日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

斉彬に消された男―調所笑左衛門広郷

新品価格
¥1,728から
(2018/5/16 13:00時点)



地中海に面したフランスの都市トゥーロン。
ここに、興味深い絵が残されています。
水彩で描かれた南国の島・・・そこには琉球王国の大臣が・・・。
これらの絵が描かれたのは、1846年。
フランス海軍中尉によるものです。

この年、フランスは琉球に3隻の艦隊を派遣していました。
目的は、開国通商・・・。
アヘン戦争をきっかけに激化する東アジアの勢力争い・・・
その矛先が、終に日本に向かったのです。
この問題に真っ向から当たったのが、当時琉球を支配していた薩摩藩の家老・調所広郷でした。
圧倒的な武力で開国を迫るフランスの脅威。
頑なに鎖国を掲げる幕府・・・。
そんな中、調所は一世一代の賭けに出るのでした。
調所の命をかけた秘策とは・・・??

1776年鹿児島城下で下級武士の次男として誕生。
13歳で調所家の養子となりました。
調所家は祖父の代から茶道坊主を務めており、広郷も剃髪し、その道を選びました。
23歳で江戸に出府・・・奥茶道に・・・。
藩主を凌ぐ権力を持つ重豪の目に留まったとこは、広郷にとって大きな転機となりました。
1828年、武士に戻り、藩全体の財政改革を任されます。

その頃、薩摩藩は破産の危機に瀕していました。
幕府から命じられる治水工事などの莫大な負担。
島津家の姫君を将軍家に嫁がせる婚礼費用。
借金は膨らみ、500万両・・・今のお金にして2500億円を超える膨大なものとなっていました。

調所が財政改革の柱の一つにしたのが奄美大島の黒砂糖でした。
それまで島民に許されていた砂糖の売買を禁じ、生産量すべてを薩摩藩に納入させ、大坂商人を使って売りさばきます。
黒砂糖の利権を与える一方、大坂商人たちに債務返済に大幅な譲歩を迫ります。
元金千両に付き年4両返済、250年割賦という強引な条件を飲ませたのです。
そしてもう一つの切り札が・・・
北海道近海の昆布を富山を介して入手し、琉球を通じて清国に輸出していました。
この貿易を発展させようとしたのです。
薩摩藩は漢方薬の原料である薬種を輸入販売していました。
富山の売薬商から入手した昆布を琉球の交易船に積み、清国で販売し、薬種を仕入れ、日本の市場で売りさばいたのです。
当時、貴重な薬種の殆どは幕府でしたが、薩摩藩は琉球を通じて一部の薬種の輸入販売が許可されていました。
調所はこれに目をつけ、規制を越えた量、薬種を売買し、膨大な利益を生んだのです。

誰もがなしえなかった財政再建を実現し、50万両もの備蓄金を蓄えるに至った調所。
そんな調所の前に思いもよらないことが・・・。
1844年3月11日、一隻の軍艦が琉球に・・・フランス船アルクメール号です。
琉球王府に対して、開国通商を要求しました。

アヘン戦争で清国に圧勝したイギリスは、香港を割譲させ、東アジア貿易の拠点を手に入れていました。
中国市場で後れを取ったフランスは、琉球に狙いを定めたのです。
この要求は、琉球王府を動揺させます。
当時の琉球王府は薩摩の実効支配だけでなく、名目上は清国の柵封を受けた属国でした。
独自の通商など許される立場ではなかったのです。

琉球王府は、フランスの要求を必死に拒絶!!
我国は、金銀銅などの資源が乏しく、貿易には耐えられない・・・と。
しかし、船長はこれに応じず、再交渉の為大艦隊が来ると通告し立ち去りました。
薩摩へ急報・・・そのことは、幕府に伝えられました。
6月・・・調所はフランス船への対処を幕府と協議。
鎖国を掲げる幕府としては、フランスの要求を放置するわけにはいかない・・・
対応に当たったのは阿部正弘。
調所に、琉球への警備兵派遣を命じます。
調所も従い、100人ほどの兵を渡海させました。
一旦は鎖国に従った調所・・・しかし、この後、調所は薩摩を意外な方向へ導いていくのです。

1846年5月、3隻のフランス艦隊が琉球に来航。
フランス海軍提督ジャン・バティスト・ヤシーユ・・・自ら琉球に出向き、開国を迫ります。
ヤシーユは今後国も極秘にある計画を進めていました。
「琉球諸島は、日本とヨーロッパの中継地点になり得る
 那覇の仲買人を使って、我々が必要な商品を日本から輸入し、引き換えに日本の裕福な貴族が欲している品を輸出する」

セシーユの目的は、最終的に日本の開国通商でした。
琉球が拒否するので、一向に進展せず・・・。

セシーユ同様、通商への道を模索し始めていたのが、調所広郷でした。
背景には、財政再建の前途に兆し始めた暗い影が・・・
国内各地で砂糖生産が盛んになったことで、黒糖価格が下落。
もう一つの柱・・・唐物貿易も、密貿易の疑いを強める幕閣によって免許停止に・・・。
そんなタイミングで直面したフランスの通称要求・・・
拒絶策・・・和親通商策・・・どうする??

1846年5月25日江戸城・・・
調所は、老中・阿部正弘と対峙しています。
調所の選択は・・・

「琉球は、外藩である
 琉球に限定して、交易を許していただきたい。」by調所

調所が選んだのは、和親通商策でした。

「要求を拒絶すれば、フランスは清国と交渉して、勝手に交易を始める
 幕府としても、捨て置けず戦になる」と・・・。

調所の巧みな主張を、阿部は受け入れるほかありませんでした。
幕府は琉球を「異国」として薩摩に対策を一任。

まさに、調所の目論見通りの展開でした。
許しが出た4日後・・・6月12日、密命を言い含め、使者を国元に送ります。
その内容は・・・
琉球北部の運天港に商館を建て、薩摩が1,2万両の資金を準備し、日本の反物とフランス製品の交易をおこなうというものでした。
上手くいけば、御禁制の5種の唐物を紛れ込ませる・・・。
調所は、閉ざされられた唐物貿易をフランスとの貿易で打開しようと考えていたのです。
ところが、これに難色を示したのが、琉球でした。
日本の反物や金銀を貿易すれば、琉球には物産がないとしてフランスの要求を断ったことと食い違う・・・と主張したのです。
砂糖などは貢納として薩摩藩に吸収されていました。
貿易そのものを維持するだけの商品がない・・・それは、経済的な植民地になる可能性があったのです。
原料を収奪され、インドのように市場として編成をされる・・・。
貿易は無理だったのです。
さらに、フランスとの貿易が露見すれば、清国との貿易にも影響が出ると調所に脅しをかけます。
完全に調所の案は、暗礁に乗り上げてしまいました。
そして・・・調所の足元を揺るがしたのは・・・

1847年5月、阿部は島津斉彬とあっていました。
40を目前にした斉彬が、藩主の座を手に入れるために、藩の内情を幕府に漏らした可能性が出てきました。
調所が考えていた10万両規模の琉球を舞台にした中国との密貿易。
この実態を幕府に知られては困ります。
そして、琉球に派兵した軍隊の数を虚偽申告していました。

