日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:土方歳三

大河ドラマ 新選組! 完全版 第壱集 DVD-BOX 全7枚セット

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今から150年ほど前の文久3年2月・・・。
幕末の風雲急を告げる京都に、江戸から浪士たちの大集団がやってきました。
勤王の志士たちが恐れた戦闘集団・・・後の新選組です。
その中心人物は・・・局長・近藤勇、鬼の副長・土方歳三。
旧幕府軍が戊辰戦争で惨敗を重ねる中、彼らは武士として幕府に忠義を貫き戦い続けました。
彼らはなぜ、最期まで戦う道を選んだのでしょうか?

尊王攘夷運動の高まりとともに、不穏な空気が立ち込める京都・・・
その京都で警護に当たっていただんだら模様の羽織姿の集団が、彼らはもともと14代将軍家茂が上洛するにあたっての護衛役として幕府にお金で雇われ江戸からやってきた浪士たちでした。
その後も京都に残り、治安維持の名のもとに、幕府に刃向かう過激な尊王攘夷の志士たちを次々と粛正していきます。
そんな新選組の名を一躍世に知らしめたのが”池田屋事件”です。
長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちが、御所に火を放ち、時の孝明天皇を長州に連れて行こうと計画!!
その情報を新選組が入手します。
元治元年6月5日・・・京都三条木屋町・・・池田屋に潜んでいることを突き止めると、近藤勇、沖田総司らわずか4人で踏み込みます。
応援も駆けつけ2時間の戦闘の末、7人を殺害、4人を捕縛しました。
新選組は、彼らの配下である京都守護職&会津藩主である松平容保から絶大な信頼を得ていました。
200人を超える大組織へと成長していきます。
しかし、この時新選組は、京都守護職会津藩御預・・・あくまでも浪士の集団でした。
それでも近藤や土方は、粉骨砕身、幕府に尽くしていくのです。
どうして幕府への忠誠心が強かったのでしょうか?

それは・・・武蔵国多摩にありました。
天保5年、多摩・・・上石原村の農家の三男として生まれた近藤勇は、15歳・・・若くして天然理心流に入門。
やがて剣の腕を認められ、天然理心流の宗家・近藤家の養子となり跡を継ぎます。
甲州街道の宿場町日野・・・ここにある剣術道場に、出稽古によく通っていました。
そしてそこで、運命の出会いを果たすのです。
同じ多摩の農家の出である土方歳三です。
二人は・・・「いつか幕臣となって、幕府のために働きたい」と厚く語り合ったといいます。
幕府の直轄地だった多摩は、年貢の優遇など多大な恩恵を得ていました。
戦があった時には、兵士として参戦する”八王子千人同心”という農民たちも多く、幕府への忠誠心が強い土地柄でした。
そんな土地で育った二人が、我等こそが真の”幕府侍”であると思うことは、ごく自然なことでした。

彼等が京都に来て4年経った慶応3年6月・・・
近藤のもとに嬉しい知らせが舞い込みます。
それまでの功績が認められ、新選組隊士全員が幕臣に取り立てらることになったのです。
二人の夢がかなった瞬間でした。

しかし、その4か月後・・・第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上してしまいました。
慶応3年10月14日大政奉還、12月9日王政復古の大号令・・・。
およそ260年続いた徳川幕府が終わりを告げるのです。
そんな中、徳川慶喜は、自身の内大臣の辞退・所領の返上を命じる新政府の処分に反発する暴発をおさえるために京都から大坂城へ・・・それに伴い、新選組も京都を離れ、伏見に・・・
新選組は、いつでも幕府のために戦う覚悟を決めていました。

慶応4年1月3日・・・鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりです。
京都伏見に近い鳥羽街道で、新政府軍と旧幕府軍が激突!!
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍はおよそ5000!!
これに対し、旧幕府軍は15,000!!
数の上では旧幕府軍が圧倒的でした。
新選組は、旧幕府軍の司令部があった伏見奉行所に陣取り、薩摩軍の本陣があった御香宮神社を急襲、痛手を与えます。
しかし、その後、新選組ら旧幕府軍は苦戦を余儀なくされます。
原因は・・・鳥羽伏見の戦いで指揮を執っていたのは、局長の近藤勇ではなく副長の土方歳三でした。
半月ほど前、近藤は仲間割れした新選組隊士に右肩を狙撃され、大坂城で治療を受けていました。
この近藤の不在が、新選組が苦戦した要因でした。

戦略に長けた近藤が居なかったことで、隊士たちは戦場で臨機応変に動くことができませんでした。
新選組ら旧幕府軍は追いつめられます。
薩摩軍のはなった大砲が、伏見奉行所の火薬庫に直撃!!
大爆発を起こしたのです。
新選組ら旧幕府軍は、奉行所からあえなく撤退・・・
1月5日、淀千両松まで撤退・・・そこで敵を迎え討ちます。
新選組は得意の剣術によって善戦しますが、大砲や小銃を中心とした新政府軍の攻撃が始まると形勢は逆転・・・新選組隊士の戦死者は10人、負傷者は25人に上りました。
新選組を含む旧幕府軍は、大坂からの援軍を待つため、老中・稲葉正邦の居城である淀城に・・・体勢を立て直そうと考えます。
四方を川や池に囲まれた堅固な淀城を拠点と戦い、巻き返しを図ろうとしたのですが・・・。
新政府軍の圧力によって、稲葉家の家老が中立を決意!!
土方らは入城を拒否されます。
味方のまさかの裏切り・・・もはや、なすすべはありませんでした。

朝廷から錦の御旗を与えられ、官軍となった新政府軍の勢いが増すと、旧幕府軍の兵士たちは恐れをなし、次々と逃げ出したのです。
そんな中、大坂城で治療中だった近藤勇が動きます。
15代将軍だった慶喜に・・・
「まだ策はあります。
 このままでは東照大権現に申し訳が立ちません。」
東照大権現として崇められていた家康の名をだし、慶喜に徹底抗戦を求めますが。
1月6日午後9時・・・慶喜は夜陰に乗じて大坂城を脱出、幕府の軍艦で江戸に逃げ帰ってしまいました。
旧幕府軍の敗戦は決定的となりました。
新選組も江戸へ撤退・・・この時、隊士たちは90人になっていたといいます。
鳥羽伏見の戦いの敗戦を受け、江戸城内は、新政府に対する教順派と抗戦派に分裂!!
教順派の代表は、幕府の重役であった勝海舟でした。
勝は、新政府軍に恭順することで、徳川家を存続させようと考えていました。
一方新選組は抗戦派・・・戦うことにこだわりました。

鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸総攻撃に向けて進軍を開始します。
そんな中、新選組局長・近藤勇は幕府の直轄地だった甲州の治安維持を命じられ甲陽鎮撫隊を結成。
しかし、近藤と土方は、新政府軍に恭順しなかったことから朝敵と見なされ、命を狙われていました。
近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名を変えて素性を隠すことに・・・。

また、土方は刀や槍で戦う時代は終わったと痛感、軍備を西洋化し、自らも断髪、洋服に身を包みます。
慶応4年3月1日、150人の兵を率いて甲府へ・・・
しかし、先に甲府についた新政府軍に、甲府城にいた幕臣たちが降伏したために城を奪われてしまいました。
これを聞き、甲陽鎮撫隊から脱走兵が続出し、兵は120人ほどに減ってしまいました。
それでも近藤たちは、勝沼宿まで兵を進めます。
およそ2,000人の新政府軍と戦うために!!

3月6日正午ごろ・・・両軍が激突!!
しかし、僅か2時間ほどで鎮撫隊は壊滅状態に・・・。
それでも近藤と土方は戦うことを諦めませんでした。
兵を集めながらも幕府の直轄地・流山に移動!!
この地の豪商の屋敷に陣を構え、徹底抗戦の構えを見せますが・・・予想をしなかったことが起こりました。
4月3日、新政府軍に包囲されてしまいました。
この時ほとんどの兵士たちが軍事教練に出ていたので本陣には数人しか残っていませんでした。

「最早、切腹するしかあるまい・・・」by近藤
武士として散ろうとする近藤に対し・・・
「いけません、このままでは犬死です。
 ここは運を天に任せ、出頭すべきです。
 生きていれば、きっと反撃の機会はあります!!」by土方

近藤は、土方の言葉に出頭を決意。
この時、土方が近藤に出頭を勧めたのは、大久保大和という偽名を使っていたので、新政府軍に近藤であるとバレないのでは?と思っていました。
偽名とバレたときの秘策として・・・
新政府軍と強いパイプのある勝海舟に助命嘆願の手紙を書いてもらうというものでした。
4月4日の勝の日記には・・・
「土方歳三来る 
 流山顛末を云う」
土方が勝に面会したのは事実ですが、勝が助命嘆願したという記録は残っていません。
勝海舟は教順派なので、近藤の嘆願を書くことはあり得なかったでしょう・・・
土方の目論見はハズレ・・・さらに、新政府軍の中に、元新選組隊士がいたために近藤の素性がバレてしまいました。
4月25日・・・近藤勇は朝廷に背く逆賊として、切腹を許されず斬首・・・まだ35歳でした。
切腹を許されなかったことは無念であったことでしょう。

土方はこの後、僅か残り少なくなった新選組の隊士を率いて、下総の旧幕府軍に合流・・・
そこで、旧幕府軍総督・大鳥圭介と出会います。
土方は、鳥羽伏見の戦いの実戦経験が評価され、参謀として迎えられました。
1,000人の先鋒隊を率いて、宇都宮城を一日で落とします。
新政府軍は震え上がったといいます。

近藤勇亡き後、新選組の土方歳三は、米沢、仙台と東北各地を移動していきます。
共に新政府軍と戦ってくれるよう交渉するためでした。
しかし・・・米沢藩も、仙台藩も新政府軍の遺体する降伏を決めていたのです。
東北諸藩に味方になることを断られた土方でしたが、仙台で隊士を募り、新選組は150人に増えていました。
そして・・・ここで一人の男と出会います。
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。
榎本は新政府軍から開陽丸をはじめ8隻の軍艦の引き渡しを求められていました。
しかし、榎本はこれを拒否して仙台へ向かいます。
ところが仙台藩が新政府軍に降伏してしまったために、軍艦を率いて蝦夷へ向かうことを決めます。
幕府が倒れたことで生きる道を失った幕臣たちと共に、蝦夷で蝦夷共和国を建国しようと考えていたのです。
土方は榎本と蝦夷へ行くことにします。

明治元年10月20日・・・土方たちは、蝦夷の鷲ノ木浜に到着。
その後、二手に分かれて箱館の五稜郭に向かいました。
五稜郭は、幕府が箱館開港に向けて元治元年に完成させた西洋式の城郭・・・上から見ると星形が特徴です。
土方たちは、新政府の占領下にあった五稜郭を瞬く間に占拠。
中にあった箱館奉行所に陣を張ります。
さらに、蝦夷を支配していた松前藩の居城・松前城も1日で落としてしまいました。
蝦夷でもなお戦い続ける土方・・・一矢報いることが近藤勇の精神を継承する最後の誠である・・・。
勝つ、負けるという打算を超えたところに土方の境地があったのです。

衝撃の知らせが・・・最新鋭の軍艦・開陽丸が暴風雨により江差港で座礁・・・。
一隻で新政府軍の軍艦の全てを上回る能力を持つといわれていた開陽丸を失うことは大きな痛手でした。
一方、新政府軍の船は蝦夷へ・・・。
旧幕府軍は明治元年12月15日、蝦夷の平定を宣言し、「蝦夷共和国」樹立。
榎本武揚が共和国の総裁に選ばれ、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並でした。
新政府軍は旧幕府軍を一掃しようと蝦夷へ軍隊を向わせます。
明治2年4月箱館戦争開戦!!
土方は新政府軍を迎え討つために江差方面に・・・
その途中の二股口が主戦場となります。
二股口は急な崖を擁する山に囲まれ、谷底を深い川が流れる天然の要害・・・。
土方は周囲の山に塹壕を掘り、新政府軍を待ちます。
土方郡300に対し迫る新政府軍600!!
劣勢の中、戦いが始まりました。
新政府軍の猛攻にもひるむことなく、果敢に抗戦する土方!!
16時間に及ぶ戦いの中で、3万5000発の弾丸を打ち込み、見事新政府軍を退却させます。
激しい銃撃戦となった箱館戦争を含む戊辰戦争の一連の戦いは、最新鋭の銃を使った近代的な戦争の幕開けともいえました。
ミニエー銃は、フランスで開発された先込式のライフルで、銃身の内側にライフリングといわれる溝が刻まれていました。弾が自転しやすくなってより真っすぐに遠くまで飛ぶ仕組みになっていました。
有効射程距離も旧式銃(火縄銃・げべーる銃)の3倍の270㍍・・・箱館戦争ではこのような高性能な武器を使った激しい戦いとなったのです。
そして、土方はその銃撃戦で命を落とすことになります。

