日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:前田利家

築城の名手藤堂高虎 [ 福井健二 ]

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威風堂々・・・三重県伊賀上野城。
その男、上野城の石垣を高さ30メートルまでに積み上げる・・・
四国・今治城では幅50メートルの堀を掘削・・・
大坂では桁外れの石垣を築きました。
その男の名は、藤堂高虎。
75年の生涯で築いた城は30以上に上り、築城の名手とされています。
卓越した技術力で、裸一貫から32万石の大名へ・・・!!

一方で、高虎は、裏切り者、風見鶏と言われています。
弱い主君を見切り、強い者になびく・・・7人以上の主君を渡り歩きました。
そして、遂には天下人まで乗り換えます。
人々はその生き方を批判しました。

築城の名手と裏切り者・・・そこには、日本の未来を決める大きな選択がありました。
きっかけは主君・豊臣秀吉の死です。
秀頼はまだ幼く、石田三成と徳川家康との間に主導権争いが勃発しました。
政権闘争の闇で、三成が密かに計画したのが家康暗殺計画でした。

それを知ってしまった高虎・・・どうする・・・??


京の都に近い近江・・・
1556年、高虎は、藤堂村で生まれました。
父親は、”渡り奉公人”と呼ばれる武士で、有力な主君を探し戦功をあげながら出世をする生き方でした。
しかし、その父親が期待するほど高虎は破天荒でした。
その気性は荒く乱暴で、190センチの身長を生かして、武士として身を立てることを目指していました。
高虎が武将として頭角を現したのは僅か15歳、はじめて仕えたのは浅井長政。
目覚ましい活躍で、それは、大名である長政が礼状を出すほどでした。

「その方は、今月20日、一番首を討ち取ること、他と比べようのない戦功だった。
 今後、さらに戦功を重ねるなら、一人前に取り立てよう。」

しかし、10代半ばで体も大きく悪い意味でも目立つ存在だった高虎。
気の荒さとプライドの高さから争いが絶えず、1572年、17歳の時口論となった同僚を切り殺し、浅井長政の元を出奔。
続いて仕官した阿閉家では、働きの悪い同僚二人に腹を立て斬殺。
その後、仕えた織田信澄は、戦功にあった恩賞を出さないため見限りました。
6年の間に高虎が仕えた主君は4人・・・。
高虎はどこに行っても長続きしませんでした。
そんな高虎の生き方が大きく変わったのが1576年、高虎21歳の時。。。

思わぬ大物武将・・・羽柴秀長から、是非召し抱えたいと声がかかったのです。
秀長は、高虎の故郷・近江国を攻略した羽柴秀吉の弟でした。
高虎を召し抱えるにあたって、秀長が提示した禄高は300石。
直前の主君による待遇80石のおよそ4倍・・・
高虎は、自分の価値を期待してくれる秀長に大いに感激し、二つ返事で引き受けます。
やがて本能寺の変の後、信長の後を継いだ羽柴秀吉は天下統一を目指し、近畿一円の統治政策を進めていきます。
そんな兄・秀吉のもとで、秀長は諸大名との調整役を担っていました。
そもそも秀長は、22歳の時に秀吉に乞われて百姓から武士になっていました。
温厚で誠実、和睦や調停を得意としていました。

「政務のことは私に任されている。
 絶対に悪いようにはしない・・・」

遠江の徳川、薩摩の島津、四国の長宗我部・・・秀長は、地方の大名の相談にも応じ、解決策を見出す役目でした。
そんな秀長に出会い、高虎は武力だけではない才能を開花させていきます。
1583年、但馬を攻略した秀長は、居城造りを高虎に命じます。
高虎は但馬の前領主が築いた山城を修復、石垣を大胆に使います。
主要な建物を、5mの石垣で囲み、強固な守りを築きました。
秀長は、高虎の見事な働きに、高虎の禄高を300石から460石に引き上げ、更なる活躍を期待します。
高虎の頭の回転が速いのを見抜き、城を作らせたり、山林を管理させたり・・・高虎の力を引き出していきます。
1585年、紀州を平定した秀吉は、この地の統治を秀長に任せます。
紀州は、天下統一の要となる拠点・・・城の築城を決め、その普請奉行に高虎を抜擢しました。
後に、和歌山城となるこの城の築城を命じられた高虎は、1万人を動員し、およそ1年で完成させてしまいました。
秀長と出会ったことで、新しい才能を開花させていく高虎・・・
主君を変え、渡り歩いていた暴れん坊が、築城の名手たる武将へと変わっていったのでした。
1585年、30歳になった高虎は、家老として秀長を補佐。
その頃、秀吉は天下統一を見据え、日本全体の統治体制作りに動き出しました。
それまで日本各地の村々は、武装した怒号や荘園領主がバラバラな方法で支配していました。
支配者や領民は、勢力争いを繰り返したので、地域社会は治安が悪く生産性もあがりません。
そこで、無駄を排し、統治体制の大改革を断行する秀吉。
これが、刀狩りと太閤検地でした。
まず刀狩りで、領民すべての武器を回収し、勢力争いや一揆を防ぎ、耕作に専念させようとしました。
太閤検地は、地域でばらばらだった租税の単位を統一。
そのうえで、田畑の広さや土地の良しあしを調べ直し、大名が統治する土地の総合的な石高を算出。
その石高から年貢や兵糧、兵の数を正確に割り出し、全国統一基準で取りこぼしなく徴収を行いました。
この二つによって、秀吉は地域の支配者の力を弱め、中央集権体制を構築しようとしました。
しかし、全国に一律に税を徴収するということは、土地や作物をめぐる地域それぞれの事情が考慮されにくくなります。
年貢や兵糧を軍役が限度を超えて強制される事態を懸念して、民衆たちは各地で大規模な一揆をして抵抗します。
そんな民衆たちに厳しく臨む秀吉。
奥羽仕置き令には・・・
「仕置きに反対する者がいたなら、村という村、ことごとくなで切りにせよ。
 六十余州に固く命じ、山の奥、海は櫓櫂の続く限り、念には念を入れて執行するように。」
高虎は、他の武将に先立ち、改革の実行を任されました。
諸国に先駆け、紀州で刀狩りと太閤検地を実行することになったのです。
その時、高虎が築いたのが三重県の赤木城・・・跡が残っています。
城の周りを石垣で固め、攻め入ろうとする敵を上から攻撃できるように設計されています。
高虎は、この城を拠点に、抵抗する民衆500人余りを殺害し、太閤検地を強行!!
豊臣政権の武将として忠実に任務を遂行し、秀吉の大改革に向けて貢献したのでした。
ところがこの後、高虎の運命は大きく変わっていきます。

