日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:島津斉興

その時、勤王志士・朝廷、慶喜政権、江戸幕府らは、西郷隆盛・大久保利通・薩摩藩年表帖 上巻 ペリー来航から王政復古まで、時系列でわかる! [ ユニプラン編集部 ]

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今から140年前の1878年5月14日、東京千代田区の紀尾井坂で事件が起こります。
明治維新を成し遂げた一人の英雄が暗殺されたのです。
殺されたのは、薩摩藩出身の大久保利通!!
大久保は、今の総理大臣である内務卿として、廃藩置県、身分制度改革などを断行。
そのため、武士としての特権を奪われた困窮した士族の恨みを買って、命を落とすこととなりました。
その死の間際まで大切に思っていた一人の盟友・・・それは、西郷隆盛でした。
背広の胸ポケットに・・・西郷の手紙が二通ありました。

「王政復古のことは、外国に良く説明すべし」
もう一つは、大久保の写真を送られた西郷が、あまりいい男ではないと大久保をからかった手紙でした。
西郷は、1877年自決してこの世を去っていましたが、西郷からの手紙を肌身離さず懐に入れていたのです。
その絆はどんなものだったのでしょうか?

大久保利通は1830年、薩摩国高麗町に生まれました。
父は、薩摩藩士の利世、母は薩摩藩医の娘・ふく・・・5人兄弟の長男でした。
大久保家は、下級藩士の家柄で貧しい暮らしでしたが、大久保はひたすら勉強し、学問に秀でていました。
幼い頃、高麗町から下加治屋町に引っ越して・・・運命の出会いが!!
同じ下級藩士の子で、3歳年上の西郷吉之助・・・後の西郷隆盛でした。
二人は、郷中教育という薩摩藩の青少年の教育制度の下、机を並べ学び、切磋琢磨しました。
西郷は大久保を「正助どん」と呼び、大久保は「吉之助どん」と呼ぶ親しい仲になります。
そして、赤穂浪士の討ち入りの日には、二人で夜を徹して「義臣伝」を読み、忠義を貫いた武士に胸を熱くしていました。
そして、二人は藩校「造士館」で学び、西郷は郡方書役助として、大久保は記録所書役助となりました。
そんな若き日の二人に試練が・・・
大久保が20歳の時に薩摩藩のお家騒動・・・お由羅騒動が起こります。
当時の薩摩藩主・島津斉興の家督相続をめぐって、正室の斉彬派VS側室の久光派の内紛です。
その結果、お由羅を寵愛していた斉興によって斉彬派が粛清され、斉彬派に属していた大久保の父・利世が喜界島に流刑となります。
1850年・・・大久保もこれに連座して免職・・・謹慎となりました。
収入を発たれた大久保家は困窮・・・大久保は恥を承知で妹の嫁ぎ先に借金を頼み込みます。
それでも先の見えない生活に大久保は・・・「何も心配することなか」と、安心させようとします。
そんな時、大久保を支えてくれたのが西郷家でした。
大久保は、西郷の家にやってきて、黙って食事をして帰ったともいわれ・・・西郷も大久保を弟のように思っていたようです。
西郷は、このお由羅騒動で、恩師・赤山靱負が切腹しています。
悔しい思い、苦しい思いを共有していました。
大久保の謹慎は3年に及び、解けたのは1853年のことでした。
島津斉興が隠居し、息子の斉昭が藩主となったからです。
復職した大久保でしたが・・・その時すでに、西郷は異例の大出世をしていました。
11代藩主は斉彬の手足となって東奔西走・・・そして大久保は・・・??

復職した大久保は、薩摩の若手藩士らと、秩序と大義名分を重んじる朱子学の勉強会を開き、藩の力になろうとしますが・・・
彼等が藩を見限り脱藩を画策する思想集団へと変貌していきます。
そこには、藩主・斉彬の存在が大きくありました。
斉彬は黒船来航によって現実味を帯びてきた西欧列強の侵略を警戒し、この国難を乗り切るために、朝廷、幕府、諸藩が一体となって政治を行う挙国一致体制でなければならないと・・・実現に向けて奔走するものの・・・
あくまで幕府が主体となって政治を行おうとする大老・井伊直弼と対立!!
そんな中、1858年7月16日、斉彬が急死してしまいました。
その後を甥の忠義が継ぎます。
しかし、薩摩藩の実権を握ったのは、忠義の父で斉彬の弟・久光でした。
久光は、井伊直弼と対立していた斉彬のことで幕府から追及されないように斉彬の腹心だった西郷を島流しとし、蟄居を命じます。
これに猛反対したのが、勉強会のメンバーで後の精忠組です。
精忠組は大久保がリーダーとなり、蟄居となった西郷精神的な盟主として藩政に異を唱えるようになって過激化していきます。
久光は、幕府に対して恐れを抱いていました。
大久保はそんな態度が不満で、斉彬の遺志を継いでほしかったのです。
そこで大久保は考えます。
「わしらが動いたところで限界がある
 薩摩藩を動かすために、藩の事実上の支配者である久光公を、動かさなければ・・・!!」
しかし、下級武士で久光に会うこともままならない大久保が、どうやって・・・??

そこで大久保は久光に取り入るために策を練ります。

①囲碁

久光公は碁をする・・・相当な碁好きと知った大久保・・・大久保の趣味も囲碁でした。
そこで、久光の碁の相手をしていた碁の名手・吉祥院の住職に弟子入りします。
さりげなく住職に政治の意見を語り、住職を通じて久光の耳に入るようにします。

②書物
大久保は久光が読書家であることを知ると・・・
詠みたがっている本を知人からそれとなく聞き出し、その本を探し出し、藩の政治に対する自分の意見を挟み込みます。
そして久光公に献上し、喜ばせると同時に自分の意見も直接伝えていました。

幕府を恐れる久光に不満を抱く精忠組の薩摩藩士たち・・・
前藩主・斉彬が目指していた薩摩藩が参加する挙国一致体制を実現するため、リーダーだった大久保は大胆な行動に出ます。
精忠組四十数人が脱藩!!
水戸藩など尊王攘夷派の志士たちと共に、挙国一致体制の障害となる大老・井伊直弼たちの暗殺を計画したのです。
この計画が実行されれば、薩摩藩は窮地に陥ってしまう・・・!!
1859年11月5日、誠忠組全員が遺書を認め、船に乗り込もうとしたその時・・・
精忠組の計画を知った久光によって藩主・忠義の名で諭書が出されました。
そこには・・・
薩摩藩は斉彬公の遺志を尊重する。
精忠組の有志達も脱藩せず、協力してほしい。
と書かれていました。
久光が折れたのです。
大久保は、もはや脱藩の必要はないと、血気盛んなメンバーを説得し、計画は取りやめとなったのです。

