日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: 英雄たちの選択

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大小3000の島からなる瀬戸内海・・・
この海で、何百年にわたり中央権力に媚びることなく、自由に生きた一族がいました。
その一族とは、村上水軍です。
行き交う船は、彼らに関銭を払うことが掟!!
拒否すれば、誰であれ襲い略奪!!
奪い取った関銭を元に海洋貿易をし、瀬戸内最強の水軍を組織していきました。
そんな村上水軍を戦国時代に率いていたのが村上武吉!!

その実力は、陸地の名だたる大名が、武吉を敵に回すことを恐れていました。
そんな武吉を宣教師ルイス・フロイスは・・・日本最大の海賊と称しました。
群雄割拠・戦国の世に、瀬戸内海に君臨した海賊王でした。
この武吉の前に大きく立ちはだかったのが、豊臣秀吉です。
日本を一つにまとめようとしていた秀吉は、武吉が支配している海にも影響を及ぼそうとしていました。
秀吉は命じます。海の関所を停止することを・・・!!
関銭を停止するように命令してきたのです。
関銭徴収は、武吉たちが先祖代々自らの手で勝ち取ってきた既得権益です。
この権利を完全に否定したのです。
村上水軍の力を根こそぎ奪おうとする秀吉の苛烈な要求!!
村上武吉はどう応えるのか・・・!!

村上水軍はいつから存在しているのでしょうか??
それは謎です。
が、既に12世紀・平安時代に海賊に対する禁圧令が出されています。
古くから海賊たちは、中央政府にとって悩みの種だったのです。
中でも瀬戸内海は、朝鮮半島や中国からの船が都に向かう際の重要航路。
物資の往来も激しかったことから、多くの海賊が跋扈していました。
海の荒くれものは、陸の権力者のものであろうとお構いなし!!
海の民たちは、陸の権力者に阿ることなく自分たちの掟で生きていたのです。
そんな瀬戸内のリーダーとなったのが村上水軍!!
彼らが歴史の表舞台に躍り出たのが室町時代中期。
世は戦国時代へと突入していました。
村上水軍は、瀬戸内海の中央部、現在の山口県・上関から香川県・塩飽諸島まで170キロを支配下に置いていました。
その内部は3つの家から成り立っていました。
・因島村上氏
・来島村上氏
・戦国時代村上水軍の主となった能島村上氏
・・・武吉が頭領だった家です。

3つの村上家が協力することで、瀬戸内を遮る網を張ることができ、行き交う船から関銭を徴収していたのです。
戦国時代、武吉が瀬戸内を通る船に与えた村上の上の字が書かれた旗「過所旗」・・・行き交う船は、この旗を、関銭を払うことによって掲げ、安全を保障するパスポートとしていました。
逆に言えば、村上の許可なくしては瀬戸内海の海を通ることは許されなかったのです。
そんな武吉たち村上水軍が、瀬戸内の王者となれた秘密は・・・??

能島・・・能島村上氏が本拠地とした島です。
このあたりの潮流は、瀬戸内海とは全く違います。
まるで渓流のような激しい潮流・・・その速さは、最大10ノットおよそ時速18キロで流れています。
その動きは、潮の満ち引きによって絶えず変化していました。
このような中で育った村上水軍。
島々が密集しているこのあたりは、非情に潮の流れが激しかったのです。
この潮の流れで育まれた操縦技術が、彼らの力でした。
村上水軍は、卓越した操船技術を手に入れ、そして、瀬戸内の海賊の中でも抜きんでた存在となっていきます。

戦国時代、能島村上氏が本拠地としていたのが、この島全体を丸々城塞化した能島城でした。
島には、岩礁ピットが残っています。
岩礁ピットの総数は、能島城の周囲で400を越えています。
かなりの数の船を保有していました。
船をどれだけ持っていたのか?関銭をどれだけとっていたのか・・・??それは謎のままです。

しかし、海賊的な行為以外にも・・・
見近島からは、陶磁器の破片がたくさん(およそ1万2000)見つかっています。
中でも際立っているのが、中国、朝鮮の陶磁器の多さです。
能島村上氏が商品流通に干与していたことがわかります。
大名クラスの品々を取り扱っていました。
こうした活動を代々続けながら、瀬戸内海の王者となっていったのです。

1555年、武吉22歳の時・・・
瀬戸内海に接する中国地方では、ある新興勢力が・・・
広島県・・・安芸を拠点に勢力拡大を狙う毛利元就です。
その元就と対立していたのが、陶晴賢。
陶晴賢は、周防国を実質的に支配していた武将です。
この両者が、厳島神社がある宮島で激突!!
厳島の戦いです。
この一大決戦を前に、元就は武吉をかなり警戒していました。
小早川隆景によると・・・
「音戸の瀬戸の両側に砦を築くこと」としています。
能島村上氏が音戸の瀬戸を通過して、広島湾に侵入するのを防ごうとしたと考えられます。
元就は、武吉が敵方として参戦することを恐れ、砦を築いたというのです。
武吉の存在を恐れていた毛利元就!!

「能島村上武吉は、何としても味方に引き入れたいものだ」
「世を日に継いで調略せよ」

能島の力は、三島の村上の中で、一番強かったのです。
毛利にとって、瀬戸内の水軍の力は、他の大名と戦っていくうえで、極めて重要な意味を持っていました。
元就は、どうしても武吉を味方に付けたかったのです。

武吉の力・・・それは、室町幕府13代将軍村上義輝の知るところとなります。
この頃中国地方では、毛利と尼子が戦っていました。
それを何とかして鎮めようとした義輝は、武吉に仲介を頼みます。
能島村上氏が、将軍から「毛利に対して働きかけ出来る存在」として認められていたのです。
大名や将軍などの陸の支配者からも力を認められていた村上武吉。
日本最強の海賊として戦国の世を堂々と渡り歩いていました。

群雄割拠の戦国時代・・・それぞれの地域を代表する大名が誕生してきました。
中国地方を制覇したのは毛利家。
この頃には、毛利輝元になっていました。
そして、その毛利家を飲み込むように成長してきていたのが、東海、近畿を抑えた織田信長。
日本を一つにしようとしていた信長は、既存のルールを壊していきます。
関所を廃止、座を撤廃、楽市楽座を行いました。
信長は、旧来の支配者の既得権を否定することで、大きくなっていきました。

1576年、信長は本願寺を攻め立てていました。
そんな本願寺を助けようと思っていた毛利輝元は、本願寺に援助物資を運び入れるよう武吉率いる村上水軍に依頼します。
1576年7月、木津川の戦い・・・村上水軍と織田水軍との間で戦いの火ぶたが切られました。
ほうろく火矢で戦う村上水軍に織田水軍は驚きます。
この戦いで織田軍を壊滅させた村上水軍の名は、世に響き渡ります。
村上水軍の強さを痛感した信長は、天下統一のためには武吉の力が必要だと感じます。
そこで信長は・・・
「望むことがあるようなら、何でもその意を叶える。」と、武吉に言っています。
来るべき毛利との戦いに。村上水軍を味方にしようと思ったのです。
その翌年、信長は中国攻めに・・・!!
信長の意を受け進出してきたのは、羽柴秀吉。
秀吉は、村上水軍を本格的に調略すようと動き出します。
武吉の息子・元吉に書状を送ります。

