日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:戊辰戦争

>【中古】島津久光・三条実美書翰

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今からおよそ150年前、日本に新しい時代をもたらした明治維新・・・その中心となったが、薩摩藩です。
下級藩士・西郷隆盛や大久保利通が牽引したといわれることが多いのですが・・・
藩主の座にはつかなかったものの、島津久光の影響が強くあります。

1862年・・・桜田門外の変から2年、尊王攘夷が声高に叫ばれていた時代、久光は毛槍を高々に掲げ、1000人もの武装した兵を率いて京へ乗り込みます。
前代未聞の卒兵上京でした。
当時、大名がくることさえ異例だった京都・・・無位無官の久光が京に行ったことは、歴史を変える大きな出来事でした。
従来、この上京は、久光の暴挙だとされてきました。
しかし、その実情は・・・??
朝廷、幕府、有力諸藩も加わった、挙国一致の政治体制を樹立。。。
その周到な計画の一端だったのです。
薩摩の地で、欧米列強の圧力にいち早く直面した久光・・・。
日本の危機を乗り越えるための賭けに出ました。

アメリカ商船モリソン号・・・ペリー来航の16年前の1837年、モリソン号が鹿児島に来航。
日本人漂流民の引き換えと共に、開国を求めてきました。
薩摩藩は、幕府の鎖国の方針に従って、砲撃!!
薩摩藩主の5男に生まれた久光は、この事件を20代前半で体験しています。
城下の喉元に、外国船の侵入を許したことに大きな衝撃を受けたことは、想像に難くありません。
海外の情報を貪欲に集め始めた久光・・・ほどなくして・・・
隣国・清でのアヘン戦争の知らせ・・・イギリスが清国を完膚なきまでに叩きのめしたというのです。
この戦争について久光は細かく記しています。
これ以降、越境の進出は加速していきます。
イギリス船、フランス戦が琉球に来航し、繰り返し開国を要求します。
この時期久光は、軍役方名代に抜擢され、海岸防備を任されます。
越境からどのようにして国を守るべきか・・・!!
それを示したのは、兄・斉彬でした。
斉彬は反射炉を建設、いち早く国産大砲の鋳造に乗り出していました。
その姿勢は、幕藩体制にも向いていました。オールジャパンの国防体制を・・・!!

行きついたのは、古い幕政の改革でした。
それまで幕府は内政や外交を、一部の譜代大名で行っていました。
つまり、譜代専制です。
斉彬は、カヤの外に置かれていた、外様や親藩も政治に参加することを求めました。
外国に対して、挙国一致体制を目指したのです。

実現に向けて・・・そんなさなか、1853年、黒船来航!!
幕府が大名達に意見を聞くと・・・多くの大名は、打ち払いを!!
そんな中、斉彬の意見は異彩を放っていました。
「打ち払いでは勝利は覚束ない。
 三年ほど返答を引き延ばし、軍備を整えたうえで打ち払うべきである。」
1854年、日米和親条約締結!!

食料や燃料の供給は認めるものの、通商は拒否する・・・
幕閣は斉彬の言うように、無謀な攘夷は避け、開国を先延ばしにしたのです。
ところが1858年・・・アメリカ総領事ハリスの執拗な要求に、日米修好通商条約を締結!!
時の孝明天皇は、条約承認を拒み、諸大名の意見聴取を求めていました。
これに対し、大老・井伊直弼は、独断で調印!!
さらに、井伊は、自らの方針に反するものは弾圧!!朝廷や雄藩の影響を排除した従来通りの譜代専制の幕政に戻したのです。
安政の大獄の嵐が吹き荒れるそのさなか・・・1858年7月、島津斉彬急死。
次の藩主は、久光の子・茂久に決まり、久光は後見役として藩政を支える立場となりました。

名君の死で抑えの利かなくなった薩摩藩は大混乱!!
井伊の強権政治に反対する若手下級藩士による脱藩突出計画!!
しかし、実際は、井伊の命を狙うテロ計画でした。
この危機に久光は対応を迫られます。
暴発寸前の藩士に対し、久光は茂久の名で・・・
「斉彬さまのご意志を貫き、国家を護り、朝廷への忠勤に励む。
 力を貸してほしい・・・」
ここには、機械が来たら、久光が中央政局に乗り出す。それまで待て!!
その時に、活躍の場を与える。。。という意味がありました。

感激した下級藩士は、誠忠組と名乗り、幕政改革を目指すこととなります。
辛くも暴発を抑え込んだ久光・・・
1860年3月、江戸で桜田門外の変が・・・井伊直弼の暗殺です。
井伊の首を取ったのは有村治左衛門・・・あろうことか、薩摩藩の脱藩浪士でした。
幕府の強権政治に対する反発は全国に広がり、薩摩藩にも飛び火する危険性が・・・。
一刻も早く、幕政改革に乗り出さなければ・・・!!
久光は、抜き差しならない状況に陥っていました。

江戸城の目と鼻の先で大老が暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
幕府が選んだ道は、朝廷にすがることでした。
1860年孝明天皇の妹・和宮降嫁を要請。
公武合体による朝廷の権威をもって、譜代専制体制の延命を図ったのです。
一方、桜田門外の変は、薩摩の誠忠組にも動揺をもたらします。
脱藩突出計画が再燃・・・
幕府の反動政策と、薩摩の下級藩士の暴発・・・久光は事態の打開に動く・・・??

白羽の矢が立ったのは、開明派の水戸徳川家・一橋慶喜と、松平春嶽です。
雄藩連合に賛同する二人を担ぎ出すことで、幕政の改革をはかったのです。
しかし、藩主でもなく、無位無官の久光に何ができる・・・??
どうして幕府人事に介入できるのか・・・??

