日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:上杉謙信

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もちろんこの副題は、「許されざる者」からきてるんだろうなあ・・・
ほんと、イーストウッドも渡辺謙も、格が下がっちゃうと思ってしまうんです・・・

遂に寿桂尼様が亡くなられたという大事件を回顧もしなく、徳川に味方するかどうかから始まってしまったおんな城主直虎です。
今川から離れようとする井伊・・・武田・徳川との戦を決意し、戦備えをしだした氏真でした。

そんな中今川で・・・
氏真から呼び出される方久・・・何を・・・??

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気賀に蔵を作ろうとしていた方久・・・。
蔵を建てることを認める代わりに、此度の戦に備え、井伊を直轄地にしたいとの事・・・。
そうね・・・どう考えても、井伊を潰そうとしているのよ、今川は・・・!!

そうでなければ、井伊に徳政令を出すと・・・!!

そして、今川からの提案には、井伊が滅んでも、方久には今ある土地の安堵状が・・・
逆らえば、どうなるのか・・・??
それは但馬の預かり知らぬ事・・・
そう、寿桂尼は、政次と直虎を同じ穴の狢だと思っていたのです。

どうする??方久??

先日、寿桂尼に呼び出された直虎でしたが、それは、内通の疑いのある者を洗い出すためだったと政次から聞かされる直虎。

「あれは・・・われは試されておったということか・・・??」by直虎

って、それって当たり前じゃないの??
ビシビシと緊張感のない今年の大河です
「考えすぎじゃ・・・!!」by直虎
で、終わっちゃったよ・・・


naotora2

















「うむ!!」というとっても芝居がかった返事をしながら直虎が方久の元にやってきました。

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直虎がやってきたことに、腹が痛くなったり、腰が痛くなったり、仮病の方久ですが・・・

こんな「うむ!!」etc.の三文芝居をいつまで見させられるのか・・・
ムロツヨシさんもなんだか白々しいなあ・・・。
あ・・・白々しいのは「うむ!!」by直虎からか・・・。

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蔵を建てると今川から連絡があったことは、政次も知らなかった模様・・・。

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今川の中で、政次の知らないことが増えて来たようです。

気賀に蔵を建てるのに、井伊に材木を頼まない方久を攻め立てる龍雲丸と政次!!

そして遂に、徳政令後の安堵状を龍雲丸に見つけられてしまいました

徳政令を出せば、今川は一兵も出さずに井伊を直轄地に出来る・・・!!

「徳政がどうであれ、井伊は取り潰されますよ。
 今川の目当ては井伊を直轄にすることですから・・・!!
 徳政なくとも、力を以て取り潰されるのがオチにございます・・・!!」by方久


そして遂に、井伊に徳政令のお下知が・・・!!??

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「こたび、徳政をはねつければ、力に訴えられましょう。
 かような形でのおとり潰しは、寧ろ今川の温情かと・・・おとなしゅうお受けになりますよう。」by政次

「勝手なことをほざくな!!
 銭で潰れたなど、末代までの恥さらしじゃ!!」by直之


どうする??直虎!!??

もし徳政令を受け入れたなら、井伊の兵は今川として戦うことになる。。。
その相手は徳川!!
しかし、井伊は徳川とすでに結んでいる・・・。


あえて井伊を潰したうえ、今川の懐に入る・・・
そして、関口の首をあげ、徳川に指し出せば、井伊は・・・。
井伊は蘇る・・・!!


農民たちは、関口様に、徳政令を受け入れたくないと直訴し始めました。

「此度、かつてわしらが出した願いが元で、ありがたくもご太守様が徳政令をお出す下さると聞きました。
 なれど、わしらは井伊様の御恩のおかげで・・・すでに徳政を願う気持ちはなくしておりますで。
 わしらは徳政令を望まんで。。。どうぞ、お聞き届けくだせい。」by甚兵衛

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「俺を信じろ・・・信じろ・・・おとわ・・・!!」by政次

ということで、寿桂尼様のように男勝りなおんな城主ではなく、お姫様のように周りの人(政次・龍雲丸・甚兵衛)が助けてくれるなんとものほほんとした城主な直虎です。

最近の時代劇は、こんな現実的な作品がいいのかもしれません。
映画でもそうですよね、現実的で、理にかなった作品が多いように思います。
個人的には冒険活劇が大好きなので、男らしい大きな作品を見たいんですが・・・あ・・・女主人公でした。

ま、細部にわたってきめ細やかに描いてくれていることは間違いないので、市井の人々の生活をじっくりと見ることができるのはいいかもしれません


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越後の龍・上杉謙信・・・語り継がれてきたその姿は、まさに英雄!!
生涯戦績70勝!毘沙門天の化身とされ、助けを求められればそれに応えどこにでも向かう!!
無欲にして義の武将・・・しかし、全く違う顔のあることが判ってきました。
その手掛かりが、上杉家に代々伝わる国宝・洛中洛外図屏風。
天才絵師・狩野永徳の作とされ、京都の風俗が絢爛たる色彩に書かれています。
その中・・・塗りの輿に乗って都大路を進むのが・・・一説に上杉謙信だと言います。
この絵を描かせたのは、時の室町幕府将軍・足利義輝。
越後の一大名と京都の将軍・・・二人の間に太いパイプが伺えます。
幕府再興のために上洛する謙信・・・これが、謙信の人生、戦国の世を大きく変えるターニングポイントでした。
この時、謙信が都でかわした契約書が残っています。
上杉謙信・・・その知られざる野望とは・・・??

1530年長尾景虎(謙信)は・・・越後守護代・長尾為景の子として生まれます。
1548年、父の死後、19歳で長尾家の家督を継ぎ守護代へ!!
直面したのは、国内の政治的混乱でした。
その頃の越後は、幕府が任命した守護である上杉定実を、守護代である長尾家が補佐。
強大な軍事力で民衆を押さえていました。
しかし、父・為景の死を好機と見た国衆の一部が反乱を起こします。
1550年には、上杉定実も死去。。。上杉家は断絶。
この非常事態に謙信が切り札としたのは、室町幕府でした。
謙信一行の姿が描かれたと言われる洛中洛外図屏風。
先頭の馬には毛織物製の豪華な嵓飾りが・・・本来、守護にしか使えないものです。
幕府はそれを謙信に与え・・・謙信は越後の主としての資格を得たのです。
それも、定実の死から二日後に・・・。

