【送料無料】 田原坂 【DVD】

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明治10年2月・・・九州の地でその後の日本の行く末を決める戦いが始まりました。
西南戦争です。
立ち上がったのは、明治維新最大の英雄・西郷隆盛です。
そのもとには、政府に不満を抱く士族が3万集まりました。
迎え討つのは、最新の装備をした平民の新政府軍!!
一進一退の戦闘が繰り広げられます。
死者1万3000!!どうして日本人同士が戦い、殺し合わなければならなかったのでしょうか?

すべての始まりは、西郷と共に幕末を戦い抜いた男たちの因縁でした。
新政府軍を率いたのは山縣有朋、不平士族の急先鋒・桐野利秋、男たちは、明治政府の大改革・徴兵制を巡って衝突します。
日本の未来をめぐる男たちの戦いのドラマとは・・・??
西南戦争最大の謎・・・反対していた西郷がどうして挙兵したのか??
西南戦争の真実とは・・・??

明治10年1月29日、西南戦争の引き金となった事件が起こります。
鹿児島にある新政府軍の火薬庫を20人の士族が襲撃します。
襲撃の目的は・・・新政府軍の武器弾薬を強奪することでした。
その知らせを聞いた西郷は「しまった」と、ただ一言つぶやいたという・・・。
どうして、薩摩士族は暴発したのでしょうか??
そして、西郷がしまったとつぶやいた真意とは・・・??
西南戦争はなぜ起こったのか・・・??

襲撃事件以前、日本は異様な雰囲気に包まれていました。
明治9年10月24日、熊本で「神風連」を名乗る士族200人が挙兵!!
今の知事に当たる熊本県令が殺害されます。
その3日後、福岡県・秋月で士族230人が蜂起!!
さらに翌日、明治維新の中心となった長州の萩で300人の士族が挙兵!!
いずれも短期間で鎮圧されたものの、日本中で士族の不満が爆発していました。
原因は、政府が急速に進める近代化政策です。
そこでやり玉に挙がったのは、かつて武士と呼ばれていた士族でした。

明治6年、政府は徴兵制を導入し、士族が独占していた「軍事」を平民に開放します。
真の近代国家になるためには、身分に寄らない国民軍を作らねばならない・・・そう、政府は判断したのです。
自分達の誇りを奪われ、燻る士族たち・・・そんな中、士族たちの視線は鹿児島にいる一人の男に注がれていました。明治維新最大の功労者・西郷隆盛です。
薩長同盟を成立させ、幕末の勢力図を塗り替えた抜群のリーダーシップ・・・
戊辰戦争を勝利に導いた軍事指導者としての才能。
新政府に比類のない存在だった西郷は、明治6年、急速な近代化に異論を唱え、下野していました。
故郷鹿児島に戻って隠遁生活を送っていましたが、影響力は健在でした。
西郷が立てば全国の不平士族が呼応する!!明治政府を危機に追いやることも不可能ではないとみられていました。
西郷は、鹿児島で設立した私学校には、西郷を慕う薩摩士族が集まっていました。
薩摩士族は、維新の立役者だった自分たちが政府にないがしろにされていると憤りを感じていました。
中でも反政府の急先鋒だったのが、桐野利秋。
もともと貧しい下級武士だった桐野は、西郷に認められ、明治新政府の陸軍少将となります。
士族としての誇りを人一倍持っていました。

桐野が政府に不満を募らせる・・・それは、日本の国防に対する強い危機感でした。
この頃日本は、諸外国との間に多くの問題を抱えていました。
北の大国ロシアと樺太・千島の領土問題、朝鮮との武力衝突、清国との間には台湾出兵問題、琉球の帰属問題・・・。日本は、いつ戦争になってもおかしくない緊張状態でした。
外交軍事に精通していた桐野は、徴兵制に基づく平民の軍隊では日本を守れないと考えたのです。
日本の南と北の防衛を確かなものにするまで、徴兵制に依存するのは桐野は反対だったのです。

桐野と志を同じくする士族が、続々と西郷のもとへ・・・!!
その数、1万3000人にのぼりました。
この動きを最も恐れていたのは、新政府の陸軍TOP・山縣有朋でした。
山縣と西郷・桐野は、戊辰戦争を共に戦った盟友でした。
明治政府の大改革・徴兵制を巡っては、浅からぬ因縁がありました。
明治5年、山縣は徴兵制の導入を強く主張し、政財界の説得を行っていました。
そんな時、山縣にスキャンダルが・・・。山縣が陸軍に出入りする商人・山城屋に無担保で公金を貸し付けていたことが発覚します。
徴兵制に反対していた陸軍少将・桐野は山縣を激しく糾弾します。
追いつめられた山縣・・・この時、救いの手を差し伸べたのが西郷でした。

