日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:岩倉具視

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副題そのまんまの吉之助が風雲急を告げる京へと向かいますよ~~!!
やっとこさの幕末です
はてさて・・・どうなるんでしょうか??
それにしても、皆さんお下品で困ります。

don

ポスター新しくなってますよ~~!!
って・・・ゲッ!!
愛加那、まだ出てくんのか!?
これから風雲急を告げて・・・って、もう告げてずいぶん経ってるけど・・・西南戦争まで私のイメージとしては血生臭い、埃臭いドラマになりそうなんですけど・・・
愛加那・・・もうお腹いっぱいだよ・・・

徳之島、沖永良部島に流されて1年半・・・吉之助は薩摩に戻ってきました。
奄美大島を超えると、5年の島暮らしでした。




呼び戻してくれたのはいいとして、そんな・・・匿って、藩主に背いて、それでも死罪でなく遠島で・・・またもや復活するという・・・この吉之助のどこが素晴らしいのかわかりません。

そんな過大評価をしてくれているのは一蔵です。
ちょっと映った小松帯刀・・・この小松が一番薩長同盟で働いたというのに・・・どうして薩摩にいるんだ・・・??


ああ・・・登場場面で興ざめです。

勝さんも、龍馬も、慶喜も、一蔵も、みんなみんな遊郭通いに勤しんで・・・どうして遊郭でないと話が始まらないのか・・・??

本当に嫌気がさしてしまいます。
もちろん、薩長も、新選組も派手に遊んでましたよ・・・。
でもね、そこは、田舎モンが都会に出てきて羽目を外しているのはもちろんですが、そこには毎日命を張って生きているから、いつ死ぬかもわからないからという緊張感の中で、「死んでも大義を全うする!!」その勢いで、遊んでいると思いたいわけです。こっちとしては・・・。

こんな生ぬるい幕末で・・・命をかけたジリジリとするやり取りもないまま、ただ遊郭だけがクローズアップされて・・・みんな何をしているのか??幕末の志士たちは!!って、腹立たしい限りです。


おっと・・・話はそれてしまいましたが、西郷家はお金もなくてもうボロボロです。
吉之助が遊郭で遊んでいなければ家は売らずに済んだかもしれない・・・
藩主に・・・じゃなかった国父に刃向かわなければ、こんなに貧乏じゃなかったかもしれない・・・
何もかも犠牲にしてまで、この吉之助になんの大義があるのか!?本当に、何をしているのか??
この西郷さんでは誰も幸せにできませんよね・・・

薩摩の家に帰ってきた吉之助&みんな(一蔵除く)は、またもや国父の悪口を言うという・・・ちっちゃな男たちです。
おまけに、七卿落ちをさらっと解説・・・ほんと、なにがなんだかわかりません。

ここで・・・吉之助の大義は、みんなが腹いっぱいご飯を食べられることだと判明しました。
ただなあ・・・この吉之助、目の前の人がお腹いっぱいになったらいいみたいだから・・・
そんなの、西郷さんでなくてもいいんじゃないの??

京に向かう途中、これまた糸に遭遇!!
嫌だよ・・・嫌な予感しかしないよ・・・
なんか想いながら西郷を見送る糸ですが・・・結婚してんだろ??やめとけよ!!そういうの!!
女性の質を落とすんだよ~~~!!

いきなり参与会議です。
何でこうなったのかもわからないので、きっと自分で調べろってことなんでしょうね。
私はけっこう歴史を知っているつもりですが、あやふやな部分を・・・と、このドラマを見た後、史実はどんなだったか確認するようになっちゃいましたよ。
そんな私に旦那は言います。
「これが史実だから~~~!!」と。

そして相変らずの下品な会議が始まりました。
ここにいる人たちは、ちゃんとした教育を受けた人たちです。
悪口の言い合いは止めてくれよ・・・
これ以上、久光を侮辱するのは止めてください・・・。
これ以上、慶喜を侮辱するのも止めてください・・・。
中身の全くない会議でした。

鍵屋では、またもやお虎のコントが始まりました。
ビデオとばそ・・・。
と飛ばしたら・・・一蔵が畳回しをしていました。
う~ん・・・畳回しも、この時やったんじゃない・・・っていうか、こんな酒の席での芸じゃないんだよ・・・ホントは・・・
薩長の間で雰囲気が悪く、抜刀・・・??みたいになったのを雰囲気をかえようとしてやったんですよ・・・実は。
もう・・・やめてくれ・・・。

一蔵からいろんなことを教えてもらう吉之助ですが・・・どうするんでしょう?
で・・・ここで、一蔵が、西郷がすごい男だと京中に噂が広がっているので、助けてくれみたいなことを言って・・・
吉之助が「わかった・・・」って言うんです。
その自信はどこからくるんでしょう?5年も表舞台から遠ざかっていたというのに・・・??
おかしいでしょ??

と思っていたら、ふきがお芳として登場!!
正室は天皇家の関係、側室は旗本の娘なのでは・・・??
慶喜の側室・・・って、薩摩の農民の子が側室には無理なんじゃないの??
妾のひとりでしょ??って思ってしまう。
ここらへんの現実感のなさに、興ざめ感がたっぷりです。
もし、お芳が従来の江戸の町火消し・新門辰五郎の娘だったら、江戸城無血開城の時に面白い題材になったはずなのに・・・。
なんでだ・・・。
幕末なんて、ただ、歴史をおってくれるだけでも、面白い作品になるだろうに・・・

久光に謁見する吉之助・・・。
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殺さずに生かしてくれていたのは、久光の懐の深さによるもの&西郷の必要性を久光が知っていたからだと思うんです。
この謁見の際、このキセルには久光の歯型が残ったといいます。
つまり、このドラマのように苛立たしさを爆発させたのではなく、苦虫を嚙み潰して・・・一生懸命我慢して西郷を許す久光だと思うんですよね・・・。
ほんと、雑な久光だわよ・・・

そして、一橋慶喜に会いに来た吉之助ですが・・・門前払いです。
お・・・ここで、乞食に扮した桂小五郎も登場しているみたい・・・。

「忘れられたのかも・・・」と言う吉之助に・・・鍵屋に女性が・・・
「うちという者がありながら・・・」なんて、やきもちを焼くお虎ももう、辟易です。
その女性は、フキ・・・ではなくお芳でした。

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ああ・・・”うちの人”って言うな~~~!!
側室って言ってるなら!!
妾だったらまだ許せたけどな~~~!!
嫌だ嫌だ・・・もう、ほんと、こんな事に割く時間があったら、ややこしい幕末の他藩の動向を、説明でも図説付きで説明してほしいわ!!

でもって、会うのはまたもや遊郭かい!!

