日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:崇徳天皇

後白河院の側近中の側近がこんな言葉を残しています。
「和漢の間比類少なき暗主」・・・愚かな主とそしりながら「人の制法にこだわらず」と、決心したことは人のルールに縛られず成し遂げたと!!

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世の常として、皇位継承者は帝王学を学びます。
儒学の経典や漢詩、和歌、管弦楽器の演奏などです。
後白河院の兄で後に骨肉の争いを繰り広げる崇徳天皇は、5歳で即位して帝王学を学んでいます。
崇徳天皇の8歳年下の弟が、雅仁・・・後の後白河院です。
雅仁は、母親の待賢門院のそばで育てられます。
しかし、評判になるほど遊芸にふけっていました。
その為父親である鳥羽院からは”即位の器量にあらず”と、見られていたのです。
雅仁が没頭した遊芸とは・・・当時のはやり歌で母親の待賢門院が愛した今様でした。
今様は、遊女の芸能として始まり、七五調を基本とします。
歌の内容は、恋心から仏教思想までと幅広い・・・
雅仁の今様熱は、天皇、上皇になっても冷めることはなく、乙前(元遊女)を師匠にしてその道を極めようとしました。
後白河院が、自らの反省を振り返った梁塵秘抄口伝集・・・
今様への異様なまでの傾倒ぶりが伺えます。

”十余歳の時より 今に至る迄 今様を好みて怠る事なし

 千日の歌も歌ひ通してき 昼は歌はぬ時もありしかど 夜は歌を歌ひ明かさぬ夜はなかりき”

後白河院は、今様の家基のようなものになりたかったのです。
後白河院が生涯を通して愛した今様・・・その音階、節回し・・・どんなものだったのかは明らかになっていません。
しかし、彼の生きざまは、梁塵秘抄の中で最も有名なこの歌と重なります。

”遊びをせんとや 生まれけむ
 戯れせんとや 生まれけん
 遊ぶ子供の声聞けば 
 わが身さへこそ ゆるがるれ”

しかし、後白河院の生涯は、決して平たんなものではありませんでした。

「後鳥羽上皇と承久の乱」



29歳の時、大きな転機が訪れます。
1155年、腹違いの弟である近衛天皇崩御。
次の天皇をめぐり、父の鳥羽院と兄の崇徳院とが対立します。
兄の崇徳院は、自分の息子・重仁の即位を望みました。
それに対して父の鳥羽院は、雅仁の息子・守仁に皇位を継がせたいと考えていました。
しかし、守仁の父である雅仁の存在を無視することはできませんでした。
父親を飛ばして天皇になる前例はない・・・!!
そこで、守仁王が成人するまでの数年間、中継ぎの天皇として雅仁て親王を位につけることになりました。
1155年、後白河天皇即位。
後に、源平合戦の英雄たちと渡り合い、30年君臨することになるとは、当時誰も考える由もありませんでした。
後白河天皇が即位した翌年の1156年7月2日、鳥羽院崩御。
そのわずか9日後、後白河天皇と兄・崇徳上皇との間で戦闘が勃発します。
鳥羽院亡き後の主導権を巡って、双方が武士を集めてぶつかり合うという・・・保元の乱です。
後白河天皇は、平家の棟梁・平清盛とそれに次ぐ有力者・源義朝を味方につけて勝利を治めます。
1158年、後白河法皇が退位、上皇となります。

上皇となった後白河院の運命を大きく開いたのは、ひとりの美女でした。
平清盛の正室・時子の妹・滋子・・・彼女を見初めた後白河院は、滋子を女御として寵愛するようになります。
滋子は後白河院政の政務に携わっていました。
後白河院不在の時には、代行ができる立場にある女性で、その能力のある女性でした。
滋子を通じて後白河院は清盛を大いに取り立て、平家の全盛の時代がもたらされました。

