日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:岩倉具視

レンズが撮らえた幕末明治の女たち

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かつてアメリカでBrilliant Womanと呼ばれた女性がいました。
彼女の生きた時代は文明開化に沸く明治初期。
陸蒸気にガス灯・・・急速に進む西洋化。
その象徴として作られたのが鹿鳴館でした。
毎夜行われる舞踏会・・・そこで鹿鳴館の華と言われたのが陸奥亮子でした。
夫は剃刀大臣と言われた陸奥宗光。
日本政府の悲願、不平等条約改正を成し遂げた第8代外務大臣です。

東京銀座七丁目・・・金春通り。
かつてこのあたりは弁柄格子の芸者屋が軒を連ねる花街でした。
幕末には武士達、明治維新後は新政府高官が御贔屓。
深川・柳橋をしのぐ勢いだったとか・・・
そんな花街の売れっ子芸者が亮子でした。
彼女が芸者となったのは貧しさゆえでした。

亮子は幕末の1856年11月、江戸に生まれました。
父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士・金田蔀、母・添機。
しかし、母が金田の正妻でなかったために、亮子たちは父と暮らせず、母、姉の三人で貧乏に暮らしていました。
昼は町家の娘に踊りを教え、夜は裁縫・・・
生活のために、母は必死で働きましたが、ついに倒れてしまいました。
亮子は江戸藩邸に住む父に懇願します。
しかし、亮子たちが父からの援助を受けることはありませんでした。
母の病は一向に回復せず・・・困窮していく一家三人・・・。
見かねた近所の人が亮子の勧めたのが、芸者屋への年季奉公でした。
9歳と幼い亮子でしたが、来る日も来る日も、掃除洗濯、炊事とこき使われ・・・その合間に、踊り、三味線、江戸小唄などを叩き込まれます。
芸事の師匠たちは気が荒く、怒られたり竹の棒でたたかれたり・・・
それでも母と姉のために、亮子は耐えました。
そして時代は明治に・・・1871年(明治4年)。。。
16歳となった亮子は芸者・小鈴としてお座敷デビューします。
小鈴の名は、その美貌と共に知れ渡り、瞬く間に銀座一の芸者に・・・。
しかし、花街に染まることはなく、身持ちが固く、男嫌いの意地を通しました。
そんな彼女がただ一人心を許した相手は・・・後に外務大臣となる陸奥宗光でした。
陸奥は、1844年、紀州藩士の六男として生まれますが、15歳で脱藩。
江戸に出ると幕臣・勝海舟の知遇を得て、坂本龍馬の海援隊に加わります。
貿易で手腕を発揮する陸奥を龍馬は高く買っていました。
「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけぜよ」by龍馬

明治になると・・・陸奥は、新政府の重鎮・岩倉具視の推挙の世って、外国事務局御用掛となります。
当時、日本は大きな外交問題を抱えていました。
幕末に結んだ欧米との不平等条約の改正に苦心していました。
治外法権の撤廃、関税自主権の獲得・・・それが、明治政府の悲願でした。
海援隊時代に貿易を担当して交渉になれていた陸奥は、政府の期待の星だったのです。
亮子と出会った頃、陸奥は神奈川県令となっていました。
上客のひとりとなった陸奥・・・男嫌いで身持ちの堅い亮子・・・
1872年5月二人は結婚。
この時、陸奥29歳、亮子17歳でした。

陸奥は亮子と出会う3か月前に前妻を亡くしていました。
3歳の広吉、2歳の潤吉という二人の子供がいました。
結婚の翌年、亮子は長女・清子を出産。
18歳にして3人の子供の母となったのです。
さらに陸奥の両親とも同居。
姑は気難しく、元芸者の亮子を気に入りません。
特に食事の作法、味付けにはうるさかったとか・・・。
ひたむきに尽くす亮子ですが・・・順調に出世していた陸奥が投獄されてしまいます。
1874年1月、新政府の状況に不満を抱いていた陸奥は、辞職し野に下ります。
薩長が幅を利かせている新政府では、紀州藩の陸奥は肩身の狭い思いをしていました。
日本人という観念だった陸奥・・・薩長が政治を独占しているので、政治が滞っていたのを厳しく批判しています。
1875年政府に戻りますが・・・元老院議官という有名無実なポストでした。
そんな中、西南戦争が勃発!!
鹿児島の私学校の生徒が、西郷隆盛を擁して挙兵!!
薩摩対官軍の1万人以上の死傷者を出す大激戦となりました。
この西南戦争に乗じて土佐の立志社も挙兵を企てているという噂が・・・立志社は、板垣退助を中心とする自由民権運動の政治結社です。
そこに、陸奥も通じていたのです。
立志社社員たちが次々と逮捕されている中、捜査の手は陸奥にも・・・!!
今日か、明日か・・・??ついに・・・
1878年6月10日、立志社の政府転覆計画に加担している疑いで逮捕されてしまいました。

夜を徹して厳しい尋問が行われていると・・・
陸奥は、結核を患っていたので、いつ、再発してもおかしくありませんでした。
尋問は夏になっても続きます。
陸奥が禁固5年の計を受け、山形監獄に送られた後も、亮子の心労は尽きません。
食事に毒を盛られるのではないか・・・??

