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タグ:平清盛

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貴族社会が揺らぎ、武士が台頭してきた平安末期・・・
その歴史のターニングポイントに、天皇・上皇・法皇として30年間にわたり朝廷に君臨したのが後白河法皇です。
平清盛、源頼朝、源義経・・・名だたる武将を手玉に取り、日本一の大天狗と恐れらた後白河法皇。
しかし、その素顔は??

1127年9月11日、後に後白河法皇となる雅仁親王・・・後の後白河法皇が生れました。
父は鳥羽上皇、一番上の兄は崇徳天皇でした。
上皇→天皇が退いた後の称号
法皇→上皇が出家した後の称号
のことです。
雅仁親王は四男だったので、通常ならば皇位から遠い位置にありましたが、長男の崇徳天皇は9歳で子供がなく、次男、三男は病弱だったので、崇徳天皇に何かあった場合、雅仁天皇が皇位を継ぐかもでした。
1139年13歳になったある日・・・末の弟(九男)となる体仁親王が生れると、鳥羽上皇はその子を皇太子にしてしまったのです。
これには母親が誰であったかが重要でした。
雅仁親王の母は、待賢門院璋子、体仁親王の母は、美福門院得子でした。
美福門院の方が寵愛されていたのです。
皇位に着くことはない・・・そう考えた雅仁天皇は、当時の流行歌である今様に熱中します。
貴族から民衆まで楽しんでいた今様にのめり込んでいく雅仁親王。

1141年、雅仁親王を皇位から遠ざけた鳥羽上皇が、再び動きます。
23歳の崇徳天皇に強引に譲位を迫り、まだ3歳だった体仁親王を近衛天皇としたのです。
崇徳天皇は、鳥羽上皇の本当の子ではないという噂がありました。
崇徳天皇の本当の父は、崇徳上皇の祖父である白河法皇だといわれています。
不貞の子だと考えられていて、鳥羽上皇は一刻も早く自分の子を天皇のしたかったのです。
ところが、新たに即位した近衛天皇は体が弱く、子供を残せぬまま17歳で崩御。
次の天皇を誰にするか??朝廷内がにわかに騒がしくなりました。
鳥羽上皇は、四男である雅仁親王を・・・ではなく、その子・守仁親王を指名します。
それに対し、貴族たちが不満の声が・・・
すると鳥羽上皇は・・・
「ならば、一旦雅仁親王を即位させて、その後すぐに守仁親王へ譲位させよう」
こうして、後白河天皇は、急場しのぎの中継ぎとして即位しました。
この時、29歳でした。

1156年保元の乱!!
保元元年に、一連の皇位継承を快く思わない崇徳上皇が、後白河天皇と衝突!!
指揮を執ったのは近親たちで、実際に戦ったのは武士たち・・・
崇徳上皇・・・・・源為義・平忠正
後白河法皇・・・源義朝・平清盛
でした。

源義朝・平清盛らの活躍で、保元の乱は後白河法皇側が圧勝!!
敗れた崇徳上皇は讃岐国に流されてしまいました。
この保元の乱は、武士が台頭する大きなきっかけとなりました。
2年後・・・後白河天皇退位!!して上皇に。
第一皇子である守仁親王が二条天皇となりました。
これで世の中は落ち着く??そう思われましたが、後白河上皇が争乱の火種を作ってしまいます。
当時、朝廷には二人の実力者がいました。
共に後白河上皇の近臣だった僧侶・信西入道と上級貴族の藤原信頼です。
53歳の信西入道は、もともと貴族で諸芸に通ずる才人で、妻が後白河上皇の乳母であったこともあり絶大な権力を有していました。
一方、藤原信頼は27歳。
後白河上皇の元で大出世し、この時すでに権中納言という地位にありました。
しかし、周りの評価は・・・「文にもあらず、武にもあらず、能もなく、また芸もなし・・・」と、典型的なダメ男でした。
どうして信頼は異例の出世をしたのでしょうか??
二人は男色関係にあり、後白河上皇は信頼にべた惚れでした。
貴族社会の間では、男色は普通のことでした。

信頼が願いを申し出ます。
「私を右近衛大将にしていただけませぬか?」by信頼
右近衛大将とは、宮中での常設武官の最高職でした。
信頼には分不相応でしたが・・・後白河上皇はこの願いをかなえてやりたいと信西に相談。
信西は・・・
「信頼などが、右近衛大将となったら世が滅びます」by信西
これを聞いた信頼は激怒し、信西を恨み、遂には信西の殺害を目論みます。
この時手を結んだのが、保元の乱で活躍した源義朝でした。
義朝も信西に恨みを抱いていました。
保元の乱の後、崇徳上皇側についた父・為義の助命嘆願をしましたが、信西がこれを許さず、義朝自身に父・為義を処刑させていたのです。
また、信西は、平清盛を優遇し、義朝を冷遇していました。

1159年12月9日、藤原信頼と源義朝が挙兵!!
平治の乱が勃発しました。
平清盛が京都を離れていた隙をつき、義朝率いる源氏軍が信西の屋敷を襲撃し、屋敷にいた者をことごとく殺害し、信西を自害に追い込みます。
さらに、暴走した信頼は、二条天皇と寵愛を受けていた後白河上皇を幽閉しました。
朝廷の実権を奪ったのです。
しかし、平清盛が京都に戻ると状況は一変!!
二条天皇を内裏から救い出し、後白河上皇も自力で脱出!!
勢いに乗った清盛は、激戦の末に源氏軍を撃破!!見事に乱を治めたのです。
追いつめられた信頼は、命からがら後白河上皇の元に逃げ込み、助命嘆願します。
すると上皇は、幽閉されたにもかかわらず、信頼の願いを聞き入れようとします。
しかし、二条天皇は信頼を許さず・・・六条河原でその首を刎ねました。
この時信頼についていた義朝は、尾張国まで逃げますが、殺されてしまいました。
供に逃げていた息子・頼朝は伊豆に流され、弟・義経は鞍馬寺に預けられたのです。
後に、平家打倒に・・・!!