「先日送ってきた使者を、こちらに寄こせ。
 内緒の話をしよう。」と・・・。

実は、能島村上家では、毛利に付こうとする父・武吉と、織田に付こうとする息子・元吉の間で意見が分かれていました。
それを知っていた秀吉が、調略を仕掛けたのです。
秀吉によって親子分断の危機・・・。
そして・・・来島村上氏にも・・・。
秀吉の誘いに、来島村上通総が乗ってしまいます。
これまで一致団結して瀬戸内海を支配してきた村上水軍・・・信長、秀吉という強大な敵を前に、結束に乱れが生じてしまいました。
このまま信長によって瀬戸内海は分断されてしまうのか??
そんな時大事件・・・1582年6月、本能寺の変!!
織田家の棟梁・織田信長が、家臣・明智光秀の謀反によって非業の死を遂げたのです。
この一大政変によって、秀吉の毛利攻めは中断!!
結果、瀬戸内海は、武吉が君臨することに・・・!!
武吉人生次第の危機は去ったかに見えました。
そかし、それはつかの間の事・・・。

本能寺の変という予想だにしなかった事件で再び瀬戸内海に君臨した村上武吉。
しかし、天下は一人の男によって、信じられないスピードでまとまろうとしていました。
その男とは、武吉たち家族の分断を図った羽柴秀吉です。

信長の後を継いだ秀吉は、本能寺の変の僅か3年後には関白に就任。
事実上の天下人となりました。
天下人となった秀吉は、日本を一つにまとめていく政策を打ち出します。
太閤検地・・・これまで地域によって異なっていた田畑の広さの単位を統一

「海陸役所停止の事。
 海と陸の関所は禁止とする。」

秀吉からすれば、関銭徴収は中世だから存在しえた私的な行為・・・
このような過去の遺物は、新しい国家には必要ない!!
何百年にわたる中世の海賊の基本的な在り方を侵害されてしまう!!
秀吉が命じた関銭の禁止・・・

関銭徴収は、先祖代々作り上げた海の掟・・・。
自由な海賊としての道か、生き延びてこその道か・・・??

天下人・豊臣秀吉の関銭禁止命令に、村上武吉は・・・??
豊臣政権側は、当然会場の静謐、対して武吉側は従来の権益・・・。
お互い引けない・・・!!
関銭行為を止めない武吉。
海賊として自由に生きる選択をしたのです。
しかし、武吉の態度に業を煮やした秀吉がついに動き出しました。

「能島・村上武吉が海賊行為を行ったと聞いた。 言語道断!!」

そして、武吉の瀬戸内追放!!

武吉を先祖代々の地から追い出したのです。
福岡県糸島半島へ移された武吉。
その4か月後、秀吉は「海賊禁止令」を出します。
「今後は、船を使うものは代官が管理し、海賊行為をしないように約束させる。」
秀吉はこの法令によって、今後海は、陸の者が支配すると宣言したのです。

中世の海賊の一番代表として日本中に名前が通っていた武吉を屈服させ、本拠地瀬戸内海から追放したということは、もう中世の海の世界というものはダメということを日本全体に知らせる出来事でした。

しかし、1598年3月、天下人・豊臣秀吉死去。
二年後の1600年、関ケ原の戦い!!
この混乱を待っていたように武吉が動き出します。
この時、68歳!!
武吉が向かったのは、愛媛県にある興居島。
この時、この地を治めていた加藤義明は関ケ原の戦いで不在。
この好きに武吉は瀬戸内海を取り戻そうと考えていました。

しかし・・・突如夜襲に・・・
檄文を送った相手が裏切ったと考えられています。
彼らにとっては、武吉はもう、過去のものだったのかもしれません。
瀬戸内海にある周防大島・・・夢破れた武吉はこの地に移ります。
以降、能島村上氏はもう海賊ではなく、毛利家の一家臣として生きていくのです。
関ケ原の戦いの4年後・・・
1604年8月22日、村上武吉死去・・・享年72歳でした。
武吉の死は、日本から海賊が姿を消したことを意味していました。
以降、海は、陸の論理によって支配されることとなります。


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今からおよそ2000年前、中国の皇帝から与えられたと言われている金印・・・
刻まれているのは、”漢委奴国王”の印・・・委は、当時のこの国の呼び名・・・この名を日本に改めたきっかけとなった戦いがりました。
672年、大海人皇子と大友皇子が皇位継承争いをした古代最大の内乱・・・壬申の乱です。
その50年後に成立した日本書紀には・・・
大海人皇子は、権力に野心がないことを示すために出家・・・吉野に隠棲していました。
ところが都にいる大友皇子は兵を集め始めました。
そのため止む無く大海人も挙兵!!
結果、僅か1か月で、大海人軍が大勝利を収めたのです。

しかし・・・近年日本書紀の記述は、正当防衛を主張する大海人・・・天武天皇の創作ではないか?と言われています。
壬申の乱勃発の本当の理由とは・・・??


壬申の乱から遡ること5年の667年・・・
日本書紀には、都が近江に移されたとされています。
都の西岸に位置する大津宮です。
飛鳥からこの地に遷都したのは中大兄皇子(天智天皇)です。
その片腕として活躍していたのが、弟・大海人皇子です。
天智が大和政権下で権力を握って以降、兄を支えてきた大海人は、自他ともに認める後継者でした。
しかし・・・天智天皇が最高位の太政大臣に任命したのは息子・大友皇子を任命・・・僅か24歳での大抜擢でした。
これをきっかけに王位継承は、新しい局面を迎えました。
太政大臣は新しくできたポストで、その役割は一つに政策的なトップ、もう一つは有力な皇位継承者という意味を含んでいました。
大海人にとって、天智への不信感が出てきたのです。
天智のブレーンだった中臣鎌足の伝記には・・・天智不満を持った大海人が、宮中での宴会に乱入し、長槍で敷板を刺し貫いたというエピソードが書かれています。
その後、大海人は出家し、政治の実権は大友が握ることに・・・!!

