日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

カテゴリ: にっぽん!歴史鑑定

吉本せいの生涯 吉本興業の女性創業者、せいの波乱爆笑人生!! (別冊宝島)

価格:993円
(2017/11/23 15:41時点)
感想(0件)



日本のお笑いの歴史を築いた女性がいました。
名は”吉本せい”です。
今のお笑い界を席巻する吉本興業の創業者です。
元々は、商家に嫁いでお笑いとは無縁だった吉本せい。
寄席の女王となったのは・・・??

1889年12月、兵庫県明石市で林家の三女として生まれました。
両親は、せいが生れるとすぐに大阪・天神橋筋で米穀商を営みました。
その後、せいは花嫁修業として大阪・船場の商家に女中として奉公に出ました。
そこで一苦労!!
臭い漬物で食欲がわかないようにされていて・・・漬物にショウガをまぶしたり・・・女中生活の中で、創意工夫の女性となっていきます。
1910年、20歳で大阪の荒物問屋「箸吉」の跡取り息子・吉本吉兵衛と結婚。
嫁いですぐに長女を出産。
母として商家の女主人として家を切り盛りする一生のはずでしたが・・・

ある日、店の帳簿を見てみると・・・
ずっと赤字・・・このままでは店が潰れてしまう!!
しかし、時は日露戦争終結から5年・・・
戦争後の不況の波が続いていました。
姑が厳しく、厚手の木綿の洗濯物を洗わされ、手の皮がむけて水が赤く濁ったともいわれています。
こんな時、便りにしたいのが吉兵衛ですが・・・
夫・吉兵衛は、商売よりも芸事が好き。
赤字もおかまいなしのボンボンで、毎日贔屓の芸人たちを引き連れて、芝居見物や寄席通いにうつつを抜かし・・・。
剣舞に凝って、自ら舞台にあがることも・・・家業をほったらかしで地方巡業、何日も家を空ける始末でした。
家業を立て直したいというせいの努力もむなしく、借金はかさむばかりでついに、1911年荒物問屋「箸吉」は廃業。

店がつぶれたと知ったせいの父は、家に帰ってくるように怒りますが、

「夫を助け、石にかじりついてでも成功させるんや!!」byせい

嫁いだ限りは、夫について行く!!それがせいの信念でした。
これからどうやって生きていくのか??
夫の吉兵衛が・・・「第二文芸館」の興行権を買いたいと言い出しました。
第二文芸館とは、大阪天満天神の裏手の路地にあった、150人も入れば満員のちいさな寄席でした。
この期に及んで何を呑気なことを・・・。
思ったものの、この夫と生きていくしかない・・・と、「お金は私が何とかします。」
こうして、1912年4月1日、「第二文芸館」の経営に乗り出します。
この興行権は300円、今の値段では150万円ほどでした。
お金のなかった夫婦にとっては大金でしたが・・・あまり高くありません。
天満界隈には、寄せが他に7件あり、過当競争状態で、弱小寄席の第二文芸館は赤字経営でした。

当時の上方演芸会は、落語が大人気で、寄せを満員にするためには、人気の落語家が必要でした。
場末の寄せには一流の落語家を呼べるほどのお金がありません。
色物の主演者は出演料が安いのですが・・・このままでは、勝てません。
そこでせいは、大胆な作戦に出ます。
安さで勝負!!
当時の平均的な木戸銭が15銭だったのに対し、第二文芸館はたったの5銭!!
価格破壊に乗り出しました。
せいは、激安の入場料でライバルに対抗しました。
人を雇うのも勿体ないと、自らお客の案内、お茶子までして身を粉にして働きます。
夫の吉兵衛は、大好きな寄席のために心を入れ替え泰三と名を改め、夫婦二人三脚で働きました。
寄せが損をするほどの木戸銭でしたが、成果をあげていきます。

安い木戸銭でどうやって儲けたのでしょうか?
150人ほどでいっぱいになってしまう会場に・・・座布団を限界までひきます。
150人で満席だったのに、200人まで入ることができます。
熱気で蒸し暑く、長居出来ないので回転率がアップ!!
プログラムを一巡したと見せかける工夫で寄席の回転率をアップ。
物品販売も・・・あられ、お煎餅などのどの渇きやすい食べ物を売って、飲み物の売り上げを伸ばしました。
せいはこうした売り上げで、木戸銭の安さをカバーしていきます。