西郷は、日本だけが士族・サムライたちだけで軍事力を持つのは世界の流れからしてだめだと思っていたのでしょう。
徴兵制は望ましくないかもしれないが、承諾を与えたのです。
日本のために徴兵制を容認した西郷・・・しかし、その後の政府は西郷の想いを大きく裏切るものでした。
明治9年廃刀令公布・・・士族たちはサムライの証である刀を奪われます。
さらに・・・秩禄処分・・・士族への給料の廃止を決定しました。
士族たちは、誇りだけでなく、生活の安定をも失うのです。
不満を募らせる士族たち・・・その反乱を恐れ、先手をとろうとしたのが新政府の陸軍TOPの山縣でした。

明治10年1月下旬・・・新政府は汽船・赤留丸を九州に送ります。
狙いは鹿児島にあった陸海軍の兵器工場・・・その中核施設は集成館。
薩摩藩の時代から、製鉄や造船に取り組んだ日本の産業革命の遺産です。
西南戦争当時は、近代兵器の製造拠点となっていました。
記録には、最新式の銃の弾薬を1日に3000発作ることができたとあります。
山縣は、こうした兵器工場が反政府勢力のある鹿児島にあることを危険視し、武器弾薬を運び去ろうとします。
この行動が、薩摩士族の激しい怒りを誘うこととなります。
武器の機械・設備の購入資金は薩摩の士族たちの拠出金から賄われていました。
武器製造機械は自分たちのものだという意識が強かったのです。
それを政府が持ち出すのは泥棒だ・・・という怒りです。
薩摩士族は新政府軍の火薬庫を次々と襲撃!!
士族の反乱を恐れた政府の行動が、かえって彼らを暴発させることに・・・。
火薬庫襲撃事件の知らせを受けて桐野はこうつぶやきました。
「 いまや 皆の激しい怒りは、 矢の弦をはなれ 、剣の鞘を脱した。抑えようにも抑えられぬ・・・」と。

不平士族の期待を一身に集めていた西郷は・・・「しまった・・・」とつぶやいたといいます。
西郷は・・・挙兵に賛成していたのか否か??
「しまった・・・」とは・・・??

西郷は、政府の打倒という気持ちはなかったとは言えません。
その根拠は・・・相次ぐ士族反乱に当たって親友に宛てた手紙・・・
その中で西郷はこう書き記しています。
”一度相動き候わば 天下驚くべきの事をなし”と。
この一文に、政権打倒の意志が込められている??
西郷が「しまった」というのは、明治10年2月の段階で立ち上がらざるを得なくなったことが「しまった」という解釈です。
西郷は、もう少し時間をかけて自分に有利な状況が到来するのを待っていたのです。

いずれ新政府と対決するが、今は時期ではない・・・

それが西郷の真意だったとしても、士族たちを見捨てることはできませんでした。
2月3日、事態はさらに悪化します。
新政府の密命を受けた警察官が士族たちに捕まったのです。
目的は何か??厳しい尋問が行われました。

「西郷の刺殺・・・」

警察官は、激しい拷問の末に西郷暗殺計画を自白します。
2日後の2月5日、西郷以下私学校の面々が、今後の方針を決める大会議が行われました。
以外にも士族たちの検討策は穏健なものでした。
①西郷ら幹部のみが上京し、問いただす
②西郷を認める明治天皇の力を借り、西郷の安全を確保したうえで政府と交渉
いずれも実現すれば、戦争を回避することができたはず・・・。
冷静な意見が検討されていたのです。
その流れを変えたのが、桐野利秋でした。

慎重論は一掃され・・・
1万人を超す若者が、今の政府は悪い・・・変えなければいけないという思いを持っていたら、西郷は英雄を通り越して絶対的な神様となります。
その中では、”敗ける”ということを思いつかないのです。
桐野が檄を飛ばした後、士族たちは熱狂の渦に巻き込まれます。