阿部との会見の直後、斉彬が薩摩に書簡を送っています。

”調所一派のありとあらゆる行動・・・とりわけ琉球の事情を 逐一探り出すように”
そして、事態は思わぬ結末に・・・
1848年12月19日、参勤交代で江戸に赴いた調所が藩邸で死去しました。
享年73歳でした。
吐血が見られたことから、死因は服毒自殺だと推定されています。
調所の死の背後に何があったのか・・・??
しかし、調所の突然の死によって、薩摩の秘密は闇へと葬られたのです。

調所の戦略構想は・・・
①財政立て直し
②農政改革 貿易で増収
③軍制改革
でした。

琉球は軍事力はないが外交力がありました。
琉球が清国を使って上手く立ち回ったのです。
幕府としても、大々的にフランスと開国通商すれば、他の国も・・・開国政策全面展開せざるを得なかったのでしょう。
ヨーロッパと直接貿易できる藩ができたら・・・
ナポレオン戦争のあとに開発された最新型の銃が薩摩に渡ることになります。
そこまで見据えて・・・調所は貿易を考えていたのかもしれません。

薩摩藩別邸・仙厳園・・・今も、島津斉彬が作らせた工場や反射炉跡が残っています。
藩主の座に就いた斉彬は、薩摩の近代化を強力に進めます。
その後、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通らが明治維新を成し遂げる中、調所は不当に貶められてきました。
調所家は家格を下げられ、家禄や屋敷も召し上げられました。
鹿児島に有志によって調所広郷の像が建立されたのは、僅か20年前のことです。

島津家の墓所・福昌寺跡・・・調所広郷は現在歴代藩主と共にここに祀られています。
遺骨は一時、東京に移されていましたが、平成13年、子孫の尽力によって、ここに分骨埋葬されるようになりました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ 

明治維新はなぜ薩摩からはじまったのか

新品価格
¥1,599から
(2018/5/16 13:01時点)

江戸のCFO 藩政改革に学ぶ経営再建のマネジメント

新品価格
¥1,512から
(2018/5/16 13:01時点)

池上彰と学ぶ日本の総理 第17号 大隈重信 (小学館ウィークリーブック)



今年は、明治維新150年です。
150年前、日本は近代国家の産声をあげました。
その近代化のシンボルが、鉄道でした。1872年9月12日、日本で初めて鉄道が開業。
疾走する陸蒸気に明治の人は熱狂!!
鉄道は文明開化のシンボルとなります。
この鉄道開設の立役者となったのが、大隈重信と伊藤博文です。
若き日の二人は、鉄道開設に向けて奔走します。

最大の問題は資金調達・・・見積額は現在の金額で1000億円
明治元年の政府歳入のほぼ半分に匹敵していました。
西郷や大久保は、軍備に使うべきでは??と、真っ向から反対!!
国内で無理なら外国から資金調達する?
当時、インドやアフリカでは西欧列強が鉄道を建設していました。
しかし、外国からの資金調達は植民地化を意味していました。

鉄道を日本が作れるのか?
日本が植民地に陥りかねない・・・という二つの危険を孕んでいたのです。
日本が経済発展できるのか?の分岐点・・・ターニングポイントでした。

東京・・・JR新橋駅・・・
日本初の鉄道は、新橋~横浜間で開業されました。
しかし、当時の新橋駅は、今よりも300m東にありました。
跡地は鉄道歴史展示室となっていて・・・開業当時の新橋駅を忠実に再現しています。
建物の中には、当時の遺構が残されています。
そこから見て取れるのは・・・
石積みの基礎の積み方は、互い違いに組み合わせる簡素な方法で、粗く削った石を使っています。
工期を短く、豊かでない財政の中で、出来るだけのことをやった様子が伺えます。

建物の裏手にも遺構が・・・
「0哩(マイル)標識」があり、日本の鉄道はここを起点に・・・鉄道の始まりの場所があるのです。
当時の双頭レールも保存されていて、経費の節約が伺えます。

玉川にかけられた六郷橋は木で作られていました。
当時、鉄鋼の輸入は非常にお金がかかるので、木を使って作ったようです。
さらに、それによって工期も短くできました。

絞り込んだ予算で短期間に作られた鉄道・・・。
その理由は、鉄道開設決定にまでさかのぼります。

明治2年・・・新政府の役人として大隈重信は、大倉大輔に就任・・・今でいう財務省次官に。
伊藤博文は大蔵省輔・財務省局長に任命されます。
上司と部下になった二人は、鉄道開設で意気投合!!
大隈と伊藤は鉄道建設建議書を政府に提出します。
鉄道建設予定ルートは、新橋⇔京都⇔大阪⇔神戸を結ぶ幹線と、敦賀に至る支線を一気に建設するという壮大なものでした。
ところが・・・予想もしなかった壁に・・・
鉄道反対の運動が全国に巻き起こり、公儀の建白書が寄せられたのです。

機関車は煙を吐く魔物だ
沿線の宿屋、駕籠屋が潰れてしまう

しかし、大隈と伊藤は必要性を滾々と説き続けます。
日本はいまだ近代化されていない
一昼夜に数百里を走る陸蒸気こそ、必要である

どうして二人はこれほどまでに鉄道にこだわったのでしょうか?
遡ること15年の1854年、アメリカ・ペリー提督が二度目の来航を果たします。
この時、江戸幕府へのお土産としてもたらされたのが、蒸気機関車の模型でした。
当時、この模型に試乗した役人の記録が残っています。

火発して 機活き 筒煙を噴き 輪皆転じ 迅速飛ぶが如く

蒸気機関車は、西洋の近代文明の威力を日本人にまざまざと見せつけたのです。
模型を自らの手で作ろうとしたのが、佐賀藩でした。
佐賀藩は、西洋技術の導入に積極的で、良質の鉄を製造する反射炉を作り上げ、西洋式の大砲も自ら鋳造していました。
安政2年、佐賀藩は手作りの蒸気機関の模型を完成させます。
試験運転は見事成功!!
佐賀藩のホープだった大隈重信も、この機関車を目にしたといいます。
観たこともない黒い鉄の塊が、速いスピードで動くのは、ショックでした。
日本が出来るだけ早い年数で、欧米に追い付くのは大変だと思った事でしょう。
しかし、やらないともっと悲惨なことになってしまう・・・!!

長州藩にも、鉄道に大きな興味を持っている男が・・・後に初代内閣総理大臣となる伊藤博文です。
文久3年、伊藤はイギリスに留学。
この時、伊藤がイギリスで見たのは、産業革命で繁栄を極める西洋列強の姿でした。
そそり立つ巨大な建物、人々で溢れかえる都市。。。
その中核となっていたのは、物資と人を運ぶ巨大な鉄道網でした。
日本が近代国家となるためには、鉄道を・・・!!
二人は、鉄道が日本の近代化に不可欠であることを知っていたのです。

さらに、大隈と伊藤が鉄道開設を急いだのは・・・
出来てばかりの明治政府への危機感がありました。
戊辰戦争が終わっても、関東、東北では新政府への反感が強く残っていました。
民衆の不満が爆発する世直し一揆も各地で起こっていました。
何としても明治維新の信頼を作らなければ・・・!!