「アイデアが道を開くもんなんや!!」

そして大ヒット商品が・・・ある夏に、帰る客を見て気づきます。
みんな喉が渇いている・・・
寄席の前にひやしあめを売ることに・・・。
氷の上で、冷やし雨の瓶をコロコロ転がしながら売りました。
よく冷えたパフォーマンスが大評判!!
通行人もひやしあめ飲みたさに買っていきます。
せいは、ひやしあめを買ったお客に、寄席を勧めます。

冬にはミカンを売ります。
お客が残したミカンの皮は、陳皮と言われる漢方の原料になります。
このお客の残した皮のを乾かして近所の薬屋に売っていました。

赤字だった第二文芸館を人気の寄せに育て上げたせいは、勢いに乗って事業を拡大。
上福島の「龍虎館」、松島の「芦辺館」、梅田の「松井席」、天神橋筋5丁目「都座」と、大阪の寄席を次々と買収。
それらは、全て端席・・・二流の小屋でした。

大阪の寄席や芝居の中心地「ミナミ」への進出を狙います。
1915年、そのチャンスが・・・!!
ミナミの一流の寄せ「蓬莱館」が経営難から売りに出されます。
蓬莱館の所有者が提示したのが1万5000円・・・現在の7500万円ほどでした。
交渉はせいの担当でした。
せいの交渉の末に、1万3000円で交渉成立!!
蓬莱館の買収に成功しますが、全て資金は借金でした。

「金は出すときには出すもんなんや」

ここが勝負どころと莫大な資金をつぎ込みます。

遂に手に入れたあこがれの一流の寄せ!!
泰三は新しい名をつけたいと落語家の桂太郎を訪ねます。
太郎は、芸では売れないものの占いは良く当たる!!
「花月」・・・花と咲くか月と陰るか・・・大勝負!!
新しい寄席の名は「南地花月」となりました。
それを皮切りに第二文芸館も「天満花月」、他の寄席にも花月の名をつけました。
1918年、せい夫婦は大阪市南区に自宅兼事務所を移転。
表には、吉本興業部・・・ここから、吉本興業の快進撃が始まります。
吉本せい、27歳の時のことでした。

上方の一流寄席・南地花月のオーナーとなり、南に進出したせいと泰三・・・
同じ南には、上方の一流寄席「紅梅亭」がありました。
このライバルに負けられないと、「紅梅亭」の木戸銭35銭に対し、「南地花月」は20銭に!!
しかし、南地花月に客が流れてくることはありませんでした。
紅梅亭には、なにわの爆笑王があがって人気を博していました。
彼の名は、初代桂春団治です。
古典落語にナンセンスなギャグを取り入れた話術が大うけで、お客は高い金を払ってでも春団治を見に紅梅亭にいっていました。

せいは打倒紅梅亭作戦を実行します。
ターゲットは稼ぎ頭・桂春団治!!
せいと泰三は、ヘッドハンティングを実行します。
引き抜きの話はせずに、春団治に金銭の援助をします。
春団治の浪費癖を知っていた二人は、いったん援助を止めます。
すると・・・お金の無くなった春団治の元へやってきたせい。
借金を肩代わりし、給料も払うという約束で、春団治を口説きます。
2万円の前渡金で借金を肩代わりし、月給700円という好条件で、吉本興業部専属契約に取り付けます。
1000円で家が1件たつという時代に・・・。
案の定、紅梅亭から南地花月へとお客がうつり、立場は一転。
1922年、吉本興業部が「紅梅亭」を買収。
その後も、大阪の寄せを次々と手中に治め、大阪演芸会のTOPとなるのです。
天満の第二文芸館を手に入れて、僅か10年のことでした。

大正時代、東京では浅草をはじめ、上野、神田、新宿などに寄せが立ち並んでいました。
多くの落語家が話芸を競っていました。
大阪の演芸会を制覇した二人の野望は、そんな東京の人気落語家を花月の高座に呼ぶこと。
そんな中・・・東京を未曽有の大地震が・・・関東大震災です。
44万戸の家屋が焼失し、寄せも壊滅状態で、東京の落語界が窮地に陥ったのです。

