日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:坂本龍馬

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1867年11月15日、京・近江屋にて・・・
事件は午後8時から9時の間に起こったと考えられます。
幕末の風雲児・坂本龍馬が刺客に襲撃され絶命・・・。
盟友・中岡慎太郎も負傷し、二日後に絶命・・・。
世に言う龍馬暗殺事件です。

龍馬を暗殺したのは誰なのか??
薩摩藩?紀州藩?土佐藩?幕府?会津藩?新選組?京都見廻組??

今回は・・・なぜ龍馬は「近江屋」に潜伏したのか??という謎です。

幕末、ペリー来航以来、幕府の権威は失墜していました。
一方、経済力や軍事力を背景に台頭してきたのが西国の雄・薩摩藩、長州藩でした。
1866年1月21日、それまで無名だった龍馬の名が歴史に刻まれることとなります。
「薩長同盟」締結です。
全国に吹き荒れた尊王攘夷運動・・・西国の雄藩・長州藩は、幕府を力で倒し、朝廷を主体とする政権交代を画策します。
一方、弱体化する幕府を支え、朝廷との結びつき・・・公武合体運動を推進していたのが薩摩藩でした。

1864年7月19日禁門の変
幕府に組した薩摩は、京都で薩摩と武力衝突!!
長州の敗北に終わります。
以降、二大雄藩は犬猿の仲となります。
しかし、薩摩と長州が結びつけば、幕府に対抗し得る一大討幕勢力となり、朝廷を中心とした新政府を樹立することも期待できる!!
こうした中、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎は、薩長同盟締結に向けて奔走!!
龍馬は、その仲介者として同盟成立の瞬間に立ち会うことになります。
これまで会津と同盟関係にあった薩摩が長州と密約し、武力討幕派に・・・。
同盟締結後・・・1866年1月23日寺田屋遭難事件!!
定宿・寺田屋に戻った龍馬を伏見奉行所の取り方20人が襲います。
幕府にとって要注意人物となっていた龍馬・・・。
脱し・・・急死に一生を得た龍馬は、この時の乱闘で、奉行所の役人を射殺、ほか数人に重傷を負わせます。
さらに・・・この時重大なミスを犯してしまいます。
龍馬は、薩長同盟の重要な書類を現場に残してしまっていました。
この事件によって、凶悪犯罪者として幕府に負われることとなった龍馬・・・

以降、寺田屋に潜伏することは不可能となってしまいました。
薩長同盟締結から1年後・・・大政奉還!!
幕府の権威が失墜する中、将軍・慶喜にとって大政奉還は起死回生の一手でした。
政権を朝廷に返上すれば・・・反幕府勢力の大義名分が無くなってしまう・・・!!
この大政奉還を幕府に進言したのが、土佐藩の重役・後藤象二郎です。
その背後にいたものこそ、海援隊隊長の坂本龍馬でした。
内戦を避け、平和的な政権交代が見込まれる大政奉還・・・
龍馬と土佐藩は、薩摩藩を説き伏せ、その実現に奔走しました。
とはいえ・・・この時龍馬は武力行使も止む無しと思っていたようです。

薩長だけではまだまだ足りない・・・土佐藩を討幕勢力に引き込まなければ・・・!!

龍馬の書状には、武器を用意していることも書かれています。
龍馬は、大政奉還実現に向けて、平和的解決だけではなく武力を背景にした現実的な構想を描いていたのです。
1867年10月13日、慶喜は二条城において「大政奉還」を在京諸藩重臣に諮問・・・
14日、大政奉還を朝廷に上表・・・
大政奉還は、260年続いた江戸幕府の終焉を意味していました。
大政奉還という大仕事を成し遂げた龍馬の立場は危うくなっていきます。
大政奉還に激しく反発したのが、幕府側の一大勢力・京都守護職の会津藩でした。
大政奉還奏上の2日後、薩摩藩の大久保利通に宛てた討幕派の公家・岩倉具視の書状には・・・
「会津藩は狂気のごとく激怒している
 すべての元凶は、西郷、小松、大久保の三人であるため、必ず薩摩藩邸を襲撃するなどと言っている」
この時、会津は大政奉還を推進した中心人物を西郷たちと特定、藩邸の襲撃計画を目論んでいました。
翌日・・・危険を察知した龍馬は、京を離れます。
大政奉還を企画した龍馬にも危機が迫っていました。
西郷が京を後にした日・・・薩摩藩士から手紙を受け取った龍馬・・・
「二本松の薩摩藩邸にすぐ入ってください。」
「薩摩屋敷に身を潜めたならば、土佐藩に対し、実に嫌味な事です。」by龍馬
この時龍馬は、脱藩の罪を許され、土佐藩士に復帰していました。
入るなら土佐藩邸・・・もし、薩摩藩邸に入ったならば、土佐藩邸にも要らぬ疑いをかけられかねない・・・。

寺田屋にも、薩摩藩邸にも入れない・・・京の町のどこに潜伏すればいいのか・・・??

暗殺の1か月前・・・命を狙われる龍馬はどこに潜伏すればいいのか??
寺田屋は不可能、薩摩藩邸は難しい・・・
他にあった龍馬の定宿は・・・酢屋。。。
酢屋は龍馬が隊長を勤める海援隊の本部が置かれていた場所です。
龍馬にとって信頼の厚い隊士が出入りし、安心して滞在できる宿です。
しかし、酢屋は幕府に目をつけられている可能性があり・・・龍馬は新しい潜伏先を探す必要がありました。
この頃の龍馬の潜伏先候補は2つあったと言います。

一つ目は土佐藩邸・・・
セキュリティーが良く、藩邸は、幕府の役人が入ることのできない聖域・・・。
身の安全は保障される!!
1867年2月、中岡慎太郎と共に脱藩の罪を許され、藩邸に居住する権利があったのです。
しかし、デメリットが・・・門限があり、外交をやるためには他藩の人自由に会いたい。。。それができなくなってしまう。
もう一つは近江屋・・・
醤油を商う近江屋は、土佐藩邸からわずか4、5m・・・
刺客に襲撃された場合、藩邸が近くにあれば、命は助かる!!
身の安全が保障される土佐藩邸か、それとも行動を束縛されない民間の近江屋か・・・??

