BS歴史館、聖徳太子は実在したのか?~古代史の巨大な謎に迫る~です。

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聖徳太子と言えば・・・
「日本史最強の外交の英雄」第1位
「女性が彼氏にしたい歴史上の人物」第5位
です。

実力と人格の両面で人を引き付ける聖徳太子。
彼は、今から1400年ほど前に推古天皇の補佐役であった厩戸皇子とされています。
厩戸皇子は、古代日本にとって大切な役割をしたといわれています。

しかし、聖徳太子架空説が出るほど、その人となりは解っていません。

憲法十七条は本当に太子が作ったのか?
本当に、聖徳太子は時代の先端で政治を動かしていたのでしょうか?

架空なのか、実在なのか、何者なのか?それは、古代史の大きな謎です。

日本史を大きく動かした乙巳の変、大化の改新、日本書紀成立の謎について・・・。
日本が自立しようとしてもがいていた7世紀。
その英雄伝説と、知られざる謎とは一体何なのでしょうか?


沢山の偉大な業績が現代まで語り継がれている聖徳太子。そもそも、574年から622年に生きた厩戸皇子とされています。

当時の日本は、はっきりとした法律や制度がなく、国の基礎がなっていない状態でした。政治の方針は、天皇や皇族、有力豪族との合議で決められていました。

豪族は、それぞれ民や領地を抱えていたので、権力争いが絶えませんでした。
そんな時代に現れた、厩戸皇子は、推古天皇の補佐役として、後世聖徳太子と讃えられる活躍をするのです。

では、どんな活躍をしたのでしょうか?その人物像と業績に迫ります。

同時に10人の話を聞きわけた
未来を予言した
万能の天才・・・

古墳時代と奈良時代の間の飛鳥時代・・・。皇族の力関係で国が左右される時代。592年には崇峻天皇が暗殺されています。天皇を中心とする政治への過渡期・・・。まだ混沌とした世界に、国家の基礎を築いた人でした。

憲法十七条の制定
冠位十二階の制定
仏教(当時の最先端の学問)の導入
遣隋使

いろいろあります。

この憲法十七条、聖徳太子が亡くなってから100年後の歴史書日本書紀に記されています。

その決定的な記述は・・・。
「厩戸皇子は、推古天皇の皇太子になり、政治の全てをつかさどった」と、全ての業績を認めています。
この、一人で偉大な業績を成し遂げたという、超人的な人物像が、後世になって聖徳太子と呼ばれるようなった所以なのです。

しかし、根拠となっている「日本書紀」には、厩戸皇子が皇太子(天皇存命中に選ばれる唯一の後継者)になったとありますが、当時皇太子という制度はありませんでした。亡くなってから、次の天皇を決めていたのです。

ここには、100年後の常識が載っていました。つまり、全面的には信用しがたいのです。

厩戸皇子は聖徳太子だったのでしょうか?もし、この業績が一人のものでないならば、特別な存在として、集合代名詞として使った名前なのかもしれません。


業績の中で、厩戸皇子がしたとされているのは、斑鳩宮を作り、斑鳩寺を作り、そこに移り住んだとされています。
そこでは、飛鳥時代の建物の柱の跡が、たくさん出土しています。宮殿と寺が記述通り、隣接しています。斑鳩で宮殿に住む人物の記録は厩戸皇子のみ。この宮殿遺構は、厩戸皇子のものと特定されました。

飛鳥から大和川を下ること20キロの地点、それをさらに下ると難波の海へ・・・。この、斑鳩を拠点に選んだことが、さらに大きな業績へと繋がります。

日本書紀によると、
601年斑鳩宮を造営開始
605年完成となっています。
この頃は、国際外交の転換期でした。

随書・倭国伝によると・・・
600年、日本から使者が来たと記録されています。
この遣隋使、日本にとって切実な問題を抱えていました。
朝鮮半島では、高句麗、百済、新羅が勢力争いをしていました。日本はそれぞれと国交を結んでいたので、巻き込まれそうです。
そこで、直接隋と国交を結び、安定を図ろうとしていたのです。

しかし、長安で待ち受けていたのは厳しい現実でした。
遣隋使は、日本の政治の仕組みを満足に説明できず、おまけに正式な国書も持っていません。
隋は、未熟な国と判断し、国交を結んでくれませんでした。