卒兵上京して幕府に改革を迫る・・・??
当時、幕府は禁令によって大名の入京を大きく制限していました。
そこで久光が考えたのが、島津家を所縁の深い、公家の近衛家から入京を要請してもらうことでした。
京に派遣されたのは、久光の腹心・大久保一蔵(大久保利通)!!
近衛忠房に打診しました。

「天皇のお考えを幕政に反映させるためには、十分な京都守衛の兵力が必要。
 我が藩が入京し、その任に当たる。」

しかし、久光にもたらされた返事はつれないものでした。
さらに足元に不安要素が・・・西郷隆盛の動向です。
西郷の久光に対する発言・・・
「恐れながら久光公は田舎者にございます。
 薩摩から一歩も外に出たことのない久光が入京したところで、誰も相手にはしてくれない・・・
 政治を変えることなどできない・・・」
というのです。

もう一つの道は・・・
薩摩同様、中央政局への関与を図っていた長州藩との提携です。
孝明天皇の和宮降嫁の条件は・・・通商条約を破棄し、鎖国に戻すことです。
しかし、一旦締結したものは破棄できない・・・。

この時、幕府に長州藩が持ち掛けたのが「航海遠略策」でした。
こちらから航海に乗り出して、交易を行えば、異国は恐れて朝貢してくるであろう・・・
積極的に海外進出し、異国を従わせるというロジックは、孝明天皇にも受け入れられ、朝廷と幕府の関係を好転させると期待されていました。

卒兵上京か??長州との連携か・・・??

1862年3月16日、1000人もの大軍が、薩摩を出発しました。
久光は、卒兵上京を選択したのです。
この時点で、京に入れる保証はどこにもありません。
しかし、久光は、懸命に打開策を探っていました。
藩士を京に先行させ、公家への工作を盛んに行っていたのです。
反応したのは・・・孝明天皇の側近・岩倉具視。
”諸藩が幕府を恐れ従っている中、薩摩と長州の両藩が、国家のため力を尽くしてくれることは、天の助けである”
岩倉は、””朝廷の命令を聞く幕府・・・幕府は一執行機関”に追い込んで、ゆくゆく政権そのものを奪ってしまおうと思っていました。
決め手は、久光の圧倒的な武力!!
薩摩兵は、100挺の小銃と、4門の野戦砲を携えていました。
奇しくも、京には攘夷派の志士が集結・・・
久光の上京に乗じ、京都所司代襲撃、武力討幕を計画していました。
久光と岩倉は、その鎮圧を、入京の理由にしようと思っていたのです。

薩摩を発って1か月後・・・1862年4月17日・・・薩摩兵入京。
その前日、孝明天皇から密かに下された勅命には・・・
”京に滞在すべし・・・”久光は、京都滞在の明文を得ました。
卒兵上京から1週間・・・4月23日に、久光の元へ恐るべき知らせが・・・。
伏見の寺田屋に、薩摩の誠忠組の一部が集結!!
京都所司代襲撃に向けて動き出したというのです。
久光の決断は・・・??

寺田屋事件・・・武力による鎮圧でした。
同じ薩摩の藩士を粛正したのです。
非情な決断でした。
襲撃を未然に防いだことで、孝明天皇の絶大な信頼を得る久光。
幕政改革案への朝廷の同意を獲得することに成功したのです。

1862年5月・・・久光は、勅使に同行して江戸へ出府!!
朝廷の命令と、薩摩の武力を背景にした威圧に、慶喜と春嶽の登用を飲むほかありませんでした。
無位無官の久光が、朝廷、幕府を動かしたのです。
卒兵上京の賭けは成功しました。

2年後の1864年1月・・・京都二条城で、新しい政治体制が始まりました。
久光が創設に尽力した参与会議です。
一橋慶喜を筆頭に、有力諸侯が朝廷の会議に参加し、その意向を幕政に反映させるという久光の目指す挙国一致体制そのものでした。
しかし、その前途は思わぬ形で阻まれることに・・・
火種となったのは、横浜鎖港問題です。
当時の日本は、通商条約の締結によって、箱館、長崎、横浜の三港を外国に開いていました。
そのうち横浜の開港を取りやめることで、攘夷にこだわる天皇を懐柔しようとしたのです。
久光ら諸侯の意見は、鎖港反対で一致していました。
しかし、その前に立ちはだかったのが・・・一橋慶喜でした。
対立のきっかけとなったのが・・・孝明天皇から、将軍家茂に宛てた宸翰です。

”無謀な攘夷は、朕の好むところにあらず”

あくまでも攘夷にこだわっていた天皇とは思えない内容でした。
訝しんだ慶喜が、密偵を使って調査させた結果、驚くべき結果が・・・
勅書の作成に、久光が深くかかわっていたことがわかったのです。

久光が作成した草案は・・・一字一句同じ!!
この頃の、天皇の意向は、久光の思惑を色濃く反映していました。
慶喜にとって、見過ごすことのできない事態だったのです。
久光が朝廷に近づきすぎた・・・

慶喜の頑強な抵抗の前に、久光は辞表を提出。
参与会議は僅か2か月で解体に追い込まれました。
雄藩の政治参加の青写真を描き、舞台を整えた久光の夢は潰えたのです。

失意のうちに薩摩に帰国した久光・・・
しかし、国政参加への想いが衰えることはありませんでした。
1865年、ヨーロッパへ留学生を派遣。
その一人が五代友厚です。
五代は、ベルギー商社契約を結んでいます。
ベルギー政府と薩摩藩が、薩摩領内の鉱山開発や貿易について取り決めたものです。
久光の新しい国家構想が・・・
もう、幕府そのものはなくしてしまう。。。
忠、武力の発動ではなく、外交権を奪うことで、幕府を事実上失くしてしまう。。。
朝廷のもとで、緩やかな連邦国家を作る・・・
これが、久光の日本国の在り方の青写真だったのです。
しかし、時代のスピードは、久光の予想をはるかに超えていました。

1866年、徳川慶喜が第15代将軍に・・・!!
徳川家への権力維持を図る慶喜に対し、西郷たち薩摩藩京都藩邸は、かつてのライバル・長州との提携を進めます。
天皇中心の新政権樹立に動き出していました。
そして・・・討幕の密勅が・・・!!

