日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

聖徳太子 本当はなにがすごいのか [ 田中 英道 ]

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日本の紙幣に7度も肖像画を使われた人物・・・偉人中の偉人聖徳太子です。
遣隋使を送るなど、日本の仏教の礎を築いた重要人物として知られていますが・・・近年その存在が疑問視されています。
虚構か?実在か??

6世紀末から7世紀初頭にかけての飛鳥時代、奈良地方にあった大和政権が日本を動かしていました。
その政権の中心人物として数々の業績を残した偉人が聖徳太子ですが・・・
その聖徳太子にはたくさんの疑惑があります。

①架空の人物ではないか??
聖徳太子の記述が初めて登場するのは100年後の720年の日本書紀と言われています。
そこには、憲法十七条や、冠位十二階を制定したと書かれています。
が、その内容は、当時の政権の中枢にいた藤原不比等、長屋王、道慈たちが創作したもので、聖徳太子も彼らが作った架空の人物だったという虚構説です。

聖徳太子の名ではよばれていなかったものの、モデルになった人物はいました。
そのモデルとは、日本初の推古天皇を補佐した人物だと言われています。
その補佐役を務めていたのは、当時の状況から・・・推古天皇の甥にあたる用明天皇の第二皇子ではないか?と言われています。
しかし、第二皇子の正式名は解っていません。
どうして聖徳太子と呼ばれるようになったのでしょうか?

日本書紀にも聖徳太子という記述はなく、厩戸皇子・東宮正徳・上宮太子・皇太子・上宮厩戸豊聡耳太子などと呼ばれています。
聖徳太子という名が登場するのは、日本書紀から30年後の漢詩集「懐風藻」(751)が最初です。
聖徳とは、日本書紀にある玄なる聖(ひじり)の徳(いきほい)という言葉から来たと考えられ、王位につかなかったが王と同じ徳を持つことを示しています。
このことと、皇太子であることが結びついてできた名が一番ふさわしい・・・と、聖徳太子となったのです。

②有名な肖像画は、聖徳太子ではなく全く別の人物では??
かつての1万円札など紙幣の肖像画の元となったのは、聖徳太子を描いた最古の絵として法隆寺に伝えられてきた人物像ですが・・・作者、制作年代は不明で、日本風ではないその服装から、唐人ではないか?百済の阿佐太子ではないか?と言われてきました。
ところが1980年代後半、奈良市の遺跡から木棺が発見!!
奈良時代、8世紀ごろのものとされるこの木棺には、役人の姿が描かれていました。
この姿と法隆寺の人物画と比較したところ、極めて似ていることから・・・この絵は8世紀ごろに書かれたもので、モデルとなったのは、日本人であることが分かってきました。
つまり、この肖像画は、聖徳太子の飛鳥時代に書かれたものではなく、8世紀に侵攻のための描かれた「聖徳太子」を推測して書かれたものとされています。

③超人伝説は本当なのか?
聖徳太子と言えば・・・日本書紀に書かれているエピソードの中に・・・
馬屋の戸の前で生まれる
生後すぐに言葉をしゃべった
一度に10人の訴えを聞き分けた
未来を予言した
こうした聖徳太子の超人伝説はどうして生まれたのでしょうか?
聖徳太子の名前に・・・「上宮厩戸豊聡耳」という名があります。
この意味を考え・・・聖徳太子の様々なことが考えられたようです。
すべては名前からなのです。
聖徳太子の超人伝説は、皇太子の理想像として作られたのではないか?と思われます。
皇太子はどうあるべきか??日本書紀に書かれているので、聖武天皇にとってのお手本、マニュアルの存在だったようです。

日本が倭国と呼ばれていた6世紀末・・・
奈良地方では、有力豪族たちによる連合政権が作られ、その盟主として後の天皇としての大王が存在していました。
当時はまだ明文化された法律も、本格的な官僚制度もなく、政治は皇族、豪族たちによる話し合いで行われていました。
そんな中、聖徳太子は推古天皇の補佐役となり、当時の有力豪族・蘇我馬子と協力し合いながら、政務に励んでいたと言われています。
しかし、その頃の日本は外交において難題を抱えていました。
当時の朝鮮半島には、4つの国と地域(高句麗・百済・新羅・任那)があり、高句麗、百済、新羅の争いが続いていました。
その結果、鉄の産地として日本と縁の深かった任那が新羅によって併合されてしまいました。
このままでは、鉄の供給が絶えてしまう・・・そこで、倭国は3度にわたって朝鮮半島に遠征をしますが、芳しくなく・・・成果をあげることができませんでした。
そこで、外交戦略を変えます。
統一したばかりの大国・隋に使者を送ることを決断します。
そこには、聖徳太子の狙いがありました。
新羅に対して、倭国自らが圧力をかけるよりも、新羅が従属している隋に直接働きかけるのが一番ではないか?
当時の朝鮮半島の国々は、隋の属国としてありました。
支配者の隋に働きかけて、新羅を任那から撤退させようとしたのです。
600年、遣隋使を派遣!!
しかし、この目論見は大失敗!!

「隋書」倭国伝によれば・・・
隋の役人が日本の国情を尋ねたところ、日本の使者はこう答えました。
「倭王は、天をもって兄となし、日をもって弟となす。
 夜明け前に政務を執り、日が昇ると政務を停止し、後は弟に任せる。」
国家として体を為さない意味不明な説明で、隋の皇帝は「道理ではない」と、あきれてしまったのです。

帰国した使者から報告を受けた聖徳太子は、反省します。
「我が国は、国の制度も整っていない後進国だ。
 これではまともに、隋と外交交渉することもできない。」と。
この最初の遣隋使の失敗がもたらした危機感が、聖徳太子を大胆な国づくりに駆り立てたのでした。

