日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

CGで大解剖!激突関ケ原の戦い 徳川家康はいかにして史上最大の戦いに勝利することが [ 成瀬京司 ]

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武将たちがしのぎを削った戦国時代、およそ100年続いた下剋上に終止符を打ったのは関ケ原の戦いでした。
石田三成の西軍8万4000の軍勢と、徳川家康の東軍7万4000の軍勢があい見えた天下分け目の合戦です。
勝ったのは東軍!!
その勝因は、西軍の4人の武将たちによる裏切りがありました。

その中で誰が一番痛手を与えて得をしたのでしょうか?

①小早川秀秋 
②島津義弘
③毛利輝元
④吉川広家

明治時代、日本政府の招聘により来日していたドイツ人将校に関ケ原の布陣を見せたところ・・・
「勝ったのは西軍であろう。」と言いました。
西軍は、石田三成が笹尾山に、他の武将たちはその周りに・・・鶴翼の陣で、重要な山をすべて押さえていました。
迫りくる東軍を山の上からけん制し、平地に追い込んで一網打尽にしようと考えていました。
一方東軍は、家康以外はほとんどが平地に布陣。。。
両軍の配置は・・・西軍の方が圧倒的に世おりな状態で始まったのです。
圧倒的に不利な東軍・・・しかし、それがひっくり返るのですが・・・
松尾山に布陣したのは小早川秀秋1万5000。
三成の傍にいたのは闘将・島津義弘。
家康のすぐそばにいたのは、吉川広家。
さらにその後ろにいたのは毛利軍でしたが・・・ここに、西軍の大将である毛利輝元はいませんでした。
この時、輝元は大坂城にいたのです。

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①小早川秀秋
1600年9月15日午前6時・・・
雨もやみ、深い霧が立ち込める中・・・15万の軍勢が睨み合っていました。
そして午前8時・・・天下分け目の戦いの火ぶたが切って落とされます。
一進一退の攻防が続くこと2時間・・・早く膠着状態を打開したい石田三成は、松尾山に布陣している小早川秀秋に攻撃を仕掛けるように合図します。
しかし・・・小早川は動きません。
再三の出撃命令にも攻撃しない小早川にいら立ちが募る三成・・・。
この時、小早川に苛立っていたのは・・・東軍の大将・徳川家康でした。
小早川は、戦の前から家康と内通し、東軍に寝返るように説得されていたのです。
開戦から4時間後の正午・・・業を煮やした家康は、小早川軍に向かって鉄砲を打ち込ませます。
世に言う家康の問鉄砲です。
小早川はこれにひるみ、寝返りを決断、味方である西軍に襲い掛かったと言われていますが・・・
関ケ原の平地から松尾山までは1.5キロ・・・火縄銃の有効射程はたかだか100m。
弾は届きそうにありませんが・・・小早川は銃声に怯んだのでしょうか??
戦の時は、怒号や銃声が飛び交っています。
大筒の音さえも聞こえにくかったようですが・・・
家康の問鉄砲が後世の創作だったとすると、どうして寝返るまでに4時間もかかったのでしょうか??

三成からは、勝った暁には関白の地位と、上方に2ヵ国を加増すると褒賞を約束されていました。
悩む小早川は、戦局をうかがっていたので4時間もの間動かなかったのです。

そもそも小早川はどうして家康と内通したのでしょうか?
豊臣秀吉の正室ねねの甥である小早川秀秋・・・
3歳の時に跡継ぎのいなかった秀吉の養子となり、ねねの手で大切に育てられましたが・・・
秀吉の側室淀の方が秀頼を産むと、状況は一変!!
13歳で有力大名・小早川隆景のもとに養子に出されてしまいます。
さらに秀吉から・・・もう一人の養子であった秀次と、謀反を企てた嫌疑をかけられます。
秀秋も、丹波亀山10万石を没収されてしまうのです。
謀反は秀吉のでっち上げ・・・??
自分を疎んじた秀吉を恨んでいたのかもしれません。

丹波亀山を没収された秀秋ですが、その後、養父・小早川隆景から領地の一部の筑前などを受け継ぎます。
そして、15歳で秀吉の命で朝鮮出兵!!
ところが帰国すると、いきなり筑前30万石から越前北ノ庄15万石への減俸・転封を命じられたのです。
一説には石田三成が、朝鮮における秀秋の失敗を大げさに報告したと言われています。
秀吉と三成を恨んでいた・・・??

小早川が寝返ると、近くにいた脇坂・朽木・小川・赤座も寝返ります。
大混乱の西軍・・・2時間後、東軍の勝利が確定します。
家康は、この機を逃さず総攻撃!!
これに焦った石田三成は、なぜか、開戦から傍観している薩摩・島津義弘に出陣を命じます。
ところが、島津も動かなかったのです。

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②島津義弘
朝鮮出兵では、7000の兵で20万の明と朝鮮の兵を破った島津軍・・・
しかし、関ケ原の戦いに参加したのは、僅か1500の兵でした。
それは、この時義弘が、兄・義久と対立し、島津家が二分していたからです。
義久は、中央勢力とは距離を置いた方がいいと考えていました。
なので、義弘に対して、国元の軍勢を送ることはなかったのです。
鬼の島津こと、島津義弘66歳・・・。
百戦錬磨の武将ですが・・・1500の兵で戦っても勝ち目はないと動かなかったのです。

そして三成との確執・・・
合戦前日の出来事です。
西軍は大垣城に・・・東軍は美濃赤坂宿付近に陣取り、杭瀬川を挟んで前哨戦が行われました。
結果は西軍の大将・・・兵たちの士気は大いに上がります。
そこで島津義弘は三成に進言します。
「勢いをそのままに、夜襲をかけてはどうか?」
これに対し三成は・・・
「夜襲はかけぬ!!」でした。
この時三成は、家康の軍は大坂城へ向かうのでは??という情報を掴んでいました。
それを阻止する為に、先回りをしたかった・・・関ケ原で東軍を待ち構えることになったのです。
1500の兵の島津軍を頼りにできないと考えていました。
前回、墨俣の戦いでも置き去りにされてしまった義弘・・・軽んじられた義弘・・・。
三成に対して不信感を持っていたのです。

午後二時・・・西軍は総崩れ・・・
主力が次々と敗走し、多くの武将たちが討死・・・。
これを見た島津義弘は、
「さて・・・われらも如何にここから脱出するか・・・」
その大脱出劇が島津の退き口です。

関ケ原は6つの街道が交わる交通の要所です。
西への逃走ルートは三つ・・・
❶北国街道へ向かう北西ルート
この道は、敗走していく西軍と、追いかける黒田長政の軍、細川忠興の軍で溢れていました。
❷中山道の南西ルート
東軍に寝返った小早川秀秋の軍が占拠。
❸伊勢街道の南東ルート
ここには前線まで来ていた徳川本隊が待ち構えていました。
井伊直政、本多忠勝・・・猛者たち相手に1500の兵では討死しに行くようなもの・・・
しかし、鬼の島津は・・・敵中突破!!
島津軍は笹尾山あたりから南東方向へ進み、徳川本隊の脇を通って伊勢街道へと出ます。
穿ち抜けという戦法で、敵の一点を集中攻撃し、対象の義弘を通した後で捨てがまり戦法へ・・・!!
部隊が残って敵と戦い、その間に本隊は先へ・・・これを何度も繰り返して、距離を稼ぎます。
島津義弘は、こうして井伊直政、本多忠勝らを振り切って、関ケ原を脱出します。
関ケ原から脱出した際には、100人も残っていなかったといいます。