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「忘れたのか、俺はそんな名じゃねえよ・・・」
「ヒー様・・・」
「変わらんな、牛男!!」

何じゃ・・・
30年以上前の遠山の金さんを思い出したわ・・・
お白州で華麗に、気風良く桜吹雪を見せた後に言うじゃない。
「おいおい、俺は遊び人の金さんだよ。」って。
あれはあれで、フィクションで爽快なんだけども・・・こちらはどうもなあ・・・。

何がしたいのか、全く解らんよ・・・
おまけに、政治的な話をしてるんだろうけど、今まで全く政治の話をすっ飛ばして来たので理解不能。
「民の暮らしを守ること」が一番大事な吉之助なんだそうです。
斉彬に似てきたのでは?と、ちょっと褒める慶喜で・・・久光に会ってやろうと言い出しました。

斉彬に似てきたから・・・それがいいのか??
似てきた??それは・・・挙国一致はもともと刷り込まれているから、もともと信者なんだけど・・・とも思う。

と、吉之助の頑張りで、慶喜と久光が合うこととなりました。
が・・・久光が薩摩に帰るとか言い出しました。
??子供か・・・!?
ほんと、止めてくれよ・・・
慶喜も久光も、ただの拗らせ中学生じゃないの・・・二人とも上に立つ人間じゃないよね・・・こんなの。
幕末維新は、上のものから下のものまでみんな志があって・・・
維新後は、農民まで憲法を考えたという国です。
上に立つ人間が、こんなアホでいいのか・・・??と思ってします。

吉之助に土下座されて喜ぶ久光もまた然りだよ・・・
結局、吉之助が薩摩代表(軍賦役兼諸藩応接係)として頑張れるのも、久光あってのことなんだから、ほんと、そこんとこ理解してほしいんですよね・・・。

慶喜の側近が暗殺されました。
自分の代わりに殺されたのかと・・・
「下手人などどうでもいい・・・!!」by慶喜
どうやったら、こんなセリフが出てくるのか・・・器の小ささを暴露したいのか・・・。
「やりやがったな・・・」by慶喜
なんて、はしたない言葉を・・・どっかの8933の殴り込みみたいじゃん・・・

そして、あれだけ会うことを渋っていたのに・・・
「謝りたい・・・国父殿に・・・」と、吉之助に言って、久光に対し手のひらを返したように豹変する慶喜・・・気持ち悪いわ!!
と思いつつ、この表現も、表面的で浅はかだ・・・
もっと国を憂いて手を結んでほしいのよね・・・

ほんと、みんな下品で器の小っちゃい男!!

で・・・この頃、和宮が降嫁するとか・・・いろいろあるのに・・・あんなにどうでもいいシーンで篤姫をたっぷりだしといて、今だせや~~!!


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東京が首都になったのは150年前・・・京都から都が移されました。
しかし、東京遷都は、正式には宣言されていません。
それどころか、「首都は東京」と定めた法律もありません。
その理由は明治の初めにありました。
徳川幕府が終焉し、明治新政府が樹立・・・近代国家・日本を目指すために、浮かび上がったのが遷都でした。
この遷都を最初に提案したのが大久保利通でした。
1000年の都京都からどこに移すのか??

①大坂遷都
②江戸遷都
③京都・江戸両都

それぞれの案をめぐって、明治政府は紛糾し、瓦解の恐れもありました。
首都はどこに??遷都宣言はどうして行われなかったのか??

1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い・・・
薩摩長州を中心とする新政府軍と旧幕府軍が京都で激突しました。
結果は、新政府軍の圧勝・・・新政府が日本を代表する政権として確立します。
新しい政権は、天皇の元、総裁(有栖川宮熾仁親王)・議定(皇族・公家・藩主)・参与(公家・藩士)が政治を行うこととなりました。
国の忠臣は京都・・・誰もがそう思っていました。

しかし、1868年1月23日・・・
京都から都を移そうという建白書を出した男がいました。
大久保利通です。
大久保は新政府では参与に任命され、近代国家日本の確立に邁進していました。
大久保の建白書には、都を移す理由と場所が書いていました。
「全てを新ため一から始めようとする王政復古の現在において、実行されるべきは遷都である。」
都を移す先としては、他国との外交、富国強兵などの条件を考えると、地形的に大坂が適当である・・・
”大坂遷都建白書”でした。

さらに大久保は・・・
「天皇が外国の帝王のように従者を連れて国中を視察し、民を大切に育てる・・・それが君主として正しい道である。」と。
大久保が遷都する理由は、若き明治天皇の在り方にありました。
日本を諸外国に対抗する近代国家とするには、古くからの天皇を刷新する必要があるというのです。
それまで天皇は、御所を一歩も出ることなく育てられ、公家たちに囲まれ政治から遠ざけられていました。
大久保は、西洋のように民衆の前に姿を現して近代化を自ら指揮する君主を目指すべきだと考えていたのです。
そのためには、都を京都から、外交、富国強兵、軍備増強に適した大坂に移す遷都を行うべきだと考えていたのです。
大久保は大坂遷都で何を変えることができると怒っていたのでしょうか?
天皇を取り巻く環境を変えなければ、新しい時代は出来ない!!
従来の朝廷の場所で、新たな天皇像を出すのは非常に難しい・・・。
そのために、当時の朝廷、京都から一旦天皇を引き出す狙いがありました。
突然の提案に、公家たちからは猛反対を受けます。

公家たちからすれば、王政復古をすることができたのに、天皇が千年の都・京都から出ることは考えられませんでした。
しかし、更に大久保は続けます。
「未曽有の大変革に当たり、数百年来の因循の腐臭に凝り固まっている朝廷を改革しなければならない。」

この指摘に公家たちは激高!!
互いに主張を譲らず会議が難航!!
会議に出席した大名は・・・
「この問題がこれ以上こじれると、政府が瓦解する恐れすらある・・・!!」

3日後・・・1868年1月26日、大久保の大坂遷都案は廃案となりました。

2月15日・・・新政府軍は関東・東北の旧幕府勢力を制圧する為、東へと出発!!
東征軍です。
一方で大久保は、改革策を考えていました。
それは大坂行幸です。
とにかく、天皇を京都御所の外に連れ出そうというのです。
しかし、それは簡単なことではなく・・・
江戸時代、天皇が御所の外に出た行幸は、僅か3回・・・。
1回目は後水尾天皇の二条城行幸、2回目は孝明天皇の加茂社行幸、3回目は同じく孝明天皇の石清水八幡宮行幸です。
行幸の距離は、輿にのって30分~40分でした。
それを大坂まで・・・かつてない行幸を公家たちに認めさせるためには、大きな困難が予想されました。
そこで、行幸案を盟友・岩倉具視に相談します。
岩倉を通して、新政府に提案します。
岩倉は、意見書に認めます。
「天皇自ら江戸、および会津の賊軍を討てと仰せつけください。
 それにはまず、大坂の海に自ら臨まれ、軍艦の運用方法や鉄砲の作用などをご点検ください。
 そうすれば軍の士気も上がり、人心は一致協力いたします。」
遷都に結び付く表現は一切なく、保守派の公家たちも、大坂行幸を認めざるを得ませんでした。

1868年3月21日、明治天皇大坂行幸に出発。

天皇が京都の外に出るのは初めてのことで、総勢1655人の行列に囲まれ、煌びやかな輿にのって現れた天皇・・・
沿道は、それまで見たこともなかった天皇を一目見ようと賑わい、埋め尽くされます。
3月26日、天皇は、大阪湾・天保山で、大坂行幸最大の行事絵ある海軍展覧を行います。
21発の礼砲が撃たれたあと、天皇の目前を6隻の軍艦が行進・・・
天皇は大きな感銘を受けました。
それはまさに、大久保が狙っていたことでした。

4月9日、京都にいた大久保は大坂に赴きます・・・
天皇が新政府で努力している者たちに直接会って報告を聞きたいと大久保を呼んだのです。
この時、初めて天皇と顔を合わせた大久保・・・それまでは御簾越しだったのです。
天皇と直接対面できた大久保・・・この日の日記に記しています。

