日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

真実の日米開戦 隠蔽された近衛文麿の戦争責任 [ 倉山満 ]

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長野県軽井沢町・・・戦前、国民の人気が高いある政治家の別荘が残されています。
政財界の友人を招き、当時最先端だったゴルフに熱中していました。
別荘の主は近衛文麿・・・
昭和の初め、日本が戦争に突き進んだ時代に3度にわたって首相を務めました。
別荘に残されていた掛け軸・・・昭和19年、アメリカの戦いのさ中、認めた言葉です。
「度量数称勝」・・・国力で圧倒的に勝るアメリカに勝てない・・・そう思っていたであろう近衛文麿、どうして戦いを避けることができなかったのでしょうか?

昭和16年12月8日に始まった太平洋戦争・・・
そに8か月前、殊勝だった近衛は、アメリカとの関係改善を目指し、和平交渉を行っていました。
そこでまとめ上げたのが「日米諒解案」です。
両国の主張を盛り込んだだけの外交文書でしたが、その後の日米交渉の土台となりました。
しかし、この近衛の動きを真っ向から否定したのが外務大臣・松岡洋右でした。

松岡は第二次世界大戦下のヨーロッパで快進撃を続けるナチス・ドイツとの同盟を軸にアメリカに対抗する力の外交を進めました。
松岡を支持する国民の熱狂が、近衛を外交を狂わせ、外交交渉は暗礁に乗り上げてしまいます。
迫り来る開戦・・・近衛はルーズベルト大統領とのトップ会談に託しました。
外交と世論のはざまで揺れた近衛文麿、その選択とは・・・??

京都大徳寺・・・ここに近衛家代々の墓所があります。
近衛家は、藤原鎌足を祖先に持ち、代々歴代天皇に仕えてきた公家の名家です。
宮中の中で、代々文化面を司っていた家で、文麿も最初から政治の道についたわけではなく、華族としての立場で政治に関わっていました。
明治時代に作られた特権階級の華族。
その最高位侯爵だった近衛文麿は、大正5年、25歳で政界デビュー、貴族院議員となります。
当時から大衆の人気は高く、名家でありながら親しみやすい人柄で、政界の貴公子としてもてはやされました。
そんな近衛の言論が注目されるようになったのは、大正7年のことでした。
この年終わりを迎えた第一次世界大戦・・・
イギリス、アメリカを中心とする連合国が勝ち、英米主導の新しい国際秩序が築かれることとなりました。
この時、27歳の近衛の論文が議論を呼びます。

「英米本位の平和主義を排す」
英米は戦後の国際秩序を都合よく再編するつもりだ
豊富な天然資源を独占するなど、他国の発展を抑圧している
日本は正当なる生存権を主張し、それを貫徹すべきである

国際協調を掲げながら自国の利益を優先する英米を強く批判したのです。
そして大正から昭和へ・・・近衛が政治の舞台へと・・・!!
昭和恐慌・・・失業者が続出し、政治への国民の不満が高まります。
昭和6年9月満州事変勃発、満州国が誕生しました。
軍部の勢いは誰にも止められないものとなりました。
日本の行き詰まりは支配層の腐敗が原因だと考えた若者によって暗殺やテロが相次ぎます。
総理大臣が次々と変わる不安定な政局の中、新しいリーダーとして期待されたのは、当時貴族院議長だった近衛文麿でした。
昭和12年6月・・・近衛は45歳という若さで内閣総理大臣に就任します。
メディアはこぞって期待します。
”低迷する暗雲の中から一つの光が忽然として輝きだす”
しかし、組閣からわずか1か月で難局に直面します。
7月7日、盧溝橋事件・・・日中両軍が衝突します。
これをきっかけに日中戦争がはじまりました。
近衛は国民が一丸となって戦うように大演説を行い、ラジオや新聞を使って戦意高揚に・・・!!
日中戦争は拡大の一途をたどり、南京まで陥落!!
熱狂した人々は手旗や提灯をもって行進し、日本中が歓喜の渦に包まれました。
この世論の高揚が、近衛内閣に影響を及ぼすこととなります。
その頃、日本はドイツの仲介で、中国側と交渉していました。
相手は国民政府を率いる蒋介石でした。
しかし、戦勝に湧く世論に押され、交渉条件を釣り上げてしまいます。
それは、満州国の承認、賠償金の要求・・・中国側が容認しがたいものでした。
当時の外交の問題点は、ほぼ呑めないであろうモノを求めてしまった・・・その国際感覚のなさ、国内向けの政治を重視した外交でした。
国民の戦争熱を煽った場合、自分でも止められなくなって・・・外交的に妥協すべきところで妥協できなくなってしまったのです。
昭和13年1月、近衛は中国に対し、事後、国民政府を相手とせずと、自ら和平交渉を打ち切りました。

日中戦争がはじまって3か月後の昭和12年10月・・・
アメリカのルーズベルト大統領が演説を行いました。
「アメリカは戦争を憎む
 アメリカは平和を望む
 だからこそ、平和のために関与することを辞さない」
名指しこそしなかったものの、日本を強く批判したものでした。
当時、中国との貿易拡大を目論んでいたアメリカ・・・海軍の軍備増強に着手し、中国国民政府に援助物資をするなど、日本との対決姿勢を明確にしました。
日本では泥沼化する日中戦争に国民は厳しい統制下に置かれていました。
昭和14年1月、第一次近衛内閣総辞職。
外交方針を巡って閣内で対立したことが原因でした。