どうしてそんなことが可能だったのでしょうか?
謙信と義輝の間で暗躍していたのが、神余氏・・・京都在住の武士です。
この人物こそキーマンで・・・神余氏と契約を交わして、越後の代弁者として活動してもらったのです。
神余氏は、3代にわたって越後の特務機関として働きました。
貴族が主催する連歌の会や、酒宴にもぐりこみ、集めた情報を謙信に送っていたと考えられています。
謙信は、きわめて活発な諜報活動を行い、幕府との関係を築いていたのです。
幕府の権威を背景に、政治力をつけていく謙信・・・
将軍義輝が謙信に送った書状には・・・
太刀一腰と金子三千疋を受け取った・・・謙信は、金品や名馬などを贈り、義輝と親密な関係を結んでいたのです。
ではその費用はどのようにして賄ったのでしょうか?
謙信の中央工作を支えたのは、新潟県小千谷市・・・麻織物です。
青苧・・・木綿が一般的となるまでは、麻織物が珍重されていました。
謙信は、その栽培と生産を奨励し、越後に巨大な繊維産業を作り上げました。
越後上布・・・京大坂の商人は越後を訪れ、競うようにして青苧を買いました。
それこそが謙信の狙いでした。
謙信が領内に出した触書には・・・
”青苧座の船は、積荷の量を調べ税を課す”
青苧を越後の外に出すという行為に、税をかけたのです。
生活に欠かせない繊維の流通を押さえ、巨大な富を得た謙信は、その富で中央工作を行い、越後支配を盤石なものにしたのです。

しかし・・・1553年・・・謙信が頼みとする将軍・足利義輝が京都を追放されてしまいました。
黒幕は三好長慶・・・近畿から四国にかけて13か国を支配していた大大名です。
三好長慶は、将軍を上回る実力を持つと西欧諸国にも認められていました。
この都での政変・・・上洛し、・三好を屠殺すべし・・・
1559年謙信は越後を発し上洛・・・その数五千!!
軍事力を背景に将軍家の復権を図る!!
謙信・・・起死回生の賭けが始まりました。

北陸道を西へ向かい京を目指す謙信と五千の兵・・・
領内を通過する大名に根回ししていたので、道中は非常に順調・・・
中でも三好の専横に反発する朝倉義景、六角承禎からは盛大にもてなされ、三好討伐の意を新たにします。
4月27日、上杉軍上洛!!
ところが・・・驚くべき知らせが・・・!!
甲斐の武田信玄が信濃に軍事行動を開始した!!というのです。
当時、甲斐の国主となっていた信玄は、徐々に領土を北に拡大し、謙信とは川中島で3度戦っています。
謙信上洛に当たっては、将軍・義輝が仲介し、両者は和平を結んでいました。
信玄は、一方的にそれを破ったのです。
このまま京で三好を討つのか??
領国に戻り、武田の侵攻に備えるのか・・・??
どうする??謙信!!

越後防衛策・・・??
しかし、信玄は謙信が帰国をすることは想定内。
この頃都では、謙信が帰国を望んでいるとの知らせを聞いた将軍が謙信の忠節に疑いを持ちはじめたという噂が・・・広がっていました。
一説には、背後には信玄の情報工作があったと言われています。
このまま帰国すれば、その信頼を完全に失ってしまう・・・。

京都制圧策・・・??
朝倉、六角の大名は、幕府支持の思いが強いので、三好に対抗できる・・・??
進むべきか退くべきか・・・??

思わぬ人から第三の選択肢が・・・!!
関白・近衛前久・・・姉が将軍義輝に嫁いでいることから、両者は親密な関係にありました。
前久は、幕府が弱体化し、大名達が勝手に領地を奪い合っていることを憂いでいました。
そんな折、幕府の危機を救うために上洛した謙信の行動は、前久を動かしたのです。

そして・・・京都近くの近江坂本で二人は密会・・・
この時、前久が謙信に渡したのは、自らの血文字の誓いの文書・・・

”才覚の及ぶ限り、心から馳走いたす”

便宜を計って、関東管領職を継承できるようにお膳立てを・・・というのです。

関東管領は、関東公方(足利氏)に次ぐ関東のNo,2の役職です。
しかし、当時、その秩序を脅かしていたのが関東の北条氏康でした。
北条氏は、早雲以来、その勢力を北に伸ばし、上野にまで及んでいました。
時の関東管領・上杉憲政は、越後へ逃亡!!謙信に匿われていました。
前久は、その地位に謙信をつけようとしました。
「密事は決して他言いたしません。」by前久
密事とは・・・??
関東の軍勢で上洛し、三好、松永を一掃し、京都の政治も一気に掌握!!
東国と畿内から、戦国の時代を変えていこうとしていたのです。
謙信が東国支配の要として幕府を支えるというものでした。

これが関東進出策・・・??
しかし、武田に加え、北条と戦うというのは、これまでの小競り合いではなく大戦になる・・・!!
越後に戻る??都に残る??関東を平定し再び京に戻る・・・??

関白・近衛前房との面会から5日後・・・謙信は将軍義輝と面会。
この時、義輝から下された御内書に・・・謙信の関東管領内定が・・・!!
謙信は、関東進出策を選びました。
そしてその効果は絶大!!
越後だけではなく、信濃などの周辺領主が、謙信に祝いの太刀を献上。
中には、武田にいたはずの真田家も・・・!!
一旦帰国し、関東に乗り出す・・・しかし、武田、北条の二正面作戦はいかにも分が悪い・・・
しかし、謙信には秘策が・・・!!
甲府市勝沼・・・周囲に堀をめぐらせた要塞が・・・要塞の館の主は、信玄のいとこにあたる勝沼信元。
親族衆筆頭として本家に次ぐ軍事動員力を誇っていました。
甲陽軍鑑には・・・勝沼五郎殿内通・・・謙信は、信元への裏切り工作を進めていたのです。
信玄の信濃進出の留守を狙い、信元が本拠地の甲府を襲って、新上杉政権を樹立し、背後から信玄を襲う策略でした。

万全の手配りを終え・・・
1560年8月関東へ出陣!!
北条氏の支配に不満を持っていた人々は、謙信の元へ馳せ参じ、その数11万!!
圧倒的な戦力を誇る連合軍は、各地で北条を撃破!!
1561年3月には、本拠地小田原城を包囲!!
一方氏康は、ゲリラ戦を展開し、戦況は膠着状態に・・・!!
3月・・・謙信は鶴岡八幡宮で、正式に関東管領に就任。
東国からの幕府再興に向けての第一歩でした。
しかしその帰り道、事件が起こりました。

