日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:岩倉具視

西郷隆盛 天が愛した男 [ 童門 冬二 ]

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敬天愛人・・・天を敬い人を愛する・・・この言葉を座右の銘とした一人の男がいます。
明治維新の立役者・西郷隆盛です。
西郷は名声を求めたり、私利私欲に走ることなく人々に尽くした人物として知られています。
しかし、実際の西郷にはかけ離れた一面がありました。
大河ドラマ「西郷どん」の主人公です。
明治維新の英雄・・・西郷隆盛。
戊辰戦争では、明治新政府軍を率いて戦いを勝利に導き、明治維新の中心人物として廃藩置県、地租改正、学制の整備を行い、近代日本の基礎を築きました。
勝海舟は、西郷をこう評しています。

「西郷に及ぶことのできないのは、その大胆識と大誠意とにある」by勝海舟

誰よりも肝が据わっていて、誠実な人物と評しているのです。

「国政を担うということは、天の道を行うことである
 いささかでも、私心を挟んではならない」by西郷隆盛

しかし、一方で、理想とは異なる一面も・・・
15代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行ったにもかかわらず、あくまで武力による討伐を決行!!
そして、徳川打倒のために、味方に罪を着せて見殺しにしたことも・・・!!
目標実現のためには、手段を選ばない、無慈悲な革命家の一面があったのです。

東京・・・上野公園にある西郷隆盛像・・・浴衣姿で犬を散歩させています。
西郷の死から20年ほど後に作られたものです。
しかし、この像を目の前にした西郷の妻・糸は、「主人はこんな人ではなかった」といったと言います。
数ある肖像画の中で、本人と確認されているものは殆どありません。
暗殺防止のために、自分の姿を書かせなかったからだともいわれています。

takamori
本人ではないかと言われている肖像画が、近年大分県で発見されました。
風貌さえ謎に満ちた西郷隆盛・・・そんな西郷が座右の銘としたのが「敬天愛人」でした。

どうしてこの言葉を座右の銘としたのでしょうか?

明治維新から40年ほど前の1827年、西郷隆盛は薩摩藩の貧しい下級藩士のもとに生まれました。
7人兄弟の長男で、幼いころから文武両道に励みました。
しかし、12歳の時、喧嘩に巻き込まれた友達を助けようとして、右腕を斬られ・・・刀を握れなくなってしまいます。
以後、学問に専念することとなった西郷。
1844年、17歳で藩の仕事に就きます。
郡方書役助・・・年貢の取り立てでした。
そこで目にしたのは、重い年貢に苦しむ農民たちでした。
西郷は、貧しい人々に自分の給料を分け与えます。
そして、自らの身分をわきまえず、年貢の軽減を訴える書状を上層部に送りつけたのです。
これに目を止めたのが、薩摩藩第11代藩主・島津斉彬でした。
斉彬は集成館事業を実施、製鐵、造船分野でいち早く西洋を取り入れた人物です。
そして、薩摩藩の富国強兵に成功、名君とよばれました。
斉彬は西郷を大抜擢し、秘書である庭方役にします。
若い西郷は、評判の良い人物ではなく、物事を率直に言う・・・生意気な角が立つ奴・・・
ただ、あの男を使いこなせるのは自分(斉彬)しかいない・・・!!

1853年、26歳の時に黒船来航。
徳川幕府は対応に追われます。
幕府からの呼び出しで、江戸に向かう斉彬に西郷も同行します。
江戸での暮らしで、各藩の実力者たちと親交を深め、交渉人としての腕を磨きます。
斉彬は西郷をこう評しました。
「真に役立つものは、西郷吉之助という者なり。
 我が家の貴重な宝でござる。」by斉彬
それから5年・・・斉彬が病で急死・・・。
西郷は主君と仰ぐ斉彬の後を追い、殉死する覚悟をします。
思いとどまらせたのは、親交のあった清水寺の僧侶・月照でした。
「お志を継いでこそ、斉彬さまはお喜びになるのでは?」by月照
しかし、1858年、31歳の時に、斉彬と対立していた井伊直弼の安政の大獄で、月照の命が狙われることに・・・!!
西郷は月照を連れ、薩摩に逃れることに・・・!!
しかし、幕府の追及の手は、月照をかばう西郷にも・・・!!
逃げきれないと、二人は真冬の海に身を投げました。
月照を殺して自分だけ生き残る・・・そういうことのできない繊細さが西郷にはありました。
結局、月照は絶命、西郷は一命をとりとめたものの・・・心中は複雑でした。

「私は、土に埋まる死者の骨のようなもので、耐え忍ぶことができないことを耐え忍んでおります。」by西郷隆盛

薩摩藩は、幕府から追われる西郷を奄美大島に匿うことに・・・!!
1858年、31歳の時でした。
西郷は、島の娘・愛加那と結婚、2人の子供も生まれます。
ところがその後、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺され、幕府の権威が失墜!!
これを受け、1861年34歳で薩摩藩に呼び戻されます。
島から出ることのできなかった妻と子は、置いていくことしかできませんでした。
島津斉彬の死後、薩摩藩の実権は弟・久光の手にありました。
しかし、西郷は、久光を器ではないと考えていました。
そして・・・
「公は地ゴロで不用意」by西郷隆盛
と言いハチました。
地ゴロは、薩摩の言葉で田舎者のことです。
結局、命令を無視し、独自に動こうとした西郷は、久光の怒りを買い沖永良部島に流刑となります。
そして・・・野ざらしの牢に閉じ込められました。
本当なら、切腹を申し付けたかったものの、藩士たちが騒ぐので・・・
吹きっ晒しの島で・・・「死んで来い」という形にしたのです。
この島で2年を過ごした西郷は、禅を学び自分自身を見つめ直す中で・・・
天を敬い人を愛する・・・「敬天愛人」に達するのです。

敬天愛人の思想にたどり着いた西郷隆盛・・・
ところが、その理想とはかけ離れた行動に!!
周囲の反対を押し切り、徳川勢を徹底的に武力で攻めます。
西郷は何を考えていたのでしょうか?
西郷が沖永良部島に監禁されている間に・・・時代は大きく動いていました。
薩摩藩と長州藩は、それぞれ諸外国との戦いに敗れたことで、方針を転換!!
鎖国から開国へと大きく舵を取りました。
そして、旧態依然とした幕府には国を任せられないとして・・・討幕へ!!
1864年、37歳で、釈放され「討幕」を目指します。
薩摩藩のリーダー的存在となっていきます。
1866年、39歳で土佐出身の木戸孝允と坂本龍馬の仲立ちで薩長同盟を結びます。
1867年、40歳で、討幕の大義名分を得るために、朝廷に働きかけ「討幕の密勅」を得ます。
これによって、朝廷の命令によって幕府を倒すことになります。
しかし、この密勅を手にしたその日、予期せぬことが・・・
15代将軍・徳川慶喜が、大政奉還によって政権を返上。
倒そうとしていた幕府が無くなってしまいました。
これを知った西郷は・・・
「慶喜公は思いのほか策士でごわした。」といったと言います。
慶喜が生きている限り、徳川家の広大な領地、権力、軍事力、経済力はそのままになってしまう・・・。
西郷は、「慶喜を殺さなければ新しい時代は来ない」と、決意していました。

