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カテゴリ: 追跡者 ザ・プロファイラー

犬と鷹の江戸時代 〈犬公方〉綱吉と〈鷹将軍〉吉宗 (歴史文化ライブラリー) [ 根崎光男 ]

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悪法・・・生類憐みの令を思い出す人も沢山いるでしょう。
この生類憐みの令を出した徳川綱吉・・・
江戸時代の黄金期”元禄時代”は、大衆文化が花開き、人々は太平の世を謳歌していました。
一方、地震や富士山の噴火など天変地異や、忠臣蔵で知られる討ち入りがありました。
そんな時代を治めていたのが、江戸幕府5代将軍・綱吉でした。
戌年生まれで、犬を保護したところから犬公方と呼ばれています。
15代に渡った徳川幕府史上最悪の将軍のイメージが・・・。
無能??恐怖政治??
しかし、実際の綱吉は、庶民の生活を一番に考え、福祉政策に力を入れていました。
当時、来日し、綱吉と対面したドイツ人医師・ケンペルは・・・
「綱吉は優れた君主である。
 法に厳格という点を除けば、憐れみ深い人物で、国民の気風にふさわしい方法で国のかじ取りをしている。」
そんな綱吉が、どうして悪名を残すことになったのでしょうか??

子供の健やかな成長を願う七五三は、もともと貴族の行事でした。
それが庶民の間に広まったのは、綱吉が子供のために行ったのがきっかけだったといいます。
綱吉の治世初期は天和の治と称賛されるほど優れていました。
どうして庶民に目を向けるようになったのでしょうか?
関ケ原から半世紀たった1646年、綱吉は3代将軍家光の4男として生まれました。
普通に考えれば、将軍になる立場ではありませんでした。
綱吉は、兄弟の中でも抜きんでて利発な子・・・しかし、家光は若干の懸念を持っていました。

「才能に任せて、心のままに行動すれば、思いのほか災いを引き起こすかもしれない。」by家光

当時、武士が学ぶべきは武道でしたが、家光はあえて学問を命じます。

「私は幼いころから武芸ばかりしていて、学問を修めなかったことが悔やまれる。
 この子は非常に賢いから、第一に学問にはげむように。」by家光

綱吉は、将軍になるべくして育ったわけではありません。
なので、長男・家綱は帝王学を学ばなくてはいけませんが・・・綱吉は学問をベースにしておけば将来的に役に立つだろうと・・・。

1651年、綱吉5歳の時に、父・家光が46歳で死去。
そして、長男・家綱が僅か11歳で4代将軍に就任。
この時、3男と5男はすでに亡く、次男・綱重と4男・綱吉はそれぞれ15万の大名に・・・。
綱吉は、母の影響を強く受け・・・母の桂昌院は家光の側室のひとりでした。
元々は京都の青果店の娘・玉で、庶民が将軍に見初められたことから、玉の輿の言葉の由来にもなっています。
当時、将軍家の人々は、庶民の生活の実情には疎く・・・しかし、綱吉は、母からいかに武家が優遇され、庶民が貧しいかを教えられながら育ちました。
通常、乳母に面倒を見てもらい、母親は直接関与しないことが多かった中、母として我が子に接するという庶民感覚があったのです。
教育ママ的要素もあって、綱吉は大きな影響を受けることとなります。
更に綱吉は、母の影響で、仏教を大切にし、能をたしなむなど文化にも強い関心を示しました。
武芸には一切興味なし!!でした。
将軍・家綱が、綱重と綱吉に馬を贈るものの・・・乗馬の練習に励む綱重に対し、綱吉は馬の絵ばかり描いていたといいます。

1664年、18歳で公家の娘と結婚。
しかし、子宝には恵まれませんでした。
1677年、31歳の時に側室・お伝が長女・鶴姫を、その2年後、33歳にはお伝が長男を産みます。
綱吉は、自分の幼名である徳松と命名。
この頃、綱吉を取り巻く状況は大きく変わりつつありました。
1678年兄・綱重が急死、家綱には子供がいなかったので、綱吉が次期将軍の最有力候補となったのです。
しかし、それに異を唱えたものが・・・大老・酒井忠清です。
病気がちだった将軍・家綱の元で、実質的な権力を握っていました。
家綱の死後も、権力を握りたいと考えていた忠清は、次期将軍に皇族の擁立を画策!!
学問にばかり打ち込む綱吉を・・・「天下を治めさせたもうべき御器量なし」と、言いました。
しかし、老中の堀田正俊が異議を唱えます。
「正しき血縁者である綱吉さまがいらっしゃるではないか」
結局、綱吉は後継者として認められることに・・・
1680年、34歳の時に兄・家綱が死去、綱吉は五代将軍になります。
綱吉は、自分の就任に反対した大老・酒井忠清を病気を理由に引退させます。
そして、自分の味方をした堀田正敏を大老に・・・。

1680年、34歳で思いもよらない将軍の地位に上り詰めた綱吉は・・・母から聞いていた厳しい庶民の生活に耳を傾けていきます。
そして、天和の治を実現させます。
幼いころから学民を学んでいた綱吉・・・当時、中心となったのが儒学でした。
そして、綱吉は儒学の古典の中に自分の理想を見出します。
それは、各藩の大名が領民を統治している当時の幕藩体制ではなく、慈悲深い絶対君主が統治し、その幸せに責任を持つというものです。
この実現のために・・・
悪代官を根絶・・・当時、年貢の横領などをする代官が少なくありませんでした。
そこで綱吉は大老・堀田正敏の名で”七か条の訓示”を出します。

 民は国の基本である
 代官たちは常に、民の辛さや苦しさを知り、決して民が飢えることのないようにせよ
 
綱吉は、不正をする代官を次々と免職・・・切腹させることもありました。
この頃から、民は年貢負担者から国の礎という考えに代わります。
これは、成人君主が民にも優しく接するという儒教の影響が大きく出ています。
大名にも厳しい姿勢で臨みます。
綱吉がとり潰した大名は、46件・・・他の将軍の時代をはるかに上回っています。
身内であっても見逃さない姿勢を、他の大名たちにも見せつけたのです。
恐怖政治的な側面も・・・恐れおののかせることで、将軍の権威を示し、将軍専制政治・・・将軍自身が前面に立って、政治の陣頭指揮に当たったのです。

一方、綱吉は、庶民の負担を軽減することに力を入れます。
父・家光が作った巨大船・安宅丸・・・維持費に莫大な費用が掛かると知ると廃棄。
初代家康を祀る日光東照宮への参拝は、取りやめに・・・。
そして、鷹狩りの廃止・・・鷹狩りは、支配者だけに認められた権力の象徴の重要な儀式でしたが、準備のために周辺住民は多大な負担を強いられていました。
次々と前例を無視する綱吉に、周りから不満の声が・・・。
綱吉は、
「自分は普通ではない状況の中で将軍職を継承した。
 よって、徳川の前例に従う必要などは感じていない。」
綱吉はさらに、特権階級となっていた武士の考えを変えようと試みます。
正月の恒例行事を、武芸の腕前を披露する「兵馬初め」から、儒学の書物を読む「読書初め」に変更。
家臣への褒美も、自ら儒学の講義をすることに変えました。

1683年、37歳の時、改革を進める綱吉に不幸が・・・
長男・徳松が僅か4歳で亡くなります。
さらによく年には、右腕の大老・堀田正敏が江戸城で若年寄に刺殺されてしまいます。
従来、老中・若年寄の部屋は、御座所の隣にありました。
ところが、この部屋で堀田が刺殺されたことで、御座所から離れた場所に置かれることとなります。
そこで、双方を繋ぐ連絡係として側用人が誕生します。
綱吉は、側用人を介することで、独裁的な政治を行うことに・・・。
更に綱吉は、側用人に、身分にかかわらず優秀な人物を登用。
従来、重要な役職は世襲となっていましたが、能力主義を導入したのです。
生まれより学識を重んじる儒教の考えがありました。

しかし、側用人の仕事は過酷で・・・
綱吉は朝早くから夜遅くまで仕事に打ち込むために、側用人のずっと仕事・・・。

「やるべき仕事があるときには、夜遅くても城に留まること。」by綱吉

結局、多くの者が体を壊してやめていきます。
そんな中、綱吉の期待に応えた側用人が柳沢吉保です。
僅か500石の武士でしたが、後に15万石の大名へと出世します。

「人はただ、まこと(誠・実)の二文字を忘れずば、幾千代までも栄ゆるなりけり」

綱吉は、よりよい社会実現のために、自分自身にも、家臣にも過酷な日々を課したのでした。

綱吉が将軍となった時、関ケ原の戦いからすでに80年経っていました。
しかし、当時にはまだ戦国時代の殺伐さが色濃く残っていました。
武家には”切り捨て御免”が認められ、刀の試し切りに何の罪もない庶民が殺されていました。
火事と喧嘩は江戸の華の通り、人の気性も激しく、生活苦から子供や病人、年寄りを捨てるケースも少なくありませんでした。
庶民の幸せを実現させるために、殺伐とした社会の変革を考え始めます。

「残酷さや心意気を良しとする戦国時代の古い生き方には、無慈悲な行いが多く、人の本来の道に背く」

戦国時代の遺風では、彩絵画成り立たない段階に来ていたのです。
綱吉は、その社会構造から脱却しなければいけないと思っていました。
多くの人々に意識改革をしてもらい、新しい社会を作っていこうとしたのです。

しかし、理想の社会の実現には、庶民の日常を統制することとなりました。

①華美な服装の禁止
綱吉自身も古く汚れた衣装を着続けます。

②肉食の禁止
戦国時代の武将たちが好んでいた肉食を綱吉は嫌っていました。

③飲酒の抑制
庶民でも酒が手に入るようになり、酔っ払いによる犯罪が増えていました。

いつしか、庶民のための政策が、庶民のささやかな楽しみを奪う政策となっていっていました。
綱吉が将軍となってから、抑圧した政治を行っています。
道徳を植え付けたいと意識改革を、一般庶民に求めたのです。
将軍が権威的で恐ろしいという側面を持つようになっていました。

1685年・・・39歳の時に打ち出したのが、”生類憐みの令”です。
生類憐みの令は、24年にわたる130を超える法令の総称です。
その対象も、犬、猫、馬、牛、取り、魚、虫・・・あらゆるものに及びます。
犬に関する法令が多いのは、当時の江戸の状況によります。
至る所で野良犬がうろつき、捨て子を食べたり、通行人を襲ったりしていました。
殺伐とした世の中を変えていくためには、野良犬対策は真っ先に取り組むべき課題でした。

しかし、ここでも綱吉はやり方を失敗します。
生類憐みの令の最大の狙いは、人々に慈悲の心を植え付けることです。
しかし、成果が上がらないことにいら立つ綱吉は、違反者に厳しい罰則を行っていきます。

馬に重い荷物を積んだりしないこと。
金魚は飼ってもよいが、飼育数を正確に報告すること。
子供、老人、病人を捨てることは禁止、そして捨てられた子供、老人、病人を見つけたら役人が保護すること。etc.

