日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

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「みんなの本当の幸い」・・・そう聞いて、何を思い浮かべるだろうか?
あまりにも深い問いかけ・・・この問いに向き合い続けた男がいました。
宮沢賢治・・・「銀河鉄道の夜」や、「風の又三郎」・・・数々の名作童話を書いた男です。

賢治はどうして本当の幸いを見つけることとなったのでしょうか?
そこには、明治・大正の移り変わりがありました。
都市部では、人々の生活が近代化されていく一方、東北の農村では人々が食うや食わずの貧しい現実の中で生きていました。
この時代に、自分は一体何ができるのだろうか?
彼は、農学校の教師をしながら悩み続けます。
やがて賢治はその教師という仕事を通して、貧困に苦しむ東北の農村を変えていこうと理想に燃えるようになります。
しかし・・・そこには抗うことのできない時代のうねりが・・・!!

「人間の本当の幸福とは何か・・・??」

人は何のために生きているのか?
此の世の中はどうして存在するのか??

1896年、宮沢賢治は岩手県花巻で、裕福な商家に生まれました。
一家の大事な跡取り息子として、何不自由なく暮らしてきた賢治が目の当たりにしたのは、当時の農村の荒廃でした。
明治30年代後半、天候不順による大凶作が東北の農村を襲います。
被害は、岩手・宮城が最も多く、その惨状は、言語に絶すると新聞には書かれています。
農民は山野に分け入って、楢󠄀の実、山牛蒡の葉をとり、・・・まちには強盗が出没・・・
東北の農村は、壊滅の危機でした。
父親が営む質屋には、お金に困った農民がやってきて、お金を工面していきました。
何もできない自分のうしろめたさ・・・
そんな賢治生涯の心の支えが、敬虔な仏教徒だった母の言葉。

「人というものは、人のために何かをしてあげるため生まれてきたのス」byイチ

その後、賢治は親元を離れて進学のために盛岡へ・・・!!
18歳で盛岡高等農林学校へ入学!!
ここで、人生を形作る学問と出会います。
それが土壌学でした。
凶作に苦しみ続けてきた東北の農地を改良する学問でした。
岩手の火山灰を含んだ強い酸性の土壌・・・イネの発育には適しません。
そこに、アルカリ性の石灰岩の粉末を混ぜ、中性に近づけるとイネがよく育つ土壌に作り替えることができたのです。
土壌学に見せられた賢治は、研究に没頭し、農業技術者としての技術と経験を身に着けていきます。
しかし・・・22歳の春・・・卒業を目前にして、家業を継ぐかどうかで父と対立!!
東京へ出奔!!
そこで賢治は大正デモクラシーに包まれ、日本の教育界に新風を巻き起こしていた大正自由主義教育に触れていきます。
大正7年に創刊された日本初の童話集「赤い鳥」
創刊者の鈴木三重吉は、明治以来の押しつけ型の教育は時代にそぐわないと、子供の心と自主性を高める童話を立ち上げます。
すると、それに共鳴した名だたる作家たちがこぞって童話を執筆!!
赤い鳥は一大ブームとなります。

欧米の新教育・・・子供の個性を支援する教育を!!という流れ・・・。
賢治も赤い鳥に投稿しています。
しかし、この時賢治は・・・結核を発症していました。
命の時間を考えざるを得ませんでした。
結局、賢治は花巻へと戻るのです。
故郷に根を張って生きていこう・・・。

そんな賢治は25歳の時、小さな花巻農学校の教師となります。
苦手な家業を継ぐよりは・・・と、受け身な気持ちで教師になりました。
しかし、教師になって早々・・・教室に並んだ暗く沈んだ生徒たち・・・。
彼らの殆どが、学校を卒業しても実家を継げない次男坊、三男坊でした。
いずれは花巻を離れるか、違う仕事を探すか・・・。
そんな生徒たちの生活を自分が変えることはできないか・・・??

そして賢治は、不思議な授業を始めます。

「宮沢先生の担当科目は、土壌学に肥料学などでした。
 先生は、教科書を机に置いて、開くこともなく、私たちに向かって話をするだけ。
 黒板にも一行か二行しか書かないのです。
 そして気付きました。
 宮沢先生の授業は、自分の耳で話を聞き、自分でノートを取らなければならないのだと。」

賢治は学校の教科書を開かなかった理由を・・・
「教科書は関東地方中心に書かれ、岩手の農業、花巻の稲作とは合いません。
 君たちは、東京や九州で百姓をするわけではないのだから、岩手のことを知る方が大切です。
 ですから、私の話すことをよく聞いて、教科書は参考だけにしなさい。

農学校の生徒たちに自信と希望を抱かせたい。
賢治は自分で学んだ知識や経験を自分の言葉で話し始めました。
時には高度な専門知識も・・・!!

音楽の造詣も深い賢治は、教室でクラシックのレコードをかけたり、自作の詩や童話を生徒たちに聞かせたりしました。
生きていくうえで必要な心の豊かさを生徒たちに教えようとしたのです。
後に教科書も作っていますが、そこには、花巻の土壌にあった栽培方法と共に、農業が自然の摂理の中にあることも伝えたいという科学者としての自負もありました。
若者たちが希望を持てるようになれば、東北の農村も変わる!!
それは、人の役に立つ人間になりなさいという母の言葉を教師という仕事で実現しようとした証でした。

「からだに刻んでいく勉強が
 まもなくぐんぐん強い芽を吹いて
 どこまでのびるか分からない
 
 それがこれからの
 あたらしい学問のはじまりなんだ」

と、後に詩にしています。

農学校の教師として農村に希望の光をもたらそうとして奮闘する賢治。
賢治は生徒たちとの交流から夢を抱きます。
それは、花巻独自の農村文化の育成でした。
中でもユニークなのが、花壇の構想です。
西洋風の花壇・・・この当時、花巻では温泉の開発が進んでおり、実業家だった父は携わっていました。
賢治も、これからの農民は、米や野菜を作っているだけではダメだと、花の栽培の学べる花壇の製作を通し、開発事業に関わります。
他にも芝居の脚本を書き、農民演劇を作ります。
教師賢治の夢は、膨らむばかりでした。
そんな賢治は生徒たちの目を世界に向けさせようとします。

北上川のイギリス海岸・・・夏になると賢治は生徒たちと学校を抜け出して、北上川に泳ぎに来ました。雨が少ない日が続くと、川底が見え、泥岩層が見えます。
その様子が、イギリスのドーバー海峡の馳走に似ていることから、この岸辺をイギリス海岸と名付けたのです。
そこには、山間の花巻に生きる生徒たちへの賢治なりの優しいまなざしがありました。
海の見たことのない生徒たちに・・・世界は広いと・・・。

1924年念願の童話集「注文の多い料理店」を出版。
それまでの人生で、最も充実した人生を満喫していました。
しかし・・・不穏な空気が時代を覆い始めていました。
農学校の教師になって3年目・・・1923年9月14日関東大震災!!
文化と豊かさの東京は大打撃を受け、花巻の賢治もショックを受けます。
震災をきっかけに、日本は慢性的な不況に突入!!
大正時代の開放的なムードは無くなり、プロレタリア運動が台頭!!
1925年政府は治安維持法を制定、反政府的な活動を取り締まる雰囲気は教育にも及びます。
学校演劇も危険思想と法律によって禁止。
さらに、教科書に順じた授業が義務となります。
時代は急速に息苦しさを増していきます。
そんな折、賢治は・・・
学校で体調を崩した生徒が吐き出したものを見たとき、衝撃を受けます。
生徒が吐いたのは、家で食べた「カテ飯」と呼ばれるコメの代わりに大根を使った雑炊でした。
家に戻れば、食事もままならない生徒たち・・・。
自分は教師として給料をもらえる生活。。。
理想の農村教育の実現や、文化の向上を夢見て教壇に立ち続けている自分。。。
無力感が賢治を襲います。
何不自由ない生活を送り、本当の農村の苦しさを知らない自分が、農村の未来や本当の豊かさを教える資格があるのか??
だからと言って、生徒たちに希望を持つよう教え続けてきた教育を諦めてもいいのか??
教師を続けるのか??
他で理想を実現するのか??
葛藤していました。

