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タグ:壬申の乱

日本史の叛逆者 私説・壬申の乱【電子書籍】[ 井沢 元彦 ]

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今からおよそ2000年前、中国の皇帝から与えられたと言われている金印・・・
刻まれているのは、”漢委奴国王”の印・・・委は、当時のこの国の呼び名・・・この名を日本に改めたきっかけとなった戦いがりました。
672年、大海人皇子と大友皇子が皇位継承争いをした古代最大の内乱・・・壬申の乱です。
その50年後に成立した日本書紀には・・・
大海人皇子は、権力に野心がないことを示すために出家・・・吉野に隠棲していました。
ところが都にいる大友皇子は兵を集め始めました。
そのため止む無く大海人も挙兵!!
結果、僅か1か月で、大海人軍が大勝利を収めたのです。

しかし・・・近年日本書紀の記述は、正当防衛を主張する大海人・・・天武天皇の創作ではないか?と言われています。
壬申の乱勃発の本当の理由とは・・・??


壬申の乱から遡ること5年の667年・・・
日本書紀には、都が近江に移されたとされています。
都の西岸に位置する大津宮です。
飛鳥からこの地に遷都したのは中大兄皇子(天智天皇)です。
その片腕として活躍していたのが、弟・大海人皇子です。
天智が大和政権下で権力を握って以降、兄を支えてきた大海人は、自他ともに認める後継者でした。
しかし・・・天智天皇が最高位の太政大臣に任命したのは息子・大友皇子を任命・・・僅か24歳での大抜擢でした。
これをきっかけに王位継承は、新しい局面を迎えました。
太政大臣は新しくできたポストで、その役割は一つに政策的なトップ、もう一つは有力な皇位継承者という意味を含んでいました。
大海人にとって、天智への不信感が出てきたのです。
天智のブレーンだった中臣鎌足の伝記には・・・天智不満を持った大海人が、宮中での宴会に乱入し、長槍で敷板を刺し貫いたというエピソードが書かれています。
その後、大海人は出家し、政治の実権は大友が握ることに・・・!!

奈良県にある吉野・・・万葉集にも詠まれた風光明媚なこの土地に、大海人が隠棲する吉野宮がありました。
天智の崩御の半年後の672年5月・・・大海人の元に知らせが・・・
出家した大海人を危険視した大友が、攻撃の準備に取り掛かっているというのです。

「今、避けることのできない禍が、私に降りかかろうとしている。
 どうしてこのまま黙っていられようか・・・!!」by大海人皇子

1か月後・・・兵を集め始めました。
つまり、正当防衛のために、やむをえず挙兵したというのです。


6月24日、大海人皇子は吉野宮を出立!!
同行するのは大海人の妃・鵜野讃良皇女をはじめ側近たち30人ばかり・・・。
しかし、3日後の26日に美濃兵3000、尾張兵20,000が合流・・・出発からわずか4日で、3万の軍勢を手に入れました。
一方、6月26日、大友も大海人の挙兵を知って、人を集め始めます。
しかし、東北へと向かった使者は、不破で捕獲されてしまいました。
不破は、近江と東国を結ぶ交通の要所・・・
大海人は、吉野を立つ二日前に、東国に向かう使者に伝えていました。

「軍勢を発し、速やかに不破の道を塞げ!!」

この為に、大海人軍に封鎖されていたのです。
さらに大海人は、もう一つの交通の要所・・・大津宮と東北を結ぶ鈴鹿山道も押さえていました。
なので、大友は、東北の兵を集めることができませんでした。
一方、吉備や筑紫など西国に向かった使者も、目的を果たすことができませんでした。

そしてついに始まった直接対決!!
しかし、十分の兵を集めることのできなかった大友の軍は、一方的な敗北を喫することに・・・
7月22日大津宮陥落!!
翌日、大友皇子自害!!