西郷は意外な行動に・・・
配下の相楽総三に江戸で争乱を起こすように命じます。
相楽は、放火や略奪、殺人を行います。
血を見なければ、大きな前進にならない・・・というのが西郷の考え方でした。
相楽たちは騒乱を起こしては、江戸の薩摩藩邸に逃げ込みます。
遂に徳川方は、薩摩藩邸を焼き討ちに・・・!!
西郷は、笑みを浮かべました・・・

「これで、開戦の口実ができもした!!」by西郷隆盛

1868年新政府軍と旧幕府軍との間で戊辰戦争が始まります。
最初の戦いは、1月・・・鳥羽伏見の戦いです。
一進一退の攻防の中・・・新政府軍に錦の御旗が・・・!!
これを見た徳川慶喜は、自分が朝敵となったことを知り、戦意を喪失!!
江戸に逃れ、謹慎してしまいました。
鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は江戸へ!!
西郷は、その先鋒を相楽総三に任せます。
相楽は、行く先々で年貢を半分にするという年貢半減を触れ回ります。
民衆の支持を得るために!!
しかし、新政府は方針を転換!!
年貢半減をする余裕などどこにもなかったのです。
結局、新政府は、相楽らに偽官軍の汚名を着せ、処刑!!
相楽の死を知った妻は、あとを追って自殺しました。
相楽は西郷の言いつけを守って、気持ちを忖度して実績をあげた・・・なのに、謀反人、偽官軍として首を晒されたのです。
西郷の本質は軍人です。軍人である以上、謀略も行うし、戦いもします。

1868年3月14日、勝海舟と会談。
勝と面識があった西郷は、その見識に惚れこんでいました。そして、江戸城は無血開城!!

「いよいよ談判になると、西郷は俺の言うことを一々信用してくれ、その間に一点の疑念も挟まなかった。」by勝海舟

「いろいろ難しい議論もありましょうが、私が一身にかけて御引き受けします。」by西郷隆盛

「西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産とを保つことができ、また、徳川氏もその滅亡を免れたのだ。」by勝海舟

その後、会津若松城の戦い、五稜郭の戦いを経て戊辰戦争は終結・・・。
旧幕府軍勢力は一掃されました。
戊辰戦争に勝利したのち、1869年、42歳で薩摩に戻ります。
明治新政府に加わることなく・・・。

「新政府の発足に、どれだけ功績があったとしても、職務をこなす能力のない人に役職を褒美として与えるのは最もよくない。
 役職は、ふさわしい人材に授け、功績があったものには金でもって報いるべき。」by西郷隆盛

そんな西郷の想いとは裏腹に、明治新政府は腐敗を極めました。
薩摩、長州の出身者で占められ、中には権力を振りかざす者も・・・!!
更には、薩摩と長州の間で派閥争いが・・・
人々の間では「江戸時代の方がましだった。」という声も聞かれるように・・・。

そして、重税に苦しむ人々が、一斉に一揆をおこしました。
この危機を乗り越えるために、新政府は人望のある西郷を頼ります。
世間の人から「生きるカリスマ」と思われていた西郷・・・
政府に不満を持つ人も、「西郷さんが決めているのだから・・・」と、納得する重しの役割を求めたのです。

1871年、44歳の時、実情を知った西郷は明治新政府に参加。

「新しい時代の始まりにあるにもかかわらず、立派な家に住み、綺麗な服を着て、美しい女性をそばに置き、財産を殖やすことばかり考えているなら、明治維新という功績を成し遂げることはできない。」by西郷隆盛

西郷自身も、与えられた広すぎる屋敷を書生たちの寄宿舎にするなど、質素な生活をしました。

明治新政府の最大の課題は、中央集権体制を確立することでした。
そのためには、廃藩置県を行い、諸大名から人民と土地と奪うことが必要でした。
しかし、一歩間違えば、諸大名の反発を招き、またもや内乱になりかねない・・・。
西郷は、薩摩出身で幼いころからの盟友・大久保利通や長州の木戸孝允らと対策を協議!!
薩長を中心とした軍を組織し、反対勢力には武力行使で脅すことにしました。

「もし、暴動などが起これば、おいが全て鎮圧しもす。
 貴殿らは、御懸念なくやって下され。」by西郷隆盛

結局、反乱が起こることなく、西郷らは廃藩置県という一大改革を成功させたのです。

1871年、44歳の時に、大久保利通、木戸孝允らは、岩倉使節団として西洋の視察に出発!!
留守を預かることになった西郷・・・
「已む終えない場合を除いて、なるべく新規の改正を差し控える」と、約束させられていました。
ところが西郷は、次々と改革に乗り出します。
農民の土地所有を認めた地租改正、武士でなくても兵役に就くことを認めた徴兵令、全国に小学校を・・・と学制の発布、さらに太陽暦の採用、人身売買の禁止など、いずれも日本の近代化を推し進めるものでした。
西郷にはもう一つ取り組むべき課題がありました。
朝鮮との国交回復です。
江戸時代には交流があったものの、日本は西欧列強に屈服する形で開国したため、朝鮮との国交を断絶していました。
そして、国交回復交渉が進まない中・・・武力で屈服させようという征韓論が台頭してきました。
西郷は、武力止む無しとする板垣退助をたしなめていました。
「それは、早急にすぎもす。
 兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。」by西郷隆盛
リスクも覚悟で、朝鮮に交渉に赴くことになった西郷・・・
「立派な使節にはなれないかもしれませんが、”死ぬ”くらいのことは出来ると思います。」by西郷隆盛
しかし、この方針が決まった直後に、1873年に岩倉使節団が帰国。

「西郷が朝鮮に行けば殺され、戦争になるかもしれない。
 現在の政府の状態で、外国と戦争をする余力はないので、朝鮮への使節派遣は延期するのが妥当である。」

岩倉使節団の面々が反対したのは、西郷が功績を挙げるのを阻止するため??とも言われています。
留守政府との約束では、「勝手なことはしない」「進んだことはしない」となっていました。
約束違反??
おまけに、思った以上に良い政策をし、成功していることが主導権争いで弱点になる可能性がありました。

1873年、朝鮮訪問を断念し、46歳で明治新政府を去ります。

西郷の目指していた明治維新派、道義・モラルを重視した理想主義でした。
大久保ら政府首脳は、世界の現実を見据えたうえでの合理主義だったのです。

西郷が行った主な改革・近代化は・・・
廃藩置県・地租改正・学制(小学校の設置)・太陽暦の採用・徴兵令・裁判所の設置・農民の職業選択の自由・神社仏閣の女人禁制の廃止などでした。

