日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

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タグ:天下布武

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戦国の天才・破壊者・第六天魔王・革命児・・・一般に、広く流布された信長のイメージ・・・それは、信長の真の姿だったのでしょうか?
群雄割拠ひしめく戦国にあって、天下統一のもと、武力で日本を統一しようとしました。
しかし・・・従来の姿を見直さなければならない・・・??
”天下布武”の本当の意味とは・・・??

熊本県熊本市2014年に新発見の資料が公開されました。
発見された上洛に関する書状によると・・・
「将軍上洛の共として織田信長が参陣する・・・」
永禄11年に足利義昭を奉じて信長は上洛します。
信長は、自らの野望のために、傀儡としての将軍を担いで京に上ったとされてきていました。
発見されたのはその時の書状ですが・・・史実の上洛の2年前となっていました。

日本各地で群雄割拠した戦国時代・・・京で始まった戦いは、日本全土に広がっていました。
有力大名が力をつける一方で、室町幕府は弱体化して行っていました。

将軍は戦果を逃れるために都を離れることが多かったのですが・・・
当時、将軍が暗殺されたことによって、将軍職は空位となっていました。
そんな中、将軍候補に名乗りを上げたのが足利義昭。
しかし、反対勢力のために、各地を転々としていました。
流浪先から各地の大名に上洛を要請して・・・機会をうかがっていたのです。
義昭の上洛要請は・・・越後の上杉・甲斐の武田・・・有力大名はもとより、遠く薩摩の島津にまで上洛要請をしていました。
果たして大名側にメリットはあったのでしょうか?

軍事力、武力を持っていなかったであろう足利義昭・・・。
しかし、権威はあったようです。

将軍の権威は、戦国時代もあったと考えられます。

①栄典授与の権限
②大名たちの紛争の調停
③偏諱(将軍の名の一字をもらう)
武田信玄晴信の晴、上杉謙信輝虎の輝は、将軍の名の一字をもらっています。

義昭を奉じて将軍に就かせることができれば、権勢をふるうことができる!!
戦の時代であればあるほど、将軍の利用価値、権威の必要性が高くなってくるのです。

将軍の要請の手紙が届いたのは、永禄8年10月ごろに信長の元へ。。。
尾張の守護代の家臣から成り上がった織田家は、出自が低い・・・
大名としての正当性を得る絶好の機会でした。
信長は将軍に対して敬意をはらっていたようで・・・
衰退した室町幕府の再興を・・・室町幕府の秩序を再構築するための上洛だったのかもしれません。
一有力大名としてそれを支えていこうと考えていました。

しかし・・・上洛するにはかなり難しい・・・

①領国経営の安定が最優先
②都に兵を常駐させる必要がある=経済力も必要

永禄九年の書状の頃は・・・
桶狭間の戦いに勝利したものの、隣国美濃との戦いに手を焼いていました。
上洛など出来る余裕はなかったのです。

信長の居城・小牧山城は、美濃との戦いをにらんだ砦と思われてきました。
が・・・ここに信長が上洛を決意した・・・最新式の巨大な石垣が発見されたのです。
石垣など・・・最新式の技術は畿内にありました。
つまり、信長は、畿内の色んな技術・情報を押さえ・・・
そして・・・最新の技術を築くことのできるノウハウを持っていたのです。

城の南側に城下町が・・・当時、戦国大名の軍団を成していたのは農民たちでしたが・・・
信長は・・・つまり、兵農分離・・・専業の武士団を作って、城下町に住まわせていたのです。
農繁期、農閑期に関わらず、いつでも遠征できる軍団を作り上げたのです。
これは、中世から近世への大きな変革でした。
ここに、京都を目指していた意図があると言えます。

尾張の一大名でありながら、上洛の用意を着々とする信長。。。
しかし、事態は信長の思惑通りには行きませんでした。
直前に・・・近江・六角氏が反旗を翻します。
信長は行く手を阻まれ、上洛を断念しなければなりませんでした。
この上洛計画は幻に終わったのです。
そして・・・上洛を果たすのは、その2年後でした。

小牧山城を足掛かりに宿敵・美濃を攻め・・・永禄10年に美濃を平定します。
小牧山城から岐阜城に居城を移した信長は・・・”天下布武”という印を使いだしました。
日本で武力統一をしようという野望をもったという意味に使われてきたとされていましたが・・・
この天下布武・・・
ルイス・フロイスの書簡によると・・・
日本全国の中心である五畿内の主は「天下」と呼ばれ、「君主」を意味するとあります。
五畿内とは・・・京の周りの山城・大和・河内・摂津・和泉の事・・・。
天下の範囲はこの五つの事だったのです。
つまり、天下布武=全国を征服するという意味ではなく・・・
将軍の権威の及ぶ範囲の事で、”将軍の復権”を目指していたのです。

