日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

決戦!関ヶ原 島津義弘編 丸に十文字【電子書籍】[ 矢野隆 ]

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1600年9月15日、日本を二分する大合戦・関ケ原の戦いがありました。
東西入り乱れて15万を越える闘いは、東軍・徳川家康の勝利で終わろうとしていました。
この時、家康には天下の道がはっきりと見えていたかもしれない・・・
そんな家康に立ちはだかったのは・・・西軍の薩摩軍です。
この時、薩摩軍を率いていたのは島津義弘。
前代未聞の先鋒に・・・
家康の本陣に向かい、退却のための突撃を始めました。
”島津の退き口”です。
島津隊は、井伊直政を負傷させ、家康の四男・忠吉にも被弾させ・・・退却といいながら、徳川に大きな打撃を与えました。
更に闘いの後・・・西軍の諸将が改易される中、東軍に屈せず家康を翻弄します。
その中心となったのが、義弘の兄・16代当主島津義久です。

1600年9月15日関ケ原・・・東西両軍15万に及ぶ戦国武者たちが関ケ原に布陣を終えたのが午前6時ごろ・・・
東軍率いる徳川家康の側近の記録には・・・小雨が降り、山間のためにきりが深く、30メートル先も見えない・・・とあります。
濃霧で敵の陣も見えず、戦場に不穏な静寂が満ちていました。
西軍に味方した薩摩軍は、北国街道を隔て、石田三成の傍に布陣。
薩摩軍を率いるのは島津義弘!!
生涯52度の合戦に臨み、鬼島津と恐れられていました。
この時義弘、齢66でした。
午前8時ごろ開戦!!
東軍7万、西軍8万以上・・・!!
一進一退の攻防が続く中、島津は兵を動かしませんでした。
それは、兵数が少なかったためだといわれています。
この時62万石の薩摩軍は僅か1,500。

宇喜多秀家・・・57.4万石・・・17,000
石田三成・・・・・19.4万石・・・・6,000
大谷吉継・・・・・・5万石・・・・・・1,500

島津は62万石を誇ったものの、他の西軍諸侯と比べると、極端に少なかったのです。
戦いの2か月前、義弘が国元に宛てた手紙には・・・
「軍勢がなく、何をしたところでうまくいかずに困っている。」とあり、兄に何度も援軍要請をしています。
しかし、国元にいる義弘の兄・16代当主・義久が断っています。
援軍を送ると、島津は西軍に参加したことになる・・・
もし、東軍が勝った場合・・・申し開きができない。
西軍に、独断で義弘が参加したのであれば、家は安泰だ・・・。

どうして島津は西軍に参加することになったのでしょうか?
石田三成が、打倒家康に立ち上がった時、義弘は僅かの兵を連れて上方にいました。
西軍の大軍勢が大坂に集中し・・・義弘は西軍に味方するよりほかなかったのです。
島津には、西軍に積極的に組する理由はなかったのです。
一方で、義弘の危機に、国元の薩摩武士の中には義弘の元へ駆けつける命知らずの猛者も・・・。
こうして薩摩軍は1500!!
関ケ原の戦いが始まり4時間・・・正午ごろ、一進一退から動き出しました。
松尾山に布陣した小早川の裏切り・・・!!
中山道に布陣した味方に突進し、この一撃で戦いは東軍有利に・・・!!
午後1時・・・混乱の中、西軍の敗走が始まりました。

この時、義弘が戦場を脱し大阪へ向かう選択は、西か南!!
西へのルートは中山道か北国街道で向かう。
東のルートは伊勢街道を南下して伊賀を抜け大坂を目指す。。。
義弘の手勢僅か1500!!目の前には敵の軍勢8万!!
どの道を選んで薩摩に帰るのか・・・??

中山道は敵となった小早川が道を塞ぎ、
北国街道は、西軍が撤退のために殺到!!
どのみち、敵を背に向けての退却は厳しい・・・。

南へ向かう・・・??
そのためには、目の前にある敵の大軍勢を蹴散らさなければならない・・・。
敵中を突破し、伊勢街道を南へ・・・至難の業だ。。。

寡兵をもって大敵を破る・・・
義弘は、九州の桶狭間と呼ばれた1572年の木崎原の戦いで、10倍の数の敵に勝利し、大将を討ち取ったこともある・・・
しかし、この時、自身の兵の8割を失う結果となっています。
中央突破の損害は計り知れない・・・。
関ケ原から薩摩までおよそ1000キロ・・・。
虎口から脱するためにはどうすればいいのか・・・??
一刻の猶予もならない!!
敵の大軍勢が迫る中、どのルートで退却するのか・・・??

僅かな人数では勝利するのは難しい・・・
老武者では西に退却しても、伊吹山を越えるのは困難・・・
義弘は、目の前の敵を蹴散らしながら、南へ退却します。
それも、最も猛勢な敵に向かって、前進退却!!
島津の退き口の始まりでした。
戦場で勢いがるのは、猛将・福島正則、家康本陣!!
どうして猛勢を選んだのでしょうか?
それは、意表を突くためでした。
それに、家康の近くでは鉄砲が使えない・・・
東軍である味方が討たれる可能性が高いのです。
島津勢に迫られた福島正則は、この意表をついた行動に道を譲りました。
島津兵を止めれば、自軍の損害も多大になると思ったようです。

それを見た家康は・・・
「島津は西国一の強将である。
 早く打ち破らなければ、味方の多くは討たれるであろう。」と。
この時、突破を食い止めようとしたのが、徳川四天王のひとり井伊直政!!
直政は、義弘を討てと、島津軍を追撃!!
しかし、島津の銃撃によって負傷・・・この傷が元で、2年後に亡くなることとなります。
直政を襲ったのは、「捨てがまり」という島津独特の戦法です。
義弘本隊を通した後、狙撃部隊が残り、敵を待ち受け攻撃!!
その間に義弘本隊は逃走!!
これを何度も繰り返し、敵との距離を稼ぐのです。
しかし、兵士たちにとっては決死の覚悟が求められる戦法でした。
関ケ原の戦場から南へ10キロ・・・大垣市上石津町には・・・
義弘の甥・島津豊久の墓が残っています。
義弘の身代わりとなって尽力し、命果てたようです。
家臣たちの命がけの犠牲で、義弘は敵の追撃を引き離すことができたのです。
辛くも敵の追撃から逃れた義弘軍・・・しかし、敗者となった者には落武者狩りが・・・!!
義弘はこれらの襲撃を切り抜け、伊勢街道を脇道に・・・堺へ・・・船で瀬戸内海を渡り、薩摩へ帰還したのは10月3日となっていました。
1500の兵のうち、帰ってこれたのは僅か80余り・・・。
しかし、この時、九州にいた軍勢が、薩摩の国境に迫っていました。

島津と家康との戦いの第二幕が始まりました。
1600年10月、加藤清正や黒田如水など東軍の大軍勢が国境まで押し寄せていました。
絶体絶命の危機・・・!!
この時、領国防衛の中心人物は、義弘の兄・第16代当主島津義久です。
合戦で有名な弟に対し、義久とは・・・??
東軍の軍勢が迫る中、兄弟の意見は真っ向からぶつかっていました。
退き口の後、兄の義久は一戦を交えようというものの、弟・義弘は、戦いになるとひとたまりもないと反対。
そのため、家中は二つに分かれてしまいました。
徳川と和睦すべきか、一戦交えるべきか・・・??