「賊臣慶喜を殄戮せよ!!」

それは、緩やかな改革を目指した久光の考えとはかけ離れたものでした。
裏で動いていたのは、かつて卒兵上京に尽力した岩倉具視と大久保利通でした。

1868年1月、戊辰戦争勃発!!
薩長両藩をはじめとする新政府軍は、1年以上の戦いの末、旧幕府軍に勝利!!
その結果、明治新政府は、天皇の元での中央集権体制へ向けて加速していくのです。

1871年突然の廃藩置県!!
久光の薩摩における政治基盤は、根こそぎ奪われました。
その日、久光は屋敷で花火をあげ、うっぷんを晴らしたといわれています。
政治の表舞台から退いた久光が、力を注いだのが歴史資料の収集です。
麗明館に残る玉里島津家資料は、1万2000点に及びます。
久光の命により集められたものです。
自らの手で開いた歴史の扉・・・しかし、その先に待っていたのは、思い描いていた時代ではありませんでした。



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会津藩士の慟哭を超えて: 未来を教育に託す

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会津VS長州 ~ニッポンを創った二つの魂~・・・
そうなると、薩摩が怒ってくるでしょう??

福島県にある若松城・・・今から150年ほど前、ここで日本の未来のかかった戦いが繰り広げられました。
守るのは東の雄藩・会津藩・・・攻めるのは西の雄藩・長州藩。
幕末の悲劇として描かれる会津戦争。。。
どうして両藩は戦わなくてはならなかったのでしょうか?
そこには互いに譲れない精神がありました。
両者の信念は、一朝一夕に作られたのではなく・・・250年という江戸時代の選択の継承によって作られたものでした。

あ・・・この回は、”花燃ゆ”のテコ入れみたいですね。
朗読では”八重の桜”と”花燃ゆ”のお父さん対決にもなりそうです。
が・・・何をどうしたのか??選択してもらいましょう。

・会津藩(親藩)・・・23万石
・藩祖・・・保科正之
・最後の藩主・・・松平容保


・長州藩(外様)・・・37万石
・藩祖・・・毛利輝元
・最後の藩主・・・毛利元徳

親藩と外様・・・忠と志・・・二つの違ったスピリットがありました。

福島県会津若松市の小学校では、毎朝「あいづっこ宣言」を暗唱しています。

aiduこの言葉を考案したのは宗像精さんです。
11年前に策定しました。
会津藩の什の掟を参考にしています。

jyuuこの実直な考え方は、藩祖・保科正之によるものです。
徳川二代将軍・秀忠と側室の間に生まれました。


しかし、家光がいたので、保科家の養子となったのでした。
表舞台に出ることのなかった正之に目をかけたのは兄・家光でした。
家光と四代将軍・家綱を補佐する人間として徳川の安泰に務めまます。
それで戴いたのが会津23万石でした。
正之は・・・この時重大な選択をしました。
子孫に掟を・・・15条にわたる家訓を残したのです。

その第1条こそが・・・
”大君の儀 一審大切に忠勤を存ずべく・・・
 もし二心を懐かば 即ち我が子孫にあらず
 面々決して従うべからず”
幕府への忠誠心・・・それが会津の精神でした。


長州と徳川の因縁は、関ヶ原の戦いに遡ります。
東軍の総大将は徳川家康、西軍の総大将は毛利輝元でした。
西軍は敗れ・・・降伏した輝元に厳しい措置がとられます。
120万石の領土を2/3以上を没収し、周防・長門の37万石に封じ込め・・・それが長州藩となりました。
山口県萩市に輝元は城を築きます。
敢えて交通の不便な場所を選んだのは、家康を恐れたためとも言われています。
萩城には輝元の志しが・・・三方を海に囲まれ、急な山の上に作られたであろうお城。。。
それはまさに山城・・・要塞でした。
貯水池も残っています。
平和な時代の城に、危機意識の高い城となっていたのです。
幕府は長州にたくさんの普請をさせ、体力を削いでいきます。
膨大な借金・・・家臣たちをどのようにすればいいのか??
大リストラを敢行。。。3万人の侍を1万人に減らします。
これが長州藩の精神を作ったと言われています。
大部分は帰農しますが、一定の学力がそのわっていました。
明治の調査によると・・・私塾は106校、寺子屋は1204校あったと言われています。
帰農によって身分を超える教育がなされ、それが人材発掘になっていくのです。
外様の危機感とリストラが、徳川時代を生き抜く外様のしたたかさだったのです。

戦争を知らない保科正之の”平和な時代の精神”と、毛利元就を継承した”戦国時代の何でもアリの精神”・・・
軸にある考え方が違ったのです。
これが幕末の動乱の布石となっていきます。

会津藩の中興の祖と言われるのが、家老・田中玄宰。
1781年に家老となった玄宰ですが、1783年には天明の大飢饉が・・・会津だけでも餓死者は2000人を越えました。
藩存続の危機に・・・藩財政の改革に臨みます。
地場産業の立て直しをします
会津漆器・酒・朝鮮人参・養蚕・・・経済復興の足掛かりとしました。
しかし、経済以上に危惧したのが・・・士風の乱れです。
貧しさの中で、藩士としてあるまじき行為をするようになってきていました。
そこで・・・1803年藩校・日新館の設立!!
10歳になったら文武両道の厳しい教えを受けるようになります。
優秀な学生は、幕府の昌平坂学問所にも遊学させます。
忠義と礼節を重んじる会津藩士たちの名は全国に轟きました。
経済ではなく人の心を・・・!!
緊縮財政を精神で耐え抜いていく会津藩がそこにはありました。


長州藩は・・・??
中興の祖は、第七代藩主・毛利重就です。
重就は・・・新しい税収を得るために、開墾し4万石を得ます。
根本的な財政立て直しのために・・・4万石を特別会計にします。
そしてその4万石を元手に、撫育方を作り資産運用が始まりました。
三田尻の塩田の開発・・・36万石の塩が作られるようになります。
この塩に、蝋・紙を加えて三白と呼ばれる専売を作るのです。

