日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

幕末・安政の大地震に立ち向かった男

津波とたたかった人―浜口梧陵伝

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BS歴史館~復興の鍵は民にあり 幕末・安政の大地震に立ち向かった男「濱口梧陵」です。稲むらの火と言った方がピンとくるかも知れませんね。

これは、知っていないとまずい郷土の有名人です。が、人間の頭なんてあやふやです。こんなにバイタリティに溢れた人とは思っていませんでした。

ちなみに、戦前の教科書には載っていた有名な人物です。去年から5年生の教科書に載るようになりました。それは、戦前の日本の教育が悪かったというアメリカナイズされた教育が削除させたのでしょうか?

この安政の大地震は、安政元年に起こった安政南海地震のことで、西日本で数千人の死者が出たといわれています。

濱口梧陵は紀州藩広村の醤油を生業とした商人です。巨大な津波から村人の命を救い、広村に奇跡の復興をもたらした人です。

広村は、今の広川町のことで、たちうお、しらすなどの捕れる漁港です。この町を、100年~150年ごとに大きな津波が襲っていました。

そんな中、後々語り継がれるほどの大地震、安政南海地震がおこります。震源は沖合M8.4の大地震で、高さ4.2mの津波でした。これは幕末最大級で、今回の東北の津波の二分の一ですが、防波堤などはなかったので、同じぐらいの津波といえるでしょう。

手記より
「七つ時頃に至り、大震動あり、瓦飛び 壁崩れ 塀倒れ 塵空を蓋う」という大被害でした。
冷静に海岸の異変に気づきます。
「巨砲の連発するが如き 響きをなす数回 伝え聞く 大震の後 往々海嘯(津波)の襲ひくるありと」
と、津波を予感しています。
「村民一統を警戒し 氏神八幡境内に立ち退かしむ」

村から八幡様まで1.7km20分はかかる距離でした。

後の計算によると、広村にくる津波の第一波は40分後。

この時、村人たちは八幡神社に逃げて救われます。が、第二波、第三波が来るはずで、逃げ遅れた人達のために目印に・・・

「路傍の稲むらに火を放したむるもの十余」
稲わらに火をつけ
「以って漂流者に其身を寄せ、安全を得るの地を表示す」

暗闇に忽然と現れた炎。その火を頼りに高台へ逃れた人達。多くの命が救われました。
他の村では村人の半数が被害にあった地域もありましたが、広村の死者は、30/1323人中であったのです。

この安政元年とは、その前年、ペりーが来航し、情勢が不安定で落ち着かない時代でした。そんな時代に・・・。

安政元年   11月4日  安政東海地震
       11月5日  安政南海地震
       11月7日  豊予海峡地震
  2年    2月1日  飛騨地震
       10月2日  安政江戸地震

と、地震が誘発しています。本当に不安な時代だったのです。

小泉八雲はこの「稲むらの火」を外国に伝承しています。それは、日本人独自の共同体のあり方に興味を抱いたからでしょう。

では、何故津波を予知できたのでしょうか?

濱口家は、広村の名家で、代々醤油屋(今のヤマサの前身)を営んでいました。ここには1万冊以上の本が梧陵文庫として残っています。
この中の「日本三代実録」(平安時代に編纂された歴史書)に、貞観地震というのが記録されています。869年に東北地方で起こった地震で、激しい轟音、雷のことが記録されています。

梧陵は、広村では知的階級を代表する人であり、地震と津波が連動しているという知識があったのです。

では、何故田畑の貴重な財産である稲むらに火をつけたのでしょうか?
火をつけたのは、梧陵が私財を投じて作った「耐久舎」の教え子たちでした。梧陵は、幕末の不安の中、防衛・教育を地域で行うことを目指していました。高い危機管理能力を持っていたのです。

では、どうしてこんなにリーダーシップがあったのでしょうか?

