エカチェリーナ2世とその時代 [ 田中良英 ]

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類まれな秘法の持ち主・・・エカチェリーナ2世。
ロシア歴代皇帝で、最長在位を誇り、領土を最大限に押し広げた最強の女帝です。
わずか14歳でドイツからロシアの皇太子に嫁いだ少女・・・。
陰謀と策略が渦巻く宮廷で、生き抜くために見つけた道は・・・??

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外国人でありながら、ロシアへの愛をうったえ、自ら皇帝の地位に就き・・・
女帝の人生を彩ったのは12人の愛人でした。
その素顔とは・・・??

ロシア皇帝の中で最長の34年間在位し、最も領土を拡大したエカチェリーナ2世。。。
外国人のエカチェリーナがどうして皇帝へとなったのでしょうか?






命を救った緑の軍服

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白馬にまたがる女性・・・1762年33歳のエカチェリーナ2世です。
身にまとっていたのは緑の軍服・・・
ここに、皇帝となれた秘密がありました。



1744年ドイツからロシアに向かっている一台の馬車に乗っていたのは、ドイツ貴族の娘・ゾフィー・・・後のエカチェリーナ2世でした。



ロシア皇太子のお妃候補として宮廷にあがろうとしていました。
ゾフィーのライバルは、ポーランド国王の娘・マリアンヌ。
中流貴族の娘であるゾフィーよりはるかに上の地位でした。

しかし・・・この縁談を絶対に勝ち取りたい理由がありました。
母親との確執です。
「母は、私の事を醜いと言い続けた。
その為、私は外見ではなく、内面的な教養を身に着けることに関心を持ったのだ。」
弟ばかりを愛し、愛情を注いでくれなかった母。。。

当時、ロシアを治めていたのは、ロシア皇帝・エリザベータ。
ライバルに競り勝って妃の座を射止めるためには、この女帝の信頼を勝ち取らなければなりませんでした。
ゾフィーは、心からロシアを愛し、ロシア人になりきることを心に決めます。
ロシア語を完璧に習得しようと努力します。
この姿勢に、女帝は心を打たれ始めました。
さらに・・・父親の反対を押し切って、ロシア正教へと改宗。
ロシアを愛するこの娘こそ、皇太子妃に相応しい・・・と、エリザベータは、改宗したその日にエカチェリーナという名前を与えるのです。
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1744年6月29日、皇太子ピョートル3世と婚約。
遂に、皇太子妃の座を射止めます。
しかし・・・この夫が・・・エカチェリーナの人生を大きく狂わせるのです。

1756年、領土を巡ってドイツとの7年戦争に突入!!
14万もの死者を出しながらも勝利目前のロシア・・・
しかし、1762年ピョートル3世はロシア皇帝に即位すると・・・
突如、ドイツと講和を締結!!
占領していた土地を放棄してしまいました。
無条件で兵も引き揚げてしまったのです。
ロシア皇帝でありながら、先進国ドイツに憧れを抱いていたからです。

子供じみた性格で・・・おもちゃの兵隊で遊び、その遊びでも勝つのはドイツでした。
そいつびいきはエスカレートし、軍事顧問をドイツから招き、軍服もドイツ風の青色に変えてしまったのです。
ロシア伝統の緑の軍服は、うち捨てられてしまいました。

矛先はエカチェリーナにも・・・
公然と愛人を作り、妃にすると宣言し。。。
エカチェリーナは捕えられ・・・別荘に監禁されてしまいます。
このままでは、妃の座はもとより、命まで狙われてしまう。。。
エカチェリーナは、クーデターを起こそうと、同志を募ります。
1762年6月28日クーデター決行!!
軟禁先を脱出し兵たちと合流、心からロシアを愛し、憂いていることを訴え、国益を損なうピョートル3世の打倒を誓うのでした。
エカチェリーナがロシアへの愛を示すために録った行動は・・・ロシア伝統の緑の軍服だったのです。
失われたロシアの伝統を取り戻すために・・・!!
その姿に、多くの軍人が呼応・賛同し、圧倒的な兵力でピョートル3世を負かすのです。
捕えられたピョートル3世は、サンクトペテルブルクの別荘に幽閉されてしまいました。