「天皇に謁見を許されたのは、一藩士の身分としては、実に未曽有のことであり、この幸せに涙を流すほかない。
 嬉しさのあまり、午後2時ごろから祝の酒を飲んでしまった。」

大久保は、将来の政治は我々藩士が身分を問わず、担わなければいけないと思っていました。
これを突破口にして、新しい政治に向けて一歩でも踏み出せる・・・
そういうものが、大坂で実現したという感激があったのです。

天皇が大坂に行幸して20日後の4月11日、遷都に関わる新しい事態が起こります。
江戸城明け渡しです。
260年間徳川幕府が政治の中心とした江戸が、無傷で新政府のものとなったのです。
江戸開城から1か月後・・・大久保は1通の書状を受け取ります。
差し出し人は旧幕臣の前島密・・・後に、明治政府で郵便制度を確立させた人物です。
認められていたのは江戸遷都案でした。
大坂より江戸にふさわしい理由も書かれていました。

大坂は水路が発達しているものの小型船中心。
今後、海外との貿易を考えると、海外の大型船の入ることのできる港が必要。
江戸なら横浜に港があり、諸外国と貿易が行われている。
さらに、横須賀には造船所が作られつつある。
大坂は都にならなくても商業の街として栄えるが、江戸は都にならなければ住民はチリヂリとなり、人口100万の世界有数の大都市が寂れ果ててしまう・・・。
ロシアの南下を考え、蝦夷地の開拓を考えると、江戸の方が大坂よりも有利である。と。

大久保は、この前島密の案に大きな可能性を感じます。
しかし、問題も・・・
当時の江戸は、旧幕臣などの反発勢力はたくさん存在していました。
東北では、奥羽諸藩が朝敵とされた会津藩などの赦免を求めて新政府と対立しつつありました。
当時の江戸は、天皇や政府関係者の安全、治安を確保できうる状態ではありませんでした。
しかし、新しく登場した江戸遷都案は、遷都が天皇の在り方だけでなく、日本の近代化を左右する重大な選択であることを意味していました。

1868年閏4月、新政府に新しく遷都案が提起されます。
佐賀藩の大木喬任、江藤新平による東西両都案です。
江戸を東の京として、東西二つの都を天皇が鉄道で行き来するという構想です。
江藤は、意見書を提出するにあたり、新政府軍の様子を詳しく調査していました。
新政府軍と敵軍が勝負を譲らぬまま月日がたち、上官も一兵卒も疲れ切っています。
東日本の人々の気持ちを落ち着かせるのは、天皇が江戸に下られるのに勝る策はありません。
関東・東北の争いを鎮め、人心を案じるには、江戸に天皇の居場所が必要・・・という意見でした。
そして、二都ならば、公家たちの理解を得やすい・・・

新しい日本の都はどこにあるべきか??

①大坂遷都
国を富ませるためには大坂が一番だが、道が狭く水路も細い・・・。
鳥羽伏見の戦いで大坂城は焼け、新政府が官庁を置く場所もない・・・。

②江戸遷都
江戸城は明け渡されたものの、江戸にはいまだ新政府に反感を買うものも多い・・・。
東北諸藩も、まだ新政府に従っていない。
これらを速やかに治めるためにも、天皇を江戸に移し、御威光を広めることが肝要・・・。
しかも、無血開城した江戸は、江戸城や大名屋敷が無傷のまま残っていて・・・このまま新政府の官庁として利用することができる。
しかし、幕府の残党を除いても、幕府のあった江戸を都とするのは、新しい日本を内外に印象付けることができるだろうか??
大坂でさえ反対した公家たちは、猛反対するだろう。

③京都・江戸両都
共に都と定める??
京都の公家たちも説得できる・・・しかし、鉄道建設の費用はどうやって捻出するのだ??
大坂への行幸ですら10万両という莫大な金が必要だった。
天皇の移動のたびに、政府機関も動くとなれば、どれだけの金が必要なのか・・・??

いずれの選択肢にも、大きな課題がありました。

1868年5月、大久保の決断を促す事件が起こります。
江戸で上野の山に籠っていた旧幕府勢力・彰義隊が一掃されたのです。
さらに、徳川宗家と家臣たちが静岡に移ることが決定!!
江戸は名実ともに、新政府のものとなりました。
すぐさま大久保は動き出しました。
6月に京都を出発し、江戸に向かいます。
6月27日、江戸城に、大久保利通、木戸孝允、大木喬任、大村益次郎と、遷都推進派が集まりました。
そして、御東幸 御決定・・・!!
大久保は、江戸への遷都を決断したのです。
しかし、あえて遷都という言葉は使わずに、東幸という言葉を使いました。
さらに、正式発表に当たっても細心の注意を図ります。
1868年7月17日、天皇の詔書が出されます。

江戸は、東日本最大の都市であり、天皇自ら統治すべきものである。
よって、これから江戸を東京と称する。

この日を境に、江戸は東京となりました。
しかし、大久保たちは東西同視として、京都を都のように表現します。
京都の公家たちの反対はもちろん、京都市民が立ち上がり公家も巻き込む・・・
更には神社、お寺・・・寺社勢力が強いので、旧来の力を持っている人たちと京都の市民たちが一体化して、反対運動があれば、大きい反対運動となるので、遷都という刺激的な言葉は使わずに、東京に天皇を連れ出す・・・ということにしたのです。

9月20日午前8時・・・明治天皇東京行幸出発!!

その道中、天皇とその一行は、行く先々で人々と積極的に触れ合いました。
名古屋近郊では稲刈りを天覧・・・農民たちには菊の紋章の入った饅頭300個が配られました。
天皇を新しい指導者として人々に印象付ける一大イベントとなりました。
京都を出発して23日後の10月13日、東京に到着!!
沿道には天皇を見ようと多くの人が集まりました。
豪華な衣、冠を身に着けた公家や政府要人・・・
煌びやかな大行列は、江戸の人々の心を捕らえました。
午後3時・・・天皇が江戸城に入ります。
迎えた大久保は・・・

「千年に一度の大きな出来事・・・この喜びは言葉にできない。」

この日江戸城は、東京城となり、京都御所と同じく皇居と定められました。
11月4日、天皇の名で東京市民に酒が振る舞われました。
人々は2日間にわたって仕事を休み、飲んで踊って祭り気分に酔いしれました。
東京市民に天皇を身近に感じてもらおうという大久保たちの仕掛けでした。

50日に渡って東京に滞在した天皇は、一旦京都に帰ります。
しかし、1869年3月28日、再び東京城にに入りました。
この時、最高機関の太政官も東京に移動。
以後天皇は、居を東京城に定め、事実上東京遷都となったのです。
明治政府が東京遷都を宣言することはついにありませんでした。

天皇が去った京都は公家や官吏、有力商人も東京に移り、さびれてしまいました。
しかし、明治半ばになると、千年の伝統をアピールして国際観光都市として発展を続けます。
大阪はその後、商業だけでなく工業都市としても栄え、大正時代には東洋のマンチェスターと言われ、一時は日本最大の人口を誇る都市となります。