「何も言うことはなか・・・
 おいの体、おはんらに預けもんそ・・・!!」by西郷隆盛

西郷は最後、自分の体をお前たちに預けるとだけ言ったといいます。
西郷は、何を考えているのかわからないところがあります。
100%説明しないのです。
そして、明治10年2月15日、西郷率いる13,000人の士族が出陣しました。
最初の目標は、新政府軍の拠点・熊本城・・・。
西郷たちは、後戻りのできない戦いに進んでいくのです。

戦場となった熊本城は、九州の新政府軍を統括する熊本鎮台司令部がありました。
2月22日早朝、薩摩軍が一斉攻撃をかけます。
この時、桐野達は新政府軍を打ち破るのは時間の問題だと思っていました。
しかし・・・予想外の反撃をうけ、突破することができません。
西南戦争の初戦・・・熊本城の戦いは、薩摩軍の手痛い敗北に終わりました。
何が勝敗を分けたのでしょうか??

攻撃の3日前・・・薩摩側から熊本鎮台に送られた文章には・・・

「熊本鎮台の兵隊は、西郷大将の前に整列し、その指揮を受けるように。」

西郷はいまだ陸軍大将の地位にあり、鎮台の兵士に命令できる立場にありました。
しかも、熊本鎮台のNo,2樺山資紀中佐は、西郷と同じ町内で生まれ、戊辰戦争を共に戦った男でした。
樺山が寝返れば、戦わずして熊本城下を進軍できる・・・
そう薩摩軍は踏んでいました。
しかし・・・樺山は西郷が私的な理由で挙兵したとして厳しく非難、徹底抗戦の構えを・・・!!
薩摩軍にとっては予定外のことでした。
指揮官の桐野利秋は事態を楽観視していました。
桐野が熊本城を簡単に落とせると思っていたのには理由がありました。
そもそも薩摩は派戊辰戦争を勝利に導いたつわものばかり・・・
伝統の白兵戦術に加え、銃などの近代兵器・・・
さらに、長期戦の準備も万端でした。
兵器工場だった鹿児島の集成館は、薩摩軍の武器弾薬の製造拠点に・・・
士族の戦闘能力に加え、武器弾薬にも不安のない薩摩軍。
対する熊本鎮台の兵士は、徴兵制によって集められた平民たちでした。
樺山もその戦闘経験の乏しさを嘆いていました。
しかも、熊本鎮台の兵力は2500!!
桐野達は自分たちの敵ではないと考えていました。

しかし、戦いは薩摩軍の目論見通りには進みませんでした。
山縣は薩摩軍の動きを察知し援軍を送っていました。
戦闘が始まった2月22日には、すでに東京からの援軍が熊本城に到着していました。

どうして山縣は先手を打つことができたのでしょうか??
それは当時の先端技術・・・モールス電信機でした。
明治2年に東京横浜間で開通し、全国に電信網を・・・!!
九州の情報をすぐに手に入るように体制を整えていたのです。
電柱を立てる手間を短縮する為に、街道の松の木に電線を引きました。
電信を使い、熊本から東京まで僅か1時間足らず・・・
政府軍は薩摩軍の動きをリアルタイムで掴むことができていました。
更に政府は・・・大量の兵士を戦地に送る輸送インフラの整備にも取り組んでいました。
東京から熊本に援軍に向かった者たち・・・
西郷が兵をあげる4日前の2月10日に東京の千代田区を出発。
新橋横浜間を汽車で53分、横浜から海路・・・
2月14日、西郷たちが挙兵した時には、瀬戸内海の広島沖にいました。
この回路の輸送を担当したのは、岩崎弥太郎率いる三菱でした。
三菱は7万人に及ぶ兵士、大量の弾薬・食料の輸送を引き受けました。
西南戦争の戦費・4156万円のうち三菱の輸送船に支払ったのは299万円!!
実に7%の戦費を輸送にあてました。
2月17日午後4時・・・長崎に到着!!
そして、20日正午過ぎに熊本城に入城します。
この時、まだ薩摩軍は熊本城から10キロ離れたところにいました。
熊本城は当初の2500人に援軍900人が加わり、総勢3400人で薩摩軍を迎えることとなりました。

新政府軍は、薩摩軍を迎えるにあたり、綿密な改造を施していました。新政府軍の将校のひとり・・・乃木希典・・・後の日露戦争・旅順攻略の司令官・・・若き日の乃木が作成した熊本城攻防戦の地図には・・・
砲台が四方ににらみを利かせ、策で囲まれた防御陣地・・・銃を持った歩兵が待ち構えていました。
近代的な要塞として造りり替えられていた熊本城・・・改造は細部にまで及んでいました。
防御陣地の石垣の一部が取り壊され斜めにしていました。
地形を利用して歩兵の狙撃場所を作ったのです。