大海人皇子は、吉野出立からわずか1か月足らずで、完全勝利を収めたのです。

しかし・・・日本書紀には不審な点が・・・
特に、大友からの危険を知り、僅かの供と吉野を出た大海人に、4日間で3万の兵が扱ったことは、事前の準備がなければ考えられません。

大海人側は、かなり用意周到に計画をして立ち上がったのでは・・・??
日本書紀に書かれている記述が全てではない・・・。


壬申の乱の直前、委国は未曽有の外交的危機に直面していました。
きっかけは、663年の白村江の戦いです。
倭国初めての本格的対外戦争でした。
中大兄皇子の軍は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされた百済の復興を助けるために、朝鮮半島に大軍を派遣!!
しかし、唐の大艦隊を前に、1万の援軍は僅か2日で壊滅・・・大敗北を喫しました。
その後、倭国は、唐、新羅がいつ攻めて来るかわからない中、対外的脅威にさらされることに・・・
そこで中大兄は、倭国防衛のために、九州、瀬戸内にたくさんの山城を・・・
667年には、近江へ遷都し、海岸線から遠くに都をおきます。

日本初となる戸籍「庚午年籍」を作成し、全国の土地や民を速やかに把握し、税や兵を集める仕組みを作ろうとしました。
白村江の時は、兵士の動員には要請から2年ほどかかっています。
その教訓から、定量的な帳簿を作り、それに基づく兵士や労役の動員が可能になるシステムを作り出したのです。

即位して中大兄は天智天皇となります。
対外的な危機感を利用し、中央集権・・・国内改革を一気に推し進めようとしていました。

一方で、東アジア情勢は、益々緊張・・・
壬申の乱の4年前には、唐・新羅連合軍が、朝鮮半島の高句麗を攻め滅ぼします。
翌年、標的を倭国と定め、軍船の修理に取り掛かりました。
次は倭国が・・・??
と思われていましたが、新羅が朝鮮半島統一を目指して唐と対立!!
これによって唐は、戦いの矛先を新羅に変えます。
倭国の危機は一旦去ることに・・・。

新羅は本格的に、倭に遣いを送り、倭との友好を求めてきました。
新羅も高句麗と同じように、唐に滅ぼされる危機から逃れ、新羅の地位を維持しようとしていました。
この新羅からの使者に対して倭国は船を送るなど手厚く歓待・・・以後毎年、両国の間で使者が行きかう関係を築くことに・・・

669年遣唐使を派遣・・・
こうして、唐と新羅、敵対する二つの国と、友好関係を築くという両面外交をすることで、一定の距離を置こうとしていました。
しかし、壬申の乱の前年・・・この方針の変換を迫られる事件が・・・
671年1月・・・唐からの使者が来訪。
朝鮮半島における、唐の立場は不安定で、倭に武器・武具を求めたり、軍糧・食料を要求したかったのですが・・・唐の味方になる事を迫られます。

この月、天智は大友皇子を太政大臣に任命。
同時に、鬼室集斯を重用・・・鬼室集斯は、唐と新羅に滅ぼされた百済からの難民のひとりで、数千の難民が近江に居住していました。
先進的な文化や技術を持つ彼らを、天智は招き入れていたのです。

これらの百済からの難民たちは・・・
基本的に、新羅に立敷いて伝統的に敵国意識があります。
唐は、旧百済領に熊津都督府を置き、百済の地元民たちの政治・自治を尊重してくれていました。
どちらかを選べと言われれば・・・唐!!