当時まだ、士農工商の身分制度が残っており、商人である梧陵はお金持ちで名家であるにもかかわらず、政治的には一番下の階級でした。

江戸時代、殆どが農民で、米だと年貢は40%取られていた時代、醤油醸造の商人だと税金を払わなくて良い=人として重きにおかれていない存在だったのです。

でも、富は貯まっていく。これを社会還元、地域に還元するというのが、当時の商人の人間の倫理であり、義でした。それが、梧陵文庫にも表れています。
梧陵は、地域の自治の確立を目指します。

「人家は概ね崩壊して
 只ニ三の旧態を存するあるのみ
 人生の悲惨茲に至りて極まれりと謂うべし」

濱口家が炊き出しをし、みんなを飢えから救います。また、長屋を建てたりと広村の復興に尽力します。

家を流され、田畑は塩水に浸かり、生活の手段をなくした人々。
紀州藩は、藩全体が被害を被っているため全域に支援できない状態。
そんな中、梧陵は紀州藩に手紙を出します。

「波除土手の増築、御免許蒙奉候
 右工費は乍恐 私如何様にも勘弁仕る」

と申し出たのです。

千葉県銚子市には、黒潮に乗って紀州からの移民も多く、当時は利根川を遡ると江戸であったため、江戸への搬入口として栄え、交通の要所となっていました。梧陵はそこでも醤油醸造所を経営していました。

ここで稼いだお金を広村の復興に充てたのです。総額5億円といわれています。広村では、仕事のなくなった住民を使い、女子供であっても日当を払ったそうです。

が、安政2年10月2日安政江戸地震が起こります。江戸は壊滅し、醤油の江戸支店も閉鎖することになるのです。でも、この銚子では、広村復興の為に今までにないほどのたくさんの醤油を製造し、バックアップするのです。

この梧陵のした共同事業は、村人に仕事を与えたばかりでなく、帰属意識の高まりを作ったのです。

4年後に堤防は完成します。これは、世界初の津波用堤防です。
そして堤防と海の間には、6000本の松を植えます。松は根を張るばかりではなく、松林で人を津波で持っていかれないようにしたのです。

この堤防の上にははぜの木が植わっていて、木の実はろうそくの材料となります。それを売って、堤防の維持費に充てたのです。

昭和21年12月21日昭和南海地震が起こります。M8.0高さ4mの津波が広村を襲いますが、堤防のおかげで市街地に被害は殆どなかったといいます。

商人から初めて勘定奉行に任命された梧陵は、今までの禄高制をやめ、能力給の給料制にしたりと、政治にも精を出します。大久保利通の目にも留まりますが、民間人の実力をつけるという考え方は、専制主義国家である明治政府とは相容れませんでした。

後に和歌山県議会議長となりますが、かつての夢だった世界旅行の途中、アメリカのニューヨークで亡くなります。

本当に、一般人にしておくのは勿体ないくらいです。が、民間人たればこそ、これだけフりーに動けるからこその決断力なのかも知れません。

今の政治家の皆さんは、お互いの顔色ばかり伺って、落としどころを考えながらお話して、政治をしている感がありますよね。(≧ヘ≦)

もっとリーダーシップのある人を求めるのは酷なのでしょうか?自分で見極めて、庶民のパワーから持っていかないとだめなのかも知れませんね。

ホント、これ以上、天災も人災もおこりませんように(* ̄∇ ̄*)


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津波救国──〈稲むらの火〉浜口梧陵伝

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江戸を救った副将軍
THEナンバー2です。

名君の碑―保科正之の生涯 (文春文庫)

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今回は、保科正之~江戸を救った副将軍~です。

何故、江戸城に天守閣がないのか?そんなこんなを決めた人です。
4代将軍家綱を陰で支え、有事の時にこそ(今回の場合は明暦の大火)必要な、強力なリーダーシップで江戸幕府を支えた人です。


保科正之とは?父は徳川秀忠、母はいまをときめく江(お江与)ではなく、側室の子、つまり、上様の御落胤です。秀忠は、江が怖かったため、正之とは親子の名乗りは出来なかったそうです。

三代将軍家光と弟・忠長は、仲が悪かったことは有名ですよね。家光・春日局VS忠長・江(秀忠も)の構図です。当時は、長男が家を継ぐ、という風習は確固たるものではなく、賢い忠長につく人も多かったため、家光は気が気ではなかったようです。

そんな中、家光は保科正之にも疑念を抱きます。腹違いの弟ということで、興味があり、正之をマークしていました。が、その態度が、余りにも誠実で聡明、自分をわきまえている正之に信頼を寄せ、自分の腹心とするのです。

1651年、家光は病に倒れます。その時の心配事は只ひとつ、幼い息子家綱でした。それは、江戸幕府を開いて以来、秀忠・家光で800万石をお取り潰しにした為、諸大名から恨まれていたからです。

