日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:徳川慶喜

白虎隊 [DVD]

新品価格
¥5,180から
(2018/5/24 22:55時点)



その美しさから会津富士と呼ばれる明峰・磐梯山
今から150年前、この山の麓で、戊辰戦争最大の激戦が行われました。
藩の誇りをかけた会津藩が、攻め込んできた新政府軍に徹底抗戦!!
そんな会津藩に悲劇が・・・
白虎隊の少年兵たちが非業の死を遂げたのです。
城が陥落したと絶望して・・・。
今も語り継がれる白虎隊と会津藩・・・その壮絶な最期とは・・・??

会津藩は、伊達家の仙台藩、上杉家の米沢藩が幕府に反旗を翻した場合に、防衛の拠点となる重要な藩でした。
藩の礎を築いたのは、2代将軍秀忠の息子・保科正之です。
保科は、会津藩家訓15か条を作り、第1条に・・・
”徳川家に絶対的な忠誠を誓うことが、会津藩の務めである”と。
その使命を果たすべく、代々藩主は人材育成に努めていきます。
その一環として藩士の子供たちは、”什の掟”という心構えを教え込まれます。
10歳になると、藩校・日進館に・・・。
論語、大学など中国の古典を声に出して読み教養を深め、医学、天文学まで幅広く学びました。
砲術、弓術、水練・・・徳川家の有事に備え、有能な藩士を育てようとしました。
こうして幕府から絶大な信頼を得ていく会津は、幕末、朝廷からも信頼を寄せられます。

9代藩主・松平容保は、京の治安維持を担う京都守護職に・・・。
時の孝明天皇から高く評価されます。
しかし・・・15代将軍徳川慶喜が政権を交代した大政奉還を境に会津藩の立場は激変!!
幕府、朝廷・・・両方から敵視されることに・・・

慶喜の裏切り・・・
1868年1月、容保ら旧幕府軍は、慶喜を大将に新政府軍に戦いを挑みます。
鳥羽伏見の戦いです。
しかし、あえなく敗戦!!
容保は慶喜に付き従い江戸に逃げ帰ります。
対して新政府軍は朝敵となった慶喜に対し素早く追討令をだし、江戸へと迫ってきました。
すると・・・慶喜は朝敵に対し恭順の意を示したばかりか、信頼していた容保を江戸から追放したのです。
そこには慶喜の思惑がありました。
まだ新政府軍と戦う気だった会津藩の存在が邪魔だったのです。
「江戸から遠ざけたい・・・!!」
”会津藩 松平容保は、天皇に対し恭順の意を表していない”と印象付けようとしたのです。

徳川家に尽くして来た会津藩に対する裏切りとも取れる慶喜の行為・・・
大きなショックを受けた容保は、失意のまま会津に戻ります。
そして14歳だった養子の喜徳に家督を譲り隠居、自らも朝廷に対し恭順の意を表すのですが・・・
その申し出は受け入れられませんでした。
新政府軍は、容保の斬首を要求!!

どうして新政府軍は会津に厳しかったのでしょうか?
長州藩との因縁・・・
それは、まだ幕府が政権を返上する前、京都守護職の容保は、新選組を配下に置き、尊王攘夷派の長州藩士などを厳しく取り締まっていました。
攘夷派だった孝明天皇も、容保に信頼を寄せるようになります。
1863年、8月18日の政変!!
孝明天皇に近づき利用しようと画策していた長州藩士と尊王攘夷派の公家らを京都から追放!!
この時、長州藩士たちを追放したのが容保ら会津藩でした。
長州藩は尊王攘夷激派で、容保はまだ公武合体派だったのです。
孝明天皇も、まだ”長州藩士らの追放”を望んでいました。

1864年禁門の変・・・復権を目論んだ長州藩が再び上洛し、蛤御門で幕府軍と対決!!
しかし、御所を守っていた会津藩(松平容保)、桑名藩(容保の弟・定敬)、薩摩藩によって撃退されます。
長州藩は多数の死者を出したうえ、責任を取って3人の家老が切腹を命じられました。
これによって長州藩は会津藩と薩摩藩を「薩賊会奸」と恨むようになりますが・・・
この後、長州は薩摩と同盟(薩長同盟)を組み・・・憎悪の念は、会津藩一藩に集中するのでした。
つまり、容保の厳しい処分は、長州藩の強い意向によるものでした。
新政府軍は、自らの威信を世に知らしめるために、朝敵となっていた松平容保の斬首を決めたのです。
会津藩の存亡をかけた戦い・・・会津戦争が始まりました。

会津藩・松平容保の斬首を執拗に要求した新政府軍・・・
これに猛反対した東北諸藩は、朝廷に容保の助命嘆願をしましたが、朝廷はこれを却下。
そこで、仙台藩を中心に、長岡藩、米沢藩、庄内藩を中心に奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に対抗することになりました。
容保も、幼い藩主に代わって、密かに戦いの準備を進めていました。
まずは、部隊を年齢別に4つに分けます。
東西南北の守護神から・・・
主力は朱雀隊・・・18歳~35歳の屈強な青年部隊
続く青龍隊・・・36歳~49歳で構成
年配者は玄武隊・・・50歳以上の予備隊
白虎隊・・・16~17歳の少年で、予備隊した。
この白虎隊は、上流藩士の子弟で構成される士中隊、中級藩士の子弟で構成される寄合組隊、下級藩士の子弟の足軽隊と、身分によって分かれていました。
容保は、武器の洋式化も進めていました。
プロイセンの武器商、ヘンリー・スネルを軍事顧問として招聘していた容保は、会津藩・平松武兵衛を与え重用。
新潟にいたスネルの弟を通じて、武器を購入していました。
この時、会津藩・庄内藩からプロイセンに対し、領地売却の打診があったようです。
当時、新政府軍は、イギリスから最新鋭の武器や弾薬を入手していました。
そこで、会津藩と庄内藩は、蝦夷の領地をプロイセンに売却することで、武器を用立てようとしました。
しかし、ビスマルクは、この提案を拒否!!
このことが、会津藩の戦いに大きな影響を与えることとなります。

1868年4月下旬・・・
会津藩が、白河口の戦いで白河小峰城を占拠!!
新政府軍を迎え討ちます。
指揮を執ったのは、会津藩家老・西郷頼母でした。
仙台藩や、二本松藩らの援軍も駆けつけ、新選組の生き残りたちも会津藩に参戦し、会津藩・東北諸藩・旧幕府軍2500あまり・・・対する新政府軍は僅か700!!
いざ戦いが始まってみると・・・会津藩は、700人以上の死者を出して敗北するのです。
どうして・・・??そこには武器の装備の差がありました。
新政府軍は、最新式の元込め銃・・・手元で弾薬の装填をするので、短時間で弾を込めることができました。
会津藩は、旧式の先込め銃を使っており、先端から弾薬を装填するため、時間がかかりました。
おまけに命中精度は非常に悪かったのです。
武器の輸入が上手くいかなかったことは、用地売却が上手くいかなかったことが原因かもしれません。
白虎隊の少年たちに与えられたのも、先込め式の銃でした。
しかも、体の小さい彼等には小さいものを用意したといいます。
この時、白虎隊に鉄砲を指導した一人が山本八重(新島八重)でした。
来る戦いに備えて・・・!!
白河小峰城を落とした新政府軍は、会津へと迫っていました。
長岡藩、二本松藩が次々と破れ、新発田藩は寝返り。。。奥羽越列藩同盟は崩壊しました。
会津藩は追いつめられていきます。
新潟港を抑えられ、スネルの弟からの武器の補給路が絶たれてしまいました。

8月21日・・・新政府軍が会津にやってきました。
母成峠で激戦!!
新政府軍3000に対し、会津藩は僅か800でした。
この戦いに敗退・・・遂に領内に攻め込まれてしまいました。
そして・・・翌日、白虎隊に出陣命令が出されたのです。
苦渋の選択・・・もはや、避けることのできないところまで追いつめられていました。

主力部隊を藩境に・・・!!
しかし、東側の母成峠の戦いに勝利した新政府軍は、城下と山を隔てた猪苗代湖へと一気に攻めてきました。
容保の決断・・・主力部隊を藩境に送り出した後、城に残っていたのは50歳を超えた老兵と、まだ年端も行かぬ少年部隊でした。
そして、容保が選んだのは、白虎隊士中二番隊に出陣命令を出すのです。

8月22日、容保から出陣命令を受けた白虎隊士中二番隊は、猪苗代湖周辺で戦う味方と合流すべく隊長・日向内記のもと、峠を越えていきました。
到着したのは、日没間近の事でした。
8月22日は、今の暦にすると10月初旬・・・台風が接近していたので、強風雨や寒さに苦しめられました。
予備兵だった白虎隊の出陣は、突如決まったので、十分な食料を所持していませんでした。
一行は、降りしきる雨の中、野営を・・・!!
雨を避ける場所などなく、寒さに震えながらの野営・・・。
すると、隊長の日向が・・・
「他の隊に掛け合って、食料を分けてもらってくるから、諸君らは、ここで待つように。消して動いてはならぬ・・・!!」と、部隊を離れていきました。

激しい雨と不安の中、眠れない夜を過ごした少年兵たち・・・
早朝から新政府軍の激しい攻撃にさらされます。
会津軍は、たちまち陣形を崩し後退・・・。
白虎隊市中二番隊は、必死に逃げ回っているうちに他の隊とはぐれてしまいました。
二番隊も散り散りとなり、37人いたのに20人に・・・!!
指示を仰ぐ隊長もいない少年兵たちは、リーダー格の篠田儀三郎を中心に話し合います。
ひとまず若松城に戻ることに・・・しかいs、周囲は敵ばかり・・・!!
そこで、飯盛山の洞穴を通っていこう!!
そうして命からがら、飯盛山の西側にたどり着いた20人・・・ところが・・・
「城が・・・燃えている・・・!!」
目の前には、黒煙に包まれた若松城が・・・!!

