日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:大一大万大吉

義に生きたもう一人の武将 石田三成

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大河ドラマ「真田丸」で、戦国一の頭脳派でした。
関ケ原の戦いで徳川家康に敗北した三成には、悪役のイメージが・・・!!
しかし、近年、人物像が見直されつつあります。
太閤検地、刀狩りは三成の発案だと言われています。

太閤秀吉曰く・・・
「天下にその名をとどろかす 知恵者である」と。

三成が旗印にした”大一大万大吉”は、戦乱の世を終わらせ、誰もが幸せに暮らせる社会を・・・という三成の思いが込められていました。
そんな三成の前に立ちはだかったのが、秀吉と家康です。

天下を統一した秀吉は、三成の思いとは裏腹に、さらなる戦いへ・・・!!
朝鮮出兵!!三成は、従うしかありませんでした。

徳川家康・・・秀吉の死後、天下取りの野望を露にします。
その家康を食い止めようとして敗れた三成・・・!!
理想と現実のはざまで敗れ去った人生とは・・・??

1600年10月21日天下分け目の関ケ原の戦い。
それから16日・・・処刑場に一人の男がいました。
「水をくれ。。。」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・ 腹を壊すと困る。」by三成
「首を斬られる寸前というのに、あきれたやつめ・・・」by役人

この男が石田三成。
秀吉の右腕として天下にその名を知られた三成・・・。
しかし、秀吉と会った時は、寺の小僧にすぎませんでした。
そんな彼が、秀吉から厚い信頼を得るようになったのでしょうか??


戦国時代真っただ中の1560年。
三成は、近江国で武士の子として生まれました。
長男が家を継ぐ時代・・・次男だった三成は、幼くして寺に預けられました。
三成は、ここで、算術を身に着けます。
当時、近江は、京都と江戸とを結び、京都と北陸を結ぶ交通の要衝で、商業が盛ん。。。寺でも、算術を教えたのです。

1573年14歳の時に、領主・浅井長政が信長に滅ぼされます。
新たな領主となったのが信長の家臣・秀吉でした。
その秀吉と三成の出会いのエピソードは”三杯の茶”。
鷹狩りをしていた秀吉が、たまたま三成のいる寺を訪れました。

お茶を持ってくるようにいう秀吉。
のどか乾いているに違いない・・・と思った三成は、
一杯目・・・大きな茶碗でぬるい茶を。
二杯目・・・中くらいの茶碗で少し熱い茶を。
三杯目・・・小さな茶碗でアツアツの茶。
秀吉の気持ちを考えた三成の心遣いでした。
小姓として召し抱えられることとなった三成。

三成23歳の時・・・本能寺の変!!
信長が討たれ、秀吉が後継者となりました。
ある時秀吉が石高を「500石増やしてやろう。」というと、三成は・・・
「淀川の岸辺に生えている葦をいただきとうございます。
 葦は、付近の住民が刈り取っておりますが、力の強いものが独占して自分のものにしております。
 これを公平に刈り取らせるためには、年貢をかけるのfがよろしいかと存じます。」
当時葦は、すだれやかやぶきなど、生活に欠かせないものでした。
しかし、力の強いものが独り占めしていたのです。
住民が税を払うことで、そこそこ刈り取ることができる=500石を上回る税収が入ってくるということです。

1583年賤ヶ岳の戦い・・・
柴田勝家との戦いで、両軍が睨み合います。
この時秀吉は、柴田軍に追い詰められます。
助けに行かなければ・・・!!
しかし、道のりは50キロ以上!!そのうえ、日が暮れようとしていました。
そこで、軍が向かう村々に先回りし、村人に兵たちの食料を用意させ、夜道を松明を焚かせたのです。
さらに、到着地点に武器を用意します。
兵士たちは、武器をもって移動することなく、サッと行動できました。
三成の活躍によって、秀吉軍は丸二日の道程を5時間で走破したのです。
柴田軍を打ち破ることができました。
美濃の大返しです。
合戦の表舞台で華々しく戦うよりも、こういう仕事に向いているのではないか??と、感じていたようです。
戦いののち、三成は4万石を賜わり、大名となります。

