日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川慶喜

写真家大名・徳川慶勝の幕末維新―尾張藩主の知られざる決断

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西郷隆盛、勝海舟、木戸孝允、坂本龍馬、大久保利通・・・数々の英雄が歴史を彩った明治維新。
この維新があのような形で進んでいった理由は・・・御三家筆頭・第14代尾張藩主・徳川慶勝でした。

1868年鳥羽伏見の戦いで、新政府軍が勝利するも、江戸では旧幕府軍が徹底抗戦を主張!!
日本は、京都・江戸の間で国を二分する内乱の危機に陥っていました。
この時、慶勝がどちらに組するかで戦いの行方は大きく変わろうとしていました。

西国ににらみを効かす御三家筆頭・尾張徳川家。
1849年分家から尾張藩主となります。
幼いころから英才の誉れ高く、尾張家臣や領民から嘱望されての就任でした。
藩主となった慶勝は、海外の最新情報を集めることに力を注ぎます。
清が開国したことで生じた混乱・西欧列強の強大な軍事力・・・
国防に関心のある外様大名(福岡藩主・黒田斉溥、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津斉彬)らと連携し、来るべき外圧に立ち向かう道を探ろうとしていました。

藩主となって4年後・・・1853年ペリー来航。
開国を要求します。
策をまとめられない幕府に対して、意見「御尋二付建白書」をを提出。
国の根幹を揺るがす外交問題だとして朝廷と連携するべきだと進言します。
これは、挙国一致体制だと思われます。
慶勝は、日本全体を考えていたのです。


1858年日米修好通商条約締結
井伊直弼の・・・朝廷の了承を得ないままの本格的な開国でした。
それを知った慶勝は、急遽江戸城へ・・・!!
朝廷の許可を得ない条約の締結は、幕府の危機を招きかねない!!と、井伊直弼を責め立てますが・・・
反対に、突然の登城を責められ、藩主の座を追われ、謹慎の身となってしまいました。

謹慎の失意を慰めたものは・・・西洋の最先端テクノロジー・・・写真でした。
自由な外出も許されない慶勝は、屋敷の中で撮影に没頭!!
隠居謹慎の中で、写真に真実を追求していったのです。

慶勝の謹慎中・・・幕府を取り巻く環境は変わっていきます。
1860年桜田門外の変で大老・井伊直弼が暗殺され、幕府の権威は失墜!!
幕府は天皇家と婚姻関係を結ぶことで権威を回復しようと公武合体を図ろうとします。
慶勝が求めていた朝廷との協力体制です。
しかし・・・孝明天皇は婚姻を認める代わりに厳しい条件・・・破約攘夷を求めます。
外国との条約を破棄し、外国人を退去させるよう求めたのです。
困難な状況に追い込まれた幕府が頼みにしたのが慶勝でした。
1863年正月 慶勝上洛。
朝廷との折衝役として・・・政治の表舞台に復帰します。

1863年5月長州藩外国船砲撃
各藩が勝手に行動しないように・・・幕府主導の下の挙国一致をしようとします。
そして慶勝の弟たちも・・・
会津藩主・松平容保は京都守護職に任命され、京都市中の治安維持を任されます。
桑名藩主・松平定敬は京都守護職となり容保を支えます。

長州が外国船に発砲した翌年・・・
1864年容保配下の新選組が池田屋で長州藩士たちの過激派たちを襲撃!!
2864年7月禁門の変、会津藩排除を唱える長州藩が、藩兵2000余りで京都御所に侵入するのを撃退しました。
長州は朝敵とされ、幕府に追討命令が出されました。
10月第一次長州征討
幕府にとって、230年ぶりの大規模な軍事行動です。
薩摩藩など35の藩で征討軍が組織され、総司令官に選ばれたのが慶勝でした。
15万の兵を率いて長州へ向かう慶勝。
ところが慶勝は、長州藩が禁門の変の首謀者として3人の家老の首を差し出すと、それを受け入れ、武力行使することなく征討軍を解散してしまいました。
どうして戦おうとしなかったのか・・・??

「聴衆を征伐して、海内を疲弊し、醜夷の術中に陥り候」

慶勝は、西欧列強が日本に進出する隙を与えないために、内戦を回避しようとしたのです。
そして、慶勝は、征討に参加した大名たちの合議で長州の処分を決めようとしました。

「外様大名も、日本の行く末を考えている・・・!!」

しかし、それに強く反対したのは、弟の会津藩主・松平容保でした。

「彼の諸侯を京師に召集すとある事を、深く非とせられ」

容保は、諸大名の合議で決めれば、幕府主導の政治体制が崩れてしまうと危惧していました。
これからの日本の在り方について・・・容保たちと相容れなくなってきました。

1866年6月第二次長州征討
幕府は命令に従わない長州に対して二度目の征討を行いました。
しかし、薩摩と同盟を結んで最新鋭の武器を獲得していた長州軍を前に、幕府軍は敗戦を続けます。
これを機に、薩長軍の討幕の勢いは加速し、幕府はその存続を脅かされていきます。
1867年10月将軍慶喜は起死回生の一手・・・大政奉還を行います。
政権を朝廷に返し、政治体制を大名の合議制に・・・その中で、主導権を握ろうとしていた慶喜。。。
慶勝も、大政奉還に賛同しています。
大名の合議制の確立が、世の混乱を立て直す機会だ!!と、持論に沿うものだったのです。
慶勝の望んだ挙国一致の体制が出来上がろうと見えましたが・・・

大政奉還から2か月後の12月、王政復古の大号令!!
薩摩藩、長州藩、公家の岩倉具視らが、天皇を中心とした新政府の樹立を宣言します。
慶勝はその新政府の要職に・・・。
ところが、新政府の中に慶喜の名前はありませんでした。
このままでは挙国一致の構想から徳川家が外れてしまう・・・。
慶勝は、慶喜を新政府に入れるように強く求めます。
これに対し、岩倉たちの条件は・・・”辞官納地”・・・つまり、慶喜の官位、徳川領200万石を朝廷に返上せよというものでした。
この徳川宗家を無力化する仕打ちを慶喜に伝える苦しい役を負わされたのが慶勝でした。
慶喜との会談の場で・・・
「尾張全国を宗室に還納し、以てその不足を償はん」
慶勝は、尾張の領地を宗家に返すことで、慶喜を支えるというのです。
新政府の中で、宗家を生き残らせたいという精一杯の進言でしたが・・・
慶喜は、これを受け入れようとはしませんでした。
そして最悪の事態が・・・!!

