日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:中大兄皇子

日本史の叛逆者 私説・壬申の乱【電子書籍】[ 井沢 元彦 ]

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今からおよそ2000年前、中国の皇帝から与えられたと言われている金印・・・
刻まれているのは、”漢委奴国王”の印・・・委は、当時のこの国の呼び名・・・この名を日本に改めたきっかけとなった戦いがりました。
672年、大海人皇子と大友皇子が皇位継承争いをした古代最大の内乱・・・壬申の乱です。
その50年後に成立した日本書紀には・・・
大海人皇子は、権力に野心がないことを示すために出家・・・吉野に隠棲していました。
ところが都にいる大友皇子は兵を集め始めました。
そのため止む無く大海人も挙兵!!
結果、僅か1か月で、大海人軍が大勝利を収めたのです。

しかし・・・近年日本書紀の記述は、正当防衛を主張する大海人・・・天武天皇の創作ではないか?と言われています。
壬申の乱勃発の本当の理由とは・・・??


壬申の乱から遡ること5年の667年・・・
日本書紀には、都が近江に移されたとされています。
都の西岸に位置する大津宮です。
飛鳥からこの地に遷都したのは中大兄皇子(天智天皇)です。
その片腕として活躍していたのが、弟・大海人皇子です。
天智が大和政権下で権力を握って以降、兄を支えてきた大海人は、自他ともに認める後継者でした。
しかし・・・天智天皇が最高位の太政大臣に任命したのは息子・大友皇子を任命・・・僅か24歳での大抜擢でした。
これをきっかけに王位継承は、新しい局面を迎えました。
太政大臣は新しくできたポストで、その役割は一つに政策的なトップ、もう一つは有力な皇位継承者という意味を含んでいました。
大海人にとって、天智への不信感が出てきたのです。
天智のブレーンだった中臣鎌足の伝記には・・・天智不満を持った大海人が、宮中での宴会に乱入し、長槍で敷板を刺し貫いたというエピソードが書かれています。
その後、大海人は出家し、政治の実権は大友が握ることに・・・!!

奈良県にある吉野・・・万葉集にも詠まれた風光明媚なこの土地に、大海人が隠棲する吉野宮がありました。
天智の崩御の半年後の672年5月・・・大海人の元に知らせが・・・
出家した大海人を危険視した大友が、攻撃の準備に取り掛かっているというのです。

「今、避けることのできない禍が、私に降りかかろうとしている。
 どうしてこのまま黙っていられようか・・・!!」by大海人皇子

1か月後・・・兵を集め始めました。
つまり、正当防衛のために、やむをえず挙兵したというのです。


6月24日、大海人皇子は吉野宮を出立!!
同行するのは大海人の妃・鵜野讃良皇女をはじめ側近たち30人ばかり・・・。
しかし、3日後の26日に美濃兵3000、尾張兵20,000が合流・・・出発からわずか4日で、3万の軍勢を手に入れました。
一方、6月26日、大友も大海人の挙兵を知って、人を集め始めます。
しかし、東北へと向かった使者は、不破で捕獲されてしまいました。
不破は、近江と東国を結ぶ交通の要所・・・
大海人は、吉野を立つ二日前に、東国に向かう使者に伝えていました。

「軍勢を発し、速やかに不破の道を塞げ!!」

この為に、大海人軍に封鎖されていたのです。
さらに大海人は、もう一つの交通の要所・・・大津宮と東北を結ぶ鈴鹿山道も押さえていました。
なので、大友は、東北の兵を集めることができませんでした。
一方、吉備や筑紫など西国に向かった使者も、目的を果たすことができませんでした。

そしてついに始まった直接対決!!
しかし、十分の兵を集めることのできなかった大友の軍は、一方的な敗北を喫することに・・・
7月22日大津宮陥落!!
翌日、大友皇子自害!!

大海人皇子は、吉野出立からわずか1か月足らずで、完全勝利を収めたのです。

しかし・・・日本書紀には不審な点が・・・
特に、大友からの危険を知り、僅かの供と吉野を出た大海人に、4日間で3万の兵が扱ったことは、事前の準備がなければ考えられません。

大海人側は、かなり用意周到に計画をして立ち上がったのでは・・・??
日本書紀に書かれている記述が全てではない・・・。


壬申の乱の直前、委国は未曽有の外交的危機に直面していました。
きっかけは、663年の白村江の戦いです。
倭国初めての本格的対外戦争でした。
中大兄皇子の軍は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の復興を助けるために、朝鮮半島に大軍を派遣!!
しかし、唐の大艦隊を前に、1万の援軍は僅か2日で壊滅・・・大敗北を喫しました。
その後、倭国は、唐、新羅がいつ攻めて来るかわからない中、対外的脅威にさらされることに・・・
そこで中大兄は、倭国防衛のために、九州、瀬戸内にたくさんの山城を・・・
667年には、近江へ遷都し、海岸線から遠くに都をおきます。

