日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

幕末、残り火燃ゆ 桜田門外変後の水戸藩と天狗党の変 (歴研選書)[本/雑誌] / 入野清/著

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1860年3月3日・・・風雲急を告げる幕末・・・。
季節外れの雪が舞う江戸城桜田門で、大老・井伊直弼が暗殺されました。
実行犯は、水戸脱藩浪士たち!!
そしてその4年後・・・水戸藩の志士たちが再び事件を起こします。
1864年天狗党の乱!!
首謀者は23歳の藤田小四郎!!

1854年3月3日・・・江戸幕府はアメリカの圧力に屈し、日米和親条約締結。
下田と函館の港を開きました。
215年続いた鎖国体制は崩壊し・・・日米修好通商条約も締結。
横浜や神戸・新潟・長崎なども開港することに・・・。
そんな弱腰外交は批判の的となり、幕府の権威は失墜し、尊王攘夷が声高に叫ばれるようになりました。
尊王攘夷・・・天皇を尊び外敵を斥ける。。。という思想です。
天狗党の乱の首謀者・藤田小四郎は、尊王攘夷派のサラブレッドでした。

1842年小四郎は水戸藩士・藤田東湖の四男として生まれます。
9代水戸藩主徳川斉昭の側用人だった東湖は、高名な儒学者でもあり、著書「講道館記述義」に於いて、初めて尊王攘夷を論じた人物です。
その家に生まれたことが、いかに小四郎に影響を与えたか・・・!!
祖父・藤田幽谷も尊王攘夷論者・・・尊王攘夷一家の中で育ち、そんな教育を受けていました。

小四郎が歴史の表舞台に出てきたのは21歳の時・・・
当時幕府は、強烈な攘夷論者で外国人を忌み嫌っていた孝明天皇に攘夷の実行を迫られていました。
そこで、外交政策を説明すべく、14代将軍徳川家茂が上洛することに・・・。
この時随行したのが、10代水戸藩主・徳川慶篤でした。

1861年2月16日、慶篤は1,000人余りの水戸藩士を伴い京へ出発。
その中に藤田小四郎もたいのです。
上洛に胸躍らせる小四郎・・・京は、攘夷派の志士たちの交流の場となっていました。
京につくと・・・攘夷急進派の長州藩・桂小五郎、久坂玄瑞らと会います。
桂から「そなたが東湖先生のご子息か・・・」と、親しく声をかけられ薫陶を受けました。
一方将軍家茂は、孝明天皇に謁見し、5月10日を攘夷決行日にすると約束。。。
これを聞いた小四郎は・・・
「水戸藩が先んじて攘夷を決行せねば!!」
水戸に戻るや否や同士集めに奔走!!
小四郎の元には、身分や年齢を問わず、志を同じくする人たちが続々と集まります。
茨城県にある照光寺は、小四郎たちの会合の場となりました。
高い志とほとばしる情熱を胸に、攘夷要求の準備を進めていく小四郎たち・・・

そこに問題も・・・
当時の水戸藩は、改革派(攘夷)VS保守派(開国)が対立していました。
保守派である諸生党は、改革派である天狗党を抑え込もうとしていました。
彼らが天狗党と呼ばれていたのは・・・反対派にとっては、彼らが鼻を高くして偉ぶっているように見えたからだそうです。

1863年5月9日、孝明天皇に攘夷の決行を約束した幕府は、横浜港の閉鎖を各国行使に通達します。
しかし・・・各国から強固な反発を受け、僅か9日で通達を撤回してしまいます。
幕府の不甲斐なさに小四郎は・・・
1864年3月27日、遂に立ち上がります。
62人の同市と共に、鈴ノ宮稲荷神社に必勝祈願をし、筑波山の麓に立つ筑波山神社で挙兵!!

「攘夷に消極的な態度をとり続けている幕府に、横浜港の閉鎖を実行させるのだ!!」by小四郎

小四郎は、幕府を奮起させ、今一度幕府を奮起させ、横浜港の閉鎖をしようとしていました。
寄せ集めの天狗党をまとめるために、総大将には若い自分ではなく、水戸町奉行・田丸稲之衛門を担ぎます。
武力に訴えてでも、攘夷を要求することにしたのです。

「我らは勝ち負けで立ったのではない。
 国の行く末を憂い、国体護持のために立ち上がったのだ。」by小四郎

1864年3月末日・・・小四郎たちは今後の方策を練っていました。
すると・・・「諸生党と幕府が挙兵に気付き、動き始めました。」
天狗党の足止めにかかってきました。

「家康公を祀る東照宮を詣でれば、我等の行動に権威が付きま。
 幕府に楯突く意思はなく、ただ攘夷の先駆けたることを明らかにしましょう。」

4月3日早朝・・・天狗党200人は、尊王攘夷を掲げ、日光へ向け出発!!
4月10日東照宮に到着。
しかし、日光奉行は、得体のしれない集団に恐れを抱き、参拝を拒否。
説得の末、なんとか許されるものの、厳しい監視の下での参拝となってしまいました。
小四郎は落胆しますが、ここで踏みとどまってはいられません。
太平山神社へと向かい、本陣を構えるのです。
そこへ1000人以上が集結!!

大部隊となってしまったことで、不測の事態に・・・。
2か月後・・・1000人となってしまった大部隊・・・幕府に対する要求は、横浜港を閉鎖すること・・・
しかし、この後、天狗党は逆賊となってしまいます。
幕府の巨大化によって内部統制ができなくなってしまった天狗党・・・
規律のゆるみ、同士間の不和、軍資金の枯渇・・・

そして・・・暴徒と化す者も・・・
小四郎の幼馴染・田中愿蔵率いる一派でした。
資金供出を断った者たちを斬殺!!
火を放って200戸以上全焼させてしまいました。
これによって天狗党の評判は急落・・・
天狗党が現れそうな地域では厳戒態勢をとることに・・・。

事態を重く見た小四郎は、田中達一派を除名・・・。
しかし、手遅れでした。
天狗党の一部が暴徒化したことで、逆賊と見なし、幕府によって追討令が出されました。
国元の水戸藩でも、鎮圧隊を派遣!!
隊長は天狗党と対立していた諸生党の市川三左衛門でした。