明治新政府を去った西郷は、妻・イトと子供達と一緒に静かに余生を過ごすつもりでした。
しかし・・・!!
西郷が鹿児島に戻った翌年・・・
1874年47歳の時に、一緒に明治新政府を去った江藤新平が佐賀の乱をおこします。
明治維新によって行き場所を失った不平士族たちに後押しされたものでした。
反乱は鎮圧されたものの・・・不平士族たちへの対応が大きな課題となって浮かび上がってきました。
西郷は・・・「私学校」を設立!!
不平士族の受け皿にするとともに、欧米列強の脅威に備えるというものでした。
「若い氏族を国難に際しての兵士とすること」
2年後・・・九州を中心に、相次いで不平士族の反乱が起きます。
秋月の乱(福岡)・萩の乱(山口)・神風連の乱(熊本)・・・
こうした中、新政府は西郷の動きに警戒を強めていきます。
私学校に不平士族が次々と集まって、130もの分校ができていたからです。
この西郷の行動は・・・
「西郷が不平士族を集めて何か企んでいるのでは?」と、思われても仕方のない事でした。
1877年、50歳の時、政府は鹿児島出身の警察官を密偵として送り込みます。
不審に思った私学校の生徒たちは、次々に密偵を捕縛!!
西郷暗殺計画まであることを知ります。
そして、鹿児島にある陸軍の火薬庫から大量の武器弾薬を移送計画を突き止めます。
私学校の生徒たちは、その陸軍の火薬庫を襲撃!!
しかし、それを知った西郷は、「ちょ・・・しもた!!なつうこつを・・・!!」といったと言います。

実際に、火薬庫にあった武器は、旧式の銃と弾薬のみでした。
さらに、磯(地区の倉庫)の弾薬は、全て水に付けられていました。
私学校の生徒たちは、政府がしかけたわなにかかったのです。
西郷は、生徒たちを緊急招集!!
しかし、生徒たちは「挙兵すべきだ!!」と、訴えました。

「おいの体はおはんらに差し上げもす」by西郷隆盛

西南戦争が始まりました。
しかし、この時、西郷は不可解な行動に出ます。
海路や陸路で老境を目指すのではなく、熊本城を攻めたのです。
熊本城は、加藤清正が建てた難攻不落の城です。
しかも、西郷軍1万に対し、政府軍は3万7000!!勝ち目はありませんでした。
西郷としては、本意な戦争ではありませんでした。
勝った後、国を二分する形となるような戦争を起こしてしまったことに責任を感じ、最終的には自分が死ぬことで決着をつけようとしたのです。
結局、西郷軍は熊本城を攻略することが出来ずに鹿児島に帰り、城山に立て籠ります。
9月24日・・・西郷は山を下り、最後の総攻撃を決行!!
しかし、腹と股に銃弾を帯び・・・

「もう・・・ここらでよか・・・
 解釈を御頼みもす!!」by西郷隆盛

享年50歳でした。

西南戦争のあと、西郷には逆賊の汚名が着せられました。
しかし、西郷の人柄を愛した明治天皇の意網によって、1889年「大日本帝国憲法」発布に伴う恩赦で汚名を雪ぐことになりました。
そして、あの西郷隆盛像の建立が始まりました。
敬天愛人を座右の銘とし、明治を切り開いた西郷・・・

「”事”には上手下手が
 ”物”にはできる できないがあり
 そのことに心を動かされる人もいる
 しかし人は ”道”を行うものである
 ”道”を実践するのに上手下手はなく できない人もいない
 だからひたすら”道”を行い ”道”を楽しむのだ」by西郷隆盛

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かつてアメリカでBrilliant Womanと呼ばれた女性がいました。
彼女の生きた時代は文明開化に沸く明治初期。
陸蒸気にガス灯・・・急速に進む西洋化。
その象徴として作られたのが鹿鳴館でした。
毎夜行われる舞踏会・・・そこで鹿鳴館の華と言われたのが陸奥亮子でした。
夫は剃刀大臣と言われた陸奥宗光。
日本政府の悲願、不平等条約改正を成し遂げた第8代外務大臣です。

東京銀座七丁目・・・金春通り。
かつてこのあたりは弁柄格子の芸者屋が軒を連ねる花街でした。
幕末には武士達、明治維新後は新政府高官が御贔屓。
深川・柳橋をしのぐ勢いだったとか・・・
そんな花街の売れっ子芸者が亮子でした。
彼女が芸者となったのは貧しさゆえでした。

亮子は幕末の1856年11月、江戸に生まれました。
父は播磨国龍野藩の200石取りの藩士・金田蔀、母・添機。
しかし、母が金田の正妻でなかったために、亮子たちは父と暮らせず、母、姉の三人で貧乏に暮らしていました。
昼は町家の娘に踊りを教え、夜は裁縫・・・
生活のために、母は必死で働きましたが、ついに倒れてしまいました。
亮子は江戸藩邸に住む父に懇願します。
しかし、亮子たちが父からの援助を受けることはありませんでした。
母の病は一向に回復せず・・・困窮していく一家三人・・・。
見かねた近所の人が亮子の勧めたのが、芸者屋への年季奉公でした。
9歳と幼い亮子でしたが、来る日も来る日も、掃除洗濯、炊事とこき使われ・・・その合間に、踊り、三味線、江戸小唄などを叩き込まれます。
芸事の師匠たちは気が荒く、怒られたり竹の棒でたたかれたり・・・
それでも母と姉のために、亮子は耐えました。
そして時代は明治に・・・1871年(明治4年)。。。
16歳となった亮子は芸者・小鈴としてお座敷デビューします。
小鈴の名は、その美貌と共に知れ渡り、瞬く間に銀座一の芸者に・・・。
しかし、花街に染まることはなく、身持ちが固く、男嫌いの意地を通しました。
そんな彼女がただ一人心を許した相手は・・・後に外務大臣となる陸奥宗光でした。
陸奥は、1844年、紀州藩士の六男として生まれますが、15歳で脱藩。
江戸に出ると幕臣・勝海舟の知遇を得て、坂本龍馬の海援隊に加わります。
貿易で手腕を発揮する陸奥を龍馬は高く買っていました。
「(刀を)二本差さなくても食っていけるのは、俺と陸奥だけぜよ」by龍馬

明治になると・・・陸奥は、新政府の重鎮・岩倉具視の推挙の世って、外国事務局御用掛となります。
当時、日本は大きな外交問題を抱えていました。
幕末に結んだ欧米との不平等条約の改正に苦心していました。
治外法権の撤廃、関税自主権の獲得・・・それが、明治政府の悲願でした。
海援隊時代に貿易を担当して交渉になれていた陸奥は、政府の期待の星だったのです。
亮子と出会った頃、陸奥は神奈川県令となっていました。
上客のひとりとなった陸奥・・・男嫌いで身持ちの堅い亮子・・・
1872年5月二人は結婚。
この時、陸奥29歳、亮子17歳でした。