1591年、高虎を見込んでくれた秀長が病死。
やがて天下人秀吉が自らが高虎を配下に起きます。
その腕利きぶりを見込んで、伊予板島7万石の大名に抜擢します。
高虎は40歳にして、城持ち大名に出世したのです。
1595年、高虎40歳で宇和島に入ります。
ここで厳しい現実に出会うことに・・・
いざ領内を巡ってみると・・・その田畑は荒廃し、豊臣の大名を見る人々の目は憎しみに満ちていました。
高虎の前大名・戸田勝隆による刀狩りと太閤検地の強行、過度な弾圧の結果でした。
板島では大規模な一揆が発生、激しい弾圧で800人余りが捕らえられ、磔にして街道に晒されました。
戸田勝隆の兵に襲われ、2000人余りの百姓が殺されたといいます。
かつて秀吉改革の先兵として、刀狩り・太閤検地を強行してきた高虎・・・
今は、領主としてこの土地を立て直さなければならなくなったのです。
高虎は、豊臣政権の指示よりも、領国の復興を優先させます。
高虎が土地に入った4か月後・・・
荒れ地を開墾したなら、そののち1年は、年貢をとらないことを約束しています。
荒れた土地の開墾を奨励し、年貢の徴収を後回しにしたのです。
さらに力を注いだのが、民衆の信頼を回復することでした。
高虎は、地域で崇拝されてきた神社を私財を投じて厚く保護します。
領内にあるいくつもの神社を復興させていく高虎。。。
豊臣政権の一武将から、地域と共に生きる大名に・・・。
彼が求める天下の在り方も変わり始めていました。

天下の行方が急変・・・巨大な権力が集中する豊臣秀吉死去・・・
秀頼はまだ小さい・・・
豊臣官僚の五奉行と、大大名の五大老の中で、政治闘争が始まりました。
動き出したのは、政権一の実力者、五大老の徳川家康!!
大名間の婚姻の禁止といった決まりを無視し、政略結婚を進めます。
勢力拡大、政権の主導権をとる意欲を見せ始めました。
石田三成ら五奉行は、家康の行動は支障をきたすと激しく反発し、家康の行動を阻止しようとします。
高虎は難しい立場にありました。
家康は関東250万石を統治、全国一の石高を有する実力者・・・
家康は刀狩りや太閤検地を杓子定規に行うことに反対、土地の事情に応じて統治する為に、大名の裁量を拡大することを考えていました。
地方大名の事情に配慮することは、亡き主君・秀長も同様で、しかし、豊臣家直属の三成たちは秀吉の遺志を継ぎ、中央集権の仕組みをさらに推し進めることを目指していました。
あくまで中央の意志によって効率よく運営することで、安定した統治体制が築けると考えていたのです。
目指すべき道は、豊臣の世・・・??家康のまだ見ぬ国の形・・・??

秀吉の死からわずか半年・・・恐るべき情報を手に入れます。
石田三成らによる「家康暗殺計画」です。
五大老の重鎮・前田利家の病気見舞いの際に討つというのです。
大坂に屋敷のない家康は、伏見から船で八軒家の浜に来る・・・
前田利家の屋敷はそこから4キロの場所・・・
この道中で、家康を暗殺する・・・それが三成たちの計画でした。
家康を助けに行く??見殺しにする・・・??


慶長軍記によると・・・
1599年3月11日、家康は船で伏見を出発。
翌12日の朝、大坂・八軒家の浜に到着。
ところが船着き場には見慣れない駕籠が・・・あたりに人はいない・・・。
家康たちに緊張が走ったその時!!
駕籠から出てきたのは高虎でした。
「この先の道々には、家康様のお命を狙うものがいるという噂がございます。
 私が用意したこの駕籠にお乗りください。
 家康様の駕籠には私が乗ります。」
高虎を乗せた駕籠は、厳重な警護で先に出発・・・家康の駕籠は時間を置いて出発!!

前田利家の屋敷にたどり着きました。
高虎は、三成たちの夜襲に備え、大坂の自宅に家康を匿います。
警護は夜通し続き家康を守り抜きます。
この日を境に、高虎は家康支持を鮮明に打ち出します。
1600年、45歳の時に関ケ原の戦い・・・
家康と三成がついに激突!!
高虎は、三成側大名への寝返り工作に暗躍・・・家康を勝利に導きます。

1603年、48歳の時に家康が江戸幕府を成立させます。
高虎は、家康の側近に招かれ、献身的に支えていきます。
豊臣から徳川への主君の乗り換え・・・
この高虎の変わり身を、豊臣恩顧の武将たちは・・・「裏切り者」
しかし、高虎は、意に介することなく家康のもとで新たな国造りの礎を築いていきます。
関原の功績で、伊予20万石を与えられた高虎は、その復興に取り組みます。
拠点を今治に置き・・・これまでと全く違った城を・・・!!
今治城・・・平地に城を設け、御殿までの道程を、単純なものに・・・。
大名の権威を示す天守も簡素化・・・構造を規格化することで、巨大建築にかかる負担を軽減化・・・。
ほかの大名たちが天守を作るときの手本としました。
高虎は、太平の世を意識し、城を地方政治の舞台とし、設計しなおしたのです。
戦争のためのお城であると同時に、領国支配の政治のためのお城を築いたのです。

城を建設する時に必ず作ったのは城下町でした。
高虎は、城下町に職人や商人を集めるために租税を免除、経済を発展させようとしました。
そうして自ら領国の基礎を作ると、他の大名たちのところに出張し、各地を奔走します。
家康に命じられ、各地で15以上の城を作り、地方の発展に貢献したのです。
徳川政権より多大な評価を受け、三重津藩32万石の大名にまで上り詰めた高虎・・・
息子への遺言には、大名のあるべき志が・・・
「領国を将軍から預けられている間は、すべてのことに油断してはならない。」
領国は大名の私有地ではなく、あくまで将軍から預かったもの・・・大名はかりそめの主でしかない・・・
しかし、だからこそ、領国の全てに目を配り、大事にしなければならない・・・

1630年、藤堂高虎死去。
75歳・・・裏切り者と呼ばれても、自らの意志を貫き通した生涯でした。


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徳川家康打倒に立ち上がった石田三成。
徳川屋敷襲撃を画策するが、未遂に終わる。

三成を敵視する大名は、日に日に増えていた。


さあ・・・いよいよ挙兵です!!

伏見にある石田屋敷では・・・三成が謹慎していましたが・・・

maru












自分が居なければ、政が滞る・・・と、
日本人らしく家でもお仕事中!!
「この文書はどうされたのですか?」by信繁

「騒ぎの隙に、伏見城から運ばせた。
 時があるうちに小田原攻めや朝鮮出陣の記録をまとめておこうと思ってな。」by三成


2月29日、前田利家が伏見にある徳川屋敷を尋ね、三成の処遇について話します。
家康襲撃事件で、現在、謹慎中ですからね。。。

maru2













この時点ではかなり体調が悪いはず・・・
きっと命を懸けての会見だったと思うの。
みんな、みんな、殿下の豊臣を守ろうとしての行動なんですけどね・・・。
あ・・・家康は違うか・・・!!

石田治部は豊臣になくてはならない男・・・と、本気で思っているのか?
利家を立ててこれているのか??
はたまた、利家に恩を売ろうとしているのか・・・??

maru3













水に流すと言ってくれた家康です。

おかげで、三成は謹慎が解かれ、政務に復帰しました。

しかし、福島正則や加藤清正は怒りが収まらず、利家に不満タラタラ・・・!!