越荷方を作り、港の倉庫業、貸金業・・・莫大な利益を上げていきます。
江戸時代の総合商社となった長州藩は、圧倒的な力を蓄えていくのでした。

この資金をいつ使うべきか・・・??
「撫育の経理を本勘定から分けたのは、藩を安らかにする一助とするためである。
 子孫の者は、このことを考え、重要なことがあった時にこそ、撫育金を使うように。」
幕末の長州の隠し財産は数百万両に膨れ上がっていました。
これが、維新の原動力となっていったのです。


1853年6月3日、黒船来航。
日本に開国を迫ってきました。
列強に対して、開国の道を進んでいく幕府・・・幕府の弱体化の始まりでした。
ときの帝・孝明天皇は、攘夷を強く望みます。
開国か?攘夷か??日本の未来はどうなるのか・・・??
会津と長州は、全く別の道を進んでいきます。
吉田松陰の松下村塾では・・・
「日本の独立を守るためには、幕府や藩に任せていてはいけない
 一人一人が行動するべきなのだ」
若者たちの胸を打ちます。
久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山縣有朋・・・たくさんの若者が行動に出ます。
「奉勅攘夷」の道へ・・・!!

会津藩九代藩主・松平容保・・・幕府から京都守護職に就任要請が来ました。
公武合体も期待されていました。
京都では攘夷な過激派浪士が治安を悪くしていて、攘夷派の恨みを一身にうける可能性がありました。
「今はこれを引きうける知己ではありませぬ
 それはさながら、薪を負うて火を救うようなもの
 おそらくは労多くしてその功はないでありましょう。」by西郷頼母
しかし、容保の決め手となったのは・・・家訓でした。
家訓が下りることを許さなかったのです。
幕府に忠義を尽くすために・・・!!

1862年会津から1000人の兵を連れて京にのぼります。
長州と対立していく中心には、孝明天皇がいました。
まず、長州藩は信頼を得、幕府に攘夷の約束を取り付けます。
幕府はその攘夷を行わず・・・単独で攘夷を決行した長州藩。
1863年長州藩は、下関で外国商船を次々と砲撃!!
天皇に認められた長州藩は、勢いを強めていきます。

徳川の権威は失墜し・・・苦悩する容保
薩摩藩から情報が入ります。
「近年、孝明天皇の意志として出された攘夷の命令は、周囲の過激派公家たちによって偽造されたもの
 天皇はお嘆きになっている。。。」と。

天皇の真意はどこに・・・??

孝明天皇に攘夷派公家と長州藩の追放を伺います。
返事は・・・
「兵力をもって、国家の害を除くべし。」
天皇の心は、攘夷派公家と長州藩から離れていたのです。

攘夷派の追放を・・・!!
八月十八日の政変で、七卿落ち・・・。
御宸翰を与えられる容保。。。
「朝廷の堂上公家たちが乱暴な意見を連ね、不正の行いも増え、心の痛みに堪えがたい思いだった。
 内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、憂いを払い、私の思いを貫いてくれた。
 全くその方の忠義に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり。」

”武士(もののふ)と  心あはして
   巌をも 貫きてまし 世々の思い出”by孝明天皇

忠義を重んじてきた会津にとって最高の喜びでした。


天皇の信任を受けていたのは長州のはず・・・
なのにどうして追放されなければならないのか・・・??
1864年7月19日、久坂ら長州藩士たちは、3000人の兵を引き連れ名誉回復の嘆願ために御所を目指します。
そして・・・会津藩と激突!!
血で血を洗う肉弾戦・・・禁門の変が・・・!!
この戦いで長州藩は敗北し、朝敵となったのでした。

対立軸は攘夷か開国かではなく、正当性や大義となっていったのです。

1866年6月、第二次長州征討に乗り出す幕府。。。諸藩と共に15万人。
対する長州藩はわずか3万人!!
自分達が闘うのは冤罪を晴らすためだ!!と、「長防臣民合議書」を36万部作成し、武士だけでなく、農民たち市民にまで配布!!ここから志願兵が出てきました。
最新兵器をイギリスから購入!!そのお金は、撫育方によってためられた特別会計からでした。
長州軍は、250年かけた用意周到さで戦っていきます。
政局は・・・??
幕府の権威は地に落ち、薩摩・長州を中心とした武力討伐へと傾いていきます。

そんな中・・・1867年10月、将軍・慶喜による大政奉還が行われました。
驚愕、茫然する会津藩士たち・・・。

長州藩の目標であった幕府打倒が・・・すんなりとなされてしまいました。
新政府をどうする・・・??
合議制を導入する??そこに徳川を入れる??
木戸孝允は・・・
「膏薬の治療で、表面の形を整えただけでは、のちのち再び問題が起こることでしょう。
 中途半端に終わらせては、日本の瓦解は明らか
 どんどん打ち滅ぼし、国の大本を締めることが急務だと思います。」
 
徳川家を排除する選択をします。

そして・・・1867年12月9日・・・王政復古の大号令!!
1968年1月3日の鳥羽伏見の戦いでは、旧幕府軍が惨敗!!
形勢逆転によって、朝敵は長州藩から徳川・・・会津へとすり替わっていったのでした。
4月11日江戸城無血開城!!
しかし、その中にあって戦い続けることを選んだ会津藩。
将軍が恭順をしているのにどうして戦いを辞さなかったのでしょうか・・・??
このまま自分達の非を認めるわけにはいけない!!そこには、譲れない信念がありました。

若松城での籠城戦が始まりました。
忠義の精神が・・・教えが籠城戦の原因の一つとなったことに違いはありません。
1日・・・多い時は2000発から2500発の砲弾が撃ち込まれ・・・
1か月の籠城の末、1868年9月22日会津藩降伏。

共に・・・日本の良き未来を目指していた二つの藩・・・
戦いを避けることは出来なかったのでしょうか??
勝者の憎しみが全て会津藩へ向いたことで、結果的に徳川家を守ることになりましたが。。。

