日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

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元禄14年3月14日、江戸城・松の廊下で幕府を震撼させる大事件が起こりました。
赤穂藩主・浅野内匠頭が、高家筆頭の吉良上野介に斬りかかったのです。
前代未聞の刃傷事件・・・内匠頭は、即日切腹となりました。
これより四十七士が討ち入りを果たすまでが赤穂事件・・・この事件をもとに造られた芝居が「忠臣蔵」です。
四十七士の討ち入りまでは有名ですが、処分が下るまでの彼らのことはあまり知られていません。

元禄15年12月14日深夜、前日降った雪の中を・・・赤穂浪士四十七士が・・・!!
彼らの目的は、主君の敵・吉良上野介を討ち果たす事。
リーダーは大石内蔵助の合図で吉良邸に突入!!
その先陣を切ったのは、間十次郎と大高源五です。
これに他の浪士たちが続きます。
突然の襲撃に、上野介の家臣たちは応戦するも・・・周到な浪士たちにはかないません。
彼らの中で別格の働きをしたのが堀部安兵衛。
仇討で助太刀をした実戦経験を生かして獅子奮迅の働き!!
事前に手に入れていた図面で、おおよそが解っていた浪士たちは、吉良の寝所へ・・・!!
しかし!!そこはもぬけの殻でした。
敷いてあった布団はまだ温かく・・・まだ屋敷の中にいるはず!!と、台所の裏で物置のような部屋を発見!!
中を調べてみると人の気配が・・・!!
間十次郎が槍で一突き、あぶり出します。
吉良上野介!!
突入してから1時間余り・・・ついに浪士たちは本懐を遂げたのです。

翌15日早朝・・・浪士たち一行は、上野介の首を槍に括りつけると、かつての赤穂藩江戸屋敷の前を通って主君・浅野内匠頭の眠る泉岳寺へ・・・!!
その道中、二人の浪士が列を離れます。
吉田忠左衛門と冨森助右衛門です。
内蔵助から預かった口上書を手に、江戸幕府大目付・仙谷久尚の元へ・・・!!
その口上書には、浪士たちの想いがつづられていました。

15日8時ごろ・・・泉岳寺に到着!!
吉良上野介の首を井戸水で洗い清め、浅野内匠頭の墓前に供え、討ち入りの報告をしました。
討ち取った間十次郎が一番最初に焼香をし、大石内蔵助・・・と、」身分の高い順から焼香し、名乗りをあげました。
そして、皆、声を上げて泣き崩れたとか・・・。
一旦大目付・戦国の家の預けられた浪士たち。
その日の夕方・・・幕府から戦国家に預けられていた浪士たちを4つに分けて預けるという命令がい下りました。

①熊本藩細川家
大石内蔵助・冨森助右衛門・奥田孫太夫・片岡源五右衛門・潮田又之丞・矢田五郎右衛門・原惣右衛門・赤植源蔵・大石瀬左衛門・近松勘六・小野寺十内・間喜兵衛・吉田忠左衛門・磯貝十郎座衛門・堀部弥兵衛・間瀬久太夫・早水藤左衛門

②松山藩松平家
大石主税・千馬三郎兵衛・堀部安兵衛・大高源五・木村岡右衛門・貝賀弥左衛門・中村勘助・岡野金右衛門・菅谷半之丞・不破数右衛門

③長府藩毛利家
岡島八十右衛門・武林唯七・倉橋伝助・吉田澤右衛門・松村喜兵衛・杉野十平次・勝田新左エ門・小野寺幸右衛門・前原伊助・間新六

④岡崎藩水野家
奥田貞右衛門・間十次郎・三村次郎左衛門・矢頭右衛門七・芽野和助・松村三太夫・神崎与五郎・間瀬孫九郎・横川勘助

どうして四家に分けられたのでしょうか?
吉良側の反撃にあったとしても、四家に分かれていれば被害も分散する・・・と判断したようです。
吉良側の反撃とは、上杉の仕返しのことで・・・当時の上杉・・・米沢藩四代藩主は上杉綱憲は養子で、実は吉良上野助の長男でした。
そのため、赤穂と浪士たちに復讐するのでは??と、幕府が警戒したのです。
実際四家には・・・
「上杉がどう出るかわからないので、その覚悟で念入りに引き取るように」と、お達しが出ていました。
これを受け、浪士たちを引き取るときも、多くの藩士たちを目付の仙石屋敷に向かわせます。
その数、1400人!!
夕方から夜にかけての引き取りだったので、仙谷邸は多くの提灯の明かりでそれは祭りかと見紛うほどでした。
駕籠に乗せられ、各大名屋敷に向かう浪士たち・・・。
この時、どこに預けられたか?が、彼らのその後を大きく左右することとなります。

赤穂浪士たちは各大名家でどんな扱いを受けたのでしょうか?

松山藩松平家の対応
大石主税ら10人が預けられたこの家では、襲撃を警戒し、浪士たちの護送は鎖帷子を着た藩士たちが厳重に警護。
屋敷では、10人は武家長屋に一部屋ずつ別々に入れられ、昼夜問わず厳しく監視されました。
その後、一部屋に5人ずつ・・・
彼らは武家諸法度によると”徒党”を組んでの暴挙に当たります。
預かっている側にとっては”罪人を預かっている”ことになります。
幕府の威光に背く処遇をすれば、自分達にも類が及ぶのではないか?
それを恐れた松平家では、神経をとがらせた対応でした。
薬・・・着物・・・手紙を書く・・・
一々幕府に問い合わせ、徹底的に管理しました。

長府藩毛利家の対応
こちらの扱いもひどく、護送の駕籠には錠がかけられ、網まで被せて開けられないようにしました。
まるで天下の大悪党扱いです。
長屋に一部屋5人収容した挙句、話しができないように一人一人を屏風で仕切り、往来に面した部分には目隠しをしました。
あまりの厳しさから浪士たちからの嘆願があって、屏風だけは取り払われることとなりまりました。
幕府に譴責があると思われないように・・・。

岡崎藩水野家の対応
初日には、厚手の着物や絹の夜具、枕を・・・。
年を明けて寒さが一層ひどくなると、火鉢もなく、寝具も増えず、屋敷は牢獄のようで外から見えないように玄関には竹垣が二重に・・・。

三家の浪士たちに対する対応は、どこも厳しいものでした。

熊本藩細川家の対応は・・・
細川邸に深夜に到着した大石内蔵助らは、思わぬ厚遇を受けることに・・・。
他の三家では、せいぜい家老が出てきて対応したのに、深夜にもかかわらず、藩主・細川綱利自ら出向き、浪士たちを称賛します。
「忠義なる振る舞いに感じ入った!!」
浪士の討ち入りを称えた綱利は、幕府の許しがあれば彼らを召し抱えてもいいとさえ思っていました。
収容された場所も、書院の広間・二間をあてがわれ、さらに新しい小袖・上帯・下帯が用意されました。
時々取り替えられました。
必要があれば、手紙を書くことを許されました。
幕府を気にせず彼らの希望を最大限に叶えます。
寝る時も・・・寒がりの内蔵助は頭巾をかぶり、掛布団にこたつ布団で寝ていたと言いいます。
他の三家なら許されなかった好待遇でした。
食事も良かったようで、朝夕藩主と同じ二汁五菜という贅を尽くしたものでした。
酒も・・・飲めない者には甘酒、おやつや夜食も出されました。
しかし、大石内蔵助は・・・質素な食事にしてほしいと断ったと言います。
が・・・ますます料理は豪勢になっていきました。

