日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

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う~ん、今回は、ちょっと一休みな回でしょうか?
でも、斉彬さまやお篤のの登場で、とっても大切な回だったんでしょうね

1851年・・・斉彬が薩摩にお国入りをし・・・みんなはとっても期待大!!
これから新しい政策が始まるのか・・・??
そんな空気に満ち溢れていました。

そんな折・・・殿さまが御前相撲をするという・・・。
優勝賞品は、米俵10俵!!
みんな大ハッスル!!ハッスルって・・・古いかしら・・・??

そんな中、正助は相変らずの蟄居で勉強中!!

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斉彬の政策は・・・斉興の政策をそのまま継ぐというものでした。

「「襲封して3年、先君の政、曲げること叶わじ」とあるが、如く余もそれに倣う!!
 先代の時に劣らず、更に励んでくれ!!」by斉彬

つまり・・・正助の父も島流しから帰ってくることはなく、また正助もそのままの蟄居・・・??
どうしても理解できない吉之助たちは、御前試合で殿にお目見えし、直訴することを目論みます。

糸に・・・縁談話が・・・。
正助→糸→吉之助なのにね~~どうする??
そして、この御前相撲には糸の縁談相手も来るようです。

当日・・・そこには茶目っ気たっぷりの・・・篤姫が・・・!!
相撲男子・・・みんなのテンションMaxです!!
下鍛冶屋町の代表は、村田新八でしたが、食べ過ぎてお腹を壊して、西郷吉之助に・・・。
何ともベタな展開です。が・・・年配の方にはこっちの方が、わかりやすいのかな・・・??

「おいは・・・下鍛冶屋町、西郷吉之助でごぜもす。」by吉之助
「西郷・・・吉之助・・・??」by斉彬

う~ん、吉之助は、いっぱいお手紙を書いていたわけだから、直訴はお手紙でもよかったんでないかな?と思うんです。
こんな風に大っぴらに直訴しちゃったら、切腹もんですよ??
と思っていたら、村田新八の代わりが認められて、吉之助が御前相撲に出ることに・・・!!

篤姫は、もう一人の姫とどちらが勝つかかけることに・・・。

う~ん、個人的には、北川景子さんは綺麗ですが、あんまりお上品ではないかな?というか、和風な顔ではないかな??って思っています。
なのですでにちょっと・・・
おまけにお転婆を印象付けるためか、賭けをしたり、お菓子を一口でパクッと食べたり・・・それ以上に品がないなあ・・・と思ってしまう残念な仕上がりでした

ま・・・今はまだ若く、天璋院篤姫ではないのにしてもね・・・
糸にしても、男性と一緒にいたり、正助のもとに通ったり、吉之助におんぶされてみたり・・・当時の人のお転婆を表現しているのかもしれないけど、こんな女性は結婚すら出来ないでしょう
糸は、山本八重子のように鉄砲をぶっ放したり、寿桂尼や、直虎のようにおんな城主であったわけでもないのに・・・普通の女性なのに可哀想です
ま、史実通り、西郷と糸が16歳の年の差を考えて、吉之助が女の子をおんぶするなら、ほほえましかったでしょうがね・・・

正助は糸が西郷が好きなことを知ってしまい・・・
吉之助は、糸の縁談相手と決勝戦をすることに・・・。
そんな決勝戦に斉彬と賭けをするお篤。
もちろんどういう訳か、篤姫は吉之助を応援します。
??吉之助の何を知っているというんだ??
その肉体美か・・・??

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ケガをした相手に、正々堂々と戦ってかつ吉之助。

そして、負けじと斉彬も相撲をし出す始末・・・さっきの決勝戦はデモンストレーションか、前振りか・・・??

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「いけ、西郷!!」と何回も、はしたなく叫ぶ篤姫・・・

そして・・・勝ってしまった・・・
切腹させられるかもしれない・・・吉之助・・・。
って、心の広い斉彬さまはどこにいったんだい・・・??
そして・・・その牢にいた洋装の先客は・・・いったい誰・・・??

ということで、この洋装の男の会わせるために投獄だったのかな??とも思います。

ま、今回の内容は、創作なのでどうでもいいですが、この作品は、明治維新で終わるのかな??とも思えます。
西南戦争までやって下さいよ~~~
これからいろんな謀略の渦に巻き込まれていく人たちです。
外圧がなければ根本から変われない日本・・・
その外圧があって変わったのは、乙巳の変と明治維新・・・長い日本の歴史の中で、2回だけです。
御前相撲が悪いわけではない・・・コイバナじゃなく、もっといろんなことを・・・
例えば御前相撲なら、もっと斉彬と絡ませてくれるとか・・・
去年と違って、行事が目白押しの西郷さんなんですが・・・。
これからのいろんな心の動きを丁寧に書いてほしいなあ・・・と思います。
とにかく、正助との間には、三角関係じゃなくって、語らなくてもわかる友情をお願いします

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20世紀初頭、フランスで発売された香水の名は・・・ミツコ・・・小説のヒロインにある日本人の名を取ったものです。
この香水が売りだされた頃、ヨーロッパでは同じミツコという女性が、社交界の華となっていました。
クーデンホーフ光子・・・黒い瞳の伯爵夫人とよばれました。
ドラマや舞台、漫画にも取り上げられてきたグーデンホーフ・光子・・・。
元々は町娘だった光子がヨーロッパ貴族と結婚・・・光子が嫁いだクーデンホーフ家は、広大な帝国を築いたハプスブルク家に仕える名門でした。
まさに、シンデレラストーリーです。
しかし、その結婚は、光子本人が望んだものではありませんでした。
夫と共に、ヨーロッパに渡った光子は戸惑います。

「私は若くて、何もわからないし、夫にとっては子供みたいなものだった。
 夫はまず、私を教育しなければならなかった。」by光子

それでも、7人の子供に恵まれ、幸せな日々を送っていましたが、突如夫が急死・・・。
光子は日本への帰国を諦め、子供たちを育てることに専念します。
一方、光子はウイーンの社交界で、黒い瞳の伯爵夫人と称えられます。
しかし、そんな華やかな日々も過ぎ去り、光子は孤独を深めていきます。
当時の国際結婚は年に10組あるかないかでした。
そんな時代に、町娘でありながらヨーロッパの名門貴族と結婚し、伯爵夫人となったのです。

1874年、東京府牛込区(市ヶ谷附近)で生まれます。
放蕩息子だった父は、家を追い出され、この町で小さな骨董店を営んでいました。
商売繁盛を願い、父は神と仏を大事にし、家には神棚と仏壇が10以上もありました。
光子は幼いころから、この神棚と仏壇の掃除やお供えを毎朝何時間もかけてさせられました。
その後、小学校を中退させられ、高級料亭「紅葉館」に奉公に出ることに・・・。
ここで光子は、厳しい礼儀作法、三味線、舞踊、和歌、生け花・・・いろいろ学びました。
16歳の頃には実家に戻り、店を手伝うことになります。
そこに現れたのが、ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵でした。
ハプスブルク家が支配するオーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったハインリッヒ。
日本の古美術に興味を持っていました。
当時33歳だったクーデンホーフは、17歳だった光子に心を奪われます。
そして、来日して1か月も経たないうちに光子を妻とします。
1892年17歳での結婚でした。
光子は後に・・・
「美しい淑女たち、つまりパーティー好きの女性に対して、夫は反感を示しました。
 だから彼は、私が好きだったのです。
 私はバカで頼りなく、とるに足らない人間だったからです。」と言っています。
一方光子の方は・・・ハインリッヒに恐怖さえ持っていました。

