聖徳太子 本当はなにがすごいのか [ 田中 英道 ]

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日本の紙幣に7度も肖像画を使われた人物・・・偉人中の偉人聖徳太子です。
遣隋使を送るなど、日本の仏教の礎を築いた重要人物として知られていますが・・・近年その存在が疑問視されています。
虚構か?実在か??

6世紀末から7世紀初頭にかけての飛鳥時代、奈良地方にあった大和政権が日本を動かしていました。
その政権の中心人物として数々の業績を残した偉人が聖徳太子ですが・・・
その聖徳太子にはたくさんの疑惑があります。

①架空の人物ではないか??
聖徳太子の記述が初めて登場するのは100年後の720年の日本書紀と言われています。
そこには、憲法十七条や、冠位十二階を制定したと書かれています。
が、その内容は、当時の政権の中枢にいた藤原不比等、長屋王、道慈たちが創作したもので、聖徳太子も彼らが作った架空の人物だったという虚構説です。

聖徳太子の名ではよばれていなかったものの、モデルになった人物はいました。
そのモデルとは、日本初の推古天皇を補佐した人物だと言われています。
その補佐役を務めていたのは、当時の状況から・・・推古天皇の甥にあたる用明天皇の第二皇子ではないか?と言われています。
しかし、第二皇子の正式名は解っていません。
どうして聖徳太子と呼ばれるようになったのでしょうか?

日本書紀にも聖徳太子という記述はなく、厩戸皇子・東宮正徳・上宮太子・皇太子・上宮厩戸豊聡耳太子などと呼ばれています。
聖徳太子という名が登場するのは、日本書紀から30年後の漢詩集「懐風藻」(751)が最初です。
聖徳とは、日本書紀にある玄なる聖(ひじり)の徳(いきほい)という言葉から来たと考えられ、王位につかなかったが王と同じ徳を持つことを示しています。
このことと、皇太子であることが結びついてできた名が一番ふさわしい・・・と、聖徳太子となったのです。

②有名な肖像画は、聖徳太子ではなく全く別の人物では??
かつての1万円札など紙幣の肖像画の元となったのは、聖徳太子を描いた最古の絵として法隆寺に伝えられてきた人物像ですが・・・作者、制作年代は不明で、日本風ではないその服装から、唐人ではないか?百済の阿佐太子ではないか?と言われてきました。
ところが1980年代後半、奈良市の遺跡から木棺が発見!!
奈良時代、8世紀ごろのものとされるこの木棺には、役人の姿が描かれていました。
この姿と法隆寺の人物画と比較したところ、極めて似ていることから・・・この絵は8世紀ごろに書かれたもので、モデルとなったのは、日本人であることが分かってきました。
つまり、この肖像画は、聖徳太子の飛鳥時代に書かれたものではなく、8世紀に侵攻のための描かれた「聖徳太子」を推測して書かれたものとされています。

③超人伝説は本当なのか?
聖徳太子と言えば・・・日本書紀に書かれているエピソードの中に・・・
馬屋の戸の前で生まれる
生後すぐに言葉をしゃべった
一度に10人の訴えを聞き分けた
未来を予言した
こうした聖徳太子の超人伝説はどうして生まれたのでしょうか?
聖徳太子の名前に・・・「上宮厩戸豊聡耳」という名があります。
この意味を考え・・・聖徳太子の様々なことが考えられたようです。
すべては名前からなのです。
聖徳太子の超人伝説は、皇太子の理想像として作られたのではないか?と思われます。
皇太子はどうあるべきか??日本書紀に書かれているので、聖武天皇にとってのお手本、マニュアルの存在だったようです。

