御影町誌(昭和11年)にも、少し記述がありましたので、まずそれをご紹介。

「御影町誌」第十編 名所・旧跡
七、平野城趾(旧字体を常用漢字に変換する)
 摂津誌に「御影村城観応中平野氏拠焉」とある。観応というのは北朝の年号で、南朝、後村上天皇の正平年間に当る。平野氏とあるのは備前守平野忠勝である。城趾と伝ふるは、平野村の高岳に拠り、後に弓弦尾(郡家弓弦羽神社背後の山をいふ)の山脈低れ、西北に石屋川を帯び東北に弓状の小川を控へ、其の間に城を構えたといふ。郡家の平野・土井・中西の三家は平野忠勝の後裔であるといふ。

 弓弦尾の山が今の弓弦羽神社及び香雪美術館と村山邸から北西側に広がっていたのなら記述が合うのですが。平野村の高台となると矢張り今の御影北小・大林本邸当たりのイメージになります。観應元年は1350年、この年徒然草の吉田兼好没。後醍醐天皇は在位1318~1340。南北朝時代。別資料では平野代築城は1346となっていますので。澤の井の水で酒を作って後醍醐天皇に献上した頃と合致します。平野氏が城を造り、嘉納氏が酒を作っていたのですね。
とにかく、Google earth からDLした現在の航空写真に、字限図を重ね合わせてみました。航空写真も字限図も歪んでいますので上手く重ね合わせは出来ませんが、無理矢理あわせればこんな感じです。

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 前記事にもご説明した平野城推定位置は、図の黄色い○で囲った平野、上之山、岸本。そして滝ケ鼻、城之前が平野城の南及び東に面した字。御影北小学校及びその北の墓地の西を流れる新田川が、西の境界。北は深田池当たりでしょうか。