日本初となる戸籍「庚午年籍」を作成し、全国の土地や民を速やかに把握し、税や兵を集める仕組みを作ろうとしました。
白村江の時は、兵士の動員には要請から2年ほどかかっています。
その教訓から、定量的な帳簿を作り、それに基づく兵士や労役の動員が可能になるシステムを作り出したのです。

即位して中大兄は天智天皇となります。
対外的な危機感を利用し、中央集権・・・国内改革を一気に推し進めようとしていました。

一方で、東アジア情勢は、益々緊張・・・
壬申の乱の4年前には、唐・新羅連合軍が、朝鮮半島の高句麗を攻め滅ぼします。
翌年、標的を倭国と定め、軍船の修理に取り掛かりました。
次は倭国が・・・??
と思われていましたが、新羅が朝鮮半島統一を目指して唐と対立!!
これによって唐は、戦いの矛先を新羅に変えます。
倭国の危機は一旦去ることに・・・。

新羅は本格的に、倭に遣いを送り、倭との友好を求めてきました。
新羅も高句麗と同じように、唐に滅ぼされる危機から逃れ、新羅の地位を維持しようとしていました。
この新羅からの使者に対して倭国は船を送るなど手厚く歓待・・・以後毎年、両国の間で使者が行きかう関係を築くことに・・・

669年遣唐使を派遣・・・
こうして、唐と新羅、敵対する二つの国と、友好関係を築くという両面外交をすることで、一定の距離を置こうとしていました。
しかし、壬申の乱の前年・・・この方針の変換を迫られる事件が・・・
671年1月・・・唐からの使者が来訪。
朝鮮半島における、唐の立場は不安定で、倭に武器・武具を求めたり、軍糧・食料を要求したかったのですが・・・唐の味方になる事を迫られます。

この月、天智は大友皇子を太政大臣に任命。
同時に、鬼室集斯を重用・・・鬼室集斯は、唐と新羅に滅ぼされた百済からの難民のひとりで、数千の難民が近江に居住していました。
先進的な文化や技術を持つ彼らを、天智は招き入れていたのです。

これらの百済からの難民たちは・・・
基本的に、新羅に立敷いて伝統的に敵国意識があります。
唐は、旧百済領に熊津都督府を置き、百済の地元民たちの政治・自治を尊重してくれていました。
どちらかを選べと言われれば・・・唐!!

唐と新羅のどちらに味方するのか??
それとも、不介入を決め込むのか・・・??外交方針の決定を迫られていたのです。

危機感があるから天智に協力したのに、実は危機は日本には来ていないという事実・・・。
豪族たちは、天智に対する反発が強くなってきていました。

671年倭国が外交的機に直面していた頃、天智が突然病に・・・
先が長くないと悟った天智は、大海人を呼び・・・

「私の病気が重いので、あとのことをそなたに託したい。。。」by天智天皇

大友の太政大臣抜擢で立場が揺らいでいた大海人にとっては皇位に着く最大の機会・・・!!
しかし、倭国は今、朝鮮半島に介入するかで岐路に立たされている・・・

王位を継承する??
しかし、天智の急進的な改革に、豪族たちは不満を抱いていました。
豪族たちは、これまで自分たちの本拠地に住み、不定期で大王の宮に奉仕するという体制をとっていました。
大津遷都によって、遠く離れたところに暮らさなければならない。。。
おまけに、中間搾取、既得権益が、国家がメインになって徴収することで、収奪、編制、自分たちの旨みが無くなってしまった。
反対の人か・・・飛鳥から大津に遷都した際には、不審火が多発したと言われています。
さらに、朝鮮半島情勢に加われば、豪族たちの不満は噴出する可能性が・・・!!

王位を辞退する・・・??
不満はすべて大友に・・・しかし、大友に政を任せていいのか??
百済からの難民にささえられている大友は、唐との関係が深まれば、出兵を乞われるかもしれない・・・。
白村江の戦いの二の舞になるのではないか・・・??
誰が田畑を耕すのか・・・??

671年10月、王位を継いでほしいという兄・天智天皇に対し、大海人は・・・
「私は不幸にも病気がちで、国を保つことができません。
 どうか天下を皇后に・・・そして、大友皇子を皇太子になさいませ。」
大海人は、王位の辞退を申し入れます。

しかし、672年大海人が吉野から挙兵し、壬申の乱勃発!!
1か月で完全勝利を収めるのです。
実は、大海人が挙兵を決断したのは、自己防衛ではなく、大友の外交方針だったともいわれています。
日本書紀に・・・
大友が唐の使者に鎧や兜、弓矢を送ったと記載されています。
唐からの使者に、直接兵は出さなかったものの、武器や軍需物資を与えていたのです。
これは、それまでの倭国の外交方針からすると、かなり踏み込んだものだったのです。
大海人は、大友が唐よりに外交方針を変えたことを見届けて、挙兵したのです。