弟・義弘の意見。
国元にいる兄は、世間に疎すぎる・・・
三成は処刑され、西国諸藩も家康に下った・・・和睦しかない。
すでに支配者となった家康に・・・敗戦は必至。
おまけに島津家中は一枚岩ではない・・・
内部から反旗が翻るかも・・・??
和議を結んで内政に力を入れるべきでは・・・??

兄・義久の意見
義弘は政に疎い。
是が非でも徹底抗戦!!
はなから和睦すれば、家康になめられ、毛利の二の舞になる・・・。
関が原の戦いで、西軍の盟主となった毛利家・・・。
しかし、毛利は徳川と密約を交わしていました。
「毛利輝元に対しては粗略には扱わない・・・」にもかかわらず、毛利家は120万石から37万石に減封されてしまった。
義弘は、関ケ原の戦いで、薩摩の恐ろしさを見せつけたから、それを使わない手はない・・・。
万が一、家康が攻めて来ても、戦を長引かせることができれば・・・!!
当時薩摩には、強固な防衛システムがありました。
島津の居城・内城を取り囲むように、100以上の外城が配置されていました。
関ケ原の後、防衛拠点を増強していた島津・・・。
徳川に対する臨戦態勢を築いていました。

徳川との戦を回避して和睦するのか?
一戦交えるのか・・・??

東軍が迫る中、義久は弟・義弘に城を修築させ、国境の死守を命じます。
しかし、義久は家康との戦いを決意したわけではありませんでした。
10月10日、井伊直政から薩摩へ使者が送られています。
義久に上洛を催促した書状です。
家康にとっても、薩摩出兵は時間と莫大な戦費がかかります。
義久を上洛させ、謝罪させれば、戦わずして支配下におけます。

義久は・・・
「遠国のため、ご無沙汰しております。
 義弘から事情は聴きましたが、義弘自身、西軍のたくらみなど知らなかったようです。
 家康様も、御承知のように秀頼さまに忠節を尽くすべき誓紙を入れており、君臣の道忍び難く、それに従ったまでということです。」

と、謝罪の言葉は一切ありませんでした。

義久は、戦の準備をしながらも、東軍に対し、自らの兵力を動かすことはありませんでした。
さらに家康との書状のやり取りは続きます。

国境にある東軍勢力のために上洛できないとか、老衰のために体の自由が利かないとか、ありとあらゆる理由をつけて、上洛を拒みました。
その交渉のさ中・・・不可解な事件が起こっています。
1601年5月、明の商船が消息を絶ちました。
島津家のお抱え商人・伊丹屋の仕業とされています。
しかし・・・2隻・・・300人が跡形もなく殲滅されてしまう・・・??
そのためには、兵力は1,000人はいなければならない・・・!!
伊丹屋が、明船を襲ったのであれば、義久の思惑の中で活動したとしか考えられないのです。
明船襲撃の黒幕は義久・・・??

関ケ原以降、国内覇権を確立しようとしていた家康にとって、秀吉の朝鮮出兵以降断絶していた明との国交回復は悲願でした。
国内需要の高い、明の銅銭や生糸などが手にはいる貿易は、多額の富を生み出すこととなります。
後に家康は、朱印船制度を創設し、海外貿易を盛んに行います。
交易ルートにあたる薩摩が、日明貿易のカギを握っていたことは言うまでもありません。
明船襲撃は、義久の家康に対するアピールだったのでは・・・??
家康に対して、このような事件が今後も続くぞ・・・!!と。。。
そうなれば、東シナ海の安寧秩序は永久に訪れません。
天下を目指す家康にとって、これ以上薩摩と対立することに異はありません。

1602年12月、家康は島津の本領安堵を確約しました。
義久の後継者として島津忠恒が上洛し、家康に謁見。
家康は義弘が西軍に参加したことを赦免し、領国を安堵することを認めました。
関ケ原の戦いから2年・・・西軍のうち全領土を安堵されたのは、島津家のみでした。

関ケ原の戦い以降、薩摩は江戸幕府に対し、独立の気風を保ち続けます。
関所では厳しく検査・・・野間之関から熊本県の水俣まで、無人地帯となっていました。
噂では、胡乱な者が見つかった場合、わざと通して切り殺したといわれています。
江戸時代を通じ、この閉鎖性は独自の気風を生み、一筋縄ではいかないものとなっていきます。
鹿児島では関ケ原での退き口をテーマにした行事があります。
妙円寺詣り・・・これには、若き日の西郷隆盛や大久保利通も参加しています。
幕末、新しい時代を切り開いた薩摩藩・・・その原点となったのが関ケ原の戦いで退き口を成功させた弟・義弘と、老練な交渉で家康を翻弄した兄・義久の二人の決断でした。




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遂に、おんな城主となるのですね、直虎!!
その前に・・・

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時は戦国・・・
永禄5年(1562年)、井伊直親は掛川城手前の道中で朝比奈泰朝の手の者に襲撃され・・・

naotora
















「井伊は・・・どっちだ・・・」by直親
次郎法師の・・・水垢離の願いもむなしく・・・
討ち死にしました。・・・享年27。

ああ・・・亀が最期に思い出すのは・・・戻る場所は次郎法師なのか・・・
そこは、妻・・・出なくてもいいけれど、幼い息子・虎松であって欲しかった・・・。


naotora2

















申し開きもさせずに討つのなら、切腹を言いつければいいではないか!!と、怒る直平!!

「これでは・・・なぶり殺しではないか・・・!!」by直平

これまさに慟哭・・・たくさんの・・・さかを見てしまった直平の言葉に尽くしがたい思いがそこにはありました。

水垢離のために、冷え切って・・・倒れてしまった次郎法師・・・。
魘されて手が伸びる・・・その手をしっかりと握る祐椿尼(千賀)。

「直親!!手を放しなされ!!
 とわを・・・とわを連れて行くでないっ・・・!!」by祐椿尼

この演技、何気に良かったです。
お母さんの、次郎を思う心が引き留めたのだから・・・。
ほんと、未練な直親が迎えに来たようでした

直親たちを見つけた南渓和尚と傑山たち・・・。
ここでもやるせない思いが・・・慟哭が・・・

「ここはさぶかろう・・・井伊に帰ろう・・・井伊に帰ろう・・・のう、直親!!」by南渓和尚


目覚めた次郎が見たのは・・・直親たちの躯でした。。。
って、首はとられてないのね・・・なんて、冷静に思っちゃったわ・・・
直盛の時が衝撃的だったから・・・!!
そしてそこには正気を失ったしのが・・・。

悲しむ暇もなく今川から書状が・・・!!
そこには虎松を殺せと書かれてありました。
そこで、左馬助が命乞いのために駿府の氏真の元へ・・・!!