「”紅毛で魚のような目をした白い鬼”だとばかり思っていた西洋人と結婚するなんて、死よりも呪いたいことだったのです。」と。。。by三女・イーダ

父親も公言していました。

「紅毛に娘をさらわれたとあっては、先祖に申しわけない」と。

しかし、実はハインリッヒから父に一生困らないほどの金が渡されていて、結婚に反対だと言ったのは、世間体の為でした。
光子は、父の命に背くことはできなかったのです。

「両親のために生き、両親のために死ぬということが大切なことです。
 日本では、両親は聖なるものです。」by光子

明治初期に、誰と結婚したいか聞かれた娘は非常に少なく、みんなどこかで決められ・・・大概は父親でした。
全く光子の遺志とは関係なく・・・父親はいくらお金があっても足りない人でした。
結婚してヨーロッパに来てからも、父親に仕送りをしていました。
突然西洋風の暮らしをすることになった光子を、ハインリッヒは優しく支えます。

カトリック教徒の夫は、毎週ミサに出かけました。
そして、ミサのあと、貧しい人に食料を配りました。
その行為に感動した光子は、自らもカトリックの洗礼を受けます。
光子は子供たちにこう書き残しています。

「パパが私に与えた最大の贈り物は、私をカトリック教徒にしたことです。」by光子

ハインリッヒとの暮らしの中で、光子は様々な体験をします。
日本での乗馬、朝鮮半島にも虎狩りに行きました。 
嫌な思いをすることも・・・ウラジオストクでは夫の趣味の刑務所見学も。。。
それでもハインリッヒに惹かれていく光子。

そして、19歳の時に長男を、よく年には次男を出産。
結婚から4年・・・思わぬ知らせが・・・
夫の父が亡くなって相続の手続きのためにヨーロッパに行かなければならなくなりました。

1896年、21歳の時、旅立ちに際し、外交官の妻として皇后に拝謁。。。
そして、こう声をかけられます。
「遠い異国に住めば、いろいろ楽しい事もあろうが、またずいぶんと悲しくつらいこともあろう
 しかし、どんな場合にも、日本人としての誇りを忘れないように。。。」by皇后さま
日本人としての誇り・・・光子はこの言葉を生涯心の支えとしました。

21歳の時、幼い二人の息子を連れて2か月の船旅でヨーロッパへ・・・。
船の上ではこれから使うことになるドイツ語の習得に励みます。 
途中立ち寄ったセイロン島で、光子は強い印象を受けます。
「見渡す限り、人も野原も色とりどりで絵のようにきれいです。
 しかし、この理想郷にも毒蛇がいて、黄熱病がある。
 世界に完璧なものはないとパパ(夫)が言っていたけれど、謙遜を知り、不平を言わないことです。」by光子

その後、ローマ法王とも謁見し、感銘を受けます。
「感動の瞬間が来ました。
 法王は、私は小さな子供でもあるかのように頭をなでてくださいました。
 涙があふれてきました。」by光子

1896年、21歳で夫の故郷・ロンスペルクに到着。
町をあげての熱烈な歓迎を受けました。
地元の新聞は、光子の姿を第一面に掲げ、ロンスペルクで類まれな祝宴が開かれたと書いています。
行列は、楽隊の演奏付きで、オーストリアと日本の国旗で飾られた道を通って進みました。
優雅な伯爵夫人は英語が得意で、すでに少しドイツ語を話すそう・・・。
クーデンホーフ家は、一日馬車を走らせても端から端までつかないほどの広大な領地を持っていました。
城での豪華な暮らしが始まりました。
が・・・光子にとってはすべてがプレッシャーでした。
そして、名門貴族の妻として恥じないように、ヨーロッパの歴史、地理、芸術などの教養を身に着けるべく必死に学びます。

そんなある日・・・夫はヨーロッパ貴族のたしなみである狩りに光子を連れて行きます。
しかし・・・光子は鹿が撃ち殺される光景に衝撃を受けます。
子供の頃、殺生を戒める仏教の教えに慣れ親しんだ光子には耐えられませんでした。

「日本の奈良では、鹿が自由に歩いているんです。
 無垢な動物を理由もなく撃ち殺すのは犯罪のようです。」by光子

光子の気持ちを知った夫は、二度と銃を手にしませんでした。
当初光子たちは3年ほどで戻るはずでしたが、不測の事態が・・・
領地を管理していた支配人の不正が発覚!!
その支配人を回顧するに伴って、夫が領地を管理することになったのです。
日本に帰るめどが立たなくなった光子でしたが、心のうちを見せることはありませんでした。

「絶望的なホームシックにかかっても、そのことをパパ(夫)には話しませんでした。
 心配させたくなかったからです。」by光子

その後、光子は次々と子供を産み7人の子の母となります。
しかし、子供達にはそれぞれの乳母や家庭教師がついているので、光子は8番目の子供のようにふるまっていればよかったのです。
子供達の方が、どんどんパーフェクトなドイツ語を話すようになっていく・・・そんなに学んでも付け焼刃な光子・・・。
光子がそれに満足だったか満足ではなかったのか?
光子はプライドの高い人だったので、自分の本当の気持ちを表せない・・・書き残してもいない・・・。

「お母さま、これはなんでしたっけ?」
光子は子供の質問に答えられませんでした。
それ以来、光子は家庭教師に頼んで子供の学習内容を予習。
十分に睡眠をとれない日々が続きます。
後に息子の一人は語っています。
「母は女王であり、そして奴隷であった。」と。

1906年、31五歳の時・・・日本を離れて10年、光子を突然の悲劇が襲います。 
夫が、46歳で、心臓発作で急死したのです。
光子を守っていた城壁が崩れ落ちました。

「一生忘れることのできない、恐ろしく悲しい瞬間でした。」by光子
 夫を亡くし、異国に取り残されることとなった光子・・・
夫の親族は、光子が帰国するものと考えていました。
しかし、光子はヨーロッパに踏みとどまる道を選びます。

光子は夫の日記に挟まれていた1枚のメモを見つけます。
そこには、こう記されていました。
”私の義務”
神を愛すること。
貧しいものを助けること。
光子を幸せにすること。
改めて、夫の愛を感じた光子は、子供たちを自分の手で育てようとします。
そこに立ちはだかったのは夫の親族たちでした。
広大な領地を相続することとなった光子の子供達・・・後見人を巡る訴訟を起こされました。
たった一人、孤立無援の光子は・・・皇后さまから賜った日本人としての誇りを胸に・・・
法律の勉強をします。
同時に、領地経営の知識も学んでいきます。
「意思があれば、すべてが可能です。
 意思があれば、世の中になすことができないものはありません。」by光子
そして光子は、3年近くに及んだ裁判に勝利します。
日本女性が一人、ヨーロッパにやってきて、上流階級の社会に入り、夫とは死別・・・
そして後に残った7人の子供・・・その7人を、物凄い勇気と義務感で育てました。
しかし、強い責任感から、子供達にも厳しくするようになります。

「優しくて忍耐強かった母は、厳格で専制的になった。」by次男リヒャルト

自分がどういう教育を受けたか、それ以外の教育は子供達に与えられない・・・
明治初期に光子が受けた教育をそのまま実行しようとしました。
それでもスパルタ教育は功を奏し、長男、次男共にウィーンの国内トプレベルの学校に進学します。
そして、長男、次男を支えるために・・・光子も1980年34歳でウイーンに移住します。
当時、ウィーンは、オーストリア・ハンガリー帝国の中心地で、ヨーロッパ屈指の都市でした。
その社交界に顔を出すようになる光子。
長男と次男を位の高い人々に売り込むのが狙いでした。
やがて光子は黒い瞳の伯爵夫人と称えられるようになります。

「優雅に美しく装い、快活で機知に富んだ母は、魅力的な花形で、社交界の中心的存在でした」by三女イーダ

そんな光子にプロポーズする男性もいましたが・・・すべて断り、エスコート役はすべて二人の息子でした。
30代半ばからの数年、光子は最も華やかな日々を過ごしました。
光子の7人子供のうち3人が博士号、2人が作家として活躍しました。
大成功に見える子育てですが・・・親子の間には、深刻な亀裂が・・・

1914年、40歳の時に第1次世界大戦が勃発!!
オーストリア・ハンガリー帝国と日本は対立していました。
光子はウィーンを離れることに・・・華やかな生活は終わりを告げました。
そして光子は、長男と三男の出征を見送ります。

「私は涙をこらえました。
 死ぬほど悲しかったです。」by光子

そんな中、19歳のリヒャルトが、13歳年上の離婚歴のある女優と結婚すると言い出しました。
激怒した光子は、リヒャルトを勘当!!