岐阜城でも足利将軍に憧れているという発見がありました。
大規模な庭園が発見され・・・その造園は、足利将軍の庭園様式を踏襲していると言えます。

革新的なイメージの強い信長は・・・伝統や文化を重んじていたようにも思えます。
幻の上洛計画の後も、義昭の上洛野望は続きます。
が・・・将軍候補として義昭の従兄弟・義栄が擁立されます。
もし・・・先に将軍になってしまわれたら・・・と、信長に上洛要請を働きかけます。

「これからは、織田信長をひたすら頼りにしたい。」

信長は、大きな決断に迫られていました。
2年前に失敗した上洛を成功させることができるのか・・・??

そこには、軍事力・経済力・外交力の3つの条件がありました。
美濃を手に入れて軍事力は大きく飛躍、兵農分離によって都に兵を常駐できる、津島湊・熱田湊の流通を支配、浅井・徳川とも同盟関係を結ぶ・・・
上洛の条件は整いつつありました。
上洛を阻む敵は・・・六角に三好・・・武田・上杉などの潜在的な敵勢力にも・・・

永禄11年9月26日、4万の大軍勢で足利義昭を奉じて信長は上洛を果たします。
成り上がり大名の上洛にアタフタする都・・・
しかし、都の人の心配をよそに、信長軍の規律は厳しく都はすぐに平静を取り戻しました。
将軍の軍隊としての矜持を観てとることができます。
義昭は将軍に就任・・・。

一方その立役者となった信長の名は、畿内一円に広まります。
周辺の武将たちは馳せ参じて忠誠を誓ったと言います。
それでも従わなかったものは、義昭の攘夷を大義名分として信長が平定・・・
遂に、五畿内の天下布武を成し遂げたのです。

義昭は・・・信長を慕い、副将軍や幕府高位を与えようとします。
しかし、上洛から2年・・・越前の朝倉・浅井・延暦寺・六角・三好・松永・武田・一向宗・・・次々に反旗を翻したのです。
信長は、室町幕府の再興・天下静謐を掲げ、戦い・・・支配地を拡張していきます。
義昭も・・・信長の勢いに嫉妬し、恐れ始めます。

二人の亀裂は・・・??
信長が義昭に送った十七条の意見書です。
義昭の怠慢をまとめ、諌めたものです。
忠勤の部下を大切にせよ・・・えこひいきがあってはならない・・・悪しき御所と陰口をたたかれている義昭に、公明正大を求めたのです。

そして・・・遂に元亀4年3月・・・義昭が挙兵・・・しかし、圧倒的な信長の前に義昭になすすべなし・・・。
元亀4年7月・・・義昭追放。
ここに室町幕府は崩壊。。。
義昭の命を奪わなかったのは、奪ったことにより謀反人となることを恐れたためとも言われています。
以降・・・天皇の権威によらない新しい天下を目指していくのです。

義昭は・・・各地の有力大名に、信長に対する挙兵を要請し続けます。
朝倉・浅井・武田を滅ぼした信長は・・・毛利・上杉・・・と、戦いを挑んでいきます。
信長の支配領域は、急激に膨れ上がっていきました。
しかし・・・天正10年6月2日・・・本能寺の変・・・
信長は、非業の最期を遂げることになるのです。
その後、天下統一は、豊臣秀吉によって実現されました。

信長の天下布武・・・真意はどこにあったのでしょうか・・・??

天下人・・・周りの人が認めた瞬間に、出来上がった権力・・・何の官職もない者が上に立てる権力・・・
今の秩序の中に生き残りの道を探し、既存の概念を突き抜けてしまったのが信長なのかもしれません。

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岐阜県岐阜市・・・難攻不落の岐阜城の城下町です。
織田信長が天下統一を掲げた城下町。。。
四方を山に囲まれて・・・長良川の流れる城下町。
天空にそびえる白亜の城です。

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美濃を代表する戦国武将は斎藤道三、そして織田信長。
岐阜城のある金華山は、戦国時代には稲葉山城と呼ばれ、斎藤道三の居城・稲葉山城がありました。
この道三によって、城下町の基礎がきずかれましたが、1567年・・・斎藤龍興の時代に・・・
難攻不落の稲葉山城は信長の手によって攻略。
この地を平定した信長は・・・井口という地名を・・・中国の故事に習って岐阜と改めました。
斎藤道三・織田信長・・・ふたりの偉大な戦国武将の地です。

標高329mの金華山山頂にそびえる岐阜城・・・
天守閣からは、眼下に濃尾平野の絶景を望むことが出来ます。
信長は、この岐阜から天下布武を掲げ・・・野望実現に向かったのです。

今は昭和31年に再建された岐阜城ですが。。。
信長の建てた岐阜城とはどんなものだったのでしょうか?

