2006年11月12日

就活と日経

CH−K編集部 伊藤 圭一

 「就活」の季節らしい。紺のスーツが不似合いな若者達が小脇に抱えているのは「日本経済新聞」だ。どの会社の入社面接でも「どんな新聞を読んでますか?」という質問に、多くの人が「日経」と答えるらしい。
 
 ある日の日経の見出し。「日清、明星と資本提携交渉 友好的TOB視野」。「特区、来年度以降も存続」「NT倍率が上昇」−。「日清、明星」はTOBの意味を知っていれば素直に分かる。「特区」は構造改革特区という言葉を知らなければ理解することは難しい。「NT倍率」となると判じ物である。
 
 個人的な感覚では、日本で一番難しい新聞が日経だ。朝刊の44ページを読んで、ちゃんと理解できるのは半分だろうか。もちろん勉強不足のせいもある。だが、就活に立ち向かう若者がこの難関新聞にチャレンジするのはなぜだろう。
 
 就職情報産業のリクルートに勤める人は「日経を読みこなして、仕事に役立てたいという若い世代は多い。でも、実際は無理ですよね。原付バイクに乗っていた人が、急にF1に出場するようなものです。あこがれ、かな」と分析する。ブランド、ファッションという言葉に通じるものがあるのかもしれない。

 さて、土曜日の夕方、会社のデスクでNHKをながめていた。「週刊こどもニュース」の時間だ。5人家族がお父さんのリードで今週のニュースを振り返る番組だが、同僚が言った。「このつくりはすごいよね。背景をきっちり調べて理解してないと、こんな分かりやすい説明はできない」。たしかに生半可に理解していたニュースが「なるほど、そういうことだったんだ」と理解できることが多い。就職の面接で「どんなニュースソースを使っていますか?」と聞かれたら「週刊こどもニュースです」と答えてみるのも一手かもしれない。


2006年09月28日

「江戸の性愛術」

CH−K編集部 伊藤 圭一

 社内を歩いていると、他のセクションの同僚と会う。大抵は「よう」とか「元気?」程度のあいさつだったり、無言で張り出してきた腹部を差しつ差されつする程度のオヤジコミュニケーションなのだが、エレベーターの中では、短い会話が成立する。
 
 その中で多いのが「あのコラムどうした?」「やめちゃうのか?」などという指摘である。「いろいろあってね、再考中だよ」と答えているのだが、結構社内読者も多いらしい。確かにこの数カ月、完全に停滞している。理由はいろいろあるのだが、主たるものは私の怠惰であることは間違いない。
 
 この間、広島、長崎の原爆記念日や、子どもの犯罪、それに首相の交代など、題材として書きたいと思うニュースが飛び交ったのだが、プライベートでは本を読むことが多かった。その中の一冊が「江戸の性愛術」( 渡辺 信一郎・ 新潮社)である。
 
 この本は、伊予道後の遊女屋の主人が代々残した門外不出の『おさめかまいじょう』という性愛指南書を現代語訳し解説を加えたものだ。男を篭絡する術や放縦な要求への対処法などが書かれた当時の実用書である。「性的な興味なく購入した」とは言わないが、読後感はセクシャルな感じからはほど遠いものだった。
 
 その理由は「おさめかまいじょう」を貫く「遊女をきちんと管理し、ちゃんと年季を明けさせ、健康な身体で卒業させてやろう」という理念なのだろう。例えば書は具体的な対処法を述べる前に、経営意識を振る。「仕事の繁盛は遊女の年季を早く済ませることにつながるのだから、短時間で客を喜ばせる術はちゃんと体得させなければならない」とか「昼間大勢の客を取った遊女には、夜は身体を休められる泊まり客を当てるべきだ」などだ。プロフェッショナルな自負とある種のヒューマニティーが伝わる。
 
 もちろん、売春は近代法が排除した行為である。現代の日本には遊女屋はない。しかし街に売春、回春の情報は飛び交っているのも事実である。その現代のシーンで、これほどまでに「遊女」のことを気遣ったマネージメントが行われているのかどうか、とも思った。
 