日本が倭国と呼ばれていた6世紀末・・・
奈良地方では、有力豪族たちによる連合政権が作られ、その盟主として後の天皇としての大王が存在していました。
当時はまだ明文化された法律も、本格的な官僚制度もなく、政治は皇族、豪族たちによる話し合いで行われていました。
そんな中、聖徳太子は推古天皇の補佐役となり、当時の有力豪族・蘇我馬子と協力し合いながら、政務に励んでいたと言われています。
しかし、その頃の日本は外交において難題を抱えていました。
当時の朝鮮半島には、4つの国と地域(高句麗・百済・新羅・任那)があり、高句麗、百済、新羅の争いが続いていました。
その結果、鉄の産地として日本と縁の深かった任那が新羅によって併合されてしまいました。
このままでは、鉄の供給が絶えてしまう・・・そこで、倭国は3度にわたって朝鮮半島に遠征をしますが、芳しくなく・・・成果をあげることができませんでした。
そこで、外交戦略を変えます。
統一したばかりの大国・隋に使者を送ることを決断します。
そこには、聖徳太子の狙いがありました。
新羅に対して、倭国自らが圧力をかけるよりも、新羅が従属している隋に直接働きかけるのが一番ではないか?
当時の朝鮮半島の国々は、隋の属国としてありました。
支配者の隋に働きかけて、新羅を任那から撤退させようとしたのです。
600年、遣隋使を派遣!!
しかし、この目論見は大失敗!!

「隋書」倭国伝によれば・・・
隋の役人が日本の国情を尋ねたところ、日本の使者はこう答えました。
「倭王は、天をもって兄となし、日をもって弟となす。
 夜明け前に政務を執り、日が昇ると政務を停止し、後は弟に任せる。」
国家として体を為さない意味不明な説明で、隋の皇帝は「道理ではない」と、あきれてしまったのです。

帰国した使者から報告を受けた聖徳太子は、反省します。
「我が国は、国の制度も整っていない後進国だ。
 これではまともに、隋と外交交渉することもできない。」と。
この最初の遣隋使の失敗がもたらした危機感が、聖徳太子を大胆な国づくりに駆り立てたのでした。

「なぜ我が国は、隋に認めてもらえなかったのか??」

聖徳太子は、その原因が日本の政治制度が整っていなかったことと痛感・・・。
国内体制の整備に取り掛かります。
大和政権内に、外交使節を招く格式高い場所がなかったことから、603年小墾田宮に遷宮。
宮の中心に、政務や祭礼が行われる朝庭を配する建物は、中国の建築物に倣ったもので、外国からの使節を招くにふさわしい場所となりました。
これが、後の御所の原型となります。
次に聖徳太子が行ったのが、豪族たちを序列化するための官位制度の制定です。
当時の氏姓制度は・・・大君から与えられた姓によってきめられていました。
君・臣・連・直・・・姓によって細かくランク分けされた世襲制でした。
そのため、どんなに優秀な人物であっても、姓が低ければ、上の炊く職に就くことができませんでした。
そんな日本の序列制度を、隋はこう蔑んでいました。
「頭には冠はなく、ただ髪を両耳の上に垂らしている」
隋では、役職に応じた冠位が定められ、冠をつけた正装で職務を行っていました。
もちろん、出世は実力次第・・・聖徳太子は、日本もこれを見習うべきだと新しく12段階の官位を定め、色分けした冠を作り、さらにそれらの官位は姓に関係なく実力によって与えられるように改革。
冠位十二階の制定には、日本を隋に認めさせたいという聖徳太子の思いが込められていました。

604年・・・憲法十七条の制定。
そこには、聖徳太子が理想とした国づくりの理念がありました。
当時生まれたばかりの官人(官吏・役人)達への批判が記されていました。
さらに、儒教の教え・・・社会秩序を作り出す礼の重要性を説きました。
常に、礼の心を持ちなさい。
民を治める基本は必ず礼にあります。
十七条の憲法には、儒教・法家など、外来思想を取り入れました。
なかでも聖徳太子が国の中心として位置付けたのは仏教でした。
仏教には、実学的な要素が高く、農業や建築を発展させるうえで、欠かすことができなかったのです。
こうして、国内の制度を整えた聖徳太子は、再び隋との交渉に臨むのです。

実際の聖徳太子は、どんな人物だったのでしょうか?
将来を嘱望されていた聖徳太子でしたが、その家庭環境は複雑でした。
父・用明天皇と母・穴穂部間人皇女は欽明天皇の子という異母兄弟・・・
さらに、用明天皇が587年に崩御すると、母親が用明天皇の第一皇子・多米王と再婚。
母親が兄の妻となってしまったのです。
この母親の近親結婚に悩んでいたと言われていますが・・・??
この時代は当たり前で・・・近親結婚することで、天皇家の財産の拡散を防ぐと考えていました。

用明天皇が亡くなると、後継者争いを巡って蘇我馬子と物部守屋が対立!!
馬子は物部氏が擁立していら聖徳太子のおじ・穴穂部皇子を殺害!!
さらに、物部守屋を追討、滅ぼしてしまいました。
実権を握った馬子が、猛威につかせたのが、聖徳太子のもうひとりのおじ・崇峻天皇でした。
しかし、この崇峻天皇も、馬子によって暗殺!!
次々と起きる血生臭い豪族の死に、多感な青年期の聖徳太子は悩んでいた??