怒り狂っている氏真の気持ちを静めるためには・・・。
松平元康の首を持って来いという・・・。
そして政次への不信感は募るばかり・・・
そんな政次は、氏真の元で悪っていました。

「悪い奴じゃのう・・・そなたは・・・!!」by氏真

三河では一向一揆が勃発!!
元康は、僧侶のみならず、家中の一向宗徒にも背かれることに・・・。
松平の勢いはそがれ、今川にとっては幸いとなったのです。


やる気をなくしてしまったのか・・・次郎法師・・・。
自分が関わるとろくなことがない・・・。

南渓和尚の言いつけで・・・酒を持って行くことになった次郎法師。
なんと、大爺様の直平が戦に出ることになったのです。
出る前に、長年の願いをかなえたい・・・

naotora3

















虎松を助けるために・・・元康の首を取るために・・・!!
そう、こんな年寄りが出なければならないほど、井伊は人材不足となっていました。

「どこかの誰かのせいではない・・・
 仏様がお決めになったことじゃ、おとわ。」by直平

「守るべきものを守るために戦う男は果報者にございまするよ。」by直由

「小さい時に、寺に行ってしもうたからなあ・・・
 酒を飲んだこともなかった・・・そなたと一度、こうしとうてのう・・・。
 実はわしはずっと、そなたが男子であればと思うておった。
 なれど、女子で良かったぞ。
 そなたとは、逆縁にならずとも済みそうじゃ。」by直平

涙、涙・・・大爺様は、これが最後だとわかっているんですね・・・
そして、脳内筋肉でも、次郎が何に悩んでいるのかもわかっていて優しいんですね。

井伊のひとり子でありながら、男子でもなく、誰を守るために戦に行くわ家でもなく、守るべきいとし子もなさん・・・無用の・・・と、悩む次郎法師・・・。

直平、直由、佐馬助・・・それぞれの戦いで死んでいってしまった・・・。
だれも・・・男手がいなくなってしまった井伊。。。

そこに戻ってきたのは・・・政次!!
なんと、父親が・・・吹越満さんに、顔も声もそっくりです。
もちろん思考回路も・・・!!
なんて素晴らしい、高橋一生!!

今川に捕らえられて、出るに出られずにいたとか・・・
しかし、直平、直由、佐馬助の忠義によって許されて出てきたと、いけしゃあしゃあと言ってのけました。
そして、今川の息のかかった目付を3人連れてきたのでした。
この3人は、近隣の領主なので、井伊に詰めることはないものの、何かあった時には頼れという事らしい・・・。

そして・・・氏直の命によって・・・政次が虎松の後見になるという。

「生きておったのか・・・政次!!
 今までどこにおったのじゃ!!」by次郎法師

「直親の内通ゆえに、今川に捕らえられてな・・・
 今日までお戻しいただけなかったのじゃ・・・」by政次

「そう・・・であったのか・・・」by次郎法師

「厳しいお咎めも受け、それはそれは大変だったか・・・
 もう、政を任せられるものもおらぬようになってしまったと、もどされたというわけだ・・・。」by政次

「みんな・・・死んでしまったがの。。。
 政次だけ助かったのじゃな。。。
 何故じゃ・・・どうやって助かった!!
 直親はな、虎松が生れたとき、それは嬉しそうにしておった・・・
 これで二人で井伊を作っていけると・・・そう思うておったと思う。
 裏切・・・裏切るつもりで裏切ったのか!!
 それとも裏切らざるを得なかったのか・・・!!
 どちらじゃ、鶴!!」by次郎法師

naotora4

















「恨むなら直親を恨め。
 下手を打ったのはあいつだ。
 何度も同じことを繰り返し、井伊は終わるべくして終わったのだ。」by政次

ああ・・・政次の目が死んでるよ・・・。
なかなかblackになったもんだ、政次。
父に似て来たよ・・・。

って、次郎法師は政次のことを信じているようで、いつも井伊の人たちと同じような・・・疑いの目で・・・味方にはなっていないような感じがする・・・
そこが、政次をこんな男にさせたんじゃないかとも思うんだよね・・・。


追いつめられれば活路を見出すおとわ・・・
たった一人今川と戦って、出家の許しを勝ち取ってきたおとわ・・・
女子であれ次郎・・・次郎の器・・・。

と、しかし、次郎法師は、みんな自分のせいで死んだと・・・
災厄をもたらす力があると・・・怒り心頭!!
槍を振り回すも・・・

「あの・・・竜宮小僧では・・・??
 次郎さま、井伊の竜宮小僧ではございませんでした・・・か・・・??」by小僧さん

我に返った次郎・・・
「己を責めたとて、死んだ者は帰らん・・・
 じゃが・・・生きておるものは、死んだものを己の中に行かすことができる・・・
 例えば偲ぶことで、例えば習うことで・・・時には習わぬことで・・・他にはないかのう・・・??」by南渓和尚

「亀に・・・この身を捧げる・・・
 亀の魂を宿し、亀となって生きていく・・・。」by次郎法師

「それが・・・お主の答えなのじゃな?」by南渓和尚

母が出してきたのは・・・はるか昔に作った辻が花

「母上・・・直親は最後に、戻ったら一緒になろうと言うたのです。
 かような意味だったのかもしれません。」by次郎法師

ということで・・・幼い虎松の後見として・・・井伊直虎登場!!

naotora7












「我が、井伊直虎である!!
これより井伊は、我が治めるところとなる・・・!!」by直虎


というところでお話終了!!

今まで今川の顔ばかりうかがっていたのに、いきなり還俗したのかしていないのか、でも、虎松の後見人として許しも得ずに登場の直虎です
ま、女だてらに統治できるのか・・・??
そこがポイントで後見人となれたんでしょうけどね。

とりあえず、この回でいろんなことが終わって、直虎として新しく始まることとなりました。


今回の大河・・・結構面白いと思うんですが・・・
みなさんどうでしょうか?
私が思うに、やっぱり南渓和尚がカギを握っているのではないかと思うんです。
なんだかんだと、ツボを押さえて、次郎を導きます。
あ・・・祐椿尼も・・・。

やっぱり、ドラマは主役一人で作るもんじゃなくって、脚本ももちろん、脇を固める俳優さんたちが・・・
サブキャラの良しあしで決まるんじゃないかと思います。
今回はなかなかいい感じでサブキャラが魅力的です

とりあえず、直親が死んだので、ラブラブファイヤーがなくなることを願っています。


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群雄割拠を勝ち抜き、天下統一を果たした徳川家康。
そんな家康にも、屈辱的な戦がありました。
三方ヶ原の戦いです。
対したのは、当時最強と謳われた武田信玄でした。
家康は武田軍2万5000の兵を、1万1,000の兵で急襲しようとしますが、あえなく惨敗・・・。
圧倒的に不利な兵力で挑んだのは若気の至りだったのか?
信長のためか??