「なぜ我が国は、隋に認めてもらえなかったのか??」

聖徳太子は、その原因が日本の政治制度が整っていなかったことと痛感・・・。
国内体制の整備に取り掛かります。
大和政権内に、外交使節を招く格式高い場所がなかったことから、603年小墾田宮に遷宮。
宮の中心に、政務や祭礼が行われる朝庭を配する建物は、中国の建築物に倣ったもので、外国からの使節を招くにふさわしい場所となりました。
これが、後の御所の原型となります。
次に聖徳太子が行ったのが、豪族たちを序列化するための官位制度の制定です。
当時の氏姓制度は・・・大君から与えられた姓によってきめられていました。
君・臣・連・直・・・姓によって細かくランク分けされた世襲制でした。
そのため、どんなに優秀な人物であっても、姓が低ければ、上の炊く職に就くことができませんでした。
そんな日本の序列制度を、隋はこう蔑んでいました。
「頭には冠はなく、ただ髪を両耳の上に垂らしている」
隋では、役職に応じた冠位が定められ、冠をつけた正装で職務を行っていました。
もちろん、出世は実力次第・・・聖徳太子は、日本もこれを見習うべきだと新しく12段階の官位を定め、色分けした冠を作り、さらにそれらの官位は姓に関係なく実力によって与えられるように改革。
冠位十二階の制定には、日本を隋に認めさせたいという聖徳太子の思いが込められていました。

604年・・・憲法十七条の制定。
そこには、聖徳太子が理想とした国づくりの理念がありました。
当時生まれたばかりの官人(官吏・役人)達への批判が記されていました。
さらに、儒教の教え・・・社会秩序を作り出す礼の重要性を説きました。
常に、礼の心を持ちなさい。
民を治める基本は必ず礼にあります。
十七条の憲法には、儒教・法家など、外来思想を取り入れました。
なかでも聖徳太子が国の中心として位置付けたのは仏教でした。
仏教には、実学的な要素が高く、農業や建築を発展させるうえで、欠かすことができなかったのです。
こうして、国内の制度を整えた聖徳太子は、再び隋との交渉に臨むのです。

実際の聖徳太子は、どんな人物だったのでしょうか?
将来を嘱望されていた聖徳太子でしたが、その家庭環境は複雑でした。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女は欽明天皇の子という異母兄弟・・・
さらに、用明天皇が587年に崩御すると、母親が用明天皇の第一皇子・多米王と再婚。
母親が兄の妻となってしまったのです。
この母親の近親結婚に悩んでいたと言われていますが・・・??
この時代は当たり前で・・・近親結婚することで、天皇家の財産の拡散を防ぐと考えていました。

用明天皇が亡くなると、後継者争いを巡って蘇我馬子と物部守屋が対立!!
馬子は物部氏が擁立していら聖徳太子のおじ・穴穂部皇子を殺害!!
さらに、物部守屋を追討、滅ぼしてしまいました。
実権を握った馬子が、猛威につかせたのが、聖徳太子のもうひとりのおじ・崇峻天皇でした。
しかし、この崇峻天皇も、馬子によって暗殺!!
次々と起きる血生臭い豪族の死に、多感な青年期の聖徳太子は悩んでいた??

聖徳太子は道後温泉で湯治をしています。
結婚もしており、妃は4人(菟道貝蛸皇女・橘大郎女・刀自古郎女・菩岐々美郎女)、子供は14人いました。

日本書紀には、601年聖徳太子が28歳の時の動向が書かれています。
それまで推古天皇の右腕として辣腕を振るっていた聖徳太子が、飛鳥から20キロ離れた斑鳩に宮殿を建設し、拠点を移すというのです。
聖徳太子が斑鳩に移住して以降、日本書紀には聖徳太子に関する記述が少なくなります。
そのことから、蘇我馬子との権力争いに敗れた聖徳太子が、飛鳥から斑鳩に追いやられてしまったのか??
ではなく、新しく与えられた大きな課題があったからです。
聖徳太子の新しい職務とは、斑鳩の地理的条件からわかります。
斑鳩は、当時港のあった難波津と飛鳥の中間に当たり、近くには大和から河内の最短ルート・龍田道があり、大和川が流れる交通の要所でした。
飛鳥よりも難波津に近い斑鳩に拠点を置けば、一早く外国の情報を入手することができます。
斑鳩への移住は、聖徳太子にとって外交に専念するためだったのです。
最初の遣隋使から7年後の607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣します。
その頃の隋の皇帝は、1回目の遣隋使を迎えた文帝から二代皇帝煬帝に代わっていました。
煬帝は100万人を動員して運河を建設するなど、権力をほしいままにしていた暴君でした。
その煬帝に宛てて、小野妹子に国書を託します。
「隋書」倭国伝によると・・・
仏教復興に勤めている天子様にご挨拶するとともに、我国の僧侶たちに仏法を学ばせたい。
煬帝は、この国書の一文に目を留めます。
”日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。 つつがなきや”
煬帝はこの一文を見て、「蛮夷の書は礼儀をわきまえていない」と、あきれ返ったといいます。

当時、隋は高句麗と戦いを始めようとしていました。
高句麗と倭国が連携することは避けたかったので、無礼な日本と手を組んでくれたのです。
隋からの使者は大和に滞在し、当時で来たばかりの飛鳥寺や建造物を見学したと言われています。
後進国ではないことを証明することができたのです。
聖徳太子は、政務に邁進しながら、仏教研究にも情熱を注いでいました。
聖徳太子建立七大寺は・・・四天王寺・法隆寺・法起寺・広隆寺・中宮寺・橘寺・葛木寺(現存せず)。
622年に斑鳩で聖徳太子は亡くなったとされています。
2月21日に妃の膳部菩岐々美郎女が死去、翌日の22日に聖徳太子が亡くなったと言われています。
流行り病の可能性もあるとされています。
亡骸は磯長陵(しながのみささぎ)に埋葬されたといわれています。
それは、叡福寺北古墳と推定され、そこには、母・妃・聖徳太子の3つの棺が眠っているといわれています。

世界最古の木造建築とされる法隆寺。
現在は東院伽藍と西院伽藍からなっていますが、法隆寺が再建されている・・・??
607年聖徳太子が病に伏せっていた父・用明天皇のために推古天皇と創建したとされ・・・長い間、当時の姿のままと思われてきました。
しかし、日本書紀の670年の記述では、法隆寺は落雷によって全焼したといわれています。
1939年、法隆寺の南側から全く違う遺構の伽藍が発見されました。
この若草伽藍が、聖徳太子の作った法隆寺で、再建されたのが西院伽藍だと考えられるようになりました。
一度焼けてしまった法隆寺の再建理由は・・・??
娘の片岡女王や周辺豪族が聖徳太子を祀るためだったのではと考えられています。