「兄の恋愛は、母の性格を変えてしまいました。
 戦争だというのに、家の事も考えずに結婚してしまったことは、保守的でしきたりを重んじる日本の女性にとって、理解しがたい事だったのです。」by三男ゲロルフ

次男に失望した光子は、他の子供たちにさらに厳しく当たるようになります。

1918年、44歳の時に第1次世界大戦終結。
ハプスブルク家の支配していたオーストリア・ハンガリー帝国は、敗北し、解体されます。
そして、クーデンホーフ家も、特権的な地位を失ってしまいました。
こうした中、他の子供達との間にも亀裂が生じていきます。
光子は、長男・ヨハネスの結婚にも反対しました。
妻・リリーは、自己主張の激しい女性だったのです。

「僕はもう、かなり前から成人している。
 此の事を、忘れないでもらいたい。」by長男ヨハネス

また、長女・エリザベート、三女・イーダは、女性には学問はいらないという光子の方針に逆らって大学に進学する為に、家を出ていきました。
光子もまた、ウィーン郊外へと移住。
傍に残ったのは、次女オルガだけでした。
光子は、ひっそりと暮らすようになります。

「あたり一面の華のじゅうたんがあるのに、私の周りは雑草や干し草ばかり。
 目の前の華のじゅうたんに私の手が届くことはないのです。」by光子

1923年、光子49歳の時に、次男リヒャルトが「パン・ヨーロッパ」の論文を発表。
第1次世界大戦の反省から、ヨーロッパ各国の連帯の必要性を説き、現在のEUの先駆けとなりました。
この思想が生まれたのには、自分のルーツが関係しているとリヒャルトは言っています。
「ヨーロッパの男性と、アジアの女性との間に生まれた子供として、国家的観念をもってものを考えないで、アジアおよびヨーロッパという大陸的な考えをしていた」byリヒャルト
この功績が称えられ、ノーベル平和賞候補に・・・!!

そして、光子はパン・ヨーロッパの母と呼ばれることに・・・。
「あの子のおかげで、”パン・ヨーロッパの母”と称えられるようになり、内心これを誇りに思っています。
 育て甲斐のあったことに満足です。」by光子

1924年50歳の時に、脳卒中で右半身にマヒが・・・
同居していた次女・オルガは、母の傍を離れられなくなってしまいます。
「お前は私の娘だが、また友達で、秘書で、家政婦で、看護師でもある。
 お前がいなくなったら、死んでしまう。」by光子

大学受験も、仕事も、結婚も叶わず、母の世話をし続けるしかありませんでした。
晩年、光子は望郷の念に駆られていきます。
日本語の本や新聞を読み、日本のレコードに耳を傾け、和歌を詠みました。

「年老いて 髪は真白になりつれど 今なお思う 懐かしのふるさと」

1941年8月、2度目の脳卒中の発作を起こした光子は、帰らぬ人となりました。
1941年8月28日・・・クーデンホーフ・光子永眠・・・67年の生涯でした。
日本を旅立ってから、再び祖国の地を踏むことはありませんでした。

現在光子は、ウィーン郊外に眠っています。
「ひつぎは日の丸で包んでほしい」そう言い残していました。
次男リヒャルトは、こう語っています。

「母の生涯を決定したのは、3つの理想
 すなわち、名誉と義務と美しさでした。
 母は自分に課された運命を、誇りをもって品位を保ちつつかつ優しい心で甘受していたのです。」

光子自身は次女オルガに・・・

「まるで終わりのない仮面舞踏会のよう
 あなたたちは、舞踏会の後、着物を脱ぐでしょ。
 私には、この”脱ぐ”ってことがなかったわ。」by光子


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時は風雲急を告げる幕末!!
西郷隆盛や大久保利通、大改革を担った逸材を生んだ薩摩藩の人材力!!
欧米列強と互角に渡り合った軍事力と外交力!!
あらゆる能力に抜きんでた薩摩藩は、江戸幕府の幕引きという大改革を成し遂げていきます。
どうしてそんなことができたのでしょうか?

鹿児島市にある照国神社・・・この神社は、薩摩藩の活躍を導いたある人物を祀るためにつくられました。
薩摩藩第11代藩主・島津斉彬公です。
その死後、孝明天皇により照国大明神という名をもらい、この地に祀られました。
国を照らすとまで言われた島津斉彬・・・
どんな人物だったのでしょうか?

島津斉彬は、江戸の薩摩藩邸で生まれました。
薩摩藩の未来の藩主として青年時代を送りました。
斉彬の人となりは・・・

”色が黒く、体格はお背が高く、横張りの頑丈なお方で、お正月のはじめなど
 「おめでとう」と、隅々まで通る大きな声で仰せられたものである。
 まことに威風堂々たるものであった”

人柄は穏やかで頭脳明晰、会えば雷に打たれたような印象を与えた斉彬・・・
斉彬が、日本の将来に強い危機感を抱く事件が中国で発生します。
アヘン戦争です。
イギリス軍の圧倒的な軍事力を前に、清が屈服したという知らせに、斉彬は衝撃を受けました。
斉彬自身がまとめた「清国阿片戦争 始末に関する聞書」では・・・
貿易を強引に要求し、相手国を植民地化する脅威を察知したことがわかります。

1851年、43歳で藩主となった斉彬は、すぐさま行動に出ます。
尚古集成館には、斉彬が取り組んだ大砲が再現されています。
それまでの大砲は、青銅で作られていました。
斉彬は、銅よりも安く強度の高い次世代の武器・・・鉄製の武器に取り掛かります。
そして、この鉄製の大砲が、飽くなき探求心の始まりでした。
青銅に比べて、鉄は高い温度で溶かさなければなりません。
青銅の大砲よりも高度な技術が必要でした。
オランダから反射炉を使った鉄の大砲づくりが導入されることとなります。
衝撃や熱に耐える良質の鉄を造ることができます。

佐賀藩の専門書を頼りに見たことのない反射炉の製作に取り掛かります。
失敗の連続の末に・・・5年の歳月をかけて反射炉が完成!!
斉彬は、溶鉱炉や鑚開台を作らせます。
大砲づくりのコンビナートを作ったのです。

斉彬の目標は、大砲だけでなく、西洋式の軍艦の建造。
貴重な情報源は、中浜万次郎・・・ジョン万次郎でした。
小型の様式帆船を建造し、それを発展させ、大砲を備えた日本初の大型軍艦「昇平丸」を作りました。

蒸気の力を動力とする蒸気機関は、当時の最新技術でした。
その開発に成功し、日本初の蒸気船を完成させます。
”薩摩の火だるま船”と、呼ばれ、ペリーの来た直後には完成していました。
斉彬が開発に成功したのは、ペリー来航からわずか2年後だったのです。
薩摩の技術力には驚かされるばかりです。

更に斉彬が取り組んだのが・・・「薩摩切子」・・・カットグラスです。
薩摩独自の産業にも力を入れた斉彬は、貿易による国力増強も考えていました。
軍備の強化だけではなく、人々の生活を豊かにする・・・富国強兵・殖産興業の先駆けだったのです。

未曽有の外圧を前に斉彬は・・・

「幕府も、諸大名も、これまでの一国一群単位の意識では、欧米の脅威から日本を守ることはできない。
 日本一致一体となって一応に高性能の軍備を備えて初めて、本当の防備が出来るというものだ」

西欧列強の脅威にオールジャパンで対対応していくことを提言した斉彬・・・そのキーワードが「日本一致一体」でした。
この後、どのようにこれを実現していくか・・・??薩摩藩の幕末は動き出したのでした。