新政府の徳川家に対する処遇に不満を抱いていた容保たちが動きます。
1868年1月3日鳥羽・伏見の戦い勃発!!
旧幕府軍VS新政府軍の戦いです。
戦いは、錦の御旗を掲げた新政府軍の圧勝に終わります。

慶喜、容保、定敬らは、負傷兵を残したまま江戸に逃走!!
朝廷は彼らを朝敵とし、追討令を出します。
追討令が出されたその日、慶勝は岩倉具視から過酷な選択を迫られます。
旧幕府につくのか??新政府につくのか・・・??

宗家と共に起死回生の策に打って出るのか?
弟たちを敵に回しても新政府に留まるのか・・・??

1868年1月8日慶勝は自ら岩倉具視に告げます。
「勤王の道」と。

新政府側に付くことを選んだのです。
その後の慶勝の行動は素早く・・・
尾張藩の旧幕府派を処分し、名古屋から江戸にかけての大名に使者を送って、新政府側につくように説得!!
慶勝の工作は、寺や神社にまで徹底的に行われました。
集めた誓約書は500近くに上りました。
皆が揺れていたこの時期・・・尾張ケガ勤王誘因活動をする・・・
大規模な戦争をするのではなく、戦争を回避しようとしているという意思表示・・・
幕府の人材を失うことなく、徳川を残す・・・そんな行動だったようです。
2月6日、京都を発った新政府軍は、慶勝の働きもあって大きな抵抗を受けることもなく、僅か1か月で江戸に到着!!
江戸城は無血開城!!
慶勝は新政府に貢献する一方で、容保、定敬を救おうと一生懸命でした。
江戸で一橋家の当主となっていた茂徳に嘆願に当たらせます。
しかし・・・弟たちが許されることはありませんでした。
容保は会津で新政府軍に徹底抗戦ののち力尽きて降伏。
定敬は旧幕府軍最後の砦・五稜郭まで転戦するものの結局投降・・・。
二人は死罪は免れるものの、蟄居謹慎の身となりました。
維新の争乱も落ち着きを見せた明治4年・・・慶勝は名古屋から東京に移り住みます。

新しい町でも慶勝は写真の撮影をしました。
戦火を免れたかつての江戸を・・・。
慶勝が東京に移り住んだ翌年、容保と定敬は謹慎を解かれ・・・慶勝の日記には容保や定敬が登場するようになってきました。


4kyoudai

1878年9月・・・慶勝は弟たちを銀座に集めます。
行先は写真館。
兄弟そろっての記念撮影を呼び掛けたのです。


幕末維新という時代の曲がり角をそれぞれの信念で生き抜いた兄弟たち・・・。
これが最初で最後の集合写真となったのでした。





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千年の都・・・京都。
商業流通の町・・・大坂
日本有数の港町・・・神戸
今から150年前の幕末、関西の要所が西洋の軍艦によって戦火に包まれる危機がありました。
事件が起きたのは・・・明治になる3年前の1865年。
イギリス・フランス・アメリカ・オランダの9隻の連合艦隊が突如大阪湾兵庫沖に侵入・・・!!
四か国連合艦隊 摂海侵入事件です。
西洋列強4か国は、幕府に強硬な要求を通告します。
「我々の要求がのめなければ、自由行動(軍事作戦)を開始する!!」
彼らの要求とは、当時、幕府との間で結ばれていた通商条約を条文通り、幕府に実行させること。。。
そこで問題となったのが、京都の孝明天皇でした。
幕府が通商条約を実行できなかったのは、孝明天皇が反対していたからです。
勅許をえるように・・・!!
幕府・天皇・西洋列強!!三つ巴の中、その日本の運命を担って解決に挑んだのが一橋慶喜・29歳・・・徳川将軍になる前年の事でした。

究極の選択に迫られる慶喜・・・!!
天皇の意志を重視し、列強と戦うのか??
天皇と対立して内乱への道を進むのか・・・??


静岡市・・・久能山東照宮・・・初代将軍・徳川家康が祀られています。
ここに慶喜の数奇な生涯を示す「一振りの刀とその拵」。

「刀 付 菊桐紋絲巻太刀拵」

これは、慶喜が将軍に就く2年前、28歳の時に、京都での活躍に対する感謝の品として拝領したものです。
鞘には五山桐と菊の紋・・・
この刀を慶喜に与えた人物こそ孝明天皇でした。
慶喜は幕府のトップに近い要人ながら、天皇にも信頼され、忠義を尽くす・・・珍しい立ち位置でした。
1837年、慶喜は徳川御三家の一つ水戸徳川家の七男として生まれました。
水戸藩は名門ではあったものの、一人の将軍を出したこともありませんでした。
慶喜は七男・・・将軍など縁遠いものでした。
しかし、慶喜は普通ではなく・・・子供らしからぬ・・・才気みなぎる少年でした。
優秀さが噂となり、11歳で一橋家の跡継ぎとなります。
一橋家は、江戸時代の半ばに作られた徳川の分家で、将軍の後継者を本家に提供する役割を持っていました。
異例の大抜擢でした。
幕府権力の中枢に、一気に近づいたのです。

そして慶喜17歳の1853年・・・アメリカ・黒船来航!!
西洋列強も続々到来、幕府は欧米5か国から通商条約を結ぶように迫られました。

京都では・・・孝明天皇が外国船を打ち払う攘夷を唱え、通商条約に断固反対の姿勢を示します。
が、幕府大老・井伊直弼は独自の外交を貫き、1858年天皇の勅許をえないまま、通商条約を調印してしまいました。
天皇は激怒!!
これ以降、朝廷と幕府は激しく対立していきます。
この非常事態に慶喜は無鉄砲な行動に出ます。
22歳の慶喜は、役職もないのに直接批判しました。