「よう聞け。
 ここだけの話、わしはもう長くはない。

 わしが死んだ後も、治部と力を合わせて豊臣の家を守り抜け。
 それがお主らの役目だ。。。 よいな・・・!!」by利家


仕事に復帰し、寧に騒ぎについて改めて謝る三成。

「佐吉・・・誤解せんといて・・・
 わたくしは、仲ようしてほしいだけ・・・
 こんな子供の頃から知っとるで・・・」by寧

「では・・・」by三成

と、謝るだけ報告していってしまった三成。
こんな心のないパフォーマンスだからこそ、好かれないんでしょうね・・・。
熱演です。

「左衛門佐・・・いいですか・・・
 
 つまらぬ騒ぎに巻き込まれるのはもうたくさん・・・
 秀頼殿の婚儀が整ったら、出家するつもりだわ。。。

 今から少しづつ、身の回りの片づけをしていることろ・・・
 それで、きりにも暇を出すことにしました。

 本人のたっての願いで、細川殿のお屋敷に奉公させることになりました。」by寧

??さらっと言いましたが、秀頼の婚儀って・・・

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家康の孫・千姫との婚儀でしょうか??
って・・・これは、家康が伊達や加藤などと親戚になろうとやっていた・・・そうそう、殿下が禁止していた大名同士での婚姻となるのでは・・・??
と思いがちですが、この婚儀は、殿下がお亡くなりに決めていたものです。
それって、やっぱり徳川に一目を置いていたってことで・・・
既に、徳川の強さを認めていて、別格だったって示してしまってるんじゃないの??秀吉!?


で、きりは・・・おお・・・いい感じにガラシャのところに入りましたね。きり!!
これでガラシャの死を傍でレポートできますよ!!
細川ガラシャ・・・ガラシャは天下分け目の関ケ原の勝敗を決めてしまった女・・・というイメージがあるので、その歴史の目撃者としてガラシャのもとへ行くんでしょうが、本当はどうなんでしょうね。
多分、この時点でガラシャは、三日天下の父と、忠興の異常なまでの愛情で、軟禁状態だったので、だれなと会えないはずです。
あ・・・でも、寧のつてなら潜入できる・・・??

徳川屋敷襲撃事件について、申し開きをしようとする三成ですが・・・
茶々は何も知らない・・・と、巻き込まれないように頑張って・・・大蔵卿局に話すことさえさえぎられてしまいました。

maru8












3月3日・・・前田利家が亡くなってしまいました。
maru9












反三成派の武将たちの抑えが・・・効かなくなってしまいます。
その中には、細川忠興も・・・!!

maru6












ガラシャから情報を仕入れたきりは、信繁に報告・・・!!
メンバーは、加藤、福島、細川、黒田、藤堂、蜂須賀、浅野!!
そう、秀吉子飼いの子達ばかりだったのです。

避難する三成!!
そしてそこには・・・

maru5













襲撃したら・・・なんと、信幸&信繁で将棋!!

石田治部少輔を出せといわれ・・・

「加藤殿、石田治部少輔との諍いは、身内のもめ事で済ませても、我が真田と一戦交えるならばもはや国同士の戦でござる。
 それをお覚悟の上か・・・??
 お覚悟の上とならば、お受け申すが・・・!!」by信幸

おっと、信幸、貫禄出てきましたね、とってもかっこいいです。
よっ!!男前!!

清正たちは三成を血眼になって探しているようですが、見つかりません。
今は宇喜多邸にいるものの・・・治部少輔丸に立て籠もろうと言い出す三成。

寧に会いに行き断られ・・・茶々に会いに行き大蔵卿局に断られ・・・
いろいろ手を尽くす信繁ですが・・・

「 秀頼殿が言えば、治部は助かるのですか?
 それは、秀頼殿のためになりますか?
 
 徳川内府と治部は犬猿の仲・・
 秀頼殿が板挟みにはなりませんか?
 秀頼殿のためになりますか?
 おかえりなさい。」by茶々

ごもっとも、茶々!!

遂には吉継の案で、家康に救いを求めに行く信繁!!

「いまだ治部様の引き渡しを迫っている加藤様たちをお諫めいただきとうございます。
 内府様がお出ましくだされば、必ずや矛を収めましょう。」by信繁

「じゃがなあ・・・今は合議で全てを決することになっておる・・・
 わしひとりがしゃしゃり出るわけにはいかんのじゃ。。。」by家康

おお!!ああいえばこういう!!
合議、合議と言っていたのは三成・・・
なんだかんだと一筋縄ではいかない家康・・・まさに古狸!!
利家が亡くなってしまったことで、ほとんどが子供世代に移って行っている中で、一人で頑張っているんですが・・・
やっぱり”小童”には負けられないでしょう。

でも・・・立ち回りの上手い家康の事・・・
この事件を丸く収め、七将たちを説き伏せてくれましたが・・・その代わり、三成は蟄居・・・政から手を引くこととなりました。

「なぜだ・・・
 殿下にすべてを捧げ、殿下亡き後は豊臣家にのために、すべてをなげうってここまでやってきた。
 何故私が伏見を追われなければならぬ・・・!!」by三成
佐和山へ引っ込むことになってしまいました。

最後に・・・「虎之助に会いたい」と、信繁に頼む三成。

maru7













はて・・・清正・・・虎之助に何をつぶやいたんでしょうね・・・??

三成が伏見を去った3日後・・・伏見城に入ったのは家康・・・高らかな勝利宣言でした。


三成が蟄居して・・・家康が信繁を引き抜こうとしている・・・!!
断る信繁ですが・・・
ま、最期を知って人間は思いますよね??
ああ!!勿体ない!!どうしてこの時、家康に鞍替えしなかったのか???って。
でも、それはその後を知ってる私たちの考えで・・・この頃は何もわかっていなかったはず・・・!!
ただ・・・この時家康についていれば、後世にわたって愛されキャラの真田幸村は登場しなかっただろうし、真田十勇士も作られなかったかもしれません。。。
なので、やっぱりここは、断って正解です。
???断る男だからこそ、大坂の陣に豊臣方として馳せ参じるのでしょう!!
でもって、愛されキャラになるのだ・・・!!

ただ・・・「お断りいたします!!」ってそっけない言い方・・・多分、信繁はそんなご身分ではないのだ。
雇われ人の方なんだから。
ただ・・・ドラマ的にはかっこいいですよね。
自由にならない一目置く男だから欲しいんですよ、家康も!!

お役御免となって信幸と真田のために尽くしたいという信繁がそこにはいました。

1600年5月・・・

ほぼ天下を手中に収めている大坂城に入っている家康・・・。
発端は、謀反の疑いが出てきた上杉景勝!!

maru10












兼次は”直江状”を送り付けてきました。

”われらが戦道具を集めているとのことなれど、髪型の武士が茶器などをお集めになるように、われら田舎節は鉄砲や弓矢を集めるだけ。
 maru11












そのようなことにこだわるのは、天下を預かるお方らしからぬご了見!!
 われらに逆臣はないと申し上げたはず。
 にも拘わらず、「逆心なければ上洛できるはずだ」とは、赤子の理屈で、全く話にもなり申さぬ。
 家康様に分別がついたころには上洛できると存ずる。
 どこぞの誰かのように太閤殿下のご遺言に背き、起請文も破り、秀頼公をないがしろにしたりは致しませぬ。
 さようなことをして天下をとっても、悪人と呼ばれるは必定!!
 末代までの恥と相成りますゆえ・・・!!”by兼次(直江状)

もう一つの関ケ原 ~直江兼次の誤算~はこちら

兼次の声がまたいいのよね~~~!!
怒り狂う家康!!