1569年28歳の家康は、信玄と結託して今川家を滅ぼすと、その領国を割譲。
信玄は駿河を得て領土を一気に拡大、戦国最強と恐れられるように・・・
一方家康は遠江を手に入れ、三河と遠江を治める戦国大名となりました。
浜松城を築城し、本拠とします。

この二人が同盟を結んでいたのが織田信長・・・
信長はこの時、畿内まで勢力を広げ、天下統一に向かっていましたが・・・
それに待ったをかけたのが、あろうことか同盟を結んでいた信玄でした。
1572年・・・信玄は、室町幕府第15代将軍・足利義昭から信長討伐の命を受け西へ・・・
しかし、その途上で障害となる男・・・それが家康だったのです。
武田軍は、美濃、三河、遠江を攻めるべく、三隊から進軍。
信玄率いる本隊は、家康の居城・浜松城のある遠江へ・・・その数、2万5000!!
これは三方ヶ原の戦いのおよそ2か月前です。
只来城、天方城、飯田城・・・遠江の家康の城を次々と落としていきます。
そして信玄が狙ったのは・・・浜松城の目と鼻の先・・・二俣城!!
ここを落とされれば、最後の砦を失ってしまう・・・!!

信玄は、別動隊も加え、総攻撃・・・!!
同盟を結んでいた信長の援軍はなかなか来ない・・・。
この時、信長には援軍を送れない理由がありました。
京周辺で、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、本願寺の反対勢力に囲まれて身動きが取れない状況でした。
二俣城の徳川軍は、信長の援軍を待ちながら2か月持ちこたえるも、ついに敵の手に落ちてしまいました。
3日後の12月22日早朝・・・信玄は、二俣城を発ち、南に進軍・・・。
天竜川を渡り南下・・・浜松城へと迫ってきました。
窮地に追い込まれた家康・・・どう乗り越えるのか・・・??判断に迫られます。


家康は、すぐさま軍議を開き・・・満場一致で籠城戦。
籠城戦は、城に立てこもり、ただただ攻撃に耐える・・・勝つためには、敵が疲弊しきって退くか、援軍を待って挟み撃ちにするかのみ・・・。
準備と忍耐が必要でした。

しかし、信玄は浜松城には進軍してこず、7キロ手前の欠下で方向転換し、三方ヶ原の大地を登っていったのです。
何を考える・・・??信玄!!
家康は、戦略を考え直さなくてはならなくなりました。

野戦・・・
浜松城で軍議を開いた家康は、困惑し、苛立っていました。
家臣たちを制して、「天道しだい!!」と、合戦!!
このまま城に留まり見過ごしたら、笑いものになってしまう・・・と、意地で出陣を決めたのか・・・??
家臣たちに自分の存在感を示すための意地がありました。
ここで信玄軍にやられっぱなしなら、信玄側についてしまう武将が沢山出てしまう!!
そして、信長との同盟関係・・・信長が、畿内でたくさんの敵に囲まれているところに信玄が敵として参加してしまう・・・!!
信長のためにも出陣したのです。
この頃の家康と信長の同盟は、同盟と言っても主従関係に近く、家康はその意向に逆らうことは出来なかったのです。
家康には、出陣して足止めする以外になかったのです。

徳川軍8000+織田援軍3000=1万1000
しかし、武田軍は2万5000!!
兵の数では圧倒的に不利・・・!!
家康に勝機は・・・??

信玄は、二俣城を2か月かけているため、浜松城を落とすつもりはありませんでした。
早く西へ・・・!!
午後2時ごろ・・・武田軍は三方ヶ原を抜け、祝田の坂を下り始めました。
それを知った家康は、1万1000の兵に出陣を命じます。
坂の上から攻めれば、勝てるかもしれない・・・!!
地の利を生かして勝利できると思ったのです。
祝田の坂は急で、狭く、両側に崖の迫る谷間の一本道でした。
そのため、武田軍は縦列で進むしかありません。そこを後ろから攻めようというのです。
逆落し・・・これが、家康が信玄に勝てるかもの唯一の作戦でした。

しかし・・・三方ヶ原までやってきた家康が見たのは、風にはためく「風林火山」の旗でした。
坂を下っているはずの兵が、そこにいたのです。
すべては、家康をおびき出すための作戦でした。
始めから得意の野戦に持ち込もうとしていた信玄!!
この三方ヶ原で、家康を討ち果たそうと・・・!!

三方ヶ原は、浜松城の北西に広がる南北15キロ、東西10キロの広大な大地です。
当時の絵図を見ると・・・見通しの良い草原であることがわかります。
野戦が得意な武田軍には好都合!!
信玄のおびき寄せ作戦にまんまとはまってしまった家康は、もはや戦うしかありませんでした。
当時、最強の武将と謳われた信玄・・・陣形は魚鱗!!
対する家康は鶴翼の陣!!
包み込んで打ち負かす鶴翼の陣は、相手よりも多い兵力で戦う陣でした。
鶴翼の陣・・・どうして家康は、鶴翼の陣を敷いたのでしょうか?
兵を多く見せるため・・・??
しかし、三河物語は本当・・・??
甲陽軍鑑では一斉にかかったようなのです。
意としての鶴翼の陣ではなかったのです。
三方ヶ原で対峙した両軍は、2時間睨み合います。

午後4時・・・ついに仕掛けてきたのは信玄でした。
農兵が礫を投げ、これを合図に合戦!!
1万1000の徳川軍が、2万5000の武田軍に突進!!
善戦し、一進一退を繰り返すも2時間後・・・徳川軍敗退・・・!!
家康は、僅かの護衛に守られて、浜松城へ・・・!!
追手を振り切って逃げかえっていく家康・・・!!

家康が無事に帰ることができた理由・・・
①時刻
戦が始まったのが午後4時・・・午後6時に終わっています。
戦があったのが旧暦の12月22日・・・今の暦では1月20日ごろ・・・。
日の入りは午後5時ごろ。
戦が始まった時、日はだいぶ傾いていて、佳境に入るころにはあたりは暗くなっていました。
しかも、この日月が出たのは、深夜12時を回ってから・・・。
月明りもない真っ暗闇。。。一般的には夜明けに始まる戦国時代には珍しい時刻の野戦でした。
地の利のある家康にとっては有利だったと思われます。
浜松に逃げかえるという大敗ですが、家康にとっては命が助かっただけでもラッキーでした。

②忠臣
真冬・・・ふきっさらしの三方ヶ原で、信玄に挑んだ戦い・・・家康は敗戦を覚悟すると、討死すると言って聞きません。
説き伏せたのは、古くから仕えた家臣たちでした。
その一人・夏目吉信は、家康を馬に乗るように懇願し・・・
「我こそは家康なり!!」と、身代わりになって、武田の軍勢に突っ込み討死しました。
同じく松平忠次は、甲冑を取り替え・・・家康にふんして敵中へ・・・!!
鈴木久三郎は、家康の采配を掲げ、時間稼ぎをしました。
影武者として三方が原で討ち死にしていった家臣たち・・・浜松城への命からがらの敗走劇にも、彼らの忠義をおいては語ることができません。
家臣たちは、家康を取り囲んで、武田軍からの追撃から守ったのです。