龍馬暗殺の10日前・・・
1867年11月5日・・・旅先から帰京した龍馬は、近江屋にわらじを脱ぎました。
しかし、周囲は、近江屋に潜伏する龍馬を心配していました。
藩邸に移った方がいいと・・・
しかし、この時すでに龍馬は、龍馬を追う、会津藩主・松平容保と、幕府の要職・永井尚志と面会していました。
松平容保は京都守護職・・・配下には新選組や見廻組などがおり、大政奉還反対派の急先鋒です。
一方永井は、大政奉還推進派。開明的思想の持ち主でした。
記録によると、龍馬は暗殺の先日まで永井の屋敷に通っていました。
龍馬は、新しい政府に旧幕府勢力も参加する体制を作るために、永井と話し合っていたのです。
永井からお墨付きをもらっていたようですが、容保に話が通っていたかどうかはわかりません。
しかし、この永井と会う事は、討幕派からは背信行為とみなされる可能性があり、決して公にはできないこと・・・。
龍馬が近江屋に移ったのは、隠密裏に仕事をする必要があったからです。
しかし・・・1867年11月15日・・・龍馬暗殺!!
刺客たちの襲撃によって暗殺・・・遺体には、大小34カ所の刀傷があったといいます。
33歳・・・短い生涯でした。

事件は、龍馬を取り巻く人々に衝撃を与えました。
一体誰が龍馬を殺害したのか・・・??
勝海舟は、下手人の名を記しています。
佐々木只三郎・・・を頭とする輩
京都見廻組の組頭で、れっきとした幕臣で形成されていました。
さらに佐々木の実兄・会津藩公用方手代木直右衛門の記録にも・・・
坂本を殺したものは実弟・只三郎なり・・・
最近は佐々木率いる見廻組の仕業が有力と言われていますが・・・
それでも疑問が・・・
佐々木たちは、どうして龍馬の居場所を特定することができたのでしょうか?

高知県高知市・・・近年発見された龍馬の新書状が展示されています。
日付は11月10日・・・福井藩重臣に宛てて書かれたものです。
その書状には「新国家の御家計」と書かれています。
新しい国の財政問題を意識し、国家の体制と財政問題に重きを置いて活動していたのです。
この書状の封筒には・・・
「坂本先生遭難直前の書状にて、他見を憚るものなり」極秘扱いにされていました。
暗殺の黒幕を示唆している???
この書状は、龍馬暗殺を指示した者の名が書かれているがゆえに封印された??
残された名は、永井尚志!!
暗殺直前まで龍馬が面会に行き、新国家の構想を談じ合っていたと考えられる人物です。
暗殺の直後にも、土佐藩重臣の日記に永井が登場します。

しかし、大政奉還の後、新政府に徳川家が参加するためには、太いパイプを持つ龍馬は必要不可欠!!
永井が暗殺を命じる可能性は低い・・・。
では・・・龍馬暗殺の黒幕は誰か??
なぜ龍馬の居場所を知り得たのか・・・??
永井がいたのは大和郡山藩邸・・・。
永井の屋敷から歩いてすぐのところに・・・なんと、佐々木只三郎の下宿先・・・潜伏先・・・松林寺がありました。

危険なエリアに毎日のように通ってきていた龍馬・・・
暗殺直前の3日間のうち11日には午前、午後の二回にわたって訪問しています。
この時永井は龍馬にこう諭しました。

「頻繁な来訪は嫌疑をかけられるので、夜中に訪問せよ。」by永井

この場所に龍馬がくるということは、旗本、会津藩にとってはらわたが煮えくり返るようなことでした。
このまま龍馬が細かい新政府構想を作り上げると、政権を維持できると思っている人たちにとっては最大の危険人物として映ったのです。
手代木直右衛門の記述には・・・
「坂本龍馬を殺したのは実弟・只三郎であり、それは某諸侯の名によるもの」とあります。
某諸侯とは・・・??会津藩藩主・松平容保と、亡くなる直前に語っています。
そして実行された龍馬暗殺・・・
安全な土佐藩邸ではなく、近江屋を選んだ龍馬。
自分の安全よりも、日本のこれからの姿を優先した結果でした。

見廻組は公務だったのか?それとも私怨による暗殺だったのか・・・??
龍馬が暗殺されたことによって得をした人物はいない・・・しかし、慶喜たちが大損をしたことだけは確かです。

龍馬が暗殺されたこと・・・生きていれば・・・という思いが、それが龍馬暗殺の謎を深めている・・・
今なお英雄である坂本龍馬なのです。



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レンズが撮らえた幕末明治の女たち

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かつてアメリカでBrilliant Womanと呼ばれた女性がいました。
彼女の生きた時代は文明開化に沸く明治初期。
陸蒸気にガス灯・・・急速に進む西洋化。
その象徴として作られたのが鹿鳴館でした。
毎夜行われる舞踏会・・・そこで鹿鳴館の華と言われたのが陸奥亮子でした。
夫は剃刀大臣と言われた陸奥宗光。
日本政府の悲願、不平等条約改正を成し遂げた第8代外務大臣です。

東京銀座七丁目・・・金春通り。
かつてこのあたりは弁柄格子の芸者屋が軒を連ねる花街でした。
幕末には武士達、明治維新後は新政府高官が御贔屓。
深川・柳橋をしのぐ勢いだったとか・・・
そんな花街の売れっ子芸者が亮子でした。
彼女が芸者となったのは貧しさゆえでした。

亮子は幕末の1856年11月、江戸に生まれました。
父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士・金田蔀、母・添機。
しかし、母が金田の正妻でなかったために、亮子たちは父と暮らせず、母、姉の三人で貧乏に暮らしていました。
昼は町家の娘に踊りを教え、夜は裁縫・・・
生活のために、母は必死で働きましたが、ついに倒れてしまいました。
亮子は江戸藩邸に住む父に懇願します。
しかし、亮子たちが父からの援助を受けることはありませんでした。
母の病は一向に回復せず・・・困窮していく一家三人・・・。
見かねた近所の人が亮子の勧めたのが、芸者屋への年季奉公でした。
9歳と幼い亮子でしたが、来る日も来る日も、掃除洗濯、炊事とこき使われ・・・その合間に、踊り、三味線、江戸小唄などを叩き込まれます。
芸事の師匠たちは気が荒く、怒られたり竹の棒でたたかれたり・・・
それでも母と姉のために、亮子は耐えました。
そして時代は明治に・・・1871年(明治4年)。。。
16歳となった亮子は芸者・小鈴としてお座敷デビューします。
小鈴の名は、その美貌と共に知れ渡り、瞬く間に銀座一の芸者に・・・。
しかし、花街に染まることはなく、身持ちが固く、男嫌いの意地を通しました。
そんな彼女がただ一人心を許した相手は・・・後に外務大臣となる陸奥宗光でした。
陸奥は、1844年、紀州藩士の六男として生まれますが、15歳で脱藩。
江戸に出ると幕臣・勝海舟の知遇を得て、坂本龍馬の海援隊に加わります。
貿易で手腕を発揮する陸奥を龍馬は高く買っていました。
「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけぜよ」by龍馬

明治になると・・・陸奥は、新政府の重鎮・岩倉具視の推挙の世って、外国事務局御用掛となります。
当時、日本は大きな外交問題を抱えていました。
幕末に結んだ欧米との不平等条約の改正に苦心していました。
治外法権の撤廃、関税自主権の獲得・・・それが、明治政府の悲願でした。
海援隊時代に貿易を担当して交渉になれていた陸奥は、政府の期待の星だったのです。
亮子と出会った頃、陸奥は神奈川県令となっていました。
上客のひとりとなった陸奥・・・男嫌いで身持ちの堅い亮子・・・
1872年5月二人は結婚。
この時、陸奥29歳、亮子17歳でした。