聖徳太子は、その死後、色々な時代で人間を超える存在としてあがめられ、時の政権に利用されることとなります。
それは、聖徳太子が、日本の礎を築き、周辺諸国と渡り合える国にした偉大な功績があるからなのです。


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今回は、またまたまたまた島流しに遭う西郷どんです。
理由は、国父・久光に逆らったから!!
どれだけ孤独にさいなまれるか??そこがポイントです。

吉之助がいなくなった京都で寺田屋騒動が勃発!!
薩摩藩の仲間でであった者たちが制裁するという新選組以上にキツイハズなんですが・・・そうでもなかった西郷どんです。

薩摩藩邸宿・鍵屋では、久光に自ら謹慎を申し出た一蔵・・・
お虎におむすびを勧められています。
「おむすびは花燃ゆの専売特許では・・・??
 そこはウナギにしとけよ??」と突っ込んでください

う~ん・・・このお虎・・・とっても緊張感に欠けます。
命をかけた寺田屋の一件の前後に必要ですか・・・??
一蔵の想いが軽くなっちゃうわ・・・。

「吉之助さあ・・・今しばらく待ってくいやい。
 おいが必ず、必ず、島から呼び戻す!!」by一蔵

「一蔵どん、待っちょっど・・・!!」by吉之助

前回の島流しで、一生懸命吉之助を返してくれるように頑張った一蔵でしたが、そんな一蔵の努力も、どうでもいいような内容のケンカで国父を怒らせ台無しにしちゃうような・・・
そんな吉之助、もう帰って来なくってもいいです。
どの口が言っとんねん!!

「一蔵どん、待っちょっど・・・!!」by吉之助

吉之助は徳之島へ、村田新八は喜界島へ・・・
扶持は一切なく、食べ物も何もかも自分で手に入れなければなりませんでした。

ということです。

西郷どん、お前はいいだろうよ??
薩摩に残して来た家族はどうなるんだよ??
扶持が無くなるんだぞ!!と思っていたら、愛加那の声が・・・!!
みんなどれだけ我慢しているか、書いてくれよ~~~!!

don2
















ま、これも史実だからな・・・仕方ないわ・・・
ちなみに、突然来たように表現されていましたが、本当は吉之助が「これたら来たらいい。」と、お手紙を出しています
ただ・・・そんなこんなより、幕末のあれやこれやをやってほしいと思う私でした。

前回もいったけど、1回大河を見てからもう一度見ながらレポート書くんですが・・・
この愛加那のパート、ビデオを飛ばしちゃいました。
だって、ただのラブラブなんだもん。

その頃、久光は吉之助が「無位無官の久光は地ゴロだし失敗する!!」と思っていたその上洛が成功し、江戸城にまで勅使を遣わすことに成功!!
そして、将軍後見職として一橋慶喜が、政事総裁職として松平春嶽が復活!!
そうそう、遊郭で将軍になりたくないと遊んでいた男と、井伊直弼に会いに行って「昼ごはんも出さんのか??お腹空いたわ!!」と、思想もなしに叫んでいた男の復活でした

don















一橋慶喜に会いに来た久光・・・ボッコボコにやられてしまいました。
理由は無位無官だから、地ゴロだから・・・ということで、吉之助と同じ内容です。
ま、主人公が西郷どんで好青年なんだから、同じ考えで突っ走るのかもしれないけれど、アンマリの言われようというか・・・可哀想になってしまいました。
だって、誰のおかげで表舞台に戻って来れたと思っているんだよ、慶喜・・・あなたがばかにしている久光のおかげなのよ??

それに、慶喜ってもっと賢い人だと思うの。
あんなふうに初めて会った人間に、下品な言い方であーだこうだとは言わないと思う。
もっと賢いから、もっとスマートに見下すと思うんだけどなあ・・・

「お主のことなど、江戸では誰も知らねえよ!!」by慶喜だってさ!!

チンピラか!!
余りの恥ずかしさに、ここもビデオを飛ばしてしまった・・・
でもって、「あの牛男は来ておらんのか?」by慶喜と、またもや吉之助アゲアゲです。
ほんと、久光が叩かれるシーン。恥ずかしかった・・・。
その後、島津久光について、ググっちゃったよ・・・。
だって、私の想像と全く違うんだもん・・・

そんなこんな、風雲急を告げている?(そうでもないか?)のに、吉之助はまたもや相撲・・・と、徳之島から沖永良部島に遠島となりました。
愛加那が、なんでだとか、どうしてだとか言ってますが、そんなこんなもどうでもいい・・・。
久光が地ゴロなら地ゴロでもいい、あんな表面だけ馬鹿にされて、バカにされるも程がある!!
馬鹿にするならバカにするで、もっと信憑性のあるバカにし方ってもんがあるだろう??
ああ・・・ほんと、久光が可哀想・・・

沖永良部島に「遠島の上 囲いに召しこみ」でした。
で・・・最初の2か月ぐらいは孤独にさいなまれて死にかけて・・・島の人に助けてもらうんですが・・・

don3
















いきなりすでに島役人の土持政照に助けてもらいます。
食事をもらったり・・・島の人が挨拶にも来てくれます。
何でじゃ??
ドラマ的にどうだよ・・・それ??

先生にお会いできるなんて・・・と喜んでいますが、こんな偏狭な地まで西郷どんの名声は聞こえているようです。
そこに登場したのは、川口雪篷!!一応、書家です。
薩摩から流されて10年もの罪人でした。

その手紙には、吉之助の憎き久光の上洛が成功したことや、一蔵が側近になったこと、あーだこうだと大山格之助からの愚痴が書かれていました。
吉之助に来た手紙を読んで・・・10年も辺境の地にいたとは思えないような事情通な話をしてくれます。

日に一度、ヒエと麦と塩を与えるように言われていた土持・・・
沢山食事を用意してくれたのは、もうすぐ吉之助が死ぬと思っての情けでした。
久光と一蔵は吉之助を殺す目的だった!!と言い出す雪篷。