「新政府軍の手に落ちたというのか??」

戻る城を失った白虎隊市中二番隊は、もはやこれまで・・・と、次々と命を絶つのです。
しかし、この時、城下は焼き払われていたものの、まだ城は落ちてはいませんでした。
これが、会津戦争最大の悲劇として語り継がれてきた白虎隊の最期ですが・・・

近年新説が・・・
自害した白虎隊20人の中で、一命をとりとめた者がいました。
飯沼貞吉です。
喉を突きさすも息があり、通りかかった女性に助けられました。
平成20年・・・白虎隊顛末略記という手記が発見されました。
これによると、若松城が落城したと思い込んで自決したわけではありませんでした。

意見がまとまらない中、リーダー格の篠田は、
「いずれの策をとっても、敵の捕虜にならないとは限らない。
 そんな恥辱を受けるより、ここで潔く自刃し、武士の本分を果たそう!!」
と、自決に至ったのです。

1868年4月下旬・・・会津戦争
会津藩は奮戦するも、4か月後、新政府軍に若松城を包囲されてしまいます。
城下では目を覆う惨劇が・・・!!
その様子が、会津藩士・荒川勝茂の日記につづられています。

「老人、婦女子、地にまみれ、地に染み、泣き叫ぶ声哀れなり
 あるいは夫人、風呂敷包みを背負いて出で 逃げるに妨げとなり 途中にて捨てるもあり
 また老人背負いて打たるるもあり
 実に目も当てられぬ有様なり」

この時、会津藩士の妻や娘などの多くが、足手まといになること、敵からの辱めを受けることを嫌い、自ら命を絶ったといいます。
その中で、中野竹子が指揮をした娘子隊は果敢にも長刀で戦います。
当時、新政府軍は生け捕りにしようとしましたが、その長刀さばきと勇猛果敢さに、慌てて銃を取り銃弾を浴びせました。
竹子は額に銃弾を受け、命を落とします。
まだ、22歳でした。
新政府軍によって、城下を押さえられた会津藩は、若松城での籠城戦を強いられます。
深い堀と高い石垣に囲まれた若松城は、奥羽一の堅固な城と呼ばれていました。
そのため、新政府軍を大いにてこずらせます。
鉄壁の城に刺客などなく、敵を撃退していきます。
しかし・・・長期戦の様相を呈してくると、様相は一転!!
5000人いた若松城は、食糧不足に陥ります。
会津藩の予想より早く、新政府軍は攻めてきました。
新政府軍の中心・薩摩、長州、土佐藩は、寒さに弱く、冬が来る前に攻撃を急いでいたのです。
5000人分の備蓄ができていなかったのです。
食糧が底をつくと、もち米の粉を湯がいただけのものを食べ、飢えを凌ぎました。
秋の深まりとともに、寒さも増していきます。
着の身着のままで逃げてきた人々は、震えながら夜を過ごします。
城内の人々が疲弊していく中・・・新政府軍は新たな戦法へ・・・!!
若松城の南東2キロにある小田山・・・新政府軍は、ここに最新の大砲・アームストロング砲を据えました。
射程は2キロ以上・・・城まで十分に届きます。
この大砲で、1日1000発以上もの砲弾を若松城に向けて撃ったのです。
城は大きなダメージを受けていきます。
激しい攻撃、劣悪な環境・・・次第に脱走者が続出し、悲観して自決する者も出てきました。
それでも、松平容保は、家臣たちと戦うことを選びます。
藩士たちもそれに応えます。
最後まで新政府軍を城の中に入れることなく戦ったのです。

ところが・・・
奥羽越列藩同盟の東北諸藩が降伏していく中、同盟の中心だった仙台藩がついに新政府軍の軍門に下ります。
その翌日・・・新政府軍より会津藩の元に降伏勧告状が届きます。
戦いの指揮を執ってきた容保は、遂に城を明け渡すことを決断!!
家臣たちは、涙ながらに容保の決断を承諾したのです。
9月22日、若松城に降参の意味を込めた白旗が掲げられます。
それは、負傷者の包帯に使っていた木綿の端切れを縫い合わせて作ったものでした。
そして、礼服に身を包んだ容保は、自ら降伏謝罪状を持って新政府軍の元へ・・・。
戊辰戦争の最初、鳥羽伏見の戦いから数えると、会津藩の死者は3000人近くに上ったといいます。

生き残った藩士たちには、過酷な運命が・・・
本州最北端の斗南藩3万石(実高6000石)へ移住させられます。
会津藩士だけが移住させられ、亡くなる人も沢山でした。
会津藩家老萱野長修が全責任を負って切腹。
松平容保は、斬首を免れ鳥取藩江戸屋敷などで謹慎。
容保は、日光東照宮の宮司となり、明治26年59歳でこの世を去りました。

新政府軍により賊軍となった会津藩は、自らの信念を曲げることなく最後まで戦いました。
故に、多くのものを失うこととなってしまいました。
そんな中、生き残った少年たちに会津の未来が託されました。
白虎隊の二人の少年が会津藩士・秋月悌次郎の尽力で、長州藩士・奥平兼輔の元に預けられ、書生となります。
その一人・山川健次郎は、後に48歳の若さで東京帝国大学総長となります。
その後も、日本の未来を担う、豊かな人材を育てることに尽力したのです。

山川は、常に、子供たちにこう教えていました。

「終生 人格を磨くべし」

何事に対しても、我慢強く、卑怯な真似はしてはならない・・・
会津で学んだ心得・・・会津士魂を伝えたのです。

白虎隊市中二番隊19人は、自決した飯盛山に眠っています。
会津を思い、会津のために死を選んだ19人の少年・・・
その傍らには、彼らを最後まで出陣させたくないと思っていた容保の歌碑があります。

幾人の涙は石にそそぐとも
        その名は世々に朽ちじとぞおもう
                           容保


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

合葬

新品価格
¥400から
(2018/5/24 22:56時点)

会津士魂 12 白虎隊の悲歌 (集英社文庫)

新品価格
¥669から
(2018/5/24 22:57時点)

最後の幕臣 小栗上野介【電子書籍】[ 星亮一 ]

価格:702円
(2018/5/8 21:12時点)
感想(0件)



1868年4月4日、江戸城無血開城・・・
およそ260年続いた江戸幕府が終わりをつげ、江戸城が新政府軍に明け渡されました。
この時、江戸城の金蔵を開けた新政府軍は驚愕!!
金蔵にあるはずの幕府の御用金360万両が無くなっていたのです。
その金を盗み埋めたのでは?と疑われたのが、小栗上野介忠順でした。
本当に隠したのでしょうか?そして、その目的とは・・・??

東京神田駿河台・・・小栗上野介は、1827年に生まれます。
小栗家は、代々徳川家に仕える旗本で、譜代の中でも高い2500石。
小栗は生まれたときから出世の道が約束されたエリートでした。
9歳で、名門と言われた私塾「見山楼」に入門します。
TOPの成績を修めるなど、才覚を発揮!!
武術にも長けて、将軍のまえで弓を披露したときにはすべて大的に的中させ、褒美を賜わったといいます。
文武両道で勤勉だった小栗は、17歳で江戸城に初登城。
21歳で御書院番、27歳で進物番出役、13代将軍徳川家定に仕えます。
スピード出世を遂げていく上野介。。。

ペリー来航によって開国した日本は、
1858年6月日米修好通商条約締結。
その条約批准のために、遣米使節団が結成されます。
小栗は、大老井伊直弼からこの使節団の目付け役を任されました。
そして、1560年、小栗はアメリカ軍官ポーハタン号で出航。
この時、護衛艦として随行したのが咸臨丸です。
その館長を務めていたのは、勝海舟でした。
出航からおよそ2か月後、アメリカに到着!!
この時小栗は、条約の批准の他に、金と銀の交換比率の見直しという重責を担っていました。
小栗はその手腕を発揮!!
日米修好通商条約で定められた交換比率は、アメリカに有利なものでした。
当時はアメリカ国内では金1枚に対し銀15枚!!
日本に銀15枚を持って行くと金3枚と交換できるようになっていたのです。
少ない銀で金が手に入ると、海外に日本の金が流出し、経済の混乱が生じていました。
その状況を打開する為に・・・
小栗はアメリカに日米の銀貨などの分析を要求します。
が・・・時間を要するので、と拒否されます。
それでも説得する小栗!!
小栗の粘りの結果、分析することを約束してくれました。
そんな小栗は、明らかにシャープな男として、アメリカの新聞で取り上げられました。
さらに小栗は、アメリカで様々な場所を視察し、見識を深めていきます。
ワシントンで海軍の造船所、そして鉄製の螺子を持ち帰りました。

日本近代化実現のために奔走することとなります。
帰国後、小栗は200石加増され、2700石となり、外国奉行に就任します。
幕府の軍事力強化のために、小栗はフランスから銀600万ドルと軍艦の借り受けを検討!!
そして、同士と信じていた男・・・勝海舟に相談します。
しかし、その話を聞いた勝は・・・
「小栗は、日本の国土を担保にフランスから借金をしようとしている。
 国を売るようなこの計画、許し難し。」
と、幕閣たちに報告し、小栗を批判します。

小栗が国を担保にしようとしたというのは事実無根。
反対する為の勝のハッタリでした。
アメリカに渡航以来、勝は小栗に強いライバル心を燃やしていました。
というのも、小栗が任務を終えた後、4か月かけて日本人初の世界一周をして、見聞をひろめていたのに対し、勝はアメリカ西海岸までの護衛を果たすとその周辺を視察しただけで帰国を命じられていたのです。
小栗との待遇の差に憤っていました。

家柄のせい??