唐と新羅のどちらに味方するのか??
それとも、不介入を決め込むのか・・・??外交方針の決定を迫られていたのです。

危機感があるから天智に協力したのに、実は危機は日本には来ていないという事実・・・。
豪族たちは、天智に対する反発が強くなってきていました。

671年倭国が外交的機に直面していた頃、天智が突然病に・・・
先が長くないと悟った天智は、大海人を呼び・・・

「私の病気が重いので、あとのことをそなたに託したい。。。」by天智天皇

大友の太政大臣抜擢で立場が揺らいでいた大海人にとっては皇位に着く最大の機会・・・!!
しかし、倭国は今、朝鮮半島に介入するかで岐路に立たされている・・・

王位を継承する??
しかし、天智の急進的な改革に、豪族たちは不満を抱いていました。
豪族たちは、これまで自分たちの本拠地に住み、不定期で大王の宮に奉仕するという体制をとっていました。
大津遷都によって、遠く離れたところに暮らさなければならない。。。
おまけに、中間搾取、既得権益が、国家がメインになって徴収することで、収奪、編制、自分たちの旨みが無くなってしまった。
反対の人か・・・飛鳥から大津に遷都した際には、不審火が多発したと言われています。
さらに、朝鮮半島情勢に加われば、豪族たちの不満は噴出する可能性が・・・!!

王位を辞退する・・・??
不満はすべて大友に・・・しかし、大友に政を任せていいのか??
百済からの難民にささえられている大友は、唐との関係が深まれば、出兵を乞われるかもしれない・・・。
白村江の戦いの二の舞になるのではないか・・・??
誰が田畑を耕すのか・・・??

671年10月、王位を継いでほしいという兄・天智天皇に対し、大海人は・・・
「私は不幸にも病気がちで、国を保つことができません。
 どうか天下を皇后に・・・そして、大友皇子を皇太子になさいませ。」
大海人は、王位の辞退を申し入れます。

しかし、672年大海人が吉野から挙兵し、壬申の乱勃発!!
1か月で完全勝利を収めるのです。
実は、大海人が挙兵を決断したのは、自己防衛ではなく、大友の外交方針だったともいわれています。
日本書紀に・・・
大友が唐の使者に鎧や兜、弓矢を送ったと記載されています。
唐からの使者に、直接兵は出さなかったものの、武器や軍需物資を与えていたのです。
これは、それまでの倭国の外交方針からすると、かなり踏み込んだものだったのです。
大海人は、大友が唐よりに外交方針を変えたことを見届けて、挙兵したのです。

壬申の乱に勝利した翌年の673年、飛鳥浄御原宮に遷都。
そして、天武天皇として即位すると、外交問題に新しい方針を打ち出します。
唐と新羅どちらの味方にもならず、遣唐使の派遣を取りやめたのです。
その後、半島での戦いは、新羅の勝利に終わり、そのため、恐れていた唐からの報復を受けることもありませんでした。

これまで、倭国は高句麗や百済を防波堤にして、中国からの直接侵攻を妨げてきていました。
次は、新羅を防波堤にしたのです。
外交問題の難局を乗り越えた天武天皇は、新しい国家づくりに邁進します。
新城に都を・・・!!
幻の都・新城・・・後に持統天皇が完成させた藤原京の発掘現場の下の層から、新城の遺構が発見されました。
そこでは、東西と南北に沿った道路が直角に交わっていました。
これがのちに、藤原京で初めて完成する碁盤の目の都市計画なのです。

さらに681年、天武は国にとって大切な、律令と国史の編纂に取り掛かります。
それは・・・”大宝律令””日本書紀”として結実します。
飛鳥池工房遺跡には、最古の貨幣・富本銭が見つかりました。
この遺跡からは、さらに”天皇”と書かれた最古の木簡が発見されました。
それまでの大王から天皇へと改めたのもまた、天武だったと考えられます。

新たな国造りをした天武天皇は、686年に崩御。
しかし、天武の事業は、跡を継いだ持統天皇らによって受け継がれていくこととなります。
そして、この国始まって以来の律令が完成した翌年の702年、33年ぶりとなる遣唐使が大陸に渡るのです。
使者は、唐の皇帝に対し、新たなる国名を・・・それが、「日本国」でした。



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今から1300年以上前、日本という国の在り方を定めた戦いがありました。
672年”壬申の乱”です。
天智天皇の後継争いとして天皇の長子・大友皇子と、天皇の弟・大海人皇子が国を二分して戦った古代最大の内乱です。
勝利した大海人皇子は天武天皇として即位、国の基本を作り上げていきます。
律令制や官僚制度、国史編纂、新都造営・・・天皇の称号を始めて用い、皇室ゆかりの儀式が整備されました。
天皇・国家を定めた・・・日本の国を作った戦いなのです。