しかし・・・この騒動は、大久保によって仕掛けられたものでした。
精忠組の中でも冷静で沈着冷静だった大久保は、内心では地方の浪士が幕府首脳を暗殺することは無理だと考えていました。
そこで、精忠組の脱藩計画を久光側に漏らし・・・
慌てた久光は、彼らを引き留めるために慌てて諭書を出すこととなったのです。
大久保は、久光が兄・斉彬と同じく挙国一致体制を目指しているのを知っていました。
久光を促すために、脱藩計画を利用したのです。
そして・・・精忠組を説得したことで、久光の信頼を得ます。
さらに大久保は、久光との交渉の中でもう一つの条件を出していました。
西郷隆盛を奄美大島から戻すことでした。
この転換期に、薩摩にとっても日本にとっても必要な男だと思っていたようです。

大久保はこの日のことを日記に記しています。

「藩全体で立ち上がってこそ、大偉業が出来る。」

大偉業とは、挙国一致体制・・・更なる作戦を繰り出します。

大久保利通は、西郷隆盛を鹿児島城下に戻すことに成功!!
そして、亡き斉彬の遺志を継いで西郷と共に奔走します。
しかし、外様大名の薩摩藩の言葉が簡単に幕府に通るはずもなく・・・
久光は、自らが上洛して朝廷を動かそうと考えます。
それを実現させるために動いたのが大久保でした。
1862年1月京都・・・島津家と関係の深かった近衛忠煕・忠房親子と対面します。
薩摩藩が目指す挙国一致体制の実現を訴えて、強力を要請します。
そして、近衛親子を通じて、久光が上洛し、幕府の改革を要求する建白書を朝廷に提出することとなったのですが・・・
大久保が準備を整えた上洛に異を唱えたのが西郷でした。
西郷は久光は藩主ではなく後見人だと主張します。
「久光公は、憚ることなく申せば田舎者!!
 しかも不用意であり、今乗り出したとしても、事が成就するとは思えませぬ!!」
この言葉に激怒する久光!!
大久保が仲裁に入り、事なきを得ます。
3月16日、久光は上洛するため、大久保ら1000人を従えて薩摩を出発しました。
上洛に伴う準備を任された西郷は、下関で久光一行の到着を待つように言われていましたが・・・
京都で尊王攘夷派の過激な志士たちによる挙兵の動きがあると知ると、それを阻止する為に、久光の命に背き、無断で京都へ・・・!!
またしても、西郷が・・・!!
激高した久光は、西郷に対して捕縛命令を出します。
4月9日・・・それを知った大久保は、兵庫の浜辺に西郷を誘います。

「最早・・・久光公の怒りを鎮めることは難しい・・・
 きっと吉之助どんは捕縛を免れられない・・・
 そうなれば、吉之助どんは面目を潰されたと切腹をするだろう。
 自分にはそれを止めることもできない。
 吉之助どんが死ねば、自分も生きている甲斐はない
 だからお互い、ここで刺し違えて死ぬことにしよう。。。」by大久保

この言葉が、西郷を動かしました。

「自分はどのような辱めを受けようと、耐え忍び、わしらが目指す前途を見つめるつもりだ。
 自害はしない。
 ここで二人して死んだら、誰が斉彬公のご遺志を実現するのか・・・??」by西郷

こうして西郷は、捕らえられることを受け入れ、沖永良部島に流されたのです。

8月21日武蔵国生麦村で・・・薩摩藩を揺るがす大事件が起こります。
大久保は一部始終を目撃していました。
大久保が久光の行列に付き添っていた時に・・・ 
イギリス商人チャールズ・リチャードソンと遭遇。
警護役が馬を降りて端によれというものの・・・彼等は無視しました。
すると、激怒した薩摩藩士が無礼打ちとして4人に斬りかかったのです。
その結果、一人が死亡し、二人がけがをしました。
世にいう生麦事件です。

イギリスは、悪質な攘夷行動と受け取りました。
怒り心頭のイギリスは、幕府に対して正式な謝罪と、10万ポンド(約370億円)の賠償をもとめてきました。
薩摩藩に対しても、犯人の逮捕と死刑執行、遺族と負傷者に2万5000ポンド(90億円)の賠償を要求します。
もし要求に応じない場合は、軍事行動に・・・!!
横浜に停泊していたイギリス艦隊に恐れをなした幕府は、事件の発生から8か月後、賠償金全額を支払いました。
ところが、薩摩藩は拒否!!

1863年6月・・・薩摩藩との交渉が難航する中、イギリスは軍艦7隻を横浜から薩摩に向かわせ、軍事的圧力で要求をのませようとします。
そして7月・・・薩英戦争火ぶたが切られました。
イギリス艦隊のアームストロング砲が炸裂し、鹿児島城下は火の海となり、街の半分が焦土と化します。
薩摩藩側の中心となったのは、攘夷派の武士たちでした。
この時大久保は、圧倒的なイギリスの軍事力に、攘夷論に限界を感じるようになりました。

9月28日、横浜のイギリス公使館で講和交渉が行われました。
薩摩側は賠償金の受け入れを決めました。
しかし、大きな問題が・・・薩摩藩には賠償に充てる資金がなかったのです。
そこで大久保は??
江戸へと向かいます。
幕府の担当者に・・・
「英吉利の要求通り、賠償金は支払います。
 ただしそのお金は、幕府が用立てていただきたい。」
と、幕府に圧しつけたのです。
幕府はこれに激怒し、拒否!!
すると大久保は幕府を脅します。
「薩摩藩は賠償金を支払えません。
 幕府が支払わないと、また戦争になりますが、それでもいいのですか?」
この大久保の一言で、幕府は賠償金を肩代わりすることになったのです。

大久保は、1863年には久光の秘書役・御側約に就任します。
そんな大久保の悲願は、前藩主・斉彬の挙国一致体制を確立し、新しい政治の枠組みの中に薩摩藩を組み入れることでした。
しかし、これに大きく反発したのが幕府でした。
朝廷の力を背景に、久光の幕政改革案を飲まされた幕府は、薩摩藩を恨んでいました。

そんな中、1864年1月、久光の提案で京都に新しい政治の決定機関・参預会議ができました。
参預と呼ばれる評議員を幕府と諸藩の有力者から選出し、朝廷がそれを任命・・・。
朝廷から参預に任ぜられた人物が重要な政策を協議するというものでした。
参預として参加したのは、徳川慶喜・松平容保・松平春嶽・伊達宗城・山内容堂・・・諸藩からは、藩主や経験者が選ばれ、久光は本来ならば藩主でないので参加できないものの朝廷から「左近衛権少将」の官位を授かり参預として参加しました。
この6人で、日本の重要問題が協議されることとなりました。

ところが・・・会議は、開港していた横浜港を巡っていきなり紛糾・・・
久光は開港を続けるべき・・・他のメンバーも同意しましたが・・・慶喜が反対し、鎖港を訴えたのです。
幕府中心の政治を展開したい慶喜は、薩摩藩が力を持ちすぎることを警戒していました。
どうしても、自分が主導権を握りたかったのです。
そう・・・参預会議は、幕府と薩摩の権力闘争の場となってしまったのです。