二人の間では、日本の近代化に対する考え方も違っていました。
小栗は幕府を評価して近代化を進める。
勝は諸藩にも近代化の強力を要請したい。
ことごとく対立する二人・・・。
後に小栗について勝は、
「勢力がひとに優れて計略に冨み、世界の大勢にもほぼ通じて、しかも誠忠無二の徳川武士」と言っています。
内心、高く評価していたのです。
小栗は、幕府の要職を歴任・・・中でも勘定奉行は4回も・・・!!
そして1863年、37歳になった小栗は、アメリカで抱いた夢の実現に向かいます。
それは日本の近代化でした。

①造船所建設
当時幕府は軍事力強化のために、大金を出して諸外国から軍艦を購入していました。
しかし、その軍艦が故障すれば・・・外国まで持って行って修理しなければなりません。
そこで、勘定奉行だった小栗は、横須賀に造船所を作りたいと幕府に提案!!
しかし、幕閣から猛反対にあいます。

「今のままでは時間も経費も掛かります。
 どうしても、国内に製造修理の場所が必要です。
 資金は勘定奉行の私の責任で何とか工面します。」

その甲斐あって、翌年造船所建設が幕府に承認されます。
敷地面積・・・24万6000㎡、建設費総額・・・240万ドル(120億円)
世界を見てきた小栗は、これまでの慣例にとらわれることなく近代化を推し進めていきます。

②日本初の「株式会社」設立
1867年日本初の株式会社「兵庫商社」を設立。
資本の少ない日本の商人たちが、海外貿易で非利益を被っている解決策として作った商社でした。
他にも日本初のホテル「築地ホテル館」・・・郵便、電信、ガス、鉄道・・・の設立を、提唱していきました。

小栗は、幕府の近代化の最先端を走る人でした。
小栗は、幕府を中心とした日本の近代化を邁進していました。
しかし、その矢先、大政奉還・・・幕府の終焉と共に、小栗の運命も大きく変わっていきます。

1968年4月・・・新政府軍と旧幕府軍との間で合意されていた江戸城引き渡しがあり、新政府軍が江戸城に入りました。
江戸城無血開城です。
この時、新政府軍には、江戸城引き渡し以外にもう一つ目的がありました。
それは、江戸幕府の御用金でした。
まだ新しい政府ができたばかりで資金不足・・・そこで、江戸幕府の莫大な御用金を軍資金に・・・と考えていたのです。
ところが・・・向かった金蔵の中は・・・もぬけの殻でした。

「おそらく、旧幕府軍の何者かが、白を出る時密かに運び出したのだろう。」

この時、幕府が全国に保有していた御用金は総額360万両・・・。
今の3600億円と言われていました。
その大金を盗み、隠したと思われたのが小栗上野介だったのです。
小栗は何度も勘定奉行となっていたので、御用金に一番近い存在で、その状況を把握していたのでうたぐぁれたのです。

しかし、この時、小栗はもう、幕府の役人ではありませんでした。
江戸城無血開城が決まる前に、江戸を離れていたのです。
どうして・・・??
1968年1月・・・鳥羽・伏見の戦いで・・・。
新政府軍に敗れた徳川慶喜は、多くの家臣を残して江戸に逃げ帰ってしまいました。
朝敵となってしまった旧幕府側は、新政府軍と戦いを続けるのか、恭順するのか?江戸城で話し合います。
恭順するという慶喜に対し、小栗は徹底抗戦を主張・・・
奥へ下ろうとする慶喜に取りすがってしまいました。
「無礼者!!」
それから二日後の事・・・小栗は慶喜に勘定奉行などを罷免されてしまいました。

幕府要職を歴任してきた小栗・・・将軍から絶大な信頼を寄せられていたであろうに・・・罷免??
徹底抗戦を主張するのは、幕臣として当然だったでしょう。
あくまで意見を言っただけなのに・・・??
慶喜は、そもそも朝敵になりたくはありませんでした。
徹底抗戦を主張している小栗をそばに置いておくのは危険だ・・・と考えたのでしょう。

罷免されて2か月ほどたった3月・・・小栗は、江戸を引き払い、家族と数人の家臣たちと共に領地である上州権田村に移ります。
この時、大量の荷物を運ぶのを村人たちに見られています。
村にこんなうわさが・・・
「小栗さまが幕府の金を持ち出し隠したそうだ。」
「そういや、権田村にやってくるとき、千両箱や長持ちを山ほど運んで来たって聞いたぞ。」
「そりゃあほんとか?
 そんじゃあ、小栗さまのとこに小判がザックザックってことか?」
こうした噂は、権田村だけではなく近隣の村々に・・・
小栗がもっているという噂の金を狙い、村人たちが襲ってきたのです。

小栗は・・・日記「小栗日記」に記しています。
「暴徒は三方からおよそ二千人も押し寄せ、ついに宿場に放火。
 その上、発砲も始めたので、直ちに歩兵ども進めの号令を発して、暴徒を追討したところ、逃げ始めたので追い討って、ついに三人を討ち、一人は槍で村内の者が突きとめた。
 その他、歩兵たち十人も方々で打ち倒したので、とうとう暴徒は散々に逃げ始めた。」

撃退した小栗ですが、幕府の埋蔵金はあったのか??
いまだに発見されていませんが、お金を埋めたと言われる場所は、全国に数十カ所あると言われています。

徳川埋蔵金の真相とは??

①銚子沖沈没船説

徳川埋蔵金と言われる御用金は360万両・・・千両箱にして3600箱あったことになります。
幕末の混乱期・・・陸路ではなく水路で運んだのでは?というのがこの説です。
そもそも銚子は、江戸幕府ができた頃、徳川家とゆかりのある紀州の漁師が移住して作ったと言われる港でした。
銚子へは、江戸城から隅田川を経て利根川を経由するルートがあったことから、船で運んだのでは?と考えられました。
しかし、波の荒い銚子沖・・・船が沈没してしまったのでは?というものです。
未だ見つかっていません。

②群馬県赤城山説

御用金が埋められたとされる有力な説が、群馬県にある赤城山です。
その山の所有者である水野家が、代々埋蔵金の発掘調査を行ってきました。
初めて赤城山での発掘調査をしたのは明治19年1886年ですが、きっかけは江戸時代にさかのぼります。
小栗が江戸から権田村に移ることとなった小栗・・・

「実はな、公儀在職中、徳川家の再興を図るために、甲府の御用蔵より24万両を運び出し、赤城山の山中に埋めたのだ。
 徳川再興のない今となっては、山中に埋もれたままでは何とも無念。
 埋蔵金の発掘をお前に託したい・・・。」

この話が元となって、水野家はいまも発掘を行っています。

赤城山に御用金を全額隠したのではなく、全国各地に少額ずつ隠したという説もあります。

どうして小栗が・・・??
幕府には、御用金を隠そうという計画があったと言われています。

江戸時代末期・・・幕府は度重なる財政危機に陥り、破たん寸前でした。
おまけに日米修好通商条約締結後、通商が盛んになると、国内の金が安いレートで海外に流出・・・。
日本経済は混乱していました。
これに危機感を覚えたのが、大老・井伊直弼でした。

幕府再興の資金として、また、金が海外に流出するのを防ぐ手立てとして、蓄えていた御用金360万両を隠そうと画策・・・
しかし、1860年桜田門外の変で井伊直弼は暗殺・・・。
これで計画は流れた・・・??
しかし、その前に、信頼を置いている小栗に埋蔵金計画を託していた・・・。
すべて幕府の為だった・・・??

この時、御用金は360万両もなかったのでは??
生麦事件でのイギリスへの賠償金などで、幕府は財政難でした。
どのくらい残っていたのか??は詳しくはわからないのです。
その真相は、藪の中・・・。

当時、大金を持ってきたと思われていた小栗・・・。
暴徒を出した近隣の村から謝罪を受けるとこれを許し、村を良くすることに尽力していきます。

①人材育成
これからは、誰もが教育を受けられるように・・・と、私学校の構想を練ります。
「この村から、太政大臣を出す!!」と言って、自分の元で、新しい時代に対応できる若者を・・・人材育成を考えていました。
小栗についてきた優秀な若者がいたのです。

観音山で屋敷の建設を開始・・・
その家は、襖を外せば60畳の教室となり多くの人を呼べるようになっていました。
小栗は、毎日のように建設現場に・・・私学校を心待ちにしていました。

②用水路建設
観音山付近の村々は、常に水不足に悩んでいました。
雨が降らないと田植えができず、僅かな作物しか作れませんでした。
そこで小栗は、東の稲瀬沢から用水路を作ろうと測量を開始。
その用水路は、今も小高用水として大切に使われています。
しかし、小栗自身は、屋敷も用水路も完成を見ずにこの世を去ることに・・・。

幕府の重臣だった小栗が権田村にやってきて2か月たった頃・・・
小栗は村の改革を行いながら、平穏な日々を送っていました。
しかし・・・突如”小栗上野介追討令”が出されました。

「小栗上野介
 近日その領地権田村に陣屋敷など厳重に総構え しかのみならず砲台を築き
 容易ならざる企てこれあるの趣・・・
 上は天朝に対し奉り 下は主人慶喜教順の意にも相もとり候に付き・・・」

戦を企てている逆賊だと言われたのです。

4月29日、地方の治安を守るために新政府軍が任命した東山道総督府が小栗討伐に向かいます。
その舞台は、軍官の豊永貫一郎や、原保太郎らが率いる高崎藩、安中藩、吉井藩の三藩。。。
使者は小栗の元にやってきて追討令を差し出すと、

「嫌疑を正すことはできるが・・・」

すると小栗は、

「陣屋とありますが、全く尼つゆを凌ぐだけの屋敷を作るつもりです。
 決して要害になるほどの普請工事をしているわけではなく、よくご覧いただければ事情はすぐにお分かりいただけるでしょう。
 砲台を築いているという件も、その大砲皆様にお預けいたしますからそれを根拠として下され。」

そして、小栗は使者たちを建設現場に連れて行って調べさせ、大砲と小銃5丁を引き渡しました。
この時、養子・又一が人質として連れて行かれてしまいました。

この大砲は、駿河台の小栗邸にあった飾り物で・・・
新政府軍は調査の結果、小栗を「お咎めなし」と報告していました。
しかし、この報告に総督府の原らは激怒!!