甲陽軍鑑には・・・
忍の成田長泰がかしこまっていると・・・謙信が他の者より図が高いと言って、持っている扇で顔を二回打った・・・余りに屈辱に、成田は謙信に無断で帰国!!
他の武将も、ことごとく陣を引き払ってしまいました。
11万の大軍が・・・空中分解してしまったのです。
原因は、謙信と諸将の意識の差にありました。
彼らは謙信の家臣ではない・・・と、思っていたのです。
さらに背後で予期せぬ事態が・・・
勝沼信元の裏切りが発覚!!成敗されてしまいました。
信玄は、上杉軍を信濃から追い出すべく、進攻を開始!!
越後攻略の起点となる海津城の整備を始めました。
本国を襲われかねない事態に、関東攻略を諦め、越後へと帰国・・・。
再び関東を攻略するためには、信玄を討ち取るしかなくなってしまったのです。

1561年9月10日、両雄は4度川中島にあい見えました。
第4次川中島の戦い・・・上杉軍は、信玄本陣めがけて正面突破を敢行!!
信玄の弟・信繁を討ち取る大戦果をあげます。
残るは、信玄ただ一人・・・!!
謙信が自ら信玄に斬りかかったのがこの時です。
しかし、あと一歩まで追いつめたとき・・・武田の別動隊が、救援に来たのでした。
戦況は逆転、謙信は軍を退かざるおえなくなります。
関東進出策は、ここに潰えたのです。

1565年5月・・・時代が大きく動きました。
将軍義輝が、三好一族によって暗殺されたのです。
1566年3月・・・謙信の元に、一通の書状が・・・差出人は、義輝の弟・義昭!!
「上洛し、幕府を再興する手助けをしてほしい」・・・と!!
しかし、武田と北条の泥沼の戦いをしていた謙信に余力はありませんでした。

1567年、義昭を奉じて京都に入ったのは・・・尾張の新興大名・織田信長でした。
信長は、都から三好の勢力を一掃!!
義昭を将軍に就け、室町幕府再興を果たすのです。
再び幕府の権威の元、秩序ある時代が来るのだろうか・・・??
しかし、信長の行動は、謙信の想像をはるかに超えていました。
1573年、信長は義昭を都から追放!!
200年以上続いた室町幕府は終焉を迎えるのです。

信長許すまじ!!

1577年9月、謙信は、加賀国・手取川で織田軍と激突!!
上杉軍は1000人以上討ち取る大勝利を挙げます。
謙信は、家臣に書き送っています。
「この分では天下への道も容易いものだ。」と。

信長にとって代わって、幕府を自分が支える・・・
謙信は、そんな道筋を見据えたのでしょうか??
しかし、1578年3月9日・・・春日山城で出陣の準備をしていた謙信は、突如発病!!
4日後にこの世を去るのです。
1578年3月13日、上杉謙信死去・・・享年49歳でした。
新潟県上越市にある上杉氏の菩提寺である林泉寺・・・
謙信自ら筆を取った言葉が残されています。
「大夢」・・・人生は夢幻のようだという仏教の無常観を表しています。
人生は夢のごとし・・・しかし、謙信は一途にその夢を生きたのかもしれません。



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決戦!川中島

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長野県北部に位置する盆地・善光寺平・・・
今から450年ほど前、戦国最強と謳われた二人が刃を交えました。
甲斐の虎・武田信玄と越後の龍・上杉謙信です。

12年間、5回にわたり激突した川中島の戦いです。
どうしてこの場所で5回も戦わなければならなかったのでしょうか?

武田信玄は、1521年武田守護・武田信虎の嫡男として生まれました。
21歳の時に、悪政をしいていた父を追放し権力を握ると・・・隣国信濃に割拠していた国衆を攻略し、信濃のほぼ全域を手中に納めました。

信玄から遅れること9年・・・春日山城で・・・
1530年越後守護代・長尾為景の末子として生まれます。
19歳で家督を相続すると、混乱していた越後を瞬く間に混乱していた越後を瞬く間に統一。
そんな中、信玄と謙信の運命を変える川中島の戦いが・・・!!

きっかけは・・・
1553年4月春日山城に、北信濃の国衆・村上義清がやってきて・・・
「信玄に我が居城を落とされたので、援軍をお願いしたい。」と言ってきたのです。
当時の信玄・謙信の唯一の緩衝地帯・北信濃は、勢力の小さい国衆・・・村上家・島津家・高梨家・・・が治めていました。
代々上杉との結びつきが強く、反武田としていました。
信玄の侵攻に、上杉を頼ってきたのでした。
義の男・謙信はこれに応じます。
しかし、この時、謙信にも信玄の侵攻を食い止める必要がありました。
越後、春日山を守るために!!
春日山城から川中島までは、直線距離で僅か50km。
北信濃を信玄に取られてしまうと、春日山城も危機に・・・!!
もう一つ互いが争う原因は、善光寺にありました。
善光寺は、川中島の戦いの場となった盆地の中にあって、この寺を支配することが戦のもう一つの目的でした。
善光寺は無宗派なので、一生に一度は善光寺参りと言われるように、全国から人々がやってくる経済の一大拠点だったのです。
善光寺を支配するということは、庶民に対して大きなアピールとなり、また、経済的にも大いに潤うという事なのです。
1553年8月、上杉謙信出陣!!
迎撃するために信玄も出陣!!そこが犀川と千曲川の間にある川中島だったのです。
12年間、5度にわたる戦いが幕を開けました。
この時信玄33歳、信玄24歳でした。

第1次川中島の戦い
両軍は、川中島で小競り合いを演じますが、上杉軍が優勢となると信玄は、塩田城に撤退し、籠城してしまいます。
川中島一帯を支配下におさめた謙信は、ひと月ほどで兵を引き上げていきました。
最初の戦いは、謙信の勝ちのような形となりました。

第1次の戦いで、川中島一帯の支配権を取られてしまった信玄は、侵攻を諦めたわけではありませんでした。
1554年駿河・今川義元、相模・北条氏康と三国同盟を結び、南の安全を万全に確保すると、北に!!
危機を感じた北信濃の国衆・高梨政頼、村上義清が謙信に助けを求めます。

1555年7月、謙信と信玄は、犀川を挟んで対峙することに・・・!!
第2次川中島の戦いです。
しかし、この2度目の戦いも小規模でした。
半年間にらみ合いを続け・・・この朝廷に乗り出したのが、今川義元でした。
義元は、境界を犀川と定め、武田がすでに攻略していた土地を返還するという信玄にとっては不利な条件で和睦させます。
武田軍の補給がこれ以上続かず、戦をすることが出来なくなっていたのです。