そのため、陸奥は、監獄の食事にはほとんど手をつけませんでした。
山形の知人が差し入れるものを食べていたのです。
収監された翌年、もちと黒砂糖が振る舞われたときも、周りの囚人たちが食べて、毒がないのを確認してからようやく手を付けたと言います。
この時、亮子は子供三人と姑を抱え、東京で陸奥の友人宅に世話になっていました。
女子供では危ないということで、あらかじめ、陸奥が手配していたのです。
姑と子供たちの面倒を見ながら、日用品を送る日々・・・
しかし、山形は遠く、面会に行くことはできません。
結婚して6年・・・夫のいない生活をどう生きていくのか・・・??
それを支えたのは、夫からの獄中からの手紙でした。

亮子は知人の紹介で出会った後藤又兵衛に陸奥の世話を頼みます。
山形監獄の近くで旅館をしていた後藤は、食事や日用品の差し入れなど、陸奥の世話をしてくれました。

そんな中、監獄で火災が発生!!
亮子のもとに、陸奥が焼死したとの知らせが・・・!!
しかし、これはデマで・・・1879年11月、伊藤博文によって、安全な宮城監獄に移送されました。

1883年1月4日、特赦で放免される陸奥。8か月の刑期を残してのことでした。
帰ってきたとき・・・ひどくやつれ・・・しかし、僅か1年で亮子に家族を託し外遊に・・・!!
その理由は・・・
①自由民権運動に巻き込まれるのを避けるため
②欧米諸国の憲法や行政を学ぶため
2年5か月もの外遊・・・その間陸奥は、亮子に50通以上の手紙を認めています。
ついに夫が帰国!!
初代内閣総理大臣に就任していた伊藤博文の知遇を得て外務省に出仕。
それに伴い、亮子は華々しく社交界にデビューします。

その3年前に1883年、国賓や外交官を接待するために、日本初の迎賓館・鹿鳴館が完成。
外務卿である井上馨が日本政府の悲願である不平等条約改正に向けて国の威信をかけて作りました。

鹿鳴館で夜ごと開かれる舞踏会で、主役はきらびやかに着飾った女性たちでした。
当時のドレスは・・・バッスルスタイル。
見た目は優雅ですが、コルセットなどつけたことのない日本人にはとても窮屈なもので、動くたびに苦痛が伴いました。

欧米人に嘲笑されながらも、鹿鳴館の華と言われた女性たちもいました。
井上武子、戸田極子、陸奥亮子もその一人でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは・・・
「陸奥の二度目の夫人は、若くて大変な美人。
 涼しい目と素晴らしい眉だ。」
サトウは25年間、日本にいましたが、容姿を褒めた女性は亮子だけです。
しかし、舞踏会が条約改正につながることなどなく・・・鹿鳴館を舞台にした井上の外交は、西欧諸国の顔色を窺うだけの媚態外交と言われるまでに・・・
1887年井上馨外務大臣を辞任。
鹿鳴館も、国辱的建物として歴史の表舞台から消えていきました。

鹿鳴館外交失敗の代わりに、条約改正の大役を任せたのが陸奥宗光でした。
1888年5月20日、陸奥宗光は特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任することに・・・。
その使命は、日本の悲願である不平等条約の改正でした。
治外法権の撤廃と関税自主権の獲得でした。
亮子は長女の清子を伴い宗光について渡米!!
ワシントンに着くや否や、当時のクリーブランド大統領に謁見。
特命全権公使妻としての生活が否応なしに始まりました。
公使館では夜ごとパーティー。要人の訪問は、数か月で1200回!!
精力的に社交活動を行う亮子。
ドレスを着こなし、その気品ある姿は若々しく・・・娘とは姉妹のようだったと言います。
現地の新聞にも・・・陸奥夫人は、最も美しい日本人女性と書かれました。
亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれます。
しかし、亮子がアメリカでもてはやされたのは美しかっただけではなく・・・その教養からでした。
新聞を隅々まで読み、読書を欠かさず・・・
陸奥は、近いうちに自分が政治の要職に就くであろうと思っていました。
なので、亮子に社交界に出ても引けを取らないように、多くの教養を身に着けさせようと思っていたのです。
宗光の期待に応えようと、一生懸命勉強の日々を送っていたのです。
①完璧な英語を習得していた。
②日本の文化の奥深さを紹介した。
琴を披露し日本の魅力をアピール、日本の文学も英訳。。。
毎日2時間英訳をしていたそうです。
日本が文明後進国でない事・・・日本が外国と対等に渡り合えるということを証明しようとしていました。
日本公使館の内装も、和装にし、日本をアピールしていました。

まさにbrilliant!!
当時のアメリカの新聞でも絶賛され、社交界の華となっていきます。
陸奥は、条約改正に向けて、盛んに駆引きをしていました。
1888年、メキシコと対等な修好通商条約を締結。
日本にとって初めての対等の通商条約となりました。
帰国後・・・第二次伊藤博文内閣外務大臣となった陸奥は・・・
1894年イギリスとの条約改正に成功!!
これを突破口に、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス・・・と、条約改正を実現!!
不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げることとなります。

夫婦は道連れの旅人・・・亮子は夫を支え続けたのでした。
1895年6月、亮子38歳・・・
高熱を出して倒れた宗光の療養のために、大磯の別荘に移り住みます。
陸奥は、その翌年に外務大臣を辞任。
波乱にとんだ亮子の人生で初めての穏やかな時間でした。
夫と二人、ハワイでも療養・・・しかし、陸奥の体調が回復することはなく・・・
1897年8月24日、54歳で亡くなります。
そして陸奥の死からわずか3年、亮子は後を追うように亡くなります。
1900年8月15日、45歳という若さで下。

陸奥は遺書を残しています。
「お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、 多少の遺産を残すことができたのは、内助の功によるものが少なからず。」

そこには亮子に対する深い感謝と愛情があるように思います。
強く美しく前を向いて・・・愛する夫を支えたいという純粋な気持ちだったのでしょう。


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幕末明治 時代を変えた女たち

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写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断

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西郷隆盛、勝海舟、木戸孝允、坂本龍馬、大久保利通・・・数々の英雄が歴史を彩った明治維新。
この維新があのような形で進んでいった理由は・・・御三家筆頭・第14代尾張藩主・徳川慶勝でした。

1868年鳥羽伏見の戦いで、新政府軍が勝利するも、江戸では旧幕府軍が徹底抗戦を主張!!
日本は、京都・江戸の間で国を二分する内乱の危機に陥っていました。
この時、慶勝がどちらに組するかで戦いの行方は大きく変わろうとしていました。