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③毛利輝元
中国地方の半分120万石を治めていた毛利輝元は、九州征伐で大きな成果をあげるなど、秀吉の天下統一に貢献。
秀吉亡き後の政権で、家康と共に五大老を務めるなどしていました。
関ケ原の戦いで、西軍の大将に就任したのは・・・
反家康の三成の要請を受けたからでした。
7月半ば・・・輝元は大坂城に入ります。
三成はこの時、まだ8歳だった秀頼の補佐を輝元に任せ、合戦の際は供に出陣させようとしていました。
関ケ原の合戦は、秀吉の家臣同士の戦いでした。
恩顧の意識が強いうちに、秀頼が出てくることで、こちらの方に大義名分があるということを示したかったのです。
合戦間近、三成は輝元に出陣を要請。
しかし、大坂城に留まる輝元。
代わりにやってきたのは、養子・秀元と1万5000のの軍勢でした。
輝元はどうして関ケ原に来なかったのでしょうか??
色々あります。
淀の方が、幼い我が子の参戦を好まなかったので、補佐役の輝元も出陣できなかった。とか、
大阪城内に、家康と内通していると噂の増田長盛の軍勢がおり、その動向をうかがっていたから。とか・・・

輝元は、秀頼を守るために、大坂城に留まった??

しかし、実のところ、家康を気にして戦う気などなかった??
輝元から家康への手紙には・・・
「三成殿の謀と当方とは関係ない」とあります。
今回の戦いには自分は関係ないと言っているのです。
その真意は・・・どちらが勝ったとしても、毛利家が生き残れるように・・・という思惑はあったようです。
東軍西軍を両てんびんにかけていたのでは・・・??

毛利輝元は、当時、自国の領土拡大に動いていました。
関ケ原に出陣していた蜂須賀家など四国の大名たちに攻め入っていたのです。
東西の面目を保ちながら、自らの野望も叶える・・・そんな戦略家だったのです。

桃配山・・・東軍の大将・徳川家康が最初に陣を置いた場所です。
家康はその周辺に3万の軍勢を配置しました。
その背後にそびえるのは・・・南宮山。
西軍の多くの武将がここに陣を置いていました。
長曾我部盛親、安国寺恵瓊、長束正家、毛利秀元・・・
兵の数を合わせるとおよそ3万・・・西軍の主力ともいえる軍勢です。
その中で、先陣を任されたのが、毛利家家臣・吉川広家でした。
家康に最も近い場所に布陣していました。

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④吉川広家
毛利秀元をはじめ、安国寺、長束、長曾我部の軍勢は、開戦と共に南宮山を下って家康軍に襲い掛かろうとしていました。
ところが・・・肝心の吉川広家の軍が動きません。
後ろにいた武将が問いただすと・・・
「霧が立ち込めて、敵の姿がみえぬ・・・」
確かに、周囲は深い霧に包まれていました。
しかし・・・数時間後の霧が晴れた後も、吉川は相変らず陣にとどまったままでした。
これに激怒したのが、長曾我部盛親です。
苛立つのも当然・・・吉川が動かないのは大問題でした。
一番槍は、決められていました。
そして、それに従うのが、当時の習わしだったのです。
つまり、吉川が動かなければ、皆、動くことができなかったのです。
吉川に代わって長宗我部に応えたのが毛利秀元でした。
「今、丁度兵に、弁当を食べさせようとしているところじゃ・・・!!」と。
宰相殿の空弁当と言われるエピソードです。

吉川広家は、毛利輝元と同じ毛利元就の孫でした。
二人はいとこ同士だったのです。
吉川家は、父・元春の頃から献身的に毛利家を支えてきていました。
その一方で、吉川は黒田長政とも通じており・・・
早々に東軍有利と見た広家は、輝元に東軍に着くべきだと進言ようとした矢先、輝元は三成らによって、西軍の大将に担ぎ上げられてしまったのです。
仕方なく西軍に着いた吉川でしたが・・・黒田長政の父・官兵衛から書状が届きます。
「上方の大名もみな、家康公に味方します。
 あなたの判断が第一。」
東軍の勝利を確信した吉川は、寝返ることを決断し、家康に約束します。
この密約が、既に戦の前になされていたことは、家康の陣の位置からもわかります。
吉川が陣取っていたのは南宮山の頂上・・・家康の桃配山とは峯続きなので、三万の軍で攻めればひとたまりもなく・・・そんな無謀な布陣ができたのも、吉川が後ろで留めてくれると安心していたからでしょう。

吉川の寝返りの真意は・・・??
家康との間に、毛利輝元の寛大な処遇を内々で求めていました。
毛利本家のことを思っていたのです。
輝元に、大坂城に残ることを強く進言したのもまた、広家なのです。
さらに吉川の裏切りは・・・小早川秀秋にも関係しています。
小早川は吉川が足止めしている情報を手に入れていたので、寝返ることにしたのです。

毛利輝元を大坂城に留まらせ、
西軍3万の軍勢を足止めし、小早川秀秋に寝返りの決断をさせた・・・
もっとも西軍にダメージを与えたのは、吉川広家でした。
真の裏切り者は・・・吉川広家だったのです。
こうして関ケ原の戦いは、僅か半日で東軍の勝利に終わりました。

西軍を裏切った武将のその後は・・・??
関ケ原の戦いを制し、大坂城に入った徳川家康が、東軍の武将たちに褒賞を与えるとともに、西軍方の処遇を決定します。
筑前30万石の小早川秀秋は岡山55万石に加増・・・
しかし、その2年後、小早川は21歳の若さでこの世を去ります。
戦場で切腹した西軍武将の呪いと言われました。

戦は傍観していたものの家康軍に突っ込んだ島津義弘に対しては討伐を考えます。
しかし、周囲の取りなしによって中止。
義弘の隠居を持って領土を安堵します。

西軍の大将・毛利輝元は、吉川広家の根回しもありお咎めなしと思われましたが、身分所領をすべて没収する改易でした。
家康はその領地の一部を吉川広家に与えようとしていました。
これを聞いた吉川は・・・家康に毛利家の存続を直談判し、自分の報奨を辞退します。
その甲斐あって、毛利家は120万石から30万石に減俸されましたが、改易は免れたのです。
毛利家のために尽力した吉川には、毛利家から岩国3万石が与えられました。

数の上でも、陣形でも、最初は勝っていた西軍でしたが、多くの裏切りによって負けてしまいます。
天下分け目の戦いでどちらにつくのか・・・??
それは、大名たちにとって裁量が試される時でした。
日本の歴史を大きく変える関ケ原の戦い・・・
一人一人の心のうちを覗くと、それもまた面白いものです。

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忍者の末裔 江戸城に勤めた伊賀者たち [ 高尾 善希 ]

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かつて忍びの国と言われた伊賀の国は、現在の三重県伊賀市と名張市にわたってありました。
このあたりには、そのその忍びの者が暮らした屋敷が今も残っています。
伊賀の国には、合戦の際に籠る山城や砦もいたるところにありました。
その数、600カ所以上!!