「条約の調印後も、その説明のために京都に上らないことは、帝に対し、なんと不敬である事か。
 その罪は大きい。」by慶喜

井伊が天皇を軽視することへの怒り・・・!!
どうして幕府よりも朝廷を重んじたのか・・・??
それは、慶喜の実母・登美宮吉子にありました。
京都の皇族から水戸・徳川家に嫁いできました。
この母方から先祖を辿ると・・・有栖川宮・・・江戸中期の霊元天皇につながります。
一方父方が将軍家とつながるのは家康まで登らなければなりません。
つまり、天皇家の血筋を濃く引き継いでいるのです。
慶喜は、強圧的なアメリカの態度に、条約を結ばざるを得なかったことを承知していました。
手続きの問題・・・つまり、勅許にこだわっていたのです。
慶喜は幕府内で孤立します。
おまけに将軍にもなり得る一橋家の当主・・・
幕府から三年半の謹慎を受けることとなります。
慶喜にとって理不尽な仕打ち・・・しかし、当てつけるような態度で謹慎をします。

「朝から裃を着用して、暑い夏でも沐浴もしない。
 幕府の監視はなかったが、身に覚えのない罪を被ったため、むしろ厳重に謹慎したのだ。」by慶喜

その後、謹慎が解けた慶喜は、幕府に復帰し京都へ・・・!!
通商条約で対立を深めた孝明天皇との交渉を幕府から任されます。
それは、天皇が望む攘夷を幕府が約束するというもの・・・。具体的な方法・期日について、曖昧にすることが重要でした。
それは・・・幕府がすでに諸外国と開国の約束をしていたからです。
天皇には「攘夷」、外国には「開国」・・・二枚舌を使っていました。

しかし、慶喜は京都で衝撃を受けます。
過激な攘夷を主張する者たちが、開国派の人々を相次いで殺害・・・幕府は京都の無法状態を抑えることが出来なくなっていたのです。
有力な公家の元には、攘夷派の武士たちが頻繁に出入りし、天皇や朝廷の力と結びついて、幕府政治の転覆を目論んでいたのです。

慶喜は追いつめられます。
京都は攘夷一色!!
天皇と幕府の和解を最優先すべき??

朝廷で景気は、幕府の方針通り攘夷の実行を約束します。
ところがさらに・・・期日を5月10日と具体的に定め、通商条約の破棄まで明言してしまいました。
まず解決すべきは国内問題!!
攘夷の具体化と条約破棄で、予測される西洋列強との外交問題は後回し・・・
慶喜の苦肉の策でした。

幕府を存続させるためには、朝廷と絶対に関係を切ってはならない!!
むしろ、朝廷と結合を強めることによって幕府を生きながらえさせる!!
これが自分の使命だ・・・!!

1864年朝廷に働きかけ、京都で新たな役職”禁裏御守衛総督”を得ます。
これは、幕府側に立つ会津藩(京都守護職)や桑名藩(京都所司代)、新選組などの実力部隊を使って治安を維持し、孝明天皇を守る役目です。
その狙いは、藩幕府勢力を一掃することで、幕府と天皇の和解を進めることでした。
慶喜は一橋家家臣に・・・
「われらは天皇の御恩と幕府将軍の命に背くことがあってはならない。」と、したためています。
幕府と天皇の和解を目指す・・・!!

幕府は「開国」の方針を「攘夷」へと変更!!
既に開港していた横浜から、外国船の締め出しを決定。
通商条約の見直しを西洋列強に通告。
慶喜が天皇に攘夷の具体的な実行を約束してしまったからです。

当然、列強は激怒!!
「通商条約の廃止を求めることは、我々に対する宣戦布告も同然である!!」
彼らは実行に動きました。
1865年9月16日、イギリスを中心とする4か国・9隻の連合艦隊が大阪湾・兵庫沖に侵入!!
西洋列強は、幕府を開国するために、強硬姿勢を見せたのです。

幕府を特に困らせた要求項目は・・・
「条約の公的な承認を帝に求める」
将軍が条約の順守を行わせられないならば、もはや将軍を正式の政府として見ないで、本当の政府を探しに行くというのです。
攘夷を訴え通商条約に反対を続ける孝明天皇から、西洋列強は勅許を引き出せというのです。
さもなくば、兵を率いて京都の朝廷に乗り込み、直接交渉すると脅しました。

9月26日、老中たちは、西洋列強に対する回答案を固めます。
「朝廷にはお伺いはたてない。
 兵庫の開港を行う。」と。

老中たちは孝明天皇の勅許を受けられないと判断し、西洋からの要求のうちの「勅許」は拒絶!!
その代わり、通商条約に記されている兵庫の港をすぐに開港すると回答。
一方、兵庫は京都に近い港なので、攘夷派が納得するとは思えない!!
しかし、幕府は列強との戦いを最も恐れたのです。
「列強と兵端を開いて敗れ、属国となってはならない。」と。

そして3日後・・・9月29日、孝明天皇は激怒し、
「外交担当の老中の官職を召し上げ、国元に謹慎させよ。」

攘夷の約束を反古にした・・・この幕府に対する朝廷の人事介入で、両者の関係は崩壊!!
10月4日、兵庫沖・・・両者の混乱を知り、イギリス公使パークスは、将軍家茂に対し、天皇の条約勅許を求める最後通牒を発します。

「3日後の10月7日に回答がなければ、幕府将軍が公式に要求を拒絶したものと見なす。
 われわれは、自由行動をとることになるだろう。」

自由行動とは、京都に攻め上り、軍事作戦を開始するという意味・・・
こうして日本は、西洋列強との開戦が避けられない状況に追い込まれていきました。

万策尽きた幕府・・・しかし、最後の頼みは、朝廷と太いパイプを持つ慶喜でした。

日本の運命を左右する選択が慶喜に・・・
天皇の怒りを買ってでも、勅許を願い出るのか??
国内の混乱を鎮めるために、勅許をもらわないままにするのか・・・??