この情報は、大阪にいたせいを奮い立たせます。
せいの弟・木村正之助を東京に向かわせます。
18歳で吉本興業部に入り、下足番から修行を積んだ正之助は、支配人となり、せいの右腕として働いていました。
この時、せいが正之助に託したのは、200枚の毛布と大量の米。
東京に入った正之助は、落語家たちの避難先を訪ね、慰問品を配り歩きました。
するとこの行動が、東京の落語家たちの心を動かします。
東京の大物落語家が、吉本興業部を訪れて、花月の高座に上がることに・・・。
彼らの寄せはどこも大盛況で・・・せいの誠意が、東京の落語家を花月に呼ぶという夢を叶えさせたのです。
ところが・・・震災の翌年2月、夫・吉本泰三が脳溢血で倒れ、37歳の若さで亡くなります。
せいは34歳でした。

せいに残されたのは、30の寄席を手に入れるためにかかった借金・30万円でした。
それは、今の額にして30億円という莫大な額です。
二人の間の子供8人のうち4人を幼くして亡くしていました。

吉本を背負って立つ決心をし、弟・正之助と共に再出発を始めたのです。
時代は昭和へ・・・人々のライフスタイルも変わり、洋服が目立つように・・・時代の変化は寄席にも・・・
落語に代わり、漫才が人気でした。
1928年、吉本興業部所属の漫才師は48組。
時代の先を呼んだ正之助が、スカウトしていました。
落語家より漫才師が幅を利かせるようになった状況に、専属の落語家たちが不満を抱くようになります。
その不満に親身になって応えるせい。
せいの真心が、落語家たちの心を打ちます。

1930年、一組の漫才師が誕生します。
横山エンタツ・花菱アチャコです。
彼らの漫才は、革命的でした。
古典的な歌や踊りは全くせずに、しゃべりだけで笑わせるスタイル。
背広姿でネタも新鮮。
話題のニュースで日常会話風!!
このスタイルが新しい時代を生きる人々に支持されていきます。
その代表作が、東京六大学野球の「早稲田対慶應義塾」でした。

エンタツ・アチャコのしゃべくり漫才は、空前のブームとなり、吉本興業部は、益々業績を伸ばしていきます。
その勢いに水を差したのが・・・桂春団治ラジオ事件!!
春団治が、ラジオ番組にせいに内緒で出演!!
せいが怒ったのは・・・ラジオで園芸をタダで見せることは=寄席に人が集まらないということで、吉本興業の専属芸人はラジを出演を禁止されていました。
ところが、ラジオを聞いた人々は、生で春団治を見たいと寄席に押し寄せます。
そしてせいは・・・1932年吉本興業部は、吉本興業合名会社と名を変え、お笑い産業の雄として更なる発展を目指します。

仕掛けたのは・・・レコードです。
お笑いとレコードのメディアミックスで、落語や漫才のレコードを売り出すことで、日本の隅々まで吉本の笑い江を届けようというのです。これは、レコードを聴いた人が寄席に集まるという好循環を生み出します。
さらに、新聞!!
芸人の素顔や動向を記事にしてもらえば、広告効果抜群と、吉本興業自ら芸人のゴシップを新聞社に送っていたといいます。

そうして吉本の名が全国に知れ渡る中、戦争が・・・
1938年新聞社と連携し、「わらわし隊」を結成し、慰問品をもって、戦地へ赴き、兵士たちの前で芸を披露したのです。
わらわし隊が訪れたところはどこも笑いに包まれたといいます。
どんな時でも笑いは人々を幸せにする・・・せいは、それを実践していったのです。

明治の末期に立てられた初代通天閣をせいが買い取り、事業の再生を始めます。

「天下の太閤さんの次に高いところから町を眺められる。
 この景色を、大将に見せてやりたかった。」

せいは、泰三が亡くなってからも、心の中ではいつも二人三脚で歩んでいたのでしょう。
1950年、吉本せい 60歳で死去。
日本にもっと笑いを・・・その精神は、今も受け継がれています。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

“わろてんか”吉本せいの生涯 (サンエイムック 時空旅人別冊)