壬申の乱に勝利した翌年の673年、飛鳥浄御原宮に遷都。
そして、天武天皇として即位すると、外交問題に新しい方針を打ち出します。
唐と新羅どちらの味方にもならず、遣唐使の派遣を取りやめたのです。
その後、半島での戦いは、新羅の勝利に終わり、そのため、恐れていた唐からの報復を受けることもありませんでした。

これまで、倭国は高句麗や百済を防波堤にして、中国からの直接侵攻を妨げてきていました。
次は、新羅を防波堤にしたのです。
外交問題の難局を乗り越えた天武天皇は、新しい国家づくりに邁進します。
新城に都を・・・!!
幻の都・新城・・・後に持統天皇が完成させた藤原京の発掘現場の下の層から、新城の遺構が発見されました。
そこでは、東西と南北に沿った道路が直角に交わっていました。
これがのちに、藤原京で初めて完成する碁盤の目の都市計画なのです。

さらに681年、天武は国にとって大切な、律令と国史の編纂に取り掛かります。
それは・・・”大宝律令””日本書紀”として結実します。
飛鳥池工房遺跡には、最古の貨幣・富本銭が見つかりました。
この遺跡からは、さらに”天皇”と書かれた最古の木簡が発見されました。
それまでの大王から天皇へと改めたのもまた、天武だったと考えられます。

新たな国造りをした天武天皇は、686年に崩御。
しかし、天武の事業は、跡を継いだ持統天皇らによって受け継がれていくこととなります。
そして、この国始まって以来の律令が完成した翌年の702年、33年ぶりとなる遣唐使が大陸に渡るのです。
使者は、唐の皇帝に対し、新たなる国名を・・・それが、「日本国」でした。



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古代の日本が直面した国家存亡の危機・・・それを物語る遺跡が福岡県筑紫野市(前畑遺跡)で発見されました。
丘の上に築かれた巨大な土塁・・・砂や粘土を敷き詰めて固めた版築と呼ばれる堅固なものでした。

長さは発掘されている部分で500m・・・この発見で、古代日本では作られたことがないとされてきた施設の存在が浮かび上がってきました。
羅城です。
羅城とは、外敵の侵略に備え、都市全体を取り囲んだ城壁や土塁などの防御施設のことです。
発見された土塁は、九州の大宰府を防御する為に作られていた可能性が・・・
羅城を築くきっかけを作ったのが、古代日本最大の戦争・・・白村江の戦です。

663年、倭国は滅亡した朝鮮半島の王朝・百済の復興を助けるために、大軍を朝鮮に派遣。
大陸の王朝・唐の大艦隊と朝鮮半島の沿岸部で激突!!
そして、圧倒的な戦力差を前に敗北を喫するのです。
この戦いを決断したのは、当時倭国の実権を握っていた中大兄皇子。
開戦後、倭国侵攻に備えて全国に防御システムを築きました。
白村江の戦いは、人々の危機感を一気に高めていきます。
どうして強大な唐に戦いを挑んだのでしょうか・・・??

645年に発生した乙巳の変・・・
この政変で蘇我氏に代わって実権を握ったのが皇太子・中大兄皇子でした。
クーデター当時僅か20歳・・・天皇を両親に持つ有力者でした。
大阪市・・・乙巳の変の後王宮となった難波宮・・・蘇我氏打倒の直後、新しい政治をアピールするため、日本初の元号・大化を定め、長らく親しんだ飛鳥から遷都しました。
南北600mを越える強大な王宮で、南側には朝堂院が・・・広大な空間は、皇族たちが列席する中、重要な儀式が行われました。
646年1月1日、元日朝賀のあと、孝徳天皇による新政権の改革方針が発表されました。
改新の詔です。
それは、大王を中心とする中央集権体制でした。

この時代、土地と民は豪族たちが私有していました。
大王が、税や兵を徴集する場合、豪族を通す必要があり、思うように徴収できないこともありました。
改革は、全国の土地と民を大王のものとし、豪族たちを国家から給与をもらう官僚とすることでした。
これによって国家による税や兵の徴収が速やかに可能となります。
倭国が強大な軍事力を手に入れるためには必要な改革でした。
どうして中大兄は軍事力を必要としていたのでしょうか??
それは、海外情勢の危機感です。

7世紀に入り、東アジアは激動の時代を迎えていました。
7世紀前半、唐が中国を統一、すると、高句麗・百済の侵略に晒されていた新羅が唐に助けを求めるようになります。
これによって東アジアは、唐・新羅陣営と、それに対抗する高句麗・百済陣営に二分されました。
中大兄は、唐の脅威と不安定な情勢に備えるために、中央集権化に進む必要がありました。そして、外交面でも・・・
646年、新羅に使者を派遣。
最新の文化や技術をもたらす百済や高句麗の有効はこれまで通りに、新羅にも接近・・・全方位外交をしようとしたのです。
百済一辺倒の外交は、もう時代遅れ・・・。
倭国は、新羅を通して唐に接近、どの陣営にも属さない方針をとったのです。