10月4日夜6時・・・御前会議。
慶喜は朝廷で孝明天皇の出席する御前会議の開催を要求します。
朝廷側・・・皇族・公家10人
幕府側・・・慶喜・会津藩主など4人
そこで慶喜が選んだのは・・・

「今や、列強と海鮮寸前の模様であります。
 条約のお許しをいただきたい」by慶喜

孝明天皇に条約の勅許を求めました。
孝明天皇の信頼を捨てても戦争回避をしなければ・・・!!
と望んだのです。
会議の出席者・朝彦親王の日記には・・・
「ご勅許なければ天子様すら京都に押し寄せた外国兵にナデ殺しにされますぞ!!」と、慶喜が迫ったと言っています。
これに対し、関白・二条斉敬は
「列強の脅威に屈して帝が勅許を下すなど、そんな帝の御威光を損ねることはなりません。」と・・・

激論の末・・・10月4日深夜・・・
内大臣・近衛忠房から驚くべき提案が・・・
「朝廷より使者を列強に差し向けるのがよろしかろう。」

それは、幕府を飛び越して、朝廷が交渉しようという発言でした。
この策を授けたのは・・・大久保一蔵・・・後の大久保利通です。
この機会に幕府の外交権を取り上げて、政権を転覆させてしまおうとしたのです。

「列強との交渉を行う使者には、薩摩の者が付き従う。
 交渉では列強に回答の延期を求める。
 そのうえで、有力な大名を京都に召し上げ、天下の合議をもって条約を認めるかどうか話し合うべきだ。」by大久保一蔵

国内の勢力を天皇中心とする朝廷に集中し、政治の実権まで幕府から奪おうとするものです。
これが通ってしまえば幕府が無くなってしまう・・・!!

会議の場で慶喜は反論します。
激論!!激論!!
慶喜は、みんなが疲れ始めた頃を見計らい、天皇からの勅許をえるため・・・
慶喜は、京都にいた有力藩の家臣30人余りを、緊急に召集。
天皇の御前で、諸藩を交えた国家方針の話し合いをする場を設けたのです。
慶喜は、集まった一人一人に、条約に対する賛否を問います。
その採決を取ります。
彼らの総意なら・・・天皇の権威に傷はつかない・・・??勅許はとれる・・・??
慶喜は、16藩の京都留守居役レベルの藩論を代表しうる人間を集めていました。
この御前会議が公儀輿論の結集として国会史を作る・・・!!
慶喜も譲歩した結果でした。
孝明天皇も、自分の意志で国内が大動乱となり、数多くの人間が死ぬこと・・・それを変えるためのお膳立てはこれしかありませんでした。
16藩のほとんどが、条約勅許やむなし、薩摩藩ともう1藩が勅許反対でした。
具体的なことを・・・!!と、薩摩が行う外交策を示すように大久保に詰め寄ります。
追い込まれた大久保は・・・全く無策でした。

そして慶喜は、孝明天皇に条約勅許の決断を求めます。

「かくまで申し上げ、ご勅許なければ、私はこの場で腹を切ります。
 我が家臣が、どのようなことをしでかすかわかりませんぞ。
 そのお覚悟あらば、御存分になされい。」

覚悟を迫る言葉が、天皇の聖断を決める一言となりました。

10月5日夜8時・・・始まりから26時間後・・・
回答書が・・・
ギリギリパークスに7日深夜に届けられます。

「条約は、京都にてお許しいただくことができた。」

それは、攘夷運動に終止符を打つこととなりました。

条約勅許によって、天皇が通商条約体制を認めることとなる・・・
当時の支配権力の中で、公式に異を唱えることが出来なくなってしまったのです。
幕府中心で従来のやり方でやっていくのか?
有力大名を集結し、新たな体制を作るのか・・・??

公儀政体の動きが始まったのです。

列強艦隊は撤退し・・・日本は全面開国・・・
1868年、鳥羽伏見の戦い・・・内乱が勃発!!
明治天皇を巻き込んだ薩摩と、慶喜の旧幕府軍は正面から激突!!
その時・・・「錦の御旗」が薩摩軍から上がります。
”朝敵”・・・幕府軍は総崩れとなり、慶喜は戦意喪失・・・
家臣を置き去りに、江戸に逃亡!!
天皇に徹底的に服従する姿勢を貫き、明治の代を迎えるのです。
しかし、鳥羽伏見の逃亡劇は、生涯の汚点として後世に語られています。



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黒船来航によって始まった日本の国家動乱。
龍馬は一介の脱藩浪士として日本を奔走し・・・西郷隆盛・木戸孝允らと維新の立役者となりました。
龍馬が最も性欲的に動いたのは1867年。

ryouma


幕府や諸藩が対立したこの幕末に・・・
来たるべき新体制は、挙国一致でなければならない!!という龍馬の信念がありました。

諸藩の融和に奔走する龍馬・・・その画策とは・・・??
新政府綱領八策・・・憲法の制定、議会制、近代的軍隊、未来を予言したかのようなプランがそこにはありました。


龍馬、最期の一年・・・その奔走とは・・??



1867年・・・すでに幕府は長州征討に失敗し、弱体化を晒していました。
将軍・徳川慶喜も・・・幕府の権威の低下も防ぐことは出来ず・・・
薩摩と長州・・・武力討幕派は、軍事同盟を結んでいました。
越前・土佐などは、平和裏に物事をすすめようとしていたのです。

混迷する情勢・・・
この打開に立ち上がったのが坂本龍馬でした。

1867年6月22日・・・京都三本木の一角で・・・龍馬の呼びかけに応じたのは、幕府の崩壊を見据えた薩摩藩と、土佐藩・・・土佐藩の代表は後藤象二郎でした。

当時、西郷たちは武力討幕を画策していましたが・・・後藤は、武力討幕は時期尚早とし・・・

「ここは、まずわが土佐藩が幕府に対し、政権を朝廷に返上するよう建白する
 もし、それを幕府が却下したら武力討幕に踏み切る大義名分にすればよいのではないか。」by象二郎

これは、大政奉還の建白です。
西郷たちは、幕府は必ずこれを拒否するとし、いい機会になると承諾します。
この、薩土盟約を誰よりも喜んだのは別室で控えていた龍馬でした。
龍馬の役割は・・・”考える猶予””問いかけるポジション”でした。
この薩土盟約は、海援隊の資料にも残っていて・・・そこには王政復古もありました。