7月7日・・・幕府と諸生党の連合軍ができました。
小貝川を挟んで幕府・諸生党6,000人VS天狗党700人!!
幕府に刃を向けるつもりもなかった小四郎でしたが、申し開きの場もなく戦うことに・・・。
天狗党は、夜襲を仕掛けます。
不意を突かれた幕府軍はなすすべなく退却!!
市川たちも水戸へ逃げかえりました。
討伐軍を撃退した天狗党ですが、この戦いをもって、完全に幕府に弓を引いた逆賊の形となりました。

逆賊として追われる身となってしまった天狗党・・・力づくでも横浜港を閉鎖させるために、船を調達して斬り込もうとします。
しかし・・・水戸に逃げ帰った諸生党が天狗党に対して報復を開始しました。
諸生党は、攘夷派の要人70人を次々と弾圧・・・天狗党に加わっている者たちの家を襲撃し、板を打ち付けて閉じ込めて火を放つ!!
攘夷に燃える天狗党も、離脱者が続出!!
一方、市川たちの勢いは止まらず、水戸城を占領し、藩の実権を掌握してしまいました。

水戸城を占拠し、藩の実権を握った諸生党を見過ごすわけにはいかない・・・!!
一刻も早く横浜に向かいたかったものの・・・
「まずは水戸城を占拠する市川らを討ち、その上で攘夷を実行しよう。」

1864年7月下旬・・・
天狗党と諸生党は水戸城で激突!!
しかし、諸生党の激しい砲撃に、太刀打ちできない天狗党・・・!!
8月には2000人の幕府軍が、諸生党の援軍として合流・・・勝機なしと悟った小四郎は、兵を退き・・・那珂湊で体制の立て直しを図ります。
そして2か月後・・・追ってきた連合軍と激突!!
一進一退の攻防・・・焦る小四郎・・・
「戦闘が長期化すれば、挙兵の大義か遠のいて行くばかりだ。」
目的は、あくまでも攘夷の実現でした。
小四郎たちは、志のため、戦場を後にします。

その上で最後の策・・・
戦火から逃れてきた天狗党面々は、現在の大子町に集結。。。
その数およそ1,000人・・・
総大将は水戸藩家老・武田耕雲斎です。
「天狗党は、放火などで民衆の反感を買ったことを深く反省せよ。
 以後、一切の略奪や殺戮を禁じる。
 そして、最後の一戦を仕掛け、華々しく散ろう!!」
しかし、小四郎は戦うことに反対します。
「かくなるうえは、今日に上り、一橋慶喜を通じて朝廷へ尊王攘夷の志を訴えましょう。」
同じく水戸藩出身の一橋慶喜は攘夷派として知られ、開国派の幕臣たちと激しく対立!!
横浜港の閉鎖を唱えていたので、自分たちの力になってくれるのではないか??と考えたのです。
11月1日・・・天狗党は、大子を出発し、中山道をはるか京に向けて出発しました。

11月16日未明・・・上州下仁田のあたりで高崎藩の襲撃に遭いました。
11月20日・・・高崎藩を退けた天狗党は、信州の和田峠まで進軍・・・
しかし、今度は、高島藩、松本藩が待ち構えていました。 
総大将の武田は・・・
「我々は、故あって上洛する者で、好んで戦いをする者ではない。
 どうか道をあけてほしい・・・」
しかし・・・
「幕命により、通行は許可できぬ。」

またもや一戦を交えることに・・・
勝つも・・・またいつ襲われるか・・・常に緊張のある日々・・・。
出来る限り戦いは避けたい・・・
矢理に白紙を巻き、奉勅を掲げ進みます。

目指すは慶喜のいる京都・・・
疲弊した天狗党を待っていたのは・・・??
11月29日、美濃までやってきました。
京まであと少し・・・
このまま中山道を進めば、大垣藩、彦根藩との衝突は避けられない・・・
多くの犠牲が出るのは目に見えている・・・
そこで、中山道を迂回し、越前を経由して京を目指すことに・・・!!

しかし、既に幕府の術中にはまる・・・??
冬の越前は雪に阻まれて行軍できず・・・。
さらにルート沿いの大野藩は、天狗党が食料や寝床を確保できないように、街道沿いの民家をすべて焼いてしまいました。
疲弊していく天狗党・・・。

何としても京までたどり着かなければ・・・!!
その一心で豪雪の中を進み続けた小四郎たちは、現在の福井県敦賀市に・・・。
しかし、そこで待ち構えていたのは、加賀藩を中心とした1万の軍勢でした。

天狗党の総大将・鯛江田耕雲斎は、戦闘の意志がない事、一橋慶喜に会うための上洛だと訴えます。
しかし・・・その返答は・・・
「我々は、一橋公の命令によって陣を張っている。
 無理に通るというのであれば、一戦も止む無し。」
最後の頼みの綱と信じていた慶喜が、天狗党討伐を命じたというのです。

しかも、自ら2,500の兵と共に大津に布陣している・・・??!!

攘夷派に同情すれば、将軍になった時に幕府内での立場が悪くなってしまう・・・。
そのために、天狗党を切り捨てたのでは・・・・??
もはや時代は、開国へと進んでいたのです。

もはや降伏するしかなくなった・・・
武田耕雲斎は、慶喜に対して陳述書を渡してくれと懇願しています。

「幕府と戦い、天下の大法を犯した。
 よって一同加賀藩の軍門に下る。
 如何なる処遇も覚悟ながら、流賊の汚名を破るは死後も遺憾である。」

天狗党833人は、越前国・新保村で降伏・・・
加賀藩の恩情によって、捕縛を免除され、3つの寺に預けられます。
しかし、翌年の1月・・・幕府から天狗党の処分を任された田沼意尊がくると・・・一変。
田沼は、天狗党を単なる罪人として扱うのです。
ニシンの蔵に監禁・・・
下された沙汰は・・・藤田小四郎ら352人が斬首刑、島流し・・・137人、追放・・・187人。。。