明治2年4月13日、旧幕府軍と新政府軍が箱館近郊二股口で激突!!
旧幕府軍を率いる土方歳三の活躍によって、一旦新政府軍は撤退しますが・・・その10日後、猛攻を仕掛けてきました。
この時も、12時間の激戦の末、土方が二股口を死守・・・劣勢にあった旧幕府軍で一人気を吐き武士の意地を見せます。
そんな中、木古内方面で戦っていた大鳥圭介の軍が総崩れに・・・そのまま新政府軍がなだれ込んでくれば土方軍は挟み撃ちとなって退路を断たれてしまう・・・。
土方は止む無く函館まで退却・・・
5月11日午前3時新政府軍による箱館総攻撃・・・!!
僅か4時間ほどで箱館の街の大部分が制圧されてしまいました。
それでもなお、瀬新選組の隊士たちは箱館湾に面した弁天台場で籠城し抵抗します。
そんな仲間たちを救うために、五稜郭から向かう土方・・・。

土方の護衛役で常に行動を共にしていた立川主税によると・・・。
”土方、兵を率いて一本木より進撃す”
そして、一本木関門から異国橋まで2キロ近く敵を追い払います。
その後、一本木関門に戻ってきた土方は、味方の兵に向かって叫びます。
「前進せよ!!この策から退く者は・・・容赦なく斬る!!」
兵士たちは誰一人退くことなく果敢に立ち向かっていきます。
ところが・・・5月11日午前10時ごろ・・・
一発の銃弾が馬上にいた土方を貫きます。
立川が駆けつけたとき、すでに土方は息絶えていました。
土方は狙撃されたとも、流れ弾が当たったともいわれています。
立川の日記によると・・・”敵丸腰間を貫き遂に戦死”とあります。
 
一発の銃弾によって命を落とした新選組副長・土方歳三・・・。
土方は誰に撃たれたのでしょうか?
松前藩は、もともと新選組を配下においていた会津藩と交流がありました。
幕府側の藩でしたが、藩内での権力闘争で新政府へ恭順するようになったのです。
箱館戦争に松前藩は新政府軍として参加していました。
そして一本木に・・・。
そしてその八番隊の中に、土方を撃った者がいるのではないか??
松前藩氏・米田幸治??
米田幸治は天保14年うまれの松前藩士で若いころから銃の名士とされ、箱館戦争時は八番隊の小隊司令士となっていました。
そんな米田が土方を撃ったという資料が残されています。
米田の孫が書いた本によると・・・。
”” 御祖父米田幸治中尉が箱館戦争において脱走幕軍豪将土方歳三を討ち取った””
米田は土方を撃ったことを家族にだけが語っていたようです。

「部下が銃を撃てなかったので、その銃を取り上げ彼の方に乗せ、太刀打ちの構えで引き金を引き、やってくる武士を撃った。
 すると馬上の武士が落ちた。
 銃撃がやんだので、武士の死体を見に行き、陣羽織を裏返すと土方と書いてあった。」

米田の証言が事実ならば、幕府のために忠義を尽くして来た土方は、かつては幕府側で味方だった者の銃弾に散ったということなのです。
土方の死から7日後・・・明治2年5月18日、箱館戦争終結。
戊辰戦争は終わりを告げます。
最期まで忠義を貫き、戦い続けた新選組・・・局長近藤勇と副長土方歳三・・・
幕府の直轄地の農民に育ち、同じ夢を見て切磋琢磨し、幕臣にまでとりたてられました。
その恩を忘れず、最期まで武士としての意地を貫き戦い続けました。

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今年の1発目は私の大好きな”歳さん”で!!

かつて、司馬遼太郎はこう言った・・・。
「京は季節の都である」
四季に彩られた都を血に染めた男・・・新選組副長・土方歳三です。
黒船来航をきっかけに、国論は攘夷と開国にわかれ・・・250年続いた徳川幕府は大きく揺らぎました。
この争乱に乗じ、幕府転覆に暗躍する藩士、浪士たち・・・。
鬼の副長土方歳三は、局長・近藤勇と輩を屠り、新選組隊士をも鉄の掟で葬りました。
幕末維新の時代・・・何が土方を駆り立てたのでしょうか? 

京都の夏の華・祇園祭・・・153年前のそのさなかに、事件は起こりました。
1864年6月5日・・・新選組が一躍その名をあげた池田屋事件です。
この時討幕を目論む一派は、京都に火を放ち、混乱に乗じ天皇を長州に連れ去ろうと計画していました。
その集会に僅かな手勢で乗り込んだ新選組・・・
凄惨な斬りあいの末、数人をその場で殺害し、多くの討幕派を捕らえました。

この時、新選組副長・土方歳三が身に着けていたのが残されています。
古くから甲州街道の宿場として栄えた日野・・・
1835年土方歳三は、武州(武蔵国)石田村に豪農の六男として生まれました。
土方が暮らした家は、歳三の兄の子孫が受け継ぎ資料館として公開されています。
土方は、この鎖帷子をつけて池田屋に駆け付けたと言います。

kusari
槍で突かれたような跡、補修された跡・・・土方の汗がしみ込んだ防具からは、自らの命と引き換えに、幕府への忠義の姿が浮かびます。


土方家には、歳三の遺品以外にも武具が伝えられてきました。
武州は天領なので、徳川に何かあったら馳せ参じる気概が農民にもあったのです。




土方が生れる1年前、局長となる近藤勇も武州上石原村に生まれています。
幼いころから剣術に秀でた近藤は、27歳で天然理心流を継承し、土方は門人として腕をあげました。
1歳違いの二人は、幕府への忠義の心を育み、激動の時代を二人三脚で歩むこととなります。