1557年、第3次川中島の戦い
信玄がこの講和を破ります。
信玄の動きを知った謙信は、北信濃に出てきます。
川中島で戦いますが・・・この時も、信玄は積極的ではありません。
謙信にけしかけられるも応じず。。。しびれを切らした謙信は、4か月後越後に帰っていきました。

どうして3度対峙するも小規模だったのでしょうか??
それは、戦の発端です。
謙信は、あくまでも助けを求めてきた国衆たちのために出陣!!
「義」の武将と言われるように、領土的野心はありませんでした。
謙信は、越後防衛のため・・・それ以上は戦う必要がなかったのです。

信玄が守りに徹したのは・・・
謙信の兵力があまりにも強い事を知っていたので、出来るだけ損害を出さずに個別に戦っていました。
つまり、謙信の方が、決着を付けたがっていたのです。
信玄はその意図を見抜いていました。
なので、専守防衛、籠城・・・な作戦をとっていました。
つまり、第3時までの戦いが小規模だったのは、武田信玄が積極的に攻めなかったからなのです。

さらに、戦のもう一つの理由だった、善光寺・・・
第3時の戦いの間に、それぞれが、「越後善光寺如来堂」「甲斐善光寺」と移したとし、ある程度の経済的安定を達していました。
激しい戦を繰り広げる必要性がなかったのです。
周辺の村々で受けた人々の被害は甚大で、農地は荒れ果て、農民の1/3が巻き込まれ亡くなったり離散したと言います。

第4次の戦いの直前、川中島西部の6つの村は、戦で家や農地が荒らされては困ると、武田上杉両軍に、村を戦場にしないように願い出ます。
すると村にあった杉に幕が張られ、これが停戦ラインとなり村は守られました。
そして、この幕の向こうで行われたのが、激戦!!第4次川中島の戦いです。
ついに両雄が激突!!


長野県長野市八幡原史跡公園は、最も激戦となった4度目の戦いの舞台となった場所です。
1560年、信玄が上杉軍に備えるために、軍師・山本勘助に命じて川中島の近くに海津城を築城したことでした。
1561年8月14日、北信濃から1万8千の兵が・・・北信濃から武田を追い出すべく春日山城を出陣!!
善光寺に5千の後詰を残し、川中島の妻女山に1万3千の兵が!!
狼煙によってこれを知った信玄は、8月18日に1万7千の兵を出し、甲府を出発!!
29日には3千の兵が籠る海津城へ!!
これまでの戦いに比べ、両軍ともに圧倒的な数です!!
雌雄を決する時が・・・!!

どうして第4次川中島の戦いは大規模なものとなったのでしょうか??
お互いに、相手を戦い潰そうと覚悟を決めての戦いでした。
それは、第3次の戦いの後、お互いの立場が大きく変わったことが関係しています。
武田信玄は、1558年に第13代将軍・足利義輝に信濃守に補任されています。
名実ともに、信濃の支配者となり、信濃の平定は、信玄にとっての大義名分となったのです。
謙信は、1561年に関東管領・上杉家を継いでいます。
この関東管領は、鎌倉公方の補佐役ということで、関東支配を任されたという正当性があり、関東の北条を攻めるためには、北条の同盟国であった武田が邪魔だったのです。

両者に大義名分が出来たので、決着をつける必要があったのです。

1561年第4次川中島の戦い
先手を打つ信玄!!
1561年9月9日深夜・・・
海津城から別動隊1万2千が出発します。
謙信の布陣する妻女山の裏手に回るためです。
信玄自らは、本体8千を率いて八幡原へ!!
夜明けとともに別動隊が、裏から奇襲をかけ、攻めて謙信たちを妻女山から追い落とし、待ち伏せしていた本体と挟み撃ちにしようと考えていました。
啄木鳥戦法で、軍師・山本勘助が授けたと言われています。

しかし、これは謙信に見破られました。
海津城からの夕飯の支度の煙がいつもより多いことに気付いた謙信は、武田軍がその夜に動くことを察知!!
別動隊が来る前に、ひそかに妻女山を降りると、武田本体が向かっていた八幡原に先に布陣!!
作戦が見破られてしまった武田軍は、序盤で劣勢になってしまいました。

もう一つの理由が・・・気象。
9月10日早朝、武田・上杉両軍は、八幡原の至近距離に布陣していました。
戦いがあったこの日、今の暦に直すと10月中旬。
この時期は、盆地である川中島は、特に寒暖差が激しく、さらにこの場所は川が多く流れていて・・・
川中島では秋から冬にかけて、先が10mも見えない濃い霧(蒸気霧)が発生するのです。

決戦前日の放射冷却、9月10日は冷え込みました。
濃い放射霧が起こり、武田軍本体と上杉軍本体は、お互いの距離感がつかめないまま布陣することとなりました。
そして夜が明け霧が晴れると・・・目の前に敵が・・・!!
啄木鳥戦法を見破っていた上杉軍は、敵が近くにいることを想定していましたが、武田軍は、よもや目の前にいるとは思わず、劣勢となります。
上杉軍は、「車がかり」の陣形で襲い掛かります。
その激戦の中・・・信玄の弟・信繁が討ち死にします。
信繁は武田家のNo,2で、軍略・見識共に優れていた、戦国屈指の武将でした。
真田信繁の名は、父・昌幸が、武田信繁のような名将になってほしいと付けたと言われています。
この戦で啄木鳥戦法を提案した山本勘助も、責任を感じ、敵陣に突っ込んで壮絶な最期を遂げます。

戦の中盤・・・有名な信玄と謙信の一騎打ちが・・・!!
謙信は、武田軍の陣中深く白馬を走らせ、信玄の本陣に突撃!!
信玄に真っ向から斬りつけました。
信玄は手にした軍配でこれを受け止めます。
三度振り下ろされた刀によって、信玄の軍配はズタズタになったと言われていますが・・・
信玄の部下の助太刀で、謙信はその場を去り、決着はつかなかった。。。
これは本当にあったのでしょうか・・・??

しかし・・・これが語られたのは江戸時代の事。
「甲陽軍鑑」で書かれています。
伝承はあったようです。が、断定はできていません。
謙信が刀を抜いて戦ったということは間違いありません。
が、相手が信玄だったということはわからないのです。

啄木鳥戦法を見破られているとも知らず、上杉軍の背後に回ろうとしていた別動隊は・・・??
1万2千が妻女山につくも、もぬけの殻・・・
作戦失敗に気付くも、時すでに遅し!!
本体の危機に山を駆け下ります。
そして、別動隊によって挟み撃ちにされてしまった上杉軍。。。
形勢逆転!!
謙信は、即座に撤退し、命からがら引き揚げて行ったのでした。
激闘の4時間!!