1167年、清盛を太政大臣に任命。
1172年には、清盛の娘の徳子が後白河院と滋子の子である高倉天皇の中宮となります。
藤原氏にとって代わって平家が天皇家と結びつき、新たな時代を築こうとしました。
京都・東山・・・後白河院は、この地に自らの権威の象徴となる院の御所を築き上げました。
南北1キロ、東西500メートルに及ぶ法住寺殿です。
その北側には、平家一門が住む六波羅があります。
その立地からも、後白河院と平家の強い結びつきが伺えます。
ここを舞台に、四季折々の儀礼が行われました。
平家の後押しによって、政務の実権を握る”治天の君”となった後白河院・・・ここを拠点に、院政を行っていくことになります。

滋子の発願で極楽浄土の世界をこの世に映し出した最勝光院・・・
完成のわずか3年後、悲劇が訪れます。
1176年、後白河院と清盛の間を取り持っていた滋子が35歳でこの世を去りました。
死の直後から、後白河院と清盛の関係が悪化していきます。
急速に台頭する平家に貴族たちが反発。
1177年、反清盛を掲げる院の近臣たちが、京の鹿ヶ谷に集結しました。
清盛を暗殺して、後白河院中心の政治体制を築こうと企てます。
世にいう鹿ヶ谷の陰謀です。
この陰謀は、密告によって露呈・・・清盛は陰謀に加わった院の近習たちを斬首・流刑にしました。
後白河院も、陰謀への関与が疑われましたが、咎めはうけませんでした。
しかし、近臣を排除されたことで、政治基盤を失い、孤立していきます。
鹿ケ谷の陰謀の翌年、徳子が皇子(のちの安徳天皇)を出産します。
しかし、孫の誕生は、後白河院を一気に窮地に追い込みます。
安徳天皇が生まれると、即位すれば高倉院政が可能になり、後白河院は排除される危険性が出てきました。
安徳天皇の誕生は、孫の誕生とはいえ、穏やかではありませんでした。

1179年7月、平重盛、逝去。
すると、後白河院が反撃に出ました。
重盛の所領を奪い、近臣に与えました。
しかし、これは後白河院の首を自ら締めることになります。
平家との決定的な破局が訪れます。
11月15日、清盛は兵を挙げて後白河院を幽閉し、院政を停止させました。
治承3年の政変です。
1180年、平家を打倒し、幽閉された後白河院を救うという大義を掲げ、8月に源頼朝が伊豆で挙兵。
さらに、翌月には木曽義仲が信濃で挙兵します。
1181年2月14日、源平合戦のさ中、熱病に冒され平清盛死去。
清盛の葬儀の日、後白河院のいる最勝光院から今様を謡う声が聞こえたといいます。
清盛の死後2日後・・・平家の棟梁となった息子の宗盛から政権を後白河院に返したいとの申し入れがありました。
清盛によって院政を停止させられた後白河院は、よみがえったのです。

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次に後白河院の前に立ちはだかったのは、木曽義仲でした。
1183年5月、倶利伽羅峠の戦いで平家の大軍に勝利。
義仲軍は、京を目指します。
もはや防ぎきれないと見た平重宗盛は、三種の神器・安徳天皇・そして後白河院をつれて京を離れ西国へと向かう決意を固めます。
治天の君として君臨し続けるために、どのように立ち回るべきか・・・??

平家と共に西国へ移る??
平家を見捨てて京に留まる??

頼朝は、平家から後白河院を救済するという旗印のもと挙兵している・・・
京に留まって源氏を迎えれば、軍勢として飼いならすことができるのでは??

