日蓮「立正安国論」「開目抄」 ビギナーズ 日本の思想 (角川ソフィア文庫) [ 日蓮 ]

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感想(2件)



鎌倉時代後期・・・
1274年10月、モンゴル人を中心とした3万人が軍船700艘で来襲しました。
世に言う元寇です。
日本を未曽有の窮地に追い込んだ国難・・・それを予言し、警告を発していた一人の僧侶がいました。日蓮です。
地震や洪水が頻発し、疫病が蔓延した鎌倉に現れた日蓮は、幕府から度々弾圧を受けました。
鎌倉幕府は日蓮の何を恐れたのでしょうか??

神奈川県鎌倉市・・・源頼朝が武家政権初の幕府をひらいた地に今から780年ほど前、道行く人々に辻説法をする一人の僧があらわれました。
日蓮で・・・この時、34歳。

人々は、耳を傾けるどころか罵声や石を浴びせます。
しかし、辻説法を辞めない日蓮・・・。
毎日、毎日、日蓮は何を訴えていたのでしょうか?

日蓮は1222年、安房国東条郷(千葉県鴨川市)に生まれました。
その出自は地方の有力漁民の子とされていますが定かではなく、一説には後鳥羽上皇のご落胤ともいわれています。
幼い頃を漁師の村で過ごした日蓮は、12歳で天台宗の寺・清澄寺に入門。
仏教を学び始めました。
どうして仏教に勤しむこととなったのか・・・??
当時、寺院にのぼることの理由は・・・
①初等教育
②出家
で・・・日蓮は、学問に対する情熱が強かったようです。
幼くして日蓮は決意します。

「日本第一の智者と成さしめ給え!!」

日本一の知恵を持った僧侶となって見せる・・・そのために、日蓮はぶっっ卿を極めようと高野山や比叡山へ・・・。
仏教の様々な宗派を徹底的に学んでいきます。
そもそも仏教は、奈良仏教(華厳宗・律宗・三論宗・成実衆・法相宗・倶宗)、平安仏教(天台宗・真言宗)が盛んに・・・。
鎌倉時代には新興宗教が出て来ます。
浄土宗・浄土真宗・大念仏宗・臨済宗・曹洞宗が流行していました。
日夜仏教を勉強する日蓮・・・しかし、学べば学ぶほど大きな疑問が頭をもたげます。
どうしてこんなにたくさんの仏教があり、論争を続けているのか・・・??
仏の教えは一つであるはずなのに・・・これなら、国にたくさんの王が居るようではないか・・・と。

この疑問を解き明かすために、各地で沢山の仏教書を読んだ日蓮は、やがて一つの結論に達します。
1253年4月早朝・・・安房国の清澄寺に戻った日蓮は、朝日に向かってこう唱えます。

「南無妙法蓮華経」

とは、法華経に命を捧げる・・・
法華経とは、大乗仏教の代表的な経典の一つで、誰もが平等に仏の心が持ち、極楽浄土はこの現世にあるという仏教思想が書かれたものです。
日蓮は、この法華経こそが、仏の最上の教えだと説きました。
そこで日蓮は、法華経の布教活動を始めます。日蓮宗です。
その拠点となったのが幕府のあった鎌倉でした。
当時の鎌倉は、臨済宗の円覚寺、建長寺をはじめ、天台宗、真言宗、浄土宗の寺が並ぶ、日本有数の仏教年でした。
そんな鎌倉で、一介の僧侶に過ぎなかった日蓮が
”仏の唯一無二の教えは法華経であり、他のものはすべて方便にしか過ぎない。
 念仏を唱えても救われることはない”
と、他宗派を批判したのです。
それが日蓮が罵声を浴びせられた原因でした。
しかし、日蓮が他宗派を批判したのにはもう一つ理由がありました。
その理由は、次々と鎌倉を襲った災害にありました。
1254年1月鎌倉で大火災が発生死傷者は多数!!
2年後には暴風雨が襲い、洪水が・・・
さらに翌年、1258年には、鎌倉でM7クラスの大地震が発生し、被害が甚大、疫病が蔓延します。

日蓮は・・・これほど多くの寺院があり、守られているはずの鎌倉でどうして人々を苦しめる厄災が起こるのか??日蓮の導き出した答えは・・・
「様々な厄災は、法華経以外の仏教が間違っているに他ならない・・・
 むしろ、間違った教えが厄災を招いているのだ!!」
と、他宗派を激しく糾弾したのです。
地道な辻説法を続けていた日蓮・・・
批判の矛先は、仏教を保護する鎌倉幕府に・・・!!

