日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

>ー幕末バトル・ロワイヤルー井伊直弼の首(新潮新書)【電子書籍】[ 野口武彦 ]

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江戸時代末期・・・1860年3月3日、季節外れの雪が舞う江戸城桜田門の前で、前代未聞の事件が起こりました。
桜田門外の変です。
暗殺されたのは、幕閣・大老・井伊直弼!!
戦国の世を生き抜いた井伊直虎、徳川四天王の井伊直政の末裔です。

事件を起こしたのは、水戸浪士ら18人!!
対して直弼は60人もの大行列を従えていました。
僅か3分・・・どうして直弼はあっけなく殺されてしまったのでしょうか??

井伊直弼が大老に任ぜられたのは1858年のこと・・・44歳の時でした。
直弼は、幕府が直面していた2つの問題を直ちに解決しなければなえいませんでした。
一つは跡継ぎが居なかった13代将軍・家定の後継者を誰れにするかと言う事・・・
この時、一橋派(一橋慶喜を推す)と南紀派(徳川慶福)に対立していました。
南紀派だった井伊直弼は、一橋派だった徳川斉昭を押さえ、慶福を第14代将軍徳川家茂としました。

もう一つはアメリカとの通商条約・・・
1853年の黒船来航以来、アメリカは日本に条約締結を強く求めていました。
直弼は、アヘン戦争以降、清が西洋列強に侵食されていることに鑑み・・・日本が植民地化されないためには、条約調印も止む負えないと考えていました。

しかし・・・開国を望んでいなかった朝廷は、条約調印を許可する勅許を出そうとしません。
そこで、直弼は、1858年6月・・・朝廷の勅許なしに、日米修好通商条約調印を断行!!
これに怒ったのが、将軍継承問題で対立していた前水戸藩主・徳川斉昭でした。
攘夷派の大名たちを引き連れて、江戸城に押しかけてきました。

「直弼を切腹させるまでは、城から出ぬ!!」

しかし、大名がさだめられた日以外に登城するのはご法度・・・
直弼は、禁を破った斉昭に、水戸城内の一室に永蟄居を申し付けたのです。
この厳しい沙汰に水戸藩は黙っていません。
井伊直弼打倒のために、朝廷に働きかけます。
すると、朝廷は幕府の勝手な調印を非難するとともに、戊午の密勅を下しました。
幕府の家臣である水戸藩に、直接勅書が下されることは、前代未聞の事でした。
幕藩体制が崩れてしまう・・・
直弼は、国家の争乱を防ぐために、弾圧を開始しました。
勅書を手配した水戸浪士、攘夷派、反幕思想を持つ者、公家などを、次々と牢へ・・・安政の大獄です。
処罰されたのは75人・・・8人が切腹や死罪となりました。
人々は直弼の政治を恐怖政治と恐れました。

すべては幕府の威信を守るため・・・これが、周囲から大きな恨みを買う原因となっていきます。
1859年12月、直弼は水戸に下した勅を返納せよという新しい勅書を朝廷に出させます。
流石の水戸も、朝廷の決定なら・・・と、勅書の返納を決めましたが・・・しかし、水戸藩の過激派が大反発!!
「朝廷をないがしろにし、外国に媚び諂う幕府のあやまちを我々が正す!!」
と、脱藩し、幕府に鉄槌を下すべく、江戸へと向かいました。

1860年3月1日・・・事件発生2日前・・・
江戸に潜入した水戸浪士たちは、日本橋の待合茶屋で計画を練ります。
襲撃部隊は、総指揮者の関鉄之助、見届け役は岡部三十郎・薩摩浪人有村次左衛門など総勢18名。
狙うは大老・井伊直弼の首一つ!!

3月3日は井伊直弼は確実に登城する!!
彦根藩邸から60人を引き連れて、500m離れた桜田門へ・・・
その日は朝から、季節外れの雪が降っていました。

1860年3月3日午前7時ごろ・・・
水戸浪士ら18名は、愛宕神社に集結!!
雪が降りしきる中、江戸城・桜田門へ向かいます。
桜田門付近は、登城の大名行列を見物しに来た人々で賑わっていました。
見物客に交じって井伊直弼を待つ水戸浪士たち・・・。

午前9時ごろ・・・
直弼の行列がやってきました。
桜田門まであとわずか・・・
一発の銃声を合図に、襲撃犯たちは一斉に斬りかかりました。

井伊直弼死亡・・・46歳・・・大老になって2年後の事でした。
犯行時間はたったの3分でした。

どうしていとも簡単に暗殺されてしまったのでしょうか??

①プライドと信念
事件の3日前・・・直弼は水戸藩と親しい間柄の吉井藩主・松平信和から、忠告を受けていました。
「水戸浪士が不穏な動きをしております。
 身の危険がある故、早急に警護を増やしてはいかがか・・・??」by信和
「諸侯の警護の数は、幕府が定めるところ。
 大老自らそれを破っては、他の者に示しがつかぬ。。。」by直弼

直弼には、幕府の秩序を守り抜くという信念がありました。

事件当日早朝にも・・・
「水戸浪士が襲撃を計画しています故、十分注意されよ」と文が・・・

直弼はこれも無視、誰にも相談することなく登城したのです。
過去に、大名行列が襲撃され、藩主が殺される例などありませんでした。

②天気
お供の者たちは、雨合羽を着て、柄袋で刀を覆っていました。
柄袋をほどいて、かじかんだ手で刀を抜くのは難しく、反撃が遅れ斬られてしまった・・・。

この事件で襲撃側の死者は1人でしたが、彦根藩側は8人の死者、深手は多数出したのです。
知らせを受けて来た彦根藩士たちは、死傷者を運び、主君の遺体を駕籠に乗せると、急いで藩邸に戻っていきました。
藩邸ですぐに、直弼を検死・・・
「太ももから腰にかけて銃弾が貫通している・・・!!」
右太ももから腰に・・・銃弾が貫通していました。

天寧寺にある供養塔には、直弼の遺品が埋められています。
しかし、一つだけ埋められなかったもの・・・
それは、桜田門外の変の時に駕籠に敷いていた座布団でした。
その座布団の血の跡から、斬られたのではなく、銃によるものでは・・・??
事件の時に聞こえた銃声は一発・・・。
これまで総指揮者である関鉄之助が襲撃の合図のために撃ったとされてきましたが・・・
しかし、その一発が直弼の致命傷になったのか・・・??