首都となった東京は、近代化に伴って、天皇のいる政治の中心だけではなく、様々な産業が発達し、巨大都市への道をたどることとなるのです。

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敬天愛人・・・天を敬い人を愛する・・・この言葉を座右の銘とした一人の男がいます。
明治維新の立役者・西郷隆盛です。
西郷は名声を求めたり、私利私欲に走ることなく人々に尽くした人物として知られています。
しかし、実際の西郷にはかけ離れた一面がありました。
大河ドラマ「西郷どん」の主人公です。
明治維新の英雄・・・西郷隆盛。
戊辰戦争では、明治新政府軍を率いて戦いを勝利に導き、明治維新の中心人物として廃藩置県、地租改正、学制の整備を行い、近代日本の基礎を築きました。
勝海舟は、西郷をこう評しています。

「西郷に及ぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにある」by勝海舟

誰よりも肝が据わっていて、誠実な人物と評しているのです。

「国政を担うということは、天の道を行うことである
 いささかでも、私心を挟んではならない」by西郷隆盛

しかし、一方で、理想とは異なる一面も・・・
15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったにもかかわらず、あくまで武力による討伐を決行!!
そして、徳川打倒のために、味方に罪を着せて見殺しにしたことも・・・!!
目標実現のためには、手段を選ばない、無慈悲な革命家の一面があったのです。

東京・・・上野公園にある西郷隆盛像・・・浴衣姿で犬を散歩させています。
西郷の死から20年ほど後に作られたものです。
しかし、この像を目の前にした西郷の妻・糸は、「主人はこんな人ではなかった」といったと言います。
数ある肖像画の中で、本人と確認されているものは殆どありません。
暗殺防止のために、自分の姿を書かせなかったからだともいわれています。

takamori
本人ではないかと言われている肖像画が、近年大分県で発見されました。
風貌さえ謎に満ちた西郷隆盛・・・そんな西郷が座右の銘としたのが「敬天愛人」でした。

どうしてこの言葉を座右の銘としたのでしょうか?

明治維新から40年ほど前の1827年、西郷隆盛は薩摩藩の貧しい下級藩士のもとに生まれました。
7人兄弟の長男で、幼いころから文武両道に励みました。
しかし、12歳の時、喧嘩に巻き込まれた友達を助けようとして、右腕を斬られ・・・刀を握れなくなってしまいます。
以後、学問に専念することとなった西郷。
1844年、17歳で藩の仕事に就きます。
郡方書役助・・・年貢の取り立てでした。
そこで目にしたのは、重い年貢に苦しむ農民たちでした。
西郷は、貧しい人々に自分の給料を分け与えます。
そして、自らの身分をわきまえず、年貢の軽減を訴える書状を上層部に送りつけたのです。
これに目を止めたのが、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬でした。
斉彬は集成館事業を実施、製鐵、造船分野でいち早く西洋を取り入れた人物です。
そして、薩摩藩の富国強兵に成功、名君とよばれました。
斉彬は西郷を大抜擢し、秘書である庭方役にします。
若い西郷は、評判の良い人物ではなく、物事を率直に言う・・・生意気な角が立つ奴・・・
ただ、あの男を使いこなせるのは自分(斉彬)しかいない・・・!!

1853年、26歳の時に黒船来航。
徳川幕府は対応に追われます。
幕府からの呼び出しで、江戸に向かう斉彬に西郷も同行します。
江戸での暮らしで、各藩の実力者たちと親交を深め、交渉人としての腕を磨きます。
斉彬は西郷をこう評しました。
「真に役立つものは、西郷吉之助という者なり。
 我が家の貴重な宝でござる。」by斉彬
それから5年・・・斉彬が病で急死・・・。
西郷は主君と仰ぐ斉彬の後を追い、殉死する覚悟をします。
思いとどまらせたのは、親交のあった清水寺の僧侶・月照でした。
「お志を継いでこそ、斉彬さまはお喜びになるのでは?」by月照
しかし、1858年、31歳の時に、斉彬と対立していた井伊直弼の安政の大獄で、月照の命が狙われることに・・・!!
西郷は月照を連れ、薩摩に逃れることに・・・!!
しかし、幕府の追及の手は、月照をかばう西郷にも・・・!!
逃げきれないと、二人は真冬の海に身を投げました。
月照を殺して自分だけ生き残る・・・そういうことのできない繊細さが西郷にはありました。
結局、月照は絶命、西郷は一命をとりとめたものの・・・心中は複雑でした。

「私は、土に埋まる死者の骨のようなもので、耐え忍ぶことができないことを耐え忍んでおります。」by西郷隆盛

薩摩藩は、幕府から追われる西郷を奄美大島に匿うことに・・・!!
1858年、31歳の時でした。
西郷は、島の娘・愛加那と結婚、2人の子供も生まれます。
ところがその後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、幕府の権威が失墜!!
これを受け、1861年34歳で薩摩藩に呼び戻されます。
島から出ることのできなかった妻と子は、置いていくことしかできませんでした。
島津斉彬の死後、薩摩藩の実権は弟・久光の手にありました。
しかし、西郷は、久光を器ではないと考えていました。
そして・・・
「公は地ゴロで不用意」by西郷隆盛
と言いハチました。
地ゴロは、薩摩の言葉で田舎者のことです。
結局、命令を無視し、独自に動こうとした西郷は、久光の怒りを買い沖永良部島に流刑となります。
そして・・・野ざらしの牢に閉じ込められました。
本当なら、切腹を申し付けたかったものの、藩士たちが騒ぐので・・・
吹きっ晒しの島で・・・「死んで来い」という形にしたのです。
この島で2年を過ごした西郷は、禅を学び自分自身を見つめ直す中で・・・
天を敬い人を愛する・・・「敬天愛人」に達するのです。

敬天愛人の思想にたどり着いた西郷隆盛・・・
ところが、その理想とはかけ離れた行動に!!
周囲の反対を押し切り、徳川勢を徹底的に武力で攻めます。
西郷は何を考えていたのでしょうか?
西郷が沖永良部島に監禁されている間に・・・時代は大きく動いていました。
薩摩藩と長州藩は、それぞれ諸外国との戦いに敗れたことで、方針を転換!!
鎖国から開国へと大きく舵を取りました。
そして、旧態依然とした幕府には国を任せられないとして・・・討幕へ!!
1864年、37歳で、釈放され「討幕」を目指します。
薩摩藩のリーダー的存在となっていきます。
1866年、39歳で土佐出身の木戸孝允と坂本龍馬の仲立ちで薩長同盟を結びます。
1867年、40歳で、討幕の大義名分を得るために、朝廷に働きかけ「討幕の密勅」を得ます。
これによって、朝廷の命令によって幕府を倒すことになります。
しかし、この密勅を手にしたその日、予期せぬことが・・・
15代将軍・徳川慶喜が、大政奉還によって政権を返上。
倒そうとしていた幕府が無くなってしまいました。
これを知った西郷は・・・
「慶喜公は思いのほか策士でごわした。」といったと言います。
慶喜が生きている限り、徳川家の広大な領地、権力、軍事力、経済力はそのままになってしまう・・・。
西郷は、「慶喜を殺さなければ新しい時代は来ない」と、決意していました。

西郷は意外な行動に・・・
配下の相楽総三に江戸で争乱を起こすように命じます。
相楽は、放火や略奪、殺人を行います。
血を見なければ、大きな前進にならない・・・というのが西郷の考え方でした。
相楽たちは騒乱を起こしては、江戸の薩摩藩邸に逃げ込みます。
遂に徳川方は、薩摩藩邸を焼き討ちに・・・!!
西郷は、笑みを浮かべました・・・

「これで、開戦の口実ができもした!!」by西郷隆盛

1868年新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まります。
最初の戦いは、1月・・・鳥羽伏見の戦いです。
一進一退の攻防の中・・・新政府軍に錦の御旗が・・・!!
これを見た徳川慶喜は、自分が朝敵となったことを知り、戦意を喪失!!
江戸に逃れ、謹慎してしまいました。
鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は江戸へ!!
西郷は、その先鋒を相楽総三に任せます。
相楽は、行く先々で年貢を半分にするという年貢半減を触れ回ります。
民衆の支持を得るために!!
しかし、新政府は方針を転換!!
年貢半減をする余裕などどこにもなかったのです。
結局、新政府は、相楽らに偽官軍の汚名を着せ、処刑!!
相楽の死を知った妻は、あとを追って自殺しました。
相楽は西郷の言いつけを守って、気持ちを忖度して実績をあげた・・・なのに、謀反人、偽官軍として首を晒されたのです。
西郷の本質は軍人です。軍人である以上、謀略も行うし、戦いもします。

1868年3月14日、勝海舟と会談。
勝と面識があった西郷は、その見識に惚れこんでいました。そして、江戸城は無血開城!!

