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タグ:徳川秀忠

名君の碑―保科正之の生涯 (文春文庫)

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およそ260年続いた江戸幕府・・・徳川の世。
世界でも類を見ない長期安定政権が誕生したのはこの二人・・・
三代将軍・徳川家光と将軍を支えた会津藩主・保科正之が礎を築いたからでした。
実は、二人は異母兄弟でした。
そしてそこには兄弟の強い絆がりました。

徳川家康が関ケ原に勝利し、江戸に幕府を開いた翌年・・・
1604年二代将軍秀忠とお江の間に世継ぎ・・・竹千代・・・後の家光が生まれました。
それから7年後の1611年、江戸神田の浪人の家で幸松・・・後の保科正之が生まれました。
父は竹千代と同じ秀忠でしたが・・・どうして浪人の家で・・・??
幸松母・静は、江戸城に奉公にあがっていた奥女中でした。
美しかった静は、すぐに秀忠に見初められ、子供を身籠ります。
本来ならばめでたい事でしたが、喜べない理由が・・・
正室・お江です。
お江はとても気位が高く嫉妬深い女性で、秀忠が側室を持つことを許しませんでした。
そのため、子ができたとなると何をするかわからない・・・
実家に戻された静は、お江から恨まれないように子を堕ろします。
しかし、再び秀忠によって戻された静は、またもや身籠ってしまいました。
そんな静を家族は・・・
「上様の子を二度も堕ろしては天罰を受ける」
こうして静は、親類の浪人宅で幸松を産んだのです。
しかし、お江に気を遣って、秀忠は幸松を子として認めませんでした。
将軍の子であることを隠して育った幸松は、母・静の慕っていた武田信玄の次女・見性院に育てられることとなります。
そして、幸松7歳の時、しかるべき武家に幸松を預けようと・・・見性院はある大名に白羽の矢を立てました。
信州高遠藩藩主・保科正光です。
保科家は、もともと武田信玄の家臣で旧知の間柄。
さらに、正光の父・正直の後妻は徳川の妹で保科家は、徳川と姻戚関係にあったからと言われています。
が・・・この養子縁組の裏には秀忠が関係しているかと言われています。
つまり、幸松の教育を見性院に依頼したのは、秀忠側だったのでは・・・??
また、幸松が高遠藩に行った折には、高遠藩に5000石の加増が行われています。
おそらく幸松の養育費では・・・??と言われています。
ということで、父・秀忠の計らいで保科家の養子となり大切に育てられることとなりました。
秀忠にはこの時3人の子供がありました。
兄・竹千代、弟・国松は、母が同じお江でした。
そして静を母に持ったために将軍の子と名乗れなかった幸松・・・保科正之でした。
徳川家光と保科正之・・・この時お互いの存在を知りませんでした。

家光は、家康が長子相続を説き、20歳で3代将軍となりました。
家康が理想とした幕府を実現していく家光。
1632年秀忠が死去・・・将軍となった家光は、大名たちを江戸城に呼びつけました。
居並ぶのは、歴戦の強者たち・・・彼らを前に宣言します。
「余は、生まれながらの将軍である。
 貴殿らに対して、遠慮するものはない。
 今後皆、家臣同然として扱う。そのように心得よ。
 もし、不承知者がいるならば、国元へ帰って戦の準備をいたせ!!」by家光
家光が挑発的な態度を取ったのは・・・??
家康、秀忠は、関ケ原、大坂の陣を戦っています。
戦争を知らない世代の家光・・・下剋上の思想を断ち切るために、強気に出たのです。
そして、家光は、徳川政権を盤石なものにするために、いろいろな政策を立てていきます。
大名達の謀反を防ぐために監察官として柳生宗矩ら4人を「総目付」に任命。
大老、老中の設置・・・将軍をトップとする幕府のシステムを確立し、政治の安定を図ります。
諸制度の確立・・・
1635年武家諸法度改定・・・参勤交代を制度化。
江戸での滞在期間や交代の時期を明確に定めました。
これによって大名たちは、旅費などの費用が莫大にかかり、財力を削がれて戦を構えることができなくなり、幕府が優位に立つことになりました。
家光は、危険分子を改易、政治の安定を図ろうとします。
その改易の数は、歴代将軍最高の49家でした。
武力や厳しい刑罰で統治する武断政治を推し進めていきます。
その頃の幸松は・・・養父である保科正光の選んだ優秀な家臣たちから手厚い教育を受け、幕府に仕える心構えを徹底的に教え込まれていました。
保科正光は、将来幸松が将軍になる可能性があるかも??と考えていました。
なので、彼を育ててきた保科家の発展も期待して、幸松を教育しました。
幸松もまた、いつしか自分が将軍の子であると理解するようになりました。
1631年・・・幸松が養子となって14年・・・養父・正光が亡くなります。
家督をついだ幸松は、正之は21歳で、高遠藩2代藩主となるのです。

家光が弟・保科正之の存在を知ったのは・・・
家光が目黒に鷹狩りに行った際、家光が身分を隠して休んだ寺が・・・成就院・・・。
この成就院は、正之の母・静が参っていた寺でした。
住職が話を始めました。
「高遠藩の保科殿を知っていますかね?
 保科殿は将軍様の弟君であるのに・・・。
 それに相応しい扱いを受けていないんですよ。
 それが、不憫でしてね・・・」by住職
家光は、自分に会ったことのない弟がいて、高遠藩藩主になっていることを知ったのです。

「余に、顔も知らぬ弟・・・それは一体、どんな男なのだ・・・。」by家光

2代将軍秀忠を同じ父に持ちながら、母が違うというだけで、互いの存在を知らずにいた二人・・・
家光は、ある儀式のために江戸城にやっている正之を一目見ようとふすまの陰に潜みます。
すると・・・部屋に入ってきた正之は、末席に座ったのです。
保科正之は、3万石の小大名のために、末席だったのです。

「自分は将軍の弟だ!!という横柄な態度を見せず、謙虚に末席に控えるとは、なんと殊勝な男よ」by家光

家光は、正之を取り立てるようになります。
しかし、そこには、家光の思惑がありました。
家光は、異母兄弟と知った保科正之を高遠藩3万石から山形藩20万石の大名に。
片腕と重用するようになった正之に・・・
「忌諱を憚ること勿れ」と言ったと言います。
先輩の幕閣たちに遠慮しなくていい・・・ということでした。

更に家光は、苗字を松平に改め、葵の紋を使うことを勧めましたが、正之は
「今の自分があるのは、養父・保科正光のおかげです。」
保科家への恩義から辞退したと言われています。
感心した家光は、その信頼を厚くしていきます。
しかし、家光が正之を取り上げたもう一つの理由は・・・??
もう一人の弟・忠長の存在です。
家光にとって、同じ母・お江から生まれた弟・忠長は、兄弟というより将軍の座を争うライバルでした。
家光は生まれつき体が弱く、言葉も不自由なところがあったので、両親の愛情は聡明な忠長へ・・・。
すると家臣たちも、「次期将軍は兄君ではなく弟君が相応しい」となっていきます。
両親の愛情を受けず、将軍の器でなしと噂された家光は、12歳の時、悲しみのあまり自殺しようとしたともいわれています。
父・秀忠の愛情を受けてこなかった家光にとって、同じ思いをしてきた正之に共感を覚えていたのです。
一方、弟の忠長は・・・将軍の弟として駿府藩55万石の大大名となりました。
それでも相応しくないと思っていたようで・・・加増や大坂城城主を望んだりしていました。
謙虚で信頼できる身内・正之と思っていたようです。 
そして、忠長をけん制するという意味もありました。
将軍への夢を忘れられず、家光に対し憎悪の念を抱いていた忠長なのです。