秀吉もそうですよね。権力があってもなのか、権力があるからなのか・・・。とにもかくにも、親は子供のことが心配です。(T△T)

息子の家綱と、徳川幕府の将来を託されたのです。

1651年「慶安の変」が起こります。今は「由比正雪の乱」とは言わないのかしら・・・。いわゆる、由比正雪が、浪人たちを集め、幕府の転覆をねらった騒動です。が、これは、正雪の仲間の密告により捕まり、事なきを得るのですが、これから正之の改革が始まるのです。

有名なのが、1657年の明暦の大火。振袖火事とも言われています。

この火事は、江戸が紅蓮の炎に包まれ、三分の二を焼き尽くし、10万人の死者が出た。という大惨事でした。この時に、江戸城の天守閣が焼け落ちたのです。

天守閣を造るお金があるのら庶民に、と、反対する幕閣を押し切って政策を進めるのです。それは世界に先駆けたヒューマリティ溢れる政治で、災害に対しては、人命尊重に一点集中して努力をしています。

例えば・・・。当時、浅草にあった蔵前の米蔵を、大火から守るために「火を消したら米の持ち出し勝手放題」としたのです。
当時は町火消しはなく(八代将軍の吉宗時、大岡越前が作りました。)大名火消しでは足りなかったから。
この時に助かった米を救助米として、炊き出しをし、当時にして16万両を支出しました。

そうして、住民の食料を確保するため、大名行列で江戸に詰めていた大名には帰国を促し、江戸入り無用にしました。

また、亡くなった人には万人塚(後の回向院)を作り、弔ったのです。

この大火の調査の結果、隅田川の被害が大きかったことがわかります。当時は橋をかけたり、運河を作ると、「敵に攻め込まれる」といった戦国時代の考えが残っていました。火事が迫ってきているのに、橋がないため対岸に逃げられなかったのです。それを知った正之は武蔵の国と下総の国の間に橋を架けます。これが両国橋です。
また、当時江戸では火事が絶えなかったので、道幅を広げて火の粉を飛ばないように工夫をしました。

正之の政策としては、三大美事が有名です。これは、家綱がおこなったとされていますが、実は正之・・・。

殉死の禁止
大名証人制度の廃止(人質の廃止)
末期養子の禁の緩和(主君死後の養子縁組の緩和)

です。

正之は役職にはつかず、表に出ないフリーな立場で家綱を支えるのです。

また、水不足を補うために玉川上水の改革に臨みます。これも、古い考え方の人々は、敵が入ってくるため運河はだめだと反対します。が、「一国一城の小城なら堅固を主とするが、天下万民の江戸城は、民の便利安居固祖が第一なり」と跳ね除け、この玉川上水は、江戸庶民の飲み水をまかなうばかりか、大穀倉地帯を生み出すことになるのです。

また、会津藩主としても、農民に対する負わせ(農民が飢饉のときに払えなかった年貢は積み重なって、重税となっていた)を棒引きにし、廃止します。

また、社倉を作り、余った米を入れておき、飢饉の時に米を安価で放出しました。それは、隣の藩に貸すこともあったとの事。
このことで、飢えが無くなります。

また、年金制度のようなものを作り、90歳以上の人は終生1人扶持を与えられたそうです。初年度の申し込みは155人もいたらしいです。

でも、有名でないのは・・・。やはり。松平容保が子孫のため、明治政府には敵とされました。特に、会津はコテンパンにやられていて、死者を埋葬することさえ許してくれなかったといいます。やはり、勝てば官軍なのです。・゚・(ノД`;)・゚・

今の時代は、一応、明治政府が続いているのかなあ・・・。

とにもかくにも、そんな風にあまり知られていない保科正之、家康を除けば、14人の将軍の誰よりもNO,1だそうです。

本当に、すごい手腕ですね。今の政治家のみなさんに見習ってほしいものです。(´Д`) =3 ハゥー


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アンデルセン~童話に隠された秘話~
BS歴史館です。

子どもに語るアンデルセンのお話

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この回は、デンマーク出身の世界的童話作家、ハンス・クリスチャン・アンデルセン(1805~1875)の実像に迫ったものです。

アンデルセンは、マッチ売りの少女、裸の王様、人魚姫、みにくいアヒルの子など、数々の童話を世に生み出した童話作家です。

時は19世紀のデンマーク、人びとは戦争や貧困に苦しんでいました。アンデルセンが育ったのは、デンマーク第三の都市オーデンセ。靴職人の父と、働き者の母の間に生まれます。この家は、今も残っています。外国はなんといってもこんなところがすばらしいです。なんせ日本は残っていませんからね・・・。