この一件以来、島の者たちの食事には手をつけなくなった吉之助。

don4
















暴風雨にも見舞われ、死の淵を彷徨う吉之助・・・
そんな吉之助を助けてくれたのは・・・あの雪篷でした。

ってことで、うわべだけのお話でした。
この西郷隆盛と大久保利通、西郷は斉彬に見いだされ、大久保は久光に取り入る・・・。
この二人は、どちらかを語るうえでも最も重要なお互いです。
お互いに幼なじみでありながら、立身出世とお互いの嫉妬の中で、ジェットコースターのような二人です。
それは西南戦争まで続きます。
西南戦争になった時、大久保は西郷を説得にはいきませんでした。
お互い心では何もかも解っていて、維新のために・・・残った士族のために・・・自分の志を貫いたんだ!!とか、やっぱり二人は思想が合わずに仲が悪かったんだ!!とか、なんでもいいけど、明治維新へと向かう中で、お互いの考えがぶつかりながら成長していく、とってもかっこいい材料となると思うんです。

この大河の二人・・・基本的に何をしたのかわからない薩摩の宝の西郷を、大久保がなくてはならない人だと助けるという、一辺倒の構図しかありません。
そうではないと思うんです。
大体、大久保は内務卿になった男ですよ??
政治家になるべくして生まれてきた男と言われています。
西郷さんのなんかわからん偉大さを語るよりも、もっと、政治を語ってほしいわ!!



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1866年1月・・・風雲急を告げる幕末の京都で・・・時代を大きく動かす密約が結ばれました。
薩長同盟です。
交渉に当たったのは、薩摩藩が小松帯刀と西郷隆盛、長州藩が木戸孝允、そして・・・交渉成立に深くかかわったとされているのが坂本龍馬です。
薩長同盟を機に、薩摩と長州を中心に討幕運動が加速!!突き進んでいくこととなります。
元々は犬猿の仲だった薩摩と長州がどうして・・・?

1853年浦賀にぺりーが来航し、開国を要求します。
これをきっかけに、外国勢力を打ち払う攘夷の機運が高まります。
外様大名の雄・薩摩藩は、朝廷と幕府と諸藩とが一体となって富国強兵を行い、国力が備わったところで攘夷を行うのがいいと主張。
これに対し、同じく外様で力を持っていた長州藩は、即時の譲位を主張!!
一部の公家を巻き込みながら、過激さを増し、幕府を悩ませていました。

そんな中、1863年8月18日・・・
会津藩、薩摩藩を中心とした幕府側勢力が、長州藩と急進派の公家を京都から追放します。
ところが・・・長州藩は、翌年の1864年、京都での復権を図り、3人の家老が軍勢を率いて上洛・・・(禁門の変・蛤御門の変)。
蛤御門付近で会津藩、桑名藩と激突!!
長州藩は、一進一退を続けるも、京都にいた西郷隆盛の薩摩軍の部隊が幕府側につくと、形勢は不利に・・・!!
長州藩は、京の町に火を放ち、逃げていきました。
その時、御所を背にした幕府軍に対して発砲したとして長州軍は朝敵に・・・!!
そんな長州藩に対し、薩摩藩が望んだのは厳しい処分・・・長州征討でした。
禁門の変の時に参戦していた西郷は、その時の強硬派の中心的人物で、盟友・大久保利通に手紙を送っています。
「長州藩には、兵力をもって迫り、東国当たりへ国替えを命じるべきである」と。
厳しい処分を考えていたようです。
朝敵となってしまった長州藩は、薩摩や会津に対して敵愾心を燃やし、薩摩を薩賊、会津を会奸と呼び、憎しみを忘れないようにとその4文字を下駄に書いたと言われています。

禁門の変から5日・・・7月24日、幕府は、西国諸藩に徴収を攻撃するように命じました。
第1次長州征討です。
ところが、あれだけ厳しい処分を望んでいた薩摩藩が、「長州には寛大な処分を望む」と、その態度を軟化させます。
どうして方針が変わったのか・・・??
それは、当時の薩摩藩の権力者・島津久光の意向によるものでした。
久光は、京都でで行われた参与会議に参加し、新しい国づくりに参加していました。
しかし、薩摩藩の力が強くなることを恐れた徳川慶喜が、久光と対立。
慶喜の暴言によって、参与会議はなんの成果もないまま瓦解してしまいました。
それ以後、幕府の政治は、一会桑政権(一橋徳川家・慶喜、会津藩・松平容保、桑名藩・松平定敬)となります。
国元に戻った久光は、薩摩藩のみの富国強兵に舵を切ります。
そうとなれな、藩の支出が多くなる長州征討などもってのほか・・・戦を避けたいという久光の意向が、薩摩の方針転換の大きな要因でした。
さらに、久光が慶喜と対立したことで、薩摩藩が幕府から危険視されたともいわれています。

もし・・・長州藩が滅ぼされてしまったら・・・次の標的は薩摩に向かうのでは・・・??という意見が内部から出てきました。
あまり長州藩を追いつめないように・・・。
しかし、禁門の変で直接対峙した西郷は、厳しい処分にこだわっていました。
これを西郷の上司である薩摩藩家老・小松帯刀が説得。
西郷はようやく態度を改めて、久光の意向に従い、その手腕を発揮していきます。

1864年10月・・・大阪城で軍議が開かれた際には、薩摩藩の代表として参謀役として任じられた西郷は、長州征討軍の総督・尾張藩主徳川慶勝に進言します。

「いま、長州藩の中は、内部分裂を起こしています。
 これを利用し、長州人をもって長州人を征するのが良いかと・・・」

当時、長州藩は、穏健派と強硬派に分かれていました。
そこで西郷は、穏健派を支持し、実権を握らせることができれば戦を行うことをやめることができると考えたのです。
しかし、征討軍はすでに15万で長州藩の国境に・・・!!