家光にけん制された忠長は・・・精神的に追い詰められ、家臣たちを手打ちにするなど危行が目立つようになります。
この行動に怒った家光は、領地を取り上げて幽閉し、最終的には自害に追い込んでいます。
二人の溝は、最後まで埋まらなかったのです。

正之は兄・家光をどう思っていたのでしょうか?
支えなければ!!と思っていましたが、それは弟としてではなく、自らをわきまえ、家臣としてという思いが強かったようです。

保科正之が山形藩主となった翌年・・・1637年に九州で大事件が!!
島原の乱です!!
キリスト教勢力の拡大を畏れた家光が、キリシタン改めを全国の大名に命じたことに始まる厳しい弾圧が原因でした。
この江戸幕府始まって以来の事件の鎮圧には、家光が最も信頼する正之が当たるものだと誰もが思っていました。
しかし、その大役を任されたのは松平信綱でした。
正之は、家光から領地である山形に帰るように命じられます。
家臣たちは首をかしげましたが、正之には家光の意図が分かっていました。
「西国に異変ある時は、東国に注意せよということであるな」by正之
家康の遺訓に従った事でした。
東国の反乱に備え、保科正之を監視役としたのです。
1638年・・・島原の乱の終結直後、山形の隣にあった幕府直轄地・白岩郷で百姓一揆が起こりました。
その鎮圧を任された正之は、一揆の首謀者36人をすべて処刑します。
控えめで優しい性格の正之が下した判断にしては、非常に厳しいものでした。

各地で飢饉、一揆がおきていた時代でした。
なので、無秩序状態にさせないために、厳しい処分を下したのです。
しかも、幕府の直轄地であったので、家光の遺構が低下する可能性もはらんでいました。
正之は、兄であり将軍である家光の名を汚さぬように鬼となったのです。
兄・家光は弟・正之を心から信用し、大事な役目を与え、正之はその期待に応えたのです。
島原の乱、白岩郷の一揆の鎮圧後、大きな乱や一揆は無くなり、徳川の世に繋がっていきます。
しかし、首謀者を処刑したことは、正之にとって、生涯の心の傷となりました。

「一揆が起きてからでは遅い。
 一揆が起きないような政をすることが大切なんだ。」by正之

1643年、保科正之33歳の時に、将軍家光から会津藩23万石への転封が命じられます。
これは、徳川御三家の一つ水戸藩(23万石)と肩を並べるほどの厚遇でした。
その会津藩は、大きな問題を抱えていました。
前の藩主の悪政と飢饉で、領民は疲弊・・・
余所の藩へ逃げ出す者も出ていました。
正之はすぐさま領民のための改革を行っていきます。

藩政改革①社倉制
社倉制とは、藩のお金でコメを買い上げ備蓄しておき、凶作の際には領民に貸し出すという救済制度です。
領民は2割という当時としては低い利息で借りることができました。
しかし、正之は、この利息の利益を藩の蓄えにはせずに新しく米を買って、社倉の備蓄としました。
そのため、これ以降、会津藩では飢饉で一人の餓死者も出なかったといいます。

藩政改革②人命尊重
正之の母・静は、将軍秀忠の子を、一人目は堕胎させられ、二人目も堕胎させられるところでした。
そんな経緯で生まれてきた正之は・・・
「宿った命は、生きることをやめさせるべきではない」
とし、間引きを禁止しました。
さらに、領内で行き倒れになった人がいれば、医者に連れて行くように命令を出し、その人がお金を持っていない場合は、藩が支払いました。

藩政改革③老養扶持
正之は、高齢者保護を行っています。
90歳以上全員に、一日5合分の米を毎年支給しました。
該当者が150人以上になりましたが、分け隔てなく与え、大いに喜ばれたといいます。
正之は、今の老齢年金のようなこともしていたのです。
領民の安定は政治の安定、政治の安定は領民の安定とし、勧農意識・・・主として農業を侵攻奨励し、実行しようとする考えを持っていました。
一揆の予防策として、実行したのです。
兄・家光に与えられた会津を豊かにするために邁進していく正之・・・家光が病に倒れてしまいます。
死を悟った家光は・・・??

1651年、3代将軍家光は、病に倒れます。
見まいに来た弟・保科正之に対し、愛用の萌黄色直垂と烏帽子を与え・・・
「今後、保科家は代々萌黄色の直垂を使ってよい。」
それは、正之が将軍と同格であるという意味でした。
さらに・・・この時、家光の子・家綱はまだ11歳でした。
正之に、家綱が将軍となった場合の後見人を任せるつもりだったのです。
老中などの幕閣から一段上げて・・・正之の格上げを図ったのです。
その後、家光の病状が悪化・・・
見舞いの最後は最も信頼の置く弟・保科正之でした。

起きることもままならない家光は・・・

「跡を継ぐ家綱はまだ幼い・・・汝に家綱の補佐を託す。」by家光
「身命を投げ打って御奉公いたします故、ご心配あそばされますな」by正之

これが、兄・家光との最後の別れとなりました。
保科正之は、兄との約束を守り、ほとんど会津に帰ることなく身命を投げ打って幕府の政治に専心します。
しかし・・・この時、幕府は大きな問題を抱えていました。

4代将軍家綱の後見人となった正之・・・
しかし、正之は兄が推し進めてきた武断政治を否定するかのような政策を次々と打ち立てていきます。

武断政治からの脱却①大名証人制度の廃止
大名証人制度とは、大名の妻子などを人質として江戸に住まわせることです。
これは、戦国時代からの裏切りに対する人質ということを踏襲したものでした。
しかし、幕藩体制が整った徳川政権においては無用と廃止します。

武断政治からの脱却②殉死の禁止
江戸時代初期、主君の死を受けての殉死は美徳とされていました。
実際、家光が亡くなった際にも、家臣が後を追い自害しています。
しかし、これでは有能な人材が失われてしまう!!と、殉死を禁止しました。

武断政治からの脱却③末期養子の禁 緩和
大名は、生前に跡取りを決めて幕府に届ける必要性がありました。
そして、死の間際に養子をもらって跡取りにすること・・・末期養子は禁止されていました。
つまり、跡取りのいない藩主が急死するとその藩はおとり潰しとなっていました。
正之はこの禁を緩和し、50歳以下の大名の末期養子を認めます。
藩の取り潰しを減らしたのです。
正之は、家光の行った武断政治を否定するかのように次々と廃止していきます。
しかし、そこには理由がありました。
家光時代の幕府は、徳川と対立しそうな大名を次々と改易していました。
巷には浪人が溢れ、幕府に不満を抱く者たちが急増していました。
正之は、彼らの暴発を危惧し、これ以上浪人が増えないように政策を・・・文治政治へと変換していったのです。
家光の政治を否定したわけではなく、展開していく・・・戦の途絶えた時代を生き抜くための政治でした。
大名を上手に取り込むことは、国家統合に繋がり、徳川の平和につながる。。。
徳川ファーストを考えていたのです。
1657年1月18日江戸を、未曽有の火災が襲います。
明暦の大火です。江戸の町の6割が焼き尽くされ、死者は10万人ともいわれています。
火の手は風にあおられて、将軍のいる江戸城まで・・・!!
天守をはじめ、本丸、二の丸、三の丸まで焼け落ちていきます。
この時、正之は、将軍を守るために西の丸に逃げるも、火の手はそこまで迫っていました。
すると幕閣たちは、「上様を城の外へと避難させましょう!!」と言い出しました。