伊賀忍者はどのようにして生まれたのでしょうか?
伊賀国には、平安時代から東大寺や興福寺などの強力な寺社兵力が支配する荘園がたくさんありました。
そうした荘園の管理を地元の豪族に任せていましたが・・・
その豪族が力を持ち始めると、地元豪族と寺社勢力との争いが起こり出します。

南北朝時代は・・・支配に刃向かうものが現れ、家々が焼き払われた。
余所者が勝手に村に入り、年貢や物を奪うなど、乱暴狼藉が絶えない・・・とあります。

支配者たちの影響力が弱くなると、伊賀に国は乱れ、それぞれが対立する緊張状態に・・・
農民とて自営の手段を持たなければ・・・!!
と、農作業の間に武術を学び、住まいには敵の襲来に向けて様々な仕掛けを・・・!!
刀隠し、どんでん返し、隠し戸・・・争いの絶えない土地柄が、伊賀忍者を生み出したのです。

修験道とは、日本古来の山岳信仰と密教が合わさったもので、伊賀の国には、開祖の役小角が創建したといわれる延寿院があり、山中では山伏が厳しい修行を行っていました。
そんな修験者と接することで、彼らの会得した武術や呪術を会得することができたのです。
さらに、修験者と同じように修行を行うことで、強靭な身体能力を得ていきます。
争いが絶えなかった場所&修験道の修行地・・・この条件で、伊賀の国は忍びの国となったのです。

1478年・・・ついに忍びの存在が世に知られることに・・・
室町幕府9代将軍・足利義尚が近江の守護大名・六角高頼を討伐する為に、鈎(まがり)に布陣します。
戦いが始まると、観音寺城にいた六角氏は城を捨て、伊賀・甲賀のの忍者とともに山中でゲリラ戦を展開!!
その時使った戦法が、亀六の法です。
亀六の法とは・・・
亀が甲羅の中に手足を入れることに例えて、山中に身を隠し、敵が油断したところで奇襲をかける戦法です。
将軍の本陣に夜襲をかけたり・・・幕府軍の武将たちも震え上がったといいます。
これをきっかけに、忍者は各地で傭兵として雇われるようになっていきます。

忍者はいつもあの黒装束ではなく・・・
忍者には、決まった装束があるわけではなく、時と場所によって使い分けていました。
草むらへは藍色の羽織を・・・他国に出かける際には、商人や大道芸人に・・・不自然ではない職業に変身します。
忍者使用の武器も、後世の創作が多く・・・
忍び刀は明治時代になってから作られたもの・・・??
忍者の武器はごくありふれたものが多く、よく使われていたのは、農作業に持っていても不自然ではない鎌!!
縫い針・・・一つの物をいくつもにも使える物・・・それが道具に対する考え方でした。

超人的と思われる忍者の身体能力とは・・・??
一説には6尺(1.8m)の障壁を越え、一日40里(約160㎞)走ったと言われていますが・・・
もっとも必要とされたのは、運動能力ではなく、忍耐力・・・強靭な精神力でした。
いかに過酷な状況でも任務を遂行する為に・・・!!

印を使った祈りは九字護進法で、臨、兵、闘、者、皆、陣、烈、在、前・・・と結びながら神仏に身の安全を祈りました。
鍛錬された肉体と、不屈の精神力が忍者の生活を支えていました。

分身の術、火遁の術・・・忍術は本当にあったのでしょうか??
本当に分身の術ができるわけではなく、瞬間催眠で相手に幻覚を起こさせたり、薬を飲ませて幻覚症状を起こさせたりすることはありました。
伊賀や甲賀の山中は、沢山野草が生えていて、知恵も持っていました。
火遁の術は・・・火薬の知識に長けていたものが火薬でビックリさせてその間に逃げることもありました。
それが、後の読本や歌舞伎へと繋がっていきます。

忍者には、陽忍と陰忍があります。

陽忍は、姿を現して堂々と活動します。
諜報活動で多用され、最もよく使われ陽忍は、敵の中で不満を持つ者に好条件を持ちかけて協力者にするというものでした。
情報を得ていたのです。
陰忍は、人に見つからないように忍び込む方法です。
様々な策を労じて、敵に侵入し、情報収集や破壊行動を行いました。
この二つを臨機応変に使いこなす・・・どちらにしても重要なのは、生きて情報を持ち帰ることでした。
もし、囚われて拷問にあった時は、決して白状せず、しかし、自害もしてはいけないのです。

見知らぬ土地での情報収集は・・・
何回かその土地を訪ねて協力者を見つけます。
そして、その人物の家の前で、仮病を使って白湯を・・・そして、後日謝礼を送ることで、ターゲットの家に取り入ります。
さらに・・・潜入がばれたときは・・・恋文を渡し・・・恋するあまり忍び込んだとその場を取り繕いました。

自治を守るために発展していった伊賀忍者の前に立ちはだかるのは・・・戦国の覇者・織田信長です。
1568年、尾張国から上洛した織田信長は、近畿地方の制圧を始めます。
この時、信長の軍門に下っていなかった勢力が、伊賀でした。
名ばかりの領主しかいなかった伊賀では、惣国一揆と呼ばれる自治組織を作り、外敵の侵入に備えていました。
その掟書きには・・・
他国の勢力が侵入した場合、一味同心して戦わなければならない
国境に敵が現れた際には、17歳から50歳までの男は所定の陣地に着くこと
など、合戦の決まりごとが細かく決められていました。
惣国一揆は、忍者集団を中心とした伊賀十二人衆が統率していたので、容易に攻略することはできませんでした。
1578年、信長の次男で隣国の伊勢を治めていた信雄が、伊賀を支配下に置こうと行動を起こしました。
信雄は、侵攻の拠点にするために、丸山城の修築に着手。
当初、伊賀衆は、向かいの天童山無量寿福寺から様子をうかがっていましたが・・・
城の改修は、事の他大規模で、放っておけば織田軍の侵攻を許しかねないと判断・・・
先手を打って攻撃を仕掛けることに・・・!!
第一次天正伊賀の乱です。
10月25日、忍者を中心とする伊賀衆が、丸山城を攻撃!!
不意を突かれた織田軍は大混乱に・・・敗走してしまいました。
しかし、巻き返しを図る信雄は、翌年、父・信長に無断で再び8000の兵を率いて、伊賀侵攻を企てます。
これを察知した伊賀衆は、万全の態勢で織田軍を迎え討ち、奇襲攻撃で撃退!!