しかし、土佐藩内部には、薩摩の西郷たちに不信感を抱くものもたくさんいました。
極秘会談の翌日に京都にある土佐藩邸に向い、藩の重役と会見し・・・盟約の重要性を説きます。
その結果・・・土佐藩に大政奉還の建白に動いてもらうようとりつけました。

が・・・武力討幕派の西郷たちと組むことに、主君・山内容堂が反対します。
土佐藩は徳川に恩義がある・・・後藤が土佐藩の説得に失敗したのでした。

容堂の同意を得られなかった後藤に対し・・・
”薩摩は早期に挙兵することを決定した。
 よって、土佐藩の大政奉還建白書に協力することはできない。”
もはや・・・土佐を信用することはできない・・・後藤は見切られたのでした。

軍事同盟を結んでいた長州藩と武力討幕に進んでいく薩摩藩。。。
薩土盟約は、ここに決裂したのです。

龍馬は行動に出ます。
長州藩の木戸孝允に対し、方針を伝えます。
武力討幕派の乾を京都に送り、後藤を土佐に帰すというのです。
臨機応変な対応が龍馬の真骨頂でした。

しかし・・・龍馬の奔走をよそに・・・薩長は、京都・大坂・江戸の三都を一挙に攻撃するという未曽有の計画を練り上げていました。
諸藩の連携をとろうとする龍馬に戦いの臭いが・・・!!

薩土盟約が決裂し・・・内乱の危機が迫った・・・しかし、幕府から土佐藩に対して呼び出しがかかりました。

「幕府に対して政権返上を勧める建白書があるとのこと・・・
 慶喜公がその意見を聞きたいと申している」

なんと、土佐の大政奉還を聞いてみたいと、幕府の法から歩み寄ってきたのです。
10月3日・・・後藤たちは、大政奉還の建白書を幕府に提出します。

幕府が建白を受け入れるかどうか・・・??

10月14日・・・時代は大きく動き出します。
将軍慶喜が大政奉還をします。
土佐藩の建白を受け入れたのです。

会議のメンバーには、徳川の面々・・・山内容堂・島津久光・・・国政に影響力を持つ人々が指名されました。
しかし、すでに武力討幕に動いていた西郷・大久保たちは、薩摩本国とは別の行動をして・・・孤立状態でした。
しかも、諸侯会議で慶喜が再び実権を握ることにでもなれば・・・
西郷たちが暴発する可能性もあったのです。

龍馬はどうする・・・??
何としても諸侯会議を進めなければならない・・・!!

大政奉還によって開かれた諸侯会議への道・・・
しかし、政局は緊迫していきます。

その空気を感じていたのは岩倉具視。
大久保利通への手紙には・・・
「このところ、会津藩が狂気の如く激怒して、薩摩の西郷や大久保を討つと息巻いている」
会津藩の過激派たちは、慶喜公が大政奉還したのは、薩摩のせいで追い詰められたからだ・・・と、思っていたのです。

同じころ・・・
ひとりの薩摩藩士が、民家に潜伏する無防備な龍馬に対し、土佐藩邸か薩摩藩邸に移るようにすすめます。
が・・・龍馬は応じませんでした。

「薩摩は自分のところに来いと言ってくれるのですが、それでは土佐への嫌味になるでしょう。
 万が一の時が訪れたなら、わたしはここで一戦交える覚悟です。」

どの藩にも組することなく潜伏し続けた龍馬。。。
しかし、念願の諸侯会議を待ち続けたものの・・・大名たちは一向に上洛してきませんでした。
この時・・・龍馬の国家構想が書きあがります。
「新政府綱領八策」・・・幕末を奔走してきた龍馬の集大成でした。

hati







第一義 天下有名ノ人材を招致シ顧問ニ供フ
第二義 有材ノ諸侯ヲ撰用シ朝廷ノ官爵ヲ賜イ現今有名無実ノ官ヲ除ク
第三義 外国ノ交際ヲ議定ス
第四義 律令ヲ撰シ新タニ無窮ノ大典ヲ定ム律令既ニ定レバ諸侯伯皆此ヲ奉ジテ部下ヲ率ユ
第五義 上下議政所
第六義 海陸軍局
第七義 親兵
第八義 皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス

龍馬は越前藩の財務を担った三岡八郎と会談します。
藩の財政難を見事救った三岡と、新政府の財源について話し合ったのです。
新国家の財政を担うのは・・・三岡を置いて他になし!!と、後藤に推薦しています。

龍馬と三岡は・・・将来政府が紙幣を発行することを見越して、その試作品を作ろうとしていたようです。
近代を具現化していこうとする龍馬・・・。

挙国一致を最後まであきらめていなかったような龍馬。。。
明治時代に編纂された維新の志士たちの手紙を集めた遺墨集には・・・”新政府綱領八策の複製・前文”が載っていました。

後藤象二郎宛てにかかれたと思われるその手紙には・・・

”昨日お会いした際、今日認めると言っていた薩摩へ送る書き付けがもう出来上がっているのではないでしょうか。
 もし出来上がっているのならば、怖れながらその書き付けを一度拝見させて頂きたい。
 これから先々の手順についても認めました。
 その写しをお目にかけたいと思います。”

と。

それは、大政奉還によって焦った薩摩藩をケアするように書かれているようにも感じます。

龍馬が夢見た万機公論。。。
この国の行く末を決めるために・・・。

龍馬は最後まで薩摩とのパイプ役を買って出ようとしていたのかもしれません。

ところが・・・悲劇はその直後・・・
1867年11月15日・・・京都の潜伏先で暗殺されてしまうのです。
新しい日本の姿を見届けることなく、無念の死を遂げたのでした。

1か月後・・・12月9日に西郷たち討幕派は、王政復古のクーデターを決行!!
諸侯会議に実現は幻に終わりました。
戊辰戦争が勃発し・・・戦いに勝った薩長が主軸となって新しい国家・・・明治新政府が誕生しました。