しかし、乱の経緯については解らないことばかり・・・
戦いの発端は・・・??
皇位継承を辞退した大海人皇子はどうして蜂起したのか?
わずか30人余りで吉野を脱出した大海人皇子が、4日間で3万の軍勢に膨れ上がり圧勝できたのか??
そしてその時、天智天皇の娘であり大海人皇子の妻・鵜野姫皇女(持統天皇)は???

古代日本最大の内乱はどうして起こり、日本はどのように変わっていったのか?
日本の在り方とは???

壬申の乱は、戦前、教科書から削除されていました。
戦前は万世一系・・・壬申の乱は、都合が悪かったと思われます。

天智天皇の後継者争いから始まった壬申の乱・・・。
天智天皇の時代の政治は???
大化の改新を成功させた中大兄皇子・・・天智天皇は、663年白村江の戦いに直面します。
当時日本は倭国・・・百済復興のために大量の兵の兵を派遣し、新羅・唐と戦います。
大国・唐の圧倒的軍事力の前に大敗を喫した倭国軍。。。
その後、唐・新羅が百済を滅ぼすと、今度は唐と新羅が対立します。
混沌とする世界の中、倭国の危機が続いていました。
白村江の戦いに敗北したあと即位した天智天皇は、外圧に対抗するための軍事国家を建設を目指します。
水城や山城を急ピッチで作ります。
戦時体制をしき、本土決戦を意識し、侵略に備えたのです。
急速な富国強兵をすすめます。
671年・・・病に臥せった天智天皇。。。
有力候補は息子・若干24歳の大友皇子、もう一人は弟・大海人皇子でした。
天智天皇は息子ではなく、弟を指名したと日本書紀には書かれています。
当時の皇位継承は、明確に存在していたのではなく、・・・統ではなく資質。年齢や経験がモノをいったのです。
未知数の大友皇子よりも大海人皇子を選んだのですが。。。
大海人皇子は皇位継承を辞退し、出家してしまいました。
兄の想いを慮って身を引いたのか???
「お言葉にはご用心なさいませ。」
その一言で、兄の謀略を感じ取ったのかも知れません。
自分が皇位を継承すると言ったら・・・??
兄の謀略を察し・・・だからの出家だったのかもしれないのです。
そこには、天智天皇の国づくりに対する諸豪族の不満があったと言われています。

例えば・・・庚午年籍の制定・・・
土地や徴税など、豪族の既得権を国家の管理とするものでした。
公地公民は、確実に税と兵をとる方法でした。
おまけに都を飛鳥から近江大津宮に遷都しようと考えていました。
この遷都に対する不満から火事や不吉なことが起こったと言われています。
全員が集結して国の役人となる。。。
土地・民衆の支配権が国家に管理登録される不満。。。
大海人皇子はその不満を感じていたのでそのまま継ぐのは不利だ・・・と感じ、671年近江を出発し、隠遁生活に入りました。同行したのは妻・鵜野讃良皇女と息子・草壁皇子たち。。。

それから1か月余りで天智天皇が崩御。

こうして大友皇子が近江朝廷の実権を握ったのでした。

天智天皇の改革は・・・近代国家にならなければ国が亡びるかもしれない・・・ということを感じ、安全保障が第一でした。
古代皇位継承は今とは違い、統治能力とある程度の年齢が必要でした。
それが暗黙のルールだったのです。
25歳の大友は若く、おまけに母親(伊賀采女)の身分が低く、豪族とも扱われない可能性がありました。