飼い犬はすべて毛色を記載し、飼い主を登録すること。
ケンカをしている犬を見つけたら、仲裁すること。etc.

遂には犬を殺したことで、切腹させらるる者も・・・
その結果、人々は犬に関わることを嫌がり、逆に野良犬が急増してしまいます。
止む無く綱吉は、東京・中野に「犬屋敷」を建設。
東京ドーム20個分の敷地に、10万匹の野良犬が運び込まれました。
犬たちには、1日米3合・みそ・魚が与えられ、費用は幕府の年間予算の1/8に及び、その負担は庶民にのしかかるようになります。
綱吉に対する不満が高まっていきます。

生類憐みの令で、人々の反感を買った綱吉・・・それでも30年近くに及んだ治世で、殺伐とした空気を変えていきます。
綱吉の時代に花開いた元禄文化・・・日本史上初めての町人文化です。
歌舞伎、浄瑠璃、浮世絵、俳句、天文学、古典研究・・・
その中に、綱吉がいかに空気を変えたのか・・・
浮世草子・伊原西鶴の作品にあります。
綱吉が将軍になりたての頃に書かれた”好色一代男”では・・・恋人との間の子を捨てることに罪を感じていません。
しかし、10年後の「世間胸算用」では、子供を捨てることは罪だということが色濃く浸透しています。
殺伐とした時代の空気を変えた綱吉・・・しかし、江戸幕府の公式記録「徳川実記」には、綱吉の政治は決して仰ぎ慕うようなものではないと書いています。
綱吉は無用な君主として語り継がれるようになるのです。
どうして酷評されることに・・・??
1701年、55歳の時に・・・人々の反感を買うことになることに直面します。
忠臣蔵一連の騒動です。
江戸城中で、赤穂藩主・浅野内匠頭が吉良上野介に斬りつけた・・・
浅野は切腹、赤穂藩はおとり潰しに・・・2年後・・・赤穂藩の47人の浪士が吉良邸に討ち入り!!
浅野の仇を討ったのです。
問題となったのは、47人の浪士をどう処分するのか??です。
綱吉自身も相当悩み・・・下した判断は全員の切腹でした。
藩主のために命を投げ出した武士の美学よりも、法に基づき命の大切さをとったのです。
しかし、世間の人々は、仇討を果たした赤穂浪士たちに同情します。
そして、綱吉への不満を募らせていったのです。
綱吉は、儒教の精神にのっとり「忠孝に励むように」と説いていましたが、忠孝に励んだ赤穂浪士たちが切腹を命じられるという状況・・・それは、一般の人たちの憂さ晴らしの格好の材料となりえたのです。

さらに、綱吉の評価を下げたのは、相次いだ天変地異でした。
1703年、57歳の時に関東で元禄地震発生。
1707年、61歳の時に東海で宝永地震発生。
その2か月後、富士山が噴火!!
江戸にも大量の火山灰が降り積もりました。
1708年、62歳の時に、京都で「宝永の大火」が発生。
町の中心地が焼け野原となり、皇居も消失しました。
こうした災害に対し、綱吉は被災者救済に全力を注ぎます。
しかし、世間の受け止め方は違いました。
度重なる天変地異は、綱吉が悪い政治をしたゆえの天罰だと考えたのです。
町には、綱吉を批判する落書きが溢れ、綱吉が地震で死んだというデマまで・・・。
綱吉自身の身の回りでも不幸が相次ぎます。
天変地異が続くさ中・・・1704年58歳の時に、長女・鶴姫が27歳で死去。
翌年には、母・桂昌院もこの世を去ってしまいます。
気難しくなっていく綱吉・・・。

晩年、はしかにかかった時に綱吉は、かかりつけの医師さえ寄せ付けず、自らの医学知識に基づいて薬を処方させていました。
一時的に回復の兆しが・・・しかし、このはしかが原因で命を落とすこととなります。
1709年1月9日、5代将軍徳川綱吉死去・・・享年63歳でした。

綱吉の死後、6代将軍となったのは、兄・綱重の息子・家宣でした。
そして、その政治を支えたのは、儒学者・新井白石でした。
白石は、新将軍・家宣に対する人々への期待を高めるために、晩年評判の悪くなっていた綱吉を徹底的に批判!!
生類憐みの令も、綱吉の死後僅か10日で、そのほとんどが撤廃されました。
しかし、捨て子の禁止や病人の保護など、福祉政策は引き継がれました。
その後、名君と名高い8代将軍吉宗も、綱吉の政治を参考にしたといいます。
晩年、綱吉の残した書が残っています。

tunayosi
「おもい よこしま なし」

政を司る人間はどう考えるべきか、
考えによこしまなもの・・・邪念が入ってはいけない、
将軍の務めを果たしていく上での心構えを書いたものです。

理想の社会を実現しようと奮闘した徳川綱吉・・・しかし、その名は、最悪の統治者として伝わることとなったのです。

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ショパン・・・ピアノの詩人と呼ばれています。
しかし、実際のショパンには、かけ離れた一面がありました。
ショパンの音楽には、喜怒哀楽・・・様々な感情が書かれています。
多くの人に親しまれているショパンの音楽・・・。
しかし、その人となりは、親しみやすいものではありませんでした。
極度の内気・・・人前に出るのが苦手、演奏会を断るほどでした。
優柔不断で決断力がなく、プライドが高く神経質・・・
若い女性との恋愛にことごとく失敗・・・裕福な年上の女性に甘えました。

ピアノの詩人と呼ばれるショパン・・・。
ピアノという楽器にこだわり独自の音楽世界を築き上げました。
どうしてそんなことができたのでしょうか?
1810年、ショパンはポーランドのちいさな村ジェラゾバ・ボラで生まれました。
その生家は当時を再現し、現在博物館として公開されています。
ショパンの父はフランス出身で、この村の領主の家で家庭教師をしていました。
母はその領主の遠縁にあたり貴族の末裔でした。
母は、家で良くピアノを弾き、歌も得意でした。
父はフルートを吹くことができ、いつも音楽で溢れていました。
1810年父がワルシャワの高校教師に・・・一家はワルシャワに移住します。
4歳の時、ショパンは母の影響でピアノを弾き始めます。
6歳の時には、音楽の家庭教師ジブニーからレッスンを受けるようになります。
しかし、ジブニーの専門はバイオリンで、ピアノはそれほど上手ではありませんでした。
そこでジブニーは基礎的な練習は行わず、バッハやモーツアルトを自由にひかせました。
ショパンは殆ど一人で学んでいるようなものでした。
しかし、この生活がショパンに大きな影響を与えます。
作曲に興味を持つようになります。
1817年7歳で最初の作品ポロネーズ ト短調を発表します。
ボロネーズは、ポーランドの伝統的な舞曲です。
ショパンは神童として、一躍その名を知られるようになります。
1823年、13歳で高等中学校に入学。
この頃にはすでに有名人となっていましたが、それを鼻にかけることなく、気さくに友達と付き合います。
物まねが得意で道化者になることも・・・授業中は先生の似顔絵ばかり描いていました。
ショパンは音楽以外にも、絵画や演劇などの才能を持っていましたが、自分が優れているとか、周りの人とは違うという気持ちは持っていませんでした。
多くの友人に囲まれて過ごします。
1824年、14歳の夏休みに友人の実家がある田園地帯に滞在します。
ここで農民たちが奏でる音楽と出会います。
ポーランドの舞曲・マズルカです。
これを機に、マズルカの作曲に積極的に取り組むようになります。
ポーランドの上流階級が好んだボロネーズ、農民たちに愛されたマズルカ・・・ポーランドを代表するこの音楽を生涯愛し、多くの作品を残すことになります。