東北の農村を助けるために、農学校の教師を続けるか、それとも教師を辞めて理想に新しい道を進むのか??
1926年3月・・・賢治は学校で一人の生徒に話しかけます。

「俺は学校を辞めることにした。
 俺も家さ帰って稼ぐから、お前たちも家で農民として一生懸命稼げ。」

農村の未来を変えたいのなら、今のままではいけない!!
賢治は、農学校をやめ、農村の発展に貢献する道を選んだのです。
それが、教師となったことで、自分が何をすべきか見つけた答えでした。
辞職後・・・新しい活動を始めます。
花巻の農場の発展を目指して作った私塾・羅須地人協会です。
賢治は農民たちに広く声をかけ、講義や集会を行って農民たちに説きます。
芸術の交流会も再開。
農民芸術の活動に邁進します。
自ら鍬を持ち、畑を開墾。
トマトやチューリップなどの当時では珍しい商品作物にも挑戦。
農家の副収入の道を探ります。
無償の支援活動も・・・最も力を入れたのが、化学肥料の普及です。
賢治は2000件にも及ぶ肥料設計を行い化学の力で農村を救う!!を実践していきます。
賢治の活動は、新聞にも取り上げられ・・・周囲からは賛否両論のまなざしが・・・。

一人の農民として大地に立ち、現実に立ち向かう賢治。。。

「おれたちはみな農民である
 ずいぶん忙がしく、仕事もつらい
 もっと明るく生き生きと 
 生活をする道を見つけたい
 
 世界が
 ぜんたい幸福にならないうちは
 個人の幸福はありえない

 われらは
 世界のまことの幸福を索ねよう
 求道 すでに道である」

農民たちの暮らしを希望のあるものに・・・
その一心で活動に身を投じた賢治・・・しかし、現実は厳しく・・・
農業技術の高い知識はあるものの、農家に育ったこともない賢治が農業を続けていくことは、容易ではありませんでした。
賢治の活動は、あまりにも理想的だと去っていく人々も・・・。
そして思いもしなかったことが・・・
新聞報道で賢治の活動を知った地元警察が、賢治が社会主義を教えているとして取り調べを要請。
これをきっかけに、活動は急速に弱まっていくのです。
そんな中、身体を酷使してきた賢治は、急性肺炎を発症。
病の床に臥します。
しかし、賢治は諦めません。

石灰岩の粉末を肥料にして売り出したいという地元企業の相談を受け、全国に肥料を売り歩く営業マンとなります。
農民が喜びをもって世界で生きていける世の中が生れるのなら、自分の命が失われることも厭わない・・・。
しかし、出張先の東京で・・・容体は悪化。
重体となった賢治は、これまで書き溜めて来た膨大な原稿を家族に託します。
その中に、周りに理解されなくても人々のためになろうとする賢治を彷彿とされる一節が・・・

”僕もうあんな大きな暗のなかだってこわくない
 きっとみんなのほんたうのさいはいをさがしに行く
 どこまでもどこまでも 僕たち一緒に進んで行かう”by銀河鉄道の夜

自らの死を予感し、家族に童話を託した賢治・・・。
人々がより大きなものの見方ができて、この世にある色々な仕組みを問題を発見して、その先へ抜け出すのにどういうまなざしが手に入れられたらいいんだろうかということを投げかけているのです。

1933年9月21日、宮沢賢治、花巻にて死去・・・享年37歳でした。

いまわの際に残した一片の詩・・・

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
欲ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシヅカニワラッテヰル 
アラユルコトヲ
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシ ワカリ
ソシテワスレズ
東ニ病気のコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニソウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
北ニケンカヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイイ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイウモノニ
ワタシハナリタイ


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天下人豊臣秀吉の居城・大坂城!!
三国無双と称えられたこの城で、400年前悲劇のプリンスが自害し果てました。
秀吉の息子で後継者の秀頼です。
追いつめたのは、江戸幕府を開いた徳川家康。
どうして家康は豊臣家を潰さなければならなかったのか・・・??

太閤豊臣秀吉には、心配事がありました。
秀頼のことです。
溺愛する息子はまだ6歳。。。
秀頼のために遺書を書きます。

「返々 秀よりこと たのみ申候 
 五人のしゆ たのみ申候

 此ほか にわおもひのこす事なく候」

ここで秀吉の補佐を頼んだ5人とは・・・
徳川家康・前田利家・毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家・・・
豊臣政権を支えていた五大老です。
彼らに遺言を託した秀吉は、1598年8月18日にこの世を去ります。
その後、前田利家は秀吉の言う通り補佐につき、家康は伏見城に於いて豊臣政権の政務を行います。
しかし、最古参の前田利家が亡くなると状況が一変しました。
家康が天下取りに動き出したのです。
当時、大名同士の婚姻は、秀吉によって法律で禁止されていました。
しかし、家康は、自らの勢力を強めるために・・・蜂須賀家、福島家、伊達家・・・婚姻を結びます。
反家康派の家臣たちは激怒し、関ケ原の戦いが起こるのです。
徳川家の東軍と、豊臣家家臣の石田三成の西軍との戦いで、およそ20万が・・・!!
家康側には反石田派の豊臣恩顧の大名も加わり、豊臣家家臣団の内部分裂の側面でもありました。
しかし、秀頼をはじめとする豊臣家は参戦せずに中立の立場を取ります。
戦は半日で決着!!
徳川家の勝利により、家康の天下が近づきました。

徳川家康は大坂城へやってきました。
秀頼に対面してから西の丸に入ります。
これに先立って、家康は、秀頼と淀殿に・・・
「豊臣家は今回の戦には全く関係ないから安心してください。」と伝えていました。
しかし、豊臣家に気付かぬように・・・戦後処理として豊臣家の所領を勝手に分配・・・
秀頼の領地は、摂津・河内・和泉の三か国・・・65万7400石あまりとなってしまいました。
秀吉時代の1/3でした。
その家康が、秀頼の何を恐れていたのでしょうか??

①豊臣ブランド
関ケ原の戦いから4か月後の1601年1月29日、大坂城は賑わっていました。
9歳になった秀頼のもとに、公家や僧侶の中でも地位の高い豪華なメンバーが新年のあいさつに来ていました。
徳川の力が強まっても、彼らは変わらず豊臣家に敬意を払っていました。
庶民たちはもっと豊臣贔屓・・・。
家康が将軍のなる際には・・・
「内府様、将軍になれせられ
 秀頼様 関白に御成之由候
 目出度御事にて候」
と、家康が将軍になるのなら、秀頼はもちろん関白になると考えていたのです。

上方の豊臣人気の理由は・・・。
秀吉が天下人となってから、豪華になり、京都は再び活気を取り戻します。
秀吉が死んだ後も、秀吉に贈り物などして関係を築いていました。
当時日本に来ていたオランダ人も・・・
「大坂の城にいる秀頼さまは、前皇帝の子であり、日本の正当な皇帝である。」
そして、経済都市大坂を領地としている秀頼には豊かな経済力がり、諸大名や庶民から絶大な信頼を得ていました。
秀吉が作った城下町は、商人たちにとっては住みやすい町でした。
再び豊臣の世が戻ってくることを誰もが期待していました。
いまだに人気の豊臣ブランドなのです。
それを、家康は恐れていました。
豊臣家の象徴である秀頼をどう扱うのか・・・??
細心の注意を払う家康です。
なので、年始の挨拶も忘れず、素直に代わらぬ振る舞いをしていました。

その一方で暗躍します。
1600年に公家の九条兼孝が関白になります。
家康が、秀頼を関白にさせないために、仕組んだのです。
関白を武家から返すはじめということ・・・
これは秀吉の意志であったと・・・!!
関白を摂関家に返して、新しい武家関白の誕生を阻止したのです。
征夷大将軍は官位五位相当の役職で、関白は官位一位相当の太政大臣の上位に置かれる役職です。
家康は関白になれるのか・・・??
関白は摂関家でなければなれません。
秀吉は、摂関家になっているので、秀頼には関白になれるチャンスがあるからです。

家康が征夷大将軍になった年、秀頼は関白には慣れませんでしたが、正二位内大臣となりました。
一説には豊臣方をなだめるために家康の計らいだったとか・・・。
そして、この年、秀頼は結婚。相手は、家康の孫であり、淀殿の妹・お江の娘・千姫でした。
この婚姻は、もともと秀吉の遺言でした。
しかし、家康はこの婚姻に協力的ではありませんでした。
薩摩の島津家には、結婚祝いの上洛は無用と伝え、細川家には使者は無用としています。
それでも秀頼の元には多くの祝いの品が届きました。
太閤殿下の御威光はまだ残っている!!
衰えない豊臣人気!!