その上杉から密書が届いたのは昌幸!!
味方になってほしいという。。。

「わしはそれに乗ろうと思う。
 合戦が始まったら横合いからいきなり徳川本陣を攻める・・・!!
 徳川はひとたまりもあるまい。

 
 世は再び乱れる・・・
 その機に乗じて、甲斐・信濃・駿河・・・信玄公が治めていた領地をこの手で奪い返す!!
 小田原の陣で、死を覚悟した北条氏政にわしは言った。
 「死にたければ死ね。されど生きておれば、また楽しいものが見られますぞ。」と・・・
 
 これはわしにとって、今度こそ最後の機会じゃ。
 わしの我儘、聞いてくれんか?
 どうか頼む・・・!!」by昌幸

そう、信繁が言ってますが、徳川を倒した後はどうするのか??
オールドタイプにはそんなこんながわからないようです。
昌幸のやんちゃなキャラは、とっても魅力的なんですが。
1477年の応仁の乱以降・・・100年以上も戦い続けている人たちには、きっと”平和”がわからないのでしょう。
なので、父・昌幸の考えが間違っているのではないのだけど・・・
それこそ北条氏政が死んだ時点で、その時代は終わっていたような気がします。
そう・・・戦いは終息に向かっているのです。


「徳川家康はもはや太閤殿下のご遺言を踏みにじる大悪党となり果てました。
 許しておいてはなりません。」と、父に賛同する信繁。

「・・・私は真田安房守の嫡男・・・
 父上に従うに決まっておるではありませぬか・・・!!」by信幸

父と舅の間に挟まれて、しんどそうな信幸がいます・・・が、父が戦がなければ生きていけないことをこの兄弟はわかっているのです。

そして・・・時流は・・・?? 

上杉征伐を「上杉VS徳川」にしたい片桐且元ですが・・・「上杉VS豊臣」にしたい家康。
??これって、前回の三成・・・家康を討つために、千成瓢箪が欲しい!!と言ったのと同じ構図です。
みんな錦の御旗(豊臣の権威)を最大限に利用し・・・そのNo,2となりたいようです。

って思うと、本当に日本はNo,2な国だと思います。
って・・・天皇のNo,2、天皇あっての征夷大将軍ですからね・・・。
この構図はいつからんだろう??天皇ですんごい頑張った人って奈良時代とか、後白河天皇とか、後醍醐天皇とか知らないもの・・・。
ってことは、奈良時代に、天智天皇が血なまぐさい大化の改新を起こしてドタバタし、桓武天皇が平安京へ都を移して以降はほとんどNo,2の時代だったのね・・・。

今回は秀頼のNo,2として戦いたい家康なのです。
三成は上手くいきませんでしたが家康は・・・??
老獪・・・おまけに老衆筆頭ですからね・・・。

ああ・・・片桐且元では器が・・・
頑張っているんですけどね。。。

「片桐には悪いが・・・ここは是が非でも豊臣と上杉の戦にしておきたい・・・
 戦の重みが違う・・・!!」by家康


と、茶々に願い出ます。

「陣中お見舞いなどを賜われば、士気も上がりましょう。
 軍用金二万両、兵糧の米2万石では・・・??

 それとですなあ・・・此度は秀頼公よりそれがしは豊臣の軍勢をお借りして上杉を懲らしめんとする戦・・・
ついでに豊臣の旗・幟もお許しいただければ、更に士気は高まりましょう」by家康

「好きにせよ」by茶々

控えながら、ほくそ笑む家康がいました。

6月16日、家康は豊臣の軍旗を高らかに揚げ、会津への進軍を開始!!
そして大坂では、徳川内府を弾劾すべく・・・

maru12













立ち上がる男たちがいました。
もう・・・あとには退けない・・・!!

日本史上未曽有の大戦が始まろうとしていました。

ということで、大詰めな回となりました。
前回も書きましたが、今回の真田丸の三成ですが・・・
こんな三成な気がしてきました。

勝たせてあげたい三成なんて、はじめてです。



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石田三成と徳川家康が激しく対立。
三成に依頼され、昌幸は家康暗殺を決行するが、失敗に終わる。

そんな時、太閤秀吉が、死んだ。

ということで、暗雲立ち込める大坂城へ・・・!!

maru2











「出浦は有馬へ運び養生させることにしました。
 今は、佐助がついています。」

と・・・信幸も一安心ですね。
それよりも重大なのは、自分たちに内緒で家康の暗殺をしようとした昌幸パパ&出浦昌相の追求ですが・・・
いまだに世が乱れれば真田の出番があるはずだ・・・!!と、昌幸は思っているようです。

「信濃を信玄公のご領地をこの手で取り戻す。
 そのためには、一度乱世に戻すしかない。
 しかし、その夢も露と消えたわ・・・。」by昌幸

そうですよね・・・私たちは歴史を知っているから、まだ戦いはあるよ~~!!って言ってあげたいところですが、この時点ではもう、平定された・・・という感が強かったんでしょうね。
その中でもがく昌幸パパ・・・時代遅れの漢になってしまいましたか・・・??
でも、それって、とっても魅力的!!


その頃・・・

「殿下が亡くなられた事はしばらく伏せておく。
 伝えるのは五人の老衆、および奉行の面々・・・
 その他は、ごく内々にとどめる。

 ご遺骸は甕に入れて、塩漬けにする。
 一番奥の蔵にに目立たぬように・・・。」by三成

ときに非情に・・・冷酷にに見えてしまう三成・・・

「私に聞こえんところで話してくれんかね!!」by寧

そこには天下人ではなく、苦楽を共にしてきた夫を懐かしむ妻がいました。

でも、間違いなく秀吉は天下人・・・。天下人が亡くなるということは、そんな死を悼む時間すら与えてはくれない・・・

目をかけてもらった三成は、御恩に報いるために、泣いている場合ではない・・・。
その恩人である天下人が作り上げた世の中を、失うまいとしているだけなのかもしれない。

「殿下はいつになったらお墓に入れるの?
 そんなに好きなお方じゃなかったけど、なんだかお可哀想・・・
 壺の中で塩漬け・・・」byきり

きりは、寧にお世話になっているしね・・・
寧の心を代弁しているのでしょう。


そして・・・殿下が亡くなられたということは・・・
殿下の馬廻衆だった信繁の仕事も無くなったという事・・・。


「石田様の下で働きとう存じます。
 もうしばらく治部様のお手伝いをさせていただけませぬか?
 今こそ殿下に御恩を返すときと心得ます。」by信繁

「私はほとんど間違えることがないが、ごくたまに誤った決断をすることがある。
 そんな時は遠慮のう教えてくれ。
 豊臣家の正念場だ・・・よろしく頼む!!」by三成

そうそう・・・殿下に三成をよろしく・・・と、お願いされているしね・・・。


その頃・・・家康のもとにも秀吉な亡くなったと知らせが入ります。
おまけに前日入った賊の行方も分からず・・・
秀忠を江戸に返すことにしました。
従順な秀忠は父の考えに従いますが、凡庸な秀忠には父の考えが理解できません。
ツーと言えばカーな男ではないようです。

「たまには頭を働かせろ・・・!!」by家康

そう・・・秀吉が亡くなったということは・・・乱世が戻ってくるかもしれないという事・・・
父と子が近くにいてはいけない・・・!!

