日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

軍神の血脈 楠木正成秘伝 (講談社文庫)



大楠公として歴史に名を残す英雄・楠木正成。
1331年8月、150年にわたった武家政権鎌倉幕府と後醍醐天皇との対立が表面化します。
我が子への皇位継承を望む後醍醐天皇・・・それを阻む幕府に不満を募らせていました。
天皇へ政の実権を取り戻すことを望んでいたのです。
これに、河内の土豪・楠木正成が呼応します。
武力と財力を備えた有力者だった正成。
権威を振りかざし、権益を独占している鎌倉幕府に憤りを感じていました。
後醍醐天皇の元に馳せ参じ・・・
「天下を改めるには、武略と知謀の二つでございます。」
河内国に戻った正成は、500の手勢で赤坂城で蜂起!!
幕府は30万ともいう兵で赤坂城を攻撃します。
大木や岩、熱湯で撃退する正成。
兵糧攻めに転じる幕府軍に対し、城に火を放ち、夜に紛れて赤坂城を脱出自害したように見せかけます。
幕府軍は、正成たちが自害したと思い込みます。
しかし、敗れた後醍醐天皇は隠岐に流され、正成も行方不明・・・。

赤坂城脱出から1年後、正成は突然紀伊で挙兵!!
神出鬼没の戦いで、河内を取り戻した正成は、金剛山の支脈に千早城を新たに築きます。
1333年2月、鎌倉幕府の大軍が、千早城に襲い掛かります。
正成は、幕府軍に油を浴びせ火を放つなど、奇手、奇策で大軍勢を撃退!!
寺社勢力の協力もあり、籠城は100日にも及びます。
後方からの支援を受ける正成は、反対に大軍勢の幕府軍の兵糧を脅かします。
持久戦に持ち込まれた幕府軍の戦意は、下がる一方・・・。
正成奮戦の効果は、各地に波及していきます。
千早城一つ落とせない幕府は恐るるに足らず!!と。

幕府軍の大将・足利尊氏が後醍醐天皇側に寝返ります。
尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を壊滅!!
ここに、鎌倉幕府150年の歴史は幕を閉じることとなります。

隠岐を脱出した後醍醐天皇は、正成に先導され、京都に凱旋!!
1333年6月後醍醐は念願の建武の新政を開始!!
所領争いなどに、前例を省みない判決をし、破格の人事を次々と断行していきます。
痴ほうの土豪に過ぎなかった正成も、天皇の親衛隊長・・・武者所に任命されます。
異例づくめのスタートを切った天皇中心の政治・・・しかし、それはやがて武家だけではなく朝廷内に大きなわだかまりを作ることとなるのです。

鎌倉幕府の大軍との戦いを耐え抜き、建武の新政の立役者となった楠木正成。
地元の墓地には・・・供養塔・見方塚があります。
楠木軍の戦死者は、村人の墓石に囲まれるように祀られていました。
この墓地にはもう一つ正成が立てた供養塔があります。
幕府軍の戦没者が敵ではなく寄手と呼んでいる寄手塚・・・場所は見方塚より小高いところに大きい墓石で建っています。
戦での死者を敵味方なく弔った楠木正成は、平穏な時代の訪れを願っていたのかもしれません。
しかし、鎌倉幕府討幕からわずか2年・・・旧幕府残党を押さえるために鎌倉に下っていた足利尊氏が後醍醐政権から離反します。
反乱の鎮圧後も、上洛の命令に従わず、鎌倉を動かない尊氏を、後醍醐天皇が討伐しようとしたためでした。
ところが尊氏はこの戦いに勝利し、京都を制圧することになります。

比叡山へのがれた後醍醐天皇の元に、正成ら朝廷軍が集結します。
1336年1月、体勢を立て直した朝廷軍は、朝敵となった尊氏軍に総攻撃を仕掛けます。
正成率いる軍勢は、市街戦でも見事な働きを見せ、5万騎ともいわれる尊氏軍を洛中から駆逐しました。
ここで正成は一計を案じます。
自分がまたもや死んだと偽装して、勝ったはずの朝廷軍があたかも散り散りに逃げているように見せかけたのです。
尊氏は洛中に戻るや、逃げる朝廷軍に追手をかけます。
正成の狙いはそこにありました。
手薄になった洛中の尊氏軍に、総力を挙げて襲いかかったのです。
尊氏軍は、慌てふためき逃亡する者、自害する者、中には出家して僧になってしまうものまでいました。
正成はついに、尊氏を追いつめたのです。

しかし・・・優勢の朝廷軍の中から、逃げる朝敵・尊氏軍に付き従うものがたくさんいたのです。
彼等は、所領の拡大など、討幕の功績による後醍醐天皇の恩賞が十分でないと不満を持っていたのです。
混乱する戦場で、正成は選択を迫られます。
尊氏を討ち取る??それとも追撃をやめる??
楠木正成は、現在の兵庫県芦屋の一角で兵を挙げ、足利尊氏との一戦に臨みます。
尊氏を追いつめた正成・・・このまま決着をつけるのか・・・??