浪士たちは、討ち入りをするまで、どのような生活を送っていたのでしょうか?
お家断絶となった藩士たちは、全員浪人となりました。
家禄も無くなり、生きていくだけで大変でした。
堀部安兵衛は、裏路地の狭い長屋暮らしを余儀なくされます。
得意の剣術指南で僅かな収入を得て、かゆを食べて飢えをしのぎました。
下級武士となると悲惨で・・・
小山田庄左エ門はあまりの極貧に、討ち入りを結構前に、仲間のお金と着物を盗んで逃げてしまいました。

箱根神社は、仇討で有名な曽我兄弟の墓がったとされる場所で、成功を祈願し、大石内蔵助が来ています。
ここに・・・大石内蔵助の描いた「預置候金銀受払帳」が残っています。
そこには、主君・浅野内匠頭の菩提を弔うために、寺に寄進した100両をはじめ、浪士たちの家賃や食費などが事細かく記されています。
そのそう支出額は、697両で、現在の価値にすると7000万円でした。
討ち入りまでに要した最も大きな出費は、旅費や江戸滞在費です。
次にかさんだのが、生活補助費です。
援助を受けたものの中には、内蔵助の右腕で浪士の中で3番目に高い禄高をもらっていた原惣右衛門もいました。
たくわえが底をつき、討ち入り資金から金10両を援助されています。
矢頭右衛門七は、禄高なしで、討ち入りの時17歳でしたが、困窮を極めていたので、生活が立ち行かなくなり3両を援助されています。
これに深く感謝した矢頭は、父の鎧を質に入れて江戸行きのお金を捻出。
討ち入りに参加しました。
赤穂浪士たちの生活は、それはそれは大変なものだったのです。

討ち入りまでの697両はどうして捻出したのでしょうか?
赤穂藩のお金を処分して、それを退職金にしました。
そのほか、瑤泉院(浅野内匠頭の正室)の化粧料が690両。
討ち入り寸前には十数両になってしまっていました。
その残ったお金も、槍12本、長刀2振、まさかり2挺、弓2張と、武器の購入に充てられました。
全くお金が足りなくなって、7両2分は、内蔵助の持ち出しでした。
祗園で豪遊している内蔵助のイメージは歌舞伎で、本当はつつまし生活をしていたようです。

お預けになった浪士たちは、四十七人ではありません。
46人・・・一人足りません。
それは、足軽・寺坂吉右衛門です。
吉右衛門は、四十七士の中で最も低い身分で、大石内蔵助を補佐した吉田忠左衛門に仕えていました。
実直なこの男は、浪士たちの連絡役を務めていました。
吉良邸討ち入り直後はその場所にいましたが・・・泉岳寺についてみると居なくなっていました。
一説には広島に向かったと言われていました。
そこには、浅野内匠頭の弟・浅野大学が預けられていて、討ち入りの報告に向かったのだとか。
京都にいる元赤穂藩医・寺井玄渓の元を訪ねたともいわれています。
内蔵助の密命を受け、赤穂藩の関係者に報告をしたともいわれています。
しかし、本当の理由はわかっていません。
が・・・吉田忠左衛門は
「あの者は不届き者である。
 二度とその名前を口にしないでほしい」と言ったとか。。。
つまり、裏切り者だった??
しかし、それは庇うためだったのかもしれません。
寺坂は討ち入りに参加したにもかかわらず、幕府に咎められることはなく・・・それは、仙谷氏の温情だったともいわれています。
切腹を免れた寺坂は、討ち入りから45年後、多くを語らないまま83歳で亡くなります。

裏切り者と言われ、浪士たちから反感を買っていたのが高田郡兵衛。
郡兵衛は槍の名手で、刃傷事件が起こるや、真っ先に敵討ちを主張した討ち入り派の急先鋒でしたが・・・
貧乏暮らしを心配した叔父からしつこく養子縁組を薦められ・・・
兄が口を滑らします。
「弟には、敵討ちの大望があるから、無理なのです!!」
討ち入りをばらしてしまったのです。
それを脅迫材料とした叔父は・・・ばらされたくなければ大人しく養子になれ!!と言いましたが・・・。
メンバーから抜けたいがための言い訳かも知れません。
自害もせず・・・討ち入り後、祝い酒を持って浪士たちを訪れますが、浪士たちは激怒!!
その後の消息は分かっていません。

このように、討ち入りに参加しなかった者たちへの風当たりは強いものでした。
彼らはどんな人生を送ったのでしょうか?
取り潰される前の赤穂藩には300人の藩士がいました。
その中で討ち入りした者たちは、正義のヒーローでした。
幕府が禁止したにもかかわらず、芝居が数多くつくられ、大人気でした。
それもあってか、討ち入りに関わらなかった者たちは、世間から冷たい目で見られました。
城代家老の大野九郎兵衛は、赤穂城明け渡しの混乱の中、国家老である内蔵助と意見が対立!!
その後、京都に移り住むも、困窮で餓死したと言われています。
その大野氏の一派の中には、家族から一家の恥と責め立てられ切腹したものも・・・。

討ち入り直前に、仲間の金と着物を盗んで逃亡した小山田庄左衛門のその後の人生も悲惨でした。
父・一閃は、息子が討ち入らなかったことを知ると、それを恥じて自決!!
本人は、偽名を使って医者となりましたが、討ち入りの19年後・・・使用人によって妻と共に殺害されるという謎の死を遂げています。
他にも参加しなかったからと、親類から絶縁された者、卑怯者の娘として離縁された者、仕官先が見つからない息子・・・世間の冷たい仕打ちにも・・・
食べ物を売ってもらえなかったり、近所付き合いを断られるなどあったようです。
赤穂の義士たちの名声が高まるほど、参加しなかった者に非難が集中しました。

赤穂の義士たちは、お預かりになってから1か月たってもお沙汰がありませんでした。
浅野内匠頭は、即刻切腹だったのにどうして・・・??
そこには、迷える将軍・綱吉がいました。
46人のそのほとんどが罪人と扱っていましたが、世間は圧倒的に彼らの見方でした。
庶民たちは、四十七士をヒーロー扱いし、軽い処罰を望んでいました。
討ち入りからひと月立っても、彼らに沙汰はありません。
幕府の裁定は紛糾していました。
討ち入りを主君への「忠義」と取るか、悪までの法を犯した「徒党」と取るか??