武田軍  死者4,600余人   負傷者13,000余人
上杉軍  死者3,400余人   負傷者  6,000余人

こうして日本の合戦史上最大の激戦は、終わりを告げたのでした。

3年後・・・最後の戦い・・・第5次川中島の戦いとなりますが・・・激戦とはなりませんでした。
にらみ合いが60日間続き、撤退します。

川中島の戦いは、12年間で5回にわたって繰り広げられた理由は・・・
謙信が北信濃の国衆を助けるためだったことと、信州善光寺がもたらす利権をめぐってのことでした。
もう一つ目的があったと言われています。
それは・・・戦が行われた季節の秋・・・!!
どうして5回の川中島の戦いは秋に行われたのでしょうか?

信濃国は、武田信玄と上杉謙信の取り合いの場となっていました。
信玄は信濃の土地を自らの領地とし勢力を拡大していきましたが・・・
謙信は領土的野心はありませんでした。もちろん信濃も奪っていません。
領土の取り合いでなければ、二人の目的は・・・??

ルイス・フロイスは、日本の戦についてこう書いています。
「われわれヨーロッパでは、土地や都市や村およびその富を奪い合うために戦う。
 日本では、戦争はほとんどいつも、小麦や大麦、米を奪うために行われる。」と。

日本の戦争は、領土を奪うためではなく食料を奪うためでした。
謙信も例外ではなく、今でこそ米所の新潟は、当時の米は寒い所では育ちにくく、よそから奪う必要がありました。
謙信は生涯を通じて10回以上関東に出兵していますが、食料確保のためだったと言われています。
1566年謙信が小田城を攻め落とした時は・・・謙信の指図で捕虜たちの人身売買が行われていました。
しかし、これは当時の戦国大名が皆やっていたことです。
東日本は激しいもので、武田信玄もやっていたことです。

川中島の戦いが、秋にやっていた・・・収穫期にやっていたのは、収穫期に合わせて農作物を略奪するためだったのです。

5回の戦いの勝者は・・・??
川中島一帯は武田の領土となり、謙信は高梨、島津、村上を本領に返すことはできませんでした。
武田の優位となったのです。
が・・・謙信は、この時、自分を頼ってきた国衆を家臣として組み込むことが出来るようになり・・・謙信も大いに利得があったようです。
川中島の戦いで、お互いをライバルと認め合うようになった信玄と謙信。
しかし、お互いの戦いに時間を費やしている間に、周りはすっかり変わっていました。
信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれ・・・
これを契機に、信長が一気に躍進し、天下取りに進んでいきます。

川中島があったために、謙信と信玄は西に向かうことが出来ません。
早期に決着がついていたら、お互いがもっと西に進出していた可能性があります。
12年にわたる川中島の戦いが、信長の勢力拡大につながってしまったのです。

戦国の龍虎と称えられた信玄と謙信。
川中島の戦いが、こんなに長く続かなければ・・・戦国の勢力図が変わっていたかもしれません。




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1590年7月・・・室町から戦国にかけて東国を支配した北条氏が滅亡しました。
5代100年にわたって隆盛を極めた北条氏、基礎を作ったのは初代・早雲でした。

神奈川県小田原市にそびえる小田原城!!
かつて難攻不落と言われた城・・・この城を治めたのが北条氏です。
次々と領地を広げ、東国で強大な力を持っていた北条五代・・・。
その繁栄の礎を築いたのが北条早雲でした。
1432年に生まれたとされる早雲は、素浪人から大名になったと言われてきましたが・・・
現在では伊勢平氏の一族で、室町幕府の要職に就いていた名門出身だと考えられています。
本来の名は、伊勢盛時で・・・北条ではなく・・・宗瑞庵早雲も出家後に名乗ったものです。

早雲は、室町幕府高官の立場を利用して東国に進出していきます。
56歳で幕府の命によって駿河今川氏の家督相続に介入・・・その功績によって、駿河と伊豆の国境にあった興国寺城を手に入れます。
すると早雲は・・・堀越公方に奇襲をかけ、一気に伊豆の支配を目論みます。
幕府の出先機関を倒したこと・・・それが、下剋上の魁と言われる所以です。
隣国・相模にも進出し、小田原城を攻略!!
上総にまで進出!!
まさに戦国の夜明けでした。

そんな早雲の野望を受け継いだのが氏綱です。
氏綱は伊勢から北条へと名前を変えます。
その理由は、早雲たちが他国の逆徒、国盗人と、忌み嫌われていたからだと言われています。
自分たちの支配を正当化させるために改姓したのです。
目を付けたのが、かつての鎌倉幕府執権の北条氏。
北条氏は代々相模守・相模守護職の一族だったので、関東を支配しようとする氏綱にとってはうってつけのせいでした。
朝廷に正式に改姓を願い出、認められます。
戦国・北条氏の誕生・・・現在では、鎌倉幕府の北条と区別するために、後北条と言われています。

そして小田原城を本拠地としたのも氏綱で、関東進出の足掛かりにしました。
小田原城は、室町時代・・・1454年に築城された平山城でした。
もともと大きくなかった城を、北条が城の整備を行い、東国最大の城郭にしていったのです。
北条氏の黄金時代を築いたのが三代・北条氏康です。

1530年16歳で初陣を遂げてから亡くなるまでのおよそ40年・・・合戦に臨むこと36回!!
一度も敵に後ろを見せることなく、9カ所の傷はすべて向こう傷だった猛将と言われています。
家督を継いだとき・・・周囲には武田信玄・上杉謙信・今川義元・・・強豪がひしめいていました。
1554年駿河・今川義元、甲斐・武田信玄と婚姻関係を結び、三国同盟を結び、互いを侵略しないように約束しました。
この同盟・・・北条に攻め入ろうとしていた上杉憲院の備えでもありました。
そして・・・1561年・・・上杉謙信の10万近い軍勢が、小田原城へ!!
これに対し氏康の策が籠城戦でした。
領地の兵糧を全て城内に入れ、立て籠もったのです。

小田原城が要害堅固だったことと、当時の上杉軍が寄せ集めだと見抜いていた・・・
氏康は知略家だったのです。
氏康の読み通り、上杉軍は小田原城を攻めきれないと判断し、僅か1週間で帰っていきました。