西国ににらみを効かす御三家筆頭・尾張徳川家。
1849年分家から尾張藩主となります。
幼いころから英才の誉れ高く、尾張家臣や領民から嘱望されての就任でした。
藩主となった慶勝は、海外の最新情報を集めることに力を注ぎます。
清が開国したことで生じた混乱・西欧列強の強大な軍事力・・・
国防に関心のある外様大名(福岡藩主・黒田斉溥、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬)らと連携し、来るべき外圧に立ち向かう道を探ろうとしていました。

藩主となって4年後・・・1853年ペリー来航。
開国を要求します。
策をまとめられない幕府に対して、意見「御尋二付建白書」をを提出。
国の根幹を揺るがす外交問題だとして朝廷と連携するべきだと進言します。
これは、挙国一致体制だと思われます。
慶勝は、日本全体を考えていたのです。


1858年日米修好通商条約締結
井伊直弼の・・・朝廷の了承を得ないままの本格的な開国でした。
それを知った慶勝は、急遽江戸城へ・・・!!
朝廷の許可を得ない条約の締結は、幕府の危機を招きかねない!!と、井伊直弼を責め立てますが・・・
反対に、突然の登城を責められ、藩主の座を追われ、謹慎の身となってしまいました。

謹慎の失意を慰めたものは・・・西洋の最先端テクノロジー・・・写真でした。
自由な外出も許されない慶勝は、屋敷の中で撮影に没頭!!
隠居謹慎の中で、写真に真実を追求していったのです。

慶勝の謹慎中・・・幕府を取り巻く環境は変わっていきます。
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜!!
幕府は天皇家と婚姻関係を結ぶことで権威を回復しようと公武合体を図ろうとします。
慶勝が求めていた朝廷との協力体制です。
しかし・・・孝明天皇は婚姻を認める代わりに厳しい条件・・・破約攘夷を求めます。
外国との条約を破棄し、外国人を退去させるよう求めたのです。
困難な状況に追い込まれた幕府が頼みにしたのが慶勝でした。
1863年正月 慶勝上洛。
朝廷との折衝役として・・・政治の表舞台に復帰します。

1863年5月長州藩外国船砲撃
各藩が勝手に行動しないように・・・幕府主導の下の挙国一致をしようとします。
そして慶勝の弟たちも・・・
会津藩主・松平容保は京都守護職に任命され、京都市中の治安維持を任されます。
桑名藩主・松平定敬は京都守護職となり容保を支えます。

長州が外国船に発砲した翌年・・・
1864年容保配下の新選組が池田屋で長州藩士たちの過激派たちを襲撃!!
2864年7月禁門の変、会津藩排除を唱える長州藩が、藩兵2000余りで京都御所に侵入するのを撃退しました。
長州は朝敵とされ、幕府に追討命令が出されました。
10月第一次長州征討
幕府にとって、230年ぶりの大規模な軍事行動です。
薩摩藩など35の藩で征討軍が組織され、総司令官に選ばれたのが慶勝でした。
15万の兵を率いて長州へ向かう慶勝。
ところが慶勝は、長州藩が禁門の変の首謀者として3人の家老の首を差し出すと、それを受け入れ、武力行使することなく征討軍を解散してしまいました。
どうして戦おうとしなかったのか・・・??

「聴衆を征伐して、海内を疲弊し、醜夷の術中に陥り候」

慶勝は、西欧列強が日本に進出する隙を与えないために、内戦を回避しようとしたのです。
そして、慶勝は、征討に参加した大名たちの合議で長州の処分を決めようとしました。

「外様大名も、日本の行く末を考えている・・・!!」

しかし、それに強く反対したのは、弟の会津藩主・松平容保でした。

「彼の諸侯を京師に召集すとある事を、深く非とせられ」

容保は、諸大名の合議で決めれば、幕府主導の政治体制が崩れてしまうと危惧していました。
これからの日本の在り方について・・・容保たちと相容れなくなってきました。

1866年6月第二次長州征討
幕府は命令に従わない長州に対して二度目の征討を行いました。
しかし、薩摩と同盟を結んで最新鋭の武器を獲得していた長州軍を前に、幕府軍は敗戦を続けます。
これを機に、薩長軍の討幕の勢いは加速し、幕府はその存続を脅かされていきます。
1867年10月将軍慶喜は起死回生の一手・・・大政奉還を行います。
政権を朝廷に返し、政治体制を大名の合議制に・・・その中で、主導権を握ろうとしていた慶喜。。。
慶勝も、大政奉還に賛同しています。
大名の合議制の確立が、世の混乱を立て直す機会だ!!と、持論に沿うものだったのです。
慶勝の望んだ挙国一致の体制が出来上がろうと見えましたが・・・

大政奉還から2か月後の12月、王政復古の大号令!!
薩摩藩、長州藩、公家の岩倉具視らが、天皇を中心とした新政府の樹立を宣言します。
慶勝はその新政府の要職に・・・。
ところが、新政府の中に慶喜の名前はありませんでした。
このままでは挙国一致の構想から徳川家が外れてしまう・・・。
慶勝は、慶喜を新政府に入れるように強く求めます。
これに対し、岩倉たちの条件は・・・”辞官納地”・・・つまり、慶喜の官位、徳川領200万石を朝廷に返上せよというものでした。
この徳川宗家を無力化する仕打ちを慶喜に伝える苦しい役を負わされたのが慶勝でした。
慶喜との会談の場で・・・
「尾張全国を宗室に還納し、以てその不足を償はん」
慶勝は、尾張の領地を宗家に返すことで、慶喜を支えるというのです。
新政府の中で、宗家を生き残らせたいという精一杯の進言でしたが・・・
慶喜は、これを受け入れようとはしませんでした。
そして最悪の事態が・・・!!