終日激戦を繰り替えし、夜になって何を思ったか正成は引きました。
敢えて追撃しなかったのです。
都に戻った正成は、後醍醐天皇に思い切った策を進言します。

「どうか、尊氏卿を召し替えされて、和睦をしていただきとう存じます。
 戦に敗れた尊氏軍に、朝廷方の輩まで付き従っていきました。
 どうか、帝に徳のない事をお分かりください。
 尊氏たちの反撃を受ければ、防ぐ術はございません。
 武略の道においては、いやしき正成に間違いはございません。
 今すぐご決意下さい!!」by正成

しかし、正成覚悟の進言は、一笑に伏され聞き入れられることはありませんでした。
正成の頭の中には、足利尊氏がいてこその後醍醐天皇の政権は続けられると考えていたようです。
足利尊氏をカリスマ的存在として認識していたのです。
正成は、合理的、実利的に選択する面があったと言えます。

正成の進言から2か月後、九州に落ち延びていた尊氏は大軍勢で京都に進軍!!
戦えば明らかに不利な状況で、正成は懇親の武略を巡らします。
それは、天皇を再度比叡山に・・・そして、京都を空にして尊氏軍を引き込み兵糧のルートを絶って市中殲滅戦を展開するというものでした。
正成らしい弱者の兵法でしたが・・・

「戦いもせずに帝が一年も都から逃れるのは、権威失墜につながる。
 今まで勝利してきたのは、武士の戦略ではなく、帝の運によるものである。
 サッサと出陣せよ!!」by公家

討ち死にせよとの命令か??
菊水の旗印の元、僅か500騎で湊川に向かった正成は、尊氏の大軍を前に激闘を繰り広げます。
1336年5月25日、刀折れ、矢尽きた正成は、弟・正季と誓いました。
七たび生まれ変わっても、朝敵を我が手で滅ぼさん・・・後世、七生滅賊という契りを交わし、楠木正成は自刃しました。

その死からおよそ500年後、楠木正成は黒船来航に始まる幕末の動乱で再び注目を浴びることになります。
長州で松下村塾を開いた吉田松陰・・・吉田松陰は討幕を計画したかどで死罪を命じられます。
松陰が死の間際に弟子たちに宛てた遺書「留魂論」・・・松陰はその巻末に、正成の七生滅賊の誓いを歌に詠み込んだ辞世の句を残しました。

七たびも 生きかえりつつ夷をぞ
         攘はんこころ 吾れ忘れめや

正成を忠君の鏡と崇めた松陰の精神は、桂小五郎・高杉晋作・久坂玄瑞・・・長州藩士たちに受け継がれます。
正成に、長州藩を重ねたのです。
下級武士にとっての理想像が正成でした。
身分が低かろうと、天皇への忠義の志があれば、政治に参加していい!!
自分達は正成のようになりたい!!
当時の志士たちには「正成をする」という言葉が流行っていたようです。

維新達成後も、学校教育を通して、正成の忠君は広く、深く、人々の心に刷り込まれていきます。
正成が自害の時に誓った七生滅賊は、いつしか七生報国に代わり、太平洋戦争末期、沖縄戦での特攻は正成の旗印から撮って菊水作戦と言われました。
間近に迫った敗戦まで、正成の死に際は、戦意高揚に利用されたのです。

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大好きな幕末、大好きな大河だというのに、前回に引き続き、不覚にもウトウト居眠りしてしまった。
それがちょっと悲しかった回でした。

don















愛加那との間に、男の子が生まれました。
とっても嬉しそうな吉之助です。
島の儀式にのっとって、みんなでお祝いです。

最初の子なので、”菊太郎”にしようとする吉之助ですが・・・”菊次郎”と名付けてほしいという龍佐民・・・。

「あなた様はいつか薩摩を背負って行くお方・・・」と、言い出す佐民です。
政の潮目が変われば出ていく・・・子供のためにも、”菊次郎に”と言うのです。

今回のポイントはここだけかな・・・??
それにしても、なんで吉之助が背負って行くとわかるのだ??

とにかく、薩摩の人間の子なので、将来的には郷士にさせてもらえる特権をもらった菊次郎です。

久光の元、優秀な若者が採用されていました。
いきなり小松帯刀登場!!
そして・・・正助も異例の大出世を果たし、大久保一蔵となっていました。

don2















久光が・・・吉之助を許してくれたようです。
と、この時、サトウキビを絞る鉄の輪と共に一蔵が吉之助に会いに奄美大島に来ました。
??
こんなとこで遊んでいる場合ではないのよ??一蔵・・・??

愛加那の料理に舌鼓を打つ二人・・・。

don3















薩摩に戻ってきてほしいと願う一蔵。
なのに、帰らないという吉之助。
この島に残る・・・と言い出しました。

って・・・あんなこんなで・・・全く政治のことはわからない・・・
眠気が増して、ウトウトしちゃいました。

「薩摩と言えば西郷吉之助じゃ。
 西郷吉之助がおらんといかんとじゃ。」by一蔵

って、何したんだよ?吉之助・・・。
ほんと、何にもしていない吉之助を呼びに島にやってくるほど暇じゃないのよ・・・一蔵は・・・!!
そこで、一蔵に黒糖地獄を話し出す吉之助・・・。
歌や踊り・・・にっくき薩摩人の自分にも優しいとか、イノシシがいるとか、魚がいるとか・・・
おいはここで生きる。
愛を教えてもらった・・・なんてことを言い出す吉之助。

いろんな人がいると思う。
もちろん、本当は奄美大島の人を見下していたと言われる吉之助ですが、それでも、歴史に名を残す人なので、もし、この島を愛していても、愛しているからこそ、黒糖地獄から救い出すために薩摩に戻って政をするのが西郷吉之助ではないかな?と思うんです。
女子供と一緒に島に残る・・・この選択肢は一人の女性を深く愛した多くの男性にできることだと思うんです。
西郷吉之助だからこそやれることがある・・・
と思っていらた、一蔵が・・・
西郷吉之助は薩摩の宝だから返してほしいと愛加那の土下座・・・
このドラマでは大多数の男性と同じである吉之助を、将来明治政府を背負って立った男である一蔵が「西郷吉之助は薩摩の宝だから返してほしい」と土下座までするなんて・・・ほんと、ありえない!!

と言って帰っていった一蔵・・・帰らない吉之助・・・。
う~ん・・・ほんと、どうでもいいよ・・・。

そして、帰らないと言っている吉之助に、一蔵が渡しに来た”斉彬の刀”を見せる愛加那・・・。
大事なものであろうと包みを開けないでもわかるだろうに、まるで魔物でもあるかのように扱う愛加那・・・。
刀を見ても何も言わない吉之助・・・。
何も感じないのか・・・??