1826年、16歳でワルシャワ音楽院に入学。
1829年、この学校を首席で卒業し、ウィーンへ演奏旅行に・・・。
そこで熱狂的に迎えられます。

「彼らは僕にビックリしている。
 僕の方も、彼らが僕にビックリすることにビックリしている。」

この成功を受け、父はショパンを世界で勝負させることに・・・。
しかし、本人は、ポーランドを離れることに不安を抱いていました。

「出発の日を決める勇気が僕にはない。
 ただ死ぬために、出発するような気がする。」

ショパンが旅立ちをためらうもう一つの理由は・・・コンスタンツィア。
彼が通っていた学校の声楽家の生徒でした。

「不幸なことに理想の人に出会ってしまった。」

しかし、内気なショパンは・・・

「この半年、一言も口をきかぬままに忠誠を捧げ、夢に見てきた。」

ある日教会で偶然目があいました。

「しびれを感じ、建物から走り出た・・・
 15分ばかりボーっとしたままで、何が起こったのかわからなかった。」

1839年、20歳で、様々な思いに引きずられながらポーランドを発ちました。
ポーランドを離れたショパンは、それまでとは全く違う激しい曲を生み出していきます。
「革命のエチュード」です。
どうして激しい曲を書くようになったのでしょうか?
1830年、20歳で・・・前年、熱狂的に迎えてくれたウィーンに。 
しかし、1週間で思わぬ事態に・・・
祖国ポーランドで革命が起こったのです。
当時、ポーランドはロシアの支配下でした。
その圧政に苦しむ人々が反乱を起こしたのです。
帰国して革命に加わるべきか・・・??
親友から説得されます。

「君は、戦場では役に立たない。
 自分の芸術に専念し、ポーランドの名を広めることが、銃をとるよりはるかに多くの事を祖国のために成しうる。」

結局、ショパンはウィーンに留まり、音楽活動を続けることに・・・。
しかし、期待は裏切られました。
この時、ウィーンではワルツが大流行!!
ショパンのピアノに興味を示す人はいませんでした。

ショパンは友人への手紙の中で、”ウィーンではワルツを芸術と呼ぶ”と、皮肉を込めて書いています。
”男女が躍る目的で作られたワルツは、趣味が悪い。
 ウィーンの人々は音楽を知らない”と、見下しています。

さらに、ウィーンではポーランド人に対して厳しい視線が・・・。
革命の影響が、自国に及ぶことを畏れたオーストリアは、ポーランドの動きを快く思っていなかったのです。

「ポーランド人を創造したのは、神様の失敗だ」byウィーン市民

ショパンは無気力といら立ちに苛まれるようになります。
作曲をすることもなく、毎日夜会に出かけては時間を潰しました。

「国を出てしまったことが呪わしい・・・
 サロンでは平静を装っているが、自部屋に戻ると鍵盤を叩きのめしている」

翌年・・・ポーランドの革命は失敗。
犠牲者は数万人に上りました。
「父よ 母よ 私の大切な人たちよ
 みんなどこにいるのだ?
 死んでしまったのだろうか?
 自分はどうして一人のロシア人さえ殺せなかったのか。」

革命の失敗は、ショパンの音楽に大きな影響を与えます。
激しさが加わったのです。
そして生まれたのが、「革命のエチュード」でした。
この出来事が、彼の人生の中でどれだけ大きかったか?
曲の変遷を見ているとわかるのです。

1831年、21歳の時・・・ウィーンで成功するのが難しいと思ったショパンはパリへ。
異国で頑張って成功することが、祖国の人の足しになれば・・・!!
切実な願いを持つようになりました。
当時、パリにはヨーロッパの名だたるピアニストが集まっていました。
ハンガリー出身のリストも・・・半年後、ショパンもようやく演奏会の機会を得ます。
しかし、暫くすると演奏会を断るようになります。

「僕は、公演には向いていない。
 聴衆に気後れさせられ、息ができないほどだ。
 好奇の目が僕を麻痺させ、居並ぶ他人の顔が言葉を奪う。」

ショパンの演奏は、とても繊細で音が小さかったといいます。
大きなホールでは、よく聞こえず、批判的な記事を書かれてしまいました。
知らない人の前では演奏したくないとも思っていたのです。

1834年、24歳の時、大きな決断を迫られます。
ロシア政府が亡命していたポーランド人に、大使館に出頭を要請してきたのです。
応じなければ、二度とポーランドに戻れなくなる・・・。
両親からは、素直に応じるように説得されます。
しかし、ショパンはこの要請を拒否。
その後、ロシア政府からロシア皇帝付きピアニストの名誉ある地位を提示されるものの断ります。

「革命には参加しなかったものの、私の心は戦う仲間と共にありました。
 私は自分を亡命者と見なし。それ以外の身分は有しないと考えています。」

26歳の時、ショパンは一人の女性と出会います。
ジョルジュ・サンド・・・ジョルジュという男性名で活躍する人気作家で、男装の貴婦人と呼ばれた人物です。
18歳で結婚し、二人の子供を設けたものの、夫を捨ててパリへ・・・。
そして、社交界に出入りし、詩人ミュッセ、作曲家リストらと浮名を流していました。
当初ショパンは、自由奔放に生きるこの6歳年上の女性に嫌悪感を抱いていました。

「なんて感じの悪い人だ・・・あれでも女なのか。」

ところがその後、ショパンは年上のサンドに甘えるようになります。
当時、ショパンは別の女性と婚約していました。
9歳年下のポーランド貴族の娘・マリア・・・かつての教え子でした。
しかし、マリアの母からある条件を突き付けられていました。

「健康的な生活をしてください。
 すべてはこのことにかかっています。」byマリアの母

この頃ショパンは、結核に侵され、大量の血を吐くこともありました。
それでもマリアの母の忠告を無視し、毎晩のように夜会に出かけていました。
結局・・・

「ごきげんよう・・・私たちの事をどうぞお忘れなく・・・」byマリア

ショパンは、マリアからもらった手紙をひとくくりにし、”わが悲しみ”と、記しました。
そんな矢先、ショパンはサンドと再会します。
サンドはショパンに言い寄ります。

「あなたは熱愛されている」byジョルジュ

そして、傷心のショパンは・・・

「ピアノに寄りかかって、抱くような瞳が私を包んだ。
 私の心は囚われてしまった。」

有名人同士の恋は、パリじゅうの話題となりました。
そこで二人は喧騒を逃れるために、サンドの二人の子供を連れてスペイン・マヨルカ島へ・・・
そこは楽園でした。

「トルコ石色の空、瑠璃色の海、エメラルド色の山、天国のような空気
 すべてがアフリカの方を向いている
 まさに極上の生活だ。」

しかし、天候が急変・・・連日の豪雨と耐え切れないほどの湿気でショパンは体を壊してしまいました。
小さな島なので、ショパンが結核だという噂はすぐに島中に知れ渡りました。
そして、借りていた家から追い出されてしまったのです。

ようやく見つけた引っ越し先は、山奥にあるさびれたカルトゥハ修道院でした。
ある日、サンドと子供たちが買い物に出かけました。
そこに、突然の嵐が・・・!!
夜になってもサンドたちは帰って来ない・・・
一人取り残されたショパンは、寂しさに耐え切れずに鍵盤を鳴らし続けました。
”雨だれ”です。

「彼は静かな絶望に陥り、涙を流しながら素晴らしい曲を弾いていました。
 あの日、止めに音を立てて落ちた雨のしずくは、彼の音楽の中で天から落ちる涙に変わったのです。」byサンド

ショパンは、このマヨルカ島で、初めて一人の女性と生活を共にしました。
大変な目にもあいましたが、そのおかげでサンドとの結びつきはより強いものとなっていきました。
結局、ショパンの体調不良によってマヨルカ島での生活は僅か3か月で終わりました。

落ち着いた先は、フランスのノアン。
サンドが祖母から受け継いだ広大な領地と屋敷がありました。
サンドはショパンが作曲に集中できるように気を配ります。
雑音がショパンに耳に聞こえないように防音扉にします。
ショパンはとても神経質な人でした。
床のきしむ音や、扉を開け閉めする音も嫌だったのです。

裕福なサンドに守られたショパンは、お金を稼ぐ必要もなく、自分の内面とひたすら向きあい始めます。
そして、名曲の数々が生れていくのです。

1843年、33歳・・・付き合い始めて5年がたっていました。
病弱なショパンとサンドの関係は、恋人から親子のような関係になっていました。
サンドは自宅に男友達を招いては、思わせぶりな態度に・・・
嫉妬心を募らせるショパン・・・。
そんな中、1846年、36歳位の時、サンドは小説の新作を発表します。
多くの恋人がいる女性と、彼女を悩ませる気難しい年下の男の話です。
そこには明らかにショパンに対する批判が込められていました。

サンドはストレスが溜まり、遂に嫌気がさしてしまったのです。
二人の関係をさらに悪化させたのが、サンドの子供達でした。
兄・モーリスは、自分から母親を奪ったショパンを心からよく思っていませんでした。
妹・ソランジュは、母と折り合いが悪く、反抗心からショパンに言い寄るように・・・。
いつしか、ショパン・ソランジュVSサンド・モーリスとなっていったのです。

そして、ショパン37歳の時・・・争いは頂点に達します。
ソランジュはサンドに家を追い出され、パリに滞在していたショパンを頼りました。
ショパンはソランジュのいうことを鵜呑みにし・・・。
サンドに手紙を送ります。

「ソランジュに関しては、僕も無関心ではいられません。
 いついかなる時でも、子供を愛するのがあなたに与えられた宿命です。」

この手紙を見たサンドは激怒!!

