日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:上杉謙信

歴史REAL織田信長 一族と家臣から迫る信長軍団の全貌 (洋泉社MOOK)

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戦国の世、天下を手中にすべく、尾張の国から突き進んだ織田信長。
非道ともいわれる行為を尽くし、自らを魔王と名乗った男が恐れた武将がいました。
越後の龍・・・上杉謙信です。
そんな二人が同盟を結びますが、最初にして最後の戦いを迎えることとなります。
そんな二人の関係とは・・・??

織田信長と上杉謙信・・・対照的な武将です。
自らを魔王と名乗り、天下を取るためなら比叡山焼き討ちなど、手段を選ばなかった織田信長。
片や、毘沙門天の化身と名乗り、関東管領として義の戦いを繰り広げた上杉謙信・・・。
二人が激突するのが1577年手取川の戦いです。
信長軍と謙信軍の最初で最後の戦いとなりました。

1534年尾張の国で生まれた織田信長・・・
1560年桶狭間の戦いで海道一の弓取りと言われた今川義元を討ち取ります。
隣国美濃への侵攻を進め、戦国時代の主役に躍り出ようとしていました。
上杉謙信は、信長よりも4歳年上・・・
1530年越後の守護代の家に生まれた謙信は、下剋上で守護の座を勝ち取り、1560年には大軍を率いて関東に侵攻。
翌年には、小田原城を包囲し、関東管領に任じられます。
1561年の第四次川中島の戦いでは、北に領地拡大を目指す武田信玄の軍に強烈な打撃を与えました。
天下統一・・・その偉業に最も近いものが上杉謙信でもありました。

謙信と信長の交流が生まれたのは、1560年のこと。
信長の方から接近しました。
信長は、息子を養子に差し出し申し出をしています。
それを受け入れてくれた謙信に対して・・・
「大変ありがたい事です。
 これからも御指南をいただきたく、ご相談させてください。」と徹頭徹尾へりくだっています。
どうしてへりくだる必要があったのでしょうか?

信長の狙いは、謙信の強さを恐れていました。
当時、関東管領の謙信と良好な関係を築くことは、武田の甲斐・信濃をけん制するという意味でもありました。
信長は、謙信にへりくだりながら、謙信の宿敵・武田信玄にも度々書状を送り高価な贈り物を届けていました。

一体誰がこの戦国の世に終止符を打ち、天下を治めるのか??
武将たちがしのぎを削る中・・・三好家家臣・松永久秀らが、室町幕府第13代将軍足利義輝を殺害しました。
間一髪で脱出した弟・義昭は、各地を転々とし、将軍の座に就こうと上洛を画策します。
この時義昭が頼ったのが、上杉謙信でした。
義昭は、上洛する為に、力を貸すように求めます。
しかし、当時の謙信は、武田、北条と戦いが続いていて、西に兵力を割くことができません。
義昭の要望に応えることができませんでした。
そんな謙信に代わって、義昭を上洛させたのは、誰あろう織田信長でした。

1568年、信長は義昭と共に上洛を成し遂げようと動きます。
この時、信長は謙信に書状を送り、義昭を奉じての上洛を説明しています。

「公方様御入洛の供奉の儀うけかい申す」

自分は義昭の上洛を請け負っただけとし、天下のために謙信殿も奔走されることを希う・・・と、謙信への配慮をしました。
自分の抜け駆けではなく、謙信に代わって室町幕府のために成したと弁明しています。
しかし、謙信が領地争いに忙殺されている間に、自分が一気に京都を抑えてしまおう・・・
謙信は、心の底では、悔しがっていたのではないか??

信長は、足利義昭を15歳将軍に就任させ、天下取りに向けて謙信に一歩先んじることとなります。
しかし、謙信を警戒・・・そこには理由がありました。
生涯の戦歴を比べると・・・
信長・・・214戦154勝48敗12分・・・負けない確率78%
謙信・・・108戦64勝7敗37分・・・・・負けない確率94%
この驚異的な数字は、信長が謙信を恐れた理由でした。
当時、周囲が敵だらけの信長にとって、謙信は絶対的にしてはならない相手だったのです。

どうして謙信は強かったのでしょうか?
負けない戦をする・・・軍略は自身が最前線で戦い統率力があったこと、兵士がお金で雇われたものではなく越後のために同意を得た民兵であったこと・・・が挙げられます。
信長は、戦に強いイメージがありますが、苦戦、敗戦が多く、信長は戦の人ではなく外交の人でした。
そして、戦う目的が違いました。
信長は自分の領土拡大のために戦いましたが、謙信は助力を乞われて・・・”義”のための戦いだったのです。
そんな欲のない戦いをする謙信に恐れを抱いていたのかもしれません。

足利義昭を奉じて上洛した織田信長・・・強引な手法がアダとなったのか、様々な困難に直面します。
その一つが、将軍・足利義昭との亀裂でした。
京を実質的に支配した信長は、義昭の実権を奪う五か条の要求をします。
その内容は・・・

天下の儀は信長に委任されたし
信長の添え状なしに、諸侯に書状を出してはいけない
今までの義昭殿の命令はすべて無効

などといったもので、義昭を名ばかりの将軍にしようとしたのです。
義昭は・・・将軍としての権力を保とうとして反発し、二人は対立することに・・・
義昭は、信長に対抗する為に、各地の大名に檄を飛ばします。
本願寺・筒井・浅井・朝倉で、信長包囲網を作り上げます。
そこには手ごわい敵も・・・大名以上に力を持っていると言われていた比叡山延暦寺も・・・
比叡山は、浅井・朝倉と連携し、苦戦を強いられた信長は、講和を申し入れますが聞き入れられなかったため、最終的には焼き討ちに・・・僧兵だけでなく、信者たちまで殺戮します。