「天地の間に容るべかららざる罪人でもある 
 早々に捕らえよ」

しかも、刃向かえばそのまま斬首しても良いと言い出しました。
「無実ゆえ・・・」と、小栗の助命を嘆願しますが・・・
逆らえばとり潰すと言われ、言葉を飲みます。
一方、成り行きが思わしくないと情報を得た小栗は、家臣たちの勧めもあって家族と共に村から避難します。
そこへ権田村の名主・佐藤藤七が来て涙ながらに懇願します。

「どうか殿にはお戻りいただきたい。
 もし、殿を逃がしたとなれば、権田の村民が処罰されてしまいますゆえ・・・
 お戻りになって、官軍に申し開きなされますようお願い申し上げます。」

「そうか・・・すまなかった。
 村人に迷惑をかけるつもりはない。
 覚悟はできている。」

小栗は村にに引き返しました。

閏4月5日・・・小栗は寺の本堂にいたところを捕らえられ・・・
なんの取り調べもなく刑が確定します。

慶応4年閏4月6日午前11時・・・小栗上野介・・・斬首刑。 
処刑場となった権田村の烏川の河原では、多くの村人がかたずをのんで見守っていました。
そんな中、共に処刑されることとなった家臣がたまらずこう叫びます。

「一言の取り調べもなく、殿がこんなところで最期を遂げるとは残念です。」

「この期に及んで未練がましい事を申すでない。
 おのおの未練なきように・・・。」

そうたしなめると、小栗は一粒の涙を流したといいます。
何か言い残すことはないかと問われると・・・

「何事もない・・・ただすでに母と妻は避難させたので、どうか婦女子は寛大な処分を望む。」by上野介

権田村に移り住んでからわずか2か月・・・この時42歳でした。

小栗はどうして処刑されなければならなかったのでしょうか?
慶喜に一番近い存在であったにもかかわらず、徹底抗戦を主張した後すぐに罷免され、権田村に隠居したので、怪しいと疑われたのです。
当時、関東は治安が悪く、小栗が自分の身の安全や領地を守るために武器を持ってくるのは当然のことでしたが・・・。
新政府軍にとって小栗は、切れ者であり、野放しにしておくのは危険だと思ったのです。  

無実の小栗に続いて、三人の家臣と養子で跡継ぎの又一も、悉く斬首・・・。

小栗上野介を処刑した新政府軍は、家臣たちの家財道具をすべて没収し、高崎から呼び寄せた商人に売却し、その資金を新政府軍の軍資金としました。
そして、小栗上野介は歴史の闇に葬られてしまうのです。
唯一の救いは、面識のあった会津藩士を頼って会津に逃げた母や妻がお咎めを受けなかったことでした。
この時、妻・道子は身重でした。
道子は会津で無事に娘を出産・・・クニ子と名付けました。
その後、クニ子は養子をもらい、小栗家は続いていくこととなります。

優秀過ぎたため、あらぬ噂、あらぬ嫌疑をかけられたまま罪なく処刑され、歴史の闇に葬られた小栗上野介・・・
小栗は一言にして国を亡ぼす言葉あると言っていました。

それは「なんとかなるだろう・・・」
精一杯の努力をしない生き方を嫌った小栗・・・。
日本の近代化に勤め、最後まで幕府のために力を尽くした男でした。

1915年9月・・・
小栗が建設し、海軍の工場となっていた横須賀造船所で創立50周年の祝典が行われました。
そこで総理大臣大隈重信の言葉が伝えられます。

「この造船所は、幕末に小栗上野介の尽力によってフランスが創設の業を援助することに決した」

そして、その7年後・・・1922年、小栗の胸像の除幕式が行われました。

小栗上野介の偉業が再び日の目を見たのです。



↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

覚悟の人 小栗上野介忠順伝【電子書籍】[ 佐藤 雅美 ]

価格:713円
(2018/5/8 21:12時点)
感想(0件)

おもしろTシャツ 漢字Tシャツ 私、知ってます、とっておきの秘密を、、徳川埋蔵金の場所知ってますTシャツです 全3色 男女各サイズ 綿100%の高品質Tシャツ使用 送料無料 プレゼント

価格:1,980円
(2018/5/8 21:13時点)
感想(0件)

山田方谷―河井継之助が学んだ藩政改革の師 (人物文庫)

新品価格
¥821から
(2018/4/15 22:16時点)



備中松山城・・・日本で最も高い標高430メートルに天守閣を構える山城です。
大河ドラマ真田丸のタイトルバックにもなった美しい城として知られています。
この城には秘められた物語がありました。
時は動乱の幕末・・・物語の中心となったのは、備中松山藩重臣・山田方谷です。

備中松山城をいただく岡山県高梁市・・・。
山城の麓には、かつての松山藩の城下町が広がります。
藩校・有終館の校長を務めた儒学者・山田方谷。
隠居を考え始めた45歳の時、方谷の人生を一変させる出来事が・・・。
藩の重職・元締役(財務大臣)兼吟味役(事務次官)に抜擢されたのです。
財政の全権を任されたことを意味していました。

方谷とはどんな人物なのでしょうか?
1805年、山田方谷は農民の息子として生まれます。
幼いころから神童の誉れ高くありました。
農業と菜種油の製造販売の傍ら勉学に励み・・・元来武士ではありませんでした。
彼にとって、松山藩5万石の元締役はあまりに重責でした。
方谷は頑なに辞退しますが・・・方谷から政の手ほどきを受けた藩主・板倉勝静は聞きません。
切望し・・・ついに決意する方谷。。。
方谷が就任した時、松山藩は困窮のどん底にありました。
参勤交代の駕籠かきからも貧乏板倉と敬遠されるほどでした。
詳細な財政調査の結果・・・松山藩の5万石は表向きにすぎず、実際は僅か2万石足らずでした。
藩は、その事実を隠蔽して、大阪の両替商から借金を続けていました。
その結果、負債は10万両を超えていました。
財政破たんしていたにもかかわらず粉飾に粉飾を重ねていたのです。

危機に直面した方谷・・・就任早々厳しい選択を迫られます。
一刻の猶予もない!!
恥を忍んで両替商たちに説明して理解を得る??
代々地位を世襲してきた重臣たちは反対するだろうが・・・

「大信を守らんと欲せば 小信を守る遑なし」

武士の体面ばかり守ろうとしていたら、領民の暮らしや藩の存続さえ危ういのだ。

方谷は、藩内の反対を押し切って大坂へ・・・
金を借りている両替商たちを集め、返済延期を申し入れます。
その上で、思い切った財政再建計画を提示しました。
それは、米を現金化する為に設けられていた大坂の蔵屋敷廃止という大胆なものでした。
松山藩の米は商人に代わり、藩が相場を見て売りさばく・・・方谷は、全く斬新な方法を打ち出しました。
苦しい藩の財政を包み隠さず示した方谷に動かされて、商人たちは再建案を飲みます。
方谷が経済に明るかったこと、地域の実情を知った上での地域振興、流通革命・・・具体的で、実行可能な再建計画を見せたのが、納得の要因でした。

そして、地元の物を使って特産品を開発します。
ベンガラの特産地として知られる高梁市。
ここに江戸時代に開発された銅山が残されています。
この一帯は、豊かな鉱脈がある地として戦国時代から知られていました。
方谷が目をつけたのがその鉱物資源でした。
銅山経営、砂鉄からの備中鍬などの鉄製品の制作、農民たちには換金植物の生産(柚餅子、刻みタバコ)を。
流通も・・・撫育方を作り、藩内の産物を最大市場の江戸に直送・・・
率先して商いに加わったのは、松山藩の藩士たちでした。
これは、士農工商を揺るがしかねないものでした。
撫育方の藩士たちは、特産品を売りさばき、大きな利益を得るのでした。

2018年に方谷の直筆が新しく発見されました。
そこには、特産品の販売を担う部下に向けた心得が書かれていました。

撫育を進めるにあたり・・・武士としての義をわきまえ、私利に走らぬよう・・・藩士たちを戒めています。
高梁川・・・1852年9月5日、一世一代のパフォーマンスを行います。
領民たちが見守る前で、河原に積み上げた藩札を火にくべたのです。
松山藩は、財政難をしのぐために、藩札を濫造したので、その信用は失墜していました。
藩札を燃やす炎は、朝8時から夕方4時まで続いたと言われています。

そして、蓄財に見合った藩札「永銭」を発行します。
財政の健全化を目に見える形で示した「永銭」は、よその藩でも通用するほどの信用を得ました。
領民の家計がよくなれば、藩の財政も好転することを知りぬいていた方谷・・・市民撫育の思想を貫いて、実質的に7年で莫大な借金の大半を返済したといいます。
しかし・・・時代は大きな曲がり角を迎えていました。
方谷が藩札を燃やした翌年1853年6月・・・黒船来航によって、時代の大きなうねりに飲み込まれていきます。

方谷の手腕で財政を立て直した松山藩・・・
その実績を背景に、藩主・板倉勝静は、1862年に老中に就任。
勝静は、寛政の改革を成した老中・松平定信の孫にあたります。
混迷の時代・・・進んで幕政の中心を担う覚悟でした。
一方、松山藩では、方谷が軍制改革に取り組んでいました。
時代の先を読み、方谷自ら他藩に出向いて西洋式の兵法を学んでいました。
その実用化に向け、最新式の銃や大砲の研究を薦め、試作にも取り組んでいました。
しかし、藩士たちはこれに難色を示します。
学者上がりの方谷に、足軽のように扱われることへの反発でした。
方谷はこの反発を逆手にとって、農民たちを砲術部隊に!!
農民たちに銃を持たせ、最新式の西洋式軍隊に鍛え上げたのです。
凄まじい教練を見た久坂玄瑞は、長州の住人は叶わないと漏らしたといいます。
長州で奇兵隊が組織される6年前の事でした。
久坂が方谷の調練を見た年、幕府はアメリカと日米通商条約締結。
これを契機に弱体を露呈した幕府は、安政の大獄と呼ばれる弾圧政策や、孝明天皇の和宮降嫁による公武合体など威信回復に躍起になります。
しかし、これ以前に方谷は幕府に未来はないと断言していました。