関の位置からでは、普通に撃てば上から下に貫通するはず・・・
もう一人拳銃を持っているものがいました。
襲撃者の記録には、鉄砲所持・関鉄之助、森五六郎とあります。
森五六郎は、書状をもって、一番に乗り込んだ男です。
駕籠の前でひれ伏している五六郎なら、右太ももから腰に貫通するのもわかります。
検死報告と同じ角度になるのです。
しかし、事件後、五六郎を一時預かっていた臼杵藩の家臣の記録によると、森自身は発砲を否定しているのです。
誰が直弼を撃ったのか・・・??
近年、森が持っていた拳銃が発見されました。
森五六郎は、書状を出した瞬間、刀で切りかかったのではなく、直弼に向かって発砲したという証言もあります。

明治まで生き延びた海後磋磯之介の記録によると・・・
直弼の駕籠の近くにいる森五六郎は、「直訴状差し上げ、駕籠に訴えると見せかけて短銃発砲」と書かれてあります。
森は、銃を発砲する役割も担っていたのです。
より確実に、直弼暗殺を成功させるため、至近距離から駕籠を襲撃したのです。
周到に計画を練っていたことが伺えます。
襲撃者の多くは逃亡を断念し、直弼を撃った森五六郎は取り調べの際・・・この拳銃は行方不明となっていました。

井伊直弼を撃った短銃のグリップは、高級木材・紫檀でできていて、全体的に桜の文様が・・・
贅を尽くしたこの拳銃・・・似たようなものがあります。
アメリカコルト社の51ネイビー(コルトM1851)です。
51ネイビーは、ペリーが来航した際に持ってきた拳銃で、日米和親条約が結ばれた際に、幕府高官に送られました。
その拳銃が桜田門外の変で使用された・・・??
拳銃は複製されたようで・・・水戸藩・斉昭の指示によるものでした。
斉昭は、開国に当たって直弼と対立しているときに、水戸藩内に武器の製造工場である「神勢館」を設立していました。
当時の日本では、水戸藩の製造技術は特に優れたものでした。

事件後幕府は、厳しい尋問を行いました。
その時、執拗に問いただしたのが、徳川斉昭の関与です。
ことごとく直弼と対立していた斉昭・・・その結果、永蟄居の憂き目にあった斉昭・・・。
直弼を恨んでの仕業ではないか??と疑われたようです。

しかし、斉昭は、攘夷を目指していたものの、過激に推し進めようとする浪士は認めていませんでした。
なので、斉昭が黒幕だったとは思いにくいのです。
水戸藩では武器の製造が盛んにおこなわれていたので、水戸藩士なら入手しやすかったようです。

江戸城桜田門の前で暗殺された井伊直弼・・・
その亡骸は、彦根藩士たちによって藩邸に運ばれましたが、胴体だけでした。
討ち取られた首はどこへ・・・??
浪士たちは品川から船で京へ運ぶ予定でした。
しかし、首を取った薩摩浪士・有村次左衛門は傷を負っていたので、ある大名屋敷の前で力尽きてしまいました。
この首を預かってほしい・・・そう言うと、自害!!
まもなく噂を聞きつけた井伊家家臣が引き取りにやってきました。

証文と引き換えに首を持って行ったのですが・・・
そこには「井伊家家臣 加田九郎太の首」と書かれていました。

井伊家の菩提寺・豪徳寺に直弼は葬られました。
墓石によると亡くなった日は、閏3月28日とあり、暗殺された3月3日ではありません。
事件のあった年は、暦のずれを直すために、3月が2回ありました。
閏3月28日は・・・事件から2か月ほどたった時の事です。
どうして実際の死亡日と2か月も違うのでしょうか?

それは、直弼が世継ぎを決めずに亡くなっていたからです。
世嗣を決めずに藩主が死んだ場合、お家断絶になるのが決まりでした。
藩主が襲われて命を落としたというのはもっと悪い事・・・
彦根藩の失態による藩の取り潰しから免れるために隠蔽工作をしていたのです。

さらに・・・死んだはずの直弼からの手紙を幕府に提出しています。
3月3日の登城欠席届を・・・
「暴漢に襲われ応戦したが、負傷したため登城できず帰宅した」
直弼が生きていたかのように取り繕ったのです。
直弼が負傷したとしてしまったために、屋敷には見舞いの者が・・・
家臣たちは、直弼の首と胴体を縫い合わせ、布団に寝かせ、ケガで臥せっているかのように見せかけます。
しかし、直接寝所に見舞わせることなく、玄関で終わらせます。
江戸城外で、多くの者が見ている中でのこの事件・・・
幕府は知らなかったのでしょうか??

彦根藩の隠蔽工作には、幕府も関与していたようです。
江戸城近くで、大老がいとも簡単に殺された。。。
それは、幕府の権威失墜につながります。
幕府は権威が揺らぐのを恐れて、隠蔽に加担したのです。
もし、彦根藩をとり潰せば、その原因を作った水戸藩に対しても何か処分をしなければならなくなる・・・
出来るだけ穏便に治めたかったようです。
襲われたけれど、後にその傷が元で亡くなったと・・・。

隠蔽工作で時間を稼いだ彦根藩は、直弼の子・直憲で相続願を提出。
幕府がこれを認めたことで、なんとか彦根藩はお家断絶を免れることができました。

直弼は、勅許なしで条約を締結、それに反対する者を弾圧・・・
多くの敵を作ってしまいましたが、そこにはいつも強い信念がありました。
「幕府の権威を取り戻し守る!!」
暗殺される5年前、家臣に宛てた手紙には・・・
「恐ろしさのあまり、薄氷を踏む思いである」
その手紙と共に極秘の手紙が・・・
そこには自身の戒名を書いた一片の句が・・・
すべて覚悟の上の事だったのです。

井伊直弼が暗殺された事件は、広く知られることとなり、幕府の権威は失墜・・・長く続いた太平の世は終わりをつげ、動乱の時代の幕開けとなったのです。 



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永禄3年5月・・・
今川義元は、軍勢を率いて尾張に攻め込んだ。
その数、2万5000!!
直盛をはじめ、誰もが今川の勝利を信じて疑わぬ戦でござった。
織田制圧も、目前となっておった。。。

ということで、いよいよ桶狭間の戦いです!!

もちろん、油断していた今川軍に、数少ないチャンスをものにして攻めた織田軍の勝利となってしまったわけです。

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皆の無事を祈る次郎法師。

「尾張の桶狭間とやらで、今川の軍勢が大敗を喫したと・・・!!」by昊天

留守を守る井伊家に緊張が走ります!!

naotora















「雨上がりに奇襲をかけられ、義元公も討死されたとの事です!!」
と、松平元康家臣情報で、大高城の元康はどうする・・・??
ここを出て岡崎へ・・・!!またとない好機・・・!!

井伊には、たくさんの負傷者が戻ってきていました。
その負傷者の中には、しのの父・奥山朝利も・・・

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状況に・・・下知もできずに狼狽する氏真・・・。

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「戻れてしまったのう・・・!!」by元康
ということで、岡崎城に戻れてしまった元康!!
「戻れてしまったのう・・・!!」ということは、それだけ奇跡ってことなんでしょうけど・・・。

勝鬨をあげる元康!!
やっぱり時代がこの人を必要としているんだろうか・・・
死なないというか・・・ラッキーな人です。
本当は、ちゃんと画策してるんでしょうけどね。
時代も味方につけてしまう元康なのです。

そして直盛は・・・。

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連れ帰ったのは奥山孫一郎。

劣勢が明らかになった時点で・・・

「孫一郎!!
 これからわしは自らの命を絶つ!!
 どうせ死ぬなら、織田の輩の手柄ではなく、井伊の役に立ちたい!!
 