「全国の人心を統一するには、余程 人心を驚かすべき事業が必要である。
 鉄道が一番良い。」by大隈重信

今こそ、鉄道を開設しなければ・・・!!
政府要人を説得する二人・・・
明治2年11月10日、鉄道計画は正式に決定され、大隈、伊藤に全権が委任されました。
ところが・・・思わぬ壁が・・・
明治政府の実力者、大隈重信、西郷隆盛から反対意見が出たのです。

「外国の盛大をうらやみ、財力を省りみず、漫りに争を起こしなば、終に本体を疲らし、
 立ち行くべからざるに至らん。
 鉄道作りの類 一切廃止。」by西郷隆盛

鉄道開設に必要な資金はいまの金額で1000億円・・・
明治元年の政府歳入の半分近くに相当しました。
こんな事に政府の予算を割くべきではない??
結局、鉄道開設の許可は下りたものの予算はゼロ!!
資金調達は、大隈と伊藤が調達しなければならなくなりました。

明治3年3月・・・大隈と伊藤は、アメリカ公使のチャールズ・デ・ロングと対面します。
ロングは二人に切り出します。

「日本政府に金がないのなら、アメリカが金を出して日本に鉄道を作ってあげましょう。」

願ってもない出資の申し出・・・しかし、

「金を出す以上、鉄道の経営権はアメリカのものになりますよ。」

二人はロングの申し出を即座に断りました。
どうして・・・??
その頃、インドやアメリカでは、西欧列強による植民地化が進んでいました。
植民地に鉄道を敷き、自国に現地の資源を運ぶ手段としていたのです。
外国に鉄道の経営権を与えると・・・沿線は外国の支配下になる恐れが・・・
そして、その先には植民地化の可能性があったのです。

「日本の鉄道は、日本が自主権を持って建設する。」

それが、二人の基本方針でした。

この時二人は、もう一人・・・イギリス人投資家を名乗るネルソン・レイとも交渉していました。
レイは投資家仲間から個人的にかつ内密に資金を集めて日本に貸すと提案。
二人は考えます・・・イギリス国家が金を出して経営権を取るのなら問題だが、レイが個人的に貸そうというのなら、植民地化につながる恐れはないだろう・・・

大隈と伊藤はレイと契約します。
借入金は100万ポンド・・・を利率12%で!!

資金調達のためには已む終えない選択でした。
明治3年3月・・・鉄道予定地の測量開始。
大隈と伊藤は念願の鉄道建設にこぎつけたのです。

しかし、この時、日本の鉄道を巡って様々な思惑がうごめいていました。

レイと交わした詳細な約定書・・・
そこには、大隈と伊藤が見過ごしてしまった条件が記されていました。
”外国人技術者の雇用権はレイが持つ”です。
外国人を雇わないと鉄道が作れない・・・運行もマネージメントもできない・・・。
レイのコントロール下にある人しか雇えない・・・日本政府が自主的に選び、雇用条件を決められないのです。
さらに、イギリス国立公文書館に、レイが様々な利権を狙っていたことが保存されていました。
レイが闘志かなkまに宛てた手紙によると・・・
”日本は鉛・銀・銅・石炭に恵まれており、日本での事業展開が有望”と、鉱山資源にも興味を抱いていました。
鉄道を作るだけではなく、鉄道を作るためのお金を貸すだけではなく、日本のいろいろな産業・・・
外国に売る、もしくは外国から買う手数料も・・・
そのビジネスにも介在できるとレイは知っており、欲しがっていたのです。
レイは鉄道ばかりか、日本の産業をも支配下に置くことを目論んでいたのです。

明治3年6月・・・伊藤は横浜にあったイギリスの銀行で驚くべき情報を耳にします。
レイが無断でイギリスで公債募集をし始めたというのです。
9%の利子で金を集め、日本に12%の利子で貸そうというのです。
最大の問題は、内密に資金を集める約束を違えて、公然と金集めをし出したことです。
それは約束違反でした。
開設資金を外国から借りることが公になってしまう・・・。
伊藤はすぐさま、大隈にこの情報を伝えます。
契約を破棄する・・・??
情報の外部への漏洩を懸念する。。。
レイに依頼した資金調達は、あくまで内密に行われるはずのことでした。

しかし、この事実は瞬く間に日本中に知れ渡ります。
暴露したのは、契約を断られたアメリカ公使、チャールズ・デ・ロング!!
日本とレイとの契約破断が目的だったと言われています。
世論は沸騰!!

「大隈と伊藤は、恐れ多くも天皇陛下の土地を外国に切り売りしようとしている売国奴だ!!」

国中から轟々たる非難を浴びる二人・・・暗殺の危機です。
大隈は毎晩酒で恐怖を紛らわし、伊藤は明け方まで眠れない日々が続きます。
大隈と伊藤はレイとの契約を破棄!!
鉄道開設の資金調達は一からのやり直しとなりました。
この時、二人には3つの選択肢がありました。

①欧米列強に経営権渡すも止む無し
②あくまでも国内資金
③善意の第三者を探す

廃藩置県、中央集権体制、富国強兵・・・
日本経済を発展させるのが明治政府の大方針でした。
そのためには、人や物資を迅速かつ大量に運ぶ鉄道の開設が急務だと二人は考えていました。

いずれの選択肢も、待ち受けるのは危険な事態・・・どれを選択すべきか、二人は葛藤していました。

鉄道開設の猛反対を受けた大隈は、当時こう言っています。

「鉄道が、世間の反対ぐらいで挫折するならば、維新の改革など、みんな中途で失敗してしまうだろう。」

鉄道開設に執念を見せる大隈と伊藤・・・
そこで、彼らが相談したのは、以前から親交のあったイギリス公使、ハリー・パークスでした。
パークスは、イギリス政府への紹介状を認めます。
これが功を奏し、日本政府はイギリスの銀行から正式な融資を獲得!!
経営権は、日本が持つことに・・・。

どうしてこの融資を引き出せたのでしょうか?
そこには、イギリスの国策の転換がありました。
この頃、イギリス政府は植民地にかかる経費が問題となっていました。
そこでイギリスは植民地拡大ではなく、有利な貿易相手国を探すという外交政策をしようとしていました。
最早、日本の鉄道の経営権を求める必要はなかったのです。
調達した資金は、100万ポンド・・・。
しかし、反対する世論を抑えるために、70ポンドは財政再建に・・・
そのため、鉄道建築には30万ポンドしかつかえません。
そこで二人は、当初の計画を大幅に縮小し、とりあえず、新橋⇔横浜間の完成を・・・!!
二人が掲げたのは、神業のように早く工事を行う!!
その第一が、枕木の材質の見直し・・・
鉄よりも安く、加工しやすい木材を使うことに!!
玉川にかける橋の材質も見直し(鉄橋→木造)、あとは線路を敷設するだけ・・・
そう思われた矢先に、鉄道の計画路線上にあった品川の薩摩藩屋敷が立ち退きを拒否!!
大久保利通、西郷隆盛の二人は相変らず鉄道建設反対を唱えていました。
新橋⇔品川間では、薩摩藩屋敷、兵部省、漁民たちなどが移転を拒否。
線路を敷く土地が確保できない状態に・・・。
ここまで来て鉄道開設を諦めるのか・・・??

その時、大隈が・・・陸が駄目なら、海の上に線路を作ろう!!