「母親を嫌い、中傷する娘に、今更母の愛が必要という資格はありません。
 彼女の方を信じるということでしたら、どうぞ尽くしてやって下さい。」byサンド

そして・・・もう一言・・・

「9年にわたる友情の日々に、奇妙な終止符が打たれることを、神に感謝したいと思います。」byサンド

その後、二人が連絡を取ることは二度とありませんでした。

1848年、37歳の時にパリで2月革命が勃発。
王政が崩壊し、音楽家たちの仕事が激減します。
そんな中、ショパンはピアノを教えていたスコットランド出身の姉妹からイギリス行きを進められます。
しかし、待ち受けていたのは、イギリス国内を転々とする過酷な演奏旅行でした。
ショパンは心身ともに疲弊していきます。

「作曲しようとしても、何もできない。
 意欲がないからではなく、肉体的な無理が原因だ。
 スコットランド人姉妹は、休む暇も与えてくれない。
 彼女たちは、人の好さで僕を窒息させる。」

7か月後・・・パリに戻ります。
起き上がることもできなくなっていたショパン・・・。
ある日、大量の血を吐いて、ポーランドの姉に手紙を書きます。

「どうか、僕の所へ来てほしい。
 お金がなければ、借金してでも来てほしい。」

1849年10月・・・ショパンは姉に看取られながら、39年の生涯を閉じたのでした。

別れてからも、サンドを思い続けていたショパン・・・。
一方、サンドはショパンの葬儀にさえ出向きませんでした。
ショパンの遺体は、パリの墓地に埋葬されました。
しかし、心臓だけは、遺言によって姉がポーランドに持ち帰りました。
心臓が安置された教会の柱には、こう刻まれました。

”あなたの大切なものがあるところに あなたの心もある”
 
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鎌倉幕府の滅亡から南北朝時代に至る歴史を描いた軍記物「太平記」。
楠木正成の生涯は、ここに書かれた晩年の5年以外はほとんどわかっていません。
正成は鎌倉幕府を滅亡させ、後醍醐天皇の建武の新政を実現させる原動力となった人物でした。
その戦い方は型破りなものでした。
当時の常識からは考えられない戦いで、僅かな手勢で大軍を翻弄します。

「知謀を用いれば、幕府軍など恐るるに足らない。」

まさに、戦の天才でした。
しかし、本人がどのような思いを抱き、何のために戦っていたのか?それは謎です。
突然、歴史の表舞台に登場して活躍しますが、実像は何もわかっていません。

かくたる資料の残っていない楠木正成・・・どのような立場の人間だったのでしょうか?
かつて正成は悪党と呼ばれる鎌倉幕府と対立した武装集団だと考えられてきました。
しかし近年、鎌倉幕府に仕える御家人のひとりとされています。
それではどうして幕府を倒そうとしたのでしょうか?

正成は、鎌倉時代末期の1294年?に、河内国に生まれています。
正成とゆかりのある河内長野の観心寺・・・少年時代この建物で、学問を学んでいたといいます。

この頃、人々の暮らしは困窮していました。
きっかけは2度にわたる元寇・・・御家人たちは、重い負担に耐え戦ったにもかかわらず、ほとんど恩賞を得ることはできませんでした。
その影響が、社会全体に広がっていました。
鎌倉幕府の執権・北条孝時は、政治に興味がなく、田楽、闘犬に興味を持っていました。
鎌倉幕府は、東国の武士を中心とした武家政権です。
組織の末端にいて、正成は、恩恵を受けていなかったのでは??
西国の武士である正成は、東国中心の幕府に不満を持っていたのではないか??
正成は、武士であるとともに土地の利を生かして商売をしていたようです。
河内は川と川に挟まれ、交易が便利なところでした。
運送業の元締めをやっていたと思われます。
城を持ち、兵士がたくさんいる鎌倉武士とは全く違う武士だったのです。
この頃、交易は人々にとって重要な収入源となっていました。
しかし、鎌倉幕府は関所を設け、税金を取ろうとしました。
幕府に対する人々の不満は募っていきます。
そんな中、打倒鎌倉幕府と挙兵したのは後醍醐天皇でした。
1331年、正成38歳の時、建武の新政!!
天皇が直接国を支配する体制を復活させるのが狙いでした。
謎だった正成の生涯も、ここからの5年間は多くの資料が残されることとなります。
河内周辺で名が知れ渡っていた正成は、天皇に呼び出されます。
この時、正成は
「天下統一を目指すには、武力と知謀の2つが必要です。
 知謀を用いれば、武力に強いだけの幕府軍など遅るるに足らないでしょう。」と言ったとか。
正成は、地域に閉じこもらず、京都(六波羅探題)に頻繁に出入りしました。
その中で、天下の動静をいち早くわかっていたのです。
「鎌倉幕府はもう長くはない・・・」と。
鎌倉幕府から寝返り、後醍醐天皇にかけてもおかしくはありませんでした。

幕府への不満を自分だけでなく、畿内・西国の武士や民衆がもっている・・・
そういう人たちが、正当に評価される新しい社会を望んでいたのです。

後醍醐天皇が挙兵したのは京都にある笠置山。
鎌倉軍はこれを取り囲むように・・・正成はその背後をつくかのように、地元赤坂城で挙兵しました。
しかし、2週間後には後醍醐天皇のいた笠置山が陥落!!
大軍が赤坂城へ・・・!!
対する正成の手勢は僅か500!!
幕府方はつぶやきます。
「哀れな敵の有様や。
 こんなにわか作りの城では一日も持つまいよ。
 楠木の首をとって恩賞に預ろう。」
それでも正成の軍は奮闘、相手を寄せ付けません。
そこで幕府軍は、城を包囲し、兵糧攻めに・・・十分な食料を蓄えることができていなかった正成・・・ついに、自ら城に火を放ちます。
しかし、これも正成の計略でした。
自害したと見せかけ、再起するための時間を稼ごうとしたのです。
かつて、後醍醐天皇に正成はこう宣言していました。
「合戦の一時の勝ち負けを重視なさらず、たとえ負けてもこの正成が生きている限り、天皇の御運は必ず開くと思っていただきたい。」

1332年・・・赤坂城の戦いから1年・・・再び楠木正成が歴史の表舞台に・・・!!
そして、ありとあらゆる戦術で鎌倉幕府軍を翻弄し、戦の天才を見せつけます。

戦術①偽装工作
正成の最初の狙いは、赤坂城の奪還でした。
目をつけたのが兵糧部隊でした。
正成は兵糧部隊を襲うと、俵に武器を隠し、相手から奪った武具を味方につけさせ、城から見えるところで兵糧部隊が襲われているふりを演じさせました。
城にいた軍は、味方が襲われていると救援に・・・偽の兵糧部隊は城内に・・・
兵糧部隊は、隠してあった武具で城内をかく乱!!
正成はあっという間に赤坂城を奪い返しました。
その後、周辺地域を制圧した正成は、1333年鎌倉幕府の出先機関・六波羅探題のある京都へ・・・。
知らせを受けた鎌倉幕府は精鋭部隊500騎を出します。
正成軍2000・・・。
相手の数の少なさを知った部下たちは真っ向勝負を主張します。
しかし、正成は・・・
「わずかな軍勢で攻めて来るからには、生きて帰ろうとは思っていないはずだ。
 そんな相手と戦ったら、味方の大半は必ず討たれる・・・。」
正成はすぐさま撤退。

戦術②心理作戦
夜・・・幕府軍のいる山々に何万ものかがり火が・・・緊張が走ります。
「正成の大軍に取り囲まれている・・・」
しかし、せめては来ませんでした。
翌日の夜、またもや何万ものかがり火が・・・。
さらに次の夜も・・・眠ること出来ない幕府軍は、疲労がたまり撤退していきました。
このかがり火は、正成は地元の農民5000人を動員して演出したものでした。

「優れた武将は、戦わずして勝つ」

苛立ちを募らせた鎌倉幕府は、正成を討つために大軍を送り込んできました。
正成は、金剛山にある千早城に立て籠ることに・・・
攻め寄せる幕府軍2万5000!!
これに対し、正成軍は僅か1000!!
1333年、40歳の時、千早城の攻・・・。
ここで正成は、今までの常識とはかけ離れたゲリラ戦を展開します。

戦術③ゲリラ戦
これまでの戦いは、「我こそは・・・」と名乗りをあげて一騎打ちをするのが常でした。
が、正成は真っ向勝負をしようとはしませんでした。
敵が攻め寄せてくると、弓で大量の矢を浴びせかけます。
相手が城にのぼろうとすると、丸太、岩を落とします。
更には、煮立った油や糞尿までも浴びせました。

自分の戦力は素人の戦力・・・素人が一番強いのがゲリラ戦だとわかっていたのです。
ゲリラは山岳地帯・・・身を隠しながら、敵の動きを封じて叩く!!
複雑な地形や道を選び、そこに敵を誘い入れ叩く!!
相手が警戒して敵が近づかなくなると・・・

「それなら相手を騙して目を覚まさせてやる!!」

戦術④だまし討ち
正成は夜中に大量の藁人形を城の外に出します。
城内の兵が打って出たと思った幕府軍は、猛烈な勢いで襲い掛かります。
しかし、そこに・・・大量の岩が・・・。
幕府軍は、止む無く兵糧攻めにすることに・・・。
ところが、一向に効果が出ません。
正成は、兵糧攻めに対して、万全の準備をしていたのです。

戦術⑤兵糧攻めへの対応
まず、水は城内に300の水桶を用意し、金剛山の隠された水源から十分に確保していました。
食糧は、山の抜け道を利用し、周辺の村々から調達していました。
やがて驚くべき事態が・・・幕府軍の方が飢え始めます。
正成が近隣の住民たちに幕府軍の補給部隊を襲わせたのです。
幕府軍の兵士たちは、戦意を失い、戦場を離れる者もあらわれました。
千早城の攻防が始まってから3か月・・・幕府は大軍を送り込みながら、僅か1000人の城を落とせずにいました。
この噂は、諸国を駆け巡り、幕府の権威を一気に失墜させることに・・・。
そして、幕府の有力御家人だった足利尊氏が反旗を翻し、京都の六波羅探題に・・・。
同じく、有力御家人だった新田義貞が鎌倉を攻めます。
こうして、鎌倉幕府は滅亡したのです。

