287,732円と多くの義援金を寄付することができました。あらためてご協力に感謝いたします。
前回の様子 サポサポ http://www.saposapo.jp/report/016/
11.おわりに
ボランティアに行く前には、
「私はなにができるだろう」という思いでいっぱいでした。
実際現地に行って被災地の様子を目で見て、
避難所の方と接して思ったことは
自分がそこで主で「なにかをする。」というより
一緒に話をしたり遊んだりコミュニケーションをとることで、
被災地の方の気持ちに寄り添いたいという思いが強くなりました。
一番に感じたことは
大変な経験をされている中で、
どんな状況でも明るさと笑顔と前向きな気持ちを忘れないこと。
そして、いつでも自分のことより
自分以外の誰かの気持ちを考える強くて優しい心を持っていること。
そういう現地の皆さんの姿でした。
今回特に保育士ボランティアとして行かせていただいたので、
今後自分が保育をする時にも、心に刻んで
子どもの気持ちに寄り添って保育をしようと強く思いました。
山梨に帰ってからもずっと、岩手県の皆さんのことが忘れられません。
心はずっと共にいます。
自分にとって、とても大切な場所になりました。
子ども達の心には、大きな傷がありました。
子どもだけではなく、大人の心にも。
これから、生活面での支援はもちろんですが、
メンタルケアも必要となってくると思います。
3.11に起こった東日本大震災。
何の不自由もなく過ごすことのできる私たちは、
心のどこかでもう過去の出来事にしてしまっているのかもしれません。
でも、被災地の方々は
過去ではなく現在進行形です。
瓦礫はまだ街中に溢れています。
仮設住宅に入れる方はほんの数人で、
現在でもまだ避難所での生活が続いているとのことです。
また、食料や生活用品なども不足しているとききました。
私はこのボランティアで出会った多くの方々、子ども達のことをいつも忘れません。
この経験を多くの方に知っていただく為に、現地の様子を伝えることも、私の役割だと思っています。
それぞれが日本人としてこの震災にどう関わっていくのか。
少しでも考えるきっかけになればと思っています。
これからも、自分にできる限りの支援を続けていきます。
そして必ず、また岩手の地を訪れようと思います。
平成23年5月2日~5日
長田 奈美子
※サッカーボール集めにご協力してくださった多くの皆様、
本当にありがとうございました。サッカーボール・空気入れは以下の場所を拠点として近隣へ振り分けていただきました。
岩手県山田町避難所
岩手県織笠保育園避難所
福島県田村郡避難所
宮城県気仙沼市避難所
宮城県石巻市相川小学校
また、現在でもサッカーボールを必要としている避難所・避難宅があります。
サッカーボール以外にも食品や生活用品も不足しています。
「ふんばろう東日本」 http://fumbaro.org/
というサイトを通して、必要なものを必要な方に届ける支援ができます。
※今回私を保育士ボランティアに連れて行ってくださった
職場の園長先生、共に過ごした保育士仲間の皆さん、栄養士さん、中学生のお兄さん、大学生のお姉さん、報告書を読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
10.別れ
お世話になった避難所を出る朝が来ました。
朝7時からラジオ体操があるのですが、
6時50分から、園庭にある音楽が大きな音で流れ始めました。
【今日もどこかで】 小田和正
『気付かないうちに 助けられてきた
何度も 何度も そして これからも
数え切れない やさしさに 出会ってきた
懐かしい 笑顔が 浮かんでは 消えていく
誰かが いつも君を見ている
今日もどこかで 君のこと 思っている
めぐり合って そして 愛し合って 許しあって
ぼくらは つながっていくんだ』
それは、小田和正さんの歌でした。
避難所のリーダーである園長先生に
「ステキな歌ですね。」と話しかけると、
「ここで音楽をかければ、きっと街中に聞こえると思うから。」と
おっしゃっていました。
歌声も歌詞も、この街の景色も空気もみんな混ざって
ぐっと胸にきました。
昨夜の交流会で、皆さんと親しくしていただいたこともあり
一緒に生活をさせていただいたこともあって、
いろいろな方に「昨日は楽しかったね。」と声をかけていただきました。
ボランティアでお世話になったのは、
ほんの数日間の出来事なのに、
もう昔からこの場所のことや、皆さんのことを知っているかのような
不思議な感覚になりました。
最後のラジオ体操が終わると、皆で記念写真を撮りました。
別れの挨拶はしたくない、でもしなければならない時間がせまっていました。
私たちが荷物をまとめて帰る支度をしていると、
男の子が
「僕も山梨に連れてって。」と突然言い出しました。
ボランティアの一人が
「お母さんや家族が心配するよ。もう少し大きくなったら
遊びにおいで。」と話しかけると、
「だって僕こんな街いやだもん。」
と一言。
きっといろいろな思いがつまっていたのだと思います。
帰る場所がある私たちのこと。
自分の生活する街が津波の被害を受けたこと。
避難所での生活。
必ず、力になろう。
そう再び決意した瞬間でした。
ロープの話、や山の話を教えて下さった方にもお礼の挨拶を言いました。
そして避難所の保育園の園長先生と保育士の方々にも。
ボランティアに行くときに、むやみに泣くことはしないでいようと
決めていたのですが、
込み上げてくるものを止めることができないほど、
別れる時には
出会えた感謝の気持ちと、この街を応援したい気持ちと、
ここを離れたくない気持ちでいっぱいになりました。
「泣かないで帰るんだよ。」と、山の話をしてくださった
男性が優しく言葉をかけてくださり、
いつまでもその言葉が心の中に残りました。
私が人生で経験したことのない感情で、
帰り道のバスの中で、再び被害の大きかった街を見ながら
お世話になった人々の顔を思い出しました。
大きな看板が見えてきてそこには鯨の絵が描かれていました。
【鯨と海の科学館】です。
この場所は瓦礫置き場になっていました。
建物の上にロープがあり、たくさんのこいのぼりが泳いでいて、
その景色が印象的でした。
子どもたちが大勢集まっていたであろう科学館は、
瓦礫で囲まれていました。
科学館を少し過ぎるともう、津波の被害はなく
のどかな山の風景が広がっていました。
私は帰りのバスの中で、
この場所を必ずまた訪れようと考えていました。
その日の晩は、そのまま交流会となりました。
ある先生が伸びるあやとりを毛糸で編んでたくさん現地に持ってきて
くださったので、避難所の方や子ども達皆であやとりをして遊びました。
また、あやとりから海で使うロープの話になり、
猟師さんならではのロープの結び方なども教えていただきました。
エイトノットというロープの結び方を教えていただくと、
だんだん会話が弾み
津波の話を教えてくださった2人に、
私が宮沢賢治が好きで、岩手県を訪れたことがあること、
そして宮沢賢治の童話の舞台となっている早池峰山に登った時の話を
しました。
宮沢賢治の作品には、
岩手県の大自然がモデルとなっているものが