陸奥は亮子と出会う3か月前に前妻を亡くしていました。
3歳の広吉、2歳の潤吉という二人の子供がいました。
結婚の翌年、亮子は長女・清子を出産。
18歳にして3人の子供の母となったのです。
さらに陸奥の両親とも同居。
姑は気難しく、元芸者の亮子を気に入りません。
特に食事の作法、味付けにはうるさかったとか・・・。
ひたむきに尽くす亮子ですが・・・順調に出世していた陸奥が投獄されてしまいます。
1874年1月、新政府の状況に不満を抱いていた陸奥は、辞職し野に下ります。
薩長が幅を利かせている新政府では、紀州藩の陸奥は肩身の狭い思いをしていました。
日本人という観念だった陸奥・・・薩長が政治を独占しているので、政治が滞っていたのを厳しく批判しています。
1875年政府に戻りますが・・・元老院議官という有名無実なポストでした。
そんな中、西南戦争が勃発!!
鹿児島の私学校の生徒が、西郷隆盛を擁して挙兵!!
薩摩対官軍の1万人以上の死傷者を出す大激戦となりました。
この西南戦争に乗じて土佐の立志社も挙兵を企てているという噂が・・・立志社は、板垣退助を中心とする自由民権運動の政治結社です。
そこに、陸奥も通じていたのです。
立志社社員たちが次々と逮捕されている中、捜査の手は陸奥にも・・・!!
今日か、明日か・・・??ついに・・・
1878年6月10日、立志社の政府転覆計画に加担している疑いで逮捕されてしまいました。

夜を徹して厳しい尋問が行われていると・・・
陸奥は、結核を患っていたので、いつ、再発してもおかしくありませんでした。
尋問は夏になっても続きます。
陸奥が禁固5年の計を受け、山形監獄に送られた後も、亮子の心労は尽きません。
食事に毒を盛られるのではないか・・・??

そのため、陸奥は、監獄の食事にはほとんど手をつけませんでした。
山形の知人が差し入れるものを食べていたのです。
収監された翌年、もちと黒砂糖が振る舞われたときも、周りの囚人たちが食べて、毒がないのを確認してからようやく手を付けたと言います。
この時、亮子は子供三人と姑を抱え、東京で陸奥の友人宅に世話になっていました。
女子供では危ないということで、あらかじめ、陸奥が手配していたのです。
姑と子供たちの面倒を見ながら、日用品を送る日々・・・
しかし、山形は遠く、面会に行くことはできません。
結婚して6年・・・夫のいない生活をどう生きていくのか・・・??
それを支えたのは、夫からの獄中からの手紙でした。

亮子は知人の紹介で出会った後藤又兵衛に陸奥の世話を頼みます。
山形監獄の近くで旅館をしていた後藤は、食事や日用品の差し入れなど、陸奥の世話をしてくれました。

そんな中、監獄で火災が発生!!
亮子のもとに、陸奥が焼死したとの知らせが・・・!!
しかし、これはデマで・・・1879年11月、伊藤博文によって、安全な宮城監獄に移送されました。

1883年1月4日、特赦で放免される陸奥。8か月の刑期を残してのことでした。
帰ってきたとき・・・ひどくやつれ・・・しかし、僅か1年で亮子に家族を託し外遊に・・・!!
その理由は・・・
①自由民権運動に巻き込まれるのを避けるため
②欧米諸国の憲法や行政を学ぶため
2年5か月もの外遊・・・その間陸奥は、亮子に50通以上の手紙を認めています。
ついに夫が帰国!!
初代内閣総理大臣に就任していた伊藤博文の知遇を得て外務省に出仕。
それに伴い、亮子は華々しく社交界にデビューします。

その3年前に1883年、国賓や外交官を接待するために、日本初の迎賓館・鹿鳴館が完成。
外務卿である井上馨が日本政府の悲願である不平等条約改正に向けて国の威信をかけて作りました。

鹿鳴館で夜ごと開かれる舞踏会で、主役はきらびやかに着飾った女性たちでした。
当時のドレスは・・・バッスルスタイル。
見た目は優雅ですが、コルセットなどつけたことのない日本人にはとても窮屈なもので、動くたびに苦痛が伴いました。

欧米人に嘲笑されながらも、鹿鳴館の華と言われた女性たちもいました。
井上武子、戸田極子、陸奥亮子もその一人でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは・・・
「陸奥の二度目の夫人は、若くて大変な美人。
 涼しい目と素晴らしい眉だ。」
サトウは25年間、日本にいましたが、容姿を褒めた女性は亮子だけです。
しかし、舞踏会が条約改正につながることなどなく・・・鹿鳴館を舞台にした井上の外交は、西欧諸国の顔色を窺うだけの媚態外交と言われるまでに・・・
1887年井上馨外務大臣を辞任。
鹿鳴館も、国辱的建物として歴史の表舞台から消えていきました。

鹿鳴館外交失敗の代わりに、条約改正の大役を任せたのが陸奥宗光でした。
1888年5月20日、陸奥宗光は特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任することに・・・。
その使命は、日本の悲願である不平等条約の改正でした。
治外法権の撤廃と関税自主権の獲得でした。
亮子は長女の清子を伴い宗光について渡米!!
ワシントンに着くや否や、当時のクリーブランド大統領に謁見。
特命全権公使妻としての生活が否応なしに始まりました。
公使館では夜ごとパーティー。要人の訪問は、数か月で1200回!!
精力的に社交活動を行う亮子。
ドレスを着こなし、その気品ある姿は若々しく・・・娘とは姉妹のようだったと言います。
現地の新聞にも・・・陸奥夫人は、最も美しい日本人女性と書かれました。
亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれます。
しかし、亮子がアメリカでもてはやされたのは美しかっただけではなく・・・その教養からでした。
新聞を隅々まで読み、読書を欠かさず・・・
陸奥は、近いうちに自分が政治の要職に就くであろうと思っていました。
なので、亮子に社交界に出ても引けを取らないように、多くの教養を身に着けさせようと思っていたのです。
宗光の期待に応えようと、一生懸命勉強の日々を送っていたのです。
①完璧な英語を習得していた。
②日本の文化の奥深さを紹介した。
琴を披露し日本の魅力をアピール、日本の文学も英訳。。。
毎日2時間英訳をしていたそうです。
日本が文明後進国でない事・・・日本が外国と対等に渡り合えるということを証明しようとしていました。
日本公使館の内装も、和装にし、日本をアピールしていました。