品川の沖合に、高さ4メートルの石垣を組み、その上に線路を引いたのです。
新橋⇔横浜間2kmのうち10kmが海の上という世界にも例を見ない路線が完成しました。

明治5年9月12日午前10時・・・日本で初めて鉄道開通。
新橋駅プラットホームに停車した機関車が勢いよく走りだしました。
それはまさに、新しく生まれ変わろうとする日本の産声でした。
疾走する機関車に人々は歓声を挙げます。
午前11時・・・列車は横浜に到着。
所要時間53分・・・それまでの徒歩での所要時間10時間が一気に1/10に短縮されました。
反対派だった大隈重信も乗車し、日記に残しています。

「実に百聞は一見に如かず。
 此便を起こさずんば 必ず国を起こすこと 能はざるべし。」

若き大隈と伊藤の執念が実った瞬間でした。
のちに大久保は語っています。

鉄道というものは
驚くべき進歩を為して
驚くべき発達を為して
国の利益を捗取らす

開通当初から利益を上げていた鉄道は、収益性があるということで鉄道に対する投資は民間からたくさん集まるようになってきました。
大隈の予言通り、開設から20年後には北海道から九州まで全国に拡大し、日本の近代化の推進力として大きな役割を果たしていくのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

明治国家と万国対峙 近代日本の形成 (角川選書)

新品価格
¥1,836から
(2018/5/11 09:57時点)

歴史雑学BOOK 図解 幕末・維新年表 (ローレンスムック 歴史雑学BOOK)

新品価格
¥33,880から
(2018/5/11 09:58時点)

週刊 絵で知る日本史 7号 姉川合戦図屏風

中古価格
¥1,099から
(2018/5/4 09:55時点)



桶狭間の戦い・・・この合戦で、織田信長は歴史の表舞台に躍り出ました。
弱小兵力の信長が、起死回生の奇襲作戦で、東海の雄・今川義元を討ち取る大金星を挙げたのです。
それから10年・・・信長は、運命を左右する一戦に・・・姉川の戦いです。

戦いの舞台は、現在の滋賀県東北部、姉川沿い・・・浅井・朝倉との戦いでした。
これまで伝えられてきたたのは、巧みな陽動作戦によって信長が大勝利を収めるというものですが・・・。
ところが、姉川の戦いで信長は窮地に追い詰められ、命を落としかねない状況であったことが解ってきました。
逆桶狭間の危機に陥っていたのです。
信長の首を狙ったのは、北近江の武将・浅井長政。
信長の同盟者であり、義理の弟・・・長政が裏切り、最大の敵として立ちはだかったのです。
戦いの直前、信長は大きな過ちを犯していました。
それが、長政に付け入る隙を与えたのです。

1560年、織田信長の名前を天下に轟かせた桶狭間の戦い・・・。
しかし、大大名・今川を討ったとはいえ、信長はまだ尾張の小大名にすぎませんでした。
同盟を・・・と、隣の徳川家康、北近江の浅井長政と結びます。
隣国でもない長政とどうして同盟を結んだのでしょうか?
この時の敵は、美濃・斎藤家でした。
斎藤氏は、南近江の六角氏と結んでいました。
敵の敵は味方・・・斎藤氏けん制のために、長政と同盟を組んだのです。
浅井氏の居城・小谷城・・・北近江支配の拠点であり、当時有数の巨大な山城でした。
山全体を覆うように作られた曲輪。。。
軍事力に優れた浅井氏の力のほどが伺えます。
城の中でも際立つのが、中腹に作られた大広間です。
大きな空間が山城の中にあり、小谷城は戦国時代屈指の巨大山城であったことを証明しています。
城跡から出土した中国製の白磁や青磁・・・天目茶碗・・・浅井氏の経済的裕福が伺えます。
さらに小谷城を拠点に、横山城、佐和山城・・・独自の防衛ラインを築き、琵琶湖の水上交通を支配していました。
信長にとって浅井長政は軍事的、経済的に頼みとする武将だったのです。
同盟締結に、信長は妹・お市の方を嫁がせています。
この同盟にかける期待の大きさが伺えます。
天下への野心をあからさまにしていく信長・・・
1568年9月、美濃平定した信長は、次期将軍候補・足利義昭を担いで上洛を果たします!!
その翌月、義昭・征夷大将軍に就任。
信長は新将軍から”武勇天下第一”と称えられただけではなく、御父ともよばれました。
信長にとって、最大級の賛辞です。
この将軍の権威を背景に、信長は畿内周辺の諸大名に上洛を命じる書状を出します。

”おのおの上洛ありて
 御礼を申し上げられ
 馳走肝要に候
 御延引あるべからず”

これをはねつけたのが、朝倉義景でした。
かつて足利義昭の後ろ盾となっていた越前の雄です。
信長の上洛勧告に、朝倉はこう答えます。

「これは上意に非ず
 信長の謀略である」と。

京を中心に畿内の覇権を図る信長にとって、朝倉はまさに目の上のコブでした。
1570年4月、朝倉討伐!!3万の軍勢を引き連れて、京を出陣します。
目指したのは、今の敦賀市・・・陸上交通と北国海運の要です。
朝倉氏にとっては畿内への玄関口でもありました。

1570年4月26日、金ヶ崎の戦い
ところが・・・落城させた直後に、信長に驚愕の知らせが・・・!!
浅井長政が裏切ったのです。
長政裏切りに際し、信長は・・・「虚説たるべき」・・・裏切りを嘘だとして報告を信じませんでした。

「浅井はれっきとした縁者であり、その上、北近江一体の支配を信長が許しているのだから不足などない・・・」と。
「浅井は近年、信長の家来となり、心の隔たりなく付き合ってきた。」と。
長政には、十分な所領、北近江半分を与えている・・・お市の方を嫁にしているではないか・・・!!
別格の待遇なのに・・・??

ところが長政としては、信長の家臣ではない・・・
家臣扱いされることに対する自尊心が・・・!!
朝倉攻めを優勢にしている信長・・・しかし、長政の裏切りが本当ならば、形勢は一気に逆転してしまう・・・!!
四方を囲まれて袋のネズミとなった信長・・・。
金ヶ崎城の麓にある神社・金崎宮には一風変わったお守りがあります。
袋の両端を結ぶことで、信長の窮地を暗示した小豆袋・・・浅井裏切りの一報を伝えたのはお市の方だという逸話も残されています。
小谷城から敦賀までおよそ35キロ・・・本当に長政が兵を動かしたとするならば、一刻の猶予も許されない・・・。
この時信長は即断即決し、家臣に後事を託すと、一目散に駆け出しました。
京までおよそ200キロの道程・・・金ヶ崎の退き口です。
信長を京まで逃がすために、困難な殿を務めたのは、木下藤吉郎・・・豊臣秀吉や、明智光秀、徳川家康です。
信長は長政の支配下の琵琶湖周辺をさけ、山越えを選択。
若狭街道を南下し、京へ着いたのは長政の裏切り発覚から3日後の事でした。
この時信長に付き従ったものは、僅か十数人と言われています。

当時の宣教師によると・・・
「信長は、自らに加えられた侮辱に対しては、懲罰せずにはおかなかった。」

その言葉通り、岐阜城に戻るや否や・・・
6月19日、岐阜城を出陣!!