国内の改革は、遅々として進まず・・・孝徳朝の改革に抵抗する人たちもいたのです。
中央集権化や官僚制度が成り立たない・・・。
豪族の私有地、私有民を大王のものとする改革・・・既得権益を失う豪族たちの多くは反発していました。
改革がままならない中・・・目まぐるしく変わる海外情勢について行かなければなりません・・・。

654年、朝鮮三国と均等に交流するという倭国の外交方針にほころびが・・・
倭国の遣唐使が、唐の皇帝から命令を受けます。
「倭国は新羅、高句麗、百済と接近しているが、もし危急の事態となれば、兵を出して新羅を救うように・・・」
高句麗、百済との関係を断ち、唐・新羅陣営に来るように要求したのです。
660年7月、朝鮮半島で・・・百済が唐・新羅連合軍18万の軍勢に攻撃され、滅亡したのです。
百済の都は陥落し、百済王は唐に連行されたのです。
倭国は最大の友好国を失ってしまいました。
数か月後・・・中大兄のもとへ使者が・・・
使者を送ったのは、百済の将軍・鬼室福信。
生き残った百済の人々は、百済の復興を目指し、半島各地でゲリラ戦を展開していました。
使者は、中大兄らに軍事支援を要請をします。
当時倭国に滞在していた百済の扶余豊璋を新しい王として迎えたいと帰国を促したのです。

百済復興を支援する??
それとも百済を見捨てる・・・??

倭国にとって朝鮮半島に強い影響力を持つことは重要だったと考えられます。
が・・・どうする・・・??

百済滅亡の翌年の661年1月、中大兄は時の大王・斉明天皇と共に難波を出港・・・筑紫国に向かいました。
日本書紀には、出発前の斉明天皇の言葉が書かれています。

「百済の人々は、戈を枕にし、肝を嘗める苦労をして救いを求めてきている。
 その志をどうして見捨てられようか。」

倭国は百済復興の支援を決断します。
661年9月、5000の兵が、朝鮮半島に渡ります。
その中には、百済皇子・扶余豊璋もいました。
出国直前、中大兄は扶余豊璋に、倭国の官位の一つ織冠を与えています。
これは、中大兄の臣下の身分に入ったということです。
しかし中大兄は、遠征軍を送った後、1年半の長きにわたり動きませんでした。
その理由は・・・??
中大兄は、百済支援を決断してから兵を動員するのに時間を費やしていました。
各地方豪族に民衆の徴発を命じて、徐々に軍隊を集めていきながら、中央の豪族から任命された将軍がそれを率いる・・・
なかなか中央集権的に、命令を下して軍隊が集まってくるという構造にはなっていなかったのです。
倭国が兵を集めるのに時間を擁している間に、戦局は次第に百済復興軍にとって不利になっていきます。
663年・・・唐は高句麗征討いったん中止し、百済殲滅を最優先とする方針に変え、主力を百済に投入。
さらに、百済復興軍の中でも足並みが崩れ始めました。
百済王・扶余豊璋と、将軍・鬼室福信が対立!!
これによって鬼室福信は殺害されてしまいました。
豊璋は、長く日本に住んでいたので、再興した百済が実質的に日本の支配下に置かれてもあまり抵抗はなく、しかし、鬼室福信は、極力、日本の干渉を避けたかったのです。百済の自主独立の考えだったのです。
一方、唐・新羅連合軍では軍議が行われ・・・
”周留城は敵の巣穴。周留に勝てば、諸城は自ずと下るだろう”
唐・新羅連合軍は、豊璋の籠る周留城を水陸から攻めます。
総力を持って撃破する作戦です。
それに対し、中大兄の作戦は対照的で・・・
新しい兵・2万7千を、新羅本国への攻撃に、1万の兵を周留城救援に向かわせたのです。
663年8月27日、1万の遠征軍が白村江に到着!!
倭の援軍を待っていたのは、周留城攻略のために集まっていた唐の大軍勢でした。

唐はどれほどの海軍力だったのでしょうか??
軍船の一つは楼舡・・・山荘の櫓を持ち、甲板の上を馬が走り回れるほどの船でした。
防火のために、皮で覆われた外壁で、投石機で敵を攻撃します。
小型船・蒙衝は、敵戦に素早く近づき、窓から槍や強力な矢を持つ弩で攻撃します。
倭の兵士たちは果敢に大艦隊に挑む者の、圧倒的な戦力差に次々と破れていきます。
これが白村江の戦いです。
倭国軍は、400もの船を焼かれ、その煙は天を覆ったといいます。
海は、倭国の兵の血で赤く濁ったといいます。

縦割り的なバラバラな仕組みの日本・・・
唐の軍隊は、軍団制度に基づいて、常に軍事訓練をしていました。
集団先鋒で、整然と相手を追いつめたのです。
1万の遠征軍は、僅か2日で壊滅!!
百済復興軍の立て籠もる周留城も落城。
百済王・豊璋は高句麗へと逃げ、行方不明となりました。
ここに中大兄の支援策は失敗し、百済復興がなされることはありませんでした。