まさにbrilliant!!
当時のアメリカの新聞でも絶賛され、社交界の華となっていきます。
陸奥は、条約改正に向けて、盛んに駆引きをしていました。
1888年、メキシコと対等な修好通商条約を締結。
日本にとって初めての対等の通商条約となりました。
帰国後・・・第二次伊藤博文内閣外務大臣となった陸奥は・・・
1894年イギリスとの条約改正に成功!!
これを突破口に、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス・・・と、条約改正を実現!!
不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げることとなります。

夫婦は道連れの旅人・・・亮子は夫を支え続けたのでした。
1895年6月、亮子38歳・・・
高熱を出して倒れた宗光の療養のために、大磯の別荘に移り住みます。
陸奥は、その翌年に外務大臣を辞任。
波乱にとんだ亮子の人生で初めての穏やかな時間でした。
夫と二人、ハワイでも療養・・・しかし、陸奥の体調が回復することはなく・・・
1897年8月24日、54歳で亡くなります。
そして陸奥の死からわずか3年、亮子は後を追うように亡くなります。
1900年8月15日、45歳という若さで下。

陸奥は遺書を残しています。
「お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、 多少の遺産を残すことができたのは、内助の功によるものが少なからず。」

そこには亮子に対する深い感謝と愛情があるように思います。
強く美しく前を向いて・・・愛する夫を支えたいという純粋な気持ちだったのでしょう。


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感想(3件)



1866年、京都のとある場所で・・・密約がなされました。
薩長同盟です。
あまりにも有名な伝説・・・
西郷隆盛と木戸孝允、面子を気にして同盟を切り出せない二人を坂本龍馬が一喝!!
同盟成立に導いたというストーリーですが・・・
近年、歴史は見直されつつあります。

ひとまず幕府に従うべきだという西郷、これ以上過酷な処分は受けないといいはる木戸・・・。
意見は食い違い、薩長は決裂寸前となっていました。
暗礁に乗り上げた交渉をまとめ上げたのは・・・龍馬ではない・・・もう一人のキーマン・・・小松帯刀!!
薩摩藩の若き家老です。

「薩摩での人物はまず小松である」by龍馬
「私が一番知っている日本人で、一番魅力ある人物」byアーネスト・サトウ
「薩摩藩の製作は、ほとんど小松が立案している:by海舟

万難を配し、長州との同盟に踏み切った帯刀、知られざるその構成期とは・・・??

小松帯刀・・・帯刀本人が愛用した薩摩琵琶。
帯刀は、若い頃、寝食を忘れてこの楽器に熱中しました。
心配した家臣が、先祖の功績に恥じぬ生き方をせよと忠告すると、涙ながらに琵琶をしまい、二度と手に取ることはありませんでした。
藩主・島津家に並ぶ名門に生まれた帯刀・・・幕末の動乱へ・・・!!

1853年黒船来航

開国を迫ります。
圧倒的な武力の前に、開国に踏み切る幕府。
この先・・・欧米諸国とどう向き合うのか・・・??
薩摩藩は、他国に先んじて、富国強兵に乗り出していました。
藩主・島津斉彬は、反射炉を建設し、大砲鋳造に乗り出します。
21歳の帯刀は、斉彬の隣で産業育成に関わります。
この経験が、帯刀の目を開きました。
壮大な造船業、製鉄業、紡績業が、鹿児島に次々に生じていきます。
日本を変えていくためには殖産興業・富国強兵だ・・・!!
自立しながら日本全体を守っていかなくては!!

斉彬の後、権力の座に就いたのは弟・久光でした。
久光は、帯刀を僅か28歳で家老に昇進させます。
家老になる1年前・・・1861年には藩命により長崎へ・・・異国人から蒸気船を学びました。

当時アメリカでは・・・1861~1865年まで南北戦争によって品薄となっていた綿・・・これに目をつけて、西国諸藩から綿を買い取って輸出!!
売り上げは18万両にのぼりました。
その利益を手に、海軍の建設に乗り出しました。
この年、薩摩藩は、5隻の蒸気船を購入しています。
同じ頃、運命的な出会いが・・・坂本龍馬です。
神戸海軍操練所の閉鎖に伴って行き場を失っていた龍馬を、帯刀は薩摩に引き取ります。
顔が広く、抜群の政治センスを持つ龍馬は、帯刀の元で、薩摩外交の一翼を担うようになります。
彼らの共通の理想・・・それは、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占!!
外様はカヤの外でした。
薩摩は、有力大名が手を組む雄藩連合を構想、実現に向けて動き出していました。
帯刀は久光の代理として京都での工作を任されます。
そこで直面したのが長州をめぐる政局でした。
その頃長州は、異国を打ち払うべしとし、外国船への砲撃を決行!!
一部の公家と結びつき、通商条約の破棄を工作していました。
幕府側は激しく反発し・・・その中心が、禁裏御守衛総監・一橋慶喜、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬でした。
薩摩はこの時幕府側について、長州と蛤御門で戦い、撃退します。
慶喜はこれに乗じて、長州排除に動きます。15万の征討軍を動かし、長州国境に迫りました。
第一次長州征伐です。

ところが・・・ここに及んで薩摩は態度を一変!!
1864年10月、上京した帯刀は、慶喜に征伐中止を宣言しています。
「ここで内乱を起こすことは、植民地化を狙う諸外国の思うつぼ・・・!!」
この薩摩の方針の変更は、京都におけるパワーバランスによるものだと思われます。
一会桑は、有力藩を国政運営に加えたくない・・・
薩摩は加えたくない・・・??
勢力との深刻な対立。。。
長州を敵に回すのではなく、恩を売っておくほうが得策なのではないか・・・??

薩摩は事態収拾へと動きます。
禁門の変を主導した長州の三家老を処刑し、幕府へ謝罪するように打診・・・。
長州がこれを受諾したことで、第一次長州征伐中止。
振り上げた拳の行先の無くなった慶喜は、苦々し気に吐き捨てます。
「芋に酔うのは酒に酔うより甚だし」と。

薩摩への警戒を強める慶喜、再起へ虎視眈々の長州、その中で京都での工作に励む小松帯刀・・・
幕末は、いよいよ風雲急を告げる・・・!!
1865年、幕府側の巻き返しが・・・
三家老の処刑では処分は済んでいないとし、将軍家茂率いる15万の軍が大坂へ・・・!!
第二次長州征伐です。
長州は、開戦を覚悟しました。
しかし、幕府は諸外国に対し、武器を売らないように要請します。
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時の、帯刀の決断とは・・??