この後、後白河上皇は失脚し、貴族たちの顰蹙を買い総スカン!!
後白河上皇の屋敷には、見物席があり庶民と歓談することを楽しみにしていた上皇ですが。。。
平治の乱の後実権を握った二条天皇の近臣が、見物席の目の前に板を打ち立て後白河上皇の楽しみを奪ってしまいました。
腹を立てた後白河法皇は・・・一気に勢力を高めていた平清盛を屋敷に呼びます。
「板を打ち付けた者を懲らしめてほしいのじゃ!!」
と、懇願します。
失脚しても上皇・・・。清盛はこの願いを聞き入れます。
板を打ち付けた者たちをせっかんし、泣き叫ぶ声を上皇に聞かせました。
自らの武功によって失脚した後白河上皇・・・もはや復権はない・・・。
と、誰もが思っていました。
ところが・・・時代は後白河上皇に微笑みます。
1165年二条天皇が23歳という若さで病死。
亡くなる直前に、実子の六条天皇が後を継いでいましたが・・・まだ2歳・・・。
政務を行える状態ではなかったので、祖父である後白河上皇が復権。
院政を行うこととなりました。
すると上皇は、清盛のご機嫌を取り始めます。
六条天皇の皇太子に清盛の甥・憲仁親王を据え、皇太子に関する実務を司る役所である東宮坊の役人に平家の者たちを・・・。
そして、1167年清盛を太政大臣に任命します。
武士が、官僚の最高職である太政大臣となるのは前代未聞のことでした。
清盛に守られることで、院政を強めようとしたのです。
翌年には、憲仁親王が皇位を継ぎ高倉天皇となりました。
そしてその高倉天皇が、清盛の娘・徳子妃としたので、後白河上皇と清盛の関係は強まります。

1169年後白河法皇は43歳で出家して、後白河法皇となります。
これまで以上に人生を謳歌していきます。
蜜月関係の後白河法皇と清盛ですが、思わぬところから亀裂が・・・!!
1177年比叡山延暦寺の僧兵たちが寺で乱闘事件を起こした者の処罰を求め、高倉天皇の内裏へ乗り込んできました。
激怒した後白河法皇でしたが、その理由は・・・
「訴えがあるのならば、なぜ朕のところへ来ないのじゃ!!」
延暦寺が、自分を最高権力者と認めていないことに腹を立て、後白河法皇は清盛に
「直ちに延暦寺を攻め立てよ!!」と命令します。
これが清盛を悩ませます。
延暦寺は、僧兵がたくさんいて手ごわく・・・何より、仏門を敵にしたくはありませんでした。

そんな時、清盛に知らせが・・・
京都・鹿ケ谷の山荘で、後白河法皇の近臣たちが、平家打倒の陰謀を企てていると・・・!!
清盛は、近臣たちを捕らえ、拷問し、斬首しました。
これを目の当たりにした街の人たちは、平家に逆らうと恐ろしいことになると噂します。
朝廷内にも激震が・・・!!
本当にこの陰謀はあったのか・・・??
清盛は、自らの力を見せつけることで、無理難題を押し付ける後白河法皇を黙らせようとしたのではないか?と思われます。
ところが、後白河法皇は黙るどころか「平家一門もろとも葬り去ってやる!!」と、清盛に激怒!!
清盛が管理していた領地を取り上げ、孫・維盛の知行国・越前を没収。
その上で、またしても延暦寺を攻撃せよと命じます。
これによって清盛はついに挙兵を決意!!
そして1179年11月、数千騎を引き連れて後白河法皇の内裏へと向かいます。
この時、後白河法皇は、「清盛の挙兵は延暦寺を攻めるためだ」と考えていました。
自分が徴発しておきながら。。。
自分が襲われるのだと気づいたのは、清盛軍が目前に迫ってからでした。
慌てた法王は、清盛の元に使者を送り、「今後、朕は一切政治に関与せぬ」と宣言。
しかし、時すでに遅し!!
延暦寺の問題で、後白河法皇と清盛の関係は悪化していました。
これを黙殺し、後白河法皇を幽閉して、院政を停止!!
朝廷の人事を刷新し、法皇の近臣たちをことごとく追い払い、その空いたポストに平家一門をつかせたのです。
これによって、平家が支配する所領が全国の半分を越えるまでに拡大しました。
平家の世が訪れたのです。

法皇は、さほど落ち込むこともなく、今様を舞っていました。
親しみやすい後白河法皇は、民衆から支持されていて、幽閉されたことがわかると、涙を流すものまでいたといいます。
呑気に今様に興じていた後白河法皇。
自分に逆らった清盛への怒りは全く収まっていませんでした。
権力をほしいままにする平家に対し、不満の声が高まり立ち上がる者が出てきました。
源氏の嫡流である源頼朝もその一人です。
伊豆国で挙兵した頼朝は、東国武士を次々と味方につけ、鎌倉に平家を倒すための拠点を作ります。
これに、延暦寺など多くの寺社も呼応し、打倒平家の機運は高まります。
暗雲が立ちこみ始めた平家政権・・・。
すると清盛は後白河法皇の幽閉を解き、院政の再開を要請します。
再び法皇と手を組み、反勢力を抑え込もうとしたのです。
1181年、清盛が突然病に倒れます。
激しい頭痛と体が燃えるような高熱で息も絶え絶え・・・もはや助からぬ・・・と、後白河法皇に

「私が没したら、後を託した息子の宗盛と共に政務を執っていただきたい」by清盛

かつては、蜜月関係を築いていた清盛の最後の願い・・・清盛に恨みを抱いていた後白河法皇はこれを無視!!
清盛は平家の行く末を案じたまま、治承元年閏2月4日、死去。

この時後白河法皇は、清盛を弔うこともなく、内裏で今様を謡い続けていたといいます。
1184年、源頼朝に平家追討の命令を下しました。
その翌年の1185年・・・壇ノ浦で平家は滅亡!!

源義経が近江で平宗盛を処刑すると、後白河法皇はわざわざ宗盛の首を見物しに行ったといいます。
その1年後・・・平家の生き残りとなった清盛の娘・徳子の元を訪れ、一門滅亡の悲痛な思いを聞いて涙したといいます。
自分で滅ぼしておきながら・・・!!