16世紀後半のアジアの地図・・・
日本が曖昧な形の時代に、Cangoxina(鹿児島)が書かれています。
薩摩藩は、中世以来、交易の門戸を開き続けてきた海洋国家でした。
江戸時代を通じ、琉球王朝(沖縄)を統制下におき、鎖国の時代に、莫大な貿易の利益を得ていました。
鹿児島県日置市美山、薩摩焼の郷。
薩摩焼のルーツは、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に、島津家が優れた陶工を鹿児島に連れて帰ったことに始まります。
そこに、海洋国家薩摩藩の知られざる姿がありました。
他の藩も陶工を連れて来たものの日本人にしてしまいました。
しかし、薩摩藩は、朝鮮人技術者のみならず、彼らの言語を保護し、一カ所に住まわせ、朝鮮名を名乗らせ、朝鮮語を喋らせる・・・「リトルコリア」・・・保護区を作ったのです。
江戸時代を通じ、薩摩藩は鹿児島の朝鮮人陶工たちに髪型や朝鮮の言葉を使い続けることを許しました。
密貿易で薩摩にやってくる商人たちを、漂流民として扱い、幕府に報告していました。
そこに、海洋国家の薩摩のしたたかさがありました。
薩摩の人が船の修理のお代にもらった高麗人参は、富山の薬売りに高く売れました。
代わりに仕入れるのは、北海道産の昆布でした。
それを選別として朝鮮に渡し・・・彼らも地元に戻ってこの高級品を売りました。
広大な海の交易圏の中心に薩摩があったのです。
幕府に極秘に行われた密貿易・・・
それは、物資だけでなく、大陸からもたらされる最新の国際情勢や、技術、文化をいち早く入手することを可能にしました。
この海洋国家としてのDNAが、代々国際性豊かなリーダーを作り上げていくのです。

中でも・・・蘭癖大名・・・島津重豪。
ローマ字を書く重豪は、学問を重視し、天文館を設置、百科事典や辞書、世界地図を作成させ、文化力向上に努めました。
そんな重豪から将来を託されたのがひ孫の斉彬でした。
斉彬は18歳の時、重豪に連れられてオランダ商館付きの医師・シーボルトと面会・・・世界を見つめる目を茶しなっていきます。
斉彬もローマ字をマスターし、海の向こうの未知の文明を全身で学び取ろうとしました。
はるか中世から続く、海洋国家としてのDNA・・・それが、東アジアの小さな島国・日本の危機を見抜いた名君・島津斉彬をうんだのです。


寺島宗則(松木弘安)
鹿児島の中心・・・鹿児島中央駅前の銅像・・・タイトルは「若き薩摩の群像」
激動の時代に密かにイギリスに渡った薩摩の17人の留学生を顕彰しています。
メンバーの一人は、五代友厚・・・後に、大阪経済界を代表する実業家となります。
明治政府の初代文部大臣・森有礼。
なかでも名君・斉彬ととりわけ深いかかわりを持っていたのが、寺島宗則です。
明治の条約交渉で、日本外交に大きな功績を残した政治家でした。

元の名は、松木弘安。1832年に生まれ、優れた蘭方医の養父に育ちます。
語学力に優れた薩摩きっての秀才でした。
彼の力は藩も認め、医学の修行や最先端の蘭学にかかる費用は、全て藩が負担したといいます。
マルチな才能を持っていた松木弘安・・・蘭学、医学、文学、化学、物理学、天文学・・・語学の天才で、オランダ語が凄くできました。
期待したのは斉彬・・・。
オランダ語の翻訳から、反射炉の実験、蒸気機関の設計に至るまで、集成館に必要な技術の研究と実用化くぉ松木に一任しました。
期待に次々とこたえていく松木は、島津家別邸仙巌園では、庭園の石灯篭に石炭から精製したガスを使用しガス灯をともすことに成功・・・明治にガス灯が作られる15年も前の事です。

また、絹糸を巻いた電線を鶴丸城から庭園探勝円まで引き、550mの距離で電気通信に成功。
松木は日本の電気通信の父と称えられました。
写真術の研究にも没頭し、松木の飽くなき探求心に応え、斉彬は次々にミッションを与えていきます。
薩摩藩の近代化の夢に邁進していく二人がいました。
ところが・・・1858年7月16日島津斉彬死去。
大砲教練を視察した日に・・・50歳での突然の死でした。
藩主として7年・・・その悲報に、斉彬の薫陶を受けた者たちは涙しました。
松木は勉学を続けます。
開港したばかりの横浜で、外交文書の翻訳に従事しながら、斉彬の志を・・・西洋を研究していきます。
すると、その努力が認められ、幕府のヨーロッパ使節団の一員に選ばれます。
日本の未来を担う有能な存在を幕府がリストアップし、松木は海外諸国を歴訪する初めての薩摩藩士として参加します。
時に1861年、松木弘安30歳でした。
その中で松木を驚かせたのが、産業革命後高度な文明のイギリスでした。

「このヨーロッパ巡視の中で初めて知ったことがあります。
 オランダ国外に出れば、オランダ語を知る人は一人もおらず、
 イギリス、ドイツ、フランスに比べれば、百分の一以下の国でした。
 日本に戻ったのち、もはや蘭学を教える意味はないと思います。」by弘安

松木の視線は、オランダからイギリスに移っていきました。
斉彬の遺志を継ぎ、松木はヨーロッパを巡り、世界の中で日本の進む道を考える・・・
そして・・・それが、薩摩藩の窮地を救うこととなっていきます。


1862年松木がヨーロッパ視察から帰国・・・この年を境に、薩摩藩の藩の存亡の危機に・・・!!
この難局をいかにして乗り切っていくのでしょうか?
ピンチで発揮される薩摩イズムとは・・・??
斉彬の死後、その遺志を継いだのは弟・久光でした。
そこに、薩摩藩最大の危機・・・生麦事件が・・・!!
1862年8月21日生麦事件。
江戸から鹿児島へと帰還する島津久光の大名行列に、不用意にも近づいてしまったイギリス人一行を、薩摩藩の警護役が迷いなく斬りつけました。
一人のイギリス人青年が、死亡・・・するとこれが大事件に・・・。
イギリス側が、幕府と薩摩に賠償を要求。
犯人の処刑も求める強硬姿勢にでます。
その時、誤った情報が薩摩に伝わります。
「イギリスは、久光の首の差出を求めている・・・」
薩摩とイギリスとの激突は必至・・・!!
この時、イギリスとの交渉に薩摩が頼みの綱としたのが、語学力に長け、海外経験のある松木弘安と五代友厚でした。
1863年6月27日・・・イギリス艦隊が鹿児島湾に現れます。
その4日後・・・一向に動かない薩摩にしびれを切らし、薩摩藩の汽船3隻を捕らえようとします。
その1隻に松木と五代が・・・!!
薩摩の船を守るために、抗議する松木!!
しかし、船は拿捕され、二人はイギリス軍に拘留。
それをきっかけに、砲撃を開始する薩摩でしたが、イギリスとの火力の差は歴然!!
砲台や集成館が破壊され、鹿児島城下は火の海となりました。
薩英戦争です。
想定外の戦闘となってしまったイギリスは横浜に帰還。
松木と五代は捕虜として連行されてしまいました。
その後、薩摩とイギリスとの関係は・・・
そこには、もう一人の薩摩藩士の活躍がありました。
横浜で行われた薩英戦争の賠償交渉・・・英国代理公使・ニールと相対したのは、薩摩藩士・重野厚之丞。
重野も、斉彬の薫陶を受けた学者肌の藩士で、後に久光の庭方役をしていた切れ者でした。
イギリスとの難しい交渉に驚くべき提案をしています。
賠償をするので、その代わりにイギリスから軍艦を購入します。
さらには、軍艦操縦法を教わりたいので、若者を留学させたい・・・。と。
なんと、重野は、賠償問題だけにせず、両国の通商交渉へと変換させたのです。
思いもよらない提案に、虚を突かれたイギリスは、もともと望んでいたのでこの提案を受け入れます。
相手の本心をついて事態を打開する・・・これこそ、究極の薩摩イズムでした。