鎌倉幕府が滅亡したのち、後醍醐天皇による天皇主導による政治が復活しました。
建武の新政です。
しかし、まもなく共に鎌倉幕府を倒した足利尊氏が後醍醐天皇に反乱を起こします。
この時、楠木正成は後醍醐天皇側につき、足利尊氏と対峙することに・・・。
どうして正成は、尊氏と対立する道を・・・??
正成は、下級武士であったにもかかわらず、河内・摂津を授かりました。
さらに、新政権の中枢を担うという破格の待遇でした。

「こうしてめでたく幕府に勝てたのは、お前が私の味方として戦ってくれたからだ。
 心から礼を言う。」by後醍醐天皇

「我々の力ではなく、全て天皇の徳によるものでございます。」by楠木正成

正成は、戦いで亡くなった味方を弔うために、慰霊碑を立てたといわれています。
さらに、敵の兵を弔うための慰霊碑も・・・。
しかも、味方の慰霊碑よりも大きいものにしました。

1334年建武の新政が始まりました。
後醍醐天皇は、綸旨を次々とだし、社会の改革を進めようとします。
しかし・・・それは、人々の期待を裏切るものでした。
一刻も早く天皇の権威復活を目指す後醍醐天皇は、天皇の暮らす内裏を造営・・・
その費用を賄うために、農民に従来より重い年貢を課すことに・・・。

「幕府が滅亡して暮らしが楽になると喜んでいましたが、今は昔より重い年貢や労役に苦しんでいます。
 自分たちの暮らしはどうなるのでしょうか?」

討幕に加わった武士たちも不満を募らせていきます。
公家に対して恩賞が手厚かったのに対して、武士への恩賞は僅かでした。
そして、従来所有の土地に対しても新たに綸旨が必要ででした。
結局、武士たちは、綸旨を求め天皇の元へ殺到!!
政府は混乱し、一度認められた土地が没収されることも・・・。
こうした中、社会は乱れ、御所の近くに落首が立てられるほど・・・。

この頃都にハヤル物 夜討 強盗 謀綸旨

後醍醐天皇自身が、手段は構わないので天皇の権威を再構築しようと綸旨を乱発し、結果的には綸旨の権威を失わせ・・・それは、天皇自身の政治的権威を失墜させることとなったのです。

1335年、正成42歳の時に、足利尊氏が、武士たちの不満を背景に後醍醐天皇に反旗を翻しました。
そして、京へと攻め上っていきます。
後醍醐天皇は、すぐに綸旨を出しました。

「足利尊氏たちが、反逆を企てているので、征伐されるべきである。」by後醍醐天皇

正成は、後醍醐天皇の言葉に従って、尊氏軍を迎え討つことに・・・!!
正成と一緒に戦った人たちは、家来ではなく仲間で、一方的に命令することはできません。
個人で判断できるなら、尊氏につくという選択もあったでしょうが、それは仲間を裏切る形となってしまうので、正成にはできませんでした。
尊氏は、与えられた時代の中で、自分の立場をよくわかっていました。
正成は、時代の中で何が自分に要求されているのか・・・社会との関係でものを考えるのではなく、自分との関係でものを考えていました。 
後醍醐天皇に反旗を翻した足利尊氏、あくまで天皇の味方をする楠木正成・・・二人の戦いが始まりました。
そして、正成は尊氏を追いつめます。
正成はあえてとどめを刺しませんでした。
九州へ落ち延びていく尊氏・・・。

楠木正成最後の戦いとなった湊川の戦い・・・
足利尊氏軍35,000に対し、楠木正成軍700!!
それは、死ぬことを覚悟した戦いでした。
どうして死ぬことを選んだのでしょうか?
尊氏を撃退した時、正成は不思議な光景を見ます。
敗走する尊氏軍に味方が追従していたのです。
戦いに勝利した正成は、後醍醐天皇の一つの策を進言します。
正成と共に後醍醐天皇に従っていた新田義貞を討ち取ったうえで、足利尊氏を召し出し和睦せよというのです。

「尊氏は、西国の武士たちを味方につけ、一月後には京都へ攻め上がってくるでしょう。
 その時は、彼らの進撃を止めるすべはありません。
 天皇の武士でさえ、尊氏について行ってしまいました。
 これを見て、天皇の徳のなさを思い知って下さい。」by正成

正成は、天皇に武士から尊敬を集める尊氏を、是非味方につける必要があると訴えます。
正成は、足利尊氏を人間的に評価していました。
だから、足利と組めと・・・足利を呼び戻し政権にいれれば、なんとか持ちこたえて、崩壊を免れると考えていたのです。
しかし、正成の進言が受け入れられることはありませんでした。
正成の予測通り・・・
1336年、正成43歳の時に尊氏が西国の武士を味方につけて、再び挙兵!!
この時、新田義貞の軍が兵庫で尊氏を迎え討つことに・・・。
そして、正成にも新田軍と戦うことを命じられます。
それではk地目がないと感じた正成は、別の案を提案します。

「尊氏軍は、これまでにない雲霞のごとき大軍でありましょう。
 そのため、新田を京都へ呼び戻し、天皇は比叡山へお移り下さい。
 そして、尊氏軍を空の京都へ誘い込んで、兵糧攻めにし、南北から挟み撃ちにすれば、勝利出来ましょう。」

しかし、天皇の側近の一人が言い放ちます。

「戦いもせぬうちに都を捨てて、比叡山に逃れることは、天皇の権威失墜につながる。
 これまでのこちらは大軍を退けてきた。
 それは武士の戦略によるものではなく、ひとえに天皇の御運が天命にかなっているからである。」と。

正成は、最後にこう言い残しました。

「この上は、異論を申すまでもありません。
 天皇は大敵を打ち破る策を立て、勝ち戦に導くというお考えではなく、討ち死にせよとのご命令なのですね。」

正成は、討幕戦の主力でありながら、尊氏が兵を進める際には新田義貞が総大将・・・。
その点で、排除されているという孤立感がありました。

1336年5月25日、正成は、湊川で尊氏軍と激突!!
3万5000の尊氏軍に対し、正成軍は僅か700!!
圧倒的な兵力の差にも関わらず、6時間もの間戦い続けたといいます。
そして正成は、生き残った70名ほどの部下と共に、民家に逃げ込みました。
最期の時・・・正成は共に戦い続けてきた弟に尋ねます。

「生まれ変わったら、何を望む?」

「七度生まれ変わっても、同じ人間に生まれ、朝敵を滅ぼしたい。」

「その望みは同じだ。
 すぐさま生まれ変わって、この願いを遂げよう。」

二人は、お互いを刺し合い果てました。
正成、43歳でした。

楠木正成、最期の戦いとなった湊川の戦い・・・
その直前、正成は共に戦いたいという正行に、地元・河内に帰るように命じました。
桜井の別れです。

「一族の誰でも生き残っている間は、命を投げ出して戦い、後代に名誉を残しなさい。
 それが、お前にできる親孝行だ。」

正成の死後、後醍醐天皇は奈良の吉野に逃れました。
これに対し、尊氏は京都で別の天皇を擁立。
二人の天皇が並び立つ、南北朝時代が始まります。
対立が続く中・・・南朝の後醍醐天皇崩御(1339年)。
そこに現れ、南朝のために力を尽くした武将がいました。
正成の息子・正行でした。

武家と天皇の狭間で死んでいった楠木正成・・・
その後の時代の移り変わりを、どんな思いで見つめていたのでしょうか?


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かつてチャップリンは、ある人物にこう語りかけました。
「私が拍手喝采を浴びるのは、私のしていることが誰にでも理解できるから。
 あなたが拍手喝采を浴びるのは、あなたのしていることが誰にも理解できないから。」と。
チャップリンがこう語りかけたのは、アインシュタインでした。
相対性理論で知られる天才です。
去年、2枚のメモが2億円余りで落札されました。
そのメモは、アインシュタインが東京のホテルに滞在中に、ベルボーイにチップ代わりに手渡したものです。
そのうちの1枚には・・・「意思のあるところに道は開ける。」とありました。

20世最大の天才と呼ばれたアインシュタイン・・・相対性理論をはじめとする様々な理論を打ち立てました。
スマートフォン、パソコン、DVD、カーナビ・・・こうした身近な製品にも、アインシュタインの理論が応用されています。
アインシュタインが数々の理論を打ち立てることができたのは従来の科学の常識を疑う姿勢にありました。
その出発点は、権威に対する反発でした。

「権威をむやみに尊敬することは、真理にとって最大の敵だ。」

しかし、相対性理論によって自らが権威となると、アインシュタインは最新の理論を認めようとせずに批判を浴びることに・・・。

「”権威”を軽蔑する私を罰するため、運命は私自身を”権威”にしたのだ。」

さらに、ナチスドイツに対抗する為に、アメリカ大統領に原子爆弾の開発を進言。。。
しかし、それが広島に落とされたとき・・・アインシュタインは言葉を失いました。
舌を出したアインシュタインの写真・・・これによって、愛嬌があってユニークなおじさんのイメージが定着しましたが、このポーズは「笑ってください」と要求したマスコミに対して苛立ちを示したもの?とも、神格化を否定したもの?とも、言われています。
そんなアインシュタインの原点となったのは、権威に対する反発でした。
どうしてそう思うようになったのでしょうか?