奈良県にある吉野・・・万葉集にも詠まれた風光明媚なこの土地に、大海人が隠棲する吉野宮がありました。
天智の崩御の半年後の672年5月・・・大海人の元に知らせが・・・
出家した大海人を危険視した大友が、攻撃の準備に取り掛かっているというのです。

「今、避けることのできない禍が、私に降りかかろうとしている。
 どうしてこのまま黙っていられようか・・・!!」by大海人皇子

1か月後・・・兵を集め始めました。
つまり、正当防衛のために、やむをえず挙兵したというのです。


6月24日、大海人皇子は吉野宮を出立!!
同行するのは大海人の妃・鵜野讃良皇女をはじめ側近たち30人ばかり・・・。
しかし、3日後の26日に美濃兵3000、尾張兵20,000が合流・・・出発からわずか4日で、3万の軍勢を手に入れました。
一方、6月26日、大友も大海人の挙兵を知って、人を集め始めます。
しかし、東北へと向かった使者は、不破で捕獲されてしまいました。
不破は、近江と東国を結ぶ交通の要所・・・
大海人は、吉野を立つ二日前に、東国に向かう使者に伝えていました。

「軍勢を発し、速やかに不破の道を塞げ!!」

この為に、大海人軍に封鎖されていたのです。
さらに大海人は、もう一つの交通の要所・・・大津宮と東北を結ぶ鈴鹿山道も押さえていました。
なので、大友は、東北の兵を集めることができませんでした。
一方、吉備や筑紫など西国に向かった使者も、目的を果たすことができませんでした。

そしてついに始まった直接対決!!
しかし、十分の兵を集めることのできなかった大友の軍は、一方的な敗北を喫することに・・・
7月22日大津宮陥落!!
翌日、大友皇子自害!!

大海人皇子は、吉野出立からわずか1か月足らずで、完全勝利を収めたのです。

しかし・・・日本書紀には不審な点が・・・
特に、大友からの危険を知り、僅かの供と吉野を出た大海人に、4日間で3万の兵が扱ったことは、事前の準備がなければ考えられません。

大海人側は、かなり用意周到に計画をして立ち上がったのでは・・・??
日本書紀に書かれている記述が全てではない・・・。


壬申の乱の直前、委国は未曽有の外交的危機に直面していました。
きっかけは、663年の白村江の戦いです。
倭国初めての本格的対外戦争でした。
中大兄皇子の軍は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の復興を助けるために、朝鮮半島に大軍を派遣!!
しかし、唐の大艦隊を前に、1万の援軍は僅か2日で壊滅・・・大敗北を喫しました。
その後、倭国は、唐、新羅がいつ攻めて来るかわからない中、対外的脅威にさらされることに・・・
そこで中大兄は、倭国防衛のために、九州、瀬戸内にたくさんの山城を・・・
667年には、近江へ遷都し、海岸線から遠くに都をおきます。

日本初となる戸籍「庚午年籍」を作成し、全国の土地や民を速やかに把握し、税や兵を集める仕組みを作ろうとしました。
白村江の時は、兵士の動員には要請から2年ほどかかっています。
その教訓から、定量的な帳簿を作り、それに基づく兵士や労役の動員が可能になるシステムを作り出したのです。

即位して中大兄は天智天皇となります。
対外的な危機感を利用し、中央集権・・・国内改革を一気に推し進めようとしていました。

一方で、東アジア情勢は、益々緊張・・・
壬申の乱の4年前には、唐・新羅連合軍が、朝鮮半島の高句麗を攻め滅ぼします。
翌年、標的を倭国と定め、軍船の修理に取り掛かりました。
次は倭国が・・・??
と思われていましたが、新羅が朝鮮半島統一を目指して唐と対立!!
これによって唐は、戦いの矛先を新羅に変えます。
倭国の危機は一旦去ることに・・・。

新羅は本格的に、倭に遣いを送り、倭との友好を求めてきました。
新羅も高句麗と同じように、唐に滅ぼされる危機から逃れ、新羅の地位を維持しようとしていました。
この新羅からの使者に対して倭国は船を送るなど手厚く歓待・・・以後毎年、両国の間で使者が行きかう関係を築くことに・・・

669年遣唐使を派遣・・・
こうして、唐と新羅、敵対する二つの国と、友好関係を築くという両面外交をすることで、一定の距離を置こうとしていました。
しかし、壬申の乱の前年・・・この方針の変換を迫られる事件が・・・
671年1月・・・唐からの使者が来訪。
朝鮮半島における、唐の立場は不安定で、倭に武器・武具を求めたり、軍糧・食料を要求したかったのですが・・・唐の味方になる事を迫られます。

この月、天智は大友皇子を太政大臣に任命。
同時に、鬼室集斯を重用・・・鬼室集斯は、唐と新羅に滅ぼされた百済からの難民のひとりで、数千の難民が近江に居住していました。
先進的な文化や技術を持つ彼らを、天智は招き入れていたのです。

これらの百済からの難民たちは・・・
基本的に、新羅に立敷いて伝統的に敵国意識があります。
唐は、旧百済領に熊津都督府を置き、百済の地元民たちの政治・自治を尊重してくれていました。
どちらかを選べと言われれば・・・唐!!

唐と新羅のどちらに味方するのか??
それとも、不介入を決め込むのか・・・??外交方針の決定を迫られていたのです。

危機感があるから天智に協力したのに、実は危機は日本には来ていないという事実・・・。
豪族たちは、天智に対する反発が強くなってきていました。

671年倭国が外交的機に直面していた頃、天智が突然病に・・・
先が長くないと悟った天智は、大海人を呼び・・・

「私の病気が重いので、あとのことをそなたに託したい。。。」by天智天皇

大友の太政大臣抜擢で立場が揺らいでいた大海人にとっては皇位に着く最大の機会・・・!!
しかし、倭国は今、朝鮮半島に介入するかで岐路に立たされている・・・

王位を継承する??
しかし、天智の急進的な改革に、豪族たちは不満を抱いていました。
豪族たちは、これまで自分たちの本拠地に住み、不定期で大王の宮に奉仕するという体制をとっていました。
大津遷都によって、遠く離れたところに暮らさなければならない。。。
おまけに、中間搾取、既得権益が、国家がメインになって徴収することで、収奪、編制、自分たちの旨みが無くなってしまった。
反対の人か・・・飛鳥から大津に遷都した際には、不審火が多発したと言われています。
さらに、朝鮮半島情勢に加われば、豪族たちの不満は噴出する可能性が・・・!!

王位を辞退する・・・??
不満はすべて大友に・・・しかし、大友に政を任せていいのか??
百済からの難民にささえられている大友は、唐との関係が深まれば、出兵を乞われるかもしれない・・・。
白村江の戦いの二の舞になるのではないか・・・??
誰が田畑を耕すのか・・・??

