白虎隊 [DVD]

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その美しさから会津富士と呼ばれる明峰・磐梯山
今から150年前、この山の麓で、戊辰戦争最大の激戦が行われました。
藩の誇りをかけた会津藩が、攻め込んできた新政府軍に徹底抗戦!!
そんな会津藩に悲劇が・・・
白虎隊の少年兵たちが非業の死を遂げたのです。
城が陥落したと絶望して・・・。
今も語り継がれる白虎隊と会津藩・・・その壮絶な最期とは・・・??

会津藩は、伊達家の仙台藩、上杉家の米沢藩が幕府に反旗を翻した場合に、防衛の拠点となる重要な藩でした。
藩の礎を築いたのは、2代将軍秀忠の息子・保科正之です。
保科は、会津藩家訓15か条を作り、第1条に・・・
”徳川家に絶対的な忠誠を誓うことが、会津藩の務めである”と。
その使命を果たすべく、代々藩主は人材育成に努めていきます。
その一環として藩士の子供たちは、”什の掟”という心構えを教え込まれます。
10歳になると、藩校・日進館に・・・。
論語、大学など中国の古典を声に出して読み教養を深め、医学、天文学まで幅広く学びました。
砲術、弓術、水練・・・徳川家の有事に備え、有能な藩士を育てようとしました。
こうして幕府から絶大な信頼を得ていく会津は、幕末、朝廷からも信頼を寄せられます。

9代藩主・松平容保は、京の治安維持を担う京都守護職に・・・。
時の孝明天皇から高く評価されます。
しかし・・・15代将軍徳川慶喜が政権を交代した大政奉還を境に会津藩の立場は激変!!
幕府、朝廷・・・両方から敵視されることに・・・

慶喜の裏切り・・・
1868年1月、容保ら旧幕府軍は、慶喜を大将に新政府軍に戦いを挑みます。
鳥羽伏見の戦いです。
しかし、あえなく敗戦!!
容保は慶喜に付き従い江戸に逃げ帰ります。
対して新政府軍は朝敵となった慶喜に対し素早く追討令をだし、江戸へと迫ってきました。
すると・・・慶喜は朝敵に対し恭順の意を示したばかりか、信頼していた容保を江戸から追放したのです。
そこには慶喜の思惑がありました。
まだ新政府軍と戦う気だった会津藩の存在が邪魔だったのです。
「江戸から遠ざけたい・・・!!」
”会津藩 松平容保は、天皇に対し恭順の意を表していない”と印象付けようとしたのです。

徳川家に尽くして来た会津藩に対する裏切りとも取れる慶喜の行為・・・
大きなショックを受けた容保は、失意のまま会津に戻ります。
そして14歳だった養子の喜徳に家督を譲り隠居、自らも朝廷に対し恭順の意を表すのですが・・・
その申し出は受け入れられませんでした。
新政府軍は、容保の斬首を要求!!

どうして新政府軍は会津に厳しかったのでしょうか?
長州藩との因縁・・・
それは、まだ幕府が政権を返上する前、京都守護職の容保は、新選組を配下に置き、尊王攘夷派の長州藩士などを厳しく取り締まっていました。
攘夷派だった孝明天皇も、容保に信頼を寄せるようになります。
1863年、8月18日の政変!!
孝明天皇に近づき利用しようと画策していた長州藩士と尊王攘夷派の公家らを京都から追放!!
この時、長州藩士たちを追放したのが容保ら会津藩でした。
長州藩は尊王攘夷激派で、容保はまだ公武合体派だったのです。
孝明天皇も、まだ”長州藩士らの追放”を望んでいました。