信長は延暦寺に続いて、一向宗・・・石山本願寺との戦いに挑みます。
ところが本願寺との戦いに大苦戦!!
信長は、全国の一向宗門徒を敵に回すことに・・・。
遂に、友好関係にあったはずの武田信玄が将軍義昭の檄によって、二部長包囲網に参加。

1572年、西に向けて進軍開始!!遠江に侵攻・・・ここは徳川家康の領地・・・家康が負ければ、次は信長の領地です。
この瞬間、信玄は川中島で戦っていた謙信だけではなく、信長の敵となりました。
そこで、11月、遂に信長と謙信は、信玄に対抗すべく同盟を結ぶことに・・・!!
しかし、それでもなお信玄は西に進軍を止めようとはしません。
迎え撃った信長・家康連合軍は、三方ヶ原の戦いで大惨敗!!

信長は絶体絶命の窮地に・・・!!
ところが武田軍は、進軍を中止し甲斐に・・・
信玄が戦いのさ中、死去したのです。
天運によって危機を脱した信長・・・しかし、新しい畏れが・・・謙信の上洛です。

信長は謙信の上洛を恐れていました。
それは、自ら実権を握るというのではなく、室町幕府の復権を望んでいたからです。
武田信玄の宿敵の為、上洛できなかった謙信・・・
しかし、信玄の死によって、上洛のチャンスが・・・!!

もし、謙信が上洛するとなれば、信長との戦いは避けられない・・・。
信長包囲網も勢いづいてしまう・・・。

そこで信長は、謙信へ贈り物・・・「上杉本 洛中洛外図屏風」です。

応仁の乱で荒れ果てていた街並みが復興した京の町を一望する視点で描かれています。
京の夏を彩る祇園祭の山鉾・・・朝廷の貴族・・・武士・・・子供達・・・
描いたのは、当時随一の絵師・狩野永徳。
将軍家の御用絵師だった永徳は、足利義輝の死後、信長が新しい後ろ盾となっていました。
絵を送られた謙信は、喜んだといいます。

洛中洛外図は信長が描かせたものではなく、足利義輝が謙信に贈るために書かせたものだと言われています。
将軍が贈ってくれるはずだったものを、代わりに贈ってくれたことが、嬉しかったのです。

謙信は信長包囲網に加わることなく、越後を動くこともありませんでした。
そして・・・この屏風には、謙信の心を打つメッセージが・・・

義輝は、どうして永徳に絵を描かせたのでしょうか?
室町幕府足利将軍邸に年始の挨拶にやってきた行列・・・
輿に乗って将軍に挨拶にやってきているのは、謙信だといわれています。
江が完成した1656年、謙信は、この時すでに2回目の上洛を果たしていました。
将軍義輝に際し、全面支援を約束していました。
そんな謙信に対して・・・もう一度京の都に来てほしい・・・そして、将軍を中心とした秩序を取り戻そうではないか・・・
義輝から謙信へのメッセージが隠されていました。
この屏風に深い思い入れを感じたことでしょう。

しかし、二人の同盟は長くは続きませんでした。
織田信長は天下統一を目指して、しかけます。
信長包囲網の首謀者である足利義昭を京都から追放!!
越前・朝倉、北近江・浅井を攻め、一気に滅亡へと追い込み領地を拡大!!
越前の上杉謙信の近く・・・加賀まで侵攻して来ようとしていました。
そんな時、同盟を結んでいた謙信が思いもよらない行動にでます。
信長との同盟を破棄!!
この時、二人の緩衝地帯は能登・加賀・越中でした。
どうして謙信は同盟を破棄して信長と戦う決断を・・・??

信長と戦ってきた石山本願寺が、謙信に和解を持ちかけてきたのが大きなきっかけでした。
謙信が越後を離れられない大きな要因に、一向一揆がありました。
越後の隣、越中と加賀に立ちはだかっていたのです。
しかし、対立していた石山本願寺と和解したことで、一向宗が謙信の味方となり安全なルートが確保されました。
謙信にとって、朝倉家を滅ぼして、越前までやってきた信長は、脅威となっていたのです。

1577年閏7月、謙信は畠山家の本拠地である能登・七尾城に進軍!!
この時、畠山家は城主の春日丸が幼かったので、実権を握っていたのは重臣の長綱連と遊佐続光でした。
謙信の侵攻に直面した二人の意見は対立!!
信長に援軍を求めるのか?謙信に下るべきか??
意見がまとまらない中、長綱連は安土城の信長に援軍を求めます。

信長は、今こそ能登を手中に治め、謙信をたたく好機として北陸軍の派遣を・・・柴田勝家を総大将に任命します。
1577年8月、5万の大軍が北庄を出陣します。
信長も後を追う準備を・・・!!
絶対に負けられない・・・総大将・柴田勝家、滝川一益、丹羽長秀、前田利家、羽柴秀吉!!
しかし、信長はまだ安心できなかったのか、出羽・伊達輝宗に使者を送り、越後の反謙信勢力である本庄繁長と連携!!
背後を脅かすよう申し入れます。
万全の体制!!信長軍の負ける要素なし!!