慶喜は、攘夷論者の孝明天皇の支持を得ていました。
攘夷思想の孝明天皇に、横浜鎖港を主張し、取り入ったのです。
幕府主導の公武合体を画策したのでした。
大久保の悲願だった参預会議が行き詰ってしまいました。
行き詰ったのを心配した朝廷が設けた酒席で、酔った慶喜が大暴れ!!
久光らを指さし、罵倒したのです。
最早慶喜との話し合いは不可能と・・・幕府を見限って参預辞職を申し出た久光。
こうして新しい政治体制は短期間で瓦解・・・。
薩摩藩が朝廷や幕府と共に政治に参加する道が閉ざされてしまいました。
挙国一致体制が不可能と知った大久保・・・考えを一変させます。

「幕府を倒す!!」討幕へと舵を切ったのです。
奇しくも、久光が参預を辞職したのと同じころ・・・島流しを許された西郷が・・・!!
こうして大久保と西郷は討幕へと突き進むこととなるのです。

王政復古を断行し、新政府を樹立、廃藩置県、版籍奉還などの近代国家への大改革を成し遂げていきます。
大義の為ならば命がけで・・・!!
しかし、二人はやがて決別・・・西郷は西南戦争の首謀者として自決!!
大久保は大改革の反発を一身に受けて・・・
1878年5月14日、道半ばで暗殺されてしまいました。
49歳の若さでした。


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斉彬に消された男―調所笑左衛門広郷

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地中海に面したフランスの都市トゥーロン。
ここに、興味深い絵が残されています。
水彩で描かれた南国の島・・・そこには琉球王国の大臣が・・・。
これらの絵が描かれたのは、1846年。
フランス海軍中尉によるものです。

この年、フランスは琉球に3隻の艦隊を派遣していました。
目的は、開国通商・・・。
アヘン戦争をきっかけに激化する東アジアの勢力争い・・・
その矛先が、終に日本に向かったのです。
この問題に真っ向から当たったのが、当時琉球を支配していた薩摩藩の家老・調所広郷でした。
圧倒的な武力で開国を迫るフランスの脅威。
頑なに鎖国を掲げる幕府・・・。
そんな中、調所は一世一代の賭けに出るのでした。
調所の命をかけた秘策とは・・・??

1776年鹿児島城下で下級武士の次男として誕生。
13歳で調所家の養子となりました。
調所家は祖父の代から茶道坊主を務めており、広郷も剃髪し、その道を選びました。
23歳で江戸に出府・・・奥茶道に・・・。
藩主を凌ぐ権力を持つ重豪の目に留まったとこは、広郷にとって大きな転機となりました。
1828年、武士に戻り、藩全体の財政改革を任されます。

その頃、薩摩藩は破産の危機に瀕していました。
幕府から命じられる治水工事などの莫大な負担。
島津家の姫君を将軍家に嫁がせる婚礼費用。
借金は膨らみ、500万両・・・今のお金にして2500億円を超える膨大なものとなっていました。

調所が財政改革の柱の一つにしたのが奄美大島の黒砂糖でした。
それまで島民に許されていた砂糖の売買を禁じ、生産量すべてを薩摩藩に納入させ、大坂商人を使って売りさばきます。
黒砂糖の利権を与える一方、大坂商人たちに債務返済に大幅な譲歩を迫ります。
元金千両に付き年4両返済、250年割賦という強引な条件を飲ませたのです。
そしてもう一つの切り札が・・・
北海道近海の昆布を富山を介して入手し、琉球を通じて清国に輸出していました。
この貿易を発展させようとしたのです。
薩摩藩は漢方薬の原料である薬種を輸入販売していました。
富山の売薬商から入手した昆布を琉球の交易船に積み、清国で販売し、薬種を仕入れ、日本の市場で売りさばいたのです。
当時、貴重な薬種の殆どは幕府でしたが、薩摩藩は琉球を通じて一部の薬種の輸入販売が許可されていました。
調所はこれに目をつけ、規制を越えた量、薬種を売買し、膨大な利益を生んだのです。

誰もがなしえなかった財政再建を実現し、50万両もの備蓄金を蓄えるに至った調所。
そんな調所の前に思いもよらないことが・・・。
1844年3月11日、一隻の軍艦が琉球に・・・フランス船アルクメール号です。
琉球王府に対して、開国通商を要求しました。

アヘン戦争で清国に圧勝したイギリスは、香港を割譲させ、東アジア貿易の拠点を手に入れていました。
中国市場で後れを取ったフランスは、琉球に狙いを定めたのです。
この要求は、琉球王府を動揺させます。
当時の琉球王府は薩摩の実効支配だけでなく、名目上は清国の柵封を受けた属国でした。
独自の通商など許される立場ではなかったのです。

琉球王府は、フランスの要求を必死に拒絶!!
我国は、金銀銅などの資源が乏しく、貿易には耐えられない・・・と。
しかし、船長はこれに応じず、再交渉の為大艦隊が来ると通告し立ち去りました。
薩摩へ急報・・・そのことは、幕府に伝えられました。
6月・・・調所はフランス船への対処を幕府と協議。
鎖国を掲げる幕府としては、フランスの要求を放置するわけにはいかない・・・
対応に当たったのは阿部正弘。
調所に、琉球への警備兵派遣を命じます。
調所も従い、100人ほどの兵を渡海させました。
一旦は鎖国に従った調所・・・しかし、この後、調所は薩摩を意外な方向へ導いていくのです。

1846年5月、3隻のフランス艦隊が琉球に来航。
フランス海軍提督ジャン・バティスト・ヤシーユ・・・自ら琉球に出向き、開国を迫ります。
ヤシーユは今後国も極秘にある計画を進めていました。
「琉球諸島は、日本とヨーロッパの中継地点になり得る
 那覇の仲買人を使って、我々が必要な商品を日本から輸入し、引き換えに日本の裕福な貴族が欲している品を輸出する」

セシーユの目的は、最終的に日本の開国通商でした。
琉球が拒否するので、一向に進展せず・・・。

セシーユ同様、通商への道を模索し始めていたのが、調所広郷でした。
背景には、財政再建の前途に兆し始めた暗い影が・・・
国内各地で砂糖生産が盛んになったことで、黒糖価格が下落。
もう一つの柱・・・唐物貿易も、密貿易の疑いを強める幕閣によって免許停止に・・・。
そんなタイミングで直面したフランスの通称要求・・・
拒絶策・・・和親通商策・・・どうする??