桶狭間の戦いで今川義元が討たれてしまいました。
信玄が同盟を破棄し、今川に攻め入ります。
1569年・・・その矛先が北条へ!!
2万5000の武田軍に、再び包囲されてしまいました。
しかし、この時の信玄の目的は、北条へのけん制で、数日で撤退していきます。
こうして戦国最強の上杉と武田が兵をひいたことから、難攻不落の小田原城となったのです。
領地を拡大していく北条・・・
そんな氏康の心配は、息子・氏政でした。
北条氏政は、長期的展望に欠けた愚将・・・彼が北条の滅亡を招いていきます。

1571年三代氏康が死去・・・その後を継いだのが四代・氏政です。
氏政は本当に愚将だったのでしょうか??
氏政は、北条の悲願だった関八州の支配に邁進します。
1574年関宿城攻略を皮切りに、北条氏最大の領地を手に入れていきます。

すると氏政はある男と同盟を組もうとします。。。織田信長です。
織田信長は、領土を拡大し、最も天下に近い男とされていました。
時の風を読んで・・・もはや同等の同盟は望むまい・・・と、苦渋の選択をします。

「関八州を信長公の御分国として差し出します。」by氏政

手に入れた領土を手放してまでの服従・・・北条家始まって以来のことでした。
本当は・・・先を見る目があったようです。
後に徳川家康や伊達とも同盟もし・・・情勢判断ができる外交政策に長けた武将だったようです。
しかし、43歳という若さであっさり家督を息子に譲ることとなります。
隠居してしまった氏政・・・
信長に対して従属し、信長の娘を息子・氏直に娶るはずでした。
そうなると、隠居して氏直にはくをつけるためだったようです。
それほど信長の存在が大きく、北条家にとって重要だったのです。

1582年本能寺の変で信長が自害しました。
その後台頭してきたのが・・・光秀を討った羽柴秀吉です。
天下取りを目指す秀吉に対抗するために、親子は1583年徳川家康と同盟を結びます。
その証として行われたのが・・・氏直と家康の娘・督姫との婚姻でした。
しかし、その間にも秀吉が四国・九州を平定!!
そして朝廷から関白に任ぜられるとまつりごとの実権を握り、秀吉の許可ない争い事を禁じる惣無事令が出されました。
着実に天下統一に進んでいく秀吉・・・
秀吉の臣下となるかどうか・・・??
大名たちは揺れ動いていました。
そんな中、家康が・・・1586年氏政に会談を申し出てきました。
会談は二度行われ・・・その酒宴の席で・・・
家康が秀吉との和睦を告白します。
家康は、秀吉の配下になったので、北条に攻め入ることは絶対にないと、武将解除の証に兵糧1万俵を送りました。
10月・・・家康は上洛し、秀吉の臣下となったのです。
天下統一に王手をかけた秀吉・・・。
残る敵は北条のみとなりました。

氏政は秀吉の進軍に対する防衛体制を強化します。
①領国内の拠点となる城郭の普請
②軍事力の強化
③小田原城の普請
その時造られた城郭は・・・巨大なもので、惣構は全長9kmにも及びました。
城下町も中に入っています。

難攻不落の小田原城・・・その鉄壁の守りとは・・・??
惣構に沿って作られたのは深い堀でした。
幅25m以上深さが10m、角度は60度・・・堅固なものでした。
小田原城は、周囲9kmの惣構えと障子堀で守られていました。
籠城も・・・惣構えの中には、城下町、田畑もあり、自給自足が可能でした。
鉄壁の小田原城・・・これが氏政の慢心を引き起こすのです。
氏政は、武田も上杉も落とせなかった小田原城の守りを堅固にし、秀吉に備えます。
しかし、その一方、このまま戦うか、臣下となるか・・・迷っていました。

1588年、遂に、家康を通じて秀吉の臣下となることを申し出ます。
これに対し、秀吉は上洛を要請!!
北条氏としては、秀吉にひれ伏す必要はないのではないか・・・??
臣下となることはよくても、秀吉に頭を下げたくはない屈辱だ・・・と、上洛せずにいました。
業を煮やしたのが家康・・・一通の手紙が届きました。
自分は北条を攻める気も秀吉の味方をするつもりもないが、上洛したほうがいい・・・というものでした。
しかし、その最後には・・・
”秀吉への出資を拒否する場合は、督姫を離別してもらいたい”とありました。

それはまさに、家康からの最後通告でした。
この書状に対応したのが五代・氏直!!
すぐに秀吉に書状を出します。
「叔父を上洛させる・・・すべて秀吉の意に従う」と・・・。
1588年8月・・・叔父の北条氏規が上洛し、秀吉に謁見しますが・・・
これだけでは終わりません。
氏政・氏直どちらかの上洛を命じられます。
北条はこれに対し条件を出しました。
沼田領の問題を解決することでした。
この時、沼田城の受け渡しを拒否していたのは真田昌幸。
秀吉はこれを快諾し、北条に沼田の2/3を割譲し、1/3を昌幸にすると解決して見せました。
これを受けて氏直は、父・氏政を12月上旬までには上洛させると約束します。
その後・・・氏政の上洛延期・・・そんな中事件が・・・。
10月、沼田城主となった北条家臣・猪俣邦憲が真田に残されていた名胡桃城を奪ってしまったのです。
これは、秀吉の惣無事令に反するモノ・・・激怒する秀吉!!
北条への宣戦布告状をしたためると、全国の大名にまで送りつけます。
秀吉を完全に怒らせてしまった北条・・・
どうして上洛延期??どうして名胡桃城奪取・・・??
名胡桃城は、上杉の攻撃に備えるためだったようです。
上洛の延期は・・・氏政が京都に抑留される危険性があったので慎重だったようです。
北条内が、秀吉の家臣となることでまとまっていなかったと言えます。
おまけに普請をしていたので、氏政を上洛させるための資金が不足していたようです。

もはや避けられない秀吉との直接対決!!