「このままでは長州藩が潰れる・・・
 そうなれば、次は薩摩藩が危ない・・・。
 何としても、総攻撃を回避せねば・・・!!」

西郷は急いで、岩国藩主・吉川経幹に長州藩の穏健派に恭順の意を見せるようにと要請します。
交渉が成立するように、禁門の変で捕らえていた捕虜10人を長州藩に返しました。
その後、自ら長州藩に乗り込んで、薩摩藩に敵愾心を抱く強硬派とも交渉を行います。
乗り込んで・・・殺される危険性は大でした。
それでも西郷は、承知の上で行ったのです。
西郷ならではの問題解決方法でした。
こうした西郷の本葬によって、長州藩が禁門の変に加わった三人の家老の首を差し出すなどの幕府に恭順の意を示したことで、総攻撃は中止!!
西郷は、間一髪のところで薩摩藩を戦に巻き込まずに事態を収束させたのでした。

1865年5月、幕府は再び抵抗の姿勢を見せた長州藩に圧力をかけるために、第14代将軍徳川家茂自ら軍勢を率いて江戸を出発!!
これを知った西郷は怒りをあらわにします。
そして、家老小松帯刀にぼやきました。

「将軍の江戸出発は、自ら災いを迎えるようなもので、幕府の威厳を示すどころではありません。
 これによって、天下は動乱と徳川氏の衰退はまさに、この時よりはじまるでしょう。」

薩摩藩は、この時、西国雄藩連合を作って幕府にせまり、二度目の長州征討を阻止しようと考えていました。
ただし、これを実現させるためには、当事者である長州藩の協力が必要で・・・
薩摩と長州の和解が急務でした。
そして、この和解実現の立役者となったのが、土佐脱藩浪士・坂本龍馬でした。
この時、龍馬は薩摩藩の庇護のもとにありました。
それは、龍馬が勝海舟の門下生として参加していた江戸海軍塾が1865年に閉鎖され、行き場を失くした龍馬が、交流のあった薩摩藩・小松帯刀に相談し、預けたのです。
小松は、近代的な海軍教育を受けていた龍馬は使える!!として、庇護下に置いていたのです。
そして、龍馬が長州藩士たちとも交流があったことで、薩長和解の道を探らせたのです。

早速、知人を通じて下関に入った龍馬は、長州藩の中心的人物・木戸孝允との会談にこぎつけます。
しかし・・・相手は、薩摩への深い恨みを抱えていました。
どのようにして説得する??
鹿児島にいる西郷が、上洛する際に、下関によるらしい・・・
そして、木戸との面会を希望しているという噂が・・・。
そこで龍馬は、西郷を木戸との会談の場に連れてくることができれば、薩長の和解が進む・・・
そう考えた龍馬は、同じく土佐脱藩浪士・中岡慎太郎に、西郷を下関に連れてくるように頼みました。
龍馬は木戸と共に、西郷の到着を待ちます。
しかし・・・戻ってきたのは中岡だけでした。
なんと、西郷は、下関によることなく、京都に向かってしまったのです。

どうして西郷はこの時現れなかったのでしょうか?

この時点で、西郷は木戸と会う意志がありませんでした。
京都がもめている今、一刻も早く京都に戻らなければ・・・!!と、西郷は思っていたのです。
そして、薩摩藩の最高実力者・島津久光に答えもしていない中、木戸とあったとしたら??
どんな激しい怒りを買うかもしれません。
あやふやな情報で、糠喜びをさせてしまったとして、龍馬と中岡は木戸にひたすら謝ります。
しかし、木戸の怒りは収まらず・・・その要求は・・・??

「薩摩藩が信用できると言うならば、長州藩のために、名義を貸してくれますか?」by木戸孝允

この頃、長州藩は、武器の輸入を幕府から禁じられていたので、外国から新しい武器を手に入れることが出来ずにいました。
幕府と対峙する為に、軍備強化を図りたい木戸は、薩摩藩から名義を借りることで武器を調達しようと考えたのです。
龍馬はすぐにこれを薩摩側に報告!!
なんとか長州藩と和解したい小松と西郷は、名義を使うことを許可します。
こうして長州藩は、4000丁の最新式の銃と、蒸気船を手に入れることに成功したのです。

9月・・・西郷は、再び龍馬を長州に向かわせています。
今度は、二度目の長州征討を阻止しようと奔走していることをあえて使えることで、お互いの信頼を構築しようとしたのです。
この時、大きな役割を果たしたのは、西郷が龍馬に持たせた大久保利通の書簡の写しでした。
そこには・・・

「義のない勅命は勅命にあらず。
 いかに朝廷の命令であろうとも、天下万民が認めなければ、誰も支持することはない。」

長州征討に断固反対する言葉でした。
これが、長州藩に多大なインパクトを与えました。
そして、薩摩藩の信頼が回復・・・薩長同盟へ・・・??

徳川慶喜が権勢をふるう幕府と対立しつつあった薩摩藩は、長州藩が潰れれば、次は薩摩藩が・・・と、警戒!!
長州征討を何が何でも阻止する必要がありました。
一方、長州藩は、軍備を増強し、二度目の長州征討に備えなければなりませんでした。
「出来れば、長州単独で戦うのは避けたい・・・」と、他藩と協力することを模索!!
そんな中、12月・・・木戸孝允の元を一人の男が訪れます。
後に総理大臣となる黒田清隆・・・この時は、薩摩藩の下級藩士でした。
黒田は木戸に対してこう言います。

「京都にいる西郷が会いたがっているので、是非あってほしい・・・。」と。

しかし、これは黒田の全くの作り話でした。
黒田の中には、いがみ合っていたのでは、根本的に解決しない・・・という思いがあったのです。
黒田清隆こそ、薩長の交渉のおぜん立てをした最大の功労者といっても過言ではないのです。
一度、薩摩藩に騙された木戸は・・・懐疑的・・・。
そこで黒田は・・・

「すでに西郷の心は、長州とひとつになっています。」

俄に信じがたい・・・でも、長州としても味方が欲しい・・・。
そこで、木戸は、黒田と共に京都に向かうことに・・・。
すべて、黒田の独断であったために、何も知らなかった西郷ら薩摩藩幹部は戸惑います。
しかし、せっかくの機会・・・と、そのまま京都で会談することに。

会談が行われた場所は諸説あって・・・
その一つが、現在の同志社大学の敷地内にあった薩摩藩邸。
そして、近年有力視されているのが・・・森之木町にある御花畑御屋敷・・・
ここは、小松帯刀が公家の近衛家から借り受けていた場所で・・・1800坪の邸宅でした。
つまり・・・小松帯刀の私邸というよりは、薩摩藩の迎賓館のような場所だったのでは?と言われています。
小松は、人目につきやすい薩摩藩邸を避け、迎賓館的な御花畑屋敷を会談の場にしたと考えられます。
そして、1866年1月18日・・・薩摩と長州の会談が始まりました。