「西の丸も焼けたら、本丸の焼け跡に陣屋を建てればよい!!」by正之
幕府の長たる将軍が、火事ぐらいで城を捨てては面目が立たない!!
非常時だからこそ、将軍が中心となって強い態度で対処すべきだと、といたのです。
火事発生から2日後・・・ようやく鎮火。
正之は民のために動き出しました。
まず、被災者のためのおかゆの炊き出し。2種類のおかゆを用意し、老人や弱ったものには塩分の控えたものを、それ以外の人たちには濃いおかゆを配りました。
さらに、16万両という幕府の貯蔵金を町の復興に充てようとします。
これに対し、幕閣たちは金蔵が空になると反対します。

「このような時のために、金を蓄えておるのに・・・!!
 今使わずしていつ使うのだ!!」by正之

この判断と采配によって、焦土と化した江戸の町は、復興をして行ったのです。
現場の最前線で、見事な陣頭指揮を執った正之でしたが、この時、嫡男の正頼が避難先で病に侵されなくなっていました。
しかし、正之は深い悲しみの中にあっての私情を排し、町の復興を優先させたのです。
江戸城の本丸、二の丸、三の丸は再建されましたが、天守は再建されませんでした。
保科正之が反対したからです。
戦乱の終わった今、ただ遠くを見るだけのもの。。。無用の長物をこのような時に、お金をかけてまで再建するべきではない。
保科正之は、民を思って町の再建を最優先にしました。

兄・家光に誓った徳川への忠誠を守り続ける保科正之・・・
その正之が、徳川のために最後に下した決断は・・・
保科正之が、常に大事にしていたのが、仁の心・・・すべてのものを、慈しみ思いやる心です。
そんな正之が、自らの政治理念を後世に伝えるために残したのが・・・
「会津家訓十五ヵ条」です。
兄を敬い弟を愛すべし・・・面々依怙贔屓すべからず・・・人としての心得をを解く中で、正之が最初に伝えたかったのが・・・
”大君の儀一心大切に忠勤に存ずべし
 若し二心を懐かば、即ち我が子孫に非ず
 面々決して従うべからず”
兄・家光に誓った将軍への忠誠を、子々孫々に守らせようとしたのです。
そんな正之でしたが、晩年病に伏し病状が悪化すると、幕府に隠居を申し出ます。
そして、4男正経に家督を譲ると・・・屋敷の裏で、おびただしい量の書類を焼きだしました。
それは、幕府の重要書類でした。
正之の功績が後世までに残ってしまうと、家綱時代の政策は保科正之がやったとわかってしまいます。
あくまでも政を将軍・家綱の功績にするために、書類を燃やしたのです。
正之は、最後まで、幕府と将軍のために動いた私利私欲のない男でした。

もし、二人が居なければ・・・武断政治が続いていたならば・・・江戸幕府はもっと早く終わったかもしれません。
1672年12月18日、保科正之は会津藩邸で息を引き取ります。
62歳の生涯でした。
磐梯山の望む福島県猪苗代市・・・将軍の子として生まれながら、家臣として生きる道を選んだ男は、静かに眠っています。

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1600年9月15日、日本を東西に二分した関ケ原の戦い・・・

勝者となったのは、東軍総大将・徳川家康です。
しかし、家康には大きな誤算がありました。
徳川の主力を率いる家康の三男・秀忠が決戦に間に合わないという前代未聞の大失態を犯したのです。
この時、家康はつぶやいたといいます。

「倅がいたらば、こんな事にはなっていないはずだ。」と。

家康が口にした倅とは、家康の長男・松平信康のことです。
その名は、徳川の歴史においてタブーでした。
1579年9月15日、奇しくも関ケ原の合戦と同じ日に、事件は起こりました。
21歳の信康が、織田信長の命により自害させられたのです。
世に言う”信康事件”です。
どうして信長は、家康に長男を殺害するように命じたのか?
どうして家康はそれを受け入れたのか??
それは謎です。
カギを握るのが”逆臣”!!

家康の後継者として期待された信康。
家康と正室・築山殿との間に生まれた初めての男子です。
当時、家康は、駿河・遠江・三河を有する今川家の配下にあったため、駿府に生まれました。
信康2歳・・・この年(1560年)、今川家の当主・義元は桶狭間の戦いに討ち死に、これによって家康は独立することに!!

しかし、この時大きな問題が・・・。
駿府にいる築山殿と信康が人質に取られていたのです。
人質奪還のために、家康は今川義元の妹婿の城を攻め、当主の子を生け捕り、人質の交換に成功!!
これによって一命をとりとめた信康は、駿府から岡崎に移ることになりました。
1567年信康9歳の時、信長の娘・徳姫と結婚。
信長から信の一字、家康から康の一字を与えられています。
信康は、徳川と織田の同盟関係を象徴する存在でした。

1573年12月、家康は絶体絶命の窮地に立たされます。
甲斐の武田信玄が、遠江に侵攻。
戦国最強と謳われた武田の大軍勢が襲来したのです。
徳川軍は、三方が原で武田軍と激突し大敗北(三方ヶ原の戦い)!!

しかし、翌年の1573年4月、武田信玄死去。
武田軍は撤退し、家康は九死に一生を得ます。
とはいえ、信玄亡き後も、武田の勢力が弱まることはなく、家康は信長との同盟を維持しながら、対武田の拠点となる浜松城に身を置き、背後の要・西三河の岡崎城に信康を置き、領国の防衛強化に努めています。
信康が岡崎城主となったのは12歳(1570年)の時。
幼い領主を支えるために、新たに家臣団を作り・・・
徳川は、浜松家臣団と岡崎家臣団に分かれることとなったのです。

1575年5月長篠の戦いで、家康・信長連合軍が武田に圧勝!!
この時、17歳の信康も、一軍を率いて参戦!!
局地戦で殿を務め、功名をあげます。

1579年4月、武田軍が徳川領に侵攻。
徳川と武田の国境では、緊張が高まっていました。
そのさなか、家康のもとに、信長から信じられない命令が・・・!!

「信康に切腹させるよう家康に伝えよ。」by信長

そのきっかけとなったのが、信康の妻・徳姫が、父・信長に、夫の悪行を訴えたことでした。
信康の悪行とは・・・??
史料には、鷹狩りで意に沿わない僧侶を殺したことや、下手な踊り子に腹を立てて射殺したことが書かれています。
信康の行動は傍若無人で、慈悲の心がなく、そのため夫婦の仲は悪くなったとありますが・・・
しかし、信康と家臣との間が上手くいっていないわけではなく、揉めたこともなく・・・
粗暴な君主だったという形跡は、同時代の資料には見られません。

そして、信康のことは家康に一任していた???
信長が家康に殺せという命令を出していないのでは??
家康が、このままではいけない・・・と、忖度で殺したのでは??