価格:979円
(2017/11/23 15:42時点)
感想(0件)

吉本せいと林正之助愛と勇気の言葉 [ 坂本優二 ]

価格:1,296円
(2017/11/23 15:42時点)
感想(0件)

伊勢神宮に仕える皇女・斎宮跡 (シリーズ「遺跡を学ぶ」) [ 駒田利治 ]

価格:1,620円
(2017/11/10 15:12時点)
感想(0件)



皇女の結婚 八十宮吉子
徳川将軍家に嫁ぐこととなったのは、霊元法皇の第13皇女八十宮吉子。
この時、僅か2歳でした。
江戸幕府史上最年少で将軍となり、まだ7歳だった徳川家継に嫁ぐこととなります。
当時は、皇女と武家である将軍が婚姻を結ぶことはあり得ない事でした。
というのも、皇女の結婚条件が厳しかったからです。
その条件とは??
皇女の結婚相手は、摂家か親王家の当主・相続者に限られていました。
摂家とは、公家の中で折衝や関白などの要職に任じられる最も高い家柄です。
五摂家ともよばれ、近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家がありました。
一方、親王家は、皇族の血筋をひく家柄で、江戸時代には、天皇の直系男子がいない場合、皇位を継ぐ者が選ばれる家柄です。
有栖川宮家・桂宮家・閑院宮家・伏見宮家があります。

そうした摂家と親王家のみが皇女の結婚相手で、武家などはもってのほかでした。
そのため、皇女・吉子と将軍・家継との話が持ち上がると、都中が騒然となったのです。

公家・一条兼香は・・・
「庶民がこの縁組を、未曽有のことと噂している」と書いています。
どうして慣例に反して未曽有の縁組が行われることとなったのでしょうか?
”院中何番衆所日記”には・・・
「八十宮が将軍家に嫁ぐ件は、幕府側の天英院と月光院からの依頼があり、本日決定した。」
とあります。
天英院は、家継の父である6代将軍家宣の正室で、月光院は側室で生母です。
当時天英院と月光院は大奥で対立していましたが・・・
家継が幼いまま将軍となってしまっていました。
幕府内の構図は、天英院+老中側、月光院+間辺詮房・新井白石に真っ二つでした。
優位に立っていたのは月光院派・・・
しかし、月光院たちは幼い将軍の権威が失われることを恐れていました。
そこで、幼い将軍に権威をつけようとしたのです。

奇しくも天英院派も権威の失墜を恐れ危機感から、朝廷の権威にすがろうとしたのです。
幕府の権威を守ることで一致団結した両派。
皇女が武家の将軍に嫁ぐ・・・前代未聞のことでした。
それができたのは、天英院だったのです。
天英院の実家は、摂政関白の義節家筆頭近衛家の当主である父・近衛基煕でした。
そして母もは後水尾天皇の皇女・品宮でした。
父が摂政関白、母が皇女・・・公家出身でもあり、天皇家の血筋でもあったので、朝廷とも強いパイプを持っていたのです。

霊元法皇の方も・・・
霊元法皇は、天皇から退いたものの当時、朝廷の最高権力者でした。

「将軍家との縁組は、公武合体のため珍妙に思うので、二歳である朕の姫君を江戸に遣わそう。」by霊元天皇

そう言って7歳の将軍相手に第13皇女・八十宮吉子を選びます。
この時、霊元法皇には思惑がありました。
それは、近衛基煕の権力を削ぐことです。
当時、基煕の近衛家は、五摂家の一つで最も名の知れた家でした。
基煕は、1677年に左大臣就任、1690年には関白に就任し、権勢をふるっていたのです。
さらに天英院の父でもあったので、六代将軍の岳父なので、朝廷内での発言も強くなっていました。
これを面白く思わない霊元法皇は、娘を将軍家に嫁がせることで、自分が将軍の岳父となって基煕を排除しようと思っていたのです。
そんな法皇の身勝手な行いに基煕は・・・
「この縁組は、末代にまで祟ることに嘆息するほかない」と、通常あってはならない行いに憤ります。
基煕は、徳川家よりも位が高いはずの天皇家の皇女が、将軍と結婚することは認めがたかったのです。
基煕の言い分は、朝廷の者として正当なもので・・・しかし、権力拡大に走る霊元法皇は、耳を貸さず・・・
独断でこの婚礼を決めてしまいました。
まだ2歳だった吉子は、幼い将軍の権威を深めたいという幕府の思惑と、邪魔者を追い落とし自らの力を拡大しようとする霊元法皇の思惑によって、将軍家に嫁ぐこととなったのです。