「幕府を衣に例えるならば、家康公が材料を整え、秀忠公が織り上げ、家光公が初めて着用した。
 以後、歴代将軍が着用してきた。
 吉宗公が一度洗濯し、楽爺公(松平定信)が二度目の洗濯をした。
 しかし、もう汚れとほころびがひどく、新調しないとように耐えない状態になっている。」

方谷は、度々藩主・勝静に老中辞任を求めます。
先行きが不安な幕府よりも松山藩に目を向けてほしいという思いからでした。
しかし、勝静の意志は固く・・・1865年風雲急を告げる情勢の中・・・

「衰退する幕府を支えるには、微力であることは承知している。
 しかし、幕臣としてこれを座視するわけにはいかない・・・
 むしろ、徳川と共に倒れる道を選ぶのみである。」by勝静

悲壮な決意を語った3年後・・・京都郊外鳥羽伏見で戊辰戦争が勃発・・・ついに幕末動乱の火ぶたが切って落とされました。
この戦いによって、方谷は命を懸けた選択をすることとなります。

鳥羽伏見の敗戦後、徳川慶喜は夜の闇に紛れて大坂城から遁走!!
一路海上を江戸へと向かいます。
方谷の主君・板倉勝静も、老中としてこれに同行。
敗走から時を置かず、1868年1月11日、新政府から岡山藩に松山藩討伐の朝命が下ります。
朝敵となった松山藩・・・天空の城は、緊張に包まれます。
松山藩の藩主たちの資料が残されています。
これによると、旧幕府軍敗戦の知らせを受けて、松山藩はすぐさま戦闘態勢に入ります。
市中から老人や子供、女性を非難させ臨戦態勢に・・・!!
藩主不在の松山藩では、重臣たちによって、新政府への対応が協議されます。
徹底抗戦か教順か・・・議論は沸騰し、そして膠着します。

その間にも、1月14日新政府軍は松山城南12キロに迫ってきました。
遂に方谷は選択を迫られます。

農兵隊の武力を持って戦に出るのか??
藩主も徳川側についているから覚悟の一戦にするのが忠義ではないか??
朝敵の汚名を着せられたまま降伏では、大義が立たない!!
しかし・・・尽きない議論に方谷が終止符を打ちます。

藩士や領民を慈しみ育てる撫育こそ、我が天命である・・・
民あっての国であることを忘れる勿れ!!
方谷は領民の生活を思い、抗戦を訴える藩士たちを説き伏せます。
早速松山藩重臣が、新政府軍の陣へ派遣され、用意されていた謝罪書の文案を受け取ります。
方谷はその文面の四文字・・・「大逆無道」に激しく憤ります。
板倉勝静は、尊王を貫いていました。
それを大逆無道と言われることに対して許せなかったのです。
方谷は、遺書を認め、命を懸けた抗議に出ました。

「甘んじて死に就き 喜んで節を全う候のみに御座候」

方谷の決意を受け、松山藩重臣も死を覚悟して交渉に臨みます。
その結果・・・「大逆無道」の4文字は、「軽挙暴動」に書き換えられました。
その知らせを受けた方谷は、万感に胸を詰まらせました。
1868年1月18日、方谷の究極の選択によって、天空の城・・・備中松山城は戦火を逃れ無血開城されたのでした。

侍であれば死んだかもしれないけれど、農民であったからこそ生きてこその大切さ・・・。
侍として死ぬことよりも、生きるという選択は方谷にとって自然なことでした。
1868年8月、新政府軍が会津若松に侵攻・・・ここに至って朝敵とされた板倉勝静の行方は知れず・・・
方谷は躍起になって探します。
勝静は、戊辰戦争最後の激戦地・箱館に渡っていました。
家臣たちの必死の捜索でわかると、勝静の身柄確保に動きます。
1869年5月、付き合いのあったプロシア商船の船長に大金を掴ませ、新政府軍が迫る箱館勝静を脱出させます。
藩士たちは勝静に、朝廷への謝罪を説得します。
それは、備中松山藩復興のための絶対条件でした。
説得を受け入れ、謝罪し、自ら謹慎する勝静。
その4か月後・・・方谷たちの努力が報われ、松山藩の復興が許されます。
この頃、方谷の手腕を知る新政府の重鎮・岩倉具視や木戸孝允は、方谷に政府への出資を執拗に求めます。
しかし、方谷がその申し出を受け入れることはありませんでした。
方谷は、松山城無血開城後、生まれ故郷に近い長瀬で塾を開いていました。
若者のためにその建物は六棟にまで増築されていました。
松山城下からおよそ15キロ・・・そこは昭和3年に全通した伯備線の駅となり、全国でも珍しい人名の駅として、方谷の名をとどめています。

方谷駅から北へ20キロ・・・新政府からの出仕要請を嫌ったのか、方谷は山里・小阪部に塾を移しました。
そこは、母の故郷でした。
方谷が母方の祖父母を祀るために建てた庵が残っています。
68歳になった方谷は、祖先を弔いながら、瞑想にふけっていたといいます。
奇跡の藩政改革を実行し、波乱の幕末を生きた方谷は、明治10年1877年6月26日、小阪部で静かに息を引き取りました。
73年に及ぶ選択に洗濯の人生でした。
亡骸は、故郷の山田家の墓地に・・・多くの人に見守られながら埋葬されました。
その墓石に刻まれた方谷山田先生の文字は、旧備中松山藩藩主・板倉勝静が筆を執りました。

幕末維新の動乱の中、山田方谷が命を懸けて守り抜いた山間のささやかな暮らし・・・
かつて方谷が学び教鞭をとった藩校の跡地は幼稚園として活用されています。
未来を託す若者へ、健やかなれと祈りを込めて方谷が自ら植えた松の木が、今も子供たちを見守っています。


↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

運命をひらく山田方谷の言葉50 (活学新書)

新品価格
¥1,296から
(2018/4/15 22:16時点)

藩の借金200億円を返済し、200億円貯金した男、山田方谷

新品価格
¥1,836から
(2018/4/15 22:17時点)

大河ドラマ 新選組! 完全版 第壱集 DVD-BOX 全7枚セット

価格:19,440円
(2018/3/17 16:44時点)
感想(5件)



今から150年ほど前の文久3年2月・・・。
幕末の風雲急を告げる京都に、江戸から浪士たちの大集団がやってきました。
勤王の志士たちが恐れた戦闘集団・・・後の新選組です。
その中心人物は・・・局長・近藤勇、鬼の副長・土方歳三。
旧幕府軍が戊辰戦争で惨敗を重ねる中、彼らは武士として幕府に忠義を貫き戦い続けました。
彼らはなぜ、最期まで戦う道を選んだのでしょうか?

尊王攘夷運動の高まりとともに、不穏な空気が立ち込める京都・・・
その京都で警護に当たっていただんだら模様の羽織姿の集団が、彼らはもともと14代将軍家茂が上洛するにあたっての護衛役として幕府にお金で雇われ江戸からやってきた浪士たちでした。
その後も京都に残り、治安維持の名のもとに、幕府に刃向かう過激な尊王攘夷の志士たちを次々と粛正していきます。
そんな新選組の名を一躍世に知らしめたのが”池田屋事件”です。
長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちが、御所に火を放ち、時の孝明天皇を長州に連れて行こうと計画!!
その情報を新選組が入手します。
元治元年6月5日・・・京都三条木屋町・・・池田屋に潜んでいることを突き止めると、近藤勇、沖田総司らわずか4人で踏み込みます。
応援も駆けつけ2時間の戦闘の末、7人を殺害、4人を捕縛しました。
新選組は、彼らの配下である京都守護職&会津藩主である松平容保から絶大な信頼を得ていました。
200人を超える大組織へと成長していきます。
しかし、この時新選組は、京都守護職会津藩御預・・・あくまでも浪士の集団でした。
それでも近藤や土方は、粉骨砕身、幕府に尽くしていくのです。
どうして幕府への忠誠心が強かったのでしょうか?

それは・・・武蔵国多摩にありました。
天保5年、多摩・・・上石原村の農家の三男として生まれた近藤勇は、15歳・・・若くして天然理心流に入門。
やがて剣の腕を認められ、天然理心流の宗家・近藤家の養子となり跡を継ぎます。
甲州街道の宿場町日野・・・ここにある剣術道場に、出稽古によく通っていました。
そしてそこで、運命の出会いを果たすのです。
同じ多摩の農家の出である土方歳三です。
二人は・・・「いつか幕臣となって、幕府のために働きたい」と厚く語り合ったといいます。
幕府の直轄地だった多摩は、年貢の優遇など多大な恩恵を得ていました。
戦があった時には、兵士として参戦する”八王子千人同心”という農民たちも多く、幕府への忠誠心が強い土地柄でした。
そんな土地で育った二人が、我等こそが真の”幕府侍”であると思うことは、ごく自然なことでした。

彼等が京都に来て4年経った慶応3年6月・・・
近藤のもとに嬉しい知らせが舞い込みます。
それまでの功績が認められ、新選組隊士全員が幕臣に取り立てらることになったのです。
二人の夢がかなった瞬間でした。

しかし、その4か月後・・・第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上してしまいました。
慶応3年10月14日大政奉還、12月9日王政復古の大号令・・・。
およそ260年続いた徳川幕府が終わりを告げるのです。
そんな中、徳川慶喜は、自身の内大臣の辞退・所領の返上を命じる新政府の処分に反発する暴発をおさえるために京都から大坂城へ・・・それに伴い、新選組も京都を離れ、伏見に・・・
新選組は、いつでも幕府のために戦う覚悟を決めていました。