当時の徳川は、武田と織田の二大大国の狭間にありました。
家康は信長と結び、武田と対峙していました。
この時、家康と対峙したのは武田勝頼。
信玄亡き後、武田の家督をついだ勝頼は、後世評価の低い武将であるが・・・
信長の評価は・・・
「勝頼は若年ながら、信玄の教えを守り、表も裏もある油断のならない相手である」と。
事実、勝頼は、父・信玄ですら攻略できなかった徳川方の高天神城を僅か1か月で落としています(1574年6月)。

徳川と武田の熾烈な奪い合いの舞台となった高天神城。
難攻不落だった高天神城・・・。
奪還を目指す徳川の猛攻を7年もはねのけた勝頼。
武田が施した数々の備え・・・横堀・・・武田の城兵は、土塁を盾にして、見下ろす形で横堀に迫ってきた徳川の軍勢に対して、鉄砲や弓、つぶてを投げて守ることができたのです。

城は、水陸交通の要所・・・家康の浜松城まで直線で僅か30キロ。。。
派は松上の喉元に刃を突き付けられるような、大きな危機を感じる場所だったのです。

家康にとって、生命線ともいえる高天神城・・・。
なんとか奪還しようとする家康ですが・・・信長からの援軍は無し・・・
10数年続いてきた徳川と織田の軍事同盟。。。
家康は、姉川の戦い、信長上洛戦、越前遠征・・・に参陣を果たしたにもかかわらず、織田からの見返りは多くありませんでした。
織田と徳川の関係は、実質的な主従関係だったのです。

そんな関係に対し、徳川家臣団の不満が一つの事件を起こします。
1575年4月、信康の家臣・大岡弥四郎事件です。
大岡弥四郎を中心とする反逆です。
密かに武田に通じていた岡崎町奉行・大岡弥四郎が、城を乗っ取り、武田に合流しようとしたのです。
事件は未遂に終わり、首謀者たちの処刑で幕を閉じました。
信康の守役も武田に内通し、岡崎奉行の三人のうち大岡を含めて2人も武田に加担していました。
さらに、正室・築山殿も加わっていたといわれています。
岡崎衆をあげて、武田家に鞍替えしようとしたものです。

武田との抗争が激化して以来、家康の浜松、信康の岡崎と家臣団は二分していました。
そこに微妙な内部対立がありました。
家康の周りには、主要メンバーで最前線で戦う。。。
しかし、信康側は、最前線で戦うことはあまりなし。。。
いつでも功績をあげられて、恩賞の利益にあずかれる可能性の高い浜松衆と、チャンスに乏しい岡崎衆との確執が、背景にあったと思われます。

この4年後・・・再び徳川家に大事件が・・・それが信康事件です。

事件の顛末を記した資料は少ない・・・
「三河の信康殿逆臣!!」
当時、岡崎にいた信康としては、先の見えない武田軍との戦い・・・いつ進軍してくるのかもわからない・・・
信康が父・家康追放、もしくは暗殺というクーデターを実行に移した場合、頼れるのは武田しかいない。。。
突如として出た信康謀反の噂・・・。
家康は、我が子・信康をどうする???

1579年8月3日、家康は岡崎城に向かいます。
信康の真意を。。。!!翌日二人は対面。
信康は家康に対し、織田を見限り武田に着くと言ったと考えられます。
一方家康は・・・厳しく問い詰めます。
苦悩する家康。。。

信康を捨て織田をとる??
このまま信長に着けば徳川は安泰。。。
この頃の信長の版図拡大は凄まじく、北陸の上杉、西の毛利に対し、織田軍が出兵し領地は膨張の一途にありました。
安土城も完成し、信長の天下は盤石になりつつあったのです。
しかし、謀反の噂が信長さまに入った以上信康に罰を・・・!!
処置を誤れば、家中が二つに割れてしまう!!


信康をとり武田と結ぶ??
家中が二つに分かれる最悪の事態は避けられるのでは??
武田はこの頃、最大の版図を獲得していました。
勝頼は、北条と対決をし、領土を拡大!!
糸魚川にまでも領土は拡大し、武田の領国は日本海にまでも達していました。
「信康事件」の前後は、武田の領土が再び拡大している時期なのです。

織田家臣団にも綻びが・・・
信長に反旗を翻す武将が続出!!
松永久秀の謀反・・・荒木村重の反乱はまだ続いていました。
が、畿内の制圧を目前の信長・・・。
信康の意見を通せば、家長としての自分の立場は・・・??


1579年8月4日、信康と対面したその日、家康は信康を岡崎から20キロ離れた大浜に幽閉。
家康は、信康を処断し、信長との同盟を維持することを決断したのです。
翌日には弓・鉄砲衆を連れて、大浜に近い西尾城へ入るように家臣団に命じます。
信康と謀反を画策した重臣たちへのあからさまな威圧です。
さらに家康は、岡崎城に家臣や三河の国衆を集め、信康と連絡を取り合わないなどの起請文を提出させます。
家康は同盟相手・信長にも事の顛末の説明をするため書状を送っています。

「信康は士道不覚悟により、岡崎城から追い出しました。」

処断されたのは信康だけではなく、信康と同じく武田との内通を疑われていた正室・築山殿が家康の家臣の手で殺害されたのです。
信康は大浜から堀江、二俣城へ・・・
家康としては信長との手前、信康を処断しなければ・・・しかし、やはり親子。。。
家康と信康の関係が意思疎通を上手くすれば、自害に及ばなくても廃嫡??と考えていたのかも??

家康は、信康幽閉の一月後、武田と敵対関係にあった北条と同盟を締結。
織田・北条・徳川による武田包囲網が完成します。
武田と全面対決の姿勢を・・・!!

1579年9月15日、信康自刃!!

21歳、若すぎる死でした。

信康自害の報告をうけた家康は、黙ったままうなだれました。
信康自決後、信康を支えた岡崎重臣たちも粛正されます。

三重県桑名市・・・ここに妖刀・村正が残っています。
信康の介錯にも村正が使われたと言われています。
家康の父・広忠、家康自身、信康・・・徳川家にまつわる人が村正に関わっているので、妖刀といわれるようになりました。
信康が自害したとき、家康は語ったといいます。

「村正は、徳川家に仇成す刀である。
 今後、刀の中に村正があれば、みな取り捨てよ。」

家康が恐れた妖刀・村正・・・。

村正の妖刀伝説が長く流布されたのは、家康の信康を自害させた後悔の想いを生涯持ち続けていたからかもしれません。
そののち、家康は信康に対して固く口を閉ざして語ることはありませんでした。

30年後・・・秀忠の妻・江に対する訓戒に信康に対する家康の想いが記されています。

「信康が生れたときは、親も若く、子が珍しく、その上発育が悪く、丈夫に育ちさえすればいいと心得、気づまりになるようなことはさせず、気ままにさせておいた。
 成人になってから、急にいろいろ教育してみたが、後に親子の言い争いのようになってしまった・・・」と。

このことで、民衆や家臣の家康に対する尊敬心は増した・・・??
家康の言葉の重みが増したのです。
徳川が15代も続いたのは・・・この信康事件の後悔からの家康の子育てにあったのかもしれません。

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将軍の世継ぎを設けるため、将軍以外の男子の出入りが禁じられた空間・・・
政治の中心地に出現したこの空間・大奥で、徳川による平和な時代を願い辣腕を振るったのが春日局。
三代将軍家光に仕えた日本史上最も力を持った乳母・春日局です。