ところが・・・14代将軍家茂が第二次長州征討に向け、大坂城に入ります。
そして、幕府は、長州藩に新たな処罰を出そうとしていました。
そんな中、1866年1月18日、薩長同盟の交渉が開始されます。
薩摩藩側は、家老・小松帯刀を始め西郷隆盛、大久保利通、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。
対して長州藩は、木戸孝允ひとり・・・。
口火を切ったのは、西郷でした。

「幕府が近く下す長州への処分案を、今は忍んで受け入れてたもんせ。」by西郷

西郷の言う長州処分案とは、長州藩主の蟄居、10万石削減・・・これはまだ幕府で協議中の極秘事項でしたが、西郷は独自のルートで情報を入手していました。
薩摩は長州と共に戦ってくれると期待していた木戸は、幕府側ともとれる西郷の発言に驚きます。

「三家老の首を差し出したことで、もはや、長州藩の処分は済んでいる。
 更なる処分など、納得いきません。」by木戸

双方、黙ってしまい、会談早々に交渉は決裂・・・。
しかし、どうして西郷は、幕府が下す処分の受け入れを勧めたのでしょうか?
薩摩側は長州藩士が、禁門の変で御所の前で発砲した以上、何らかの処分が必要だと考えていました。
この時、西郷は・・・一旦、幕府が下した処分命令を受けさせておいて、長州側に村にならないよう収束させるつもりだったようです。
長州側が、幕府の処分案を拒否すれば戦争になってしまう・・・それを避けたかったのです。

薩長の会談が物別れに終わってしまった2日後・・・薩摩藩の有志によって、長州に戻ることとなった木戸の送別会が行われました。
そこに・・・坂本龍馬がやってきて・・・話し合いの結果を知らない龍馬は木戸に・・・。
そして、西郷と小松にもう一度話し合うように説得します。
これによって、もう一度話し合いが持たれることとなりました。
決裂した交渉・・・知恵を絞ったのは西郷でした。
木戸の希望に沿う条件を提示しました。
その内容が、唯一記録として木戸の書簡に残っています。

・幕府と長州の戦いが始まれば、薩摩藩は二千ほどの兵を国元から上洛させ、幕府に圧力をかける。
・戦が発生して、長州側が勝利を収めそうな勢いになった時は、薩摩藩は長州藩の復権を朝廷に働きかける

その中身は、薩摩藩がいかにして長州藩の復権に尽力するかというものばかり・・・
中でも注目すべきは・・・

・一橋、会津、桑名の三者が今までのように朝廷を擁し、薩摩藩の終戦尽力の道を遮った際には、決戦も已む終えない。

これらの内容に、木戸も納得し、1月21日薩長同盟成立!!

この決戦は、対幕府ではない??
薩長同盟は本当に軍事同盟??
西郷が念頭に置いていたのは、一橋、会津、桑名との戦いで、武力討幕を全く考えていませんでした。
実際に戦闘が想定されるのは、京都で軍事力を持つ会津のみでした。
つまり、戦いが起きても藩同士の戦い・・・
「決戦」という言葉には、長州と共に幕府と戦うという意味はなかったと思われます。

つまり、薩長同盟は、討幕のための軍事同盟ではなかったのです。
この時点では、薩摩は第二次長州征討が実行される可能性が低いと想定していたので、木戸に伝えた内容は履行されないと見ていました。

薩摩藩にとって記録に残すほどでもなかった会談も、四面楚歌の長州にとっては大切なものでした。
その証拠に、薩摩藩が長州藩に有利な内容を提示してきたこの会談の内容を”皇国之大事件”とし、木戸はその言葉を書簡に何度も書いています。
そして、木戸は龍馬にこの書簡に裏書を書くように強く求めます。
交渉の場には、長州側は木戸だけでした。
なので、交渉内容を証明する人物として・・・龍馬は長州藩からは、薩摩藩士のひとりとして認識されていました。
後に、書簡を受け取った龍馬は、朱色の墨でこう記します。
”表に記されているのは、私は同席したときに、話し合われていた内容に相違ありません
2月5日 坂本龍馬”と。
龍馬に裏書してもらうことで、交渉を確かなものとして長州に持ち帰ったのです。

薩長同盟締結からわずか2日後・・・
1866年1月23日、寺田屋にて・・・
坂本龍馬は会談の成功を祝い、伏見の寺田屋で、長州藩となじみの深い長府藩三吉慎蔵と祝杯を挙げていました。
するとそこへ・・・幕府の役人が・・・!!
龍馬は持っていた銃で応戦しますが、刀で切りつけられ両手を負傷!!
命からがら近くの薩摩藩邸に逃げ込みます。
世にいう寺田屋事件です。
2017年、鳥取藩の記録が発見されました。
そこには・・・
”坂本龍馬というものが泊まっていた寺田屋に、薩摩と長州が密談していたことを記していた手紙があった。
 それによれば、長州が挙兵した際は、薩摩藩が京都の幕府軍を追い払うという密約があるらしい。”
 龍馬が寺田屋に置き忘れた手紙が、幕府の手に渡り、極秘の密談の内容が数日のうちに幕府に漏れていたのです。
一説には、龍馬はわざと手紙を残して幕府にリーク、薩摩の方針を幕府に知らせることで、この同盟が破棄されないよう、薩摩藩の退路を断ったのでは??とも言われています。
果たしてその真相はいかに・・・??

寺田屋事件の後、龍馬が家族に送った手紙には・・・
「寺田屋で襲われたことは、幕府に薩摩藩と長州藩の関係を知らせることができて、かえって幸いだった。」と。
龍馬は、薩摩と長州の温度差・・・この同盟の考え方の違いに気づいていたのでしょうか??