そして大海人は、天智の不満・恨みを一身に背負わないためにも、出家が必要だったのです。
天智天皇は改善をしたかった・・・しかし大海人皇子は変革を望んでいたのです。

壬申の乱は、そんな大海人皇子の吉野脱出から始まります。
そのきっかけを日本書紀は・・・
672年5月、大海人皇子は家臣から報告を受けます。
「朝廷は天智天皇の陵墓を創るためとし妊婦を集めていますが、武器を持たせています。
 早く逃げないと危ないことになるでしょう。」
つまり、大友は大海人追討に向かうと言うのです。
吉野脱出は緊急避難???
近江朝廷側が仕掛けた?いえいえ、大海人皇子の念入りな作戦が伺えます。
吉野脱出の計画は???
①近江の皇子たちとの合流
高市皇子と大津皇子を呼び出し、伊勢で落ち合えるようにします。
脱出がばれると人質にされかねないので合流しました。

jin





















細い道・・・険しい道を通ります。
大海人皇子は事前に何回もシミュレーションしていたようです。
積殖山口で武市皇子と再会します。そして大津皇子とも合流。。。
これは計画的にしないと出来ないことです。
吉野に隠棲してから考えたようです。

そして・・・鈴鹿の山道を封鎖!!
この頃、大津宮は高市皇子と大津皇子がいなくなったので捜索開始。
一方鈴鹿に到着した大海人皇子は、追っ手を防ぐための軍事行動に出ました。

”500の軍勢で、鈴鹿の山道の守りを固めた”

鈴鹿の山道を抑える・・・これは大事なこと・・・近江朝廷側の追っ手を防ぎ、飛鳥からの追っ手も防げる場所だったのです。

不破の道を防げ!!
不破とは関ヶ原のことです。
交通の最大の要所でした。
近江と東国の関係を断ち、東国を味方につけることが目的でした。
不破を押さえ、尾張からの2万の兵も合流し・・・
4日間・170㎞の行程で・・・30人の一行は3万人にも膨れ上がっていったのでした。

白村江で西国は疲弊していましたが、東国は無傷な兵がたくさんいました。
鈴鹿と不破の関を押さえると・・・東国と畿内は遮断されます。
つまり、この二つの道を塞ぐことが勝利への道だったのです。
地図もないのに、道もないのに・・・何度も練習した成果でした。

壬申の乱は、6万人もの兵士が敵味方に分かれて戦った、古代史上最大の内乱でした。
しかし、大海人皇子軍の一方的勝利に終わるのです。
近江朝廷軍は遂に不破に向かって進軍します。
近江朝廷側に不満を抱く者たちが飛鳥で立ち・・・飛鳥はあっけなく落ちました。
大海人皇子の軍勢は各地で勝利し、大津宮へ・・・最後の決戦の地は、滋賀県にある瀬田橋。。。
兵力を結集し、雌雄を決することになりました。

勝敗はあっけなく・・・
近江方の陣は混乱し、逃げ散るのを止めることは出来ませんでした。
大友皇子たちも、かろうじて脱出しますが。。。
もはや逃げ場はなく・・・山前で・・・大友皇子は自ら首をくくって死に・・・
不破の大海人皇子の元へと届けられたのでした。

こうして壬申の乱は終わりを告げるのでした。

中央の大友がこれだけあっけなく負けた理由は・・・
大海人は戦争を起こそうとしていたこと。
大友は戦が起こるとは思っていなかった。。。
用意周到に準備していることに全く気付いていなかったのが原因だったのです。
そう、知らせてくれる見方がいなかったのです。

やはり、みんなが大海人皇子が継ぐべきだと思っていたのです。

どちらが勝った方が良かったのか???
大友が買った場合、天智天皇のまま・・・唐よりの政策になって、唐に取り込まれていたかもしれません。
国家として残るために、大海人が勝って良かったのだろうと思われます。

大友の首は必要だったの???
王族の首を斬るということは、日本の歴史上ほとんどありません。
戦後処理を考えると、大友は確実に死んだという事実を示さなければならなかったのです。