丹波国にある黒井城・・・春日局はこの城の主・斎藤利光の子として生まれました。
父の利光は武芸に優れ、明智光秀の重臣として手腕を振るっていました。
1582年6月、本能寺の変!!
明智光秀が、主君・織田信長に謀反を起こしたのです。
しかし光秀は、羽柴秀吉との戦いに敗れ命を落とし、利光もまた謀反人として捕まってしまいました。
利光は、市中引き回しの上打ち首・・・
その首は、京都粟田口に晒されました。
当時4歳だったお福は、1万石の姫から一転、謀反人の娘となってしまったのです。
父の僅かな友人や、母の親族を頼り、各地を流転する日々・・・
お福は母方の一族・稲葉家の養子となり苗字を変え、京都で身を隠しながら暮らしたといいます。

そんな生活から14年、お福に転機が・・・!!
同じく稲葉家の養子だった稲葉正成と結婚。
稲葉正成は、小早川秀秋の重臣で、関ケ原の合戦では秀秋を徳川方に寝返らせることに成功!!
武功を立てた男が夫だとなったのです。
が・・・正成が主君と対立し、牢人となってしまいました。
お福たちは正成の弟を頼り美濃へ・・・。
お福たちは乳飲み子を抱え、ひそやかに生きました。
お福が通ったとされる汾陽寺の参道は後にお局道と呼ばれました。
戦乱の世に翻弄される日々・・・ここに通ったお福の思いは・・・??

その頃、江戸では歴史が大きく動いていました。
1603年徳川幕府樹立!!
ほどなくして秀忠の正妻・お江が身ごもりました。
男子ならば・・・待望の世継ぎ!!
そのため、徳川家は乳母を探し始めました。
当時の乳母は・・・
御台所は子育てをしません。
子育てはすべて乳母の仕事でした。
女房集団のTOPが乳母で、次世代を養育する・・・乳母は、中世後期の社会において、憧れの職業だったのです。

日本で乳母という職業ができたのが平安時代・・・
枕草子には、乳母が女官たちの間で特別な存在であったことが記されています。
乳母には大きな権限が与えられていました。
そして武家の時代となっても、乳母は権威のある職業としてあり続けます。
流転の日々を送ったお福・・・
お福が乳母に採用された裏には、徳川家康の意向がありました。

「斎藤利光の娘なら、ただ者ではないだろう。。。」by家康

武勇で知られた父を持ち、偶然にも4人目の子を産んだばかりのお福に白羽の矢を立てたのです。
それは、大きなチャンス・・・夫と別れ、幼い子供を連れて江戸へと旅立っていきました。

江戸城に入ったお福の生活は・・・??
竹千代の乳母となったお福には4部屋・・・広さ40畳の住まいが用意されました。
貧乏生活から一転、お福は安定した暮らしを手に入れたのです。
さらに・・・天井裏には・・・部屋が隠されており、秘密の相談や女中を説教する時に使われたといわれています。
お城を支える女性たちをまとめるために、一生懸命努力していたようです。
お福は竹千代に乳を与え、我が子のように愛情を注ぎます。
後の将軍として期待を背負った竹千代・・・僅か4歳で優秀な守役がつき、帝王学を学びます。
そんな周囲の期待に反し、竹千代は病気がちな子供でした。
お福は竹千代の健康のために工夫を凝らします。
七色飯を用意し、食の細い竹千代に食べさせたといいます。

1606年、弟・国松誕生。
竹千代さまの弟・国松さまは聡明でした。
母・お江は、病弱な竹千代よりも、国松を可愛がったといいます。
武家社会の家督相続は・・・戦国時代は実力の時代だったから、実力のある者が天下の権を握る、国の舵をとるということが常識でした。
子供が何人いても、”誰が一番家を存続させるか”という基準で選ぶのが普通でした。

1614年大坂冬の陣・・・竹千代11歳。
翌年の夏の陣によって、豊臣家が滅び、ついに徳川の時代が到来します。
徳川の家督は誰が継ぐのか・・・??
秀忠は国松を跡継ぎにしようとしている・・・そんな噂が流れます。
12歳になった竹千代は追いつめられていきます。
”竹千代さまが自殺なされようとした”
跡継ぎ問題で混沌とする江戸城!!
竹千代のために乳母として何ができるのか・・・??

家康に直訴する??
しかし、直訴に失敗したらお福は終わりだ・・・!!
秀でたものが家を継ぐのは世の習い・・・??

徳川家康の駿府城・・・そこの姿を現したのは、江戸城にいるはずのお福でした。
彼女が目をつけたのが、当時はやっていた”伊勢参り”。
お伊勢参りに行くと偽って、手形を入手し、箱根を越え駿府へ・・・!!
女官の結びつきを利用し、家康の側室を懐柔・・・
お福は家康の面会にこぎつけました。

「竹千代さまが、将軍家のお世継ぎとして何が足りないというのでしょう。
 弟が兄に勝るなど許されぬ事・・・。
 それが将軍家で行われているとあっては、天下が乱れる恐れがあります。」byお福

お福は家康に長子相続を直訴したのです。
これに対し家康は・・・??

ある日家康が江戸城へ・・・竹千代と国松を呼び出します。
「竹千代殿、これへこれへ・・・」と、竹千代を近くに呼び寄せて、竹千代と共に近寄ろうとした国松に・・・
「国松は、元いたところに下がっておれ!!」
家康は、竹千代にのみ、自分の近くに寄ることを許したのです。
さらに家康は秀忠に訓戒する・・・
「嫡子を排し、庶子を立てん事は、天下が乱れることである!!」と。
そう、家督相続争いが起こると戦国争乱は終わらない・・・
家康自身は武断政治から文治政治への転換をしていたのでしょう。
それが、三代将軍の跡継ぎ問題となったのです。

この時期、武家諸法度、禁中並公家諸法度など作成、武力国家から法治国家への転換を図っていました。
お福が願っていた長子相続制度は、家康の願っていた国の姿に不可欠だったのです。
直訴から2年後の1617年・・・江戸城西の丸に移った竹千代・・・。
ここは、徳川家の家督を継ぐ者が住むことを許された場所でした。

その後竹千代は元服し、家光となります。
1623年、20歳で三代将軍となりました。
お福は乳母としての責務を果たしたのです。
しかし、彼女が城を去ることはありませんでした。
お江が亡くなると・・・お福は大奥総取締役に就任。
大奥の実権を握ることに・・・!!
男子禁制などの規律の遵守に側室探し、大奥の組織化と拡大に尽力します。
後の大奥の原型が、この時出来上がったのです。
お福は女官たちの待遇改善にも力を入れます。
すべての階級の女中たちに、合力金という名の衣装代を幕府に願います。

一方、お福は朝廷との交渉役も担っていました。
後水尾天皇天皇に拝謁し、春日局という称号を賜わります。
この”春日局”とは、天皇の子を産んだ女官たちに授けられた由緒ある称号で、一介の武士の娘に与えられるなど、前代未聞のことでした。

戦乱の世で、男たちに翻弄された娘が、江戸時代の始まりに権力者と肩を並べる力を手にしました。
そして・・・1643年、お福は65歳で、その激動の生涯を終えるのです。

乱世を生き抜いたお福の時世は・・・

西に入る 月を誘い 法を得て
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1590年、豊臣秀吉は天下統一の総仕上げとして、22万の大軍勢で小田原城を包囲・・・
3か月に及ぶ籠城戦で、北条氏を滅ぼしました。