「構わず行ってください・・・!!」by本多忠勝

この戦で、徳川軍は800もの兵を失いました。
命を落とした兵は、武田軍を向いてうつぶせに倒れているか、浜松城にあおむけに倒れているか・・・
敵に後ろを見せて倒れた兵は一人もいなかったといいます。
三河の人たちは信仰心に篤く、団結力がありました。
彼らがカリスマ・家康のもと、強固な忠誠心を育んでいったのです。

後に秀吉に・・・
「徳川殿の宝は何でござるか?」と聞かれ・・・
「それがしのためには、水や火の中に入っても、命を惜しまざる者500騎ばかりおります。
これこそ、家康が身に於いて第一の宝であります。」と答えたと言います。
忠実な家臣に守られ、10キロ・・・浜松城に帰った時は、7,8騎でした。

恐怖のあまり、馬の上で脱糞した家康は・・・
「これは味噌だ。」と嘯いたといいます。
そして・・・すぐに絵師にしかみ像を描かせます。
武田に負けて悔しい表情を終生戒めとして持ち歩いたといわれています。
しかし、近年では、これは、江戸時代中期に描かれたものだという説もあります。

なんとか浜松城まで逃げおおせた家康・・・追ってくる武田軍を阻止する為に門を閉めようとした家臣に・・・
「門は開けたままにしておけ。
 そして、城内にかがり火を焚くのだ!!」
そして、徳川軍の指揮の高さを見せるために、太鼓をたたかせます。
追撃してきた武田軍は・・・
何か、計略があるかも??と怪しみ、引き返していきました。

それでも家康は、信玄の追撃を恐れ、籠城を始めます。
しかし・・・待てど暮らせど、一向に攻めてきません。
信玄は・・・浜松城へ家康を追い返せば良し・・・敵はあくまでも織田信長!!だったのです。

武田軍の追撃を恐れ、籠城していた家康・・・
信玄は織田信長を討つために西へ・・・
再び家康を攻めてくることはありませんでした。
信玄が西へと急いだ理由・・・それは、病でした。
進軍すらままならなくなった信玄は・・・三方が原から4か月後、生涯を終えました。
これを好機と見た家康!!
3年後の1575年、信長と結託し、長篠の戦いで信長と結託し、信玄の子・勝頼を破ります。
1582年・・・織田信長に攻め込まれた武田家は滅亡・・・。
この時家康は、武田家の家臣たちを召し抱えました。
信玄の強さ・・・家臣たちを取り込んだのです。
つねに七分勝ちを信条としていた信玄。
そのセオリーを学んだ家康は、天下分け目の戦いに挑みます。

関ケ原の戦い・・・徳川家康VS石田三成!!

家康は僅か半日で西軍を破ります。
この時家康の取った策こそが・・・大垣城の石田三成を関ケ原におびき出す・・・
これは、三方が原の家康と信玄だったのです。
そして、その屈辱を糧に、天下を取った家康は、江戸に幕府を開きます。
長きにわたる戦乱に終止符を打ち、太平の世の礎を築いたのでした。

戦に次ぐ戦の人生・・・73戦も戦ってきました。
天下人への道は長く、困難に満ちていました。
負けるとわかっていても挑んだ三方が原の戦い・・・信玄に完膚なきまでにたたかれたことで、多くを学んだのです。



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威風堂々・・・三重県伊賀上野城。
その男、上野城の石垣を高さ30メートルまでに積み上げる・・・
四国・今治城では幅50メートルの堀を掘削・・・
大坂では桁外れの石垣を築きました。
その男の名は、藤堂高虎。
75年の生涯で築いた城は30以上に上り、築城の名手とされています。
卓越した技術力で、裸一貫から32万石の大名へ・・・!!

一方で、高虎は、裏切り者、風見鶏と言われています。
弱い主君を見切り、強い者になびく・・・7人以上の主君を渡り歩きました。
そして、遂には天下人まで乗り換えます。
人々はその生き方を批判しました。

築城の名手と裏切り者・・・そこには、日本の未来を決める大きな選択がありました。
きっかけは主君・豊臣秀吉の死です。
秀頼はまだ幼く、石田三成と徳川家康との間に主導権争いが勃発しました。
政権闘争の闇で、三成が密かに計画したのが家康暗殺計画でした。

それを知ってしまった高虎・・・どうする・・・??


京の都に近い近江・・・
1556年、高虎は、藤堂村で生まれました。
父親は、”渡り奉公人”と呼ばれる武士で、有力な主君を探し戦功をあげながら出世をする生き方でした。
しかし、その父親が期待するほど高虎は破天荒でした。
その気性は荒く乱暴で、190センチの身長を生かして、武士として身を立てることを目指していました。
高虎が武将として頭角を現したのは僅か15歳、はじめて仕えたのは浅井長政。
目覚ましい活躍で、それは、大名である長政が礼状を出すほどでした。

「その方は、今月20日、一番首を討ち取ること、他と比べようのない戦功だった。
 今後、さらに戦功を重ねるなら、一人前に取り立てよう。」

しかし、10代半ばで体も大きく悪い意味でも目立つ存在だった高虎。
気の荒さとプライドの高さから争いが絶えず、1572年、17歳の時口論となった同僚を切り殺し、浅井長政の元を出奔。
続いて仕官した阿閉家では、働きの悪い同僚二人に腹を立て斬殺。
その後、仕えた織田信澄は、戦功にあった恩賞を出さないため見限りました。
6年の間に高虎が仕えた主君は4人・・・。
高虎はどこに行っても長続きしませんでした。
そんな高虎の生き方が大きく変わったのが1576年、高虎21歳の時。。。

思わぬ大物武将・・・羽柴秀長から、是非召し抱えたいと声がかかったのです。
秀長は、高虎の故郷・近江国を攻略した羽柴秀吉の弟でした。
高虎を召し抱えるにあたって、秀長が提示した禄高は300石。
直前の主君による待遇80石のおよそ4倍・・・
高虎は、自分の価値を期待してくれる秀長に大いに感激し、二つ返事で引き受けます。
やがて本能寺の変の後、信長の後を継いだ羽柴秀吉は天下統一を目指し、近畿一円の統治政策を進めていきます。
そんな兄・秀吉のもとで、秀長は諸大名との調整役を担っていました。
そもそも秀長は、22歳の時に秀吉に乞われて百姓から武士になっていました。
温厚で誠実、和睦や調停を得意としていました。

