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タグ:新選組

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その美しさから会津富士と呼ばれる明峰・磐梯山
今から150年前、この山の麓で、戊辰戦争最大の激戦が行われました。
藩の誇りをかけた会津藩が、攻め込んできた新政府軍に徹底抗戦!!
そんな会津藩に悲劇が・・・
白虎隊の少年兵たちが非業の死を遂げたのです。
城が陥落したと絶望して・・・。
今も語り継がれる白虎隊と会津藩・・・その壮絶な最期とは・・・??

会津藩は、伊達家の仙台藩、上杉家の米沢藩が幕府に反旗を翻した場合に、防衛の拠点となる重要な藩でした。
藩の礎を築いたのは、2代将軍秀忠の息子・保科正之です。
保科は、会津藩家訓15か条を作り、第1条に・・・
”徳川家に絶対的な忠誠を誓うことが、会津藩の務めである”と。
その使命を果たすべく、代々藩主は人材育成に努めていきます。
その一環として藩士の子供たちは、”什の掟”という心構えを教え込まれます。
10歳になると、藩校・日進館に・・・。
論語、大学など中国の古典を声に出して読み教養を深め、医学、天文学まで幅広く学びました。
砲術、弓術、水練・・・徳川家の有事に備え、有能な藩士を育てようとしました。
こうして幕府から絶大な信頼を得ていく会津は、幕末、朝廷からも信頼を寄せられます。

9代藩主・松平容保は、京の治安維持を担う京都守護職に・・・。
時の孝明天皇から高く評価されます。
しかし・・・15代将軍徳川慶喜が政権を交代した大政奉還を境に会津藩の立場は激変!!
幕府、朝廷・・・両方から敵視されることに・・・

慶喜の裏切り・・・
1868年1月、容保ら旧幕府軍は、慶喜を大将に新政府軍に戦いを挑みます。
鳥羽伏見の戦いです。
しかし、あえなく敗戦!!
容保は慶喜に付き従い江戸に逃げ帰ります。
対して新政府軍は朝敵となった慶喜に対し素早く追討令をだし、江戸へと迫ってきました。
すると・・・慶喜は朝敵に対し恭順の意を示したばかりか、信頼していた容保を江戸から追放したのです。
そこには慶喜の思惑がありました。
まだ新政府軍と戦う気だった会津藩の存在が邪魔だったのです。
「江戸から遠ざけたい・・・!!」
”会津藩 松平容保は、天皇に対し恭順の意を表していない”と印象付けようとしたのです。

徳川家に尽くして来た会津藩に対する裏切りとも取れる慶喜の行為・・・
大きなショックを受けた容保は、失意のまま会津に戻ります。
そして14歳だった養子の喜徳に家督を譲り隠居、自らも朝廷に対し恭順の意を表すのですが・・・
その申し出は受け入れられませんでした。
新政府軍は、容保の斬首を要求!!

どうして新政府軍は会津に厳しかったのでしょうか?
長州藩との因縁・・・
それは、まだ幕府が政権を返上する前、京都守護職の容保は、新選組を配下に置き、尊王攘夷派の長州藩士などを厳しく取り締まっていました。
攘夷派だった孝明天皇も、容保に信頼を寄せるようになります。
1863年、8月18日の政変!!
孝明天皇に近づき利用しようと画策していた長州藩士と尊王攘夷派の公家らを京都から追放!!
この時、長州藩士たちを追放したのが容保ら会津藩でした。
長州藩は尊王攘夷激派で、容保はまだ公武合体派だったのです。
孝明天皇も、まだ”長州藩士らの追放”を望んでいました。

1864年禁門の変・・・復権を目論んだ長州藩が再び上洛し、蛤御門で幕府軍と対決!!
しかし、御所を守っていた会津藩(松平容保)、桑名藩(容保の弟・定敬)、薩摩藩によって撃退されます。
長州藩は多数の死者を出したうえ、責任を取って3人の家老が切腹を命じられました。
これによって長州藩は会津藩と薩摩藩を「薩賊会奸」と恨むようになりますが・・・
この後、長州は薩摩と同盟(薩長同盟)を組み・・・憎悪の念は、会津藩一藩に集中するのでした。
つまり、容保の厳しい処分は、長州藩の強い意向によるものでした。
新政府軍は、自らの威信を世に知らしめるために、朝敵となっていた松平容保の斬首を決めたのです。
会津藩の存亡をかけた戦い・・・会津戦争が始まりました。