 わしの首を掲げ、お前は織田のふりをし戦場を抜けよ・・・!!
 そうすれば、井伊の武者のひとりは助かるではないか・・・!!」by直盛

「ならば・・・ならば、それがしの首を殿が掲げ・・・」by孫一郎

「お前たちはまだまだこれからじゃ・・・!!」by直盛



「殿・・・お働きご苦労様でございました。
 お髭を整えましょうね・・・。」by千賀

なんと気丈な・・・これぞまさに戦国武将の妻!!
そのかっこよさに、日本中が涙したかも・・・!!

数日後・・・直盛、玄蕃他、亡くなった16名の家臣たちの葬儀が行われたのでした。
井伊にとって桶狭間は、まさに大打撃!!

井伊の者たちで・・・血縁者を亡くしていない者はいませんでした。
気丈に振る舞い、皆を気遣う千賀・・・。

そんな中、孫一郎が殿の遺言を預かっているという。
寝耳に水のメンバー。。。

「殿が、今わの際に申せられましたことには、この後は井伊谷を中野殿に任せること・・・との事。」by孫一郎

何も聞いていないという中野直由。。。

「思いますに・・・この後遠江、三河一帯が大いに乱れるは明らか・・・
 殿としては、唯一の御嫡流である直親様を矢面に立たせたくはなかったのではないでしょうか・・・??」by政次

とっても聡明な政次・・・!!
井伊はどうなるのか・・・??
奥山朝利は、小野政次を疑い始めました。
殿に入れ知恵したのでは・・・??

「但馬は殿亡き後、混乱に乗じて再び乗っ取りを始めるつもりなのじゃ!!」by朝利


実は、この桶狭間の戦い、先鋒は地図的に見てもちろん松平元康と井伊直盛でした。
元康が大高城→岡崎城ということ・・・”岡崎城”・・・つまり、元康の城ってことで勘違いしがちですが、この時、元康がやっていたのは大高城に兵糧を入れることでした。
つまり、この時、井伊にその命が下っていれば・・・直盛は死なずに済んだかもしれません。。。
??死んだのは桶狭間に従った元康だったかもしれません。
ってことは、江戸幕府開府はなかったかも??
なんです。

ま、これからも、ラッキーを掴んでいく元康ですが、本当はラッキーでも何でもなく、とっても出来る男なのかもしれませんが・・・。

で・・・井伊の男子が少ない中、どうして直盛は自決するに至ったのか??
だって、今川に近しい家臣たちも逃げ出しているのに・・・??
あんなに今川を嫌っているんだから逃げ出しちゃえばよかったのに・・・!!
もちろん、深手を負っていた可能性は大いにあります。
そして・・・あまりにも近くにいたためとも思われます。
周りの人たちが自刃していく中・・・どうしてもそこから抜け出ることができなかったのです。

あ・・・元康ならそこもラッキーで切り抜けていくかもしれません。
なんてったって最後まで生き残る男ですからね・・・??



千賀は・・・家人を亡くした者に手紙を書いていました。

「みな・・・父上のためにお働き下さり、討死にしたのですから、お悔やみや礼を言うのは私しかおらぬではないですか。」by千賀

そんな母に、手紙を出してくれる人はいるの・・・??

奥山の父からなつと亥之助を帰してほしいと手紙が来ました。
なつ・・・どうする・・・??

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「お方様よりできればこちらに留まってほしいと文を頂きました。
 亥之助はここに馴染んでおりますし、置いていただけるなら私は引き続きこちらにご厄介になりたいかと思うております。」byなつ

亥之助は玄蕃の幼いころに瓜二つ・・・と、なつの気持ちを嬉しく思う政次。。。

しかし・・・「守らねばならん・・・」by朝利・・・
呪文のように・・・何を考える・・・朝利??


手紙を書き終えて、眠ってしまった母・・・

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そこには”とわ殿”と宛てられた手紙が・・・

黙って目を通してしまう次郎法師。。。

此度は御父上を亡くされ、ご傷心如何ばかりのものかと存じます。
そなたのお父上は、お優しく、人の心を大切になさるお方でした。
それは時として頼りないと映るほどの・・・けれど、御父上に私心はなく、井伊のためとあらば、どこまでも身を削られる覚悟のあるそういう御方にございました。
井伊のために出家をし、井伊のために還俗も諦めたそなたは御父上に似ています。
さようなあなたが、今、ここにいてくれることが、私にとって何よりありがたいことにございます。
そうそう、私は何度も何度もこうおっしゃるのを聞きましたよ・・・
「今日、村で次郎が働いておるところを見かけたんじゃがのう・・・また・・・美しゅうなっとっての・・・
 日に焼け、ボロをまとってるにもかかわらずじゃ・・・いやあ。。。あれはちょっと他にはおらんのう・・・
 一体誰に似たのかのう・・・??
 
 いつかもし・・・世がおさまり穏やかになったら・・・辻が花でも着せてやりたいのう・・・
 緋か・・・海老色・・・濃紅も良かろうのう・・・
 美しいぞ・・・きっと・・・」

いつか・・・もし、世が変わり、穏やかに暮らせる時がが来たなら。。。。真っ先に辻が花を着せてやりたい・・・
それはどれほど美しかろうか・・・可愛かろうか・・・そうして、最後はいつも涙目で、
「あの月と・・・どっちが美しいかのう・・・」
たとえ、月のない夜でも・・・
気丈なそなたの事、我が身は墨染と無理をしておられるようにお見受け致します。
この手紙が、つかの間・・・そなたを只の娘に戻せることを祈りつつ・・・

naotora7












お屋敷にやってきたのは直親としの。。。
跡継ぎができたのだそうで・・・もしや、殿の生まれ変わり・・・??
辛いことが多かったので、千賀の目から嬉し涙が・・・

「ああ・・・よかった・・・。」


政次は・・・朝利に呼び出されていました。

「しかし・・・何度もお伝えしておりますように、なつじしんが小野に留まりたいと申しておりまして・・・」by政次

「嫌がっても、そなたが戻れといえば、済むのではないか?」by朝利

「亡き殿が結んでくださった玄蕃となつ殿とのご縁にてございます。
 大切にしていきたいと存じております。」by政次

「亥之助がこちらに来てしまえば、そちが人質を取られた格好になるからか?
 図星じゃろう・・・??」by朝利

「いえ・・・さようなことは毛筋ほども考えておりませなんだが、裏を返せば、奥山に戻せば亥之助のことをそのようにお考えになられるということにございますか?