当時、鎌倉幕府は禅宗をはじめとする様々な仏教を庇護していました。
仏教を通じて中国と交流することで、経済的に潤い、様々な文物を輸入でき、水墨画、建築など武士の文化がが栄えていました。
仏教と幕府は、持ちつ持たれつの関係にあったのです。
しかし、日蓮が目の当たりにしたのは・・・厄災が人々を苦しめる現実・・・。

「唯一無二の教えである法華経を蔑ろにする幕府にこそ、厄災の原因がある・・・!!
 このままでは国が滅びる・・・!!」

1260年「立正安国論」を前執権・北条時頼に上呈。
立正安国論は、幕府批判そのものでした。
問答形式で、そこには政治に対する日蓮の考えが書いていました。

”念仏信仰をやめさせなければ殺戮が横行する世が到来し、決して国家は安泰にはならない”と主張。
浄土宗の念仏禁止を求め、法華経に基づいた政治を進言します。
さらに、立正安国論には重大な予言が・・・

もし、時頼が法華経に帰依しなければ、いずれ日本は異国からの侵略が起こる”他国侵逼難”と内乱が起こる”自界叛逆難”が起こると予言したのです。
日蓮が予言したのには根拠がありました。
それが、末法思想・・・
仏の教えが廃れてしまった時代・・・当時の日本では1052年に末法に入ったとされていました。
日蓮は、末法の世が続けば、国難が続くと考えていたのです。
しかし、時頼ら幕府は耳を貸さずとりあいませんでした。

幕府はどうして予言を無視したのでしょうか?
・予言に切迫感がなかった
・他宗派を批判する予言は受け入れられなかった

幕府に対して法華経のみを信じなければ国難に襲われると警告した日蓮は、その後、度々迫害を受けることとなります。

立正安国論を上呈してから40日ほどたった1260年8月・・・
日蓮が暮らしていた鎌倉・松葉谷の草庵を無数の男たちが取り囲みます。
浄土宗の信徒たちでした。
彼等にとって自分たちの信仰を全否定し、幕府に念仏の禁止を進言した日蓮は、絶対に許すことのできない敵でした。
この時はかろうじて難を逃れることができ為したが・・・
その後も辻説法をやめようとはせず、他宗派の僧侶に論争を挑んでいきます。
そうした中、1261年5月・・・次に日蓮を襲ったのは幕府の役人でした。
伊豆への流罪!!

1261年北条時頼が叡尊(真言律宗)を鎌倉に招きます。
幕府にすれば、この時期、日蓮を流罪にしなければならなかったのかもしれません。
流罪から2年後、放免となった日蓮ですが、迫害は続き、時には命の危険にさらされました。
その生活が、一つの手紙から一変します。

1268年、モンゴル・・・元からの使者が大宰府に到来!!
皇帝フビライ・ハンからの国書が届けられました。
そこには、日本と友好を結びたいとしながら・・・服従しなければ武力行使に及ぶという恫喝的な内容が含まれ・・・
実質、モンゴルが日本を支配下に置く!!というものでした。
日蓮の立正安国論が現実のものになろうとしていました。

モンゴルに服従するか否か??
日本の命運を判断するのは、執権になったばかりの18歳の北条時宗でした。
時宗は、朝廷に国書を黙殺するように促し、強硬姿勢をとります。
しかし、世間では立正安国論が現実になったことに不安を覚えた人々は、法華経に・・・。
更に人々が日蓮を信じるようになったのが、1271年夏・・・。
鎌倉は干ばつが続いていました。
そこで、幕府は真言律宗時の高僧・忍性に雨乞いの祈祷・・・祈雨を命じます。
密教の真言律宗は、国家を厄災から守るために祈祷を行うことが大きな役目でした。
ところが、祈雨を行っても、雨は降りません・・・。
日蓮は、ここぞとばかりに批判します。
すると、忍性や反日蓮のグループが、信者を増やす続ける日蓮門下を「武装した凶徒が徒党を組んでいる」と幕府に告発したのです。