陸奥は亮子と出会う3か月前に前妻を亡くしていました。
3歳の広吉、2歳の潤吉という二人の子供がいました。
結婚の翌年、亮子は長女・清子を出産。
18歳にして3人の子供の母となったのです。
さらに陸奥の両親とも同居。
姑は気難しく、元芸者の亮子を気に入りません。
特に食事の作法、味付けにはうるさかったとか・・・。
ひたむきに尽くす亮子ですが・・・順調に出世していた陸奥が投獄されてしまいます。
1874年1月、新政府の状況に不満を抱いていた陸奥は、辞職し野に下ります。
薩長が幅を利かせている新政府では、紀州藩の陸奥は肩身の狭い思いをしていました。
日本人という観念だった陸奥・・・薩長が政治を独占しているので、政治が滞っていたのを厳しく批判しています。
1875年政府に戻りますが・・・元老院議官という有名無実なポストでした。
そんな中、西南戦争が勃発!!
鹿児島の私学校の生徒が、西郷隆盛を擁して挙兵!!
薩摩対官軍の1万人以上の死傷者を出す大激戦となりました。
この西南戦争に乗じて土佐の立志社も挙兵を企てているという噂が・・・立志社は、板垣退助を中心とする自由民権運動の政治結社です。
そこに、陸奥も通じていたのです。
立志社社員たちが次々と逮捕されている中、捜査の手は陸奥にも・・・!!
今日か、明日か・・・??ついに・・・
1878年6月10日、立志社の政府転覆計画に加担している疑いで逮捕されてしまいました。

夜を徹して厳しい尋問が行われていると・・・
陸奥は、結核を患っていたので、いつ、再発してもおかしくありませんでした。
尋問は夏になっても続きます。
陸奥が禁固5年の計を受け、山形監獄に送られた後も、亮子の心労は尽きません。
食事に毒を盛られるのではないか・・・??

そのため、陸奥は、監獄の食事にはほとんど手をつけませんでした。
山形の知人が差し入れるものを食べていたのです。
収監された翌年、もちと黒砂糖が振る舞われたときも、周りの囚人たちが食べて、毒がないのを確認してからようやく手を付けたと言います。
この時、亮子は子供三人と姑を抱え、東京で陸奥の友人宅に世話になっていました。
女子供では危ないということで、あらかじめ、陸奥が手配していたのです。
姑と子供たちの面倒を見ながら、日用品を送る日々・・・
しかし、山形は遠く、面会に行くことはできません。
結婚して6年・・・夫のいない生活をどう生きていくのか・・・??
それを支えたのは、夫からの獄中からの手紙でした。

亮子は知人の紹介で出会った後藤又兵衛に陸奥の世話を頼みます。
山形監獄の近くで旅館をしていた後藤は、食事や日用品の差し入れなど、陸奥の世話をしてくれました。

そんな中、監獄で火災が発生!!
亮子のもとに、陸奥が焼死したとの知らせが・・・!!
しかし、これはデマで・・・1879年11月、伊藤博文によって、安全な宮城監獄に移送されました。

1883年1月4日、特赦で放免される陸奥。8か月の刑期を残してのことでした。
帰ってきたとき・・・ひどくやつれ・・・しかし、僅か1年で亮子に家族を託し外遊に・・・!!
その理由は・・・
①自由民権運動に巻き込まれるのを避けるため
②欧米諸国の憲法や行政を学ぶため
2年5か月もの外遊・・・その間陸奥は、亮子に50通以上の手紙を認めています。
ついに夫が帰国!!
初代内閣総理大臣に就任していた伊藤博文の知遇を得て外務省に出仕。
それに伴い、亮子は華々しく社交界にデビューします。

その3年前に1883年、国賓や外交官を接待するために、日本初の迎賓館・鹿鳴館が完成。
外務卿である井上馨が日本政府の悲願である不平等条約改正に向けて国の威信をかけて作りました。

鹿鳴館で夜ごと開かれる舞踏会で、主役はきらびやかに着飾った女性たちでした。
当時のドレスは・・・バッスルスタイル。
見た目は優雅ですが、コルセットなどつけたことのない日本人にはとても窮屈なもので、動くたびに苦痛が伴いました。

欧米人に嘲笑されながらも、鹿鳴館の華と言われた女性たちもいました。
井上武子、戸田極子、陸奥亮子もその一人でした。
イギリスの外交官アーネスト・サトウは・・・
「陸奥の二度目の夫人は、若くて大変な美人。
 涼しい目と素晴らしい眉だ。」
サトウは25年間、日本にいましたが、容姿を褒めた女性は亮子だけです。
しかし、舞踏会が条約改正につながることなどなく・・・鹿鳴館を舞台にした井上の外交は、西欧諸国の顔色を窺うだけの媚態外交と言われるまでに・・・
1887年井上馨外務大臣を辞任。
鹿鳴館も、国辱的建物として歴史の表舞台から消えていきました。

鹿鳴館外交失敗の代わりに、条約改正の大役を任せたのが陸奥宗光でした。
1888年5月20日、陸奥宗光は特命全権公使としてアメリカ・ワシントンに赴任することに・・・。
その使命は、日本の悲願である不平等条約の改正でした。
治外法権の撤廃と関税自主権の獲得でした。
亮子は長女の清子を伴い宗光について渡米!!
ワシントンに着くや否や、当時のクリーブランド大統領に謁見。
特命全権公使妻としての生活が否応なしに始まりました。
公使館では夜ごとパーティー。要人の訪問は、数か月で1200回!!
精力的に社交活動を行う亮子。
ドレスを着こなし、その気品ある姿は若々しく・・・娘とは姉妹のようだったと言います。
現地の新聞にも・・・陸奥夫人は、最も美しい日本人女性と書かれました。
亮子は人気者となり、国務長官や政財界の名だたる家々に招かれます。
しかし、亮子がアメリカでもてはやされたのは美しかっただけではなく・・・その教養からでした。
新聞を隅々まで読み、読書を欠かさず・・・
陸奥は、近いうちに自分が政治の要職に就くであろうと思っていました。
なので、亮子に社交界に出ても引けを取らないように、多くの教養を身に着けさせようと思っていたのです。
宗光の期待に応えようと、一生懸命勉強の日々を送っていたのです。
①完璧な英語を習得していた。
②日本の文化の奥深さを紹介した。
琴を披露し日本の魅力をアピール、日本の文学も英訳。。。
毎日2時間英訳をしていたそうです。
日本が文明後進国でない事・・・日本が外国と対等に渡り合えるということを証明しようとしていました。
日本公使館の内装も、和装にし、日本をアピールしていました。

まさにbrilliant!!
当時のアメリカの新聞でも絶賛され、社交界の華となっていきます。
陸奥は、条約改正に向けて、盛んに駆引きをしていました。
1888年、メキシコと対等な修好通商条約を締結。
日本にとって初めての対等の通商条約となりました。
帰国後・・・第二次伊藤博文内閣外務大臣となった陸奥は・・・
1894年イギリスとの条約改正に成功!!
これを突破口に、アメリカ、ロシア、ドイツ、フランス・・・と、条約改正を実現!!
不平等条約を結んでいた15か国すべてと条約改正を成し遂げることとなります。