この年、ヨーロッパ情勢は激動を迎えていました。
昭和14年9月第二次世界大戦勃発。
ヒトラー率いるドイツがポーランドに侵攻、イギリス、フランスはドイツに宣戦し、戦いが始まりました。
ドイツはデンマーク、オランダ、フランスなど周辺諸国を次々と制圧し、ドイツの優勢をみたイタリアもドイツ側として参戦!!
東京荻窪にあった近衛の邸宅「荻外荘」
昭和15年7月、再び首相に推された近衛は、組閣に先立ち陸海軍大臣、外務大臣予定者を呼び、ドイツ・イタリアとの関係強化を決定します。
この時、外務大臣に任じられていたのが松岡洋右でした。
昭和8年日本は国際連盟脱退を通告。
松岡の演説は、世界を相手に物怖じしない姿に、国民は喝采を送りました。
オレゴン大学を卒業し、アメリカ痛を自負していた松岡、弁が立つと、軍部を押さえられる人材と近衛が抜擢したのです。
第2次近衛内閣発足2か月後、松岡が主導した外交が世界に衝撃を与えます。
昭和15年9月日独伊三国同盟締結。
松岡の狙いは三国の結束を誇示することでアメリカに対抗するというものでした。
この同盟には、近衛にも明確な狙いがありました。
アメリカとの衝突を避けること・・・!!

昭和9年・・・首相になる3年前に近衛がアメリカに50日間滞在した時の記録・・・「米国巡遊日記」には・・・
ルーズベルト大統領からホワイトハウスに招かれたり、各地で政財界の要人と交流を深めていたことが書かれています。
「ニューヨークに現代日本を正しく伝える施設を作るべきだ」とも。
両国の文化交流を進めることで、対立を避けられると考えていました。
アメリカ国民に対して友情の大切さを語る画像も残っています。
「私は多くの旧友たちと再会し、新しい友人たちと出会いたいと思っています。
 そして、太平洋の反対側にいる私たちが80年育んできた日米間の友情を、どれほど大切に思っているか、私から直接お伝えしたいのです。」
大国アメリカを目の当たりにした近衛にとって、日米開戦は絶対にあってはならないものでした。

昭和15年11月、アメリカから二人の神父が施設として来日・・・
「日米の友好関係の回復を望む」アメリカからのシグナルでした。
当時ドイツと戦うイギリスを支援していたアメリカは、同時にアジアで日本と対立するのは避けたいと考えていました。
しかし、中国問題をめぐり、日米関係が悪化していたために、民間レベルで交渉を始めたのです。
アメリカとの対決に危機感を抱いていた近衛は、期待していました。
昭和16年2月、日本の使節がアメリカに向かいました。
対話の機運が高まったため、僅か2か月で駐米大使・野村吉三郎と国見長官コーデル・ハルの交渉に格上げされました。

日米諒解案・・・
外交方針から経済協定まで、あくまでお互いの主張を記したものに過ぎなかったものの、冷え切った日米関係の解決の糸口となるものでした。
アメリカの狙いは、日本が三国同盟における軍一事情の義務を免れること・・・
アメリカとドイツが戦争になっても、日本は参戦しないという意図が含まれていました。
日本の狙いは、日中戦争の解決でした。
アメリカが満州国を承認すること・・・ルーズベルト大統領による中国の和平勧告日本の有利な条件が盛り込まれました。
さらに、近衛にとって大きかったのは、日米首脳会談でした。
国内の調整をへずにTOPで外交方針を決められる強力なものでした。
しかし・・・ハルは諒解案に基づく交渉を始める前に、前提条件を示していました。
ハル四原則
①領土保全と主権尊重
②内政不干渉
③機会均等
④太平洋の現状維持
それは、中国をはじめとする他国の領土や主権を守り、内政干渉や武力行使を全面的に禁止するというものでした。
交渉が途絶えるのを恐れた野村は、東京に諒解案を伝える前に、この四原則には触れませんでした。
4月18日、諒解案を受け取った近衛は、大本営政府連絡懇親会で検討。
軍部も賛同し、これをたたき台にアメリカとの交渉を始めようとしていました。
ところが・・・この動きに強硬に反対したのが、外務大臣・松岡洋右でした。
松岡は日米交渉の模索が始まっていた3月から1月あまりヨーロッパを外遊していました。
ドイツではヒトラーと会談し、熱狂的な歓迎を受けました。
帰路、ソ連で直接スターリンと直接交渉し、昭和16年4月、日ソ中立条約締結に成功。
松岡は三国同盟に莫大な戦闘機や陸上兵力を加えたソ連との”四国協商”を構想・・・連合国に匹敵する軍事力でアメリカを圧倒しようとしていました。
4月22日、松岡は帰国。
政治家、軍人、メディアが迎える華々しい凱旋となりました。
松岡の外遊は、外交史上画期的な出来事と報じられ、近衛自ら飛行場に足を運び、松岡を出迎えました。
しかし、自分のいないところで近衛が進めた日米交渉に、松岡は警戒心を隠しませんでした。

”本提案は米国の悪意七分善意三分と解する”