平清盛と蜜月関係を築き、権力を維持してきた後白河法皇は、平家亡き後は源氏と密にしていきます。
そこで目をつけたのが、源義経でした。
平家との戦いを勝ち抜いた戦の天才・源義経!!
武功を高く評価した後白河法皇は、検非違使に任命します。
しかし、これを不快に思ったのが、兄・頼朝でした。
頼朝は、総大将の自分の許可なく官位を得た義経を激しく叱責!!
鎌倉に入ることも許さず、領地も没収!!
非情な兄の仕打ち・・・義経の悲しみは、やがて激しい怒りに!!
そして後白河法皇に兄・頼朝の追討許可を求めました。

「よかろう・・・頼朝を討つがよい!!」by後白河法皇

頼朝は驚きます。
確かに最前線で戦ったのは義経でしたが、総大将として平家を滅亡させたのは自分・・・その自分を討てとは・・・!?
頼朝は、後白河法皇を「日本一の大天狗」と、得体のしれない存在と皮肉を込めて呼びました。
しかし、この時後白河法皇には意図がありました。
この時、都は激化する源平の戦いで混乱していました。
頼朝に対して憤っていた義経が暴発する可能性がありました。
頼朝追放令を出すことで、義経を落ち着かせようとしたのです。
義経を思ってのこと・・・??

頼朝の追討を許された義経でしたが、事は思うようには運ばず・・・
鎌倉に強大な軍事力を持つ頼朝を敵に回そうとする武士は少なく、戦力が整いません。
止む無く、頼朝追討は諦め、若い頃世話になった奥州藤原氏の元へ逃げ込みます。
一方頼朝は、1000騎の軍勢で都を制圧!!
後白河法皇に、義経追討の院宣を求めます。
そると法皇は・・・
「よかろう 義経を討つがよい」と、義経追討をみとめてしまいました。
後白河法皇に見捨てられた義経は、逃げ込んだ奥州で力尽きて自害。
31歳という若さで生涯を追えます。
寵愛していた義経追討を許した後白河法皇。
この時、義経を見捨てた理由は・・・
後白河法皇は、何より都を護りたかったようです。
頼朝が上洛し、都を制圧すると、今度は頼朝の怒りを鎮めるために・・・
義経よりも、都と民衆の安寧を守りたかったのです。

1192年後白河法皇は、66年の生涯を閉じました。
その死に顔は、驚くほど穏やかだったといいます。
今様を愛した後白河法皇、お気に入りの歌は・・・

遊びをせんとや生まれけん
    
   戯れせんとや生まれけん
      
遊ぶ子供の声聞けば

   わが身さえこそ動がるれ

まさに、この歌のように生き、平家と源氏を翻弄し、時代を変えた実に興味深い人でした。


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江戸幕府初代将軍徳川家康。
家康が天下を手に入れることができた一つの要因は長寿でした。
薬や医術を学び病に対処、常に健康に気を遣っていました。
歴史にその名を残す偉人達・・・どうやって病と闘い死と向き合ってきたのでしょうか?

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝

鎌倉幕府を開いた源頼朝は、1147年尾張国に源氏の棟梁・源義朝の嫡男として生まれました。
その後、義朝と共に平治の乱に加わるも、平清盛に敗北を喫し父を殺され、頼朝は伊豆に流されます。
1160年、頼朝14歳の時でした。

それ以来、父の菩提を弔いながら、いつの日か敵を討とうと平家への恨みを募らせていきます。
願いがかなったのは、25年後の1185年、頼朝39歳の時でした。
源氏が壇ノ浦の戦いで平家を滅ぼしたのです。
1192年、頼朝は鎌倉幕府初代将軍となります。
武士が中心となって政治を行う武家政権の安定化を図っていきますが・・・将軍になってから6年後の冬の事。
武蔵国で行われた橋の開通式に参列した帰り道、頼朝は落馬してしまいます。

「武士の棟梁でありながら落馬するとは、何たる失態!!」

酷くショックを受けたものの、大したけがもなくいつもと変わらぬ日々を送っていました。
ところが・・・2週間ほどたった日の早朝・・・ひどい頭痛と吐き気を訴え・・・そのまま亡くなってしまうのです。
53歳でした。

亡くなる前日まで元気だったので、人々はその死を不信がりました。
様々な噂が・・・頼朝の謎の死、その死因とは・・・??

死因①亡霊説
南北朝時代の書かれた「保暦間記」には・・・
「安徳天皇らの亡霊を見て、気を失い病に倒れた」
とあります。
頼朝は壇ノ浦で平家と共に身を海に投げた、安徳天皇らの亡霊を見て病に倒れたというのです。
当時は、亡霊や祟りの存在が強く信じられていたからです。
が、信憑性はありません。

死因②毒殺説
鎌倉幕府編纂の「吾妻鏡」は、なぜか頼朝の死の前後3年間は空白となっています。
これは、頼朝の不信な死を隠したいという隠蔽説ではないか??と!!
そしてその首謀者こそ、当時頼朝の後ろ盾であった北条氏で、頼朝から政権を奪うために、あらかじめヒ素を飲ませ、毒殺し、隠蔽を図ったというのです。
ヒ素の中毒症状は・・・
・胃や腹部の激しい痛み
・嘔吐
・血性の下痢
・重症の場合は、腎障害や、全身痙攣を引き起こす
です。

頼朝もまた、強い吐き気をもよおしていたので、ヒ素とも考えられますが・・・まだ鎌倉幕府が安定していない時期に、北条氏がカリスマ性のある頼朝を毒殺するメリットがない??

死因③糖尿病説
五摂家の一つ近衛家の日記「猪隈関白記」の中に
「頼朝卿、飲水の重病により」という記述があり、頼朝は重い飲水病を患っていたことになります。
飲水病とは・・・??糖尿病のことです。
大量に水を飲みたがることから、飲水病と名付けられたようです。
糖尿病になると・・・血管障害や腎障害、神経障害を起こし、重病の場合、死に至る可能性がります。
頼朝の死は糖尿病??