この頃、250年続いた徳川幕府は大きく揺らいでいました。
ペリー来航以来、国論は、攘夷と開国に分かれ・・・幕府は、朝廷に攘夷実行を約束したものの、道筋は見えていませんでした。
政治の中心地・京都には、強硬な攘夷派の藩士や浪士が集まり、幕府寄りの人物を殺害するなどのテロ行為に及んでいました。

そんな中、朝廷への攘夷対策言上に14代将軍家茂の上洛が決まります。
その警護のために、江戸城下で腕に覚えのある者が募集されます。
土方や近藤は迷うことなくこれに参加し、運命の地・京都へ・・・!!
京都での土方たちは、京都守護職・会津藩主・松平容保の預かりの身分となり、京都の治安維持を担うこととなります。
新選組は取締に当たり、過激な攘夷派の殺害を厭わず、討幕運動への脅威となっていきます。
新選組の命知らずの戦いと強固な結束は、厳しい大規によるものでした。

第一 指導を背くこと
第二 局を脱すること
第三 勝手に金策を致すこと
第四 勝手に訴訟を取り扱ふこと

四箇条を背くときは
切腹を申し付くること

切腹の理由は・・・
新選組は、正式な武士ではありません。
町人、農民からも入隊していました。
本来の武士ならば、閉門、蟄居など、段階を追った処分ができましたが、彼らが差し出せるのは・・・自分の命だったのです。
新選組が殺した敵は26人ですが、約40人が粛正されています。
正式の武士に侮られないように、より武士らしく生きる・・・それが、ポリシーとなっていました。
内部の粛正を続けながら、新選組を維持し、京都の治安維持に努める土方・・・。
当時、土方が使っていた刀は・・・「大和守源秀圀」です。
直刃で、波紋が真っすぐになっており、まさに人を斬るための・・・戦うための刀でした。
近藤勇が長曽祢虎徹・・・他の隊士たちもブランド刀を好むのに、土方はブランド物よりも実際によく斬れる刀を好んでいます。
土方の愛刀の柄の中には・・・「幕府侍土方義豊戦刀」と名がきられています。
義豊とは土方の諱で、戦刀とあるので、戊辰戦争でこの刀を使ったと考えられています。
1868年正月・・・戊辰戦争は、京都郊外・鳥羽伏見で始まりました。
新選組は、銃や大砲を上手く使う新政府軍に敗れ、江戸に逃れることに!!
江戸にもどった土方は、旧幕府の役人に鳥羽伏見での戦いを語ります。
「最早、武器は砲でなくてはいけない。
 私は剣を帯び、槍を執ったが、一切役に立たなかった。」
幕府侍・土方は、西洋の最新銃器を見せつけられ、自らも洋装へ・・・!!

鳥羽伏見での敗戦後、江戸に戻った新選組は、旧幕府軍の責任者・勝海舟の配下となりました。
勝は、西郷隆盛との会談で、江戸城を無血開城に導き、徳川家の存続を図ろうとしていました。
しかし、土方は、幕府侍として応戦を考えていました。
鳥羽伏見での敗戦から3か月後・・・土方は、およそ200人の新選組隊士を引き連れて、近藤らとともに江戸川を渡りました。
仁を構えたのは、現在の千葉県流山!!
対陣の表向きの理由は、幕府寄りのこの地の反乱を鎮めるためでした。
しかし、土方の本意は、新選組を近代的な様式部隊に訓練することでした。
新選組が会津軍の一員として戦う??
時代は、洋式訓練、銃や砲の訓練・・・。
流山では・・・近藤は大久保大和、土方は内藤隼人という偽名を使っていました。
これは、新政府軍の追撃をかわすためだったと言われています。

新政府軍の動きは早く・・・土方らの流山着陣の翌日、新選組の本陣は、多数の新政府軍に取り囲まれてしまいました。
この時、隊士たちは野外訓練に行っており、本陣には土方・近藤以外には数名しか残っていませんでした。
ここまで鯛を引っ張ってきた近藤は、観念しました。

「最早これまで!!切腹いたす!!」by近藤勇

土方・・・どうする??

近藤を切腹させる??それとも、最後まで死力を尽くして新政府軍と戦う・・・??
それとも近藤を出頭させる・・・??

近藤と共に死を選ぶのか??一縷の望みにかけるのか・・・??

新政府軍に包囲され、切腹を覚悟した近藤勇・・・
この時・・・

「ここで割腹するは犬死になり。
 運を天に任せ、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん」by土方

土方は、偽名を貫き近藤を出頭させ、生き抜くことを選びます。
近藤は、大久保大和として悠然と敵陣に乗り込みます。
土方は急いで江戸に走ります。
走った先は、旧幕府軍責任者・勝海舟の元!!
近藤出頭の翌日の勝の日記には・・・

慶応四年四月四日
土方歳三来る
流山転末を云

とあります。

土方は、勝に近藤の処遇を託し、旧幕府陸軍と合流。
新政府軍の手に渡っていた宇都宮城を様式訓練をしていた隊を指揮して陥落させます。
銃砲を駆使しての見事な勝利でした。
しかし・・・戦闘中に足を怪我した土方は、会津に入って治療に時間を有します。
そこに、追い打ちをかける悲報が・・・
新政府軍に出頭した近藤は、間もなく素性が露見し、罪人として斬首の末、首を京都三条河原に晒されました。
新政府軍の熾烈な攻撃の前に、土方が身を寄せた会津の命脈は尽きようとしていました。
しかし、土方は、近藤の最期を知って以降、常に口にしていました。

「近藤と共に死ななかったのは、ひとえに徳川家の冤を雪ぐためだ。
 万一赦されたら、何の面目をもって地下の近藤に見えんや」と・・・。

土方は、まだ戦いを終えるわけにはいきませんでした。
近藤は、「大久保大和などという者はいない」と、幕府に捨てられる形となりました。
彼らの組織自体が、幕府にとっても邪魔なものになりつつあったのです。
土方も・・・自分達は、和平路線の中で生きていくのではなく、徹底抗戦で生きていくという思いを強くしていました。
自分達が武士としての理想を追求したのにという怨念みたいなものが、近代的なエネルギーに昇華していったのです。
会津を脱出した土方は、榎本武揚と仙台で合流!!
蝦夷地を目指す決心をします。