1846年5月25日江戸城・・・
調所は、老中・阿部正弘と対峙しています。
調所の選択は・・・

「琉球は、外藩である
 琉球に限定して、交易を許していただきたい。」by調所

調所が選んだのは、和親通商策でした。

「要求を拒絶すれば、フランスは清国と交渉して、勝手に交易を始める
 幕府としても、捨て置けず戦になる」と・・・。

調所の巧みな主張を、阿部は受け入れるほかありませんでした。
幕府は琉球を「異国」として薩摩に対策を一任。

まさに、調所の目論見通りの展開でした。
許しが出た4日後・・・6月12日、密命を言い含め、使者を国元に送ります。
その内容は・・・
琉球北部の運天港に商館を建て、薩摩が1,2万両の資金を準備し、日本の反物とフランス製品の交易をおこなうというものでした。
上手くいけば、御禁制の5種の唐物を紛れ込ませる・・・。
調所は、閉ざされられた唐物貿易をフランスとの貿易で打開しようと考えていたのです。
ところが、これに難色を示したのが、琉球でした。
日本の反物や金銀を貿易すれば、琉球には物産がないとしてフランスの要求を断ったことと食い違う・・・と主張したのです。
砂糖などは貢納として薩摩藩に吸収されていました。
貿易そのものを維持するだけの商品がない・・・それは、経済的な植民地になる可能性があったのです。
原料を収奪され、インドのように市場として編成をされる・・・。
貿易は無理だったのです。
さらに、フランスとの貿易が露見すれば、清国との貿易にも影響が出ると調所に脅しをかけます。
完全に調所の案は、暗礁に乗り上げてしまいました。
そして・・・調所の足元を揺るがしたのは・・・

1847年5月、阿部は島津斉彬とあっていました。
40を目前にした斉彬が、藩主の座を手に入れるために、藩の内情を幕府に漏らした可能性が出てきました。
調所が考えていた10万両規模の琉球を舞台にした中国との密貿易。
この実態を幕府に知られては困ります。
そして、琉球に派兵した軍隊の数を虚偽申告していました。

阿部との会見の直後、斉彬が薩摩に書簡を送っています。

”調所一派のありとあらゆる行動・・・とりわけ琉球の事情を 逐一探り出すように”
そして、事態は思わぬ結末に・・・
1848年12月19日、参勤交代で江戸に赴いた調所が藩邸で死去しました。
享年73歳でした。
吐血が見られたことから、死因は服毒自殺だと推定されています。
調所の死の背後に何があったのか・・・??
しかし、調所の突然の死によって、薩摩の秘密は闇へと葬られたのです。

調所の戦略構想は・・・
①財政立て直し
②農政改革 貿易で増収
③軍制改革
でした。

琉球は軍事力はないが外交力がありました。
琉球が清国を使って上手く立ち回ったのです。
幕府としても、大々的にフランスと開国通商すれば、他の国も・・・開国政策全面展開せざるを得なかったのでしょう。
ヨーロッパと直接貿易できる藩ができたら・・・
ナポレオン戦争のあとに開発された最新型の銃が薩摩に渡ることになります。
そこまで見据えて・・・調所は貿易を考えていたのかもしれません。

薩摩藩別邸・仙厳園・・・今も、島津斉彬が作らせた工場や反射炉跡が残っています。
藩主の座に就いた斉彬は、薩摩の近代化を強力に進めます。
その後、斉彬の薫陶を受けた西郷隆盛や大久保利通らが明治維新を成し遂げる中、調所は不当に貶められてきました。
調所家は家格を下げられ、家禄や屋敷も召し上げられました。
鹿児島に有志によって調所広郷の像が建立されたのは、僅か20年前のことです。

島津家の墓所・福昌寺跡・・・調所広郷は現在歴代藩主と共にここに祀られています。
遺骨は一時、東京に移されていましたが、平成13年、子孫の尽力によって、ここに分骨埋葬されるようになりました。

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個人的に、歴史の事は人より詳しいつもりです。
でも、西郷どんを見ても、幕末はサッパリ迫ってきません。
なので、80歳になる実家の母に聞いてみました。
「お母さん、西郷どんなにやってるかわかる??」by私
「う~ん・・・あんまり政治的なことが分からへん。
 でも・・・あの回なに??ホモ??」by母

脚本家先生、先生のやりたいこと(ボーイズラブ)は、80歳を超えた母には理解できたようです。
私はあんな脚本で、月照さんがとってもいい声で、綺麗だったのが、本当に気の毒でした

前回、安政の大獄のために、西郷と薩摩に逃げることとなった月照さんです。
どうして月照さんが追われることとなったのか?
この大河ではあんまり解らないんですが・・・
ざっくり言うと、尊王攘夷に傾倒していた公家たちや活動家たちと関係があったということ。
ここでは出てきませんが、幕末のいろんな人と人との仲を取り持っていたのです。
そんな、清水寺成就院の住職であったのに、その座を弟に譲って、勤王の僧となることを望んだ人です。
だからこそ、安政の大獄で目をつけられ、薩摩に逃げることとなります。
ってことがないと、緊張感のない↓のような話になってしまうんでしょうか??

人相書きも出回って、関を越えられないのでは??ということで、月照様がお坊さんだということを利用するんですが・・・

「御坊様のくせに悪かお人じゃあ・・・」という有村俊斎が下品でなりません。
月照様なんか、あんたなんか声もかけられない尊いお人なんだよ!!と言ってしまいたい!!

ということで、西郷家にやってきました。
どうも・・・西郷家で匿うらしい・・・。
目立っていかんやろ・・・
でもって・・・西郷家のホームドラマ要らない・・・。

don















唯一つ、言っておきたいのは、おばあが父の名前と間違えて、「吉兵衛~~!!」と言っていて、まるで痴ほうかのように家族がいいますが、西郷吉之助は10回も名前を変えていて、この当時吉兵衛だったようです。
なので、おばあはボケてもいませんよ!!

don2















でもって、この二人も薩摩に帰ってきたようです。
「お久しぶりね~~!!」歌ってください、ルミ子さん

篤姫は天璋院となっていました。
「母上・・・ひとつお聞きしてもようございますか?
 母上は、私のことがお嫌いではないのですか??

 私は母上を信じることができません。」by家茂

??なんでそんな話を突然突っ込んでくるんだ・・・
井伊直弼がそう言わせているって持っていきたいのかしら・・・??
母上に気に入られるように頑張れよ・・・!!

一橋慶喜を公方にできなかった責任を取って・・・
努めは十分に為したと言って薩摩に変えるべきだと言い出す幾島・・・
何のことやら・・・何を言っているのか??ではないな・・・言わんとしているのか?さっぱりわかりません。
理解できん・・・。

「やはり私はお暇を頂戴したしとう存じます。
 京へ帰らせてください・・・」by幾島

「そなた・・・私のために汚名をかぶるつもりか・・・??」by天璋院

そんなこんななこと、必要か??
第一、まず、篤姫がそんなにお暇を頂戴できるのか??
14代将軍が子供な今、大奥を取り仕切るのは篤姫じゃないの??
ってことは、幾島も必要だろ・・・??

「古来、戦に敗れたものが咎を受けるのは当たり前のこと・・・
 これで少しは示しがつきましょう。」by幾島

何をやっているんだ・・・このドラマは・・・。
篤姫と幾島にこんなに時間を割いていいんかい??
もっとやるべき事あるやろ・・・??って思っているうちに、幾島が去ってしまいました。
なんだかなあ・・・幾島が何で去るのかもようわからんわ・・・このドラマ。
ちなみに、和宮が降嫁してきたときも、幾島はいます!!