頼朝の場合、突然体調不良を起こしているので、糖尿病で死に至った可能性は低いと思われます。

頼朝の死の原因は落馬・・・??
慢性硬膜下血腫による死亡が有力です。
これは、頭部打撲の後、2~3週間後に症状が出ます。
頭を討った際に、じわじわと出血し、血種が大きくなり、脳幹を圧迫して死に至る場合がります。
気にならないほどの打撲で・・・。

鎌倉幕府初代将軍・源頼朝
病歴:糖尿病
死因:慢性硬膜下血腫
没年齢:53歳
でした。


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1185年3月、源義経に追い込まれた、幼い安徳天皇は壇ノ浦で入水・・・平家は滅亡しました。
平安時代末期、貴族社会に挑み栄華を誇った平家一族・・・
史上初の武家政権の礎を築いたのは、平清盛でした。

「平氏にあらずんば人にあらず」

武士でありながら、異例の大出世をした清盛・・・その裏には・・・??
1118年、平清盛は平家棟梁・忠盛の子として生まれました。
が・・・母親の名は記録にありません。
平家物語には・・・
”ふるい人の申しけるは
 清盛公は
 ただびとにはあらず
 白河院の御子なり”
とあります。

当時の白河上皇の御落胤だというのです。

ある雨の夜、清盛の父・忠盛が、上皇のお供で祇園に向かっていた時・・・
鬼に出くわし、命がけで上皇を守ったと・・・
その褒美として上皇は、自分が可愛がっていた祇園女御を忠盛に与えました。
が、このとき、祇園女御は上皇の子を身ごもっていたのです。
その子こそ、のちの清盛だというのですが・・・??
清盛は異例の大出世をしています。
12歳・・・従五位下
14歳・・・従五位上
18歳・・・従四位下
23歳・・・従四位上
43歳・・・正三位
44歳・・・中納言
48歳・・・大納言
50歳・・・太政大臣
最高位の太政大臣・・・そんな噂が出てもおかしくありません。

300年続いた貴族社会で、当時武士の地位は低く、盗賊退治や貴族の護衛をするなど朝廷のガードマンのような存在にすぎませんでした。
清盛が出世できた・・・そんな中出てきたのが、御落胤説です。

天皇の母・乳母・愛妾は、かなり強い力を持っており、清盛の母である祇園女御は息子の出世を陰でサポートしたのでは・・・??と思われていましたが・・・平家物語には当時の貴族の感情が含まれているといいます。
貴族にしてみると、武士という異分子が入って出世していくのは恥なことでした。
武士の出世に対して、反発が強かったと思われます。
平家物語は貴族が書いたものであり、納得させる落としどころとして御落胤ということにして納得したのです。

では・・・どうして清盛は出世できたのでしょうか?
清盛の祖父・正盛は、都の犯罪や風俗を取り締まる検非違使を務め、地方の役人から従四位下に叙せられます。父・忠盛は、武士で初めて天皇の傍で使えることのできる内昇殿を認められます。
京都鴨川の東・六波羅を拠点に権力を拡大、平家繁栄の基盤を作りました。
清盛は、そんな名門の御曹司として生まれたのです。

恵まれたスタートの清盛は、努力でさらなる出世を遂げていきます。
後白河天皇と崇徳上皇の間で起きた保元の乱(1156)では、清盛は後白河天皇の味方で、活躍します。
天皇は、後白河上皇となり、院政をしきます。
代って天皇となったのは、息子の二条天皇でした。
しかし、上皇が一部の貴族を寵愛したために朝廷内に新しい対立が・・・!!
3年後の1159年平治の乱で、天皇派の貴族と上皇派の貴族が対立します。
この時武士勢力も二分します。
西国に拠点を置く清盛とその一族VS東国に拠点を置く源義朝の戦いです。
平治物語絵巻にはその様子が書かれています。
義朝は、後白河上皇と二条天皇を幽閉!!
天皇と上皇を自らのもとに置くことで官軍になろうとしたのです。
この時、清盛は都を離れ、紀伊半島の熊野に向かっていました。

知らせを受け、すぐに戻る清盛・・・まずは帝を助け出す!!
すでに御所は源氏の軍勢に固められていましたが・・・
12月26日夜半・・・御所の門から牛車が・・・源氏の兵は牛車を取り囲むと、中を見ます。
そこには女官が・・・当時は何かあると、女官は避難しました。
実はこの女官は二条天皇だったのです。
清盛は、義朝に「降伏情」を送り、油断させ・・・御所に内通者を送り、天皇を女官にしての脱出作戦を成功させたのです。
のちに後白河上皇も脱出し、清盛が官軍となりました。

賊軍となった源氏は壊滅状態となり、義朝は東国へ逃げる途中に殺されてしまいました。
清盛は、加担した貴族や源氏を容赦なく処罰していきます。
しかし、絶世の美女・常盤御前を清盛の愛妾とすることで、義朝の幼子・頼朝と義経は助けられたのでした。
14歳の頼朝は伊豆へ流され、9歳の義経は鞍馬寺に預けられます。
このことが、のちに平家滅亡の要因になることは知る由もありませんでした。

その後清盛は、武士で初めて小三位に叙せられ、国事に意見ができるようになります。
源氏の棟梁の子として生まれ、天皇や上皇のために戦うことで出世した清盛でしたが、都では二条天皇と後白河上皇が激しく対立するようになっていました。
清盛は、二条天皇を御所から救い出したことで厚い信頼を得、後見役として深く政治にかかわっていきます。
また、仏教に深く帰依していた後白河上皇のために、三十三間堂を造営!!
そんな清盛の行動は、「愚管抄」で”アナタコナタシケル”・・・うまく立ち回っていると書かれています。



1165年7月、二条天皇が23歳で崩御!!
後ろ盾を失ってしまった清盛!!
後白河上皇は息子を新しく天皇・高倉天皇とします。
清盛の甥にもあたりました。
清盛はすぐに行動を!!建礼門院徳子を、高倉天皇の中宮とします。
身内を天皇家に嫁がせ、姻戚関係を結ぶことで、貴族社会をわがものにしようとしていました。