1715年9月23日、朝廷は、前代未聞の公武合体の婚姻を認めます。
この時、家継7歳、吉子2歳でした。
その翌年、老中・阿部正喬が」「納采の儀」のために京都に出発。
豪華な献上品が霊元天皇と吉子に送られます。
こうして吉子は正式に将軍の婚約者となりました。
まだ3歳のため、嫁げる頃までの御殿を京都に造ります。
幕府はすぐさま建設に乗りかかりますが・・・僅か2か月後の4月30日、徳川家継は8歳で亡くなってしまいました。
当然、婚約も解消・・・??
吉子のための御殿は中止されることなく・・・家継が亡くなった翌年に、吉子に幕府から500石が進上されました。
「納采の儀」が済んでいたので、朝廷も幕府も縁組が成立したと考えたのです。
そして月日は流れ・・・1726年、13歳となった吉子はお歯黒を施され、会うこともなく亡くなった将軍の妻として生きていくこととなったのです。
京都にある知恩院は、江戸時代に徳川の庇護が厚かった寺院です。
その中に建つ山亭は、吉子の暮らした御殿を移築したものです。
嫁ぐまでの間の仮住まいだったこの御殿で、再婚することも許されず、大好きな和歌を詠むことだけを楽しみに暮らしたのです。
その後、19歳で出家。
そして一度も会うことなかった夫・家継の菩提を弔いながら45年の生涯を将軍の妻として終えたのでした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

昭和天皇の妹君 謎につつまれた悲劇の皇女 (文春文庫) [ 河原敏明 ]

価格:637円
(2017/11/10 15:14時点)
感想(8件)

西域(シルクロード)から来た皇女 本当は怖ろしい万葉集2 [ 小林惠子(古代史) ]

価格:1,620円
(2017/11/10 15:14時点)
感想(1件)

和宮様御留新装版 (講談社文庫) [ 有吉佐和子 ]

価格:864円
(2017/11/8 15:55時点)
感想(0件)



今年9月3日、秋篠宮家長女・眞子内親王のご婚約内定に、日本中がお祝いムードに包まれました。
お相手は大学時代の同級生。
自由恋愛の末、内親王自らがお相手を選ばれたことで注目を浴びました。

今から100年ほど前の文久元年10月20日・・・
京都から絢爛豪華な婚礼行列が出発しました。
花嫁は時の孝明天皇の妹・和宮親子。。。嫁ぐ相手は、徳川幕府14代将軍徳川家茂です。
当時、1853年の黒船来航に端を発した攘夷運動によって、日本中が混乱!!
失墜した幕府の権威を朝廷の力をもって回復するという公武合体が進められました。
その象徴として、皇女和宮が家茂に嫁ぐこととなったのです。
天皇の娘である皇女が武家である徳川との前代未聞の結婚・・・。
中山道を進む花嫁行列は50km。
一つの宿場を通るのに、4日かったといいます。
その人数は、道中の警護も含めると、3万人、総費用は740億円といわれています。

和宮一行が江戸に着いたのは、10日20日に京都を出発してから11月5日・・・。
その翌年・・・1862年2月11日に婚儀が行われました。
慣れない江戸での暮らしにかたくなな態度の和宮でしたが、優しい家茂に次第に心を開き、二人は仲睦まじく家茂が亡くなるまで幸せに暮らしました。 

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

和宮 後世まで清き名を残したく候 (ミネルヴァ日本評伝選) [ 辻ミチ子 ]

価格:2,376円
(2017/11/8 15:55時点)
感想(0件)

幕末戦慄の絆 和宮と有栖川宮熾仁、そして出口王仁三郎 (祥伝社文庫) [ 加治将一 ]

価格:853円
(2017/11/8 15:56時点)
感想(0件)