??正助は、嫁さん・満寿のつてを頼るのか??
もっとギラギラ政治に突っ込んで行けよ~~~!!
満寿のおかげで、山田さまと対面!!
吉之助と月照様を助けてくれるようにお願いします。
「断~~~る!!」by山田為久
って・・・徳井さんまんまの声です。
他になかったのか・・・ギャグにしかならんわ・・・
で・・・なんだかんだと山田さまが久光の子・茂久へのお手紙を預かってくれたのでした。

それにしても・・・久光さまが愚鈍にしかみえないわ・・・と思っていたら、なんと、実権を握り返したのは元殿の斉興でした。
ますます久光さま・・・愚鈍だわ・・・。
なんだか滅茶苦茶・・・。
「お前に斉彬の代わりがつとまると思うか??」みたいなことを言われて斉興に怒られる久光ですが・・・斉興さま・・・斉彬のことが嫌いで、久光が好きだったんじゃないの??
このままでは権力にすがる爺にしか見えないわよ・・・
どうして斉興が実権を握りたいのか??その構図を見せてもらわないと・・・。
きっと、斉興は、斉彬のように湯水のようにお金を使う・・・そこまで対策をしなければいけないと思っていなかったと思われます。
ただ・・・アヘン戦争、琉球、外圧・・・それは斉興もわかっていて・・・でも、そこまでお金は出せないよね~~出し過ぎ・・・。って思っていたのは事実です。
だって、斉彬のおかげででまたもや重税にあえぐんですから・・・農民は。

で・・・斉興の言いなりだから・・・西郷&月照は日向送りに・・・。
って・・・やりたいなら西郷どんは切腹させればいいだけなのになあ・・・。

don3
















久光に直談判して西郷を助けてくれと願う正助ですが・・・
こんなに自分で会えるなら、前出の山田さまのくだりは必要だったのか??と思ってしまうのだ。
思いのままにならずにふてくされて碁を打っている久光。。。

どんな力を使ったのか??
最高権力者島津斉興にまで話に行く正助・・・。
う~ん・・・全く理解できん・・・。
話がブツブツ切れていて、何が何だかもう・・・。
と思っていたら、西郷家はウナギを食べていました。
あ~、緊張感ないわ・・・。やめてくれよ・・・。
また、ウナギを焼いてくれ・・・なんて・・・アハハ・・・!!なホームドラマなところにやってきた正助。

力が及ばなかったことを誤った正助・・・
なので、最後の手段・・・正助案では、吉之助に月照を始末させようとします。
そう・・・薩摩にとっては必要な男!!みたいなことを並べ立てるんですが・・・西郷さん、何かしましたか??
なんでも、西郷さんが死んだら、薩摩も日本国も死んでしまうんですって!!
もう、大変!!

しまいには・・・「おいのために、死なんでくりやい・・・」by正助
??こっちもボーイズラブですか??
それもいきなり??

don5















でもって・・・月照&西郷さん・・・こちらもボーイズラブだそうです。
で・・・入水・・・。

う~ん・・・西郷さんと月照さんがお互いに想い合っていたいたかどうかはともかく、お互いに命をかける存在であったかどうか・・・この薄っぺらいドラマでは全くわかりませんでした。
ボーイズラブに対しても失礼でしょ??
これならマンガやアニメの腐女子のパロディの方がましです。

私がBLと出会ったのは中学生の頃、JUNEという雑誌を友達が持っていたところから始まります。
そのJUNEを持つようなのは特別だったんですが・・・
当時、オタクたちの間で流行っていた801・・・ヤオイ・・・つまり、「やまなし、おちなし、いみなし」の、男の子たちのパロディでした。

オタク女子・・・なかでも腐女子の間では、原作をパロる際に、801・・・今はBLか?するかギャグにするか?普通にシリアスに妄想するか?なんですが・・・私が一番最初に知った801パロなキャラは・・・

sya-kin

ああ・・・カッコいいですね。
勇者ライディーンのひびき洸&プリンス・シャーキンです。
ああ・・・安彦良和さんの絵、とってもいいです。
ちなみに・・・このシャーキンは後にシャア・アズナブルのモデルになったとか??

でもって・・・この後続く長浜ロマンロボシリーズ(コン・バトラーV、ボルテスV、闘将ダイモス)も、主人公と宿敵という形なのに、敵役が美形のせいで腐女子の毒牙にかかってしまいます。

でも今のような感じになったのは・・・私が知っているのは”シャアガル”・・・つまり、機動戦士ガンダムのシャア&ガルマです。

syaagaru














こちらは、機動戦士ガンダム・ジ・オリジンの若き士官学校時代のシャア&ガルマです。

まあ、この二人に限っては、ガルマはシャアの復讐対象のザビ家だったわけですから・・・でも、そこに萌えが発生するんでしょうね。

”シャアガル”みたいに・・・
例えばキャプテン翼なら”小次健”は日向小次郎&若島津健、スラムダンクなら”流花”は流川&花道、ワンピースなら”ルゾロ”はルフィ&ゾロ・・・みたいに縮めて呼ぶんですが・・・
ここら辺は、友情や信頼を腐った目で見るとBL化してしまうってところでしょうか?

幕末なら・・・筆頭は近藤勇&土方歳三でしょう。
BLではないにせよ、男が男に惚れて信頼し合っている二人だからこそ、ドラマが生まれるんだと思うんです。
西郷&月照に、何があったのか?
ボーイズラブはNHKでは描けないでしょう??
そして、腐女子に萌えてもらうなら、もっと信頼し合っているシーンが必要でしょう。
近藤&土方なら、しびれるような命をかけた信頼し合っているシーンがたくさん書けたことでしょう。
ちなみに私は、司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」の土方歳三&お雪が好きです。・・・もちろん、ノーマルですよ??

この西郷&月照、何も始まってないのに手と手をとり合って入水自殺した・・・ように見えるんですが・・・どうでしょう。
萌えることなんて・・・できない!!
???な、一つしかない命・・・勿体ない死に方でした。

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前回の「安政の大地震」は、未曽有の被害をもたらしました。
マグニチュード7.0、被害は最大で2万人ともいわれています。
このドラマでは、紀行でなくなっていた吉之助にとっての大事な人・藤田東湖も亡くなっていますが・・・
そう、東湖先生は、この地震で実母をかばって亡くなったと、ドラマ的にはとってもいい話なのに・・・
そんなこんなはどうでもいいのか、吉之助はダメになってしまった篤姫の輿入れの準備に大忙しです。
う~ん・・・最後には、材木問屋?で、のこぎりで材木を切ってお手伝いをする始末・・・。
壊れてしまった花嫁道具を1年で整え直しました。

・・・これって、吉之助でなくてもよくね・・・??
幕府にとどめを刺したのでは??とも思われる安政の大地震の何もかたらずでしたね・・・

don5












そして、輿入れする篤姫。。。
don6












上様はこんな人。

西郷は、篤姫の輿入れを成功させたとしてご褒美です。

don4















薩摩切子で、焼酎で乾杯です。
尚古集成館で一生懸命特産物づくりをした産物の焼酎と薩摩切子です。
斉彬の命令で、一生懸命薩摩の特産品を作っているところも出してほしいんです。
失敗に失敗を重ねてやっと作った特産品たちで乾杯した方がとってもいいお話だと思います。