信長の屋敷跡は、今も発掘調査が行われています。
今からおよそ440年前に、信長が築いた岐阜城・・・
金華山の麓には、信長の居城があったと言われ。。。
昭和59年から、居館発掘調査が行われています。

2013年に、この居城から発掘された瓦・・・
牡丹と菊花紋は、金箔がはられていました。
従来の定説からは、金箔は安土城が最初・・・と言われていましたが、その始まりは岐阜城からだったのです。

時は戦国時代・・・防衛よりも・・・
守りに徹する武骨な城よりも、敵方にも存在を誇示するような”見せる城”で・・・。
迎賓館としての役割・・・外交の拠点もあったようです。
楽市楽座も発祥の地で・・・信長統治下の岐阜を訪れたルイス・フロイスは・・・
「まるでバビロンの町のよう。。。」
と言い、当時は京に次ぐ繁栄を極めていました。
信長が、天下統一を果たすために築いた新感覚の城下町だったのです。

長良川沿いには・・・古い町家が残っていて・・・道三の時代から水上運送による市場があり、商業が発展していました。
岐阜団扇は室町時代から生産され、その材料は、地元の竹、美濃和紙が長良川によって運ばれてき。。。
提灯や和傘づくりも盛んに行われてきました。

金鳳山正法寺には大仏があります。

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この大仏は・・・真鍮を通して・・・主に木材や和紙で作られた日本一の乾漆像です。
奈良大仏・・・14.98m
岐阜大仏・・・13.63m
鎌倉大仏・・・11.31m
と、引けを取りません。
竹や和紙で作られた岐阜大仏は、岐阜産業の集大成とも言えます。
岐阜の城下町ならではの大仏様なのです。

1300年前から行われている古の漁法・・・
夏の風物詩は、長良川の鵜飼い・・・古事記にも描かれている伝統の漁法です。
江戸時代は、尾張藩の保護によって娯楽へと発展していきます。
松尾芭蕉は・・・
「おもしろうて
 やがてかなしき
       鵜船かな」
と、詠んでいます。

この句は、当時の鵜飼の姿を伝えています。

戦国の梟雄達が自らの野望を実現する為に争った岐阜・・・
しかし、それは、長い歴史の中の一コマなのです。

人々は、いつまでも変わらない長良川と金華山に誇りを持っている・・・
そんな城下町でした。

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合戦を描いた絵巻、屏風絵には、色とりどりの軍旗、指物、馬印が咲き誇り、殺伐とした戦場に彩りを与えています。

血なまぐさい戦場にあって、武将たちは己を美しく飾り、その武功を目立たせるために、意匠を凝らしました。

はじめは、敵味方を区別し、自軍の勢威を示すものでしたが、やがて平家が白旗に「南無阿弥陀仏」と経文を、源氏が赤旗に「八幡大菩薩」と、信奉する八幡神の神号を記すようになりました。


そしてそこに、新しく意味が加わります。

有名なのが、上杉謙信の「毘」の軍旗。
謙信が、熱心に信仰する毘沙門天の一字をとったものです。
謙信は自分を毘沙門天の生まれ変わりと信じ、「毘」の旗の守護の下、戦場を縦横無尽に疾走しました。
謙信はこのほかに、懸り乱れ龍の旗と言われる「龍」の一字を記した軍旗を作り、総攻撃の際、陣頭に押し立て、士気を鼓舞しました。

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謙信のライバル武田信玄の軍旗は、「孫子」の「風林火山」有名です。
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が、「南無諏訪南宮法性上下大明神」など、戦勝祈願を行った神社の名を記したものもあります。
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信長が、家紋の「織田木瓜」の代えて永楽線銭を旗印にするようになったのは、その頃明から大量に輸入され、広く流布していた天下の貨幣、永楽通宝をモデルにしています。
永楽銭の旗印を使い始めたのは、「天下布武」の印判を用いるようになった1567年の翌年以降です。
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家康の場合は、「厭離穢土欣求浄土」と書かれたものもあります。
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浄土宗に帰依していた家康は、その教えを軍旗としました。

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ちなみに、こちらには、石田三成の「大一大万大吉」と、現世利益を願うめでたい言葉や、真田幸村の六文銭があります。この六文銭は、三途の川を渡るときに必要なお金・・・死ぬ覚悟で戦うことを意味しています。

一つの旗に、それぞれの想いが込められていたことが解りますね。


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