 なお、著者は既に鬼籍に入られている。現役時代のご職業は高校の校長とあった。
 


2006年07月21日

記者倫理綱領とブログ

CH−K編集部 伊藤 圭一

 前回、産経新聞のニュースブログサイト「イザ!」について触れたが、その後、先方におじゃまして、担当者の話を聞いてきた。忘れないうちに少し日記にしておこう。
 
 「イザ!」を運営しているのは別会社の「産経デジタル」。サイトの構成を担当しているのは約20人程度、スタートから約1カ月で、数千人が会員登録した。現在の収益構造は広告モデルだけだが、今後は段階的に新しい収入の仕組みを考えていくということだ。
 
 興味があったのは産経新聞記者60人が書く「記者ブログ」の作り方だったが、基本的にはノーデスク、つまり、原稿をチェックするデスク役は置いていないという。記者個人が責任を持ってブログを書くスタイルだ。
  
 「会社の看板を背負って書く」という前提の中で「ノーデスク」というのは、自由度は高い。でも、これはしごく当たり前のことなのかもしれない。担当者は「産経新聞社の記者倫理綱領に沿って書く、という前提があれば、問題はないという判断です」と説明していた。ライターの選任は、産経デジタルが産経新聞に依頼し、編集局が人選したという。
 
 なるほど、個人名で書くブログであれ「産経」の名前が冠されるのだから、自社の綱領に従う。ごく自然なルールだと感じたが、そこには、自社ライターへの信頼の深さもあるのだろう。
 
 さて、雑談の中で、ちょっと面白いことを聞いた。「イザ!」に開設される一般ブログについてである。「いまのところ、産経の社論や、『正論』などの論調に近い意見を持つ人々のブログが多い。もっと幅広い意見を持つユーザーに集まってもらいたい」。なるほど、そういう悩みもあるか……。
 
 


2006年07月17日

イザ! 産経新聞

CH−K編集部 伊藤 圭一

 「産経さんがブログ運営を始めたよ」というのは聞いていたのだが、今日始めてのぞいていみた。まだベータ版だが「イザ!」というのがタイトル。一般記事とブログをつなげている。コンテンツには約60人の記者ブログもあり、なかなか豪華だ。書き手がこれだけいると、視点もさまざま。筆者数人の当ブログと比べるのもせん無いことだが「さすが」というのが第一印象。会員登録すれば一般のブログサイトとして使える。

 「既存メディアの双方向性」が言われてから久しい。各メディアは「どうやってチャンネルを開いたらいいのか」「それに応じたメリットとリスクは?」などを検討し続けているが、時代はどんどん先に行ってしまう。ブログ先行社として足場を築いたのは神奈川新聞だったが、産経新聞の取り組みを見せられると、後発グループは「乗り遅れ感」をあおられるかもしれない。
 
 一般のブログも、報道機関の一次情報を参照しながら書かれるケースが大半。とすれば、一次情報の発信者がブログマーケットを開くのは、自然だろう。使い勝手がよければ、読者、ユーザーの「囲い込み」ができる可能性がある。
 
 しかし「イザ!」で「えっ?」と感じたのは、ブログとの連携ではない。驚いたのは「イザ語」だ。簡単に言えば、ニュース辞書。「ニュースなぜなに」とか、共同通信の商品で言えば「ズーム」というミニ解説を、産経新聞だけでなく、ブログユーザーみんなで作りましょう―という提案だ。
 
 イザ語辞典を開くと、現在登録数は約5000件。人名、商品名、事件、エンタメなどのジャンル分けがしてある。イザ!会員は、現在ある言葉の解説にプラスして書き込むこともできるし、新しい言葉を登録することができる。
 
 既にネットでは
「Wikipedia」というフリー辞書があり、20万を超えるキーワードが検索できる。ただ、こちらは、どこまで原典にあたっているのか、ちょっと不安も残る。一次情報の検証が得意な新聞社がWEB現代百科事典を取り込んだことに、慧眼を感じた。でも、どうやって原典検証をしていくのだろうか? 今度担当者に会ったらぜひ聞いてみようと思っている。
 