戊辰戦争は、内戦としては死者が少なかったと言われています。
長州も会津も、傍観者ではなかった・・・。
幕末の動乱を、日本を背負って立とうとした人たちでした。

会津戦争の確執は、今も消えたとは言えません。
が、会津にある東明寺は、西軍墓地と言われています。会津戦争で亡くなった長州・薩摩・土佐の兵が眠っています。
今も会津の人が守っています。
子供たちも・・・”あいづっこ宣言””松陰先生のお言葉”・・・それぞれを大切にしています。
幕末、日本の未来のために立ち上がった会津と長州・・・その精神を受け継いでいるのです。

最後まで見た感想ですが・・・
このまま大河にしてほしいくらいでした。
会津藩の方には、「八重の桜」の山本むつみさんが出ていて・・・「八重の桜」は”什の掟”をもとに、魂の高潔さをもとに作っていたといっていました。

そうなんですよ・・・で、「花燃ゆ」のコンセプトは何・・・??
信念はどこだ~~~!!
英雄たちの選択では、長州はつねに「志」だ・・・みたいなことを言ってたんです。
どちらが正しくてどちらが間違っていたのか??
どっちも間違っていないと思いますが・・・同じNHKなんだから・・・解っているなら8か月間「志!!志!!」といいながら、どんな志か全く解らない長州藩の志を花燃ゆで演出してほしいものです。

ほんと・・・解りやすく解説してくれていて・・・
もう一度言います。これをそのまま大河にしてほしかった。。。

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サムライ移民風土記―北海道開拓士族の群像

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明治十二傑・・・伊藤博文・福沢諭吉・・・そうそうたるメンバーの中に・・・男爵・伊達邦成(農業家)の名前がありました。
date仙台藩亘理伊達家当主・伊達邦成です。

北海道の開拓に従事した多くのものが、志半ばで挫折する中、伊達邦成の開拓地は、小さなアメリカと言えるほどの偉業である。
北海道開拓の先駆者として健勝された伊達邦成・・・家臣たちを率いて、現在の伊達市に移住して、一大農業生産地に仕上げました。
これは、北海道発展の礎となりました。

事の起こりは・・・邦成28歳・・・幕末の動乱でした。
1868年戊辰戦争の敗北・・・新政府の処罰を受けた仙台藩は、2万人と言われた家臣の大量解雇を余儀なくされます。
邦成は・・・家臣を救い、朝敵の汚名をはらすため、北海道開拓に活路を見出しました。
しかし・・・新政府の方針に翻弄される毎日でした。

開拓地の返上、武士の身分の剥奪・・・

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

どうしてこの困難を乗り越え、開拓に成功したのか?

江戸時代、北海道は蝦夷地でした。
アイヌの人々が暮らす北の大地。。。
人々が入植するようになったのは、明治維新。

1868年戊辰戦争勃発!!
新政府軍と旧幕府軍が衝突した戦いです。
新政府軍が勝利し、本州の制圧に成功します。
そして・・・新政府の目は、北海道へと向けられたのです。

主な理由は、ロシアに対する危機感でした。
樺太に軍を派遣し、さらに南下しようとするロシア。。。
北海道へ移民を送って開拓させ、日本の領土であるという既成事実を作ろうとします。

新政府の中心人物は、岩倉具視。
その構想は・・・戊辰戦争時、同盟して新政府軍に対抗し奥羽の人たちでした。
自由に土地を離れることのない時代、移民を送る・・・それは困難で不可能に近かったのですが・・・
反逆者を処罰するという意味でも北海道に移し、開拓させようとしたのです。

62万石だった仙台藩は、その盟主だったために、28万石に減らされ。。。
さらに・・・南側は、南部藩の領地とされてしまいました。
宮城県の南部にある亘理町・・・幕末まで亘理伊達家が治めていました。
当時の藩主は、伊達邦成。。。その支配地は、2万4000石でした。
しかし・・・敗戦によって支配地をなくし、わずか米130俵の俸禄の身分に転落してしまいました。
これでは・・・一人の家臣も養えない・・・
直属の家臣1300人の身の振り方を考えます。
人々は・・・伊達家家臣の身分を・・・武士の身分を捨て南部家の農民となるか、他を頼って亘理を出ていくか・・・二つの選択肢でした。

東北が制圧された後も、旧幕府勢力の戦いは北海道で続いていました。
1868年10月榎本武揚が函館を占拠、新政府軍相手の箱館戦争が始まりました。

ある日・・・家老だった田村顕允(常盤新九郎)が・・・

「新政府は、必ず北海道開拓に着手します。
 邦成公自ら家臣を率いて移住し、開拓の先駆けになれば、朝敵の汚名を受けた仙台藩人の冥加にかなうでしょう。」と進言しました。

箱館戦争が終結していないのに・・・この提案を受け入れる??
10年ほど前、江戸幕府は東北諸藩に蝦夷地の支配を任せていました。
仙台藩は、白老を拠点とし、300人の藩士を派遣していましたが・・・
成果をあげることができずに、蝦夷地開拓を放棄していたのです。

この頃・・・新政府の処罰に不満を持つ藩士たち600人が蜂起し、榎本たちと戦おうと箱館への逃亡をし・・・
邦成自ら兵を挙げ、鎮圧にまわっていました。
新政府に不満を募らせる家臣たちに危機を覚えるようになってきていた邦成・・・
家臣たちを連れて北海道を開拓する?それとも帰農させる???