薩摩藩にとっては、記録に残す必要のない、リップサービスだった薩長同盟・・・
幕府の知るところとなった瞬間に、歴史は大きく動くのです。
同盟締結から5か月後・・・
6月第二次長州征討・・・幕府は10万の軍勢で開始します。
単独で幕府軍を迎え討つ長州軍は、3500ほどの兵で善戦。
この時、兵士たちが手にしていたのは、薩摩藩名義で入手した最新式の銃だったのです。
二度目の長州征討はないという思惑が外れた薩摩藩・・・
木戸との約束を守るために征討軍参加を拒否!!
西郷も、早期終戦に向けて尽力します。
長州藩は戦いを優位に進め、征討軍を撃破!!
この後、薩長両藩の討幕への勢いは、大きなうねりとなり、江戸幕府は終焉へと向かうのです。
薩長同盟成立からわずか2年後のことでした。

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明治維新とは何だったのか: 薩長抗争史から「史実」を読み直す

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寺田屋騒動っていっても、あの龍馬さんの寺田屋事件とは違うお話し。
今までのほほんとやってきた西郷どんで、こんなキツイ事案をするのは、とっても大変だったんじゃないかなあ・・・って思う回・・・だと思う。なるはずだ!!

血気にはやり、志士たちを押さえるために京へ向かった吉之助・・・
下関で待っていなかったことで、久光の逆鱗に触れてしまいました。
ま、当たり前だわな・・・

久光より一足早く京に入った一蔵は、吉之助を探します。

その頃、吉之助はまたもや遊郭で、食事中。
今回のお仲間は、有馬新七と、過激の急先鋒・長州藩久坂玄瑞と土佐藩士吉村虎太郎でした。
ほんと、いっつも思うわ・・・なんで遊郭やねん!!
もっと、アジトみたいなことでこそこそしてくれよっ!!
緊張感ゼロ~やねん!!

もう・・・久坂のことをこれ以上いじらんといてくれ~~~!!
このお金が黒糖地獄から出とると思うと、なんでそんなに呑気に食っとんねん!!

「おいたちはみな、思いは同じじゃなか・・・
 こんニッポンを変える・・・!!」

と息巻いている西郷さんですが、この時点で薩摩は緩やかな攘夷・・・つまり、公武合体派で、薩摩出身の篤姫様が一生懸命工作してくれているはずなんですが・・・
前年には、和宮さまが降嫁してるんですけど・・・
この時点では、薩摩は、会津・桑名と同じで公武合体派なんだよ~~~!!
薩摩はともかく、長州は薩摩の事が大嫌いなはず!!
攘夷派と公武合体派を一緒にするな、やめてくれ~~!!

と思っていたら、飲んで歌って踊るそうだ・・・。
島で教わったらしいけど、お金の使い方も教えてもらったのか・・・??

怒りにやっていた一蔵・・・
どうして待っていなかったのか?という一蔵・・・
いきなり刀を抜いて・・・二人で刺し違え・・・みたいな話になって・・・
でもね、なんだか頭に入ってこないんだよ・・・台詞が・・・。
重みもへったくれもないからかなあ・・・
とりあえず、吉之助は切腹だそうだ。

なんと、二人が話している間に、久坂も吉村も帰ってしまったとの事・・・。
ま、帰った方が身のためだよ・・・
急先鋒をかっこよく生きているのに、西郷と膝附合わせて酒を飲んだなんてトンマな久坂なんて・・・
本人が呪って出て来るだろ??

残りのみんなで遊郭で話し中、お腹が鳴るとか・・・そんな演出要らんねん!!
旦那曰く「そんなん史実やから、仕方ないやん」だそうだ
お腹が空いてるから、食べるんだとさ・・・。

「飯も酒も女子も要らん。
 こげなとこで話は出来ん!!」by一蔵

そう、その通り!!
みんなが言いたかったことを、言ってくれたね、一蔵!!
でもね、おゆうは後に、一蔵の妾となり陰で支えることとなります。
この大河の感じからすると、この一蔵のひとこと、ただのツンデレに見えてしまうのは、私が穿っているからだろうか・・・??

そこへ、海江田信義登場!!
やっぱり遊郭にいるのが解るんだな・・・ず~っと、入りびたりだから!!

海江田が言うには、自分が久光に進言したことで、腹を斬らされるそうだ・・・。
なんでも、吉之助が他藩の志士を集めて先導していると報告していたのです。
会いたがって、西郷の元に詰めかけていると・・・

「噂ではないのか??」と、やんわり誘導してくれているのに、ダメ押しの一言!!

つまり、久光の命令である下関で待っていろという命令と、他藩の者と交わるなという命令2つを破ったことになったわけで・・・
なんだか・・・そんな幕末の志士がおしゃべりってのも、なんだかなあと思います。
それも薩摩隼人が・・・!!
まあ・・・そんなうっかりだから、あんまり功績を残せていないのかな??なんて、思っとけばいいか??

と、西郷切腹の話をしているのに、またもや新八のお腹が鳴って・・・
必要か??お腹が鳴るの??
旦那曰く「そんなん史実やから、仕方ないやん」だそうだ

みんなが揃ったからややりたいことがあると言った吉之助。
やりたいこと・・・それはうなぎとりでした。
うなぎとりで決着つけるんですって・・・

もう・・・なんだかなあ・・・どうでもいいよ・・・って感半端ないなあ・・・
と思っていたら、「吉之助には負けられない!!誰が一番か勝負だ!!」みたいなことを言い出す一蔵。
・・・一蔵だけはまともだと思っていたけど、同じ穴のムジナだったんだね・・・
ウナギ取りがしたかったといった信吾の夢も叶ったんだね。って思わせたいんか~!!
なんとも呑気な人たちです。

「西郷はん、逃げとくれやす~~!!」byお虎

と言われても・・・捕まってしまう吉之助。
負ぶっていた信吾をなんと、有馬新七に預けましたよ??
いいんかい??
新七は、尊王尊王!!攘夷!!攘夷!!の急先鋒なのに??
こんな時こそ、一蔵に預けんかい!!

そして・・・久光がついに京へとやってきました。
召し出される吉之助・・・口答えもしっかりしているんですが・・・
「もう斉彬公はおられもはん!!」などと・・・久光は、久光で賢いんだよ・・・。
日本をを変えるためには・・・変えるためには・・・と一生懸命言いますが・・・そんなこんなも何も考えのない、食べて歌って相撲を取って、ウナギを取っている西郷さんの何が心に響くんだよ・・・
でもって、最後には・・・
「国父様には使いこなせます!!」と一蔵が言って命は助かるんですが・・・
どんだけ使いにくい男なの??人のいいこの西郷が??
全く解らんわ・・・
結局、島送りになることに・・・一時、薩摩に帰されるのでした。

帰ってきたら、またみんなでウナギを取るんだってさ・・・!!