 


2006年07月14日

メールから漏れる思考

CH−K編集部 伊藤 圭一

 この半年、電子メールの送受信に「G−MAIL」を使うことが多くなった。Googleが提供する、無料のWEBメールである。まだ開発途中のベータ版で、一般公開されず「紹介者から紹介者へ」という形で広がっているが、インターネットにつながる環境にいれば、どのパソコンからも自分宛のメールが読め、返信ができ、さらに3ギガバイトのメールボックスの容量も備え、ボックス内のキーワード検索ができる。もちろん迷惑メールも排除してくれるし、一応ウイルスチェックも施してあるらしい。使い勝手はよい。
 
 今の世の中、多くの人が、複数のメールアドレスを持っているだろう。会社用、加入したプロバイダーから配られるメルアド、携帯用、その他ウェブメールなど、必要に応じてというか、迫られて取得せざるを得ない状態だ。これらを、G−MAILへ転送するようにしておけば、一括管理ができる。便利である。その便利さに引きずられて、メールライフもGoogle寄りになってしまう。
 
 ただ、このG−MAILには、当然キーワード広告が付いてくる。メール本文にあるキーワードを検索し、それに近い広告を付けてくる。例えばメールに「フラッシュ」という言葉が入っていれば「ストリーミング」に関する広告が付く。実は、メール本文で使っている「フラッシュ」は、マスメディア用語の「速報」のことなのだが、G−MAILはインターネット技術の「動画関連用語」としてとらえ「それならストリーミング配信にも興味がおありでしょう」と広告を付けてくれる。
 
 Googleは、サービスの説明で「プライバシーに配慮します」と宣言するが、メールを通じて、だれが、どんなキーワードを多用しているかは、Googleのサーバーに集積されていく。大げさに言えば、信書の秘密が犯されていると言ってもいいかもしれない。
 
 とはいえ、絶対に安全なメールもあり得ない。会社のメールは「私用に使われてはいないか」「社費の不正使用はないか」などの目的で、ある種のクリッピングが施されているのが常識だし、プロバイダーにしても、さらなるビジネスチャンス獲得のため加入者のメールをGoogle的な分析対象にするかもしれない。どれを選んでも、メールから個人の思考が漏れていくのは防げない。
 
 もはや、メールのない生活はあり得ない。とすると、どれを選ぶのかだけの問題である。ある社会学者は「それでも、まだ会社のメールの方がいいんじゃないの。情報を検索されているとしても、表の顔のある企業体がやれることは限られているし、検索目的も明確でしょう。相手が見えているだけに、信用できる部分も明確。でも、Googleはどうかな。なにに使われるのか分からない。所属する企業体とGoogleと、どちらを信頼するかと言えば、答えは明らか」と分析した。さて、あなたはどうします?
 
 
 


2006年07月08日

マスコミ不信−別の視点から

CH−K編集部 小池 新

 伊藤編集部員が書いた「マスコミ不信」に、批判的な書き込みがあった。このあたりが「編集日記」が対象とする問題の中心だろう。少し違う角度から割り込んでみたい。

 秋田県の小1男児殺害事件で逮捕された女性は、凶器とされた着物の腰ひもと軍手を自宅に残していたことについて、弁護士にこう言ったという。「マスコミが取り囲んでいて、(もし捨てたら)ごみを荒らされそうで捨てられなかった」。

 そうか…と考える。マスコミの人間はごみあさりをする人種と思われているのか。結果的には犯罪を裏付ける物証が保存されたわけだが…。

 たしかに、ああした状態では、各社とも必死で、デスクは「ごみをあされ」と指示するかもしれないし、現場の記者は、言われなくてもそうするかもしれない。僕ももしあそこにいれば、絶対しないとはいえない。

 なぜマスコミの人間がごみあさりをしなければならないのか―。問題の根本にあるのはマスコミ内部の競争原理であり、その前提である横並びの感覚だ。「真実の報道のためにはごみあさりも必要だ」という「建前」を支持する人もいるかもしれないが、多くの記者の本音はこうだろう。「ごみあさりなんてしたくないけど、ほかもやってるし、ネタになるかもしれないから、仕方がない」