中大兄は、百済復興のために3回・4万2千の兵を派兵しています。
1回目・・・661年9月第一次遠征軍・・・・・・5000
2回目・・・663年3月第二次遠征軍・・・2万7000
3回目・・・663年8月第三次遠征軍・・・1万・・・白村江で大敗

その後・・・
中大兄は唐・新羅の倭国侵攻に備え、軍事施設の建設に邁進します。
福岡県筑紫野市の前畑遺跡・・・巨大な土塁は、中大兄が侵略の危機感から築かせたものだとされています。
羅城とは、中国では一般的な、都市全体を囲んだ城壁のことです。
古代日本には存在していないといわれてきました。
九州における大和政権最大の出先機関・・・大宰府。
これまで外敵の侵略経路の博多湾から大宰府までを中心に複数の防御施設が発見されています。
数少ない大宰府南東の遺構である前畑遺跡・・・前畑遺跡の登場で、中大兄が羅城を建設しようとしていた可能性が出てきました。
50キロ以上の防衛ラインを・・・東アジア最大の羅城となります。
国難に備えた国家プロジェクトとして行われた大事業だったのです。

さらに・・・中大兄は羅城に留まらず、防衛のために瀬戸内海に古代山城を築きます。
これらの防御施設は、亡命してきた百済の技術者の指導で行われました。
しかし・・・朝鮮半島では新羅が唐と対立し、唐が倭国を侵略することはありませんでした。

668年中大兄は近江大津宮で大王に即位・・・天智天皇となります。
2年後・・・日本初となる庚午年籍を作成。
大敗戦の経験は、豪族たちの危機意識を生み、天智天皇の改革に協力する機運を高めていたのです。
中央集権化が進んでいきます。
東アジアの中で生き残るために・・・!!

改革・・・しかし、残された時間は少なく・・・天智天皇は志半ばで病に倒れます。
671年天智天皇崩御・・・46歳でした。
天智天皇の死後、倭国では皇位継承をめぐり壬申の乱が起きます。
この内乱に勝利した天武天皇は、天智天皇の志を受け継ぎ、国内改革を推し進めます。
そして、中国の制度・律令を導入し、天皇を中心とした中央集権体制を完成させるのです。
古代日本の転換点となった白村江の戦い・・・数多の犠牲を経て、日本は国家としての形を整えていくのです。


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久しぶりに「歴史秘話ヒストリア」観ました。
いつもはあんまり見ないのですが・・・今回は持統天皇&里中満智子さんだったからです。

持統天皇・・・幼名・鸕野讃良皇女・・・
その波乱に満ちた生涯は・・・645年大化の改新から始まりました。
実行者・中大兄皇子・・・この年に讃良は中大兄の娘として生を受けます。
13歳で中大兄の弟・大海人皇子との結婚を命じられます。
叔父との政略結婚でした。

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明るくおおらかな大海人を深く愛するようになった讃良。。。

兄・中大兄と外交問題を巡って対立しますが、讃良は夫を支持!!




と、番組は続いていたのですが・・・。
NHKさん、今回は手抜きですか・・・??
タイアップですか??と、思ってしまった・・・

天上の虹(23)<完> (KC KISS)

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今回は、1983年に連載を開始して、先日完結した里中満智子さんの「天上の虹」に沿っての50分でした。

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里中満智子さんは漫画家としてだけではなく、本当に古代日本史研究の第一人者と言ってもいい方だと思っています。
すごく研究していらっしゃるし、尊敬しています。
それは間違いないのです。

が・・・私が「歴史秘話ヒストリア」をあまり好きになれない理由のひとつ(深掘りしない)かもしれませんが・・・。
今回は、里中満智子さんが書いた”持統天皇の紹介!!”に見えたんです。。。

もちろん人間なので愛憎も必要で・・・
なんですが、やっぱり「天上の虹」は作品だから。。。
って・・・こんなこと書いたら、里中満智子さんが嫌いみたいじゃないの・・・
そうではないのです。
里中満智子さんの知識力がハンパないから、そこをもっと出してほしかったんです。。。
その上で「天上の虹」を紹介してほしかった。。。

持統天皇に関しては・・・
私が習った歴史な感じは、夫(天武)⇒孫(文武)のつなぎみたいでしたが・・・
そんなことは全くなく、女性でありながら国内外の政治をてきぱきとやったすんごい人です。
白村江の戦い以降、中国や朝鮮と対等に付き合うために粉骨砕身頑張った女帝なんです。

例えば・・・
古代日本のハイウェー~1300年前の列島改造~はこちら
謎の都 飛鳥京発掘~蘇る水の都~はこちら
こんなことに関わっていたことは間違いありませんし・・・