「政務のことは私に任されている。
 絶対に悪いようにはしない・・・」

遠江の徳川、薩摩の島津、四国の長宗我部・・・秀長は、地方の大名の相談にも応じ、解決策を見出す役目でした。
そんな秀長に出会い、高虎は武力だけではない才能を開花させていきます。
1583年、但馬を攻略した秀長は、居城造りを高虎に命じます。
高虎は但馬の前領主が築いた山城を修復、石垣を大胆に使います。
主要な建物を、5mの石垣で囲み、強固な守りを築きました。
秀長は、高虎の見事な働きに、高虎の禄高を300石から460石に引き上げ、更なる活躍を期待します。
高虎の頭の回転が速いのを見抜き、城を作らせたり、山林を管理させたり・・・高虎の力を引き出していきます。
1585年、紀州を平定した秀吉は、この地の統治を秀長に任せます。
紀州は、天下統一の要となる拠点・・・城の築城を決め、その普請奉行に高虎を抜擢しました。
後に、和歌山城となるこの城の築城を命じられた高虎は、1万人を動員し、およそ1年で完成させてしまいました。
秀長と出会ったことで、新しい才能を開花させていく高虎・・・
主君を変え、渡り歩いていた暴れん坊が、築城の名手たる武将へと変わっていったのでした。
1585年、30歳になった高虎は、家老として秀長を補佐。
その頃、秀吉は天下統一を見据え、日本全体の統治体制作りに動き出しました。
それまで日本各地の村々は、武装した怒号や荘園領主がバラバラな方法で支配していました。
支配者や領民は、勢力争いを繰り返したので、地域社会は治安が悪く生産性もあがりません。
そこで、無駄を排し、統治体制の大改革を断行する秀吉。
これが、刀狩りと太閤検地でした。
まず刀狩りで、領民すべての武器を回収し、勢力争いや一揆を防ぎ、耕作に専念させようとしました。
太閤検地は、地域でばらばらだった租税の単位を統一。
そのうえで、田畑の広さや土地の良しあしを調べ直し、大名が統治する土地の総合的な石高を算出。
その石高から年貢や兵糧、兵の数を正確に割り出し、全国統一基準で取りこぼしなく徴収を行いました。
この二つによって、秀吉は地域の支配者の力を弱め、中央集権体制を構築しようとしました。
しかし、全国に一律に税を徴収するということは、土地や作物をめぐる地域それぞれの事情が考慮されにくくなります。
年貢や兵糧を軍役が限度を超えて強制される事態を懸念して、民衆たちは各地で大規模な一揆をして抵抗します。
そんな民衆たちに厳しく臨む秀吉。
奥羽仕置き令には・・・
「仕置きに反対する者がいたなら、村という村、ことごとくなで切りにせよ。
 六十余州に固く命じ、山の奥、海は櫓櫂の続く限り、念には念を入れて執行するように。」
高虎は、他の武将に先立ち、改革の実行を任されました。
諸国に先駆け、紀州で刀狩りと太閤検地を実行することになったのです。
その時、高虎が築いたのが三重県の赤木城・・・跡が残っています。
城の周りを石垣で固め、攻め入ろうとする敵を上から攻撃できるように設計されています。
高虎は、この城を拠点に、抵抗する民衆500人余りを殺害し、太閤検地を強行!!
豊臣政権の武将として忠実に任務を遂行し、秀吉の大改革に向けて貢献したのでした。
ところがこの後、高虎の運命は大きく変わっていきます。

1591年、高虎を見込んでくれた秀長が病死。
やがて天下人秀吉が自らが高虎を配下に起きます。
その腕利きぶりを見込んで、伊予板島7万石の大名に抜擢します。
高虎は40歳にして、城持ち大名に出世したのです。
1595年、高虎40歳で宇和島に入ります。
ここで厳しい現実に出会うことに・・・
いざ領内を巡ってみると・・・その田畑は荒廃し、豊臣の大名を見る人々の目は憎しみに満ちていました。
高虎の前大名・戸田勝隆による刀狩りと太閤検地の強行、過度な弾圧の結果でした。
板島では大規模な一揆が発生、激しい弾圧で800人余りが捕らえられ、磔にして街道に晒されました。
戸田勝隆の兵に襲われ、2000人余りの百姓が殺されたといいます。
かつて秀吉改革の先兵として、刀狩り・太閤検地を強行してきた高虎・・・
今は、領主としてこの土地を立て直さなければならなくなったのです。
高虎は、豊臣政権の指示よりも、領国の復興を優先させます。
高虎が土地に入った4か月後・・・
荒れ地を開墾したなら、そののち1年は、年貢をとらないことを約束しています。
荒れた土地の開墾を奨励し、年貢の徴収を後回しにしたのです。
さらに力を注いだのが、民衆の信頼を回復することでした。
高虎は、地域で崇拝されてきた神社を私財を投じて厚く保護します。
領内にあるいくつもの神社を復興させていく高虎。。。
豊臣政権の一武将から、地域と共に生きる大名に・・・。
彼が求める天下の在り方も変わり始めていました。

天下の行方が急変・・・巨大な権力が集中する豊臣秀吉死去・・・
秀頼はまだ小さい・・・
豊臣官僚の五奉行と、大大名の五大老の中で、政治闘争が始まりました。
動き出したのは、政権一の実力者、五大老の徳川家康!!
大名間の婚姻の禁止といった決まりを無視し、政略結婚を進めます。
勢力拡大、政権の主導権をとる意欲を見せ始めました。
石田三成ら五奉行は、家康の行動は支障をきたすと激しく反発し、家康の行動を阻止しようとします。
高虎は難しい立場にありました。
家康は関東250万石を統治、全国一の石高を有する実力者・・・
家康は刀狩りや太閤検地を杓子定規に行うことに反対、土地の事情に応じて統治する為に、大名の裁量を拡大することを考えていました。
地方大名の事情に配慮することは、亡き主君・秀長も同様で、しかし、豊臣家直属の三成たちは秀吉の遺志を継ぎ、中央集権の仕組みをさらに推し進めることを目指していました。
あくまで中央の意志によって効率よく運営することで、安定した統治体制が築けると考えていたのです。
目指すべき道は、豊臣の世・・・??家康のまだ見ぬ国の形・・・??

秀吉の死からわずか半年・・・恐るべき情報を手に入れます。
石田三成らによる「家康暗殺計画」です。
五大老の重鎮・前田利家の病気見舞いの際に討つというのです。
大坂に屋敷のない家康は、伏見から船で八軒家の浜に来る・・・
前田利家の屋敷はそこから4キロの場所・・・
この道中で、家康を暗殺する・・・それが三成たちの計画でした。
家康を助けに行く??見殺しにする・・・??


慶長軍記によると・・・
1599年3月11日、家康は船で伏見を出発。
翌12日の朝、大坂・八軒家の浜に到着。
ところが船着き場には見慣れない駕籠が・・・あたりに人はいない・・・。
家康たちに緊張が走ったその時!!
駕籠から出てきたのは高虎でした。
「この先の道々には、家康様のお命を狙うものがいるという噂がございます。
 私が用意したこの駕籠にお乗りください。
 家康様の駕籠には私が乗ります。」
高虎を乗せた駕籠は、厳重な警護で先に出発・・・家康の駕籠は時間を置いて出発!!