②豊臣家の財産
豊臣家の居城・大坂城には莫大な金銀が蓄えられていました。
金の量は、国全体の2/3もあったと言われています。
この莫大な財産こそ、家康が恐れていました。
打倒徳川の軍資金となるからです。
そこで家康は豊臣家の財産を減らす策に出ます。
寺社造営です。
家康は秀吉の菩提を弔うと称して自社の造営や修復を勧めます。
秀頼と淀の方は、秀吉が寺社造営を進めていたこともあって、家康の言葉を素直に受け入れます。
積極的に出雲大社をはじめ、名だたる神社仏閣の修復や造営を始めます。
その数およそ100!!
かなりの財産をつぎ込んでいきます。
その一方で、それは、改めて豊臣家の権威を見せつけることとなったのです。

この頃から家康の態度が変わってきます。
毎年行っていた年始の挨拶を止めます。
秀頼に来るように・・・と。
1605年、将軍職を秀忠に譲ります。
これは、将軍家は徳川家が世襲することを示していました。
政権を戻すつもりはない!!と言っているようなもの。
そして、秀忠の将軍就任に際して、秀頼に上洛するようにと言ってきました。
淀殿は、上洛せよというなら秀頼を殺して自分も死ぬと断固拒否!!
我が子秀頼を命がけで守ろうとしました。

まだ13歳の秀頼はどう思っていたのでしょうか??
幼いころから武芸、和歌、漢詩、兵学、儒学・・・あらゆる学問を当第一の学者に学んでいた秀頼は、14歳の時に明王朝の帝王学の教科書「定鑑図説」の和睦本を出版します。
優秀なブレーンアが要ることを示しています。
ひ弱でマザコンと言われる秀頼ですが、聡明で、強い自我と行動力を持っていました。

「自分こそが秀吉の後継者である!!」という強い思いが・・・!!

そして、その意志は住吉大社の造替工事にも見受けられます。
ここはかつて秀吉の母の大政所の病気平癒と延命祈願をした場所です。
住吉大社を建て替えることで、秀頼は豊臣家再興を願ったのです。
そんな秀頼に、牙を剥き出す家康・・・
駿府城三の丸の工事を始め、他の外様大名と同じように、秀頼にも労働力を差し出すように命じてきます。
しかし、秀頼は冷静で・・・年始や七夕には人を遣わして挨拶をします。
人々はそんな秀頼を”年長ずるに従い知勇加わる”と言いました。
豊臣家当主として年々頼もしくなっていく秀頼・・・!!

ある日・・・京の町に落首が・・・
”御所柿は 一人熟して 落ちにけり
          木の下にいて 拾ふ 秀頼”
御所柿とは、駿府城に隠居し大御所となった家康の事。
老いていく家康が自然と地に落ち、その政権を秀頼が拾うと・・・
二人の年齢差を皮肉り、豊臣家の復活を望んでいるのです。


③秀頼の若さ
1611年、家康は後陽成天皇の譲位の儀式のために、今日に上ります。
そして、秀頼を二条城に呼び出すのです。
秀頼は、それに応じ3月28日午前8時、二条城に到着。
一説には庭まで出迎えたという家康。
最後にあったのは11歳の時でしたが・・・19歳の秀頼は、身長197センチの大男に成長していました。
家康に続いて城内に入った秀頼に対し・・・
「ささ・・・お先に。」家康は秀頼を先に会見の場所に通し、対等の立場で話そうというのですが・・・。
秀頼はそれを頑なに断り、家康に上席を譲りました。

家康の二条城に秀頼が赴くということは、既に秀頼は家康より下の立場から・・・なのに、家康も対等に・・・と思うのですが、この時点では、家康の方が位が上でした。
秀頼の方が下に座るべきであろうと秀頼は家康に正しい礼を取ったと言えます。
先に秀頼を家に通そうとした家康の罠で・・・先に秀頼が入っていれば、礼節をわきまえない無礼な男として非難されるところでした。
そんな家康の策にはまらず、冷静に、自分の立場をわきまえて対応します。
2時間に及んだ会見で、合間には食事も・・・。
家康は、豪華なものでは遠慮がちになると吸い物だけを振る舞います。
ここでも秀頼に気を遣っているようで・・・会見の最後に家康は言い放ちます。

「太閤殿下の遺言では、秀頼殿が15歳になったら天下を治めていただく約束だったが、先の関ケ原の戦いで我を退治せんとし、起請を破ったのは秀頼殿であるから、約束を反古にされても仕方が無かろう」by家康

関ケ原の原因は秀頼側にあると難癖をつけ、成人した秀頼に天下を渡さないことを宣言。
自らの行為を正当化したのです。
改憲の後、家康は秀頼のことを・・・

「大変かしこい人なり。
 他人の臣下となって、その命令に従う人物にあらず。」by家康

19歳の賢く頼もしい男・・・それに引き換え自分は70歳・・・。

二条城会見の数日後・・・大阪の秀頼の元へ、家康の子供たちが進物を携えてやってきました。
二人に対し秀頼は心のこもった返礼をし、家康にお礼の手紙を送ります。
この手紙は・・・家康に宛てた秀頼の挑戦状・・・??

「次にお会いしたときにお礼をします」と書いています。
その品を直接会って・・・つまり、返礼品が欲しければ、家康が直接会いに来るように・・・との事なのです。

二条城会見を外から見れば、家康に対して礼節を尽くした・・・ですが、家康に対して自分の方が上位であるという手紙の書き方をしているのです。
それは、秀頼と家康の間にしかわからない失礼な手紙でした。
秀頼はかしこい人だ・・・そう思う家康でした。

再建中だった方広寺の鐘・・・。
「国家安康」・・・家康という名が分断され、呪っていると難癖をつける家康。
これが、戦のきっかけになってしまいます。
徳川と豊臣の対立・・・もはや戦は避けられない・・・と、戦の準備が始まりました。
1614年10月、秀頼は莫大な資金を投じ、大坂周辺の米を購入。
武具などを城内に配備するだけではなく、大坂周辺にも壁を築き、籠城の準備をします。
さらに、秀頼は豊臣方について戦ってくれるように早い時点で諸大名に手紙を送っています。
それは、秀吉恩顧・・・毛利、島津、伊達にまで及んでいました。
結局誰一人、秀頼の求めには応じませんでしたが・・・どうして大名は、秀頼方につかなかったのでしょうか?
 
熊野権現の起請文・・・
家康は方広寺の事件以前に起請文を諸大名から取っていました。
徳川家に忠誠を誓う・・・なので、大坂の陣で豊臣方に協力しなかったのです。
結局、秀頼に着いたのは、関ケ原で戦って敗れた浪人たちだけ。
その中には、真田信繁、長宗我部盛親、後藤又兵衛、木村重成、毛利勝永・・・といった名高る武将もいました。
11月19日、戦いの火ぶたが切られます。
徳川方20万に対し、豊臣方10万!!22歳にして初陣の秀頼!!
しかし、それは荒々しい面構えで、総大将として堂々たる立た住まいずまいでした。
かつての秀頼の姿を見て涙する者も・・・。
秀頼は広大な城の各陣を馬で回って兵士たちを激励!!
また戦果を挙げた者には即座に褒美を与え、士気を上げます。
豊臣方は、兵の数では劣りながら善戦!!
巨大な大坂城を前に攻めあぐねる家康。
真田丸らの戦いで、甚大な被害が!!
しかし、徳川方が放った砲弾が大坂城の天守に命中。
その被害を目の当たりにした淀の方が、弱気になり・・・
12月19日和睦成立。
この時、家康が出した条件は、大坂城にいる浪人たちの追放のほか、城の堀の埋め立てでした。
和睦の際の取り決めでは、三の丸の堀と外堀は徳川が埋め、二の丸は豊臣が埋めることになっていました。
しかし、家康はその取り決めを破り、全ての堀を埋めてしまったのです。
本丸だけを残し丸裸となってしまった大坂城!!
徳川軍が退去した後、秀頼はすぐに堀の復旧と戦の準備を始めますが・・・
家康はそれを理由にまたもや出陣!!
行く当てのなかった農民たちが大坂城にいました。
まだ戦うのか・・・??
今度は、秀頼の到着を待ちます。
秀頼は、兵糧や材木を大阪城内に集めます。
火薬を作る準備も!!
豊臣対徳川・・・最後の暑い夏が始まります。