どうして幕府は厳しい処分を・・・??
幕府としては、攘夷の思想は理解できても、もはや不可能・・・
開国せざるを得ない以上、全国の尊王攘夷派に対して見せしめにする必要があったのです。

藤田小四郎・・・24歳、その首は、塩漬けにされて水戸藩に送られ晒されたのでした。

これを知った薩摩藩・大久保利通は・・・
「この酷い行為は、幕府が近く滅亡することを自ら示唆したものである。」と、日記に書いたといいます。

この3年後・・・幕府は260年余りの歴史に幕を引いたのでした。
 


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今回は、何の題をもじっての副題なんでしょ??
個人的に、わかる副題=お気に入りなので、あんまりパロって欲しくないなあ・・・
って思うので、副題をパロる必要性を感じません。。。
そして、わからない人にはわからないので、伝わらないので、やっぱりパロる必要がないような・・・
そんなこんなな直虎です。


前回、虎松の後見を許された直虎でしたが・・・さて、今回は・・・??
なんだかのほほんとした内容のようですが・・・

駿府から帰ってきた直虎に、いい話があるという方久・・・。
それは最近はやり出した木綿でした。

naotora













いずれ、今使っている麻に代わるものとなる・・・そんな意見なようです。
そこで、井伊で作ってはいかがか??ってことなんですが・・・??

いい案だと木綿づくりに乗ろうとする直虎・・・
しかし、瀬戸村に甚兵衛によると・・・
”作ることは出来るかもしれないが、売るほど作るには人が足りない!!”

平時に・・・しかも農作業のために百姓を借りようと言い出した直虎。
しかし、誰も貸してくれない・・・。

naotora3














直虎が虎松の後見人になってしまったことを報告に行く政次・・・
手紙を預かったのに、阻止できなかったことを・・・。
しかし、きつい!!
「聞いております。
 そなたの不手際のせいで井伊はあの女のやりたい放題ということですね?
 そのわきの甘い女子にやられたのであろう!!そなたも今川も!!」と・・・!!

「仰せの通りにございますが、あまりあちらこちらに噛みつかれますと、便りを失いまするぞ・・・では。」by政次

チクリと言ってしまった政次でした。

でもね、本当に井伊の姫だった直虎に対してみんなひどい物言いだと思うのは私だけでしょうか??
反目していたけど、最終的には強力な味方になる!!とかいう少年漫画のようになるんだろうか・・・
それにしても表立ってあからさますぎる・・・。

それに反して、しのの妹であるなつは、実家を出て小野の家に帰ってきていました。
父・玄蕃が育った屋敷で息子を育てたいと・・・なかなか殊勝な・・・。

「似ておらぬ姉妹じゃの・・・。」by政次

その頃、直虎は瀬田の甚兵衛たちと木綿を植えていました。
これも政次には内緒みたい

直虎は、近藤と菅沼も回ったものの・・・結局人出は貸してもらえず・・・。

「やはり・・・但馬殿に相談してみてはいかがでしょう?」by六左衛門

「嫌じゃ!! 但馬だけは嫌じゃ!!」by直虎

と、別の策を考えることにした直虎です
子供かっ!!

そこへ・・・方久から書状が・・・
世話をしても、全く芽の出ない木綿・・・。

直虎は、直之と共に、井伊中の村々を回って、綿の種も、人出も・・・
解決することはできませんでした。

そんな道中であった謎の男・・・
旅の者だというその怪しい男・・・
「人なら買やあいいじゃないですか??」by旅の男

木綿も芽が出て、いい感じ!!

その頃・・・直虎がどこに行ったのか追及される六左衛門!!

naotora5













そして、直虎たちは人を探して・・・買いに出かけますが・・・??

「噂を流されてはいかがか?」by政次

六左衛門がしゃべってしまったようです。
政次に見つかってしまいました。

naotora6













「お三方がひとを貸してくれぬのは、この話が領主にとってはなんの旨みもないからだ。。。
 だが、この話は困っている百姓にとっては大きな旨みがある。
 耕しさえすれば、土地持ちの百姓となれ、しかも実りが出て3年は年貢もなし。
 かように良い話はそうそうない・・・
 ならば・・・この話が百姓の耳に直に届けば井伊に逃げてくるものもあるのではないかと・・・
 私なら思うが・・・。では!!」by政次

拾うのではなく噂を流す・・・

納得の直之ですが・・・意固地な直虎は政次の助けが気に入らないみたい・・・。


「知っておるか??井伊ではただで土地がもらえるらしいぞ!!」by直之

「へ・・・!?へえ!!へええ!!
 まことにございますか!?」by方久

「うむ!!
 己で荒れ地を耕せば、実りが出て、しかも3年はお年貢もなしなんじゃそうじゃ!!」by直之

naotora7














・・・と、噂を流す直之と方久・・・そして直虎!!

駿府では・・・寿桂尼が倒れてしまいました!!

naotora8













そして疲れてしまった直虎も倒れ・・・
「六左殿・・・
 俺はな、正直ゾッとするのじゃ・・・
 殿を戴いて戦などという羽目になったら・・・
 とてもお守りしきれぬ気がせぬ・・・」by直之

「まあ・・・それも考えて参りましょうよ・・・みなで。。。」by六左衛門
 
直虎が起きてみると、外が何だか騒がしい・・・

naotora9













なんと、井伊に人がやってきていました。

「やりましたなあ!!」by直之&六左衛門!! 

政次の意見で人が集まった・・・
自分が領主をやるよりも、政次がやった方がいいのではないのか・・・??
自分にもっと知恵があれば・・・!!
悩む直虎に、南渓和尚は・・・

「足りぬ知恵なら、借りてきたらどうじゃ。
 政次から借りることにしてはどうじゃのう??
 急ぐことはない、ゆっくりと考える事じゃ・・・」by南渓和尚

「政次を使う・・・??」by直虎


そして、殿を支えるために、種子島を手に入れて来た直之でした。

ということで、めでたし、めでたし!!
と、水戸黄門なら一件落着で面白かったんですけどね・・・
話自体は面白かったですよ・・・ヒロインの活躍が朝ドラみたいで。
でも、私自身、あんまり朝ドラに興味ないんですよね・・・。
そう言えば、「花燃ゆ」の時か、「江」の時に行ったような気もするんですが、同じような一言を!!