「いよいよ談判になると、西郷は俺の言うことを一々信用してくれ、その間に一点の疑念も挟まなかった。」by勝海舟

「いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけて御引き受けします。」by西郷隆盛

「西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことができ、また、徳川氏もその滅亡を免れたのだ。」by勝海舟

その後、会津若松城の戦い、五稜郭の戦いを経て戊辰戦争は終結・・・。
旧幕府軍勢力は一掃されました。
戊辰戦争に勝利したのち、1869年、42歳で薩摩に戻ります。
明治新政府に加わることなく・・・。

「新政府の発足に、どれだけ功績があったとしても、職務をこなす能力のない人に役職を褒美として与えるのは最もよくない。
 役職は、ふさわしい人材に授け、功績があったものには金でもって報いるべき。」by西郷隆盛

そんな西郷の想いとは裏腹に、明治新政府は腐敗を極めました。
薩摩、長州の出身者で占められ、中には権力を振りかざす者も・・・!!
更には、薩摩と長州の間で派閥争いが・・・
人々の間では「江戸時代の方がましだった。」という声も聞かれるように・・・。

そして、重税に苦しむ人々が、一斉に一揆をおこしました。
この危機を乗り越えるために、新政府は人望のある西郷を頼ります。
世間の人から「生きるカリスマ」と思われていた西郷・・・
政府に不満を持つ人も、「西郷さんが決めているのだから・・・」と、納得する重しの役割を求めたのです。

1871年、44歳の時、実情を知った西郷は明治新政府に参加。

「新しい時代の始まりにあるにもかかわらず、立派な家に住み、綺麗な服を着て、美しい女性をそばに置き、財産を殖やすことばかり考えているなら、明治維新という功績を成し遂げることはできない。」by西郷隆盛

西郷自身も、与えられた広すぎる屋敷を書生たちの寄宿舎にするなど、質素な生活をしました。

明治新政府の最大の課題は、中央集権体制を確立することでした。
そのためには、廃藩置県を行い、諸大名から人民と土地と奪うことが必要でした。
しかし、一歩間違えば、諸大名の反発を招き、またもや内乱になりかねない・・・。
西郷は、薩摩出身で幼いころからの盟友・大久保利通や長州の木戸孝允らと対策を協議!!
薩長を中心とした軍を組織し、反対勢力には武力行使で脅すことにしました。

「もし、暴動などが起これば、おいが全て鎮圧しもす。
 貴殿らは、御懸念なくやって下され。」by西郷隆盛

結局、反乱が起こることなく、西郷らは廃藩置県という一大改革を成功させたのです。

1871年、44歳の時に、大久保利通、木戸孝允らは、岩倉使節団として西洋の視察に出発!!
留守を預かることになった西郷・・・
「已む終えない場合を除いて、なるべく新規の改正を差し控える」と、約束させられていました。
ところが西郷は、次々と改革に乗り出します。
農民の土地所有を認めた地租改正、武士でなくても兵役に就くことを認めた徴兵令、全国に小学校を・・・と学制の発布、さらに太陽暦の採用、人身売買の禁止など、いずれも日本の近代化を推し進めるものでした。
西郷にはもう一つ取り組むべき課題がありました。
朝鮮との国交回復です。
江戸時代には交流があったものの、日本は西欧列強に屈服する形で開国したため、朝鮮との国交を断絶していました。
そして、国交回復交渉が進まない中・・・武力で屈服させようという征韓論が台頭してきました。
西郷は、武力止む無しとする板垣退助をたしなめていました。
「それは、早急にすぎもす。
 兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。」by西郷隆盛
リスクも覚悟で、朝鮮に交渉に赴くことになった西郷・・・
「立派な使節にはなれないかもしれませんが、”死ぬ”くらいのことは出来ると思います。」by西郷隆盛
しかし、この方針が決まった直後に、1873年に岩倉使節団が帰国。

「西郷が朝鮮に行けば殺され、戦争になるかもしれない。
 現在の政府の状態で、外国と戦争をする余力はないので、朝鮮への使節派遣は延期するのが妥当である。」

岩倉使節団の面々が反対したのは、西郷が功績を挙げるのを阻止するため??とも言われています。
留守政府との約束では、「勝手なことはしない」「進んだことはしない」となっていました。
約束違反??
おまけに、思った以上に良い政策をし、成功していることが主導権争いで弱点になる可能性がありました。

1873年、朝鮮訪問を断念し、46歳で明治新政府を去ります。

西郷の目指していた明治維新派、道義・モラルを重視した理想主義でした。
大久保ら政府首脳は、世界の現実を見据えたうえでの合理主義だったのです。

西郷が行った主な改革・近代化は・・・
廃藩置県・地租改正・学制(小学校の設置)・太陽暦の採用・徴兵令・裁判所の設置・農民の職業選択の自由・神社仏閣の女人禁制の廃止などでした。

明治新政府を去った西郷は、妻・イトと子供達と一緒に静かに余生を過ごすつもりでした。
しかし・・・!!
西郷が鹿児島に戻った翌年・・・
1874年47歳の時に、一緒に明治新政府を去った江藤新平が佐賀の乱をおこします。
明治維新によって行き場所を失った不平士族たちに後押しされたものでした。
反乱は鎮圧されたものの・・・不平士族たちへの対応が大きな課題となって浮かび上がってきました。
西郷は・・・「私学校」を設立!!
不平士族の受け皿にするとともに、欧米列強の脅威に備えるというものでした。
「若い氏族を国難に際しての兵士とすること」
2年後・・・九州を中心に、相次いで不平士族の反乱が起きます。
秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)・神風連の乱(熊本)・・・
こうした中、新政府は西郷の動きに警戒を強めていきます。
私学校に不平士族が次々と集まって、130もの分校ができていたからです。
この西郷の行動は・・・
「西郷が不平士族を集めて何か企んでいるのでは?」と、思われても仕方のない事でした。
1877年、50歳の時、政府は鹿児島出身の警察官を密偵として送り込みます。
不審に思った私学校の生徒たちは、次々に密偵を捕縛!!
西郷暗殺計画まであることを知ります。
そして、鹿児島にある陸軍の火薬庫から大量の武器弾薬を移送計画を突き止めます。
私学校の生徒たちは、その陸軍の火薬庫を襲撃!!
しかし、それを知った西郷は、「ちょ・・・しもた!!なつうこつを・・・!!」といったと言います。