平家の都落ちは、極秘裏に進められようとしていました。
後白河院の逃亡を恐れたためです。
しかし、後白河院は、近臣を通してその計画を知っていました。
すると、後白河院は、密かに法住寺殿を脱出、比叡山へ逃亡しました。
後白河院は、都落ちする平家を見捨てて、京に留まる選択をしました。

平家都落ちの3日後、木曽義仲が入京します。
義仲は、後白河院に難題を突き付けます。
安徳天皇に代わる天皇として、義仲は北陸宮を推挙しました。
一介の武士が、皇位継承に口を挟むなど、前代未聞のことでした。
後白河院はこれに猛反対し、義仲と対立します。

1183年11月19日、木曽義仲が法住寺殿を襲撃、火をかけます。
院の権力の拠点・法住寺殿が炎上しました。
後白河院は、再び幽閉されることとなります。
そこに現れた救いの神が源義経でした。
翌年の正月20日、宇治川の戦いで義仲軍を破り入京、義仲を追い詰め、近江国粟津で討ち果たしました。

1185年、義経は、壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼします。
義経の名声は高まりましたが、悲運に・・・
兄・頼朝と激しく対立し、刺客を送られ命を狙われたのです。
身に危険が迫った義経は、後白河院に頼朝追討の宣旨を出すよう迫ります。
ここで後白河院は、義経に応じ、頼朝追討の宣旨を出しました。
これがのちに、後白河院と頼朝の大きなわだかまりを生むことになったのです。
結局、義経のもとに集まる兵はなく、義経は西国へ逃亡しました。
一方、頼朝は、朝敵である義仲や、平家を討伐した自分をなぜ後白河院が裏切るのかと、激怒します。
後白河院こそ”日本第一の大天狗”だと罵倒しました。

これを聞いた後白河院の動揺は激しく・・・
頼朝が何をするかわからない・・・
自分が正当な帝王として世の中を治めたいのに戦乱が続いている・・・!!
今回も、頼朝追討を言い出して世の中を乱した。
自分の失政かもしれない!!

追討の宣旨を出された頼朝が、どんな反撃を見せるのか・・・??
後白河院の周囲は不安に包まれました。
頼朝は交渉を行うため、北条時政を上洛させます。
しかし、後白河院を幽閉することはありませんでした。
その代わり、後白河院の独断を防ぐため、公卿が合議で政治を行う体制を構築します。
その一方で、義経追討の名目で、守護・地頭を設置する権利を獲得します。
頼朝の狙いはどこにあったのでしょうか??

頼朝は、後白河院を助けることが自分の権威の源泉であると考えていました。
一時的に後白河院と対立しても、保護し、朝廷を守る・・・一方で、地頭を各地に設置して武士の所領拡大の願望もかなえようとしていました。
両者のバランスをとったのが、頼朝が創った鎌倉幕府でした。

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1190年、頼朝が京に向かいます。
およそ30年ぶりに後白河院に謁見するためです。
1189年、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼしていました。
朝廷を守る唯一の武家の大将としての地位を確立。
後白河院を支える武士は、もはや頼朝以外になかったのです。
上洛中、後白河院と頼朝の会談は8度に及びました。
上洛後、頼朝は法住寺殿を再建修復します。

頼朝が鎌倉に戻った2年後・・・1192年3月13日、後白河院崩御。
享年66。
死の1か月前、病床に伏してもなお、天皇の笛の音のもと今様を謡い続けていたといいます。
源平の戦い、そして新たな武士の世の始まり・・・
権力の座に30年余り座り続けた波乱の生涯でした。

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「承久の乱 “武士の時代”の確立」



















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貴族社会が揺らぎ、武士が台頭してきた平安末期・・・
その歴史のターニングポイントに、天皇・上皇・法皇として30年間にわたり朝廷に君臨したのが後白河法皇です。
平清盛、源頼朝、源義経・・・名だたる武将を手玉に取り、日本一の大天狗と恐れらた後白河法皇。
しかし、その素顔は??