秀吉は晩年、三成を評価し、北近江19万石から筑前筑後33万石へ引き上げ、重要地点の九州へ国替えを・・・破格の待遇・・・大出世を・・・としましたが三成は断ります。

大一大万大吉・・・三成の旗印ですが・・・
「一人が万民のため  万人が一人のために尽くせば この世は大吉になる。」
という意味です。
今のように、ただ戦っているだけでは、農民たちが安心して農業に精を出せない・・・
早く戦のない世の中にしたい・・・そのためには、秀吉さまに早く天下を取ってほしい。。。
そのために、自分は身を粉にして働きたい。と思っていたようです。

理想の実現に向けて一歩踏み出した町・・・堺。。。
1586年27歳で、堺の町奉行に任命されます。
当時この町は、一部の商人たちが牛耳っていました。
町を堀で囲み、傭兵を雇って自営していたのです。
町奉行となった三成は、一部の商人たちの既得権益を奪い、堀を埋め・・・自由な市場を作り上げました。
そして、堺を九州征伐の兵站の拠点としたのです。

1590年秀吉が天下を統一!!
三成は、31歳で北近江の領主に・・・佐和山城の城主となります。
三成が領民に宛てた置手紙が残っています。

・米が多く取れて余った場合は農民のものとする
・不満があれば、三成に直接申し出よ

農民に配慮する一方で・・・

・百姓が村を離れて町人や奉公人になることを禁じる

農民を増やし、生産を挙げようとしたのです。

太閤検地や刀狩りも、三成の考えだったと言います。
農民から武器を取り上げた刀狩り・・・一揆を防止させるとともに、武士や農民と・・・身分を固定させました。
太閤検地では単位を統一し、正確なコメの収穫量を調査します。
米の収穫量を正確に把握することで、税収の安定を図り、大名の不正を防止しようとしたのです。
当時大名は、石高に応じて兵を出していました。
これを嫌って、過少申告するものが後をたたかなったからです。
三成は、自ら全国各地を回り、太閤検地の現場に立ち会ったと言います。

こうした功績が認められ、1598年39歳の時に九州への栄転話がもちあがっていたのです。

「名誉なことですが、お断りさせていただきとうございます。
 私が九州の大名になってしまったら・・・」

家臣宛ての手紙には・・・
九州の大名になってしまったら、これまでのように秀吉さまの下で政務を司る人間が無くなるので断りました。
石田家の人々や、家臣たちの領地が増えないことになるので、後悔もありますが・・、
と書かれています。
 
三成は、どうして仲間の武将から嫌われていたのでしょうか??
天下統一によって、平和な日が・・・三成は、秀吉の右腕として、理想の世界の実現に邁進しますが・・・周囲の目は違いました。
杓子定規で融通が利かない三成に不満を抱く人が多かったのです。

そんな中・・・1591年秀吉が朝鮮出兵を計画!!
日本国内に分け与える領地が無くなってしまったので、海外に領地を求めたのです。
三成は反対でしたが、秀吉に反対することはできませんでした。

武功派の大名達が朝鮮へ出兵!!
戦地からは続々と吉報が・・・!!
しかし・・・敵は一向に降伏しません。
いらだつ秀吉は、三成に現地視察を命じます。
三成が目にしたのは・・・報告とは全く逆の現実でした。
この戦いには勝てない・・・撤退するしかない・・・と考えた三成は、ありのままを秀吉に伝えます。
報告を受けた秀吉は激怒!!
加藤清正らを呼び戻し、謹慎処分としました。
こうして、清正ら武功派の面々は、三成に深い恨みを抱くようになっていきます。