 つまり、亥之助は小野から取った人質であると・・・!!??
 その考えをお方様がお知りになったら、さぞかしお悲しみになる事にございましょうな・・・!!
 新野様も、中野様も、かような大事の時に、奥山殿は寝床の中で、己が家の事ばかりを考えておられると失望なされましょう!!」by政次

ああ・・・それ以上、言っちゃだめよ、政次!!

「そう言うわけではなくな・・・」by朝利

聞き入れてくれたのか??朝利??
いきなり後ろから斬りつける朝利!!

次郎法師の元へ助けを求めてやってきたのは・・・手負いの政次でした。

naotora8

















「奥山殿を・・・斬ってしまった・・・。」by政次

今回は、いろんな意味でとっても重い作品でした。
ひとりひとりの想いが沢山詰まった回でした。

千賀・・・本当に賢い武士の妻の鑑のようなきりっとした女性でした。
優しい直盛・・・その人柄・・・辻が花・・・では、もらい泣きしちゃいました

口を挟むのも野暮ですね。

最近の大河では、その年齢にあった俳優さんがキャストされることも多いですが、やっぱりベテランさんが入ることで、一本筋の通った深みのある演技になりますもんね。

女性主人公目線ということで、戦を描かないとか、側室を描かないとか・・・
最近はそんな作品も多かったんですが、この作品は、戦国時代の厳しい死に対する考え方も、側室の事も・・・
女性目線できめ細やかに描いてくれていると思います

それにしても政次・・・井伊を捨てちゃえば・・・??


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1866年6月、徳川幕府の大軍勢が西へ・・・
目的は、幕府に反抗するたった一つの藩を叩き潰すため・・・!!
その数十数万・・・。
迎え討つのは長州藩、その数およそ5000!!
この絶望的な兵力差にもかかわらず、長州を劇的な勝利に導き、幕府崩壊のきっかけを作った男・・・
その名は、大村益次郎です。
勝海舟は・・・「長州軍に大村益次郎が出て来ては、とてもかなわぬと思った。」と言っています。

元々は村医者・・・しかし、兵学者へ成長。
長州藩の命運は、大村益次郎に託されたのです。

山口県山口市・・・当時は鋳銭司村と呼ばれていました。
明治維新からさかのぼる事40年前、1825年5月3日、大村益次郎はこの地に村医者の子として生まれました。
1846年、22歳の時、大坂に出ます。
その目的は当時日本で指折りの適塾に入る事・・・。
塾生には、福沢諭吉、大鳥圭介、佐野常民などがいました。
大村は、一心不乱に医学を学ぶ塾生として、注目されていました。

そして3年後には25歳で塾頭に上り詰めました。
当時、適塾の塾頭には、好待遇で仕官を求めてくる藩がいくつもありましたが・・・
翌年の1850年、26歳で故郷に帰りました。
家業の村医者を継がなければならなかったからと言われています。
このままいけば、ただの村医者として一生が終わる・・・。

ところが29歳の時・・・宇和島藩で。
江戸時代、10万石の城下町として栄えた宇和島市。
時の藩主は伊達宗城。数ある大名の中で格別の蘭学好きでした。
大村は、持っている洋学の知識、蘭学の知識、語学の知識を時代に生かそうと思っていたようです。
この宇和島行きが大きな転機となります。
宇和島藩が大村に求めたのは、本業の医学ではなく、兵学でした。
得意の蘭学を生かして、西洋の軍事書物の翻訳を命じられたのです。
こうして、大村の専門は、医学から兵学へ・・・!!

そんな西洋兵学の知識を深めていった大村に目を付けたのが・・・時の政権・徳川幕府でした。
3年前の黒船来航・・・圧倒的武力で開国を迫ってきたペリーになすすべなしの幕府・・・。
開国をきっかけに、老中・阿部正弘を中心とした首脳部は、優秀な西洋兵学者を集め始めました。
大村は、その目に留まったのです。

1856年11月、32歳で、蕃書調所の教授手伝に就任。
翌年には、講武所の教授に就任。
大村益次郎、33歳・・・長州の村医者が、兵学者に歩みを変え、幕府に仕えるまでに上り詰めたのです。
そんな大村に更なる誘いが・・・
それは、故郷・長州藩でした。
依頼内容は、江戸で兵書の翻訳や、藩士相手の蘭学の先生をして欲しいというもの・・・。
大村が適塾で優秀な成績を収め、故郷で村医者をやっていた時には見向きもしなかった長州藩。
どうして態度を変えたのでしょうか??
当時、長州藩は、諸外国を排除する攘夷を主張していました。
外国と渡り合うためにも、大村の西洋兵学の知識が必要だったのです。
大村は、兵学を通じて桂と親しくなり、故郷でも有名になっていきます。

それから5年・・・幕府にも長州にも頼られ、順風満帆な生活を送っていた大村。
しかし、その人生を大きく揺るがす大事件が・・・!!
1863年5月10日、長州藩、関門海峡を通る外国船を攻撃!!
しかし、翌月手痛い反撃に!!
外国の軍事力の前に、長州は手も足も出なかったのです。
このままだと外国に飲み込まれてしまう・・・。
長州藩は、大村に救いの手を求めます。
「外国の軍事力に対抗するため、幕府の役職を辞め、長州に戻ってきてほしい。」と。

幕府に残るか??長州に戻るか??
この時点で安泰なのは、幕府に残る事・・・。
ところが選んだのは長州藩でした。
そこには、大村の幕府に対する不信感があったのです。
大村が友人にあてた手紙には・・・
「大名に砲術などを研究する講武所をみせた。
 大神宮様(阿部正弘)はご自慢だ。
 にもかかわらず、自分の藩の軍隊には今も弓矢を持たせている。
 何のことやら、一切訳の分からない事だ。」と書いています。
大村は、研究はするが、武士そのものの戦い方を変える気などさらさらない阿部を見限っていたのです。
一方の長州藩には、新しい改革が・・・奇兵隊です!!
長州は、これまで武士にしか認めなかった武器を庶民にももたせ、軍事改革をしている長州に、大村は可能性を感じていたのです。
1863年10月、39歳の時に、長州に帰ります。
そして幕府には辞表を・・・!!
兵学者・大村益次郎の一大決心でした。

西洋兵学を学ぶ意義を・・・海軍従卒練習規範に書いています。
「私は、自分が浅はかであることを顧みず、今この本を訳し出版する
 皇国の確固たる独立のための武力をあげ、国家に利益があることを願うのみである。」
自分の能力を認めてくれる場所を求めて・・・行きついた場所は、日本を守りたいという自分の信念の生かせる長州でした。