「西郷はん~~!!」と、追いかけてやってきたのは、お虎。
なんだか旅支度してる!!と思ったら、すっころんで、見送るのでした。
これも必要か??どこがいいんだよ??
まったくわからん!!

don2















朝廷より志士始末の命を授かった久光に驚愕した薩摩藩過激派は、有馬新七の元に集合!!
大久保一蔵、海江田信義、奈良原喜左衛門らが説得するも聞かず・・・
1862年4月23日・・・
寺田屋にて、薩摩藩同士の斬り合いが・・・久光による粛清が行われるのでした。
そりゃあ、京都を火の海に・・・なんて話、志士始末の命を授かってしまった久光はどうすることもできないでしょう。
そんな苦渋の決断を解っていないなあ・・・
そして・・・寺田屋で、こんな話し合いがあったんだろうか??
う~ん・・・今まで全く政治的なことをやってきていないので、大山格之助と有馬新七が真剣に話していても、全く話が入ってこない・・・

don















「あ・・・亮ちゃん男前・・・。」
と思っていたら、斬りあいが始まっちゃったわ・・・。
「おいごと突け~~~!!」の有馬の言葉はありましたね!!
本当の斬りあいって・・・こんなにわかんないもんなんかなあ・・・漠然と観ました。

手を汚さなかった一蔵・・・その一蔵に懐紙で顔の血をぬぐって一蔵の懐に突っ込む大山格之介はかっこよかったですね

一蔵からの手紙が、謹慎中の吉之助の手に渡されました。
そん時の吉之助・・・三味線ひいてるってどうよ??

とにかく、「こんな事がありましたよ~~」みたいなドラマでした。
彼等の想いがどこにあるのか、志がどこにあるのか、何に命をかけているのか?そこを書いてくれないと、うわべだけの作品に成り下がってしまう!!


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忍者の歴史はいまから600年前の南北朝時代。
激しい争いの中、情報収集・潜入活動などの技術が発達し、「忍び」という職業として成立しました。
以降、徳川家康、武田信玄、毛利元就・・・忍びを使わない武将はいませんでした。

しかし、本当の忍者は、私たちの想像とはかけ離れています。
戦闘のプロのイメージが強いですが・・・戦いません。
今でいうスパイのような存在で、敵と対峙することよりも、生きて情報を持ち帰るのが任務でした。
戦うのは最後の手段だったのです。

さらに手裏剣はウソ・・・十字型の手裏剣は欠点だらけです。
鉄製なので重すぎる・・・軽快な動きを必要とされる忍者には不向き!!
さらに、鉄は高価なものなので、勿体ない!!投げるのを躊躇。


kunai


普段携帯していたのはクナイ!!

穴を掘る、壁を上る際の足場、武器!!
汎用性があり、武器として携帯するには最適でした。



忍者の真実其の一
忍者は黒装束を着なかった
忍者と言えば、黒装束に身を包み、華麗に潜入!!というイメージが強いですが・・・
敵地で隠密行動するのに・・・忍者とわかる黒装束は目立ちすぎる!!
どうして忍者と言えば黒装束というイメージがついたのか・・・??
それは、歌舞伎!!
江戸時代、観客が一目で忍者と認識できるように衣装を黒装束にしたのが始まりです。
その名残から、忍者=黒装束というイメージがついたのです。
では、本当の忍者は・・・??
状況によって使い分けていました。
潜入先の住民や、風景になじむように変装していたのです。
町人から情報を聞き出すときは、町人・商人・お坊さん・山伏・・・。
潜入先の方言を話せるように訓練していました。

城や屋敷の中を覗きたいときには虚無僧・・・顔を見られることなく、偵察に適していました。
城や屋敷に潜入する時は、放下師、猿楽師に・・・大名に気に入られれば、屋敷に呼んでもらえ、重要な情報を集めることができました。
これらは、七方田とよばれ、忍者の基本の変装術でした。

忍者の真実其の二
忍者は将棋が強かった。
当時の庶民の娯楽は将棋でした。
知らない土地の人と仲良くなるためには、最高のコミュニケーションツールでした。
忍者は誰とでも相手ができるように、人並み以上の腕前を持っていたといいます。

忍者の真実其の三
そして・・・将棋には勝ってはいけません。
相手のことを操り、秘密を聞き出すうえで重要なことは・・・うつけ者を演じることでした。
かしこく振る舞うと、相手は気分を害して口を閉ざしてしまう・・・。
相手を気持ちよくさせることが大切なので、将棋でわざと負けることも多かったといいます。
情報を聞き出すために、忍者はプライドを捨てていたのです。

忍者の真実其の四
潜入には穴を掘る。
鍵縄を使って城や屋敷に潜入することは、見張りに見つかる危険性があります。
なので、潜入のためには、穴を掘ってトンネルを通す・・・完成までに数か月かかることもありました。
また、壁が木造ならば、塩水を吹きかけ少しづつ木を腐らせ穴をあけていました。

忍者の真実其の五
忍術は科学だ。
実在の忍者は、超能力を使えたわkではありません。
忍術とは科学の応用なのです。
忍者は、今でも専門家しか知らないような科学的知識を豊富に持っていました。
夜の山奥で道に迷ったら・・・方角を知るために、火を起こし・・・縫い針を使って方位磁石をつくりました。
熱残留磁化という仕組みで、縫い針と水だけで方角を特定していました。

火の扱いにもなれており、忍び松明は雨にぬれても消えにくい特殊な松明でした。
独自に火薬を調合します。それに利用するのは・・・糞尿と灰汁を煮込み、冷却して火薬(硝石)を作り出していました。

忍者の真実其の六
忍者はサバイバルの達人。
時に山中に身を隠すことの多かった忍者は、サバイバル術にも長けていて、自生する植物の種類を見極め、飢えをしのいでいました。
兵糧丸というもち米や砂糖を練って作った高カロリーの非常食も持っていました。
それだけでなく、梅干しと砂糖を元に作った非常食・水渇丸で・・・酸味と唾液を分泌させ、のどの渇きを癒したといいます。

忍者の真実其の七
くのいちは存在しなかった。
女性がいたという書物は残っていません。

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