すんなり作って・・・そういえば、篤姫の輿入れの用意をする西郷さんも結構簡単に、うわべだけでしてしまっているように見えます。
もう、朴訥で愚直な西郷さんはお腹いっぱいです

薩摩の仲間たちは、相変らず磯田屋で遊んでいます。
私は少年漫画が大好きなんですが、大ヒットな作品は、本当にサブキャラが目立ってカッコいいんですが・・・
ワンピースでも、スラムダンクでも、ドラゴンボールでも、幽遊白書でも・・・
少年漫画の主人公が格好いいのはもちろんですが、周りのメンバーが魅力で来てないと、お話しが全く面白くないんだよ~~~!!
この西郷さんでは、仲間の皆さん、全然魅力的ではありません。
まず、誰が誰だか、さっぱりわかりません。
西郷さんが忙しくしているのをねたんだり・・・
今回も、目黒で祈祷をしてきたと吉之助がいうと、「不犯の誓い」(エッチしない)を立ててきたのでは??と言い出しました。
これだけ遊郭に入り浸った作品にしてしまっているのに・・・と思っちゃいましたが、だからこそなのか??
ほんと、英雄色を好むのごとく、全ては遊郭で・・・と思っているんだろうか??作者は・・・

薩摩に帰ることとなったみんな・・・
斉彬は近衛家によることに・・・ここで初めて近衛家登場!!
篤姫の輿入れに関して、いろいろ尽力してくれたことはさっぱりわからず・・・。
そして、ここで月照登場!!
吉之助にとっては、斉彬、藤田東湖、そして月照・・・まさに影響力の全てになった人・・・とえるでしょう。
ここで、一橋慶喜を将軍に!!という作戦がスタート!!
ただ・・・近衛忠煕にしても、月照にしても、どうしてそこに食い込んでくるのか?の思想が全くなく、何が何だかどうして近衛忠煕に頼んでいるのかもさっぱりわからず。。。


そして、正助には嫁取りの話が進んでいました。
久し振りに家に帰ってきた吉之助・・・家のみんなは大喜びです。

don2















が・・・相変わらず、みんな内職に励んでいましたが・・・なんと、吉兵衛の借金と、吉之助を江戸に行かせた借金とで、家畜を売ってしまっていました。
家も売らなければ・・・となって、内職を増やし、琴の婿にまで借金をしているという・・・

「とにかく江戸は、金がかかってなあ・・・」という吉之助ですが、そりゃあ、遊郭に入り浸っていればないだろうよ・・・お金!!

その夜・・・懐かしい仲間が集まりました。
下司にも、みんな江戸での話を聞きたがります。
そこは隠密だからか、話しをしたがらない吉之助・・・遂に怒ってしまいました。
し~ん・・・井戸端会議か!!
しらけムードを一新したかったのか、正助が嫁をもらうという話をし始めました。
単細胞なみんなは、酒を飲み直し、翌日は正助の嫁を盗み見しに行きます。
あ~、ほんと、品が無いわ・・・
この時代の人は、結婚するまでどんな顔かも知らないってことも多かったのに・・・
ほんと、下司いわ・・・

吉之助が願掛けをしたおかげで?斉彬に跡継ぎ誕生!!
そんな中、山田為久をモデルに写真を取り出す斉彬さま・・・。
そうなんですよね・・・尚古集成館でも写真を研究していたのは事実です。
が・・・こんなに呑気に撮ってたのかなあ???もっと、研究していたんじゃないかと思うの・・・
??正室も子も、薩摩にいるのかな??
どうしてもお気楽仕立てにしたいとしか思えない・・・

久光に「変わらねばならない・・・」と言い出す斉彬。
久光をバカにするなよなあ・・・。
??何考えてんのかわかんないまま、正助の結婚が・・・。
急遽、斉彬に呼び出された吉之助!!
江戸から急の知らせが・・・阿部正弘の訃報でした。
・・・結婚式当日に充てる必要あったんかな・・・。
う~ん・・・。
そして、斉彬に江戸に向かえと言われる吉之助・・・殿にお願いをしました。

結婚式当日・・・終わてしまったか・・・と思っていたら、正助登場!!
初夜もなく・・・そういえば、吉之助の初夜も家族が居たり変だったわ・・・
正助を江戸に一緒に連れて行きたいと殿に申し出て、お許しをいただいたという吉之助。
願ってもないのにそんなこと、上から目線で言うな!!という正助。。。
しかし、それって、お殿さま命令なんだから命令違反はダメだろ??正助。

が・・・いいこと言うなあ・・・正助。
湯水のように江戸でお金を使ている間も、薩摩ではみんな一生懸命、貧乏に負けずに生きてきたんだという正助。
??この正助のことを引き出したくって、吉之助をバカにしていたのかな・・・??
とも思う・・・自分の力で江戸に出るという正助に、今はそんなことを言っている場合ではないとか、いろいろ言い出しますが、そんなこんなの思想を全くやってくれていない西郷どんなので、何を言いたいのか全くわかりません。

ケンカ別れをしたまま、江戸へ旅立つ日がやってきた吉之助。。。
意地を張っている正助の尻を叩いたのは満寿でした。
吉之助を追いかける正助・・・・
そこへ、戻ってくる吉之助。



「吉之助さあ・・・どこに行っとじゃ?」

「忘れもんをした。」

「そげな大事なもんを忘れたとか?」

「おはんじゃ・・・」

「え・・・??」

「大久保正助を忘れてきた。」

ということで、めでたく再出発!!

don7













最後だけ少年漫画でしたね。

最初っから少年漫画のノリでやってくれたら何の違和感もなかったんですが・・・
少年漫画ファンの801オタクたちは、きっと「大久保正助を忘れてきた」できゅんと来るでしょう

でもなあ・・・ここまで少女漫画で来ててこれは無いわ・・・って思っちゃいました
沢山の男の子が出て来ていて、その男の子たちが成長して幕末の志士となっていくわけです。
何が面白いって、新選組も、長州も、薩摩も、そのメンバーは幼なじみであったり、無二の親友なわけです。
例えば近藤勇をキレイな局長にしておくために、闇の部分はすべて担った土方歳三・・・
二人はまるで陰と陽で・・・でも、二人には幼なじみの言わなくってもわかっちゃう二人感が随所に出ていると思うんです。
それは、長州もあんな狭い町からたくさんの有名な志士が出ていて・・・そこは薩摩も同じなわけで・・・
もっと男がカッコいい・・・男の子たちの成長と、友情と、信頼があってこその命を懸けた物語に出来ると思うんですが・・・
この「西郷どん」で目立っている吉之助の幼馴染は正助だけです
歴史が大好きで、だからこそみんな知っているけど、大河ドラマとして理解できる幼なじみは正助だけです。
ああ・・・なんて勿体ない・・・

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明治維新の立役者の一人、西郷隆盛・・・
西郷が新しい国づくりに邁進できたのは、薩摩藩11代藩主・島津斉彬の存在があったからです。
斉彬がなくなった際には、西郷は死のうとしたといいます。
そこまでさせる島津斉彬とは・・・??