それが龍馬の望む出発点だったのか??
龍馬が残した可能性は今も問われ続けています。
 

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江戸幕府最後の将軍、徳川慶喜。。。
慶喜といえば、大政奉還によって幕府から政権を独断で朝廷に返還。。。
そして新政府軍との戦いに敗れたアンチヒーローとして知られていますが・・・
その政治手腕が再評価されてきています。

慶喜失くして明治維新は実現しなかった???
慶喜は、歴代将軍にはなかった指導力で、内政、外交に手腕を発揮し、諸外国に日本の新たな国王として高い評価を得ていました。

今まで幕府の敗北宣言だとされてきた大政奉還・・・
新体制を掌握しようという野心が伺えます。
しかし・・・そんな慶喜を排斥しようと・・・王政復古のクーデターが起こります。
薩摩藩士・大久保利通を中心とする討幕の志士たちによって武力討幕が行われたのです。

慶喜はクーデターを事前に察知していた???
予期せぬ事態に対する慶喜の葛藤とは???

江戸幕府の最後の将軍・徳川慶喜は、英雄というイメージよりも敗者のイメージが強いのですが。。。
幕末史の影のヒーロー・・・只者ではなかったようです。

1866年12月5日 慶喜、江戸幕府第15代将軍に就任
この時、江戸幕府の権威は風前の灯でした。
問題のひとつは・・・開国問題。
孝明天皇は、外国との国交に断固反対していました。
開国路線をとる幕府の外交は暗礁に乗り上げてしまったのです。

長州征討も泥沼化・・・外交も内政も混乱の一途をたどっていたのです。

慶喜は起死回生に・・・
外交は・・・通商条約の勅許をもらおうとします。
一旦開港していた横浜を鎮港し、孝明天皇を懐柔し、勅許をえるのです。
その外交力に脅威を覚えたのが、島津久光。。。
幕府に独占されていた貿易に参加することによって利益を得ようと考えていたのです。

孝明天皇がなくなると、開国に舵を取ります。
兵庫の開港問題には・・・
自らの権限で兵庫を開港すると公約します。
自ら最前線で外交をする慶喜に、諸外国は絶賛の嵐。。。

その結果、外交交渉や通商は、幕府主導で進んでいきます。
久光ら大名たちを抑え、外交主導権を掌握する慶喜。

失墜した幕府の力を回復させていきます。
慶喜に求心力が・・・!!
慣例にとらわれない慶喜は、写真にも興味を示し、自らモデルとなっています。

yosinobu

この肖像写真を外交に使います。
自分の肖像写真を各国君主と交換したのです。
日本の新しい国王であるかの景気の姿・・・
しかし、その力を脅威と感じ、退けようとする勢力が水面下で動き出していました。
薩摩藩士・大久保利通、西郷隆盛、公家・岩倉具視・・・武力討幕派です。


慶喜が率いる幕府を力でねじ伏せるために・・・討幕の密勅をあみだします。
日本を滅ぼしかねない賊臣・慶喜を殲滅せよ!!
武力蜂起の極秘命令が下されたのでした。


しかし・・・慶喜は1867年大政奉還をし、大久保たちを驚愕させました。
大政奉還によって、大久保たちの大義名分が失われてしまったのです。
将軍自ら、政権を天皇に返すことによって、倒すべき幕府そのものを無くしてしまったのです。
大久保たちの討幕計画は中止されてしまいます。

これまで、慶喜の敗北宣言のように思われてきた大政奉還・・・
しかし、そこには思惑があったようです。
慶喜が朝廷に政権を返した時の建白書によると・・・
慶喜は政権を返すのは、日本を海外列強と同じような国家に生まれ変わらせるため。

「これからも、国家のために尽くせるのなら、これに勝る喜びはありません。
 全国の諸大名にも、将来の国づくりに意見のある者は、この慶喜に申し出るよう命じてあります。」

と、書かれています。

政権を返上しても、国政には携わり、諸大名からの意見も自分が取りまとめていく・・・
実質的に幕藩体制を維持した新体制を、朝廷に訴えていたのでした。

日本の政治そのものを変えていこうという気持ちが感じられます。

しかし、その後・・・時代は未曽有の大政変劇へ・・・!!


大政奉還によって、武力討幕派の機先を制した慶喜は、自らの指導する新体制を着々と実現しつつありました。
大久保たち武力討幕派は、決死の手に出ます。
王政復古のクーデターです。

慶喜を追い落とすには、天皇の力しかない!!
天皇親政を実現し、慶喜を排除するしか方法はなかったのです。

その為には・・・若き明治天皇を手中に収めなければ!!
明治天皇の外祖父・中山忠能を通じ、天皇の懐柔に極秘裏に成功します。

クーデター当日は薩摩の兵で御所を封鎖!!
西郷隆盛の指揮のもと、新体制を作ろうと目論んでいました。
慶喜と大久保とでは、思い描く日本の未来がかけ離れていたのです。

従来の身分制を無くしたい大久保たち下級武士は、将軍家を無くすことで大改革を実現しようとしていたのです。

クーデター直前・・・前越前藩主・松平春が、藩主に宛てた手紙には・・・
大久保たちのクーデター計画が、慶喜に漏れていて・・・対抗策を練るように書かれています。

「薩摩の大久保・西郷・公家の岩倉具視らが密謀を企てている
 ともすれば、京都に戦争が起こるかもしれない
 しかし、英明な慶喜公のこと、必ずや策を講じ、薩摩の計画を失敗に終わらせてくれるに違いない。」

慶喜の排除を目的に行われているクーデター計画・・・
慶喜どうする??


①武力鎮圧策
この時京都には、会津藩、桑名藩併せて5000の兵力があり、大久保たちを圧倒していました。
慶喜側からクーデターを起こし、薩摩を京都から追い出すのです。
しかし、京都が焼けてしまう。。。
国内に内戦がおこるかも知れない・・・
そうなると、欧米列強の内政干渉もあり得るのです。

②静観策
今、優先すべきは、日本に内乱を起こさせないことだ。。。
各藩にもそう書簡を送っています。
大政奉還を行った私に、どうしてことを起こすのだ。。。
武力を使わなくてもいいのでは???