671年10月、王位を継いでほしいという兄・天智天皇に対し、大海人は・・・
「私は不幸にも病気がちで、国を保つことができません。
 どうか天下を皇后に・・・そして、大友皇子を皇太子になさいませ。」
大海人は、王位の辞退を申し入れます。

しかし、672年大海人が吉野から挙兵し、壬申の乱勃発!!
1か月で完全勝利を収めるのです。
実は、大海人が挙兵を決断したのは、自己防衛ではなく、大友の外交方針だったともいわれています。
日本書紀に・・・
大友が唐の使者に鎧や兜、弓矢を送ったと記載されています。
唐からの使者に、直接兵は出さなかったものの、武器や軍需物資を与えていたのです。
これは、それまでの倭国の外交方針からすると、かなり踏み込んだものだったのです。
大海人は、大友が唐よりに外交方針を変えたことを見届けて、挙兵したのです。

壬申の乱に勝利した翌年の673年、飛鳥浄御原宮に遷都。
そして、天武天皇として即位すると、外交問題に新しい方針を打ち出します。
唐と新羅どちらの味方にもならず、遣唐使の派遣を取りやめたのです。
その後、半島での戦いは、新羅の勝利に終わり、そのため、恐れていた唐からの報復を受けることもありませんでした。

これまで、倭国は高句麗や百済を防波堤にして、中国からの直接侵攻を妨げてきていました。
次は、新羅を防波堤にしたのです。
外交問題の難局を乗り越えた天武天皇は、新しい国家づくりに邁進します。
新城に都を・・・!!
幻の都・新城・・・後に持統天皇が完成させた藤原京の発掘現場の下の層から、新城の遺構が発見されました。
そこでは、東西と南北に沿った道路が直角に交わっていました。
これがのちに、藤原京で初めて完成する碁盤の目の都市計画なのです。

さらに681年、天武は国にとって大切な、律令と国史の編纂に取り掛かります。
それは・・・”大宝律令””日本書紀”として結実します。
飛鳥池工房遺跡には、最古の貨幣・富本銭が見つかりました。
この遺跡からは、さらに”天皇”と書かれた最古の木簡が発見されました。
それまでの大王から天皇へと改めたのもまた、天武だったと考えられます。

新たな国造りをした天武天皇は、686年に崩御。
しかし、天武の事業は、跡を継いだ持統天皇らによって受け継がれていくこととなります。
そして、この国始まって以来の律令が完成した翌年の702年、33年ぶりとなる遣唐使が大陸に渡るのです。
使者は、唐の皇帝に対し、新たなる国名を・・・それが、「日本国」でした。



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1582年6月13日、天下分け目の決戦が行われました。
明智光秀VS羽柴秀吉・・・山崎の戦いです。
合戦は僅か数時間・・・圧倒的な秀吉に、光秀は敗北しました。
本能寺の変で天下人・織田信長を討ちながら、10日余りで秀吉に敗北・・・。
後世、三日天下と揶揄されることに・・・
しかし、光秀の動きは緻密な作戦に基づいていた・・・??

戦国史上最大の事件・・・本能寺の変!!
この変は、光秀の緻密な作戦のもとに遂行されました。
1582年5月29日、織田信長は、僅かな供周りと共に安土城から本能寺に宿泊・・・
6月1日午後5時ごろ・・・光秀は1万3000の兵と共に、居城である亀山城を出陣!!
毛利攻めを行う中国方面軍・羽柴秀吉の加勢を命じられたためです。

当時、信長の家臣団は5つの方面軍に分けられており・・・
関東方面軍・・・滝川一益
北陸方面軍・・・柴田勝家
四国討伐軍・・・織田信孝
中国方面軍・・・羽柴秀吉
近畿方面軍・・・明智光秀
信長の傍で大軍を擁しているのは光秀ただ一人でした。

午後9時ごろ・・・光秀は重臣を集め、謀反の決意を語ったと言います。
光秀は信長襲撃に当たり、緻密な作戦を立てていました。
戦国時代の京都攻略は容易なものではなく・・・
というのも、町のあちこちには堀があり、櫓門、木戸門もありました。
応仁の乱以降、戦乱の巷となった京都は、要塞都市と化していたのです。
そのため光秀は、先陣にあらかじめ木戸門を開けさせておいて、軍勢が通りやすいようにしていました。
そして・・・
6月2日・・・午前4時ごろ!!信長に気付かれることなく、本能寺を取り囲んだ光秀は、一斉攻撃をかけます。
ルイス・フロイスによると・・・

”明智の兵たちは、門に達するとすぐに中に突入した。
 こうした裏切りを予想していなかったため、抵抗する者はなかった。
 信長は切腹したと言う者もあれば、邸に火を放ち死んだと言う者もあった”

戦いは僅かな時間で終わったものの・・・光秀の作戦は続きます。
次の標的は・・・本能寺の近くにいた信長の嫡男・信忠です。
織田家の家督は、既に信忠に譲られており、持ぶただが織田家の代表であり、信長の正統な後継者でした。
光秀は僅か1時間ほどの戦闘で、信忠を討ち取ることに成功!!
電光石火の早業でした。
信長が滅び、後継者もいない・・・そんな状態を作り出した光秀とは・・・??

光秀の出自は定かではなく、早くから後に室町幕府15代将軍となる足利義昭に仕えていました。
その後、信長に能力を見出され、比叡山焼き討ちを指揮し、様々な戦場で手柄を上げ、近江の要衝・坂本錠を任されるほどになります。

1575年光秀は、丹波攻めの総指揮官に抜擢されます。
都のある山城と接する国・丹波・・・山と盆地が入り組んだその土地は、統治が極めて難しく・・・
丹波平定は、中国の覇者・毛利攻略の足掛かりでした。

武将・光秀はどんな人・・・??
標高356m、周囲8キロに及ぶ巨大な山城・黒井城は、重臣・斎藤利光に命じて大土木工事を行った城です。
この城は、外枡形が2つ重なっていて、まさに光秀は築城名人です。
ルイス・フロイスも・・・光秀は勇猛な武将で、築城技術に精通していたと書いています。
羽柴秀吉やほかの武将と競い合っていたので、光秀もほかの有力武将に負けないお城を造る・・・そんな思いはありました。
緻密な作戦で成功した本能寺の変・・・光秀にとってそれは、天下をとるための一歩にすぎませんでした。

本能寺の変の後の光秀は素早く・・・
6月2日午後1時ごろ・・・光秀は今日を出立し、近江に向かって進軍します。

光秀の戦略
①近江平定
軍事的な地盤を固めます。
中国方面軍の秀吉に対抗する備えは、中川清秀をはじめとする摂津の武将達。
もともと光秀配下のために、味方に付く可能性が高いのですが、問題は近江。
北には柴田勝家、南には徳川家康が・・・近江を抑えることは光秀にとって生命線でした。
光秀は、居城・坂本城に入るとすぐに攻略を開始・・・
秀吉の長浜城や、美和長秀の佐和山城を攻略し、近江を平定し終えたのが6月4日。
6月5日・・・安土城に入城!!
近江を抑えることは、織田政権の継承者である証拠だったからです。
この光秀の軍事行動は、近江近辺の大名たちの若狭・武田元明や大和・筒井順慶を味方に付けます。

②朝廷工作
6月7日、光秀は朝廷の勅使を、安土城に迎えます。
光秀にとって朝廷を味方につけることは最重要課題でした。
主君・信長を討った光秀には大義名分がありません。
そこで光秀は朝廷に、治罰の綸旨を求めたのです。
朝敵追討という大義名分を得ることによって、光秀は官軍となるのです。

③外交(調略)
さらに光秀は、上杉、北条、毛利、長宗我部などに敵対する大名たちに密使を派遣、連携を依頼しました。

④庶民対策
光秀は今日の人々の税を免除するなど、人心収攬に努めました。
2017年、愛知県で発見された記録には・・・
「信長親子が死亡して、人々はそれに拍手し、天下が定まったと喜んだ」とあります。
光秀は勇士。
光秀は、天下人の地位を盤石にするための期間を50日、100日と見積もり、そのうちに、近国を平定しようとしていたのです。