田村は進言します。
「我らには、1,362戸、男女7,854人の恩顧譜代の家臣がいます。
 この人材こそが資本となるでしょう。」

邦成は、北海道開拓を決断・・・明治2年5月、新政府の許可を得ようとしました。
箱館戦争が新政府軍の勝利に終わった2か月後・・・邦成に北海道支配の命が下ります。

支配を認められたのは・・・胆振国有珠郡・・・現在の伊達市です。
有珠山の火山灰に覆われ・・・農業には不向きとされてきました。

ezoこの時・・・諸藩や士族たちに北海道開拓の統治が下りていました。
財政がひっ迫していた新政府は、分割統治させて自費で開拓させたのでした。

「君臣心を合わせ
 勤王の実効を奏し
 伊達家の汚名を濯ん」by邦成

先祖伝来の家宝から着物までを売り払い、資金を調達し・・・

家族を伴って移住しました。


明治3年3月・・・
第1回移住団250人が新天地北海道へ向かいました。

アイヌの人に協力を求め、年内の収穫に向けて・・・雪深い地を開拓し始めました。

刀を使って木を切り・・・食料としての蕗を集め・・・
困難は、他の開拓地でも当然でした。
皆が脱落していく中・・・有珠に止まり開拓していく伊達家の人々。。。
明治4年には開拓者の数は1000人を突破、開拓の成果も上がっていきます。
退路を断ち、既にあるアイヌ社会を尊重しながら、新しい共同体を作ろうとした邦成。
それが開拓成功の秘訣でしたが。。。

しかし・・・その努力を打ち砕くかのように・・・明治4年7月廃藩置県断行!!
これに伴って・・・開拓地は返上となってしまいました。
さらに・・・家臣たちの誇りだった士族・・・士族から平民へ・・・。

「圧政も甚だし
 人心大いに沮喪し 慨嘆に堪へざるなり」

伊達武士団・・・彼らの夢は潰えた・・・??

明治4年8月・・・薩摩出身の黒田清隆が「開拓使10年計画」を打ち出します。
この計画は、10年間で1000万(現在の800億)を投入し・・・
外国から学者、技術者を招き、欧米の技術を取り入れて開拓を進めました。
黒田は、日本の国力増強のために、本格的に北海道開拓を始めたのです。

その頃邦成は・・・??
北海道を去ろうとしていました。
新政府に対するせめてもの抵抗だったのです。
しかし・・・開拓使は伊達武士団の成果を評価して、北海道に残るように説得します。
遂に邦成も折れ・・・
有珠の移民取締役として再び家臣たちと歩き始めたのでした。

戦略① 新技術を積極的に導入せよ
新しい農機具を調達し、抜本的な農業改革に取り組みます。
馬を使い効率よく畑を耕します。
有珠郡の特産物となったのは、砂糖の原料となった甜菜です。
当時は砂糖のほとんどを輸入に頼っており、国産化が求められていました。
有珠郡には官営の天才製糖所が作られます。
国力増強に大きな役割を果たします。

戦略② 力を合わせ新規事業を起こせ
明治9年・・・当時としては革新的な組織・・・永年社を作ります。
今でいう組合のようなものです。
移住者の出資と開拓使の補助金を積み立てし、見舞い金や新規事業の推進に充てられたのです。
菜種油・・・大豆・小豆を大都市で販売、硫黄の採掘・・・
新規事業への取り組みは、自給自足の生活からの脱却を助けました。

戦略③ 開拓の精神を次世代に伝えよ
邦成たちは移住の際から学校を設立・・・
初等教育を行ったのは、有珠郡にある紋鼈(もんべつ)学校。
自分達の開拓使・・・武士の在り方も教えます。
教育を通して武士を再生産し、結束力を高めようとしたのです。
有珠郡は人口3000人を突破し、開墾もよそとはけた違いの成果を出しました。
明治政府もこれを称え、移民の手本となりました。

明治18年・・・亘理伊達家臣団は士族に復籍。

彼等の開拓が無かったら・・・北海道の開拓は全く変わっていたかもしれません。
農業改革に大きな貢献を果たしたのは間違いありません。
明治25年・・・邦成は功績を認められ、民間人として初めて明治天皇から勲章を受けます。
難事業を不屈の精神で生き抜いたことを認められた瞬間でした。

同心協力・不屈の精神を以って。。。
負けを転じて福とした人々でした。

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新選組局長近藤勇―士道に殉じたその実像

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1864年6月5日・・・幕末の日本を揺るがす大事件が勃発します。
世にいう池田屋事件です。
新選組の目的は、過激な浪士の放火テロの阻止でした。
激しい戦闘の末に、新選組が鎮圧します。
これによって、局長・近藤勇は京都を大火から救った英雄に・・・新選組の名は天下に轟くのです。
しかし、この騒動で多くの長州人がなくなり・・・長州の恨みを買うことになります。
その後、池田屋事件の抗議に始まり長州藩は京都に兵を進め、軍事衝突が・・・!!
戊辰戦争の終結まで動乱の時代となるのでした。

近藤勇は”剣=武”のイメージが強いですが、自分の言葉をしっかりと人に伝えることのできる”政治家”でした。

そんな近藤勇が育ったのは、江戸郊外にある多摩。
裕福な農家が多く、近藤は農家の三男でした。
15歳で剣術をはじめます。
三男では家を継ぐことができないので、剣で生きていこうとしたのです。
多摩地方は治安維持のために剣術を学ぶものも多く、剣で食べていくことができました。
近藤は道場主の養子となり、28歳で道場を継ぎ、各地を回りました。
東京・町田にある小島家でも剣術を教えていました。
そこには近藤の稽古着が残っています。
背中には、妻に縫わせた髑髏が・・・。

konndou

戦いで倒れ、野に屍をさらすことになる・・・そうなっても構わないという覚悟の現れです。
その頃道場には、新選組の主なメンバーとなる沖田総司・土方歳三などが集まってきていました。
後に近藤と行動を共にした永倉新八は・・・
稽古が終わると、国事を愁い議論を交わしていたそうです。


当時江戸幕府は、欧米列強諸国の圧力に屈し、開国を約束。。。
これに対し、京都では攘夷の命令が下されました。

防衛の最前線である薩摩・長州は単独で攘夷を決行し、幕府に開国撤回を要求します。
幕府は、諸外国と攘夷派の板挟みにあい、政治は混乱を極めました。
当時の日本の若者の多くは、攘夷に傾いていたようです。
じっとしてはいられない!!という雰囲気が、下層・下級武士・郷士に広がっていきました。

自分達の力を生かせないか???と思っていたところにチャンスが回ってきました。
幕府の浪士募集の知らせです。
任務は京都に向かう14代将軍家茂を護衛するという。
将軍の京都行きは、天皇の攘夷命令を直に受けるためのものでした。
この頃京都では、天誅が流行っていました。
治安が乱れていたのです。
要人の暗殺や放火が頻繁に起こり、それを取り締まる役人にも迫ってきました。

近藤たちの心を動かしたのは・・・
「尽忠報国之志」があれば、身分は問わないというところでした。

幕府に召し抱えられるわけではなく、給与も支給されないが、将軍の先駆けとなって攘夷を実行できる!!