壬申の乱 古代史最大の内乱が日本を築いた!はこちら
古事記~国家統一の物語~はこちら

こんなすごい時代だったんです。

ま、天皇みずから剣をとって戦っていた時代があったなんて・・・
この後の天皇やおじゃるをみているとびっくりですよね。
後白河天皇や後醍醐天皇が刀をとって魔王のように言われていますが、この時代はそれよりもスゴイ、まさに天皇・・・って言うか、皇子か・・・。
皇子自らが刀をとって、国造りのために戦った時代だったのです。

だからこそ、里中満智子さんはこの作品を32年という長い年月をかけて仕上げたんだと思うんですよね。。。

ほんと、もっと中身のある時間にしてほしかったです。
里中満智子ファンにとっても歴史ファンにとっても、中途半端に終わってしまったと思っちゃったんです。

そう思うと・・・大河ドラマにしてはどうかしら??
って、やっぱり天皇家に、メスを入れるのは駄目・・・??


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日本のフィクサー第2回目です。

”藤”のつく苗字・・・それを辿ると藤原氏へと繋がります。
平安時代に栄華を極め、子孫は全国各地へと散らばりました。
加賀を領地とした藤原氏は”加藤”、木工寮(もくりょう)と呼ばれる役所についていた人は”工藤”。
藤のつく苗字は広がっていきました。
藤原氏は、都で雅な貴族文化をはぐくみ、千年以上にわたり朝廷に君臨してきました。
どうして権力を持ち続けることができたのでしょうか?

飛鳥時代・・・中級貴族だった”藤原鎌足”が始祖で、蘇我氏を除いて唯一”王権の内部”にいた氏族です。
そしてこの権力構造のタイプは、形を変えながら後世まで続くのです。

中大兄皇子は蹴鞠の最中に靴が脱げてしまいました。
その靴を拾ったのが、中臣鎌足でした。
それを機に意気投合した二人は、645年乙巳の変を決行します。
蘇我入鹿を暗殺したクーデターです。
入鹿を討ったのは皇子、鎌足は弓で援護しました。
その後、政治改革・・・大化の改新をしていくのですが。。。
どうして鎌足はクーデターを起こしたのでしょうか?

中臣氏は、古くから朝廷の祭祀を執り行う一族として天皇家に仕えていました。
入鹿は天皇家をないがしろにし、自分の言うことを聞く天皇をたてようとしたことに腹を立て・・・
打倒蘇我氏を狙っていたのですが・・・自分にそんな政治的力はなく・・・。
そこで頼ったのが中大兄皇子だったのです。

鎌足が参考にした書物は「六韜」の兵法。。。戦争に勝つために説いた中国の書物です。
六韜では、事前の準備と根回しが一番大事だとしています。
そして近づいたのが、中大兄皇子と蘇我倉山田石川麻呂です。
石川麻呂は、本宗家に次ぐ実力者でしたが、入鹿にとって代わりたいと思っていたのです。
中大兄皇子と石川麻呂の娘を結婚させます。

謀は周到にして内密に行うこと・・・。
決して明かさない秘密裏に行います。
それは、石川麻呂にさえ教えていなかったと言います。
そんな時・・・中大兄皇子と結婚した石川麻呂の娘が、石川麻呂の親類の男に横取りされるという事件が起こります。
皇子は激怒!!
石川麻呂が、一族が起こしたことを負い目にしているこの時期が、打ち明けるチャンスだと・・・鎌足は、クーデターへの協力を求めます。
石川麻呂は・・・乗らないといけなくなってしまったのです。

クーデター決行の日・・・。
入鹿を朝鮮半島から貢物が来たという偽儀式で呼び出します。
勝つためには、密かに敵を観察し、不意を突くこと。。。
入鹿は用心のために、常に刀を持ち歩いていました。
これを知っていた鎌足は・・・俳優(わざびと)という道化を送り込んで、入鹿の刀を取り上げさせます。
このチャンスを生かし、不意をついて一気に!!

しかし、入鹿を襲うはずの刺客が怖気づいているのを見て、中大兄皇子が自ら斬りかかりました。
翌日入鹿の父・蝦夷も自害し・・・。蘇我本宗家が滅亡します。
鎌足は、様々な政治勢力の分裂を見抜いて利用したのです。
中大兄皇子VS古人大兄王子
石川麻呂VS本宗家・蘇我氏
反蘇我系の氏族VS蘇我系
入鹿・蝦夷以外をすべて味方につけたのです。
もしかしたら、皇極天皇も知っていたのかも知れません。

この乙巳の変の頃の世界情勢は???
乙巳の変の前年、唐が高句麗への遠征を開始しました。
我が国もどうなるのか解らない・・・!!!
もしかすると、属国のようになる???
”権力を集中させなくては・・・!!”
高句麗型は、大臣が全権力を握り、国王は傀儡=入鹿型
これでは鎌足はのし上がれません。
なので、新羅型=王族が権力を握り、ブレーンが補佐する=中大兄皇子しかいない!!と、なりました。