前田利家の屋敷にたどり着きました。
高虎は、三成たちの夜襲に備え、大坂の自宅に家康を匿います。
警護は夜通し続き家康を守り抜きます。
この日を境に、高虎は家康支持を鮮明に打ち出します。
1600年、45歳の時に関ケ原の戦い・・・
家康と三成がついに激突!!
高虎は、三成側大名への寝返り工作に暗躍・・・家康を勝利に導きます。

1603年、48歳の時に家康が江戸幕府を成立させます。
高虎は、家康の側近に招かれ、献身的に支えていきます。
豊臣から徳川への主君の乗り換え・・・
この高虎の変わり身を、豊臣恩顧の武将たちは・・・「裏切り者」
しかし、高虎は、意に介することなく家康のもとで新たな国造りの礎を築いていきます。
関原の功績で、伊予20万石を与えられた高虎は、その復興に取り組みます。
拠点を今治に置き・・・これまでと全く違った城を・・・!!
今治城・・・平地に城を設け、御殿までの道程を、単純なものに・・・。
大名の権威を示す天守も簡素化・・・構造を規格化することで、巨大建築にかかる負担を軽減化・・・。
ほかの大名たちが天守を作るときの手本としました。
高虎は、太平の世を意識し、城を地方政治の舞台とし、設計しなおしたのです。
戦争のためのお城であると同時に、領国支配の政治のためのお城を築いたのです。

城を建設する時に必ず作ったのは城下町でした。
高虎は、城下町に職人や商人を集めるために租税を免除、経済を発展させようとしました。
そうして自ら領国の基礎を作ると、他の大名たちのところに出張し、各地を奔走します。
家康に命じられ、各地で15以上の城を作り、地方の発展に貢献したのです。
徳川政権より多大な評価を受け、三重津藩32万石の大名にまで上り詰めた高虎・・・
息子への遺言には、大名のあるべき志が・・・
「領国を将軍から預けられている間は、すべてのことに油断してはならない。」
領国は大名の私有地ではなく、あくまで将軍から預かったもの・・・大名はかりそめの主でしかない・・・
しかし、だからこそ、領国の全てに目を配り、大事にしなければならない・・・

1630年、藤堂高虎死去。
75歳・・・裏切り者と呼ばれても、自らの意志を貫き通した生涯でした。


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今川を捨てて、故郷の岡崎に戻った松平元康!!
その裏切りに激怒した今川は、元康の妻・瀬名に自害を命じます。
瀬名を救うべく次郎は駿府に向かったが・・・時すでに遅し!!

そこへやってきたのは早馬!!

「松平元康が家臣・石川数正と申す!!
 鵜殿長照殿の忘れ形見を人質として預かっておりまする!!
 瀬名殿、竹千代君、亀姫様とお引替え願います!!」by数正


これが、後に語り草となる元康による瀬名の人質交換劇でござった。

ということで、なんとか瀬名と子供達の命は助かりそうです。

naotora8















そして助かった瀬名は・・・元康の松岡崎へ!!

そう。。。これで瀬名と次郎は敵味方。
そして瀬名にとっては母・佐名とも・・・。

「覚えていますか?
 あなた・・・いつか、今川を手に入れると言っていたんですよ?」by佐名

「夢見がちな子でございました。」by瀬名

「私は・・・たいそううれしかったですよ。
 あなたは幼いながらに私の心の内を感じ取り、私の敵を討とうとしてくれていたのでしょう。
 瀬名・・・岡崎へ行けば、あなたと私は敵となります。
 なれど、迷うことはありません。
 今度こそ、今川を手に入れなさい・・・!!
 それがあなたなら、母は本望です。」by佐名

「はい・・・」by瀬名

この後、佐名は、娘婿・松平元康の謀反のかどで、自害に追い込まる。
これを最後に、瀬名は二度と佐名に会う事はなかった・・・。

と・・・瀬名は、ただの勝気な子ではありませんでした。
子供ながらに、母のために・・・悔しい思いをしていた母のために、なんとか自分が頑張ろうと努力していたのですね。
そして・・・これが今生の別れとなることもわかっている二人なのでした。。。

その頃、井伊に帰った次郎は・・・今回のことを直親に話します。
元康のことが気にかかる直親・・・。
そして今川の変化にも・・・。

そんな井伊にやってきたのは元康の使いの者・・・先日の瀬名の一件の礼だという。。。

naotora9












そこには手紙が添えられていました。

naotora
















返事を書く直親。。。

その手紙には、松平からの鷹狩りの誘いでした。

「おそらく今川はもう立ち直れまい。
 その道連れになるのはまっぴらじゃ。
 となれば、どこかで松平と接触せねばならぬ。
 松平は今、このあたりまで来ておる。
 1年の後には、その波は遠江まで達しよう。」by直親

「じかに会うのはまだ早かろう。」by政次

「じゃが、前もって手を組めばこそやれることというものもあろう。」by直親

「その前に、今川に謀反の疑いをかけられるやもしれんがな!!」by政次

「だから!!政次に決めてもらわねばならぬのだ。」by直親

「選ぶ余地などないではないか・・・俺とて今川と共倒れなど御免だ!!
 その代わり、二つお約束いただきたい。
 一つは今川の間者がどこにおるかわかりますまい。この件は、決して口外なさらぬ事。
 私に一切をお知らせくださること。でなければ、いざという時守り切れません。
 御承知いただけますな??」by政次 

「選ぶ余地などないではないか・・・!!」by直親

ということで、鷹狩りに行ってしまった直親・・・。

そして・・・直親が会った元康は・・・手の甲に傷が・・・!!
私たちのみている元康とは似ても似つかぬ男だったのです

元康の影武者??それとも今川の手先・・・??
直親ピンチ!!

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元康のことを政次に報告する直親・・・それはまさに、昔のように信頼しあっている二人でした。

次郎と政次を一緒にしようという直親・・・
しかし、政次は知っているのです。
次郎は直親を慕っていると・・・。

そこへやってきたのは次郎。。。

naotora3

















井戸を囲んで懐かしい空気がよみがえってきました。

今川屋敷に政次がやってきました。
それと同時に寺に次郎法師を訪ねて来た山伏・・・。
それは、南渓和尚の知っている常慶でした。
この知っているって点が信頼できるのだっ!!

naotora4

















元康からお礼の品を持ってきたという。
「??お礼はもう頂きましたが・・・??」by次郎

今川にはかられたことを知った次郎と直親。
その今川に呼びつけられていたのは政次。
寿桂尼にに問いただされます。
井伊が松平と内通しているのでは・・・??

「まことにございますか?
 それがしは存じあげませぬが、何故にそのような・・・??」by政次

寿桂尼が懐から出してきたのは、直親が元康に宛てた手紙でした。
松平との鷹狩りの件もばれてしまっています。

「殿の筆とは少し・・・違いますような・・・」by政次

しらを切る政次・・・。

「そうか・・・この者が持ち込んできたのじゃがのう・・・」by寿桂尼

その男の手の甲には刀傷が・・・
直親が家康と思っていた手の甲に刀傷のある男だったのです!!