京都についた近藤たちは、市中の見回りをしていた会津藩・松平容保のお預かりとなります。
そこで、会津の精鋭部隊の名前である”新選組”を許されるのです。
新選組は期待に応え、不逞浪士たちを取り締まっていきます。
京都市壬生で・・・100人の隊士たちが生活していました。
休んでいる時は隊旗を振り回して遊んでいた隊士たちも、出番となれば覚悟の上で屯所から出ていきました。
無給で命がけで働く新選組・・・しかし、京都の人は決して温かくはありませんでした。
みすぼらしい恰好を、”壬ぼろ”と揶揄し、無礼、暴言もありました。
そんなことは気にしない近藤。。。

京都の老舗の茶屋で行われた幕府や各藩の代表が集まる会合で・・・
近藤は・・・
「長州や薩摩は単独で攘夷を行っているが、徳川将軍の元一つになって攘夷を行うべきである」
と、進言しています。
この主張に誰もが感心したといいます。

あるとき、幕府の閣僚に呼び出された近藤。。。
新選組の隊士全員を、幕府の臣下に取り立てたいという話・・・
しかし、近藤は断ります。
攘夷をなさないうちに給与をもらう身分となってしまったら・・・気が緩む者も出てくると考えたのです。

現実的には攘夷ではなくなっていきます。
薩摩藩が開国に・・・
そして近藤の希望が打ち砕かれた日・・・それは、天皇に呼び出されていた家茂が、攘夷の気概を見せることもなく、近藤たちを残して江戸に帰ってしまったのです。
近藤は、京都に居ても攘夷は出来ないと悟ってしまいました。。。
隊士を結束させていた攘夷という目的を失ってしまったのです。

1864年、近藤は新選組の解散を決意し、上申書を提出します。
京都には攘夷のために来たのであり、果たせないならば解散させてほしい・・・。
池田屋事件の1か月前のことでした。

つまり・・・池田屋事件までは、攘夷をやるために市中警備をやっていたようです。
近藤の攘夷も、長州の攘夷も全く一緒で・・・
違うのは攘夷を行う主体者・・・つまり征夷大将軍である徳川家茂と天皇の違いなのです。
どうして家茂なのか???
近藤勇の出身地・・・多摩が幕府の領地だったことに大きく関係しているでしょう。
天領は税金が安く、農民が豊かでした。
農民でも剣術ができる・・・そして天領の百姓としての自負もあったのです。

京都についたときは1963年2月・・・
この時、天皇に働きかけていたのは長州藩でした。
町の中では、脱藩した過激派浪士が暗殺・放火を行ってる状態でした。
新選組の最初の任務は、この過激派浪士を取り締まることだったのです。
ところが・・・8月18日・・・八・一八の政変によって、長州藩が京都を追放されてしまいました。
長州藩の人間は、京都への立ち入りを禁止されてしまいます。
そこで、長州藩は非合法に藩士を潜伏させ・・・潜伏浪士に暗殺や放火を命じたのです。
新選組の対象は、潜伏志士だったのです。
より過激に・・・より過激に・・・

池田屋事件・・・事件の発端は、この池田屋で放火テロの密談が行われている・・・という疑惑でした。
1964年6月・・・京都に長州藩士が集まってきているという情報が・・・!!
この時期、長州藩士は京都に入ることを許されていませんでした。
手引きをしたのは???
6月5日早朝・・・古高俊太郎を捕縛。
古高の家を捜索すると、武器弾薬がずらり!!
追及するため拷問にかけられる古高。。。
これによって放火を白状します。

”御所に火を放ち、混乱に乗じて天皇を拉致し長州へ”と。。。
300人もの長州藩士が潜伏している???
緊急事態に会津藩に応援を依頼します。
午後7時会津藩が来る前に、単独で出発!!
鴨川を挟んで右と左・・・近藤と土方に分かれての捜索となりました。
午後10時・・・池田屋にたどり着いた近藤。。。
周りに見張りの隊士を置くと、切り込めるのはわずか4人。。。

翌日から祇園祭が・・・近藤の選択肢は???
援軍を待つ?それとも4人ですぐ突入??

腕に覚えのある近藤たち・・・負けるとは思っていなかったようです。

・・・突入します!!

2階には10人以上の浪士たちがいました。
ちゃんちゃんばらばら・・・乱戦になります。
そして、沖田総司が結核による吐血で戦線離脱・・・。
藤堂平助も頭を負傷。
近藤と永倉だけになってしまいました。

と・・・その時、土方隊登場!!
残った浪士たちは観念して降伏したのでした・
翌日まで残党狩りが行われ・・・新選組は朝廷から感謝状が贈られ、近藤勇は英雄となり、新選組の名は天下に轟いたのでした。

まさに命がけの選択だったのです。

しかし・・・攘夷とは違う目的で勝利してしまった近藤・・・違う方向へ流れて行ってしまう??
近藤勇の本心は何処にあったのでしょう。。。

ここで、新選組の方向性が変わってしまいました。
後戻りできない・・・幕府側について、長州と戦う位置に固定されてしまったのです。
近藤勇は、池田屋事件の後は、”攘夷”という言葉を使わなくなります。
もっぱら長州征伐を推すようになるのです。
しかし、これは近藤だけではなく、世の中が攘夷を語れなくなってしまったのです。
天皇自身が諸外国を許してしまったのがこの頃で、そこで攘夷を叫び続けることは、政治家・近藤勇としては非現実的な事だったのです。