1167年太政大臣に叙せられる。
武士である清盛が公家の頂点に・・・!!
京には清盛を批判する声もありました。
supai














京都の町には清盛が放ったスパイ・禿を使って噂を探させました。
その数300人余り・・・。実在していたのか??よくはわかりませんが、平家の強大さが伺えます。

後白河上皇はどうして清盛を太政大臣としたのでしょうか??
朝廷にとっては、すでに清盛は外せない存在となっていました。
清盛が持っているのは軍事力!!保元の乱、平治の乱で、軍事力を持っているものが強い!!ということを、貴族が分かってしまったのです。
つまり、”アナタコナタシケル”ではなく、清盛の選り取り見取りだったようです。
貴族たち誰もが欲しがった軍事力!!後白河上皇は、それを得て、朝廷内で権力を万全としたかったと思われます。

こうして朝廷内での権力を手に入れた清盛・・・3か月で太政大臣を辞任してしまいました。
実質的権限がなかったからです。
清盛は51歳で出家すると、京都を離れ、摂津国福原(現在の神戸)にやってきます。
福原へ移動したのは・・・

①富の獲得
当時、日本と宋との貿易は、公のものではなく、有力者が個々に行っていました。
そして宋の船のほとんどが、福原の大和田泊に寄港し、都に荷を運んでいました。
清盛は港をおさえることによって、貿易の利権を独占しようとしていました。
出家していた後白河法皇を福原に招いて、そうの商人と合わせます。
遣唐使が廃止されてからは貴族が異国人に接見することはありませんでした。
その慣例を破った清盛を、貴族たちは避難します。
これによって日宋貿易は朝廷のお墨付きとなり、清盛は巨万の富を得、繁栄を築いていきます。

②権力の拡大
清盛はさらなる権力拡大に奔走します。
嫡男・重盛を大納言に、三男・宗盛中納言に・・・武官の最高職を平家で独占します。
独裁者と化していく清盛・・・
そんな清盛を疎ましく思う人も現れてきました。

1177年6月、鹿ケ谷の陰謀です。
清盛反対派が集まりましたが、その中に、後白河法皇の姿もありました。
法王もまた、清盛に危機感を抱いていました。
しかし、このたくらみは、密告によって・・・厳罰に処せられます。
そんな中、後白河法皇だけは・・・咎めませんでした。
翌年、清盛をさらに有利にさせる・・・高倉天皇と徳子の間に後の安徳天皇が生まれたのです。

その喜びもつかの間・・・
1179年6月清盛の清盛の娘・盛子が亡くなります。
その翌月・・・嫡男・重盛が病死、この時を待っていたかのように動く後白河法皇!!
盛子の荘園を清盛の相談なく没収!!重盛の所領だった越前国をも取り上げ、平家一門が相続することを認めませんでした。
また、重盛の喪中にも関わらず、遊興にふけり、平家の体面を傷つけました。
法王の挑発的な態度に、武力によるクーデターを!!
多くの兵を率いて京に入り、院政を止めさせてしまいました。
これは、法王にとって想定外のことでした。

貴族たちもこれにはびっくり!!
この後白河法皇の幽閉が、平家滅亡の引き金となりました。
全国66か国の半数となる32か国を平家の知行国とした清盛。
後白河法皇に代り、高倉天皇を上皇に、孫を安徳天皇にします。

新天皇はこの時未だ2歳でした。
「平氏にあらずんばひとにあらず」
栄華を極めた平家・・・ここに初めての武士政権が誕生したのです。

1180年6月、政治の実権を奪い取った清盛は・・・都を京から福原への遷都を行います。
これは長い間謎とされてきていましたが・・・遺跡から実在したことが明らかになりました。
この遷都は、十分な準備がなされないままの遷都だったので、貴族たちの不満が募ります。
どうして清盛は福原遷都を行ったのでしょうか??
①日宋貿易の拠点だったから
②清盛の大きなビジョンの実現でした。
大きなビジョン・・・それは、福原幕府の成立?
朝廷の権力を利用した幕府の成立でした。
都を離れることで、一旦貴族社会を解体し、新しい政治基盤を作りたかったようです。
貴族や自社から大きな反発が・・・!!
この清盛の独裁化が平家滅亡に影響します。
貴族化していた平家一族も・・・孤立無援の清盛・・・!!

おまけに干ばつや疫病が・・・遷都のせい??

止む無く都を京に戻す清盛!!
その時、源氏が挙兵しました!!
源氏の軍勢は、平家を打ち負かし、都に迫ってきます。
そのさなか、1181年閏2月、清盛は突然の病に倒れてしまいました。
・・・死を悟った清盛は、共存共栄を願って、後白河法皇に一縷の望みをかけて書状を送ります。
が、返事はありませんでした。見限られた清盛・・・
「頼朝の首を刎ねて我が墓前に供えよ・・・!!
 それこそが、最大の供養じゃ・・・!!」
そう言い残し、64年の生涯を終えました。

清盛を失った源治たちは、源氏の軍勢に追われるように西へ・・・西へ・・・落ち延びていきます。
安徳天皇と天皇の権威の象徴・三種の神器を携えて・・・
平家は天皇の権威を後ろ盾に復活を考えていたのです。
一方、後白河法皇側は、安徳天皇に変わる後鳥羽天皇を即位させます。
平家討伐の院宣を下しました。
一之谷の戦い、屋島の戦い、平家は義経率いる源氏軍に大敗を喫し海へ・・・!!
1185年3月、平家は壇ノ浦で運命の戦いに臨みます。
平家軍500艘VS源氏軍840艘!!
数の上では源氏が有利でしたが、海での戦いを得意としていた平家、望みはありました。
しかし・・・大敗を喫しました。
戦いが始まったのは・・・3月24日正午
東へ攻める平家軍は、潮の流れに乗り一気に攻め込みます。
平家の大水軍は義経の船矢を!!敵をハリネズミにするような猛攻でした!!
しかし、午後3時・・・潮の流れが源氏有利の西寄りに・・・!!
源氏が平家を追い込んでいきます。

???しかし、科学的シミュレーションを見ると・・・潮の流れは戦いには影響していなかったことが分かりました。
では平家の敗因とは・・・??
義経がルール違反をしたためでした。
漕ぎ手は非戦闘員・・・その非戦闘員を狙ったのです。
漕ぎ手を失い、舵を失い・・・劣勢に追い込まれたのです。
このことを見た平家主力・阿波水軍300艘は、戦況有利となった源氏に寝返ります。
平家の水軍は、次々と海に沈んでいきました。

知盛は、船の上を掃き清め、全軍に呼びかけます。
そして清盛の妻・時子も、死を決意し、孫の8歳になる安徳天皇を抱き寄せ、海の底の都に・・・
安徳天皇と・・・天皇の象徴である三種の神器とともに・・・!!