「到底勝算あるに非らず。
 我等戦ふて快く死せんのみなり。

 吾輩は、已に死神にとりつかれたる也。
 死すへきときに死すれば則ち可なり。」と、松本良順に送っています。

かつて蝦夷地と呼ばれた港町・箱館・・・
市街地の中央に広がる五稜郭は、西洋の城郭を真似て作られ、その中心には箱館奉行所が置かれていました。
土方がここに入城したのは、1968年(明治元年)10月26日のことでした。
死神に取りつかれた男・土方は、蝦夷地でも鬼神の如く戦います。
上陸から1か月足らずで新政府に恭順していた松前藩を駆逐!!
翌1869年(明治2年)4月9日、新政府軍は大挙して蝦夷地に上陸します。
土方は、上陸地から最短ルートの山中・・・二股口で新政府軍を迎え討ちます。
敵が真下に見える場所に塹壕が作られていました。土方がそこで指揮していたのかもしれません。

土方率いる旧幕府軍は、巧みに築いた塹壕から一日3万5000発を新政府軍に浴びせ、撃退します。
再戦でも、熱を帯びた銃身に水をかけながら堡塁を守ります。

蝦夷の陸軍の戦い、これをもって最も烈しとなす

しかし、土方の奮闘虚しく・・・他の守りが突破され、土方は五稜郭への撤退を余儀なくされたのです。

1869年(明治2年)5月11日、箱館山を越えて、新政府軍の大攻勢が始まりました。
土方は、箱館港と五稜郭の中間にあった一本木関を死守するべく指揮を執ります。
そして・・・土方歳三享年35歳・・・
奇しくも、流山でわかれた盟友・近藤勇と同じ年でした。

土方の死後1週間・・・五稜郭は新政府軍に明け渡され、日本の近世から近代への架け橋となった内戦は終わりを見るのです。

戊辰戦争の激戦地・福島県会津若松・・・戦争のさ中、山麓の寺に罪人として首を落とされた近藤勇の墓が建てられました。
それは山腹にひっそりとたたずんでいました。
この墓が建てられたときの逸話・・・
この当時、侍のような姿がよく目撃されています。
それが・・・土方歳三ではなかったか・・・??
近藤の墓と肩を並べるようにして建てられた土方の慰霊碑。
幕府への忠義に生き、盟友への信義に死んだ土方歳三・・・。
150年前、近代明治に舵を切った日本に、彼の居場所はありませんでした。


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THE 歴史列伝 ~新選組スペシャル~観ました。
今回は、大好きな新選組でした

近藤勇・土方歳三・沖田総司・山南敬助・永倉新八たち・・・有名どころを2時間という短い時間で紹介してくれました。

ゲストは漫画家の黒鉄ヒロシさんと、作家の伊東潤さんでした。

内容はよくある感じのお話・・・というか、2時間でキャラの濃い5人を紹介するのは無理だと思うので、さっとうわべを通った感じがしましたが・・・

rekisi

写真について・・・
ま・・・近藤さん、歳さん、新八っあんはともかく・・・斎藤一(左端)出てました??写真も本人かどうかビミョー。。。

おまけ総ちゃんですが・・・右から2番目・・・ホントに総ちゃん??イメージ画像では??



歴史には、勝者の歴史と敗者の歴史とがあって・・・
私達は薩長の勝者の時代に生きています。
なので、新選組という敗者の歴史は歪曲されている可能性もあって・・・
何が本当で何が本当でないか??
解らない部分がたくさんあります。
で・・・もしかすると、どちらも本当かも知れませんしね。

ただ、史実はどうであれ、ゲストのみなさんの”新選組”に対する愛が感じられました。
それを思った時に、ふと、最近の歴史番組があんまりおもしろくない原因?のようなものが浮かんできました。

最近の歴史関連の番組は、ナビゲーターなる俳優さんが出てきます。
あ・・・この歴史列伝も六平さんですが・・・。
男性、女性・・・私が頭に浮かぶだけでも6人ぐらいいるんです。
でもね、本当に歴史が好きなのかしら??みたいな人もいるでしょう??
なんか興ざめしてしまいます。

もし、ナビゲーターを使うとして挙げるなら・・・
「ザ・プロファイラー」のV6の岡田准一くん・・・”官兵衛”ですね。
あとは、今回の大河ドラマで宮部鼎蔵を演じているビビる大木さんとか・・・
歴史が大好きなんですオーラを目一杯に出していて、子供のように目の輝いている人が良いなあ・・・って思うのです。

それと、ゲストの人数人と対談するのが良いですね。
いろんな方向からの意見があって、目からウロコなお話が聞ける可能性大ですから・・・。
期待を持たせるような?もったいぶったよく判らないVTR流すんだったら、討論してほしい。。。

今回のTHE歴史列伝、新選組への愛がたくさん詰まっていました。
史実を知っている人でも、愛のあるお話を聞くことができたら有意義な2時間になると思うんですよね。

そんな歴史番組、やってくれないかなあ・・・。

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新選組局長近藤勇―士道に殉じたその実像

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1864年6月5日・・・幕末の日本を揺るがす大事件が勃発します。
世にいう池田屋事件です。
新選組の目的は、過激な浪士の放火テロの阻止でした。
激しい戦闘の末に、新選組が鎮圧します。
これによって、局長・近藤勇は京都を大火から救った英雄に・・・新選組の名は天下に轟くのです。
しかし、この騒動で多くの長州人がなくなり・・・長州の恨みを買うことになります。
その後、池田屋事件の抗議に始まり長州藩は京都に兵を進め、軍事衝突が・・・!!
戊辰戦争の終結まで動乱の時代となるのでした。

近藤勇は”剣=武”のイメージが強いですが、自分の言葉をしっかりと人に伝えることのできる”政治家”でした。

そんな近藤勇が育ったのは、江戸郊外にある多摩。
裕福な農家が多く、近藤は農家の三男でした。
15歳で剣術をはじめます。
三男では家を継ぐことができないので、剣で生きていこうとしたのです。
多摩地方は治安維持のために剣術を学ぶものも多く、剣で食べていくことができました。
近藤は道場主の養子となり、28歳で道場を継ぎ、各地を回りました。
東京・町田にある小島家でも剣術を教えていました。
そこには近藤の稽古着が残っています。
背中には、妻に縫わせた髑髏が・・・。