 では、マスコミ情報の受け手である一般の人たちは、ごみあさりと、ごみあさりの結果、出てくるかもしれない情報をどう受け止めるのだろうか。ワイドショーなどを見ている範囲では、スキャンダル的情報を面白がる人々は相当数いる。その人たちは「ごみあさりなんて」と言う一方で、そこから出た情報には強い興味を示す。

 書き込みにあったように、マスコミ不信はマスコミが自ら招いたことだ。現在のマスコミに問題が多いことは否定しない。わずかずつでも改善できないか、内部の人間が真剣に考えなければならない。しかし、それでも言わせてもらいたい。問題なのは、マスコミだけではない。


2006年07月06日

マスコミ不信

CH−K編集部 伊藤 圭一

 

 先日、ある大学の講義にゲストスピーカーとして参加した。講義のテーマは「社会安全」。安全保障論とか、社会治安などの講義は目にするが、社会安全というのは初耳だ。教授は、警察庁の行政官として20年以上のキャリアを持つ現役の警視長で、現在大学に出向中だ。
 
 「ネット社会と安全」について感想を述べよ、というご指示だったが、まあ、このコラムなどを通じて、既存マスコミとネットの関係性を検証してきた経験を約100人の聴講者に話してみた。ゲストとしては、あまりよい成績を残せなかったのだが、その後、聴講生から多数の質問をもらった。
 
 「被害者のプライバシーはどう担保するのか」「社内検閲はあるのか」「記者クラブの情報独占をどう思うか」「わざと不正確に報道していないか」「自分が間違っていると感じないか」「2チャンネルは恐いライバルか」「マスコミは批判中心で、現状打開策がない」など。
 
 「プロ」の立場から言えば、ほぼすべての質問に対して、議論を経た回答が用意されている。一つひとつの質問には、なるべく理解を得られるよう、回答を送ったのだが、ただ一点、答えに窮する部分があった。それは、これらの質問の底流にある「マスコミ不信」へ、どう答えるかだ。
 
 既存マスコミは、社会正義や知る権利をスプリングボードにして事実に迫っていく。これはとても大切なことで、価値ある行為だと信じている。だが、それは、読者、読み手の共感を得て初めて成立する。もし、そこに不信感があったら、いくら素晴らしいジャーナリズム活動もぼやけてしまう。「不信」の払拭にはなにが必要か。また大きな問題を提議された。


2006年06月29日

W杯、もう1つの見方

CH-K編集部 小池 新

 サッカーワールドカップ(W杯)は決勝トーナメントがたけなわ。世界最高レベルの熱戦が続いている。試合を見ているうち、前から気になっていたことを考えてみた。

 今大会に出場した32チームをながめてみる。イングランド(イギリス)、オランダ、ポルトガル、イタリア、スペイン。世界史の授業のようになってしまうが、みなヨーロッパでかつて世界に覇を唱えた強国であり、海外に進出して植民地を獲得した。

 そして、ドイツ、フランスは近現代史の中で国家を膨張させ、イギリス、イタリアと並んで「帝国主義」による植民地競争をした国だ。

 一方、エクアドル、コスタリカ、パラグアイ、アルゼンチン、メキシコはスペインに侵略され、植民地となった。同様にブラジルとアンゴラはポルトガルの、コートジボアールとチュニジアはフランスの、ガーナはイギリスの、それぞれ植民地だった。トリニダード・トバゴはスペイン領から戦争の結果イギリス領に。トーゴは最初ドイツ領だったが、第1次世界大戦後、イギリスとフランスに分割統治された。

 こうして、世界史上の大国とその植民地だった国を数えると、それだけで19カ国に上る。これは何を意味するのだろう。

 サッカーが、発祥の地であるイギリスからヨーロッパに広がったばかりでなく、それぞれの国が植民地を得た後、その植民地の人々にも伝えられたということだろうが、そこには、収奪され差別された植民地の人々の不満を和らげようという、植民者の側の意図がありはしなかっただろうか。

 ボール1個と地面があればいいサッカーは「貧者のスポーツ」ともいえる。征服者から与えられたボールを追っていた植民地の子どもたちは、その後どうなったのか。沸き上がるW杯の熱気の陰に、彼らの歴史が透けて見える気がする。


2006年06月21日

「非国民」?