薩摩名義で7,300丁もの銃を購入し、長州に斡旋したのです。
長州の使者に対して・・・
「幕府の嫌疑など意に介していない。
 如何なることでも尽力する。」
この時帯刀は、幕府を排除した新しい政治体制を模索していました。

薩摩は長州との更なる提携の道を探るべく使者を派遣!!
うけて翌年、長州藩・木戸孝允が上京!!
交渉の場は、帯刀の宿舎・御花畑・・・藩邸を避けたのは、幕府に嫌疑を起こさせないための薩摩側の配慮でした。
1866年1月・・・交渉が始まりました。
帯刀の元で交渉を担当したのは西郷隆盛!!
西郷は、幕府側に対する武力も辞さない強硬派として知られていました。
しかし、会談の冒頭に発したのは・・・
「ここはまず、幕府の処分を甘んじて受け入れよ」でした。
この時点で、幕府は長州に対し藩主親子の隠退、領地10万石削減・・・を通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・
そこには、国父・島津久光の意向がありました。

久光は、京都藩邸に使者を送り、藩士たちに厳しく自重するように命じてます。
西郷と帯刀は、長州に対して朝敵の汚名を晴らす政治工作はできても、幕府への武力行使はできない状況に追い込まれていたのです。
しかし、長州は既に臨戦態勢・・・更なる条件など受け入れられない・・・。
三家老の首級で住んでい入るはずでは・・・??
軍事支援か?政治的解決か・・・??
薩摩に置いて、久光は絶対でした。

交渉を打ち切るか・・・??
同盟締結に向かう・・・??

1866年1月20日、暗礁に乗り上げた交渉は・・・思わぬ展開に!!
きっかけは龍馬!!
御花畑に到着し、薩長両藩に交渉の継続を求めます。
龍馬の働きかけで交渉は続けられ、後は帯刀次第・・・
「私の思いが小松、西郷に通じた。感謝に耐えない・・・」by孝允
帯刀は、処分を突っぱねて、幕長戦争に突っ走る木戸の主張を受け入れたのです。
ここに、薩長同盟が成立!!

木戸の書簡には、6か条にわたって盟約の詳細が・・・

若し、幕府と長州は戦争となった場合、薩摩は二千の兵を上京させ、京都、大坂を固める!!
薩摩は朝廷に働きかけ、長州の朝敵の汚名を晴らすべく尽力する!!

ここまでは、久光にとっても許容範囲ですが・・・

第五条には・・・
一(橋)会(津)勢力総勢力がこれまでのように、長州の復権を遮る場合は決戦に及ぶ・・・
つまり、決戦条項です。
久光の指示に反するかのような条文・・・そこには巧妙なロジックが隠されていました。

一会桑・・・つまり、幕府とは一言も言っていません。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対滅ぼしてはならない!!
軍事同盟ともそうでないともとれるこの密約は、帯刀苦心の結晶でした。

1866年6月、幕長開戦!!
ついに戦闘状態に・・・!!
帯刀のあっせんした最新兵器の威力は凄まじく、長州は四方からの15万の幕府軍を撃退!!
1867年5月、京都・二条城に将軍・慶喜と久光ら有力諸侯が集まり、長州の戦後処理について話し合われました。
帯刀の書簡には・・・久光の言葉が・・・
「三家老の首級を差し出したことで、謝罪は済んでおります。」
同盟交渉の場での、木戸孝允の言葉を久光が口にしたのです。

同盟締結から1年余り・・・帯刀がいかに久光を説得したのか・・・その真相は全くわかっていません。
しかし、この時、確かに歴史は動いたのです。

薩長同盟は、その後の歴史を大きく変えました。
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い・・・薩長中心とする新政府軍と旧幕府軍が激突!!
新たな国家を作る戦いが始まりました。
しかし、そこに帯刀の姿はありませんでした。
この頃、持病の足の痛みが悪化し、鹿児島に戻っていました。
戦いを遠くから見守ることしかできませんでした。

「天下の大事に後れたこと、実に残念でならない。」

しかし、討幕戦争のさなかにも、帯刀は新政府の構想を・・・
より装飾性の高めた薩摩焼を作り、欧米の人にも賛美されるように・・・
薩摩焼は、1867年のパリ万博に出展されています。
その機を逃さないように・・・!!
繊細な薩摩焼は、ヨーロッパの上流階級に珍重され、ジャポニスムの潮流を巻き起こします。
宮殿などの装飾品として注文が殺到!!
当時、ヨーロッパでは日本の陶器はすべて薩摩と呼ばれるほどの人気でした。
殖産興業・・・帯刀の夢が、世界に飛翔した瞬間でした。

しかし、その夢の実現を帯刀が見ることはありませんでした。
1870年7月20日・・・病のために36年の短い生涯を閉じたのです。
維新の大業のために、命を燃やし尽くした帯刀・・・顧みられることのなかったその功績に、近年、ひかりが当たりつつあります。



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東京台東区・・・西洋様式の粋を集めた旧岩崎邸庭園は、国の重要文化財です。

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明治11年、この広大な土地を買い取ったのは最下級の武士から身を起こした三菱の創業者・岩崎弥太郎です。

高知県安芸市・・・
岩崎家はとても貧しく、地下浪人と呼ばれる土佐藩武士では最下級の身分でした。
土佐藩の武士階級は、藩主のもとに上士と下士に分けられ、下士から上士への出世は許されませんでした。
岩崎家は代々下士の身分でしたが、弥太郎の曽祖父の代に金に困って身分を売り払ってしまい、地下浪人という家禄ももらえない農民のような身分になってしまいました。
益々出世とは縁遠くなってしまいました。

しかし、そんな暮らしの中でも、夢を抱いていました。

1835年12月11日、土佐国安芸郡井ノ口村で、父・弥次郎と母・美和の間の長男として生まれます。
母のしつけは厳しく、傲慢な態度は許されませんでした。

弥太郎が実業家として成功したのちも、昔の苦労を忘れるなと、戒めたといいます。
この厳格な母のおかげで負けず嫌い、一本気な性格になっていきます。

そんな弥太郎のもう一人の師は、土佐藩重臣・吉田東洋です。
東洋は、身分にかかわらず優秀な人材を抜擢するべきだ!!と、開明的でした。
そんな東洋が開いた「少林塾」に1585年25歳で入塾します。

やがて弥太郎は、最大の理解者・東洋の推挙によって郷廻となりました。
郷廻は、農村を巡回する役職で、下級役人でしたが、夢にまで見た藩の役職でした。
日本が動乱の渦に巻き込まれ・・・そんな時に、1859年・26歳で長崎に出張!!
土佐の特産品を国外に輸出する調査と各国の情報収集を担いました。
しかし弥太郎は・・・連日宴会三昧!!遊郭に通い詰め・・・藩の金を使い果たしてしまいました。
1860年、27歳で免職!!
この放蕩三昧は・・・のちに役に立つこととなります。
土佐に帰った弥太郎は、豪商に頼んで100両を借り、使い込み分を返済します。
1861年には、28歳で「下士」の家格を買い取り回復!!
吉田東洋が、土佐藩の武士階級を刷新し、下士から上士への道が開かれた・・・と思ったら、吉田東洋暗殺!!
後ろ盾を無くした弥太郎は、4年間の不遇の時期を迎えるのでした。