1127年9月11日、後に後白河法皇となる雅仁親王・・・後の後白河法皇が生れました。
父は鳥羽上皇、一番上の兄は崇徳天皇でした。
上皇→天皇が退いた後の称号
法皇→上皇が出家した後の称号
のことです。
雅仁親王は四男だったので、通常ならば皇位から遠い位置にありましたが、長男の崇徳天皇は9歳で子供がなく、次男、三男は病弱だったので、崇徳天皇に何かあった場合、雅仁天皇が皇位を継ぐかもでした。
1139年13歳になったある日・・・末の弟(九男)となる体仁親王が生れると、鳥羽上皇はその子を皇太子にしてしまったのです。
これには母親が誰であったかが重要でした。
雅仁親王の母は、待賢門院璋子、体仁親王の母は、美福門院得子でした。
美福門院の方が寵愛されていたのです。
皇位に着くことはない・・・そう考えた雅仁天皇は、当時の流行歌である今様に熱中します。
貴族から民衆まで楽しんでいた今様にのめり込んでいく雅仁親王。

1141年、雅仁親王を皇位から遠ざけた鳥羽上皇が、再び動きます。
23歳の崇徳天皇に強引に譲位を迫り、まだ3歳だった体仁親王を近衛天皇としたのです。
崇徳天皇は、鳥羽上皇の本当の子ではないという噂がありました。
崇徳天皇の本当の父は、崇徳上皇の祖父である白河法皇だといわれています。
不貞の子だと考えられていて、鳥羽上皇は一刻も早く自分の子を天皇のしたかったのです。
ところが、新たに即位した近衛天皇は体が弱く、子供を残せぬまま17歳で崩御。
次の天皇を誰にするか??朝廷内がにわかに騒がしくなりました。
鳥羽上皇は、四男である雅仁親王を・・・ではなく、その子・守仁親王を指名します。
それに対し、貴族たちが不満の声が・・・
すると鳥羽上皇は・・・
「ならば、一旦雅仁親王を即位させて、その後すぐに守仁親王へ譲位させよう」
こうして、後白河天皇は、急場しのぎの中継ぎとして即位しました。
この時、29歳でした。

1156年保元の乱!!
保元元年に、一連の皇位継承を快く思わない崇徳上皇が、後白河天皇と衝突!!
指揮を執ったのは近親たちで、実際に戦ったのは武士たち・・・
崇徳上皇・・・・・源為義・平忠正
後白河法皇・・・源義朝・平清盛
でした。

源義朝・平清盛らの活躍で、保元の乱は後白河法皇側が圧勝!!
敗れた崇徳上皇は讃岐国に流されてしまいました。
この保元の乱は、武士が台頭する大きなきっかけとなりました。
2年後・・・後白河天皇退位!!して上皇に。
第一皇子である守仁親王が二条天皇となりました。
これで世の中は落ち着く??そう思われましたが、後白河上皇が争乱の火種を作ってしまいます。
当時、朝廷には二人の実力者がいました。
共に後白河上皇の近臣だった僧侶・信西入道と上級貴族の藤原信頼です。
53歳の信西入道は、もともと貴族で諸芸に通ずる才人で、妻が後白河上皇の乳母であったこともあり絶大な権力を有していました。
一方、藤原信頼は27歳。
後白河上皇の元で大出世し、この時すでに権中納言という地位にありました。
しかし、周りの評価は・・・「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし・・・」と、典型的なダメ男でした。
どうして信頼は異例の出世をしたのでしょうか??
二人は男色関係にあり、後白河上皇は信頼にべた惚れでした。
貴族社会の間では、男色は普通のことでした。

信頼が願いを申し出ます。
「私を右近衛大将にしていただけませぬか?」by信頼
右近衛大将とは、宮中での常設武官の最高職でした。
信頼には分不相応でしたが・・・後白河上皇はこの願いをかなえてやりたいと信西に相談。
信西は・・・
「信頼などが、右近衛大将となったら世が滅びます」by信西
これを聞いた信頼は激怒し、信西を恨み、遂には信西の殺害を目論みます。
この時手を結んだのが、保元の乱で活躍した源義朝でした。
義朝も信西に恨みを抱いていました。
保元の乱の後、崇徳上皇側についた父・為義の助命嘆願をしましたが、信西がこれを許さず、義朝自身に父・為義を処刑させていたのです。
また、信西は、平清盛を優遇し、義朝を冷遇していました。