綱吉は・・・
「彼らの討ち入りは、主君に対する忠義故の行動。
 死なせるには惜しい。。。」
なんとか助けてやりたいと考えていましたが・・・
しかし、刃傷事件の時、浅野内匠頭を即日切腹を下していました。
大名に対してこの裁定は、前代未聞の厳しさでした。
「上野介は殿中を憚り手向かいをしなかった事、殊勝である」と、無罪放免にしたのです。
この裁定に赤穂浪士たちは・・・どうして喧嘩両成敗にならないのか??と!!
上野介だけ処分がないのは納得がいかない・・・その不満が募って、自分たちの手で討ち入りを決行していました。
浪士たちの行動を許せば、喧嘩両成敗をしなかったことへの不満を認めたことになり、幕府の面目が潰れてしまうと綱吉は悩んでいたのです。
そこで、儒学者・林信篤に相談すると・・・
「主君の意志を継いだものとはいえ、天下の法を破ったことに違いはない。
 これは、道理に背くことなので、これを捕らえて誅することは国家の法を明らかにするものだ。」と、返ってきました。

同じく荻生徂徠も・・・
「吉良が浅野を殺したわけではない以上、吉良は浅野の仇ではない。
 浅野の行動は、一時の怒りによる不義であるから、浪士たちの行動も義とは言い難い。」

困った綱吉は、助命嘆願の発言を期待し、輪王寺門跡・公弁法親王に相談します。
「命を助けて後、将来を誤るようなことがあればよろしくない。」

死罪より選択肢はない・・・??
綱吉は苦渋の決断をします。
元禄16年2月4日・・・四十六士に切腹の命令が・・・!!
武士にとっては名誉の死・・・将軍綱吉のせめてもの温情でした。

赤穂浪士たちの切腹の儀が各大名屋敷で執り行われることとなりました。
細川邸で、最初に切腹したのは大石内蔵助、畳3畳の最高の格式で切腹が許されました。
内蔵助は・・・

 あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる
         浮世の月に  かかる雲なし

と詠みました。

46人の切腹にかかったのはおよそ4時間で、全員が見事切腹して果てました。

その日・・・吉良家にも処罰が下っています。
吉良上野介の孫で吉良家嫡男・吉良左兵衛は、討ち入りを防げなかったことで、領地召し上げのうえ高嶋藩諏訪家にお預けという厳しい処分が。。。
左兵衛は生きる望みを失い3年後・・・21歳の若さで亡くなります。
これにより吉良家は断絶・・・遺体の引き取り手もいませんでした。

赤穂浪士たちの家族は・・・
当時は連座制で、三親等までが処罰の対象でした。
が、幕府は女性には処分を下さず、男子は15歳以上のもの4人だけを伊豆大島に島流しにしました。
まだ幼い男の子は15歳に達し次第遠島の処分がなされました。
宝永3年には、桂昌院の一周忌で大赦があり、流罪になった4人のうち生き残っていた3人が帰り・・・
宝永6年には綱吉が亡くなったことによる大赦で、遺児全員が許されました。

世間の評判を気にした幕府が、赤穂の家族に配慮した結果でした。
そして、浅野家、大石家は・・・??
浅野家は、500石の旗本としてお家を再興しています。
大石内蔵助の家族は・・・
妻・理玖は、浅野家本家で厚遇を受け、68歳で亡くなっています。
内蔵助との間の5人のうち、三男・大三郎は、広島藩・浅野家に召し抱えられ、父・内蔵助と同じ1500石の家臣となりました。
赤穂浪士たちが討ち入りを決行し、忠義を尽くしたからではないでしょうか?

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直虎の意に反して、井伊の名で徳川に仕えた万千代は、小姓となり、遂には初陣を・・・!!
と、頑張って出世しています。

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戦に出ることを心配する直虎。

万千代の初陣は、武田が治める駿河の田中城攻めでした。
ついて行ったものの・・・みんなの色小姓扱いにちょっとゲンナリ・・・な万千代。

田中城攻めにはせ参じる信康!!

軍事も聞けず、部屋で身の回りのお世話をしながら待っている万千代は、またもや何か考えているようで・・・??

「戻ったら、殿に元服を願い出た方が良いかもしれぬ。
このまま、色小姓扱いされて追っては、寝所に閉じ込められ、俺の徳川勤めが終わる気がする・・・。」by万千代

そうそう、本当は色小姓じゃないもんね、万千代。
そこへやってきたのは、信康&お付きの近藤。
信康にも、「お主らまだ、前髪か・・・」と言われてしまって・・・。
元服できるように口添えしてほしいと頼むものの・・・
信康にしても父は、万千代たちを戦いには出したくないのかもしれない・・・と言われてしまうのでした。

戦に長けた者は他にもいるので、それ以外のことを求められているのでは??と、ヒントのようなものをもらいました。
武功でなく・・・なにを・・・??

ある夜・・・万千代は、殿の寝所に忍ぶ者を見たかも??気のせいか・・・??
翌朝・・・殿にも「気のせいではないか?」と言われてしまいます。

戦いに連れて行ってもらえるように願い出るものの・・・
酒井、本多・・・みんなに昨夜の不審者を見つけておいてくれ・・・。
と、体よく断られてしまいました。
そう・・・万千代は、4年も小姓のままだったのです。

万千代は、陣中すべてを見廻って、罠を作り出しました。
果たして・・・??

疲れて殿の寝所で寝てしまった万千代・・・殿に起こされてもびくともしません。
薬湯を作ってくれと頼まれるも・・・眠ったまま。。。
薬を作れる者を呼んできます。と、戻った万福が連れて来た近藤・・・??
実は万千代は起きていました。

殿に差し出された薬湯を近藤に毒見をするように言うのでした。

「ただの養生薬じゃ・・・
 よいではないか。
 ほれ、毒見してみよ。
 どうした??なぜできぬ・・・??」と。。。

一瞬で近藤は薬湯を投げつけて斬りかかろうとしました。
殿をかばった万千代!!
肩に傷を追ってしまいました!!

「刀を捨てよ!!
 捨てよと言うに・・・!!」by万千代

曲者を捕らえた!!
刀傷を負ってしまった万千代ですが・・・。

「万千代・・・辛いとこすまぬが、曲者の詮議をせねばならん・・・
 あの者のたくらみにどうやって気付いた・・・??」by榊原

「薬箱の留め紐の結び方が違っておりました。
 留め紐は必ず蝶結びにしておりまして、それが、なぜか片結びになっておりました。
 誰かが薬箱に触れたのだと・・・。
 調べてみましたところ、やはり、混ぜ物がしてあり、これは何者かが私が殿を殺したということにして、殿を亡き者にしてしまおうとしておるのだと気づきました。」by万千代

と、何とも細やかで聡明な万千代です。

そう・・・武田に通じていたのか・・・??

「とにもかくにもご苦労だった。
 暫し休むがよい。」by榊原

と、答えたものの・・・痛みで気を失ってしまった万千代でした。
って、ちゃんと答えるところまで頑張るところが万千代の気の強いところでしょう

祐椿尼さまが病気に・・・

naotora5














みんな心配しています。

が・・・そんな井伊に朗報が・・・??

万千代が今回の手柄で1万石を拝領することとなったのです。

「なんじゃ・・・不服か・・・??」by家康。

不服なことなど全くなく、ますます奉公に励むことを誓うのでした。

万千代から知らせが来ず、しのから聞いたおとわは、近藤殿に申し開きに行くことに・・・。
帰ってきたら・・・万千代が井伊谷に来ていました。
おばば様に来てほしいと直々に頼まれたので、来ないわけにはいかないという万千代。
ぎすぎすしたおとわとの関係ですが・・・??

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この先はどうするつもりじゃ?と、おとわに聞かれます。
要らぬ波風を立てないでほしいとも・・・??