1590年4月・・・
小田原城は、秀吉軍22万の大軍勢に包囲されてしまいました。
対する北条軍5万!!
圧倒的不利の中、北条最後の戦いが始まりました。
が・・・この時、氏政・氏直親子の考えには大きなズレがありました。
父・氏政は、上杉、武田を撃退した=小田原城に籠城すれば、秀吉に勝てる!!と考えていました。
息子・氏直は、そんな経験もないので・・・戦いに消極的で、秀吉に降伏したかったようです。
結局父・氏政の意見が通り、籠城戦で迎え撃つこととなります。

巨大な秀吉軍は、兵糧が足りなくなるはず・・・!!
城内で囲碁を打つ余裕な北条軍ですが・・・開戦から2か月・・・氏政の予想は外れ、秀吉軍は一向にひく気配がありません。
長期戦になると見た氏直は、戦に疲れても秀吉側との交渉には応じないように・・・と、気を引き締めさせます。
しかし、出城が次々と攻略されていきます。
秀吉側に寝返る者たちが続々・・・秀吉側には、徳川・上杉・前田・最上・・・有力武将たちが参戦し、北条は孤立してしまいました。

そして秀吉の驚くべき策・・・
小田原城の西にそびえる石垣山・・・そこに大坂から職人を呼び、その指揮下に6万人を動員し、僅か80日で巨大な城を作り上げました。
これを見た北条軍は・・・完全に戦意を喪失!!
もはやこれまで!!開戦から3か月・・・ついに氏直は開城を決意し・・・城を出て投降しました。
北条氏の敗因は・・・
①援軍の寝返り
この時北条は、同盟を結んでいた伊達政宗の援軍を待っていました。
しかし・・・政宗は既に秀吉に寝返っていたのです。
②秀吉の籠城戦対策
秀吉は長期戦に備えて万全!!
兵士の確保!!当時の兵は農民も兼ねていたので農繁期には農業をしていました。
が、秀吉は兵農分離を徹底し、戦に専念できるものを採用し、最後まで兵の数が少なくならないようにしました。
戦の際の兵糧も・・・太閤検地によって正確、確実に年貢を徴集し、兵糧の計算が立ったのです。
この戦のために用意したコメの量は、20万石!!
秀吉は22万もの兵で1年間の籠城に対抗できる兵力を持っていたのです。
完ぺきな布陣でした。

そうとは知らない氏政の過信が、小田原城陥落へと導いたのです。
氏直は秀吉に、一族・家臣の助命を嘆願し、自刃を申し出ます。
それを聞いた秀吉は。。。神妙・・・と、褒め称えました。

氏直は早くから秀吉への従属の意を示し、戦を望んでいなかったので、命は助けられましたが・・・
北条氏の領地は全土没収!!
さらに父・氏政は戦に及んだ責任を問われ、切腹を命じられたのでした。
落城から6日後・・・氏政は自刃します。

ここに100年にわたり、東国で隆盛を極めた北条氏が滅亡したのでした。

天下統一を目指す秀吉の勢いに、勝つことが出来なかった北条・・・
一方、北条を倒したことで名実ともに天下人となるのでした。
北条早雲の登場によって幕を開けた戦国時代・・・北条の滅亡によって幕を閉じたのでした。
生きながらえた氏直は・・・翌年病に倒れ、30歳の若さで亡くなります。
その亡骸は、先代たちと同じように箱根町の北条氏の菩提寺に埋葬されました。


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それは、現代例えれば国境紛争・・・そして、屈指のライバル対決・・・川中島の戦いです。

甲斐の虎・武田信玄VS越後の龍・上杉謙信
武田軍の啄木鳥戦法、信玄と謙信の一騎打ち・・・後世語り継がれる名場面を生んできました。
戦いの舞台・川中島は、長野県北部にある長野盆地にあります。
そしてそこは、両者の国境でした。
川中島の戦いは、12年、5回にわたって行われました。
しかし、資料が少なく、戦国史上最も謎に満ちた戦いと言われています。

その謎を紐解くのは・・・大地に刻まれた山城でした。
ここは、日本有数の城郭密集地帯で、城取り合戦だったのです。

膠着する戦況・・・その打開のために、信玄には二つの選択肢がりました。
そしてそれは、大坂の陣にも大きな影響が・・・!!

武田信玄と上杉謙信謙・・・二人の決戦の舞台となったのが、川中島。
戦国最強と謳われた二人が繰り広げた死闘!!
それは、互いに譲れない戦いでした。

甲斐源氏の嫡流で、武田家の嫡男として生まれた信玄は、21歳の時に周りから疎まれていた父を追放!!
実力で当主の座をえました。
以降。。。甲斐を中心にして領土を広げていきます。
一方、19歳で越後守護代の家督を継いだ長尾景虎・・・のちの上杉謙信は、内乱の続く越後を3年で治め、初陣以来負けなしの戦巧者としてしられていました。
二人の領国の間にある川中島は、村上氏の勢力下にありました。
信玄と謙信が対立するきっかけとなったのは、1553年の4月・・・武田信玄が北信濃村上氏を破り、川中島に破竹の勢いで進攻したことに始まります。

どうして信玄は北信濃に進攻したのか・・・??
領土の拡大と・・・戦国時代は飢饉など風水害が多く、米がとれないこともあり、甲斐全体が食糧難になり・・・穀倉地帯の信濃へ侵攻したのではないか??と言われています。

当時、甲斐を天変地異が襲いました。
台風が家屋をなぎ倒し、疫病が蔓延・・・
大地震によって多くの人が命を落としました。
川中島は、信濃随一の穀倉地帯・・・信玄にとっては、領国経営を安定させるためにも北信濃を・・・!!
それは、信玄の生き残る道でもありました。
一方、敗れた北信濃の豪族は、謙信を頼って越後に逃亡!!
謙信は、北信濃の窮状を救うべく、義のために立ち上がったのです。

1553年9月、第一次川中島の戦い
この戦いは局地戦に・・・20日間で終了!!

次なる戦いを見据えて信玄が動きます。
駿河の今川、相模の北条と婚姻関係を結び、甲相駿三国同盟締結!!
同盟を結ぶことで、東と南の憂いを払い、北の謙信との対決に供えます。
川中島を制するために、信玄が利用したのが山城です。
信玄は、山城を行く先々に築きながら、川中島への進攻を続けます。
川中島周辺には、武田・上杉両軍の山城が分かっているだけでも50以上残っています。
川中島の戦いは、最前線に作った城を採るか、守り切るかの城取り合戦だったのです。

1555年4月、第二次川中島の戦い。
犀川をはさみ両軍が布陣します。
この時、戦いの争点となった山城が・・・上杉川の旭山城です。
信玄は戦いの直前、旭山城を調略し、武田側に寝返らせていました。
信玄はこの城に援軍3000、弓800張、鉄砲300挺投入しています。
謙信にとっては、この城が存在するだけで・・・思い切って武田に戦いを挑めません。
膠着する戦い・・・200日という長期間になってしまいました。
戦が長期間になると、武田軍が不利になります。
川中島から上杉の居城・春日山まで80㎞、武田側は甲府まで160㎞も離れていて食料運搬は困難となってきます。
さらに・・・雪に閉ざされてしまう・・・!!
武田信玄にとって我慢の限界が・・・今川義元に仲介を頼みます。
上杉の提示した条件は、北信濃の旧領復帰と旭山城の破却でした。
信玄はこれを受け入れ、和議が成立!!
決着をつけることができなかった信玄・・・。

一進一退の戦い・・・終わりの見えない戦いに終止符を打つために、武田信玄はどう動く??