1864年禁門の変・・・復権を目論んだ長州藩が再び上洛し、蛤御門で幕府軍と対決!!
しかし、御所を守っていた会津藩(松平容保)、桑名藩(容保の弟・定敬)、薩摩藩によって撃退されます。
長州藩は多数の死者を出したうえ、責任を取って3人の家老が切腹を命じられました。
これによって長州藩は会津藩と薩摩藩を「薩賊会奸」と恨むようになりますが・・・
この後、長州は薩摩と同盟(薩長同盟)を組み・・・憎悪の念は、会津藩一藩に集中するのでした。
つまり、容保の厳しい処分は、長州藩の強い意向によるものでした。
新政府軍は、自らの威信を世に知らしめるために、朝敵となっていた松平容保の斬首を決めたのです。
会津藩の存亡をかけた戦い・・・会津戦争が始まりました。

会津藩・松平容保の斬首を執拗に要求した新政府軍・・・
これに猛反対した東北諸藩は、朝廷に容保の助命嘆願をしましたが、朝廷はこれを却下。
そこで、仙台藩を中心に、長岡藩、米沢藩、庄内藩を中心に奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に対抗することになりました。
容保も、幼い藩主に代わって、密かに戦いの準備を進めていました。
まずは、部隊を年齢別に4つに分けます。
東西南北の守護神から・・・
主力は朱雀隊・・・18歳~35歳の屈強な青年部隊
続く青龍隊・・・36歳~49歳で構成
年配者は玄武隊・・・50歳以上の予備隊
白虎隊・・・16~17歳の少年で、予備隊した。
この白虎隊は、上流藩士の子弟で構成される士中隊、中級藩士の子弟で構成される寄合組隊、下級藩士の子弟の足軽隊と、身分によって分かれていました。
容保は、武器の洋式化も進めていました。
プロイセンの武器商、ヘンリー・スネルを軍事顧問として招聘していた容保は、会津藩・平松武兵衛を与え重用。
新潟にいたスネルの弟を通じて、武器を購入していました。
この時、会津藩・庄内藩からプロイセンに対し、領地売却の打診があったようです。
当時、新政府軍は、イギリスから最新鋭の武器や弾薬を入手していました。
そこで、会津藩と庄内藩は、蝦夷の領地をプロイセンに売却することで、武器を用立てようとしました。
しかし、ビスマルクは、この提案を拒否!!
このことが、会津藩の戦いに大きな影響を与えることとなります。

1868年4月下旬・・・
会津藩が、白河口の戦いで白河小峰城を占拠!!
新政府軍を迎え討ちます。
指揮を執ったのは、会津藩家老・西郷頼母でした。
仙台藩や、二本松藩らの援軍も駆けつけ、新選組の生き残りたちも会津藩に参戦し、会津藩・東北諸藩・旧幕府軍2500あまり・・・対する新政府軍は僅か700!!
いざ戦いが始まってみると・・・会津藩は、700人以上の死者を出して敗北するのです。
どうして・・・??そこには武器の装備の差がありました。
新政府軍は、最新式の元込め銃・・・手元で弾薬の装填をするので、短時間で弾を込めることができました。
会津藩は、旧式の先込め銃を使っており、先端から弾薬を装填するため、時間がかかりました。
おまけに命中精度は非常に悪かったのです。
武器の輸入が上手くいかなかったことは、用地売却が上手くいかなかったことが原因かもしれません。
白虎隊の少年たちに与えられたのも、先込め式の銃でした。
しかも、体の小さい彼等には小さいものを用意したといいます。
この時、白虎隊に鉄砲を指導した一人が山本八重(新島八重)でした。
来る戦いに備えて・・・!!
白河小峰城を落とした新政府軍は、会津へと迫っていました。
長岡藩、二本松藩が次々と破れ、新発田藩は寝返り。。。奥羽越列藩同盟は崩壊しました。
会津藩は追いつめられていきます。
新潟港を抑えられ、スネルの弟からの武器の補給路が絶たれてしまいました。

8月21日・・・新政府軍が会津にやってきました。
母成峠で激戦!!
新政府軍3000に対し、会津藩は僅か800でした。
この戦いに敗退・・・遂に領内に攻め込まれてしまいました。
そして・・・翌日、白虎隊に出陣命令が出されたのです。
苦渋の選択・・・もはや、避けることのできないところまで追いつめられていました。