薩摩藩10代藩主・斉興の長男として江戸にある薩摩藩邸で生まれました。
母は、正室の弥姫・・・教養が深く、教育熱心で、乳母を置かずに育てました。
6歳の頃から中国の書物を声を出して読み、絵画、和歌などを母から厳しく教えられた斉彬は、やがて”二つビンタ”と呼ばれるようになります。
ビンタは薩摩弁で頭の事・・・まるで頭が二つあるかのようにいくつものことを同時に処理することができました。
その噂を聞いた幕府の重役たちは・・・
「薩摩のような外様ではなく、譜代大名であったら、幕府の重役として活躍できたであろうに・・・」と、言ったといいます。

しかし・・・40歳を過ぎても藩主にはなれませんでした。
それは、父・斉興がなかなか家督を譲らなかったからです。
斉興は、19歳で藩主となったものの、実権は曽祖父・重豪が握っており、業興が名実ともに藩主となったのは重豪が亡くなってからなのです。
斉興は43歳、斉彬は25歳になっていました。
ようやく藩の実権を握ったものの・・・待っていたのは厳しい財政難でした。
その原因は、重豪でした。
重豪は、オランダ語を話し、歴代のオランダ商館長とも親交を結ぶなど、西洋の学問である蘭学や文化にひどく傾倒し、蘭癖と呼ばれていました。
そこには、薩摩藩の置かれた環境がありました。
全国300あまりある藩の中で、特異な薩摩藩・・・
薩摩藩は、薩摩国・大隅国・日向国諸県郡・琉球王国・・・つまり、現在の鹿児島県・沖縄県・宮崎県の1/3・・・南北1200キロにわたっていました。
おまけに、琉球王国は、名目上中国の支配下の異国・・・藩の中に外国があって、中国貿易が行われている・・・
海外からの物資、情報、文化が次々と入ってきていたのです。
蘭癖大名と呼ばれた重豪は、オランダ、中国などの知識を吸収し画期的な開化政策を打ち出しながら、金に糸目はつけない・・・新しいものや珍しいものを次々と収集します。
藩校である造士館、天文観測施設の天文館を建設し、藩の財政を圧迫していきます。
一時は500万両・・・今の5000億円の借金を抱えていたといいます。
その莫大な借金を返済して、藩の財政を立て直すことが急務でした。
そこで斉興は、幕府の鎖国政策を無視し、琉球を通しての密貿易、抜け荷の拡大で財政の立て直しを図っていきます。
その努力の結果、10年後には50万両の備蓄ができるようになりました。
しかし・・・斉興は斉彬に家督を譲ろうとはしません。
というのも、斉彬は曽祖父・重豪にとてもかわいがられていました。
重豪が斉彬に与えた影響はとても大きかったのです。

斉彬は重豪の蘭癖を受け継いでいました。
多くの蘭学者を優遇し洋書を翻訳させたり、自らローマ字で日記を書いたり・・・蘭学に熱中。
曽祖父と同じく蘭癖と呼ばれるようになるのです。
なので、藩の財政を揺るがす・・・そう考えていた斉興は、斉彬に家督を譲ろうとはしませんでした。
父に疎まれるほどだった斉彬の蘭癖でした。

19世紀半ば、西欧列強が東アジアに進出・・・
アヘン戦争では、東アジア最強と目されていた清がイギリスに負けて開国を余儀なくされてしまいます。
琉球にもフランス船やイギリス船が度々来航。
軍事力をちらつかせながら、通商を迫ってきました。
幕府は薩摩藩に、琉球へ兵を派遣し守るように命じますが、斉興は少数の兵を派遣しただけで幕府には指示通りに送ったと報告していました。
西欧列強が相手では、琉球どころか薩摩藩さえもあぶないと判断し、日本と西欧列強を差を埋めるべく藩の軍事力を強化しようとしました。
武器などの近代化、工業化を進めていきます。
ところが、父・斉興のやり方に斉彬は反対・・・
より近代化を進めようとしますが、藩の財政への圧迫を恐れこれ以上はしないという斉興と対立するのです。
十分対策を取っていると思っている父・・・しかし、斉彬は薩摩だけでは太刀打ちできないと、幕府や他藩と連絡を取り合いましたが・・・父・斉興にとっては、藩の秘密さえも守れない斉彬だと思っていたのです。
家督を譲ることは出来ない・・・

他にも家督を譲らない理由としては、朝廷から与えられる官位です。
薩摩藩主は、四位止まりでしたが、財政再建をさせた斉興は従三位をもらえるのではないか?と、期待していました。
そのため、官位を受けるまでは財政を悪化させる恐れのある斉彬に家督を譲ることはできなかったのです。

父との確執のために、30を超えても藩主になれない斉彬ですが・・・跡継ぎである事には変わらず、江戸の薩摩藩邸に詰めていました。
そんな中、父・斉興の行動が波紋を呼びます。
参勤交代で薩摩を留守にするときは、斉彬の弟・久光に任せることにしたのです。
斉彬の藩主を望む藩士たちは、弟の久光が藩主となるのでは??と勘繰ります。
そして、影で操るのが斉興側室のお遊羅の方だと・・・
そのさなか、斉彬の息子二人が相次いで病死・・・斉彬の家臣たちは、お遊羅の方の呪いではないか?と噂始めました。
実際に、呪符が見つかっていました・・・が・・・これは・・・斉興が琉球にやってきた外国の銀貨を呪符で包んで呪ったものでした。
すべては勘違いでしたが・・・早合点した斉彬派の家臣たちは・・・
「このままでは、斉彬も呪い殺されてしまう!!」と、お遊羅の方の暗殺計画を立てます。
ところが・・・お遊羅の方を愛する斉興が激怒!!
1849年斉彬派を処罰!!
12人を切腹、38人を磔や島流しになどの刑に処しました。
父との対立は深まる・・・??
しかし、このお家騒動が幕府の耳に入り・・・1851年斉興が隠居届を提出。
斉彬はようやく11代藩主となったのでした。
この時、すでに43歳でした。

西欧列強に対抗する為に、軍備の強化、近代化を図っていく島津斉彬。
それは、鎖国体制の日本にあって先駆的なものでした。

◎洋式船の建造
当時、日本にやってきていた西欧列強の巨大な船は、鉄製で、蒸気で動き、大砲を何本も装備していました。
対して日本の船は、幕府によって”大船建造禁止令”が出され、大きくても米を500石積めるだけの船しか作ることができず、大砲も積めませんでした。
戦国時代さながらの船だったのです。
斉彬は、外圧に晒される今、大型船の必要性を思っていました。
ペリーが浦賀に現れ・・・幕閣もついに西洋の脅威に気付きます。
斉彬はこの機を逃さず、幕府に大型船の建造の解禁を願い出て、これを認めさせたのです。
そして、西洋船の西欧に着手・・・全長30m、砲16門を搭載する西洋式の軍艦・昇平丸を作ります。
その後も、大型船を作り、日本初の蒸気船・雲行丸を作らせています。