財閥の・・・三井、住友は江戸時代からの商家でしたが、三菱の岩崎弥太郎は土佐藩の下級武士でした。
商売の経験も、バックボーンもない弥太郎・・・
最初のターニングポイントは34歳!!
くすぶる弥太郎に救世主!!後藤象二郎が現れます。
エリート街道で出世していた後藤は、弥太郎を藩の役職に復帰させます。
そして弥太郎は再び長崎に出張!!
長崎土佐商会という藩が諸外国と貿易するための窓口の仕事で、主任に大抜擢されました。
前回のことがあるのに、どうして主任になれたのでしょうか??
弥太郎の仕事ぶりが評価されたのではなく・・・たまたまの人手不足によるラッキー人事でした。
そんな弥太郎に与えられた仕事は、軍艦や近代兵器の購入でした。
しかし、このころの藩財政はひっ迫していて、イギリス商人オールトに18万両(180億円)の借金があり、資金繰りに苦しんでいました。

そこで弥太郎は・・・?
商売の極意
①接待
弥太郎は、武器購入の取引先である所外国人の接待に励みます。
以前の経験で遊興にたけていた弥太郎・・・
食事・・・酒・・・女性・・・お金・・・弥太郎は、商談を成立させていきます。

②はったり
当時、外国人は、居留地外に出ることはできませんでした。
が、弥太郎は、オールトを連れて馬で散策に出ようとします。
見張りの役人が制止するも・・・出ていくのでした。

接待とはったりで、外国商人の信頼を勝ち取っていく弥太郎!!
外国商人の信頼を得、資金援助を得、武器購入に成功したのでした。
人脈も多く・・・イギリス商人・グラバー、アメリカ商人・ウォルシュ兄弟と懇意にし、最先端の商売と資金を得られたようです。
長崎で培った人脈は、のちの大きな成功と関わっていきます。

弥太郎の重要な仕事・・・海援隊隊士たちへの給金の支払いです。
たびたび坂本龍馬と酒を酌み交わし、志を熱く語り合っていました。
しかし、龍馬は弥太郎に金の無心に来ることもあり・・・それは弥太郎のポケットマネーとなることもしばしば・・・。
龍馬や海援隊を疎ましく思うようになった中・・・
1867年11月15日、龍馬は暗殺されて今いました。

そして時代は江戸から明治へ・・・!!

維新を成し遂げた全国の志士たちは、新政府の要職に就き、時代のかじ取りを担っていきます。
後藤象二郎も、大阪府知事、逓信大臣を歴任し、政府内で活躍します。
しかし、傍観するしかなかった弥太郎・・・。
弥太郎は政治家になる夢を願っていましたが・・・後藤象二郎は・・・
「このまま土佐商会をお願いしたい。」というものでした。

1869年、弥太郎は後藤象二郎の推挙によって、長崎土佐商会から大坂土佐商会へ・・・
そこでも大きなことを成し遂げて・・・37歳で土佐藩No,3の「小参事」となります。
これは地下浪人からの異例の出世でした。
土佐藩で商売を任せられる者が他にはおらず・・・
結局、役人の夢は叶わず・・・

1870年大坂土佐商会は、表向きは土佐藩から独立し、私営会社・九十九商会となります。
弥太郎を中心に、新たに飛脚船事業に乗り出します。
この海運業が・・・後の三菱の企業母体となっていきます。
土佐藩主山口家の家紋の入った旗を掲げられなくなったので、新たな旗印・・・藩主である山内家の家紋「三ッ柏」と、岩崎家の家紋「三階菱」とを合わせて九十九商会の船旗号・・・そして三井のマークとなっていきます。

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1871年廃藩置県が実施され、藩士の身分を失った弥太郎は、無役となってしまいますが・・・後藤象二郎たちは、九十九商会存続を望み、弥太郎の会社として存続させることとしました。

しかし弥太郎は、首を縦には振りません!!
弥太郎は、まだ商人として生きる決心ができないでいたのです。
そんな弥太郎の決め手は・・・それ以外の道・・・選択肢がなかったのです。

弥太郎は、1874年に本拠地を大阪から東京に移転!!
それを機に、社名を「三菱商会」から「三菱蒸汽船会社」に改め、今まで培ってきた人脈と、政府から払下してもらった最先端の6隻の蒸気船で本格的に海運業をスタートさせました。
天候などの条件にかかわらずにスピーディーな運送!!

そんな弥太郎にライバル登場!!「帝国郵便蒸気船会社」です。
1872年政府の肝いりで作られた半官半民の海運会社で、圧倒的なシェアを持っており、弥太郎の入るスキなどありませんでした。
しかし・・・弥太郎は社員たちを鼓舞します。
帝国郵便蒸気船会社の社員たちは、多くが武士の出身でした。
プライドが高く、愛想を振りまいたり頭を下げたり・・・容易にはできませんでした。
しかし・・・三菱の社員もほとんどが元土佐藩士!!
そこで弥太郎は・・・おかめの面を用います。
おかめのような愛嬌たっぷりの笑顔で接しなさい!!と、店に飾りました。
元武士としてのプライドを捨てさせるために服装も・・・商人の使う前垂れを使わせます。
弥太郎は必要な経費は使いましたが、無駄な経費は絶対に許しませんでした。
積極的に外国人を登用!!
蒸気船の運航技術が豊富な船員を使います。
1876年の三菱の社員構成は・・・日本人1351人に対し、外国人388人もいました。
さらに東京大学や慶應義塾の学生を口説き落として適材適所に配置していきます。
これらの優秀な社員たちが、三菱の基礎を築いていきます。
この結果、信用・安心・良い人材・サービス・・・このおかげで帝国郵便蒸気船会社からお客を奪っていきます。

しかし、それでも強大なライバルには追いつくことが出来ません。
ライバルに勝つためには・・・??

1874年の台湾出兵!!
明治政府は台湾に軍隊を派遣するために、帝国郵便蒸気船会社にその輸送を依頼しますが、返事は・・・
「今日本を離れると、三菱に航路を奪われてしまうのでお引き受けできない!!」と言われてしまいました。
そこで政府がやむ負えなく依頼したのが三菱でした。
「光栄これより大なるはなし
 敢えて力を尽くして政府の重荷に対へざらんや!!」
と、お国の為と快諾したのでした。
明治政府は、三菱の船だけでは輸送に足りないだろうと、大型蒸気船を貸し与え、台湾出兵後もその船を使うことを許可しました。
僅か6隻でスタートの三菱でしたが、台湾への軍事輸送を終えると、一気に48隻も持つ海運業者となったのです。
この大躍進に、帝国郵便蒸気船会社の売り上げは激減し、事実上三菱に吸収合併されてしまうのでした。

目先の利益よりも政府に貸しを作った・・・弥太郎の大きな賭けが成功を導いたのです。
そして三菱は、政府の保護を受ける海運業者に指定され、巨大企業の第一歩を踏み出したのでした。