豊臣方5万5000VS徳川方15万!!
圧倒的な兵力差がありました。
それでも秀頼は総大将として本丸正門に陣を構えます。
その姿は、大いに豊臣方の士気を高めましたが、秀頼が出陣することはありませんでした。
この時、秀頼の元へ知らせが来ていました。
戦っていた豊臣の者たちが寝返って、秀頼が出撃すればそれを討つと・・・!!
秀頼は動くに動けなくなって、出陣の機会を失ってしまいました。
しかし、これは、家康のデマで・・・家康の策略にまんまとはまってしまったのです。
豊臣方の形勢は悪化・・・。
真田信繁らの有力武将などが次々と討ち取られていきます。
もはやこれまで!!
秀頼は、出撃し、戦場で討ち死にしようとしますが、周囲に止められ城に留まります。

そして、炎に包まれる大坂城で、母・淀の方と共に自害するのです。
1615年5月8日・・・家康が恐れた男・豊臣秀頼・・・このときまだ、23歳でした。 

焼け落ちた大坂城に秀頼の首はありませんでした。
あったのは、金2万8000枚と、銀2万4000枚・・・。
豊臣の財力を削ごうと暗躍した家康でしたが、その財力は、家康の想像をはるかに超えていました。
そして、この戦の後、京や大坂でこんなわらべ歌がはやりました。

花のよふなる秀頼さまを
鬼のよふなる真田が連れて
退きも退いたよ加護嶋へ

真田信繁が、秀頼を鹿児島へ連れていったというのです。
大坂の地を経済都市として栄えさせてくれた秀吉に恩を感じていた町人たちは、彼の愛した息子にはどうか生きていてもらいたい・・・と願っていました。
豊臣人気も、家康の想像をはるかに超えていたのかもしれません。


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天下無双の戦術と巧みな交渉術で次々と敵を落としていきます。
清算帽として名を馳せた半兵衛と官兵衛。
二人の天才軍師・・・最強なのはどちらでしょうか?

美濃国・斎藤家に仕えた竹中半兵衛は、1544年に生まれ、細身で色白女性のような面立ちでした。
性格も温和で女性のようでした。
しかし、軍師・半兵衛は、「敵を制すること神の如し」と、軍師・諸葛孔明に例えられ、”今孔明”と呼ばれていました。
黒田官兵衛は・・・半兵衛よりも年下の1546年生まれ、姫路出身です。
軍師としては、戦国一の切れ者と言われました。

①戦術
竹中半兵衛は、豊臣秀吉に仕える前は、美濃国・斎藤龍興の家臣でした。
龍興に対し、クーデターを起こします。
難攻不落の稲葉山城をわずか17人で、1日で落としてしまいました。
1564年稲葉山城占拠事件です。
半兵衛はどうやって難攻不落の城を落としたのでしょうか?
まず、稲葉山城に詰めていた弟・久作に仮病をさせ、その見舞いの為と見せかけて城に向かいます。
酒と御馳走と偽って、長持ちの中にびっしりと武具を詰め込んで!!
一行は、武具を身に着けるや否や、一気に奇襲!!
龍興の側近ら6人を殺害します。
半兵衛の奇襲に龍興は動揺し、家臣らと共に城から飛び出していきました。
どうして半兵衛はクーデターを起こしたのでしょうか?
斎藤龍興は、政務に関心を示さなかった上に、遊興に溺れていました。
この悪政を見かねてのクーデターだったのです。
電光石火のクーデター・・・半兵衛21歳でした。
これに織田信長が驚きます。
自分が長年攻めあぐねていた稲葉山城をわずか17人で・・・しかも1日で落としてしまった・・・。

「稲葉山城を明け渡すならば、美濃国を半分与えよう」by信長

しかし、半兵衛はこれを拒絶し、半年後、反省した主君・龍興に城を返すのです。

この一件で、半兵衛に惚れこんだ信長は、木下藤吉郎をつかって落とそうとします。
渋る半兵衛のもとに足しげく通う藤吉郎。
どうやって口説き落としたのでしょうか?
と、これは、三国志演義を元にしたお話。。。
信長が美濃・斎藤家を滅ぼした後、斎藤家の家臣を自らの家臣団に迎えています。
この中に一緒に家臣となって、秀吉の与力となっています。
与力とは・・・身分は信長の家臣で、軍事行動の際には、秀吉の一員として戦ったのです。

信長が、天下統一を目指す中、同盟を結んでいた北近江の戦国大名・浅井久政、長政親子が反旗を翻します。
起こった信長は、小谷城を攻撃!!
半兵衛は、秀吉と共に小谷城近くの横山城へ!!
浅井は横山城攻略のために・・・
あたかも別の場所に向かうふりをして横山城を通過、これにつられて出てきたところを迎え討とうというのです。
秀吉は、この策にまんまと引っかかり出撃命令を出してしまいますが・・・
半兵衛はこれを見ぬいていました。
出撃を思いとどまらせ、近くの山中に速やかに兵を配置!!
なかなか兵を出さない秀吉軍に業を煮やした浅井軍は、横山城に接近!!
半兵衛はこれを不意打ちして撃退したのです。
半兵衛のするどい洞察力と起点に救われた秀吉でした。

浅井攻めも大詰め・・・小谷城に・・・!!

「城内にいる御位置を救出せよ!!」by信長

信長の妹であり、浅井長政の正室・お市とその子供たちを救出せよという難題でした。
小谷城は、急峻な山城で、攻め落とすだけでも困難・・・その上、救出とは!!
仮に攻め落とすことができたとしても、お市も自害してしまうかもしれない!!
半兵衛は、情報収集に走ります。
反信長は、父・浅井久政で、長政は仕方がなかったという。
長政とお市は織田に城本丸に、父・久政は小丸に・・・と、離れていました。

そこで半兵衛は、本丸と小丸の間にある京極丸を占拠!!
父・久政を攻撃し、長政のもとへ使いをだしお市を説得!!
追い込まれた浅井親子は自害するものの・・・お市と三人の娘は助け出されました。
情勢を把握し、知略を尽くした半兵衛の見事な戦略でした。


黒田官兵衛は、播磨の小寺政職の家臣でした。
1575年、着々と勢力を伸ばしている織田に付くか、西の大勢力毛利輝元に着くべきか??判断に迫られていました。
割れる意見・・・
小寺家の重臣は、今までのことを考えて毛利に付こうという考えの者が多かった中、官兵衛は・・・
「輝元は凡庸な男、一方信長は向かうところ敵なしで、武名を天下にとどろかせている!!」と、重臣たちを説き伏せました。
播磨が信長に味方することを使者として伝えに行く官兵衛。
秀吉に信長へのとりなしを頼みます。
これが二人の初対面でした。
そして、二人は、毛利の中国地方に攻め入ることになります。

城攻めを得意とした官兵衛。
❶1577年福原城攻め・・・囲師必闕
この時福原城には、毛利方1000の兵が!!
これを知った半兵衛は、三方に兵を置き、一方を空けておきました。
どうして一辺を空けておいたのでしょうか?
「孫氏」の戦術・囲師必闕で、四方を囲むと置き込まれた敵が、予期せぬ力を発揮することがある・・・
死に物狂いでかかってくることを生じさせないために、逃げ道を作っておいたのです。
その逃げ道に密かに兵を置いた官兵衛は、城から逃げてくる敵を一網打尽にしました。
リスクを避けて効率よく相手にダメージを負わせる・・・。
合理的な戦術です。

❷1581年鳥取城攻め・・・渇え殺し
毛利に組した山名豊国の重臣と、毛利からの援軍・吉川経家合わせて2000の兵が鳥取城に籠城!!
経家は兵糧の確保に走りますが、一向に手に入らず苦境に・・・
事前に官兵衛は手を打っていました。
1年前の秋口に、官兵衛が派遣した商人が通常の倍の値段でコメを買い占めていたのです。
農民たちは、鳥取城に治めるはずの備蓄米まで売り払ってしまい・・・城下の米の殆どを手にした官兵衛。。。
そして・・・①城下の村々を焼き払い
      ②領民を鳥取城に逃げ込ませます。
      ③2000人ほどだった城内は倍に!!食料は瞬く間になくなり、多くの人が餓死していきました。
非情な渇え殺し!!
たまらず吉川経家は、鳥取城を明け渡したのでした。