武士として見たこともない栄華を極めた清盛・・・

「おごれるひとも久しからず・・・ただ春の世の夢のごとし」



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今から800年以上前・・・武蔵坊弁慶が命がけで守ったのが源義経です。

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どうして平家を滅亡させたことができたのか??
兄弟はなぜ対立しなければならなかったのか??
奥州死亡説の謎・・・その真相に迫ります。

義経は1159年に、源氏の棟梁・源義朝と常盤御前の間に生まれました。
義朝の九男に当たるので、幼名を九郎牛若といいました。

生まれた年には平治の乱が起こり、父・義朝は清盛軍に完敗し・・・殺害されてしまいました。
義朝の子は、謀反人の子として清盛に迫害され・・・生き残った三男の頼朝は伊豆へ流罪・・・義経は9歳で鞍馬寺へ・・・
僧正ヶ谷で武芸の修業をした義経・・・天狗のような落人から修業を受けたとも言われています。
平家打倒の日を待ち続ける日々だったのです。
京都・五条大橋で出会ったといわれる弁慶と義経。。。弁慶に出会うのも、鞍馬の頃のようです。

16歳の時、義経は鞍馬を抜け出しました。
京にある首途八幡宮で道中の無事を祈願して・・・平泉へと下るのでした。
当時の平泉は人口10万人・・・京に次ぐ町として栄華を誇っていました。
支配していたのは・・・奥州藤原氏。。。
奥州で採掘される金や馬を朝廷に献上することで、独自の繁栄を築いていました。

そんな平泉に義経が逃げたのは・・・
母・常盤御前の知人がいたから・・・もう一つは、源氏の長老・源頼政の仲介によるものとも言われています。
頼政は、秀衡と交流があったとされ、義経の平泉行きに手を尽くしたと言われています。

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そしてそこには秀衡のもくろみもありました。
義経という、血統書付きのブランドが欲しかったのです。
源氏の貴公子をトップに据えて、後ろでコントロールし、自立政権を立てようとしていましたが・・・
義経の器量に惚れこんで、一人前の武士にしようと考えはじめました。


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その頃・・・京の都は・・・平清盛が栄華を誇っていました。
”平家にあらずんば人にあらず”です。

しかし・・・平家の台頭に不満を抱いていた後白河法皇・・・1180年以仁王は、源頼政と共に平家追討の命令を発します。
しかし・・・この情報は平家に漏れていて・・・以仁王と頼政・・・ふたりは命を落としてしまいました。
そこで立ち上がったのが、源頼朝でした。
平家追討の命を受け、伊豆で蜂起します。
頼朝は令旨を旗の先に掲げて進軍したと言われています。自分こそが以仁王より平家追悼を依頼されたと宣言したのです。

yoritomo頼政が亡くなったことによって・・・頼朝は頼政が築き上げていた”東国ネットワーク”を手に入れることができ、東国のリーダーと成り得たのです。
20万の軍勢と共に・・・富士川で平家軍と対立!!
七日目の夜・・・源氏軍の一部が平家軍の後ろにまわろうと川を渡り始めた時、水鳥が一斉に飛び立ち、大きな羽音が静寂を破りました。
平家軍はこれを敵の襲来と勘違いし、逃げ出しました。
頼朝は戦わずして勝利したのです。

頼朝の挙兵に、心が逸る義経・・・22歳・・・
奥州から、兄・頼朝のもとへ駆けつけます。
兄弟初めての対面でした。

1183年平家追討の旗を立て木曽義仲入京。
義仲を恐れた平家は、西へ落ち延びていきます。
平家を追討した義仲でしたが・・・家臣の狼藉によって自らも追われる身となってしまいました。
頼朝は義仲追討を命じられ・・・その大役を仰せつかったのが義経でした。
1184年鎌倉軍を率いた義経は、義仲追討に成功!!
頼朝は労をねぎらって・・・縁談を薦め。。。
義経は頼朝の乳母・比企尼の孫を娶ります。

仲が良さそうに見えるふたり・・・
しかし、鶴岡八幡宮では・・・頼朝は義経に、大工に与える馬を引くように命じています。
これは本来身分の低い者が行うことでした。
戸惑う義経・・・どうしてこんな仕打ちを。。。

頼朝は、武家の秩序を示したかったのです。
平家を倒し、武家政権を樹立しようとしていた頼朝・・・たとえ義経が弟であったとしても、家臣であるという位置づけにしていました。
自分に従う弟を見せることで、周囲にも厳しい主従関係を求めたのです。

平家打倒を実現しなければ・・・!!
京に戻ってきていた平家を討伐しに向かいます。

1184年2月、一の谷の戦い・・・源氏は海側・山側からの挟み撃ちを計画!!
馬で崖を下る義経の奇襲によって源氏は大勝利!!

義経は京に招かれ・・・後白河法皇から従五位下・・・検非違使の位をもらいます。
義経は朝廷から官位をもらうことは源氏にとって大変な名誉であると受けるのですが・・・
頼朝から出陣命令が・・・!!
屋島の戦いです。
平家最大の拠点を叩こうとします。
水軍には太刀打ちできない・・・??
そんな劣勢の中・・・1185年2月17日・・・時化ている海・・・わずか5艘で出陣する義経。
屋島で・・・周囲の民家に火を放ち、背後から大軍で襲ったように見せかけます。
慌てた平家は、逃げまどい・・・陥落・・・。

そして、最後の戦い・・・決戦の地は壇ノ浦。
水軍の多くは、屋島の戦いの後、源氏につき、圧倒的な強さを見せつけます。
その水軍を率いる義経。

清盛の血を引く安徳天皇の入水によって源氏の血は絶たれてしまうのでした。
義経は、兄と共に誓った悲願をここに達成したのです。

その後鎌倉に向かう義経・・・。
しかし、腰越で足止めを食らってしまいます。
それを命令したのは頼朝でした。

義経が兄を怒らせた理由は・・・

①義経の名声
一の谷の戦い・屋島の戦い・壇ノ浦の戦いによって名声を得、朝廷から官位をもらって喜んでいたからです。
朝廷が武士を自分の味方に引きたてる場合、常に「官職」というご褒美を用意します。
そんなことに敏感な頼朝はご褒美を受けようとはしていませんでした。
天真爛漫な義経の感覚・・感触をもらうことの恐ろしさの自覚がないことに対して危ないと思っていたのです。
鎌倉幕府にTOPは二人も要らない・・・!!