実際に、火薬庫にあった武器は、旧式の銃と弾薬のみでした。
さらに、磯(地区の倉庫)の弾薬は、全て水に付けられていました。
私学校の生徒たちは、政府がしかけたわなにかかったのです。
西郷は、生徒たちを緊急招集!!
しかし、生徒たちは「挙兵すべきだ!!」と、訴えました。

「おいの体はおはんらに差し上げもす」by西郷隆盛

西南戦争が始まりました。
しかし、この時、西郷は不可解な行動に出ます。
海路や陸路で老境を目指すのではなく、熊本城を攻めたのです。
熊本城は、加藤清正が建てた難攻不落の城です。
しかも、西郷軍1万に対し、政府軍は3万7000!!勝ち目はありませんでした。
西郷としては、本意な戦争ではありませんでした。
勝った後、国を二分する形となるような戦争を起こしてしまったことに責任を感じ、最終的には自分が死ぬことで決着をつけようとしたのです。
結局、西郷軍は熊本城を攻略することが出来ずに鹿児島に帰り、城山に立て籠ります。
9月24日・・・西郷は山を下り、最後の総攻撃を決行!!
しかし、腹と股に銃弾を帯び・・・

「もう・・・ここらでよか・・・
 解釈を御頼みもす!!」by西郷隆盛

享年50歳でした。

西南戦争のあと、西郷には逆賊の汚名が着せられました。
しかし、西郷の人柄を愛した明治天皇の意網によって、1889年「大日本帝国憲法」発布に伴う恩赦で汚名を雪ぐことになりました。
そして、あの西郷隆盛像の建立が始まりました。
敬天愛人を座右の銘とし、明治を切り開いた西郷・・・

「”事”には上手下手が
 ”物”にはできる できないがあり
 そのことに心を動かされる人もいる
 しかし人は ”道”を行うものである
 ”道”を実践するのに上手下手はなく できない人もいない
 だからひたすら”道”を行い ”道”を楽しむのだ」by西郷隆盛

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レンズが撮らえた幕末明治の女たち

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かつてアメリカでBrilliant Womanと呼ばれた女性がいました。
彼女の生きた時代は文明開化に沸く明治初期。
陸蒸気にガス灯・・・急速に進む西洋化。
その象徴として作られたのが鹿鳴館でした。
毎夜行われる舞踏会・・・そこで鹿鳴館の華と言われたのが陸奥亮子でした。
夫は剃刀大臣と言われた陸奥宗光。
日本政府の悲願、不平等条約改正を成し遂げた第8代外務大臣です。

東京銀座七丁目・・・金春通り。
かつてこのあたりは弁柄格子の芸者屋が軒を連ねる花街でした。
幕末には武士達、明治維新後は新政府高官が御贔屓。
深川・柳橋をしのぐ勢いだったとか・・・
そんな花街の売れっ子芸者が亮子でした。
彼女が芸者となったのは貧しさゆえでした。

亮子は幕末の1856年11月、江戸に生まれました。
父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士・金田蔀、母・添機。
しかし、母が金田の正妻でなかったために、亮子たちは父と暮らせず、母、姉の三人で貧乏に暮らしていました。
昼は町家の娘に踊りを教え、夜は裁縫・・・
生活のために、母は必死で働きましたが、ついに倒れてしまいました。
亮子は江戸藩邸に住む父に懇願します。
しかし、亮子たちが父からの援助を受けることはありませんでした。
母の病は一向に回復せず・・・困窮していく一家三人・・・。
見かねた近所の人が亮子の勧めたのが、芸者屋への年季奉公でした。
9歳と幼い亮子でしたが、来る日も来る日も、掃除洗濯、炊事とこき使われ・・・その合間に、踊り、三味線、江戸小唄などを叩き込まれます。
芸事の師匠たちは気が荒く、怒られたり竹の棒でたたかれたり・・・
それでも母と姉のために、亮子は耐えました。
そして時代は明治に・・・1871年(明治4年)。。。
16歳となった亮子は芸者・小鈴としてお座敷デビューします。
小鈴の名は、その美貌と共に知れ渡り、瞬く間に銀座一の芸者に・・・。
しかし、花街に染まることはなく、身持ちが固く、男嫌いの意地を通しました。
そんな彼女がただ一人心を許した相手は・・・後に外務大臣となる陸奥宗光でした。
陸奥は、1844年、紀州藩士の六男として生まれますが、15歳で脱藩。
江戸に出ると幕臣・勝海舟の知遇を得て、坂本龍馬の海援隊に加わります。
貿易で手腕を発揮する陸奥を龍馬は高く買っていました。
「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけぜよ」by龍馬

明治になると・・・陸奥は、新政府の重鎮・岩倉具視の推挙の世って、外国事務局御用掛となります。
当時、日本は大きな外交問題を抱えていました。
幕末に結んだ欧米との不平等条約の改正に苦心していました。
治外法権の撤廃、関税自主権の獲得・・・それが、明治政府の悲願でした。
海援隊時代に貿易を担当して交渉になれていた陸奥は、政府の期待の星だったのです。
亮子と出会った頃、陸奥は神奈川県令となっていました。
上客のひとりとなった陸奥・・・男嫌いで身持ちの堅い亮子・・・
1872年5月二人は結婚。
この時、陸奥29歳、亮子17歳でした。

陸奥は亮子と出会う3か月前に前妻を亡くしていました。
3歳の広吉、2歳の潤吉という二人の子供がいました。
結婚の翌年、亮子は長女・清子を出産。
18歳にして3人の子供の母となったのです。
さらに陸奥の両親とも同居。
姑は気難しく、元芸者の亮子を気に入りません。
特に食事の作法、味付けにはうるさかったとか・・・。
ひたむきに尽くす亮子ですが・・・順調に出世していた陸奥が投獄されてしまいます。
1874年1月、新政府の状況に不満を抱いていた陸奥は、辞職し野に下ります。
薩長が幅を利かせている新政府では、紀州藩の陸奥は肩身の狭い思いをしていました。
日本人という観念だった陸奥・・・薩長が政治を独占しているので、政治が滞っていたのを厳しく批判しています。
1875年政府に戻りますが・・・元老院議官という有名無実なポストでした。
そんな中、西南戦争が勃発!!
鹿児島の私学校の生徒が、西郷隆盛を擁して挙兵!!
薩摩対官軍の1万人以上の死傷者を出す大激戦となりました。
この西南戦争に乗じて土佐の立志社も挙兵を企てているという噂が・・・立志社は、板垣退助を中心とする自由民権運動の政治結社です。
そこに、陸奥も通じていたのです。
立志社社員たちが次々と逮捕されている中、捜査の手は陸奥にも・・・!!
今日か、明日か・・・??ついに・・・
1878年6月10日、立志社の政府転覆計画に加担している疑いで逮捕されてしまいました。

夜を徹して厳しい尋問が行われていると・・・
陸奥は、結核を患っていたので、いつ、再発してもおかしくありませんでした。
尋問は夏になっても続きます。
陸奥が禁固5年の計を受け、山形監獄に送られた後も、亮子の心労は尽きません。
食事に毒を盛られるのではないか・・・??