クーデターに成功したエカチェリーナ・・・1762年7月9日33歳で、ロシア皇帝に即位!!
初めて外国人としてロシア皇帝の地位に立ちました。


決意の種痘

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しかし・・・その政権は、盤石なものではありませんでした。
皇帝の血筋でない外国人という立場は、危ういものでした。
確かな政治基盤を作って信頼を得なければ・・・!!
この頃、ロシアでは伝染病が猛威を振るっていました。
多くの人が命を落としていた天然痘・・・。
事態を打開するために・・・イギリスから最新の予防法を導入します。
患者から膿を取り病原菌を摂取して免疫を作る”種痘”です。
しかし・・・病原菌という恐ろしいものを自分の体に入れようと思うものなどだれ一人いませんでした。


そこで、自らが試験台となり、ロシア初の種痘の試験台となります。
軍人や貴族たちは、その勇気ある行動に、次々と種痘を受け始めます。
そしてそれは、ロシア全土に広がっていくのです。
彼女の夢は・・・ロシアの国力を高め、西欧列強に肩を並べることでした。

当時ヨーロッパは絶対君主制でした。
法律の整備や、中央集権的な国家体制が築き上げられ、豊かな文化や産業が花開いていました。
しかし・・・ロシアは辺境の二流国とされていました。
その理由は・・・国民の8割の農民を貴族が奴隷のように支配しているという現状でした。
法律による規制もなく、虐待や拷問が横行していたのです。
エカチェリーナは、ロシアを法治国家にしようと、農奴制の廃止を考え法案をかき始めます。

出来上がった法案は、有力貴族に意見を求めます。
しかし・・・貴族たちは猛反発!!資産を失うことになるからです。
エカチェリーナの元に法案が戻った時は・・・農奴解放に関する項目はほとんど削除されてしまっていました。
が・・・拷問の禁止・・・は残っていました。
この事は、各国の言葉に翻訳され、近代国家の第一歩を踏み出したと印象付けることができました。
そして・・・エカチェリーナは、100年かければこの問題は解決できると考えたのです。
いつか農奴制が廃止される日が来る日を夢見て。。。

しかし、農奴制が残されたことがロシアにとって大きな危機へとなっていきます。
1773年プガチョフの乱が起きます。
立ち上がったのは、貧しさに耐えかねた地方の農奴でした。

「もはや、領主のために働くことはない。
全ての農民を解放し、女帝エカチェリーナを幽閉して、貴族どもを皆殺しにするのだ!!」byプガチョフ。

20万人に膨れ上がった農民は、地方都市を次々と陥落させ、貴族や兵士を惨殺します。
ロシア史上最大の農民暴動で、プガチョフを捕え、反乱を抑えるのに2年が必要でした。
農奴制の孕む大きな危うさ・・・エカチェリーナは改革を断行します。
広大な領土を50の県に分け行政機関を設置。
中央の政策が各地にいきわたるようにします。
全国300カ所にロシア初の小学校を設立!!
さらに全国に診療所を整備し、農奴でも教育や医療を受けることができるようにしました。


手書きのラブレター

エカチェリーナには12人の愛人がいました。
しかし・・・愛人たちには政治に口出しはさせませんでした。
一人を除いては・・・。
そんな足場を固めたエカチェリーナは、広大なロシア帝国を築いていきます。

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45歳の時に書いたラブレター・・・その相手は、10歳年下の愛人グレゴリー・ポチョムキン。。。
幾多の武功で英雄となっていました。
二人の出合いは、宮廷の舞踏会・・・。
ポチョムキンに魅了されたエカチェリーナは、愛人となると様に申し込みます。
ポチョムキンは、男性として魅力があっただけではなく、並外れた政治家でした。
エカチェリーナは、あ周りにいる誰よりも、ポチョムキンが有能だと考えていたのです。
勉学にも優れ、軍隊での経験も豊富、政治的な手腕も秀でていました。
エカチェリーナは、ポチョムキンを何としても手に入れたかったのです。


しかし・・・ポチョムキンは応じようとはしませんでした。
そこで・・・一通の手紙を送っています。
題は「心からの懺悔」。
自らの男性遍歴を説明し、許しを乞おうとしたのです。
愛の確証を得たポチョムキンは、女帝に応じたのです。
ロシアでは、代々女帝の結婚は許されていません。
が・・・エカチェリーナは、秘密の結婚へと進んだのです。
これまでの愛人とは違い、プライベートでも、政治的にも深く愛していたのでした。