しかし・・・思わぬ事態が・・・
最強の信長軍団が・・・
秀吉が勝家の指揮に異論を唱え・・・無断で陣を解いて引き上げてしまいました。
秀吉と勝家の間に何が・・・??
この時の二人はライバルで・・・勝家が、秀吉軍が活躍できないように後軍に回しました。
秀吉としても、活躍しても、それは勝家の活躍となってしまう可能性があったので・・・。

悪いことは二人の亀裂だけではなく、進軍が困難を極めます。
その頃、七尾城内では異変が起こっていました。
信長派の長一族が謙信派の遊佐一族に皆殺しにされたのです。
9月15日、七尾城開城。
謙信に開けわたされました。
この事実を知る由もない勝家・・・。
手取川を越えて、松任城まで兵を進めたものの、七尾城との連絡は途絶えたまま・・・。
謙信はさらに能登南端の末森城を攻め落とし、加賀を南下。
七尾城を目指して進軍する織田軍の動きを察知した謙信は動じることなく命じます。

「一騎一卒も活て返す事 有べからず」

そして高らかに次の春には、自らが上洛すると宣言するのでした。

織田軍と上杉軍との戦いで戦局のカギを握っていたのは七尾城・・・
しかし、上杉軍に取り囲まれ、謙信の手に落ちていました。
そうとは知らない織田軍の総大将・柴田勝家は、陣を構えた松任城で、大きな決断を迫られていました。
このままやみくもに進んで勝ち目はあるのか??
百戦錬磨の勝家は、撤退をすることに・・・!!
漆黒の闇の中、5万の織田軍が南へと撤退を始めました。

9月23日夜・・・加賀国・手取川・・・退却する織田軍に突然大軍が襲い掛かります!!
謙信率いる上杉軍でした。
上杉軍が奇襲をかけると追い立てられた織田軍は手取川へ・・・!!
川を渡って逃げようとするも・・・川は連日の雨のために増水し、荒れ狂っていました。
万事休す!!
この機を逃してなるものか・・・!!
猛追する謙信!!
討ち取られた織田軍は1000人余り!!
数えきれないほどの兵が激流に流されて溺死してしまいました。
しかし、これは偶然ではなく、謙信が手取川に来るまで待って増水した川を利用した・・・謙信の作戦勝ちでした。

さらに織田軍の敗退にはもう一つ理由がありました。
上杉軍は一向一揆を味方につけていたので、織田軍の動向が手に取るように解っていたのです。
謙信を手助けしたのが、加賀・一向一揆の門徒たちでした。
上杉軍の動きを悟られないように、織田軍に情報封鎖を行い、織田軍の動きを逐次上杉軍に伝えていたのです。

上杉に 逢ふて織田も 名取川(手取川)
       はねる謙信  逃るとぶ長(信長)

上杉軍とぶつかった信長が、まるで飛ぶように逃げ去ってしまった・・・と。

実際には、信長は手取川にはおらず、到着する前に負けてしまったと考えられています。
しかし、上杉軍はそれ以上織田軍を追うことはなく・・・
春日山城に帰っていきました。
季節はまもなく冬・・・本拠地である越後は雪なので、謙信は、地元に帰って春を待たなければならなかったのです。
もしかしたら・・・これが、謙信最大のミス・・・??雪国の宿命だったのかもしれません。
あまりにあっけない勝利に、謙信はこう書き残しています。

「案外に手弱の様体 この分に候わば
 向後天下までの仕合わせ 心やすく候」

織田軍の弱さを皮肉ったうえで、上洛は難しいものではないと豪語したのです。
謙信の上洛が実現することはありませんでした。
手取川の戦いの半年後・・・1578年3月9日、謙信は、居城春日山城で突然病で倒れ、4日後に49歳という生涯を閉じることとなったのです。

もし、二人が直接対決していたら・・・??

外交戦略では信長の方が上、戦いそのものは謙信の方が上、武将としての力量は、謙信の方が上??

信長軍を破った越後の龍・謙信の突然の死・・・
天は信長を見放してはいませんでした。
実の子がいなかった謙信の死によって、上杉家は後継者争いを招き、能登をわずか3年で信長に明け渡すことに・・・
謙信という最大のライバルがいなくなった信長は、勢力を伸ばし、天下取り目前まで突き進んでいきます。
しかし・・・手取川の戦いから5年後・・・1582年、本能寺の変で明智光秀によって無念の死を遂げ、その夢を絶たれたのです。
その時信長49歳・・・奇しくも謙信の亡くなった年齢と同じでした。

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1600年9月15日、徳川家康と石田三成が天下の覇権をかけて戦った関ケ原の戦い・・・。
まさに、その同じ日に、遠く出羽国で運命の戦いが繰り広げられていました。
上杉家の武将・直江兼続が最上義昭を攻撃した長谷堂合戦・・・別名、「北の関ケ原」と呼ばれています。
愛の兜で名高い直江兼続・・・この時の決断は、時代を大きく左右しました。

新潟県南魚沼市・・・雲洞庵に直江兼続の幼少期のエピソードが残っています。
兼続5歳・・・上杉謙信にその才気を見込まれ、後継者である上杉景勝の補佐役として育てられました。
兼続は5歳年上の景勝に生涯忠誠をつくし、共に戦国乱世を生き抜いていきました。