新政府の徳川家に対する処遇に不満を抱いていた容保たちが動きます。
1868年1月3日鳥羽・伏見の戦い勃発!!
旧幕府軍VS新政府軍の戦いです。
戦いは、錦の御旗を掲げた新政府軍の圧勝に終わります。

慶喜、容保、定敬らは、負傷兵を残したまま江戸に逃走!!
朝廷は彼らを朝敵とし、追討令を出します。
追討令が出されたその日、慶勝は岩倉具視から過酷な選択を迫られます。
旧幕府につくのか??新政府につくのか・・・??

宗家と共に起死回生の策に打って出るのか?
弟たちを敵に回しても新政府に留まるのか・・・??

1868年1月8日慶勝は自ら岩倉具視に告げます。
「勤王の道」と。

新政府側に付くことを選んだのです。
その後の慶勝の行動は素早く・・・
尾張藩の旧幕府派を処分し、名古屋から江戸にかけての大名に使者を送って、新政府側につくように説得!!
慶勝の工作は、寺や神社にまで徹底的に行われました。
集めた誓約書は500近くに上りました。
皆が揺れていたこの時期・・・尾張ケガ勤王誘因活動をする・・・
大規模な戦争をするのではなく、戦争を回避しようとしているという意思表示・・・
幕府の人材を失うことなく、徳川を残す・・・そんな行動だったようです。
2月6日、京都を発った新政府軍は、慶勝の働きもあって大きな抵抗を受けることもなく、僅か1か月で江戸に到着!!
江戸城は無血開城!!
慶勝は新政府に貢献する一方で、容保、定敬を救おうと一生懸命でした。
江戸で一橋家の当主となっていた茂徳に嘆願に当たらせます。
しかし・・・弟たちが許されることはありませんでした。
容保は会津で新政府軍に徹底抗戦ののち力尽きて降伏。
定敬は旧幕府軍最後の砦・五稜郭まで転戦するものの結局投降・・・。
二人は死罪は免れるものの、蟄居謹慎の身となりました。
維新の争乱も落ち着きを見せた明治4年・・・慶勝は名古屋から東京に移り住みます。

新しい町でも慶勝は写真の撮影をしました。
戦火を免れたかつての江戸を・・・。
慶勝が東京に移り住んだ翌年、容保と定敬は謹慎を解かれ・・・慶勝の日記には容保や定敬が登場するようになってきました。


4kyoudai

1878年9月・・・慶勝は弟たちを銀座に集めます。
行先は写真館。
兄弟そろっての記念撮影を呼び掛けたのです。


幕末維新という時代の曲がり角をそれぞれの信念で生き抜いた兄弟たち・・・。
これが最初で最後の集合写真となったのでした。





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明治十二傑・・・伊藤博文・福沢諭吉・・・そうそうたるメンバーの中に・・・男爵・伊達邦成(農業家)の名前がありました。
date仙台藩亘理伊達家当主・伊達邦成です。

北海道の開拓に従事した多くのものが、志半ばで挫折する中、伊達邦成の開拓地は、小さなアメリカと言えるほどの偉業である。
北海道開拓の先駆者として健勝された伊達邦成・・・家臣たちを率いて、現在の伊達市に移住して、一大農業生産地に仕上げました。
これは、北海道発展の礎となりました。

事の起こりは・・・邦成28歳・・・幕末の動乱でした。
1868年戊辰戦争の敗北・・・新政府の処罰を受けた仙台藩は、2万人と言われた家臣の大量解雇を余儀なくされます。
邦成は・・・家臣を救い、朝敵の汚名をはらすため、北海道開拓に活路を見出しました。
しかし・・・新政府の方針に翻弄される毎日でした。

開拓地の返上、武士の身分の剥奪・・・

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

どうしてこの困難を乗り越え、開拓に成功したのか?

江戸時代、北海道は蝦夷地でした。
アイヌの人々が暮らす北の大地。。。
人々が入植するようになったのは、明治維新。

1868年戊辰戦争勃発!!
新政府軍と旧幕府軍が衝突した戦いです。
新政府軍が勝利し、本州の制圧に成功します。
そして・・・新政府の目は、北海道へと向けられたのです。

主な理由は、ロシアに対する危機感でした。
樺太に軍を派遣し、さらに南下しようとするロシア。。。
北海道へ移民を送って開拓させ、日本の領土であるという既成事実を作ろうとします。

新政府の中心人物は、岩倉具視。
その構想は・・・戊辰戦争時、同盟して新政府軍に対抗し奥羽の人たちでした。
自由に土地を離れることのない時代、移民を送る・・・それは困難で不可能に近かったのですが・・・
反逆者を処罰するという意味でも北海道に移し、開拓させようとしたのです。

62万石だった仙台藩は、その盟主だったために、28万石に減らされ。。。
さらに・・・南側は、南部藩の領地とされてしまいました。
宮城県の南部にある亘理町・・・幕末まで亘理伊達家が治めていました。
当時の藩主は、伊達邦成。。。その支配地は、2万4000石でした。
しかし・・・敗戦によって支配地をなくし、わずか米130俵の俸禄の身分に転落してしまいました。
これでは・・・一人の家臣も養えない・・・
直属の家臣1300人の身の振り方を考えます。
人々は・・・伊達家家臣の身分を・・・武士の身分を捨て南部家の農民となるか、他を頼って亘理を出ていくか・・・二つの選択肢でした。

東北が制圧された後も、旧幕府勢力の戦いは北海道で続いていました。
1868年10月榎本武揚が函館を占拠、新政府軍相手の箱館戦争が始まりました。

ある日・・・家老だった田村顕允(常盤新九郎)が・・・

「新政府は、必ず北海道開拓に着手します。
 邦成公自ら家臣を率いて移住し、開拓の先駆けになれば、朝敵の汚名を受けた仙台藩人の冥加にかなうでしょう。」と進言しました。

箱館戦争が終結していないのに・・・この提案を受け入れる??
10年ほど前、江戸幕府は東北諸藩に蝦夷地の支配を任せていました。
仙台藩は、白老を拠点とし、300人の藩士を派遣していましたが・・・
成果をあげることができずに、蝦夷地開拓を放棄していたのです。

この頃・・・新政府の処罰に不満を持つ藩士たち600人が蜂起し、榎本たちと戦おうと箱館への逃亡をし・・・
邦成自ら兵を挙げ、鎮圧にまわっていました。
新政府に不満を募らせる家臣たちに危機を覚えるようになってきていた邦成・・・
家臣たちを連れて北海道を開拓する?それとも帰農させる???