❸1582年備中高松城攻め・・・水攻め
この時、秀吉軍は攻めあぐねていました。
高松城は、湿地帯の中にあり、容易に近づけなかったからです。
大軍では近づけない・・・。
官兵衛が選んだのは水攻めでした。
湿地帯の南側に3キロ(高さ8m・奥行24m)に及ぶ堤防を築きます。
土嚢一つを100文(5000円)で買い取ると農民たちに呼びかけて・・・
数百万個の土嚢が集まって、2週間ほどで完成!!
次に官兵衛は、西にある足守川を堰き止めます。その方法は・・・大量に石を積んだ船を空きなく並べ、一気に船底に穴をあけて沈めました。
梅雨の時期だったこともあって、湿地帯の水位は瞬く間に上昇!!
城主・清水宗治は観念して自害!!
毛利と秀吉との間で講和が結ばれることに・・・!!
官兵衛の場合、極力味方にダメージを与えないような合理的な戦術です。


②交渉術

戦は、必ずしも力のある者が勝つとは限りません。
天候、運、不運・・・も関係している??
戦国時代前期までは、占い、呪術を使う軍師が活躍していました。
戦いによい日時を占ったり、勝利を願う儀式を執り行いました。
しかし、後期になると、兵法に長け、策略や外交交渉もこなせる策士タイプが求められるように!!
豊臣秀吉を支えた竹中半兵衛と黒田官兵衛もこのタイプでした。

半兵衛がその力を発揮したのは、浅井の小谷城攻め!!
信長と秀吉は半兵衛を使って浅井家家臣の寝返り工作を進めさせます。
半兵衛の場合、浅井家にも仕えていたのでは??と言われています。
浅井の家臣・堀秀村、宮部継潤など浅井の家臣を寝返らせています。
戦わずして勝つことを理想とした半兵衛は、事前に敵との交渉し、できるだけ戦を避ける戦術をとったと言われています。
外交交渉だけでなく・・・半兵衛のことを快く思わない秀吉の家臣たちとも交渉を・・・
相手を褒めちぎり、褒めた後にアドバイス!!
秀吉の名前を上手く使いました。


官兵衛の交渉術は・・・
1590年小田原城攻めでは・・・
長期に渡り籠城していた北条氏政、氏直親子を、説得し無血開城していますが・・・。
その交渉術は大胆なものでした。
秀吉軍は小田原城を完全に包囲したものの、なかなか落とせずにいました。
そこで、交渉役として官兵衛を遣わします。
城の中の北条方に、酒・二樽、魚・十尾を差し入れます。
北条家はプライドも高いので、礼を尽くし懐柔しようとしました。
その返礼として鉛玉と火薬が出されました。
この意味は・・・北条の降参ととり、交渉に臨んでいます。
礼装に身を包むと、台頭せずに丸腰で、単身で小田原城に乗り込む官兵衛。
礼を尽くし、説得に当たった官兵衛に対し、北条親子は城を明け渡すことを承諾します。
この官兵衛の働きによって天下人となった秀吉です。


③人間力
二人が秀吉の下で一緒に働いたのは4年間ほどでした。
その頃の二人のエピソードから人間力を推察すると・・・??

官兵衛が秀吉について間もない頃、毛利方の大名を次々と織田方に寝返らせたことで、秀吉から感謝状を受け取り有頂天に!!
得意げに半兵衛に見せると・・・その書状を破り捨てた半兵衛は・・・
「こんなものを残しておいても、そなたの物にはならぬ!!」過去の栄光に縋りつくことを戒めた半兵衛は、手柄をひけらかすことを良しとしない愚直な男でした。

1578年織田信長に仕えていた荒木村重が裏切って毛利についたとき・・・
官兵衛は信長から村重を説得してくるように命じられ、意気揚々と有岡城に入りますが・・・
そこで囚われの身となってしまいます。
いつまでたっても戻ってこない官兵衛に、「村重に続き、官兵衛も裏切ったか!!」と思い込んだ信長は、人質に取っていた息子・松寿丸を殺すように秀吉に命じます。
これに断固反対したのが半兵衛でした。

「人質を殺せば、官兵衛は深く恨み、敵となるでしょう。
 そうなれば、大きな損失となります。」by半兵衛

しかし、この信長の直談判は聞き入れられません。
そこで半兵衛は松寿丸を、美濃国にあった自分の屋敷に匿ったのです。
バレれば自分の命も危ういというのに・・・。
しかし、半兵衛は、官兵衛を信じていました。
出会って数年のふたり・・・半兵衛は、軍師としての官兵衛を高く評価しており、自分が死んだ後、秀吉を支えるのは官兵衛だと思っていました。

1年後、救出された官兵衛は、家臣から半兵衛が息子を匿ってくれていたことを聞くと、半兵衛の懐の大きさに改めて感服し、自分を信じてくれたことに深く感謝しました。


④危機管理能力

乱世の世、危険だらけ??
半兵衛は、高価な馬には乗りませんでした。
それは、いつでも捨てて逃げられるように!!

官兵衛は、??
1582年毛利方の備中高松城を落とした秀吉は、毛利との講和条約を結ぼうとしていました。
が・・・衝撃の知らせが!!
本能寺で信長が光秀に討たれたのです。
焦る官兵衛!!
そもそも、毛利が交渉に応じるのは、急速に勢力を拡大している信長に脅威を感じていたから・・・。
しかも、秀吉軍は、信長軍に加勢すべく集まっていた播磨・備中の諸大名の混成部隊!!
信長が死んだと聞けば、秀吉軍は瓦解する可能性があり、毛利から反撃を受けた場合どうなるか・・・大ピンチでした。
おまけに秀吉は、主君・信長の死で冷静な判断ができない状況でした。
官兵衛はどうしたのか??
秀吉の耳元で・・・
「今こそ、貴殿が天下人となる好機ですぞ!!」by官兵衛

この言葉で我に返った秀吉は、官兵衛にすぐさま毛利との講和条約を結ばせ、明智光秀を討つべく、岡山から猛スピードで200キロを進軍!!
光秀がいた京都・山崎に僅か1週間で到着します。
中国大返しです。
この中国大返しを成し得た裏で、官兵衛が動いていました。

「本能寺で無念の死を迎えた信長公の仇を、秀吉さまが討てば、秀吉さまが天下人となる。
 此度手柄を立てた足軽は侍大将に、侍大将は大名になれるであろう。」by官兵衛

出世欲を刺激された兵たちは走りに走ります。
こうして、空前絶後の大移動が完成したのです。
本能寺の変の時点で、信長の部下がどこにいるのか?それを官兵衛は把握していました。
なので、一早く、秀吉に光秀を撃たせるために!!
信長の死を、秀吉のチャンスに変えたのです。
これがなければ、秀吉は天下をとれなかったかもしれません。


⑤秀吉からの信頼度
軍師・竹中半兵衛最後の戦いは、1578年播磨三木城主・別所長治の三木城攻めでした。
兵糧攻めに出るも、粘る別所軍に思わぬ持久戦に・・・。
長く陣を張り、待つ中で、半兵衛は病に倒れてしまいました。
京都に戻って養生するも、一向に回復せず・・・。
死を悟った半兵衛は・・・
「どうせ死ぬのであれば、戦場で死にたい・・・」
望み通り、戦場に戻ると36歳の若さで亡くなりました。
秀吉はその亡骸に縋りついて泣き崩れたといいます。
病弱だった半兵衛は、私利私欲のない男でした。
いかに敵を攻略するかだけを求めた、生粋の軍師でした。
なので、野心のない半兵衛は、秀吉にとって信頼できる数少ない家臣でした。


中国大返しの後、官兵衛は四国征伐、九州征伐で武功をあげ、秀吉の天下統一に大きく貢献していきます。
しかし、秀吉から与えられたのは・・・豊前12万石の小国でした。
どうして官兵衛の印象は少なかったのでしょうか?