織田軍は、僅か2日で3000の兵を失い、伊賀衆が勝利したのでした。
敗戦の知らせを受けた信長は大激怒!!
自らの軍勢で伊賀に攻め入る決断をします。
1581年、織田軍は、大軍で伊賀に侵攻!!
これが第二次天正伊賀の乱です。
織田軍は四方から取り囲むように攻め、伊賀衆を分断する作戦に出ます。
追いつめられた伊賀衆は・・・ただでさえ少ない兵を分散させざるを得なくなり、各地の山城へ籠城。
ゲリラ戦を封じられた今、勝ち目はありません。

落ち延びた伊賀衆の最後の砦が柏原城です。
女子供も含め、1,600人が逃げ込みました。
2週間に及ぶ抵抗もむなしく、遂に伊賀衆は、屈服したのでした。
信長はそれでも手をゆるめません。
伊賀の人々を片っ端からとらえて殺していきます。
当時の記録には・・・
毎日300~500人の首が刎ねられ、言葉では言い表せないほど悲惨な状況だ。
柏原城に近い名張川の河原にはおびただしい遺体が討ち捨てられました。

そして、寺社を焼き払い、道端の地蔵までも破壊!!
地獄絵図さながらでした。
この時壊された地蔵の一部は残っており、伊賀の惨劇を今に伝えています。

ほぼ殲滅されてしまった伊賀衆・・・しかし、中には山中に潜んでいたもの、周辺に逃れたものもいました。
彼らに目をつけたのは・・・織田軍に関わっていた武将たちでした。
忍者の能力の高さに驚かされ・・・徳川家康もその一人でした。
1582年6月2日・・・
京の本能寺に宿泊していた織田信長は、家臣の明智光秀に襲われ自害します。
本能寺の変です。
この時、徳川家康は境見物を終え、信長の招待で京に向かっている最中でした。
飯盛山付近でこのことを聞き、信長の敵討ちを決意しますが・・・
供周りは30人ほど・・・1万を越える明智軍を討つためには、自国・三河に戻って兵をあげる必要がありました。
主要街道は、明智勢に封鎖されている可能性が・・・。
そこで、山深い伊賀を越えることに・・・神君伊賀越えです。
最短にして最も明智勢に見つかりにくいルートです。
飯盛山→宇治田原→三河へ・・・。
しかし、この伊賀越えは、道の険しさに加え、落武者狩りにあう危険性がありました。
そこで活躍したのが・・・地元・甲賀、伊賀の忍者でした。
家康一行は、甲賀・多羅尾氏の治める小川城で1泊し、山中を東へ・・・
この時、同行した中には、先祖が伊賀の出の服部半蔵正成もいました。
半蔵自身は忍者ではなく武将でしたが、江戸時代の資料によると・・・半蔵は御斎峠に先回りし、のろしを上げて伊賀忍者200人を呼び寄せて、一行の警護をさせたと言われています。
彼らの協力のおかげで、本能寺の変のわずか2日後に岡崎城へ到着!!
家康が生涯最大の危機を乗り越えた背景には、忍者たちの活躍があったのです。
家康はこれを機に、伊賀者200人ほどを召し抱え、半蔵の配下に起きました。
そして彼らに重要な任務を与えます。

1590年、秀吉の命により家康は江戸入府。
その際、服部半蔵配下の伊賀忍者たちも移り住みました。
江戸城の西側・・・半蔵門・・・一説には、家康がこの門の警護を服部半蔵正成に任せたことからそういわれたといいます。
この半蔵門には、特別な役目があり・・・江戸城有事の際には、脱出口となる・・・将軍は半蔵門を出て、甲州街道に出、徳川一門の治める甲府に入れるようにと言います。
そこで、半蔵門から四谷にかけての街道沿いには、将軍の警護をする伊賀忍者の屋敷が配置されていたと言います。
家康のもとで、如何なくその力を発揮する伊賀者・・・
1600年、天下を狙う家康は、敵対していた上杉景勝を討つために、諸大名と共に会津征伐に出陣!!
しかし、上杉の前線基地・白河小峰城の守りは固く、内部の情報が全くわかりません。
そこで家康は三人の伊賀忍者を放ちます。
すると彼らは・・・城の構造、兵力、武器弾薬・・・事細かく調べてきました。
やがて家康が江戸幕府を築いて平和な時代となると、伊賀忍者たちは大奥の警護、江戸城の門番などの警備員として雇われるようになります。
伊賀組は、江戸城内にある百人番所に控え、甲賀組などと交代で警備にあたりました。
しかし、それはすべての忍者にとって憂うべき事でした。
江戸時代中期の書物には・・・
”七十歳前後の者は、実際に見聞きした忍術を伝えていくことができるが、若い者はそれができない。
 忍びの未来が、心配だ。”
と書かれています。
江戸時代、忍者たちは徳川家だけでなく、伊賀上野、桑名、彦根など、多くの大名に仕えました。
彼らは参勤交代のための警護や情報収集をこなしたといいます。

しかし・・・戦のない平和な時代・・・忍びの活躍の場は無くなっていきます。
歌舞伎や物語の中に登場する伝説となっていくのです。



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最近忙しくって更新が滞っています・・・。
特に大河がね・・・
エンジンがかからないっていうか・・・このなんちゃって副題も、気持ちがそがれてしまう原因です。
パロった副題で、どこまで何を表現できるのか??
ほんと、今回の副題のパロは天下の井伏鱒二でしょ??
そう思うと、去年は最初「二文字って・・・1年続くかな??」って思ったけど、だんだんとボルテージの上がっていくのを感じました。
ああ・・・懐かしい。。。

今回も、大河というにはお粗末な・・・ホームドラマでした。

龍雲丸が家臣になることを断りました。
ああ・・・ほんと、柳楽優弥さん、いい演技なんですが・・・それを納得できない直虎の演技ときたら・・・

naotora
















naotora2



















ということで、龍雲丸は一旦置いといて、今回のお話は・・・。

naotora3
















百姓の子供たちに、読み書き、薬草の知識なんかを教えていると・・・たくさんの人も集まってくるようになりました。

naotora4


















そんな井伊に、太守様から願い事が・・・

ここで”塩留”の話が挟まれますが・・・太守様の願い事でもないのでなんだか頭が混乱です。

そして・・・本当の太守様の願い事とは・・・
新野の桜殿への縁談話でした。
相手は、雪斎禅師のご生家・庵原様・・・
縁談=人質・・・と、佐名のことを思い出して顔を曇らせる直虎・・・って、これも戦国時代にあっては、当たり前の外交交渉だったんで・・・もういいよ・・・最近の考え方・・・

「武家の婚儀とはさようなものにございます。
 利用するか、利用されるか・・・」by政次


でもって・・・こちらも信長の娘&家康の息子の婚儀を脅迫中!!

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「小賢しい策を労ずれば、岡崎は誰かの手に落ちよう・・・承知したか!!」by信長

おお!!魔王のようでカッコいい信長です。
そうそう、やっぱりこうでないとね、信長!!

そして・・・新野の屋敷には、婚儀のお話が・・・
駿府の庵原のもとに嫁ぐことになった桜。。。
今川の重臣も重臣、しかも、藤原の流れを汲むという・・・

長女のあやめは・・・ちょっと心配そう・・・。

そんな不安な様子を察したのか、相手の身辺調査を始めましたよ・・・
こんなそんなも、当主であれば・・・
「井伊のために行ってくれ!!」と、強い当主であることを示してくれてもいいのに・・・
女性であることを表に出したいのかな・・・??