この時、豊臣軍の主力として戦い、勝利をもたらした徳川家康は、恩賞を期待していました。
ところが秀吉は・・・
「徳川殿には、北条氏の領地だった関八州を与えよう。」
それまで治めていた駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の代わりに、関東への国替え・・・恩賞とは名ばかりの左遷でした。

秀吉はどうして家康を関東に追いやったのでしょうか?
全く新しい土地は、政治的に力が弱まる・・・家康の力を削ぐため。。。
そして、ゆくゆくは東北も完全に手に入れる・・・そのためには、前線基地に家康を置く必要があったのです。
家康に大いに働いてもらおう・・・
家康にとっては、面白くない国替え・・・
関東を治めることを承諾した家康は、本拠をどこに置くか・・・??
候補に挙がったのは、小田原・鎌倉・江戸でした。

小田原にはすでに難攻不落の城がある・・・
鎌倉は、武家の都にはふさわしい・・・
江戸は辺鄙な田舎・・・。

家康に秀吉は・・・
「城は、江戸に置いたらどうじゃ?」と言いました。
家康は、その提案を受け入れます。
それは勝算があったから・・・。
それは、人間関係をリセットできること!!
家康自身が主導権を握れるということです。

1590年7月、49歳の家康は、8,000人の家臣を率いて、江戸へ向かいます。
その物々しさから、「江戸御討入」と呼ばれました。
そして8月1日、江戸に到着!!

当時の江戸は・・・
”いかにも粗相で、茅葺の家百ばかり
 ここかしこも海に浸かった 葦の茂る野原”でした。
いくつもの川が流れ込む湿地帯で、平地が少なく、大手町あたりまで海でした。
町を造るためにやることはたくさんありました。
江戸城修築・運河開削・飲み水確保・住民誘致・土地格調・治水工事・・・。
家康は何から始めたのでしょうか・・・??

家康と共に江戸にやってきた家臣たちは・・・朽ち果てた江戸城を立て直そうとしますが・・・町づくりを優先。
船で物資を運び込むことに・・・
江戸城に面した日比谷入江は浅すぎて、大きな船が入れません。
そこで、運河を作ることに・・・。

①運河開削
目を付けたのは、江戸前島・・・その付け根に運河を通そうとします。
船が通れるようになれば、江戸港との行き来が楽になります。
しかし、道三堀の開削は、天下人秀吉の命に背く行為でした。
家康は、江戸入府に当たり、秀吉から・・・
「鎌倉の円覚寺の領地である前島には手をつけてはならない」と言われていました。
つまり、家康の領地ではなかったのです。

しかし家康は命令を無視して道三堀を作ります。
江戸時代、江戸に塩を運んだ商人たち・・・その産地が行徳で、行徳を運河で結びたい。。。
塩の調達は一刻をも左右する時代、軍用第一の品、領内一の宝とし、行徳塩を確保するためのルートが必要だったのです。
この開削工事は、少数の家臣たちで行われました。
秀吉が行っていた上方での普請に多くの者が使われていたからです。
本多正信は士気を上げるために毎朝4時に視察に来ました。

そのため、家臣たちは雨の日でも雪の日でも休めず、慣れない土木工事に泣かされながら、道三堀を完成させていきます。


②治水工事
家康が描く大都市構想・・・しかし、開発はなかなか進みません。
利根川をはじめとする川が度々氾濫するからです。
関東平野の治水工事を・・・!!

関東平野の治水を任されたのは、伊奈忠次でした。
治水先進国・甲斐で過ごしていた伊奈を抜擢!!
伊奈は関東八州の代官頭に任ぜられると、工事に取り掛かります。
最大の目標は、江戸を洪水から守ること!!
そこで、中条堤と控堤を作ります。
まずは埼玉県熊谷市附近に作った中条堤で、利根川の氾濫を堰き止めます。
万が一中条堤から水があふれ出した場合は、いくつも作った控堤で勢いを弱め、江戸に入らないようにしました。
伊奈はその工事に利根川流域の人々を使いました。
そして、控堤に領を作り、彼らを住まわせます。
土地のことを良く知る人々が自分たちを守るために堤を築く・・・この治水システムによって、江戸の町づくりが本格化していきます。

1603年、家康が江戸幕府初代征夷大将軍に就任。
江戸に幕府が開かれると工事は大規模なものに・・・!!
天下普請・・・国家プロジェクトとなった江戸の開発・・・大名たちに普請を命じると、3万~4万人が集まります。
そこで・・・

③土地拡張

天下人として全国を統治することとなった家康・・・
諸国の大名たちを江戸に置いて監視しようとします。
そのためには、大名屋敷が必要でした。
しかし、当時の江戸は、城のすぐ近くまで入り江が迫っていて、屋敷を作る場所はほとんどありませんでした。
そこで、入り江の埋め立てという前代未聞の工事に・・・!!
埋め立てには、神田山を切り崩した土で作ったと言われています。
神田山は、千代田区神田駿河台にあった小高い丘で、現在その痕跡はほとんど残っていません。
が・・・地形図には切り取られた跡がはっきりと残っています。
この時埋め立てられたのは、三十余町・・・北は追手町、南は新橋まで広がりました。
どうやって・・・??
発掘された地層は五層で、何度も埋め立てられてきたようです。
埋立地には、大名屋敷が建てられました。
後に大名小路と呼ばれ、江戸の名所になりました。
その運河に、最初に架けられたのが日本橋です。
近くを町割りを開始し、町人たちも住むようにしましたが・・・人が来ません。

④住民誘致
商業の中心地は大坂・・・西国で埋まった人々になっては江戸は東の彼方・・・田舎町なので、誰も移住したがりませんでした。
家康は、三河や駿河の身近な人々を移住させます。
そして、代償や特権を用意します。
伝馬役の馬込勘解由には、大伝馬町に土地を与えます。
家康恩顧の商人たちは、草分名主として名字帯刀が許されました。
年賀の大礼の際などには、将軍に拝謁することも許されました。
地代や労役を免除などの特権も与えられました。
これによって人々が集まってきたのです。
大いににぎわうようになっていく江戸・・・
佃島に来たのは、上方の佃村の漁師です。
彼らは、家康に、江戸前海での漁業権を与えられていました。

人々が集まるようになると・・・深刻な問題が・・・飲み水です。
埋め立てた土地では、井戸を掘っても海水しか出ません。
飲み水の確保が難しいのですが・・・

⑤飲み水確保
家康は、家臣の大久保藤五郎に、飲み水の確保を命じます。
水源を探し・・・満足する味の水は・・・??
赤坂溜池と、神田明神山岸の小川です。
すぐさま工事に取り掛かり、3か月で水路を完成!!
この水路は、当時の江戸市中を網羅し、人々ののどを潤しました。

人口はさらに増加・・・水不足が・・・新しい水源は、井之頭池でした。
ここには、清水が滾々湧いていました。
神田上水を作り、江戸市中にひきこみます。
上水の維持管理費用は利用者持ちで、代金は水銀と呼ばれ、武士は俸禄の額を、町人は家の広さを元に徴収されていました。

家康が入府したころの江戸城は、粗末なものでした。
しかも、十数年間、修築工事は行われませんでした。
1604年、将軍に就任してから1年4か月後・・・諸大名に江戸城修築計画を発表します。

