日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:小牧山城

思いがけない血とは?織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、果たしてだれの子孫が天下に残ったのか?30分で読めるシリーズ



戦国乱世・・・たった一度だけ・・・天下人同士・・・秀吉と家康の直接対決が小牧・長久手の戦いでした。
江戸時代聖地となった小牧山城・・・家康公・御戦勝の地として山番を置いて一般人が入ることを禁じました。

”家康の天下を取るは
 大阪にあらずして関ケ原にあり
 関ケ原にあらずして小牧にあり!!”

小牧・長久手の戦い・・・
家康方1万7000VS秀吉方10万!!
さらに秀吉は、家康討伐に王手!!
これを打開してどうやって逆転する??

昭和2年戦地・小牧山で、天皇統監のもとに行われた陸軍大演習・・・
小牧・長久手の戦いを教訓に、平地決戦の戦術が行われました。
それは・・・そこに日本戦士に残る戦略の数々があったからです。

農民からものすごい勢いで成り上がった羽柴秀吉。
秀吉は18歳の頃、信長に仕えました。
敵を味方に引き入れる調略の才能を発揮し、数々の敵を織田家に引き入れます。
その実力を主君・信長に認めさせました。
武勇がものを言う戦国時代にあって、独自の方法で異例の大出世をするのでした。

海道一の弓取りと言われた徳川家康。
武家の名門・松平家に生まれるも、長い人質生活を送り、厳しい武家社会で育ちました。
やがて当主となって織田信長と同盟(清州同盟)を結ぶと、以後その関係を固く守っていきます。
戦場における家康軍の活躍は目覚ましく、信長軍に幾度となく貢献しています。
家康は信長の理不尽とも思える要求にもこたえながら、信長の天下取りを支えました。
全ては領国を守るために・・・!!

全く違う道を歩んできた二人・・・

1582年本能寺の変勃発!!

天下統一を前に織田信長が命を落としました。
この事態に、二人はそれぞれの想いで動いていきます。
秀吉は明智光秀を討ち、柴田勝家を倒し、織田家中での存在感をゆるぎないものに・・・!!
信長の次男・織田信雄を利用し、信長の跡目争いに参加。

家康はあくまでも同盟者として中立を守ります。
家康は目線を東へ・・・甲斐・信濃を手中に収めていきます。
しかし、秀吉の勢いには及びませんでした。

秀吉の大坂城築城・・・それは天下取りを狙うという事・・・。
織田家の当主・信勝の利用価値が無くなっていきます。
秀吉は、信勝を制圧しようとしていきます。。。
そこで、家康が立ち上がります。
同盟者として信勝を助ける!!
この時、秀吉の所領22か国に対し、家康の所領5か国!!
国力の差は歴然としていました。

家康にあったのは、”織田家を守る”という大義名分のみ!!
1584年3月8日、信雄と合流すべく、家康は伊勢長島城へ出兵!!
すると・・・翌3月9日秀吉出陣命令!!
秀吉VS家康!!小牧・長久手の戦いが始まろうとしていました。

1584年3月・・・小牧・長久手の戦い!!
兵力だけで言えば秀吉の圧倒的優勢に変わりはありません。
そんな家康の戦略とは・・・??

外交戦略・・・
家康は戦端が始まる前に、全国に書状を出し、協力を求めます。
目を付けたのが中国の毛利と四国の長曾我部。。。
しかし、その狙いは、秀吉によって阻まれます。
既に毛利を仲間にしていました。
秀吉は毛利から来ていた人質を無事に返したことで味方としたのです。
人たらしの天才!!秀吉!!

家康の思惑は外れ、味方となったのは長曾我部のみ・・・
しかし、いくつかの勢力は家康につき・・・
全国の勢力が秀吉派と家康派に分かれ・・・緊張関係が始まりました。

秀吉は近江・坂本城へ・・・家康は清須城へ・・・
戦う地は伊勢・・・??