◎鉄製大砲の鋳造
島津家の歴史を語る尚古集成館にも、斉彬の近代化の痕跡が・・・反射炉跡です。
ここで、鉄の大砲を作るために作られたもので、基礎部分が残っています。
斉彬は丈夫な大砲を作ろうとしましたが・・・当時、その知識・技術は日本にはなく、作るのに大変な苦労がありました。
すでに反射炉を成功させていた佐賀藩からオランダの書物を取り寄せ研究を開始、西洋式反射炉の制作に取り掛かります。
失敗を繰り返し・・・日本の技術を応用し、苦労をする家臣たち・・・

「西欧人も人なり
 佐賀人も人なり
 薩摩人も同じく人なり
 退屈せず、ますます研究すべし」

と言って励ましたといいます。
藩士たちは奮起し、意地と努力で1857年反射炉を完成させます。
併せて日本初の溶鉱炉も建設、鉄の大砲の鋳造に成功するのです。
斉彬は他にも、ガラス工場や蒸気機関研究所を設け・・・そうした工場群を集成館と名付けました。
最盛期には、1200人もの人が働いていたといいます。
2015年、集成館は歴史的価値のある工場群として世界遺産に登録されました。
独自の近代化を進めた斉彬の功績が世界に認められたのです。

日本を守るために、軍備の近代化を進める斉彬ですが・・・
「第一人和」日本を守るためには、人の和は城となる・・・人の和を生み出すのは人々に豊かな生活を保障すること・・・を目指していました。
紡績、ガラス、出版、酒造りなどの産業を育成しました。

中でも薩摩切子という新しい工芸品を生み出します。
それは、西洋でも難しいとされていた技術でした。
斉彬は外国に輸出することを考えていたようです。
薩摩焼も、外国人好みに変えろと命令しています。
1867年のパリ万博では好評で、薩摩焼が大量に輸出されました。
薩摩切子も外国に出ることを夢見ていました。
日本初のガス灯の実験もしていました。

城下をガス灯で照らそうと考えていたのです。
研究と実験をかさね、次々と近代産業を立ち上げていった斉彬ですが・・・持てる技術と知識を幕府や他藩に教え、視察も喜んで受け入れています。
そこには、”日本一致一体”の精神がありました。
日本の挙国一致体制を思ってのことでした。

人材育成にも長けていた斉彬は・・・
「付和雷同で意見を持たぬもの、十人が十人とも好む人材、彼らは非常事態に対応できない」と言っていました。
偏屈な男こそ、国の宝である・・・と。
そこで、取り立てられた若者は、藩の中心人物となっていきます。
激動の時代・・・非常事態に対応し、日本を背負っていきます。
西郷隆盛もその一人でした。
斉彬は、下級藩士だった西郷を初めて知ったのは、大量に送られてきた建白書によってでした。
当時、薩摩藩の郡方書役助だった西郷は、農家や村を指導監督する中で、農民などが重い年貢で困窮していることを知ります。
そこで、その改善策と共に、悪政を訴えた建白書を何度も斉彬に提出します。
斉彬はこれを高く評価し、藩主として江戸にのぼる際に、西郷を庭方役に抜擢し、江戸に連れて行きます。
庭方役とは、藩主の用事を庭先で聞く役職で、西郷を諸藩との重要な連絡や情報収集に当たらせるなど、信頼していました。
人脈や政治的視野が広がったことで、西郷は、明治維新の立役者となるのです。

当時、幕府内では将軍の後継問題が勃発・・・
家定は体が弱く、跡継ぎを望めなかったので、次期将軍の決定が急務となっていました。
候補は二人・・・一人は紀州藩主・徳川慶福、もう一人は、一橋慶喜でした。
慶福を推したのは、譜代大名の井伊直弼らで、慶喜を推したのが阿部正弘で・・・斉彬は一橋派でした。
次期将軍を決めるのに際し、大奥の力が大きく働くことを知っていた斉彬は、篤姫を将軍に嫁がせて慶喜擁立を有利にしようと画策したのでは??と言われています。
が・・・この縁談話は、家定が将軍となる3年前に持ち上がったものでした。
将軍の世継ぎであった家定は、公家の娘を2度正室に迎えていましたが、共に死別・・・。
次は武家から迎えたいと考えていました。
そこで白羽の矢が立ったのが島津家でした。
というのも、前例があったからです。
11代将軍が正室に迎えたのが、重豪の娘・茂姫で、その後、家斉は将軍在位50年、正室と側室との間に53人もの子を設けました。
子の出来なかった家定も、薩摩から正室を迎えれば、死別せずに子宝に恵まれるのでは??と思われました。
つまり、斉彬は、幕府の要請で篤姫を養女とし、将軍に嫁がせることにしたので、後継問題とは関係ありませんでした。
どうして、利用したといわれたのでしょうか??
篤姫の輿入れは、1850年に申し込まれたものの・・・
黒船来航、江戸での大地震・・・と、実現するまでに6年もかかってしまいました。
そして・・・その頃、継承問題が出てきたから言われるようになってしまいました。
家定に輿入れして1年・・・世継ぎは生まれません。
斉彬が動いたのはこの時でした。
信頼していた西郷を江戸詰めとし、諸藩との連絡係にし、慶喜の将軍擁立を画策!!
しかし、1858年、南紀派の井伊直弼が大老となり、その権限で慶福が14代将軍・家茂になります。
斉彬は再び動きます。
薩摩の兵を率いて、京に上るために西郷に準備を命令させます。
その動きは、斉彬が朝廷を武力で動かし、慶喜を将軍に差せようとしたのでは?と、考えられますが・・・
西欧列強の脅威にさらされている今、国内で争っている場合ではない!!
斉彬の行動には、常に日本の未来を見据えた大局的な視点がありました。
まもなく・・・斉彬が病に・・・。
弟・久光らを呼んで遺言を伝えます。
自分の跡継ぎは・・・息子がまだ小さいので、久光か、久光の長男・忠義に・・・と。

1858年7月16日、島津斉彬死去。
50歳の生涯でした。
明治という新しい時代を見ることなく・・・
斉彬亡き後、忠義が薩摩藩12代藩主となります。
久光は後見役に・・・斉彬の遺志を継ぎ、藩士たちと共に幕末から明治維新にかけての薩摩藩をけん引していきます。
彼等が目指したのは、”順聖院様御深志”・・・斉彬の遺志の実現でした。
それは、挙国一致体制を築き、日本を西欧列強の植民地とされないような国にすることでした。
斉彬の遺志と夢を実現するという共通の夢を持っていたからこそ、薩摩藩士は分裂することなく明治維新での重責を担っていくこととなるのです。
西郷隆盛は、中心人物として廃藩置県、警察制度に関わり、近代国家の礎を作りました。
同じように大久保利通は、富国強兵を明治維新のスローガンとし、殖産興業政策を推進。
富岡製糸場などの官営模範工場を各地に作り、近代産業の育成に尽力しました。
明治維新によって近代国家となった日本・・・斉彬の遺志を継いだ明治政府の高官たちによって、富国強兵策が全国展開し、日本は強く豊かになっていきます。
斉彬は近代日本のプランナーだったのです。

勝海舟は言っています。

「維新の折、薩摩から人材が多く出たのは、斉彬の教育感化によるものである」と。

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