兼続を奉行としてほしいと言われた重臣に・・・
「兼続には、全てにおいて隙のないほど政務を命じている
 奉行に就任すれば支障が出てしまう。」by景勝

兼続に課せられた役目は・・・
天下統一の流れにどう対応していくのか??ということでした。
そんな中で、豊臣政権との交渉の結節点、上杉川側の中心に兼続が立っていました。
上杉家は、中央政権と密接にかかわることで、越後支配を盤石にしました。
これは、上杉家の大きな決断でした。

1598年1月、豊臣秀吉から上杉景勝に思わぬ命令が・・・
「越後を離れ、会津に移るべし!!」
背景には、最大の実力者・徳川家康の不穏な動きにありました。
家康は当時、関東7か国を統治、伊達政宗、最上義光ら東北の大名と関係を深めようとしていました。
秀吉が上杉家を120万石に加増して会津に移したのは、これににらみを利かせるためでした。
更にこの年、景勝は、毛利輝元・宇喜多秀家・徳川家康・前田利家らと五大老のひとりに選ばれています。
景勝は、家康をおさえるキーマンに抜擢されたのです。
ところが・・・その年の8月、秀吉が亡くなると、時代は大きく動き出します。
1599年、徳川家康は伊達政宗と縁組・・・
東国での更なる勢力拡大に動いたのです。

奉行のひとり石田三成がこれに反発・・・前田利家の力を借りて、家康の動きを阻もうと試みますが・・・
頼みとしていた利家が病死、石田三成は佐和山城に蟄居となってしまいました。
主な政敵をことごとく排除した家康は、大坂城に入り、政務を行いはじめます。
そして・・・次なるターゲットとしたのが上杉家だったのです。

1600年4月上旬・・・兼続の元へ家康の外交僧・西笑承兌から書状が届きます。
”近隣の大名家が上杉家に謀反の動きがあると訴えてきた・・・
 景勝公は神指原で築城を進めているそうだが、甚だ本当ではない。
 一刻も早く上洛し、家康公に弁明すべきだ!!”
その頃、上杉家は若松城に代わる城の工事を始めていました。
家康は、この築城が謀反の証だと糾弾したのです。

会津若松から5キロのところに、神指城跡があります。
面積50ヘクタール、東日本最大の近世城郭でした。
発掘された内堀は、浅い段階で中止されていました。
会津と新潟を結ぶ阿賀野川・・・そのすぐ脇に神指城を造っていました。
水上交通で経済を発展させ、平地に街をつくる城下町構想でした。
狙いは・・・会津と越後を水運で結ぶことにありました。
その結果、商人たちは日本海航路を使って、産物を全国に輸出することができました。
築城は、会津に一大貿易都市を築くプロジェクトだったのです。

1600年4月14日、兼続は、西笑承兌に宛てて返書を認めました。
史上名高い「直江状」です。
兼続は、15項目に渡って天下の実力者・家康に向かって真っ向から反論します。

謀反のため武具を集めているといわれるが、槍鉄砲を集めるのは田舎武士にとっては日常の事。
逆心無くば上洛せよとは乳呑子相手の話・・・何とも対応の仕様がございません。
そもそも訴えたものの究明がなければ、上洛するわけにはまいりません。
兼続は家康に対して、景勝上洛は断じて飲むことはできないと主張しました。
1600年5月・・・事態は一転和解へ・・・。
大坂からの使者からの粘り強い交渉で、景勝上洛が取り決められました。

交渉における兼続の主張は・・・??
・上杉謀反を讒言した人物の取り調べ
・秋以降の上洛
妥協し、提示しました。

しかし、その思惑は、あっけなく覆されます。
家康が一足先に届いた直江状を逆手にとって、上杉家に対して態度を硬化したのです。
6月10日漬けの景勝への書状には・・・
「即刻上洛しなければ、会津へ出兵する」と書かれていました。
両者、一触即発となってしまったのです。

1600年6月16日、家康は会津征伐に出陣!!
秀頼から軍用金と兵糧が下賜され、豊臣政権の公的出兵と位置付けられます。
作戦は・・・伊達政宗、最上義昭が会津に通じる4つの街道から進軍・・・
家康と秀忠率いる本隊は、関東から上杉の本拠地・若松城に攻め込む!!
総勢10万を超える一大作戦でした。
兼続も、城石、米沢など領内の城に防衛体制を取らせます。
上杉景勝は、軍勢を率いて若松城を出陣!!
その数5万!!上杉の存亡をかけた防衛戦が始まろうとしていました。
ところが・・・戦端が始まろうとしたまさにその時・・・思わぬ事態が・・・
石田三成が挙兵したのです。
三成は、大坂城の奉行衆を説得し、豊臣政権を掌握したうえで全国の諸大名に打倒家康の檄を飛ばしたのです。
7月24日、家康、三成の挙兵を知り、
翌25日、江戸への撤退を決定!!
小山でこの知らせを聞いた家康は、全軍に会津征伐中止を・・・そして、撤退を始めたのです。
今や、家康は賊軍となっていました。
会津に三成の使者が来たのは、8月上旬。
どんな相談が持ち掛けられたのでしょうか?

真田家に西軍に加わるように要請する書状に、上杉との密約の内容が書かれていました。
”会津の上杉には、早々に関東表に出兵するように求めている”
つまり、家康の本拠地への侵攻作戦です。
しかし、家康は退却しながらも、着々と策を練っていました。
上杉に対する情報のかく乱もしていました。

兼続は・・・??
すぐに家康を追撃する??それとも??
家康派の急先鋒、伊達政宗と最上義光は・・・??
奥羽を固めて関東を攻める??