たくさんありますが、
その中で【どんぐりと山猫】という作品に出てくる
“笛ふきの滝”が早池峰山にある“笛貫の滝”のモデルとなっています。
すると、山登りが趣味ということで話が盛り上がり、
山に関するさまざまなお話を教えてくださいました。
実は、その方が一番好きな山が、早池峰山だったのです。
私は数年前にその山に登った自分を思い出していました。
そして、こうしてこの街に縁があったことを嬉しく思いました。
山が大好きと言う男性のお勧めは
岩手山に咲く“コマクサ”という名の高山植物です。
花の形が馬の顔に似ていると言う理由で付けられた名前だそうで、
岩手山で一番美しい花だそうです。
私がまだ岩手山に登ったことがないと話すと、
ぜひ見てほしいとおっしゃっていました。
また、お気に入りの場所として
北海道の礼文島(花の浮島)の花散策のお話、
ホテイアツモリソウや牡丹金梅という花の話など、
私が知らないこと、興味のあるお話をたくさん聞かせていただきました。
お話の中で、「高山植物は、その山を登らなければ決して見ることができない。
だから価値がある。
自分はその花の写真を撮るのが好きで、
いつしか妻も一緒に山登りをするようになって、
気づいたら花の横にはいつも妻がいた。
登山から帰ると嬉しくてその写真を大きく引き伸ばしては何度も眺めていたものです。
でも、そういった宝物も津波に流されてしまいました。」
このような話もところどころで混ざっていました。
山登りの話から、大町桂月の
【富士山に登って、山岳の高さを語れ。大雪山に登って、山岳の広さを語れ。】
という言葉を教えていただきました。
つまり私に、実際に自分の足でいろいろな場所へ行ってごらんという
男性からのメッセージだと思いました。
たくさんの山登りを経験されている方から
この言葉を教えていただくと、本当に説得力がありました。
そして、
「山田に遊びに来たらね、いろいろないいところがあるよ。
ここは海はキレイだし、自然が豊かなところだからね。」
私はもっともっとお話をしたかったのですが、
消灯時間になってしまい、そこでお話は終わりになりました。
ロープの話をしてくださった男性が、
実際に海で使っていたというロープを最後に見せてくださり、
お礼を言って各部屋へ戻りました。
人生の先輩方からのお話はとても面白く、楽しい時間が過ぎるのは本当にあっという間でした。
9.音楽と山
避難所の保育園では、音楽活動として
保育園にあるピアノを使って皆で歌を歌う時間を設けていただきました。
ホールには子ども達や、避難所にいる大勢の方が集まってきました。
まずは“むすんでひらいて”“ふるさと”など、皆が知っている歌を歌い、
その後は子ども達からのリクエストを聞きました。
「何の歌がいい?」と質問すると
“さんぽ(となりのトトロ)”“きらきら星”などがあがり楽しく歌いました。
中にはリズムに合わせてハーモニカを吹く女の子もいました。
また、ピアノを弾く私の膝に入ってきて、
「僕の手を使って弾いて。」
と言ってきた子もいて、小さい両手に私の手を合わせて演奏しました。
「弾けた弾けた!!」といって瞳が輝いていました。
子どもがはしゃぐ姿をみて、大人たちはニコニコ笑っていました。
大人の方にもリクエストを聞くと、
中学校の先生をされていたという女性の方が
「“我は海の子”を歌いたい。」とのリクエストがありました。
私たちは海に関するものは、避けたほうがいいのではないかとずっと思っていました。
例えば子どもたちに読み聞かせする紙芝居なども。
でも、やはり海を大事に思っているのだという強い気持ちが伝わってきました。
我は海の子
『我は海の子白浪の
さわぐいそべの松原に
煙たなびくとまやこそ
我がなつかしき住家なれ。』
私がピアノを弾き始めると保育士の先輩が大きな声でその歌を歌い、
その歌声に合わせて避難所にいる全員で歌いました。
津波のお話をしてくださった猟師さんたちも、一緒に歌っていました。
海が大好きな気持ちが伝わり、とても心に響きました。
現地に楽器をたくさん持っていっていたので、
マラカスやタンバリン、鈴、カスタネットなどを皆さんにお配りして
“幸せなら手をたたこう”を歌いました。
「幸せならマラカスたたこう♪」など
その楽器を持っている方が一人で演奏するといった時間を作って
それぞれが主役になれるようにすると、皆笑顔で楽しんでくださいました。
活動に入る前、私がピアノを弾くことになった時に、大変申し訳なく思いながらもリクエストにすぐに対応できるようにと、避難所の保育園にある楽譜を貸していただけないかとその園の先生方にお願いしました。
「ちょっと待っててね。」と言って
楽譜を探しに行ってくださった先生が
「楽譜、どこに置いたかしら。」
「そういえばずっとピアノの音を聞いていなかったわ。
地震が起きてから一度も。」
と言っていたので、その言葉にハッとしました。
ピアノがあっても、音楽を楽しむゆとりなどなかったことでしょう。
元気がある地域の方が行って、少しでも楽しい時間を作ることが
必要なのではないかなと考えました。
8.お祭り
山田町八幡町にある御蔵山(山田町立図書館跡地)で、
復興を願う祭りが開催されるというお話を地元の方から教えていただき、
私たちは飛び入りで子ども達の為に何かできないか考え、
とりあえずその会場に行ってみることにしました。
お祭り会場に行こうとした直後に激しい雨が降り、
雷が鳴り出し・・・
お祭り自体が中止になってしまうのではないかと心配になりました。
しかし、私たちが会場である図書館跡地、つまり図書館が津波で流された跡地に
到着すると、ピタッと雨がやみました。
皆口々に「晴れて良かったね。」と言いました。
私たちを被災地に連れて行ってくださった私の勤務先の園長先生が、
お祭りの責任者の方と話をし、時間とスペースをいただけることになりました。
お祭り会場にはアンダーエイジさん他多くのお笑い芸人さんや、
札幌青年会議所の皆さんがチャンチャン焼きやジンギスカンなどの料理を
作って会場を盛り上げていました。
「久しぶりのお祭りで嬉しい。」と、子ども達は話をしていました。
私たちは入り口付近の一角を貸していただき、保育園で行ったときのように手形を押したこいのぼりの制作をすることにしました。
突然の活動でしたが、ボランティアの皆の気持ちは一つになっていたので、臨機応変に動くことができました。
4つの会議用のテーブルを貸していただき、それを2つずつつなげて2箇所で制作できるようセッティングしました。
用意したものは、絵の具(白・赤・黄・青・緑)と水の入ったコップ数個、筆、そしてこいのぼりの棒の部分と、名前を書くために用意した雲形の画用紙、
そしてあらかじめ用意してあったこいのぼり形の色画用紙(何色も)です。
お笑い芸人の方のライブが終了すると、司会の方が
「今から子どもの日のこいのぼり作りをします。興味のある方はぜひ
参加してみてください。」
と会場にいる皆さんに声をかけてくださいました。
その後、大勢の子ども達や大人の方が私たちのブースに来てくれて、
一人一人の希望を聞きながら、好きな色画用紙、好きな絵の具で手形を
取りました。手のひらに絵の具を塗るのは私たち。
その時に手と手が触れ合うことを少し恥ずかしがる男の子もいました。