CH-K編集部 小池 新 

 ドイツで開催中のサッカーワールドカップ(W杯)は予選リーグも大詰め。クロアチア戦の引き分けで、日本の決勝トーナメント進出は極めて厳しくなった。

 日本国内の関心はかなり高く、テレビ視聴率は関東地区で平均52・7%。やきもきしながら見た人も多かったことだろう。そんな中で1つ、気になるニュースがあった。
 
 4年前のW杯でクロアチア代表チームのキャンプ地になった新潟県十日町市の市役所に「なんでクロアチアを応援するんだ」などの抗議電話が相次いだという。

 市の関係者は「困惑している」とコメント。それ以上のトラブルにはなりそうもないが、それにしても、抗議する人たちというのは、どんな神経か。

 前回のW杯をきっかけに交流が始まり、おととしの新潟県中越地震の際は、クロアチアから激励の手紙も届いたらしい。国際交流の在り方として望ましいし、十日町の人たちが心情的にクロアチアチームを応援するのは理解できる。日本との対戦になって「どちらを応援するか」「困ったなあ」と思うのは自然だ。

 「クロアチアをひいきして、日本を応援しないのはおかしい」と批判するのは「日本人なら日本を応援するのが当たり前だ」という考えが根底にあるのか。「非国民」とでも言いたいのだろうか。
 
 みんなが日本の応援に熱くなるのはいい。だが「みんなと違う言動」への批判や排除に結びつくのだとすれば、見過ごせない。


2006年06月12日

おわびかたがた…

CH−K編集部 小池 新

  前回が5月11日。先週会った高校以来の友達にも「おまえ、もう少し真面目に書けよ」と怒られた。サボっているつもりはないが、申し訳ない。

 村上ファンドの件や秋田の男児殺害事件など、書きたいと思うことはいろいろある。だが、どうも、気持ちが落ち着かず、書くことに踏み切れない。

 それは、ここ最近、自分の将来について考えていることと関係がある。サラリーマンの宿命である定年を、いやでも意識せざるを得ない、残りの年月になった。知人からも「いつなの?」と聞かれるようになった。

 前にも日記に書いたように、個人の勝手な思い込みで「いったんジャーナリストになった人間は(組織を離れても、気持ちの上では)死ぬまでジャーナリストなのではないか」と考えてきた。いや、考えようとしてきた、ということかもしれない。だから、組織を離れても、どんな形でも物書きとしてやっていきたい。その思いは変わらない。しかし、そのためにはどうすればいいのか。肩書は? 活動拠点は? 経済的な基盤は?

 こんなことも心配してしまう。「なんにも肩書のない名刺で仕事をする勇気が自分にあるだろうか?」。ばかばかしく聞こえるかもしれないが、正直、そういう不安が心の中のどこかにある。先日会った人が「大丈夫、大丈夫。何か、それらしい名前で組織の名刺を作れば、世の中それで通っちゃうものよ」と言ってくれた。そんなものだろうか、と思うのも、しょせん、組織の中だけで生きてきたジャーナリストの弱さなのか。

 このサイトが所属している共同通信のホームページも、この秋には抜本的な変更がある。この日記がどうなるか。それは今後の問題だが、社内外の情勢をみれば、現在のような、ほとんどフリーのブログ版はもうあり得ないように思える。そうなったら、そして組織を離れたら、自分はネットとどうかかわっていけばいいのか、とも考える。

 別に編集委員としての仕事が目の前にある。そうしたもろもろのことが渦巻いて、きちんと整理できない状態が続いている。今回は全く私的なことで申し訳ないが、おわびかたがた、心の近況を報告させてもらった。すみません。次はちゃんと書きます。