その後、中大兄皇子は皇太子に、鎌足は”内臣”として政権中枢へと入っていくのです。
蘇我氏を排除し、自らが中枢へ!!まさに、”戦わずして勝つ”でした。
計略を巡らせる軍師だったのです。

その後、中大兄皇子は天智天皇として即位、鎌足は天皇の絶大な信頼のもと、669年大職冠と藤原姓を名乗ります。
そう、藤原氏の誕生です。

そして、息子・不比等が、権力をゆるぎないものにしていきます。
671年天智天皇崩御・・・これによって、危機に立たされた藤原氏。
それは、672年古代最大の内乱、壬申の乱でした。
天智天皇の弟・大海人皇子VS息子・大友皇子の戦いです。
勝利した大海人皇子は、天武天皇として673年に即位。
大友皇子側についていた藤原氏は政権を追われてしまいます。

しかし・・・天武天皇の跡を継いだ持統天皇は・・・
持統天皇の父は天智天皇・・・父が重用していた藤原氏を政権に呼び戻しました。
不比等は律令制を整え、数々の製作に関わり・・・日本書紀を編纂します。
日本書紀は漢文で書かれた初めての日本の正史です。
日本書紀に記されたのは、最高神・天照大神をはじめとする天皇家の万世一系の物語です。
天皇の権威を高め、天皇による統治を正当化していきます。
しかし・・・日本書紀によって権威を高めたのは、天皇家ばかりではなく・・・藤原家も!!だったのです。

この日本書紀は、大陸からやって来た渡来人が書いたものと、日本人が書いた誤りが多い漢文で書かれたものの二種類に分かれます。
しかし・・・正確な漢文で書かれた中に、不自然な語法の誤りがある場所があるのです。
単語の間違い・・・文法の間違い・・・それは、明らかに最終段階で加筆がなされたことを示していました。
その場所は、巻24と25。
蘇我入鹿の専横ぶりや、乙巳の変・大化の改新について書かれた部分でした。
殺された入鹿は悪逆非道な人物である!!
それによって、中大兄皇子と鎌足がクローズアップされる・・・英雄として歴史に位置付けられたのです。
藤原氏の立場も上がります。

そして・・・天皇家との婚姻。。。
文武天皇に不比等の娘・宮子を!!
宮子に首皇子が誕生すると・・・皇太子に据えます=聖武天皇。
こうして、着々と一族の権力を固めていきます。
”歴史をどう描くべきか?”それは、権力の象徴であることは確かです。
太平記ほどではありませんが。。。

そして・・・親戚たちも藤原姓を名乗るようになって。。。
悔しい思いをしたであろう不比等は、698年に、詔によって藤原姓の継承を”鎌足の直系”に限定してもらっています。
他は、中臣に戻されてしまっています。
この結果、藤原氏は不比等一人に!!

そして、大宝律令によって制定された蔭位によって、父祖の位に講じて子・孫に位を授ける制度を作っています。
律令制ができた時点で、鎌足・不比等・・・その子供だけ高いくらいが約束されていたのです。
他の氏族はもう、没落が見えていました。

そして・・・平城京遷都・・・。
当時の最先端・・・唐の長安を習って造られます。
この都には、不比等によって仕掛けがなされています。
その仕掛けは、今も確認することができます。
都の正面入り口には、都の中心は天皇である・・・と、思わせる仕掛けが!!
正面には、朱雀門・大極殿が!!しかし、藤原氏の氏寺・興福寺も見えることができます。
視通線によって、権威・権力がどう存在しているのかを表しています。

不比等は、都の権力者が天皇ともう一人、自分であることを示したのです。
平城京の鬼門の方角にある興福寺・・・不比等が天皇家を守ろうとした・・・平城京を守ろうとしたという一面も・・・監視下に置いてコントロールしたことを示しています。

不比等自身の家は・・・
当時の臣下たちの邸宅は平城宮の門前であるのに、不比等の家は・・・天皇の宮殿の脇・・・しかも、皇太子・東宮の真横でした。
不比等邸と東宮の間には、通用口が設けられていた可能性も高く、皇太子・首皇子は、不比等の監視下に置かれていた可能性が高いのです。

正倉院には・・・
黒作懸佩刀・・・不比等の権勢を示しています。
天皇家ゆかりの宝刀です。
持統天皇の息子・草壁皇子から不比等に託されています。

文武天皇が即位すると、この宝刀を天皇に献上します。
その後宝刀は、不比等を介して首皇子に継承されるのです。
宝刀が皇位の継承を象徴するようになりました。

藤原氏の権力の安定を図っていきます。
天皇家の力をあげることによって、藤原家の権力も上がっていく・・・
持ちつ持たれつの密接な関係が出来上がっていくのです。

720年藤原不比等死去
724年首皇子が聖武天皇として即位します。
政権の主要ポストは藤原家で占められるようになって・・・藤原氏の権力は、確固たるものとなっていきます。