誰か思い出しませんか・・・??
そうそう、本能寺の変です。
織田信長・信忠親子です。
この二人・・・あんなに近くにいなければ、信忠が亡くなることはなかったでしょう。
武勇だった信忠・・・あんなに近くにいなければ、明智を討って、後継者としてその名を轟かせることができたかもしれないのです。
そう思うと、今回の秀忠・・・江戸に帰すのが賢明でしょう。
なのにそれがわからないのか・・・秀忠!?


前田利家に会いに来たのは、三成と信繁。

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すでに秀吉の亡くなる前からかなり悪かったとされている利家・・・

「無念じゃ・・・わしの体がもう少し動けば・・・」by利家

「徳川内府に太刀打ちできるのは、大納言様だけにございます。」by三成

「藤吉郎は、わしに秀頼さまを託した。。。
 わしの目の黒いうちは・・・勝手な真似はさせぬ!!」by利家

と言っても、すでにほとんど息子が行っていました。
気持ちの問題すよ、気持ちの・・・!!

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「そう長くはないだろう・・・
今のうちに打てる手は打っておかねばな・・・」by三成
ここでも非情な三成発動!!
何もここで言わなくてもいいのにね・・・。
無駄の嫌いな性格が、人の信用を失っていく様がはっきりと見えます。


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10人が中心となって、秀頼さまをお守りしていこうと話す家康。
既に、貫禄十分です。

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だって、ほら、若い子ばっかりになってきました。

それでも頑張る三成です。
殿下の葬儀は朝鮮から兵をすべて引き上げてから・・・

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一度では引き上げられない・・・

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殿下が存命の時は、トップダウンで済んだところ、10人の同意を得て”花押”を・・・!!
誰か一人に力を持たせないためにも・・・!!


真田から三十郎がやってきました。
真田屋敷では、ひとときの家族団らんです。
父・昌幸は・・・信濃に帰りたいみたい・・・。


この大河の家康は、あんまり天下取りに興味ないみたいですが・・・
本多正信と阿茶はありそうです。

「内府一人で決められれば、万事はかどりますのに、石田治部様がどうしても加わりたいと・・・」by阿茶
「佐吉がそんなことを・・・??」by寧
「殿下のご葬儀の日取りが決まらぬのも、そのせいのようでございますよ。」by阿茶
「まあ・・・」by寧

それを受けて、寧が家康に葬儀の進み具合を聞いていますが・・・
三成にも聞いていますが・・・何を信じていいのやら・・・。
何もかもそつなくこなす三成との間に、チグハグなボタンの掛け違いが生じて来たようです。

その頃・・・伏見の徳川屋敷では、毎日のように宴が催されていました。

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お相手は本多正信!!
みんなにはまだ、秀吉の死は教えられていませんでした。

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賑やかな宴席に、豪華な料理・・・ぬかりありません。
なんと、伊達の姫君と姻戚関係を結びたいみたいですが・・・??

そして・・・気が付いたのか三成。
「我らもやろう!!」と、宴席を設けるものの・・・
人望の差か・・・寂しい限りです。
おまけに・・・

その少ない・・・せかっく来てくれた人に対しても・・・
挨拶もせずに・・・自室にこもって仕事をするという・・・。

11月・・・朝鮮より加藤清正が帰国しました。
そんな清正に対しても・・・

「亡くなられたのか・・・?」by清正

「8月18日・・・。
 皆が大阪に戻ったところで、大掛かりなご葬儀を執り行うつもりだ。

 徳川がすでに動き出しておる。
 これからの徳川は、われらにかかっておる。
 おぬしは、案外城づくりも上手いし、領内の仕置きも確かだ。
 ただの戦バカではない。

 われらで秀頼さまをおささえし、殿下亡き後の豊臣家をお守りしていこうではないか・・・!!」by三成

「・・・今画には言いたいことが山ほどある。
 が・・・あえて言わぬ。
 われらで秀頼さまをお守りしようではないか・・・!!」by清正

「だから、それは私が言った・・・!!」by三成

ああ・・・この合理主義的というか・・・一体感のなさが三成なのかしら・・・??
普通、オウム返しに言ったら二人で手を取り合って団結してもいいと思うんですが・・・
やっぱり人望がないというか・・・

この二人を見ていて思ったのが、大久保利通と西郷隆盛の温度差です。
大久保利通も、任務を遂行するためならすべてを犠牲にできる男・・・つまり、人情に左右されない男でしたからね・・・そんな感じだったのかもしれません。
あ・・・でも、大久保利通は大政治家ですが・・・。


戦の疲れを取るように・・・宴を誘う三成ですが・・・
その戦いで疲れた者たちを労うこともなく、中座して仕事をするために別室に籠ろうとする三成。。。

「なんだ、お前!!中座するのか・・・??
 ともに酒が飲めぬというのか・・・!!」by清正

「そうではない。」by三成

「だったらもっと話そうではないか??」by清正

「十分話した。」by三成

「わしはお前のそういうところが気に食わんのだ!!
 わしらが海の向こうで戦ってるとき、お主らはこっちで何をしとった・・・!?」清正

「後ろで算段をするのも戦のうちだ!!御免!!」by三成

いやいや、そういう事じゃないんですけど・・・。

「お前には情ってもんがねえのかよ!!
 お前と飲みたいんだよ・・・!!」by清正

「私は飲みたくないのだ・・・!!」by三成

「佐吉・・・!!」by清正

そうね・・・佐吉って呼んでくれる人も少なくなってきたよね、三成。
とにかく、そんな感じのつるめるお友達って大切なんですけどね。。。
そこも合理主義なのかなあ・・・??
そんなこんなで孤立感たっぷりの三成が仕上がってきています。
そう・・・今こそ一枚岩になって徳川と対峙しなければいけない時なのにね・・・。

「伊達政宗さまの娘と内府様のご子息のご婚儀が定まり、さらに、福島正則さまのお子と内府様の御養女との縁組も進んでおるとか・・・」by明石全登(宇喜多家家老)

「徳川内府め、乱心しおったか・・・!!
 勝手にそのようなことを進めて良いはずがなかろう・・・!!」by秀家


家康を探りに行く信幸と信繁・・・

あっさりと認める家康・・・。
しかし・・・

「遺言とは、それを残した者が死んで後初めて効き目を発するもの・・・
 しかし、殿下はまだ亡くなってはおらぬ。
 ご葬儀もあげてはおらぬ。
 そうではなかったかな・・・??
 であれば、今はまだ、ご遺言に従うときではないとわしは思ったのだが・・・

 ん??何か差しさわりがあろうか・・・??」by家康

おお・・・まさにこれはタヌキオヤジ!!
伊賀越えで、チキンってたのが・・・大きく成長した家康です。

明けて正月5日・・・殿下の死が公表されました。
秀頼は、秀吉の遺言と共に、前田利家と大坂城に入ります。

そんな中・・・加藤清正までもが家康の娘を嫁にもらうという・・・。
ここにきて、三成爆発!!