「大河・・・つまり、時代の流れの大きな河を見たいのよっ!!」by私




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どうすれば軍備を縮小し、争いの芽を摘み取れるのか・・・??
世界はその答えを探し続けてきました。

国同士が抱く不信感が軍事的な緊張を生み出し、それが更なる不信感となる・・・
戦争とは、得てしてそんな悪循環の中から始まる・・・。

1941年のハワイ真珠湾攻撃で、アメリカと日本が不信の連鎖が生み出す対立の末に悲惨な戦いへと突入していきました。
しかし日米開戦の11年前、その事態を防ぐべく、行動を起こした政治家がいました。
第27代内閣総理大臣・浜口雄幸です。
その浜口が政治生命をかけて臨んだのが、1930年のロンドン海軍軍縮会議です。
軍艦の数を互いに制限することで生まれる信頼関係が、日本が繁栄を勝ち取る唯一の道だったのです。
しかし、その浜口に真っ向から対立したのが、日本海軍でした。
アメリカは・・・ハワイ併合、フィリピンの植民地化・・・強い海軍力が必要・・・??

1870年4月、高知市を望む山間のちいさな集落の家に、浜口雄幸は三人兄弟の末っ子として生まれました。
付近の山林を管理する役人だった父は、才能さえあれば立身出世できる新しい時代に、子供たちの教育に力を注ぎました。
雄幸は15歳までの多感な時期をこの山間の村で過ごします。
高知市内の中学校まで片道2時間をかけて通った雄幸は、帰ってきたら離れの勉強部屋に籠っていることが多くなります。
学校での成績は常にトップ、めったに笑わない、むっつりと常に黙っている少年でした。
中学へ進学しても変わらず、しかし、仲間内でも一目置かれる存在に・・・。
いかつい武士のようにとっつきにくいけれど、他人への思いやりに満ちた男で、周りの人々の信頼を得て行くようになります。

1895年東京帝国大学卒業後、大蔵省に入省。
不器用な性格が災いし、上司とぶつかり左遷もされるも、堅実な仕事ぶりが評価され、頭角を現すように・・・。
ところが、45歳で大蔵省に辞表を提出。
1915年立憲同志会に入党。
どうして浜口は、高級官僚の職を投げ打ち、政治家を目指したのか??
そこには、彼の生まれ育った土地柄と関係が・・・。
明治前半の高知では、盛んに政治集会(自由懇親会)が行われ、人々が自由に集い、要求を掲げていました。
自由に声を挙げて、日本を良くしていこうという熱気の中に、少年浜口も身を置いていたのです。

「先輩が、政治思想の養成に必死の努力を払われた結果、言論の発達、驚くべきものあり。
 自然にその気風を受けて、同好の友人達と共に、附近の小学校の校舎を会場として、盛に討論会をやったものである。」

浜口が政治家になって3年・・・
浜口は数多いる新人政治家の中でも、特に一目を置かれるようになっていきます。
世の人々は、大いに期待し、信用している・・・なぜなら、官僚が一時の気まぐれに政治家を目指したものではないと信じたからです。
浜口は、官僚として培った経験と人脈を買われ、大蔵大臣、内務大臣を歴任!!
その頃・・・世界は歴史の大きな転換点に立っていました。
第一次世界大戦・・・・。
戦車、飛行機、毒ガス・・・新兵器が次々と戦場に送られ、死傷者は1千万人に・・・!!
戦後、このような悲劇を二度と起こしてはならないという反省から、1920年国際連盟発足。
国同士の利害を調整しながら戦争を未然に防ごうという試みが行われます。
その一方で、緊張が高まっていたのが、国の統一の機運が高まる中国での情勢でした。
4億人を越える巨大市場に、アメリカ、イギリス、フランス、日本が権益拡大を狙っていました。

1929年7月、浜口雄幸が第27代内閣総理大臣に・・・
欧米諸国との協調と、軍備縮小を掲げて・・・!!
その背景には、恐慌と軍備拡大によって疲弊していた日本の経済を立て直したいという強い思いでした。

「我等は、世界人類の間に、平和愛好の精神を具体化し、我が外交政策の基調と為し、以て世界の進運に寄与しつつ、帝国の前途を開拓することを以て、我国の使命となすべきであると信ずるのである。」

首相に就任して4か月後・・・
浜口は、自らの代理である全権団を組織し、命運をかけた国際会議に送り出します。
1930年1月・・・ロンドン海軍軍縮会議です。
イギリス、アメリカ、日本の3か国にフランス、イタリアを加えた5か国がロンドンに集まりました。
会議は、国と国の利害と思惑がぶつかり合う、熾烈な国際交渉の場となっていきます。
中でも激しく対立していくのが、日本とアメリカ・・・!!
第1次世界大戦を経て、経済的にも軍事的にも世界の超大国となったアメリカ・・・世界最強の戦艦部隊を持ち、強大な海軍力を誇っていました。
日本の海軍は、そんな状況に、強い危機感を覚えます。
アメリカに太刀打ちできる軍艦を持たなくては、いずれ抑え込まれてしまうのでは・・・??
不信感が高まっていました。
そんな対米不信の急先鋒が、海軍の作戦立案の責任者、海軍軍令部長の加藤寛治大将でした。
その原因は、およそ10年前・・・1921~22年のワシントン海軍軍縮会議でした。
そこで、戦艦など・・・主力艦の持てる量を国ごとに定めた会議で、日本は対米7割を主張したものの、認められたのは6割・・・。
そこには、攻める側が守る側を屈服させるためには1・5倍の兵力が必要という世界の海軍関係者が共有している軍事的常識が関係していました。
どうして日本に対してアメリカが強く出るのか・・・攻めてくる意図があるのではないのか・・・??
対米6割・・・そこで、加藤が目を付け増強したのが、ワシントン軍縮会議で対象となっていない補助艦艇の強化でした。
戦艦に次ぐ攻撃力を持つ巡洋艦と、敵を待ち伏せする潜水艦・・・
ところがロンドン軍縮会議では、これらの補助艦も制限の対象になろうとしていました。

そこで日本海軍の要求は・・・??