と、思ってしまいます。
はっきり言って、人材のない井伊・・・わらにもすがりたいであろう井伊なんだから・・・
ま、今川と縁を強めるということに疑問を抱いたとしても、それは外交問題であって。。。
大体、当時は武家ならば、自分の相思相愛なが出来る方がおかしいと思うんです。

そして・・・直虎だけでなく、しのもそう思っているようで・・・
誰も彼も、おかしいのでは・・・??と思ってしまいます。
現代の常識と当時の常識は、全く違うと思うんですけどね・・・
大河ドラマアンコールの「風林火山」では、そんなこと微塵も感じさせないほどのハードな世界で生きてますよ!!

なんと・・・そのお相手に会いに来ました。
って、ルール違反じゃないの??
太守様に怒られて当然のことをしてますよ・・・直虎!!

お相手は、庵原助右衛門です!!
渋る直虎に・・・
「どうか・・・井伊様には泥船から逃げ出すばかりでなく、泥船を今一度堅い船にすることもお考え頂けませぬでしょうか。」by助右衛門

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「言うは易い・・・人というのは弱いものじゃ。
 さて戦となり、己の命すら危ういとなった時に、忠義を貫き通す自信があると我には言い切れぬ。
 伊原殿は自信がおありか?」by直虎

「ございます。」by助右衛門

「ほう・・・それは何故・・・??」by直虎

「忠義を貫くことこそが、生き延びる道であるからにございます。
 最後まで忠義を尽くした者こそ、敵にすら惜しいと思われるのではございませんでしょうか?」by助右衛門

申し分のない結婚相手と思ったのか・・・南渓和尚と満足げに帰路につくのですが・・・

成長した直虎に和尚は・・・
「もうおとわはおらぬのか・・・」と、寂しそうでした。

ああ・・・自分も嫁ぎたいほどいい男だと言う直虎・・・
こんなガールズトークは要らないんだよ・・・
そして、その一言で、嫁ぐことを選んだ桜・・・。
って、だから、選ぶ権利なんてないんだってば!!

そして・・・いなくなったたけ・・・。
耳も遠くなり、勘違いも増えたので・・・歳も年だし、里へ帰ったという・・・。

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追いかける直虎・・・
「姫様じゃ!!
 怒りっぽうて、泣き虫で、たけの言うことなど一つも聞いてくれぬイノシシで、なれどそれはそれは情けの深い・・・私のとわ姫さま・・・!!

 なれどもう・・・姫様は姫様ではございますまい。
 井伊の殿としてご決心をされねば・・・
 
 お家の勝手向きは、未だ苦しゅうございましょう。
 乳母ひとりとはいえ、きちんと役に立つ者をお召し抱えになるべきかと・・・

 最後に一つくらい、私のいうことを聞いて下さりませよう・・・姫様。。。」byたけ

で・・・たけと瓜二つの梅が奉公にあがることに・・・。


そして・・・なんでか殿と成長した直虎は・・・政次に・・・

「一つ・・・桔梗の縁談も取り持ってはくれぬか・・・
 そなたの今川への忠勤ぶりと見せかけられようし、こちらから動くことで、嫁ぎ先の舵を握ることもできよう。」by直虎

「今川の家臣にございますか?」by政次

「北条じゃ・・・
 北条ならば、今川の唯一の味方・・・
 今川に怪しまれることもなかろうし、出来れば動きを知りたいところではある・・・」by直虎

「・・・なかなかよろしきお考えかと・・・」by政次

と、嬉しそうな政次です。

そして・・・織田の徳姫と徳川の竹千代の縁組が・・・
そして、瀬名も岡崎城へ移れることとなりました。


やっと当主としての責任・・・って、何が当主となったんでしょう??
南渓和尚とたけの気持ちで成長した直虎です

いつも思うんですが・・・大河の女主人公は、怒りっぽくて、泣き虫で、人の意見を聞かない女でないとダメなんでしょうか??
今年の主人公は、尼ということもあって、もっと思慮深く、あの井伊の赤鬼を育てた女として書いてほしかったんですが・・・安っぽいというか・・・相変わらずのやんちゃ姫に仕上がっています。

もう、いいお年というか・・・政次がしっかりしているから尚更、地に足のつかないやんちゃ姫が浮足立ってしまっているように思います。
同じような年齢の瀬名は、ず~っと窮地に立たされながら、起死回生をうかがっている・・・そんな目を演じているというのに・・・



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古代の日本が直面した国家存亡の危機・・・それを物語る遺跡が福岡県筑紫野市(前畑遺跡)で発見されました。
丘の上に築かれた巨大な土塁・・・砂や粘土を敷き詰めて固めた版築と呼ばれる堅固なものでした。

長さは発掘されている部分で500m・・・この発見で、古代日本では作られたことがないとされてきた施設の存在が浮かび上がってきました。
羅城です。
羅城とは、外敵の侵略に備え、都市全体を取り囲んだ城壁や土塁などの防御施設のことです。
発見された土塁は、九州の大宰府を防御する為に作られていた可能性が・・・
羅城を築くきっかけを作ったのが、古代日本最大の戦争・・・白村江の戦です。

663年、倭国は滅亡した朝鮮半島の王朝・百済の復興を助けるために、大軍を朝鮮に派遣。
大陸の王朝・唐の大艦隊と朝鮮半島の沿岸部で激突!!
そして、圧倒的な戦力差を前に敗北を喫するのです。
この戦いを決断したのは、当時倭国の実権を握っていた中大兄皇子。
開戦後、倭国侵攻に備えて全国に防御システムを築きました。
白村江の戦いは、人々の危機感を一気に高めていきます。
どうして強大な唐に戦いを挑んだのでしょうか・・・??

645年に発生した乙巳の変・・・
この政変で蘇我氏に代わって実権を握ったのが皇太子・中大兄皇子でした。
クーデター当時僅か20歳・・・天皇を両親に持つ有力者でした。
大阪市・・・乙巳の変の後王宮となった難波宮・・・蘇我氏打倒の直後、新しい政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、長らく親しんだ飛鳥から遷都しました。
南北600mを越える強大な王宮で、南側には朝堂院が・・・広大な空間は、皇族たちが列席する中、重要な儀式が行われました。
646年1月1日、元日朝賀のあと、孝徳天皇による新政権の改革方針が発表されました。
改新の詔です。
それは、大王を中心とする中央集権体制でした。

この時代、土地と民は豪族たちが私有していました。
大王が、税や兵を徴集する場合、豪族を通す必要があり、思うように徴収できないこともありました。
改革は、全国の土地と民を大王のものとし、豪族たちを国家から給与をもらう官僚とすることでした。
これによって国家による税や兵の徴収が速やかに可能となります。
倭国が強大な軍事力を手に入れるためには必要な改革でした。
どうして中大兄は軍事力を必要としていたのでしょうか??
それは、海外情勢の危機感です。

7世紀に入り、東アジアは激動の時代を迎えていました。
7世紀前半、唐が中国を統一、すると、高句麗・百済の侵略に晒されていた新羅が唐に助けを求めるようになります。
これによって東アジアは、唐・新羅陣営と、それに対抗する高句麗・百済陣営に二分されました。
中大兄は、唐の脅威と不安定な情勢に備えるために、中央集権化に進む必要がありました。そして、外交面でも・・・
646年、新羅に使者を派遣。
最新の文化や技術をもたらす百済や高句麗の有効はこれまで通りに、新羅にも接近・・・全方位外交をしようとしたのです。
百済一辺倒の外交は、もう時代遅れ・・・。
倭国は、新羅を通して唐に接近、どの陣営にも属さない方針をとったのです。