当時、まだ階級制度があって、「靴職人の子はどんなに勉強しても靴職人」という時代でした。

世界的には、ナポレオンがロシア遠征をした時代です。アンデルセンの父は、このナポレオンに、当時のロマン主義に心酔し、ロシア遠征に一旗あげようと参加するも、ロシア遠征は大敗に終わります。そして、失望のあまり亡くなります。

母は、洗濯女をしながらも、生活から逃れるためにアルコールを煽り、父の死から二年後に再婚します。

このことをきっかけに、アンデルセンは家を出ます。14歳のことでした。

すでにイギリスでは産業革命が起こっていたにもかかわらず、コペンハーゲンはまだまだ古い体質でした。ここでアンデルセンは16年という長い歳月を試練の中で過ごします。それはやはり、階級と、無学ということがネックとなっていたのです。

そうして「子どものための童話集」を発表します。
アンデルセンの作品は、今までの昔話、おとぎ話とは違って、自らの経験、体験を基にしたものです。そのため、当時の社会情勢が反映しています。
例えば、「マッチ売りの少女」この軸のあるマッチは、当時の最先端、最新の商品だったのです。

このマッチ売りの少女、実はモデルはアンデルセンの母親で、母は、子供の頃、親から物貰いをさせられ、それが出来ずにオーデンセの橋の下で泣いていた・・・。というところから出来ています。そして、このマッチ売りの子どもという設定は、「物売りする子供は貧しい子」という当時を語っています。

アンデルセンは次々と作品を世に送り出し、流行作家となり、ヨーロッパでの地位を確立したかに見えました。ロマン主義のおかげで、階級がなくなって、個人の時代のように見えましたが、階級制度はまだまだ根強く残っていて・・・。靴屋の子供はは靴屋でなくても良い筈なのに、靴屋のまま。という、下層のものが生き抜くにはまだまだ大変だったのです。

アンデルセンは、ヨーナス・コリーンの援助を受けていましたが、作家として成功していても、上流階級の人間ではないため、家族にはなれませんでした。これが、「みにくいアヒルの子」なのです。

でも、みにくいアヒルの子は白鳥になります。これは、アンデルセンが心の中で、自分が下層の人間ではないと思っていたからのようです。それは、当時の人にとっては新しい感覚でした。

1848年、フランスでは2月革命が起こり、3月にはデンマークでもデモ。そして、立憲君主制になります。

これは、市民階級の起こしたデモでしたが、この「市民」とは、当時はインテリのことで、労働者ではありませんでした。

アンデルセンは、生涯独身で過ごします。それは、童話作家というものは、安定した収入がなく、「旅をして、高貴なおうちに逗留して、およばれをする。」という生活だったからだといえます。失恋に失恋を重ね、王子に恋をする「人魚姫」を書き上げるのです。

そしてどこにも根をはれない現代的な芸術家アンデルセンは、「赤い靴」を書きます。これは、人間の内面の葛藤を書いたもので、私とは何か?という個人主義、自己中心的な考え方を、踊りの好きな女の子を通して、自分を優先する心と他者を思いやる、隣人を思いやる心との対立を書いています。これは、アンデルセン自身の葛藤なのでしょう。

切り落とされた赤い靴。赤い靴は何?それは自己愛の象徴なのでしょう。

アンデルセンは、自分に対して正直で、率直な人、そうして自己愛という現代的な問題をいち早く、童話という形で世界に広めた人だったのです。

1875年70歳で死去。高貴な身分に憧れ、仲間に入りたかったアンデルセン。かれは、国民から惜しまれ、国葬されました。

お子様向けの童話とはいえ、なかなか後味の悪い作品が多いですよね。「人魚姫」も、ハッピーエンドにしてあげたらいいのに・・・。とか、「赤い靴」では斧で足をきりますし・・・。「みにくいアヒルの子」でも、君が醜いのなんか気にならないよ。家族にならなければね。とか、童話らしからぬ話も多いのですが、それは、アンデルセン自身の鬱屈した醜い部分がそうさせたのかも知れませんね。

読みたいような気もしますが、童話って怖いですよね・・・。トイレに行けなくなったら困るので、止めておきます。Σ(T□T)