中には、大人の方も集まってきて「俺もやっていいかな?」と
こいのぼりからはみ出るほどの大きな手形を残してしました。
以前保育園で活動した時と同じように、やはり手形など思い出の品が
津波で流されてしまったという方が多く、
「今日の手形を大事にしようね。」と子どもに話しかけるお母さんや、
「いい記念になったね。」と赤ちゃんの手形を大事そうに持ち帰る姿も見られました。
皆わくわくした表情で、手形のスタンプを押し、こいのぼりのうろこや目を描きいれて
自分だけのこいのぼりを完成させていました。
ある小学生が「I LOVE やまだ」
とこいのぼりに描いていたそうです。
震災がなければこのようなメッセージは出てこなかっただろう、
小さいながらにも街を元通りにしたいと言う願いが込められているように思えました。
また、保育士スタッフが赤ちゃんの手形を取った母親に
「この手形よりももっともっと大きく元気に成長してくださいね。」と声をかけると、
静かにうなずいていたそうです。
私たちは短時間で本当にたくさんの方と触れ合う機会をいただきました。
多くの方に少しでも楽しんでもらえたならば嬉しい、そう思って避難所の保育園に戻りました。
7.手紙
翌日私が目を覚ますと、
一緒に寝泊りしている仲間が「昨日大きな地震があったね。」と言っていました。
私は眠っていて気がつかなかったのですが、夜中に震度3の余震があったそうです。
あの大地震から何ヶ月か経った今でも、東北地方では大きな余震が続いているとのこと。
大きな揺れを感じるたびに、
あの日の出来事を思い出してしまうと避難所の方は話していました。
避難所では朝7時からラジオ体操をしていました。
避難所のリーダーである保育園の園長先生が、「みなさん、今日も元気にいきましょうね。」などと、とても優しい笑顔で元気よくお話されていました。
私たちボランティアの紹介もしていただき、緊張しながら皆さんの前に出て一礼をしました。
この日私たちボランティアはまず、避難所の清掃活動をしました。
たくさんの方が集まる場所を、少しでもキレイにしたいと思いました。
一緒に作業をしたのは、青森県の高校の先生でした。
その先生は、震災が起きてからいても経ってもいられずに、被災地を何とかしたいと一人でボランティアに参加したそうです。
私たちは「はじめまして。」と、先生と挨拶をすませると、もう以前からの知り合いのように、打ち解けて会話を交わしながら協力し合って共に作業をしました。
先生は数学の教師であるとお話されていました。
私が一緒にボランティアに参加したメンバーは、保育士・栄養士・そして中学生の男の子、大学生の女の子が一緒でした。
長時間一緒に過ごすうちに、もうみんな家族のように親しくなっていました。
避難所の清掃活動の後、1日目に訪れた保育園とは別の避難所にまた行かせていただけることが決まりました。
「また来るね。」と言って別れた子ども達との約束を守れることになり、それが何より嬉しかったです。
子ども達と2度目のサッカーをする為に、バスは子ども達の待つ避難所へ進みました。
避難所に到着すると、すぐに子ども達が出迎えてくれました。
「お姉ちゃんたち、ほんとに来てくれたの!!」
と言い、抱きついてきたり、手を握ってくれました。
私たちが「何をして遊ぶ?」と質問すると、
「サッカーの続きがいい!!」と元気よく答えてくれました。
今回のサッカーは、もともと高校のグラウンドがあった場所の片隅で、今は自衛隊の基地になっています。
子どもと私たち大人が2チームに分かれて本気のサッカーが始まりました。
自衛隊の方に手を振りながら、いよいよ試合開始です。
青森県の高校の先生も一緒だったので、ゲームはますます盛り上がりました。
試合の途中、やはり子ども達は私たちからあまり離れようとせず、
体をくっつけたり、手をつなぎながらのサッカーでした。
ある女の子が
「○○ちゃんが本気でやっているんだから、私も力にならなくちゃ。」
と言って、全力でボールを追いかけていました。
遊びながらも友達を思う、優しい子だなと感じました。
仲良しの女の子二人は、小学校や住んでいる場所は全く別の場所で、
避難所で初めて出会って友達になったそうです。
お互いのことを思いやり、本当に大事に思う気持ちが会話から伝わってきました。
優しさは、友達に対してだけではありません。
私たちに対しても、とても優しく「お姉ちゃんたち、のどは渇いていない?
水がなかったら、自衛隊の基地のほうに行けば飲ませてもらえるよ。こっちにおいで!!」
と、試合と試合の休憩時間に自衛隊の給水車のある場所まで
私の手をひっぱって連れて行ってくれました。
暑さで喉が渇いただろうと、
私たちの心配をしてくれたのだと思い胸が熱くなりました。
本気のサッカーは大盛り上がりで、
子ども達がゴールするたびに、みんなでハイタッチ!!
中には敵チームの子どもがゴールして、ハイタッチしてくる子もいました。
ゴールが決まった時の表情は、本当に嬉しそうでした。
子ども達ばかりではなく、大人もゴールが決まるとやはり笑顔が輝いていました。
いつのまにか、チームで作戦をたてたり、ゴールキーパー役を決めたりと、一体感も生まれました。
ボール一つでみんなの心も一つになってこんなに楽しく遊べるのだな、サッカーの力を改めて感じました。
コートを交代して2試合終えた頃、急に土砂降りの雨が降り始め、そこで試合終了となりました。
ちょうど私たちが滞在している避難所の保育園に帰る時間になり、
子ども達はとても満足した表情で「いっぱい遊んでくれてありがとう。」
とたくさん手を振ってくれました。
ある女の子が手紙をくれたので、バスに乗ってからその手紙を読みました。
力強い字で書かれた手紙。
何度も何度も読み返しました。
絶対に忘れない。必ず力になると誓いながら。
『一緒に遊んでくれてありがとう。
楽しかったね。
また会えるといいね。
その時は、サッカーがもっとうまくなってから会いたいな。』
6.津波
保育士仲間の先生と共に、高台の避難所の保育園の園庭から津波の被害にあった街を見下ろす。
やはり言葉が見つからない。
家を失うこと、家族を失うこと・・・それも一瞬で。
当たり前の日常生活を送っていた中で・・・一体どれほどのことだろう。
私たち二人は、呆然と立ってその景色を見続けていました。
今の時代を生きていて、こんなに冷たく悲しい景色を見たことがありませんでした。
ここに来たんだから、多くの人に伝えなくちゃいけない、そう思って
景色を写真に残そうとしましたが、手が震えてしまいその日は撮ることができませんでした。
ちょうどそこに、一人の男性が通りかかりました。
避難所で生活されている男性で、
「そこが俺の家だよ。」
と、保育園の真下にある、一軒の家を指差して教えてくださいました。
「俺の家以外はみんな流された。どんなに基礎が立派でも、簡単に流れるものだ。」
と少し津波の話をしてくださいました。
保育園の下にある地区の方々は、ほとんどの方が行方不明になったり、
流されてしまったとのことで、
聞いていて心が痛いのも悲しいのも通り越していました。
行方不明になった方の中には幼い子どももいたし、
ここから流された遺体が仙台で発見されたという方もいたと聞きました。