8月25日・・・景勝が石田三成に送った書簡には・・・
奥羽を掌握した上で関東出兵を実行するという手堅い策でした。
兼続は、すぐさま伊達と最上に対して降伏勧告を出します。
ところが、最上義光は一旦承諾したものの・・・時間稼ぎに終始します。
このままでは関東侵攻作戦は水泡と帰す・・・。
9月11日、兼続は大軍を率いて最上領へ侵入。

長谷堂城は、山形城の喉元に築かれた要の城です。
9月15日、上杉軍は、城の前の高台に陣取ってこれを包囲!!
上杉勢の兵力は最上勢のおよそ10倍・・・
容易に落とせると思った兼続は、長谷堂城への攻撃を敢行しました。
ここに、北の関ケ原と呼ばれる長谷堂合戦開始!!
ところが、この戦いで上杉軍は、最上軍を上回る死者を出してしまいます。
最上は、上杉との戦いを見据え、この城の要塞化を進めていたのです。

最上勢は、城の斜面に配置された切岸と曲輪を利用して上杉軍の猛攻を食い止めます。
怯んだ上杉軍の側面を、山形から派遣された伏兵が攻撃!!
上杉軍は総崩れとなります。
結局、兼続は3度にわたって攻勢をかけるものの断念せざるを得ませんでした。

北の開戦と同じ9月15日・・・関ケ原の戦い!!
決着は僅か1日・・・東軍の圧勝でした。
最上義光のもとに、この知らせが入ったのは9月30日。
時を同じくして兼続にも西軍敗れるの報が・・・。
最早ここまで・・・10月1日、上杉軍撤退開始。
最上勢がここぞとばかりに襲い掛かりますが、兼続も周到に構築した退却用陣地から鉄砲をあめあられと撃ちかけ応戦します。
最上義光・・・総大将の負傷に浮足立つ間に、無傷で撤退に成功!!
しかし、関東へ乱入し、家康と雌雄を決するという兼続の野望はここについえたのでした。

山形にある出羽亀岡文殊堂・・・
関ケ原の2年後、兼続が開いた歌会の記録が残されています。

「新を迎え旧を送る」

図らずも、会津から米沢に国替えをされて半年・・・その歌には、多くの家臣を引き連れて新しい人生に踏み出す兼続の決意が込められていました。

米沢には、今も兼続治世の名残があります。
最上川流域10キロにわたって作られた直江石堤・・・川の氾濫から田畑を守るために、兼続が率先して指揮を執って一つ一つ石を積み上げました。
戦のための石垣づくりから、民を守る石堤作りまで・・・兼続がこの世を去ったのは、関ケ原から20年後の事です。

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戦国大名・上杉謙信

戦国時代、最も有名な戦いの一つが川中島の戦い。
そこで、ライバル武田信玄と死闘を繰り広げた天下無双の戦国大名・上杉謙信。
その食生活はストイック。幼いころから寺で厳しい修行を行っていたので、大人になっても粗食を好み、肉を一切口にしませんでした。
「不識庵家中日用修身巻」では
”食事調菜 二種を過ぐるべからず”おかずは2種類以上取るなと粗食を薦めていました。

そんなある日・・・軍議の後、家臣たちと酒を酌み交わしていた謙信は、厠に立ちました。
ところが、いつまでたっても戻ってこないので、家臣が様子を見に行くと、謙信が倒れていたのです。
そしてその4日後、息を引き取りました。
検診の死因とは・・・??

死因①虫気説
検診の養子である上杉景勝が家臣に宛てた手紙には、「不慮の虫気」だったと書かれています。
虫気とは、寄生虫の病気で亡くなったとされていたのです。
厠に立ったということから消化器系の病気と判断したようです。
しかし、寄生虫は、最終的に排泄物と一緒に体外に出るので、現代の医学ではよほどのことがない限り寄生虫で命を落とすことはないとされています。

死因②梅毒説
梅毒は、戦国時代に大流行し、多くの戦国武将たちの命を縮めたといわれています。
梅毒トレポネーマという細菌が起こす感染症で、主に性交渉で広がります。
謙信は30歳の時に突然風毒腫・・・腫物ができ、これが徐々に悪化し、6年後には歩行障害を起こすほどになっていました。
その原因の一つとして考えられているのが梅毒なのです。
が・・・歩行障害を起こすのは第4期・・・第4期の症状には、ほかに認知症や精神障害も見られたはず・・・
しかし、これらが無いことから梅毒ではないと考えられます。

死因③脳卒中説
上杉家公式記録「謙信公諸御年譜」によると・・・
謙信は中風=脳卒中を患っていたというのです。
脳内出血、くも膜下出血、脳梗塞・・・謙信は、戦場でも度々軽い脳卒中の発作に襲われていました。
亡くなる8年前・・・1570年、41歳の時にも、脳卒中の発作を起こしていました。
命に別状はなかったものの、手に軽いマヒが残ったといわれています。
このように、度々脳卒中を起こした原因が・・・お酒でした。
大の酒好きだった謙信は、梅干し、みそなどの塩分の高いものを肴にお酒を飲んでいました。
しかし、この酒の飲み方が、病を引き起こします。
酒が原因とされる高血圧を発症し、塩分の多い酒の肴・・・さらに、過酷な雪・・・寒さで動脈硬化がすすんでいた。。。
謙信が倒れたのは4月ごろ・・・高血圧の謙信の血管は寒さで収縮し、動脈硬化で血液の流れが悪くなっていたので血が滞り、倒れたというのです。
脳梗塞で亡くなったと思われます。