日米諒解案をもとに交渉を続けるべきか、四国協商を進めるべきか・・・近衛は国の命運をかける選択に迫られました。

松岡が帰国した1941年4月22日、大本営政府連絡懇談会が開かれました。
近衛が進め、軍部も賛同していた日米諒解案に対し松岡が反発、一人退出し、その後自宅に引きこもってしまいました。
陸海軍首脳からは、松岡に対する反感が高まり、更迭してまでも諒解案を進めるべきという案も・・・
しかし、結局近衛は、松岡にアメリカとの外交を委ねることを選びました。
早いところで罷免することは難しい・・・松岡には日ソ中立条約という手土産がある・・・
5月12日、松岡は自ら手を加えた修正案をアメリカに伝えます。

”三国同盟の軍事義務に基づき、ドイツとアメリカが戦争になれば、日本は参戦する”

あくまで三国同盟の結束を誇示し、アメリカの要求を拒絶する内容でした。
6月21日、国務長官ハルは、日本を非難するオーラル・ステートメント発表。

”日本の指導者は、ナチス・ドイツへの援護に固執している”

日米諒解案に基づく交渉は頓挫しました。
さらに翌日・・・日本に想定外のことが起きます。
6月22日、ドイツが日本と中立のソ連に侵攻。
松岡が構想していた四国協商はもろくも崩れました。
それでもアメリカへの強硬姿勢を変えない松岡・・・
近衛内閣は日米交渉を続けるために松岡を排除することで一致。
7月18日、外務大臣を変えて、第三次近衛内閣発足。
しかし、近衛内閣はアメリカとの対立を決定づけてしまいます。

日本軍は、石油や語句などの資源を求めて、南部仏印に進駐します。
東南アジアは、アメリカが支援する連合軍にとって戦略拠点でした。
そこににらみを利かす進駐は、連合軍に対する挑発とも取れる行動でした。
アメリカは在米日本資産を凍結、さらに日本への石油輸出禁止を発表します。
危機感を募らせた軍部は、早期開戦を主張!!
国民やメディアの間で反米が強まり、開戦は抑えられない事態に・・・。

日米開戦・・・
”ついに、自ら大統領と会見しようという一大決心をした”
8月、近衛は野村を介して日米首脳会談を打診します。
在日アメリカ大使グルーは、近衛の心境を本国にこう伝えています。

「今や近衛はこれまでの政策は根本的に間違っていると認識している。
 そして、勇敢にも自らの命を犠牲にしてまでも、日米の和解を実現しようと決心している」

近衛のメッセージを受け取ったルーズベルトは興味を示し、アラスカでの会談を提案。
しかし・・・ハル国務長官は東南アジアに侵攻した日本に不信感を募らせ会談に消極的に・・・。
アメリカとの交渉が停滞する中、9月6日御前会議。
大きな打撃が・・・
決定した国策に軍部の意向が反映され、日米交渉の機嫌が盛り込まれました。
10月上旬までにアメリカとの交渉のめどが立たなければ、アメリカ、イギリス、オランダとの戦争に踏み切る・・・!!
近衛に残された期間は僅か1か月でした。

開戦に傾く軍部を横目に近衛はグルーと極秘に会い、会談を模索します。
この頃の近衛は・・・
コップ酒を煽り、激しく軍部を罵り・・・
陛下が反対だと言われているのに、陸軍は負ける戦争を主張する。
最早アメリカに脱出し、ルーズベルトと会談する以外にない!!
ハルはあくまで四原則の合意と、中国からの撤退を求め、譲歩することはありませんでした。
そしてこの絵が主張した日米交渉は内きりの機嫌が・・・
トップ会談による局面打開の望みは絶たれたのです。
10月16日、近衛内閣は総辞職・・・東条英機内閣が成立します。
その2か月後の12月8日・・・日本は真珠湾を攻撃し、アメリカとの4年にわたる戦争へ突入します。

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青森市にある三内丸山遺跡・・・その広さは、約42ヘクタール・・・東京ドームの9個分です。
国内最大規模の集落跡です。
日本人のルーツである縄文人はどんな生活を送っていたのでしょうか??

1万5000年前から2800年前を縄文時代と言います。
そんな時代(約3800年前)に生きていた縄文人の骨が、北海道礼文島から発見されています。
これから縄文人の顔が復元されました。

kao顔は四角く、目は垂れています。
眉間は出っ張っていて、鼻は高かったようです。
上下の葉のかみ合わせがピタリと合っていました。

身長は・・・
男性が平均158㎝で、女性の平均は153㎝と、小柄だったと言われています。
縄文人たちはどんな暮らしをしていたのでしょうか??

毛皮を着て獣を追いかけて転々としていた・・・??
これは、旧石器時代です。
旧石器時代に続いた氷河期が終わり、温暖な気候の中、家を建てて定住した生活を送っていました。
植物から布を作り、衣類には刺繍が施されていました。

三内丸山遺跡は、縄文前期から後期・・・5500年前~4000年前の物で、1500年もの間永続的に住居を構え、ここで生活していました。
茅葺の竪穴式住居で、直径は4m以内、6帖一間、真ん中に土間、炉の跡があります。
植物を使って編んだ敷物、板、土器、石皿も場所を決めて壁際近くに置かれていました。
三内丸山遺跡では、住居の中で調理をしていた可能性があります。
炉の上の棚は・・・燻製を作っていたと考えられます。
煙が木材をいぶすことで、家の耐久性が増しました。
竪穴式住居の寿命は10年~30年。
4~5人が住むような家族的なものから、大型竪穴式住居までありました。
長さ32m、幅10m・・・300人が収容できる遺跡最大の竪穴式住居です。
集落の中央付近にあったことから、集会所、共同作業所、共同住宅であったと考えられています。