私は、体験されたことに対して何と言って声をかけたらよいのか本当にわからず、
そしてうなづいて聞くこともできずに、ただ景色を眺め続けてあの日起こった出来事を想像していました。
仲間の保育士もじっと男性の話に耳を傾けているだけでした。
話が終わると、
「寒いから。もう中に入ろうか。」
と、男性は優しく声をかけてくださり、私たちは無言でみんなの待つ部屋へ戻りました。
私たちが男性と出会った話をすると、
ちょうど避難所の保育園の園長先生が
「せっかくだから、津波の話を聞いていって。」
と時間をくださいました。
私たちの部屋に、二人の男性が入ってきました。
一人は、先ほど園庭で出会った男性。
そしてもう一人は海のお仕事をされている男性でした。
海のお仕事をされているかたは、1年間いろいろな場所を航海をされていて、
1ヶ月だけ自宅に戻るという生活を続けてこられたそうです。
【海は生活の場だ。】
と何度もおっしゃっていました。
ちょうど3/11の日、
日本に戻ってくる1ヶ月間の最初の日で、朝8時に仙台港に到着したそうです。
そして、岩手県の自宅に戻って落ち着いて奥様とコーヒーを飲もうとした時に
大きな地震が起こったそうです。
岩手県では、ちょうど2~3日前にも同じくらい大きな地震があったそうですが、
その時はそれほど津波も大きくなく、その津波の速さ・高さのイメージを持ってしまった方々は逃げ遅れてしまったのではないかと言っていました。
男性はずっと日本にいないので、地震の大きさがどのくらいなのかよくわからなかったそうですが、奥様の様子で普通ではないことに気がつき、
高台にある保育園を目指して避難することにしたそうです。
「津波の避難警報が鳴り、外に出ると
遠くの線路の向こうで海が1回引けるのを確認した。
その後、住宅地に向かって水柱が立ったのが見えた。
頭上、住宅の高さをはるかに超えていて、山の大きさの水柱が
どーんと立って、同じような大きな波が30分ごとに住宅地へ押し寄せた。
90歳、91歳、80歳の父母を連れて、とにかく高台へ逃げることに必死だった。
靴を履かせるのも一苦労だった。
目の前で、子どもや多くの知り合いが流されるのを見た。
中には自分の両親や子ども、家族を・・・流されるのを見た人も大勢いるだろう。
何もしてやれなくて、
ただ流されていくのを見送ることしかできなかった。
自分も波にのまれてしまった。
波にのまれながらも手を伸ばすと、そこにつかまる何かがあった。
どうやら木のようだ。とにかくはなさないようにその木につかまった。
運が良く、それが流木ではなくて保育園周辺に植えられていた木だったため、
水が引いてから、助けられた。」
そこで先ほど園庭でであった男性も話しだしました。
「こいつと俺は近所に住む幼なじみ。
俺の家は流されなかったが、二階の窓枠の上まで津波が押し寄せてきた。
自分の家族を二階に避難させて、自分も二階に上がったが、
目の高さまで津波がやってきた。
助けてほしいと窓の外を見ると、ちょうどこいつが木につかまっているのが
見えたんだよ。
でもお互いに、助けられる状況ではなかった。」
保育園に避難でされた方は、寒くて暗い夜を
体育館のカーテンや、園児の布団などにくるまって過ごしたとのことです。
どんなに不安だったでしょう。
「友達は、ガソリンを運ぶための車を運転していて地震にあって
そのまま燃えてしまった。
津波だけではなくて、火災も広範囲で起こった。
山田町の駅は、家事で燃えてしまって何もない。
爆撃で一発でやられてしまった。
山は一週間燃え続けた。」
津波、と聞くと私たちは透明な水、海の波のようなものを想像します。
しかしそうではなく、あの日の津波は
「黒い大きなかたまり」だったそうです。
それが頭上をはるか高く超えてだんだん大きくなって押し寄せてくる恐怖。
「保育園の園児の中にも、
津波にのまれてしまい呼吸停止になってしまったが、息を吹き返した子もいた。
まだ行方がわからない子もいる。」
「保育園で働いている皆さんに、覚えておいてほしいのは、
地震や災害が起こった時に、老人や子どもはわれわれと同じように
行動はできないということ。
その一瞬でどう人生が変わるのか、生きるか死ぬかは紙一重。」
「自分は長男なので、自分の家が流されたということで
親戚が集まるみんなの憩いの場所がなくなってしまった・・・
ということが悲しかった。
津波の被害があったけれど、この街と海が好き。またここに家を建てて
暮らしたい。」
「山田町はいいところだよ。
海と山がすばらしい。
魚も山のものも両方楽しめる。とてもおいしい。
美しい山田湾は、海の十和田湖と呼ばれている。」
「家や家族が流されて、失ったものは大きかったけれど
この震災で得たものもある。」
「それは、人々の優しさとありがたさ。
いろいろな地域の方が、この町のことを心配してくれて
いろいろな人が助けてくれる。
人間の優しさを感じているところです。
地震が来なければ気がつかなかった。」
「また、この保育園の避難所は、人当たりの良い女性の園長先生が
優しくリーダーシップをとってくださるおかげで
みんな元気に過ごせている、感謝している。」
お話してくださった男性二人は、真剣な表情の中に
優しい笑顔も見せてくれました。
聞いている私たちは、質問したいこともたくさんありましたが
ただただ涙しか出てこなくて、それを失礼なのかなと考える余裕もなく
聞いた話に反応する自分の体に任せるままでした。
とても貴重なお話を聞かせていただき、男性二人が部屋を出て行ってからも
いろいろな思いで皆胸がいっぱいになっていました。
テレビで見ていて、知っていたはずなのに・・・。
実際はもっと恐ろしい出来事だったということが伝わりました。
そして、そのような経験をされてもなお、
この街の人々が私たちに優しく話しかけてくれたこと。
避難所の保育士の先生方や園長先生の笑顔が
どれだけ多くの人の勇気になっているのだろうかということを考えました。
自分が辛い思いをしている時に、笑顔を見せられるだろうか。
自分が大変な思いをしている時に、自分以外の他の人のことを
思いやることができるだろうか。
そんなことを考えながら、
再びカーテンを開けて、窓の外に広がる瓦礫に変わってしまった街を
眺めてから、寝袋に入って眠りました。
私たちが次に向かったのは、避難所になっている保育園でした。
以前は住宅街だったと思われる、たくさんの瓦礫であふれた街を
バスは進み、
かなり急な坂道を登ると
卒園した子ども達が記念に描いたと思われる似顔絵と、
たくさんのチューリップが私たちを迎えてくれました。
園庭には、大きなこいのぼりが泳いでいました。
この保育園は高台にあり、保育園周辺の海沿いの街は
ほぼ壊滅状態でした。
保育園の園庭から下を見下ろすと、津波で流された街の後の景色が一面に広がり、
被害の大きさが一目瞭然でまた言葉を失いました。
この避難所のリーダー役をしていたのは、保育園の園長先生でした。
女性らしい優しさと強さで、避難所を守っているように思えました。
保育園の保育士たちは交代でここに寝泊りしていて、
園長先生はずっと避難所に暮らしているとお聞きしました。
保育園の皆さんは、
私たちボランティアにもとても優しくしてくださいました。