そのため、陸奥は、監獄の食事にはほとんど手をつけませんでした。
山形の知人が差し入れるものを食べていたのです。
収監された翌年、もちと黒砂糖が振る舞われたときも、周りの囚人たちが食べて、毒がないのを確認してからようやく手を付けたと言います。
この時、亮子は子供三人と姑を抱え、東京で陸奥の友人宅に世話になっていました。
女子供では危ないということで、あらかじめ、陸奥が手配していたのです。
姑と子供たちの面倒を見ながら、日用品を送る日々・・・
しかし、山形は遠く、面会に行くことはできません。
結婚して6年・・・夫のいない生活をどう生きていくのか・・・??
それを支えたのは、夫からの獄中からの手紙でした。

亮子は知人の紹介で出会った後藤又兵衛に陸奥の世話を頼みます。
山形監獄の近くで旅館をしていた後藤は、食事や日用品の差し入れなど、陸奥の世話をしてくれました。

そんな中、監獄で火災が発生!!
亮子のもとに、陸奥が焼死したとの知らせが・・・!!
しかし、これはデマで・・・1879年11月、伊藤博文によって、安全な宮城監獄に移送されました。

1883年1月4日、特赦で放免される陸奥。8か月の刑期を残してのことでした。
帰ってきたとき・・・ひどくやつれ・・・しかし、僅か1年で亮子に家族を託し外遊に・・・!!
その理由は・・・
①自由民権運動に巻き込まれるのを避けるため
②欧米諸国の憲法や行政を学ぶため
2年5か月もの外遊・・・その間陸奥は、亮子に50通以上の手紙を認めています。
ついに夫が帰国!!
初代内閣総理大臣に就任していた伊藤博文の知遇を得て外務省に出仕。
それに伴い、亮子は華々しく社交界にデビューします。

その3年前に1883年、国賓や外交官を接待するために、日本初の迎賓館・鹿鳴館が完成。
外務卿である井上馨が日本政府の悲願である不平等条約改正に向けて国の威信をかけて作りました。

鹿鳴館で夜ごと開かれる舞踏会で、主役はきらびやかに着飾った女性たちでした。
当時のドレスは・・・バッスルスタイル。
見た目は優雅ですが、コルセットなどつけたことのない日本人にはとても窮屈なもので、動くたびに苦痛が伴いました。

欧米人に嘲笑されながらも、鹿鳴館の華と言われた女性たちもいました。
井上武子、戸田極子、陸奥亮子もその一人でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは・・・
「陸奥の二度目の夫人は、若くて大変な美人。
 涼しい目と素晴らしい眉だ。」
サトウは25年間、日本にいましたが、容姿を褒めた女性は亮子だけです。
しかし、舞踏会が条約改正につながることなどなく・・・鹿鳴館を舞台にした井上の外交は、西欧諸国の顔色を窺うだけの媚態外交と言われるまでに・・・
1887年井上馨外務大臣を辞任。
鹿鳴館も、国辱的建物として歴史の表舞台から消えていきました。

鹿鳴館外交失敗の代わりに、条約改正の大役を任せたのが陸奥宗光でした。
1888年5月20日、陸奥宗光は特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任することに・・・。
その使命は、日本の悲願である不平等条約の改正でした。
治外法権の撤廃と関税自主権の獲得でした。
亮子は長女の清子を伴い宗光について渡米!!
ワシントンに着くや否や、当時のクリーブランド大統領に謁見。
特命全権公使妻としての生活が否応なしに始まりました。
公使館では夜ごとパーティー。要人の訪問は、数か月で1200回!!
精力的に社交活動を行う亮子。
ドレスを着こなし、その気品ある姿は若々しく・・・娘とは姉妹のようだったと言います。
現地の新聞にも・・・陸奥夫人は、最も美しい日本人女性と書かれました。
亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれます。
しかし、亮子がアメリカでもてはやされたのは美しかっただけではなく・・・その教養からでした。
新聞を隅々まで読み、読書を欠かさず・・・
陸奥は、近いうちに自分が政治の要職に就くであろうと思っていました。
なので、亮子に社交界に出ても引けを取らないように、多くの教養を身に着けさせようと思っていたのです。
宗光の期待に応えようと、一生懸命勉強の日々を送っていたのです。
①完璧な英語を習得していた。
②日本の文化の奥深さを紹介した。
琴を披露し日本の魅力をアピール、日本の文学も英訳。。。
毎日2時間英訳をしていたそうです。
日本が文明後進国でない事・・・日本が外国と対等に渡り合えるということを証明しようとしていました。
日本公使館の内装も、和装にし、日本をアピールしていました。

まさにbrilliant!!
当時のアメリカの新聞でも絶賛され、社交界の華となっていきます。
陸奥は、条約改正に向けて、盛んに駆引きをしていました。
1888年、メキシコと対等な修好通商条約を締結。
日本にとって初めての対等の通商条約となりました。
帰国後・・・第二次伊藤博文内閣外務大臣となった陸奥は・・・
1894年イギリスとの条約改正に成功!!
これを突破口に、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス・・・と、条約改正を実現!!
不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げることとなります。

夫婦は道連れの旅人・・・亮子は夫を支え続けたのでした。
1895年6月、亮子38歳・・・
高熱を出して倒れた宗光の療養のために、大磯の別荘に移り住みます。
陸奥は、その翌年に外務大臣を辞任。
波乱にとんだ亮子の人生で初めての穏やかな時間でした。
夫と二人、ハワイでも療養・・・しかし、陸奥の体調が回復することはなく・・・
1897年8月24日、54歳で亡くなります。
そして陸奥の死からわずか3年、亮子は後を追うように亡くなります。
1900年8月15日、45歳という若さで下。

陸奥は遺書を残しています。
「お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、 多少の遺産を残すことができたのは、内助の功によるものが少なからず。」

そこには亮子に対する深い感謝と愛情があるように思います。
強く美しく前を向いて・・・愛する夫を支えたいという純粋な気持ちだったのでしょう。


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幕末明治 時代を変えた女たち

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写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断

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西郷隆盛、勝海舟、木戸孝允、坂本龍馬、大久保利通・・・数々の英雄が歴史を彩った明治維新。
この維新があのような形で進んでいった理由は・・・御三家筆頭・第14代尾張藩主・徳川慶勝でした。

1868年鳥羽伏見の戦いで、新政府軍が勝利するも、江戸では旧幕府軍が徹底抗戦を主張!!
日本は、京都・江戸の間で国を二分する内乱の危機に陥っていました。
この時、慶勝がどちらに組するかで戦いの行方は大きく変わろうとしていました。

西国ににらみを効かす御三家筆頭・尾張徳川家。
1849年分家から尾張藩主となります。
幼いころから英才の誉れ高く、尾張家臣や領民から嘱望されての就任でした。
藩主となった慶勝は、海外の最新情報を集めることに力を注ぎます。
清が開国したことで生じた混乱・西欧列強の強大な軍事力・・・
国防に関心のある外様大名(福岡藩主・黒田斉溥、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬)らと連携し、来るべき外圧に立ち向かう道を探ろうとしていました。

藩主となって4年後・・・1853年ペリー来航。
開国を要求します。
策をまとめられない幕府に対して、意見「御尋二付建白書」をを提出。
国の根幹を揺るがす外交問題だとして朝廷と連携するべきだと進言します。
これは、挙国一致体制だと思われます。
慶勝は、日本全体を考えていたのです。