戦国大名・上杉謙信
病歴:虫気、風毒腫
死因:脳梗塞
没年齢:49歳
でした。

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もちろんこの副題は、「許されざる者」からきてるんだろうなあ・・・
ほんと、イーストウッドも渡辺謙も、格が下がっちゃうと思ってしまうんです・・・

遂に寿桂尼様が亡くなられたという大事件を回顧もしなく、徳川に味方するかどうかから始まってしまったおんな城主直虎です。
今川から離れようとする井伊・・・武田・徳川との戦を決意し、戦備えをしだした氏真でした。

そんな中今川で・・・
氏真から呼び出される方久・・・何を・・・??

naotora

















気賀に蔵を作ろうとしていた方久・・・。
蔵を建てることを認める代わりに、此度の戦に備え、井伊を直轄地にしたいとの事・・・。
そうね・・・どう考えても、井伊を潰そうとしているのよ、今川は・・・!!

そうでなければ、井伊に徳政令を出すと・・・!!

そして、今川からの提案には、井伊が滅んでも、方久には今ある土地の安堵状が・・・
逆らえば、どうなるのか・・・??
それは但馬の預かり知らぬ事・・・
そう、寿桂尼は、政次と直虎を同じ穴の狢だと思っていたのです。

どうする??方久??

先日、寿桂尼に呼び出された直虎でしたが、それは、内通の疑いのある者を洗い出すためだったと政次から聞かされる直虎。

「あれは・・・われは試されておったということか・・・??」by直虎

って、それって当たり前じゃないの??
ビシビシと緊張感のない今年の大河です
「考えすぎじゃ・・・!!」by直虎
で、終わっちゃったよ・・・


naotora2

















「うむ!!」というとっても芝居がかった返事をしながら直虎が方久の元にやってきました。

naotora7













直虎がやってきたことに、腹が痛くなったり、腰が痛くなったり、仮病の方久ですが・・・

こんな「うむ!!」etc.の三文芝居をいつまで見させられるのか・・・
ムロツヨシさんもなんだか白々しいなあ・・・。
あ・・・白々しいのは「うむ!!」by直虎からか・・・。

naotora3

















蔵を建てると今川から連絡があったことは、政次も知らなかった模様・・・。

naotora4















今川の中で、政次の知らないことが増えて来たようです。

気賀に蔵を建てるのに、井伊に材木を頼まない方久を攻め立てる龍雲丸と政次!!

そして遂に、徳政令後の安堵状を龍雲丸に見つけられてしまいました

徳政令を出せば、今川は一兵も出さずに井伊を直轄地に出来る・・・!!

「徳政がどうであれ、井伊は取り潰されますよ。
 今川の目当ては井伊を直轄にすることですから・・・!!
 徳政なくとも、力を以て取り潰されるのがオチにございます・・・!!」by方久


そして遂に、井伊に徳政令のお下知が・・・!!??

naotora5

















「こたび、徳政をはねつければ、力に訴えられましょう。
 かような形でのおとり潰しは、寧ろ今川の温情かと・・・おとなしゅうお受けになりますよう。」by政次

「勝手なことをほざくな!!
 銭で潰れたなど、末代までの恥さらしじゃ!!」by直之


どうする??直虎!!??

もし徳政令を受け入れたなら、井伊の兵は今川として戦うことになる。。。
その相手は徳川!!
しかし、井伊は徳川とすでに結んでいる・・・。


あえて井伊を潰したうえ、今川の懐に入る・・・
そして、関口の首をあげ、徳川に指し出せば、井伊は・・・。
井伊は蘇る・・・!!


農民たちは、関口様に、徳政令を受け入れたくないと直訴し始めました。

「此度、かつてわしらが出した願いが元で、ありがたくもご太守様が徳政令をお出す下さると聞きました。
 なれど、わしらは井伊様の御恩のおかげで・・・すでに徳政を願う気持ちはなくしておりますで。
 わしらは徳政令を望まんで。。。どうぞ、お聞き届けくだせい。」by甚兵衛

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「俺を信じろ・・・信じろ・・・おとわ・・・!!」by政次

ということで、寿桂尼様のように男勝りなおんな城主ではなく、お姫様のように周りの人(政次・龍雲丸・甚兵衛)が助けてくれるなんとものほほんとした城主な直虎です。

最近の時代劇は、こんな現実的な作品がいいのかもしれません。
映画でもそうですよね、現実的で、理にかなった作品が多いように思います。
個人的には冒険活劇が大好きなので、男らしい大きな作品を見たいんですが・・・あ・・・女主人公でした。

ま、細部にわたってきめ細やかに描いてくれていることは間違いないので、市井の人々の生活をじっくりと見ることができるのはいいかもしれません


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越後の龍・上杉謙信・・・語り継がれてきたその姿は、まさに英雄!!
生涯戦績70勝!毘沙門天の化身とされ、助けを求められればそれに応えどこにでも向かう!!
無欲にして義の武将・・・しかし、全く違う顔のあることが判ってきました。
その手掛かりが、上杉家に代々伝わる国宝・洛中洛外図屏風。
天才絵師・狩野永徳の作とされ、京都の風俗が絢爛たる色彩に書かれています。
その中・・・塗りの輿に乗って都大路を進むのが・・・一説に上杉謙信だと言います。
この絵を描かせたのは、時の室町幕府将軍・足利義輝。
越後の一大名と京都の将軍・・・二人の間に太いパイプが伺えます。
幕府再興のために上洛する謙信・・・これが、謙信の人生、戦国の世を大きく変えるターニングポイントでした。
この時、謙信が都でかわした契約書が残っています。
上杉謙信・・・その知られざる野望とは・・・??