私たちは本当は、被災地から少し離れた街の
ボランティアセンターで寝泊りするはずでしたが、
保育園の園長先生のご好意で、避難所の中に寝泊りさせていただけることになりました。
私の心の中には、
「ここにいてもいいのかな?」
と、少し戸惑いがありましたが、
避難所での生活を経験することで、
ここに住んでみないとわからないことを
知りたいしわかりたい、という思いも強く
お世話になることになりました。
こちらの避難所での活動は、「こいのぼり」の制作、
絵本や紙芝居の読み聞かせ、外遊びを行いました。
前もって避難所以外の子ども達にも声をかけてくださっていたので、
たくさんの子ども達がわくわくした表情で私たちのことを待っていてくれました。
男の子たちはやはり外遊びが大好きで、ボール遊びをしたり凧揚げをしたり、
おおはしゃぎで遊びました。
紙芝居や絵本の読み聞かせでは、子どもだけでなく
お年寄りや大人の方も一緒に聞いてくださり真剣な表情でした。
こいのぼりの制作では、色とりどりの絵の具や折り紙を子どもに見せると、
「何色にしようかなー。」と嬉しそうに色を選び、
こいのぼりのうろこの部分に手形・足形を押しました。
絵の具をつけた筆で足の裏に絵の具をつけると「くすぐったいね。」と
みんなで大笑いしました。
楽しい活動や何気ない会話の合間に、時々子ども達の口から
津波に関する言葉が出てきました。
「お友達が津波で流されちゃったんだよ。」
「私の大事にしていた宝物のお人形もなくなっちゃったんだ。」
また、「子どもの作った作品も全て流されてしまったので、今日作った作品は大事にする。」
と話してくださったお母さんもいました。
保育園の保育室での活動だったので、
山梨の自分の職場の保育園と様子が似ていて、クラスの子ども達のことを思い出しました。
子どもの笑顔が溢れる保育園の、窓の外には瓦礫に変わってしまった街。
まだ、行方不明の園児たちもいらっしゃると聞き、胸がいっぱいになりました。
そして保育室に残された出席簿の日付は3月11日のまま、そこで止まっていました。
窓の外まで押し寄せる津波。
ここの保育園の子ども達、先生、保護者の皆さんがあの日どんな経験をしたのか、
私たちの想像以上だったことは、間違いありません。
夢中でこいのぼりにちぎった折り紙を貼り付けて、カラフルに仕上げている子、
絵の具の筆で、直接模様や目を描く子、
指のスタンプで、模様をペタペタとつける子・・・
そして、手に付いた絵の具を洗った時の石鹸の色が「キレイ!!」と気に入って、
いつまでも落とそうとしない小さな女の子。
そんな楽しそうな子ども達の姿を見守る大人の目は、優しく
そして皆穏やかに笑っていました。
作った作品を大事そうに持ち帰る子ども達の姿を見て、
私たちも楽しい時間を過ごせたことを、嬉しく思いました。
この保育園に暮らす子ども達もいて、
進んで大人のお手伝いをしていました。
その年齢ならではのわがままも言ったり、仲間と楽しそうに遊ぶ姿も見られました。
前の避難所の子ども達と同じく、やはり抱っこやオンブをしてほしいと訴え、
甘えたい気持ちでいっぱい、
とても人なつこい子ども達ばかりでした。
その日に予定されていたボランティア活動が一通り終わると、
避難所の方から「自衛隊のお風呂に入ってみるといいよ。」と言っていただきました。
私たちは、自衛隊のお風呂に入りました。
この地を訪れて、驚いたことは自衛隊やパトカー、消防車が頻繁にこの地域を
巡回していることでした。
埼玉、神奈川、北海道など、全国各地から自衛隊や警察、消防の方々が集まってきています。
自衛隊のお風呂は大きなテントの中にあり、お湯の温度は41度でした。
避難所に暮らしている大勢の方が利用する大事なお風呂なので、
自衛隊の方の指示に従って数人ずつ順番待ちで入ります。
私たちは皆大急ぎで入らせていただきました。
自分の家が流され、お風呂にもゆっくり入れないという現実を考えると、
2ヶ月間どのような気持ちでいたのか・・・。
と思ってしまいました。
お風呂場で、一緒にサッカーをした女の子に偶然出会いました。
「お姉ちゃんたちもお風呂入ったの?気持ちよかったでしょ。」
と言って嬉しそうな恥ずかしそうな表情を浮かべました。
女の子は自衛隊の方とはもうすっかり仲良くなっている様子でした。
保育園の避難所に戻った頃には、もうすっかり日が暮れていました。
私たちを乗せたバスは、岩手県ボランティアセンターに立ち寄った後、
ボランティア受け入れ先である山田町の避難所に到着しました。
校庭にはたくさんの自衛隊のテントがあり、
自衛隊、救急隊の方々の姿が見えました。
いよいよ避難所に着いた時に、
一体どんな表情で子ども達に会ったらよいのだろう、
子ども達は私たちのことを受け入れてくれるのだろうか?
という疑問や不安な気持ちでいっぱいでした。
それでも心に決めたことは、やはり「笑顔」で行こう、ということでした。
避難所までの道のりは、本当に悲しい光景だったけれど、私たちは元気を届けに来たんだから、「笑って会おう。」そう決めました。
保育ボランティアに行こうと決めてから、
ボランティアに行く保育士メンバーと
そこで何をするか、何を持っていくかを話し合いました。
そして、避難所にいる子ども達に
運動・音楽・造形…
つまり保育園や幼稚園または学校に行っていた時と
同じような体験をすることで、
少しでも楽しい時間を作ろうと考えました。
持っていったものは、
ヴァンフォーレ甲府サポーター仲間が集めてくださった
サッカーボール、そしてオルガン、紙芝居や絵本、
折り紙、絵の具、色画用紙、タンバリンや鈴、
カスタネット、マラカスなどの楽器を選びました。
バスから降りる時に、それらの荷物を手分けして降ろし、
そして、「保育士ボランティア」と書かれたゼッケンを身に付け
緊張しながら子ども達の待つ武道場へとむかいました。
武道場には大人の姿はありません。
大人は生活をしている体育館に集まっていました。
避難所の中の生活スペースを見せていただき驚いたことはまず、
間仕切りなどはなく、広いスペースに
大勢の方が生活されてたということでした。
テレビでは、間仕切りやカーテン、
テントなどができた事で避難所での
プライバシーも守られるようになった、と報道していたので、
「少しは家にいる時と近い環境で生活できるようになってきているのかな。」と思っていました。
しかし目にした光景は、違いました。
生活用品も支援物資も、洗濯物も、たくさんのものに囲まれた中、布団の上に横になる人々の顔には疲れがはっきりとあらわれていました。
起きているけれど顔に表情はなく、子ども達が「お母さん。」とすぐ近くで何度も呼ぶ声さえも、耳に届いていないようでした。
また、ご高齢のおじいちゃま、おばあちゃまの姿も多く見られました。
食事はおにぎりとカップ麺が多いと聞きましたが、
毎日カップ麺ばかり食べていて、
高血圧になってしまったというお話も聞き、また胸が痛くなりました。
心の面と体の面、両方ともギリギリのところで生活している事実を
目の当たりにし、テレビで少しづつ良くなる被災地の様子を
報道していますが、それは本当に氷山の一角に過ぎないということが良くわかりました。
自分が考えていた避難所のイメージとかけ離れていたことに、恥ずかしくなりました。