完ぺきと思われた光秀の戦略・・・しかし、落とし穴が・・・!!
毛利との和睦交渉を成立させた秀吉が、光秀を討つべく進軍開始・・・!!
世に言う中国大返しです。

本能寺の変以降、天下取りに向けて次々と手を打ってきた光秀・・・
そんな光秀にほころびが生じます。
光秀の配下であり姻戚関係でもある丹後の大名・細川藤孝が協力を拒否。
藤孝は信長の死を知ると、髷を切り謹慎を表明していました。
摂津の武将たちも去就を明らかにしておらず、光秀は書状で説得をしています。

6月9日・・・
安土から京に戻った光秀に驚愕の知らせが・・・!!
秀吉軍がすでに姫路まで戻ってきている・・・!!
光秀と同じく、秀吉も諸国の武将に書状を送っています。
中川清秀宛ての手紙によると・・・
「今日から知らせをもたらした者が、確かに言っています。
 信長さま、信忠さまは窮地を脱したとの事・・・」と。
つまり、信長は生きているとニセ情報を流し、味方に付けようとしたのです。
秀吉を迎え討つべくどのように戦略を立てるべきか・・・??

山崎で戦う・・・??
京の玄関口・山崎は、天王山と淀川に挟まれた狭隘な場所・・・
西から来る軍勢は、体勢を崩し細長くならざるを得ない。。。
山崎の周辺の光秀本陣は・・・恵解山古墳。
巨大な前方後円墳でした。
発掘された戦国時代の堀跡は・・・
幅4メートル、深さ2メートルの堀は、長さ400mに及ぶと考えられています。
戦国時代には、古墳は陣になったり、お城に造り替えたりされることが多かったのですが・・・
周辺一帯を陣地として構築し、秀吉軍を迎え撃った様子が伺えます。
こうした堅固な陣地を構築することで、秀吉に一歩先んじることができる・・・。

それとも大坂の織田信孝を討つべきか??
秀吉が信孝を担ぐと、弔い合戦の大義名分となってしまう・・・!!
信孝を討つと、秀吉の大義名分がなくなり、摂津の大名たちも味方になってくれるかも・・・??

信長と信忠を討ち果たした光秀・・・しかし、信長の次男・信雄は伊勢、三男・信孝は大坂に・・・信雄は、四国の長宗我部討伐のために1万5000の兵を率いていました。
しかし、本能寺の変が起きると、各地から集められた兵が逃走、信雄は大坂に取り残されていたのです。
光秀は信雄討伐を考えていた??
秀吉の書状には・・・
「大坂に信孝さまがいるため、光秀は河内へ兵を乱入させ、早くも大坂を取り巻いて、信孝さまを切腹させようという風聞がある・・・」とあります。

信孝討伐のために、大坂に兵を向わせるのなら兵力が分散される・・・
更に、秀吉とそこで野戦となれば、勝敗はどちらに転ぶかわからない・・・
陣地を構築し、山崎で秀吉を迎え討つべきか、大坂に向かい信孝を討つべきか・・・??
光秀に選択の時が近づいていました。

6月9日、光秀、下鳥羽に出陣!!
信孝を討つために、大坂に向かおうとしていました。
しかし、この時光秀の作戦に破たんが生じました。
光秀に加勢したはずの筒井順慶が参陣を拒否・・・すでに、順慶は秀吉と通じていたのです。
一方秀吉は、姫路城を出陣し、東へ・・・!!
秀吉の動きを察知した光秀軍は、急いで山崎に向かいました。
交通の要衝として栄えていた山崎は、街道沿いに栄えた自治都市でした。
しかし・・・ここで不利な情報が光秀を待っていました。
光秀があてにしていた摂津の武将たちが秀吉に味方したというのです。
光秀軍1万余り・・・対して秀吉軍は3万数千となってしまいました。
大軍に対して三成はどういう作戦を立てたのでしょうか??
西は天王山と淀川に挟まれた狭隘地・・・南は3つの川が集まる湿地帯・・・。
秀吉軍より先に山崎に入った光秀軍は、小泉川を防衛ラインとし、大山崎の出口に陣を構えました。
これによって、天王山は無力化されたことになります。
また光秀は、淀城や勝竜寺城を後詰とし、防御を固めます。
秀吉軍は陣形が取れず、細長くならざるを得ない・・・
光秀は、大軍の利を封じたのです。
この時点での光秀の迎撃作戦は、秀吉を上回っていたと考えられます。

一方、秀吉の陣営は、歓喜に包まれています。
大坂の信孝が合流したのです。
秀吉は信孝を迎え、顔を合わせると涙し、いつまでも大声で泣き続けました。
信孝を味方に迎えることで、秀吉は弔い合戦という大義名分を得たのです。

光秀VS秀吉・・・決戦開始は、6月13日午後4時ごろ・・・
光秀の予想通り、大山崎の狭い隘路で秀吉軍は長くならざるを得ません。
光秀軍の猛攻で、秀吉軍の先陣は後退・・・狭い道に兵が溢れ大混乱に・・・!!
光秀軍は攻勢を強め、戦いは光秀の思い通りに展開していました。
このまま戦っていけば、秀吉軍は崩れ、勝利を手にすることができる・・・??
ところが、秀吉軍の別動隊が湿地帯を抜け、光秀軍の側面をついたのです。
子の奇襲によって、光秀軍の左翼が崩れ、勢いに乗った秀吉軍が、光秀本陣に迫ります。
この時、光秀は前線に向かおうとしますが・・・家臣に制せられます。
激闘は数時間で終了・・・。
再起を図るべく、近江の坂本城を目指した光秀。
しかしその途中、落武者狩りに襲われて、命を落としたと伝えられています。
光秀の天下取りは、ここに終わったのです。

京都の北にある慈眼寺には、光秀の木像が伝わっています。
力強い武将の姿は、これまでの光秀のイメージを覆すものでした。
敗者となり、謀反人の烙印を押された光秀・・・その真実は、歴史の深い闇に葬られたのです。



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今回も、昭和の選択です。

日常を覆う理不尽な暴力・・・宗教対立、ナショナリズムの台頭、経済格差など、様々な悲しみが溢れる現代・・・
第一次世界大戦中から現代社会が孕む矛盾を予見し、世界平和構築に向けて動いたのが、石橋湛山です。
明治時代に生まれ、大正デモクラシーを先導する気鋭のジャーナリストです。
当時は、帝国主義の植民地獲得の時代・・・湛山は、植民地放棄論を唱え、帝国日本に公然と意義を唱えました。
日中戦争開戦と共に熾烈を極める弾圧・・・危機に瀕する言論の自由・・・湛山のとった行動とは・・・??