重野の功績で、薩摩とイギリスとの関係は急接近していきます。
この交渉の結果、留学生として再び海を渡ったのが、捕虜となっていた松木でした。
松木は五代友厚らと共に、1865年3月22日・・・イギリスへと向かいます。
この留学で松木はある任務を帯びていました。イギリスと薩摩との間で貿易協定を結ぶこと・・・でした。

最初に面会したのが、英国下院議員・オリファントでした。
来日経験もある知日派で、日本に同情的でした。
オリファントは、はるばる海を渡ってきた松木に言っています。

「我がイギリスが、貿易条約を結ぶ時、両国お互いに利益があるというのは、表向きの挨拶にすぎません。
 その本心は、あなたの国をむさぼり尽すことにあります。
 兵器を使って戦うのではなく、貿易による知略が、弾丸となることを知らなくてはなりません。」

オリファントから教わった、国際貿易の本質・・・松木に日本のあるべき姿が見え始めていました。

「我が国が諸外国と並立していくためには、国家最上の主君の目を覚まし、一人の新生児のようにならなくてはならない。
 天皇の指揮のもと、我国が一体となって他国と友好関係を築かなければ、独立は難しい・・・」

それは、斉彬が唱えた日本一致一体の発展形・・・天皇による中央集権国家への変革構想でした。
そして、松木は英国外相・クラレンドンとの会談に持ち込みます。
日本の条約批准権を幕府から天皇に移す構想を語り、その協力を求めました。
幕府の下に薩摩があるのではないのです。
イギリスから薩摩に戻ると、イギリス公使・パークスの鹿児島訪問に列席。
通訳をしながら、薩摩と日本がとるべき外交の道を探り続けます。
その時、松木は故郷に浮かぶ小島にちなみ、寺島宗則と改名・・・日本の未来のために尽くす外交官としての道を歩み始めます。
斉彬の唱えた日本一致一体を胸に、寺島宗則は、日本外交のパイオニアとなっていくのです。

薩摩の武士の伝統は、野太刀自顕流です。
一撃必殺で相手を倒すのが極意です。
維新の原動力となった多くの英傑も、この剣術のけいこに汗を流しました。
同じ志を持った先輩、後輩たちが同じ道を進んで行く・・・郷中教育です。
「郷中」という地域ごとに成立した集団教育で、西郷隆盛の郷中には、大久保利通、大山巌、東郷平八郎、黒木為楨がいました。
同じ郷中出身の者は、強い結束で結ばれていました。
そして、二才という15~25歳の元、6歳からの稚児たちが文武両道をたたき込まれていきます。
中でも特徴的なのが「詮議」と呼ばれるケーススタディ・ディスカッションです。
例えばお題は・・・
「目の前に、主君の敵と親の敵が同時に現れたら、どちらから成敗するか?」
不測の事態に陥った時、どうやって対処していくのか?
実践的な思考を養う伝統が、薩摩の英傑たちを生み出していきます。

薩英戦争の翌年、京都で大事件が起こります。
1864年7月、禁門の変です。
過激な攘夷論を掲げる長州と、それを暴挙と見なす薩摩、会津の幕府連合軍が御所の前で激突しました。
長州藩は、薩摩の軍事力の前に惨敗・・・御所に向かって発砲したことで、朝敵の汚名を着せられました。
この時、幕府側の陣頭指揮を執ったのが、西郷隆盛です。
生前の斉彬の遺志を継ぐ、薩摩きっての戦略家でした。

幕府は、西郷に命じ・・・第1次長州征討!!
かくして、西郷は、歴史の表舞台に躍り出ました。
日本に内乱の危機をもたらした長州を許すわけにはいかない・・・!!
無謀に攘夷を叫び、内乱の火種をまき散らす長州・・・そんな長州を断固討ち果たす覚悟でいました。
が!!そんな考えを一変させる情報が・・・!!
「幕府が忌み嫌っているのは、薩摩と長州の勢いです。
 幕府の真の狙いは、ここで薩長両藩を戦わせ、その力を消耗させようというもの。
 先鋒を務めれば、薩摩の災いとなるのは必至、徳川の思うつぼとなるでしょう。」
情報に接した西郷は・・・幕府の本当の狙いは、長州だけでなく、薩摩の力を削ぐことであると判断します。
そう悟ると、強硬路線から、急遽、長州との戦争回避策に方向転換します。

しかし・・・いきり立っている長州をどう説得するのか・・・??
すると西郷が放った探索方から突破口な情報が・・・!!
岩国藩主の吉川経幹が、長州の過激派に反対、幕府に恭順すべきだと内部分裂を起こしているというものでした。
一計を案じる西郷・・・
西郷の交渉術①穏便派を懐柔
吉川を取り込んで長州の過激派に揺さぶりをかければ、幕府との衝突を避けられるのでは・・・??
長州の分裂に乗じた一か八かの賭けでした。

1864年11月、西郷は岩国・吉川経幹と会談
幕府との戦いを避けたければ、禁門の変の首謀者である三家老の切腹など幕府と朝廷への謝罪の意を示すことを要求・・・
その代わり、西郷は捕虜となった藩士の開放や、朝敵となった長州の汚名返上に薩摩が力を尽くすことを誓います。
すると、吉川は過激派の説得に向かいます。
西郷にはもう一つの難問がありました。
幕府が提示した長州を許す条件に、過激派の本拠地・下関に匿われていた三条実美ら攘夷派の公家らの身柄開放がありました。
しかし、それに反対したのが、奇兵隊をはじめとする長州の民兵組織諸隊でした。
彼らにとって攘夷派の公家たちは、自分たちを正当化する存在・・・
むざむざと引き渡すわけにはいきませんでした。

西郷の交渉術②命を懸けた直談判
すると西郷は、自ら下関に赴き、諸隊との直談判に・・・!!
今、無防備に長州に乗り込めば、命の保証はない・・・!!
周囲の反対を押し切って、密談に・・・諸隊の説得に向かいます。
相手の意表をついて、懐に飛び込んで、自分の命を投げ出すことのできる人でした。
西郷以外にはあり得ないやり方でした。
長州藩の説得に成功!!
1864年12月27日、幕府軍撤兵!!
幕府は長州の恭順に兵を引いたのでした。
ここに、第1次長州征討は、未然に収束しました。
この時、西郷は、交渉の窓口となった吉川に驚くべき交渉をしていました。

「天皇を疎んじる幕府の非情の仕打ちは、許しがたい。
 西国の諸藩連合結成の折は、是非とも長州にも参上願いたい。」by西郷

後の薩長同盟の伏線でした。
内乱の危機を防いだ西郷・・・苦虫を噛み潰すように見ていたのは、一橋慶喜でした。

「幕府軍は、薩摩の芋焼酎にひどく酔わされ、してやられた!!
 その焼酎の銘柄は大島(西郷)とかいうらしい・・・」by慶喜

京都・・・幕末の薩摩藩の活躍は、この地を抜きには語れません。
薩摩藩の底力を支えたのは・・・まずは・・・京都南にある伏見。
薩摩藩伏見屋敷は、篤姫が江戸に向かう途中滞在したことでも有名です。
寺田屋から逃げて来た龍馬が助けを求めた場所でもあります。
江戸時代、伏見は人や物資、情報の一大集積地でした。
伏見は、参勤交代の重要地点で、薩摩は琉球使節団を連れてやってきました。
異国情緒漂う行列は、京都の人々の注目を集めたといいます。
上洛のチャンスに存在感を示す・・・したたかな戦略です。

二つ目は、洛中にありました。
薩摩藩にとって幕末の一大拠点となったのは・・・久光が政治的に立ち回りやすいように作った屋敷です。
現在の同志社大学の敷地にあった京都二本松薩摩藩邸。
造営されたのは1862年で、京都における薩摩藩の政治活動を支えました。
当時、この周辺は武家屋敷はなく、公家の屋敷が並んでいました。
そんな場所に、どうやって広大な屋敷を構えることができたのでしょうか?
大名の京都における政治の条件は、京都における公家との関係にあります。
近衛と島津・・・日本中世以来、関係の深い縁戚関係でした。
摂関家のTOPの公家・近衛家・・・この権威を朝廷工作に使ったのです。
近衛家の近くに藩邸があれば、極秘の任務にうってつけです。
これが、薩摩藩の政治活動に多くの利点をもたらします。
そして、周りにいる人にも威圧感を与えることができました。