戦争の始まる3日前に新政府軍が自ら火を放ったとされています。
幕末から高い建物は大砲の目標になるので、邪魔だという判断です。
目立つ天守はない方がいいということで焼いたというのが有力です。
薩摩軍を迎え討つためならどんな犠牲をもいとわない覚悟の新政府軍・・・
2月19日には城下町に火を放ちます。
射界の清掃・・・薩摩軍を攻撃する為に邪魔な建物を焼き払い一掃したのです。
戦後、家を焼かれた人々が熊本県に訴訟を求めて書類を提出しています。
焼かれた家の数は9000軒。
新政府軍は、民衆に犠牲を強いても万全の態勢をとったのです。
なりふり構わぬの防御計画に寄って難攻不落の熊本城。
桐野が甘く見ていた新政府軍の兵士たちは、熊本城に立てこもり、粘り強く抵抗します。
薩摩軍は戦闘の始まった22日の夜に早くも方針の転換を迫られます。

政府軍の援軍が北から接近中との情報を得た薩摩軍は、3000の兵を熊本城に残し、主力は北上することを決定します。
熊本鎮台は自分たちに従う筈だという見通しの甘さ・・・たとえ戦闘になっても勝てるという奢り・・・
西南戦争の初戦・・・熊本城の攻防は、薩摩軍の手痛い敗北に終わりました。
熊本城で大敗を喫した薩摩軍、その後の戦局はさらに混迷を極めていくこととなります。
負けたことで、東京へ北上するという本来の目的が達成できなくなってしまいました。
挙兵の在り方、それ自体がここで打ち止めになってしまうのです。
この戦争は、薩摩軍が守りに回ってしまうと、何のための戦いになるのか・・・??
本来の目的と、戦争そのものが乖離する・・・その転機となったのです。

度重なる敗北で、東京に至る道を絶たれた薩摩軍・・・根本的な戦略転換を迫られていました。
薩摩軍が目をつけたのは、熊本城の北にある田原坂・・・
西南戦争で最大の激戦が行われた場所です。
小高い丘が連なる田原坂は戦略の要所で、大地の中央を全長1.6kmの道が熊本城へと続いています。
戦うこと17日間・・・両軍の死者3500人!!
どうしてこれほどまでの犠牲を出すこととなったのでしょうか?
それは、政府軍の指揮官・山縣有朋の誤算から始まりました。
2月25日、新政府軍を率いる山縣が九州に上陸します。
薩摩軍が田原坂に陣を張ったと知った山縣は、更なる援軍を待ってから攻めるという慎重策をとります。
その脳裏にあったのは、全国の不平士族の動向でした。
新政府軍が万にひとつも敗れれば、全国各地で反乱がおこる・・・!!そう考えたのです。
しかし、この慎重策が裏目に出ます。
3月4日、援軍を得た山縣は13,000の大兵力で田原坂の攻撃を命じます。
しかし、そこに待ち受けていたのは薩摩軍の激烈な反撃でした。
新政府軍の兵士が次々と倒れていきます。
薩摩軍は新政府軍が援軍を待っている間に、堅牢な陣地を築いていたのです。
熊本城を救援する為に兵隊・物資・大砲を熊本城まで運ぶ場合、通す道が田原坂しかなく、政府軍にとっては生命線の道を薩摩は寸断していたのです。

今までは、この田原坂の戦いは一本道をめぐる攻防戦だと思われてきました。
しかし、最新の調査から違った実像が見えてきました。
従来戦場とは思われなかった場所からたくさんの薬きょうと小銃弾が発見されています。
全部で3000点も・・・。
調査の結果、薩摩軍の陣地は田原坂全体に広がっていました。
田原坂の戦いは、一本道ではなく、大地全体をめぐる壮絶な攻防戦だったのです。
巨大な要塞と化した田原坂・・・新政府軍は一本道を避け、大地の斜面を登って攻撃しようとします。
しかし、いかなる攻撃もききません・・・

”賊は、天然の要地に土塁を築き、我が軍の死傷者は非常に多い
 生還する者はまれである”

