「早朝から冷雨。気温は10度C、クリスマス頃の気温とか」--いえ、今日の話ではありません。
 「新潮45」12月号に掲載された野坂昭如さんの「だまし庵日記」、11月某日とされた最後の日の記述、いや口述の書き出しです。
 そのまま「今、年寄りは病院で死ぬのが一般的となり…。かつて家で死に水をとっていたころに比べると、近しい者も、死でさえもあやふやになってしまった。死を身近にしなくなったことで送る側にとっても生から死への転換が判りにくくなり、生への確かめもまた同様、うすれつつあるようだ」と結んで、この月の日記を閉じている。
 野坂さんは幸いというか、自宅のベッドの上で亡くなられたようで、「生から死への転換」を看取られるという風ではなかったにしろ、ある意味、望みどおりの死だったのではないでしょうか?

 僕が同時代人として、同じ船に乗り合わせてよかったと思う人が、これで全て亡くなられた。 全くつまらなくなった月刊誌なのに、唯一買っていたのが「新潮45」です。それもこれも野坂さんのほんのりとした、わずか見開きページ分のこの「日記」を読みたいがためでした。これを読んで「生への確かめ」をしていたのかもしれません。もしかしたら、それは「時代」という名の「生」だったのかも知れないけれど…。

 といっても、彼の作品群を思い出すと、そんなに重苦しい話じゃなくて、一番好きだったのは、というか一番初めに読んだのが「エロ事師たち」だったですね。あの「うさん臭さ」の世界に、引きづり込まれてゆくような、どこまでも途切れない文章の連続に浸ることで、当時居直らなきゃ生きていけないというような投げやりな気分だったのか、それがまさに活力だったのか? そんな心の流れを思い出します。

 なんて感傷に浸っていたら、訃報がもうひとつ。三菱重工の元常務さんというより、船舶海洋事業本部長だった宮崎晃さんが7日に亡くなられた、と海事プレスさんが報じていました。
 いつ頃だったかなあ? 船舶部門のエースとして登場して、業界の取りまとめやら船舶部門の立て直しに力を発揮して、このひとこそ重工の副社長そして…、と期待された方だったのに、結局。つまり80年代初めまでずっと造船部門、それも長崎出身者の社長が続いていたのが造船部門の栄光の歴史だったわけですが、宮崎さんの頃には副社長にすら上がれなくなっていた。久しぶりの…、だった人なんですけどね。

 この会社は、事業所間のライバル意識が強いんですが、この人を押し上げようと、若い人が協力しようとしていたのを思い出しますね。設計上がりで常務さんになられたのも異色でしたが、結局だめでした。つまり造船事業がすでに往時の輝きを失っていた、ということを思い知る出来事だったのかもしれません。
 
 このあと、長崎の船舶部門出身者は、造船所長にすらなれなくなって行き、現場で優秀、なんて言われていた人がひとり去り、二人去り、なんて感じだったのを覚えています。
 今思えば、三菱の船舶部隊が最後の戦いを挑んだ時だったのかもしれませんねえ。

 でもなんなんでしょうかね。記事を追ってゆくと、野坂さんも宮崎さんも84歳で亡くなられたようですね。
 実は僕も84歳頃に死ぬのではと、ぼんやりと思い始めていたところです。それが、なんか確信に代わって来たですね。

 って、今日お読みいただいた方、的外れな話で、申し訳ありませんでした。明日からはまた…。