夫婦は道連れの旅人・・・亮子は夫を支え続けたのでした。
1895年6月、亮子38歳・・・
高熱を出して倒れた宗光の療養のために、大磯の別荘に移り住みます。
陸奥は、その翌年に外務大臣を辞任。
波乱にとんだ亮子の人生で初めての穏やかな時間でした。
夫と二人、ハワイでも療養・・・しかし、陸奥の体調が回復することはなく・・・
1897年8月24日、54歳で亡くなります。
そして陸奥の死からわずか3年、亮子は後を追うように亡くなります。
1900年8月15日、45歳という若さで下。

陸奥は遺書を残しています。
「お国のために尽くすことだけを考えていたので、財産というものを残してやれなかったが、 多少の遺産を残すことができたのは、内助の功によるものが少なからず。」

そこには亮子に対する深い感謝と愛情があるように思います。
強く美しく前を向いて・・・愛する夫を支えたいという純粋な気持ちだったのでしょう。


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写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断

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西郷隆盛、勝海舟、木戸孝允、坂本龍馬、大久保利通・・・数々の英雄が歴史を彩った明治維新。
この維新があのような形で進んでいった理由は・・・御三家筆頭・第14代尾張藩主・徳川慶勝でした。

1868年鳥羽伏見の戦いで、新政府軍が勝利するも、江戸では旧幕府軍が徹底抗戦を主張!!
日本は、京都・江戸の間で国を二分する内乱の危機に陥っていました。
この時、慶勝がどちらに組するかで戦いの行方は大きく変わろうとしていました。

西国ににらみを効かす御三家筆頭・尾張徳川家。
1849年分家から尾張藩主となります。
幼いころから英才の誉れ高く、尾張家臣や領民から嘱望されての就任でした。
藩主となった慶勝は、海外の最新情報を集めることに力を注ぎます。
清が開国したことで生じた混乱・西欧列強の強大な軍事力・・・
国防に関心のある外様大名(福岡藩主・黒田斉溥、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬)らと連携し、来るべき外圧に立ち向かう道を探ろうとしていました。

藩主となって4年後・・・1853年ペリー来航。
開国を要求します。
策をまとめられない幕府に対して、意見「御尋二付建白書」をを提出。
国の根幹を揺るがす外交問題だとして朝廷と連携するべきだと進言します。
これは、挙国一致体制だと思われます。
慶勝は、日本全体を考えていたのです。


1858年日米修好通商条約締結
井伊直弼の・・・朝廷の了承を得ないままの本格的な開国でした。
それを知った慶勝は、急遽江戸城へ・・・!!
朝廷の許可を得ない条約の締結は、幕府の危機を招きかねない!!と、井伊直弼を責め立てますが・・・
反対に、突然の登城を責められ、藩主の座を追われ、謹慎の身となってしまいました。

謹慎の失意を慰めたものは・・・西洋の最先端テクノロジー・・・写真でした。
自由な外出も許されない慶勝は、屋敷の中で撮影に没頭!!
隠居謹慎の中で、写真に真実を追求していったのです。

慶勝の謹慎中・・・幕府を取り巻く環境は変わっていきます。
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜!!
幕府は天皇家と婚姻関係を結ぶことで権威を回復しようと公武合体を図ろうとします。
慶勝が求めていた朝廷との協力体制です。
しかし・・・孝明天皇は婚姻を認める代わりに厳しい条件・・・破約攘夷を求めます。
外国との条約を破棄し、外国人を退去させるよう求めたのです。
困難な状況に追い込まれた幕府が頼みにしたのが慶勝でした。
1863年正月 慶勝上洛。
朝廷との折衝役として・・・政治の表舞台に復帰します。

1863年5月長州藩外国船砲撃
各藩が勝手に行動しないように・・・幕府主導の下の挙国一致をしようとします。
そして慶勝の弟たちも・・・
会津藩主・松平容保は京都守護職に任命され、京都市中の治安維持を任されます。
桑名藩主・松平定敬は京都守護職となり容保を支えます。

長州が外国船に発砲した翌年・・・
1864年容保配下の新選組が池田屋で長州藩士たちの過激派たちを襲撃!!
2864年7月禁門の変、会津藩排除を唱える長州藩が、藩兵2000余りで京都御所に侵入するのを撃退しました。
長州は朝敵とされ、幕府に追討命令が出されました。
10月第一次長州征討
幕府にとって、230年ぶりの大規模な軍事行動です。
薩摩藩など35の藩で征討軍が組織され、総司令官に選ばれたのが慶勝でした。
15万の兵を率いて長州へ向かう慶勝。
ところが慶勝は、長州藩が禁門の変の首謀者として3人の家老の首を差し出すと、それを受け入れ、武力行使することなく征討軍を解散してしまいました。
どうして戦おうとしなかったのか・・・??

「聴衆を征伐して、海内を疲弊し、醜夷の術中に陥り候」

慶勝は、西欧列強が日本に進出する隙を与えないために、内戦を回避しようとしたのです。
そして、慶勝は、征討に参加した大名たちの合議で長州の処分を決めようとしました。

「外様大名も、日本の行く末を考えている・・・!!」

しかし、それに強く反対したのは、弟の会津藩主・松平容保でした。

「彼の諸侯を京師に召集すとある事を、深く非とせられ」

容保は、諸大名の合議で決めれば、幕府主導の政治体制が崩れてしまうと危惧していました。
これからの日本の在り方について・・・容保たちと相容れなくなってきました。

1866年6月第二次長州征討
幕府は命令に従わない長州に対して二度目の征討を行いました。
しかし、薩摩と同盟を結んで最新鋭の武器を獲得していた長州軍を前に、幕府軍は敗戦を続けます。
これを機に、薩長軍の討幕の勢いは加速し、幕府はその存続を脅かされていきます。
1867年10月将軍慶喜は起死回生の一手・・・大政奉還を行います。
政権を朝廷に返し、政治体制を大名の合議制に・・・その中で、主導権を握ろうとしていた慶喜。。。
慶勝も、大政奉還に賛同しています。
大名の合議制の確立が、世の混乱を立て直す機会だ!!と、持論に沿うものだったのです。
慶勝の望んだ挙国一致の体制が出来上がろうと見えましたが・・・

大政奉還から2か月後の12月、王政復古の大号令!!
薩摩藩、長州藩、公家の岩倉具視らが、天皇を中心とした新政府の樹立を宣言します。
慶勝はその新政府の要職に・・・。
ところが、新政府の中に慶喜の名前はありませんでした。
このままでは挙国一致の構想から徳川家が外れてしまう・・・。
慶勝は、慶喜を新政府に入れるように強く求めます。
これに対し、岩倉たちの条件は・・・”辞官納地”・・・つまり、慶喜の官位、徳川領200万石を朝廷に返上せよというものでした。
この徳川宗家を無力化する仕打ちを慶喜に伝える苦しい役を負わされたのが慶勝でした。
慶喜との会談の場で・・・
「尾張全国を宗室に還納し、以てその不足を償はん」
慶勝は、尾張の領地を宗家に返すことで、慶喜を支えるというのです。
新政府の中で、宗家を生き残らせたいという精一杯の進言でしたが・・・
慶喜は、これを受け入れようとはしませんでした。
そして最悪の事態が・・・!!