国内の改革は、遅々として進まず・・・孝徳朝の改革に抵抗する人たちもいたのです。
中央集権化や官僚制度が成り立たない・・・。
豪族の私有地、私有民を大王のものとする改革・・・既得権益を失う豪族たちの多くは反発していました。
改革がままならない中・・・目まぐるしく変わる海外情勢について行かなければなりません・・・。

654年、朝鮮三国と均等に交流するという倭国の外交方針にほころびが・・・
倭国の遣唐使が、唐の皇帝から命令を受けます。
「倭国は新羅、高句麗、百済と接近しているが、もし危急の事態となれば、兵を出して新羅を救うように・・・」
高句麗、百済との関係を断ち、唐・新羅陣営に来るように要求したのです。
660年7月、朝鮮半島で・・・百済が唐・新羅連合軍18万の軍勢に攻撃され、滅亡したのです。
百済の都は陥落し、百済王は唐に連行されたのです。
倭国は最大の友好国を失ってしまいました。
数か月後・・・中大兄のもとへ使者が・・・
使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信。
生き残った百済の人々は、百済の復興を目指し、半島各地でゲリラ戦を展開していました。
使者は、中大兄らに軍事支援を要請をします。
当時倭国に滞在していた百済の扶余豊璋を新しい王として迎えたいと帰国を促したのです。

百済復興を支援する??
それとも百済を見捨てる・・・??

倭国にとって朝鮮半島に強い影響力を持つことは重要だったと考えられます。
が・・・どうする・・・??

百済滅亡の翌年の661年1月、中大兄は時の大王・斉明天皇と共に難波を出港・・・筑紫国に向かいました。
日本書紀には、出発前の斉明天皇の言葉が書かれています。

「百済の人々は、戈を枕にし、肝を嘗める苦労をして救いを求めてきている。
 その志をどうして見捨てられようか。」

倭国は百済復興の支援を決断します。
661年9月、5000の兵が、朝鮮半島に渡ります。
その中には、百済皇子・扶余豊璋もいました。
出国直前、中大兄は扶余豊璋に、倭国の官位の一つ織冠を与えています。
これは、中大兄の臣下の身分に入ったということです。
しかし中大兄は、遠征軍を送った後、1年半の長きにわたり動きませんでした。
その理由は・・・??
中大兄は、百済支援を決断してから兵を動員するのに時間を費やしていました。
各地方豪族に民衆の徴発を命じて、徐々に軍隊を集めていきながら、中央の豪族から任命された将軍がそれを率いる・・・
なかなか中央集権的に、命令を下して軍隊が集まってくるという構造にはなっていなかったのです。
倭国が兵を集めるのに時間を擁している間に、戦局は次第に百済復興軍にとって不利になっていきます。
663年・・・唐は高句麗征討いったん中止し、百済殲滅を最優先とする方針に変え、主力を百済に投入。
さらに、百済復興軍の中でも足並みが崩れ始めました。
百済王・扶余豊璋と、将軍・鬼室福信が対立!!
これによって鬼室福信は殺害されてしまいました。
豊璋は、長く日本に住んでいたので、再興した百済が実質的に日本の支配下に置かれてもあまり抵抗はなく、しかし、鬼室福信は、極力、日本の干渉を避けたかったのです。百済の自主独立の考えだったのです。
一方、唐・新羅連合軍では軍議が行われ・・・
”周留城は敵の巣穴。周留に勝てば、諸城は自ずと下るだろう”
唐・新羅連合軍は、豊璋の籠る周留城を水陸から攻めます。
総力を持って撃破する作戦です。
それに対し、中大兄の作戦は対照的で・・・
新しい兵・2万7千を、新羅本国への攻撃に、1万の兵を周留城救援に向かわせたのです。
663年8月27日、1万の遠征軍が白村江に到着!!
倭の援軍を待っていたのは、周留城攻略のために集まっていた唐の大軍勢でした。

唐はどれほどの海軍力だったのでしょうか??
軍船の一つは楼舡・・・山荘の櫓を持ち、甲板の上を馬が走り回れるほどの船でした。
防火のために、皮で覆われた外壁で、投石機で敵を攻撃します。
小型船・蒙衝は、敵戦に素早く近づき、窓から槍や強力な矢を持つ弩で攻撃します。
倭の兵士たちは果敢に大艦隊に挑む者の、圧倒的な戦力差に次々と破れていきます。
これが白村江の戦いです。
倭国軍は、400もの船を焼かれ、その煙は天を覆ったといいます。
海は、倭国の兵の血で赤く濁ったといいます。

縦割り的なバラバラな仕組みの日本・・・
唐の軍隊は、軍団制度に基づいて、常に軍事訓練をしていました。
集団先鋒で、整然と相手を追いつめたのです。
1万の遠征軍は、僅か2日で壊滅!!
百済復興軍の立て籠もる周留城も落城。
百済王・豊璋は高句麗へと逃げ、行方不明となりました。
ここに中大兄の支援策は失敗し、百済復興がなされることはありませんでした。

中大兄は、百済復興のために3回・4万2千の兵を派兵しています。
1回目・・・661年9月第一次遠征軍・・・・・・5000
2回目・・・663年3月第二次遠征軍・・・2万7000
3回目・・・663年8月第三次遠征軍・・・1万・・・白村江で大敗

その後・・・
中大兄は唐・新羅の倭国侵攻に備え、軍事施設の建設に邁進します。
福岡県筑紫野市の前畑遺跡・・・巨大な土塁は、中大兄が侵略の危機感から築かせたものだとされています。
羅城とは、中国では一般的な、都市全体を囲んだ城壁のことです。
古代日本には存在していないといわれてきました。
九州における大和政権最大の出先機関・・・大宰府。
これまで外敵の侵略経路の博多湾から大宰府までを中心に複数の防御施設が発見されています。
数少ない大宰府南東の遺構である前畑遺跡・・・前畑遺跡の登場で、中大兄が羅城を建設しようとしていた可能性が出てきました。
50キロ以上の防衛ラインを・・・東アジア最大の羅城となります。
国難に備えた国家プロジェクトとして行われた大事業だったのです。

さらに・・・中大兄は羅城に留まらず、防衛のために瀬戸内海に古代山城を築きます。
これらの防御施設は、亡命してきた百済の技術者の指導で行われました。
しかし・・・朝鮮半島では新羅が唐と対立し、唐が倭国を侵略することはありませんでした。

668年中大兄は近江大津宮で大王に即位・・・天智天皇となります。
2年後・・・日本初となる庚午年籍を作成。
大敗戦の経験は、豪族たちの危機意識を生み、天智天皇の改革に協力する機運を高めていたのです。
中央集権化が進んでいきます。
東アジアの中で生き残るために・・・!!