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雪の女王

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池上彰の現代史講義
BSジャパンで9月4日から始まりました。
池上彰の現代史講義~歴史を知ればニュースがわかる~

池上彰さんに飢えていたので、楽しみにしていました。

これは、池上さんの故郷、信州大学経済学部で毎年夏に行っている講義を放送してくれたものです。

全部で14回やってくれます。(* ̄∇ ̄*)

ニュースを理解するためには、現代史は必要なのに、学校では第二次世界大戦まではやってもそれ以降はやらないから、ニュースを理解することが出来ない。ということで、現代史を読み解くことで、ニュースを読もう。ということだそうです。

第一回は、「チェルノブイリからフクシマへ」でした。

チェルノブイリで事故が起こった当時、ウクライナではなく、ソビエト連邦という特殊な経済社会の中での事故でした。

ソ連は、秘密主義的な国家なので、はじめに放射性物質を探知し、報告したのはスウェーデンでした。

どうも、この放射性物質は、風上から飛んできたものらしい・・・。ということで、もしやソ連の原子力発電所で事故があったのでは?という話になったのです。

これによって、しぶしぶ認めたソ連でしたが、どの地域でどのくらいの避難があったのか、などは、報道されませんでした。

この頃、ゴルバチョフ大統領が秘密主義から情報公開をしだしたばかりのことだったにもかかわらず、中央への報告もなく、ソ連という国家は痛んでいる・・・。と、感じた大統領は、国家再建の為国家の問題をOPENにしようとします。その結果、国民は愕然とし、ソ連崩壊へとつながるのです。

つまり、このチェルノブイリの事故が、ソ連崩壊のきっかけとなるのです。

そして、直接の死者は31人、と報告されていますが、本当のところはわかりません。

この放射性物質は、ヨーロッパに飛散し、当時、イタリアでは小麦が被害を受けることになりました。

結局、チェルノブイリから50km圏内は避難となり、60万人が顕著な被曝をすることになるのです。

ソ連では、政府に対する反対運動は存在しないので、安全対策そのものが存在しなかったといえるのです。

が、今回、日本でこのような事故が起こり、日本には報道の自由があるのに何故後手後手にまわってしまったのか?

日本には、言霊信仰があります。本当に、根付いてますね・・・。(TmT)
この事故も、安全神話で成り立っていたということが白日の下に晒されてしまったのです。これがアメリカなら、ありとあらゆる危険性を考えて対応しているでしょう。

これで解ることは、政府の対応は、政治体制には関係ないということです。チェルノブイリでは20年経った今、コンクリートの石棺がボロボロになり、この石棺をコンクリートで覆う計画がもちあがっています。

フクシマでも、あと30年はかかるだろうとされています。

ニュースを見るとき、その情報を持っている側がすべてを教えてくれているのか、聞くほうは解りません。例えば政府に都合のいいことばかりのみ、教えてくれているのかも・・・。そんな、情報の非対称性を自覚した上で見ることが大切なんだそうです。難しいですが・・・。(TωT)

久しぶりの階段教室、生徒のいる教室、講義、何もかも新鮮でした。テレビと違って、編集がないから脱線することもたくさんありましたが、教室の感覚を楽しみながら、拝見しました。

来週も楽しみです。♪ヾ(≧▽≦)ノ彡☆


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ブロークンアロー
ブロークンアローといえば、クリスチャン・スレーターと、ジョン・トラボルタの映画を思い出します。核弾頭を強奪しようとして・・・。という、ジョンが悪役の映画です。

が、今回は久々です。BS歴史館。「暗号名ブロークンアロー~かくされた核兵器事故~」です。

核セキュリティの基礎知識ー国際的な核不拡散体制の強化と日本のとるべき対応

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ビックリしました。そもそも、ブロークンアローとは、核兵器の紛失や落下事故など、核にまつわる不測の事態発生を意味するアメリカ軍内部のの暗号名のことなのです。( ̄□ ̄;)!!