1557年、両者は第三次の戦いに・・・
決着はつかないまま兵を引き・・・最初の衝突から7年が経ってしまいました。
甲斐では飢饉が深刻の一途をたどっていました。
当時の信玄の状況では、同盟を結ぶ北条や今川には進出できない・・・
一方、西は山岳地帯・・・やはり北の川中島に向かうほかありませんでした。
何としても、北を手に入れなければ、飢饉に苦しむ領民たちのためにも・・・!!
どうする??信玄!!

①拠点を築く
これまでにない城を川中島に築いて拠点にする。
川中島を実効支配できるうえに、兵糧の供給にも悩まされることはない!!
しかし、上杉の居城から川中島までわずか2日、我が居城からは早くて6日はかかる・・・。
万が一、築城途中で攻撃されたら援軍は間に合わない・・・!!
狼煙・・・川中島に異変があった場合にすぐさま狼煙を上げると・・・
リレーすると甲府まで160㎞をわずか2時間で知らせることができます。


②上杉と講和
我が武田、上杉もまた最強に相応しい・・・講和をすれば、天下を手中に収めることも夢ではない!!
信玄は、敵である謙信を高く評価していました。
信玄が亡くなった場合・・・
「勝頼は謙信と和議を結ぶように。
 謙信に敬意を表して頼りにするがよい。
 謙信はそのように評してよい人物である。」
と、信玄が遺言していたと甲陽軍鑑にあります。

しかし、上杉と結べば、今川、北条と手切れとなるかもしれない・・・
もし、その両国から攻められたらどうする・・・??

上杉と北条は完投を巡って争いが絶えませんでした。
信玄が上杉と講和すれば、三国同盟が機能しなくなってしまう・・・!!
そんな時、信玄に大きな影響与えた・・・激震!!
1569年5月”桶狭間の戦い”!!
織田信長が、三国同盟の一角・今川義元を討ったのです。
当主が亡くなったことで、今川が弱体化していくのは明らか・・・これを機に豊かな南へ進出・・・??

関東管領就任の一大式典を挙行するために鎌倉にあった謙信。
チャンス到来!!川中島に一大拠点を置くことにした信玄!!
それは海津城でした。
海津城には450騎、2000もの軍勢が集められました。
わずか80日で作られたといわれています。

kaidu
















海津城には当時の最先端技術が使われていました。それが丸馬出しです。
半円形の陣地となる丸馬出しは、敵が攻撃してきた場合、城を守る防御の拠点となります。
また、攻めに転じるときには敵を攻撃しながら二方向から出撃できるというほかの城にはない機能を持っています。

前面の防御は自然の要害・千曲川、後方には山城が守備!!
城の出入り口は丸馬出しを装備した海津城は、当時としては鉄壁の要塞でした。

1561年8月上杉軍出陣!!
関東から越後に戻った謙信は、川中島に向かって1万8000の大軍勢を動かします。
信玄の目論見通り、一大決戦の幕が上がったのです。
謙信現る・・・!!
狼煙はその日のうちに信玄のもとへ・・・!!
信玄の援軍が川中島に到着するまで海津城は持ちこたえることができるのか・・・??
ところが謙信は、海津城を横目に2㎞の妻女山に布陣します。
謙信も、信玄の到着を待っていた??
武田軍がやってきたのは遅れること10日後・・・警戒しつつ海津城へ・・・!!
軍議を行って決戦を行う方針を・・・それは山本勘助の啄木鳥戦法でした。
しかし、察知した上杉軍は、信玄の別動隊がやってくる前に信玄本陣を急襲!!
武田軍が崩れる中・・・一騎打ちが・・・??

しかし、この一騎打ち、上杉方の資料では、荒川伊豆守が信玄に斬りつけたとなっています。
こちらのほうが真相かもしれません。
その戦いの実像は・・・??
霧の発生しやすいこの土地で・・・
1560年9月10日、第四次川中島の戦い。
当初戦いは上杉軍有利でしたが、数に勝る武田軍は優位に立っていきます。
攻防戦は、決着のつかない結末に・・・
わずか1日の戦いで両軍合わせて8000人討死したともいわれています。
これは、戦国史上最大の数ともいわれています。
この時、信玄は実弟・信繁を含め有能な人材を失っています。

1564年第五次川中島の戦いは、大規模な合戦もなく、両軍とも兵を引きました。
謙信と信玄・・・これを最後に直接対決はありませんでした。
以降、信玄は信濃を手中に収めるものの、越後の国境周辺は依然として謙信の支配下にありました。
川中島で戦いを繰り広げている間に、西では織田信長が台頭!!
天下は信長を軸に動き始めていました。
信玄が信長を討つために西へ向かおうとしたのは第五次川中島の戦いから8年後・・・
1573年12月、三方ヶ原の戦いで圧倒的な勝利をおさめ・・・しかし、信玄は信長と戦う前に病没・・・享年53歳でした。
信玄が亡くなったという知らせに謙信は・・・
「我、好敵手を失へり・・・世にまたこれほどの英雄男子あらんや・・・」と、号泣したといいます。
信玄の死から5年後・・・謙信もまた脳溢血で亡くなります。享年49歳でした。

信玄の死から40年余り・・・信玄が残した武田流築城術を駆使した出城が戦国時代最後の大合戦に出没します。
1614年大坂冬の陣における大阪城・・・真田丸です。
かつて信玄の配下にあった真田家の次男・真田幸村が総構えの外側に築いた出城は、大阪城に突き出た巨大な馬しだったのです。
真田丸にこもる兵は5000。。。対する幕府軍は総勢20万の大軍で大阪城を包囲!!
しかし、真田丸に殺到した兵は、幸村の秘策と真田丸の鉄壁の防御の前に敗れ去ったのです。
真田丸の攻防戦は・・・大坂方唯一の勝利となりました。

真田家は、徳川に着いた長男・信幸によって継承され、海津城は松代城と改められました。
信玄が築いた海津城をもとに作られた城です。
真田家は、この川中島の地で生き続け、江戸時代・・・明治維新まで続くこととなります。

真田丸・・・堀の外側に作られていたと思われていましたが・・・新しい発見により最近は、人口の堀ではなく、大阪城の幅200mの対岸に築かれており、独立した城として機能していたともいわれています。
真田幸村が築いた真田丸は、海津城の丸馬出しを基本とし、さらに独立した城の役割や、新しい機能も加えた幸村の独創的な出城でした。



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