って・・・愛加那も、この刀を渡すなら、すでに覚悟を決めているのが普通じゃないの?
吉之助に薩摩に帰るように言うという愛加那にするのであれば、もっといい女に書く方法があったと思うんです。
そして、幕末の女には、そんなカッコいい女がたくさんいました。
控えめで、芯が強くって、「愛した男のために死ねる」女がたくさんいたので、今一つ・・・
愛加那は、西郷の髪をず~っと持っていたというその想いだけがあれば、きれいに書けるかと思うんですが・・・。
いろいろ時間をかけて書くだけが、「愛」の表現ではないと思います。
そういう意味では、島妻という道を選んだ以上、負けん気が強くって現代風な女性ではなく、そこんとことを表現してほしかった・・・忍ぶ女であることを選んだんだから。
と思うのは、私が幕末の女性に対する妄想ひどいんだろうか・・・??
サヨナラは・・・吉之助ではなく、愛加那でもなく、佐民が言ってくれました。
あ~、柄本明の使い方、勿体な~~~、前回の佐野史郎の勿体なさに匹敵するわっ!!

ああ・・・再び妊婦の愛加那が海に入るシーンは、幼い時に見て強烈だった「吉原炎上」の堕胎シーンを思い出しちゃったじゃないの・・・
それとも、雨に濡れる浅井雪乃を思い出しちゃったじゃないか・・・??
きれいで愛しいシーンかい??妊婦が海に入ってんのよ・・・??

don4















そうして、みんなに甘やかされて薩摩に帰る吉之助でした。

「愛」を書きたかったのはわかるけど、そんなに「愛」していたのに、何に突き動かされて帰るのか??
全く解りませんでした。
ほんと、帰りたくないって駄々こねるなら、すがすがしい顔して帰るなよなあ~~、吉之助!!


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大久保利通: 西郷どんを屠った男

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東京が首都になったのは150年前・・・京都から都が移されました。
しかし、東京遷都は、正式には宣言されていません。
それどころか、「首都は東京」と定めた法律もありません。
その理由は明治の初めにありました。
徳川幕府が終焉し、明治新政府が樹立・・・近代国家・日本を目指すために、浮かび上がったのが遷都でした。
この遷都を最初に提案したのが大久保利通でした。
1000年の都京都からどこに移すのか??

①大坂遷都
②江戸遷都
③京都・江戸両都

それぞれの案をめぐって、明治政府は紛糾し、瓦解の恐れもありました。
首都はどこに??遷都宣言はどうして行われなかったのか??

1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い・・・
薩摩長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍が京都で激突しました。
結果は、新政府軍の圧勝・・・新政府が日本を代表する政権として確立します。
新しい政権は、天皇の元、総裁(有栖川宮熾仁親王)・議定(皇族・公家・藩主)・参与(公家・藩士)が政治を行うこととなりました。
国の忠臣は京都・・・誰もがそう思っていました。

しかし、1868年1月23日・・・
京都から都を移そうという建白書を出した男がいました。
大久保利通です。
大久保は新政府では参与に任命され、近代国家日本の確立に邁進していました。
大久保の建白書には、都を移す理由と場所が書いていました。
「全てを新ため一から始めようとする王政復古の現在において、実行されるべきは遷都である。」
都を移す先としては、他国との外交、富国強兵などの条件を考えると、地形的に大坂が適当である・・・
”大坂遷都建白書”でした。

さらに大久保は・・・
「天皇が外国の帝王のように従者を連れて国中を視察し、民を大切に育てる・・・それが君主として正しい道である。」と。
大久保が遷都する理由は、若き明治天皇の在り方にありました。
日本を諸外国に対抗する近代国家とするには、古くからの天皇を刷新する必要があるというのです。
それまで天皇は、御所を一歩も出ることなく育てられ、公家たちに囲まれ政治から遠ざけられていました。
大久保は、西洋のように民衆の前に姿を現して近代化を自ら指揮する君主を目指すべきだと考えていたのです。
そのためには、都を京都から、外交、富国強兵、軍備増強に適した大坂に移す遷都を行うべきだと考えていたのです。
大久保は大坂遷都で何を変えることができると怒っていたのでしょうか?
天皇を取り巻く環境を変えなければ、新しい時代は出来ない!!
従来の朝廷の場所で、新たな天皇像を出すのは非常に難しい・・・。
そのために、当時の朝廷、京都から一旦天皇を引き出す狙いがありました。
突然の提案に、公家たちからは猛反対を受けます。

公家たちからすれば、王政復古をすることができたのに、天皇が千年の都・京都から出ることは考えられませんでした。
しかし、更に大久保は続けます。
「未曽有の大変革に当たり、数百年来の因循の腐臭に凝り固まっている朝廷を改革しなければならない。」

この指摘に公家たちは激高!!
互いに主張を譲らず会議が難航!!
会議に出席した大名は・・・
「この問題がこれ以上こじれると、政府が瓦解する恐れすらある・・・!!」

3日後・・・1868年1月26日、大久保の大坂遷都案は廃案となりました。

2月15日・・・新政府軍は関東・東北の旧幕府勢力を制圧する為、東へと出発!!
東征軍です。
一方で大久保は、改革策を考えていました。
それは大坂行幸です。
とにかく、天皇を京都御所の外に連れ出そうというのです。
しかし、それは簡単なことではなく・・・
江戸時代、天皇が御所の外に出た行幸は、僅か3回・・・。
1回目は後水尾天皇の二条城行幸、2回目は孝明天皇の加茂社行幸、3回目は同じく孝明天皇の石清水八幡宮行幸です。
行幸の距離は、輿にのって30分~40分でした。
それを大坂まで・・・かつてない行幸を公家たちに認めさせるためには、大きな困難が予想されました。
そこで、行幸案を盟友・岩倉具視に相談します。
岩倉を通して、新政府に提案します。
岩倉は、意見書に認めます。
「天皇自ら江戸、および会津の賊軍を討てと仰せつけください。
 それにはまず、大坂の海に自ら臨まれ、軍艦の運用方法や鉄砲の作用などをご点検ください。
 そうすれば軍の士気も上がり、人心は一致協力いたします。」
遷都に結び付く表現は一切なく、保守派の公家たちも、大坂行幸を認めざるを得ませんでした。