西洋列強という巨大な敵と戦う決意をした長州藩・・・
しかし、そのためには戦い方の根本を考え直さなけれな・・・!!
大村は、藩の存亡をかけた大改革を託されます。
散兵戦術・・・
「アメリカ独立戦争以来、散兵戦術を用いることが盛んになった。」
西洋で主流となっていた散兵戦術とは・・・??
通常武士は、己の手柄をあげるため、個人個人で敵を目指して突っ込んでいきます。
一方、散兵戦術は、数人単位で行動・・・広く散会しながらも、全員共通の作戦目標の元、敵に向かっていきます。
この時兵は、決められた目標に向かって隠れながら進んでいきます。
兵を統率する指揮官が把握したうえで命令を出します。
そのため、散兵戦術は、兵も指揮官も、徹底的な訓練が必要となりました。
この戦術がみにつけば、敵が多くても少ない兵力で勝つことができる・・・!!
しかし、この大村の改革が実行される前に、長州には次から次へと難が降りかかります。 

1864年8月、英仏蘭米四国連合艦隊が下関を攻撃!!
長州に対して猛攻撃を開始!!
近代兵力の前に、長州藩はなすすべなし!!
さらに1月前には禁門の変が起こっていました。
長州藩は、幕府に完膚なきまでに叩きのめされ朝敵に・・・!!
幕府は15万の軍勢で長州藩を包囲・・・長州藩には降伏するほかありませんでした。
そして藩内は、幕府恭順の一派が牛耳ることに・・・。
その結果、大村は、藩の軍事担当から外されてしまいました。

大村の軍事改革は消え去ったかに見えましたが・・・
一人の藩士が立ち上がります。
高杉晋作です。
1865年1勝月、高杉晋作が、幕府の正規軍を破ります。
結果、長州藩は、再び幕府と対立の道を進みます。
これに対し幕府は、30藩以上から十数万人を動員し、長州を討つべく・・・
迎え討つ長州藩は5000!!
この絶望的劣勢を覆すには・・・この難題を任されたのが大村益次郎でした。

近代兵器の導入
躍起になって集めた武器がミニエー銃。
幕府に対抗する為に、4300丁購入しました。
その特徴は銃身の中・・・らせん状に溝が刻まれています。
銃弾は回転し、射程距離が格段に伸びるのです。
その射程距離はこれまでが100mに対し、500m!!
さらにミニエー銃から照準がつけられていて、これによって命中精度が5倍増します。
しかし、数で勝る幕府軍と対等に戦うためには、見合った近代的な戦術が必要です。

散兵戦術は、当時の兵には実現不可能と思われました。
関ケ原では・・・武士の周りにいる槍や旗を持った人々は奉公人で、その役目は自ら戦う事ではなく、主人を飾り立て手助けすること・・・。
武士は自らを手助けさせるために、無駄な戦力を共にしていたのです。
大村は主従関係で結ばれている武士と奉公人の関係を断ち切ろうと考えます。
武士から切り離した奉公人たちを藩が直接管理し、藩が任命した指揮官の元、兵とする。
そうすると、奉公人たちが兵力となるのです。
さらに奉公人から引き離された武士を銃を持つ兵に・・・
武士集団の解体に挑もうとしたのです。
しかし、それは、800年続いた武士の主従関係を根底から覆すことになってしまう。。。
武士の否定・・・軍制改革・・・??
それは、武士の反発を招き、最悪の場合、分裂を招く恐れが・・・

迫りくる幕府軍に対し、どこまで改革をするべきか??
1865年5月28日、毛利敬親は、重大な方針を家臣に告げました。
「平成は西洋陣法を採用!!」
長州藩はしがらみをすべて捨て、西洋式の軍事改革に突き進むことに・・・!!
大村たちは、前代未聞の改革をするために、絶対的存在の藩主の命令と言う切り札を使ったのです。
藩士たちに信じがたい命令をします。
それは、甲冑の売却!!
先祖代々の甲冑を売却し、そのお金でミニエー銃を買う・・・!!
さらに非情な命令は続きます。
「御一門などの家老職は、戦の時は総奉行としていたが、これからは一部隊とする。」
「主人は一人単騎で働く心得を持って、無用の従卒を連れて来てはならない。」
無用となった従卒は、藩士の禄高によって決められた人数を藩に差し出すように命じました。
これによって長州藩には主従による武士集団は消滅。
代わりに判を頂点として近代軍隊が誕生しました。
奇兵隊などの諸隊以外の・・・家臣団の隊も、西洋式となっていたのです。

1年後の1866年6月、第二次長州征伐
遂に幕府軍が長州に押し寄せてきました。
幕府軍は、芸州口・大島口・小倉口・石州口の4カ所から・・・総勢十数万の大軍勢・・・!!
大村が直接指揮を執ったのが石州口でした。
島根県益田市・・・敵の領地であるここに、打って出る作戦を立てます。
幕府軍があったのが萬福寺。
大村は最新式の銃と、散兵戦術で攻め立てます。
この散兵戦術に翻弄する幕府軍・・・。

「敵は、卑しい黒い装束で、ミニエー銃を持ってあちこち5~6人が隠れて撃ってくる。
 賊徒同様の振る舞いだ!!」

従来の戦術からは、正々堂々と姿を現し戦う・・・西洋戦術では、身体を保護しながら銃撃するのは非常に基本的な事でした。
これまでの武士とは全く違う方法で戦った大村。。。

民衆を味方につけ、武器、戦術ともに勝った長州藩は、幕府軍を圧倒!!
3か月に及んだ戦いは、幕府軍の撤退をもって終わったのです。
僅か長州一藩に敗れた幕府軍・・・その権威は完全に失墜したのです。
翌年・・・260年の長きにわたって日本を支配した徳川幕府は崩壊・・・
明治という新しい時代を迎えるのです。

長州だけでなく、日本全体を近代化へと導くこと・・・大村の役割はここからがスタート・・・!!
ところが、1869年9月4日、京都で襲撃されます。
襲った中には、大村と同じ長州藩の人間もいました。
彼らは大村を許せなかったのです。

大村は全身6カ所に大傷を負いながら、自らの不運を嘆くよりも軍の改革に生かそうとします。
「自分は兵士同様の傷を受けて、軍事病院が不可欠だということを知った。
 至急、軍事病院の基礎を作らないといけない・・・」
深い傷を負いながらも、軍事病院の建設を訴えた大村は、徹頭徹尾合理主義を通して来た男らしい言葉・・・
この書状を送った半月余りのち・・・
1869年11月5日 大村益次郎死去・享年45歳でした。

大村の遺体は山口に運ばれ眠っています。
大村益次郎・・・彼の決断は、800年続いた武士の世さえも終わらせ、日本の近代の礎を築くことに繋がっていったのです。



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「昭和の選択」です。

天才ピカソは、祖国スペインの町が受けた無差別爆撃を「ゲルニカ」で、戦争暴力の大罪を世界に訴えました。
その傑作に匹敵するといわれているのが・・・
東京大空襲の惨劇を現した書・「噫横川国民学校」です。
作者は前衛書道の草分け・井上有一。
感情をそのまま吐き出したような井上の書は、日本ばかりでなく外国でも高い評価を受けています。