改革・・・しかし、残された時間は少なく・・・天智天皇は志半ばで病に倒れます。
671年天智天皇崩御・・・46歳でした。
天智天皇の死後、倭国では皇位継承をめぐり壬申の乱が起きます。
この内乱に勝利した天武天皇は、天智天皇の志を受け継ぎ、国内改革を推し進めます。
そして、中国の制度・律令を導入し、天皇を中心とした中央集権体制を完成させるのです。
古代日本の転換点となった白村江の戦い・・・数多の犠牲を経て、日本は国家としての形を整えていくのです。


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今から550年前の1467年(応仁元年)、日本の歴史を大きく変える内乱が・・・応仁の乱が勃発しました。
京を焼け野原にし、11年も続いた日本史上最も難解な紛争です。
どうして難解なのでしょうか?
というのも、戦に至った理由ははっきりしません。
東西27万の軍勢が激突!!誰と誰が戦い、どうして長期化してしまったのでしょうか?
元凶は将軍・足利義政・・・??
全国を戦乱の渦に巻き込んだこの戦いの勝者は・・・??

応仁の乱は、1467年~1477年まで11年に及んだ内乱です。
その原因の一つとされているのが、将軍家の跡継ぎ問題でした。
室町幕府8代将軍足利義政は、息子がおらず、出家していた弟の義視を還俗させて後継者としました。
ところがその直後、正室である日野富子が男子(義尚)を産んだのです。
富子は我が子善尚を将軍に・・・と、義視排斥に動きます。
この将軍跡継ぎ問題に介入してきたのが、幕府の実権を巡り対立していた細川勝元と山名宗全です。
細川家は、代々室町幕府の管領を務める名門の出身・・・
管領とは、将軍の補佐役で幕府のNo,2です。
細川・斯波・畠山の三氏だけがなることができました。
また細川は、土佐・讃岐・摂津・丹波の守護でした。

山名宗全は、侍所で、今日の警備や裁判を担当していました。
但馬・播磨・備後・安芸の守護でもあります。
そんな二人が将軍跡継ぎ問題に乗じて、応仁の乱を起こしたといわれていますが・・・??

東軍のリーダー・細川勝元は、教養豊かな政界のサラブレッド。
西軍のリーダー・山名宗全は実力でのし上がった男で剛腕政治家でした。
共に、京の都に本陣をおきます。
東軍本陣は花の御所に・・・西軍本陣は山名宗全邸に・・・。

もう一つあった原因は・・・??
将軍足利家の一門の連なる守護大名・畠山氏です。
河内・越中・山城・紀伊の守護で、細川氏と同じく管領として政務をとっていました。
応仁の乱から遡ること19年・・・1448年に当主・畠山持国にお家騒動の火種が・・・
当主・持国が、後継者である弟の持冨から息子の義就に変えたのです。
将軍義政もこれを許可したので、弟持冨もこれに従いまもなく亡くなってしまいました。
1454年義就が家督を継いだことが納得できない一部の家臣が、持冨の子・弥三郎・政長を担ぎ上げ、義就と争い始めたのです。
将軍・義政は、自ら跡継ぎと認めた義就を支持、しかし、武力衝突で弥三郎・政長が勝利すると、あっさり弥三郎の相続を認めます。
しかし、将軍の権限によって弥三郎を京から追放し、義就を再び畠山氏の当主としました。
将軍には考えがありました。
室町幕府は三代将軍・義満の代が一番華やかで、義政も敬愛する義満の時代に戻したかったのです。
卓越した政治手腕で室町幕府の最盛期を築いた三代将軍・義満・・・
19歳の義政は、義満のように強いリーダーシップを発揮するチャンスだと思っていました。
畠山氏の家督争いは、持国と弥三郎が亡くなったのちも、義就と政長の間で続けられます。

将軍の威厳を示したい義政はさらに介入し、しかし、態度を二転三転・・・
解決するどころか事態を泥沼化させていったのです。
やがて将軍義政は、命令に従わないことが多い義就に対し、追放命令を下します。
これで畠山氏の家督は政長のものに・・・
都を追われた義就は、1462年吉野へ逃亡・・・雌伏して時を待つのです。

1467年(応仁元年)1月18日、畠山義就はついに蜂起。
畠山政長の陣に攻め込みます。
これが、上御霊社の合戦です。
この畠山氏の合戦が、応仁の乱の始まりと言われていますが・・・
この時、義就に決起をそそのかしたのが、山名宗全でした。
山名宗全は、幕府の中心にいる細川勝元に対抗すべく、畠山氏の騒動に便乗することにしたのです。
これを知った細川勝元は、もちろん畠山政長につきます。
将軍が泥沼化させた家督相続争いに、幕府内の権力争いが加わり、両軍の核となる体制が出来上がったのです。
しかし・・・まさかこれから11年にわたって戦うとは・・・誰も知る由がありませんでした。

「上御霊社の合戦」は、一日で決着がつきました。
勝ったのは、山名宗全が味方した畠山義就。
破れた畠山政長は、細川勝元邸に逃げ込みました。
畠山氏の事実上の当主は、政長から義就に代わり、山名宗全は細川勝元から幕府内の権力を奪取!!

どうしてこの局地戦だけで終わらなかったのでしょうか??
その原因も、義政でした。
合戦の前に義政は、細川と山名に対して・・・
「畠山氏の争いへの介入を禁じる。もし力を貸せば、切腹」と、通達していました。
ところが山名宗全は無視して義就に加勢!!
政長を支持していた細川勝元は、将軍の言いつけを守り参戦しませんでした。
そのため、政長は援軍を得られず惨敗したのです。

面目を潰された細川勝元が、反撃を開始!!
畠山氏の内紛で終わるはずだった戦いは・・・それぞれの思惑と結びつき・・・誰も思い及ばない大きな戦いへ・・・!!
1467年(応仁元年)5月26日、細川陣営が山名陣営を攻撃!!
洛北の戦いと呼ばれるこの合戦で、西軍が有利に進めるも決着がつかず・・・
翌日両軍が撤退して終結します。
しかし、市街戦ということもあって、京の都のあちこちで火の手が上がり、多くの民家や寺社が焼けてしまいました。
この時代の戦いは、戦国時代の殺し合いとは違い、放火合戦のようなところがあったのです。
翌日、将軍・義政が再び介入、東西両軍に、
「ひとまず戦いをやめて、指示を待つように」と命じます。
そして畠山義就には・・・
「今日を離れて、争いを避けてはくれぬか・・・」と、和平工作をしようとしましたが・・・

長期化の理由①将軍の無定見
将軍・義政は、戦の長期化を避け、和平工作を試みました。
そんな中、東軍の細川勝元から提案を受けます。
「将軍の御旗を、我が党軍に下さりませぬか。」by勝元
「それは、逆賊を討つときに掲げるものじゃからのう」by義政
「畠山も山名も、将軍様の命に背く者たち・・・逆賊では・・・??」by勝元
「よし、将軍家をお主に任せよう!!」by義政

将軍家を細川勝元に授けたことで、将軍は東軍側に・・・
すると義政は、総大将に足利義視をつけてしまいます。
停戦調整役がいなくなってしまいました。
幕府軍となった東軍も、反乱軍となった西軍も、諸国の守護大名に参陣を求めます。
東軍16万VS西軍11万!!
合計27万もの軍勢が、京の都に集結したのです。
関ケ原の戦いでも、総勢15万8000なのに・・・!!
応仁の乱では、北陸から九州に至るまでの殆どの守護大名が、東西どちらかに参加して戦いました。
大義名分を得た東軍は勢いづきます。
反乱軍となった西軍は・・・次々と降伏する者が出てきました。
山名宗全の息子も・・・
幕府の管領だった斯波義廉も・・・
東軍の勝利は決まったも同然・・・??