1868年3月21日、明治天皇大坂行幸に出発。

天皇が京都の外に出るのは初めてのことで、総勢1655人の行列に囲まれ、煌びやかな輿にのって現れた天皇・・・
沿道は、それまで見たこともなかった天皇を一目見ようと賑わい、埋め尽くされます。
3月26日、天皇は、大阪湾・天保山で、大坂行幸最大の行事絵ある海軍展覧を行います。
21発の礼砲が撃たれたあと、天皇の目前を6隻の軍艦が行進・・・
天皇は大きな感銘を受けました。
それはまさに、大久保が狙っていたことでした。

4月9日、京都にいた大久保は大坂に赴きます・・・
天皇が新政府で努力している者たちに直接会って報告を聞きたいと大久保を呼んだのです。
この時、初めて天皇と顔を合わせた大久保・・・それまでは御簾越しだったのです。
天皇と直接対面できた大久保・・・この日の日記に記しています。

「天皇に謁見を許されたのは、一藩士の身分としては、実に未曽有のことであり、この幸せに涙を流すほかない。
 嬉しさのあまり、午後2時ごろから祝の酒を飲んでしまった。」

大久保は、将来の政治は我々藩士が身分を問わず、担わなければいけないと思っていました。
これを突破口にして、新しい政治に向けて一歩でも踏み出せる・・・
そういうものが、大坂で実現したという感激があったのです。

天皇が大坂に行幸して20日後の4月11日、遷都に関わる新しい事態が起こります。
江戸城明け渡しです。
260年間徳川幕府が政治の中心とした江戸が、無傷で新政府のものとなったのです。
江戸開城から1か月後・・・大久保は1通の書状を受け取ります。
差し出し人は旧幕臣の前島密・・・後に、明治政府で郵便制度を確立させた人物です。
認められていたのは江戸遷都案でした。
大坂より江戸にふさわしい理由も書かれていました。

大坂は水路が発達しているものの小型船中心。
今後、海外との貿易を考えると、海外の大型船の入ることのできる港が必要。
江戸なら横浜に港があり、諸外国と貿易が行われている。
さらに、横須賀には造船所が作られつつある。
大坂は都にならなくても商業の街として栄えるが、江戸は都にならなければ住民はチリヂリとなり、人口100万の世界有数の大都市が寂れ果ててしまう・・・。
ロシアの南下を考え、蝦夷地の開拓を考えると、江戸の方が大坂よりも有利である。と。

大久保は、この前島密の案に大きな可能性を感じます。
しかし、問題も・・・
当時の江戸は、旧幕臣などの反発勢力はたくさん存在していました。
東北では、奥羽諸藩が朝敵とされた会津藩などの赦免を求めて新政府と対立しつつありました。
当時の江戸は、天皇や政府関係者の安全、治安を確保できうる状態ではありませんでした。
しかし、新しく登場した江戸遷都案は、遷都が天皇の在り方だけでなく、日本の近代化を左右する重大な選択であることを意味していました。

1868年閏4月、新政府に新しく遷都案が提起されます。
佐賀藩の大木喬任、江藤新平による東西両都案です。
江戸を東の京として、東西二つの都を天皇が鉄道で行き来するという構想です。
江藤は、意見書を提出するにあたり、新政府軍の様子を詳しく調査していました。
新政府軍と敵軍が勝負を譲らぬまま月日がたち、上官も一兵卒も疲れ切っています。
東日本の人々の気持ちを落ち着かせるのは、天皇が江戸に下られるのに勝る策はありません。
関東・東北の争いを鎮め、人心を案じるには、江戸に天皇の居場所が必要・・・という意見でした。
そして、二都ならば、公家たちの理解を得やすい・・・

新しい日本の都はどこにあるべきか??

①大坂遷都
国を富ませるためには大坂が一番だが、道が狭く水路も細い・・・。
鳥羽伏見の戦いで大坂城は焼け、新政府が官庁を置く場所もない・・・。

②江戸遷都
江戸城は明け渡されたものの、江戸にはいまだ新政府に反感を買うものも多い・・・。
東北諸藩も、まだ新政府に従っていない。
これらを速やかに治めるためにも、天皇を江戸に移し、御威光を広めることが肝要・・・。
しかも、無血開城した江戸は、江戸城や大名屋敷が無傷のまま残っていて・・・このまま新政府の官庁として利用することができる。
しかし、幕府の残党を除いても、幕府のあった江戸を都とするのは、新しい日本を内外に印象付けることができるだろうか??
大坂でさえ反対した公家たちは、猛反対するだろう。

③京都・江戸両都
共に都と定める??
京都の公家たちも説得できる・・・しかし、鉄道建設の費用はどうやって捻出するのだ??
大坂への行幸ですら10万両という莫大な金が必要だった。
天皇の移動のたびに、政府機関も動くとなれば、どれだけの金が必要なのか・・・??