テレビの報道は真実かも知れませんが、それが全てではありません。
私たちは、同じ日本に住んでいるのに、あまりにも知らないことが多すぎて・・・。
また言葉を失いました。
避難所内にある子ども達が集まる武道場に到着すると、
子ども達は男の子も女の子も大はしゃぎで私たちを出迎えてくれました。
ボランティアである私たちをどのように受け入れてくれるのだろう、という不安はすぐに
消えてしまうほど、飛びついてきてくれて少し安心しました。
子ども達の笑顔に、私たちも笑顔で答えました。
小さな女の子は、私たちの顔をみるとすぐに「おんぶして!!」と言い
小学生の女の子もぎゅっと手を握ったまま、体をくっつけて離しません。
体の大きな男の子たちも、おんぶや抱っこをしてほしいと言ってきました。
初めて会った私たちに甘えてくる姿を見て、
まだ地震の時や津波の話は一言も口にしませんでしたが、
「ああ、辛かっただろうな。怖い思いをしているんだな。」と
握った手の温度を体で感じて、本当に胸がいっぱいになりました。
子ども達の目には、何よりもサッカーボールが気になったらしく
「わぁ!!サッカーボールだー!!」と顔の表情が一気に明るくなりました。
それまで、カードゲームをしていた子ども達も、
その騒ぎに気がつき
一斉に私たちの方に走ってきました。
「サッカーやりたいサッカーやりたい!!」
ボールをネットから出しながら、子ども達は嬉しそうにそう言いました。
数人の女の子は、「私折り紙がいい。」と言ってすぐ近くで折り紙をしましたが、
それ以外の子どもでボール遊びを始めることにしました。
その頃には、無理に元気を出さなくていいから、少しでも楽しんでくれたらいいなという思いでいっぱいになっていました。
ボールを蹴りながらも時々思い出したかのように手をつなぎたがり、近くに私たち大人がいることで安心している様子でした。
保育士仲間と一緒に遊びのコーディネート役になり、
まずは簡単にできる的あて遊び、
そしてPK合戦をしたり、
最終的には二つのチームに分かれてミニゲームをしました。
子ども達に好きなチーム名を付けてもらうと、あるチームの女の子が「スマイルって言う名前がいいんじゃない。」と、
ステキな意見を出してくれました。
ミニゲームでは、ボランティアに行った私たち大人も加わり、手を抜かないで本気のサッカーをしました。大人が本気でやってもなかなか点が入らず、小さな女の子のシュートがゴールに入った瞬間、両手を挙げて味方でない私たちのところに走ってきてくれました。
女の子のまわりには友達も集まりハイタッチ!!
とても良い誇らしげな表情でした。
ほんの少し前に初めて出会ったと思えないほど、
保育士と子どもたちは仲良くなっていました。
岩手県はまだ、ダッフルコートを着ていないと寒いほどでしたが、
サッカーをしている時にはみんな気持ちよさそうに汗をかきました。
楽しい遊びの最中、時々子ども達の口から
ドキッとするような言葉が出てきました。
一生懸命ボールを追いかけていた子どもに
「よくボールに間に合ったね!!すごかったよ。」と
言葉をかけると、
「あのね、足が遅いと津波が来た時に助からないんだよ。」
そう言い返しました。
子ども達と遊んでいる中で、初めて津波という言葉が出ました。
また、「サッカーして暑くなったね。」という話をしている時にも、
「私のお家流されちゃったから、ハーフパンツのお着替えも体育館履きもないんだよ。」
そう言って明るく話す女の子。
また、親族を亡くしている子どもも大勢いました。
決して悲しい話ばかりをしているわけではありません。楽しい会話のほんの一部に津波や地震の体験が織り交ざっていました。
小さな子ども達が、2ヶ月間、どんな思いで過ごしてきたのかと思うと、
心が痛くなりました。子ども達の心にどれほど深い傷ができてしまったのか、きっと長期的に精神的な面でのケアが必要でしょう。
子ども達は「イナズマイレブン」というサッカーがテーマのアニメが大好きで、
「俺はえんどうまもる!!」など、役になりきってボールを蹴ったり、
主題歌をみんなで口ずさみながら遊んでいました。
避難所にいる子ども達全員が、同じ小学校や保育園出身ではありません。
すごく仲良く見えた子ども同士でも、
聞くと「ここでお友達になった。」とのことでした。
私が「Jリーグって知ってる?」
と子ども達に聞くと
「知ってる。ベガルタ仙台!!」「モンテディオ」「カズ!!」と答えが返ってきました。
カズさんはやはり、みんなのヒーローみたいです。
そういえば、地元の方の車にはFリーグのステラミーゴ岩手花巻のステッカーが貼ってありました。
「ヴァンフォーレ甲府って知ってる?お姉ちゃんは、そのチームを応援しているんだよ。」
と聞くと
「知らない。けど今度覚えとくね。」という嬉しい返事でした。
サッカーという同じ体験をして、話題で盛り上がる子ども達の笑顔は本当に輝いていました。
何試合もミニゲームをしても、
「もっとやりたい!!」と繰り返し繰り返し遊び
子ども達の勢いは止まりませんでした。
「実は地震が来る前までサッカーやってたんだ。」という男の子は、裸足で上手にドリブルしながら、フェイントを見せてくれました。
「上手だね。」と私が声をかけると「今は練習してないけど本当はもっとできるんだ。」と恥ずかしそうに笑っていました。
全力でボールを追いかけ続けて、
「ちょっと休憩しようよー。」とついに弱音を言い出したのは大人の私たちの方でした。
子ども達は本当に楽しそうにサッカーをしていて、その姿を見守る避難所の大人の方々もとても嬉しそうに見えました。
サッカーボールを囲んでのふれあいの時間は、笑顔であふれていました。
次の避難所に行く時間になり、子ども達に「帰るね。」と伝えると、
「また明日も一緒にサッカーしようよ。」と子どもの方から言ってくれました。
ボランティアセンターの方にお願いをして、また次の日も同じ場所に行ってもよいことになりました。
「今日はどうもありがとう。また明日サッカーの続きやろうね。」
私たちは子ども達にお礼を言って避難所を後にしました。
「お姉ちゃん。私、地震以来こんなに運動したことがなかったよ、楽しかった。」
帰り際の女の子の一言に、いろいろな思いがつまっていることを感じ、
その言葉は、次の避難所へと移動するバスの中でもずっと忘れられませんでした。
バスが釜石市に入る頃、ガラッと窓から見える景色が変わりました。
バスに乗っていた誰もが「あ」と思い、息をのみました。
津波で被害にあわれた地域にバスが入ったのです。
テレビでは似たような光景は目にしたことはあったはずなのに、
現実はまったくあんなものではなくて、
本当にそれ以上の被害でした。
360度、どこを見ても瓦礫の山になってしまった街。
隣の席の仲間に何か話しかけたくて、
口を開こうとしても声にならない。
お互いに顔を見れば、誰の顔にも涙があふれていました。
2ヶ月が経ってもまだ、あの日と同じままの時がそっと止まっていました。
私が住んでいる街と似たような作りの街だったのかな、
土台だけになった家の跡地からそんなことを考えました。
私たちが生活している街と、同じような街がそっくり消えている。
横転したたくさんのつぶれた車、岩、ボート、電信柱・・・
