2009年10月17日
湯崎稔教授のメッセージ
私は、広島大学での大学院(修士課程)の時代、湯崎稔教授に修論指導をいただきました。湯崎先生は、もともとは家族社会学の専門家。家族の絆、社会の絆に焦点を当て、その社会における役割を研究されていました。湯崎先生は、広島大学の原爆放射能医学研究所(原医研)に勤め、社会学の立場から被爆者問題の研究に携わりました。なんといっても、湯崎教授の業績の筆頭は、爆心地復元運動です。NHKとも共同して、原爆で完全に破壊された爆心地に誰が住んでいて、何をしていたのかを復元するという大プロジェクトです。原医研の所長であった志水清先生らとともに、この大プロジェクトに携わられ、被爆者の話の聞き取りと写真などの資料の収集、それらの照合の作業にあたられました。驚くほど几帳面な性格で、コンピュータもない時代に膨大なデータを一つ一つ整理されていきました。
爆心地復元の意味は何か。原爆によって奪われた人間性の復元だ、と湯崎先生は言われていました。単に住所のリストの復活ではない、人間の絆の復活なのだ、というのです。爆心地復元の運動の過程で、集まった被爆者が涙を流しながら、再開を喜び、当時を振り返る姿を見ながら、壊された人間の絆を復元する作業なのだ、と思ったといわれていました。湯崎先生の伝えたかったメッセージは、失われた人間の絆の復興こそが、これからの時代に必要なのだ、ということなのではなかったかと思います。私に原爆孤児の研究をすすめたのも、原爆孤児の問題が最も人間の絆の問題を提起するからだと思っています。
こうした業績は『世紀を超えて 爆心地復元運動とヒロシマの思想』(中国新聞社:編著児玉)の中に収めてあります。
研究だけでなく様々な活動においても「人間の絆」を大切にする先生でした。広島の平和運動は、世界的な注目を浴びながらも、個々が主張するだけで、まとまりがないという状態でした。その中にあって、人と人とを結び、一つの活動体としてまとめる作業も地道に行われました。焼き肉ややおでん屋で酒を飲みながら、ということも多く、それも若くしてお亡くなりになった一因でもあったでしょう。もう少し長く活動してもらえたら、多くのことが新たな展開をしていただろう、と悔やまれます。
私も先生の行きつけのおでん屋「たぬき」で人生の講義をよく受けました。大学での講義は、あまり慣れてられないようでしたが、流川へ行くと、ホームグランドで平和について、原爆について、人生について、多くを語られました。その流川での講義が、今の私の発想の中に多く入っています。マジョリティに埋もれることなく、しかし、シニカルに批判的な視点にとどまるのでもなく、自分の信念を建設的に貫く発想と態度は尊敬します。12月8日には必ず、広島でパールハーバーを考える会を開かれました。私が学生らを10人くらい呼びかけ、小さな会合を持っていました。「数ではない。小さくても広島でパールハーバーを考える会を持つことが重要なのだ」と繰り返していらっしゃいました。思い込んだらこだわり、決して曲げないというちょっと頑固な一面もあり、それが一流の業績に繋がったのでしょう。
湯崎先生は私のスウェーデンへの留学をアレンジしてくださり、(というか、湯崎先生の意向で留学となったといっていいのですが)、私がスウェーデン・ルンド市に到着した30分後にお亡くなりになりました。到着の電話を日本にしたとき、湯崎先生の他界を知り、呆然としながら一日中ルンド市を歩き回ったことを覚えています。
今、広島では広島県知事選が行われようとしています。湯崎先生の御子息の湯崎英彦氏も立候補を表明されています。柔軟でソフトな中にも信念を感じさせる方です。こうしたところはお父様にも通じるところがあるのかもしれません。広島県を取り巻く環境は厳しく、しっかりとした戦略と強い意志が必要です。人間の絆を生涯のテーマとされたお父様の生き方を、県政というなかで活かすことができるのかどうか。私も特別な関心を持って広島県知事選を見守っています。
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