御所の東には・・・薩摩の英傑のひとり・西郷隆盛の盟友・大久保利通が住んでいました。
大久保は、島津久光の側近で、当時の大久保の任務は朝廷工作でした。
薩摩藩への国政への影響力を強め、反幕府運動を展開する為に、公家との連携を深めていきます。
西郷隆盛も、大久保邸の近くに暮らしていました。
そして、薩摩藩邸の北西1キロほどのところに屋敷を構えたのが小松帯刀です。
諸説ありますが、近衛家の別邸・・・お花畑屋敷と言われていたこの場所に、薩摩の家老・小松が借りて住んでいたのです。
久光の名代として全権を任されていました。
この屋敷の治外法権・・・幕府の力の及ばないところを利用していました。
この小松邸で結ばれたのが、幕末最大の密約・・・1866年薩長同盟でした。
薩摩は長州との関係を急速に深め、反幕府体制を強めていきます。
小松はその誠実な人柄で幕府の人間にも信頼されており、過激な西郷や大久保を御しながら、新体制樹立を模索します。
西郷や大久保、小松・・・薩摩屈指の人材が集結した幕末の京都・・・ここから日本の大変革が始まるのです。

幕末の動乱は、最終局面へ・・・。
徳川慶喜に突き付けられる大政奉還、密かに進められる武力討幕・・・
電光石火の突破力がものをいいます。
幕末も押し迫った1867年5月・・・西郷が島津久光に送った3メートルに及ぶ建白書。
その中で西郷は、徳川も一大名となり、諸大名と共に天皇を補佐する体制をつくるべきだと進言します。
そのための政権返上の建白を行ってもらいたいと久光に訴えます。
島津斉彬が掲げた日本一致一体の理想・・・。
その西郷たちが、どうして徳川を排除した中央集権国家をつくることになっていくのでしょうか?

1866年6月、日本を再び内乱の危機が・・・
幕府に謝罪したはずの長州が、再び軍備を増強!!
この事をかぎつけた幕府が再び征討へ・・・しかし、一度謝罪した長州に出兵するなど不当な戦いだと薩摩藩は出兵を拒否。
薩摩の軍事力を失った幕府軍は惨敗し、権威を失墜します。
第2次長州征討失敗!!
その背景にあったのは、小松帯刀の采配でした。
幕府には極秘に薩摩名義でイギリスから大量の洋式銃を購入。
それを長州に流していたのです。
ところが、その半年後、西郷たちの前に巨大な壁が・・・!!
その政治手腕の高さから、家康の再来と言われた慶喜が、第15代将軍に・・・!!
慶喜は、失墜した幕府の権威回復に、次々と手を打ちます。
フランスからの支援の下、幕府の軍備の近代化を図ります。
薩摩と繋がるイギリスとの関係強化も画策します。
さらに、外交問題にも類まれな能力を発揮!!
当時、欧米列強との間での問題となっていた兵庫の開港。
慶喜は、外国との貿易利権に繋がる決断を、幕府の力のみで実現しようとします。
そして、1867年5月24日、誰もが不可能だと見ていた兵庫開港の勅許をえるのです。
将軍慶喜の名は、日本の新しい君主・大君として知れ渡り、指導者としての力量が高く認められることとなります。
時代の風向きが徳川に向き始める・・・??
焦燥感を抱き始める西郷たち・・・兵庫開港勅許の5日後の5月29日、薩摩藩邸で重臣会議を招集した小松帯刀。
形勢逆転に打って出ます。
徳川に政権返上を迫るために硬軟織り交ぜた計画でした。
この強硬策の大一手が、大政奉還。
黒船来航以来、幕府の政治力の衰退は明らか・・・
将軍慶喜に、朝廷に政権を返上するように求め、天皇のもと、諸大名が挙国一致で国政に当たる新体制の樹立を・・・!!というものでした。
その裏で、西郷と大久保は違う策を練っていました。
8月・・・長州との密談で明かした秘策・・・京都・大坂・江戸の三都同時挙兵計画でした。
京都藩邸の1000人を三手に分け、一手は天皇を確保、一手は会津邸、一手は幕府駐屯所を襲撃、国元からは3000人が出兵し、大坂城、大阪湾の軍艦を焼き払う!!
江戸にいる1000人は幕府軍の上京を阻止する!!
この時、西郷と大久保は、慶喜は大政奉還を拒否すると踏んでいました。
その時は、武力をもって政権返上を要求する!!
もし、失敗したら、薩摩藩の存在が危ぶまれる危険な策でした。

そんなこんなが水面下でうごめいていた頃、薩摩藩のリアリズムを象徴する暗殺事件が・・・
暗殺されたのは、イギリス兵学の専門家であった信州上田藩士・赤松小三郎でした。
京で私塾を開き、その評判から薩摩藩が兵学の師として登用していました。
西郷たちの武力蜂起計画を知るや否や、反対する赤松!!
しかし、西郷たちは止まることはなく・・・失意の赤松は上田に帰ることに・・・。
薩摩の出兵計画は、会津と二条城を襲うこと・・・赤松が薩摩から離れたときに、情報が漏れる可能性がある・・・。
回避するためには命を奪うほかない!!
薩摩藩だけではなく、会津、幕府とも通じていた赤松・・・いかに信頼できる人物であったとしても、内情を知るものを放ってはおけない・・・赤松が殺害されたのは、薩摩主催の送別会の帰りの事でした。
そこには、薩摩の冷徹なまでのリアリズムがそこにはありました。

ところが・・・驚天動地の事態が・・・!!
1867年10月14日、景気が大政奉還を表明!!
将軍自ら260年の幕藩体制に終止符を打って・・・政権返上をしたのです。
武力討伐の大義名分が無くなってしまいました。
しかし、慶喜の狙いはその先にありました。
幕府に代わる新体制がつくられたのち、自分もそこに加わり、日本の近代化政策に自らの政治手腕を発揮したい!!
西郷と大久保は、慶喜に対する警戒を強めます。
新政府が誕生しても、そこに慶喜が参加した場合、政治の主導権は、能力の高い慶喜に再びわたる可能性がありました。
一方、突然の政権返上に、公家たちは動揺するばかり・・・
諸大名からも慶喜の手腕に期待する声が・・・
その状況に西郷たちは、新体制から徳川を排除しなければ、本当に日本が生まれ変わることにはならない・・・

1867年12月9日、京都の薩摩藩邸から西郷率いる1,000人の兵士が、近衛邸を通って御所に侵入し、慶喜を排除した新政権の樹立が強引に宣言されました。王政復古のクーデターです。
その前日、西郷はこんな言葉を残しています。

「二百有余年の太平の旧習に、汚染仕り候人心・・・
 一度干戈を動かし候て 反て天下の耳目を一新・・・
 戦いを決し候て 死中活を得るの御着眼」

その後、時代は怒涛の中を突き進みます。
鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争・・・激しい衝突を経て明治の日本は産声をあげます。
幕末の大変革・・・それは、時代のうねりに挑み続けた西郷たちの執念の結晶でもあったのです。

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感想(3件)



1849年12月・・・調所広郷を失った島津斉興は、嫡男・斉彬を支持する一派を粛正していきます。
お由羅の方の策謀ともいわれ・・・「お由羅騒動」と言われました。

吉之助たちは、赤山靱負を幼いころから師と仰いでいましたが・・・
っていうか、父・吉兵衛の上司だよね・・・赤山様って・・・。
赤山様に切腹の命が下りたので、久光さまに直談判しに行くみんな・・・。

don2















「自分には何もできん!!」と逃げる久光、本当にバカボンに書かれてしまって・・・嘆かわしい・・・
そして、バカボン久光と、浅はかな&親ばかなお由羅が寸劇を始めてます・・・。