この不利な状況を覆すために策は・・・??
新政府軍は、別動隊を編成し海路で吸収沿岸を南下、薩摩軍の本拠地・鹿児島を襲撃したのです。
九州沿岸の制海権は、新政府軍・海軍のTOP・川村純義中将が握っていました。
船で自由自在に軍を動かすことができた新政府軍・・・
攻撃目標は、薩摩軍の武器弾薬製造拠点の集成館でした。
政府軍はここから主力兵器であるスナイドル銃の弾薬製造機械を強奪します。
スナイドル銃は元込め銃で、その弾薬は精密な製造機械がなければ作ることが困難でした。
弾薬の製造機械を奪われた薩摩軍は、止む無く旧式のエンフィールド銃を使うこととなります。
その弾丸は、戦場で拾った弾を溶かして作ることができました。
問題は銃の砲身から火薬を入れ、弾を押し込む前込め銃だったのです。
スナイドル銃に比べ、はるかに手間がかかりスピードが低下しました。
新政府軍は、輸送インフラで国内外からスナイドル銃の弾薬を集め、九州に送り込みます。
物流について圧倒的に優位に立った新政府軍!!
田原坂の戦いで使った銃弾は1日30万発にのぼりました。
しかし、その後も薩摩軍の堅固な陣地を攻略することはできませんでした。

新政府軍の苦戦の理由・・・それは、標高100メートルの田原坂の高さでした。
薩摩軍の陣地のすべてが見通せないので、正確な砲撃ができません。
さらに、戦いの最中の天気は殆どが雨・・・
近代戦のやり方として・・・大砲を打ち込んで相手を怯ませ、兵対が突撃していく・・・。
しかし、どこに敵の陣地があるかわからないので、むやみやたらに撃ってしまう・・・
結局、肝心なところに当たっていないので、兵隊が攻め込んで行ってもすぐに逆襲されるのです。

泥沼の様相を呈する田原坂の戦い・・・新政府軍は戦局打開のために田原坂を見下ろせる場所を必死に探します。
それが、田原坂の南西にある横平山です。
横平山の標高は、田原坂より40m高い144m!!
薩摩軍の陣地も一望することができます。
新政府軍は横平山を攻略しようとします。
どこに兵を配備して、どこから攻めれば効率的か・・・??

3月9日、物量に任せ力推しで、横平山にいる薩摩の陣地にとりつこうとする新政府軍・・・
迎え討つ薩摩軍はサムライの本領を発揮!!
両軍が入り乱れる白兵戦!!
士族の猛攻の前に平民の新政府軍は成す術もありません。
苦戦を強いられた新政府軍・・・政府の脳裏に浮かんだのは、戊辰戦争を勝利に導いた英雄・西郷隆盛の影でした。
新政府軍の密偵の報告書には・・・
「賊軍の様子が整然としているのは、西郷自身が指揮を執っているからだ」と。

実は西南戦争を通じて、西郷が最前線で指揮を執ることは殆どありませんでした。
カリスマ西郷に身に何かあれば、寄せ集めの薩摩軍は求心力を失い瓦解する・・・それを恐れ、遠く離れた本陣にいました。
戦場に出てもいない西郷に怯え、足並みがそろわなくなってきた新政府軍・・・士気の低下は顕著でした。

3月11日、手詰まりとなった山縣に、提案が持ち込まれます。
西南戦争には、正規軍とは別に6,700人の警察官が動員されていました。
山縣に持ち込まれた提案は・・・士族出身の警察官で薩摩軍の白兵戦術に対抗しようとするものでした。
この頃、警察官の多くは物資の輸送や警備など、軍の後方支援に充てられていました。
戦いに参加できずに忸怩たる思いの警察官には、特別部隊の結成は、渡りに船の提案でした。
しかしその一方、平民主力の軍隊を目指して来た山縣には受け入れがたいものでした。
封建身分を前提とした武士を新たに組み込むのは、どうしても慎重にならざるを得ない・・・!!