会津藩・松平容保の斬首を執拗に要求した新政府軍・・・
これに猛反対した東北諸藩は、朝廷に容保の助命嘆願をしましたが、朝廷はこれを却下。
そこで、仙台藩を中心に、長岡藩、米沢藩、庄内藩を中心に奥羽越列藩同盟を結び、新政府軍に対抗することになりました。
容保も、幼い藩主に代わって、密かに戦いの準備を進めていました。
まずは、部隊を年齢別に4つに分けます。
東西南北の守護神から・・・
主力は朱雀隊・・・18歳~35歳の屈強な青年部隊
続く青龍隊・・・36歳~49歳で構成
年配者は玄武隊・・・50歳以上の予備隊
白虎隊・・・16~17歳の少年で、予備隊した。
この白虎隊は、上流藩士の子弟で構成される士中隊、中級藩士の子弟で構成される寄合組隊、下級藩士の子弟の足軽隊と、身分によって分かれていました。
容保は、武器の洋式化も進めていました。
プロイセンの武器商、ヘンリー・スネルを軍事顧問として招聘していた容保は、会津藩・平松武兵衛を与え重用。
新潟にいたスネルの弟を通じて、武器を購入していました。
この時、会津藩・庄内藩からプロイセンに対し、領地売却の打診があったようです。
当時、新政府軍は、イギリスから最新鋭の武器や弾薬を入手していました。
そこで、会津藩と庄内藩は、蝦夷の領地をプロイセンに売却することで、武器を用立てようとしました。
しかし、ビスマルクは、この提案を拒否!!
このことが、会津藩の戦いに大きな影響を与えることとなります。

1868年4月下旬・・・
会津藩が、白河口の戦いで白河小峰城を占拠!!
新政府軍を迎え討ちます。
指揮を執ったのは、会津藩家老・西郷頼母でした。
仙台藩や、二本松藩らの援軍も駆けつけ、新選組の生き残りたちも会津藩に参戦し、会津藩・東北諸藩・旧幕府軍2500あまり・・・対する新政府軍は僅か700!!
いざ戦いが始まってみると・・・会津藩は、700人以上の死者を出して敗北するのです。
どうして・・・??そこには武器の装備の差がありました。
新政府軍は、最新式の元込め銃・・・手元で弾薬の装填をするので、短時間で弾を込めることができました。
会津藩は、旧式の先込め銃を使っており、先端から弾薬を装填するため、時間がかかりました。
おまけに命中精度は非常に悪かったのです。
武器の輸入が上手くいかなかったことは、用地売却が上手くいかなかったことが原因かもしれません。
白虎隊の少年たちに与えられたのも、先込め式の銃でした。
しかも、体の小さい彼等には小さいものを用意したといいます。
この時、白虎隊に鉄砲を指導した一人が山本八重(新島八重)でした。
来る戦いに備えて・・・!!
白河小峰城を落とした新政府軍は、会津へと迫っていました。
長岡藩、二本松藩が次々と破れ、新発田藩は寝返り。。。奥羽越列藩同盟は崩壊しました。
会津藩は追いつめられていきます。
新潟港を抑えられ、スネルの弟からの武器の補給路が絶たれてしまいました。

8月21日・・・新政府軍が会津にやってきました。
母成峠で激戦!!
新政府軍3000に対し、会津藩は僅か800でした。
この戦いに敗退・・・遂に領内に攻め込まれてしまいました。
そして・・・翌日、白虎隊に出陣命令が出されたのです。
苦渋の選択・・・もはや、避けることのできないところまで追いつめられていました。

主力部隊を藩境に・・・!!
しかし、東側の母成峠の戦いに勝利した新政府軍は、城下と山を隔てた猪苗代湖へと一気に攻めてきました。
容保の決断・・・主力部隊を藩境に送り出した後、城に残っていたのは50歳を超えた老兵と、まだ年端も行かぬ少年部隊でした。
そして、容保が選んだのは、白虎隊士中二番隊に出陣命令を出すのです。