慶応4年1月3日・・・鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりです。
京都伏見に近い鳥羽街道で、新政府軍と旧幕府軍が激突!!
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍はおよそ5000!!
これに対し、旧幕府軍は15,000!!
数の上では旧幕府軍が圧倒的でした。
新選組は、旧幕府軍の司令部があった伏見奉行所に陣取り、薩摩軍の本陣があった御香宮神社を急襲、痛手を与えます。
しかし、その後、新選組ら旧幕府軍は苦戦を余儀なくされます。
原因は・・・鳥羽伏見の戦いで指揮を執っていたのは、局長の近藤勇ではなく副長の土方歳三でした。
半月ほど前、近藤は仲間割れした新選組隊士に右肩を狙撃され、大坂城で治療を受けていました。
この近藤の不在が、新選組が苦戦した要因でした。

戦略に長けた近藤が居なかったことで、隊士たちは戦場で臨機応変に動くことができませんでした。
新選組ら旧幕府軍は追いつめられます。
薩摩軍のはなった大砲が、伏見奉行所の火薬庫に直撃!!
大爆発を起こしたのです。
新選組ら旧幕府軍は、奉行所からあえなく撤退・・・
1月5日、淀千両松まで撤退・・・そこで敵を迎え討ちます。
新選組は得意の剣術によって善戦しますが、大砲や小銃を中心とした新政府軍の攻撃が始まると形勢は逆転・・・新選組隊士の戦死者は10人、負傷者は25人に上りました。
新選組を含む旧幕府軍は、大坂からの援軍を待つため、老中・稲葉正邦の居城である淀城に・・・体勢を立て直そうと考えます。
四方を川や池に囲まれた堅固な淀城を拠点と戦い、巻き返しを図ろうとしたのですが・・・。
新政府軍の圧力によって、稲葉家の家老が中立を決意!!
土方らは入城を拒否されます。
味方のまさかの裏切り・・・もはや、なすすべはありませんでした。

朝廷から錦の御旗を与えられ、官軍となった新政府軍の勢いが増すと、旧幕府軍の兵士たちは恐れをなし、次々と逃げ出したのです。
そんな中、大坂城で治療中だった近藤勇が動きます。
15代将軍だった慶喜に・・・
「まだ策はあります。
 このままでは東照大権現に申し訳が立ちません。」
東照大権現として崇められていた家康の名をだし、慶喜に徹底抗戦を求めますが。
1月6日午後9時・・・慶喜は夜陰に乗じて大坂城を脱出、幕府の軍艦で江戸に逃げ帰ってしまいました。
旧幕府軍の敗戦は決定的となりました。
新選組も江戸へ撤退・・・この時、隊士たちは90人になっていたといいます。
鳥羽伏見の戦いの敗戦を受け、江戸城内は、新政府に対する教順派と抗戦派に分裂!!
教順派の代表は、幕府の重役であった勝海舟でした。
勝は、新政府軍に恭順することで、徳川家を存続させようと考えていました。
一方新選組は抗戦派・・・戦うことにこだわりました。

鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸総攻撃に向けて進軍を開始します。
そんな中、新選組局長・近藤勇は幕府の直轄地だった甲州の治安維持を命じられ甲陽鎮撫隊を結成。
しかし、近藤と土方は、新政府軍に恭順しなかったことから朝敵と見なされ、命を狙われていました。
近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名を変えて素性を隠すことに・・・。

また、土方は刀や槍で戦う時代は終わったと痛感、軍備を西洋化し、自らも断髪、洋服に身を包みます。
慶応4年3月1日、150人の兵を率いて甲府へ・・・
しかし、先に甲府についた新政府軍に、甲府城にいた幕臣たちが降伏したために城を奪われてしまいました。
これを聞き、甲陽鎮撫隊から脱走兵が続出し、兵は120人ほどに減ってしまいました。
それでも近藤たちは、勝沼宿まで兵を進めます。
およそ2,000人の新政府軍と戦うために!!

3月6日正午ごろ・・・両軍が激突!!
しかし、僅か2時間ほどで鎮撫隊は壊滅状態に・・・。
それでも近藤と土方は戦うことを諦めませんでした。
兵を集めながらも幕府の直轄地・流山に移動!!
この地の豪商の屋敷に陣を構え、徹底抗戦の構えを見せますが・・・予想をしなかったことが起こりました。
4月3日、新政府軍に包囲されてしまいました。
この時ほとんどの兵士たちが軍事教練に出ていたので本陣には数人しか残っていませんでした。

「最早、切腹するしかあるまい・・・」by近藤
武士として散ろうとする近藤に対し・・・
「いけません、このままでは犬死です。
 ここは運を天に任せ、出頭すべきです。
 生きていれば、きっと反撃の機会はあります!!」by土方

近藤は、土方の言葉に出頭を決意。
この時、土方が近藤に出頭を勧めたのは、大久保大和という偽名を使っていたので、新政府軍に近藤であるとバレないのでは?と思っていました。
偽名とバレたときの秘策として・・・
新政府軍と強いパイプのある勝海舟に助命嘆願の手紙を書いてもらうというものでした。
4月4日の勝の日記には・・・
「土方歳三来る 
 流山顛末を云う」
土方が勝に面会したのは事実ですが、勝が助命嘆願したという記録は残っていません。
勝海舟は教順派なので、近藤の嘆願を書くことはあり得なかったでしょう・・・
土方の目論見はハズレ・・・さらに、新政府軍の中に、元新選組隊士がいたために近藤の素性がバレてしまいました。
4月25日・・・近藤勇は朝廷に背く逆賊として、切腹を許されず斬首・・・まだ35歳でした。
切腹を許されなかったことは無念であったことでしょう。

土方はこの後、僅か残り少なくなった新選組の隊士を率いて、下総の旧幕府軍に合流・・・
そこで、旧幕府軍総督・大鳥圭介と出会います。
土方は、鳥羽伏見の戦いの実戦経験が評価され、参謀として迎えられました。
1,000人の先鋒隊を率いて、宇都宮城を一日で落とします。
新政府軍は震え上がったといいます。

近藤勇亡き後、新選組の土方歳三は、米沢、仙台と東北各地を移動していきます。
共に新政府軍と戦ってくれるよう交渉するためでした。
しかし・・・米沢藩も、仙台藩も新政府軍の遺体する降伏を決めていたのです。
東北諸藩に味方になることを断られた土方でしたが、仙台で隊士を募り、新選組は150人に増えていました。
そして・・・ここで一人の男と出会います。
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。
榎本は新政府軍から開陽丸をはじめ8隻の軍艦の引き渡しを求められていました。
しかし、榎本はこれを拒否して仙台へ向かいます。
ところが仙台藩が新政府軍に降伏してしまったために、軍艦を率いて蝦夷へ向かうことを決めます。
幕府が倒れたことで生きる道を失った幕臣たちと共に、蝦夷で蝦夷共和国を建国しようと考えていたのです。
土方は榎本と蝦夷へ行くことにします。

明治元年10月20日・・・土方たちは、蝦夷の鷲ノ木浜に到着。
その後、二手に分かれて箱館の五稜郭に向かいました。
五稜郭は、幕府が箱館開港に向けて元治元年に完成させた西洋式の城郭・・・上から見ると星形が特徴です。
土方たちは、新政府の占領下にあった五稜郭を瞬く間に占拠。
中にあった箱館奉行所に陣を張ります。
さらに、蝦夷を支配していた松前藩の居城・松前城も1日で落としてしまいました。
蝦夷でもなお戦い続ける土方・・・一矢報いることが近藤勇の精神を継承する最後の誠である・・・。
勝つ、負けるという打算を超えたところに土方の境地があったのです。

衝撃の知らせが・・・最新鋭の軍艦・開陽丸が暴風雨により江差港で座礁・・・。
一隻で新政府軍の軍艦の全てを上回る能力を持つといわれていた開陽丸を失うことは大きな痛手でした。
一方、新政府軍の船は蝦夷へ・・・。
旧幕府軍は明治元年12月15日、蝦夷の平定を宣言し、「蝦夷共和国」樹立。
榎本武揚が共和国の総裁に選ばれ、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並でした。
新政府軍は旧幕府軍を一掃しようと蝦夷へ軍隊を向わせます。
明治2年4月箱館戦争開戦!!
土方は新政府軍を迎え討つために江差方面に・・・
その途中の二股口が主戦場となります。
二股口は急な崖を擁する山に囲まれ、谷底を深い川が流れる天然の要害・・・。
土方は周囲の山に塹壕を掘り、新政府軍を待ちます。
土方郡300に対し迫る新政府軍600!!
劣勢の中、戦いが始まりました。
新政府軍の猛攻にもひるむことなく、果敢に抗戦する土方!!
16時間に及ぶ戦いの中で、3万5000発の弾丸を打ち込み、見事新政府軍を退却させます。
激しい銃撃戦となった箱館戦争を含む戊辰戦争の一連の戦いは、最新鋭の銃を使った近代的な戦争の幕開けともいえました。
ミニエー銃は、フランスで開発された先込式のライフルで、銃身の内側にライフリングといわれる溝が刻まれていました。弾が自転しやすくなってより真っすぐに遠くまで飛ぶ仕組みになっていました。
有効射程距離も旧式銃(火縄銃・げべーる銃)の3倍の270㍍・・・箱館戦争ではこのような高性能な武器を使った激しい戦いとなったのです。
そして、土方はその銃撃戦で命を落とすことになります。