「殿には誇りと言うものがござらんのか??
 近藤は但馬を殺し、ここをかすめ取った当の本人ではないか!!
 井伊のものであったものを、井伊が取り戻して何が悪い!?」by万千代

取り戻したとして・・・何がしたいのか?と問われる万千代。
ないのならば、褒められたいだけなのか?と言われてしまいます。

「それの何が悪い?」by万千代

「悪うはないが、くだらぬ。」byおとわ

武家とはそういうものではないのか?
という万千代ですが・・・くだらぬ連発です。

「そのくだらぬ事すらできなかったのはどこのどなたじゃ!!
 まるでくだらぬ事から、あえて自らは身を引いたようなおっしゃりようじゃが、殿は出来ぬ事から逃げ出しただけではないか!!
 戦いから降りた者が、戦いに口を出すなどもってのほか!!」by万千代

「逃げて初めて見えるものもあるのだ!!」byおとわ
 
「負け犬がたわごとをほざくな!!」by万千代

「さような考えなら、家督は決して譲らぬぞ!!」byおとわ

「望むところです。
 ならば、力づくで引き剥がすまで!!」by万千代

結局、おばば様が作ってくれた機会も仲直りには繋がらなかったのです。

それを知らずに喜ぶ母・・・。

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出家をさせたり、男の代わりに家督を継がせたり・・・
本当に心が痛い日々だったのでしょう。
自分なら我慢できても子供のこととなると尚更。。。

母としての苦悩をず~っと持ち続けていた祐椿尼だったのです。

亡くなった後には皆への文が残されていました。


殿の元へ帰ってきた万千代・・・
いよいよ1万石を拝領で、升席に加えてくれるようですが・・・
またもや家臣のみんなは、寝所で手柄を立てたと・・・変な噂が・・・。

naotora













「井伊万千代、此度かような寝所の手柄にて、升席を汚すこととなりました。
 以後、お見知りおきを・・・!!」by万千代

って、啖呵きってカッコいいな!!万千代!!

陽が射せば・・・必ず影が・・・
その影は、万千代の手柄の先・・・
徳川家最大の悲劇が待っていました。


ということで、万千代が主人公になってから、とってもサクサクとお話が進んで楽しいです
まだまだ出世する万千代・・・いえいえ、直政をどこまで見ることができるのかなあ~~~??

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一期一会を始めて書物に記したのは、徳川幕府の大老・井伊直弼。
幕末の混乱期に、多くの人間を死に追いやった男です。

大老という地位に上り詰め、安政の大獄で多くの命を奪った男・・・
そこには、冷酷な独裁者なイメージが付きまといます。
しかし、日本を救った人物??
もし、直弼が開国を決断しなければ、西欧列強に占領されていたかもしれない・・・??

冷酷な独裁者か?先見の明のある英傑か??

彦根城のすぐそばに、邸があり、そこで井伊直弼は青年時代を過ごしました。
その屋敷は「埋木舎」とよばれ、自らを埋もれ木と表し、世に出ることなく朽ち果てるという意味を込めたものです。
どうして直弼は自らを埋もれ木に例えたのでしょうか?
井伊直弼は、1815年彦根藩第11代藩主・直中の子として生まれます。
井伊家・・・彦根藩の初代は直政で、直虎の養子とされています。
直政は、徳川四天王として活躍し、その功績として彦根藩を任されました。
そして、幕府において代々重要な役職を担うこととなります。
そんな名門でも、直弼は14男。
将来、彦根藩主の見込みはありませんでした。
それでも、城内にある御殿で何不自由なく暮らします。
1831年、17歳の時に父が亡くなります。
すると境遇が一転・・・末っ子の弟とふたり場外の屋敷に移されて質素な生活に・・・。
井伊家では、世継ぎ以外は他家の養子になるとされ、僅かなあてがい扶持しかもらえなかったのです。
そんな直弼に・・・1834年、20歳の時に養子縁組の話が舞い込みます。
しかし、待っていたのは厳しい現実で・・・養子になったのは弟でした。
直弼は、ただ一人「埋木舎」に取り残されることとなりました。
7万石の世継ぎとなった弟・・・直弼は300俵のあてがい扶持で生活し続けるしかありませんでした。
そんな直弼が、自らの決意を語ったものがあります。

”世を厭うにもあらず
  望み願ふこともあらず
    ただうもれ木の籠り居て
       なすべき業をなさまし”

なすべき業・・・それは、幅広い分野に・・・
武芸では居合の新派を創立。
焼き物を手掛け、能や狂言においても自ら作品を作ります。
そして、最も力を入れたのが茶の湯でした。
技や姿かたちを重視する風潮が強い中、禅に通じた直弼は内なる心を重視・・・一期一会の言葉を残します。
埋もれ木のような生活を送りながら、柳の木に安らぎを求めます。
和歌の題材にしたり、自分の雅号を”柳王舎”と名乗りました。
大元の幹さえしっかりしていれば、柳葉は時流に流されても原点さえ失わなければ・・・

直弼のもとに一人の女性が現れます。
村上たか・・・直弼より6歳年上で、京都・祗園の芸子でした。
直弼がたかに送ったラブレターも発見されています。

 名もたかき
   今宵の月は 
      みちながら

 君しをらねば
   事かけて見ゆ

孤独の時代の直弼にとっては、本当に大事な花だったのです。
17歳で始まった埋木舎での生活は、その後15年続きました。
井伊直弼32歳の時大きな転機が・・・
藩主・直亮の後継者となっていた11男が病気で亡くなりました。
すでに、他の者たちは養子に出されていたので、一人残った直弼が彦根藩の世継ぎとなったのです。
あてがい扶持300俵から彦根藩30万石の世継ぎとなったのです。
大出世でした。
ついに苦労が報われた直弼・・・
「此度の昇進は尋常なことではない。
 実に不思議なことだ。」
世継ぎとなった直弼は彦根藩を代表し、江戸で暮らすことに・・・
ところが、相変らずの貧乏暮らし・・・
藩主である兄・直亮に良く思われていなかったのです。
徳川家第11代将軍家斉の法事の際には、着る者がなく仮病で欠席!!
それでも直弼は、物事の筋を通す人間として、幕府内で評価をあげていきます。

この頃、後の直弼の決断に大きな影響を与える出来事が・・・
外国艦船が増加したことを受けて、彦根藩は、三浦半島の沿岸警備を担当!!
しかし、その実態に直弼は衝撃を受けます。
天下泰平が250年間続く中、武士たちの士気は下がり、警備体制はお粗末なものとなっていました。
しかし、世継ぎという立場の直弼にはどうすることもできませんでした。
世継ぎとなって4年・・・36歳の時に兄が亡くなります。
直弼は、13代藩主に!!
その直弼を支えたのは、家臣の儒学者・中川禄郎でした。
中川の教えを元に、家臣や人々の声に耳を傾けていきます。
”いのちの限り、家中・領内の者どもを大切にする
 私は士民を頼り、士民は私を頼る
 上と下が水と魚のように一体となり、歴代藩主の栄名を汚さないようにしたい”

直弼はいくつかの前例に基づいて前藩主の残したお金を人々に分け与えます。
その金額、15万両!!それは、彦根藩の1年間の収入に当たりました。
自ら領内をくまなく視察。
生活困窮者には食べ物を与え、病気の者には同行の医者の診察を受けさせました。
この直弼に感動したのが・・・後に直弼の命で処刑されることとなる吉田松陰です。

彦根藩主となって3年・・・39歳の時、井伊直弼は思いもよらない出来事・・・黒船来航!!
日本に開国を求めるアメリカ!!
この時、直弼は開国止む無し!!という方針を打ち出します。
どうして・・・??
黒船が現れたのは、彦根藩が警備を担当していた三浦半島でした。
その軍事力のすさまじさは、直弼にも伝えられます。
開国を迫るアメリカにどう対処するのか・・・??
家臣たちに意見を求めます。
その多くが開国に反対する中・・・開国に賛成したのは、儒学者でもあった中川禄郎でした。
儒学者として蘭学者と交流のあった中川は、世界情勢にも精通していました。
沿岸警備のお粗末さを痛感していた直弼は、中川の話を聞いて今戦っても勝ち目はないと心を決めました。

「しばらくは戦争を避け、貿易を行うべきである。
 勇威を海外に振るうことができるようになれば、内外共に充実し、かえって皇国安泰になるはずである。」

現状では軍事力、国力共に圧倒的に負けている・・・
一旦開国し、海外から知識・技術を取り入れ、富国強兵する必要がある
海外と対等な関係になること・・・それから海外へ雄飛する!!