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戦いで倒れ、野に屍をさらすことになる・・・そうなっても構わないという覚悟の現れです。
その頃道場には、新選組の主なメンバーとなる沖田総司・土方歳三などが集まってきていました。
後に近藤と行動を共にした永倉新八は・・・
稽古が終わると、国事を愁い議論を交わしていたそうです。


当時江戸幕府は、欧米列強諸国の圧力に屈し、開国を約束。。。
これに対し、京都では攘夷の命令が下されました。

防衛の最前線である薩摩・長州は単独で攘夷を決行し、幕府に開国撤回を要求します。
幕府は、諸外国と攘夷派の板挟みにあい、政治は混乱を極めました。
当時の日本の若者の多くは、攘夷に傾いていたようです。
じっとしてはいられない!!という雰囲気が、下層・下級武士・郷士に広がっていきました。

自分達の力を生かせないか???と思っていたところにチャンスが回ってきました。
幕府の浪士募集の知らせです。
任務は京都に向かう14代将軍家茂を護衛するという。
将軍の京都行きは、天皇の攘夷命令を直に受けるためのものでした。
この頃京都では、天誅が流行っていました。
治安が乱れていたのです。
要人の暗殺や放火が頻繁に起こり、それを取り締まる役人にも迫ってきました。

近藤たちの心を動かしたのは・・・
「尽忠報国之志」があれば、身分は問わないというところでした。

幕府に召し抱えられるわけではなく、給与も支給されないが、将軍の先駆けとなって攘夷を実行できる!!

京都についた近藤たちは、市中の見回りをしていた会津藩・松平容保のお預かりとなります。
そこで、会津の精鋭部隊の名前である”新選組”を許されるのです。
新選組は期待に応え、不逞浪士たちを取り締まっていきます。
京都市壬生で・・・100人の隊士たちが生活していました。
休んでいる時は隊旗を振り回して遊んでいた隊士たちも、出番となれば覚悟の上で屯所から出ていきました。
無給で命がけで働く新選組・・・しかし、京都の人は決して温かくはありませんでした。
みすぼらしい恰好を、”壬ぼろ”と揶揄し、無礼、暴言もありました。
そんなことは気にしない近藤。。。

京都の老舗の茶屋で行われた幕府や各藩の代表が集まる会合で・・・
近藤は・・・
「長州や薩摩は単独で攘夷を行っているが、徳川将軍の元一つになって攘夷を行うべきである」
と、進言しています。
この主張に誰もが感心したといいます。

あるとき、幕府の閣僚に呼び出された近藤。。。
新選組の隊士全員を、幕府の臣下に取り立てたいという話・・・
しかし、近藤は断ります。
攘夷をなさないうちに給与をもらう身分となってしまったら・・・気が緩む者も出てくると考えたのです。

現実的には攘夷ではなくなっていきます。
薩摩藩が開国に・・・
そして近藤の希望が打ち砕かれた日・・・それは、天皇に呼び出されていた家茂が、攘夷の気概を見せることもなく、近藤たちを残して江戸に帰ってしまったのです。
近藤は、京都に居ても攘夷は出来ないと悟ってしまいました。。。
隊士を結束させていた攘夷という目的を失ってしまったのです。

1864年、近藤は新選組の解散を決意し、上申書を提出します。
京都には攘夷のために来たのであり、果たせないならば解散させてほしい・・・。
池田屋事件の1か月前のことでした。

つまり・・・池田屋事件までは、攘夷をやるために市中警備をやっていたようです。
近藤の攘夷も、長州の攘夷も全く一緒で・・・
違うのは攘夷を行う主体者・・・つまり征夷大将軍である徳川家茂と天皇の違いなのです。
どうして家茂なのか???
近藤勇の出身地・・・多摩が幕府の領地だったことに大きく関係しているでしょう。
天領は税金が安く、農民が豊かでした。
農民でも剣術ができる・・・そして天領の百姓としての自負もあったのです。

京都についたときは1963年2月・・・
この時、天皇に働きかけていたのは長州藩でした。
町の中では、脱藩した過激派浪士が暗殺・放火を行ってる状態でした。
新選組の最初の任務は、この過激派浪士を取り締まることだったのです。
ところが・・・8月18日・・・八・一八の政変によって、長州藩が京都を追放されてしまいました。
長州藩の人間は、京都への立ち入りを禁止されてしまいます。
そこで、長州藩は非合法に藩士を潜伏させ・・・潜伏浪士に暗殺や放火を命じたのです。
新選組の対象は、潜伏志士だったのです。
より過激に・・・より過激に・・・

池田屋事件・・・事件の発端は、この池田屋で放火テロの密談が行われている・・・という疑惑でした。
1964年6月・・・京都に長州藩士が集まってきているという情報が・・・!!
この時期、長州藩士は京都に入ることを許されていませんでした。
手引きをしたのは???
6月5日早朝・・・古高俊太郎を捕縛。
古高の家を捜索すると、武器弾薬がずらり!!
追及するため拷問にかけられる古高。。。
これによって放火を白状します。

”御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致し長州へ”と。。。
300人もの長州藩士が潜伏している???
緊急事態に会津藩に応援を依頼します。
午後7時会津藩が来る前に、単独で出発!!
鴨川を挟んで右と左・・・近藤と土方に分かれての捜索となりました。
午後10時・・・池田屋にたどり着いた近藤。。。
周りに見張りの隊士を置くと、切り込めるのはわずか4人。。。

翌日から祇園祭が・・・近藤の選択肢は???
援軍を待つ?それとも4人ですぐ突入??

腕に覚えのある近藤たち・・・負けるとは思っていなかったようです。

・・・突入します!!