弥太郎は、その後も海外の海運業者と鎬を削ることとなります。
が・・・そこもまたサービスによって競争に勝っていきます。
1876年社員に特別賞与を支給・・・これが日本初のボーナスだと言われています。

1877年・・・維新の功労者・西郷隆盛が郷里・鹿児島で旧士族たちを集めて反乱を起こしました。西南戦争です。
ここでも弥太郎は、政府への協力を惜しまずに軍事輸送に尽力します。
これにより巨大な利益を得・・・さらに船舶数を増やしていきます。
日本全国はもとより海外航路も充実させていきます。
日本の蒸気船相当数の7割以上を持つ海運業の覇者となったのでした。
三菱商会設立からわずか4年のこと・・・44歳の時でした。

弥太郎の事業は、日本の経済発展と自立、独立に重要な役割を担っていました。
成功を手にした弥太郎は、東京で3カ所の土地を購入!!
六義園・清澄庭園・旧岩崎邸庭園です。
いずれも江戸時代大名屋敷だった場所です。
最下級の武士から成り上がった者の成功の証でした。

三菱商会設立から12年、1885年この地で52年の生涯を閉じることとなります。
死の間際まで、三菱の幹部たちに指示を出し続けていました。


弥太郎の死後、三菱は二代目社長となった弟・弥之助、三代目社長・久弥らによって経営の多角化が行われ、銀行、鉱山、造船・・・様々な業界に進出!!
そして日本経済の屋台骨となる三菱グループへと発展していくのです。



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「龍馬、北辰一刀流 免許皆伝!!」
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2015年10月14日、剣の達人と言われてきた坂本龍馬が本当に北辰一刀流の免許皆伝を極めていた新資料が発見されたという記事が新聞に載りました。
今でも英雄とされている龍馬、真実はどうだったのでしょうか?

1867年11月15日、この日は龍馬の誕生日であり、33歳という命を散らした日でした。
龍馬が暗殺されたのは京都。。。
1866年、討幕を画策していた龍馬の動きが幕府に察知され、命を狙われるようになっていた龍馬。
そして・・・1月22日、龍馬が潜伏していた寺田屋を、幕府の取り方50人余りが襲撃します。
龍馬はピストルで対抗するも、両手を負傷!!
それでも必死で逃げ、材木小屋で隠れているところを仲間に発見されました。
なんとか命拾いをした龍馬・・・取り方を射殺してしまったことで、京都見廻組と新選組の二つの組織から狙われることとなります。

寺田屋以降、薩摩で静養し、長崎で活動していた龍馬が6月・・・京都に帰ってきました。
このときに隠れ家は、材木問屋の酢屋でした。10月半ばには、土佐藩邸の近くの近江屋に移り・・・ここでは、土蔵に身を隠し、その情報は限られたものしか知りませんでした。

11月14日、風邪をひいた龍馬は、土蔵から母屋の二階に移ります。
11月15日・・・龍馬のもとへ土佐・中岡慎太郎がやってきました。
腹が減った龍馬は、しゃも鍋が食べたい・・・と、使いのものを買いにやります。
このとき、二階には龍馬と中岡、一階には龍馬の世話をしていた藤吉、主人・新助家族がいました。
午後8時過ぎ・・・十津川郷士を名乗るものがやってきました。
十津川郷士の中には、龍馬の知り合いがいたので、藤吉が気を緩め取り次ごうとすると・・・斬りつけられた藤吉!!
二階に駆け上がる刺客!!
刺される中岡!!斬りつけられた龍馬!!
刺客が去ったのち、一時的に息を吹き返した龍馬は中岡に・・・
「わしは脳をやられた・・・もういかん・・・」
これが龍馬の最後の言葉・・・33歳の若すぎる死でした。

龍馬を暗殺したのはいったい誰だったのでしょうか??

手掛かりは3つ・・・
①誰のものかわからない下駄
瓢亭のものだったため、新選組??
②刀の鞘
新選組・原田左之助のもの??
③犯人は「こなくそ!!」といった。
こなくそは、伊予の方言で、原田左之助は伊予出身でした。

証拠はすべて、新選組を示していました。

しかし・・・
尾張藩などが捜査に当たったところ・・・
下駄は瓢亭ではなく、鞘も原田のものではなく・・・
こなくそも、全国に似たような言葉があり、どれも証拠不十分なものでした。

さらに・・・大目付から事情徴収を受けた近藤勇は、龍馬暗殺を否定します。
もともと新選組は、不逞労使の捕縛が仕事で、殺害することはあまりなく・・・
たとえ殺したとしても、正義にために殺すので隠す必要はありません。
これらにより、新選組の犯行ではないとされました。

3年後・・・1870年に、京都見廻組だった今井信郎が龍馬暗殺は見回組の犯行だったと自供します。
襲ったのは7人・・・佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎で遊撃したと告白しました。
後の3人が見張りで、先の4人で殺害!!残された鞘は、隊士の一人が忘れたこと。。。
今井以外の6人は、鳥羽伏見の戦いで戦死したことなどを供述しました。
さらに、物的証拠が見つかります。
龍馬を斬った脇差・・・持ち主は、桂早之助でした。
実行犯は、京都見廻組だということが有力視されています。

では、どうして龍馬を襲ったのでしょうか??
今井は・・・
寺田屋事件で幕府の取り方を射殺したことへの罪の追求だ・・・??
しかし、見廻組には疑問が多くあります。
見廻組も、公務で行ったのであれば、隠す必要がないということ・・・
近江屋でいることは、限られたものしか知らなかったということ・・・
見廻組は利用されていただけで、黒幕がいるのでは・・・??

時代の先を行き過ぎていた龍馬・・・
その積極性、先見性は、色々なところで恨まれていました。
龍馬はどのようにして政治の表舞台に立ったのでしょうか??

高知県高知市・・・
坂本龍馬は、1835年11月15日、土佐藩下士の次男として生まれました。
身分差の厳しい土佐では、下級武士である龍馬が出世できる見込みはなく、龍馬自身の性格も泣き虫で気弱な少年でした。
そんな龍馬の支えとなったのは、3歳年上の姉・乙女でした。
男らしく剣術道場に通わせます。
道場で頭角を表すと・・・1853年剣術修行のために、江戸へ遊学・・・!!
入門したのは、北辰一刀流の千葉定吉道場でした。

その2か月後、黒船が来航!!