しかし、吉継は、秀頼さまが大きくなるまで・・・時を待てという・・・!!

「それでは遅すぎる・・・!!」by三成

「決して徳川とおぬしの争いに持ち込むな!!
 あくまでも、徳川とそれを除く老衆が相対する形にするのだ・・・よいな・・・!?」by吉継

そうね・・・吉継が病気でなければ・・・とも思っちゃうわ・・・。

皆で追及するも・・・
掟のことを年のせいで忘れた・・・と、かわす家康。

「方々・・・!!今は、われら十人が一丸となり、難事を切り抜けるべき時でござろう。
 それを何事か・・・!!この体たらくは・・・!!
 太閤殿下のご遺言をなんと心得おるか・・・!!」by家康

信繁の頼みだった上杉景勝もかわされてしまった・・・。

「ほかにご異存のある方はおられるか?」by家康

「徳川内府殿に申し上げる!!
 物忘れであろうが、御掟に背いたが間違いない事。
 この責め、いかに負われおるつもりか?
 返答次第では、われら9人の合議を以て、老衆から退いていただく・・・!!」by三成

 「この徳川家康、太閤殿下に直に老衆のお役目を仰せつかった。
 それを勝手に退けるとは、まさにそれこそが御遺命に背くことになるのではないか?
 違うか?治部少輔。

 そなたこそ、この徳川内府を締め出そうという魂胆、浅ましき限り・・・
 そこまでして政を独り占めしたいか・・・?・
 そうはいかぬぞ・・・!!
 何のための老衆じゃ・・・
 わしが退いても、前田大納言殿をはじめとして宇喜多殿、上杉殿、毛利殿が目を光らせておる・・・
 そうでござるな、御一同!!

 君側の奸の・・・出る幕ではないわ・・・!!」by家康

「聞き捨てなりませぬ・・・!!」by三成

「控えよ・・・!!治部少輔・・・!!」by家康


「腹は決まった・・・徳川屋敷に夜討ちをかける・・・!!
 家康の首をとる・・・!!」by三成

1599年正月21日・・・伏見の最も長い一日が始まろうとしている・・・!!

今回は、もちろん「応酬」なんだけど、応酬によってますます三成の「孤立」が深まった回だったように思います。
やはりあの時秀次を追い込まなければ・・・でも、老獪に変身した家康には対抗できそうにもありませんけどね。。。
さすが、内野聖陽さんです。


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1600年9月15日関ケ原で日本を二分する最大の戦い・・・関ケ原の合戦が行われました。
東西両軍総勢15万!!関ケ原の戦いです。
東軍の総大将は徳川家康、西軍を率いたのは石田三成でした。
しかし、この戦いには、もう一人の主役・・・大谷吉継がいたのです。
西軍の戦略を作り上げた男です。
通説では、三成との友情から負けるとわかっていても西軍についたと言われています。
しかし、負けるとわかっていて味方したのではなかった・・・??
どうして家康打倒の兵を挙げたのでしょうか??

史実では、関ケ原の戦いは半日で終了!!
家康が勝利をおさめ、吉継は自刃して果てることとなります。
が・・・??

大谷吉継の城があったとされるのは、福井県敦賀市。
城の痕跡はなく、幻の城とされてきましたが・・・2010年、小学校から敦賀城の建物の一部とされる礎石がはじめて発見されました。
敗者の資料は残らないのです。
吉継の名が広く知られるようになるのは・・・1583年の賤ヶ岳の戦いです。
この時吉継は、秀吉配下として戦い、武功をあげたとされています。
その後も・・・豊臣政権の官僚として石田三成とともに重要な役を担います。
1589年大谷吉継は、敦賀城主となります。
どうして敦賀なのか??
敦賀は、古来より日本海の物流の要でした。
日本海沿岸の物資の集積地であり、畿内に運ぶ拠点でもありました。
そして、大陸との交易も・・・。
吉継が敦賀城主となって3年後、秀吉は朝鮮出兵を行い、大陸に15万もの将兵を送り込みます(文禄の役)。
吉継は石田三成とともに、船奉行に就任し、全国から4000隻もの船を調達し、将兵や物資を滞りなく運び、官僚としての優秀さを発揮します。

吉継は戦奉行として監督し、石田三成と違い・・・反発するものはありませんでした。
吉継が大名に送った書状には・・・武将だけではなく家来たちにも、感謝、気遣いを忘れていませんでした。
しかし、その戦のさなか・・・吉継を悲劇が襲います。
重い病・・・吉継は、何年にもわたって、表舞台から姿を消すことになります。
そんな吉継を病床にみまったのは、秀吉と家康・・・。
二人とも吉継を豊臣政権の重要な担い手として考えていたことが分かります。
吉継は・・・豊臣の天下こそが絶対となっていきます。
その忠誠心は・・・??
秀吉主宰の茶会が行われました。
が・・・吉継は病のため、回し飲みの茶の中に鼻水を落としてしまいました。
その時・・・秀吉が吉継の茶碗をとり、一気に飲み干したのです。
吉継の窮地を秀吉が救ったのです。
吉継が公儀・・・豊臣の天下を重んじるのはこの時の感謝があったからだと言われています。
が・・・1598年8月18日豊臣秀吉死去・・・。

秀吉の死後・・・
五奉行・・・石田三成、浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以。
五大老・・・徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家。
五大老の合議制で行われ、実務を担ったのが五奉行でした。
しかし、五大老筆頭・家康と三成の対立が勃発!!
日本全国に拡大していきます。
秀吉の死から半年・・・1599年閏3月、家康を支持する武将たちが三成を襲撃・・・石田三成襲撃事件です。
三成は難を逃れたものの・・・佐和山城に蟄居!!政務にはつくことが出来なくなりました。
三成の失脚後、吉継は病を押して政権内の紛争解決に奔走します。
宇喜多騒動も・・・秀家が家臣の間に入ったものの解決せず・・・家康とともに吉継が事件解決の仲介を務めています。
吉継は、実力者・家康からも、厚い信頼を得るようになっていきます。
五大老・上杉家の資料にも・・・家康に何でも言える男・・・吉継と書かれています。
揺らぎ始めた豊臣政権・・・吉継は屋台骨を支えていたのです。