縄文時代は、定住が始まったため、コミュニティが大きくなっていました。
5~10家族ほどの集落があったと考えられ、村社会も形成されていたのです。

富山県小竹貝塚から出土した50歳以上の縄文人骨・・・
大腿骨は大きく変形し、周辺の骨には長期間強く圧迫した跡が・・・これは、大腿骨が骨折し、上手く治らなかったので膝を曲げて足を縛っていたためにできた溝だとされています。
そうした状況にもかかわらず、50歳ぐらいまで生きていたことは、家族や集落の人が支えて生きていたことがわかります。

北海道高砂・入江貝塚では、20歳前後の縄文人骨・・・
骨が細くて歩けないほど・・・子供の頃の小児麻痺だったと思われます。
この人物を面倒を見る環境があったと推測されます。
介護は縄文人の中に芽生えていたのです。

縄文人はどこから来たのか・・・??
我々ホモ・サピエンスが誕生したのは、20万年前のアフリカだとされています。
その後、進化した彼らは、6万年前にアフリカを旅立ち、各地の人類と交わって様々な種族へ・・・
そんな彼らが日本にやってきたのは、4~3万年前の旧石器時代です。

今考えられているルートは3つで・・・
当時はユーラシア大陸と繋がっていました。
人類はそこを歩いてある種族は
①北方ルート・・・サハリンから北海道へ
②東方ルート・・・朝鮮半島から九州北部へ
③南方ルート・・・船を使って南西諸島・東南アジアから九州南部へ

縄文人の特徴から東南アジア人・・・と思われてきましたが・・・
2017年福島県三貫地貝塚で3000年前の縄文人骨が発見されました。
奥歯のDNAが細かく分析できた結果、東南アジアとはかけ離れた遺伝子を持っていました。
現在の説は・・・??

縄文人は、東南アジア系が進化したのではなく、3つの種族がまじりあい独自に進化したアジアでも徳庶な種族ではないか??
そのためか、アジアでも特異な顔だと言われています。

そんな縄文人は独自の文化を築いていきます。
まずは縄文土器・・・
日本で生まれ独自の進化を遂げたものだと考えられています。
最古のものは、青森県大平山元Ⅰ遺跡から出土した16000年前の無文土器で、縄文時代の草創期には縄の文様はありませんでした。
文様が施されるようになるのは、人々が本格的に定住を始めた前期で、三内丸山遺跡ではその土器が多く発見されています。
縄目の模様を中心とした土器から、年度を張り付けた文様に変わっていっています。
模様の種類も100種類以上あります。
どうして文様をつけるようになったのか?何のためなのかはわかっていません。
土器づくりは主に女性の仕事で、鍋などとして日常的に使われていました。
しかし、生活が安定してきた中期には、生活には不便そうな装飾過多な土器が増えてきます。
その一つが火焔型土器です。
火焔型土器は新潟県を中心とする一部でしか発見されていません。
土器には地域性があるのです。
それぞれの地域に、時代によって独特の様式の土器が発達しました。
土器のデザインではなく、地域を主張するアイデンティティだったのです。
模様は単なる装飾ではなく、縄文人の世界観、哲学、思想を表現したものです。
儀礼用の繊細な土器と、日常用の素朴な土器も作っていました。

その暮らしは・・・??
目が覚めると、夜に灰をかぶせておいた火種を起こし、近くの川から汲んできた水を土器に入れ炉でお湯を沸かし、女性たちが子供達と一緒に食事の支度を始めます。
縄文人たちの食べていたものとは・・・??
食糧集め、狩りなどは男性の仕事で、森ではどんぐり、栗、クルミなどの木の実。。。
温暖な縄文時代には、広葉樹の森が増えて、木の実が増え主食となりました。
彼等は草食系でした。
動物性たんぱく質は・・・貝や魚、森での狩りは冬・・・。
冬はぢょく量不足になるので、動物を執ることで不足する主食を補いました。
そして、冬は動物が脂肪を蓄えていたので、栄養があり旬だったのです。

日本各地の発掘調査では・・・陸上動物60種、魚類70種、貝類300種にわたりました。
木の実などををはじめ陸上動物や魚介類などバリエーション豊かな食材を・・・現代人の8割に当たるカロリーを摂取していました。
そして、縄文人の狩りにはルールがありました。
縄文人は、自然と節度ある付き合い方をしており、絶滅するような狩りはしていません。
野ウサギやムササビなどの小動物が多く、食料や毛皮として無駄なく利用していました。
食材もさることながら調理法も様々で、それを可能にしたのは土器でした。
煮込んだり、あく抜きをしたり・・・人間の食べられる食材の範囲が格段に広がりました。
衛生環境も向上し、生活の安全に広く貢献しました。
縄文人たちは、魚や肉を燻製にして保存食にし、貝類は煮てから干して加工品にするように保存食にもしていました。
シカやイノシシのミンチ肉をベースに、卵を加えて混ぜ合わせ石の上で焼いたハンバーグ、木の実をすりつぶし、粉末状にしてはちみつや水を混ぜて縄文クッキーも作っていました。
栗の木を管理したり、小豆や大豆など豆類も栽培していました。
野生の豆から大きなものを選び大地に巻いて繰り返し・・・人間が栽培するに適したマメにして行ったと考えられます。