秀吉の調略・・・秀吉は、家康・信雄方の池田恒興・森良可を調略し・・・二人は犬山城を占拠!!
秀吉は、池田恒興に、家康に勝てばその家康の領地を与えると約束していました。
このピンチに家康は・・・??
逆転の一手!!急遽、清州を出発し、犬山城へ進軍!!
それは、敵よりも早く小牧山城を占拠するために・・・!!
小牧山城は、織田信長が築いた城で、近世城郭のルーツと言われています。

小牧山城を押さえたことで、家康軍は、犬山城から出てきた秀吉軍を食い止めることに成功!!
その巧みな陣取りを秀吉は重く受け止めていました。
「あの山を家康に取られては、味方の勝利は心もとない。」by秀吉

秀吉は、自ら前線へ・・・!!
兵力圧倒!!
3月28日、大軍をもって着陣!!その数10万!!
一方、家康は1万7000!!

家康は、秀吉が到着するまでの数日間で小牧山城の改修を敢行!!
秀吉の想像を上回るものに仕上げていきます。
巨大な土塁で小牧山城を囲う家康!!
秀吉軍の攻撃を予想したものでした。
東側に4つの砦を築き、それによって約4キロの防御線を築きます。
小牧山城の家康に降参の文字はありませんでした。

完全な膠着状態に・・・!!
状況は熾烈な頭脳戦へ・・・!!
持久策??積極策・・・??

秀吉は兵力で圧倒する方法を首尾一貫させて・・・さらに増兵をしていました。
しかし・・・10万もの兵糧を用意できるのか・・・??
九鬼水軍も用意し、兵力を増す秀吉!!

その頃家康は・・・。
堅固な要塞を確保すれば勝てる・・・??
寄せ集めの秀吉軍、長期戦になれば、織田家の武将たちが内部崩壊するかも・・・??
しかし・・・調略に成功していれば多方面から攻撃されるかも??

それならば、兵の質はこちらの方が上!!
敵が増える前に各個撃破していけば何とかなる・・・??
こちらには三河武士に加え、武田の遺臣たちがいる!!

どうする・・・??

両軍が膠着状態で半年・・・決断の瞬間が迫っていました。
秀吉が積極策に出ます!!
難攻不落の小牧山城から、家康の領国・三河への直接攻撃に変えたのです。
それは、家康を城の外へおびき寄せる陽動作戦でした。
家康の退路を完全に断つ!!
1584年4月6日秀吉、別動隊2万5000を三河へ派兵!!
その2日後には家康を監視!!
そして4月9日、長久手まで進軍し、家康方の城へ攻撃!!

秀吉の詰めの一手がさされたのでした。。。
しかし、ここで予想外のことが・・・別動隊に襲い掛かる軍勢が・・・!!
それは、小牧山城にいるはずの家康軍でした。
電光石火のごとく、長久手の敵勢に攻め込んでいきます。

小牧山城から20キロのところに突然現れた家康軍、大将自らの襲来!!
兵たちは慌てふためき・・・森長可討死、池田恒興討死・・・秀吉軍は敗走してしまいました。

家康軍の大勝利!!

完ぺきだった秀吉の作戦をどうやって破ったのでしょうか?

家康は陽動作戦の情報を掴んでおり、小牧山城を離れ・・・それは、秀吉の別動隊と同じ日でした。
密かに秀吉勢に近づいて攻撃!!
秀吉のお株を奪う電撃戦でした。

想定外の奇襲・・・情報による勝利でした。

何もかもが後手に回った秀吉。。。
家康はこの勝利を最大限に利用し、形勢逆転を図ります。
自らの勝利を各地に知らしめ、秀吉を追いつめようとします。
一方秀吉は、戦略の立て直しを求められたのでした。
確実に家康を追いつめる方法を・・・!!


と、続くのでした。




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感想(18件)



戦国の天才・破壊者・第六天魔王・革命児・・・一般に、広く流布された信長のイメージ・・・それは、信長の真の姿だったのでしょうか?
群雄割拠ひしめく戦国にあって、天下統一のもと、武力で日本を統一しようとしました。
しかし・・・従来の姿を見直さなければならない・・・??
”天下布武”の本当の意味とは・・・??