壬申の乱の翌年、大海人皇子は大津から飛鳥に都をもどし、天武天皇として即位し、大規模な国家改造のために、独裁的人事体制を築きます。

天智天皇の時代には有力豪族がついていた大臣のポストを無くし、天皇皇后を頂点に皇族・皇親に力を集中させ(皇親政治)、しかし、敗れた側の人々にも政治参加をさせました。
トップダウンのできる体制が整いました。

東アジアでは、新羅が唐と戦争を起こし・・・676年には新羅が朝鮮を平定します。
大陸の脅威は徐々に薄れ・・・国内の改革に取り組みだしました。
681年律令の編纂を開始、国史編纂事業にも取り組みます。これがのちの日本書紀です。
大王という名を改め、天皇という言葉を初めて使ったのは天武天皇だと考えられています。
天武天皇は、自らを天皇と名乗り、絶対的な権威を持ちました。
大王(おおきみ)は・・・たくさんいる王の中のTOPですが、天皇は唯一無二の存在です。

飛鳥の都を賛美する歌に・・・

「おおきみは
  神にしませば赤駒の
    腹這ふ田井を都と威しつ」

と、万葉集に収められています。

天皇は神である・・・

天武天皇は、どんな国家を目指したのでしょう?
天武朝の前半と後半とでは全く違い、天武10年までは戦争状態でした。
非常に高圧的に・・・国家の基本は軍事であるという政策をとります。
確実に税がとれて兵が徴収できる国家です。
天武5年に唐と新羅の戦争が終わり・・・天武7年にその知らせがもたらされました。

いつ攻めてくるかわからない時代が終わりました。
不安の無くなった天武政権は、貨幣経済でないと大きな国は動かせない!!と、税を徴収し、徴兵すること・・・近代的な考えになっていくのです。

政治的な立場には天皇と皇后しか置かない・・・
ふたりで決定する政治をし、みんな天皇と皇后の下に平等であることを認識させました。
まさに”一君万民”です。
唯一無二の天皇の為に・・・
神話が必要でした。
世界に対抗するためにも中国とのバランスを考えて作られたと考えられます。
天皇の歳が長すぎたり・・・いろいろ変な部分がありますが、努力してつじつま合わせをした結果ではないか?とも思われるのです。

絶対的な権力と権威・・・
天武天皇の最後の問題は皇位継承でした。
どう継承していくのか???
そこには皇后の想いもありました。
天皇の息子のうち、成人しているのは4人・・・
草壁皇子・大津皇子・高市皇子・忍壁皇子。。。
そのうち、鵜野讃良皇女の息子・控えめな草壁皇子と大田皇女の息子・優秀な大津皇子に絞られました。

大津皇子支持の声の多い中・・・
679年後継者を指名・・・草壁皇子です。
他の皇子には争わないと誓わせました。
しかし、686年天武天皇が崩御・・・
その1か月後に皇子たちの誓いは破られてしまうのでした。
大津皇子の謀反が発覚!!大津皇子は死に追いやられてしまいました。
ところが3年後には草壁皇子も亡くなってしまいます。
そこで皇后・鵜野讃良皇女が持統天皇として即位します。

夫の計画を引き継いで・・・
草壁皇子の息子・軽皇子を後継者と指名し、697年で文武天皇として即位します。
権力を持たない、若い天皇の誕生でした。
これがその後の日本の在り方を決めることになりました。
中国は易姓革命。天がそれを見放した時に滅びるのですが・・・
日本の場合は天は万世一系としてなり、権威はあるけれども権力はない・・・
という形となり、長続きする理由なのです。

これを強く支持したのは壬申の乱で争った大友皇子の息子・葛野王でした。
あまりにも若い天皇に反対意見のある中・・・
「わが国では今日まで子孫が皇位継承することになっている
 兄弟の順で相続するならば、国は乱れる」
と。。。葛野王は、天武天皇直系の軽皇子の即位を推したのです。

持統天皇は喜び、国を定る・・・現在まで連綿と続くこの国の在り方が、この壬申の乱から始まったのです。


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