「みんな・・・私を憎むがいい!!
 みんな、私を斬りにいらっしゃい!!」byお由羅
 
ああ・・・興ざめだわ・・・。
調所さまは守りたかったのがこれかと思うとなんだかなあ・・・

don4















みんなと酒を酌み交わしたかった赤山靱負。。。
納得できないみんな・・・。

「芋ちゅうのは一つとして同じ形のもんはなか。
 こいを桶ん中に入れてごろっち洗えば、お互いがぶつかり合うて、きれいに泥が落ちる。
 おはんらも同じじゃ。
 一人一人姿かたちも違えばそれぞれ考え方もちご。
 こいからもこん郷中ちゅう桶ん中で、ぶつかり合うて、切磋琢磨して立派な侍になってくいやい。。。」by赤山様

と、赤山様が前回助けてくれた半次郎がもってきた薩摩芋を食べて昔を懐かしみます。

そして・・・赤山様自刃・・・介錯を務めたのは、吉之助の父・吉兵衛でした

don















理不尽な師匠の死・・・
最期の召し物を手に、怒りが収まらない吉之助・・・。
江戸の斉彬にも知らせが届きました。
しかし、その後も斉興の粛正は続きます。

この赤山靱負をはじめ、10人余りが切腹、50名余りが遠島、蟄居の処分を下されました。
その中には、もちろん大久保正助も職を失い謹慎処分、父・次右衛門も遠島となりました。

って・・・これで終わり??
お由羅騒動・・・。
もっと面白く書けたはず・・・というか、この幕末にあって珍しいお家騒動なんですが、なんでもっと真剣にしてくれないのかと、疑問符です

藩の現状を、書状で斉彬に訴える吉之助!!
だって・・・この調所さまを自害に追い込んでしまった斉彬に対して、父・斉興の態度は硬化していたんだマラ・・・そりゃあ、家督を譲ってくれないよね

って・・・阿部正弘によって、将軍様からと、茶器が渡されました。

don6











この茶器を渡すということは、引退勧告されちゃったってことです。
??ってことは、こんな回りくどいことしなくっても、将軍様に茶器を渡してもらったらよかったんじゃないの??と思いがちですが・・・。
実は、このお由羅騒動・・・家臣たちの勇み足で始まったとも思われますが・・・仕方ないのかな??って思っていたら・・・。

親子対決です。
が・・・すべて調所のやったことだとしらばっくれる斉興・・・
でもね、ここは、全ての罪をかぶってくれた調所への哀愁でもっと引っ張ってくれても良かったのに、さらっとしちゃって・・・
don3















当主の座は譲らないと駄々をこねる斉興に対して、なんとビックリ!!
ロシアンルーレットで決着がつきました
ここでも、まだ会ったことのない吉之助を褒める褒めるの斉彬です
ま、実際、書状はたくさん書いて送っていたようなので、否が応でも名前は覚えたかもしれませんね

しぶしぶ当主の座を渡した斉興でした。

そして・・・斉彬が当主として薩摩にお国入りの知らせが・・・。
赤山様の墓前にもみんなで報告!!

1851年5月8日・・・吉之助にとって忘れられない日となりました。
薩摩藩第11代当主・島津斉彬がお国入りを果たしたのです。
華やかな行列・・・喜ぶ民、吠える民!!
って・・・そんなに期待をしている理由が、謙さん以外にわかんないわ・・・

「斉彬さまじゃ!!斉彬まさじゃ!!」
その声を、蟄居部屋で聞く正助・・・。

そして、行列に飛び出て来た子供たちに・・・

「よいよい、子は国の宝じゃ。
 新しい殿さまはこんな顔だ。
 よろしく頼む!!」by斉彬

・・・そうね・・・これじゃあ、謙さんじゃないとやってられない感満載な斉彬公となりました。
おまけに、相対する久光があんなにバカボンとは、釣り合いがとれないわなア。。。
カッコいいライバルにはなれないよね・・・。

おまけに、祖父・重豪に長い間実権を握られ、その借金返済を必死に頑張った斉興の隠退の仕方って・・・
もっとカッコいい引き際を作ってあげたかったけどなあ・・・って思うのでした。
ほんと、斉彬がいっぱいお金を使えたのは、お父さんと調所広郷のおかげなんだからね~~~!!


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日本各地の山々に、のこさえ不思議な建造物が残されています。
戦国時代に築かれた山城・・・
その数は、全国で5万にも及ぶと言われています。
この山城こそ、戦国乱世の象徴であり、天下統一を目指す秀吉を最後まで苦しめたものでした。

秀吉が関東の巨大国家に攻め込んだ小田原の陣とは・・・??
激戦の地となったのは、関東の雄・北条氏政が築いた山中城です。
戦国最強の山城と言われました。
城を守る北条軍、およそ4000。攻める豊臣軍6万8000!!
圧倒的な大兵力が山中城に攻め入りました。
しかし、戦いの記録には・・・
5、60も鉄砲手負負傷の者有之候・・・屍の山を築いたのは、なんと豊臣軍でした。
広い関東地方を戦国時代に治めるのは、相当な技術が必要でした。
後世語られるよりも、北条は秀吉にとって脅威だったのです。

山城を語らずして戦国、日本を語ることはできません。
日本にある城の数は5万!!2、300人に一つでした。
至る所に城があり、その8割が山城でした。
山城をめぐる競争の中で、日本社会の形が決まっていったのです。

神奈川県西部にある小田原城・・・五代、100年にわたって関東一円を治めた北条氏の本拠地です。
小田原城の本丸は、今の小田原城より北の山の上にありました。
戦国時代は、小田原城の本体は山城だったのです。
当時の小田原城は・・・??
山の傾斜を利用した巨大な堀・・・当時は、現代の見た目よりも高い20m級でした。
さらに、堀の傾斜は45度以上で、関東ローム層の粘土質の土でした。
関東ローム層は、10度の勾配でも、つるつるで登ることはできません。
石垣にも勝る土の城・・・土の城侮ることなかれ!!です。
当時は堀も水堀で、小田原城に入ることは出来そうにありません。
総構・・・城を待ち事囲んだ堀と土塁・・・全長およそ9㎞で、当時最大級の規模でした。
総構の中には、武士だけでなく、町人や農民の生活する場所が設けられていました。
城内では、農民が城の防衛に当たることがありました。
小田原城では、侍と民衆がともに国を守る・・・助け合うシステムが作られていたのです。
総構が完成したのは、4代当主北条氏政の頃で、息子に家督を譲り、後見人として政務を取り仕切っていました。
戦国時代の小田原の様子は・・・
小田原は、守護政道に私欲がなく、民を大切にしたので、津々浦々の町人や職人たちはその恩恵を感じ、西国や北国からも移住してくるほどであった。
民の生活も豊かで、生業は繁盛していました。
更に北条は、領国支配を確かなものにするため、領内に多くの山城を配置。
小田原城を中心とする城郭ネットワークを構築していました。
そのうちの一つが津久井城でした。
かつて、いろいろな仕掛けが施された山城でした。
tukui

















古い絵図には、本丸などの曲輪や斜面の堀の様子が描かれています。
曲輪通しが橋で繫がれている部分・・・
堀切に引橋という部分が残っており、味方が渡り終えたら橋を引いてしまう・・・。そんな形になっていました。
巨大な山城、小田原城との城郭ネットワーク・・・その数は、最盛期で90以上に上りました。
しかし、同じころ、さらなる巨大勢力が誕生していました。
信長の次に天下人となった、関白・豊臣秀吉です。

秀吉は、四国、九州を立て続けに平定・・・そして、次なる強敵・北条氏に豊臣家に対する従属を要求してきました。
しかし、氏政は、この要求に応えようとはしませんでした。
秀吉による天下統一というものを、北条は疑問視していました。
「自分たちの国が立派に機能しているのに・・・??
 領民たちも不満なく暮らしているのに・・・??
 どうして秀吉の天下に納まらなければいけないのか・・・??」
業を煮やした秀吉は、ついに北条討伐を決定!!
北条に宣戦布告城をたたきつけ、関東の狼藉者を討つと宣言します。