その後の日本にはどのような影響を与えたのでしょうか?
池田屋事件の抗議を名目に、長州藩は、京都に兵を進めます。
遂に武力衝突・・・禁門の変が起こります。
新選組は会津藩の精鋭部隊として活躍!!
しかし、3年後・・・薩摩が長州と手を組んだことで形勢は逆転・・・。
王政復古のクーデターで薩長が実権を握ると、幕府を討伐するように命を出します。
これによって幕府は・・・新選組は朝敵・逆賊となったのです。

天皇を味方につけ、最新式の兵器で戦う新政府軍は、次第に幕府軍を追い詰めていきます。
新選組は敗走を続け・・・
池田屋事件が発端となった戦いは、全国各地に飛び火し、事件から5年間続きました。
恨みが重なっていくうえで、池田屋事件が大きなファクターだったことは否めません。

徳川が降伏を決めたあとも、闘い続けます。
しかし・・・千葉県流山市で新政府軍に囲まれてしまいました。
切腹を決意するも、代表として名乗り出ます。

1868年4月26日・・・新政府軍は近藤を斬首・・・。
近藤の首は、京都の三条河原に晒されたのでした。
忠義をつくし、国に報いようとして闘った近藤の罪は天皇に逆らった・・・逆賊の汚名でした。


近藤勇~新たなる真実~はこちら
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俺は負けない、負けたくない~土方歳三・走り続けた純粋戦士~はこちら


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ああ・・・ついに、白虎隊まで出陣です。。。
まさに、背水の陣


奥羽越列藩同盟が崩壊寸前となった慶応4年8月。。。

二本松は陥落し、新政府軍は会津領内に陣を進めていました。
そして・・・奥羽には、寒さの足音がひたひたとやって来ていました。
その前に、会津を叩くつもりの新政府軍です。。。

会津では、男も女も戦いの準備をしていました。
頑ななまでに勇敢に・・・!!
しかし、薙刀や刀では薩長は倒せない・・・そのことは、八重には解っていました。。。

「西国の武士たちは、寒さに弱く、冬は使い物になりませぬ・・・」

と言う官兵衛・・・。
でもそれで勝てないことは、八重の方が解っている???

領内への敵の進攻を防ぐべく、会津藩は、お城に繋がる道すべてを封鎖する作戦に。。。

その頃、覚馬は牢の中で、流行り病と闘っていました。
そこへ西郷隆盛が・・・。
医者を呼んでくれるそうな。。。

敵は・・・8月21日には母成峠を突破・・・
会津藩800は、新政府軍3000の前に、猪苗代城へと撤退します。

15歳~60歳までの男はみなお城へ!!

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「天下 
  とどろく名をばあげずとも 
   遅れなとりそ もののふの道」

それは・・・山本家もまた・・・
八重の父・権八と夫・川崎尚之助が出陣しようとしていました。。。

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会津としての出陣に、出石藩出身の川崎尚之助はどんな気持ち???

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そして・・・
西郷頼母はどうなる???

新選組も・・・歳さんは北上することを決めたようです。
残る斉藤一・・・。
愚かなほどに真直ぐな、会津という国を放っておけない!!!

大殿・容保も白虎隊を従えて出陣です。
照姫も・・・みな、籠城を決意したようです。

yae4












怒濤の進軍を続ける新政府軍・・・。
手勢も足りず。。。援軍は・・・白虎隊・・・

いよいよ士中二番隊の出番がやって来ました。

その日の夜・・・戸ノ口原で野営をすることになった白虎隊士中二番隊。。。
雨と雷の中、頭・日向外記は食料を探しに出かけます。。。
そうなのだ・・・実ははぐれちゃうのです。。。この隊長と。。。
はぐれなかったら、死なずに済んだのかなあ・・・

食料・・・ちなみに長州藩の秘密兵器は”パン”でした。
固くないし、日持ちもする・・・まさに、おいしい兵糧でした。

そしてお城にあがる日・・・

yae5












三郎の軍服を着た八重が・・・
固い決意を持って、立っていました。。。


あ~悲劇に向かって転がり落ちていっています。。。

八重は竹子に誘われた娘子隊に入ることを拒否するわけです。
薙刀ではなく、鉄砲で戦う!!と。。。
だから・・・ふたりは喧嘩したとか、仲が悪かったとか・・・いろいろ言われております。
ま、娘子隊は、みなさん辱めを受ける前に自刃するので、入らない方が生き延びられた???
でも、どちらも地獄であることは間違いないですよね。。。

でも、自立している・・・鉄砲担いで戦うような新しい女・八重なら自刃はしなかったかもしれませんね。

八重さん、おとなしい女性に書かれていませんか???
この時点で夜討ちなんかしていたような気もします。

尚之助が出陣する際のストーリーが、サラッとしていたのですが、この頃すでに、すれ違いが出ていた???とも言われています。

洋学者であったということもあり、どう転んでも勝てないと解っている尚之助と、弟のかたきを討ちたい八重。。。
”夜討ち”に関しても、八重は”一人でも多くの敵を討たなければ!!”と思っていて、
尚之助は”ひとり、ふたり殺したところで何も変わらない!!”と、思っていたようです。

ただ・・・離婚したって証拠もなく・・・。

戊辰戦争に負けた際に、尚之助は斗南藩へ・・・。
八重は会津に残ることになります。
で・・・兄・覚馬が生きていることが解ると京都へ行ってしまう八重。。。
尚之助は、作物の採れない極寒の地で、お金を稼ぐなら商取引!!と、やっていたものの・・・
武士の商いでは・・・手形をそのまま持ってトンズラされてしまって借金だけが残った尚之助。
しかし、この商売は藩命ではなかったため、藩は知らぬ存ぜぬで。。。
尚之助は裁判に訴えられることになります。

で・・・戸籍を作る時に、借金が残らないように妻のところに名前を書かなかったのでは???
なんてことも言われています。

まあ、鉄砲持ってるお嫁さんで良いなんて人ですから、優しかったのかもしれませんね。

とりあえず、次回はまさに戦いのシーンになりそうですね。

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