3万の大軍勢で、小谷城に進軍!!
いよいよ、姉川の戦いの火ぶたが切って落とされようとしていました。

信長は、浅井長政討伐のため北近江に侵攻しました。
姉川の戦いの始まりです。
この時、戦いの舞台となったのが、浅井方の城・横山城です。南北8キロに連なる横山丘陵に築かれた山城です。
1570年6月24日、信長・横山城を3万の大軍勢で包囲!!
横山城は小谷城と佐和山城の中間にあり、落とせば城の連携が遮断され、浅井の防衛ラインを崩すことができる!!
しかし、横山城は南北8キロに及ぶ長ぼそい丘陵・・・。
包囲することは非常に難しい!!
織田軍は、長い丘陵地帯の横山城を包囲する為に、軍を分散配置せざるを得ない・・・!!
この法線を担ったのは、秀吉や柴田勝家ら精鋭部隊だったと考えられます。
同じころ、朝倉の援軍8000が到着!!小谷城近くの大依山に陣を構えました。
一方、信長本陣は横山城北端の龍ヶ鼻、徳川家康は岡山に陣を構えました。
姉川を挟んで睨み合う形となったのです。

6月27日、大依山の浅井・朝倉勢が動きます。
大依山の軍勢が動いたので、信長の目の前から浅井・朝倉勢が見えなくなったのです。
この時信長は、敵の動きをこう読んでいました。
小谷城への撤退行動だと・・・!!
浅井・朝倉勢が撤退したとすれば、横山城攻略に専念することができる!!

長政の考えは・・・??
合戦を短期に決めてしまうには、信長の首をとるのが一番早い・・・。
一か八かで狙ったのが姉川の戦いでした。
長政は、小谷城に撤退したと見せかけて、密かに信長の本陣を突こうとしたのです。
この時、信長の周囲にいたのは、家康と馬廻衆などで大きな軍勢ではない。。。

6月28日午前5時ごろ・・・浅井勢、姉川に到達。
信長の本陣に近づいていました。
そして・・・1579年6月28日、姉川の戦い開戦!!
信長の虚をつく、乾坤一擲の奇襲攻撃でした。
浅井軍の猛攻に推される織田軍!!
敵は姉川を越え、信長の御手前へ差し掛かり、推しつ返しつさんざんに入り乱れました。

この時、信長の本陣は、陣杭の柳にありました。
そこには、浅井家家臣・遠藤直経の墓がありました。
信長にせまり、あと一歩のところで討ち取られた武士と記録されています。
本陣から墓まで300m・・・長政の奇襲攻撃で、信長本陣が大混乱を起こします。
信長は、今川義元になりかねなかったのです。

長政の奇襲攻撃によって、劣勢になった信長・・・
撤退する??踏みとどまる??

1570年6月28日、姉川の戦い開戦。
この時信長は、長政の奇襲攻撃で、大苦戦を強いられていました。
しかし、信長は戦場を離脱することなく戦場に留まりました。
味方の援軍を待ったのです。

乾坤一擲の奇襲攻撃にかけた長政・・・しかし、信長の首がとれないとわかると、小谷城に撤退したと思われます。
横山城を包囲していた織田の武将たちは、信長本陣に・・・追撃を開始しました。
浅井・朝倉勢が退却したことで、孤立した横山城は、退却を余儀なくされました。
信長は、横山城を奪取することに成功したのです。

織田軍は、横山城を浅井攻めの足掛かりとして小谷城攻略を進めていきます。
結果的に、姉川の戦いの勝者は信長であることが有力となります。
ところが・・・戦いの僅か3か月後、浅井・朝倉勢が挙兵!!
比叡山を抑え、信長の京への上洛路を遮断したのです。
3か月にわって信長を苦しめたこの戦いを志賀の陣といいます。
それだけの余力があれば、姉川の戦いで余力があったのでは??と考えられます。

信長の危機を招いた姉川の戦いによって、信長は長政に対して更なる復讐の炎を燃え上がらせていくのです。

信長と長政・・・戦いは膠着したまま事態は悪化の一途をたどります。
畿内一円で反信長の火の手が拡大したのです。
姉川の戦いの後、石山本願寺や長島一向一揆など、宗教勢力の挙兵。
足利義昭の寝返り・・・戦国最強の武田信玄が反旗を翻す・・・。
信長包囲網が出来上がります。
こうした四面楚歌に追い込まれた信長は、強引な方法で難局に対していきます。

1571年9月、比叡山延暦寺焼き討ち。
これによって、信長の上洛路を脅かすものは無くなります。
畿内周辺の敵を各個撃破、長政の小谷城を孤立させていきます。

1573年8月、朝倉滅亡。返す刀で小谷城を包囲!!
信長軍の猛攻に、遂に長政切腹・・・享年29の若さでした。
小谷城落城の際、信長の妹・お市の方や、娘たちは救出されます。
しかし、長政の長男・万福丸は許されず、極刑に処せられます。

さらに翌年、信長に刃向かった長島一向一揆を殲滅。
降伏した者たちを皆殺しにしたばかりではなく2万もの農民が焼き殺されました。
信長の残虐極まる行いが記されています。
金泥を施した浅井長政、朝倉義弘のしゃれこうべを肴に、酒宴が催されたのです。
信長は、何もかもが思いのままになってまことにめでたく上機嫌でした。

浅井・朝倉滅亡の後、畿内周辺から信長に敵対する大勢力が途絶えました。
これを機に、天下布武の元、信長は領土を急激に拡大させていくのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

朝倉氏と戦国村一乗谷 (読みなおす日本史)

中古価格
¥1,680から
(2018/5/4 09:56時点)

信長様に会いに行こう

新品価格
¥32から
(2018/5/4 09:57時点)

怨霊とは何か - 菅原道真・平将門・崇徳院 (中公新書)

新品価格
¥821から
(2018/4/23 16:11時点)



かつて、日本を恐怖のどん底に陥れた怨霊・・・
当代随一の絵師・歌川国芳によって書かれたその怨霊とは・・・

sutoku

数奇な運命に翻弄された崇徳上皇の浮世絵です。

崇徳上皇・・・平安時代の終わり、骨肉の権力闘争に巻き込まれた悲運の最期を遂げた上皇です。

謀反の罪で流罪となった崇徳上皇は、遠く讃岐の地でその生涯を閉じました。
鎌倉時代の軍記物「保元物語」には、晩年、強い恨みを抱えた崇徳上皇が自らの舌を噛みきって怨霊となる衝撃の場面が記されています。
その呪いが現実となったのか、その後天変地異や政治不安が起こり、誰もが崇徳上皇の祟りと恐れました。

さらに、怨念は天皇家にも襲い掛かります。
「皇を民となし 民を皇となさん」
そして、武士の世が到来・・・以来700年、明治まで天皇は政治の表舞台から遠ざかることとなります。
こうして崇徳上皇は、日本最大最強の怨霊ととなったのです。

背後には院政という一強独裁の権力の暴走・・・既存の価値観が崩壊する混乱の時代がありました。
怨霊誕生の背景にあったものは・・・??