いずれの選択肢にも、大きな課題がありました。

1868年5月、大久保の決断を促す事件が起こります。
江戸で上野の山に籠っていた旧幕府勢力・彰義隊が一掃されたのです。
さらに、徳川宗家と家臣たちが静岡に移ることが決定!!
江戸は名実ともに、新政府のものとなりました。
すぐさま大久保は動き出しました。
6月に京都を出発し、江戸に向かいます。
6月27日、江戸城に、大久保利通、木戸孝允、大木喬任、大村益次郎と、遷都推進派が集まりました。
そして、御東幸 御決定・・・!!
大久保は、江戸への遷都を決断したのです。
しかし、あえて遷都という言葉は使わずに、東幸という言葉を使いました。
さらに、正式発表に当たっても細心の注意を図ります。
1868年7月17日、天皇の詔書が出されます。

江戸は、東日本最大の都市であり、天皇自ら統治すべきものである。
よって、これから江戸を東京と称する。

この日を境に、江戸は東京となりました。
しかし、大久保たちは東西同視として、京都を都のように表現します。
京都の公家たちの反対はもちろん、京都市民が立ち上がり公家も巻き込む・・・
更には神社、お寺・・・寺社勢力が強いので、旧来の力を持っている人たちと京都の市民たちが一体化して、反対運動があれば、大きい反対運動となるので、遷都という刺激的な言葉は使わずに、東京に天皇を連れ出す・・・ということにしたのです。

9月20日午前8時・・・明治天皇東京行幸出発!!

その道中、天皇とその一行は、行く先々で人々と積極的に触れ合いました。
名古屋近郊では稲刈りを天覧・・・農民たちには菊の紋章の入った饅頭300個が配られました。
天皇を新しい指導者として人々に印象付ける一大イベントとなりました。
京都を出発して23日後の10月13日、東京に到着!!
沿道には天皇を見ようと多くの人が集まりました。
豪華な衣、冠を身に着けた公家や政府要人・・・
煌びやかな大行列は、江戸の人々の心を捕らえました。
午後3時・・・天皇が江戸城に入ります。
迎えた大久保は・・・

「千年に一度の大きな出来事・・・この喜びは言葉にできない。」

この日江戸城は、東京城となり、京都御所と同じく皇居と定められました。
11月4日、天皇の名で東京市民に酒が振る舞われました。
人々は2日間にわたって仕事を休み、飲んで踊って祭り気分に酔いしれました。
東京市民に天皇を身近に感じてもらおうという大久保たちの仕掛けでした。

50日に渡って東京に滞在した天皇は、一旦京都に帰ります。
しかし、1869年3月28日、再び東京城にに入りました。
この時、最高機関の太政官も東京に移動。
以後天皇は、居を東京城に定め、事実上東京遷都となったのです。
明治政府が東京遷都を宣言することはついにありませんでした。

天皇が去った京都は公家や官吏、有力商人も東京に移り、さびれてしまいました。
しかし、明治半ばになると、千年の伝統をアピールして国際観光都市として発展を続けます。
大阪はその後、商業だけでなく工業都市としても栄え、大正時代には東洋のマンチェスターと言われ、一時は日本最大の人口を誇る都市となります。

首都となった東京は、近代化に伴って、天皇のいる政治の中心だけではなく、様々な産業が発達し、巨大都市への道をたどることとなるのです。

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大好きな幕末、大好きな大河だというのに、不覚にもウトウト居眠りしてしまった。

今回は、正助が主人公のようです。
ちょっと政治的に頑張ってくれると思いましたが・・・
上記の通り、居眠りしてしまいました

菊池源吾として島で愛加那と一緒に生きていく決心をした西郷さん・・・。
愛加那は、結婚したので、夫や新しくできるであろう家族の魔よけのために、もう片方の手にも刺青をしたのでした。

話は1年前にさかのぼります。
1859年・・・西郷さんのいなくなった薩摩でのお話です。
主人公は、もちろん正助・・・父は隠居して、立派になっていました。

斉彬亡き後、薩摩を思うように動かしていたのは久光ではなく・・・斉興でした。
斉彬を否定し、幕府に・・・井伊に、恭順の意を示しました。

その頃、吉祥院では・・・
幼なじみのみんながグダグダいう中、正助が囲碁をしていました。
でもって、久光と一緒に碁をやる仲に・・・
正助に負け、碁石をはらったり、短刀を抜いたり・・・ほんと、いいおぼっちゃまのやることではないなあ・・・と、興ざめの久光。。。

don3
















だいたい、男が刀を抜いたらそれなりの覚悟を持ってのことだと思うから・・・嘘くさい・・・。
ま、正助に説得されて政に関わることを決意する久光なんですけどね??
「国父様」とおだてられ、いきなりまんざらでもなくなるところが、バカボンみたいで嫌だわ・・・。
もっと、思想的に説得してほしいのよね・・・。


その頃、満寿はお由羅のお茶会に参加していました。
犬を見せたり、「部屋に籠って囲碁ばっかりやっている」と、久光をぼやくお由羅。
「黒と白の石を並べて何が面白いのやら!!」って言ってますが、太古の昔から、囲碁が戦術にいいと理解もできてない側室=お由羅がどれだけあほかということを語りたいのか??
そして、囲碁に長けているということは、政に長けているはずだ・・・神君家康公もそうだったと、満寿に軍略や政に通じているからだと言わせ・・・
「さすが久光殿、遊んでいるわけではなかったか!!」byお由羅
「・・・ほんと、バカなのか??いいや・・・馬鹿に違いない・・・」by私の心の声・・・と、こっぱずかしい話が進んでいきます。
いいんだよ・・・そんな話・・・
これでお由羅の覚えめでたくなった満寿は、褒美に犬をもらうのでした。
なんだよ・・・このBGM・・・。
なんだかなあ・・・朝ドラでもないわ・・・こんな呑気な曲・・・。
で・・・ごますりに行って怒られた満寿は、仕方なく西郷家に犬を預けるのでした。

don4
















死にかけている斉興・・・
久光に斉彬にはなれない・・・とか言う始末。。。
何が言いたいんだか・・・。
古き良き薩摩を守れと言われるのでしたが・・・頷かない久光・・・。