3月11日に行われた総攻撃も失敗・・・ことここに至り、山縣は決断します。
集められたのは100人の士族出身の警察官でした。
その武器は、現地で急遽集められた日本刀ただ一振り・・・。
抜刀隊の誕生です。
そして、3月14日、抜刀隊が戦線に導入されます。
驚くことに、抜刀隊の多くは薩摩出身の士族でした。
彼等は、西郷というカリスマに命を預けるのではなく、警察官として政府に忠誠を誓う道を選んだのです。
薩摩士族同士が殺し合う死闘・・・政府の記録は戦いのすさまじさをこう記しています、

”抜刀隊は、一斉に突撃して勢いよく賊の陣地に入り、たちどころに8、9人を倒した”

抜刀隊は薩摩軍と互角以上に渡りあい、新政府軍は息を吹き返します。

3月15日、新政府軍は横平山の攻略に成功!!
しかし、抜刀隊の被害も甚大でした。
死者33人、重傷者50人・・・傷を負わないものはいないという惨状でした。
武士として、身を捨てて忠義に生きる・・・死に場所を常に意識する武士でした。
維新から約10年経って、再び日本刀で戦いの場所に行くことを、身の誉と考えた人々も、決して少なくなかったのです。

3月20日、降りしきる雨の中、田原坂の最後の決戦が・・・!!
午前6時、新政府軍の猛攻撃が始まりました。
見晴らしのいい横平山を占拠することで、薩摩軍の全体像を把握した新政府軍は、田原坂の南から回り込みます。
居を突かれた薩摩軍の防衛ラインは、一気に崩れます。
17日間の激闘の末、新政府軍は田原坂を征したのです。
両軍の死者は併せて3500人、山縣の誤算から始まった西南戦争最大の激戦・・・田原坂の戦い・・・。
新政府軍にとって、多大な犠牲と引き換えとなった苦すぎる勝利でした。

抜刀隊を組織する時に大切なこと・・・
ひとつは薩摩藩内のことがあります。
薩摩藩の士族は、鹿児島城下に住む城下士と、地方の郷村に住む外城士がありました。
伝統的に対立をしていました。抜刀隊に参加した警察官には外城士が多く含まれていました。
結果的に、私学校に行ったのは城下士・・・西郷の周りにいるのは城下士。
外城士は、東京に行って警察に入る・・・外城士は、城下士憎しということもあり外城士の中から抜刀隊を編制すると、西郷軍の主力をなす城下士に対する日ごろの怒り・・・
もう一つは、戊辰戦争の負け組の東北諸藩の兵隊たち・・・
そういった人々が、抜刀隊に志願していきました。
いろんなものがないまぜとなっていたのです。

敗北が続き、もはや勝利を見通せなくなった薩摩軍・・・
田原坂の死闘から3週間後の4月14日、熊本城に新政府の援軍が入り、54日ぶりに包囲網が解かれました。
しかし、九州各地で拡大する戦火・・・。
どうしたら戦いをやめられるのか・・・??

西南戦争の最終局面・・・山縣の目的は、薩摩軍の総大将・西郷を捕らえることにありました。
新政府軍は、薩摩軍を追いつめるため、九州全土に通信網をはっていました。
後れを取った薩摩軍は、新政府軍の追撃を受けながらも転戦し、延岡に・・・!!
遂に西郷を捕捉した新政府軍・・・!!

薩摩軍の兵力は3500!!全盛期の1/10でした。

”官軍に降参する者は殺さず”というビラが・・・!!
薩摩軍は、兵士の逃亡、降伏が相次ぎ、軍としての体裁が整わなくなってきていました。
8月15日、延岡の和田越で新政府軍の総攻撃が始まります。
薩摩軍の陣頭に立っていた西郷・・・。
そこで目にしたのは、徴兵制によって動員された平民たちの戦いぶりでした。
半年間にわたる実戦で鍛えられた新政府軍。
薩摩士族を前にしても怯まない、精強な兵へと変わっていたのです。

「こいでもう・・・日本も大丈夫じゃ・・・」

西郷はそうつぶやいたといいます。
8月16日、西郷はついに薩摩軍の解散を宣言します。
戦争中、常に傍らに置いていた犬を山に放つと、少数の味方と共に、新政府軍の包囲網をかいくぐり、山中へと行方をくらませます。
当時の西郷の声望、人気の高さを考えたら、逆転があり得るかわからないという恐怖が新政府軍にはありました。
あまりにも西郷の存在が大きすぎる・・・。
西郷の死を本当に確認するまでは、逆転されるという不安は、政府関係者にはあったのです。
西郷の居場所を掴めない新政府軍は、九州全土を捜索します。