田村は進言します。
「我らには、1,362戸、男女7,854人の恩顧譜代の家臣がいます。
 この人材こそが資本となるでしょう。」

邦成は、北海道開拓を決断・・・明治2年5月、新政府の許可を得ようとしました。
箱館戦争が新政府軍の勝利に終わった2か月後・・・邦成に北海道支配の命が下ります。

支配を認められたのは・・・胆振国有珠郡・・・現在の伊達市です。
有珠山の火山灰に覆われ・・・農業には不向きとされてきました。

ezoこの時・・・諸藩や士族たちに北海道開拓の統治が下りていました。
財政がひっ迫していた新政府は、分割統治させて自費で開拓させたのでした。

「君臣心を合わせ
 勤王の実効を奏し
 伊達家の汚名を濯ん」by邦成

先祖伝来の家宝から着物までを売り払い、資金を調達し・・・

家族を伴って移住しました。


明治3年3月・・・
第1回移住団250人が新天地北海道へ向かいました。

アイヌの人に協力を求め、年内の収穫に向けて・・・雪深い地を開拓し始めました。

刀を使って木を切り・・・食料としての蕗を集め・・・
困難は、他の開拓地でも当然でした。
皆が脱落していく中・・・有珠に止まり開拓していく伊達家の人々。。。
明治4年には開拓者の数は1000人を突破、開拓の成果も上がっていきます。
退路を断ち、既にあるアイヌ社会を尊重しながら、新しい共同体を作ろうとした邦成。
それが開拓成功の秘訣でしたが。。。

しかし・・・その努力を打ち砕くかのように・・・明治4年7月廃藩置県断行!!
これに伴って・・・開拓地は返上となってしまいました。
さらに・・・家臣たちの誇りだった士族・・・士族から平民へ・・・。

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

伊達武士団・・・彼らの夢は潰えた・・・??

明治4年8月・・・薩摩出身の黒田清隆が「開拓使10年計画」を打ち出します。
この計画は、10年間で1000万(現在の800億)を投入し・・・
外国から学者、技術者を招き、欧米の技術を取り入れて開拓を進めました。
黒田は、日本の国力増強のために、本格的に北海道開拓を始めたのです。

その頃邦成は・・・??
北海道を去ろうとしていました。
新政府に対するせめてもの抵抗だったのです。
しかし・・・開拓使は伊達武士団の成果を評価して、北海道に残るように説得します。
遂に邦成も折れ・・・
有珠の移民取締役として再び家臣たちと歩き始めたのでした。

戦略① 新技術を積極的に導入せよ
新しい農機具を調達し、抜本的な農業改革に取り組みます。
馬を使い効率よく畑を耕します。
有珠郡の特産物となったのは、砂糖の原料となった甜菜です。
当時は砂糖のほとんどを輸入に頼っており、国産化が求められていました。
有珠郡には官営の天才製糖所が作られます。
国力増強に大きな役割を果たします。

戦略② 力を合わせ新規事業を起こせ
明治9年・・・当時としては革新的な組織・・・永年社を作ります。
今でいう組合のようなものです。
移住者の出資と開拓使の補助金を積み立てし、見舞い金や新規事業の推進に充てられたのです。
菜種油・・・大豆・小豆を大都市で販売、硫黄の採掘・・・
新規事業への取り組みは、自給自足の生活からの脱却を助けました。

戦略③ 開拓の精神を次世代に伝えよ
邦成たちは移住の際から学校を設立・・・
初等教育を行ったのは、有珠郡にある紋鼈(もんべつ)学校。
自分達の開拓使・・・武士の在り方も教えます。
教育を通して武士を再生産し、結束力を高めようとしたのです。
有珠郡は人口3000人を突破し、開墾もよそとはけた違いの成果を出しました。
明治政府もこれを称え、移民の手本となりました。

明治18年・・・亘理伊達家臣団は士族に復籍。

彼等の開拓が無かったら・・・北海道の開拓は全く変わっていたかもしれません。
農業改革に大きな貢献を果たしたのは間違いありません。
明治25年・・・邦成は功績を認められ、民間人として初めて明治天皇から勲章を受けます。
難事業を不屈の精神で生き抜いたことを認められた瞬間でした。

同心協力・不屈の精神を以って。。。
負けを転じて福とした人々でした。

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徳川慶喜家にようこそ―わが家に伝わる愛すべき「最後の将軍」の横顔 (文春文庫)

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江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。。。
慶喜といえば、大政奉還によって幕府から政権を独断で朝廷に返還。。。
そして新政府軍との戦いに敗れたアンチヒーローとして知られていますが・・・
その政治手腕が再評価されてきています。

慶喜失くして明治維新は実現しなかった???
慶喜は、歴代将軍にはなかった指導力で、内政、外交に手腕を発揮し、諸外国に日本の新たな国王として高い評価を得ていました。

今まで幕府の敗北宣言だとされてきた大政奉還・・・
新体制を掌握しようという野心が伺えます。
しかし・・・そんな慶喜を排斥しようと・・・王政復古のクーデターが起こります。
薩摩藩士・大久保利通を中心とする討幕の志士たちによって武力討幕が行われたのです。

慶喜はクーデターを事前に察知していた???
予期せぬ事態に対する慶喜の葛藤とは???