京都御所の北西にある白峯神宮・・・ここに祀られているのが、崇徳上皇です。
創建は1868年、今から150年前、明治天皇が即位と同時にある決意を込めて建てたものです。
幕末維新の大変革の時代、明治天皇は崇徳上皇を祀り、その怨念を鎮めたというのです。
崇徳上皇の御霊は、流罪となった讃岐にありました。
そこから10日間かけて、京都に運ばれました。
以降、京都の人々は、この地を恐れ敬ってきました。

崇徳上皇とはどんな人物だったのでしょうか?
伏見区にある安楽寿院・・・ここは、崇徳上皇の人生を狂わせた崇徳の父・鳥羽天皇が建てました。
平安時代後期、絶大な権力を誇った鳥羽上皇・・・。
この鳥羽上皇との関係に、崇徳は生涯悩まされることとなります。
院政とは、天皇を退いた上皇・・・院が中心となって行った政治の事です。
天皇の後見人となって権力の座に就いた上皇は、それまで摂関家に守られてきた慣例をことごとく無視!!
かつてない一興独裁制を作り上げていました。
その象徴が、鳥羽離宮でした。
ここで、それまでの政治手法や身分制度にとらわれない独裁政治を行いました。
上皇に気に入られれば誰でも出世可能に・・・院近臣は、身分の低い、下級貴族の出身でした。
さらに北面の武士も組織、手柄を立てたものを優遇し、軍事力も意のままに・・・。
宮廷内の人事、政治権力を掌握し、莫大な権力を持つこととなった院。。。
そんな院を周囲は治天の君と言って称えたといいます。
しかし院政のシステムには、重大な欠陥がありました。
摂関時代は、天皇の外戚が大きな力を持っていました。
院政期に入ると、皇位継承をはじめとして重大問題は院が独裁的に決めてしまうようになります。
もし院が判断を誤れば、とんでもないことが起こってしまうのです。

1119年、鳥羽上皇の第一皇子として生まれます。
1123年、崇徳天皇として即位したのは、僅か5歳でした。
院政の次なる担い手として帝王学をたたき込まれ、和歌の才能に恵まれ、歌会を頻繁に主催し、宮廷の中でもひときわ輝いてる存在でした。
深い教養と、芸術を兼ね備えた崇徳天皇・・・父と同じ治天の君を期待されていました。
1141年、天皇を退位し、23歳で崇徳上皇となります。
新しい天皇は、息子の重仁が選ばれ、院政が始まるはずでした。
ところが・・・鳥羽上皇がそれを許さなかったのです。
権力の座に座り続け、新しい妻との間の子・近衛天皇を即位させたのです。
崇徳上皇にとっては、腹違いの弟でした。
梯子を外された崇徳上皇は、大いに失望したといいます。

院政は、天皇の直系尊属でなければなりません。
弟だと院政は出来ない・・・崇徳上皇が近衛天皇に位を譲る、次は崇徳上皇の皇子・・・この路線を描いて、崇徳上皇も納得したと考えることができます。
その後も、鳥羽上皇は権力を手放そうとはしませんでした。
崇徳上皇は、実権のない上皇としてチャンスを待つ以外にありませんでした。
事態が動いたのは、それから14年後・・・
1155年、近衛天皇が崩御
後継者を選ぶ必要性が出てきました。
遂にこの時が・・・!!
しかし、父・鳥羽上皇は権力を譲りません。
即位したのは実の弟・後白河でした。
帝王学もろくに学ばず、天皇の器にはないとされていました。
まさに、想定外の出来事で、朝廷を非常に動揺させました。
崇徳の怒りは、相当なもので・・・今後は、後白河の血が継承していくこととなってしまいました。
崇徳の子孫は、皇位から外されてしまいました。
崇徳にとってこの上ない屈辱であり、激しく憤ったといいます。

どうして父は、私を執拗に排除するのか・・・??
鎌倉時代の「古事談」には、その頃、まことしやかにささやかれていた崇徳上皇の出征の秘密が原因ではないか?と言われています。
実は、崇徳上皇の父は、曽祖父・白河法皇で、その噂を信じた鳥羽上皇が崇徳上皇を忌み嫌うようになったのでは・・・??ということです。
噂を流したのは、崇徳上皇の失脚を望む、後白河派の公家たちだったともいわれています。
朝廷内にはびこる思惑に翻弄され、政治権力への道を閉ざされてしまった崇徳上皇。
この泥沼の確執が、怨霊伝説の引き金となっていくのです。

稀代の若の名手として名高い崇徳上皇・・・。
代表作の一つが百人一首に選ばれています。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の
          われても末に あはむとぞ思う

切ない恋の歌として名高いが、父・鳥羽上皇との和解を謳ったとも取れます。

秋の田の 穂波も見えぬ 夕霧に
          畔づたひして 鶉なくなり

田んぼの畔に従ってしか歩けない飛べない鶉・・・父に翻弄され続けた諦めの想いが反映されています。
行き場のない葛藤と孤独を抱える崇徳上皇に近づく一人の男・・・藤原頼長です。
摂関家・藤原氏の頂点に立つエリートで、日本一の知識人でした。
頼長は、院政に乱れた休廷政治の回復を主張・・・摂関政治の栄華を取り戻そうとしていました。
しかし、院の主流派と対立し、悪左府と揶揄されていました。
朝廷内に敵の多かった頼長は次第に孤立・・・
後白河天皇の側についた実の兄・忠通の謀略により、政治の中枢から外されてしまいました。
院政に不満を持つ二人が急接近していきます。
天皇家と摂関家を真二つにする権力闘争が始まりました。
そして、色めきだったのは武士たち・・・。
公家たちからの一方的な差別に不満を持っていました。
武士たちにとってこの騒動は、武士の地位向上を図るまたとないチャンスでした。

時代は突如動き出しました。
1156年、鳥羽法皇崩御
その直後、都に噂が・・・崇徳上皇と頼長に謀反の疑いあり!!
これは、後白河天皇がしかけた挑発でした。
そして、後白河側は、警護のためと称し、兵を招集・・・緊張は極限まで高まりました。

このままでは後白河法皇に捕らえられ、謀反の罪を着せられかねない・・・
この事態をどうやって和解する??
それとも武力に訴える・・・??

7月9日・・・ついに決断を下します.
夜に白川北殿へ・・。
翌日頼長と合流すると、陣を構えたのです。
崇徳上皇の元には、源為義・為朝親子をはじめ、思いを同じくする人が・・・。
後白河天皇の元には、平清盛や源義朝など気鋭の若武者たちが集結・・・。
天皇家、摂関家、武家・・・身内同士が真っ二つに・・・後に保元の乱と呼ばれる戦いが始まろうとしていました。
1156年7月11日未明・・・両軍は鴨川を挟んで睨み合っていました。
事態が動き出したのは、余も明けやらぬ午前4時!!
後白河天皇軍の600余りの兵が奇襲を仕掛けました。

思わぬ襲撃に驚いた崇徳上皇・・・
必死の抵抗も、火を放たれて止む無く敗走・・・僅か4時間ほどで雌雄は決しました。
崇徳上皇に組した武士は、捕らえられ死刑・・・実に、350年ぶりの死刑復活でした。
捕らえられた崇徳上皇は讃岐に流罪・・・。
武力がものをいう時代の幕開けでした。