1879年、アインシュタインは、ドイツにあるユダヤ人家族の家の長男に生まれました。
一人空想にふけるのが大好きで、”退屈な神父”と呼ばれるほど無口な少年でした。

「私は言葉で考えようとはしなかった。
 まずは映像が浮かび、それを言葉に書き換えようとした。」

子供の頃、アインシュタインが熱中したのは、トランプで家を造ることでした。
14階まで作る集中力と粘り強さを持っていました。
科学に興味を持ちだしたのは5歳の時・・・
コンパスの針が常に一定の方をさすことに衝撃を受けました。

「物事の背後には、深く隠された何かがある。」

1885年、アインシュタインはユダヤ人でありながらカトリックの小学校に入ることに・・・。家が近かったからです。
しかし、ユダヤ人はたった一人・・・いじめにもあい、孤立します。

「自分がアウトサイダー(部外者)だと自覚するには、十分なものだった。」

アウトサイダーだと自覚したアインシュタインは、その後、自分の研究を進める時にも他のグループに参加したり、他の人がするようなことはせず、人と距離を置くようになりました。
それでも成績は良く、12歳の頃には独学で幾何学や代数学を学ぶほど・・・
そして、科学の本に熱中したことがその後の彼に大きな影響を与えます。

「科学の本を読むうちに、聖書の話の大半は真実ではないと確信した。
 この経験から、あらゆる権威に対し、疑いの目を向けるようになった。」

そんな思いに拍車をかけたのが学校の授業でした。
軍国主義的な授業が多く・・・

「学校の軍隊的な気風は、とても居心地が悪いものだった。
 特に、権力を崇拝し、組織的に行う軍事訓練には、不愉快だった。」

1894年・・・15歳で中学を中退。
独学で進学を目指すことに・・・。
1896年、17歳でスイス連邦工科学校入学。
学業が優秀な一方、日常生活はいつも上の空でした。
自分の家の鍵が思い出せないこともしばしば・・・
友人の家に泊まれば、スーツケースを忘れて帰ってしまう・・・

”あの男は大した人間にはならないよ・・・
 何も覚えられないんだから・・・”
 
必死に学んで入った学校でしたが、ここでも授業に失望します。
物理学の歴史ばかりが重視され、最先端の研究を扱っていませんでした。
結局、アインシュタインは学校をさぼっては、独学で最新の理論を学びます。

「大切なのは、個性を伸ばすことだ!
 個性的な人間だけが、新しいアイデアを生み出せるのだ」

しかし、自信過剰で我儘な態度は、教授たちの怒りを買い・・・それでも、アインシュタインは・・・

「権威をむやみに尊敬することは、真理にとっての最大の敵だ。
 生意気万歳!!我が守護天使だ!!」

1900年、21歳でスイス連邦工科学校を卒業。
そのまま大学で助手として働こうと思っていたものの、学生時代からの無礼な態度に教授たちは誰一人雇おうと間しませんでした。

「僕は突然、誰からも見捨てられた。」

何とか職を得ようと、ヨーロッパ各国の著名な教授たちに手紙を書きます。
「数理物理学者にご用はありませんか?」
一つも返事はありませんでした。
1902年、見かねた友人の紹介で、特許局に就職。
しかし、先輩からは・・・”仕事は退屈。最も身分が低い人間の勤め口”
損な境遇でも、相対性理論などの数々の論文を発表。
物理学の世界を一変させます。
どうして、下っ端の役人がそんな偉業を成し遂げたのでしょうか?

特許局で、アインシュタインに与えられた仕事は、特許の審査でした。
上司からは、”特許申請を受け取った時、「発明家はうそをついている」と思いなさい”と言われました。
特許局には、毎日何百もの申請が届くので、短時間でチェックする方法が必要でした。
つまり物事の本質を知ることで、とても重要な経験となりました。
もし、他の仕事をしていたら、相対性理論は考えられなかったことでしょう。
仕事に慣れたアインシュタインは、想像を膨らませることになります。

「知識より大切なのは、想像力だ。
 知識には限界があるが、想像力は世界を覆う。」

1905年、特許局の傍ら・・・
3月「光量子理論」
4月「分子の大きさの決定法」
5月「ブラウン運動」
6月「特殊相対性理論」
9月「質量とエネルギー」
物理学の常識を打ち破る理論を発表します。
この年は、奇跡の年といわれています。
中でも注目すべきが「特殊相対性理論」でした。
きっかけは16歳の時・・・
「もし、光と同じスピードで進めば、光が制止した状態を見られるのでは?」
アインシュタインは、思考実験を繰り返します。
そして、たどり着いたのが、特殊相対性理論だったのです。
絶対的なものと考えられていた時間や空間が、相対的であるとするものでした。

「自然は驚くべき成り立ちをしている。
 私たちの使命は、自然の中にある数学的な構造を見つけ出すことだ。」

1907年28歳・・・

「特許局の椅子に座っている時、突然ある考えが浮かんできた。
 それは、私の人生で最も幸福なひらめきだった。」

それは、「一般相対性理論」特殊相対性理論をより普遍化したものでした。
その後8年をかけ・・・
1915年36歳で「一般相対性理論」を完成。
そこで示されたのは、”質量があると空間がゆがむ”というものでした。
しかも、その歪みによって光さえも曲がってしまうという従来の常識を打ち破るものでした。
これまで実験や観測を重視していなかったアインシュタインも、実証されることを望みます。
1919年、40歳で皆既日食時に観測。
一般相対性理論によれば、太陽の向こうにある星の光は、太陽の周りの空間がゆがんでいることによって本来の一からズレて見えるというのですが・・・
観測の結果は、一般相対性理論の正しさを裏付けるものでした。

このニュースは、世界中を駆け回ります。
”人類の思想学の中で、おそらくもっとも偉大な業績だ。”
アインシュタインは、一躍その名を世界に知られることとなります。
一般相対性理論は、ブラックホールの存在を示唆するまで、今も宇宙の神秘を解明するうえで大きな役割を担っています。

お茶目で朴訥な印象のアインシュタイン・・・しかし、実際には、数多くの恋愛を重ねていました。
アインシュタインは18歳の時に恋に落ちます。
相手は、3歳年上のミレーバ・マリッチ。
物理を学ぶ仲間でした。

「可愛い博士を恋人にできて、僕はとてもうれしい。
 一緒に勉強するのが、楽しくて仕方がない。
 癒されるし、全く退屈しない。」

出会って5年、特許局の仕事を得たアインシュタインは、ミレーバと結婚。
二人の子供にも恵まれます。
しかし、意外なことから二人の間に亀裂が・・・。
1909年、30歳の時に、アインシュタインは特殊相対性理論が認められ大学准教授に。
この成功に対し、かつて一緒に物理を学んでいたミレーバが嫉妬するようになります。

「彼は真珠を手に入れた。
 私はその箱だけ。」byミレーバ

そんな中、アインシュタインは幼いころから仲の良かったいとこのエルザと再会します。
激しい性格のミレーバと違い、エルザは優しく、アインシュタインは慰めを見出していきます。

「誰か、愛する人が必要だ。
 そうでなければ、人生は悲惨なものになる。
 その誰かこそ、あなただ。」

それでも、アインシュタインは、ミレーバと離婚しようとはしませんでした。
子供達のためです。

「私は子供たちを失いたくはないし、子供達にも父親を失わせたくない。」

1914年、35歳の時に、ミレーバに結婚を続けるために条件を突き付けます。
「私の衣服と洗濯物は、きちんと整理されていること
 自宅で同席するのを控えること
 子供の前で、私をけなさないこと」

しかし、1919年、39歳の時に遂に離婚。
ミレーバにはこう約束しました。

「ノーベル賞をもらった場合、賞金はすべてあなたに譲ります。」

1922年、43歳でノーベル賞を受賞。
賞金の多くをミレーバに渡しました。

離婚したアインシュタインはエルザと結婚。
二人は生涯を共にすることになります。
しかし、その間、アインシュタインは何人もの女性と恋愛を繰り返し、エルザをあきれさせます。

相対性理論を発見したアインシュタインには、信念がありました。

「自然界は、単純で美しい数式で成り立つ」

しかし、この信念からアインシュタインは最先端の科学に異議を唱えるようになります。
彼を悩ませたのは、量子力学でした。
相対性理論が宇宙という広大な世界を扱うのに対し、量子力学は、分子・原子・素粒子などミクロ乗せkうぃお研究するものです。
現在物理の世界でが、相対性理論と量子力学が双璧を成しています。
アインシュタインは、量子力学の分野でも先駆者でした。
奇跡の年に、光の正体にせまる光量子理論を発表していました。
ところが、その後、アインシュタインは量子力学に疑念を抱くようになります。
特に問題としたのは、量子の世界では物事が不確定で確率的に決まる曖昧さでした。
自然界は、美しい数式で成り立っていると信じるアインシュタインはその曖昧さを嫌いました。

「量子力学は大したものだ。
 だが、私の心の声はまだ本物ではないと告げている
 神はサイコロを振らない。」

アインシュタインは、量子力学の理論の不十分な点を指摘しては、研究者たちに論争を挑みます。
しかし、これは、結果的に量子力学の発展に寄与することになります。
当時、最新の理論を認めようとしないアインシュタインの頑固さに対し、仲間の研究者からも・・・
「私はあなたを恥ずかしく思う」といわれたことも・・・。
アインシュタインは、自分が正しいという自信を持っていました。
過去に、他人が間違っている経験をしてきたので、いずれ時が証明してくれると信じていました。
そして・・アインシュタインは、宇宙という広大な世界を扱う相対性理論と、ミクロの世界を追求する量子力学を含む新しい理論を構築しようとします。
統一理論です。

「正しい方向に進んでいるのかさえよくわかりません。
 今の時代の人たちからすれば、私は異端であり、時代遅れの反動派なのです。」

アインシュタインは、亡くなるまで30年以上、統一理論に挑み続けます。
しかし、それが完成することはありませんでした。

第2次世界大戦が勃発する直前、アインシュタインはアメリカ大統領に、原子爆弾の開発を進言します。
しかし、彼はもともと熱烈な平和主義者でした。
どうして原爆の開発を進言・・・??
アインシュタインが35歳の時に第1次世界大戦が勃発。
この戦争で、戦車や戦闘機、毒ガスが登場。
科学技術の進歩が戦争の道具とされたことにアインシュタインは衝撃を受けます。
そして、子供のころからの軍国主義の反発から平和運動に力を入れるようになります。