酒の席で・・・
「わしが死んだなら、誰が天下をとると思うか?」by秀吉
家臣らは、徳川家康や前田利家など、有名武将の名をあげたといいます。
すると秀吉は・・・
「官兵衛こそが、天下を取るであろう!!」と言ったと言います。

数々の戦で絶妙の判断・・・多くの信頼を寄せていたものの、あまりの切れ者ぶりにいつしか恐れを抱くようになったのではないか??
天下人の座を官兵衛に奪われるのではないか??
これを伝え聞いた官兵衛は・・・
「某は、恐ろしい者と目されているようだ。」
自分がいると秀吉にお家を潰されてしまうかもしれない・・・と、44歳で隠居。
切れ者過ぎたことで、秀吉に疑念を抱かせてしまった官兵衛でした。

秀吉の軍師、竹中半兵衛と黒田官兵衛・・・どちらが最強でしょうか?
どちらか一人ではなく、二人いたからこそ、秀吉は天下をとれたのです。
 


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歴史上、世界最大の帝国はモンゴル帝国・・・??
しかし、20世紀初頭そのモンゴル帝国を上回り、地球上の陸地の1/4近くを支配した国がありました。
大英帝国です。
その大英帝国の礎を築いた女性は・・・エリザベス1世。
1558年25歳で即位したのち、半世紀近く君臨!!
ヨーロッパの弱小国に過ぎなかったイギリスを、繁栄へと導きます。

現在、女王エリザベス2世を頂点とするイギリス王室。
国民に近く、開放的な雰囲気が多くの人に愛されています。
こうした王室に対する信頼の基礎を築いたのがエリザベス1世です。
当時、弱小国だったイギリスを大国へと導いていったエリザベス1世。
即位するまでの人生は、苦難の連続でした。
死を覚悟するほどの・・・!!

1533年、エリザベスは、イギリス国王ヘンリー8世の娘として生まれました。
しかし・・・ヘンリーには、王妃・キャサリンがいて、王位継承者はその娘のメアリーでした。
男の子がほしいヘンリーは、キャサリンと離婚し、若いアン・ブーリンと結婚します。
そして、生まれたエリザベスは、王位継承者となりました。
ところが、あくまで男の子が欲しいヘンリー8世の矛先はアン・ブーリンに・・・!!
1536年、エリザベスが2歳の時に、アン・ブーリンは浮気の罪をかぶせられ、ヘンリーの手で生きては出られないロンドン塔に幽閉されてしまいました。
そして処刑されたのです。

その後、ヘンリーは新しい妃を娶り、待望の男の子・エドワードが生れます。
誰からも祝福されるエドワード・・・王位継承権を失ってしまったエリザベス。

「昨日まで、エリザベス王女と呼んでくれていたのに、どうして今日は、エリザベス様なの??」byエリザベス

暮らしぶりも変わり、着る物にも不自由するほど・・・
背丈に合うドレスすらありませんでした。

1543年、9歳の時に、父ヘンリーが迎えた妻・キャサリン・パー。
彼女は、メアリー、エリザベス、エドワードを分け隔てなく愛しました。
そして、ヘンリーを説得し、メアリーとエリザベスの王位継承権を復活させます。
エリザベスは、キャサリンと暮らす中、高い教養を身に着けていきます。
フランス語、ラテン語など8か国語をマスター。
趣味は、歴史の本を3時間読むこと。
また、宮廷作法も完璧!!
年からは考えられないほどの威厳と上品さを持っていました。

しかし・・・そんなエリザベスの人生にまたもや暗雲が・・・
1547年、14歳の時に父・ヘンリー8世が死去。
弟・エドワードが即位するも僅か7年で亡くなってしまいます。
まもなく王位についたのは、17歳年上の姉・メアリー。
メアリーは、エリザベスを憎んでいました。

「エリザベスが王位をつぐなんて、私の良心が許さない!!」byメアリー

メアリーとエリザベスは、父親の愛情を競い合っていました。
もともとメアリーは、父に深く愛されていました。
しかし、エリザベスが生れたことで、メアリーは王位継承権を失い、父親の愛情も奪われてしまったのです。
さらに、対立を決定的にしたのが宗教で・・・
メアリーはカトリックをエリザベスはカトリックを進行していました。
王位についたメアリーは、カトリックの国スペインのフェリペ王子と婚約。
すると、これを不満とプロテスタントの信者が反乱を起こしました。
この反乱は鎮圧されたものの、エリザベスが関与していたのではないか??と疑いが・・・。
エリザベスは、メアリーに手紙を送ります。

「身を低くして、陛下にお願い申し上げます。
 しかるべき証拠がない限り、罰しないとの約束が、本当であることを今こそお示しください。
 無実であるがゆえに、陛下のやさしさにおすがりせずにはいられません。」byエリザベス

余白には、誰かが手を入れないように斜線をし・・・
「陛下の最も忠実な僕、これまでもこれからも」

しかし、エリザベスは、かつて母、アン・ブーリンが幽閉されたロンドン塔に幽閉されます。
幽閉から2か月、二十歳のエリザベスは死を覚悟します。
一方、メアリーは、プロテスタント信者の弾圧を強めていきます。
300人近く、生きたまま火あぶりに・・・。
人々からは、ブラッディー・メアリーと恐れられました。
結局、エリザベスは、反乱に加わったという証拠もなく釈放。

投獄された部屋の窓ガラスには・・・
「私に大きな疑いがかけられているが、何も証拠を引き出せない。」囚人エリザベス

ロンドン塔への幽閉から2年、1558年、エリザベスは25歳に。
姉メアリーが亡くなります。
王位を継ぐことになったエリザベス・・・初めての議会で宣言します。
「私はイギリスと結婚し、夫を持つ身となりました。
 イギリス国民の全てが私の子供であり、親族なのです。
 私が死んだら、墓にこう刻んでください。
 ”” 処女として生き、処女として亡くなった””と。」

どうして生涯独身だったのでしょうか?
エリザベスが即位した土岐、イギリスは数々の難題に直面していました。
①カトリックとプロテスタントの対立。
姉・メアリーのプロテスタント弾圧で、事態は深刻化していました。
そこでエリザベスは、それぞれの極端な部分を排除したイギリス国教会のもとで、両者の共存を図ります。
中間を目指し、出来るだけ多くの人が礼拝できるようにしました。
②国家財政の深刻化。
スペイン王子と結婚したメアリーは、スペインとフランスの戦争に巻き込まれていました。
その結果、大陸における唯一の拠点だったカレーを失い、巨額の戦費で財政難に陥っていました。
エリザベスは、自ら会計をチェックします。
③失墜した王の信頼を取り戻すべく、国民と交流。
パレードの際には、一人一人に優しく話しかけ、家を訪ねて語り合うこともありました。
いつしか、女王の手に触れれば病が治るという伝説が生まれました。

その一方で、側近たちからの評判はあまりよくありませんでした。
エリザベスは、ハンサムな男が好きでした。
顔がよければ出世も早いと囁かれていました。
また、お世辞も好みます。
更に、側近たちを困らせたのが、優柔不断です。
”すぐに、そのうち、明日と言っている間に、日に日に時間だけが過ぎていく・・・”
なかなか決断を下せない上、決めたものを覆すこともありました。
パレードルート、引越日、政策決定・・・あらゆることが、朝令暮改でした。
それでも議会で・・・
「みなさんの振る舞いを見ていると、自分たちだけが国の繁栄を考えているとお思いのようです。
 しかしながら、私がこの国をいかに統治してきたか、よく思い起こしてください。
 私は、あなた方の女王なのです。」byエリザベス

強気のエリザベスには、悩める問題が・・・イギリスを味方にしようとする・・・フランス、スペインをはじめ、各国から求婚されます。
側近たちも、跡継ぎが必要だと訴えます。
しかし、エリザベスは、曖昧な態度を取り続けます。
エリザベスは、結婚の可能性を残すことで、諸外国との友好関係を維持することにしました。
もし、特定の国との関係が強まれば、対立する国々から敵視される恐れがありました。
エリザベスが結婚しなかった背景にはある男の存在が・・・
幼なじみのロバート・ダドリーです。
美男子で背が高く、剣の腕前も一流。
エリザベスは、だどりーを身辺警備の筆頭において常に傍に置きました。
そして、人目をはばかることなく、ダンスや乗馬を楽しみました。