昭和20年3月10日、東京の下町を焼き尽くしたアメリカ軍の攻撃・・・東京大空襲。
その死者は、10万ともいわれる未曽有の被害を出した無差別爆撃でした。
小学校の教員としてその場に居合わせた井上。
目の当たりにしたのは、火炎が生み出す焦熱地獄でした。

九死に一生を得た井上・・・しかし、教え子を救えなかったことが大きな悔恨となりました。
書家として世界的に名声を得ても、東京大空襲の記憶は30年書けませんでした。

東京下町の横川国民学校訓導・井上有一は、6年生男子35人を引き連れて、昭和19年8月から千葉県君津郡富岡村に疎開していました。
井上と子供たちの一日は、生気歌・・・愛国歌の吟唱から始まりました。
村人たちにの新設に支えられ、健気で質素な毎日を送っていました。

既に首都圏は、アメリカ軍の襲撃を受けていました。
日本は太平洋戦争開戦から2年足らずで、南方の拠点を失い、戦況は著しく悪化。
日本の都市部では本格化する本土空襲に備え、縁故疎開を促進しました。
加えて、空襲での火災を最小限に抑えるために、建物疎開と称して家屋の撤去を進めました。
昭和19年7月、サイパン島を奪われた日本は、学童疎開促進要綱を発表。
子供たちの疎開が始まりました。
子供達を守る事・・・それは、将来の戦力を守る事・・・。
東京からは23万5000人の子供たちが地方へ移り住みました。
井上たちも、多くの人に見送られながら疎開しました。

かつて画家を志していた井上は、教師との両立に限界を感じ、書道に楽しみを見出していました。
井上は、疎開先の宿舎を「群龍蟠棲寮」と名付け、気落ちする子供たちを鼓舞しました。

「午前の仕事は野菜とり、米とり、まきとりなど、自ら食うための仕事が先決で、勉強どころではない。
 子供にとっては重労働だが、野菜とりは先方の部落で、いもなどふかして待っていてくれる。
 まきとりは、ついでに山の中で遊んでくる。
 それぞれ、楽しみが付いているからみんないそいそと出かける。」

子供達は親元を離れたものの、戦争の暗い空気に覆われた東京を出、生気を取り戻していきました。
厳しい富岡村の冬を、井上と子供たちは肩を寄せ合いながら切り抜けました。

昭和20年1月・・・
井上と子供たちの元年は、書初めで始まりました。
”生気歌”を寄せ書きしました。
寄せ書きをさせた井上の狙いとは・・・??
この書初めから2か月後・・・大きな選択を迫られることとなります。

アメリカ軍は、サイパン島を占領し、日本本土のほとんどを爆撃圏内に入れました。
最新鋭の長距離爆撃機B29は、日本の都市部に容赦ない爆撃を繰り返しました。
東京は・・・11月から翌2月にかけて、30回以上の空襲に晒されました。
銀座なども被害に遭い、死者は2000人に達していました。

昭和20年2月26日、井上は、疎開先の千葉から東京に向かいました。
受け持っていた6年生の卒業と進学の打ち合わせのためでした。
東京についた井上は・・・その変わり果てた姿に呆然自失。。。

「こんなところへ帰ってくるなら、何のために疎開しているのかわからない。。。」

変える必要がないと抗議・・・!!

①疎開を続ける
この先、また東京が空襲に遭うのは間違いない・・・こんな時に東京に帰すのは危険だ・・・
卒業式よりも子供たちの命を守る事こそ教師の使命だ。。。

②東京へ引き上げる
しかし、国や自治体の方針が変わるわけでもない・・・おまけに6年生を帰さなければ新しい学童も受け入れられない・・・。
卒業後の進路も・・・。

戦争を遂行する国家の方針と子供の命・・・。
一介の教員に過ぎない井上は引き裂かれる思いでした。

国民学校初等科を卒業するということは、一人前の日本国民。
国民たるものは、空襲があれば消火に努めなければならない。
働いて、戦争を支えなければいけない・・・。


昭和20年3月3日、子供たちは富岡村に別れを告げて東京へ。。。
2月以降、学童たちは各地から続々と帰郷していました。
井上は、実家が罹災していたので、その夜は学校に宿直していました。
3月10日午前0時8分・・・
深川に最初の一発が落とされたのを合図に、大空襲が始まりました。
続々と学校へ押し寄せる避難民・・・烈風でまともに立っていられない・・・
一面の日の海・・・火炎は校門前に迫っていました。
校内は真昼のような明るさで、とにかく消化を・・・!!
すべては無駄・・・死の直感・・・死が近づいている・・・。

B29の爆撃は、2時間以上続き、東京の下町を焼き尽くしたのです。
一夜にしておよそ10万人が命を落としたのです。
焼夷弾は、日本の木造家屋を焼くために、アメリカが開発したものでした。
3月10日の朝日は、下町を埋め尽くした死体を照らしました。
そのほとんどは一般市民でした。
仮死状態だった井上は、校庭に出され、人工呼吸で奇跡的に息を吹き返しました。
しかし、横川国民学校では、1000人もの人が命を落としていました。
その中には、井上と一緒に富岡村から帰ってきた6年生・8人がいました。

当時は「防空法」という法律で、年の住民は空襲があったら消火に専念すべきである。
退避というのは、事実上法律によって禁じられていました。
がんばって国民は火を消すべきだ・・・!!

教員として何もできなかったという無念・・・。
たまたま生き残ってしまった悔い・・・。
自分の体験を語れない苦しみ・・・。

空襲で住まいを失った井上は、親戚を頼って神奈川県に・・・。
井上はそこでも教壇に立ち続けました。
教職の傍ら、書にのめり込みます。
敗戦から目覚ましい復興を見せる日本・・・。
井上も、新しい時代の新しい書を確立させるために、文字を書くことを辞め、気持ちのままに筆を走らせるという型破りな作品を書きます。
しかし、それに限界を感じ、再び文字を書くことを決意します。
そんな時、「第4回サンパウロ・ビエンナーレ展」の日本代表に選ばれました。
欧米の画家に匹敵する作家として書家の井上に白羽の矢が立ったのです。


gutetu「愚徹」

サンパウロで展示されたこの作品は、西洋人に衝撃を与えます。
国際的な評価を得ることに・・・


ところが・・・

書こうとしてもかけなかった言葉・・・「瓦礫」でした。


瓦礫・・・瓦礫・・・瓦礫・・・


瓦礫カク・・・ダメ也
瓦礫カク・・・結局ダメ也

東京大空襲の時の・・・目覚めたときの瓦礫・・・
人間も瓦礫になって・・・

瓦礫を想うだけで、何もかも壊れて無くなっている様が浮かんでしまう・・・。

井上は個性的な教員として定年まで勤め、昭和51年校長として退職しました。
いよいよ制作活動に専念する時が・・・!!