明治2年4月13日、旧幕府軍と新政府軍が箱館近郊二股口で激突!!
旧幕府軍を率いる土方歳三の活躍によって、一旦新政府軍は撤退しますが・・・その10日後、猛攻を仕掛けてきました。
この時も、12時間の激戦の末、土方が二股口を死守・・・劣勢にあった旧幕府軍で一人気を吐き武士の意地を見せます。
そんな中、木古内方面で戦っていた大鳥圭介の軍が総崩れに・・・そのまま新政府軍がなだれ込んでくれば土方軍は挟み撃ちとなって退路を断たれてしまう・・・。
土方は止む無く函館まで退却・・・
5月11日午前3時新政府軍による箱館総攻撃・・・!!
僅か4時間ほどで箱館の街の大部分が制圧されてしまいました。
それでもなお、瀬新選組の隊士たちは箱館湾に面した弁天台場で籠城し抵抗します。
そんな仲間たちを救うために、五稜郭から向かう土方・・・。

土方の護衛役で常に行動を共にしていた立川主税によると・・・。
”土方、兵を率いて一本木より進撃す”
そして、一本木関門から異国橋まで2キロ近く敵を追い払います。
その後、一本木関門に戻ってきた土方は、味方の兵に向かって叫びます。
「前進せよ!!この策から退く者は・・・容赦なく斬る!!」
兵士たちは誰一人退くことなく果敢に立ち向かっていきます。
ところが・・・5月11日午前10時ごろ・・・
一発の銃弾が馬上にいた土方を貫きます。
立川が駆けつけたとき、すでに土方は息絶えていました。
土方は狙撃されたとも、流れ弾が当たったともいわれています。
立川の日記によると・・・”敵丸腰間を貫き遂に戦死”とあります。
 
一発の銃弾によって命を落とした新選組副長・土方歳三・・・。
土方は誰に撃たれたのでしょうか?
松前藩は、もともと新選組を配下においていた会津藩と交流がありました。
幕府側の藩でしたが、藩内での権力闘争で新政府へ恭順するようになったのです。
箱館戦争に松前藩は新政府軍として参加していました。
そして一本木に・・・。
そしてその八番隊の中に、土方を撃った者がいるのではないか??
松前藩氏・米田幸治??
米田幸治は天保14年うまれの松前藩士で若いころから銃の名士とされ、箱館戦争時は八番隊の小隊司令士となっていました。
そんな米田が土方を撃ったという資料が残されています。
米田の孫が書いた本によると・・・。
”” 御祖父米田幸治中尉が箱館戦争において脱走幕軍豪将土方歳三を討ち取った””
米田は土方を撃ったことを家族にだけが語っていたようです。

「部下が銃を撃てなかったので、その銃を取り上げ彼の方に乗せ、太刀打ちの構えで引き金を引き、やってくる武士を撃った。
 すると馬上の武士が落ちた。
 銃撃がやんだので、武士の死体を見に行き、陣羽織を裏返すと土方と書いてあった。」

米田の証言が事実ならば、幕府のために忠義を尽くして来た土方は、かつては幕府側で味方だった者の銃弾に散ったということなのです。
土方の死から7日後・・・明治2年5月18日、箱館戦争終結。
戊辰戦争は終わりを告げます。
最期まで忠義を貫き、戦い続けた新選組・・・局長近藤勇と副長土方歳三・・・
幕府の直轄地の農民に育ち、同じ夢を見て切磋琢磨し、幕臣にまでとりたてられました。
その恩を忘れず、最期まで武士としての意地を貫き戦い続けました。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

500円クーポン発行中!大河ドラマ 新選組!! 土方歳三最期の一日

価格:4,212円
(2018/3/17 16:44時点)
感想(0件)

新選組そのはじまりと終わり 幕府に忠義を尽くした男たち (サンエイムック 時空旅人ベストシリーズ)

価格:859円
(2018/3/17 16:44時点)
感想(0件)

誰も知らなかった日本史 切紙神示と共に甦る孝明天皇の遺勅(予言) [ 出口恒 ]

価格:2,160円
(2018/1/24 17:08時点)
感想(0件)



東京目白にある学習院大学・・・敷地内には幼稚園・中等科・高等科が併設され、皇族の子息が通われる学校として知られています。
起源は江戸時代の京都・・・1847年に御所の日御門前に学問所を新設、二年後に時の天皇が学習院と名付けました。
その名付け親が孝明天皇です。
激動の幕末に即位した江戸時代最後の天皇です。

①前代未聞
弘化3年孝明天皇は16歳で天皇の位を受け継ぎます。
5月浦賀にアメリカ艦隊が来航し、通商条約締結を要求してきました。
6月長崎にフランス艦隊が来航。
幕府は鎖国を理由に彼らの要求を拒み、退去させました。
しかし・・・その2か月後、孝明天皇が思わぬ行動に出ます。
時の関白を通じて・・・幕府に勅書を下します。

「近年、異国船が時々渡来するという噂を耳にする
 幕府は異国を侮らず畏れず海防を強化し、日本の恥とならないよう処置し、朕を安心させるようにせよ。」by孝明天皇

その孝明天皇の勅書に江戸幕府12代将軍家慶をはじめとする幕府の人間は驚きます。
幕府の政策に天皇が口を出すなど前代未聞のことでした。
当時の天皇と幕府の関係は・・・
天皇が幕府に政治を任せる・・・ということでしたが、圧倒的に幕府に力があり、天皇は抑えられていました。
なので、天皇・朝廷が幕政に口出しすることなどなかったのです。
その理由の一つが・・・天皇・公家たちは幕府から経済的な支援を受けていたからです。
天皇の所領は、禁裏御料と言われ3万石、朝廷に仕えていた公家たちには合わせて7万石ほど・・・。
幕府は朝廷に対し、10万石も献上していたのです。
幕府からの支援を得、孝明天皇はどんな生活をしていたのでしょうか?

朝起きると、糠を入れた絹袋を石鹸代わりに洗顔。
1日か2日おきにお歯黒。
身支度が終わると、神仏、先祖の御陵の方向に向かって拝みます。
午前中は、手習い、学問、和歌を詠んで過ごします。
昼食・・・一日の食事の中で、最も豪勢で、毎日30センチもある”鯛の尾頭付き”を食べていました。
午後も、手習い、学問、和歌で過ごします。
6時ごろから夕食・・・宮廷内で酒は御献(おっこん)とよばれ、孝明天皇はかなり好きだったようで、夜10時ごろまで飲んでいたので、就寝は12時頃でした。

対して、当時の将軍は、梅干しや煮豆などの一汁二菜で、夕食でもそれに焼き魚が着く程度でした。
幕府の支援を受けながら、優雅な暮らしの孝明天皇でしたが、開国を迫る欧米諸国をひどく恐れていました。
1853年、アメリカからペリーが来航!!
日本は激動の時を迎えます。
1854年、日米和親条約を締結。
箱館と下田の二港を開港し、イギリス・ロシアなどとも条約を結びました。
この時、孝明天皇は、朝廷のある関西地方の警備体制の強化を要請しながらも、条約締結については承認します。
和親条約は、友好をうたったもので、貿易協定などを結ぶものではありませんでした。
京都と離れた箱館と下田の開港だったので、孝明天皇としても恐れるほどではないと思っていました。
しかし、事態は急変・・・
1856年アメリカ在日総領事ハリスが、下田に着任し・・・
①通商条約の締結を要求
②江戸城で直接将軍に謁見し、大統領の親書を渡すと要求
幕府はハリスの要求を受け入れます。
この時、幕府はアメリカと戦う気はありませんでした。
中国・清が、イギリスとのアヘン戦争に敗れ、不平等な条約の締結と、香港の割譲させられたことを知っていたからです。

欧米諸国と戦えば・・・清の二の舞になってしまう・・・!!
開国賛成派と鎖国維持派に諸大名たちは真っ二つ!!
そこで、孝明天皇の勅許をもらうために・・・京都に堀田正睦が向かいました。
しかし!!

幕府が通商条約締結に向かっていると事前情報を手に入れていた朝廷では、その対応が協議されました。
そこで、孝明天皇は自らの意見を表明します。

「アメリカの願い通りになってしまっては、天下の一大事の上、朕の代よりそのようなことになってしまったのでは、後々まで恥となる。」by孝明天皇

だから・・・条約締結は承認できない・・・!!

幕府の提案を承認しないなど、前代未聞のことでした。
幕府と上手くやっていきたい公家たちは、焦ります。
そのまま幕府に伝えれば角が立つ・・・
迷った挙句に、参内した老中・堀田正睦に告げます。
「徳川御三家以下、諸大名の本心を今一度聴取し、その報告を聞いたうえで、改めて帝が判断を下さされる。」
開国を反対する大名を納得させるために、京都まで来たというのに・・・もう一度彼らの意見を聞けというのか・・・??
堀田はこれを拒みます。
「アメリカと戦っても勝ち目はありません。
 世界の情勢を見ても、通商条約締結は、もはや避けられないことなのです。」by堀田
理路整然と涙ながらに説明する堀田・・・。
しかし、孝明天皇の心は変わりませんでした。
最後に堀田は・・・
「アメリカがしびれを切らし切迫した場合は、戦か条約締結か、幕府が判断してもよろしいのでしょうか?」by堀田
「アメリカが武力で訴えるならば、戦も致し方ない!!」by孝明天皇

孝明天皇が望んでいたのは、”鎖国体制の維持”でした。
ハリスの・・・アメリカ人の強引なやり方が、孝明天皇の”外国人に対する嫌悪感”につながったのです。
攘夷に繋がっていくのです。
頑なな天皇を前に、なすすべもなくなった堀田は、勅許を得られないまま江戸へと帰っていきました。

幕府の提案をはねのけた孝明天皇ですが、幕府は強硬手段に!!
指揮を執ったのは、大老・井伊直弼でした。
井伊は、諸藩の意見を聞くことも、孝明天皇の意見を聞くこともなく・・・
1858年幕府の独断で日米修好通商条約に調印してしまいました。
これが、孝明天皇の逆鱗に触れたのです。

天皇はすぐに、幕府に御趣意書を送り付け、猛烈に抗議します。
「このたびの幕府の措置は、厳重に申せば、勅書を無視したものであり、不信感を抱かせるものである。」by孝明天皇
そこで、水戸藩に勅書を下し、他の藩にも伝えるように命じました。
その中で天皇は・・・
”独断で日米修好通商条約を締結した幕府に経緯の説明を求めること”
”攘夷を推進すべく、幕府を改革していくこと”
を強く求めました。
幕府は、天皇と諸大名が直接やり取りをすることを禁じていたので、天皇の越権行為でしたが・・・
それだけ、孝明天皇が幕府に怒っていたともいえるのです。
しかし、幕府の大老・井伊直弼は、攘夷にこだわる孝明天皇を逆なでするかのように・・・尊王攘夷派を大量に処罰。
吉田松陰、橋本佐内らが死罪・・・安政の大獄です。
これを聞いた天皇は激怒!!
あまりに怒ったので、関白の頭を扇子で執拗にたたいたと言われています。
どうして孝明天皇はそこまで攘夷にこだわったのでしょうか?
200年以上鎖国体制が続いていたので、気持ちの切り替えがむつかしかった・・・現状維持が大事なことだったのです。
歴代の天皇が守ってきたものを、自分の代でかえることに抵抗を感じていました。
将軍=征夷大将軍は、”夷”・・・つまり、外国人を制圧するのが職務でした。
アメリカのいうことを聞いて、言うがままになることは、職務を果たしていないということになるのでは・・・??