②後白河法皇の策略
平家打倒のために共に戦った頼朝と義経・・・ふたりの間に大きな亀裂を入れたのは、後白河法皇でした。
院政を敷いていた後白河法皇は、源氏と平家を巧みに利用していました。
常に”敵の敵”に乗り換えて、引きたてることによって自分の力を維持していました。
後白河法皇の壮大な計画・・・
京都から西を義経、関東八州を頼朝、奥州藤原・・・武家政権を分散させてその上に朝廷を置くというものでした。
しかし、その構想は、新しい武家政権を目指す頼朝とは相反するものでした。
やすやすと術中にはまった義経に腹を立てた頼朝。。。

③奥州藤原氏の存在
平家を滅亡させたのち、藤原氏の家臣・砂糖忠信とともに官位を授けられた義経。。。
秀衡の家臣と共に官位を授かったことに、頼朝が激昂!!
源氏のライバルだった藤原氏だったからです。
義経の背後には、常に秀衡の影が・・・このつながりを警戒したのです。

1185年10月、失意の中・・・京に戻った義経・・・兄・頼朝の差し向けた追っ手に襲われます。
兄が自分の命までも・・・と思った義経は、頼朝追討を朝廷に願い出ます。
が、この時頼朝からの圧力を受けていた朝廷は、義経の官位を剥奪し、反対に追討命令を出したのです。

朝廷の後ろ盾を得て・・・頼朝は義経追討を高らかに宣言します。
追われる身となった義経。。。
朝敵となった義経は、山伏に扮し、わずかな友と共に奥州藤原氏を目指します。
頼朝によって関所が作られていたために、その道のりは苦しく・・・

安宅の関では有名な・・・勧進帳として今に伝わっています。

逃亡1年・・・ようやく奥州にたどり着いた義経・・・
頼朝と敵対するを覚悟して義経を受け入れてくれた秀衡。
しかし、秀衡が病に倒れ・・・子供たちには、義経を大将軍として奥州の政をさせること・・・義経と協力して頼朝を討つことを遺言します。

奥州将軍となった義経・・・
陸奥・出羽・・・東北一円を占領して、リーダーを発揮する義経。
のべ45万人を使って二重掘りの阿津賀志山防塁を築き、頼朝に備えます。
1189年藤原氏泰衡の追討命令を願い出た頼朝。
義経を庇う罪は重い!!
衝撃を受けた泰衡。。。
朝廷に反逆者として見られてしまったら・・・
思い悩んだ泰衡は苦渋の決断をします。

「平泉を守るために義経を討つ!!」

泰衡の差し向けた兵によって、わずか20人の義経・・・お堂に逃げ込み自刃しました。
この時31歳。。。

その4か月後、頼朝は大軍を率いて東北へ・・・!!
1189年8月22日平泉陥落・・・奥州藤原氏は滅亡しました。
義経はどうして頼朝に殺されたのか・・・??
義経は、兄・頼朝の全国制覇の犠牲となったのです。

ここから武士の世が始まりました。
義経の死は・・・武士の世に捧げられた命でした。


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平安末期・・・武家は、平家と源氏が拮抗していました。

その源平合戦に終止符を打ち、平家を滅ぼしたのが源義経です。
しかし・・・義経はその後兄の怒りを買い・・・弁慶の奮闘虚しく平泉で死ぬこととなりました。

その母・・・絶世の美女と謳われた常盤御前・・・どんな人だったのでしょうか?
本当に悪女だったのでしょうか?

ということでしたが・・・女性ということで、あんまり資料が残っていないようです。
生い立ちも不明ですが貧しかったようで・・・歴史に登場したのは1150年13歳の時でした。
近衛天皇のもとに、九条院・・・藤原呈子(ていし)が嫁ぐことになり、その九条院のお世話係(雑仕)を募集することになりました。
そこに都中の女性が殺到しましたが、常盤もその中のひとり・・・1000人の中からたった一人選ばれたのでした。
雑仕は下仕で身分が低く、女房に上がることはありません。
しかし、出世rのチャンスに恵まれます。それは美女だったから。。。
皇族や貴族にとって美女の女官は一種のステータスで、出自や家柄に関係なく出世できる道だったのです。

tokiwa美しく評判な常盤・・・呈子に仕えて3年目の頃・・・一人目の男・源氏のリーダー・・・源義朝。
義経の父となる義朝。。。
この頃武士は、棟梁を中心とした武士団を組織し、天皇や上皇に仕えて、護衛や紛争の鎮圧に努めていました。
代表的なのは、清和天皇系の源氏と桓武天皇系の平家です。
源氏の棟梁の子として生まれた義朝は・・・当時、平家が西に勢力を持っていたということもあって東に・・・
20代前半で、南関東の武士団をまとめ上げます。

そして、鎌倉を中心とした相模国に基盤を置いていきます。
この頃・・・正室・藤原季範娘との間に、頼朝が生まれています。
しかし、無位無官で、朝廷から官位を授かる機会を伺っていました。
当時は、天皇を退いた上皇による院政が行われ・・・鳥羽法皇が権勢を振るっていました。
義朝は鳥羽上皇に接近し、1153年従五位下を授かります。
官位は高くなかったものの・・・無位無官からでは・・・一族で50年ぶりの異例の大出世でした。
常盤御前が出会ったのはこの頃・・・。16歳で側室として迎えられます。

そこには、義朝の目論見がありました。
当時常盤御前が使えていた九条院は、近衛天皇の子を身籠っていたと言われています。
男の子であれば後の天皇・・・??そこを見越していたのです。
天皇に側近になる為に・・・!!