いったん開国するしかないという顔助の考え・・・しかし、他の大名の賛成を取り付けるのは困難で・・・
特に強硬反対していたのは前水戸藩主・徳川斉昭、幕府の海防参与を務めていました。

「外国と戦うことを決意の上 
 武士はもちろん、農民・町人にも覚悟を求め、日本の心力を一つにすべきである!!」by斉昭

水戸藩といえば徳川御三家の一つで、大きな影響力を持つ斉昭は敵に回すと恐ろしい存在でした。

「考えていたよりも難しい事態となり、この先どうなるか心配である。
 水戸殿に睨まれているので、どんな災難が待ち受けているかわかったものではない。」by直弼

結論だ出ないまま・・・1856年、直弼42歳の時にアメリカ総領事、タウンゼント・ハリスが開国を迫ってやってきました。
そこには、欧米列強の植民地争いがありました。
イギリス・フランスが清との戦争に勝利したことによって、アジアでの拠点確保をしたいアメリカが焦りを感じていたのです。
開国止む無しと考える大名が増えてくる中、徳川斉昭らは反対!!
井伊直弼は、開国を説得する為に孝明天皇の勅許を求めます。
勅許は得られると思われましたが、天皇からの返事は・・・

「御三家以下 諸大名で再度衆議した上で、改めて言上するように。」by孝明天皇

戦えともいわない、協約調印をしろともいわない朝廷・・・。
事態が緊迫する中、大老に就任する直弼。

「国家の危機につき、粉骨砕身の覚悟で忠勤に励めとのこと ありがたく思う。」

大老になったとはいえ、独断で物事を進めようとはせず、反対派を説得します。
しかし、斉昭は・・・
「万一、外国の圧力に押され、鎖国を辞めるというのであっては、朝廷・徳川家に対して忠義を尽くしたとは言い難く、国の行く末に関わる重大ごとである。」by斉昭

そんな中、ハリスがこれ以上待てないと忠告してきました。
苦渋の決断をする直弼!!
「なるべく引き延ばし・・・その節は致し方なし!!」by直弼
結局、勅許も得られないまま、反対派も説得できないまま・・・1858年、44歳の時に日米修好通商条約成立!!

「もし外国と戦って敗北し、侵略されることになれば、これ以上の国辱はない。
 しかしながら、勅許を待たずして条約を結ぶという重罪は、甘んじて自分一人で受ける決意である。」by直弼

ところが近年、この言葉が改ざんされていたことがわかりました。
今までの「公用方秘録」は、明治になってから根本的に改ざんされたもので、井伊家にとって都合の悪いことが書いてある唯一残された資料です。
条約締結の夜に側近としたやり取りには直弼が本音を漏らしていました。
「諸大名の意見をまとめずに調印したとなると、天皇の逆鱗にふれることになります」by側近
「いかにもそこには考えが及ばなかった・・・無念の至り・・・。
 このうえは、大老を辞職するより致し方なし。」by直弼

日本画鎖国している間に、世界では産業革命→蒸気船→軍事力の強大化
イギリスは強大なインドを軍事力と科学力で植民地にしてしまいました。
インドで栽培したアヘンを中国に売りつけ、アヘン戦争!!抗議してきた中国を戦力で叩き潰します。
戦争の結果、香港がイギリスに割譲。
その尻馬に乗ったのがフランスで、アロー戦争!!
その頃日本では、北方にロシアが・・・
そしてアメリカは・・・アメリカにとっては、太平洋を渡ってアジアの入り口となる日本に開国し、貿易の基地にしたかったのです。

日米修好通商条約締結から3か月・・・
井伊直弼は安政の大獄に乗り出します。
この大弾圧は、後に自らの死を招きます。
どうして安政の大獄を行ったのでしょうか?
開国問題で揺れている頃・・・徳川斉昭と別の問題でも対立していました。
将軍継嗣問題です。
時の将軍第13代徳川家定には子供がいませんでした。
そこで後継者として直弼が推したのが家定と近い紀州藩・徳川慶福でした。
一方斉昭は、自分の息子で一橋の養子となっていた一橋慶喜を。。。次の将軍に据えようと画策していたのです。
この争いに勝つために・・・一橋派の役人を徹底的に左遷!!
優秀な開国の交渉担当者すら左遷!!
結局、この争いは、直弼が大老に就任したことで決着!!
将軍継嗣は紀州藩の徳川慶福でした。
今や、直弼の政治は盤石になったと思われましたが・・・
その基盤を揺るがす一通の書状が・・・”戊午の密勅”です。
記したのは天皇・・・直弼が独断でアメリカと条約を結んだことを非難するものでした。

「幕府の独断で条約調印を行ったことは、軽率な取り計らいである。
 これからは、御三家を始め、諸大名で衆議して事態に当たるように。」by孝明天皇

直弼が衝撃を受けたのは・・・内容もさることながら、これが対立する水戸藩に先に送られたことでした。
幕藩体制の下では、朝廷の意向は幕府が受け止め各藩に伝発する決まりでした。
それが破られるのは、前代未聞のことでした。
このままでは幕府の権威が・・・!!と恐れる直弼。

「天皇の威光をかさに着て、水戸が権威をつけようと企てるのを許せば、国家の争乱を招くことになる。」by直弼

1858年9月3日、直弼は、戊午の密勅を出すように天皇に働きかけた人物を徹底的に弾圧することに・・・!!
憎むべき悪人たちを厳重に取り調べし、悪だくみを明らかにした暁には、天皇を思うままに操る役人を取り除けるはずである。
安政の大獄が始まりました。
関係者を探し出すにあたり、京都で暗躍した女性が・・・かつての恋人・村山たかでした。
直弼が藩主になってから別れていたものの、影で直弼を支えていました。
その後、安政の大獄における弾圧の対象は、密勅の関係者以外にも拡大。
かつて、直弼を称賛した吉田松陰も犠牲に・・・
この弾圧によって直弼は、赤鬼と呼ばれるようになりました。

こうした直弼の行動に水戸藩の武士たちは激怒!!
その時、徳川斉昭が思わぬ行動に・・・怒る藩士たちを抑え込みます。
水戸藩士たちは、藩外でも活動を始めていて、斉昭も止める方法が無くなってきていました。
これ以上、過激な行動を起こすな!!
この意見に不満を抱いた者たちは、水戸藩を脱藩!!
江戸へと向かいます。
例年なら桜の咲き始める頃・・・江戸では季節外れの雪に覆われていました。
そして・・・桜田門外の変!!
桜田門から江戸城に入ろうとしていた直弼は、水戸脱藩浪士たちに襲われます。
1860年3月3日・・・井伊直弼死去・・・享年46歳でした。