1159年12月9日、藤原信頼と源義朝が挙兵!!
平治の乱が勃発しました。
平清盛が京都を離れていた隙をつき、義朝率いる源氏軍が信西の屋敷を襲撃し、屋敷にいた者をことごとく殺害し、信西を自害に追い込みます。
さらに、暴走した信頼は、二条天皇と寵愛を受けていた後白河上皇を幽閉しました。
朝廷の実権を奪ったのです。
しかし、平清盛が京都に戻ると状況は一変!!
二条天皇を内裏から救い出し、後白河上皇も自力で脱出!!
勢いに乗った清盛は、激戦の末に源氏軍を撃破!!見事に乱を治めたのです。
追いつめられた信頼は、命からがら後白河上皇の元に逃げ込み、助命嘆願します。
すると上皇は、幽閉されたにもかかわらず、信頼の願いを聞き入れようとします。
しかし、二条天皇は信頼を許さず・・・六条河原でその首を刎ねました。
この時信頼についていた義朝は、尾張国まで逃げますが、殺されてしまいました。
供に逃げていた息子・頼朝は伊豆に流され、弟・義経は鞍馬寺に預けられたのです。
後に、平家打倒に・・・!!

この後、後白河上皇は失脚し、貴族たちの顰蹙を買い総スカン!!
後白河上皇の屋敷には、見物席があり庶民と歓談することを楽しみにしていた上皇ですが。。。
平治の乱の後実権を握った二条天皇の近臣が、見物席の目の前に板を打ち立て後白河上皇の楽しみを奪ってしまいました。
腹を立てた後白河法皇は・・・一気に勢力を高めていた平清盛を屋敷に呼びます。
「板を打ち付けた者を懲らしめてほしいのじゃ!!」
と、懇願します。
失脚しても上皇・・・。清盛はこの願いを聞き入れます。
板を打ち付けた者たちをせっかんし、泣き叫ぶ声を上皇に聞かせました。
自らの武功によって失脚した後白河上皇・・・もはや復権はない・・・。
と、誰もが思っていました。
ところが・・・時代は後白河上皇に微笑みます。
1165年二条天皇が23歳という若さで病死。
亡くなる直前に、実子の六条天皇が後を継いでいましたが・・・まだ2歳・・・。
政務を行える状態ではなかったので、祖父である後白河上皇が復権。
院政を行うこととなりました。
すると上皇は、清盛のご機嫌を取り始めます。
六条天皇の皇太子に清盛の甥・憲仁親王を据え、皇太子に関する実務を司る役所である東宮坊の役人に平家の者たちを・・・。
そして、1167年清盛を太政大臣に任命します。
武士が、官僚の最高職である太政大臣となるのは前代未聞のことでした。
清盛に守られることで、院政を強めようとしたのです。
翌年には、憲仁親王が皇位を継ぎ高倉天皇となりました。
そしてその高倉天皇が、清盛の娘・徳子妃としたので、後白河上皇と清盛の関係は強まります。

1169年後白河法皇は43歳で出家して、後白河法皇となります。
これまで以上に人生を謳歌していきます。
蜜月関係の後白河法皇と清盛ですが、思わぬところから亀裂が・・・!!
1177年比叡山延暦寺の僧兵たちが寺で乱闘事件を起こした者の処罰を求め、高倉天皇の内裏へ乗り込んできました。
激怒した後白河法皇でしたが、その理由は・・・
「訴えがあるのならば、なぜ朕のところへ来ないのじゃ!!」
延暦寺が、自分を最高権力者と認めていないことに腹を立て、後白河法皇は清盛に
「直ちに延暦寺を攻め立てよ!!」と命令します。
これが清盛を悩ませます。
延暦寺は、僧兵がたくさんいて手ごわく・・・何より、仏門を敵にしたくはありませんでした。