新政府の徳川家に対する処遇に不満を抱いていた容保たちが動きます。
1868年1月3日鳥羽・伏見の戦い勃発!!
旧幕府軍VS新政府軍の戦いです。
戦いは、錦の御旗を掲げた新政府軍の圧勝に終わります。

慶喜、容保、定敬らは、負傷兵を残したまま江戸に逃走!!
朝廷は彼らを朝敵とし、追討令を出します。
追討令が出されたその日、慶勝は岩倉具視から過酷な選択を迫られます。
旧幕府につくのか??新政府につくのか・・・??

宗家と共に起死回生の策に打って出るのか?
弟たちを敵に回しても新政府に留まるのか・・・??

1868年1月8日慶勝は自ら岩倉具視に告げます。
「勤王の道」と。

新政府側に付くことを選んだのです。
その後の慶勝の行動は素早く・・・
尾張藩の旧幕府派を処分し、名古屋から江戸にかけての大名に使者を送って、新政府側につくように説得!!
慶勝の工作は、寺や神社にまで徹底的に行われました。
集めた誓約書は500近くに上りました。
皆が揺れていたこの時期・・・尾張ケガ勤王誘因活動をする・・・
大規模な戦争をするのではなく、戦争を回避しようとしているという意思表示・・・
幕府の人材を失うことなく、徳川を残す・・・そんな行動だったようです。
2月6日、京都を発った新政府軍は、慶勝の働きもあって大きな抵抗を受けることもなく、僅か1か月で江戸に到着!!
江戸城は無血開城!!
慶勝は新政府に貢献する一方で、容保、定敬を救おうと一生懸命でした。
江戸で一橋家の当主となっていた茂徳に嘆願に当たらせます。
しかし・・・弟たちが許されることはありませんでした。
容保は会津で新政府軍に徹底抗戦ののち力尽きて降伏。
定敬は旧幕府軍最後の砦・五稜郭まで転戦するものの結局投降・・・。
二人は死罪は免れるものの、蟄居謹慎の身となりました。
維新の争乱も落ち着きを見せた明治4年・・・慶勝は名古屋から東京に移り住みます。

新しい町でも慶勝は写真の撮影をしました。
戦火を免れたかつての江戸を・・・。
慶勝が東京に移り住んだ翌年、容保と定敬は謹慎を解かれ・・・慶勝の日記には容保や定敬が登場するようになってきました。


4kyoudai

1878年9月・・・慶勝は弟たちを銀座に集めます。
行先は写真館。
兄弟そろっての記念撮影を呼び掛けたのです。


幕末維新という時代の曲がり角をそれぞれの信念で生き抜いた兄弟たち・・・。
これが最初で最後の集合写真となったのでした。





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明治十二傑・・・伊藤博文・福沢諭吉・・・そうそうたるメンバーの中に・・・男爵・伊達邦成(農業家)の名前がありました。
date仙台藩亘理伊達家当主・伊達邦成です。

北海道の開拓に従事した多くのものが、志半ばで挫折する中、伊達邦成の開拓地は、小さなアメリカと言えるほどの偉業である。
北海道開拓の先駆者として健勝された伊達邦成・・・家臣たちを率いて、現在の伊達市に移住して、一大農業生産地に仕上げました。
これは、北海道発展の礎となりました。

事の起こりは・・・邦成28歳・・・幕末の動乱でした。
1868年戊辰戦争の敗北・・・新政府の処罰を受けた仙台藩は、2万人と言われた家臣の大量解雇を余儀なくされます。
邦成は・・・家臣を救い、朝敵の汚名をはらすため、北海道開拓に活路を見出しました。
しかし・・・新政府の方針に翻弄される毎日でした。

開拓地の返上、武士の身分の剥奪・・・

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

どうしてこの困難を乗り越え、開拓に成功したのか?

江戸時代、北海道は蝦夷地でした。
アイヌの人々が暮らす北の大地。。。
人々が入植するようになったのは、明治維新。

1868年戊辰戦争勃発!!
新政府軍と旧幕府軍が衝突した戦いです。
新政府軍が勝利し、本州の制圧に成功します。
そして・・・新政府の目は、北海道へと向けられたのです。

主な理由は、ロシアに対する危機感でした。
樺太に軍を派遣し、さらに南下しようとするロシア。。。
北海道へ移民を送って開拓させ、日本の領土であるという既成事実を作ろうとします。

新政府の中心人物は、岩倉具視。
その構想は・・・戊辰戦争時、同盟して新政府軍に対抗し奥羽の人たちでした。
自由に土地を離れることのない時代、移民を送る・・・それは困難で不可能に近かったのですが・・・
反逆者を処罰するという意味でも北海道に移し、開拓させようとしたのです。

62万石だった仙台藩は、その盟主だったために、28万石に減らされ。。。
さらに・・・南側は、南部藩の領地とされてしまいました。
宮城県の南部にある亘理町・・・幕末まで亘理伊達家が治めていました。
当時の藩主は、伊達邦成。。。その支配地は、2万4000石でした。
しかし・・・敗戦によって支配地をなくし、わずか米130俵の俸禄の身分に転落してしまいました。
これでは・・・一人の家臣も養えない・・・
直属の家臣1300人の身の振り方を考えます。
人々は・・・伊達家家臣の身分を・・・武士の身分を捨て南部家の農民となるか、他を頼って亘理を出ていくか・・・二つの選択肢でした。

東北が制圧された後も、旧幕府勢力の戦いは北海道で続いていました。
1868年10月榎本武揚が函館を占拠、新政府軍相手の箱館戦争が始まりました。

ある日・・・家老だった田村顕允(常盤新九郎)が・・・

「新政府は、必ず北海道開拓に着手します。
 邦成公自ら家臣を率いて移住し、開拓の先駆けになれば、朝敵の汚名を受けた仙台藩人の冥加にかなうでしょう。」と進言しました。

箱館戦争が終結していないのに・・・この提案を受け入れる??
10年ほど前、江戸幕府は東北諸藩に蝦夷地の支配を任せていました。
仙台藩は、白老を拠点とし、300人の藩士を派遣していましたが・・・
成果をあげることができずに、蝦夷地開拓を放棄していたのです。

この頃・・・新政府の処罰に不満を持つ藩士たち600人が蜂起し、榎本たちと戦おうと箱館への逃亡をし・・・
邦成自ら兵を挙げ、鎮圧にまわっていました。
新政府に不満を募らせる家臣たちに危機を覚えるようになってきていた邦成・・・
家臣たちを連れて北海道を開拓する?それとも帰農させる???