熊本県熊本市2014年に新発見の資料が公開されました。
発見された上洛に関する書状によると・・・
「将軍上洛の共として織田信長が参陣する・・・」
永禄11年に足利義昭を奉じて信長は上洛します。
信長は、自らの野望のために、傀儡としての将軍を担いで京に上ったとされてきていました。
発見されたのはその時の書状ですが・・・史実の上洛の2年前となっていました。

日本各地で群雄割拠した戦国時代・・・京で始まった戦いは、日本全土に広がっていました。
有力大名が力をつける一方で、室町幕府は弱体化して行っていました。

将軍は戦果を逃れるために都を離れることが多かったのですが・・・
当時、将軍が暗殺されたことによって、将軍職は空位となっていました。
そんな中、将軍候補に名乗りを上げたのが足利義昭。
しかし、反対勢力のために、各地を転々としていました。
流浪先から各地の大名に上洛を要請して・・・機会をうかがっていたのです。
義昭の上洛要請は・・・越後の上杉・甲斐の武田・・・有力大名はもとより、遠く薩摩の島津にまで上洛要請をしていました。
果たして大名側にメリットはあったのでしょうか?

軍事力、武力を持っていなかったであろう足利義昭・・・。
しかし、権威はあったようです。

将軍の権威は、戦国時代もあったと考えられます。

①栄典授与の権限
②大名たちの紛争の調停
③偏諱(将軍の名の一字をもらう)
武田信玄晴信の晴、上杉謙信輝虎の輝は、将軍の名の一字をもらっています。

義昭を奉じて将軍に就かせることができれば、権勢をふるうことができる!!
戦の時代であればあるほど、将軍の利用価値、権威の必要性が高くなってくるのです。

将軍の要請の手紙が届いたのは、永禄8年10月ごろに信長の元へ。。。
尾張の守護代の家臣から成り上がった織田家は、出自が低い・・・
大名としての正当性を得る絶好の機会でした。
信長は将軍に対して敬意をはらっていたようで・・・
衰退した室町幕府の再興を・・・室町幕府の秩序を再構築するための上洛だったのかもしれません。
一有力大名としてそれを支えていこうと考えていました。

しかし・・・上洛するにはかなり難しい・・・

①領国経営の安定が最優先
②都に兵を常駐させる必要がある=経済力も必要

永禄九年の書状の頃は・・・
桶狭間の戦いに勝利したものの、隣国美濃との戦いに手を焼いていました。
上洛など出来る余裕はなかったのです。

信長の居城・小牧山城は、美濃との戦いをにらんだ砦と思われてきました。
が・・・ここに信長が上洛を決意した・・・最新式の巨大な石垣が発見されたのです。
石垣など・・・最新式の技術は畿内にありました。
つまり、信長は、畿内の色んな技術・情報を押さえ・・・
そして・・・最新の技術を築くことのできるノウハウを持っていたのです。

城の南側に城下町が・・・当時、戦国大名の軍団を成していたのは農民たちでしたが・・・
信長は・・・つまり、兵農分離・・・専業の武士団を作って、城下町に住まわせていたのです。
農繁期、農閑期に関わらず、いつでも遠征できる軍団を作り上げたのです。
これは、中世から近世への大きな変革でした。
ここに、京都を目指していた意図があると言えます。

尾張の一大名でありながら、上洛の用意を着々とする信長。。。
しかし、事態は信長の思惑通りには行きませんでした。
直前に・・・近江・六角氏が反旗を翻します。
信長は行く手を阻まれ、上洛を断念しなければなりませんでした。
この上洛計画は幻に終わったのです。
そして・・・上洛を果たすのは、その2年後でした。