20世紀初頭、都会ではモダンガールが闊歩し、人々の生活は近代化していきました。
普通選挙運動、議会政治の確立・・・大正デモクラシーです。
一方、ヨーロッパでは1914年第一次世界大戦が勃発。
戦車、機関銃、毒ガス弾という殺戮兵器が導入され、国家総力戦の時代に・・・
アメリカの参戦で、世界規模に拡大した戦争は、帝国主義を敷いていた列強植民地をも戦場に変えました。
すでに、中国・満州に進出していた日本は、この機に乗じて、更なる権益の拡大に乗り出しました。
イギリス、フランスら連合国の一員としてドイツに宣戦布告、ドイツが中国に租借していた青島を占領しました。
そして、大衆はこれを歓喜で迎えました。

その熱狂に冷水を浴びせたのが、29歳の若きジャーナリスト石橋湛山でした。
湛山は、雑誌「東洋経済新報」の記者として、帝国主義政策を厳しく批判しました。
戦争は愚かな行為で、武力で奪った青島は領有すべきではない・・・
領土の拡大は、経済的に見て得策ではないと主張しました。
これは、資料や統計を根拠にした「小日本主義」という植民地放棄論でした。

大正9年の日本と植民地との貿易額は、9億1500万円。
これに対し、アメリカとは14億3000万円、イギリスとは3億3000万円・・・植民地との交易の2倍になります。
しかも、植民地からは、鉄、石炭、石油・・・日本に必要な資源も多くは見込めません。
日本がこのまま膨張政策を続け、欧米との関係が悪化した場合に、かえって大きな損害がでると、湛山は訴えました。
日本の国益にかなうのは、植民地を放棄し、門戸開放により国際協調をし、自由貿易をすること・・・という理論でした。
その後湛山は、切れ味鋭い論説と持ち前のリーダーシップで東洋経済新報社の主幹となりました。

1931年満州事変が勃発。
朝鮮にいた日本軍も越境し、陸軍が満州各地を占領します。
政府は独断先行する陸軍の行動を容認。。。
自由主義者・湛山は、暴力と権力に厳しかった・・・。

「内閣が軍部の方針に屈し、その引き回すままに従った。
 イアン条的に、支那全国民を敵に回し、なお我国はこの取引に利益があろうか」

しかし、湛山の主張もむなしく、事実上の傀儡国家・満州国が建国されます。
その2か月後、軍部の横暴は国内政治にも牙をむきます。
満州国の承認をためらった犬養首相が軍人によって殺害!!
軍国主義の色彩を強めていく日本・・・

1937年盧溝橋事件をきっかけに、ついに中国との戦争が始まりました。
日中戦争の始まりと共に、言論統制は激しさを増します。
国策として、紙やインクの割り当てが大幅に減らされ、反軍的な論説には、容赦なく削除や発禁処分が下されました。
湛山も例外ではありません。

警視庁検閲課から禁止差し止めが出たのは1937年9月28日から。
日中戦争については、外務省発表以外は一切の記事禁止。
発表以外は書いてはならないのです。
厳しい制限の元でも、自由主義者・湛山は筆を振るいます。
陸軍とその横暴を許す政府を、痛烈に非難します。
しかし、この論説は、発行直後に削除処分を受け、営業部員が書店を回ってページを切り取ったといいます。
湛山にとって、この年二度目の削除命令でした。

言論の自由が封じられ、窮地に立たされた湛山は・・・??
このまま軍部の暴走が続けば、欧米が黙っていない。
アメリカやイギリスと協調関係を築き、世界規模の経済観を構築しなければいけないとき、議会や政府が軍部に引きずられて機能していない・・・。
しかし、このまま批判を続ければ、私の命もあぶないし、わが社の存続まで脅かされかねない。
すでに、一般紙では戦争の記述が問題となり、小説までが削除命令を受けていました。
このまま権力に屈するわけにはいかない・・・
今まで唱えてきた自由主義、小日本主義を唱え、正面から主張を貫くことこそ、ジャーナリストの務めではないのか・・・??
政府や軍部に警鐘を鳴らさなければ・・・!!

大陸で戦争状態に入ってしまった今、小日本主義は現実的ではなくなってしまった・・・。
この国難を乗り切る政策を練り、人々に伝えられないだろうか??
現実に合わせた言論活動をする・・・??

満州事変の直前、湛山は経済倶楽部という経済人や財界人の研究議論の場を設けていました。
それは、東洋経済新報社の支局開設に伴って各地に広がり、活発になっていました。
講演会には、経済人ばかりではなく、軍人も度々登壇し、意見や情報交換できる貴重な場でした。
彼らならわかってくれる??
やはり筆を折る・・・??

過酷な言論統制の時代に、どう身を置けばいいのか・・・??

1939年夏・・・ますます検閲が厳しくなる中、迫られた湛山は、社員たちに訓示します。

「言論弾圧には屈しない。」

湛山は、検閲に対抗する為に工夫をします。
敢えて回りくどい表現方法を取り、読者に行間を読み取ってもらうことに努めます。
現実に合わせた言論活動を始めたのです。
そうでなければ、沈黙するほかありませんでした。
湛山の日本への提言は、その表現を変えていきます。 

「台湾、朝鮮、樺太は、今は植民地というよりは、少なくも貿易については我が本土の一部」
「もはや、容易に元には戻りえん自給経済圏」
表面上は、植民地を認めたかのような論説・・・
しかし、軍を暗に批判し続けます。

「政治家が、しっかりと国政を遂行して、隙間を与えなければ、どうして軍人が政治に干与する余地があろう
 一家の主人が、その位置にふさわしき器量の持ち主である場合、番頭に誤魔化されたり、細君の尻に敷かれるはずのないのと同様だ」

湛山の葛藤をよそに、日本は太平洋戦争に突入・・・。
東京も空襲に晒されるように・・・出版が続けられなくなる・・・??

秋田県横田市・・・東京から遠く離れたこの地に、湛山の出版に対する執念があります。
横手で最初に泊まったとされる宿・・・横手を訪れる要人の多くがこのホテルに泊まっていました。
明治6年創業のそのホテルには、宿泊名簿が残っていました。
昭和20年、東京での出版活動が危うくなった時は・・・??
経済倶楽部の縁を頼りに、湛山は本社機能を横手に移し、僅か8ページとなったものの、全国の読者に発行し続けます。

東京を離れてもなお、必死の言論活動・・・しかし、湛山の思いは実らず。
この苦衷が、敗戦後の湛山に大きな影響を与えることになります。
湛山は敗戦後、最初の選挙に打って出ます。
「ただ、筆や口で論じているだけでは間に合わない。
 自ら政界に出て、自分の主張を取り入れてもらう要がある。
敗戦の翌年、湛山は第一次吉田茂内閣の大蔵大臣を皮切りに、政治家として日本の復興に動き出しました。