三内丸山遺跡で際立って目立っているのが大型堀立柱建物。
地面に穴を掘り柱を立てて作った建物で、柱の穴は直径約2メートル、深さ約2メートル。
4.2m間隔で、栗の巨木が立てられていた大型の高床式建物だったと考えられています。
その高さ15メートル・・・上からは八甲田山、陸奥湾が望めます。
何のために作られたのでしょうか??
ここは縄文時代は海の近くでした。
河口近くの丘の上に立っています。
当時、この上からは海岸線が一望でき、海からやってくる際には目印となりました。
柱の配列から縄文人の二至二分の意識が伺えます。
二至二分は、夏至・冬至・春分・秋分のことで、建物の長軸の延長線上に立てば夏至の日の日の出を、反対側に立つと当時の日の入りを見ることができます。
ここから縄文人には1年の感覚があったと考えられます。
狩猟採集、栽培を行い、命を繋いできた縄文人・・・四季の移り変わりを知ることは何より大切なことでした。

1992年青森の三内丸山遺跡からヒスイを丸く加工した大珠が出土。
これを分析すると、新潟県糸魚川で採取されたものだとわかりました。
およそ700キロ離れた場所で作られたものがどうして青森で・・・??
日本各地に張り巡らされた交易ネットワークの存在を具体的に示してくれています。
移動や運搬は・・・??
陸路は徒歩で、海や川などは丸木舟を使ったと考えられています。
ヒスイ以外にも黒曜石も交易品の一つでした。
交易によって生まれた広いネットワークは、情報交換としても重要でした。
そのため縄文人は、日本語に通じる言葉を使っていたと思われます。
自然が奏でる音を言葉で表したオノマトペもその一つです。
言葉を用い、他の人たちと情報交換をし、生活を豊かにしていきました。

三内丸山遺跡では、土偶は全国最多の2000個以上が出土しています。
そのうちの1958点が重要文化財です。
土偶は時代が進むにつれて、手足、顔立ちがはっきりしてきます。
縄文人の豊かな想像力によってつくられていきた土偶は、どこかが欠けた状態で発見されています。
縄文人が意図的に壊した・・・??
衣料が発達していなかった縄文時代、些細な病気やケガが命取りとなりました。
そのため、平均寿命は40歳・・・。
15歳まで生きるのは半数だと言われています。
そんな縄文人が頼ったのが呪術でした。
その祭祀や儀式のときに欠かせないのが土偶でした。
壊すことによって得られる効果を期待・・・土偶の一部をあえて壊すことで、自身の回復を祈ったのです。

三内丸山遺跡の入り口・・・村へ続く道の両脇から縄文人の墓が見つかっています。
その多くは穴を掘って埋める土葬・・・土坑墓と呼ばれるもので、子供は特別でした。
三内丸山遺跡は大人の墓地と子供の墓地がわかれていて・・・
亡くなった子供は土器に入れて埋葬しました。
また、赤ちゃんの骨の入った土器が竪穴式住居の入り口や母親が座っていた席の下に埋められていることもあり・・・一説には土器を女性の体に見立て、再び母体に戻ってきてほしいという願いが込められていたのではないか??と言われています。

幼児の手形を押して焼いた陶板も見つかっています。
1歳以内の乳幼児のもので・・・
祝って作られたとも、亡くなった子を偲んで作られたともいわれています。
理由ははっきりとさいませんが、子を思う親の気持ちは今と変わらないことが小さな手形からわかります。

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群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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「いだてん」の第1回見ました!!
ドラマとして結構面白いんじゃないかな??と思います。
歴史といっても最近のお話しなので、「朝ドラ男性版」みたいな感じがします。

1話だけですが、キャラだっているし、テンポも良くってわかりやすいです。

idatenn















1話で出てきた嘉納治五郎先生・・・凄い人だとはわかっているんですが・・・
yawara




どうしても、こちらの治五郎先生が頭から離れません








前半の主人公の金栗四三さん、最後に出てきましたね。
この演出がとっても粋で、この先、面白いお話しじゃないかな??と思わせてくれました。
だって、別に絶対主人公が映っていないとダメなんておかしいものね~~!!
四三さん・・・この人の一生も、山り谷ありとっても波乱万丈な人生です。

出演の方々も重みのある方が多くて、安心して見てられます。
今年の大河ドラマは楽しく見させてもらおうかな??と思うので、このへんで!!


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世界の経営者が尊敬するリーダーは・・・??
ある会社の調査の1位は、第61代イギリス首相ウィンストン・チャーチルです。
ナチスドイツに勝った不屈の精神、イギリス国民を鼓舞するスピーチ力、そのチャーチルの人生は、失敗と挫折、敗北と失望の連続でした。
イギリス屈指の政治家とされるチャーチルは、政治家以外にも様々な顔がありました。
権威あるロイヤルアカデミーで展覧会を開いた画家の顔、生涯で30冊以上の本を書きノーベル賞を受賞したノーベル賞作家、レンガ職人の組合に加入し、自らの家の壁を作ったレンガ職人の顔・・・。
失敗と挫折を繰り返し、それでも首相を目指したチャーチル!!