江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜は、英雄というイメージよりも敗者のイメージが強いのですが。。。
幕末史の影のヒーロー・・・只者ではなかったようです。

1866年12月5日 慶喜、江戸幕府第15代将軍に就任
この時、江戸幕府の権威は風前の灯でした。
問題のひとつは・・・開国問題。
孝明天皇は、外国との国交に断固反対していました。
開国路線をとる幕府の外交は暗礁に乗り上げてしまったのです。

長州征討も泥沼化・・・外交も内政も混乱の一途をたどっていたのです。

慶喜は起死回生に・・・
外交は・・・通商条約の勅許をもらおうとします。
一旦開港していた横浜を鎮港し、孝明天皇を懐柔し、勅許をえるのです。
その外交力に脅威を覚えたのが、島津久光。。。
幕府に独占されていた貿易に参加することによって利益を得ようと考えていたのです。

孝明天皇がなくなると、開国に舵を取ります。
兵庫の開港問題には・・・
自らの権限で兵庫を開港すると公約します。
自ら最前線で外交をする慶喜に、諸外国は絶賛の嵐。。。

その結果、外交交渉や通商は、幕府主導で進んでいきます。
久光ら大名たちを抑え、外交主導権を掌握する慶喜。

失墜した幕府の力を回復させていきます。
慶喜に求心力が・・・!!
慣例にとらわれない慶喜は、写真にも興味を示し、自らモデルとなっています。

yosinobu

この肖像写真を外交に使います。
自分の肖像写真を各国君主と交換したのです。
日本の新しい国王であるかの景気の姿・・・
しかし、その力を脅威と感じ、退けようとする勢力が水面下で動き出していました。
薩摩藩士・大久保利通、西郷隆盛、公家・岩倉具視・・・武力討幕派です。


慶喜が率いる幕府を力でねじ伏せるために・・・討幕の密勅をあみだします。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を殲滅せよ!!
武力蜂起の極秘命令が下されたのでした。


しかし・・・慶喜は1867年大政奉還をし、大久保たちを驚愕させました。
大政奉還によって、大久保たちの大義名分が失われてしまったのです。
将軍自ら、政権を天皇に返すことによって、倒すべき幕府そのものを無くしてしまったのです。
大久保たちの討幕計画は中止されてしまいます。

これまで、慶喜の敗北宣言のように思われてきた大政奉還・・・
しかし、そこには思惑があったようです。
慶喜が朝廷に政権を返した時の建白書によると・・・
慶喜は政権を返すのは、日本を海外列強と同じような国家に生まれ変わらせるため。

「これからも、国家のために尽くせるのなら、これに勝る喜びはありません。
 全国の諸大名にも、将来の国づくりに意見のある者は、この慶喜に申し出るよう命じてあります。」

と、書かれています。

政権を返上しても、国政には携わり、諸大名からの意見も自分が取りまとめていく・・・
実質的に幕藩体制を維持した新体制を、朝廷に訴えていたのでした。

日本の政治そのものを変えていこうという気持ちが感じられます。

しかし、その後・・・時代は未曽有の大政変劇へ・・・!!


大政奉還によって、武力討幕派の機先を制した慶喜は、自らの指導する新体制を着々と実現しつつありました。
大久保たち武力討幕派は、決死の手に出ます。
王政復古のクーデターです。

慶喜を追い落とすには、天皇の力しかない!!
天皇親政を実現し、慶喜を排除するしか方法はなかったのです。

その為には・・・若き明治天皇を手中に収めなければ!!
明治天皇の外祖父・中山忠能を通じ、天皇の懐柔に極秘裏に成功します。

クーデター当日は薩摩の兵で御所を封鎖!!
西郷隆盛の指揮のもと、新体制を作ろうと目論んでいました。
慶喜と大久保とでは、思い描く日本の未来がかけ離れていたのです。

従来の身分制を無くしたい大久保たち下級武士は、将軍家を無くすことで大改革を実現しようとしていたのです。

クーデター直前・・・前越前藩主・松平春が、藩主に宛てた手紙には・・・
大久保たちのクーデター計画が、慶喜に漏れていて・・・対抗策を練るように書かれています。

「薩摩の大久保・西郷・公家の岩倉具視らが密謀を企てている
 ともすれば、京都に戦争が起こるかもしれない
 しかし、英明な慶喜公のこと、必ずや策を講じ、薩摩の計画を失敗に終わらせてくれるに違いない。」

慶喜の排除を目的に行われているクーデター計画・・・
慶喜どうする??


①武力鎮圧策
この時京都には、会津藩、桑名藩併せて5000の兵力があり、大久保たちを圧倒していました。
慶喜側からクーデターを起こし、薩摩を京都から追い出すのです。
しかし、京都が焼けてしまう。。。
国内に内戦がおこるかも知れない・・・
そうなると、欧米列強の内政干渉もあり得るのです。

②静観策
今、優先すべきは、日本に内乱を起こさせないことだ。。。
各藩にもそう書簡を送っています。
大政奉還を行った私に、どうしてことを起こすのだ。。。
武力を使わなくてもいいのでは???