海のものも山のものも、そして人々の生活も、
すべて津波が奪い去っていったのだと、残ったものを見て
その勢いを想像させられました。
大切な家も職場も、瓦礫に変わってしまいました。
1つ1つの家の跡地をよく見てみると、
ホームセンターや銀行、学校や郵便局があった場所だと
分かることもあります。
ある家には車や船が突き刺さっていました。
また、ある家には赤ちゃんをあやすガラガラ、DS、学校で使っていた
メロディオン、靴、座布団、トロフィー・・・
そしてサッカーボールもありました。
日常が流された跡が、はっきりと残されたままでした。
瓦礫の山には赤い旗がたくさん立っています。
遺体発見場所とお聞きしました。
どこまでもどこまでも一面に続く赤い旗。
それぞれの家庭、それぞれの人生があったことを思うと
残された家族のことを思うと
簡単な言葉では言い表せなくて、
自分に置き換えて考えることはできませんでした。
本当に一瞬の出来事だったのだろうと思い、悔しい気持ちになりました。
大きな瓦礫の山の上には、カモメがたくさん飛んでいました。
ここは海沿いなんだと、すっかり忘れていた私は我にかえりました。
カモメは勢いよく飛び回り、鳴き声が悲しくきこえました。
残された家のお庭から、水仙やいろいろな花の芽が出てきていました。
震災から二ヶ月、街の時間は止まったままでも
草花の姿から時の流れを感じました。
( 長田 )
保育士として被災地に行くことには、何か使命のようなものを
感じていました。
「先生、地震怖いよ。」と震えて泣いていた、
保育園の子どもたちを思い出していました。
大人の私たちも不安なんだから、現地の子どもたちは
一体どんな思いでいるんだろう。
そういう気持ちで、岩手県行きのバスに乗り込みました。
寝袋と、宿泊のための荷物、そして大切なサッカーボールと共に。
バスが山梨県を出発すると、いつもの街が静かに私たちを見送って
くれました。計画停電も生活用品がお店から消えることもなくなり、
山梨県はとても平穏だと感じました。
高速道路を走るバスの窓から見える景色が
少しずつ変化し始めたのは、茨城県に入った頃でした。
道路がひび割れている箇所があり、道がガタガタしている箇所も
ありました。
これからむかう先がどうなっているのか、
実際に自分がそこに行くまでは、想像しても頭に浮かぶのはテレビで見た
映像だけでした。
バスが岩手県花巻市に入ると、
とてものどかですばらしく美しい自然が広がりました。
私は宮沢賢治が好きなので、以前この地を旅したことがありました。
その時のにおいと同じ、イーハトーブの野山の香りがしました。
どこまでも続く緑の山々、そして草原。
黄色の水仙やまだ咲き始めたばかりの桜が
岩手県にやっと来た春を物語っていました。
もう少し進むと遠野市
ここまで来ると、ところどころに
「支援ありがとう!!」
「顔晴ろう岩手」
「自衛隊さんありがとう」
「けっぱれ岩手」などの横断幕が掲げられていました。
そして自衛隊の車とすれ違うことが多くなり、
バス内も少し緊張した空気になりました。
( 長田 )
3.11の地震を私自身山梨県の勤務先の保育園にいて経験をし、
とても震度5強の揺れを感じ怖い思いをしました。
勤務先の保育園ではちょうどお昼寝から子どもたちを起こすところでした。
子どもの命を守らなければ、と激しい揺れの恐怖の中で
保育士みんなで園児たちを避難させていました。
それと同時に浮かんだのが、家族の顔・仲間の顔・・・
みんな無事かな、大丈夫かなという不安な気持ちでいっぱいでした。
停電になってしまった暗い保育園で、最後の園児のお迎えを
懐中電灯の灯りの下でみんなで待ちました。
その時にはまだ、私たちには日本で何が起こったのか理解できて
いませんでした。
自宅に戻ってもやはり停電で、ラジオから流れてくるニュースで
日本が地震や津波の大きな被害を受けたことを知りました。
翌朝映像で被害の様子を見たときのショックは本当に大きく、
日本が本当に心配でした。
それからしばらくは計画停電や余震が続く日々の中
Jリーグも中断する事態になり、
テレビでは、毎日のように被災地の様子が映し出されました。
保育園の子どもたちは、大人の不安を敏感に感じ取っていたのだろうか、
少し情緒不安定になっていました。
もちろん保護者の方も同じでした。
私はサポーターとして、アウェイの試合にもお世話になっているので
被災地のサポーターやサッカー場のこともとても気になりました。
また、実際に被災地に住む知り合いからの情報を聞いたり
家族や親戚の方が行方不明になっていたり、
自宅が倒壊したり。
毎日毎日眠れないほど考えていた。
もし、自分や自分の家族や友人、
大切な人が被害の大きな場所に
住んでいたら、辛い思いをしていたら・・・
自分はその時どうするだろう。
自分が住んでいる山梨にいても怖い思いをしているのに、
被災地の方は、子どもは
どんな思いで過ごしているのだろう。
そして今
この状況になった日本に対して
自分に何ができるのか。
そればかり考えるようになりました。
東北地方で保育士をしている友人から
避難所に日用品は増えてきたが、
子どもが遊べるようなものが少ないという
話を聞きました。
子どもたちが思い切り体を動かして遊ぶことができたら、
少し笑顔が戻るのではないか。
また、誰かと遊んだり、話したりする中で
心が少しでも楽になれば・・・
そう思いました。
ちょうどその頃、職場の上司から
「保育士」として被災地に行ってできることがある。
という話があり、これが私のできることだ、と
答えが出ました。
保育士という立場でこの震災に自分が直接関わることができるので
あれば、自分が現地に行くことは当たり前だと思いました。
被災地に行って何ができるかと考えた時に
まず、子どもたちに会いたい、話したい
一緒に遊びたいと思いました。
そして、サッカーボールや遊ぶものを届けたいと・・・。
(私の思いに賛同してくださり、サッカーボールや絵本が集まりました。
本当にご協力してくださりありがとうございました。)
もちろん不安はたくさんありました。
福島原発の問題は解決しておらず
大きな余震も続いていました。
でも、今できることはしておきたいという思いと
ボランティアに行くことを応援してくれた
多くの方のおかげで前を見ることができました。
【現地に行って真実を知ろう】
日本という国に住む仲間のところに今すぐ駆けつけたい。
それがすべてのはじまりでした。
( 長田 )
なかなか頭の整理がつかずにいました。
そして出た結論は、整理せずありのまま感じたことや思ったこと、起きた出来事を伝えようということになりました。
悲しい出来事から目をそむけないで【伝える】という役割をやりきりたいと思います。
少し長くなりますが、この文章を呼んでくださる皆様が何か感じ、少しでも日本の仲間のためになればと思います。
( 長田 )
被災地に届けるサッカーボール集めにご協力いただきありがとうございました。
集まったものの報告をいたします。
★サッカーボール 195個
★空気入れ 10個
★ボールを入れるネット 4個
(2011・4・29時点)
皆様からいただいたサッカーボール等は、