1858年日米修好通商条約締結
井伊直弼の・・・朝廷の了承を得ないままの本格的な開国でした。
それを知った慶勝は、急遽江戸城へ・・・!!
朝廷の許可を得ない条約の締結は、幕府の危機を招きかねない!!と、井伊直弼を責め立てますが・・・
反対に、突然の登城を責められ、藩主の座を追われ、謹慎の身となってしまいました。

謹慎の失意を慰めたものは・・・西洋の最先端テクノロジー・・・写真でした。
自由な外出も許されない慶勝は、屋敷の中で撮影に没頭!!
隠居謹慎の中で、写真に真実を追求していったのです。

慶勝の謹慎中・・・幕府を取り巻く環境は変わっていきます。
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜!!
幕府は天皇家と婚姻関係を結ぶことで権威を回復しようと公武合体を図ろうとします。
慶勝が求めていた朝廷との協力体制です。
しかし・・・孝明天皇は婚姻を認める代わりに厳しい条件・・・破約攘夷を求めます。
外国との条約を破棄し、外国人を退去させるよう求めたのです。
困難な状況に追い込まれた幕府が頼みにしたのが慶勝でした。
1863年正月 慶勝上洛。
朝廷との折衝役として・・・政治の表舞台に復帰します。

1863年5月長州藩外国船砲撃
各藩が勝手に行動しないように・・・幕府主導の下の挙国一致をしようとします。
そして慶勝の弟たちも・・・
会津藩主・松平容保は京都守護職に任命され、京都市中の治安維持を任されます。
桑名藩主・松平定敬は京都守護職となり容保を支えます。

長州が外国船に発砲した翌年・・・
1864年容保配下の新選組が池田屋で長州藩士たちの過激派たちを襲撃!!
2864年7月禁門の変、会津藩排除を唱える長州藩が、藩兵2000余りで京都御所に侵入するのを撃退しました。
長州は朝敵とされ、幕府に追討命令が出されました。
10月第一次長州征討
幕府にとって、230年ぶりの大規模な軍事行動です。
薩摩藩など35の藩で征討軍が組織され、総司令官に選ばれたのが慶勝でした。
15万の兵を率いて長州へ向かう慶勝。
ところが慶勝は、長州藩が禁門の変の首謀者として3人の家老の首を差し出すと、それを受け入れ、武力行使することなく征討軍を解散してしまいました。
どうして戦おうとしなかったのか・・・??

「聴衆を征伐して、海内を疲弊し、醜夷の術中に陥り候」

慶勝は、西欧列強が日本に進出する隙を与えないために、内戦を回避しようとしたのです。
そして、慶勝は、征討に参加した大名たちの合議で長州の処分を決めようとしました。

「外様大名も、日本の行く末を考えている・・・!!」

しかし、それに強く反対したのは、弟の会津藩主・松平容保でした。

「彼の諸侯を京師に召集すとある事を、深く非とせられ」

容保は、諸大名の合議で決めれば、幕府主導の政治体制が崩れてしまうと危惧していました。
これからの日本の在り方について・・・容保たちと相容れなくなってきました。

1866年6月第二次長州征討
幕府は命令に従わない長州に対して二度目の征討を行いました。
しかし、薩摩と同盟を結んで最新鋭の武器を獲得していた長州軍を前に、幕府軍は敗戦を続けます。
これを機に、薩長軍の討幕の勢いは加速し、幕府はその存続を脅かされていきます。
1867年10月将軍慶喜は起死回生の一手・・・大政奉還を行います。
政権を朝廷に返し、政治体制を大名の合議制に・・・その中で、主導権を握ろうとしていた慶喜。。。
慶勝も、大政奉還に賛同しています。
大名の合議制の確立が、世の混乱を立て直す機会だ!!と、持論に沿うものだったのです。
慶勝の望んだ挙国一致の体制が出来上がろうと見えましたが・・・

大政奉還から2か月後の12月、王政復古の大号令!!
薩摩藩、長州藩、公家の岩倉具視らが、天皇を中心とした新政府の樹立を宣言します。
慶勝はその新政府の要職に・・・。
ところが、新政府の中に慶喜の名前はありませんでした。
このままでは挙国一致の構想から徳川家が外れてしまう・・・。
慶勝は、慶喜を新政府に入れるように強く求めます。
これに対し、岩倉たちの条件は・・・”辞官納地”・・・つまり、慶喜の官位、徳川領200万石を朝廷に返上せよというものでした。
この徳川宗家を無力化する仕打ちを慶喜に伝える苦しい役を負わされたのが慶勝でした。
慶喜との会談の場で・・・
「尾張全国を宗室に還納し、以てその不足を償はん」
慶勝は、尾張の領地を宗家に返すことで、慶喜を支えるというのです。
新政府の中で、宗家を生き残らせたいという精一杯の進言でしたが・・・
慶喜は、これを受け入れようとはしませんでした。
そして最悪の事態が・・・!!

新政府の徳川家に対する処遇に不満を抱いていた容保たちが動きます。
1868年1月3日鳥羽・伏見の戦い勃発!!
旧幕府軍VS新政府軍の戦いです。
戦いは、錦の御旗を掲げた新政府軍の圧勝に終わります。

慶喜、容保、定敬らは、負傷兵を残したまま江戸に逃走!!
朝廷は彼らを朝敵とし、追討令を出します。
追討令が出されたその日、慶勝は岩倉具視から過酷な選択を迫られます。
旧幕府につくのか??新政府につくのか・・・??

宗家と共に起死回生の策に打って出るのか?
弟たちを敵に回しても新政府に留まるのか・・・??

1868年1月8日慶勝は自ら岩倉具視に告げます。
「勤王の道」と。

新政府側に付くことを選んだのです。
その後の慶勝の行動は素早く・・・
尾張藩の旧幕府派を処分し、名古屋から江戸にかけての大名に使者を送って、新政府側につくように説得!!
慶勝の工作は、寺や神社にまで徹底的に行われました。
集めた誓約書は500近くに上りました。
皆が揺れていたこの時期・・・尾張ケガ勤王誘因活動をする・・・
大規模な戦争をするのではなく、戦争を回避しようとしているという意思表示・・・
幕府の人材を失うことなく、徳川を残す・・・そんな行動だったようです。
2月6日、京都を発った新政府軍は、慶勝の働きもあって大きな抵抗を受けることもなく、僅か1か月で江戸に到着!!
江戸城は無血開城!!
慶勝は新政府に貢献する一方で、容保、定敬を救おうと一生懸命でした。
江戸で一橋家の当主となっていた茂徳に嘆願に当たらせます。
しかし・・・弟たちが許されることはありませんでした。
容保は会津で新政府軍に徹底抗戦ののち力尽きて降伏。
定敬は旧幕府軍最後の砦・五稜郭まで転戦するものの結局投降・・・。
二人は死罪は免れるものの、蟄居謹慎の身となりました。
維新の争乱も落ち着きを見せた明治4年・・・慶勝は名古屋から東京に移り住みます。

新しい町でも慶勝は写真の撮影をしました。
戦火を免れたかつての江戸を・・・。
慶勝が東京に移り住んだ翌年、容保と定敬は謹慎を解かれ・・・慶勝の日記には容保や定敬が登場するようになってきました。


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1878年9月・・・慶勝は弟たちを銀座に集めます。
行先は写真館。
兄弟そろっての記念撮影を呼び掛けたのです。


幕末維新という時代の曲がり角をそれぞれの信念で生き抜いた兄弟たち・・・。
これが最初で最後の集合写真となったのでした。





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