そんな時、清盛に知らせが・・・
京都・鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の近臣たちが、平家打倒の陰謀を企てていると・・・!!
清盛は、近臣たちを捕らえ、拷問し、斬首しました。
これを目の当たりにした街の人たちは、平家に逆らうと恐ろしいことになると噂します。
朝廷内にも激震が・・・!!
本当にこの陰謀はあったのか・・・??
清盛は、自らの力を見せつけることで、無理難題を押し付ける後白河法皇を黙らせようとしたのではないか?と思われます。
ところが、後白河法皇は黙るどころか「平家一門もろとも葬り去ってやる!!」と、清盛に激怒!!
清盛が管理していた領地を取り上げ、孫・維盛の知行国・越前を没収。
その上で、またしても延暦寺を攻撃せよと命じます。
これによって清盛はついに挙兵を決意!!
そして1179年11月、数千騎を引き連れて後白河法皇の内裏へと向かいます。
この時、後白河法皇は、「清盛の挙兵は延暦寺を攻めるためだ」と考えていました。
自分が徴発しておきながら。。。
自分が襲われるのだと気づいたのは、清盛軍が目前に迫ってからでした。
慌てた法王は、清盛の元に使者を送り、「今後、朕は一切政治に関与せぬ」と宣言。
しかし、時すでに遅し!!
延暦寺の問題で、後白河法皇と清盛の関係は悪化していました。
これを黙殺し、後白河法皇を幽閉して、院政を停止!!
朝廷の人事を刷新し、法皇の近臣たちをことごとく追い払い、その空いたポストに平家一門をつかせたのです。
これによって、平家が支配する所領が全国の半分を越えるまでに拡大しました。
平家の世が訪れたのです。

法皇は、さほど落ち込むこともなく、今様を舞っていました。
親しみやすい後白河法皇は、民衆から支持されていて、幽閉されたことがわかると、涙を流すものまでいたといいます。
呑気に今様に興じていた後白河法皇。
自分に逆らった清盛への怒りは全く収まっていませんでした。
権力をほしいままにする平家に対し、不満の声が高まり立ち上がる者が出てきました。
源氏の嫡流である源頼朝もその一人です。
伊豆国で挙兵した頼朝は、東国武士を次々と味方につけ、鎌倉に平家を倒すための拠点を作ります。
これに、延暦寺など多くの寺社も呼応し、打倒平家の機運は高まります。
暗雲が立ちこみ始めた平家政権・・・。
すると清盛は後白河法皇の幽閉を解き、院政の再開を要請します。
再び法皇と手を組み、反勢力を抑え込もうとしたのです。
1181年、清盛が突然病に倒れます。
激しい頭痛と体が燃えるような高熱で息も絶え絶え・・・もはや助からぬ・・・と、後白河法皇に

「私が没したら、後を託した息子の宗盛と共に政務を執っていただきたい」by清盛

かつては、蜜月関係を築いていた清盛の最後の願い・・・清盛に恨みを抱いていた後白河法皇はこれを無視!!
清盛は平家の行く末を案じたまま、治承元年閏2月4日、死去。

この時後白河法皇は、清盛を弔うこともなく、内裏で今様を謡い続けていたといいます。
1184年、源頼朝に平家追討の命令を下しました。
その翌年の1185年・・・壇ノ浦で平家は滅亡!!

源義経が近江で平宗盛を処刑すると、後白河法皇はわざわざ宗盛の首を見物しに行ったといいます。
その1年後・・・平家の生き残りとなった清盛の娘・徳子の元を訪れ、一門滅亡の悲痛な思いを聞いて涙したといいます。
自分で滅ぼしておきながら・・・!!