1530年長尾景虎(謙信)は・・・越後守護代・長尾為景の子として生まれます。
1548年、父の死後、19歳で長尾家の家督を継ぎ守護代へ!!
直面したのは、国内の政治的混乱でした。
その頃の越後は、幕府が任命した守護である上杉定実を、守護代である長尾家が補佐。
強大な軍事力で民衆を押さえていました。
しかし、父・為景の死を好機と見た国衆の一部が反乱を起こします。
1550年には、上杉定実も死去。。。上杉家は断絶。
この非常事態に謙信が切り札としたのは、室町幕府でした。
謙信一行の姿が描かれたと言われる洛中洛外図屏風。
先頭の馬には毛織物製の豪華な嵓飾りが・・・本来、守護にしか使えないものです。
幕府はそれを謙信に与え・・・謙信は越後の主としての資格を得たのです。
それも、定実の死から二日後に・・・。

どうしてそんなことが可能だったのでしょうか?
謙信と義輝の間で暗躍していたのが、神余氏・・・京都在住の武士です。
この人物こそキーマンで・・・神余氏と契約を交わして、越後の代弁者として活動してもらったのです。
神余氏は、3代にわたって越後の特務機関として働きました。
貴族が主催する連歌の会や、酒宴にもぐりこみ、集めた情報を謙信に送っていたと考えられています。
謙信は、きわめて活発な諜報活動を行い、幕府との関係を築いていたのです。
幕府の権威を背景に、政治力をつけていく謙信・・・
将軍義輝が謙信に送った書状には・・・
太刀一腰と金子三千疋を受け取った・・・謙信は、金品や名馬などを贈り、義輝と親密な関係を結んでいたのです。
ではその費用はどのようにして賄ったのでしょうか?
謙信の中央工作を支えたのは、新潟県小千谷市・・・麻織物です。
青苧・・・木綿が一般的となるまでは、麻織物が珍重されていました。
謙信は、その栽培と生産を奨励し、越後に巨大な繊維産業を作り上げました。
越後上布・・・京大坂の商人は越後を訪れ、競うようにして青苧を買いました。
それこそが謙信の狙いでした。
謙信が領内に出した触書には・・・
”青苧座の船は、積荷の量を調べ税を課す”
青苧を越後の外に出すという行為に、税をかけたのです。
生活に欠かせない繊維の流通を押さえ、巨大な富を得た謙信は、その富で中央工作を行い、越後支配を盤石なものにしたのです。

しかし・・・1553年・・・謙信が頼みとする将軍・足利義輝が京都を追放されてしまいました。
黒幕は三好長慶・・・近畿から四国にかけて13か国を支配していた大大名です。
三好長慶は、将軍を上回る実力を持つと西欧諸国にも認められていました。
この都での政変・・・上洛し、・三好を屠殺すべし・・・
1559年謙信は越後を発し上洛・・・その数五千!!
軍事力を背景に将軍家の復権を図る!!
謙信・・・起死回生の賭けが始まりました。

北陸道を西へ向かい京を目指す謙信と五千の兵・・・
領内を通過する大名に根回ししていたので、道中は非常に順調・・・
中でも三好の専横に反発する朝倉義景、六角承禎からは盛大にもてなされ、三好討伐の意を新たにします。
4月27日、上杉軍上洛!!
ところが・・・驚くべき知らせが・・・!!
甲斐の武田信玄が信濃に軍事行動を開始した!!というのです。
当時、甲斐の国主となっていた信玄は、徐々に領土を北に拡大し、謙信とは川中島で3度戦っています。
謙信上洛に当たっては、将軍・義輝が仲介し、両者は和平を結んでいました。
信玄は、一方的にそれを破ったのです。
このまま京で三好を討つのか??
領国に戻り、武田の侵攻に備えるのか・・・??
どうする??謙信!!

越後防衛策・・・??
しかし、信玄は謙信が帰国をすることは想定内。
この頃都では、謙信が帰国を望んでいるとの知らせを聞いた将軍が謙信の忠節に疑いを持ちはじめたという噂が・・・広がっていました。
一説には、背後には信玄の情報工作があったと言われています。
このまま帰国すれば、その信頼を完全に失ってしまう・・・。

京都制圧策・・・??
朝倉、六角の大名は、幕府支持の思いが強いので、三好に対抗できる・・・??
進むべきか退くべきか・・・??

思わぬ人から第三の選択肢が・・・!!
関白・近衛前久・・・姉が将軍義輝に嫁いでいることから、両者は親密な関係にありました。
前久は、幕府が弱体化し、大名達が勝手に領地を奪い合っていることを憂いでいました。
そんな折、幕府の危機を救うために上洛した謙信の行動は、前久を動かしたのです。

そして・・・京都近くの近江坂本で二人は密会・・・
この時、前久が謙信に渡したのは、自らの血文字の誓いの文書・・・

”才覚の及ぶ限り、心から馳走いたす”

便宜を計って、関東管領職を継承できるようにお膳立てを・・・というのです。

関東管領は、関東公方(足利氏)に次ぐ関東のNo,2の役職です。
しかし、当時、その秩序を脅かしていたのが関東の北条氏康でした。
北条氏は、早雲以来、その勢力を北に伸ばし、上野にまで及んでいました。
時の関東管領・上杉憲政は、越後へ逃亡!!謙信に匿われていました。
前久は、その地位に謙信をつけようとしました。
「密事は決して他言いたしません。」by前久
密事とは・・・??
関東の軍勢で上洛し、三好、松永を一掃し、京都の政治も一気に掌握!!
東国と畿内から、戦国の時代を変えていこうとしていたのです。
謙信が東国支配の要として幕府を支えるというものでした。

これが関東進出策・・・??
しかし、武田に加え、北条と戦うというのは、これまでの小競り合いではなく大戦になる・・・!!
越後に戻る??都に残る??関東を平定し再び京に戻る・・・??