イギリス国民にウィニーという愛称で親しまれたチャーチル・・・
半世紀以上が過ぎた今でも、そのドラマや映画が作られています。
第二次世界大戦でイギリスの首相として国の命運を握ったチャーチル。
ヒトラー率いるナチスと和平交渉をするか?それとも徹底抗戦するか??決断を迫られます。

「我々は野原や市街で戦い丘で戦う
 断じて降伏はしない・・・!!」

チャーチルのこの一言で、ドイツが優勢だった戦いを変えることとなります。
この時、チャーチル65歳、初めて首相になった遅咲きの政治家でした。
若い頃のチャーチルは、親も見放すほどの・・・親も見放すほどの不良の落ちこぼれでした。

イギリス、オックスフォード郊外にあるブレナム宮殿・・・チャーチル家の屋敷です。
チャーチル家は、150年続いた貴族の家柄でした。
1874年、チャーチルはこの宮殿で生まれました。
父・ランドルフは後に財務大臣を務めた政界の貴公子。
母・ジャネットは、ロンドンの社交界でも有名な美人でした。

1881年7歳で名門貴族の通う寄宿学校に入れられたチャーチル。
通信簿には遅刻20回・・・恥ずべきこと
常にトラブルの元凶で、喧嘩が絶えない・・・
無ず子の通信簿を見た父は・・・
「お前は負け犬のひとりとなり、みすぼらしく不幸で不毛な存在に堕落するだろう」と言ったといいます。
しかし、どんなに冷たくされてもチャーチルは父を尊敬し、憧れていました。
演説原稿を読んだり、父ののった新聞を集めたり・・・どうしたら父のようになれるのか考えました。
父親から突き放された息子・・・しかし、優しく接してくれるはずの母も冷淡でした。

チャーチルが寄宿舎から母に書いた手紙が残っています。

「どうぞ、ぜったいぜったいぜったいぼくに会いに来てください
 ぜったいです」byチャーチル

そんなチャーチルの心の孤独を癒したのが、おもちゃの兵隊でした。
チャーチルは人形の兵士を動かしている時だけは夢中になれました。
その姿を見た父・ランドルフは、軍人よりも向いているのでは??と、軍人を勧めます。
なんとか、士官学校に入学することのできたチャーチルは、19歳になったある日・・・
父・ランドルフが演説の途中で言葉に詰まります。
原因は、脳に至る重い病気でした。
1895年、ランドルフ、45歳で死去。
目標とする偉大な父が、突然消え去りました。

「私はいまや己自身が運命の主人となった」

士官学校を卒業したチャーチル・・・初めて自らの意思で選んだのは、戦争でした。
イギリスは、大英帝国として栄華を極めていましたが・・・19世紀末から植民地の独立運動が勃発!!
武力反乱もしばしば起きていました。
チャーチルはその反乱を抑えるべく、インド・スーダンなど戦地を転々とします。
最前線で、敵の弾丸をよけない命知らずな行動で、頭角を現していきます。
チャーチルを突き動かしていたものは、亡き父に自分の実力を証明したいという願望でした。
そしてチャーチルは、リスクを冒すことを恐れない人物でした。
彼は、地震の名をあげることに強い意志を持っていて、それが一番大事で、身の安全、経済的な安定は二の次でした。
戦線を転々としながら夢中で読んだ本は父も愛読していた「ローマ帝国衰亡史」でした。
大英帝国の行く末に危機を抱くチャーチルにとって、ローマ帝国の衰退は他人事ではありませんでした。

「我が人種の力と活気は衰えることなく、先祖から引き継いだ帝国を保持していくことを我々は決意ぢている」byチャーチル

大英帝国を保持する為に自分はどうすればいいのか??
戦場から帰ってきたチャーチルは軍陣をやめ、父と同じ政治家を志します。
24歳で下院議員に立候補!!
しかし、実績も知名度もないチャーチルは落選!!
とにかく知名度をあげなくては・・・!!

その時、チャーチルが目をつけたのは、南アフリカでおきていたボーア戦争でした。
イギリスが新たな植民地獲得のためにオランダ系のボーア人に対して起こしたものです。
チャーチルは新聞社と契約し、従軍記者として現地へ!!
ところが、チャーチルは現地で捕らえられ捕虜となってしまいます。
3週間が過ぎた頃・・・仲間と脱獄を試みます。
しかし、看守の目を脱獄できたのはチャーチルだけ・・・
敵地でのたった一人での逃亡が始まりました。
チャーチルは密かに列車に乗り込んで・・・目指すは500キロ先のポルトガル領モザンビーク!!
脱走してすぐチャーチルには追手がかかり、懸賞金もかけられます。
このまま易に行ってはあぶない・・・列車から飛び降り・・・脱走から2日間眠れず、何も食べていない・・・
一か八か、一軒のドアをたたきました。

「私はイギリスの特派員です。
 捕虜収容所から逃げてきました。
 助けてください。」byチャーチル

「君は家に来てよかった。
 うちだけだ、子の辺りで君を敵に引き渡さない家は・・・!!」

男は現地に帰化した元イギリス人・・・この地で数少ない味方でした。
捕虜の身から脱獄し、イギリスに生還したチャーチル・・・
イギリスではこぞって英雄として取り上げられました。
図らずも抜群に知名度を上げたチャーチルは、立候補し、下院議員に初当選しました。
1900年、25歳の時でした。