鎌足⇒不比等と受け継がれた不動の権力システムは、平安時代に完成します。
天皇が幼い頃は摂政として代理を務め、成人すると関白として補佐する・・・摂関政治です。
事実上、摂政・関白が天皇に代わって政治を行うというシステムです。
このシステムを確立させたのは、藤原良房です。
866年皇族以外で初の摂政に任命されます。
良房は、自分の孫・・・清和天皇をわずか9歳で即位させます。
これは、天皇が政治をする年齢に達していないのに即位した・・・前例のない即位でした。
その8年後、良房が摂政となるきっかけとなる事件・・・応天門の変が起こります。

866年応天門が、原因不明の火事に見舞われます。
国政を司る重要な役所の門が火事となり・・・都を震撼させ・・・人々は慌てふためきます。
そして・・・政権中枢にいた左大臣・源信が容疑者として浮かび上がりました。
告発したのは大納言・伴善男。
右大臣・藤原良相は、天皇の許可なく逮捕の兵を差し向けます。
ところが・・・それに待ったをかけたのが、太政大臣・藤原良房でした。
良房は、清和天皇に事件の慎重な捜査を願い出ます。
すると・・・左大臣への嫌疑を退け、右大臣を失脚させたのです。
おまけに左大臣も屈辱のあまり引きこもってしまいました。真犯人は一体誰なのか???
目撃証言から大納言であったことが!!!
最初に左大臣を告発した者だったのです。

大納言は逮捕され・・・政権の主要メンバーは良房を除いていなくなってしまいました。
この非常事態に・・・清和天皇が頼れたのは良房のみ・・・。
「天下の政を摂政せよ!!」
こうして皇族以外で初めて摂政に任命されたのです。
これが、摂関政治の始まりでした。
あまりにも良房にとって都合の良かった応天門の変・・・
応天門炎上事件の黒幕は良房???
それはわかりません。。。

良房以降・・・摂政関白を独占し・・・しかし、天皇に代わることはありませんでした。
これは日本の歴史の権威としての天皇・・・権力と権威は別々だという構造がずっと続いていく・・・そんな歴史の始まりです。
そして藤原氏は???
武家になっても続き、明治維新の最初の政権や、昭和初期の危機にも近衛文麿”昭和の鎌足”・・・が登場します。

藤原氏が長い時間をかけて確立した日本の権力システムは・・・連綿と続くのです。


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藤白神社を後にして、地蔵峰寺を目指して歩き出しました。黒ハート

で・・・有間皇子のお墓でまたもや脱線です。揺れるハート

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有間皇子は孝徳天皇の子で有力な皇位継承者の一人です。


640年、軽皇子(後の孝徳天皇)が小足媛(おたらしひめ)とともに有馬温泉に滞在中に生まれたので、待望の皇子に「有間」と名付けました。

孝徳天皇は中大兄皇子の母・斉明天皇の弟で、中大兄皇子と有間皇子は従兄弟関係に当たります。

654年難波の都で孝徳天皇は病になり、10月10日、寂しくこの世を去りました。
有間皇子はこのとき15歳。
孝徳天皇が亡くなり、中大兄皇子の母が再び斉明天皇として即位しましたが、中大兄皇子は皇太子として政治の実権を握ります。
  

父・孝徳天皇がいなくなり、有間皇子は次の天皇の候補者となりました。
しかし、中大兄皇子の存在は脅威的。
日本書紀によると657年18歳の有間皇子は狂人のふりをしたといいます。

有間皇子は身の危険を感じて、657年に心の病と称して牟婁の湯(和歌山県白浜町)に隠れました。
しかしその後都に帰って斉明天皇に病の完治を伝えたときに、その地の風光明媚なことを話したところ、たいそう喜んで・・・斉明天皇は牟婁の湯に行幸することになりました。

斉明天皇一行は牟婁の湯に行幸し、有間皇子は飛鳥に留まりましたが、このとき留守居役だった蘇我赤兄が有間皇子宅を訪れ・・・天皇の失政を語ったことに心を許して、謀反の計画を二人でめぐらせてしまいました。これが、有間皇子の変と言われているものです。


しかし、赤兄は、謀反を密告した上で有間皇子を捕らえて、牟婁の湯に送ってしまったのです。
その後、中大兄皇子と面会して尋問されたときに、有間皇子は・・・

「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ」

と答えたと伝えられています。

有間皇子は、この後都に送り返されたものの、その二日後、この藤白坂で絞首刑に処せられました。


「家にあれば 笥に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る」

これは、万葉集に残されている有間皇子の詠んだとされる歌です。
どんな気持ちでこの歌を詠んだのでしょうか???



実際に、孝徳天皇・有間皇子政策VS斉明天皇・中大兄皇子政策という戦いだったのか、ただ単に中大兄皇子と蘇我赤兄が有間皇子を陥れるための悲劇の死だったのか・・・日本書紀に数十行書いているものの、真実はわかりません。


でも・・・今でもこの花は、絶えることはありません。


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