関白・近衛前房との面会から5日後・・・謙信は将軍義輝と面会。
この時、義輝から下された御内書に・・・謙信の関東管領内定が・・・!!
謙信は、関東進出策を選びました。
そしてその効果は絶大!!
越後だけではなく、信濃などの周辺領主が、謙信に祝いの太刀を献上。
中には、武田にいたはずの真田家も・・・!!
一旦帰国し、関東に乗り出す・・・しかし、武田、北条の二正面作戦はいかにも分が悪い・・・
しかし、謙信には秘策が・・・!!
甲府市勝沼・・・周囲に堀をめぐらせた要塞が・・・要塞の館の主は、信玄のいとこにあたる勝沼信元。
親族衆筆頭として本家に次ぐ軍事動員力を誇っていました。
甲陽軍鑑には・・・勝沼五郎殿内通・・・謙信は、信元への裏切り工作を進めていたのです。
信玄の信濃進出の留守を狙い、信元が本拠地の甲府を襲って、新上杉政権を樹立し、背後から信玄を襲う策略でした。

万全の手配りを終え・・・
1560年8月関東へ出陣!!
北条氏の支配に不満を持っていた人々は、謙信の元へ馳せ参じ、その数11万!!
圧倒的な戦力を誇る連合軍は、各地で北条を撃破!!
1561年3月には、本拠地小田原城を包囲!!
一方氏康は、ゲリラ戦を展開し、戦況は膠着状態に・・・!!
3月・・・謙信は鶴岡八幡宮で、正式に関東管領に就任。
東国からの幕府再興に向けての第一歩でした。
しかしその帰り道、事件が起こりました。

甲陽軍鑑には・・・
忍の成田長泰がかしこまっていると・・・謙信が他の者より図が高いと言って、持っている扇で顔を二回打った・・・余りに屈辱に、成田は謙信に無断で帰国!!
他の武将も、ことごとく陣を引き払ってしまいました。
11万の大軍が・・・空中分解してしまったのです。
原因は、謙信と諸将の意識の差にありました。
彼らは謙信の家臣ではない・・・と、思っていたのです。
さらに背後で予期せぬ事態が・・・
勝沼信元の裏切りが発覚!!成敗されてしまいました。
信玄は、上杉軍を信濃から追い出すべく、進攻を開始!!
越後攻略の起点となる海津城の整備を始めました。
本国を襲われかねない事態に、関東攻略を諦め、越後へと帰国・・・。
再び関東を攻略するためには、信玄を討ち取るしかなくなってしまったのです。

1561年9月10日、両雄は4度川中島にあい見えました。
第4次川中島の戦い・・・上杉軍は、信玄本陣めがけて正面突破を敢行!!
信玄の弟・信繁を討ち取る大戦果をあげます。
残るは、信玄ただ一人・・・!!
謙信が自ら信玄に斬りかかったのがこの時です。
しかし、あと一歩まで追いつめたとき・・・武田の別動隊が、救援に来たのでした。
戦況は逆転、謙信は軍を退かざるおえなくなります。
関東進出策は、ここに潰えたのです。

1565年5月・・・時代が大きく動きました。
将軍義輝が、三好一族によって暗殺されたのです。
1566年3月・・・謙信の元に、一通の書状が・・・差出人は、義輝の弟・義昭!!
「上洛し、幕府を再興する手助けをしてほしい」・・・と!!
しかし、武田と北条の泥沼の戦いをしていた謙信に余力はありませんでした。

1567年、義昭を奉じて京都に入ったのは・・・尾張の新興大名・織田信長でした。
信長は、都から三好の勢力を一掃!!
義昭を将軍に就け、室町幕府再興を果たすのです。
再び幕府の権威の元、秩序ある時代が来るのだろうか・・・??
しかし、信長の行動は、謙信の想像をはるかに超えていました。
1573年、信長は義昭を都から追放!!
200年以上続いた室町幕府は終焉を迎えるのです。

信長許すまじ!!

1577年9月、謙信は、加賀国・手取川で織田軍と激突!!
上杉軍は1000人以上討ち取る大勝利を挙げます。
謙信は、家臣に書き送っています。
「この分では天下への道も容易いものだ。」と。

信長にとって代わって、幕府を自分が支える・・・
謙信は、そんな道筋を見据えたのでしょうか??
しかし、1578年3月9日・・・春日山城で出陣の準備をしていた謙信は、突如発病!!
4日後にこの世を去るのです。
1578年3月13日、上杉謙信死去・・・享年49歳でした。
新潟県上越市にある上杉氏の菩提寺である林泉寺・・・
謙信自ら筆を取った言葉が残されています。
「大夢」・・・人生は夢幻のようだという仏教の無常観を表しています。
人生は夢のごとし・・・しかし、謙信は一途にその夢を生きたのかもしれません。



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