「十二分に生き申した。」by久光とか、
「最後のお言葉ですよ」byお由羅とか、
最後にはまだ死んでもないのに、ご苦労様でしたみたいなことを言い出すお由羅・・・
そんなに死んでほしいのか??と、違和感Maxでした。

そして・・・”しばらくして”斉興が死んで、久光が国父となるのでした。

でもって・・・斉興が死んだから寂しいからと正助の家に犬を引き取りにやってきたお由羅。
「お久しぶりね~~!!」byお由羅って、もうええねん!!小柳ルミ子がとれへんやろ~~~!!
なんやかんや、正助に隠していたことがバレ、怒られ、「何にも話してくれない!!」とか、満寿がいいだします。
呑気なBGMにのって・・・
もう・・・どうでもいいよ・・・こんな話・・・。

で・・・いきなり橋本左内や吉田松陰が殺されたから、井伊を斬るとか言い出す場面に・・・。
これで何が解るのか??
「薩摩が天下の笑いモンになる!!」とか言っていますが、何にも思想のない時点で、笑いモンだろ・・・

脱藩をしようとするみんなに・・・久光を引きずり出して脱藩をやめさせる正助・・・。
う~ん・・・なんとも瓢箪から駒状態の久光です

時が満ちるのを待て!!脱藩するな!!不忠はするな!!

と言う久光にいきる面々でした。

諭書は正助が書いたのでは??チクったのか?とみんなに言われ、自分が書いたと言えば、国父様を貶めることになる。自分ではないとしか言いようがない・・・なんて、そんな言い方ある??
自分が書いたって言ってるようなもんじゃん・・・
もっと飲み込めよ!!

う~ん・・・売ったとか、救ったとか・・・そんな話、どうでもいいよね・・・。
「そんなことまでして出世したいのか?」みたいな、ヤンキー張りの語彙のなさに失望・・・。
おまけに正助も正助で、「出世したか~~~!!」とか大声で言う始末・・・。

この藩を変えるとか、変えられんとか・・・
ケンカまみれな幼なじみですが・・・
吉之助を呼び戻す嘆願書を正助が書いていたことを知ると、もう仲直り・・・。
何がしたいんだか、全くチープな仲間です。
ほんと、少年漫画でも、寡黙なbrainキャラがいると思うんだけどな・・・。
もしかしてそれがこの正助・・・??
なんだかなあ・・・。

don
















でも、納得できない有馬新七!!袂を分かったか??

何でもお互い話そう!!と、約束した正助&満寿ですが・・・
どうして吉之助のように、みんなを束ねることができないのか?と、悩みを打ち明ける正助・・・。
う~ん・・・みんなを束ねてましたっけ??
一体何をしたんでしょう?吉之助。。。
こんなときに吉之助さんがいてくれたら・・・みたいなことを言う正助に、「そんままの旦那さんがよか・・・」とか、フツーのことをいう満寿。

色々話をするからついてこれるか??と言い出す正助ですが、始まってはや6か月・・・小難しい話は一切なしの西郷どんで、どんな難しい話が出てくるのやら・・・??
みんな待ってるんだよ!!その小難しい話を!!
命をかけた話をさ~~~!!

その頃、吉之助は南の島でラブラブでした
そこへ正助からの手紙が・・・
なんと、桜田門外の変なんだそうだ・・・。

don2
















え~~~!!
佐野史郎さん無念!!演じることも許されず??

殆どが元水戸藩脱藩浪士の中、薩摩藩士が1名いました。
そして、その一人が井伊を斬首・・・彼の名は、有村次左衛門・・・有村俊斎の弟でした。

この桜田門外の変によって、それに参加したほとんどの者が自刃、刑死・・・
彦根藩も、大老を守れなかったことで切腹、お家断絶・・・と、散々な結果に終わったのです。
そんなこんなも全く触れず!!

「おいの弟たちが・・・!!
 大義のために、命を散らしたっちゅうとに、おいたちはこげなところでないをしちょっとじゃ・・・!!」by有村俊斎

弟たちの髻を手に、慟哭の俊斎!!

ですが・・・いきなり脱藩とか、血生臭いこと言われても、誰が死んだのかもわからないようなキャラクター・・・
何も感じないわ・・・。
有村次左衛門も、書こうと思えばとってもいいフィクションも書けただろうに・・・
どうして水戸浪士の中に一人いたんだよ・・・とかね??
何が悲しくて南国のラブラブを見ないといけないんだよ・・・

血生臭い・・・幕末をする時点で、それはわかっていたはず・・・
何の思想もなく、なんの志もなく、ただ叫ぶキャラを見ているのが辛い・・・

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武家政権による初めての幕府が開かれたのが鎌倉。
その海岸線で、1953年に驚くべく物が発見されました。
900体以上の人骨です。
骨は、14世紀前半のもので、刀傷や打撲痕があり、鎌倉幕府滅亡の際の戦死者ではないか?と言われています。

1333年5月22日、鎌倉は討幕軍が放った火によって炎上・・・6000人以上の死者が出て、鎌倉幕府14代執権北条高時も800人以上の家臣と共に自害・・・
150年続いた鎌倉幕府は滅亡しました。
どうして壮絶な最期を・・・??