①大型巡洋艦・・・・対米7割
②潜水艦・・・・・・・・78,000トン
③補助艦艇・・・・・・対米7割     でした。

浜口は、この海軍の要求を受け入れました。
全権団の代表として国際協調に深い理解のある若槻礼次郎を選び、交渉の行方を委ねます。
こうしてロンドン軍縮会議が幕をあけました。
交渉相手はアメリカ全権代表のスチムソン国務長官です。
アメリカ側の要求は、日本にとって厳しいものに・・・

①大型巡洋艦・・・・対米6割
②潜水艦・・・・・・・・全廃
③補助艦艇・・・・・・対米6割     だったのです。

これに対し、若槻は真っ向から対立していきます。

東京で待つ浜口の元では、逐一電報で会議の様子が知らされていました。
イギリスやアメリカの代表団からは、日本が歩み寄るべきだと揺さぶりがかけられます。
こうした圧力に若槻が食い下がります。
するとスチムソンは妥協案を・・・
交渉開始から2か月の3月15日、若槻全権から浜口のもとに妥協案の電報が・・・。
それは、日米療法が、譲歩に譲歩を重ねての結果でした。

①大型巡洋艦・・・・対米6割
②潜水艦・・・・・・・・52,000トン
③補助艦艇・・・・・・対米6.975割   

これ以上は譲歩は望めず、いたずらに押し返せば、会議は決裂する・・・!!
しかし、妥協案に強固に反対する者が・・・加藤寛治です。
一見、アメリカも譲歩しているように見えて、到底考慮の余地なし!!
これでは、日本の国防の責任は持てない・・・。
不満を抱いた加藤は、交渉中の外交秘密を新聞に発表!!
国民に訴えかけるという禁じ手に打って出たのです。

国際協調する・・・??
対外強硬する・・・??

ロンドンにいる若槻全権から最終回答案が来てから1週間・・・浜口は決断を下せずにいました。
そんな浜口を後押ししたのは国民の声・・・
1930年2月20日の第2回普通総選挙では、国際協調を説く浜口らの民政党が圧勝していました。
改心の勝利・・・さらに決断した決定的な出来事は・・・
3月27日、昭和天皇から参内するように申し付けられ宮中に向かった浜口・・・

「世界の平和のため、早くまとめるよう努力せよ」by昭和天皇

天皇に拝謁した日の午後、加藤が浜口の元へ・・・。
若槻からの妥協案を押し返すべきだという加藤に、浜口は
「これ以上交渉を先延ばしにすることはできない。
 もはや、決断の時だ。海軍の事情は理解したので、あとは自分の責任で決めさせてもらう。」
浜口が下した決断は・・・国際協調でした。

1930年4月22日、ロンドン海軍軍縮条約調印。

一方、面目を潰された海軍強硬派は、反発を強めていきます。
軍令部長の加藤が頼ったのは、東郷平八郎元帥でした。
東郷は、1905年ロシアのバルチック艦隊を日本海海戦に破った国民的英雄でした。
加藤と東郷は、浜口の判断は軍事的越権行為であると攻め、条約を審議する枢密院で廃案に追い込もうとします。
再び苦しい立場の浜口を後押ししたのは、やはり国民の声でした。
6月18日、ロンドンから若槻全権代表が帰国・・・15万を越える人々が熱烈に出迎えました。
一方の東郷には天皇が使いをだし、これ以上口出ししないように暗に伝えさせました。

「東郷もそろそそ達観すべき。。。」

東郷が身を引いたのが決め手となって、10月2日、ロンドン海軍軍縮会議批准。

その3週間後の10月27日、日本、アメリカ、イギリスの各首脳が協約の成立を祝い、それぞれの国民にメッセージを送るラジオ放送が・・・。
浜口は、いつものように笑顔を見せることもなく呼びかけます。
「ロンドン海軍条約は、人類の文明に一新紀元を画したるものであります。
 今回の条約は、国際的平和親善の確立に向かって大なる一歩を進めたるものでありまするが、我々は今後益々この崇高なる事業の進展を切望してやまざるものであります。」

1930年11月14日、この日、浜口は東京駅4番線ホームから岡山に向かう特急に乗ろうとしていました。
近づいてきた一人の男が、至近距離から銃弾を浜口に浴びせたのです。
銃弾は下腹部に命中、内臓を傷つけ、腰骨を砕いていました。
運び込まれた東京駅の駅長室で・・・浜口はつぶやきました。

「男子の本懐だ。。。」

浜口はこの傷が元となり、1931年8月26日死去・・・61歳でした。

現場で捕らえられた21歳の青年は、取り調べに際して・・・

「軍部の意見を無視して、米国の主張に屈し、軍備縮小条約を締結したのは、一大汚辱であり、国家の存立を危うくすると憤慨した。」と述べていました。

浜口の死を、国民は大いに悼みます。
8月29日、東京日比谷公園で行われた葬儀には・・・15万にも及ぶ人が参列しました。
しかし、その僅か3週間後・・・国民は、新たな熱狂へと・・・!!

1931年9月18日、満州事変勃発!!

満州全域を支配下に置こうとする陸軍の行動を、国民は熱烈に後押しし、日本は軍国主義の道を突き進んでいきます。
一方海軍では、ロンドン軍縮条約に賛成した穏健派が海軍を追われ、強硬派が台頭していきます。
やがて、軍縮条約から脱退・・・
そして、数ではかなわないアメリカの戦艦を質で圧倒しようと「大和」「武蔵」の建造に着手しました。
こうして陸海軍は、悲劇的な結末に終わる太平洋戦争へと突入していくことになります。



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徳政令を願い出る百姓たちの同意を得ることに成功した直虎でしたが・・・
それは、今川へ立てついたことに他なりませんでした。

「おんな城主と女大名」・・・いよいよ直虎は、今川へ呼び出される・・・!!