⑥江戸城修築
修築に際して最も重要とされたのが、石材です。
江戸周辺には、良質な石の産地はありませんでした。
家康は、島津家や浅野家など・・・西国の大名たちに石を運ぶ船を作るように命じます。
その数3,000艘!!すべて出来上がったのは、2年8か月後だったと言われています。
家康は、所領10万石につき100人持之石(約4トン)・1,120個を差し出すように、大名たちに命じました。
100万石なら4,500トン、採掘場所の伊豆から江戸に運ぶことになりました。
大量の石をどうやって切り出したのでしょうか?
大名達は、出来るだけ対岸近くに石丁場を設けました。
その数、およそ130カ所!!
一艘の船に乗せるのは、4トン×2が限界・・・100万個以上の石を運ぶには、3000艘の船が月2回往復しても30年かかりました。
輸送中には多くの命が失われます。
たくさんの人々が命を懸けた石で、江戸城は修復されました。
設計したのは築城の名手・藤堂高虎。
そこへ自ら修正を加えます。

初期の江戸城は・・・
当時としては最大、最強の実践的な城でした。
天守は、大天守と小天守が連立(連立式天守)し、最も発達した天守・・・軍事的要素の強いものでした。
外枡形(西国)が5つもあり、鉄壁の江戸城でした。
天守の北側に、3つの馬出(東国)・・・東と西が融合した城だったのです。
まさに、戦国以来の城の集大成・・・。
豊臣方がいまだに強大な力を持っている中、万が一、江戸城が攻められたことを考えた鉄壁の城だったのです。

天守は五層六階建てで、大坂城をしのぐ55m、漆喰で塗られた純白の城・・・
高さは富士山と並ぶようだ・・・白く雪山のように見える・・・白亜の大天守は、徳川の世を知らせるものでした。
葦の生い茂る湿地に理想の町を造った家康は、たぐいまれなる先見の明と知恵がありました。


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豊臣と徳川の決戦が始まった。
大坂城を出、野戦に持ち込む信繁だったが、形勢は圧倒的に不利。

そんな中、後藤又兵衛が討死する。

ということで、遂に、最終回となってしまいました。
ああ・・・本当に寂しい・・・。

信之は、大坂からの帰り・・・休むことになった尼寺で・・・本多正信と一緒になってしまいました。
本多正信、何を思う・・・??

maru












大坂城では・・・名もなき武将が・・・って、ダメ田十勇士じゃん!!

ダメ田十勇士はこちら


そんなこんなの、名もなき者たちが活躍していた大坂城・・・。

「命を惜しめ、そして必ず勝て・・・!!」by幸村

そんな幸村は、大角与左衛門の元へ・・・
そこには、上田から連れてきた与八の亡骸が・・・。

「もっと早く気付くべきだった・・・」by幸村

そう、徳川の間者は与左衛門??

maru10












しかし、徳川に仕えたことなどないという・・・。
「娘は太閤に手籠めにされ・・・それを苦に命を絶った・・・妻も一緒だ。
 以来、ず~っとここにいる。
 秀吉と大坂城が、此の世から消え去るのをこの目で見るまで・・・。

 役目は終わった・・・
 この城も、明日で終わりじゃ・・・」by与左衛門

と、腹を突く与左衛門・・・。
この時、息の根を止めとけばよかったんだよ。

戦略会議で、遂に、千成瓢箪とともに、秀頼の出陣が決定!!

そして、茶々は・・・
城が落ちる夢をよく見るという。
茶々には誇り高く生きることを望む幸村。。。
そして・・・茶々に臨むのは・・・
「家康が死ねば、戦は終わります。
 豊臣と徳川がこの先、どう折り合いをつけていくかの談判が始まります。
 また戦になれば、つぎは必ず負けます。」by幸村

maru15















「左衛門之佐がいれば勝てる・・・!!
 死ぬつもりなのですね・・・!!」by茶々

「戦に勝った後なれば、より良き和議の案を突き付けることができます。
 大坂城を捨て、豊臣家を四国全土の主として認めさせるのです。」by幸村

「わかりました。」by茶々

「そして万に一つ、私が家康を討ち損じ、徳川の兵が城に攻め込んできたときには・・・その時には、和睦の使者として、千姫さまを秀忠の元へお使わし下さい。 
 
 くれぐれもお忘れなきよう。
 望みを捨てなかったものに飲み、道は開けるのです。」by幸村
 
戦支度をしながら・・・

「私は、私という男がこの世にいた証を何か残せたのか??」by幸村

「人の真の値打ちというものは、己が決めることではございません。」by内記

「誰が決める?」by幸村 

「時でござる。
 戦国の世に・・・義を貫き通し、徳川家康と渡り合った真田左衛門之佐幸村の名は、日の本一の兵として、語り継がれるに相違ございません。」by内記

「どんな終わりを迎えてもか・・・??」by幸村

MARU21















「大事なのは、いかに生きたかでございます故。。。」by内記

おお・・・さすが、内記。。。

幸村は、六文銭を手に何を思う・・・??

5月7日早朝・・・
豊臣方は、茶臼山から岡山にかけて布陣、明石隊が船場口で待機!!
徳川方は、南から数段で陣を配備・・・!!

キンチョー!!いよいよ戦いが始まる・・・!!

徳川としては、味方の豊臣恩顧の大名がいる・・・もし、秀頼公が出陣するようなことがあったら裏切られるかもしれない・・・??
と、真田が寝返ったという噂を流します。


出てこない秀頼・・・。
しかし、千成瓢箪でなんとかカバーする??

午前10時過ぎ・・・
松平忠直隊から毛利勝永軍に対し、鉄砲が撃ち込まれました。
秀頼の出陣は・・・??
真田幸村が裏切った・・・??

「罠かもしれません。
 城を出られてはなりません。」by大蔵卿局

毛利隊は、破竹の勢いで本多隊を破り、そのまま家康の本陣へ・・・!!
その手前には、真田信吉の陣が・・・!!

真田信吉隊とぶつかった毛利勝永隊・・・!!
圧倒的に撃破!!
小笠原、榊原、酒井、諏訪・・・毛利の勢いはとまりません。

maru16















未だ出ない秀頼・・・出陣を促すよう大助を城に戻す幸村・・・!!

与左衛門は・・・自分で腹を刺したのに、真田にやられたと秀頼に進言。
理由は、”徳川の間者との密会を見てしまったから・・・。”
疑心暗鬼に駆られる秀頼。。。

maru17















進んできた幸村・・・
そこには真田信吉の軍が・・・!!

かつて仕えた若に槍をもって打ちかかる三十郎・・・!!

maru18
















「・・・・・・!!
 源次郎様・・・!!」

そう・・・これはきっと、倒すためではなく、死にに行く幸村を止めたかったんだよね、三十郎・・・!!

徳川軍は大混乱・・・!!
真っすぐ、真っすぐ、家康の本陣へ・・・!!

「目指すは家康の首・・・!!」by幸村

逃げる、逃げる、逃げる・・・!!

家康の馬印が倒されたのは、武田信玄に敗れた三方が原の合戦以来のことでした。

逃げる、逃げる、逃げる・・・!!

戦況は、圧倒的に豊臣方の有利であった。
岡山口にいた大野治房隊は、秀忠の本陣に襲いかかった。

逃げる、逃げる、逃げる・・・!!