退職から2年・・・東京大空襲から33年間しまい込んできたあの夜のことを噴出させます。

井上有一晩年の傑作・・・「噫横川国民学校」

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井上の魂に刻み込まれた、あの夜の声、匂い、不条理が姿を現しました。
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芸術作品というよりも供養のようなもの・・・
生き残ってしまった事、死ねなかった事の絶叫・・・。

横川小学校校長室から1冊のガリ版の文集が見つかりました。
タイトルは「とみをか」発行は敗戦の翌年、昭和21年でした。
表紙の裏には、東京大空襲で亡くなった井上の教え子たちの名がありました。
共に富岡村に疎開していた同級生たちが文章を書き寄せています。

井上は、空襲で亡くなった教え子への想いを、春の富岡村の景色に詠んでいました。

亡き子らの 碑建てんと思ふ 櫻花

井上有一渾身の一作「噫横川国民学校」・・・
それは、失われた命を永遠に慈しむ痛恨の碑でした。




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1701年3月14日・・・江戸城本丸御殿・松の廊下・・・事件はここで起こりました。
忠臣蔵で知られる赤穂事件の発端となった松の廊下刃傷事件です。
赤穂藩藩主・浅野内匠頭長矩が高家筆頭・吉良上野介義央をいきなり斬りつけたのです。
その日は幕府の威信をかけたハレの日でした。

江戸城を彩る年中行事・・・
春先に行われるのが、幕府から朝廷へ年始の使者が・・・そして返礼の使者がくるのです。
この年の返礼の使者は、3月12日~14日までの3日間で、朝廷を重んじていた将軍綱吉は、幕臣たちに粗相のないように万全を尽くせと申しつけていました。
城内は緊張に包まれていました。
この時、全般を指揮していたのは高家筆頭・吉良上野介義央(61歳)。
高家とは、幕府と朝廷の折衝役を務め、儀式や典礼を司る役職です。
室町時代から続く名家だけ・・・吉良家・京極家・畠山家・上杉家・一色家・・・に許されてた名誉あるポストでした。
その筆頭が吉良上野介・・・この指導の元、朝廷の使者を接待をする饗応役に任ぜられたのが浅野内匠頭長矩(35歳)でした。
内匠頭は、17歳の時にも饗応役を務めていたので、その時も指導役は吉良上野介でした。
普通は饗応役は大名で回り持ちでしたが、内匠頭は2度目・・・。
饗応役は、将軍に対する奉公の一つで、費用はすべて任命された大名が負担していました。
かなりお金がかかるので、裕福な藩でないとできませんでした。
赤穂の塩などで財力があったと思われ、2度目となったようです。
大名達にとって名誉でしたが、金銭的には大きな負担・・・。
再び任命された内匠頭・・・。

江戸で朝廷の宿所となっていたのは、伝奏屋敷。
3月11日午前5時・・・
内匠頭は前日から泊まり込んで使者たちを迎えています。
その日の昼頃には上野介も伝奏屋敷に来て、挨拶を交わしています。
事件が起きるのは3日後・・・。

3月12日 使者たちは江戸城に登城し、綱吉に対面
3月13日 死者たちのために将軍主催の能楽が執り行われす。
3月14日 午前11時ごろから綱吉が江戸を発つ使者にお礼を述べ贈り物などを送る直答の儀が行われる予定でした。

この儀式の直前、事件が起こったのです。

皇居・東御苑・・・ここに松の廊下がありました。
江戸城本丸の南側、大広間と饗応の間の白書院を結ぶ畳敷の大廊下です。
仕切りのふすまに松が描かれていたことから松の廊下・・・。

3月14日午前8時・・・事件の3時間前・・・
饗応役の浅野内匠頭が江戸城に登城。
直答の儀が行われる白書院に入り、吉良上野介と挨拶を交わしました。
午前9時・・・事件の2時間前・・・
参勤交代で江戸に滞在中の大名たちが、儀式に参列すべく登城。
内匠頭は使者を迎え入れるために、松の廊下に控えていました。
午前10時・・・事件の1時間前・・・
使者たちが到着。

大奥留守居番の梶川与惣兵衛・・・事件の目撃者
留守居役とは、大奥の警護と事務を執り行う役職で、本来なら表の儀式には関係ないのですが・・・
将軍の正室・鷹司信子の命で、使者にお礼の品々を渡すことになっていたのです。
御前11時・・・梶川が上野介を探して松の廊下に・・・浅野内匠頭が控えていました。
その直後・・・いきなり吉良上野介に斬りかかる内匠頭!!
止める梶川!!
「殿中でござる!!殿中でござるぞ!!」by梶川
斬りかかる内匠頭を押さえる梶川与惣兵衛!!僅か数分の事でした。

遂に起きてしまった刃傷事件!!

この後、柳の間に連れて行かれた内匠頭は、冷静を取り戻し、羽交い絞めにしていた梶川に・・・

「お放し下さい。どんな御咎めも受けます。」

突如斬りかかられた上野介は御医師之間に・・・奥医師の手当てを受けるものの・・・約12センチの傷を負いました。
致命傷ではなかったものの、骨まで達していたといいます。
背中にも・・・18センチの傷を負いました。

内匠頭は刃傷に及び、「この間の遺恨、覚えたるか!!」と叫んだといいます。
恨みがあったというのですが・・・その恨みとは・・・??

2016年、吉良家と関係の深かった西本願寺で、松の廊下刃傷事件の貴重な文書が発見されました。
「江戸江遣書状留帳」・・・西本願寺から築地本願寺に宛てた手紙の内容を書き記したものです。
そこには、内匠頭が乱心したものの、その委細は全くわからないと書かれていました。
情報が欲しいと書かれていたのです。
刃傷の理由は、当時から謎でした。

事件直後・・・内匠頭は落ち着いた後、柳の間から役人の政務を観察する目付の部屋に連れて行かれます。
ここで、当番目付の多門伝八郎から取り調べを受けるのですが・・・
「私自身のかねてよりの恨みによって、前後忘却仕り、討ち果たすべく存じ候て、人情に及び申し候」
「何故の遺恨と・・・??」
「個人的な恨み・・・」
内匠頭は、個人的な恨みであると繰り返すのみで、恨みの原因を一切話しませんでした。
そのため、後世に至るまでいろいろな噂が・・・横恋慕説、塩田説、男色説・・・。
現在、恨みの原因として最も有力なのが・・・内匠頭に対する上野介の嫌がらせです。

事件後、上野介を治療した医師の日記には・・・
二人の間はかねてより上手くいっておらず、上野介は内匠頭の事を疎んじていた・・・と書かれています。
儀式の前に急な畳替えを命じたり、着てくる服をわざと間違えて教えたりしたといいます。
どうして疎んじ、嫌がらせをしたのでしょうか?