鎌倉幕府は、「御恩と奉公」でした。
武士は領地を認め手柄によって新しい領地をもらい(御恩)、将軍のために命をかけて戦う(奉公)関係でした。
この信頼関係が、鎌倉幕府の基盤となっていましたが、これを揺るがす大きな事件が・・・!!
元寇です。
神風が味方して撃退しましたが・・・大きな問題が残りました。
国内の戦いに勝利したのであれば、奪い取った土地を恩賞として御家人たちに分け与えることができたのですが・・・モンゴル軍を追い返しただけでは得られる土地がなく、武士たちに満足な恩賞を与えることができませんでした。
それにもかかわらず、モンゴル軍の3度目の襲撃に備えて、九州北部の守りを備え、九州の御家人たちは大きな負担を強いられたのです。
十分な御恩を与えられないまま奉公だけを強要される・・・
御家人たちの不満は日に日に大きくなり、幕府に対する忠誠心も薄れていきました。
この頃の幕府の情勢はひっ迫していました。
鎌倉幕府は直接支配していたのは東国だけでした。
西国は、朝廷に任せるというのが基本姿勢でした。
しかし、元寇に当たってほったらかしだった九州の防衛を幕府が担うことになります。
鎌倉時代後半、幕府は組織面でも運用面でもパンクしてしまっていたのです。
そうした状況の中、1316年、北条孝時が14代執権に就任。
孝時は得宗という北条氏直流の当主一族のTOPでした。
しかし、「太平記」によると・・・政治に意欲がなく・・・つまり、得宗に政治力の行使を求めないようになっていたのです。
将軍もお飾り、得宗もお飾りだったのです。
御家人たちの不満は爆発寸前・・・!!
新しく即位した後醍醐天皇が幕府転覆を画策し、時代は大きく動きます。

どうして後醍醐天皇は討幕を・・・??
この頃、朝廷は持明院統と大覚寺統の二つに分かれていました。
幕府の取りなしによって、交互に皇位を継承する両統迭立となっていました。
しかし、これに納得できない後醍醐天皇は両統迭立を原則とする幕府が不満で、天皇を中心とする政治体制を望んでいました。
襲撃先に定めたのが、朝廷の監視役・六波羅探題でした。
襲撃の日は1324年9月23日!!
この日は北野天満宮でまつりが開催されることとなっていて・・・そこでは毎年激しい喧嘩が・・・!!
喧騒に紛れて・・・と思っていたのに失敗!!
同士のひとりが、計画を漏らしてしまったのです。
窮地に立たされた後醍醐天皇はしらを切り、処分を免れます。
が・・・幕府からの監視がきつくなってしまいました。

後醍醐天皇の妃が妊娠・・・安産祈願のために、天皇は延暦寺や仁和寺などを参詣・・・
さらに奈良でも寺社もうでをして穏やか・・・??
しかし、安産祈願はただの口実で、再び倒幕に向けて寺社勢力を味方に付けようと画策していました。
皇子のひとり・護良親王を比叡山に入れ、僧兵相手に武芸の訓練をさせていたといいます。
ついに挙兵・・・??
またしても側近の一人が密告!!
二度目とあって幕府の怒りは大きく、後醍醐天皇の側近たちは斬首刑に・・・。
後醍醐天皇は、三種の神器を携えて京を脱出!!
笠置山に逃げ込むと、山中に立つ寺院を皇居とし、討幕の狼煙をあげるのです。
これに呼応するように、幕府に不満を持っていた武士たちが挙兵!!
その中に、後醍醐天皇に忠義を尽くしたとされる楠木正成も・・・!!

「武芸に勝る関東武士に正攻法で挑んでも勝ち目はありませんが、知謀を尽くし、策略を巡らせれば勝喜もあるでしょう。」by正成

後醍醐天皇との謁見を済ませた正成は河内の国に戻り、赤坂城で挙兵!!
1331年9月2日、笠置山の戦い!!
天皇軍3000に対し、幕府軍7万5000!!
地の利を生かし善戦する幕府軍!!

赤坂城でも開戦!!
楠木軍500に対し、幕府軍20万!!
兵力の差は歴然で、敗北は確実と思われましたが・・・
正成の奇策が幕府軍を苦しめます。
城の中から丸太や巨石を投げつけます。
熱湯を浴びせたり、巨大な藁人形で敵を混乱。

鎌倉幕府は武士の集団で、大軍を派遣して押しつぶせると思っていました。
正成は山岳ゲリラ戦で、幕府軍は精神的に追い詰められていきます。
笠置山の天皇軍が力尽き、後醍醐天皇が捕らえられると状況は一転・・・
笠置山の幕府軍が赤坂城攻めに合流し、城を取り囲み持久戦に持ち込みます。
籠城を余儀なくされた正成に策はなく・・・
すると正成は、城に火を放ち、その混乱に乗じて行方をくらませました。
幕府がいくら探しても正成は見つかりません。
捕らえられた後醍醐天皇は、隠岐島に流されてしまいました。
しかし・・・死んだと思われていた正成が赤坂城を奪還!!
河内・和泉を制圧し、新たに千早城を築き、幕府軍を迎え討つ準備を整えます。
護良親王も吉野で挙兵!!
奈良・吉野から討幕の命令を発布!!

千早城での戦い・・・相手は100万??
それでも蹴散らす正成!!
1333年2月・・・後醍醐天皇が幕府軍の隙をついて隠岐島を脱出!!
鳥取県の船上山で挙兵!!
全国の武士に、討幕の綸旨を出します。
鎌倉幕府は制圧しようと関東の有力御家人を西国に派遣します。
そのうちの一人が足利高氏です。
これは、元服の際に、北条高時から一時もらっていました。
幕府の命を受けた高氏は、京に入り、船上山に出陣。
しかし・・・その道中で立ち寄った丹波の篠村八幡宮で耳を疑うような宣言をします。
「勅命に従って討幕の兵を挙げる!!」
どうして幕府を裏切ったのでしょうか??
高氏は、後醍醐天皇から討幕の綸旨を受け取っていました。
足利家を守るため、北条氏を裏切る準備は以前からしていたのです。
再び上洛した尊氏は、六波羅探題に攻め入り、そして怒涛の攻撃によって僅か1日で敵を壊滅!!