1271年9月、日蓮の草庵に役人がやってきました。
忍性らの告発を受け、日蓮や門徒を捕縛したのは現在の警察に当たる侍所を統括する平頼綱でした。
頼綱は北条家の一族で幕府の有力者でした。日蓮は言い放ちます!!
「我を失うのは、国の柱を倒すようなものだ
 日本は必ず滅ぶであろう」
日蓮、佐渡へ流罪!!
それは、当時、死罪に次ぐ重い罪でした。

頼綱は、見せしめのために日蓮を市中引き回しに・・・
日蓮を信じる者はこうなるぞ!!という幕府からの警告でした。
その途中・・・鶴岡八幡宮に差し掛かった時、日蓮はこう叫びます。
「八幡大菩薩に申すべきことがある!!
 八幡大菩薩は真の神か??
 私は日本国第一の法華経の行者で一部の過失もない!!
 なぜ傍観されるのか・・・!!」
日蓮は、幕府をひらいた源氏の氏神である八幡大菩薩を批判したのです。

この時、日蓮は命の危険を感じていました。

「頼綱は私を殺そうとしている・・・!!」

事実、市中引き回しの後、日蓮が連行されたのは佐渡ではありませんでした。
江ノ島にほど近い寂光山・龍口寺に連行されます。
当時、ここは鎌倉幕府の処刑場でした。
鎌倉幕府は、流罪ではなく、ここで日蓮の息の根を止めるつもりだったのです。
もはやこれまで・・・!!
役人が日蓮を斬り殺そうとしたその時・・・異変が起こります。

”江の島法より月のように光るもの現れ
      太刀取りは目がくらんでひれ伏し
                兵は恐怖して逃げ去った”

間一髪、日蓮はこの不思議な光の軌跡によって命拾いしました。
この真相とは・・・??
落雷説、隕石説、オーロラ説・・・様々な説がありますが・・・光物・・・彗星か・・・??
北条時宗の妻が懐妊していました。
その時に僧侶である日蓮を殺すのは縁起が悪かったためではないか??
といわれています。

危うく斬首を逃れた日蓮ですが、罪は許されることはなく佐渡へと流されることに・・・。
1271年冬、佐渡に到着。
住まいとしてあてがわれたのは、山の中にある墓地に隣接した荒れ果てたお堂でした。
最低限の食料が与えられたのは、最初の1年のみで、その後、日蓮は生きていくのも困難な状況に追いやられていきます。
そして寒さ・・・温暖な地域で育った日蓮にとって、佐渡の寒さは耐え難いものでした。
一方、鎌倉では門弟たちが捕らえられ、信者が激減していきます。
これまで数々の弾圧を乗り越えてきた日蓮ですが、佐渡への流罪は最大の危機でした。
日蓮は自らに問いかけます。

「どうして自分にはこのような非情な運命が与えられるのであろうか??」

法華経に記された文章・・・
”一切の世間の人々が、怨をなして迫害し、信じようとしない”
日蓮は、開目抄で自問自答します。
自分だけでなく、父母や兄弟や師匠に国主による迫害が必ずあるだろう・・・しかし、自分は法華経を広めるためにはこれを説かなければならない・・・!!
むしろ、法難に遭うことは法華経の行者の証と考えました。
日蓮が佐渡への流罪で得た境地・・・それは、自らを「法華経を広めるためにこの世に遣わされた選ばれし行者である」と確信したのです。
新たな境地を得た日蓮に対し、佐渡にいた他宗派の僧侶が問答を挑みますが、日蓮は巧みな連舌で打ち負かしていきます。
そして・・・弟子になるものも出て来ました。
日蓮は流罪という逆境も、自分の力に変えて行ったのです。
日蓮が佐渡に流されてから半年ほどたった1272年2月・・・
幕府の実権を握る北条家に内紛が勃発します。
幕府執権・北条時宗の異母兄で京都の六波羅探題南方の時輔が見本を企てたのです。
時宗は、もちろんこれを討ち、反対勢力を一掃しましたが・・・
幕府を揺るがした内紛は、日蓮が立正安国論に記した「自界叛逆難」そのものでした。