慶喜は、新政府の主導権をかけた戦いにどう対処していくのでしょうか?
事態を静観する・・・でした。


京都に戦乱が起きないことを優先したのです。
12月9日早朝、クーデター計画は実行に移されます。
薩摩藩兵が御所の紋をすべて封鎖!!
そして、明治天皇による大政復古の大号令が出され、天皇を中心とする新たな体制が樹立されたのです。
新政府には、皇族をはじめ、公家、諸大名、各藩の有志が入閣・・・
しかし、そこには慶喜の名前はありませんでした。
おまけに、慶喜に組した摂関家の廃止・・・

慶喜にとって厳しい状況が生まれたのでした。

この時、京都が火の海になることを怖れ、慶喜は、会津・桑名両藩を、大坂に退去させています。
議会を進めていた大久保によって、慶喜の辞官納地がなされ、徳川の天領800万石は没収となったのです。
新政府の財源になるとのことでした。

すると、諸大名にも疑念が起こってきます。
王政復古の目的・・・それは、大名制の廃絶なのでは???
不協和音が・・・慶喜の復活を願う声が出てきたのです。

1867年12月24日、慶喜が新政府議定職に決定。
新政府に迎え入れることが決定したのです。
この事は、大久保に最後の覚悟を決めさせたのです。

「もはや、薩摩一国となっても、一戦交えるまでだ!!」

この時、薩摩藩浪士たちが、江戸市中を放火やテロ行為で攪乱!!
挑発に乗った庄内藩が、薩摩藩邸を焼き打ちしてしまいます。

藩邸を襲われたことで、薩摩藩は武力討伐に!!
戦闘準備に入ったのでした。

慶喜のいる大坂でも、会津藩・桑名藩が爆発!!
慶喜の手に負えなくなってきたのです。

1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発!!
薩長新政府軍と旧幕府軍との戦いになりました。
そして、慶喜にとっては最悪なことが・・・
薩長軍の掲げた”錦の御旗”です。
慶喜は、朝敵となってしまったのでした。
慶喜側は、総崩れ・・・わずか3日で敗走!!

それでも大坂城の会津・桑名藩は、戦意は喪失しておらず、当時最強と言われた幕府海軍を、江戸から大阪湾へ持って来れば、勝機はまだある!!

驚愕の事態が起きたのはその時!!
大坂城で戦う旧幕臣たちを残し、慶喜は江戸へ向け船で脱出したのです。

一体なぜ??

時代の流れに押し流されたという諦め???
下品、なりふり構わず・・・ということができない人だったのでしょう。

朝敵となった慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍を置いて江戸に帰還・・・
上野の寛永寺に入り、自ら2か月謹慎したのです。
再起を求める声があったものの・・・戦いを避け。。。

江戸に向かう新政府軍に書簡を送っています。
「今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どのような処分も受ける覚悟でいる。
 何の罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは止めて欲しい。
 すべての罪が、この慶喜にあり罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。」

内乱を避けられるのであれば・・・!!

その後、全国に内乱が広がることはなく戦争は終結。。。
ここに徳川の時代は潰え・・・明治新政府の時代が始まるのです。

大久保たちは、藩籍奉還・廃藩置県・秩禄処分・・・何百年にもわたって行われてきた封建制度を一掃したのです。
不平を抱く旧士族から、徳川再興を求めた時も、慶喜が政治的発言をすることはなく・・・旧幕臣が近づくことも良しとしませんでした。

その後、慶喜は、狩猟・油絵・写真・・・趣味人としての生活を40年送るのでした。
政治とは全く無縁の生活を送ったのです。

慶喜の汚名が晴れたのは、明治維新から30年以上も後・・・
明治31年には明治天皇に拝謁。
涙を流して喜んだと言われています。
明治35年公爵綬爵。
それは、慶喜が維新の功労者であるということを、新政府が認めたことを意味していました。

負けを徹底的に受け入れること・・・
受け入れがたいものを受け入れるのが自分の役割・・・

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大正2年11月22日病によって亡くなります。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。
 私は、その幕府を葬り去るために将軍となったのだ。」

明治維新の犠牲者は、世界的に見てもとても少ない・・・
それは、慶喜の功績なのです。 

”不作為を持って英雄となり
   科目を持って政治を変えた”
慶喜なのでした。


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日本のフィクサー第1弾・岩倉具視さんです。

黒船の来航から始まった幕末維新・・・
この劇代の主役は、高杉晋作・西郷隆盛・大久保利通・坂本龍馬・・・志士たちでした。

そんな侍たちを操って、天皇中心の近代国家へと導いたのが岩倉具視でした。
その人並み外れた行動力は電光石火でした。
幕末の黒幕とも言われています。

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岩倉具視と言えば、500円札。
下層階級でありながら、権謀術策の限りを尽くす。。。そんな人でした。
幕末を変えた異端の公家・・・岩倉具視が頭角を現したのが・・・
京都御所の古地図によると・・・
禁裏御所の周りには137もの公家の家がありました。
ひときわ目立つのが・・・九条家、鷹司家、近衛家、一条家・・・摂関家です。
1000年以上にわたって、朝廷の実権を握っており、平公家たちに出る幕はありませんでした。
そんな宮廷の末端にいたのが岩倉家でした。

五摂家に代わって決定権・発言権・政治的ポジション・・・体制を造り変える力を!!!
黒船来航に日本が揺れた1853年、29歳の岩倉は、関白・鷹司政通の歌道の門人となることで政界進出の足場を作りました。

歌や蹴鞠にいそしむ公家たちに変革を!!

岩倉は、朝廷も国政に参加すべきだと主張します。
やがてエリート集団・・・孝明天皇の近臣に抜擢されます。
そして・・・最初のチャンスは・・・
1858年幕府は、アメリカ総領事ハリスと通商条約調印を約束。
幕府の政局は混乱・・・
ときの老中堀田正睦は、条約締結の勅許を出させようとします。
当時の関白・九条尚忠は、外交は幕府に一任すべきとし、勅許は確実となったかに見えました。
ところが・・・孝明天皇は、開国に反対していたので・・・
岩倉は、天皇の意思を盾に、条約撤回を画策します。

下級公家たちに呼びかけ、数の力で対抗します。
安政5年3月12日御所に集結し、デモを行います・・・八十八人列参です。
全く発言権のなかった下級公家たちが、岩倉の言葉に立ちあがったのです。

事態は急展開・・・孝明天皇は、条約不許可にしてしまいました。
未曾有の出来事で・・・幕府の思惑を打ち砕いたのです。
幕府・摂関家の命令には従わない!!
数の力で幕府・摂関家の開国方針を撤回させたのです。

「アメリカとの条約締結には断固反対ですが、世界の中で日本が井の中の蛙となるのはもっと危険です。
 ここは帝の御意思によって使節団を派遣すべきです。
 幕府 大名 朝廷から、各々2人ずつアメリカへ送り、相手の国情を視察させるのです。」

と、条約締結反対を唱える一方で、使節団を送ることを天皇に進言していました。

岩倉は次に・・・政略結婚を利用して、幕府と朝廷の力関係を変えようとしました。
安政5年6月19日日米修好通商条約締結。

孝明天皇は激怒し、幕府は批判の矢面に立たされます。
そこで、孝明天皇の妹・和宮と14代将軍家茂との結婚で公武合体をアピール・・・和宮降嫁を画策します。
孝明天皇も和宮も大反対!!