「立てた手柄を全く無視し、苦戦を誇大に報告し、いかにも自分(清正)が怠け者であり、作戦下手であったと報告した。」

中間管理職のジレンマ・・・いじめ・・・

1598年秀吉がこの世を去りました。
三成は、朝鮮で戦っていた大名たちをいち早く帰国させます。
深手を負わず、迅速に帰ってこれたのは、三成の迅速な指示によるものです。
三成は、帰国した加藤清正に・・・
「茶会を開いて戦の疲れをねぎらいたいのだが・・・」
しかし清正は・・・
「俺は7年も朝鮮にいて、食い物も飲み物もお返しするものが何もない。
 せめで稗の粥なら炊いてやるわ。」

茶会には誰も来ませんでした。
武功派には恨みのみが残っていたのです。

秀吉が亡くなった時、秀頼はまだ6歳でした。
三成は、秀頼を守りながら、戦のない世界を目指しますが・・・そこに立ちはだかったのが、天下取りを狙っていた徳川家康でした。
家康は、秀吉が禁止していた政略結婚を次々と進めます。
おまけに、豊臣家の領地を独断で分配。
これに対し三成は、他の有力大名たちと手を組んで、家康を抑え込もうとします。
そんな時事件が・・・
加藤清正ら武功派が三成を襲撃!!
三成を亡き者にしようとしたのです。
この時、仲裁に入ったのが家康でした。
清正らを鎮めた家康は三成に・・・
「今回の騒動は三成殿にも非がある。
 自国に戻って、一、二ねん謹慎されよ。」by家康
襲われた三成の方を処罰してしまいました。
天下は家康のものになろうとしている・・・??

三成は1年をかけ、綿密な作戦を立てます。
まずは全国の大名たちに書状を送ります。
「家康は豊臣政権の決まり事を少しも守ろうとしません。
 太閤様のお決めに背き、何を信頼すればよいのでしょうか?」
家康を見過ごすことは、太閤・秀吉・・・大義に反すると訴えます。
毛利輝元を大将に、その威光の元大軍を組織していきます。

三成の動きを知った家康も、全国の武将に書状を・・・!!
三成が大義を訴えたのに対し、家康は領地を約束します。

そして遂に・・・
家康は大坂城を目指します。
自分たちが反乱軍にならないように、秀頼を支配下に置こうとしたのです。
一方の三成もそれを食い止めようとします。
上杉景勝を味方に付けた三成・・・家康は、背後を上杉に攻められないように2万の軍を関東に置かざるを得なくなります。
家康は、東海道・中山道と二手に分かれて西へ・・・
しかし、中山道の3万8000の軍は、上田城の真田昌幸に行く手を阻まれます。
結局家康は、東海道の7万4000の兵で、関ケ原に臨むこととなります。

三成は真田昌幸に送った手紙には・・・
「家康がたとえ十人登ってきても安心願いたい。
 討ち果たすほかない・・・!!」と、書かれていました。

石田三成の勝敗に関しては・・・徳川軍を追い払ったら勝ち、近畿地方に入れたら負けというものでした。
石田三成の元々の布陣から行けば、家康は①大垣城②南宮山③松尾山の三カ所を突破しないとダメだったのですが・・・

前日、味方の軍を押しのけて、小早川秀秋が勝手に松尾山に布陣。
小早川は味方のはずでしたが、裏切りは予想済み!!
大谷吉継らを近くに布陣させます。
自らも、大垣城を出て、関ケ原に布陣!!
西軍は、西と南宮山(毛利)で、東軍を挟み撃ちにする体制が完成!!
家康は完全に囲まれてしまいました。

1600年10月21日、三成率いる西軍8万4000VS家康府¥率いる東軍7万4000が関ケ原に集結!!
午前8時・・・関ケ原の戦いが始まりました。
一進一退の攻防・・・西軍が東軍を追いつめている・・・??
ここで南宮山に布陣していた毛利が一気に攻め込んで東軍の背後を・・・勝利確実!!
しかし、毛利勢は動かない・・・!!