田村は進言します。
「我らには、1,362戸、男女7,854人の恩顧譜代の家臣がいます。
 この人材こそが資本となるでしょう。」

邦成は、北海道開拓を決断・・・明治2年5月、新政府の許可を得ようとしました。
箱館戦争が新政府軍の勝利に終わった2か月後・・・邦成に北海道支配の命が下ります。

支配を認められたのは・・・胆振国有珠郡・・・現在の伊達市です。
有珠山の火山灰に覆われ・・・農業には不向きとされてきました。

ezoこの時・・・諸藩や士族たちに北海道開拓の統治が下りていました。
財政がひっ迫していた新政府は、分割統治させて自費で開拓させたのでした。

「君臣心を合わせ
 勤王の実効を奏し
 伊達家の汚名を濯ん」by邦成

先祖伝来の家宝から着物までを売り払い、資金を調達し・・・

家族を伴って移住しました。


明治3年3月・・・
第1回移住団250人が新天地北海道へ向かいました。

アイヌの人に協力を求め、年内の収穫に向けて・・・雪深い地を開拓し始めました。

刀を使って木を切り・・・食料としての蕗を集め・・・
困難は、他の開拓地でも当然でした。
皆が脱落していく中・・・有珠に止まり開拓していく伊達家の人々。。。
明治4年には開拓者の数は1000人を突破、開拓の成果も上がっていきます。
退路を断ち、既にあるアイヌ社会を尊重しながら、新しい共同体を作ろうとした邦成。
それが開拓成功の秘訣でしたが。。。

しかし・・・その努力を打ち砕くかのように・・・明治4年7月廃藩置県断行!!
これに伴って・・・開拓地は返上となってしまいました。
さらに・・・家臣たちの誇りだった士族・・・士族から平民へ・・・。

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

伊達武士団・・・彼らの夢は潰えた・・・??

明治4年8月・・・薩摩出身の黒田清隆が「開拓使10年計画」を打ち出します。
この計画は、10年間で1000万(現在の800億)を投入し・・・
外国から学者、技術者を招き、欧米の技術を取り入れて開拓を進めました。
黒田は、日本の国力増強のために、本格的に北海道開拓を始めたのです。

その頃邦成は・・・??
北海道を去ろうとしていました。
新政府に対するせめてもの抵抗だったのです。
しかし・・・開拓使は伊達武士団の成果を評価して、北海道に残るように説得します。
遂に邦成も折れ・・・
有珠の移民取締役として再び家臣たちと歩き始めたのでした。

戦略① 新技術を積極的に導入せよ
新しい農機具を調達し、抜本的な農業改革に取り組みます。
馬を使い効率よく畑を耕します。
有珠郡の特産物となったのは、砂糖の原料となった甜菜です。
当時は砂糖のほとんどを輸入に頼っており、国産化が求められていました。
有珠郡には官営の天才製糖所が作られます。
国力増強に大きな役割を果たします。

戦略② 力を合わせ新規事業を起こせ
明治9年・・・当時としては革新的な組織・・・永年社を作ります。
今でいう組合のようなものです。
移住者の出資と開拓使の補助金を積み立てし、見舞い金や新規事業の推進に充てられたのです。
菜種油・・・大豆・小豆を大都市で販売、硫黄の採掘・・・
新規事業への取り組みは、自給自足の生活からの脱却を助けました。

戦略③ 開拓の精神を次世代に伝えよ
邦成たちは移住の際から学校を設立・・・
初等教育を行ったのは、有珠郡にある紋鼈(もんべつ)学校。
自分達の開拓使・・・武士の在り方も教えます。
教育を通して武士を再生産し、結束力を高めようとしたのです。
有珠郡は人口3000人を突破し、開墾もよそとはけた違いの成果を出しました。
明治政府もこれを称え、移民の手本となりました。

明治18年・・・亘理伊達家臣団は士族に復籍。

彼等の開拓が無かったら・・・北海道の開拓は全く変わっていたかもしれません。
農業改革に大きな貢献を果たしたのは間違いありません。
明治25年・・・邦成は功績を認められ、民間人として初めて明治天皇から勲章を受けます。
難事業を不屈の精神で生き抜いたことを認められた瞬間でした。

同心協力・不屈の精神を以って。。。
負けを転じて福とした人々でした。

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江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。。。
慶喜といえば、大政奉還によって幕府から政権を独断で朝廷に返還。。。
そして新政府軍との戦いに敗れたアンチヒーローとして知られていますが・・・
その政治手腕が再評価されてきています。

慶喜失くして明治維新は実現しなかった???
慶喜は、歴代将軍にはなかった指導力で、内政、外交に手腕を発揮し、諸外国に日本の新たな国王として高い評価を得ていました。

今まで幕府の敗北宣言だとされてきた大政奉還・・・
新体制を掌握しようという野心が伺えます。
しかし・・・そんな慶喜を排斥しようと・・・王政復古のクーデターが起こります。
薩摩藩士・大久保利通を中心とする討幕の志士たちによって武力討幕が行われたのです。

慶喜はクーデターを事前に察知していた???
予期せぬ事態に対する慶喜の葛藤とは???

江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜は、英雄というイメージよりも敗者のイメージが強いのですが。。。
幕末史の影のヒーロー・・・只者ではなかったようです。

1866年12月5日 慶喜、江戸幕府第15代将軍に就任
この時、江戸幕府の権威は風前の灯でした。
問題のひとつは・・・開国問題。
孝明天皇は、外国との国交に断固反対していました。
開国路線をとる幕府の外交は暗礁に乗り上げてしまったのです。

長州征討も泥沼化・・・外交も内政も混乱の一途をたどっていたのです。

慶喜は起死回生に・・・
外交は・・・通商条約の勅許をもらおうとします。
一旦開港していた横浜を鎮港し、孝明天皇を懐柔し、勅許をえるのです。
その外交力に脅威を覚えたのが、島津久光。。。
幕府に独占されていた貿易に参加することによって利益を得ようと考えていたのです。

孝明天皇がなくなると、開国に舵を取ります。
兵庫の開港問題には・・・
自らの権限で兵庫を開港すると公約します。
自ら最前線で外交をする慶喜に、諸外国は絶賛の嵐。。。

その結果、外交交渉や通商は、幕府主導で進んでいきます。
久光ら大名たちを抑え、外交主導権を掌握する慶喜。

失墜した幕府の力を回復させていきます。
慶喜に求心力が・・・!!
慣例にとらわれない慶喜は、写真にも興味を示し、自らモデルとなっています。

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この肖像写真を外交に使います。
自分の肖像写真を各国君主と交換したのです。
日本の新しい国王であるかの景気の姿・・・
しかし、その力を脅威と感じ、退けようとする勢力が水面下で動き出していました。
薩摩藩士・大久保利通、西郷隆盛、公家・岩倉具視・・・武力討幕派です。


慶喜が率いる幕府を力でねじ伏せるために・・・討幕の密勅をあみだします。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を殲滅せよ!!
武力蜂起の極秘命令が下されたのでした。


しかし・・・慶喜は1867年大政奉還をし、大久保たちを驚愕させました。
大政奉還によって、大久保たちの大義名分が失われてしまったのです。
将軍自ら、政権を天皇に返すことによって、倒すべき幕府そのものを無くしてしまったのです。
大久保たちの討幕計画は中止されてしまいます。

これまで、慶喜の敗北宣言のように思われてきた大政奉還・・・
しかし、そこには思惑があったようです。
慶喜が朝廷に政権を返した時の建白書によると・・・
慶喜は政権を返すのは、日本を海外列強と同じような国家に生まれ変わらせるため。

「これからも、国家のために尽くせるのなら、これに勝る喜びはありません。
 全国の諸大名にも、将来の国づくりに意見のある者は、この慶喜に申し出るよう命じてあります。」

と、書かれています。

政権を返上しても、国政には携わり、諸大名からの意見も自分が取りまとめていく・・・
実質的に幕藩体制を維持した新体制を、朝廷に訴えていたのでした。

日本の政治そのものを変えていこうという気持ちが感じられます。

しかし、その後・・・時代は未曽有の大政変劇へ・・・!!