平清盛と蜜月関係を築き、権力を維持してきた後白河法皇は、平家亡き後は源氏と密にしていきます。
そこで目をつけたのが、源義経でした。
平家との戦いを勝ち抜いた戦の天才・源義経!!
武功を高く評価した後白河法皇は、検非違使に任命します。
しかし、これを不快に思ったのが、兄・頼朝でした。
頼朝は、総大将の自分の許可なく官位を得た義経を激しく叱責!!
鎌倉に入ることも許さず、領地も没収!!
非情な兄の仕打ち・・・義経の悲しみは、やがて激しい怒りに!!
そして後白河法皇に兄・頼朝の追討許可を求めました。

「よかろう・・・頼朝を討つがよい!!」by後白河法皇

頼朝は驚きます。
確かに最前線で戦ったのは義経でしたが、総大将として平家を滅亡させたのは自分・・・その自分を討てとは・・・!?
頼朝は、後白河法皇を「日本一の大天狗」と、得体のしれない存在と皮肉を込めて呼びました。
しかし、この時後白河法皇には意図がありました。
この時、都は激化する源平の戦いで混乱していました。
頼朝に対して憤っていた義経が暴発する可能性がありました。
頼朝追放令を出すことで、義経を落ち着かせようとしたのです。
義経を思ってのこと・・・??

頼朝の追討を許された義経でしたが、事は思うようには運ばず・・・
鎌倉に強大な軍事力を持つ頼朝を敵に回そうとする武士は少なく、戦力が整いません。
止む無く、頼朝追討は諦め、若い頃世話になった奥州藤原氏の元へ逃げ込みます。
一方頼朝は、1000騎の軍勢で都を制圧!!
後白河法皇に、義経追討の院宣を求めます。
そると法皇は・・・
「よかろう 義経を討つがよい」と、義経追討をみとめてしまいました。
後白河法皇に見捨てられた義経は、逃げ込んだ奥州で力尽きて自害。
31歳という若さで生涯を追えます。
寵愛していた義経追討を許した後白河法皇。
この時、義経を見捨てた理由は・・・
後白河法皇は、何より都を護りたかったようです。
頼朝が上洛し、都を制圧すると、今度は頼朝の怒りを鎮めるために・・・
義経よりも、都と民衆の安寧を守りたかったのです。

1192年後白河法皇は、66年の生涯を閉じました。
その死に顔は、驚くほど穏やかだったといいます。
今様を愛した後白河法皇、お気に入りの歌は・・・

遊びをせんとや生まれけん
    
   戯れせんとや生まれけん
      
遊ぶ子供の声聞けば

   わが身さえこそ動がるれ

まさに、この歌のように生き、平家と源氏を翻弄し、時代を変えた実に興味深い人でした。


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後白河上皇―中世を招いた奇妙な「暗主」 (日本史リブレット人)

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和歌山市木枕にある足守神社に行ってきました。
木枕の地区を歩いていきます。車では入れそうにない地元の道を、地元の生活を感じながら歩いていきました。

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足守神社は、約800年前の歴史を持つ霊験あらたかな神社です。
崇徳天皇の御代、高野の高僧覚ばん上人が、高野山を下り諸国を行脚され、山東の地に来られた時、田畑には灌漑用水がなく、農民たちが苦しんでいたので何とかせねばと考え、この地に滞在、貴志と山東の境に渓谷があるのを発見し、完成させたのが現在の大池遊園です。

ところがこの工事が難工事。作業員や牛馬の足を痛めることが多かったので、上人はこれを憂い、都の愛宕山足千現大明神を石室に奉安して足守大明神として尊崇、足病の者のために祈念すると、霊験顕かにことごとく平癒したと言われています。

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こちらの境内には、絵馬代わりの多くの草履が祀られており、足の病気を患った年配の人や職業として足のケガ防止などを願う有名スポーツ選手がお参りに訪れています。

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絵馬のように、金属製のわらじが奉納されています。

毎年7月の第1日曜日には、足にお灸をすえてもらう事で足の病気がよくなると伝えられている大祭(御夢想灸)が行われ、毎年1000人程の人々で賑わいます。


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