「女王は昼でも夜でもダドリー卿の部屋を訪ねているという噂です。
 女王の寵愛を勝ち得たダドリーは卿は、宮廷を牛耳っています。」

「彼に愛情を抱いていることを否定はしません。
 でも、結婚を決意しているわけではありません。」byエリザベス

ダドリーには妻がいました。
そんな妻が謎の死を遂げます。
人々は、ダドリーが女王と結婚したいが為に妻を殺した・・・と!!
結局、二人が結婚することはありませんでしたが、その信頼は一生続きました。

「女性は、結婚しなければ生きていけないと言われます。
 でも、私はダドリーの妻が死んでも結婚しておりませんわ。」byエリザベス

大国スペインとフランスの狭間で生き残りを図るエリザベス・・・
その前に一人の女性が・・・悲劇の女王、メアリー・スチュアートです。
親戚同士でしたが、処刑を命じます。
どうしてメアリー・スチュアートを処刑したのでしょうか?
1542年、メアリーは生後6日で当時独立国だったスコットランドの王位を継承。
15歳の時に、フランス王太子と結婚し、フランスに渡ります。
しかし、夫が亡くなったので、18歳でスコットランドに戻ります。
エリザベスが28歳の時・・・帰国したメアリーは、スペインから縁談が・・・ふたたびフランスからも縁談が・・・。
エリザベスは危機感を感じていました。
プロテスタントの勢力が多いイギリスにたしい、スコットランドはカトリックの信者が多く残っていました。
カトリック教徒が多いフランスやスペインとの関係が強まると、イギリスは挟みうち。。。脅威に・・・!!
阻止する為に、エリザベスはイギリスからも縁談を持ち掛けます。
その相手候補として選んだのが・・・なんと、ダドリーでした。
しかし、それは苦渋の決断でした。
エリザベスの策略は実らず、結局1565年、スコットランド貴族ダーンリー伯爵と結婚。
ところがメアリーと夫の関係はあっという間に冷え込んで・・・2年目に夫が殺害されました。
メアリーは、夫殺しの疑いをかけられて孤島に幽閉。
この時エリザベスは、メアリーを捕まえたスコットランド貴族たちにこう言いました。

「神の定めで女王となったメアリーを捕らえ、力づくで罪を認めさせるなど、許されることではありません。」

選ばれた君主としての地位は尊敬されるべきだと考えていたのです。
その後、メアリーは支持者の力を得て脱走に成功します。
イギリスに亡命!!
エリザベスはこれを受け入れました。

1570年、エリザベス36歳の時・・・
カトリック教会のTOP、ローマ教皇がエリザベスを破門に・・・!!
エリザベスの暗殺を奨励しました。

「神に奉仕する清き心をもって、エリザベスを葬り去る者は、悪行を犯すのではなく、善行を積むこととなろう。」

これを受け、カトリック信者がエリザベスの命を狙い始めます。
そして、次々と暗殺未遂事件が起こる中・・・メアリー干与の疑いが・・・。
メアリーは、スコットランド王室の人間でありながら、イギリス王室と血縁関係があり、王位継承権がありました。
エリザベスが死ねば・・・カトリック信者のメアリーがイギリス女王になる可能性があったのです。
1586年、エリザベス53歳の時に決定的なバビントン陰謀事件が・・・
メアリー・スチュアートの元小姓・バビントンらによる暗殺未遂事件です。
この陰謀は、事前に察知され未遂に終わったものの、メアリー自身が陰謀に加わった・・・具タオ的な指示を出していたことがわかります。
議会はメアリーの処刑を要求!!
しかし、エリザベスはサインを拒否!!

「タカに追われ、私の足元に逃げ込んできた小鳥を殺すことなどできるでしょうか」

エリザベスは、女王を処刑するのは絶対に間違っていると考えていました。
もし、実行すれば・・・自分自身の女王という権威も失われかねないと危惧していたのです。
しかし、側近たちの圧力は凄まじく・・・亡命してきたメアリーを保護して20年・・・
エリザベスはついにサインを・・・苦渋の決断でした。
1587年、メアリー・スチュアートは断頭台へ・・・
メアリーは最後まで女王としての威厳を失うことはありませんでした。

エリザベス55歳の時、未曽有の危機に直面します。
世界最強のスペイン無敵艦隊との対決です。
当時スペインは、アメリカ大陸をはじめ、世界に植民地を持つ大国で、”太陽の沈まぬ国”と言われていました。
その関係は、エリザベスが即位してから悪化の一途を辿っていました。
原因の一つが海賊・・・この頃、世界各地の植民地から貴金属を本国に運ぶスペインの船を、イギリスの海賊が襲うようになっていました。
エリザベスは、海賊の行動を国として公認。その戦利品の一部を国家財政の再建に使いました。
なかでも頼りにしていた海賊が、フランシス・ドレイク。
エリザベスは、この男を貴族に取り立てるほどでした。
スペインは、エリザベスを暗殺し、メアリー・スチュアートを擁立する陰謀を画策し続けていました。
しかし、メアリーが処刑されたために、翌年、実力行使に出ることに・・・

1588年、無敵艦隊出撃!!
130隻もの船団がスペインを出発します。
迎え討つイギリスは半分以下の55隻。
勝ち目はないと思われていました。
スペイン軍の上陸を阻むために、陸軍を集結!!
しかし、強大なスペインを前に、兵士たちの士気が上がりません。
そこへ・・・現れたのはエリザベス!!

「私がここに来たのは、みなさんと生死を共にするためです。
 私は、か弱い女性にすぎませんが、王の心と勇気を持っています。
 我が国の教会を踏みにじる者を、許すことはできません。」

兵士たちは涙を流し、戦意を奮い立たせました。
迫りくる無敵艦隊・・・戦いの行方をエリザベスは一人の男に託していました。
その男は・・・あの海賊ドレイク!!彼を副司令官に抜擢したのです。
アルマダの海戦が始まりました。
しかし、圧倒的な戦力の差は埋まらずイギリスは劣勢に・・・
ドレイクが岸城阿世の一手を・・・!!
味方の船に火をかけて突っ込ませます。大混乱の無敵艦隊・・・スペインは、多くの船を失い、敗走することになるのでした。
大国スペインに勝ったエリザベスは、小国イギリスが大英帝国へと発展する足掛かりを築いていきます。

1600年、67歳の時には東インド会社設立。
後の植民地支配の第一歩を踏み出します。
首都ロンドンも急成長し、娯楽にシェークスピアが登場します。
一方、戦費の負担、凶作で国内の経済は悪化。
対応を迫られたエリザベスは、貴族の商売独占を禁止し、経済の自由化を図ります。
病気や貧困で苦しみ人々のために救貧法も制定します。

晩年のスピーチでは・・・

「そんな高価な宝石より、私が一番大切に思う宝石は、「みなさんの愛」です。
 私ほど、国のことを思い。みなさんのために命をも投げ出す女王がこの席に座ったことはないし、これからもないでしょう。」

この演説から2年・・・1603年3月24日、エリザベスは息を引き取ります。
69歳でした。

死後、寝室から一通の手紙が見つかります。
送り主は、15年以上前に亡くなっていたロバート・ダドリーでした。

”何にもまして私が祈るのは、陛下が健やかに長生きされることです。
 身を低くして、陛下のおみ足に接吻いたします。”

エリザベスは、手紙にこう書き添えています。

「彼からの最後の手紙」と。

エリザベスは亡くなる直前に、以外な人物を次の国王に指名していました。
メアリー・スチュアートの息子でスコットランド国王となっていたジェームズです。
このジェームズの即位がきっかけとなり、イギリスとスコットランドは1707年に統合。
そして、両国の国旗が現在のイギリス国旗の元となるのです。

エリザベスは、歴代の多くの国王が眠るウエストミンスター寺院に葬られました。
その向かいには、メアリー・スチュアートの墓が・・・!!
数奇な運命を経て、二人はともに、イギリスの歩みを見つめ続けています。


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今、室町時代がホットです。
応仁の乱に匹敵するの戦乱が観応の擾乱です。
室町幕府草創期・・・足利尊氏VS足利直義の未曽有の戦乱・・・兄弟げんかです。
今後の幕府の在り方をめぐり、対立する兄弟・・・。
最後に勝者となるためには・・・??