【職人の魂を込めた本物手刷り作品】戦国武将Tシャツ( 伊達政宗・だてまさむね)【半】【Tシャツ】【国内送料無料】【和柄】【海外】【外国】【おみやげ】【土産】【プレゼント】【伊達】【オリジナル】【ロゴ】【歴史】【日本】

価格:1,620円
(2017/10/30 18:04時点)
感想(309件)



仙台藩初代藩主・伊達政宗

1636年・・・江戸幕府開府から33年・・・。
戦国大名として名を馳せた伊達政宗は死の床で・・・
「少年の頃から、旅田に死地を逃れてきたが、今のように畳の上で死ねるとは思わなかった」といったといいます。
政宗70歳・・・人生50年というには長寿でした。
長生きには工夫がありました。
1567年政宗は、出羽国米沢城で戦国大名・伊達輝宗の嫡男として生まれました。
幼い頃、重度の天然痘を患い・・・一命はとりとめたもののあばた顔・・・右目の視力を失います。
戦乱の世を左目のみで生き抜くというハンデを背負った政宗。。。
独眼竜の裏には、病に負けたという忸怩たる思いがありました。

政宗は18歳で家督を相続すると奥州を制圧し、その名を轟かせます。
1600年関ケ原の戦いでは徳川方につき勝利。
62万石を拝領し、仙台藩の礎を築きました。
そうして迎えた太平の世・・・政宗は考えていました。
この国を守り、維持していくために必要なのは、武力ではなく健康で長生きすることだ・・・と。

そして健康オタクへとなっていきます。
そんな政宗の健康法とは・・・??

健康法①運動
剣術、馬術はもちろん、川狩りが大好きでした。

健康法②清潔好き
大の潔癖症で、運動後汗をかくと身体を拭くという習慣がありました。
家臣たちにも身を清める心がけを・・・と、行水を奨励していました。
風邪や食中毒の予防対策が取れていたと思われます。

塩分に気を付けた食事をし、ゴマ、大豆をとることを心がけていました。
グルメでもあり、自分で料理を作って研究もしていました。
すんだ餅もその一つで、伊勢の赤福をまねて作らせたともいわれています。
日ごろから大量に水を取り・・・デトックス効果が期待されていました。

健康法③睡眠
昼寝をしていたようで、座ってではなく必ず布団を敷いて横になっていました。

健康法④推脈
極めつけが・・・独眼竜推脈・・・推脈は、現代の心電図を取り血圧を測る行為と同じで、政宗の診断は的確だったようです。
普段と違う脈が現れるとすぐに主治医たちを集め、カンファレンス・・・治療方針を立て、病気に備えていました。
病を未然に防いでいたようです。

しかし、そんな政宗にも死が・・・
1636年5月・・・仙台藩主として参勤交代で江戸へ・・・
その途中で立ち寄った日光東照宮で倒れてしまいました。
それでも病を押して江戸まで行き、ときの将軍・家光に拝謁します。
しかし、家光は・・・様子のおかしかった政宗の・・・仙台藩江戸屋敷へ奥医師を派遣。
すると、
「腹の張りがひどく、疲労していて食欲もなく、病状は大変悪いようでございます。」
5月24日政宗は、静かにその波乱に満ちた生涯を終えたのでした。
健康オタク政宗の死の原因は、喫煙でした。
タバコが日本に入ってきたのは戦国時代。
南蛮貿易の際に、万能薬という触れ込みでヨーロッパから伝わりました。
身体にいいと、大名からあっという間に庶民にまで流行します。
当然健康に気を遣う政宗も、1日3回、3服から5服・・・
タバコは吸い続けると、肺がん、食道がん、胃がん・・・政宗はタバコと共に、酒も。。。
喫煙と酒を同時に取ることで、食道がんや胃がんの発病率を高めていたのです。

みぞおちの痛みや吐き気に襲われていたという政宗・・・死の予兆があったのです。
政宗は、腹部の腫脹によって胸の下が117センチも腫れあがっていたといいます。
原因はタバコによる胃がんだったのです。
健康のためにと思っていたタバコによる大誤算でした。

仙台藩初代藩主・伊達政宗
病歴:なし
死因:胃がん
没年齢:70歳

でした。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

ずんだ餅 送料無料 20個入【ご自宅用】計1200g(5個入×4パック)【 お菓子 和菓子 詰め合わせ お取り寄せ スイーツ ずんだ餅 もち菓子 セット あす楽 送料無料 】