そして、新田義貞も挙兵!!
足利尊氏が六波羅探題を攻め落とした翌日の5月8日、関東でも討幕の狼煙があがります。
上野国を本拠地とする御家人・新田義貞が、地元の生品神社で挙兵しました。
義貞が討幕を決意した理由は・・・当時、新田氏が置かれていた状況にありました。
源氏名門の出でしたが、始祖が頼朝と不仲だったので、足利氏の方が立場が上で、新田氏の方が格下でした。
30歳を過ぎた新田義貞が無位無官だったのに対し、足利尊氏は従五位下・治部大輔に任ぜられていました。

新田は単独で挙兵したのではなく、高氏が義貞挙兵のうらにいたと思われます。
新田氏は足利氏の中に組み込まれていたのです。
挙兵を決意した義貞でしたが、兵の数は僅か150.
ところが、生品神社から鎌倉街道を進み続けると・・・越後国の新田一族2000、甲斐源氏・信濃源氏の一派5000が参陣!!
太平記によれば翌日には足利尊氏の嫡男・千寿王が合流。
新田・足利連合軍となったことで、東国の武将たちが次々と参陣し、その夜には20万の大軍勢となりました。
一方、義貞挙兵の知らせを受けた幕府は、鎌倉に近づけまいと6万の兵を差し向けます。
5月11日午前7時ごろ・・・両軍は、現在の埼玉県所沢市小手指で激突!!
戦いは、一進一退!!多くの死者を出しましたが、この日は決着がつかず!!
12日、夜明けとともに再び激突!!
幕府軍は左右に広がって挟み撃ちにしようとしますが、義貞は逆手にとって手薄になった本陣を攻撃!!
「勝利は見えた」そう考えた義貞は、翌日、翌々日を休息日にあてました。
しかし、その間に・・・北条高時の弟・泰家の10万の援軍が合流していました。
そうとは知らない義貞は、翌日、幕府軍の猛反撃を受けて苦戦!!
義貞の本陣も総崩れとなってしまいました。
その時、幕府の本拠地である相模の武将たち6000が新田軍に参陣!!
相模は、御内人とよばれ、将軍ではなく北条得宗に仕える武士でした。
そこの人までも暴れ出した・・・それは、潜在的な幕府の不満が大きかったのです。
義貞軍は、幕府軍に奇襲をかけて圧勝!!
討死寸前で家臣に救われた泰家は、鎌倉に逃げ帰りました。
鎌倉に南下した新田軍・・・次々と武士たちが合流し、鎌倉の手前では60万人になっていました。

鎌倉は、相模湾と三方を山に囲まれた自然の要害。。。
出入口は、鎌倉七口しかありません。
そこで義貞は、化粧坂切通し、巨福呂坂切通し、極楽寺坂切通しの三方から侵入しようとします。
幕府軍は守備を固めます。
鎌倉幕府存亡をかけた最後の戦いが始まりました。
5月18日、午前6時ごろ・・・
新田義貞が地鳴りのような声と共に60万の兵で鎌倉攻めが始まりました。
義貞率いる本隊は、化粧坂で幕府軍と激突!!
全軍の2/3が投入されたといいます。
対する幕府軍は3万!!
巨福呂坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍6万!!
幕府軍の大将は、16代執権赤橋守時で奮闘しました。
極楽寺坂の戦いでは、新田軍10万に対し幕府軍5万!!
幕府の猛攻を受けますが、果敢に突撃!!

なかなか落とぜず、焦る新田義貞・・・!!
地の利を生かして守りを固め、新田軍の侵入を防ぐ幕府軍に対し、策を講じます。

「陸路が駄目ならば海からじゃ!!」by義貞

稲村ケ崎の先端から鎌倉の市街地へ入ろうとしました。
切り立った崖は容易に進むことtができませんが・・・??

義貞は、稲村ケ崎の難所を、5月22日に突破しようと考えていました。
その理由は、この日が大潮だったからです。
午前4時ごろ・・・兵を進め、歩いて回り込んだと考えられます。
自然現象を巧みに利用して、由比ヶ浜への上陸を成功させた新田軍は、周辺の民家に次々と火を放ちます。
そして、その火が浜風に乗って広がるのに乗じて市街地に攻め入ったのです。
思いもよらない海側からの攻撃に慌てる幕府軍!!
鉄壁だった切通の守りも次々と破られます。
最早、幕府軍の敗北は決定的でした。
しかし、幕府軍は最後まで鎌倉武士の意地を見せます。
火は燃え広がって、北条執権邸にまで・・・。
高時は、側近らと共に菩提寺だった東勝寺に逃げ込みます。
鶴岡八幡宮の南東600mのところにあったとされる東勝寺・・・ここが、鎌倉幕府終焉の地となったのです。
「もはやこれまでか・・・」
皆、最後の時を覚悟していました。
するとそこへ、最前線で戦っていた高時の側近・長崎高重がこう告げます。
「敵の手にかからぬうちにご自害すべき時ですが、最後の御奉公として今一度敵を蹴散らしてまいります。
 どうかそれまでお待ちください。」
そう言って駆け出すと、150の兵と共に新田軍に突撃!!雷神のごとく戦った高重は、東勝寺に戻ると、

「敵はそこまで迫りつつあります。ご自害ください。
 この高重が、切腹の手本をお見せして、冥途の先導を致しますゆえ」
皆がこれに続き切腹!!
側近たちの見事な切腹に高時も・・・高時もこと切れると皆も自害・・・その数 870人に及んだといいます。

武家政権が生まれ変わるための産みの苦しみだったのかもしれません。
150年続いた鎌倉幕府は終わりを告げたのでした。
鎌倉での死傷者は6000人以上・・・幕府滅亡に心を痛めた後醍醐天皇は、足利尊氏に命じて執権の屋敷跡に寺院を建立し、北条氏の霊を弔いました。

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