孝明天皇の勅許を得ずに日米修好通商条約に調印し、天皇を支持した尊王攘夷派を処罰した井伊直弼・・・
当然ながら、多くの敵を生みました。
1860年(安政7年)3月3日・・・阿桜田門外の変で暗殺されてしまいます。
主犯は、尊王攘夷派の水戸派の浪士たちでした。
これを機に、諸大名も幕府の強引なやり方に反発します。
幕府の権威は急速に失墜していきます。
そしてこの後、孝明天皇は図らずも維新の渦に巻き込まれていくのです。

②妹・和宮
公武合体を画策する幕府・・・
その象徴として・・・14代将軍徳川家茂と孝明天皇の妹・和宮の婚姻でした。
皇族が・・・武家に嫁ぐなど、前代未聞のことでした。

この時、孝明天皇自身も公武合体を望んでいました。
しかし、和宮にはこの時すでに、有栖川宮熾仁親王という婚約者がいました。
そして、和宮自身も、江戸で暮らすことを嫌がっていました。
宮中で育った和宮には、外国人がたくさんいる江戸は、恐ろしいものでした。
妹の幸せを願った孝明天皇はこれを却下・・・。
しかし幕府は食い下がります。
信頼する岩倉具視に孝明天皇が相談すると・・・

「幕府が攘夷の実行を約束するならば、降嫁をお許しになればよろしいのでは?」by岩倉具視

そこで、その条件を幕府に突き付けると・・・

「十年以内に鎖国体制に戻します。」by幕府

孝明天皇の望むように攘夷を決行すると約束してきました。
結婚に頑なな和宮・・・生まれたばかりの孝明天皇の娘・寿万宮を嫁がせようとすると、それを知った和宮は、自分が行かなければ誰かが犠牲になる・・・と、決めたのでした。

その代わりに和宮は、大奥に入っても御所の流儀を通すこと、御所の女官を御側付きにすることなどを条件に出します。
孝明天皇は、和宮の要求を守るようにと、江戸へと送りました。
和宮を降嫁させたことで、幕府に対し”貸し”を作ることとなりました。
そして、幕府は、降嫁の交換条件として出した”攘夷”を、いつ決行するのか・・・??
幕府に対し、優位に立った孝明天皇は、人事まで介入してきました。
「老中を決める際、事前に天皇に伺いを立てること」を幕府に認めさせました。
攘夷に反対する人物を、幕府の首脳陣に加えさせないためでした。

和宮は、家茂のやさしさに仲睦まじい・・・これで公武合体も上手くいく・・・??

③尊王攘夷派

孝明天皇のもとで政治を行い、開国を迫る外国を打ち払おう・・・という尊王攘夷運動が出てきました。
当初は容認していた孝明天皇ですが・・・
天皇がいる京都に続々集まってきた尊攘攘夷派の志士!!
その中心は、桂小五郎や久坂玄瑞のいた長州藩でした。
朝廷内の公家たちに近づき、その多くを味方につけていきます。
そんな中・・・1853(文久3年)年将軍・徳川家茂が上洛。
将軍の上洛は、徳川家光以来、およそ230年ぶりのことでした。
孝明天皇が、将軍・家茂を呼びつける・・・攘夷をいつするのか??
幕府は、文久3年5月10日に攘夷を決行すると約束してしまいました。
孝明天皇が、将軍家茂に約束させた5月10日・・・
攘夷を掲げる長州藩が動き出しました。
下関沖を航行中のアメリカの商船をいきなり砲撃!!
ついに、攘夷を決行しました。
さらに長州藩は、天皇の行幸を勝手に計画・・・奈良にある神武天皇陵と春日大社を参拝することを決めました。
孝明天皇の指揮で、攘夷を行うべく軍議を開くというのです。
日に日に過激さを増す攘夷派・・・
ところが、文久3年8月18日、京都・御所にて・・・
クーデターが勃発!!
長州藩とそれに味方した公家らが追放されてしまいました。
8月18日の政変です。
クーデターを実行したのは、”公武合体派”の会津藩と薩摩藩でした。
そして、彼らに命じたのは・・・なんと孝明天皇でした。
どうして、味方である尊王攘夷派を追放したのでしょうか。
当初、尊王攘夷派は孝明天皇の意見を代替する存在でしたが、いつしか孝明天皇の意向を無視して事を進めるようになってしまったのです。
孝明天皇が望んだのは、幕府による緩やかな攘夷でした。
しかし、尊王攘夷派はどんどん過激になっていったのです。
尊王攘夷派の中には、幕府を倒し、王政復古を目論む者もいました。
孝明天皇自身は、幕府と共に、国を動かす公武合体を望んでいたのです。
そして、尊王攘夷派を追放したが為に、孝明天皇自身の運命が変わっていくのです。

過激な尊王攘夷派を追放したのち、孝明天皇は再び参内した14代将軍徳川家茂に対し、こう表明します。
「無謀な征夷は実に朕が好む所に非ず」by孝明天皇
なんと、急進的な攘夷は望まないと言ったのです。
幕府に対し、あれほど攘夷せよと言っていたのに・・・軟化させたことに世間は驚きました。
攘夷の態度を軟化させたことで、世間は孝明天皇に対し、不信感を抱くようになります。
天皇の絶対的な権威に対する不信を招いたのです。
当時の世論の大半は、攘夷派でした。

そんな中、孝明天皇は、公武合体を強固にするために、幕府との関係を深めていきます。
まだ十代だった家茂には・・・

「互いに親子のような情愛を持って接することが、天下の安定につながるであろう。」by孝明天皇

そう諭し、幕府から京都に派遣されていた人物と信頼関係を深めていきます。
一人は一橋慶喜・・・後の15代将軍です。
この時、禁裏御守衛総督として、京都に赴任していました。
もう一人は、京都守護職・会津藩主・松平容保です。
そして、その弟で京都所司代・桑名藩主だった松平定敬です。
中でも、孝明天皇が最も信頼していたのが、松平容保でした。
忠義を尽くし、天皇の身辺警護に当たっていました。
配下の新選組を使って、追放後も復権を狙う尊王攘夷派の志士たちを取り締まりました。
そんな容保に、孝明天皇は和歌を送っています。
内容は・・・
「武士と心合わせれば、どんな困難なことにも打ち勝つことができ、そのことは代々伝えられていくことだろう。」となっています。

容保を信頼し、幕府と運命を共にするという孝明天皇の決意の表れでした。
しかし・・・次々と事件が起こります。
1864年・・・禁門の変(蛤御門の変)
このことがきっかけで、京都の町の大半が焼失しました。
さらに翌年には、兵庫沖にイギリス・アメリカ・フランス・オランダ四か国の連合艦隊が来航。
攘夷運動の中心が天皇にあると見た彼らは、孝明天皇に通商条約の勅許を下すよう要求します。
しかし、態度を軟化させても攘夷に変わりない孝明天皇はこれを退けました。
幕府が説得を試みずも応じず・・・幕府との間に緊張が走ります。
これを打破したのが、一橋慶喜でした。
孝明天皇に・・・
「欧米諸国が京都に乗り込んで、孝明天皇が命の危険に晒される事態も起こり得る」と、進言するのです。
命も危うい・・・慶喜の言葉に、初めて諸外国の怖さを味わいました。
幕府が独断で、日米修好通商条約を締結してから7年・・・その勅許を下すのです。
失意の中・・・孝明天皇を悲劇が襲います。
1866年大坂城・・・将軍・徳川家茂が、病に倒れます。
知らせを聞いた孝明天皇は御所から二人の医師を派遣しますが、その甲斐もなく将軍家茂は亡くなってしまいました。
追い打ちをかけるように、孝明天皇への批判が・・・!!

「孝明天皇の勅許と言えども、万人が納得できなければ認めることはできない」by大久保利通
「天皇は絶対的な存在ではない」by岩倉具視

そんななか、1866年孝明天皇崩御・・・36歳でした。
公武合体を共に進めた家茂と孝明天皇の相次ぐ死で、幕府の命運は尽きました。
この後、長州藩、薩摩藩が中心となって討幕へ!!
1年後・・・1867年には大政奉還。
およそ260年続いた江戸幕府は、終わりを告げるのです。

↓ランキングに参加しています。
↓応援してくれると励みになります。

にほんブログ村

戦国時代 ブログランキングへ

近世日本国民史 明治維新と江戸幕府(一) 孝明天皇崩御後の形勢【電子書籍】[ 徳富蘇峰 ]

価格:270円
(2018/1/24 17:08時点)
感想(0件)

江戸幕府崩壊 孝明天皇と「一会桑」 (講談社学術文庫) [ 家近良樹 ]

価格:993円
(2018/1/24 17:09時点)
感想(0件)

このページのトップヘ