これが転機となって、尊王攘夷論に目覚めていきます。
さらに尊王攘夷を傾倒させたのが、同郷の武市半平太。
6歳年上の半平太は、文武両道で、若い下級武士たちのリーダー的存在でした。
土佐勤王党を成した半平太。
その誘いを受け、龍馬もメンバーとなり、勤王の志士の道を歩むこととなるのです。
1862年1月・・・龍馬は半平太の使いとして長州に赴き、尊王攘夷運動の先頭に立つ久坂玄瑞と出会います。

「尊王上の大義のためであれば、尊藩と弊藩が滅んでも構あ示し、海軍を作り、西欧列強に対抗しようと話します。
国のために・・・!!
スケールの大きな海舟にほれ込んだ龍馬は、弟子入りするのでした。
自分の意識の中に、土佐人→日本人へと変化した瞬間でした。

龍馬は、海舟が土佐藩第15代藩主・山内容堂に掛け合ったことで、脱藩の罪を解かれ、海舟が1863年に創設した神戸海軍操練所の補佐役として参加します。
航海術や英語を学び、見識を広めていった龍馬、訓練生たちを束ねてリーダー的存在になっていきます。
勝海舟との交流で、見識や人脈を広げたことが龍馬の財産となっていきます。
表舞台の道が開けていきます。

自由の身となった龍馬・・・
龍馬の人脈の中には、明治維新の立役者となった者もたくさんいました。
長州藩士・桂小五郎とは剣術修行時代に出会っていたといわれています。
また、海舟の紹介で、西郷と知り合います。

龍馬は人を引き付ける魅力がありました。
もちろん、話上手であったのでしょう。しかし、龍馬が脱藩しているという自由な立場・・・藩の利害や役職と関わらない・・・ということが人脈を作っていくことになるのです。

外様大名の雄であった長州藩と薩摩藩が、1864年の禁門の変で尊王か公武合体かで対立します。
犬猿の仲となってしまった長州藩と薩摩藩・・・
その桂と西郷の仲を取り持ちます。
1866年の薩長同盟・・・時代の流れは、討幕へと傾いていきます。

さらに龍馬は・・・
幕府に代わる国家構想を作ります。
土佐藩の蒸気船・夕顔の中で、後藤象二郎に熱く語り、仕上がったのが、「船中八策」です。
大政奉還をはじめ、身分を問わず優れたものを登用すること、議会政治をすること、憲法制定、軍の強化、金銀の交換率を定めること・・・どれもみな、斬新なものでした。

これをもとに、大政奉還の建白書を作成した後藤・・・
1867年10月3日、山内容堂を通して幕府に提出!!
15代将軍・慶喜は、徳川家が生き残る道はこれしかない!!
と、10月14日、大政奉還が行われました。
江戸という時代の終焉でした。

しかし・・・その1か月後の11月15日、功労者・坂本龍馬は京都見廻組によって命を奪われてしまいました。
そして、その背後には黒幕がいた可能性が高いのです。
その黒幕の正体とは・・・??

①土佐藩黒幕説
後藤には、暗殺の実行者・今井との接点がありました。
二人は円山会のメンバーとされたからです。
暗殺の動機は・・・大政奉還の実績を後藤が独り占めしたかったため
自分が船中八策の発案者となるために邪魔な龍馬を暗殺したというものです。
しかし西郷たちも周りの人も、「船中八策」は龍馬の発案だということは知っていました。
後藤が龍馬を殺すメリットがないと思われます。

②紀州藩黒幕説
龍馬が暗殺されたとき、仲間たちが真っ先に疑ったのが紀州藩でした。
一番の動機があったからです。
発端は・・・
海援隊を組織した龍馬は、海運業に乗り出しました。
1867年4月23日、龍馬たちを乗せたいろは丸は、大量の兵器を乗せて瀬戸内海を長崎から大阪に向かっていました。
天候もよくなく・・・目の前に現れた紀州藩の明光丸!!
衝突してしまったのです。
龍馬たちは明光丸に飛び移って無事でしたが、1/6の大きさの明光丸は大破、沈んでしまったのです。
紀州藩と海援隊は、長崎で話し合います。
紀州藩は御三家の威光でかわせると思っていました。
紀州藩交渉役・三浦休太郎も余裕で出席・・・龍馬は死を覚悟して毅然とした態度で挑みます。
紀州藩側の主張は、長崎奉行の採決にゆだねるべきというものでしたが、龍馬は・・・
「蒸気船同士の事故の前例は日本にはないので、国際法にのっとってするべきだ!!」
とし、明光丸の航海日誌を持ち出し、明光丸側の過失を追求していきます。

想定外のことに紀州藩は、薩摩藩に仲介を求めます。
最終的に、海援隊に賠償金7万両(70億円)を支払うことになりました。
面目をつぶされた紀州藩は、龍馬を恨み、交渉役だった三浦が紀州藩の意を汲んで暗殺を命じたとされていますが・・・
海援隊は、三浦を首謀者とし、12月7日天満屋事件を起こします。
当時も三浦が怪しいと考えられていたようですが・・・
三浦は、海援隊に狙われるのではないか??と思い、新選組に身辺警護をさせていたようです。
そうなると、暗殺依頼も新選組にするのが普通だと思われます。

龍馬暗殺は、賠償金を支払わされたうえ・・・恥の上塗りのような・・・紀州藩にはメリットのない物かと思われます。

③薩摩藩黒幕説
龍馬と西郷の間の不協和音・・・海援隊の問題です。
龍馬が亀山社中を作る際に、西郷は多額の資金援助をし、隊士たちの給金も資金援助していました。
ところが・・・侍商法で上手くいかず、海援隊が薩摩藩の経済的負担となっていたというものです。
もう一つが大政奉還・・・大政奉還を画策していた龍馬と後藤・・・それには討幕の中心にいた薩摩藩の同意が必要だと思っていましたが・・・同意していた西郷でしたが、西郷は慶喜は大政奉還を受けるはずがない!!と思っていました。
裏で、武力による討幕を進めていたのです。
が・・・思いもよらず、慶喜が大政奉還を受け入れたことで、薩摩藩の討幕理由がなくなってしまいました。
さらに、龍馬が作った「新政府綱領八策」の中には・・・
「〇〇〇自ら盟主となりこれをもって朝廷に奉り、はじめて天下万民に公布云々・・・」
これは、〇〇〇をリーダーとして新しい政府を作るというものですが・・・ここに慶喜公が入るのでは・・・??
と思う人もいました。
慶喜を排除しようとする薩摩藩・・・慶喜の復権は裏切り行為・・・??
薩摩藩が龍馬が邪魔になったから・・・??

これのもとは、今井の処遇でした。
新政府の功労者である龍馬を暗殺したにもかかわらず、極刑になることもなく、2年で特赦により自由の身となりました。
これにも西郷が裏で糸を引いていたのでは・・・??と言われています。
しかし、大政奉還後、西郷は龍馬にあっていないので、「新政府綱領八策」のことで薩摩藩が龍馬を暗殺することはない・・・と思われます。

真相はやぶの中・・・

坂本龍馬・・・日本の未来に誰よりも先のビジョンを持っていました。
龍馬の先見性と行動力がなければ日本の未来は変わっていたかもしれません。

やっぱり、幕末の英雄なのです。

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