亡き父の背中を追って政治家となったチャーチル・・・
しかし、65歳で首相になるまで何度も失敗を犯し、政治生命を絶たれかけます。
33歳の時、人生を変える女性が表れます。
1908年クレメンティーンと結婚
9歳年下と妻は、生涯チャーチルに安らぎを与えてくれました。
そして5人の子供に恵まれます。
チャーチルとクレメンティーンの関係は非常に重要で、妻は彼にとって岩のような存在でした。
世界が変わりゆく中で安定した存在でした。
そして彼が誤った選択をしたとき、過ちをはっきり指摘することができる数少ない人物でした。
益々仕事に打ち込んだチャーチル・・・
1911年36歳で海軍大臣に抜擢されます。
1914年第1次世界大戦勃発!!
イギリスは連合国としてドイツに宣戦布告します。
チャーチルはドイツに大打撃を与えるべくガリポリ作戦を発案します。
目標はトルコ・イスタンブールの占領。
黒海とエーゲ海を繋ぐ要所を押さえてドイツの補給路を断つ作戦でした。
ところが・・・イスタンブールを望むガリポリ半島に上陸しようと試みた英仏連合軍は、6万もの犠牲者を出して大敗・・・。
この事態を受けて作戦の立案者のチャーチルに避難が殺到します。
チャーチルは戦争にもかかわらず、海軍大臣を辞任!!
妻への手紙に、不可解な文章を書いています。

もし私の黒い犬が戻ってきたら、今のところはずいぶんと遠くに行っているようで、それにはほっとしている

チャーチルは犬を飼っていませんでした。
チャーチルは、彼にしか見えない黒い犬に怯え、悩まされます。
この黒い犬とは・・・??
1915年、彼は非常に気が動転し、落ち込みました。
彼の精神状態を言い表すなら、死別とか、喪失とか、悲観・・・
これらは、うつのような症状ですが、病気ではありません。
海軍大臣という要職を奪われたことが、彼の心を砕き、落ち込ませたのです。
大臣の座を追われたチャーチルは、妻の勧めもあって、田舎で静養します。
やがて、目に映る自然や風景を描き始めました。
無心に何枚もの絵をかきます。
後にその心境を表現しています。

「絵の女神が私を救いに訪れた」

気力を取り戻し、ロンドンに戻ったチャーチル・・・この時40歳。
大臣を辞任し、政治生命を絶たれたに同然でした。
今の自分にできることは・・・一兵士として再び戦場へ・・・!!
大臣まで務めた人物が最前線に行くのは異例のことでした。
死と隣り合わせの塹壕の中で不思議な高揚感に襲われます。

「防衛区域のただ中では、土から死者の足やら服が飛び出していて、広範囲に墓が散らばっているようだし、どちらを見ても水や泥だらけだ。
 これに、湿気、寒さ、あらゆるささいな不便が加わっているが、私はこの数か月感じたことのない幸せと充足を感じている。」

1918年11月ドイツの降伏で終戦。
イギリスは勝利したものの90万人の戦死者を出し、膨れ上がる戦費が生活を圧迫し、4年後の選挙ではチャーチルの所属する自由党は大敗し、議席を失うことに・・・!!
それでもチャーチルは諦めません。
2年後の1924年恥も外聞もなく敵の保守党に鞍替えして出馬、下院議員に当選!!
そして、チャーチルが生涯最もうれしかったのが父・ランドルフと同じ財務大臣に就任します。
この時、49歳でした。

1939年第二次世界大戦勃発!!
イギリスは再び連合国としてナチスドイツと対決します。
その大戦のさ中・・・イギリスの首相となったのがチャーチルでした。
対戦当初、ドイツは破竹の勢いで各地を侵攻、フランス・パリも占領し、英仏海峡までやってきました。
イギリスが降伏すれば、ヨーロッパ全体がヒトラーの手に落ちるかもしれない・・・!!
絶体絶命の危機の中、チャーチルはどうやってイギリスを勝利に導いたのでしょうか??

第一次世界大戦で敗れたドイツは、壊滅的な打撃を受け国民の生活は困窮を極めました。
そんな中、ヒトラーのナチ党が台頭します。
1933年ヒトラーはドイツの首相に就任。
2年後、再軍備を宣言します。
この時、イギリスは一旦抗議するものの、ドイツの再軍備を追認しました。
ドイツを封じ込めるのではなく、譲歩することで取り込もうとしたのです。
しかし、チャーチルは違いました。
1932年にドイツを訪問し、ナチ党が独裁の道を着々と歩んでいることを目の当たりにしていたからです。

「私にはドイツ再軍備は冷酷で不気味さを帯びているように思われた。
 それはきらめき、そしてギラギラと光っていた。」

チャーチルはイギリスの政治家の中で、アドルフ・ヒトラーの脅威に最初に気付いた一人でした。
ヒトラーがヨーロッパのバランスを崩して、再び世界を戦争状態に戻そうとしていると早くから感じ取っていました。
1939年9月、ナチスドイツがポーランド侵攻
イギリス、フランスがドイツに宣戦布告し、チャーチルはまたもや海軍大臣に就任します。
そのわずか9か月後、ドイツはオランダ・ベルギーに侵攻。
チャーチルが指摘した脅威は本物となっていました。
1940年5月・・・ヒトラーの危険性をいち早く唱えたチャーチルが首相に任命されました。
65歳の時でした。

「ついに私は、全局面にわたって指導していく権力を握ったのだ。
 私は運命と共に歩いているかのように感じた。
 そして、過去の私の生涯は、全てただこの時、この試練のための準備に過ぎなかった。」

ナチスドイツの対抗するためには、国民の士気を高め、野党を取り込む必要がありました。
イギリスを一つにまとめ上げる!!
チャーチルは、演説の準備を周到に行います。
6月4日、下院の議場に立ち、野党の議員を前に演説をはじめました。