その刀傷を見て・・・すべてを悟ってしまった政次・・・
そう、今川の仕掛けた罠だったのです。

「もう一度聞く・・・そなたは全く預かり知らぬ事なのじゃな・・・??
 まさか、目付でありながら、加担しておったのではあるまいな!!
 答えられよ、答えを選ばれよ!!」by寿桂尼

「選ぶ余地などございませぬ。
 父の代より恩顧を受けました。
 私は、今川様の目付にございます・・・!!」by政次

顔をゆがませながら返答する政次・・・
そこには満足そうな、寿桂尼がいました。

・・・この「選ぶ余地など・・・」って、政次&直親が言った時にはとってもかっこよかったんですが・・・
同じ言葉を屈辱と共に口にすることになるとは・・・!!

直親は、この緊急事態に、松平に助けてもらおうとします。
南渓和尚と次郎法師が、書状をもって常慶と共に岡崎に向かうことになりました。

今川より使いの者が・・・
直親に申し開きのために駿府まで来いと・・・!!

これは・・・父・直満の時と同じ・・・!!

そして頼りにしていた岡崎の・・・松平の答えは・・・

「今、剛力することは出来ぬ!!
 今、ここから井伊にまで兵を出す余力は万津平にはござらぬとの事にございます。」by常慶

焦る次郎法師!!
瀬名を頼ろうとするものの・・・情景によると瀬名は寺にいるという。。。
捨て置かれるはずだった瀬名・・・今川の手の妻子など捨て置けばよいと松平の者は言ったという。
しかし、元康や石川数正が助けたのだ。

それでも瀬名を頼ろうと会いに来る次郎・・・
そりゃあ、無茶だわ・・・。


「私と一緒に井伊に来てくだされ。
 ことがなれば、すぐにでもこちらへお返しする。」by次郎法師

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「なれど・・・私どもでは人質にはなりませぬ。」by瀬名

食い下がる次郎法師・・・
どうにかこうにか瀬名が聞いてくれる・・・??と思ったものの、寺を出るところで、瀬名を残して扉が閉まってしまいました。

「私は参れませぬ!!
 井伊に置き去りにされては、私は今川を手に入れることはできませぬ!
 母と・・・亡き母と約束したのでございます!」by瀬名

瀬名がこだわり続けている今川・・・
その今川はもうすぐ滅びるというのに・・・
でも、そんな瀬名も、元康が庇わないことによって自害させられるのだから、本当に悲しい運命・・・
切ないというか・・・この時、井伊に帰っていたら死なずに済んだのかしらね・・・??

に対して、”助けたではないか”と恩を売っている次郎だけれども、時間稼ぎが今回の恩を売れるほどの助けになったかどうかは、わかんないわよね・・・。
その頃・・・もう一人の針の筵・・・政次は、父の言葉を思い出していました。

「お前は必ずわしと同じ道をたどるぞ。。。」by政直

井伊が呼び出しに応じぬのじゃ!!と言ってきた氏直に・・・

「すこし・・・脅されるがよいかもしれません。」by政次

この時すでに政次の顔は、面をかぶったかのようになっていました。。。
そう・・・直親を売ることで、井伊を守る道を・・・
どんなに井伊のために今川に尽くしても、井伊に嫌われる・・・父と同じ運命を受け入れた瞬間でした。

もたもたしているうちに今川の兵が・・・!!
もう、待てない・・・!!

迎え討つという大爺様・・・井伊の者はみな、そう考えていましたが・・・

「はい、是非さように願います。
 もしも、虎松がかような目に追い込まれたときには・・・!!

 此度のことは、それがしの失態・・・それがしが申し開きに参れば、それで済むことにございます。」by直親

「わしはもう、これ以上見送るのは御免じゃ!!
 見送るのは御免じゃ!!」by直平

ほんと、子供の逆を見るだけでも悲しいのに・・・子、孫までもが・・・

政次は何の音沙汰もなく・・・。

「私は・・・政次は井伊を守ったのではないかと・・・そう、思いとうございます。」by直親


「しの・・・虎松が生れてから寺の井戸には水が湧き始めてな。
 虎松はきっとご初代様の生まれ変わりだと思うのだ。
 この子は井伊をよみがえらせる。
 お前が産んだのは、そういうただならぬ子だと思うのだが、お前はどう思う??

 虎松を頼むぞ・・・!!

 虎松!!
 覚えてほしいことが一つだけある。
 生きておれば、必ず好機はある!!
 わかるか??よし。。。良い子じゃ・・・!!良い子じゃ!!」by直親

と、家族の最後の別れを惜しむ直親・・・。

だったのに・・・!!

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このシーンだわ・・・

「我が男子に生まれておればよかったのじゃ!!
 さすれば明日、駿府に参るのは我であったはずじゃ・・・!!」by次郎法師

「それは困る。
 おとわが女子でないのは・・・。
 もし、おとわが女子でなければ・・・ 
 俺のたった一つの美しい思い出がなくなってしまう・・・」by直親


ここいる・・・??
それまでの、次郎法師がちょかちょかしなければ、目をつけられることはなかったのは本当かもしれない。
次郎法師が男子に生まれていたら、こんな悲劇はなかったかもしれない・・・。
って言っても、今川から目をつけられている井伊の男子はことごとく殺されてるけどね・・・。

でも、たった一つの美しい思い出がなくなってしまうって・・・
しのはともかく虎松との日々は・・・??
美しい思い出ではないのか・・・??
あのまま、家族三人の直親がよかったよ~~~!!

川名での経を読んでほしいと頼む直親・・・
しかし、死者を悼む経なので、読まない・・・と、断る次郎法師。。。

「戻ったら一緒になってくれ・・・!!」by直親
「心得た・・・!!」by次郎法師

抱き合う二人だよ・・・。
無理だろ・・・どうしてしのじゃいけないんだ・・・。

「待っておるからな!!」by次郎法師
卑怯な手を使ってでも帰って来いという次郎法師。

う~ん・・・腐ってももう一つの饅頭になるって決めたんじゃないの??
それとも死に行く運命の直親を優しく包んであげたのか・・・??

誰もが直親が生きて帰れるとは思っていなかったのだから・・・

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今川に向かう途中・・・
そこには、敵が・・・!!

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ということで、ラブシーンが蛇足な今回でした。

実際、次郎法師が私が男であったなら!!と、思っていたでしょう。
もちろん、生まれる前から男子であってほしいと両親も、大爺様も思っていたと痛感していたはずです。
そんな次郎法師の心の叫びが発せられた一コマの後に、ラブシーンはなあ・・・

次郎法師に女性の部分って必要でしょうか??
例えば・・・浅井長政の娘・茶々が、自分の血筋(織田信長の姪)と父・長政の敵討ちを心に秀吉に取り入って、最終的に天下を取るという”どす黒い”部分を書いてくれるのなら女性もアリですが・・・。
あ・・・”江”の時も、いろいろ活躍した江なのに、お饅頭食べて子供産んでばっかりで、彼女の最大の功績である娘・和子を御水尾天皇の中宮として嫁がせたことは触れもしなかった大河もありましたね・・・。

出家してるんだから、女性はダメだろ・・・!!



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