8月22日、容保から出陣命令を受けた白虎隊士中二番隊は、猪苗代湖周辺で戦う味方と合流すべく隊長・日向内記のもと、峠を越えていきました。
到着したのは、日没間近の事でした。
8月22日は、今の暦にすると10月初旬・・・台風が接近していたので、強風雨や寒さに苦しめられました。
予備兵だった白虎隊の出陣は、突如決まったので、十分な食料を所持していませんでした。
一行は、降りしきる雨の中、野営を・・・!!
雨を避ける場所などなく、寒さに震えながらの野営・・・。
すると、隊長の日向が・・・
「他の隊に掛け合って、食料を分けてもらってくるから、諸君らは、ここで待つように。消して動いてはならぬ・・・!!」と、部隊を離れていきました。

激しい雨と不安の中、眠れない夜を過ごした少年兵たち・・・
早朝から新政府軍の激しい攻撃にさらされます。
会津軍は、たちまち陣形を崩し後退・・・。
白虎隊市中二番隊は、必死に逃げ回っているうちに他の隊とはぐれてしまいました。
二番隊も散り散りとなり、37人いたのに20人に・・・!!
指示を仰ぐ隊長もいない少年兵たちは、リーダー格の篠田儀三郎を中心に話し合います。
ひとまず若松城に戻ることに・・・しかいs、周囲は敵ばかり・・・!!
そこで、飯盛山の洞穴を通っていこう!!
そうして命からがら、飯盛山の西側にたどり着いた20人・・・ところが・・・
「城が・・・燃えている・・・!!」
目の前には、黒煙に包まれた若松城が・・・!!

「新政府軍の手に落ちたというのか??」

戻る城を失った白虎隊市中二番隊は、もはやこれまで・・・と、次々と命を絶つのです。
しかし、この時、城下は焼き払われていたものの、まだ城は落ちてはいませんでした。
これが、会津戦争最大の悲劇として語り継がれてきた白虎隊の最期ですが・・・

近年新説が・・・
自害した白虎隊20人の中で、一命をとりとめた者がいました。
飯沼貞吉です。
喉を突きさすも息があり、通りかかった女性に助けられました。
平成20年・・・白虎隊顛末略記という手記が発見されました。
これによると、若松城が落城したと思い込んで自決したわけではありませんでした。

意見がまとまらない中、リーダー格の篠田は、
「いずれの策をとっても、敵の捕虜にならないとは限らない。
 そんな恥辱を受けるより、ここで潔く自刃し、武士の本分を果たそう!!」
と、自決に至ったのです。

1868年4月下旬・・・会津戦争
会津藩は奮戦するも、4か月後、新政府軍に若松城を包囲されてしまいます。
城下では目を覆う惨劇が・・・!!
その様子が、会津藩士・荒川勝茂の日記につづられています。

「老人、婦女子、地にまみれ、地に染み、泣き叫ぶ声哀れなり
 あるいは夫人、風呂敷包みを背負いて出で 逃げるに妨げとなり 途中にて捨てるもあり
 また老人背負いて打たるるもあり
 実に目も当てられぬ有様なり」

この時、会津藩士の妻や娘などの多くが、足手まといになること、敵からの辱めを受けることを嫌い、自ら命を絶ったといいます。
その中で、中野竹子が指揮をした娘子隊は果敢にも長刀で戦います。
当時、新政府軍は生け捕りにしようとしましたが、その長刀さばきと勇猛果敢さに、慌てて銃を取り銃弾を浴びせました。
竹子は額に銃弾を受け、命を落とします。
まだ、22歳でした。
新政府軍によって、城下を押さえられた会津藩は、若松城での籠城戦を強いられます。
深い堀と高い石垣に囲まれた若松城は、奥羽一の堅固な城と呼ばれていました。
そのため、新政府軍を大いにてこずらせます。
鉄壁の城に刺客などなく、敵を撃退していきます。
しかし・・・長期戦の様相を呈してくると、様相は一転!!
5000人いた若松城は、食糧不足に陥ります。
会津藩の予想より早く、新政府軍は攻めてきました。
新政府軍の中心・薩摩、長州、土佐藩は、寒さに弱く、冬が来る前に攻撃を急いでいたのです。
5000人分の備蓄ができていなかったのです。
食糧が底をつくと、もち米の粉を湯がいただけのものを食べ、飢えを凌ぎました。
秋の深まりとともに、寒さも増していきます。
着の身着のままで逃げてきた人々は、震えながら夜を過ごします。
城内の人々が疲弊していく中・・・新政府軍は新たな戦法へ・・・!!
若松城の南東2キロにある小田山・・・新政府軍は、ここに最新の大砲・アームストロング砲を据えました。
射程は2キロ以上・・・城まで十分に届きます。
この大砲で、1日1000発以上もの砲弾を若松城に向けて撃ったのです。
城は大きなダメージを受けていきます。
激しい攻撃、劣悪な環境・・・次第に脱走者が続出し、悲観して自決する者も出てきました。
それでも、松平容保は、家臣たちと戦うことを選びます。
藩士たちもそれに応えます。
最後まで新政府軍を城の中に入れることなく戦ったのです。