主力部隊を藩境に・・・!!
しかし、東側の母成峠の戦いに勝利した新政府軍は、城下と山を隔てた猪苗代湖へと一気に攻めてきました。
容保の決断・・・主力部隊を藩境に送り出した後、城に残っていたのは50歳を超えた老兵と、まだ年端も行かぬ少年部隊でした。
そして、容保が選んだのは、白虎隊士中二番隊に出陣命令を出すのです。

8月22日、容保から出陣命令を受けた白虎隊士中二番隊は、猪苗代湖周辺で戦う味方と合流すべく隊長・日向内記のもと、峠を越えていきました。
到着したのは、日没間近の事でした。
8月22日は、今の暦にすると10月初旬・・・台風が接近していたので、強風雨や寒さに苦しめられました。
予備兵だった白虎隊の出陣は、突如決まったので、十分な食料を所持していませんでした。
一行は、降りしきる雨の中、野営を・・・!!
雨を避ける場所などなく、寒さに震えながらの野営・・・。
すると、隊長の日向が・・・
「他の隊に掛け合って、食料を分けてもらってくるから、諸君らは、ここで待つように。消して動いてはならぬ・・・!!」と、部隊を離れていきました。

激しい雨と不安の中、眠れない夜を過ごした少年兵たち・・・
早朝から新政府軍の激しい攻撃にさらされます。
会津軍は、たちまち陣形を崩し後退・・・。
白虎隊市中二番隊は、必死に逃げ回っているうちに他の隊とはぐれてしまいました。
二番隊も散り散りとなり、37人いたのに20人に・・・!!
指示を仰ぐ隊長もいない少年兵たちは、リーダー格の篠田儀三郎を中心に話し合います。
ひとまず若松城に戻ることに・・・しかいs、周囲は敵ばかり・・・!!
そこで、飯盛山の洞穴を通っていこう!!
そうして命からがら、飯盛山の西側にたどり着いた20人・・・ところが・・・
「城が・・・燃えている・・・!!」
目の前には、黒煙に包まれた若松城が・・・!!

「新政府軍の手に落ちたというのか??」

戻る城を失った白虎隊市中二番隊は、もはやこれまで・・・と、次々と命を絶つのです。
しかし、この時、城下は焼き払われていたものの、まだ城は落ちてはいませんでした。
これが、会津戦争最大の悲劇として語り継がれてきた白虎隊の最期ですが・・・

近年新説が・・・
自害した白虎隊20人の中で、一命をとりとめた者がいました。
飯沼貞吉です。
喉を突きさすも息があり、通りかかった女性に助けられました。
平成20年・・・白虎隊顛末略記という手記が発見されました。
これによると、若松城が落城したと思い込んで自決したわけではありませんでした。

意見がまとまらない中、リーダー格の篠田は、
「いずれの策をとっても、敵の捕虜にならないとは限らない。
 そんな恥辱を受けるより、ここで潔く自刃し、武士の本分を果たそう!!」
と、自決に至ったのです。

1868年4月下旬・・・会津戦争
会津藩は奮戦するも、4か月後、新政府軍に若松城を包囲されてしまいます。
城下では目を覆う惨劇が・・・!!
その様子が、会津藩士・荒川勝茂の日記につづられています。

「老人、婦女子、地にまみれ、地に染み、泣き叫ぶ声哀れなり
 あるいは夫人、風呂敷包みを背負いて出で 逃げるに妨げとなり 途中にて捨てるもあり
 また老人背負いて打たるるもあり
 実に目も当てられぬ有様なり」