「連れて参れ!!二度までも沙汰に背くとは、これは謀反の意ありと疑われても、仕方あるまい!!
 直虎を駿府に、申し開きに来させよ・・・!!」by寿桂尼

ああ・・・あの悪夢が・・・直親の・・・申し開きすらさせてもらえなかったという悪夢がよみがえってきました。
どうなる・・・??

女VS女の、手加減なしの戦いが始まろうとしていました。

政次によって、駿府へ申し開きに来いというお達しが伝えられました。
政次・・・本当は、直虎をどうにか庇ってあげたいんでしょうが・・・ここはダメかしらね・・・??

直虎の後見は望んでいないと一筆書くようにしのに願い出る政次・・・何を考えているのやら・・・??

直虎は・・・何事も命あっての物種・・・と、南渓和尚に教えられます。
そして、直之には・・・駿府に行くということは、供を連れて行くということ。供まで死んでしまうから、駿府の意見を聞きいれろ!!と言われてしまいます。


六左衛門は留守番のようです。
直虎の供は・・・龍潭寺の僧たちと政次でした。
本当は武の直之が行けばいいんですけどね・・・直虎とはケンカ中。。。
南渓和尚に頼まれて、瀬田村の百姓たちに字を教えに・・・。

naotora
















直虎が、駿府から呼び出しを食らったと話すと・・・みんなが心配し始めました。
このままだと、先代様のようになってしまう!!と、百姓たちも大慌て・・・!!

「ほんでも、直虎様はおなごだで・・・お守りできんじゃ、男じゃねえだ・・・!!」by八助

そんな百姓の心をつかんでいる直虎に、心が揺れ動く直之・・・。


そして、いきなり輩に襲われる一行・・・!!
どうなる・・・直虎??!!
刀を抜いた政次・・・どちらの味方・・・??

naotora2

















・・・直虎を助けてくれたのは直之でした。

「政次・・・虎松の後見は、そなたに任す・・・。
 何事も、命あっての物種・・・
 まさかのときにはそうせよと、これは、和尚様からのお指図でもある。
 但馬、直虎は退くことにしたと駿府に伝えてくれ・・・!!
 かように恐ろしいのは、もう沢山じゃ・・・もうよい・・・。」by直虎

そして、何やら直之に頼んでいますが・・・それは、寿桂尼様相手の書状だったようです。

・・・直之・・・と思っていたのは・・・

naotora3

















実は直虎でした

「井伊直虎にございます。
 此度、太守様の命により申し開きに参上仕りました。」by直虎

「そなた・・・但馬に後見を託し、井伊に戻ったと聞いたが・・・」

「此度はありがたくも、太守様より駿府へ申し開きに来るようにお指図を頂きました。
此度こそは、決してお下知に逆らうまい、必ずや申し開きに参ろうと、勇んで井伊を出たのでございまするが、道中、何者かにつけ狙われまして・・・これではたどり着けぬ。またお下知に逆らうことになると、涙をのんで、そこなる但馬を隠れ蓑に使い・・・その何者かをあざむきましてござります!!」by直虎

・・・・・・

特性は、瀬田・祝田は寺領となっていたので、徳政は出来なかった・・・と、申し開きます。
そう・・・今川の仮名目録を出しました。

naotora4


















「井伊は、忠実に、お定めに従ったまでにございます。」by直虎

しかし・・・

「速やかに徳政を行われよ・・・」by寿桂尼

「私に、徳政を行え・・・と。」by直虎

「そうじゃ。。。」by寿桂尼

「それは、私にこそ、それにふさわしいもの・・・「後見」と、お認めになっておられるということになりますが・・・。
 さように受け止めてよろしいのでございましょうか?!」by直虎

すかさず、しのからの文を差し出す政次・・・
そこには、直虎の後見は望まぬ・・・と、書かれていました。

「それは、困った話よのう・・・。
 生母が望まぬ後見など、火種となるのは目に見えておる。」by寿桂尼

そこへ六左衛門が・・・!!

naotora7













「瀬田村、祝田村一同・・・直虎様の後見を伏して願い奉りまする・・・!!」という百姓たちの署名が・・・!!


「国というのは、まず民が潤わねばなりませぬ。
 民が潤わねば国が潤うことはないと存じます。
 民が潤えば、井伊が潤います。
 井伊が潤えば、それは、今川の潤いとなっていくと私は考えております。」by直虎

「井伊直虎・・・そなたに後見を許す・・・
 今後は己の力量をもって、井伊を潤すがよい・・・!!
 ただし、次はない・・・!!」by寿桂尼

ということで一件落着!!

naotora8
















井伊では・・・

naotora9














心配していたみんなが待ってくれていました。 

ということで、一件落着!!
これはこれで、いい感じでお話がまとまっていると思いました。

が・・・やっぱり大河ファンとしては物足りないというか・・・
カッコいい殺陣や、策謀、しびれるようなセリフを聞きたいわけです。 

このまま井伊に人がいないと、このままに終わってしまう・・・。
前にも書きましたが、南渓和尚の小林薫さんがいい味を出してくれて引き締まっていいですね。
そこに来て、瀬戸村の甚兵衛・・・山本學さんも、とってもいい感じでドラマを引っ張っていってくれていると思います。
やっぱりベテランがいてこその重みのある演技なんだろうなあ・・・と、感心しちゃいます。

もちろん、政次も、直之も頑張ってますけどね。。。
早く、老獪って言葉の似合う誰かさん(別に家康って意味ではなくって・・・)が出てこないかな・・・??


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今から380年前、長崎県島原半島で、江戸時代最大の内乱がありました。
1637~38年、島原の乱です。
3万7000の住民が武装蜂起!!
12万の幕府軍と戦いました。
一揆の原因は、切支丹弾圧の反発とされていますが・・・??