1956年12月、首相に就任。
改憲で打ち出したのは、国民生活の向上と、共産圏との関係改善という自主外交路線でした。

「献身的に身命を惜しまずに政治を推し進めたい」

決意の裏にあったのは、米ソを軸にした冷戦下で原子力が再び兵器として使われるのではないか??という危機感でした。

「自衛軍備しか持たない国々の間に、二度の世界大戦が起こった。
 今後、原子力兵器の戦争は人類滅亡を意味する。」

首相就任直後から精力的に活動します。
各地に足を運び、国民の声に耳を傾けます。
しかし、72歳の体には過密なスケジュール・・・過労が元で体調悪化・・・。
国会の長期欠席を余儀なくされ、「政治的良心に従います。と、潔く辞任します。
首相在任、僅か2か月でした。

湛山は1年余りの闘病を経て、政界に復帰。
右半身が不自由だったものの、志は消えていません。
湛山には胸に秘めた構想がありました。
日米の安全保障に留まらず、中国、ソ連を巻き込んだ「世界平和体制の確立」です。
そのために、断絶状態にあった中国を自ら訪れ、民間レベルでの交流を働きかけようとします。
湛山の後を継いだ岸信介がアメリカとの関係を慮って態度を硬化させます。
右翼からも脅迫まがいの批判が浴びせられます。

湛山の強靭な精神は、妨害や反対に怯まず・・・1959年9月7日、社会党の指示を受け、訪中を敢行!!
3000人の支援者に見送られて羽田を飛び立ちます。
湛山は、周恩来との会談で、「日中米ソ平和同盟」を打診します。
周恩来首相は、深い理解を示し、湛山の思いは大きく前進!!
時を同じくして、訪米中のフルシチョフが軍備廃止、冷戦終結の意志を表明。
東西両陣営の雪解けか??と思われました。

1960年1月19日、岸首相は、日米の関係強化を目指した新しい安全保障条約に調印。
新安保条約への反対運動は、国民的拡大を見せ、女子学生の死亡事故に発展!!
湛山は、岸首相の手法は、非民主的であり、混乱を招いたとして自民党員でありながら、強行採決を欠席するも、1960年6月19日日米新安保条約成立。
両国の関係は一層強固なものとなっていきます。

1972年・・・田中角栄は、日中国交正常化のための訪中前に湛山を訪ね
「石橋先生、中国に行ってきます。」
湛山が繋いだ細い糸が、9月に結ばれます。

翌年、見届けたかのようにこの世を去った湛山。。。
しかし、40年以上の時を経てなお、湛山が夢見た世界平和は実現していません。




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あ~、”暑い夏”ですね・・・今回は、昭和の選択です。

平成27年に一般公開紗沙汰「皇居地下防空壕」。
平成20年8月10日、日本はここで大きな決断をしました。
「ポツダム宣言受諾の決断」です。
それは、あまりにも十十五犠牲の上の決断でした。
軍民合わせて20万人を越える死者を出した沖縄戦・・・広島、長崎に落とされた原子爆弾、9月まで続いたソ連軍の対日参戦・・・
どうして日本はもっと早く終戦を決められなかったのでしょうか?

早期降伏を阻んだのは、アメリカの条件だった無条件降伏。
敗戦後の国の形を完全に勝者にゆだねると受け取られたのです。
無条件降伏にあらざる和平・・・という懸命の努力をしていました。
起草者は東郷茂徳・・・終戦外交の中心となった外務大臣でした。
東郷の下した決断の裏には・・・??

昭和20年4月1日、アメリカ軍はついに沖縄本島への上陸を開始しました。
戦局が日増しに悪化する中、4月7日に発足した鈴木貫太郎内閣・・・
外務大臣は東郷茂徳・・・開戦時の外相として、戦争を止められなかったことを悔いての入閣でした。
組閣から2週間後の4月22日、新外相東郷に陸軍からある相談が持ち掛けられました。

「ソ連が対日参戦しないように外交を強化していただきたい。」

その頃、満州からは、ソ連軍増強の知らせが続々と入っていました。
本土決戦を想定し、兵力を日本国内に移動させつつあった陸軍にとって、中立国・ソ連の参戦は、断じて避けなければなりませんでした。
この申し出に東郷は・・・「軍部の希望を利用して、急速和平に導くことに決意した。」とあります。
すでに敗色濃厚なものの、和平には多くの困難が・・・
最大のハードルが、アメリカの無条件降伏です。

昭和18年1月、カサブランカ会談でルーズベルト大統領が提唱したもので、日本にとっては軍の解体や政治経済、天皇制という国体にまで連合国の意志を強要される可能性がありました。
米英との交渉をほのめかすだけで、軍の反発が・・・
2.26事件のようなクーデターにもつながりかねない・・・??
そんな状況下での対ソ交渉要請を、東郷は突破口ととらえていたのです。
5月11日、統合により時局収拾への新しい枠組みが・・・
最高戦争指導会議構成員会議・・・軍の圧力を防ぐために、参加メンバーは・・・
首相・鈴木貫太郎、外相・東郷茂徳、海軍大臣・米内光正、陸軍大臣・阿南惟幾、参謀総長・梅津美治郎、軍令部総長・及川古志郎でした。
極秘のうちに討議が開かれました。
戦争終結が、初めて国のTOPの間で共有されました。

6月3日、駐日ソ連大使マリクへの接触を開始した東郷・・・
しかし、ソ連の返事は一向に煮え切りません。
マリクはクレムリンから訓令を受け取っていました。
「この会談の内容を、モスクワに報告するだけに止めること。
 ただし、電報ではなく、船便を使うように。」

すでにこの年の2月、ヤルタ会談にて米ソの間にソ連対日参戦の密約がなされていました。
その準備が整うまでの時間稼ぎをしようとしていたのです。
東郷も、事態を楽観していたわけではなく、
「ソ連からは、七、八分色よい返事はあるまい・・・
 ソ連以外のルートも考えねばならぬ。」と思っていたようです。

海軍少将・高木惣吉・・・米内光正海軍大臣の元、独自に終戦に関する研究に着手していました。
昭和20年3月には・・・アメリカに降伏することは、我国の資本社会主義機構の維持には有利だが、敵の軍門に下る形となり、国民的感情に忍び難い・・・と書いています。
ソ連とは、米英に対する利害は多いため接近はたやすいが、共産主義に晒され社会が不安定化する・・・
終戦から5か月も前に、高木は、米英に降伏した場合と、ソ連に仲介を頼んだ場合を緻密に考えていたのです。

第二次ぜ回大戦が終わった後の世界は、アメリカとソ連の二大勢力になる・・・それを予測し、アメリカのみへの降伏ではなく、ソ連もあっての東アジアの将来を考えていたようです。
二つの国が東アジアでせめぎあう状況で、日本は上手く戦後の復活が出来るのか・・・??
と、考えていたようです。
東郷は、高木の研究内容を高く評価し、その後の終戦外交に反映させていったようです。