2階には10人以上の浪士たちがいました。
ちゃんちゃんばらばら・・・乱戦になります。
そして、沖田総司が結核による吐血で戦線離脱・・・。
藤堂平助も頭を負傷。
近藤と永倉だけになってしまいました。

と・・・その時、土方隊登場!!
残った浪士たちは観念して降伏したのでした・
翌日まで残党狩りが行われ・・・新選組は朝廷から感謝状が贈られ、近藤勇は英雄となり、新選組の名は天下に轟いたのでした。

まさに命がけの選択だったのです。

しかし・・・攘夷とは違う目的で勝利してしまった近藤・・・違う方向へ流れて行ってしまう??
近藤勇の本心は何処にあったのでしょう。。。

ここで、新選組の方向性が変わってしまいました。
後戻りできない・・・幕府側について、長州と戦う位置に固定されてしまったのです。
近藤勇は、池田屋事件の後は、”攘夷”という言葉を使わなくなります。
もっぱら長州征伐を推すようになるのです。
しかし、これは近藤だけではなく、世の中が攘夷を語れなくなってしまったのです。
天皇自身が諸外国を許してしまったのがこの頃で、そこで攘夷を叫び続けることは、政治家・近藤勇としては非現実的な事だったのです。

その後の日本にはどのような影響を与えたのでしょうか?
池田屋事件の抗議を名目に、長州藩は、京都に兵を進めます。
遂に武力衝突・・・禁門の変が起こります。
新選組は会津藩の精鋭部隊として活躍!!
しかし、3年後・・・薩摩が長州と手を組んだことで形勢は逆転・・・。
王政復古のクーデターで薩長が実権を握ると、幕府を討伐するように命を出します。
これによって幕府は・・・新選組は朝敵・逆賊となったのです。

天皇を味方につけ、最新式の兵器で戦う新政府軍は、次第に幕府軍を追い詰めていきます。
新選組は敗走を続け・・・
池田屋事件が発端となった戦いは、全国各地に飛び火し、事件から5年間続きました。
恨みが重なっていくうえで、池田屋事件が大きなファクターだったことは否めません。

徳川が降伏を決めたあとも、闘い続けます。
しかし・・・千葉県流山市で新政府軍に囲まれてしまいました。
切腹を決意するも、代表として名乗り出ます。

1868年4月26日・・・新政府軍は近藤を斬首・・・。
近藤の首は、京都の三条河原に晒されたのでした。
忠義をつくし、国に報いようとして闘った近藤の罪は天皇に逆らった・・・逆賊の汚名でした。


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ザ・プロファイラー初の日本人が、歳さんです。

幕末きってのイケメン土方歳三。
甘いマスクの本性は、戦いの鬼!!
刃向う者・・・逃げる者の許さない鬼の副長!!
その圧倒的な姿に京は震えあがりました。
剣から銃へ!!
さらに強く!!
連戦連勝!!まさに幕末最強の戦士です。
そこにあったのは、究極の負けず嫌いでした。

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”誠”の旗には真実の武士でありたいという想い。
だんだら羽織・・・このだんだら模様は忠臣蔵にヒントを得ました。
浅黄色は・・・武士が切腹するときの衣装の色でした。

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このデザインは、土方がデザインしたと言われています。

①夢を切り開いた木刀

1835年多摩・石田村に誕生します。
実家は豪農で裕福な家庭・・・
10人兄弟の末っ子、やんちゃな悪がきでした。
少年時代は・・・
「負ける、逃げる、叶わぬなどの言葉は、誰よりも外へ出すことを恥とし、人の言うことさえ忌み嫌った。」
と言われています。
弱音は絶対に吐かない・・・負けず嫌いな子でした。
10代前半で、有名呉服商に丁稚奉公に出ます。
立派な商人になるために・・・。
しかし、負けず嫌いが仇となり・・・番頭に食って掛かり・・・店を飛び出して、30キロ先にある実家に帰ってしまいました。他にも奉公するも・・・全部クビ!!

問題を起こしても頭のさげない歳三。。。

日野宿本陣は、土方家の親戚の持家で、剣術道場でした。
多摩では・・・裕福な豪農を狙って盗賊が!!!
その対策に、農家でも剣術を習う必要がありました。

17歳の時、運命の出会いが!!
近藤勇です。

近藤の生まれは、多摩の農家の末っ子・・・歳三と同じ境遇でした。
剣術の腕を買われて武士の家の養子となっていました。
武士になった近藤と農家の歳三。。。

人生の目標が見つからない歳三・・・。
近藤との出会いで変わっていきます。
”我・・・武士となり、名を天下にあげん”

当時歳三は、家の副業を手伝っていました。
打ち身薬”石田散薬”を売り歩く・・・行商の仕事です。
武士になるという歳三・・・この仕事だけは熱心でした。
それは・・・行商先が多摩周辺の剣術仲間の家がたくさんありました。
得意先で、剣術の稽古をしていたのです。
薬箱と共に持って行っていったのは木刀。。。
武士への夢に向けて走り出しました。

しかし、現実は厳しく・・・。
基本的に農民が武士になるということはほとんどない時代。。。
幕府も大名家も新しく武士を一人雇うということは、人件費がかかってしまいます。
余裕もないので、めったにないことでした。

近藤のように武家の養子にもなれない・・・
農民と武士の高い壁がそこにはありました。
しかし、25歳の時に近藤勇の道場「天然理心流試衛館」に正式入門しました。

1853年黒船来航。
外国に対し、国を開くべきか否か???
京都では暗殺事件が頻繁に起こるようになりました。

将軍が京へ向かうことが決まり・・・
1863年幕府は護衛役を募集しました。
剣の腕に自信のある者を!!
土方歳三28歳・・・ようやく巡ってきたチャンスでした。
試衛館の仲間と共にこれに応募。。。

②故郷へ送った手紙 
1863年京都・・・。
幕府に敵対する武士の取り締まりを始めます。
将軍を護衛した後、自警団のような仕事を始めたのです。
後に新選組となり・・・近藤が局長、それを支える副長に土方がなるのでした。

故郷に送った手紙には・・・
「私の帰国がいつになるかわかりませんが、大いに喜ばしいことだと思ってください」

しかし・・・土方たちは、会津藩の下についているものの・・・臨時雇用のような関係でした。
正規の藩士よりも軽んじられていました。

そこへ、手柄のチャンスが!!
1863年8月18日の政変で、御所の警護を任されます。
天皇や公家を守る大仕事!!
意気揚々で出陣します。
が・・・すでに警備に当たっていた者たちに不審者扱いされました。
おまけに、それは仲間だと思っていた会津藩の武士でした。
屈辱!!!