1273年、幕府が最も恐れていたことが現実となります。
モンゴルの使者が大宰府に到着!!
幕府に対し、属国となるのか?攻め滅ぼされたいのか??国書の返答を迫りました。
元の最後通告・・・

1274年、佐渡に流されておよそ2年半後・・・突然、日蓮は罪を許されます。
鎌倉に戻った日蓮は、平頼綱に呼び出されます。
頼綱は日蓮に問いかけます。
「蒙古は、いつ攻めて来るのか・・・??」
「はっきりとはわからないが、今年中であろう。」
幕府を日蓮が許したのは、その襲来時期を知ろうとしたからでした。

「これは、天の責めである。
 特に、真言宗に蒙古調伏の祈祷をさせてはならない。
 もし、そうすれば、事態はますます悪化するであろう。
 とにかく、法華経だけを信じればよいのだ。」

しかし、襲来の期日を聞き出した頼綱は、日蓮の忠告を受け入れず、幕府とかかわりのあった宗派に祈祷を願うのでした。

日蓮は、他宗派に頼る幕府に改めて失望します。

1274年5月、日蓮は、幕府に見切りをつけるかのように鎌倉を後にしました。
甲斐国・身延山に・・・!!
日蓮は、ここで門弟の教育と布教活動に専念し、全国に広まるのです。
その年の12月・・・700艘余りの船が日本にやってきました。
モンゴル軍を中心とした3万人が、襲来したのです。
対馬を攻撃、鉄砲と呼ばれた新兵器・手榴弾など最新兵器の前に古代からの一騎打ちで対抗する日本は成す術がありません。
壱岐を攻略したモンゴル軍は、肥前、筑前・・・各地に被害をもたらします。
日蓮が立正安国論が的中したのです。
その日蓮の予言によれば、この襲来で日本は滅びるはずでしたが・・・
2週間後の1274年10月20日、暴風雨が急襲を襲い、モンゴル軍の船の殆どが沈没・・・。
兵たちは、侵攻を諦めて戻っていきました。

7年後の1281年、再びモンゴル軍が九州に来襲。
日本軍との熾烈な戦いが始まりますが、またしても暴風雨が直撃!!
モンゴル軍の軍船の多くが沈み、多くの死傷者が・・・!!
これにより、モンゴル軍は再び撤退を余儀なくされたのです。
この日本軍の勝利は神仏のおかげとして、幕府は蒙古調伏の祈祷を行った寺の僧侶たちに莫大な恩賞を与えました。

日蓮は、侵略がることまでは言い当てましたが、二度にも及ぶ侵略でも日本は滅びることはありませんでした。
その後、日蓮は弟子たちに元寇のことは一切語らぬよう指示し、自らも口を固く閉ざしています。
蒙古軍が撤退した翌年1282年の10月13日、体調を崩した日蓮は61歳で死去。
弟子たちの読経に送られ波乱に満ちた生涯を閉じました。
日蓮宗は、後に全国に広まっていきます。
そして、日蓮の死からおよそ300年後、戦国の覇者となった信長は、日蓮宗と浄土宗の僧侶たちに、どちらが正しい仏教であるか議論対決を行わせます。
その結果、信長の裁定は、浄土宗の勝ち!!
それは、本願寺や延暦寺などの宗教勢力に苦しめられてきた信長が、浄土宗を勝たせることで、日蓮宗が新たな敵とならないよう、勢力拡大に歯止めをかけるためだったと言われています。
法華経を唯一無二とするゆるぎない信念を持つ日蓮の教えは、戦国の覇者をも畏れさせたのです。


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