小牧山城を足掛かりに宿敵・美濃を攻め・・・永禄10年に美濃を平定します。
小牧山城から岐阜城に居城を移した信長は・・・”天下布武”という印を使いだしました。
日本で武力統一をしようという野望をもったという意味に使われてきたとされていましたが・・・
この天下布武・・・
ルイス・フロイスの書簡によると・・・
日本全国の中心である五畿内の主は「天下」と呼ばれ、「君主」を意味するとあります。
五畿内とは・・・京の周りの山城・大和・河内・摂津・和泉の事・・・。
天下の範囲はこの五つの事だったのです。
つまり、天下布武=全国を征服するという意味ではなく・・・
将軍の権威の及ぶ範囲の事で、”将軍の復権”を目指していたのです。

岐阜城でも足利将軍に憧れているという発見がありました。
大規模な庭園が発見され・・・その造園は、足利将軍の庭園様式を踏襲していると言えます。

革新的なイメージの強い信長は・・・伝統や文化を重んじていたようにも思えます。
幻の上洛計画の後も、義昭の上洛野望は続きます。
が・・・将軍候補として義昭の従兄弟・義栄が擁立されます。
もし・・・先に将軍になってしまわれたら・・・と、信長に上洛要請を働きかけます。

「これからは、織田信長をひたすら頼りにしたい。」

信長は、大きな決断に迫られていました。
2年前に失敗した上洛を成功させることができるのか・・・??

そこには、軍事力・経済力・外交力の3つの条件がありました。
美濃を手に入れて軍事力は大きく飛躍、兵農分離によって都に兵を常駐できる、津島湊・熱田湊の流通を支配、浅井・徳川とも同盟関係を結ぶ・・・
上洛の条件は整いつつありました。
上洛を阻む敵は・・・六角に三好・・・武田・上杉などの潜在的な敵勢力にも・・・

永禄11年9月26日、4万の大軍勢で足利義昭を奉じて信長は上洛を果たします。
成り上がり大名の上洛にアタフタする都・・・
しかし、都の人の心配をよそに、信長軍の規律は厳しく都はすぐに平静を取り戻しました。
将軍の軍隊としての矜持を観てとることができます。
義昭は将軍に就任・・・。

一方その立役者となった信長の名は、畿内一円に広まります。
周辺の武将たちは馳せ参じて忠誠を誓ったと言います。
それでも従わなかったものは、義昭の攘夷を大義名分として信長が平定・・・
遂に、五畿内の天下布武を成し遂げたのです。

義昭は・・・信長を慕い、副将軍や幕府高位を与えようとします。
しかし、上洛から2年・・・越前の朝倉・浅井・延暦寺・六角・三好・松永・武田・一向宗・・・次々に反旗を翻したのです。
信長は、室町幕府の再興・天下静謐を掲げ、戦い・・・支配地を拡張していきます。
義昭も・・・信長の勢いに嫉妬し、恐れ始めます。

二人の亀裂は・・・??
信長が義昭に送った十七条の意見書です。
義昭の怠慢をまとめ、諌めたものです。
忠勤の部下を大切にせよ・・・えこひいきがあってはならない・・・悪しき御所と陰口をたたかれている義昭に、公明正大を求めたのです。

そして・・・遂に元亀4年3月・・・義昭が挙兵・・・しかし、圧倒的な信長の前に義昭になすすべなし・・・。
元亀4年7月・・・義昭追放。
ここに室町幕府は崩壊。。。
義昭の命を奪わなかったのは、奪ったことにより謀反人となることを恐れたためとも言われています。
以降・・・天皇の権威によらない新しい天下を目指していくのです。

義昭は・・・各地の有力大名に、信長に対する挙兵を要請し続けます。
朝倉・浅井・武田を滅ぼした信長は・・・毛利・上杉・・・と、戦いを挑んでいきます。
信長の支配領域は、急激に膨れ上がっていきました。
しかし・・・天正10年6月2日・・・本能寺の変・・・
信長は、非業の最期を遂げることになるのです。
その後、天下統一は、豊臣秀吉によって実現されました。

信長の天下布武・・・真意はどこにあったのでしょうか・・・??

天下人・・・周りの人が認めた瞬間に、出来上がった権力・・・何の官職もない者が上に立てる権力・・・
今の秩序の中に生き残りの道を探し、既存の概念を突き抜けてしまったのが信長なのかもしれません。

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