日本におけるキリスト教伝来は戦国時代の1549年。
カトリックの修道会が熱心に布教を行った結果、キリシタン大名も出てきました。
とりわけ九州に多く、肥前日野江城主・有馬晴信、肥後宇土城主・小西行長などがいました。
江戸幕府開府以後も、莫大な貿易での利益を得るために、家康はキリスト教の布教を許していました。
ポルトガルとの貿易が中心でしたが、1609年オランダ、1613年イギリスが参入しました。
しかし、1613年幕府は禁教令を発布。
教会を破壊し、宣教師たちをマカオなどに国外追放しました。

どうしてキリスト教は禁止されたのでしょうか??
原因の一つは、プロテスタントの国・オランダから届いた国書にありました。

「カトリック宣教師は日本人を改宗させて、他の宗教を排斥しようと考えている
 そして、宗教の争いを起こさせ、内乱に導こうとしているのだ。」

宗教勢の一揆を恐れる幕府・・・キリスト教の教えにも危機感を抱くようになります。
キリスト教自体が、「何人も神の許に平等」としています。
封建社会を目指す幕府にとっては、都合が悪かったのです。

2代将軍徳川秀忠は、将軍を頂点とする幕藩体制を揺るがすとして、キリスト教への弾圧を強化!!
信仰を捨てない者は、厳しく罰するように大名達にも圧力をかけます。
そんな中、キリシタン大名の有馬信治の代わりに島原藩主となったのが、松倉重昌でした。
重政は、幕府の命に従い、キリシタンを厳しく弾圧!!
凄惨な処刑を断行し、人々への見せしめとします。
こうした過酷な弾圧は、息子・勝家の代まで20年も続きました。
苦しみから逃れるために、人々は信仰を捨てるしかありませんでした。

ついに我慢の限界が・・・きっかけは・・・
1637年10月25日、事件は島原有馬村で起こりました。
信仰を捨てずにいたキリシタンたちが隠れて礼拝をおこなっていたところ、藩の役人に見つかってしまいました。
捕まれば厳しい拷問は必至!!
とっさに抵抗し、役人を殺してしまいました。

役人を殺したのだから死罪・・・ならば、戦うしかない!!

と、有馬村のキリシタンたちが蜂起、近隣の村にも飛び火し、10月26日島原で一揆が勃発!!
一揆勢は、島原藩士たちを殺害し、寺社を焼いていきます。
10月28日、唐津藩天草でもキリシタンが蜂起。
この地を治めていたキリシタン大名・小西行長は、関ケ原の戦いで西軍につき斬首、やってきた唐津藩主・寺沢堅高による厳しいキリシタン弾圧に耐えかねてのことでした。
この天草の一揆勢を率いていたのは天草四郎でした。
天草四郎・・・出身は上天草とも宇土ともいわれ・・・本名は、益田四郎時貞。
父はキリシタン大名・小西行長の元家臣で、関ケ原の戦いで主君を亡くしたので牢人に・・・
母は、マルタという洗礼名を持つキリシタンでした。
四郎もカトリックの洗礼を受けており、洗礼名はフランシスコあるいはジェロニモでした。
幼少から勉学に励み、長崎に遊学し、天草にある上天草市に落ち着きます。
一揆が始まった時、四郎は15歳だったともいわれています。
やがて四郎たちは、唐津藩の兵が籠る富岡城を包囲し、落城寸前まで追い込みます。
その後、島原の一揆勢と合流し、四郎は3万7000を率い、島原藩の蔵を襲って鉄砲530挺と、年貢米5000石を略奪!!
廃城となっていた島原の原城に立て籠ります。

近年の発掘から、一揆勢は石垣に沿って穴を掘り、家族単位で籠城生活を送っていたようです。
12月1日、90日に及ぶ籠城戦が始まりました。
原城本丸の礼拝堂で祈りを捧げる四郎・・・。
四郎の持つカリスマ性に惹かれ、団結する一揆勢!!

一方、幕府は事件の知らせを受けたのは数日後・・・
3代将軍家光は、すぐさま京都の治安維持を担う京都所司代・板倉重昌を指揮官に任命。
京都所司代を動かすのは異例のことでした。
そして、江戸にいた藩主には国元に帰るように指示しています。
幕府にとって一番恐ろしかったのは、原城のような状況が全国で起こることでした。
そして、江戸にいた九州の諸大名に、帰国して一揆鎮圧に加勢するように命じます。

12月10日
籠城する一揆勢3万7000に対し、諸大名の大軍勢が・・・!!
しかし、一揆勢の反撃を受け、思わぬ苦戦を強いられます。
幕府軍、まさかの苦戦の理由は・・・?
原城は三方が海に囲まれ、一方は崖という要害の地にありました。
有明海の潮の流れはあまりにも早く、船をつけるのは非常に困難でした。
そのため、幕府軍が城を攻めることができるのは、一日2回の潮どまりの時だけでした。
陸側は・・・あたり一面湿地帯で、ぬかるみで城にたどり着くのもままなりません。
しかも、一揆勢は崖の上に板塀を張り巡らし、準備をしていました。
板塀の裏に隠れ、幕府軍を狙い撃ち!!
地の利を生かし、大軍を相手に激しく抵抗する一揆勢!!
海の事情をよく知る彼らは、夜の間にこっそり船をだし、籠城のための武器や食料の調達をすることもできました。
幕府軍は3度の総攻撃をするも完敗・・・
指揮官の板倉重昌が戦死・・・3,800人の死傷者を出してしまいました。

1638年1月4日、板倉重昌に代わり、家光の側近、知恵伊豆こと老中松平信綱がやってきました。
兵糧攻めに戦略を変更!!
立て籠もっている人々に投降を呼びかけます。
矢文でやり取りをします。
そこに書かれていたのはもちろんキリシタンへの弾圧と・・・藩主松倉氏の悪政でした。
平地のない・・・凶作な大飢饉にもかかわらず、重税が課されていました。
重税の理由の一つは、島原城の建設・・・
外様大名だった松倉氏は、国内外に威厳を見せつけるべく、四層五階の分不相応の城を築城し、重い税をかけていました。
その取り立ては、息子・勝家の代になるとさらにひどくなり・・・
いろり銭、窓銭、戸口銭・・・と、税をかけ、子供が産まれると頭銭、亡くなると穴銭・・・何かと税を取り立てていきます。
納められない者には、恐ろしい罰を与えるのでした。
領民たちは、木の根や草を食べて凌ぐものの餓死者は増える一方・・・。
もう、我慢の限界でした。
キリシタン弾圧だけでなく、重税も一揆の原因だったのです。