この日、直弼の元には、命の危険を知らせる手紙が投げ込まれていました。
しかし、それを誰にも告げず、警備を増やすこともありませんでした。

「従士の数は、幕府の定めるところであって、大老自らこれを破っては他の大名に示しがつかない。
 人にはそれぞれ天命があり、刺客が余を倒そうとすれば、たとえいかほど用心しても隙は生まれるだろう。」by直弼

季節外れの雪の中・・・桜田門外で46年の生涯を閉じた井伊直弼。
死の前日に詠んだ歌は・・・

咲きかけし
  たけき心の 花ふさは
ちりてぞいとど 香の匂ひぬる

道半ばではあるが、国のための必死な思いは、いつの日か人々につたわるであろう 

桜田門外の変によって、幕府の権威は大きく失墜しました。
薩摩、長州を中心とした討幕が加速します。
将軍・徳川慶喜は、大政奉還によって政治の実権を朝廷に返還。
260年にわたって井伊家が支え続けてきた徳川幕府の時代は終わりました。
そして、井伊直弼は明治新政府から悪人のレッテルをはられることとなります。
しかし、明治時代の終わりには、直弼を再評価する動きも・・・
直弼の決断によって開港した横浜。
その開港50年を記念して直弼の銅像が建てられました。
日本の行く末を案じ続けた直弼・・・その後の日本の歩みをどう見ているのでしょうか?


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今からおよそ740年前の、鎌倉時代中期・・・
1274年、今の暦で言うと11月の今頃・・・日本を未曽有の国難が襲いました。
蒙古襲来・・・元寇です。元とは、チンギス・ハンによって建国されたモンゴル帝国で、孫・フビライが二度にわたって日本に攻撃を仕掛けてきたのです。
この国難をどう乗り切ったのでしょうか??

「蒙古襲来絵詞」には、モンゴル軍と戦う竹崎季長がいます。
領地を持っていなかった貧しい武士が、この絵巻物を作らせました。

(博多)息の浜に(蒙古の)軍勢が数知れず現れた

と始まるこの絵巻物。

モンゴル軍、その数3万!!
海を渡ってやってきたモンゴルの大船団およそ900隻は、対馬、壱岐を襲うと、
1274年10月20日に博多湾に侵入!!
志賀島、今津に上陸し、博多に侵攻してきました。
これが文永の役です。

九州の御家人たちを集め、襲来に備えていた幕府軍の数はおよそ3000。
モンゴル軍の1/10の兵力しかありません。
主力は博多の筥崎宮におかれ、その対象は、幕府の有力御家人・武藤景資です。
その対象の命よりも先に動いたのは・・・肥後国の御家人・竹崎季長でした。
季長は武藤に願い出ます。

「我ら勢は僅かに五騎です。
 これをもって御前の合戦にて敵を追い落とす力はありません。
 故に、一番駆けをいたしたく、是非とも私の手柄を鎌倉殿のお耳に入れていただきとうございます。」by季長

生きていたなら必ず報告しようと、景資は約束。
この時の鎌倉殿とは、執権・北条氏でした。

季長はどうして一番駆けを希望したのでしょうか?
季長は、所領争いの裁判に負けて、没落していました。
今こそチャンス!!と、手柄をたて、恩賞を得たいと思っていました。
幕府への忠義を・・・覚悟を・・・!!
「武士の道は、先陣を切ることに意味あり!!」by季長
季長は、武士の名誉である一番駆けを名乗り・・・博多のモンゴル軍をめがけて僅か五騎で、果敢に突っ込みます。
そんな季長たちを雨のような矢が襲います。
季長の馬にも矢が・・・!!もはやこれまで??

「我こそは、肥前の白石通泰なり!!」

季長の後に陣を出た白石通泰の軍勢に救われました。

この時陣が置かれていた筥崎宮も、圧倒的なモンゴル軍の兵に押されていました。
観たこともない兵器に苦戦を強いられます。
てっぽう・・・鉄や陶器で作った容器に火薬がは入っており、火をつけて投げて爆発させるのです。
中に詰まった鉄の破片が飛び散る!!
このてっぽうで、多くの兵が犠牲に・・・。
その上、モンゴル軍は銅鑼を鳴らしながら前進!!
その大きな音に、馬が怯んで前に進まなくなってしまいました。

武器も違う・・・戦い方も違う・・・
幕府側は、名乗りをあげての一騎打ちでしたが、モンゴル軍は名乗りも揚げない・・・
集団戦で有無を言わせず雨のような矢を・・・!!
博多に上陸したモンゴル軍は、住民を虐殺!!家に火をかけます。
武士たちは征服されることを覚悟し、嘆いたといいます。
ところが・・・一夜明けると・・・博多の海からモンゴル軍の船が消えていました。
高麗の資料によると、夜に暴風雨があったとされています。
甚大な被害が出る前に・・・嵐が来る前に撤退したというのです。
この出来事は、「神風が吹いたおかげ」と、語り継がれていきます。
この時期、台風の可能性は低く、爆弾低気圧や寒冷前線の突風の可能性があります。
が・・・神風は吹かなかった??

嵐でないなら、モンゴル軍はどうして撤退したのでしょうか?
モンゴル軍は、大宰府を押さえて日本の霊力を奪う計画でした。
残って、大宰府を制圧したかったのですが、留まることができない理由がありました。
秋の終わり・・・冬が目前に迫っていました。
冬になると朝鮮半島の方から風が吹きます。
当時の技術では、風上に向かって進むのは困難でした。
そのためモンゴル軍は帰国できるうちに退却したのです。

モンゴルに征服されずになんとか国を守った幕府・・・
そこに喜んでない男が一人・・・一番駆けを買って出た竹崎季長です。

この戦いで馬を失い、自らケガもした季長・・・
しかし、半年たっても恩賞が出ていませんでした。
鎌倉幕府と御家人の関係は・・・
御家人は、兵役や京都・鎌倉警備といった奉公をし、幕府が所領を安堵したり土地の給付をしたりする御恩で成り立っていました。
どうして幕府は恩賞を出さなかったのでしょうか?
外国との戦いで追い返しただけ・・・幕府としては、与える土地がなかったのです。
一生懸命奉公してタダ働き・・・??
タダ働きは御免だ!!と、鎌倉に直談判に出かけます。
しかし、みすぼらしい御家人に取り合ってもくれません。
諦めきれなず、鎌倉中を二か月駆け回り・・・恩沢奉行の足立泰盛が会おうと言ってくれました。
季長は、喜び勇んで屋敷に向かいます。
敵の首をとってはいない・・・恩賞をもらうに値しないといわれてしまった季長・・・。

「私が申し上げたいのは一番駆けの手柄のことです。
 御大将である武藤景資殿にお確かめになってください。

 もし、私が申す一番駆けが偽りだったならば、この首をお取りください!!」by季長

自分の首をかけての直訴です。
この熱意に負け、肥後国海東郷の地頭に任ぜられ、褒美に馬をもらうのです。
19年後・・・季長は、「蒙古襲来絵詞」を描かせます。
そこには、一番駆けを認めてくれた武藤景資と恩賞を受けられるように取り計らってくれた安達泰盛の姿がありました。
しかし、これが描かれたとき、二人は権力争いに巻き込まれ、無念の死を遂げていました。
この絵巻物は、季長自身の功績を残すという意味だけでなく、恩人たちの非業の死を回想し、弔う意味が込められていました。



二度にわたる元寇のきっかけになったのは、モンゴル襲来の6年前に届けられた国書でした。
当時のモンゴルは、第5代皇帝フビライが、圧倒的な軍事力で勢力を拡大中。
そんな大国からの国書には・・・
「朕の意志を知らせる。
 いまから親交を結ぼうではないか。

 聖人である朕は世界を一家と考える。
 親交を結ばないのは一家とは言えないことである。

 朕も軍事力は使いたくない。」

と書かれていました。

モンゴルは、日本との通商を求めてきたのです。
国書の最後にある「不宣」とは、同等の者に対する言葉・・・
ここだけ見れば、同格に見ているように思われますが・・・
日本を下にみた脅しが含まれていました。
これを受け取った幕府は、朝廷にこれを報告!!