では常盤は・・・??
当時、女房が武士と結婚することはよくあることでした。
おまけに有力武士となると常盤にとってもいい話でした。
勢いに乗る源氏のリーダーと結婚し前途洋々に見えた常盤を悲劇が襲います。
義朝との間に、今若・乙若という男の子を授かり幸せな生活を送っていた常盤・・・
保元の乱が襲います。

1156年皇位継承問題で・・・後白河法皇と崇徳上皇が対立!!
これに源氏と平家が巻き込まれていくのです。
この時義朝は、平清盛と組んで後白河天皇を支援し、勝利に導きます。
この働きによって、左馬頭(さまのかみ)に任ぜられた義朝。
都での名声は高まるものの・・・その4年後、平治の乱で・・・4年前に一緒に戦った平清盛と戦うこととなるのです。
後白河上皇の側近たちの間で争いが起きます。
1159年12月9日、義朝はクーデターを決行!!
後白河上皇の屋敷を襲い、火を放ちます。
さらに優位に立とうとし・・・後白河法皇を軟禁し、二条天皇を幽閉します。
清盛はすぐさま兵を動かし、後白河法皇、二条天皇を連れ出すことに成功!!
上皇と天皇は清盛に渡り、形勢は逆転!!
義朝は賊軍となり追討されることとなります。
東国に逃れようとする中・・・かつての家臣討たれてしまうのでした。
常盤との結婚から6年後・・・義朝38歳の時でした。
3人目の子供を授かったものの・・・夫を亡くし傷心の常盤。。。
この3人目が牛若・・・義経です。

朝敵となった義朝の子供たちは次々と捕えられ・・・頼朝以外は殺されてしまいました。
常盤御前の3人の子供にも手は及び・・・
親族を頼って大和国へ・・・!!
逃げ延びた常盤は・・・その後、子供たちを連れて京都に戻ってきました。
九条院のもとを訪れ・・・保護を求めました。
そして、都の南東・六波羅へ!!
棟梁である平清盛をはじめ、平家一門の屋敷が立ち並ぶ場所に・・・。
清盛は、常盤とその子供たちを探していて・・・常盤の母を人質にしていたのです。
その母を救うために、清盛のもとを訪れた常盤。

清盛は、母親の命を助けることを約束します。
家臣たちは、義朝の子の命は絶たねば!!と思っていたようですが・・・
常盤は、子供の死を見るのは辛いので私を先に殺してくださいと願うと・・・

「朝廷の決定に従う!!=子供たちの命は助ける」by清盛

つまり、助け、自らの手元に置いて庇護したのです。
九条院は常盤の保護者だったということと、兄・頼朝は伊豆へ流罪=助けているのに弟が死罪というのもおかしいからです。

三人の子供と共に、清盛の屋敷でくらし、娘まで設けています。
2年後・・・エリート公家の一条長成と再婚します。
これは、清盛の勧めです。
実は、この時、清盛は、天皇家に近づくために、九条院の女官組織の長官の座を狙っていました。
しかし、賊軍の妻を抱えていることで、天皇に悪い印象が??と思っていたので、長成に押し付けたのです。

長也は藤原氏の流れをくみ、国司や大蔵卿を務めた貴族でした。
長也は、後白河上皇中宮の女官組織を束ねる皇后宮亮をしていたのですが・・・
常盤はこれで九条院雑仕から皇后宮亮夫人と大出世しました。
人柄も良く、エリート・・・九条院に好印象を与えるために結婚でした。

常盤が後妻に入ったのは、25歳の時・・・一男一女を設けると・・・義朝との子を寺に預けてしまいました。
が・・・それは、長也との間に男の子が生まれたために、跡継ぎ以外の子は出家・・・当たり前のことでした。
今若を醍醐寺に、乙若を園城寺に出家させ・・・幼かった牛若は鞍馬寺に預けられます。
鞍馬寺は、奈良時代から続く由緒ある寺院で・・・平安時代後期に作られた毘沙門天・・・観音信仰とかかわりが深く、常盤御前が日ごろから観音信仰をしていたからこそ選んだ寺でした。
牛若が、11歳の時にやってきたと言われている鞍馬寺・・・義経は日々武芸の鍛錬を行っていました。

1174年16歳の時、突然鞍馬寺を逃げ出してしまった義経・・・。
各地を転々と・・・そして、奥州平泉にたどり着いたと言われています。
平泉に行ったのは・・・九条院の関係者が平泉にいたからとも。。。

平清盛は、勢力を強め・・・1167年従一位太政大臣に任ぜられます。
人事権を掌握し、平家一門を重要な官職につけていき・・・受領国・知行国は国の半分になったとも・・・
”平家にあらずんば人にあらず”・・・だったのです。

しかし、平家の栄華も続きませんでした。
頼朝・義経が遂に立ち上がります。
1180年・・・平家に対する不満が爆発し、源氏勢力が次々と挙兵します。
討伐しようとした最中・・・清盛は高熱をだし・・・1181年死去。。。64歳でした。

義経は、頼朝の挙兵を知って合流し、一の谷・屋島・・・戦いで活躍し、遂に壇ノ浦で・・・1185年平家を滅亡させるのです。
平家を滅ぼした義経は・・・都でヒーローとなりますが・・・
あまりに目立ちすぎました。
兄との溝が埋まることはなく・・・兄は義経を追討!!
姿を隠した義経の居所を探すために、常盤にもその手が・・・!!
密かに一条家の屋敷を逃げ出した常盤御前・・・

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義経が東国へ行ったと聞いた常盤御前はあとを追って旅に出ます。
しかし・・・その途中、美濃国で盗賊に襲われて命を落としてしまったとも言われています。

それは本当??
1186年6月6日、鎌倉方に捕まったとも言われています。
この時48歳・・・。
実際のところはどうなったのか??分っていません。
時代に翻弄されながらも、子供を案じ、愛情深く生きた女性でした。

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