しかし、西郷の行方は一向にわかりません。

消息を絶ってから2週間後の9月1日、情勢は大きく動きます。
すでに政府軍の占領下にあった鹿児島に西郷があらわれたというのです。
西郷は、300の手勢を率いて、新政府軍の陣地を突破、町の中心部にある城山に立てこもりました。
鹿児島で終止符を打つことが、西南戦争の締めくくりの場・・・。
今度こそ、西郷を取り逃がすまいと、4万の大軍勢で包囲網を敷く山縣。
西郷たちが潜伏していた城山の洞窟・・・すでに死を覚悟していた西郷と、その命を何としても救いたい部下たち・・・
決断の時は迫っていました。

9月23日、薩摩軍の幹部2人が西郷の助命嘆願のため、新政府軍を訪れます。
二人に対応したのは、海軍トップの川村純義。
川村は薩摩出身で西郷の親戚にあたりました。

しかし・・・
「賊名をもって征討なす!!」と述べ・・・こう漏らしました。
「西郷とは兄弟のごとくし
 家族はこちらにあり 
 心を残さず、潔く降伏してほしい」と。

潔く降伏してほしい・・・家族の面倒を見る・・・それが川村のメッセージでした。
川村の言葉を聞いた西郷は一言こうつぶやきました。
「回答はいりもはん。」
川村の降伏勧告を断った西郷・・・その西郷にもう一通の手紙が届けられました。
送り主は山縣有朋・・・かつて戊辰戦争を戦った盟友・・・。
西郷に宛てこう書き記しました。

「願わくば、あなた自身の手で命に決着をつけ、両軍の死傷者を救ってほしい」

山縣が西郷に求めたのは自決でした。

無益な戦いを回避してほしいと・・・!!

自決というのは、当時の軍人にとって名誉のある死でした。
西郷を思う気持ちは山縣にはありました。
手紙の最後をこう結んでいます。

「何卒、私の心中の苦悩を察してほしい
 涙をふるって これを記す」

西郷は、山縣の手紙を読み終わると、それを大事に懐にしまったといいます。

そして9月24日早朝、新政府軍による城山への最後の攻撃が始まりました。
西郷の選んだ道、それは部下たちと突撃することでした。
そして・・・被弾!!
倒れた西郷を桐野が介錯しました。
その後、桐野も西郷の後を追うように戦死しました。

西郷隆盛の死によって、7か月にも及んだ西南戦争は幕を下ろしました。

西南戦争は何をもたらしたのか??
いくら士族集団が精鋭を揃えていても、武器を持っていても、最終的に近代戦では勝てない・・・。
士族の退場がどんどん促されていきます。
国民軍に転換していく大きなきっかけとなりました。

西郷の死は・・・??
西郷は、西南戦争で悲劇的な死に方をします。
元々西郷は国民的人気があった上に、レジェンド・・・伝説になっていく。
昔から国民に愛される条件がそろっていました。
西南戦争が終わると、西郷はなぜか反政府の英雄となっていました。
虚像を庶民が作り上げて、「西郷さん」という親しみを込めて呼び始めることで、だんだんと国民的な英雄になっていくのです。

西郷隆盛はすべての期待の星・・・
政府に対して物申したい人にはそのことに対する象徴。
自由を言いたい人も、西郷さんを担ぐ。
多くの立場の人が、西郷隆盛こそ英雄というのは、未完であるための一つの結果です。
いろんな人が、西郷に自分の思いをかき込むことができる・・・。

サムライが大きな顔をしていた封建体制が、西郷軍の敗北で終わり、それに伴い中央集権国家が成立しました。
そして・・・仁義に忠実な武士道精神が滅んでいくようになるのです。
日本人の在り方が、この戦争による西郷軍の敗北で消えていく・・・合理的なものの見方が幅を利かせていく時代になっていくのです。

南洲墓地・・・西南戦争で命を落とした薩摩軍の将兵2023人が葬られました。
サムライたちの魂を導くようにそびえる西郷の墓・・・
その傍らに、寄り添うように桐野利秋が眠っています。

西南戦争のあと、政府内で確固たる地位を築いた山縣有朋は、軍の強化に邁進します。
「軍人勅諭」には・・・
軍人が絶対な忠誠を誓うのは天皇ただ一人。
国家の危機に際しては、進んで命を投げ出し犠牲となることが理想とされました。
徴兵制による国民軍の成立によって、諸外国と戦う準備を整えた日本・・・
この後、山縣ら軍の首脳部は、日清、日露の戦争を主導していくこととなります。

ラストサムライ・・・西郷隆盛の死を超えて、富国強兵への道をひた走った日本・・・
近代国家となるために何を得、何を失ったのか?
その問いは、今の私たちに突き付けられています。

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