「国家の珍事大事也
  万人驚嘆の他なし」

大事件にただただ慌てるばかり・・・結局、返事を送らないことにしました。
日本から無視されたとフビライは激怒!!
支配下にあった高麗に一万の兵を集結!!
およそ1000隻の船を・・・日本に兵を送る準備を始めます。
一方で、国書を再び届けさせます。
モンゴルは、日本と通商をしたい理由がありました。
火薬を作るためには硫黄が必要で・・・中国は火山な少なく、硫黄の入手が困難でした。
火山国日本は、沢山硫黄がある!!
それ以外にもモンゴルが狙っていたのが・・・
フビライは日本を支配下におこうと思っていました。
日本は南宋と友好関係にあり、硫黄を大量に輸出していました。
南宋を攻めあぐねていたフビライは、硫黄の輸出を禁じることで、南宋の勢いを削ごうと考えていました。
日本存亡の危機!!
この難局に立ち向かったのが、鎌倉幕府8代執権北条時宗です。

時宗は、モンゴルから1度目の国書が送られてきたときに18歳で8代執権となりました。
そして、2度目の国書を受け取った時宗の決断は・・・無視でした。
1度目も2度目も無視・・・!!
朝廷は戦争を避けたかったので、返書の文案を作成していました。
結局、時宗に却下されてしまいます。

日本と宋は、300年にわたって国交を続けていました。
モンゴルに返書をすれば・・・宋を攻めろ!!ということになってしまう・・・。
それは出来ない!!
友好国である宋を裏切ることはできない!!
時宗は頑なまでに強硬路線に!!

フビライは、3度目の国書で日本を非難し、京都を占領する!!と、書かれていました。

強硬路線には、南宋から来た僧侶たちが関係していました。
幕府の外交顧問だった彼らは、自分たちの国を侵略しようとするモンゴルに強い反発と嫌悪感を持っていました。
時宗は、彼らから侵略の脅威・・・その非道ぶりを聞くことで戦うことを決めますが・・・反対しているものもいました。
そこで、挙国一致をめざし、反幕府派を一掃!!
準備を始めました。
九州だけでなく、東国の御家人に対しても九州下向をさせます。
博多と中心に異国警固番役を置き、敵を迎え討つ支度を!!
モンゴル軍を容易に上陸させないために、博多湾沿岸20キロにわたって防塁を作らせます。
防塁の高さは2.4m、幅は3.3m!!
建設には、薩摩、筑後などの九州各地の武士たちが参加。
自分達が作った防塁を守るように指示する時宗。
そんな中、1275年、またもモンゴル使節団が国書を携えてやってきますが・・・
時宗は鎌倉に呼ぶと、斬殺してしまいました。
それを知ったフビライは激怒!!
この頃フビライは、南宋を滅ぼし中国を支配!!
高麗に加え、属国となった南宋にも兵を集めさせ船を建造させるなど、二度目の日本襲撃の準備を加速させます。
南宋が滅んだ知らせは時宗にも届いていたはず・・・
時宗は禅寺・建長寺に・・・そこには、南宋滅亡をその目で見て来た無学祖元がいました。
そんな祖元の元に時宗は通い、心を沈めるために血で経文を書き、必勝を祈願したといいます。
祖元は「莫煩悩」・・・煩悩することなかれ・・・という三文字を与えます。
悟りきれない時宗を奮起させます。

モンゴル連合軍14万の兵を招集したフビライ!!
この大軍勢を二手に分けて進軍させます。
高麗から出撃した高麗とモンゴルの連合軍・東路軍4万。
もう一つは中国南部から出撃した南宋の軍勢・・・江南軍・10万!!
両軍を壱岐で合流させ、一気に日本を攻める予定でした。
先に域に到着したのは東路軍。
ところが、1か月たっても江南軍が来ません。
どうして・・・??
江南軍の将軍が病気になっていたから??
それは、フビライに対する言い訳で、戦いの準備が間に合わずに出撃できないでいたのです。
さらにひと月立っても江南軍は現れません。
季節は真夏に・・・暑さで東路軍では疫病が蔓延・・・3000もの兵が命を失いました。
食糧も着きかけたその時、江南軍が到着!!
全精力が集結し、1281年7月30日夜・・・博多に向けて出撃の号令が!!
そんなモンゴル軍を大嵐が襲います。
船は大破し、ほぼ全滅!!今度こそ神風・・・??
今度こそ台風・・・神風は吹いたのです!!

この時の朝廷は、祈祷僧700人を石清水八幡宮に集め、7日7夜にわたり祈らせたといいます。
大風によって敵船が沈没したと聞くと、これぞ祈祷のおかげである!!
神が龍に変化し、モンゴル船を飲み込み打ち破る様を絵に書かせます。
文献に神風という言葉が出てくるのは、公安の役から30年後・・・鎌倉時代末の文書だといわれています。

元寇の大嵐は、日本は神の国との古代史層と重なり、神風と呼ばれるように・・・
その後神風は、太平洋戦争中軍部などに利用されていくことになります。

10万を越えるモンゴル軍を壊滅までに追い込んだ神風・・・
日本の勝因は神風だけ??
もう一つの勝因は・・・
平成23年、水深23メートルの海底で、モンゴル軍の船がおよそそのまま見つかりました。
20mを越える巨大船を沈めさせた嵐は相当激しいものだったと推察されます。
陶器なども発見され、9割は南宋のものでした。
改めてモンゴル軍が多国籍軍だったことがわかりますが・・・
モンゴル軍は多国籍軍タイで、言葉が通じず、統制がとれていなかった・・・
強さを発揮できませんでした。
もし、統一された軍隊で、予定通りに合流していれば、嵐に遭うこともなく戦況は変わっていたかもしれません。
台風が去った後、幕府軍は志賀島沖で沈没を免れたモンゴル船を攻撃、その2日後には鷹島のモンゴル軍を襲い、全軍を撤退させます。
存亡の危機を脱した日本・・・そこには、国難に中心となって当たった若きリーダー北条時宗の存在と、竹崎季長などの武士の活躍がりました。

弘安の役の翌年、時宗は鎌倉に円覚寺を創建。
元寇の犠牲者を敵味方なく弔ったといいます。
そしてその2年後・・・1284年に34歳の若さでこの世を去りました。
一説には、極度のストレス・・・心労によるものといわれています。
国難に心血を注ぎ、まさに命を燃やし尽くしたのです。


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井伊の木で作った馬除けの柵が活躍し、武田との戦いに勝利を治めたこと&万千代が兵糧や武具を丹念に用意していたことを家康は見てくれていました。
色小姓だから取り立てたのではないですよ・・・??
色小姓になったら、いやがらせも減るよ??と、家康に言われていましたが・・・どうでしょうね??
常の小姓にはしてもらえました