大政奉還によって、武力討幕派の機先を制した慶喜は、自らの指導する新体制を着々と実現しつつありました。
大久保たち武力討幕派は、決死の手に出ます。
王政復古のクーデターです。

慶喜を追い落とすには、天皇の力しかない!!
天皇親政を実現し、慶喜を排除するしか方法はなかったのです。

その為には・・・若き明治天皇を手中に収めなければ!!
明治天皇の外祖父・中山忠能を通じ、天皇の懐柔に極秘裏に成功します。

クーデター当日は薩摩の兵で御所を封鎖!!
西郷隆盛の指揮のもと、新体制を作ろうと目論んでいました。
慶喜と大久保とでは、思い描く日本の未来がかけ離れていたのです。

従来の身分制を無くしたい大久保たち下級武士は、将軍家を無くすことで大改革を実現しようとしていたのです。

クーデター直前・・・前越前藩主・松平春が、藩主に宛てた手紙には・・・
大久保たちのクーデター計画が、慶喜に漏れていて・・・対抗策を練るように書かれています。

「薩摩の大久保・西郷・公家の岩倉具視らが密謀を企てている
 ともすれば、京都に戦争が起こるかもしれない
 しかし、英明な慶喜公のこと、必ずや策を講じ、薩摩の計画を失敗に終わらせてくれるに違いない。」

慶喜の排除を目的に行われているクーデター計画・・・
慶喜どうする??


①武力鎮圧策
この時京都には、会津藩、桑名藩併せて5000の兵力があり、大久保たちを圧倒していました。
慶喜側からクーデターを起こし、薩摩を京都から追い出すのです。
しかし、京都が焼けてしまう。。。
国内に内戦がおこるかも知れない・・・
そうなると、欧米列強の内政干渉もあり得るのです。

②静観策
今、優先すべきは、日本に内乱を起こさせないことだ。。。
各藩にもそう書簡を送っています。
大政奉還を行った私に、どうしてことを起こすのだ。。。
武力を使わなくてもいいのでは???


慶喜は、新政府の主導権をかけた戦いにどう対処していくのでしょうか?
事態を静観する・・・でした。


京都に戦乱が起きないことを優先したのです。
12月9日早朝、クーデター計画は実行に移されます。
薩摩藩兵が御所の紋をすべて封鎖!!
そして、明治天皇による大政復古の大号令が出され、天皇を中心とする新たな体制が樹立されたのです。
新政府には、皇族をはじめ、公家、諸大名、各藩の有志が入閣・・・
しかし、そこには慶喜の名前はありませんでした。
おまけに、慶喜に組した摂関家の廃止・・・

慶喜にとって厳しい状況が生まれたのでした。

この時、京都が火の海になることを怖れ、慶喜は、会津・桑名両藩を、大坂に退去させています。
議会を進めていた大久保によって、慶喜の辞官納地がなされ、徳川の天領800万石は没収となったのです。
新政府の財源になるとのことでした。

すると、諸大名にも疑念が起こってきます。
王政復古の目的・・・それは、大名制の廃絶なのでは???
不協和音が・・・慶喜の復活を願う声が出てきたのです。

1867年12月24日、慶喜が新政府議定職に決定。
新政府に迎え入れることが決定したのです。
この事は、大久保に最後の覚悟を決めさせたのです。

「もはや、薩摩一国となっても、一戦交えるまでだ!!」

この時、薩摩藩浪士たちが、江戸市中を放火やテロ行為で攪乱!!
挑発に乗った庄内藩が、薩摩藩邸を焼き打ちしてしまいます。

藩邸を襲われたことで、薩摩藩は武力討伐に!!
戦闘準備に入ったのでした。

慶喜のいる大坂でも、会津藩・桑名藩が爆発!!
慶喜の手に負えなくなってきたのです。

1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発!!
薩長新政府軍と旧幕府軍との戦いになりました。
そして、慶喜にとっては最悪なことが・・・
薩長軍の掲げた”錦の御旗”です。
慶喜は、朝敵となってしまったのでした。
慶喜側は、総崩れ・・・わずか3日で敗走!!

それでも大坂城の会津・桑名藩は、戦意は喪失しておらず、当時最強と言われた幕府海軍を、江戸から大阪湾へ持って来れば、勝機はまだある!!

驚愕の事態が起きたのはその時!!
大坂城で戦う旧幕臣たちを残し、慶喜は江戸へ向け船で脱出したのです。

一体なぜ??

時代の流れに押し流されたという諦め???
下品、なりふり構わず・・・ということができない人だったのでしょう。

朝敵となった慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍を置いて江戸に帰還・・・
上野の寛永寺に入り、自ら2か月謹慎したのです。
再起を求める声があったものの・・・戦いを避け。。。

江戸に向かう新政府軍に書簡を送っています。
「今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どのような処分も受ける覚悟でいる。
 何の罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは止めて欲しい。
 すべての罪が、この慶喜にあり罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。」

内乱を避けられるのであれば・・・!!

その後、全国に内乱が広がることはなく戦争は終結。。。
ここに徳川の時代は潰え・・・明治新政府の時代が始まるのです。

大久保たちは、藩籍奉還・廃藩置県・秩禄処分・・・何百年にもわたって行われてきた封建制度を一掃したのです。
不平を抱く旧士族から、徳川再興を求めた時も、慶喜が政治的発言をすることはなく・・・旧幕臣が近づくことも良しとしませんでした。

その後、慶喜は、狩猟・油絵・写真・・・趣味人としての生活を40年送るのでした。
政治とは全く無縁の生活を送ったのです。

慶喜の汚名が晴れたのは、明治維新から30年以上も後・・・
明治31年には明治天皇に拝謁。
涙を流して喜んだと言われています。
明治35年公爵綬爵。
それは、慶喜が維新の功労者であるということを、新政府が認めたことを意味していました。

負けを徹底的に受け入れること・・・
受け入れがたいものを受け入れるのが自分の役割・・・

yosinobu2
大正2年11月22日病によって亡くなります。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。
 私は、その幕府を葬り去るために将軍となったのだ。」

明治維新の犠牲者は、世界的に見てもとても少ない・・・
それは、慶喜の功績なのです。 

”不作為を持って英雄となり
   科目を持って政治を変えた”
慶喜なのでした。


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