戦いは、豊臣軍の圧勝に思われました。
秀頼公に出馬を促すために大野治長が城に戻る途中・・・馬印・千成瓢箪を掲げて持ち帰ってしまいました。(これは本当)
そう・・・このことが、敗因・・・

maru5












千成瓢箪が大坂に帰る・・・秀頼が負け帰る・・・??

おまけに・・・

maru11












与左衛門が放火・・・!!(これも本当!!)
でも・・・とりあえず、与左衛門は間者という立ち位置というより、豊臣を見限って、放火を手柄に徳川に・・・って感じのようですが・・・
仕えていた豊臣を見放したことで、家康には雇ってもらえなかったとか・・・??

maru12












大坂城に火の手が上がってしまいました。

最後の戦国武将は、戦には流れが変わる瞬間があることを体で知っていた。
彼はそれを逃さない・・・!!

好機だ!!陣を立て直す家康!!

徳川軍の反撃が始まりました。
奮戦する真田軍が待っていたのは、秀頼公の出陣でした。

後手後手に回る大坂方・・・!!
出陣しようとする秀頼公・・・!!
真田も毛利も苦戦・・・!!
流れが変わってしまった・・・!!

徳川の猛反撃・・・!!

作兵衛が・・・!!
槍で奮戦するも・・・撃たれちゃいました・・・。

maru19















大蔵卿局を押し切って、出陣したい秀頼・・・しかし、茶々が許さず・・・!!

千姫が、きりに連れられて大坂城を脱出!!

大坂城内にも敵が・・・!!
猛追する徳川軍に立ちはだかる老兵・内記・・・!!

「若は、秀頼公の傍へ・・・!!」by内記
「内記も参れ・・・!!」by大助
「わしはここで敵を防ぎます。」by内記
「内記・・・」by大助
「早く行かれよ・・・!!」by内記

若(大助)を守るために・・・!!

戦いの後・・・力いっぱい戦い、尽き果てた内記の姿が・・・!!
その懐には大殿の位牌が・・・!!

そして作兵衛は・・・いつも耕していた畑で・・・尽きるのでした。


彼らが仕えていた殿は・・・ついに家康のもとへ・・・!!

maru20















宿敵・真田・・・!!


maru8













「殺したいなら殺すがよい!!
 されど、わしを殺したところで何も変わらん。
 徳川の世は既に盤石!!
 豊臣の天下には戻らん・・・!!

 戦で雌雄を決する世は終わった!!
 お主のような、戦でしか己の生きた証を示せぬような手合いは、行きていくところなど、どこにもないわ・・・!!」by家康

「そのようなことは百も承知・・・!!
 されど、私はお前を討ち果たさねばならぬのだ・・・!!
 わが父のため、わが友のため、先に死んでいった愛する者たちのために・・・!!」by幸村

そして一発の乾いた銃声が・・・!!

それを撃ったのは・・・参陣した秀忠軍でした。

「真田左衛門之佐・・・そこまでじゃ~~~!!」by秀忠

落ち延びた・・・

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西尾宗次(たぶん)に見つかっちゃいました。
この時点でここまでボロボロとは・・・もう、ほとんど兵が残っていないぐらいに戦ったのかもしれませんね。
で・・・返り討ちにしちゃいましたよ・・・??

「ここまでのようだな・・・

 長い間・・・よう、仕えてくれた。
 いくつになった。」by幸村

「55でございます。」by佐助

「疲れたろう・・・」by幸村

「全身が痛うございます。」by佐助

「だろうな・・・」by幸村

最後まであの六文銭を・・・

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何を思う・・・??

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徳川家康の陣にやってきた・・・おじじ様のもとへ帰ってきた千姫・・・。
その千姫を連れてきたのはきりでした。
その場を去るきり・・・。

幸村は、死んでいった者たちのために戦った・・・
しかし、他にも・・・生きている者もいる・・・。

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領地に帰ってきた本多正信・・・。
あの知恵者も、領地ではとってもいいお殿様のようです。
今年は豊作・・・そう・・・時代は、平和に向かってきていました。

そこへ・・・大坂から火急の知らせが・・・。
聞くまでもない・・・信之はすべてを悟ったのでした。
そんな兄もまた六文銭を持っていました。

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ということで・・・カンドー!!です。
そのカンドーはどこで??
というお話はあとで・・・。

この真田幸村、亡くなったのは・・・
疲れて休んでいるところを見つかって・・・討ち取られたと言われています。
その時・・・「わしの首を取って、手柄にせよ・・・!!」と言ったとか。
まさか・・・返り討ちにするとは思わなかったわ・・・。

こちらの方が、個人的にはカッコいいとは思うのですが・・・女性も見ているのでちょっとグロイかな??
って、私も女ですが・・・。

で・・・私、昔っから主人公は好きにならないタイプ。
この大河は、作兵衛にフィルターをかけてみてました・・・。
が、最終回で誰がかっこよかったか??
もちろんみんな見せ場があってかっこよかったんですが・・・

やっぱり内記と三十郎がワンツーでしょう。
号泣しちゃいましたよ。

あんなに仕えたかった幸村に槍を向けた三十郎の気持ち・・・
本当は、徳川の陣へ・・・死地に赴く幸村を、命を懸けて止めたかったんだろうな・・・
でも、それは幸村の本意じゃないことも、三十郎は解っていた・・・
ってとこかな??
幸村第一の理解者だったのかもしれませんね。

で、もう一人はもちろん内記
最初から、いい味出してるな・・・さすが!!って思っていたんですが、すごかったですね。
内記は本当に、真田三代に仕えてくれました。
最後の大助との会話・・・きっと大助に生きてほしかったでしょうね。
自分が凛々しく育てた大助に・・・。
大助とのやり取りで号泣!!
なのに、最後の大殿の位牌でまたもややられてしまいました。
戦うこともできず、無念にも死んでいった大殿と一緒に戦ったのね・・・!!
ほんと、かっこよかったです、高梨内記!!


ということで、個人的には、高梨内記にやられてしまいました。
ほんと、昔っから弱いのよね・・・。
機動戦士ガンダムで、大好きなキャラはシャア・アズナブルでした。
当時小学生だったんですが・・・恥ずかしくって言えなかったんですが、実はランバ・ラルやドズル・ザビも好きでした。
一本気で・・・子供ながらに、私って渋いな・・・って思ってたんです。

負けるとわかっていても戦う男に弱いんです、私。。。
そして時代遅れで不器用な男たちも・・・
だから、新選組も大好きなんですが・・・
そう思うと、彼らは徳川の世には必要ない人々だったのかもしれません。
なので・・・ここで亡くなって幸せだったのかなあ・・・??

とにかく、毎週楽しみにしていたのに、とっても残念です。
真田丸ロスな人が沢山出ているようですが・・・
時代遅れの不器用な男の好きな私が・・・
何がいいって、時代劇は耐え忍んだり、義に生きたり・・・そんなところがいいと思うんですよね。
ということは、女性はず~っと忍んでいないといけないわけで・・・
となると、女性の主人公の大河ドラマに感情移入できるんだろうか??
かなりの不安を感じてしまいます。

とにかく、今は、真田丸に浸って・・・明日の総集編を見よう!!
そういえば・・・昔は総集編って大々的にやってましたよね。
久し振りじゃないかしら??総集編!!
それだけ、真田丸が好評だったってことね。


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