2006年09月28日
「江戸の性愛術」
CH−K編集部 伊藤 圭一
社内を歩いていると、他のセクションの同僚と会う。大抵は「よう」とか「元気?」程度のあいさつだったり、無言で張り出してきた腹部を差しつ差されつする程度のオヤジコミュニケーションなのだが、エレベーターの中では、短い会話が成立する。
その中で多いのが「あのコラムどうした?」「やめちゃうのか?」などという指摘である。「いろいろあってね、再考中だよ」と答えているのだが、結構社内読者も多いらしい。確かにこの数カ月、完全に停滞している。理由はいろいろあるのだが、主たるものは私の怠惰であることは間違いない。
この間、広島、長崎の原爆記念日や、子どもの犯罪、それに首相の交代など、題材として書きたいと思うニュースが飛び交ったのだが、プライベートでは本を読むことが多かった。その中の一冊が「江戸の性愛術」( 渡辺 信一郎・ 新潮社)である。
この本は、伊予道後の遊女屋の主人が代々残した門外不出の『おさめかまいじょう』という性愛指南書を現代語訳し解説を加えたものだ。男を篭絡する術や放縦な要求への対処法などが書かれた当時の実用書である。「性的な興味なく購入した」とは言わないが、読後感はセクシャルな感じからはほど遠いものだった。
その理由は「おさめかまいじょう」を貫く「遊女をきちんと管理し、ちゃんと年季を明けさせ、健康な身体で卒業させてやろう」という理念なのだろう。例えば書は具体的な対処法を述べる前に、経営意識を振る。「仕事の繁盛は遊女の年季を早く済ませることにつながるのだから、短時間で客を喜ばせる術はちゃんと体得させなければならない」とか「昼間大勢の客を取った遊女には、夜は身体を休められる泊まり客を当てるべきだ」などだ。プロフェッショナルな自負とある種のヒューマニティーが伝わる。
もちろん、売春は近代法が排除した行為である。現代の日本には遊女屋はない。しかし街に売春、回春の情報は飛び交っているのも事実である。その現代のシーンで、これほどまでに「遊女」のことを気遣ったマネージメントが行われているのかどうか、とも思った。
なお、著者は既に鬼籍に入られている。現役時代のご職業は高校の校長とあった。
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この記事へのコメント
勝海舟は、老年に入っても悪所通いをしたし、宮本武蔵は妻帯しなかったが、悪所の常連であり、悪所から戦地に赴いたという記録が残っているという。
一定の文化のルールの下において、また、当事者合意の上でも、一切の生理的欲望を処理するシステムが禁じられている日本の現状は、なんとも窮屈であると感じています。
世の中に褒められたことばかりでないのは仕方のないこと。褒められたことでないからといって、禁止してしまえというのは、なんとも乱暴であり、それが、別の事件を生み出す。
トラックバックされている事件などは、その種のものではないでしょうか。