この失敗が、厩戸皇子を斑鳩宮建設に向かわせました。
厩戸皇子読本
厩戸皇子読本
厩戸皇子の役割は外交だったと思われます。外交問題の解消に目を付けたのが、渡来人でした。
滋賀県西教寺には、厩戸皇子に影響を与えたといわれる渡来人が祭られています。
慧慈、厩戸皇子の師匠と言われる高句麗の僧です。その人に学び、文化の交流・外交の情報を仕入れ、国際知識を学びました。
厩戸皇子は、たくさんの渡来人を集め、斑鳩に最先端の文化と技術を集積させました。
斑鳩に流れる大和川は、難波津とつながっていて、その川を上って渡来人たちはやってきたのです。

607年第2回遣隋使
国書は、日本外交史上に残る書き出しです。
「日出づる処の天子 書を日没する処の天子に致す」

これを読んで、隋の皇帝は国交を結びます。
大国隋との対等外交は、厩戸皇子の業績かも?

この日出づる・・・を読んで、煬帝が激怒したという説もありますが・・・
摩訶般若波羅蜜多心経の注釈書「大智度論」に、
「日出づる処は東方なり」
「日没する処は西方なり」という件があり、これを採用したのでは?とも言われています。聖徳太子の教養に、煬帝も一目置いたかもしれません。

それよりも、天子、中華思想では天子が二人もいてはいけないので、激怒するならばそこかもしれません。

慧慈をはじめ、たくさんのブレーンを抱え、多くの情報を持っていた厩戸皇子、海外に文化的な国であるとアピールできます。


憲法十七条は、604年の制定。
「和をもって貴しとなす」これは、日本最初の成文法です。内容は、国の役人に、仕事や生活の基本的な心構えを説いたものです。

この憲法十七条にも謎があります。
憲法十七条、日本書紀にのみ書かれています。
日本書紀の完成は、720年、奈良時代の初めのことです。
歴代天皇ごとに、巻が分かれていて、全30巻からなります。

そこの、22巻推古紀に記されています。
推古天皇12年(604年)4月30日
皇太子自ら憲法十七条を書き記した
第1条「和をもって貴しとなす」
第2条「あつく三宝(仏教)を敬え」・・・
全てが記されています。

最古の写しがあります。それは、厩戸皇子が定めた条文を、そのまま写したものと、考えられていました。
しかし、不自然な点が・・・

十七条の憲法には、文法上の誤りが19か所もあります。しかし、それは、推古紀全文にある、規則的な誤りなのです。=推古紀は、全て一人の執筆者が書いたものなのでは?という疑問です。

厩戸皇子の書いたものを書き写したのではなく、新たに作り出された可能性があるのです。
誰が書いたのか?高校の教科書にも、主語が書かれていません。。。。
どうであれ、十七条の憲法は、儒教・仏教・道教が満ち溢れ、賢い頭の持ち主が作ったことには間違いありません。

冠位十二階の方は、「隋書」にも記載されているので、間違いはないでしょう。

この十七条の憲法は、国家公務員法のようなもの。はじめは一人の人が書いていたとしても、固定されたまま伝わるのではない・・・最初は一人が書いても、いろんな人の議論が加わっていく。。。

歴史とは、たゆたうもの・・・。


では、「日本書紀」は何のために作られたのでしょうか?他にもたくさん編纂されていたのに・・・。
この日本書紀は天皇を教育する”帝王学”に資するための歴史書なのです。

そこに、一人の主人公としての聖徳太子が必要だったのではないでしょうか?
しかし、そこで考えなければいけないのは、歴史とは、勝者の記録であるということ。

厩戸皇子が622年に死去、日本書紀の完成は720年。
この100年の間には、乙巳の変、大化の改新がありました。

厩戸皇子には、有力豪族の協力者がいました。
蘇我氏、馬子です。

推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子は、非常にいい関係が続いていました。馬子は、天皇から信頼を得て、政治の場で中心的な役割を果たしていたと思われます。

馬子の死から20年、蝦夷・入鹿の時代。天皇一族と蘇我氏は決裂します。

そこで起こったのが
645年乙巳の変が起こります。中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を暗殺。蝦夷はそれを知って自害します。蘇我氏本家の滅亡でした。強大な権力が滅びたのです。

この大改革、天皇と豪族が並び立つ構造から、天皇を中心とする三角ピラミッドへ・・・。これが、大化の改新です。これが行われなければ、今の日本はありません。新しい日本のために!!

では、なぜ蘇我氏は排除されなければならなかったのでしょう?

ああ、時間が無くなってきたので、あとはまた今度・・・週明けにでも。揺れるハート

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