石田三成の失脚から半年・・・大きな事件が・・・!!
1599年9月、五大老の筆頭・前田利長に徳川家康暗殺謀議発覚!!
両者の間に緊張と戦の準備が・・・!!
家康と前田家の朝廷に乗り出す吉継!!
利長の母を江戸に人質に出し、問題の鎮静化を図ります。
前田家が家康に屈服する形で終わりを迎えます。政権内で家康の力が強くなっていきます。
1600年、上杉景勝にも豊臣政権に対する謀反の疑いが・・・!!
吉継は、上杉に説得に・・・しかし、失敗、手切れとなってしまいます。
家康は、大老として全国に上杉討伐の動員命令を出します。
吉継も1000人を連れて敦賀を出発!!
こちらでも、あくまで朝廷を行おうとしていました。
そこへ・・・佐和山城に蟄居している三成からの使いが・・・三成のもとへ向かう吉継!!
そこで吉継は重大事を打ち明けられます。
それは、「家康打倒の挙兵計画」でした。
吉継は反対するも、三成は聞き入れません。

武断派の武将たちは実力のある家康を支持していました。
既に年寄りの戦を回避して、家康を豊臣政権を支える大老としておいた方がいい??
おまけに、戦っても家康には勝てない!!
戦で勝てない理由を5つ挙げています。
①兵力差 三成・19万4000石VS家康250万石
②戦上手
③優秀な家来
④家来から敬愛されている
⑤人望がある

三成にはない・・・ので、戦を避けなければならない!!
しかし、前田、宇喜多、上杉・・・実力者がいなくなれば、徳川に力が集中し、いずれは天下を取りたくなる・・・??

戦う・・・??
しかし、勝てない理由を解決しない限り、戦うことはできない!!
どうする??吉継!!

1600年7月11日、吉継は10日間悩んだ挙句、共に挙兵することを決意します。
吉継の反逆に驚いたのは家康・・・
”御一味あるに於ては越前半国を知らせ給ふ”として説得しています。
これに対して吉継は・・・
「拙者難治の病を受けて、勤成り難き
 度々辞したる病者なるに、内府の加恩に預かるべきや。」
と、家康の申し出を断っています。

どうして挙兵することを選んだのでしょうか??
負けるとわかっていて・・・ではなくて、豊臣家の為であれば豊臣恩顧の武将は一枚岩になる・・・福島正則や加藤清正など豊臣家のために戦うであろうと、信じて挙兵したようです。
家康は豊臣の家臣に過ぎない・・・秀頼が討伐を命じれば、敵となるのです。
しかし、吉継には譲れない条件がありました。

5つの満たしていない条件をどうするのか??
兵力差は五大老の宇喜多と毛利を味方にと考えます。長曾我部も・・・!!
さらに総大将も、人望のない三成ではなく毛利輝元に・・・!!
いくら三成に人望がなくても、輝元ならば厭わないはず・・・!!
三成が吉継の条件をのみ、翌日には二人が連署した檄文を諸大名に発したと言われています。

吉継の案は・・・盟主・毛利輝元を大坂城に置き、東軍を押さえるために、伊勢・美濃・北国方面軍!!
そして最後は美濃に集結し、岐阜城を拠点に防衛ラインを作ります。
岐阜・清州の間を最前線とし、東軍を待ち構えて長期戦に・・・。
そうすれば、真田・上杉で挟むことが出来る・・・!!

これは・・・小牧長久手の戦いを想定したものです。
これは、秀吉と家康が対した最初で最後の合戦です。
吉継や三成も参陣していたと考えられています。
戦いはおよそ8か月に及び膠着状態・・・最後は外交交渉によって秀吉が勝利しています。

大軍同士の衝突は、何か月もかかる・・・それが当時の常識でした。
吉継は、北国方面軍の司令官として北陸へ向かいます。
徳川方として出てくるのは加賀・・・前田利長!!
この時の吉継の作戦は素晴らしく、4万のうち3万は船で金沢を攻める!!
その虚報を信じた前田勢は、金沢へ撤退・・・前田軍は東西決戦に参戦できなかったのです。
順調に進む、家康打倒計画・・・しかし・・・

はじめは順調に見えた西軍の戦略も、計画は破綻をきたしていきます。
家康は、上杉討伐に参陣した豊臣恩顧の大名を味方につけることに成功!!
8月14日、東軍の先鋒は、早くも清須城へ!!
8月22日には、西軍の最前線岐阜城に迫ります。
西軍の戦略は、難攻不落の岐阜城での籠城!!
攻めあぐんでいるうちに戦況を自分たちの方に持っていく作戦だったのに・・・
8月23日、岐阜城は、東軍の猛攻に遭い僅か2日で陥落!!
岐阜城陥落で、西軍の防衛ラインは後退を余儀なくされます。
大垣城を拠点に防衛ラインを立て直すことに・・・!!
北陸から戻った吉継は、関ケ原に布陣!!
関ケ原の戦い10日以上も前のことです。
しかし、この時は・・・だれも関ケ原が戦場になるとは決まっていませんでした。
どうして吉継は関ケ原に布陣したのでしょうか??

吉継は、防衛ラインの後退に対応し、大垣城の後詰陣地として関ケ原に防御施設を構築したと考えられます。
西軍の戦略は・・・大垣城を拠点に南宮山・松尾山に後詰を配置。
松尾山には総大将・毛利輝元が詰めます。
長期戦を考えた策でした。
しかし、9月14日、西軍の戦略に齟齬が生じました。
総大将・毛利輝元が入る松尾山に小早川秀秋の軍が陣取ったのです。
亡き秀吉の甥でしたが・・・旗色は不鮮明でした。
石田三成、大谷吉継にとって一番大きな誤算でした。

戦略は変更を余儀なくされます。
松尾山に小早川秀秋が入ると、大垣城を拠点とする防衛ラインは破綻をきたします。
もし秀秋が東軍に寝返れば・・・西軍は分断され、大垣城が孤立してしまいかねない・・・!!
松尾山は家康と連携できる場所にありました。

西軍は、勢力の分断を避けるために、関ケ原に本陣を移さなければならなかったのです。
兵力を集中することで秀秋を自陣に取り込もうとしたのです。
西軍は軍を関ケ原に動かします。そして東軍も関ケ原に・・・
両軍合わせて15万以上!!

そして・・・9月15日午前8時・・・日本史上最大の合戦が幕を開けました。
東軍7万4000、西軍8万4000、数では西軍有利!!しかし、戦いに参加しているのは石田、大谷、宇喜多・・・3万5000余りでした。
しかし、吉継が設けた防御施設のおかげか戦いを優位に進めていました。
4時間後・・・松尾山の小早川が寝返り、吉継の陣に襲い掛かります。
吉継はそれを予想していて・・・何度も押し返します!!
が・・・吉継を最後の誤算が襲います。
吉継配下の大名たちが、小早川に呼応して寝返ったのです。
その攻撃を支えきれず・・・大谷軍が崩れ・・・すぐに西軍は総崩れ・・・
戦乱のさなか・・・大谷吉継自刃・・・享年36歳でした。

関ケ原の戦いで唯一自刃して果てた大名です。


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<石田三成と関ヶ原合戦>対照的だった朋友 増田長盛と大谷吉継 (歴史群像デジタルアーカイブス)