香川県坂出市・・・ここで、崇徳は怨霊となったと言われています。
最初の3年は雲井御所で・・・。
やがて讃岐国府の近くに移され、生活は厳しい監視下に置かれます。
住居にした木丸殿は、粗末は小さな小屋でした。
1164年・・・46歳で亡くなった崇徳上皇。。。
その死にまつわる不思議が伝説があります。
遺体が運ばれる際に立ち寄った高家神社。
棺から血が流れたことから血の宮と言われています。

崇徳上皇の棺が納められたのは、白峯御陵。
その最後は、何者かに殺されたとも、自ら命を絶ったともいわれています。
しかし、怨霊にまつわるモノは残っていません。

それではどうして怨霊となったのでしょうか?
都では保元の乱以降、後白河上皇の世になってから天変地異が・・・。
すると、崇徳上皇の復権を願うものから怨霊の存在が語られだしたのです。
ある公卿の日記には・・・

「近頃天下に相次いで起きる悪事は崇徳上皇の祟りに違いない。
 その魂を鎮めることは重要なことである。」

後白河上皇は、最初は全くとり合いませんでした。
しかし、親族が次々と病に倒れ、不幸が相次ぐと、その存在を認め、対策を講じることに・・・。
かくして、崇徳上皇の怨霊伝説は生まれたのです。
そして、祟りを恐れた人々の創造により、虚実ないまぜの物語が生み出され、語り継がれたのです。

江戸時代になると、崇徳上皇は物語の登場人物として活躍し、広く庶民に知られていきます。
幕末になると、平田篤胤などの王政復古を唱える国学者たちから、鎮魂が訴えられるようになりました。
朝廷の権威が衰え、武家に移った根本は、崇徳上皇の怒りではないか??
今こそ、その祭祀を復興すべきである!!
明治天皇によって創建された京都白峯神宮・・・讃岐から迎えた御霊にささげた祝詞は言います。

天皇と朝廷を末永く守り、奥羽の旧幕府軍を鎮圧し、新政府をお守りくださいますよう

崇徳上皇は、700年の時を経て恐怖の怨霊から国を守る守護神へと変貌を遂げたのです。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

怨霊になった天皇 (小学館文庫)

新品価格
¥637から
(2018/4/23 16:12時点)

西行と崇徳上皇/その後の静御前 [ 横井寛 ]

価格:1,029円
(2018/4/23 16:15時点)
感想(0件)

山田方谷―河井継之助が学んだ藩政改革の師 (人物文庫)

新品価格
¥821から
(2018/4/15 22:16時点)



備中松山城・・・日本で最も高い標高430メートルに天守閣を構える山城です。
大河ドラマ真田丸のタイトルバックにもなった美しい城として知られています。
この城には秘められた物語がありました。
時は動乱の幕末・・・物語の中心となったのは、備中松山藩重臣・山田方谷です。

備中松山城をいただく岡山県高梁市・・・。
山城の麓には、かつての松山藩の城下町が広がります。
藩校・有終館の校長を務めた儒学者・山田方谷。
隠居を考え始めた45歳の時、方谷の人生を一変させる出来事が・・・。
藩の重職・元締役(財務大臣)兼吟味役(事務次官)に抜擢されたのです。
財政の全権を任されたことを意味していました。

方谷とはどんな人物なのでしょうか?
1805年、山田方谷は農民の息子として生まれます。
幼いころから神童の誉れ高くありました。
農業と菜種油の製造販売の傍ら勉学に励み・・・元来武士ではありませんでした。
彼にとって、松山藩5万石の元締役はあまりに重責でした。
方谷は頑なに辞退しますが・・・方谷から政の手ほどきを受けた藩主・板倉勝静は聞きません。
切望し・・・ついに決意する方谷。。。
方谷が就任した時、松山藩は困窮のどん底にありました。
参勤交代の駕籠かきからも貧乏板倉と敬遠されるほどでした。
詳細な財政調査の結果・・・松山藩の5万石は表向きにすぎず、実際は僅か2万石足らずでした。
藩は、その事実を隠蔽して、大阪の両替商から借金を続けていました。
その結果、負債は10万両を超えていました。
財政破たんしていたにもかかわらず粉飾に粉飾を重ねていたのです。

危機に直面した方谷・・・就任早々厳しい選択を迫られます。
一刻の猶予もない!!
恥を忍んで両替商たちに説明して理解を得る??
代々地位を世襲してきた重臣たちは反対するだろうが・・・

「大信を守らんと欲せば 小信を守る遑なし」

武士の体面ばかり守ろうとしていたら、領民の暮らしや藩の存続さえ危ういのだ。

方谷は、藩内の反対を押し切って大坂へ・・・
金を借りている両替商たちを集め、返済延期を申し入れます。
その上で、思い切った財政再建計画を提示しました。
それは、米を現金化する為に設けられていた大坂の蔵屋敷廃止という大胆なものでした。
松山藩の米は商人に代わり、藩が相場を見て売りさばく・・・方谷は、全く斬新な方法を打ち出しました。
苦しい藩の財政を包み隠さず示した方谷に動かされて、商人たちは再建案を飲みます。
方谷が経済に明るかったこと、地域の実情を知った上での地域振興、流通革命・・・具体的で、実行可能な再建計画を見せたのが、納得の要因でした。

そして、地元の物を使って特産品を開発します。
ベンガラの特産地として知られる高梁市。
ここに江戸時代に開発された銅山が残されています。
この一帯は、豊かな鉱脈がある地として戦国時代から知られていました。
方谷が目をつけたのがその鉱物資源でした。
銅山経営、砂鉄からの備中鍬などの鉄製品の制作、農民たちには換金植物の生産(柚餅子、刻みタバコ)を。
流通も・・・撫育方を作り、藩内の産物を最大市場の江戸に直送・・・
率先して商いに加わったのは、松山藩の藩士たちでした。
これは、士農工商を揺るがしかねないものでした。
撫育方の藩士たちは、特産品を売りさばき、大きな利益を得るのでした。

2018年に方谷の直筆が新しく発見されました。
そこには、特産品の販売を担う部下に向けた心得が書かれていました。

撫育を進めるにあたり・・・武士としての義をわきまえ、私利に走らぬよう・・・藩士たちを戒めています。
高梁川・・・1852年9月5日、一世一代のパフォーマンスを行います。
領民たちが見守る前で、河原に積み上げた藩札を火にくべたのです。
松山藩は、財政難をしのぐために、藩札を濫造したので、その信用は失墜していました。
藩札を燃やす炎は、朝8時から夕方4時まで続いたと言われています。

そして、蓄財に見合った藩札「永銭」を発行します。
財政の健全化を目に見える形で示した「永銭」は、よその藩でも通用するほどの信用を得ました。
領民の家計がよくなれば、藩の財政も好転することを知りぬいていた方谷・・・市民撫育の思想を貫いて、実質的に7年で莫大な借金の大半を返済したといいます。
しかし・・・時代は大きな曲がり角を迎えていました。
方谷が藩札を燃やした翌年1853年6月・・・黒船来航によって、時代の大きなうねりに飲み込まれていきます。