どうして15歳の四郎が一揆の指導者となったのでしょうか?
一揆の数か月前の噂に・・・
ポルトガル宣教師の預言でもうすぐ神童が天草に現れて、キリスト教を再興するというものでした。
その時こそが決起の時!!
その神童こそが天草四郎・・・予言通りに現れた少年を、救世主とし、神の子と崇めたのです。
四郎は長崎に遊学していた際に、医学を学んでいました。
チョットした病気を治すこともできました。それが奇跡のように見えたのかもしれません。
四郎を神格化していく人々・・・。

四郎の陰で一揆を先導していた真の首謀者とは・・・??
小西行長の家臣・益田甚兵衛・・・四郎の父でした。
有馬晴信の家臣・有家堅物・・・
指導していた人たちは、関ケ原の戦いの後、武士から農民に身を落としていた庄屋となっていた人たちだったのです。
徳川への恨みを晴らすべく、その機会を虎視眈々と狙っていたのです。
原城の沖合6キロに浮かぶ湯島・・・別名談合島・・・庄屋たちはこの島の山頂に隠れ家を設け、一揆の機会をうかがっていました。
槍や刀などを密造しながら、作戦を立てていたのです。
しかし、問題が・・・
蜂起するにはキリシタンだけでは人数が足りなかったのです。
「キリシタンにならなければ討ち果たす!!」と、農民たちを脅し、無理やり引き込みました。
彼らは”無理なりキリシタン”と呼ばれました。

一揆勢はキリシタンだけではない・・・それを知った信綱は、一計を案じます。
知恵伊豆の起死回生の一手とは・・・??

2月1日、兵糧攻めを続ける中、一揆勢にキリシタンでない者がいると知った信綱は、これを利用します。
内部の結束を崩しにかかったのです。

手紙・・・
熊本藩に捕らえられていた四郎の甥・小平に手紙を持たせ・・・一揆勢に手紙を届けさせます。
 家光公はキリシタンを処刑する一方、無理やりキリシタンにされているものに至っては助命する!!
 キリシタンの中に後悔し、改宗する者がいれば助命する!!
しかし、一揆勢の指導者たちは、この交渉に応じず・・・。

籠城戦で勝つためには、援軍が肝要です。
一揆勢はどこからの援軍を待っていたのでしょうか??
発掘から、彼らはイエズス会の影響下にありました。
幕府は、一揆の後ろにポルトガルがいることをかなり警戒していました。
当時ポルトガルは、スペインと共に強大な権力を持っていました。
しかも世界進出を目論んでおり、アジアにも植民地を拡大・・・その触手の及ぶことを、幕府は恐れていたのです。
そこで、ポルトガルと戦っていたオランダと手を組んだのです。
そして、長崎平戸のオランダ商館に、海と陸から原城を砲撃するように依頼します。
しかし、幕府内部で強固な反対に・・・
熊本藩主・細川忠利は、外国船の力を借りるのはいかがなものか・・・恥辱である!!と反対!!

オランダ船から砲撃!!
おまけに待てど暮らせどポルトガル船は来ず・・・。
ポルトガルは本当に来ることになっていたのでしょうか?
日本全土となり、勝ち目があれば来る、勝ち目がなければ来なかった??

当時のポルトガルの拠点はマカオでした。
マカオから日本までは帆船・・・季節風は北風を受けて、この季節は日本へ針路をとることができません。
ポルトガルが指示しても、中尾から援軍を送ることは無理だったのです。

2月10日・・・籠城を始めてから2か月・・・一揆勢の兵糧と弾薬は底をつき、飢えによって動けない人々も・・・
そんな中、碁を打っていた天草四郎の左袖を鍋島軍の弾丸が撃ちぬいたのです。
神に守られて不死身と思ってた四郎が撃たれた・・・
神の子ではなかった・・・一揆勢は不吉と動揺し、四郎の求心力は瞬く間に低下・・・
原城を抜け出す者も出てきました。

一揆勢の投降者は1万人に・・・!!
窮地に陥った一揆勢・・・幕府軍から兵糧と弾薬を奪い取ろうと闇討ちをかけるも失敗・・・
多くの死傷者を出してしまいました。
信綱は生け捕りにしたものを尋問すると・・・城内の米が尽きていることが判明。

一揆勢が弱っている・・・!!と、信綱は総攻撃をかけることに・・・!!
2月28日、12万の幕府軍による一斉攻撃が始まりました。
数百本の火矢が放たれ、本丸は炎上!!
息もできないほどの黒鉛の中・・・一揆勢は小石から鍋、釜をも投げつけて抵抗!!
壮絶な決戦となりました。
幕府軍の記録には、老人、女性、子供までも皆殺しにしたとあります。
この時信綱は、四郎を生け捕りにするように命じていましたが・・・討ち取られてしまいました。
武装蜂起からおよそ4か月・・・江戸時代最大の内乱は、壮絶な結末に終わりました。

その2か月後、幕府は島原、天草の領主に対しても厳しい沙汰を・・・。
天草を治めていた唐津藩主・多羅沢堅高は領地を没収され自刃、お家断絶。
島原藩主・松倉勝家は流罪となり処刑。
領民たちが蜂起するほどの悪政に対する沙汰でした。

島原の乱における幕府の死傷者は、全国の武士の1%に当たるおよそ1万2000人。
さらにかかった費用も莫大で、悪性の代償はあまりにも大きなもの(40万両=400億円)でした。

蘭の終結後、幕府は原城を徹底的に壊し、石垣の外に一揆勢の遺体を埋めました。
平成になって発掘調査が行われるまで封印されていた原城からは、たくさんの遺骨が見つかっています。
幕府の処罰は厳しく、島原、天草のキリシタンをほぼ根絶やしにし、禁教令を強化。
ポルトガルとの国交を断絶し、鎖国体制に入っていきます。

学んだことは・・・武断政治の限界で、文治政治への変換の必要でした。
一揆勢の尊い命は、江戸時代の日本をながい泰平の世へ導いてくれたのです。



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