慶喜は、新政府の主導権をかけた戦いにどう対処していくのでしょうか?
事態を静観する・・・でした。


京都に戦乱が起きないことを優先したのです。
12月9日早朝、クーデター計画は実行に移されます。
薩摩藩兵が御所の紋をすべて封鎖!!
そして、明治天皇による大政復古の大号令が出され、天皇を中心とする新たな体制が樹立されたのです。
新政府には、皇族をはじめ、公家、諸大名、各藩の有志が入閣・・・
しかし、そこには慶喜の名前はありませんでした。
おまけに、慶喜に組した摂関家の廃止・・・

慶喜にとって厳しい状況が生まれたのでした。

この時、京都が火の海になることを怖れ、慶喜は、会津・桑名両藩を、大坂に退去させています。
議会を進めていた大久保によって、慶喜の辞官納地がなされ、徳川の天領800万石は没収となったのです。
新政府の財源になるとのことでした。

すると、諸大名にも疑念が起こってきます。
王政復古の目的・・・それは、大名制の廃絶なのでは???
不協和音が・・・慶喜の復活を願う声が出てきたのです。

1867年12月24日、慶喜が新政府議定職に決定。
新政府に迎え入れることが決定したのです。
この事は、大久保に最後の覚悟を決めさせたのです。

「もはや、薩摩一国となっても、一戦交えるまでだ!!」

この時、薩摩藩浪士たちが、江戸市中を放火やテロ行為で攪乱!!
挑発に乗った庄内藩が、薩摩藩邸を焼き打ちしてしまいます。

藩邸を襲われたことで、薩摩藩は武力討伐に!!
戦闘準備に入ったのでした。

慶喜のいる大坂でも、会津藩・桑名藩が爆発!!
慶喜の手に負えなくなってきたのです。

1868年1月3日鳥羽伏見の戦い勃発!!
薩長新政府軍と旧幕府軍との戦いになりました。
そして、慶喜にとっては最悪なことが・・・
薩長軍の掲げた”錦の御旗”です。
慶喜は、朝敵となってしまったのでした。
慶喜側は、総崩れ・・・わずか3日で敗走!!

それでも大坂城の会津・桑名藩は、戦意は喪失しておらず、当時最強と言われた幕府海軍を、江戸から大阪湾へ持って来れば、勝機はまだある!!

驚愕の事態が起きたのはその時!!
大坂城で戦う旧幕臣たちを残し、慶喜は江戸へ向け船で脱出したのです。

一体なぜ??

時代の流れに押し流されたという諦め???
下品、なりふり構わず・・・ということができない人だったのでしょう。

朝敵となった慶喜は、鳥羽伏見の戦いの後、旧幕府軍を置いて江戸に帰還・・・
上野の寛永寺に入り、自ら2か月謹慎したのです。
再起を求める声があったものの・・・戦いを避け。。。

江戸に向かう新政府軍に書簡を送っています。
「今回の事態は、まさにこの慶喜の至らなさが引き金であり、どのような処分も受ける覚悟でいる。
 何の罪もない江戸の庶民に苦しみを与えることだけは止めて欲しい。
 すべての罪が、この慶喜にあり罰するのであれば、この私だけを罰してほしい。」

内乱を避けられるのであれば・・・!!

その後、全国に内乱が広がることはなく戦争は終結。。。
ここに徳川の時代は潰え・・・明治新政府の時代が始まるのです。

大久保たちは、藩籍奉還・廃藩置県・秩禄処分・・・何百年にもわたって行われてきた封建制度を一掃したのです。
不平を抱く旧士族から、徳川再興を求めた時も、慶喜が政治的発言をすることはなく・・・旧幕臣が近づくことも良しとしませんでした。

その後、慶喜は、狩猟・油絵・写真・・・趣味人としての生活を40年送るのでした。
政治とは全く無縁の生活を送ったのです。

慶喜の汚名が晴れたのは、明治維新から30年以上も後・・・
明治31年には明治天皇に拝謁。
涙を流して喜んだと言われています。
明治35年公爵綬爵。
それは、慶喜が維新の功労者であるということを、新政府が認めたことを意味していました。

負けを徹底的に受け入れること・・・
受け入れがたいものを受け入れるのが自分の役割・・・

yosinobu2
大正2年11月22日病によって亡くなります。

「家康公は日本を統治するために幕府を開かれた。
 私は、その幕府を葬り去るために将軍となったのだ。」

明治維新の犠牲者は、世界的に見てもとても少ない・・・
それは、慶喜の功績なのです。 

”不作為を持って英雄となり
   科目を持って政治を変えた”
慶喜なのでした。


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ついに最終回です。
いろいろ忙しくって、なかなかアップできませんでした。

明治27年11月。。。

yae1












八重は広島の陸軍予備病院に赴任し、従軍看護婦として陣頭指揮を執っていました。
日清戦争の開戦から3か月。
大山は、遼東半島の旅順に!!!
一気に攻め落とそうとしていました。

病院には日本軍だけではなく、清国の兵も数多く運び込まれ。。。
そうか・・・清の兵まで日本に運ばれてきてたなんて。。。

yae2












言葉が通じずに、暴れる敵国の兵を”日本語で”鎮める八重
そこには・・・敵であっても傷ついた者を助ける八重がそこにはいました。

怪我人も、伝染病患者も・・・

”味方の兵の上のみか 言も通わぬ敵(あだ)までも
    いとねんごろに看護する 心の色は赤十字”

戦では衛生兵が看護する・・・
今でもある女性に対する偏見は、この時代はもっと強く・・・
そんな時代に女性が兵士の看護をすることは、並大抵の苦労ではなかったようです。

11月21日
日本軍は、旅順総攻撃を行いました。
難攻不落と言われた旅順も・・・日本軍の猛攻撃の前に清軍は総崩れ・・・
要塞は1日で陥落したのでした。

一方広島では・・・
たくさんに犠牲が・・・多くの兵が亡くなっていっていました。
そこにやってきたのは、徳富蘇峰。
さすがにジャーナリスト、戦争に対してイケイケ!!ドンドン!!です。
多くの犠牲者が出ていることを記事にしてほしいと願う八重・・・。
でも、いつの時代も読者の求めているところはそんな部分ではない。。。
そう・・・一気に北京を攻め落とすために!!!