所詮は寄せ集めの浪人集団!!
横暴な行いをするもの、脱走をするもの・・・。
武士よりも武士らしく!!
と、作られたのが、新選組の掟。

士道に背くものは即切腹。
土方の指示によって多くの者が命を失いました。
鬼の副長と呼ばれるようになる土方!!

思う存分戦い!!
1864年・・・京都に来て1年が経っていました。
30歳になった歳三・・・。
この時起こったのが、池田屋事件でした。

捕まえた古高俊太郎から秘密を暴かねば!!!
幕府によって禁止されていた拷問を使って・・・
鬼と化す土方!!
秘密は・・・長州方が、風邪の強い日に御所に放火し、天皇を奪取するというものでした。
恐るべき計画!!
阻止しなければ!!

会津藩を出しぬき捜索を開始し、その集会場所を池田屋と確認し・・・

「御用改めでござる!!」

と、新選組だけで制圧してしまいました。

この事件で新選組の名は轟きます。
まさに、土方の執念が呼び込んだ勝利でした。

この功績により、近藤・土方には幕臣の内示が出されます。
故郷への手紙には・・・
「新選組は、今月5日の戦功によって、将軍様より褒美があるそうです。」
と、送っています。
そして3年後、正式に幕臣となるのでした。

③決意を表す洋装写真

tosi































池田屋事件以降、新選組の入隊者が増えていきます。
中には、土方のように農民や商人の出の者まで。。。
順風満帆に見えた土方と近藤・・・しかし、足元から崩れ始めます。
1867年徳川幕府崩壊
薩摩・長州が・・・朝廷を中心とした新政府が樹立します。
徳川VS新政府軍・・・1868年鳥羽伏見の戦いが始まりました。


新選組は、旧幕府軍側・・・伏見を守ります。
剣と槍で戦う戦士たち・・・しかし、敵は最新の武器を持ち、鉄砲でやって来ます。
圧倒的な力で・・・無残な惨敗を喫したのでした。
「自分たちは、剣を帯び槍をとったが、何の役にも立たなかった。。。
 これからの戦いは、銃や大砲でなければだめだ。」

鳥羽伏見で惨敗した旧幕府軍は、江戸へ撤退、3か月後には江戸城無血開城が!!
徳川幕府は、息の根を止められてしまったのです。
賊軍となった土方。。。でも、負けは認めません。

この写真。。。
髷を落とし、羽織はかまを捨て、マフラーに拳銃、ブーツをはき、それはまさに西洋軍人のスタイルでした。
仲間たちの死を無駄にしないためにも、負けられない!!

西洋式戦術を学び!!
しかし、時代の流れは早すぎました。
銃を手に入れ千葉・流山に潜伏した近藤と土方。
反撃の機会をうかがっていたのですが、新政府軍に包囲され・・・

近藤は捕まるぐらいなら潔く切腹しよう!!
しかし土方は、ここで腹を切っても犬死にしかならん!!
と反対。
命さえ助かれば、最後に勝つ可能性はある!!

近藤は偽名を名乗り出頭。
しかし正体が発覚し、斬首。。。
武士の誇りを奪うかのように。。。晒されたのでした。

戦い抜く土方。。。
奮戦むなしく、新政府軍に敗北していきます。
土方は、最後の望みを託して蝦夷へと向かいます。

どうして戦い続ける道を選んだのか???
リアリストの土方、引くに引けない・・・
近藤に切腹させてあげればよかった。。。と、近藤に対する責任を思っていたのかもしれません。

蝦夷・函館・・・北の大地で最後の決戦が始まります。
旧幕府軍をまとめていたのは榎本武揚。
蝦夷共和国を樹立していました。
五稜郭を拠点とし、近代的な国づくりを目指していました。
土方は、陸軍奉行並に選出されます。
元幕府高官やエリートたちの中、ひとり農民出身でした。

1869年4月明治政府軍が蝦夷に上陸。
函館へと進撃していきます。
土方は、強大な敵に向かって出陣します。
「我が兵の数は限りあるが、敵軍は限りない。
 一旦勝ったとしても、最後には負けることは誰にでもわかる。
 だが、私に任された以上、負けたならば軍人として恥だ。
 わが身をもって殉ずるのみだ。」

土方隊300対VS明治政府500。
どう迎え撃つ??
土方が選んだのは山の峠にある二股口。
この地形を生かした戦術を見事に使って戦います。
作戦は成功。

土方は、共に戦う兵士たちに自ら酒をふるまい、ユーモアを交えながら部下たちをねぎらいます。

どうして???
幕府の歩兵は、江戸の市中から雇い入れた元々は武家奉公人。荒くれ者を統率するにはカリスマ性が必要でした。
修羅場を潜り抜けた土方と酒を酌み交わす・・・
最大限に彼らの力を発揮させる方法だったのです。
それが土方に求められていたものでした。

しかし・・・負け知らずだった土方隊も撤退を余儀なくされていきます。。。
5月11日完全に包囲した新政府軍は総攻撃!!
弁天台場が孤立!!奪還は難しい???
そこで、土方出陣!!
弁天台場で戦っていたのは、新選組の仲間でした。
”負ける 逃げる かなわぬなどの言葉は 歯よりも外へ出すを恥とす”
一発の銃弾が土方の腹部を貫き・・・

土方歳三・・・戦死、享年35歳。

7日後・・・函館政府軍は敗北・・・戦争は終結したのでした。

鳥羽伏見の戦い以降負け続けている土方・・・
しかし、「昨日より今日、今日より明日はよくなるはず」という信念を捨てていませんでした。
動乱の時代、一か八か・・・かっこよくて美しい・・・
仲間たちの人生を背負い生き抜いた人生でした。

逆賊となった土方・・・明治維新後、その遺品を持つことさえ罪とされていました。
しかし、土方の故郷日野には、遺品が残されています。
土方の天然理心流の中極位目録・・・
名前には本名の義豊ではなく”土方義昌”となっています。
故郷の人たちは、名前を改ざんして・・・偽名を使ってまで残したもの。
義昌・・・土方の本名”義豊”と、近藤の本名”昌宜”からとったものです。

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