方谷の手腕で財政を立て直した松山藩・・・
その実績を背景に、藩主・板倉勝静は、1862年に老中に就任。
勝静は、寛政の改革を成した老中・松平定信の孫にあたります。
混迷の時代・・・進んで幕政の中心を担う覚悟でした。
一方、松山藩では、方谷が軍制改革に取り組んでいました。
時代の先を読み、方谷自ら他藩に出向いて西洋式の兵法を学んでいました。
その実用化に向け、最新式の銃や大砲の研究を薦め、試作にも取り組んでいました。
しかし、藩士たちはこれに難色を示します。
学者上がりの方谷に、足軽のように扱われることへの反発でした。
方谷はこの反発を逆手にとって、農民たちを砲術部隊に!!
農民たちに銃を持たせ、最新式の西洋式軍隊に鍛え上げたのです。
凄まじい教練を見た久坂玄瑞は、長州の住人は叶わないと漏らしたといいます。
長州で奇兵隊が組織される6年前の事でした。
久坂が方谷の調練を見た年、幕府はアメリカと日米通商条約締結。
これを契機に弱体を露呈した幕府は、安政の大獄と呼ばれる弾圧政策や、孝明天皇の和宮降嫁による公武合体など威信回復に躍起になります。
しかし、これ以前に方谷は幕府に未来はないと断言していました。

「幕府を衣に例えるならば、家康公が材料を整え、秀忠公が織り上げ、家光公が初めて着用した。
 以後、歴代将軍が着用してきた。
 吉宗公が一度洗濯し、楽爺公(松平定信)が二度目の洗濯をした。
 しかし、もう汚れとほころびがひどく、新調しないとように耐えない状態になっている。」

方谷は、度々藩主・勝静に老中辞任を求めます。
先行きが不安な幕府よりも松山藩に目を向けてほしいという思いからでした。
しかし、勝静の意志は固く・・・1865年風雲急を告げる情勢の中・・・

「衰退する幕府を支えるには、微力であることは承知している。
 しかし、幕臣としてこれを座視するわけにはいかない・・・
 むしろ、徳川と共に倒れる道を選ぶのみである。」by勝静

悲壮な決意を語った3年後・・・京都郊外鳥羽伏見で戊辰戦争が勃発・・・ついに幕末動乱の火ぶたが切って落とされました。
この戦いによって、方谷は命を懸けた選択をすることとなります。

鳥羽伏見の敗戦後、徳川慶喜は夜の闇に紛れて大坂城から遁走!!
一路海上を江戸へと向かいます。
方谷の主君・板倉勝静も、老中としてこれに同行。
敗走から時を置かず、1868年1月11日、新政府から岡山藩に松山藩討伐の朝命が下ります。
朝敵となった松山藩・・・天空の城は、緊張に包まれます。
松山藩の藩主たちの資料が残されています。
これによると、旧幕府軍敗戦の知らせを受けて、松山藩はすぐさま戦闘態勢に入ります。
市中から老人や子供、女性を非難させ臨戦態勢に・・・!!
藩主不在の松山藩では、重臣たちによって、新政府への対応が協議されます。
徹底抗戦か教順か・・・議論は沸騰し、そして膠着します。

その間にも、1月14日新政府軍は松山城南12キロに迫ってきました。
遂に方谷は選択を迫られます。

農兵隊の武力を持って戦に出るのか??
藩主も徳川側についているから覚悟の一戦にするのが忠義ではないか??
朝敵の汚名を着せられたまま降伏では、大義が立たない!!
しかし・・・尽きない議論に方谷が終止符を打ちます。

藩士や領民を慈しみ育てる撫育こそ、我が天命である・・・
民あっての国であることを忘れる勿れ!!
方谷は領民の生活を思い、抗戦を訴える藩士たちを説き伏せます。
早速松山藩重臣が、新政府軍の陣へ派遣され、用意されていた謝罪書の文案を受け取ります。
方谷はその文面の四文字・・・「大逆無道」に激しく憤ります。
板倉勝静は、尊王を貫いていました。
それを大逆無道と言われることに対して許せなかったのです。
方谷は、遺書を認め、命を懸けた抗議に出ました。

「甘んじて死に就き 喜んで節を全う候のみに御座候」

方谷の決意を受け、松山藩重臣も死を覚悟して交渉に臨みます。
その結果・・・「大逆無道」の4文字は、「軽挙暴動」に書き換えられました。
その知らせを受けた方谷は、万感に胸を詰まらせました。
1868年1月18日、方谷の究極の選択によって、天空の城・・・備中松山城は戦火を逃れ無血開城されたのでした。

侍であれば死んだかもしれないけれど、農民であったからこそ生きてこその大切さ・・・。
侍として死ぬことよりも、生きるという選択は方谷にとって自然なことでした。
1868年8月、新政府軍が会津若松に侵攻・・・ここに至って朝敵とされた板倉勝静の行方は知れず・・・
方谷は躍起になって探します。
勝静は、戊辰戦争最後の激戦地・箱館に渡っていました。
家臣たちの必死の捜索でわかると、勝静の身柄確保に動きます。
1869年5月、付き合いのあったプロシア商船の船長に大金を掴ませ、新政府軍が迫る箱館勝静を脱出させます。
藩士たちは勝静に、朝廷への謝罪を説得します。
それは、備中松山藩復興のための絶対条件でした。
説得を受け入れ、謝罪し、自ら謹慎する勝静。
その4か月後・・・方谷たちの努力が報われ、松山藩の復興が許されます。
この頃、方谷の手腕を知る新政府の重鎮・岩倉具視や木戸孝允は、方谷に政府への出資を執拗に求めます。
しかし、方谷がその申し出を受け入れることはありませんでした。
方谷は、松山城無血開城後、生まれ故郷に近い長瀬で塾を開いていました。
若者のためにその建物は六棟にまで増築されていました。
松山城下からおよそ15キロ・・・そこは昭和3年に全通した伯備線の駅となり、全国でも珍しい人名の駅として、方谷の名をとどめています。

方谷駅から北へ20キロ・・・新政府からの出仕要請を嫌ったのか、方谷は山里・小阪部に塾を移しました。
そこは、母の故郷でした。
方谷が母方の祖父母を祀るために建てた庵が残っています。
68歳になった方谷は、祖先を弔いながら、瞑想にふけっていたといいます。
奇跡の藩政改革を実行し、波乱の幕末を生きた方谷は、明治10年1877年6月26日、小阪部で静かに息を引き取りました。
73年に及ぶ選択に洗濯の人生でした。
亡骸は、故郷の山田家の墓地に・・・多くの人に見守られながら埋葬されました。
その墓石に刻まれた方谷山田先生の文字は、旧備中松山藩藩主・板倉勝静が筆を執りました。

幕末維新の動乱の中、山田方谷が命を懸けて守り抜いた山間のささやかな暮らし・・・
かつて方谷が学び教鞭をとった藩校の跡地は幼稚園として活用されています。
未来を託す若者へ、健やかなれと祈りを込めて方谷が自ら植えた松の木が、今も子供たちを見守っています。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

運命をひらく山田方谷の言葉50 (活学新書)

新品価格
¥1,296から
(2018/4/15 22:16時点)

藩の借金200億円を返済し、200億円貯金した男、山田方谷

新品価格
¥1,836から
(2018/4/15 22:17時点)

このページのトップヘ