このリストには米ソ冷戦時代に32件あるそうで、いまだに回収されたかどうかわからないのだそうです。・・・ビックリしました。

どうしてこうなったのかというと、1957年、ソ連がスプートニクの打ち上げに成功したため、アメリカは核ミサイルの恐怖に晒されます。これに対抗するため、1958年からアメリカはクロームド作戦を開始。これは、核爆弾を積んだB52爆撃機を24時間常時ソビエトの国境近くを飛ばせる。という作戦です。

そんな中、1966年1月17日、スペイン・パロマレスに核爆弾が落下するのです。この核爆弾を、アメリカは、人海戦術をもって、竹ざおで突いて探したというのです。Σ(|||▽||| )

81日後に見つかりますが、費用はアメリカ軍史上最も高価で大規模な捜索といわれ、総額1500万$だったそうです。

そうして、汚染された土壌は、ドラム缶に詰められ、アメリカ本国へ持ち帰ったのです。でも、これでいいの?解決したの?

パロマレス産のトマトは汚染されていると、風評被害が出、安全宣言をするために、スペイン情報観光省長官とアメリカ大使が核の海を海パン一丁で泳いでアピールします。

あー、なんか支持率も低下しているというのに総理大臣をやっていた、その昔貝割れ大根を食べて安全宣言した人を、思い出します。(≧ヘ≦)

多くの援助をしてもらっているアメリカを裏切れない、認めてしまうとトマトなど農作物が売れなくなるという現実、真実を知りたい人と知りたくない人。

事故当時、スペインはこの事故によって色々なことを暴かれるのを避けたいという政治的判断があったといわれています。それは、自国でも原子力発電所や核兵器を作りたいという野心、これによって安全かどうかという判断は重要でなくなっていたのです。

今、パロマレスでは、新しい問題が浮上してきています。4年前の2007年、急に立入禁止区域が出来たのです。スペイン当局の報国では、「普通の生活に問題はないとされていましたが、土地開発により、動かされ、下に隠れていた土壌から放射能汚染地帯が出てきた」のだそうです。

この事故から2年後、またもやブロークンアローが起こります。

北極圏アメリカ軍基地で。そこは、デンマーク領グリーンランド、チューレでした。冷戦時代、極北に作られた基地は重要な前線基地でした。

1968年1月21日、B52が機内火災で墜落。機体は厚さ3mある氷を溶かして海に沈みます。核爆弾は大量の放射能を蒔き散らしてバラバラに落下します。が、この事実はデンマーク国民には伏せられていました。

というのも、デンマーク政府は非核化政策をとっており、持込を禁止していたからです。でも、後に、ハンセン文書というものが見つかります。これは、デンマークがアメリカに対し、すべての物質を持ち込むことを許可するというものでした。あー、これもどこかで聞いたことあるよね・・・。

この核爆弾は、イヌイットと基地で働くデンマーク職員たちの手で、8ヶ月もかけて終わらせるのです。が、2008年BBCの報道番組で、この事故について「厚い氷を貫通し、核爆弾の重要な部品が海に沈んでいる模様である。チューレには未回収の核爆弾がある」という報告がなされるのです。

このドキュメンタリーでは、海に落ちたのはプルトニウムを大量に積んだセカンダリーで、そのパーツの回収は出来なかった。としています。

これに対してデンマーク政府の見解は「爆弾はない。昔もなかった。米軍が探していたのは爆弾ではなかった」とされています。

また、日本でもブロークンアローが・・・。
1965年、空母タイコンデロガが起こした水爆搭載機水没事故です。沖縄本島から東へ320キロの海上で、水爆を積んだ戦闘機が海に落下したとされています。
日本には核を持ち込めないはずなのに・・・。これは、そのままにされているといいます。

アメリカは、ブロークンアローについて、国家機密だからか「どこで事故が起こったかは特定できない。パロマレスとチューレは例外である。」としています。そして、オバマ大統領はアメリカ大統領として、初めてプラハで「核廃絶」を訴えましたが、アメリカ人たちは、それはかなわぬ夢、脅威と恐怖の利便性は、一度手に入れてしまうと手放す勇気はないだろうと思っているようです。

ああ、どこの政府も隠し事がいっぱいです。

おまけに、暗号名を映画に使うって、アメリカどうよ!!苦しんでいる人達がたくさんいるというのに・・・(≧ヘ≦)。そこらへんはアメリカ?



本当に、核の恐怖に晒されていたことに背筋が寒くなりましたが、旦那曰く「知らされていないほうが、のんきに生きられるんじゃないの?」(〃゚д゚;A「そうかも・・・」

核の恐怖とはちょっと違うかもしれませんが、東北で起こった地震、原発事故、本当に大切なのはなんなのか、野田さんがんばってください。
私たちも、綺麗な地球を大事にしないといけませんね。まずはエコから?



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