「憎しみや破壊という気持ちが無くなるよう、人類を精神的に成長させることはできないか」

1930年、51歳の時にアメリカで演説!!
「2パーセント宣言」です。
訴えたのは、兵役拒否でした。

「戦争に動員される人のうち、たった2パーセントが兵役を拒否すれば、政府は力を失うだろう。
 とてもそれだけの人数を、刑務所にいれようとは思わないだろうから。」

2パーセントが兵役拒否をすれば、政府は戦争の遂行を諦めざるを得ない・・・と、いうのです。
しかし、アインシュタインは、兵役拒否を貫き通すことはできませんでした。
1933年、アメリカに滞在しているアインシュタイン53歳の時に、ヒトラーがドイツ首相に。
ユダヤ人迫害が始まりました。
ユダヤ人だったアインシュタインの財産は没収され、書いた本はすべて燃やされてしまいました。
そして、自分の首に5,000ドルの懸賞金がかかっているとのうわさも・・・。

「この首に、そんなに価値があるなんて、知らなかったよ。」

止む無く、アインシュタインはアメリカに亡命。
祖国の土を踏むことはありませんでした。
そして、今まで持っていた兵役拒否という考えを捨てることに・・・。

「いま、我々が直面しているのは、全く異なる事態です。
 ドイツは明らかに戦争を引き起こそうとしています。
 この現実から、目を背けることなどできません。」

1939年、60歳の時・・・
アインシュタインは、ある知らせに驚愕します。
かつて自らが見出した数式・・・E = mc2 ・・・この数式は、僅かな質量で、膨大なエネルギーを生み出す可能性を示唆していました。
しかし、アインシュタインは現実的には不可能だと考えていました。
ところが、ドイツの科学者が、この数式にのっとりウランに中性子をぶつけることで核分裂に成功したというのです。
ドイツが原爆を開発するという現実・・・。
アインシュタインは、仲間の勧めでアメリカ大統領に手紙を書きます。
それは、原爆の開発を進言するものでした。

「緊急の行動が必要な状況です。
 きわめて強力な新型爆弾が製造される可能性があります。」

この手紙を機に、原爆を開発する「マンハッタン計画」が始まりました。
しかし、アインシュタインが直接関わることはありませんでした。
政府は、亡命者であるアインシュタインに、国防的な機密を知られることを知られたくなかったのです。

1945年、66歳の春には、ドイツの敗北は明らかになっていました。
アインシュタインは、再びアメリカ大統領に手紙を送り、原爆開発の中止を訴えます。
しかし、この訴えが顧みられることはなく・・・
広島に原爆投下・・・それを知ったアインシュタインは、

「なんてことを・・・」

戦後、アインシュタインは、科学者が先頭に立って平和を実現しようという委員会を発足。
世界全体で核兵器を管理する体制が必要だと訴えます。

「第3次世界大戦が、どんなものになるかはわからない。
 だが・・・第4次世界大戦ならわかる。
 石合戦だ・・・!!」

終戦から3年、アインシュタインは、アメリカに来ていたある日本人を訪ねます。
日本人で初めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹です。
部屋へ来るなり、手を固く握って涙を流し、「罪のない日本人を殺すことになって申しわけない。」と泣いたといいます。
晩年、アインシュタインは、統一理論と核管理の実現にすべてを雪ぎました。
しかし、そのどちらも達成することなく・・・
1955年4月18日、アインシュタイン死去・・・76歳の生涯でした。

アインシュタインの葬儀は、驚くほど簡素なものでした。
参列したのは、家族や友人など僅か12人・・・遺言によって墓は作られず、遺灰は川へ・・・。
シンプルな美しさを追い求めたアインシュタインらしい最期でした。
若くして科学の常識を打ち破る大発見をしながら後半生は苦い経験をしたアインシュタイン・・・。
若者にこう残しました。

「戦争中、科学は人々に毒を盛りました。
 平和な時には、私たちの生活を忙しくしました。
 人間を機械の奴隷にしたのです。
 あなたが図形と方程式を解いている時、このことを決して忘れないでください。」


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20世紀初頭、フランスで発売された香水の名は・・・ミツコ・・・小説のヒロインにある日本人の名を取ったものです。
この香水が売りだされた頃、ヨーロッパでは同じミツコという女性が、社交界の華となっていました。
クーデンホーフ光子・・・黒い瞳の伯爵夫人とよばれました。
ドラマや舞台、漫画にも取り上げられてきたグーデンホーフ・光子・・・。
元々は町娘だった光子がヨーロッパ貴族と結婚・・・光子が嫁いだクーデンホーフ家は、広大な帝国を築いたハプスブルク家に仕える名門でした。
まさに、シンデレラストーリーです。
しかし、その結婚は、光子本人が望んだものではありませんでした。
夫と共に、ヨーロッパに渡った光子は戸惑います。

「私は若くて、何もわからないし、夫にとっては子供みたいなものだった。
 夫はまず、私を教育しなければならなかった。」by光子

それでも、7人の子供に恵まれ、幸せな日々を送っていましたが、突如夫が急死・・・。
光子は日本への帰国を諦め、子供たちを育てることに専念します。
一方、光子はウイーンの社交界で、黒い瞳の伯爵夫人と称えられます。
しかし、そんな華やかな日々も過ぎ去り、光子は孤独を深めていきます。
当時の国際結婚は年に10組あるかないかでした。
そんな時代に、町娘でありながらヨーロッパの名門貴族と結婚し、伯爵夫人となったのです。

1874年、東京府牛込区(市ヶ谷附近)で生まれます。
放蕩息子だった父は、家を追い出され、この町で小さな骨董店を営んでいました。
商売繁盛を願い、父は神と仏を大事にし、家には神棚と仏壇が10以上もありました。
光子は幼いころから、この神棚と仏壇の掃除やお供えを毎朝何時間もかけてさせられました。
その後、小学校を中退させられ、高級料亭「紅葉館」に奉公に出ることに・・・。
ここで光子は、厳しい礼儀作法、三味線、舞踊、和歌、生け花・・・いろいろ学びました。
16歳の頃には実家に戻り、店を手伝うことになります。
そこに現れたのが、ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵でした。
ハプスブルク家が支配するオーストリア・ハンガリー帝国の外交官だったハインリッヒ。
日本の古美術に興味を持っていました。
当時33歳だったクーデンホーフは、17歳だった光子に心を奪われます。
そして、来日して1か月も経たないうちに光子を妻とします。
1892年17歳での結婚でした。
光子は後に・・・
「美しい淑女たち、つまりパーティー好きの女性に対して、夫は反感を示しました。
 だから彼は、私が好きだったのです。
 私はバカで頼りなく、とるに足らない人間だったからです。」と言っています。
一方光子の方は・・・ハインリッヒに恐怖さえ持っていました。

「”紅毛で魚のような目をした白い鬼”だとばかり思っていた西洋人と結婚するなんて、死よりも呪いたいことだったのです。」と。。。by三女・イーダ

父親も公言していました。

「紅毛に娘をさらわれたとあっては、先祖に申しわけない」と。

しかし、実はハインリッヒから父に一生困らないほどの金が渡されていて、結婚に反対だと言ったのは、世間体の為でした。
光子は、父の命に背くことはできなかったのです。

「両親のために生き、両親のために死ぬということが大切なことです。
 日本では、両親は聖なるものです。」by光子

明治初期に、誰と結婚したいか聞かれた娘は非常に少なく、みんなどこかで決められ・・・大概は父親でした。
全く光子の遺志とは関係なく・・・父親はいくらお金があっても足りない人でした。
結婚してヨーロッパに来てからも、父親に仕送りをしていました。
突然西洋風の暮らしをすることになった光子を、ハインリッヒは優しく支えます。

カトリック教徒の夫は、毎週ミサに出かけました。
そして、ミサのあと、貧しい人に食料を配りました。
その行為に感動した光子は、自らもカトリックの洗礼を受けます。
光子は子供たちにこう書き残しています。

「パパが私に与えた最大の贈り物は、私をカトリック教徒にしたことです。」by光子

ハインリッヒとの暮らしの中で、光子は様々な体験をします。
日本での乗馬、朝鮮半島にも虎狩りに行きました。 
嫌な思いをすることも・・・ウラジオストクでは夫の趣味の刑務所見学も。。。
それでもハインリッヒに惹かれていく光子。

そして、19歳の時に長男を、よく年には次男を出産。
結婚から4年・・・思わぬ知らせが・・・
夫の父が亡くなって相続の手続きのためにヨーロッパに行かなければならなくなりました。

1896年、21歳の時、旅立ちに際し、外交官の妻として皇后に拝謁。。。
そして、こう声をかけられます。
「遠い異国に住めば、いろいろ楽しい事もあろうが、またずいぶんと悲しくつらいこともあろう
 しかし、どんな場合にも、日本人としての誇りを忘れないように。。。」by皇后さま
日本人としての誇り・・・光子はこの言葉を生涯心の支えとしました。

21歳の時、幼い二人の息子を連れて2か月の船旅でヨーロッパへ・・・。
船の上ではこれから使うことになるドイツ語の習得に励みます。 
途中立ち寄ったセイロン島で、光子は強い印象を受けます。
「見渡す限り、人も野原も色とりどりで絵のようにきれいです。
 しかし、この理想郷にも毒蛇がいて、黄熱病がある。
 世界に完璧なものはないとパパ(夫)が言っていたけれど、謙遜を知り、不平を言わないことです。」by光子