しかし、
「幕府の要望を受け入れる代わりに、勅許なく結んだ条約の撤回を約束させてはいかがでしょう。
 そうすることで、政治の実権はおのずと朝廷へ戻り、帝の政治は世論が支えてくれるものと考えます。」
世論を味方にし、朝廷の権威復活を目論みます。

さらに老中たちと交渉し、条約撤回期限を10年と約束させました。
出来なければ戦争!!
この事が命取りとなり、幕府を追い詰めていきます。
真綿で首を絞められる幕府。。。

降嫁が終わった時・・・世論は孝明天皇の見方となっていました。

しかし・・・和宮降嫁に激怒した反幕府過激派のテロが京都で始まりました。
公家や武士たちの命が・・・!!!

そして有力公家たちの反撃が始まり。。。
和宮を降嫁させたことで京都の治安が悪くなった!!と、朝廷から追放・幽閉されてしまいました。
5年もの蟄居生活。。。日々の生活にも困る有様でした。

都を追われてからも命を狙われ続けた岩倉・・・
しかし、岩倉の面倒を見ていた西川珍儀によると・・・
表だって行動できないまでも、情報収集・諜報活動をしていたようです。
知りたい情報があると、僧侶に変装してまで出かけて行っていました。
意見書をしたためてこれと思う人に手紙を送り続けます。
自分の手足として動いてくれる信頼してくれる人を探して・・・。

京都が火の海と化した禁門の変。。。
長州征討、条約締結・・・。
帝にも謝罪を求める手紙を送ります。

「帝の勅許によって国土が荒れ始めた今、 日本を救う方法は一つしかありません。
 それは帝ご自身が自ら罪を認めることです。
 内憂外患を許してしまった責任を取って、もう一度帝ご自身の手で日本をひとつにするのです。」と。

大久保利通と出会った岩倉。。。
このままでは日本がダメになる!!
幕府を倒し、天皇を中心とする政権を樹立することで二人の意見は一致。
自分達で日本を動かそうとし始めます。

その時突如・・・孝明天皇崩御。

天皇の死によって・・・最後の主導権争いが始まったのです。

天皇を中心とした新体制・・・王政復古。。。
これは、下級公家の岩倉が、薩摩の武力を借りて行ったクーデターでした。

王政復古は・・・徳川慶喜との攻防戦でした。
孝明天皇の後を継いだのは明治天皇。。。まだ、16歳でした。

幕府を倒し、新政権を樹立するために!!!
薩長同盟を結ぶものの・・・大義名分としての天皇の勅書が必要でした。
そこで岩倉は・・・
明治天皇の外祖父・中山忠能を使って勅書を手にすることに成功します。。。
これが、”討幕の密勅”です。

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ところが・・・その日に突如、慶喜が大政奉還してしまったのです。
討つことができません!!
慶喜は。。。大義名分がなくなることで、徳川家を温存することを目論んでいました。

岩倉は決断しました。
クーデターを起こし、朝廷の実権を握る!!日本の大革命でした。
大政奉還から2か月後、岩倉の蟄居処分が解かれます。
これがクーデター開始の合図となり。。。

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明治天皇に王政復古を願い出ました。
王政復古の詔には、新政府の樹立が高らかに謳いあげられています。
そして・・・もう一つが、1000年続いた摂関家の廃絶でした。

それはどうして???
徳川幕府の政権返上に摂関家は消極的でした。
それを見て、残しておいては駄目だ!!と、思ったのでしょう。
また、摂籙門流の廃絶、利権構造のすべてを廃絶し、朝廷も白紙にしての新政権樹立だったのです。

なんとか日本を蘇えらせるために!!

慶喜と摂政不在の中、王政復古の大号令が発せられました。
世襲を断ち・・・摂関家も幕府も終わり、新しい時代が始まったのです。

日本の将来を見据えて能力主義の道へ!!!
天皇も御親兵を持つべきだ!!

と、方向転換がされていきます。

そして・・・鳥羽伏見の戦い!!
そこには”錦の御旗”が!!

幕府軍の戦意を一気に喪失させた錦の御旗、これを大久保に作らせたのが岩倉でした。
1年に及ぶ戊辰戦争に勝利する新政府!!

革新的な国家ビジョン・・・
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万機公論・四民平等を唱えます。
明治4年には、岩倉使節団を外国に派遣。
立憲君主国家とするために、憲法をつくらせます。
天皇を残す・・・近代的なリニューアル天皇を!!
天皇親政は、国家の根幹として残していくために・・・!!

志半ばで病に倒れた岩倉。。。
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そこへ明治天皇が見まいにやって来ました。
その立派になった姿を目にし、無言で涙を流していたと言います。
それから間もなくして亡くなったと言われています。

憲法発布はそれから6年後のことです。

二世政治家たちがはびこっている今、必要なのは岩倉具視かも知れません。


千年の歴史を変えた策謀家~岩倉具視~はこちら
開国に命を懸けた老中首座~堀田正睦~はこちら

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日本の本当の黒幕 上巻 龍馬暗殺と明治維新の闇

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