価格:3,672円
(2017/10/30 18:04時点)
感想(104件)

【仙台駅倉庫出荷】【常温・冷蔵商品】伊達の牛たん本舗牛たんカレー250g[東北 お土産 みやげ 東北みやげ][牛たん おつまみ 肴 グルメ おとりよせ お取り寄せ]

価格:1,080円
(2017/10/30 18:06時点)
感想(4件)

戦国武将シリーズ ウォッチ 腕時計 #5/6 上杉謙信 日本製ムーブメント使用

価格:2,500円
(2017/10/24 12:43時点)
感想(0件)



戦国大名・上杉謙信

戦国時代、最も有名な戦いの一つが川中島の戦い。
そこで、ライバル武田信玄と死闘を繰り広げた天下無双の戦国大名・上杉謙信。
その食生活はストイック。幼いころから寺で厳しい修行を行っていたので、大人になっても粗食を好み、肉を一切口にしませんでした。
「不識庵家中日用修身巻」では
”食事調菜 二種を過ぐるべからず”おかずは2種類以上取るなと粗食を薦めていました。

そんなある日・・・軍議の後、家臣たちと酒を酌み交わしていた謙信は、厠に立ちました。
ところが、いつまでたっても戻ってこないので、家臣が様子を見に行くと、謙信が倒れていたのです。
そしてその4日後、息を引き取りました。
検診の死因とは・・・??

死因①虫気説
検診の養子である上杉景勝が家臣に宛てた手紙には、「不慮の虫気」だったと書かれています。
虫気とは、寄生虫の病気で亡くなったとされていたのです。
厠に立ったということから消化器系の病気と判断したようです。
しかし、寄生虫は、最終的に排泄物と一緒に体外に出るので、現代の医学ではよほどのことがない限り寄生虫で命を落とすことはないとされています。

死因②梅毒説
梅毒は、戦国時代に大流行し、多くの戦国武将たちの命を縮めたといわれています。
梅毒トレポネーマという細菌が起こす感染症で、主に性交渉で広がります。
謙信は30歳の時に突然風毒腫・・・腫物ができ、これが徐々に悪化し、6年後には歩行障害を起こすほどになっていました。
その原因の一つとして考えられているのが梅毒なのです。
が・・・歩行障害を起こすのは第4期・・・第4期の症状には、ほかに認知症や精神障害も見られたはず・・・
しかし、これらが無いことから梅毒ではないと考えられます。

死因③脳卒中説
上杉家公式記録「謙信公諸御年譜」によると・・・
謙信は中風=脳卒中を患っていたというのです。
脳内出血、くも膜下出血、脳梗塞・・・謙信は、戦場でも度々軽い脳卒中の発作に襲われていました。
亡くなる8年前・・・1570年、41歳の時にも、脳卒中の発作を起こしていました。
命に別状はなかったものの、手に軽いマヒが残ったといわれています。
このように、度々脳卒中を起こした原因が・・・お酒でした。
大の酒好きだった謙信は、梅干し、みそなどの塩分の高いものを肴にお酒を飲んでいました。
しかし、この酒の飲み方が、病を引き起こします。
酒が原因とされる高血圧を発症し、塩分の多い酒の肴・・・さらに、過酷な雪・・・寒さで動脈硬化がすすんでいた。。。
謙信が倒れたのは4月ごろ・・・高血圧の謙信の血管は寒さで収縮し、動脈硬化で血液の流れが悪くなっていたので血が滞り、倒れたというのです。
脳梗塞で亡くなったと思われます。

戦国大名・上杉謙信
病歴:虫気、風毒腫
死因:脳梗塞
没年齢:49歳
でした。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

毘沙門天 上杉謙信 両面加工 zippo ジッポー 桐箱入 レーザー彫刻加工【送料無料】

価格:7,560円
(2017/10/24 12:44時点)
感想(1件)

和柄 ポロシャツ[順風]戦国武将シリーズ[毘沙門天]色:ブラック[上杉謙信]

価格:3,801円
(2017/10/24 12:45時点)
感想(0件)

このページのトップヘ