でも・・・仕事をもらえない・・・もらえない・・・
割り込める隙もありません。
が、そんな嫌がらせにもめげることなく、何かと仕事を見つけては頑張る万千代です。

仕事をくれるように殿に直談判!!
戦の手柄改めをさせてもらうことに。
沢山の人が押しかけてきて・・・

naotora3












みんなを手際よくさばいていく万千代。

井伊谷では・・・たくさんの雨が降っていました。
「山の神がお怒りになっているかも・・・??」と、甚兵衛。
山崩れが起こっていました。そして川に土砂が流れ、底があがってしまいました。
異変は木を伐り過ぎたためなのか・・・??
その差配をしていた頃・・・。

家康はやっぱり戦改め
まあな・・・これをしなければ、下級武士はおまんまにありつけず・・・
そして、手柄を認め、褒美を取らすのは家康の仕事なのです。
報いるべきところに報いなければ・・・

naotora5














疲れた家康に薬を持って参上の万千代。
家康は、万千代の薬を毒見もせずに、何の疑いもなく飲んでくれました。
認めてくれたってことですね

naotora6











そんな夜遅くまで忙しい家康の手伝いを申し出る万千代。
手柄改めを表にし出しました。
朝まで家康のもとで寝てしまった万千代。。。
しかし、その表の見事さに感嘆する家康!!

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朝から家康の寝所を出てきたことで、勘違いされてしまったかも??

naotora2












どうする??万千代。

薬を取り寄せて、家康に気に入られるようにと考える万千代。

井伊から土砂止めの指図をして欲しいと言ってきました。
その代わりに薬を手に入れようとする魂胆な万千代です。

万千代が作ってくれた表を基に、褒美を考える家康ですが・・・
家臣の間でのバランスが崩れているという・・・
浜松と岡崎では活躍が・・・武功が違うのです。

武功が第一という榊原。
濱松の士気が一番大事という榊原・・・。
ああ・・・伏線ですね、これ!!
信康の一件の・・・!!


万千代は得意の絵を使って地図を書きます。
おとわに隠していたものの・・・六左にはバレバレな絵なのです。
そんなこんなで薬を手に入れた万千代。

近藤殿に土砂止めの普請を願い出るおとわ。
やってくれなければ、信長にもらった茶碗を売ると言って近藤殿を脅すおとわです。
「かの高僧・臨済禅師の説話に・・・」と、もと尼さんらしいお話でなんとか説き伏せるのでした。
この土砂止めをしたことで、子々孫々近藤家が語り継がれるとかなんとか・・・??

手に入れた薬を殿に・・・と、寝所に向かう万千代。
毒が入っていたら・・・??と、他の小姓たちともみあいになりましたが・・・ここで一言!

「それがしは、殿のご寵愛をいただいたぞ!!
 見たであろう、そなた。この間の明け方に・・・。」by万千代。

ビックリ仰天の兄小姓たち・・・??

「嘘をつくな!!殿は衆道はたしなまぬ!!」by兄小姓

「それは、そなたらのような武骨者しかおらなかったからではないのか?
 俺や万福に手を出してみよ、殿のお怒りが・・・及ぶぞ・・・!!」by万千代

ということで、めでたく色小姓となったのでした

「なんじゃ・・・結局・・・色小姓ということにしたのか。」by家康

ということで、全部お見通しの家康ですが、万千代の持ってきた薬にも、万全の信頼を置いています。
もちろん、井伊から取り寄せた薬であることはわかっています。
そして、その薬をも信用する家康。
どうしてそんなに信用するのか??という万千代の問いに・・・
「無欲じゃからの・・・」と、答える家康でした。

そうね・・・やっぱり欲のない方が強いのよね。
自分を守ることよりも、民のことを守ろうとするおとわのことをわかっているのです。

色小姓ということにした手前、すぐに寝所を後にするわけにも行かず・・・
と、家康が問いかけます。
「岡崎の処遇をどうするのか?」と。。。
 
「首をとった城を攻め落とした・・・そういう類の武功で見ると、岡崎は浜松に比べると大変淋しい手柄となっておりましたかと・・・」by万千代
「然しながら、此度織田が数多の援軍をよこしたのは、日ごろの岡崎の働きあってのことじゃ。」by家康

「殿が、方々の働きをすべてご存じと伝えるのが肝要かと・・・
 誰も知らずとも、殿は見ていてくださると知るのは心強いものにございます。」by万千代

悩む家康でしたが、このことで万千代を岡崎に派遣することにしました。
小姓なのに城を出ていいの??
瀬名の縁戚なので、挨拶をしてくると・・・岡崎を探ってくるように命じられます。
大役なのに、「そなたじゃからよいのじゃ・・・」と、密命です!!

三河・岡崎城にやってきた万千代。
そこに居たのは、瀬名と聡明な信康でした。
何もかも見透かされている万千代です。
恩賞の件か・・・??と、見透かされてしまっていました。
もちろん、強者の殆どは浜松勤めであることは信康もご存じ!!
武功を元に考えれば、岡崎は一文もない・・・ということも。

「日頃の岡崎あってのことと・・・今川勢に諏訪腹城を与えるということでどうか?
 若様も、奥方様も今川のご縁戚。
 今川が一家として徳川に根を下ろすことは、必ずやお二人の力。ひいては、岡崎の力になろう。
 これから駿河を切り取っていくにあたり、地の利のある今川勢を手厚く遇しておかねばならぬ。
 そういう理屈ならば、酒井さまや本多さまにこの仕置きをごご納得させることができる」との事を伝えます。

「徳川の先行きのため、岡崎は耐えます。
 しかしながら、後々には地味な働きをしている岡崎の衆にも直に報いてくださいませ。」そう伝えてくれ!!by信康

かしこいですね、信康。
だからこそ、家康は悔いて、悔いて、悔いるのです。

その頃・・・松を植えている井伊谷の人たち。

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そして、万千代は信康の答えをもって浜松へ・・・。

「岡崎は、堪えてくれると・・・・?」by家康

「”まあ、いずれは俺の家になる。
 これは俺の為じゃ。”と、最後は笑っておられました。」by万千代

「良い男じゃろ?わしの息子は・・・??」by家康

「はい。おおらかで頼もしく、人の上に立つために生まれたような趣をお持ちです。」by万千代

「のにゃすに譲るまで、せいぜい後10年ほどか・・・
 主従として年の釣り合いも良いかもしれんの。
 信康とそなたは・・・。」by家康

「では、若のお役に立てまするよう、殿のもとで精進いたしとう存じます。」by万千代

「はあ~、上手くまとめるのう。」by家康

と、万千代は、いよいよ家康の信頼も厚くなってきたようです。

諏訪腹城を今川勢に与えるということをしぶしぶ飲んだ浜松勢・・・
このことに、万千代が一枚かんでいると思っているみたい・・・。


甚兵衛も亡くなってしまいました。
万千代と万福の初陣が決まったので、髪を下ろすことにしたなつ。。。
そして時は流れ・・・

ということで、万千代が・・・菅田将暉君が出て来てから、ちょっとギュッと締まった作品になってきましたね。
でも・・・やっぱり戦国時代にあって、戦わないわけで・・・
おとわが近藤殿を手玉に取るようなシーンがありましたが、近藤殿、素直過ぎると思いませんか?
もう少し、駆引きを見てみたい気もする大河ですが、面白くなってきましたね。

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