新約真田幸村上巻直江兼続、石田三成、大谷吉継との友情を契った青春時代。出生の秘密と人質の時代から関ヶ原前夜まで。10分で読めるシリーズ

利家・利長・利常 前田三代の人と政治

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加賀・能登・越中・・・加賀100万石です。
加賀藩は、江戸時代に徳川に次ぐ実力No,2を維持し続けました。
その基礎を築いたのが三代・前田利常です。

maeda前田家お取り潰しの危機・・・謀反の噂・・・
1631年寛永の危機です。
謀反は、その噂だけでお取り潰しになることがありました。
その危機を乗り越えて・・・加賀繁栄をもたらせたのが利常でした。

江戸時代初期・・・徳川の天下を脅かす大名が3つ・・・
島津家(関ケ原で敗戦)・伊達家(政宗がもう歳を取っている)・・・そして前田家。。。
一番危険なのは、加賀100万石・前田利常だったのです。

どうして江戸時代が300年続いたのか??それは、No,2の前田家が謀反を起こさなかったからかもしれません。

1616年駿府城・・・徳川家康が世を去ろうとしていました。
そこに呼ばれたのは・・・120万石を誇っていた加賀藩当主・前田利常でした。

「その方を、どうにか殺そうと考えていた。
 しかし、秀忠が容赦するよう言うたため助けおいたのだ。
 決して心変わりの無いように。。。」by家康

関ケ原の合戦の前・・・徳川家は前田家と肩を並べる存在で、今となっては目の上のたんこぶとなっていました。
大きな大名で、邪魔な存在とっていたのです。
天下第二の勢力を持つ利常を恐れ続けていたのです。
この時・・・利常24歳でした。

戦国の世も終わりを告げようとしていた1594年11月、利常は利家の四男として生まれました。
本当なら家を継ぐはずではなかった地位の利常でした。
1600年関ヶ原の戦いで・・・勝利した家康は、1603年江戸幕府樹立!!
豊臣家を完全に無き物にしようとしていた家康・・・戦国大名たちは、どちらかにつくことを迫られていました。
当時の前田家は利家の長男・利長が継いでいました。
利長にとって悩ましい選択・・・天下が徳川に流れている今、豊臣につくのか??
しかし、前田家は、豊臣恩顧の大名で裏切るわけにはいかない・・・。

そこで、わずか13歳の弟・利常に家督を譲ります。
というのも、利常は1601年徳川の珠姫を正室に向えていました。
徳川と強固な関係に・・・!!
1605年秀忠が将軍に就任するとともに、加賀前田家を継いで藩主となる利常。
前田家は、新しい時代を生き抜くために、豊臣よりも徳川へ・・・舵を切ったのでした。
しかし、藩主が変わったものの・・・家康の目は厳しいものでした。

1611年家康の重臣から前田家に提案が・・・
「本多政重を前田家で雇ってもらえないか?」と。。。
政重は、本田正信の次男で、政治的能力に長けていたものの、徳川側の人間。。。
が、政重に3万石・筆頭家老として迎え入れます。
若い利常を支えるために・・・
幕府から頼れる人物になるために・・・
家康から常に厳しい目をつけられていた利常でした。

1614年11月、豊臣家打倒のために・・・大坂冬の陣!!
この戦いに徳川方として参戦した前田家。
翌年の夏の陣では、3200もの首をあげ・・・全大名中2番目の大活躍でした。
その功績により120万石を盤石の物とした利常でしたが・・・その7年後。。。
1622年・・・利常の正室・珠姫死去・・・。
幕府と前田家をつなぐ要を失ってしまったのです。
将来に大きな不安を残すこととなりました。

1631年11月、江戸から金沢城に一通の書状が・・・
「幕府が前田家の動きを不審に思っているので、すぐに江戸に参勤した方がいい」と書かれてありました。
前田家に謀反の動きがあるという衝撃的なものでした。

それには、利常の3つの行動が挙げられています。

①金沢城の修理
 寛永の金沢大火によって城も被害を受け、その修理。
②16年前の大坂の陣の論功行賞を今になってやり直し、家臣に加増したこと。
③新しい家臣をたくさん召し抱えたこと。

でした。

この3つが謀反の兆候として幕府内で問題となっていたのです。
これは、前田家存亡の危機・・・。

重臣・本多政重・横山長知に意見を求めます。
江戸へ出て弁明するべきか??
金沢城に籠もって江戸からの軍勢と戦うべきか??

①江戸に出て弁明・・・横山長知
②金沢城に引きこもる・・・本田政重

どうする利常??

「老木をハ捨よ」

ということで、処罰を覚悟で江戸に弁明をしに行くことにしたのでした。
11月25日、金沢を出発。
横山長知の息子・康玄 を江戸城に弁明に向かわせ・・・老中・土井利勝を訪問。
数々の行為は領国経営のためで謀反ではないと。。。すべては上様への御奉公のため!!と、弁明し、疑いは晴れ・・・存亡の危機を脱するのです。

その後利常は3年間金沢には戻らず、江戸で信頼回復に勤めるのです。
1634年金沢に戻った利常は、領国経営に力を入れるのでした。

藩の財政を安定させる・・・
徳川は、江戸に幕府をひらいてから城・河川の整備・・・普請をさせていました。
中でも120万石の加賀藩の負担は大きく、1636年の江戸城の改築では全工事区域の1/6を負担、過酷な要求に応えるために・・・。
御算用場を改革します。

kakeibo















(↑)武士の家計簿

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算用者と呼ばれる計算に強い家臣を置き、農地の測量、年貢の計算、参勤交代の費用・・・事細かく調べ、管理させます。

御算用場を置いたことで・・・改作法という農業改革となりました。
利常は・・・加賀藩で家臣たちが農地を管理し、年貢をとっていましたが・・・。
その為に農民が苦しむことも・・・
年貢率を決定し、取り立てまで藩が行い、家臣たちには俸禄を与えることとなったのです。
このことで、104万石が128万石に増えることとなりました。
増税をするのではなく、ベースである農地の再建を行うことで領主たちによる容赦ない取り立てから救うことに成功するのです。
このような農村救済、農地改革を行えたのは、この時代、加賀藩だけでした。
260年の加賀藩の礎を築いたことは間違いありまあせん。

京や江戸から高名な芸術家を招き、加賀藩の文化振興も図っていきます。
その拠点が御細工所と呼ばれる藩お抱えの作業所でした。
始まりは利長の時代・・・武具甲冑の管理、手入れをするのに始まったといわれています。
戦乱の世が終わると、利常はこの御細工所を、藩主の調度品や美術工芸品を作る所に替えていきます。
将軍への献上品、各藩に贈呈されることもありました。

職人たちに義務付けられていたのは・・・能楽でした。
将軍の前でも披露される能。。。ここに、今に繋がる加賀の文化が花開いていくのです。

兼六園の中にある成巽閣には・・・後水尾法皇から送られた書が残されています。
後水尾法皇の妻と利常の妻は姉妹・・・このつながりから親しかったふたり。
その御宸翰には「忍」の一文字が書かれています。

日頃から幕府に耐えかねていたという法皇・・・
江戸という時代を生き抜いた人々の想いがこもっています。

”武”から”文”へ・・・それは利常の生き残り戦略でした。


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