聖徳太子は道後温泉で湯治をしています。
結婚もしており、妃は4人(菟道貝蛸皇女・橘大郎女・刀自古郎女・菩岐々美郎女)、子供は14人いました。

日本書紀には、601年聖徳太子が28歳の時の動向が書かれています。
それまで推古天皇の右腕として辣腕を振るっていた聖徳太子が、飛鳥から20キロ離れた斑鳩に宮殿を建設し、拠点を移すというのです。
聖徳太子が斑鳩に移住して以降、日本書紀には聖徳太子に関する記述が少なくなります。
そのことから、蘇我馬子との権力争いに敗れた聖徳太子が、飛鳥から斑鳩に追いやられてしまったのか??
ではなく、新しく与えられた大きな課題があったからです。
聖徳太子の新しい職務とは、斑鳩の地理的条件からわかります。
斑鳩は、当時港のあった難波津と飛鳥の中間に当たり、近くには大和から河内の最短ルート・龍田道があり、大和川が流れる交通の要所でした。
飛鳥よりも難波津に近い斑鳩に拠点を置けば、一早く外国の情報を入手することができます。
斑鳩への移住は、聖徳太子にとって外交に専念するためだったのです。
最初の遣隋使から7年後の607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣します。
その頃の隋の皇帝は、1回目の遣隋使を迎えた文帝から二代皇帝煬帝に代わっていました。
煬帝は100万人を動員して運河を建設するなど、権力をほしいままにしていた暴君でした。
その煬帝に宛てて、小野妹子に国書を託します。
「隋書」倭国伝によると・・・
仏教復興に勤めている天子様にご挨拶するとともに、我国の僧侶たちに仏法を学ばせたい。
煬帝は、この国書の一文に目を留めます。
”日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。 つつがなきや”
煬帝はこの一文を見て、「蛮夷の書は礼儀をわきまえていない」と、あきれ返ったといいます。

当時、隋は高句麗と戦いを始めようとしていました。
高句麗と倭国が連携することは避けたかったので、無礼な日本と手を組んでくれたのです。
隋からの使者は大和に滞在し、当時で来たばかりの飛鳥寺や建造物を見学したと言われています。
後進国ではないことを証明することができたのです。
聖徳太子は、政務に邁進しながら、仏教研究にも情熱を注いでいました。
聖徳太子建立七大寺は・・・四天王寺・法隆寺・法起寺・広隆寺・中宮寺・橘寺・葛木寺(現存せず)。
622年に斑鳩で聖徳太子は亡くなったとされています。
2月21日に妃の膳部菩岐々美郎女が死去、翌日の22日に聖徳太子が亡くなったと言われています。
流行り病の可能性もあるとされています。
亡骸は磯長陵(しながのみささぎ)に埋葬されたといわれています。
それは、叡福寺北古墳と推定され、そこには、母・妃・聖徳太子の3つの棺が眠っているといわれています。

世界最古の木造建築とされる法隆寺。
現在は東院伽藍と西院伽藍からなっていますが、法隆寺が再建されている・・・??
607年聖徳太子が病に伏せっていた父・用明天皇のために推古天皇と創建したとされ・・・長い間、当時の姿のままと思われてきました。
しかし、日本書紀の670年の記述では、法隆寺は落雷によって全焼したといわれています。
1939年、法隆寺の南側から全く違う遺構の伽藍が発見されました。
この若草伽藍が、聖徳太子の作った法隆寺で、再建されたのが西院伽藍だと考えられるようになりました。
一度焼けてしまった法隆寺の再建理由は・・・??
娘の片岡女王や周辺豪族が聖徳太子を祀るためだったのではと考えられています。

聖徳太子は、その死後、色々な時代で人間を超える存在としてあがめられ、時の政権に利用されることとなります。
それは、聖徳太子が、日本の礎を築き、周辺諸国と渡り合える国にした偉大な功績があるからなのです。


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