「我々はいかなる犠牲を払っても、英国を守り抜く
 海岸で上陸地点で戦い 野原や市街で 丘で戦う
 断じて降伏はしない!!」

議場は歓喜に包まれたといいます。
チャーチルの就任後、それまでは入閣を拒否していた議員たちも政権に参加!!
パリを占領したナチスは、遂にイギリス本土に本格的な攻撃をはじめました。
爆撃機にとるロンドンの無差別空襲!!
多くの市民が犠牲となりました。
瓦礫と化したロンドンを歩くチャーチル・・・みなを励まして回ります。
チャーチルは、どんな場所でも帽子、葉巻、ステッキを崩すことはなく、その姿に国民は「イギリスはまだ大丈夫!!」と感じたといいます。

「大英帝国と共に、我々は降伏することなく戦い続けるだろう
 ヒトラーの呪いが人々の頭上から消え去るまで!!」

チャーチルはドイツ軍の具体的な策も実行します。
最新鋭のレーダーを配備!!ドイツ軍の爆撃機を迎え討つ体制を整えます。
1か月以上の戦闘で、イギリスはドイツ軍1,400機を撃墜!!
ロンドンの空からドイツ軍を追いだすことに成功しました。
ロンドンは守ったものの、大陸ではドイツ軍が優勢を誇っていました。
そこでチャーチルは、アメリカのルーズベルト大統領と会談!!
アメリカの参戦を要請します。

毎日の執務時間17時間、睡眠は3時間!!
自宅に帰っても外交文書の口述を続けました。
それでも、昼からシャンパンを欠かさず、日に10本の高級葉巻をくゆらし、夜にはウイスキーやブランデーを・・・
心臓発作で倒れても、生活は変えませんでした。

1941年12月アメリカが参戦し、ドイツに宣戦布告!!
形勢を一気に逆転させるためには・・・??
ノルマンディー上陸作戦!!

連合軍が英仏海峡のフランス・ノルマンディーに上陸し、ドイツの防御網を突破しようというものです。
この勝負に負ければ、イギリスは二度と立ち上がることはできないかもしれない・・・!!
チャーチルは、作戦実行前夜、イギリスの拠点・ポーツマスまで見送りに行ったといいます。
1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦・・・4000隻を超える大艦隊、史上最大の上陸作戦が実行されます。
ドイツ軍との激しい戦闘の末、連合軍は上陸に成功!!
ここから反撃が始まりました。
連合軍はドイツ軍を次々と撃破!!そして、1945年5月、ベルリンが陥落し、ドイツは無条件降伏!!
チャーチルの戦争はようやく終わりました。

チャーチルはイギリスが勝利することで、戦う以前の大英帝国の状態に戻ることを期待していました。
ところが、戦勝国の会議で主導権を握ったのは、アメリカのルーズベルトとソ連のスターリンでした。

「私の左側には手足を思い切り伸ばしたロシアの大熊、右側にはアメリカの大きな象がいた
 二頭に挟まれ、哀れな英国の小さなロバはただ一人、正しい道を知っていた」

イギリスの領土要求は不調に終わったばかりか、かつての大英帝国の植民地も独立の道を歩み始めます。
チャーチルの目指した栄光は幻となってしまったのです。
更に選挙でも保守党は敗退・・・首相の座を追われたとき、70歳になっていました。
引退を考えてもおかしくないのに・・・野党の党首として働き続けます。

「いま、政界を引退したら、2度と戻ってくることは出来ない」

チャーチルは、地震の影響力で冷戦の緊張緩和が得られると信じていました。
東西冷戦の中で、イギリスの影響力を保持する為に、自分にできることがあると信じました。
第二次世界大戦後の世界は、ソ連を中心とする社会主義陣営とアメリカを中心とする資本主義陣営の冷戦状態にありました。

チャーチルは、東西の冷戦を「鉄のカーテン」と表現し、その西側にいる我々は団結するべきだ!!と、主張します。
現在のEU構想をいち早く唱えたと言われています。
活動を続けること6年・・・チャーチルに幸運が・・・政権与党への不満が爆発し、野党が政権をとり1951年、76歳にして再び首相に返り咲きます!!
しかし議会では、老害、引退すべき・・・との発言が・・・
新聞記者にいつ引退するのか聞かれたチャーチルは、
「私の健康が本当に衰えて、大英帝国が本当に元気を取り戻したらね。」と、答えました。

そんな中、思いもよらない出来事が・・・ノーベル文学賞の受賞!!
自らの著書、「第2次世界大戦」が戦争当事者の貴重な証言として高く評価されたのです。
チャーチルは序文に書いています。

「過去に深い考慮を払うことが来るべき日の手引きとなり、未来の恐るべき光景を抑制できることを私は心から願っている」

ノーベル賞の受賞で、まだまだ元気と思われていたチャーチルでしたが・・・耳が遠くなり、閣議の答弁も失敗するように・・・
1955年、80歳になったチャーチルは、周りに促され遂に引退を受け入れます。
首相官邸を去る前日・・・妻・クレメンティーンと共にエリザベス女王から直々に労いを受けたのです。
それから10年後の1965年1月24日、ウィンストン・チャーチルは90歳で激動の人生にピリオドを打ちました。 

奇しくも父親が死んだ人同じ日でした。
1月30日の国葬にはチャーチルを慕う30万人の国民が参加。
チャーチルは人生を振り返ってこうつぶやいています。

「いい旅だった
 旅に出た価値はあった・・・1度だけなら」byチャーチル

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