理想の伴侶を得たエカチェリーナ2世は、最大の野望である領土拡大へ・・・!!
ポチョムキンは助言しています。
「クリミア半島は、我が国の平和を保証するに違いありません。」
「敵に邪魔立てをする余裕を与えずに、クリミア半島を出来る限り早く占領してしまいましょう。」byエカチェリーナ2世

妻として・・・夫として愛を語ることを忘れることなく・・・。
クリミア半島セバストポリ・・・。近年クリミア紛争としてロシアとウクライナが争っていますが・・・。
ここは、長くロシア海軍の拠点でした。
それは・・・不凍港があるからです。
当時黒海沿岸は、オスマントルコの支配下となっており、ロシアは南への領土拡大をする為に、度々トルコと争っていました。
そして・・・遂にトルコに勝利し、緩衝地帯として独立させることに成功します。
おまけに君主を籠絡し、クリミア半島を戦わずして手に入れ・・・セバストポリに軍港を・・・戦艦を配備するのでした。
一方、エカチェリーナ2世は、1787年に各国の大視察団を率いて到着!!
立派な港に最新鋭の軍艦・・・その光景には誰もが目を見張りました。
同行したオーストリア皇帝は・・・
「私が目にしているものは、実際にここへきて見てみない限り、信じがたい光景だ。」
視察を終えたエカチェリーナは、ポチョムキンに手紙を書き、惜しみない賛辞を送っています。

エカチェリーナは、ポチョムキンという英雄を得て、領土を最大へと広げました。
そしてロシアを列強と肩を並べる帝国へと築き上げたのです。
ロシアのクリミア半島への進出は・・・このエカチェリーナの時代に始まったと言っても過言ではありません。

しかし・・・その幸せは長くは続きませんでした。
サンクトぺテレうブルクにあるエルミタージュ美術館は、歴代ロシア皇帝の宮殿でした。
そこに美術品を集め始めたのがエカチェリーナ2世。
その芸術品の数々は、ロシアが一流国であることを国内外に見せつけるものでした。
エカチェリーナは・・・権力の絶頂にありました。
しかし、1791年10月・・・エカチェリーナの元に届いた知らせは・・・52歳でのポチョムキンの死。。。
南方でかかった伝染病が原因でした。

最愛の男を失ってしまい・・・人生の歯車は狂い始めました。
当時のヨーロッパは、激動の・・・発端となったのはフランス革命でした。
1793年フランス国王ルイ16世処刑・・・それは、絶対王政の終わりを告げるものでした。
エカチェリーナが最も恐れていたのは、これに呼応して大規模な農奴の反乱がおこる事でした。
そんな時・・・1冊の本が目に止まります。
ラジーシチェフ作「ペテルブルクからモスクワへの旅」です。
そこには・・・
”みずからの同胞を奴隷にするという非人間的な習慣、それを手つかずのままにしているのはこの理性の時代の恥だ。”
理想に燃える若い貴族の農奴解放を訴えた書物でした。
エカチェリーナは激怒!!
「この本を書いたものは、プガチョフよりも悪しき民衆の扇動家だ!!」とし、彼を10年間のシベリア流刑としました。
若き日・・・農奴制と戦っていたエカチェリーナ・・・。
しかし、時代は、君主制の崩壊を迎えようとしていたのです。
1796年11月17日エカチェリーナ2世死去・・・享年67歳でした。
その治世は、ロシアの皇帝の誰よりも長い34年でした。

14歳でドイツからやってきて、女帝にまでなったエカチェリーナ・・・
ロシアをこよなく愛し、大国へと導いたことから、大帝と呼ばれる数少ない皇帝のひとりとなったのです。

2014年、ロシア「世論財団」による”国家指導者の歴史的役割に対する評価”は・・・
1位・・・ピョートル1世
2位・・・エカチェリーナ2世
となっています。

今のロシアの礎を築いたのはピョートル大帝ですが、大国にレベルアップさせたのは、エカチェリーナ2世だったのです。

「私は命令を発するとき 状況をよく吟味し、相談し、助言を受けます。
 そして、賛同してもらえると確信できるときにのみ、人々に命じます。
 結果、人々が従うのを見て 喜びを感じます。
 これが絶対的な権力の土台なのです。」byエカチェリーナ2世

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