現地の子育て支援課等と連絡を取り合い子どもたちのもとに届けます。
5/2~5/5の間、保育士としてボランティアに行ってきます。
当初は仙台市に行く予定でしたが、岩手県釜石市の避難所に行くことに変更になりました。
山梨県NPO法人災害・防災ボランティアの担当の方より、釜石市ボランティアセンターに連絡を取り【子育て広場】の実施予定です。
帰ってきましたらまた改めて報告をさせていただきます。
(長田)
先日のヴァンフォーレ甲府ホームゲーム神戸戦では
雨の中、被災地に届けるサッカーボール集めにご協力いただき
ありがとうございました。
皆様方のあたたかいお気持ちを本当に嬉しく思います。
現時点で集まっているものの報告をいたします。
★サッカーボール 73個
★空気入れ 7個
★ボールを入れるネット 3個
(2011・4・24時点)
皆様からいただいたサッカーボール等は、
27日Blue cafeで集まったものと合わせて
被災地に届ける予定です。
引き続きご協力よろしくお願いいたします。
先日4月16日
「サッカーを愛する人にできること-Football saves Japan-」主催
ボランティア遠征バスによる復興支援活動に参加してきました。
担当した支援内容は、
被災地域での家屋の片づけや掃除、泥だし、家財の運び出し、瓦礫(がれき)の撤去、など。
主に宮城県仙台市宮城野区岡田公民館の施設内をJリーグサポーター連合軍として協力し合い清掃しました。
感想は、テレビで見る映像以上にひどく、惨状が目に焼きつきました。
行ってみなければわからないことが多々ありました。
(ボランティア活動を行った場所の様子)
人手がまだまだ必要だということも。
一度限りではなく、継続的に支援活動を続けていく必要性を強く感じました。
(隆平)
東日本大震災から1ヶ月が過ぎました。
まだまだ余震があり不安はありますが、私たちの日常は動いています。
テレビで震災を取り上げることも少しずつ減り、
被災地の様子もリアルタイムではわからなくなってきました。
忘れずにいることや現状を知ることも大切だと思います。
『現状を知る』ということで、5/2から私も少しの間ですが
保育士ボランティアとして被災地に行くことにしました。
現地に行かなければわからないことが、たくさんあると思います。
行くからには子どもたちのために、少しでも何かできればと思っています。
もし、サッカーボールがあれば…遊んだり、仲間と体を動かすことで笑顔を取り戻すことができるのでは…。
サッカーボールはもしかしたら子どもだけでなくて高校生や大人も必要としているかもしれません。
今まで私はサッカーのサポーターとして生きてきました。
サッカーのおかげでいろいろな方と出会っていろいろなことを学びました。
大好きなサッカーから幸せをたくさんもらったので、1つのボールがきっかけで、
子どもが(もちろん大人も)笑顔になってくれたら嬉しいです。
お世話になっている、サッカーを通じて支援を続けたいです。
そこで、山梨県に住む多くの人に声をかけてサッカーボールを集めようと思いました。
サッカーボール(空気入れ)をぜひ寄付していただけるようなら、下記の日程で受け取ります。
※今回集めるのは現地で使用可能なボールということでお願いいたします。
集めるもの:サッカーボール、空気入れ
日時:4月27日 (水) 20:00~23:00
場所:blue cafe(住所:甲府市中町94-5℡:055-244-1124)
支援仲間たちが着ているチャリティーTシャツを販売いたします
・取り扱い店 Blue cafe
・価格 3,000円(もちろん収益は募金となります)
数量に限りがございます。お急ぎください!
胸には 山梨から愛をこめて
甲府サポーターのシンボル、♂マーク指す場所は、東北地方です
山梨から愛を被災地へと送りましょう!
ピッチには夢のようなメンバーがチームを作り本気で戦い、カズは自分にボールが来ることを信じて走り込んでいた
フットボールが好きで良かった
フットボールを好きな人達がこんな人達で良かった
そんなことを本当に思わせる試合だった
あそこにいた全ての人達が造り上げた現実の空間
忘れることはないと思う
過去に振り返ることは出来ても
戻ることは出来ない
だから忘れられない色んな感情が湧き出てくる
現実を受け止め、未来を作り出していくということしか出来ない
いずれ自分達が「震災を知る世代」になる
そうなった時に甲府の試合を観ながら「あの時は・・・」と昔話のように話せる時代が来ることを信じている
( 窪田 )
SAMURAIBLUE(日本代表) vs Jリーグ TEAM AS ONE
サポーターが歌う選手入場曲はカントリーロード
ベガルタ仙台サポーターが選手入場時に歌う応援歌
いつもと違うスタジムの雰囲気
無数貼られた応援幕は、いつもの日本代表を応援するものは少なく
普段各Jリーグのスタジアムに貼られいた、見慣れた物が多く貼られていた
各Jリーグサポーター間でも支援の輪は広がっている
震災直後から、ゴール裏を中心とした各チームの応援団体が連絡を取り合い
支援活動について何かできないかと行動を開始している
http://dekirukoto-football.jp/index.php
サッカーを通じて知り合い繋がったサッカーファミリーの輪
この試合では、各チームのサポーターが普段使用している応援幕を貼ろうという呼びかけがあった
実は甲府からも応援幕を持ち込み貼ってあったのですが、気づきましたか?
サッカーを愛する人にできること
サポサポ
http://www.saposapo.jp/report/016/
フリマ主催 モグラハウス様
http://blog.mogurahouse.com/?day=20110327
山梨放送の前田アナウンサーも会社から離れ、個人的に手伝いに来てくださいました。
【チャリティーTシャツの告知】
支援仲間が着ているチャリティーTシャツの販売(完売)も行いました
Blue cafe にて追加販売予定 3,000円(もちろん収益は募金となります)
現在、増産中。発売は再度告知いたします。
フリマ当日に向けて、たくさんの方々からの物品提供をいただき、売り場は所狭しと商品が並びました。
その数なんと、120点以上(笑)
本当にありがとうございます!
告知を聞いて足を運んでくれた方、当日の会場で主旨に賛同し購入、募金頂いた方、ヴァンフォーレの練習マッチの途中に駆けつけて頂いた方等、たくさんのご協力を頂戴し、物品の9割を義援金に換える事が出来ました。
途中に開催されたチャリティーオークションにYBSアナウンサーの前田さんの参加が急きょ決まり、会場を盛り上げていただきました!
我々サポーターが出来る事、それは本当に小さな力にしかなれませんが、協力頂いたみなさんと気持ちを一つにして、被災された方々のお役に立ちたいとの思いで実施いたしました。
義援金合計:¥287,732
義援金はヴァンフォーレ甲府からJリーグを通し、日本赤十字に寄付されます。
今回、甲府サポーターの支援活動の主旨をご理解・ご協力いただきましたモグラハウス様、ありがとうございました!
6/26(土)に第2段を計画しておりますので、よろしくお願いします!
(Blue cafe 北原)