明治28年2月。。。
日本は勝利を確実とし、3月伊藤博文と李鴻章との間で講和条約が交わされる・・・会議が始まりました。
日本赤十字では668名の看護婦が活躍し。。。
戦争の終わりと同時に八重たち篤志看護婦もその任務を終えたのでした。

ひとり家に帰った八重。。。
しかし、立ち止まっている暇はありませんでした。

日清講和条約で遼東半島が返還されることになりました。
そこには、ロシア、ドイツ、フランスの思惑が働いていたのです。
日本外交の弱腰を非難する蘇峰。
新聞として世論に訴えます。
この時の屈辱は、次なる戦争へと繋がっていくのです。

八重は、茶の湯に傾倒していきます。。。

そんな静かな時が流れる明治29年・・・
八重の母・佐久が亡くなりました。
前後して、義母・登美、久栄も病で亡くなり。。。

自宅の茶室でお茶の稽古中。。。
京都府の役人がやってきました。

「新島八重を勲七等に叙し、宝冠章を授ける」

”女子が勲章を???”

yae3












叙勲は、広島で看護婦たちを指揮したことによるもので。。。
皇室以外の女性では、はじめての叙勲でした。

時が過ぎ・・・大蔵は御宸翰を世に出すころではないかと・・・
そのことは、健次郎に託されます。

yae8












会津が名誉を回復する日は必ず来る。。。
若き家老として会津藩を指揮し支え、全てを背負った男もまた・・・
この世を去っていきました。

慶喜にも復権の時が・・・

yae4












”恐ろしかった・・・会津の愚直さが・・・!!
いや・・・まことは羨んでいたのかもしれぬ
信義で結ばれた主従の絆はわしには手に入らぬものであったゆえ・・・”

あ~、まだわからないのね・・・慶喜。
切れ者の筈では???
慶喜には勝さんがいるでしょう???
幕臣たちの身の振り方を考えたのも勝。。。
そう、早くに亡くなった息子の代わりに慶喜の息子を養子にしていますよ。。。

健次郎が御宸翰についての書物を刊行するという噂が政府内でささやかれていました。
大山にとっては義兄。。。
真偽を問う大山・・・書物の刊行を延ばせと???
慶喜は陛下にお目見えし許され名誉を回復したというのに・・・
亡き主君・容保の汚名を雪がなければ!!!と、反論する健次郎。

そうなれば、薩長の大義名分が!!
国家の安寧の為に、刊行を止めようとする大山!!

「いわお~!!」by捨松
腑抜けた声で言うな~~~

「永遠に封印は出来ん!!」

と、山川兄弟が書き継いだ書物「京都守護職始末」が日の目を見るのは、さらに10年後のことです。。。

会津を訪れた八重。
そこにはあの大きな桜が・・・!!

登ろうとする八重を引き留めた老人・・・西郷頼母でした。
頼母は、神職を辞し・・・ただの桜守となっていました。

yae5












「八重。。。
 わしはな・・・新政府がなじょな国つくんのか見届けんべと生き抜いてきた。
 んだけんじょ、戊辰以来、わしの眼に焼きついたのは、何ぼ苦しい時でも懸命に生きようとする人の姿。
 笑おうとする人の健気さ。
 そればっかりが俺の心を・・・胸を揺さぶんだ。。。


 八重。。。
 にしゃ桜だ。。。
 花は散っても時が来っと、また花を咲かせる。
 何度でも、何度でも、花、咲かせろ。」

 
京都で・・・茶室で蘇峰に茶を勧める八重。。。
軍備増強を煽っている蘇峰の刊行物・国民新聞を非難します。

言論が人を動かす・・・
蘇峰はその力を何処に使おうというのか・・・!!!

「力は未来を切り開くために使わねばなんねえよ。。。」

銃を持って戦った八重・・・
最後の一発を撃ち尽くすまで・・・
ひとりでも多くの敵を倒すために・・・!!!

しかし、今なら・・・
最後の一発はどうする???

そう・・・最後の一発は・・・

yae6












そして・・・その空には・・・
綺麗な花が・・・!!!

yae7















あ~、OPに繋がる良い感じ

ほんと、びっくらこいた、昭和7年6月14日。
新島八重は自宅にて死去。。。86歳でした。
戦いを憎んでいった八重は、戊辰戦争の後も日清・日露、第1次世界大戦をみることになりましたね。。。
亡くなった昭和7年には、満州国が建国されます。
大陸できな臭い匂いがプンプンしていたことでしょう。
繰り返される愚かな戦争を、どんな目で見ていたのでしょうか???


遂に、1年間が終わってしまいました。
なかなか良かったんじゃないかと思います。

当時の女性としては、本当にすごい人で。。。
生涯学習・・・なんて言葉は最近できたようにも思えますが、すでに実践してますしね。


「新しいことを始めるときは、いろいろ言う人がいる!!」
それでも頑張る前向きな精神が、1年間を通して観ることができたかな???

個人的には、”大河の主役=男性”みたいな偏見もあるので、う~ん!!と思ったところもありましたし、明治に入ってからは今一つ何をしたのか解らなかったのですが、銃をもっていた手を聖書に持ち替えて・・・
慈悲の心を持って生きた・・・というか、そこに救いを見出してたんじゃないかと思います。

だって、あまりにもたくさんの人が戊辰で死んでしまったから。。。

大河の皆様、1年間本当にお疲れさまでした。

っていろいろ書いてますが、心は来年の大河に飛んでいます。

やっぱり男性&戦国時代おまけに今回は、「黒田官兵衛」です。
そう、秀吉が最も恐れた男ですよ!!

いつもは、あんまりカッコよく書いてくれないんですけどね。。。
ほら、二兵衛の片方・竹中半兵衛が美男子でしょう???
黒田官兵衛は野心丸出しだしね。。。

そんな腹黒く書かれることの多い黒田官兵衛を、オットコマエの岡田准一君がどう演じてくれるのか???
本当に楽しみなのです。

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