その後、ローマ法王とも謁見し、感銘を受けます。
「感動の瞬間が来ました。
 法王は、私は小さな子供でもあるかのように頭をなでてくださいました。
 涙があふれてきました。」by光子

1896年、21歳で夫の故郷・ロンスペルクに到着。
町をあげての熱烈な歓迎を受けました。
地元の新聞は、光子の姿を第一面に掲げ、ロンスペルクで類まれな祝宴が開かれたと書いています。
行列は、楽隊の演奏付きで、オーストリアと日本の国旗で飾られた道を通って進みました。
優雅な伯爵夫人は英語が得意で、すでに少しドイツ語を話すそう・・・。
クーデンホーフ家は、一日馬車を走らせても端から端までつかないほどの広大な領地を持っていました。
城での豪華な暮らしが始まりました。
が・・・光子にとってはすべてがプレッシャーでした。
そして、名門貴族の妻として恥じないように、ヨーロッパの歴史、地理、芸術などの教養を身に着けるべく必死に学びます。

そんなある日・・・夫はヨーロッパ貴族のたしなみである狩りに光子を連れて行きます。
しかし・・・光子は鹿が撃ち殺される光景に衝撃を受けます。
子供の頃、殺生を戒める仏教の教えに慣れ親しんだ光子には耐えられませんでした。

「日本の奈良では、鹿が自由に歩いているんです。
 無垢な動物を理由もなく撃ち殺すのは犯罪のようです。」by光子

光子の気持ちを知った夫は、二度と銃を手にしませんでした。
当初光子たちは3年ほどで戻るはずでしたが、不測の事態が・・・
領地を管理していた支配人の不正が発覚!!
その支配人を回顧するに伴って、夫が領地を管理することになったのです。
日本に帰るめどが立たなくなった光子でしたが、心のうちを見せることはありませんでした。

「絶望的なホームシックにかかっても、そのことをパパ(夫)には話しませんでした。
 心配させたくなかったからです。」by光子

その後、光子は次々と子供を産み7人の子の母となります。
しかし、子供達にはそれぞれの乳母や家庭教師がついているので、光子は8番目の子供のようにふるまっていればよかったのです。
子供達の方が、どんどんパーフェクトなドイツ語を話すようになっていく・・・そんなに学んでも付け焼刃な光子・・・。
光子がそれに満足だったか満足ではなかったのか?
光子はプライドの高い人だったので、自分の本当の気持ちを表せない・・・書き残してもいない・・・。

「お母さま、これはなんでしたっけ?」
光子は子供の質問に答えられませんでした。
それ以来、光子は家庭教師に頼んで子供の学習内容を予習。
十分に睡眠をとれない日々が続きます。
後に息子の一人は語っています。
「母は女王であり、そして奴隷であった。」と。

1906年、31五歳の時・・・日本を離れて10年、光子を突然の悲劇が襲います。 
夫が、46歳で、心臓発作で急死したのです。
光子を守っていた城壁が崩れ落ちました。

「一生忘れることのできない、恐ろしく悲しい瞬間でした。」by光子
 夫を亡くし、異国に取り残されることとなった光子・・・
夫の親族は、光子が帰国するものと考えていました。
しかし、光子はヨーロッパに踏みとどまる道を選びます。

光子は夫の日記に挟まれていた1枚のメモを見つけます。
そこには、こう記されていました。
”私の義務”
神を愛すること。
貧しいものを助けること。
光子を幸せにすること。
改めて、夫の愛を感じた光子は、子供たちを自分の手で育てようとします。
そこに立ちはだかったのは夫の親族たちでした。
広大な領地を相続することとなった光子の子供達・・・後見人を巡る訴訟を起こされました。
たった一人、孤立無援の光子は・・・皇后さまから賜った日本人としての誇りを胸に・・・
法律の勉強をします。
同時に、領地経営の知識も学んでいきます。
「意思があれば、すべてが可能です。
 意思があれば、世の中になすことができないものはありません。」by光子
そして光子は、3年近くに及んだ裁判に勝利します。
日本女性が一人、ヨーロッパにやってきて、上流階級の社会に入り、夫とは死別・・・
そして後に残った7人の子供・・・その7人を、物凄い勇気と義務感で育てました。
しかし、強い責任感から、子供達にも厳しくするようになります。

「優しくて忍耐強かった母は、厳格で専制的になった。」by次男リヒャルト

自分がどういう教育を受けたか、それ以外の教育は子供達に与えられない・・・
明治初期に光子が受けた教育をそのまま実行しようとしました。
それでもスパルタ教育は功を奏し、長男、次男共にウィーンの国内トプレベルの学校に進学します。
そして、長男、次男を支えるために・・・光子も1980年34歳でウイーンに移住します。
当時、ウィーンは、オーストリア・ハンガリー帝国の中心地で、ヨーロッパ屈指の都市でした。
その社交界に顔を出すようになる光子。
長男と次男を位の高い人々に売り込むのが狙いでした。
やがて光子は黒い瞳の伯爵夫人と称えられるようになります。

「優雅に美しく装い、快活で機知に富んだ母は、魅力的な花形で、社交界の中心的存在でした」by三女イーダ

そんな光子にプロポーズする男性もいましたが・・・すべて断り、エスコート役はすべて二人の息子でした。
30代半ばからの数年、光子は最も華やかな日々を過ごしました。
光子の7人子供のうち3人が博士号、2人が作家として活躍しました。
大成功に見える子育てですが・・・親子の間には、深刻な亀裂が・・・

1914年、40歳の時に第1次世界大戦が勃発!!
オーストリア・ハンガリー帝国と日本は対立していました。
光子はウィーンを離れることに・・・華やかな生活は終わりを告げました。
そして光子は、長男と三男の出征を見送ります。

「私は涙をこらえました。
 死ぬほど悲しかったです。」by光子

そんな中、19歳のリヒャルトが、13歳年上の離婚歴のある女優と結婚すると言い出しました。
激怒した光子は、リヒャルトを勘当!!

「兄の恋愛は、母の性格を変えてしまいました。
 戦争だというのに、家の事も考えずに結婚してしまったことは、保守的でしきたりを重んじる日本の女性にとって、理解しがたい事だったのです。」by三男ゲロルフ

次男に失望した光子は、他の子供たちにさらに厳しく当たるようになります。

1918年、44歳の時に第1次世界大戦終結。
ハプスブルク家の支配していたオーストリア・ハンガリー帝国は、敗北し、解体されます。
そして、クーデンホーフ家も、特権的な地位を失ってしまいました。
こうした中、他の子供達との間にも亀裂が生じていきます。
光子は、長男・ヨハネスの結婚にも反対しました。
妻・リリーは、自己主張の激しい女性だったのです。

「僕はもう、かなり前から成人している。
 此の事を、忘れないでもらいたい。」by長男ヨハネス

また、長女・エリザベート、三女・イーダは、女性には学問はいらないという光子の方針に逆らって大学に進学する為に、家を出ていきました。
光子もまた、ウィーン郊外へと移住。
傍に残ったのは、次女オルガだけでした。
光子は、ひっそりと暮らすようになります。

「あたり一面の華のじゅうたんがあるのに、私の周りは雑草や干し草ばかり。
 目の前の華のじゅうたんに私の手が届くことはないのです。」by光子

1923年、光子49歳の時に、次男リヒャルトが「パン・ヨーロッパ」の論文を発表。
第1次世界大戦の反省から、ヨーロッパ各国の連帯の必要性を説き、現在のEUの先駆けとなりました。
この思想が生まれたのには、自分のルーツが関係しているとリヒャルトは言っています。
「ヨーロッパの男性と、アジアの女性との間に生まれた子供として、国家的観念をもってものを考えないで、アジアおよびヨーロッパという大陸的な考えをしていた」byリヒャルト
この功績が称えられ、ノーベル平和賞候補に・・・!!

そして、光子はパン・ヨーロッパの母と呼ばれることに・・・。
「あの子のおかげで、”パン・ヨーロッパの母”と称えられるようになり、内心これを誇りに思っています。
 育て甲斐のあったことに満足です。」by光子

1924年50歳の時に、脳卒中で右半身にマヒが・・・
同居していた次女・オルガは、母の傍を離れられなくなってしまいます。
「お前は私の娘だが、また友達で、秘書で、家政婦で、看護師でもある。
 お前がいなくなったら、死んでしまう。」by光子

大学受験も、仕事も、結婚も叶わず、母の世話をし続けるしかありませんでした。
晩年、光子は望郷の念に駆られていきます。
日本語の本や新聞を読み、日本のレコードに耳を傾け、和歌を詠みました。

「年老いて 髪は真白になりつれど 今なお思う 懐かしのふるさと」

1941年8月、2度目の脳卒中の発作を起こした光子は、帰らぬ人となりました。
1941年8月28日・・・クーデンホーフ・光子永眠・・・67年の生涯でした。
日本を旅立ってから、再び祖国の地を踏むことはありませんでした。

現在光子は、ウィーン郊外に眠っています。
「ひつぎは日の丸で包んでほしい」そう言い残していました。
次男リヒャルトは、こう語っています。

「母の生涯を決定したのは、3つの理想
 すなわち、名誉と義務と美しさでした。
 母は自分に課された運命を、誇りをもって品位を保ちつつかつ優しい心で甘受していたのです。」

光子自身は次女オルガに・・・

「まるで終わりのない仮面舞踏会のよう
 あなたたちは、舞踏会の後、着物を脱ぐでしょ。
 私には、この”脱ぐ”ってことがなかったわ。」by光子


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