ところが・・・ヨーロッパの戦況は、東郷たちの思いよりも大きく動いていました。
5月8日、ドイツ無条件降伏・・・6月には米英ソ仏による分割占領が行われていました。
ソ連大使マリクを介した日本の交渉は、遅々として進まず・・・
そんな中、東郷をさらに追いつめる状況が・・・
ベルリン近郊のポツダムで、米英ソの首脳会談が行われる・・・??
ソ連の参戦など、日本に対する決断がなされる公算が高い・・・その前に、和平の意志を伝えることが急務でした。
7月10日、東郷は高木と会見・・・
近衛特使派遣計画・・・近衛文麿を特使としてソ連に派遣する・・・??
そこには東郷の別の思惑もありました。
形の上ではソ連との交渉であるものの、一転対米交渉にも代えられるようにしていたようです。
しかし・・・すでに7月7日、アメリカ代表団はポツダムに向けて出発。。。
7月12日、東郷は最後のカードを切ります。
モスクワ大使館に緊急電報を・・・!!
「ソ側に対し、戦争終結に関する大御心を伝えておくことが適当。。。」
当時の日本では、天皇陛下の意志を持ち出すことは最後・・・それ以上のことはない。。。
天皇陛下の意志を明確に書いて、その意思を体現する為に近衛が行く。。。
東郷和平工作の最高峰でした。
しかし、モスクワ対財ソ連大使・佐藤尚武によると・・・ソ連の対応は冷ややかなものでした。
ソ連代表団は、既にポツダムに出発しようとしている・・・
出発前に回答することは、事実上不可能・・・。
最早、会談前の交渉は不可能なのか・・・??東郷、絶対絶命・・・!!

昭和20年7月17日ドイツ・ポツダムで米英ソの首脳による会談・・・。
病死したルーズベルトに代わり、アメリカ代表となったトルーマンは、ルーズベルトを引き継ぎ「対日無条件降伏案」をチャーチル、スターリンに示しました。
7月20日、モスクワ発緊急電報が、東郷に重要な決断を迫ります。
「このままではアメリカの本土決戦という最悪の事態が待っている・・・
 国民すべてが戦死を遂げても、国家を救うことはできない・・・7000万の民草が枯れてしまえば、陛下おひとりの御安泰があり得るだろうか・・・??」
佐藤は、もはや対米交渉を打ち切り、米英に無条件降伏し、皇室の存続を図るのみと主張しました。
しかし、東郷はまだあきらめず・・・翌21日の電報では・・・

「対ソ交渉の目的は、無条件降伏にあらざる和平を得るためのものなのだ。
 我々は、その大御心が米英側に徹底するよう極力努力する必要がある。」by東郷

これら日本の電文を逐一傍受していたアメリカは、対日交渉の判断材料としていました。
”天皇の心からの戦争終結の意志・・・”
これらがアメリカにどう映ったのか・・・??

7月27日午前5時・・・アメリカの短波放送が、日本に対して重大な放送を流し始めました。
ポツダム宣言・・・13条からなる日本への降伏勧告です。
報告を受けた東郷は、すぐさま外務省へと向かい、幹部と共に宣言の検討に入ります。
宣言は、日本国に対し戦争終結の機会を与えることを謳い、拒否すれば、日本の国土は完全に破壊されると通告していました。
対ソ交渉に進展が見られない中これを受けるのか??東郷・・・??

第5条以降には・・・
軍国主義の駆逐、指定地域の占領、戦後の日本の領土などが連ねられており、無条件降伏の条件が書かれていました。
どうしてトルーマンは、無条件降伏から後退したのでしょう・・・??
最大の要因は、5万人近くの死傷者を出した沖縄戦にありました。
これ以上損害を出さず、戦争を終結させることはトルーマンにとって至上命題となっていました。
ヤルタ密約通りソ連が対日参戦すれば、早期に集結可能だが、それは戦後東アジアにソ連の勢力拡大というデメリットもはらんでいました。
ポツダム宣言はトルーマンにとっての妥協の産物だったのです。


しかし、武装解除、戦争犯罪人の処分を連合国が行うというのは一方的で問題がある・・・??
これでは軍は、あくまで本土決戦に固執するのは火を見るより明らか・・・
それに、どうして宣言にソ連が名を連ねていないのか・・・??
米国主導での降伏を強いられるのか・・・??
ソ連との交渉の余地は・・・??

ポツダム宣言の即時受諾か、ソ連との交渉継続か・・・??

7月27日午前11時・・・東郷、ポツダム宣言について昭和天皇に説明。

「これを拒否するような意思表示をすれば、重大な結果が起きるでしょう。
 慎重に扱ったうえで、ソ連の返答を待つことにしたいと存じます。」

東郷は、対ソ交渉継続を選んだのです。
直後に開かれた厚生委員会議では、東郷の予想通り、軍部はポツダム宣言に強く反発、拒否を示します。
しかし、鈴木と東郷の必死の説得によって宣言を保留し、対ソ交渉で事態の打開を図ることにしました。

しかし・・・28日の新聞には・・・
”政府はこの宣言を黙殺、聖戦をあくまで完遂する!!”と書かれています。
この新聞発表によって、局面が大きく動きます。
8月6日午前8時15分・・・アメリカは広島に原爆投下!!
そして、8月9日未明・・・150万を越えるソ連軍が国境を越えて満州になだれ込みました。
報告を受けた日本政府は、その日・・・8月9日の午後11時50分、御前会議を招集します。
そして・・・8月20日午前2時30分・・・昭和天皇の聖断が下りました。

日本政府は、「天皇の国家統治の大権を変更するその要求を含包し居らざることの了解のもとに」ポツダム宣言を受諾すると回答したのです。

日本の運命を決めたポツダム宣言受諾。
東郷にはソ連参戦によって、アメリカの譲歩を引き出そうとしていたようで・・・
8月12日、日本の降伏受諾を受けたアメリカからの回答「バーンズ回答」には、東郷か渇望していた一文が・・・
「最終的な日本国の政府の形態は、日本国民の自由に表明する遺志により、決定せらるべきものとす。」
日本への譲歩を嫌ったトルーマンによって、ポツダム宣言に記載されなかった条項・・・
ここに東郷は、天皇制を認めるアメリカの意志を受け取ったのです。
降伏受諾を、天皇、軍部にも、説得できる一文でした。

8月14日、ポツダム宣言の最終的な受諾を通告しました。
戦後、アメリカ主導の資本主義体制の下で、国家を再建するという基礎は固まり、国体も守られました。
ところが・・・統合の予想もしなかった事態が・・・
ソ連は、日本の降伏通告後も戦争を継続したのです。
戦争の終結は9月5日。。。満州、朝鮮半島北部、北方四島を占領したのちです。
この間、日本の戦死者は、軍・民間人を合わせて22万人と言われています。

戦後の極東軍事裁判・・・東京裁判において東郷は、20年の有罪判決を受けます。
戦争犯罪人として収監されていた巣鴨プリズン・・・後に、「時代の一面」としてまとめられた手記は、過酷な獄中生活の中で執筆されたものです。
ソ連のしたたかさを見抜けなかったことについて東郷は・・・「迂闊」という言葉で表現しています。

敗戦から5年が経過した昭和25年7月23日、東郷は病で死去・・・享年67歳でした。

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