家康は、毛利勢の先鋒を務める者たちと内通していました。
戦いに参加しないという約束をしていたので・・・本体が足止めを食らってしまいました。
三成のシナリオが狂い始めた瞬間でした。
そこへ、松尾山に陣取っていた小早川秀秋が、攻め込んできました。
さらに・・・小早川に呼応するかのように、味方が寝返って攻撃を仕掛けてきたのです。
西軍は総崩れとなりました。
合戦開始からわずか6時間・・・雌雄は決し、三成軍壊滅・・・。
三成は戦場から姿を消したのでした。
山中をさまよった三成・・・ようやく自分の領地に帰ると、洞窟で再起を図ります。
世話をしたのは地元の農民たち・・・掟書の恩返しをしてくれたのです。
しかし、三成を匿えば、一族郎党皆殺しというお触れが・・・
それでも世話をし続ける農民に対し、
「徳川に差し出せ・・・。」
三成は、かたくなに拒む農民を説得し、居場所を伝えさせたのです。

そして・・・処刑場へ向かうとき・・・

「水をくれ」by三成
「ここに柿がある。これを食え。」by役人
「柿は食わない・・・腹を壊すと困る。」by三成
死ぬ間際に、腹の心配をすることを周囲はあざ笑います。

「大志を持つ者は、最後まで体をいたわる」by三成

関ケ原の戦いから16日・・・1600年11月6日、三成は、京都の六条河原で首を刎ねられました。
40年の生涯でした。

誰もが幸せに暮らせる社会を目指しつつ、志半ばで命を落とした石田三成。。。

「人の心は はかりがたし・・・」by三成


三成の死後の佐和山城・・・関ケ原の戦いの後、徳川方の武将たちは財宝目当てに城に踏み込みました。しかし、そこには何もなかった・・・。
財を成すことに興味のなかった三成。。。

地元の寺に佐和山城で使われていた板戸が残っています。
客人を喜ばせるために表は綺麗に華やかな絵が・・・
しかし、裏側は、墨で書かれた簡素な絵が・・・。
秀吉の右腕でありながら、私利私欲に走ることのなかった三成。。。
その生涯は、ひたすらに人々の幸せを願ったものでした。
 


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合戦を描いた絵巻、屏風絵には、色とりどりの軍旗、指物、馬印が咲き誇り、殺伐とした戦場に彩りを与えています。

血なまぐさい戦場にあって、武将たちは己を美しく飾り、その武功を目立たせるために、意匠を凝らしました。

はじめは、敵味方を区別し、自軍の勢威を示すものでしたが、やがて平家が白旗に「南無阿弥陀仏」と経文を、源氏が赤旗に「八幡大菩薩」と、信奉する八幡神の神号を記すようになりました。


そしてそこに、新しく意味が加わります。

有名なのが、上杉謙信の「毘」の軍旗。
謙信が、熱心に信仰する毘沙門天の一字をとったものです。
謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」の旗の守護の下、戦場を縦横無尽に疾走しました。
謙信はこのほかに、懸り乱れ龍の旗と言われる「龍」の一字を記した軍旗を作り、総攻撃の際、陣頭に押し立て、士気を鼓舞しました。

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謙信のライバル武田信玄の軍旗は、「孫子」の「風林火山」有名です。
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が、「南無諏訪南宮法性上下大明神」など、戦勝祈願を行った神社の名を記したものもあります。
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信長が、家紋の「織田木瓜」の代えて永楽線銭を旗印にするようになったのは、その頃明から大量に輸入され、広く流布していた天下の貨幣、永楽通宝をモデルにしています。
永楽銭の旗印を使い始めたのは、「天下布武」の印判を用いるようになった1567年の翌年以降です。
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家康の場合は、「厭離穢土欣求浄土」と書かれたものもあります。
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浄土宗に帰依していた家康は、その教えを軍旗としました。

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ちなみに、こちらには、石田三成の「大一大万大吉」と、現世利益を願うめでたい言葉や、真田幸村の六文銭があります。この六文銭は、三途の川を渡るときに必要なお金・・・死ぬ覚悟で戦うことを意味しています。

一つの旗に、それぞれの想いが込められていたことが解りますね。


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