理由①
二人には武家社会の礼節に対して意見の相違がありました。
諸大名は金品を送って、饗応の指南役の上野介に様々の事を教えてもらっていたが、内匠頭は金品を送るように教えられても断固拒否していました。
そのために、欲深い上野介は内匠頭が不快だといって何事においても知らせず、結果、内匠頭は失敗ばかりしていました。
内匠頭も送っていましたが、それ以上送ることはなかったのです。

上野介は思っていました。
自分は高家筆頭で、官位も従四位上と内匠頭よりも格上だが、石高は僅か4200石。
内匠頭は格下でも石高は5万石と裕福・・・。
俸禄相応の礼をするというのが常識であるのだから、それをしない内匠頭は常識に欠ける不届き者だ・・・!!

理由②
二人は予算についても対立していました。
18年前の費用が400両だったので、物価が上がったとはいえ700両でと考えていました。
上野介は、近年1200両かかっているから700両では足りないと主張したのです。
しかし、内匠頭は聞かず、上野介は爆発!!さらに辛辣ないじめに・・・!!


3月14日・・・江戸城松の廊下での刃傷事件は、将軍・綱吉が朝廷の使者に礼を述べる直答の儀の直前に起こりました。
内匠頭の言葉で、個人的な恨みであったことだけは解りました。
では・・・恨みを晴らすのはこの日だと計画していたのでしょうか??

これまでにも、上野介を討つ機会は何度かありました。
伝奏屋敷に使者が来た日・・・事件当日の朝・・・どうして直答の儀の直前に松の廊下で・・・??

家臣に宛てた手紙には・・・。
「この段、兼ねて知らせ申すべく候えども、今日やむを得ざる事故、知らせ申さず候」
あらかじめ知らせておくべきだったと書いているので、いつかは討とうと考えていたと思われますが・・・
今日やむ負えない事情があったと書いているのです。
その衝動的な止む負えない事情とは・・・??

当日、老中の前で内匠頭が拙いと上野介に言われ、面目丸つぶれになった・・・その場は我慢したものの、自分の面目を回復するためには、上野介を討たなければ・・・!!と、斬りかかってしまったようです。

沸々と湧き上がる上野介への憎しみ・・・
内匠頭は上野介と梶川が立ち話をしているのを見て、悪口を言っていると思ったのでしょうか?
募る恨みを晴らそうと、突然上野介に斬りかかったのです。

武士の面目を守るという止む負えない事情のために・・・!!

しかし、討ち損じてしまった・・・その理由は松の廊下に・・・??

内匠頭は恨みをは晴らそうと衝動的に斬りかかりましたが、大きな傷を負っただけ・・・どうして打ち損じてしまったのでしょうか?

理由①
衝動的行動
冷静でなかったからです。
江戸城内でも携帯の許されていた小さ刀で、2尺!!
これで致命傷を与えるためには斬りかかるより刺す!!
しかし、内匠頭は太刀のように斬りかかってしまいました。
烏帽子の金具に引っ掛かり、背中を斬るも致命傷にはならず!!

理由②
服装
内匠頭に斬りかかられたとき、上野介は従四位の礼装である狩衣を着ていました。
元々は鷹狩りなどの装束で、動きやすいように裾が短く作られています。
一方内匠頭が来ていたのは従五位の礼装である長袴・・・。
引きずるのが特徴でした。
江戸城内での謀反や刃傷沙汰を防ぐために考案されたといわれています。
その狙い通り、内匠頭の動きが鈍かったのです。

理由③
松の廊下
松の廊下は中庭に面した側にも建具があり、それは木戸と障子でした。
あけ放たれていなかったのです。
太陽は真上、曇天・・・差し込む光は弱かったたと思われます。
暗くてよく見えなかった・・・

この三要因で打ち損じてしまった・・・。

この時、綱吉は、大事な儀式のために風呂に入り、身を清めていました。
そこに飛び込んできた刃傷沙汰・・・!!
直答の儀が台無しになってしまう!!と激怒!!

しかし、朝廷の使者の許可を得て、場所を移して行われます。
だからと言って、内匠頭が許されるはずもなく、即日切腹!!

2時間後取り調べが終了・・・浅野内匠頭は、奥州一関藩・田村右京太夫邸に一時預かりとなります。
午後3時・・・駕籠に乗せられ内匠頭が江戸城を出ました。
通常、大手門から出るところ、それを許されず、罪人が通る平川門から出ました。
存命のまま平川門から出されたのは二人だけ・・・内匠頭と大奥お年寄りの江島です。

田村邸に到着し、着替えをし、湯漬けを2杯食べました。
糖分の間預かるだろうと思っていた田村邸は大わらわ。
上野介の容態を聞かれた際には、「傷は深手でおそらく生きてはいられまい。」と答えるように言われていました。
これは「武士の情け」と、「大人しく切腹させるため」だったようです。

午後6時・・・将軍の使者がやってきました。
お沙汰が・・・
「吉良上野介を理不尽に斬りつけ、殿中も憚らず時節柄と申し重ね重ね不届き至極に候
 これにより切腹を仰せ付ける。」
これを聞いた内匠頭は、切腹は名誉ある死に方・・・温情ある死に方に感謝しました。

その頃、上野介は・・・江戸城内で傷の手当てを終え、自分の屋敷に戻っていました。
御咎めなし!!
当時は事件の原因が恨みであった場合は、喧嘩両成敗でした。
そうなると・・・双方とも等しく罰するのが決まりでした。

どうして上野介は御咎めなし・・・??
①本人は身に覚えがない・・・と、否定したためです。
②梶川与惣兵衛も、刀を抜いていないと証言しました。

そしてそこには綱吉の怒りがありました。
綱吉はこの日、礼を述べるだけではなく、母・桂昌院に皇族以外の女性では初となる従一位の贈位があったのです。
敬愛する母の晴れの舞台を台無しにする・・・このことで、内匠頭に腹を立て、重い処分となったのです。
こうして即刻切腹の沙汰を受けた内匠頭・・・
田村右京太夫邸に遣わされた庄田安利は、独断で庭での切腹を命じます。
大名が切腹するのは屋敷の中というのが決まり・・・庭先でなどあり得ません。
検視役の目付・多門伝八郎も、驚き・・・しかし、将軍綱吉の怒りを知っていた庄田は一切聞きいれませんでした。
すぐに内匠頭を庭に下すと、毛氈を敷いた筵の上へ座らせました。
そして・・・浅野内匠頭切腹・・・!!
その日は桜の花が満開だったといいます。

国元には4日後に知らされ・・・その日から大石内蔵助と忠臣たちの長い長い冬支度が始まったのです。
浅野内匠頭の無念は、刃傷事件から1年9か月後の元禄15年(1702年)12月14日、赤穂浪士四十七士によって晴らされました。
そして内匠頭は今・・・その忠臣たちと共に菩提寺・泉岳寺に眠っています。


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