この時、会津藩士の妻や娘などの多くが、足手まといになること、敵からの辱めを受けることを嫌い、自ら命を絶ったといいます。
その中で、中野竹子が指揮をした娘子隊は果敢にも長刀で戦います。
当時、新政府軍は生け捕りにしようとしましたが、その長刀さばきと勇猛果敢さに、慌てて銃を取り銃弾を浴びせました。
竹子は額に銃弾を受け、命を落とします。
まだ、22歳でした。
新政府軍によって、城下を押さえられた会津藩は、若松城での籠城戦を強いられます。
深い堀と高い石垣に囲まれた若松城は、奥羽一の堅固な城と呼ばれていました。
そのため、新政府軍を大いにてこずらせます。
鉄壁の城に刺客などなく、敵を撃退していきます。
しかし・・・長期戦の様相を呈してくると、様相は一転!!
5000人いた若松城は、食糧不足に陥ります。
会津藩の予想より早く、新政府軍は攻めてきました。
新政府軍の中心・薩摩、長州、土佐藩は、寒さに弱く、冬が来る前に攻撃を急いでいたのです。
5000人分の備蓄ができていなかったのです。
食糧が底をつくと、もち米の粉を湯がいただけのものを食べ、飢えを凌ぎました。
秋の深まりとともに、寒さも増していきます。
着の身着のままで逃げてきた人々は、震えながら夜を過ごします。
城内の人々が疲弊していく中・・・新政府軍は新たな戦法へ・・・!!
若松城の南東2キロにある小田山・・・新政府軍は、ここに最新の大砲・アームストロング砲を据えました。
射程は2キロ以上・・・城まで十分に届きます。
この大砲で、1日1000発以上もの砲弾を若松城に向けて撃ったのです。
城は大きなダメージを受けていきます。
激しい攻撃、劣悪な環境・・・次第に脱走者が続出し、悲観して自決する者も出てきました。
それでも、松平容保は、家臣たちと戦うことを選びます。
藩士たちもそれに応えます。
最後まで新政府軍を城の中に入れることなく戦ったのです。

ところが・・・
奥羽越列藩同盟の東北諸藩が降伏していく中、同盟の中心だった仙台藩がついに新政府軍の軍門に下ります。
その翌日・・・新政府軍より会津藩の元に降伏勧告状が届きます。
戦いの指揮を執ってきた容保は、遂に城を明け渡すことを決断!!
家臣たちは、涙ながらに容保の決断を承諾したのです。
9月22日、若松城に降参の意味を込めた白旗が掲げられます。
それは、負傷者の包帯に使っていた木綿の端切れを縫い合わせて作ったものでした。
そして、礼服に身を包んだ容保は、自ら降伏謝罪状を持って新政府軍の元へ・・・。
戊辰戦争の最初、鳥羽伏見の戦いから数えると、会津藩の死者は3000人近くに上ったといいます。

生き残った藩士たちには、過酷な運命が・・・
本州最北端の斗南藩3万石(実高6000石)へ移住させられます。
会津藩士だけが移住させられ、亡くなる人も沢山でした。
会津藩家老萱野長修が全責任を負って切腹。
松平容保は、斬首を免れ鳥取藩江戸屋敷などで謹慎。
容保は、日光東照宮の宮司となり、明治26年59歳でこの世を去りました。

新政府軍により賊軍となった会津藩は、自らの信念を曲げることなく最後まで戦いました。
故に、多くのものを失うこととなってしまいました。
そんな中、生き残った少年たちに会津の未来が託されました。
白虎隊の二人の少年が会津藩士・秋月悌次郎の尽力で、長州藩士・奥平兼輔の元に預けられ、書生となります。
その一人・山川健次郎は、後に48歳の若さで東京帝国大学総長となります。
その後も、日本の未来を担う、豊かな人材を育てることに尽力したのです。

山川は、常に、子供たちにこう教えていました。

「終生 人格を磨くべし」

何事に対しても、我慢強く、卑怯な真似はしてはならない・・・
会津で学んだ心得・・・会津士魂を伝えたのです。

白虎隊市中二番隊19人は、自決した飯盛山に眠っています。
会津を思い、会津のために死を選んだ19人の少年・・・
その傍らには、彼らを最後まで出陣させたくないと思っていた容保の歌碑があります。

幾人の涙は石にそそぐとも
        その名は世々に朽ちじとぞおもう
                           容保


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