1590年3月、豊臣秀吉、関東へ出兵!!
兵数およそ22万!!小田原へ!!史上空前の大軍勢でした。

北条では、城のメンテナンスをする場所を、村ごとに割り当てていました。
直すことで、いざ、敵が攻め込んできたときに、その城に逃げ込む権利を有しているのです。
村人の安全保障をしてくれる城・・・他とは全然違う城郭ネットワークだったのです。

秀吉の襲来に備え、北条氏は各地の山城の整備を急ぎます。
鍬や簀子をもって、城の普請に努めよ・・・工事の主体となったのは、地元の民衆でした。
中でも力を入れたのは山中城・・・小田原城を防衛する最前線の城でした。
箱根の西に当時の東海道を遮る形で作られていました。
山中城は本丸を中心に作られた防御陣地や、曲輪によって豊臣軍の侵入を物理的に封鎖しています。
海道を通ってくる敵には岱先出丸で、山からの敵には西の丸で迎撃できるようになっていました。
敵がどこから来ようと守り切る形が出来上がっていたのです。

1590年3月29日、豊臣軍山中城に到着
その数およそ6万8000!!秀吉の直轄部隊を含む、主力部隊です。
対する北条方は僅か4000。兵力には圧倒的な差がありました。
当時の戦況を記した資料(豊臣方に従軍した侍)には・・・
城内から鉄砲がつるべ撃ちにされ、鬨の声がどっと上がりました。
岱崎出丸から北条の鉄砲隊が構えていたのです。
山中城は、空堀や土塁、やぐら台で接近を防ぎました。
城跡からはたくさんの鉄砲玉が発掘されています。
北条軍は、善戦した戦いで・・・強行突破をしようとする秀吉軍!!
秀吉の指揮所からほら貝が・・・!!
全軍に総攻撃の命令が!!
しかし、それを待っていたのは、北条の一斉射撃でした。
豊臣方先鋒・・・一柳隊の大将・一柳直末は、この戦いで討ち死にしています。
城攻めで大将格が討たれることは、戦国の世でも稀でした。
射撃から身を隠した隊は、2時間も足止めを喰らいます。
そして目にしたのは・・・突入した豊臣兵たちの屍でした。

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豊臣勢を恐怖させたのは・・・障子堀という独特の作りです。


空堀を障子のように区切る畝が、敵の動きを封じると言います。
城内の殆どの曲輪にこの堀がありました。
その効果は絶大!!


本来は、滑りやすい赤土で、狭い畝・・・
その上を通ることは不可能でした。
普通、空堀に降りた兵あっちは、堀底を通路のように歩き、守備の弱い場所から突破していきます。が・・・この障子堀ではそうはいきません。
袋のネズミです。
堀底からの移動は困難でした。
とにかく、北条の銃撃を耐えに耐えて隙を見て登っていく・・・その方法しかありませんでした。
多くの犠牲を払った山城攻め!!
北条軍は、豊臣軍を多大いに苦しめました。
甚大な被害を被った豊臣軍は、しかし、兵を投入し続けます。
豊臣方の侍は、三の丸に侵入・・・見方が銃弾に倒されていく中、どん欲に本丸を目指していました。
時間が経つうちに、鉄砲の煙も薄くなってきました。
あとからあとから出てくる豊臣軍に、鉄砲の弾が尽きたのか、北条の動きに衰えが・・・!!
この僅かの隙に付け入って・・・怯む北条方を追いかける体で、二の丸へ強行突入!!
そして、日も暮れようとする頃・・・
敵味方の兵たちが。重なり合いもみ合い、堀に落ち・・・ついに本丸陥落!!
序盤で善戦した山中城は、結果的には僅か半日で落城してしまいました。
この戦いで、北条4000人のうち死者1000人。
豊臣方は、その数倍の犠牲者を出したと言われています。
撃っても撃っても屍を堀越える形でやってくる豊臣軍・・・
そんな戦いの中で山中城は落城しました。
中性的世界と近世的世界・・・非人道的、非人格的な世界、近代に繋がる戦いでした。
山中城を突破した3日後、4月3日に秀吉はついに小田原に到着。
豊臣方の軍勢には、各地からそうそうたるメンバーが!!
小田原城を陸と海から完全に包囲!!
さらに秀吉は、自らの陣に城を築き始めました。
石垣山一夜城・・・北条に先端技術を見せつけるような、総石垣づくりの城でした。
秀吉はそこで、茶会や能を催す余裕でした。
一方では、北条領内の山城群にも攻撃をかけます。
絶体絶命の北条・・・応戦か降伏か・・・決断をするのは、四代当主氏政!!

小田原城は、これまで上杉謙信も、武田信玄も跳ね返して来た・・・
籠城戦を貫いて応戦する??
1561年には上杉謙信が11万3000の兵で小田原城を包囲、1569年には武田信玄が小田原攻めを企てていました。
北条はこれらの侵攻に籠城で応戦し、敵を兵糧不足にしたと言われています。
豊臣軍に囲まれた今回も、それを狙っていました。
籠城戦ならば、あとは後詰さえいれば勝てる!!
我が方には奥州の雄・伊達政宗がいるではないか!!
小田原城に秀吉軍を引き付けて、その隙に背後をつかせれば、勝敗の行方はまだわからない・・・。
伊達政宗は、北条とは良好な関係にありました。
石田三成の書状には・・・
「北条を討伐の後、直ちに黒川に乱入し、政宗の首を刎ねる!!」とあります。
秀吉が滅ぼそうとしていた政宗が北条と結託していても、なんら不思議はありません。
援軍の可能性も・・・!!
しかし、一筋縄ではいかない伊達・・・信じられるのか・・・??

それとも降伏・・・??
九州の島津や、四国の長宗我部は降伏しても、本領安堵されている・・・
我等にも交渉の余地があるのでは・・・??
戦になれば、秀吉は総力戦を仕掛けてくるかもしれない!!
北条にとって想定外だったのは、山中城の戦いで秀吉が見せた犠牲をいとわない人海戦術です。
戦いになれば、小田原城内の民衆たちにも甚大な被害が及ぶかも・・・??

籠城か、降伏か・・・??
北条の存亡をかけた決断が・・・!!

小田原城包囲から2か月・・・
ついに戦況が動きます。
6月9日、奥州の雄・伊達政宗が秀吉の軍門に下ります。
北条に援軍の可能性は無くなりました。
小田原城中では重臣たちによる大評定が行われていましたが、明確な答えの出ないまま・・・
そのうちに、重要拠点だった鉢形城、八王子城などが落城し、忍城を除く全ての拠点が攻略されました。
そして、7月5日、ついに小田原城はついに門を開き降伏・・・北条氏は降伏するのです。
主戦派と見なされた四代当主氏政は、数人の家臣と共に切腹。
息子・氏直は高野山に追放され領土はすべて没収となりました。
関東を新しく統治したのは、後の天下人徳川家康でした。
領国の中心は、小田原から江戸へ移され、山城は次々と廃城。
名残は消えていきました。

2015年小田原市内の発掘調査で興味深い遺構が発見されました。
総構の内側から障子堀跡が見つかったのです。
そこは古くから百姓曲輪と珍しい名前で呼ばれていた一角で、研究者の間では、北条の時代民衆のための避難場所だと推測されていました。
総構の中で大切にされていた百姓曲輪・・・秀吉とは違う民との向き合い方が見て取れます。
民を慈しんだ北条氏・・・もし、小田原城が落とされなければ、日本の歴史は北条氏が目指していた身分の・・・
身分を厳しく分けてゆく社会ではなく、みんなで共同して世の中を作っていったのでは・・・??
五代100年もの間、山城によって守られてきた北条王国・・・その滅亡は、日本の歩む道を大きく変えたのかもしれません。

一人の命令で何千、何万人が死んでしまうような戦い方・・・を平気でする秀吉のような戦い方は、近世にならないとできないものでした。
その近世への決定的な転換点が、小田原の陣だったのです。

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