発端は・・・1335年、京に激震が走りました。
時の権力者・後醍醐天皇の元に、共に鎌倉幕府を滅ぼした有力武将・足利尊氏に関する驚くべき知らせが・・・。
「建武2年8月足利尊氏袖判下文」・・・その文書には・・・京の後醍醐天皇に図らずに、独断で領地を与えています。
恩賞の給付は、天皇の専権事項です。
後醍醐天皇は11月、激怒して討伐軍を差し向けます。
尊氏は天皇の攻勢を前に九州へ落ち延びたものの、翌年巻き返します。
1336年12月後醍醐天皇は吉野に南朝を樹立。
50以上年に及ぶ南北朝動乱が幕を明けました。

一方尊氏は、京都を抑え室町幕府を創設。
しかし、征夷大将軍・尊氏の幕府での尊氏の権限は限定的なものでした。
当時の歴史書「梅松論」には・・・
尊氏は弟の直義に政務を譲り、以降口出しすることはなかったと・・・。
尊氏の二つ違いの弟・直義は、足利家中心の武家政権の樹立を主導した人物です。
二人が車の両輪のように役割分担することによって動き出した室町幕府。
尊氏は、軍事指揮権と恩賞充行権を担当し、弟・直義は、裁判などの政務全般を司っていました。
しかし、この権限は、訴訟部分で対立することに・・・。

寺社に寄進した所領は寺社が永久に持つべきと考える直義。
寄進した後に武士に温床として出されても、寺社の寄進を優先しました。
寺社本所領、貴族の荘園の保護が特徴です。
直義は、既存勢力の寺社や貴族の権力を守ることで、秩序回復を図ります。

しかし、命を懸けて戦ったのに・・・と、武士の不満が・・・。
その空気を捕らえ、恩賞給付を進めた人物が、足利家の執事・高師直です。
師直は、幕府のために働いた武士に恩賞で報いることで、求心力を高めることを目指します。
直義にとってみれば、武士の権利を突出して強化することは目障りでした。
二人の緊張関係が続きます。

1348年1月・・・事態は大きく動きます。
南朝・楠木正行の挙兵!!
幕府軍を相次いで破り、軌道に乗り始めた幕府は大いに揺らぎます。
四条畷の戦いで、5か月に及ぶ戦いで正行を師直が討ち取りました。
さらに、師直は、南朝の本拠地・吉野に進軍!!
御所などをことごとく焼き払いました。
その権勢はさらに強くなります。
このままでは、自分の権力の座が危うい・・・直義は窮地へ追い込まれていきます。

危機感を覚えた直義に接近したのは師直に恨みを抱く僧でした。
この僧は師直の行状について・・・讒言します。

「師直は、恩賞地が狭いと文句を言ってきた武士に、周辺の寺社の領地を侵略することを勧めた・・・」

直義はこの讒言に乗り、自らの屋敷に師直を招き・・・
1349年閏6月、忠吉による師直暗殺計画・・・プレ観応の擾乱でした。
師直は密告でこれを知り、すんでのところで暗殺は回避されます。
一方これを知った直義は、師直の報復に備え、邸の周りを固めます。
一触即発の事態に、尊氏は・・・このまま放置すれば、国を二つに分けた争乱になるかもしれない・・・と。
苦渋の裁定をします。
師直を解任し、直義についたのです。
師直は・・・尊氏と直義の籠る屋敷を5万もの大軍で囲みます。
1349年8月、師直の前代未聞の軍事クーデターでした。
要求は・・・??
①直義は政務を引退すること
②後釜の政務担当には尊氏の息子・義詮を据えること。
尊氏は、この要求を承認します。
関東の統治に当たっていた義詮は・・・
10月に上京し、直義邸はい、政務をとることとなりました。
さらに・・・直義側の勢力を削ぎ始めます。
直義の養子・足利直冬・・・武勇に優れていた直義の右腕を、兵を差し向け、九州へ追いやります。
直義は、政務からの隠退をさせられた上に、出家をさせられます。
ここに及んで直義は選択に迫られます。

このまま義詮が政治をし、師直が支える・・・足利政権による武家政権樹立は私にとっても念願なので、政界を引退する??
しかし、朗報は南からもたらされます。
九州へ上陸した直冬が地元の侍と立ち上がり、師直派を次々と撃破!!
京では今にも直冬が攻め上がってくると噂に・・・!!

不満の者を集めて挙兵する??
師直さえ追い落とせば・・・!!

1350年10月26日、直義はついに挙兵!!
京を脱出します。
骨肉の争い・・・観応の擾乱の始まりでした。
師直討伐を挙げる直義の檄に、各地の武士が続々と集まってきました。
中には、尊氏派の重臣もいたとか・・・。

師直と尊氏は、直義を無視して・・・10月28日、尊氏・師直軍、直冬討伐に出陣!!
しかし、従ったのは僅か500騎ほど。
形勢は完全に直義に傾いていました。
師直に対する不満が・・・恩賞に対して全員が満足するのは不可能でした。
努力が思うほど報われていないと思った武士が、直義に着いたのです。

直義側の武将たちは、各地で次々と師直派を打ち破ります。
そして形勢が有利となった1351年2月打出浜の戦いで直接対決!!
尊氏軍500騎のうち、本陣に帰ってきたのは皆無。
思わぬ惨敗に尊氏は講和を決断する。
第一幕は、直義の大勝利に終わりました。

さらに尊氏にとって予想外だったのが・・・
休戦協定が結ばれた後、武士たちが師直を襲撃し、殺害してしまいました。
敗者となり、側近まで失った尊氏・・・窮地に陥った尊氏どうする・・・??

出家する??
俗世の権力闘争から逃れたいものの、幕府の行く末が気になる・・・
それとも頼りない息子のためにも権力を保持する??

1351年3月2日、尊氏・直義は講和会談。
戦いに敗れ、階段に臨んだ尊氏は・・・
「わしにしたがって戦った武士に恩賞を与えることを最優先にすべきである」
敗者に似合わぬ、恐ろしく強気な言葉です。
恩賞のことに対する不満に気付いたのです。
直義も、師直さえ排除してしまえば依存はなかったのです。
尊氏の要求通りとなります。

尊氏の選択は、権力の保持でした。
将軍としての恩賞を与えるという役割を今後とも続けるということでした。
情乱前後の守護勢力図は・・・直義派の方が力を持っていましたが・・・
後は直義派は増えていません。
命を懸けて戦ったのに・・・その武士の不満が、直義から離れていきます。
さらに尊氏の嫡子・義詮の動きも直義の権力を脅かします。
義詮は、「御前沙汰」という新しい裁判制度を発足させます。
直義が管轄していた所領関係の裁判を、義詮が行うというもので、その手法は、直義とは違っていました。
直義の裁判は、訴えた寺社、訴えられた武士双方の主張を聞いたうえで、文書に基づいて勝訴を決めていました。
しかし、義詮の裁判は、訴えた寺社に文書があれば、武士側の釈明は聞かずに一方的に判決しました。
裁判はスピード化され、寺社や貴族には大いに歓迎されました。
一方武士の不満は、尊氏が恩賞を手厚く与え、解消します。

直義は孤立している・・・

最早武力に訴えるしかなく・・・
1351年7月30日、直義、再び京を脱出し挙兵!!
観応の擾乱の第二幕です。
味方の本拠地・北陸を拠点に、尊氏と戦いながら鎌倉で関東の武士を糾合します。
尊氏は、3000の兵で薩埵山に布陣。
直義は、これを1万を越える兵力で包囲します。
兄弟はついに雌雄を決することに・・・!!

命運を決したのは、直義が最後に頼ろうとした関東の武士・・・
下野の武士団が尊氏側について挙兵!!
直義軍に襲い掛かります。
これによって、直義軍の包囲網は崩壊!!

尊氏に降伏した直義は、1352年2月26日、幽閉先の鎌倉で死去しました。
享年46歳。
日本全土を巻き込んだ骨肉の争い・・・観応の擾乱は尊氏の勝利により集結しました。
室町幕府はすべてが恩賞化され、全国政権として確立し、求心力を高めていきます。
その一方、各地の守護に実力を蓄えさせたことは、来るべき戦乱の世への端緒ともなったのです。

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