しかし・・・
「朝倉孝景の首を差し出すなら、義廉を許そう。」by義政
朝倉孝景は、斯波義廉軍の実質的大将で、義廉にとってはかけがえのない家臣であり、首を差し出すなど考えられません。
斯波義廉は、西軍に残ることにしました。
将軍の失策!!終戦のチャンスを逸してしまいました。

そんな中、山名宗全は、一計を案じていました。
西国一の戦力を擁する守護大名・大内政弘を口説き落とし、京に呼び寄せます。
1467年8月23日・・・大内軍は、道中の東軍を蹴散らし、威風堂々京に入ります。
一説には8万の軍勢を率いて来たとか・・・
これにより形勢逆転!!
大内軍が東寺を占拠し、洛南一帯を西軍が獲得すると、東軍から離脱者が続出・・・。
すると・・・

長期化の理由②総大将の逃亡

西軍に大内政弘が参加したことによって、形勢は逆転!!
東軍総大将の足利義視が逃げ出してしまいました。
それでもなお、東西両軍は激突!!
そのたびに火が放たれ、京の都はいよいよ荒廃していきます。
9月18日、東岩倉の合戦では・・・
戦場となった南禅寺の一部が焼失!!
10月2日~4日の相国寺の合戦では、伽藍が焼け落ちてしまいました。
応仁の乱で、最も規模が大きかった戦いです。
戦火は近隣にも及び、相国寺のとなり・・・花の御所も完焼・・・。
これに激怒した将軍義政は切り札を出します。
御花園法皇に、山名宗全討伐の院宣を要請します。
10月3日、西軍は、山名宗全討伐の院宣によって朝敵とされてしまいました。
朝敵となった西軍は、士気が下がり・・・終息に向かうと思われましたが・・・

将軍義政は、伊勢に隠れていた義視を見つけ出し、京に呼び戻しました。
以前のように東軍で活躍してもらおうと思っていたのです。
しかし、将軍の周囲では、政敵である日野富子の一族が占めており、もはや義視の居場所はありませんでした。
義視は・・・あろうことか、敵に寝返ってしまいました。
西軍は、将軍家の者が加わることを歓迎し、西幕府の将軍として義視を迎えました。
西軍の士気は一気に上がり、戦いは激しさを増していきます。

乱の勃発から1年10か月・・・
東西に分かれて戦う大名たちの参戦理由も様々でした。


長期化の理由③複雑な利害関係

家督争いでわかれた畠山氏同様、斯波氏も家督争いで分裂。
赤松氏は、自分たちの領土を奪った山名氏に対抗する為に東軍に参加。
西軍について戦況を覆した大内政弘は、貿易が瀬戸内海の支配権をめぐり、長年細川氏と対立。
丹後の一色氏と若狭の武田氏は、領地問題で反目。
斯波氏と今川氏は遠江の地を争っていました。
京極氏と六角氏は近江を巡って戦っていました。
守護大名たちは、これらの対立構造のまま、応仁の乱に参戦・・・。
異なる思いの中で、誰と誰が結びつき、誰と誰が戦っているのか・・・わからなくなっていきます。


長期化の理由④屋敷の要塞化

応仁の乱が始まると、守護大名はこぞって屋敷に井楼(物見櫓)を作ります。
屋敷の周りには堀を巡らせます。
これが戦を長引かせる原因となります。


長期化の理由⑤戦い方の変化

それまで実戦部隊は、主従関係にある家臣たちでした。
しかし、応仁の乱では、足軽という兵装の歩兵の役割が大きくなります。
足軽の主な任務は・・・略奪、放火でした。
金で雇われた傭兵で、主君への忠義も、武勲という目的意識もなく、戦に対する貢献度は低かったのです。

1471年、京で天然痘が大流行、多くの人が無くなります。
戦をしている場合ではない・・・!!
そんな戦いを、誰がどのようにして終わらせたのでしょうか??


1471年・・・終結の兆しが・・・
きっかけを作ったのは、家督争いのために東西に分かれた斯波義敏と斯波義廉です。
義廉の事実上の大将は、朝倉孝景でした。
朝倉は、西軍の中でも一目置かれて京に陣を置いていました。
ところが、京で戦っている隙に、領地である越前の殆どが東軍の義敏によって制圧されかけたのです。
それを知った朝倉は、すぐさま軍を離れ、義敏攻略に向かいましたが・・・
思わぬ苦戦・・・不利な戦況に追い込まれ、度重なる東軍の誘いに応じ・・・越前守護の任命を条件に東軍に寝返ったのです。
まさに下克上!!
寝返った朝倉が越前を平定したことで、西軍の貴重な補給ルートが絶たれてしまいます。
日本海から琵琶湖を経由する京への大動脈が失われてしまったのです。
西軍の劣勢は、誰の目にも明らかな状態に・・・。

そんな中・・・1472年、細川勝元と山名宗全が和睦交渉を開始。
しかし・・・その翌年、1473年3月、山名宗全が70歳で死去。
その2か月後には、細川勝元が44歳で死去。
細川と山名のそれぞれの息子(細川政元・山名正豊)たちによって、単独講和が結ばれ、やっと和睦が成立。
これによって、今日での戦いは終息に・・・

しかし、各地の守護大名たちは、何年も本国を留守にしていたので、自国の政治がおろそかになってきていました。
各地で争いが起こり・・・京から戦いの場は地方へと移っていきます。
さらに7年も続くことに・・・!!

応仁の乱は、そのように決着したのでしょうか??
この時、京に残っていた西軍の有力大名は大内政弘と畠山義就のみ。
彼らは足利義視を西幕府の将軍に担ぎ上げていたので、義視の手前、戦いを終わらせることができません。
そこで義視は、兄・将軍義政にわび状を・・・
これを受け、義政が義視を粗略に扱わないと・・・
1476年12月、義政と義視の間で和解成立。

障害がなくなった畠山義就は、京から兵を引き上げました。
それから間もなく・・・1477年11月11日、西軍の大内正弘も、周防・長門・越前・豊前の守護の座は安堵という破格の条件で東軍に降伏し、京から撤退。
僅かに残っていた大名たちも国へ帰っていきました。

遂に応仁の乱終結・・・!!

勝者もなく、敗者もなく、何が解決したのか・・・うやむやのままに集結したのでした。
あまりのもあっけない終わりでした。
当事者でさえ、誰が誰のために戦ったのか・・・わからなかったのかもしれません。
京の都を焼け野原にしただけの応仁の乱・・・。

11年間、足利義政を中心とした室町幕府が、その場しのぎの対応を繰り返さなければ、もっと早く終わっていたのかもしれません。


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