ところが・・・
奥羽越列藩同盟の東北諸藩が降伏していく中、同盟の中心だった仙台藩がついに新政府軍の軍門に下ります。
その翌日・・・新政府軍より会津藩の元に降伏勧告状が届きます。
戦いの指揮を執ってきた容保は、遂に城を明け渡すことを決断!!
家臣たちは、涙ながらに容保の決断を承諾したのです。
9月22日、若松城に降参の意味を込めた白旗が掲げられます。
それは、負傷者の包帯に使っていた木綿の端切れを縫い合わせて作ったものでした。
そして、礼服に身を包んだ容保は、自ら降伏謝罪状を持って新政府軍の元へ・・・。
戊辰戦争の最初、鳥羽伏見の戦いから数えると、会津藩の死者は3000人近くに上ったといいます。

生き残った藩士たちには、過酷な運命が・・・
本州最北端の斗南藩3万石(実高6000石)へ移住させられます。
会津藩士だけが移住させられ、亡くなる人も沢山でした。
会津藩家老萱野長修が全責任を負って切腹。
松平容保は、斬首を免れ鳥取藩江戸屋敷などで謹慎。
容保は、日光東照宮の宮司となり、明治26年59歳でこの世を去りました。

新政府軍により賊軍となった会津藩は、自らの信念を曲げることなく最後まで戦いました。
故に、多くのものを失うこととなってしまいました。
そんな中、生き残った少年たちに会津の未来が託されました。
白虎隊の二人の少年が会津藩士・秋月悌次郎の尽力で、長州藩士・奥平兼輔の元に預けられ、書生となります。
その一人・山川健次郎は、後に48歳の若さで東京帝国大学総長となります。
その後も、日本の未来を担う、豊かな人材を育てることに尽力したのです。

山川は、常に、子供たちにこう教えていました。

「終生 人格を磨くべし」

何事に対しても、我慢強く、卑怯な真似はしてはならない・・・
会津で学んだ心得・・・会津士魂を伝えたのです。

白虎隊市中二番隊19人は、自決した飯盛山に眠っています。
会津を思い、会津のために死を選んだ19人の少年・・・
その傍らには、彼らを最後まで出陣させたくないと思っていた容保の歌碑があります。

幾人の涙は石にそそぐとも
        その名は世々に朽ちじとぞおもう
                           容保


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感想(5件)



今から150年ほど前の文久3年2月・・・。
幕末の風雲急を告げる京都に、江戸から浪士たちの大集団がやってきました。
勤王の志士たちが恐れた戦闘集団・・・後の新選組です。
その中心人物は・・・局長・近藤勇、鬼の副長・土方歳三。
旧幕府軍が戊辰戦争で惨敗を重ねる中、彼らは武士として幕府に忠義を貫き戦い続けました。
彼らはなぜ、最期まで戦う道を選んだのでしょうか?

尊王攘夷運動の高まりとともに、不穏な空気が立ち込める京都・・・
その京都で警護に当たっていただんだら模様の羽織姿の集団が、彼らはもともと14代将軍家茂が上洛するにあたっての護衛役として幕府にお金で雇われ江戸からやってきた浪士たちでした。
その後も京都に残り、治安維持の名のもとに、幕府に刃向かう過激な尊王攘夷の志士たちを次々と粛正していきます。
そんな新選組の名を一躍世に知らしめたのが”池田屋事件”です。
長州藩を中心とする尊王攘夷派の志士たちが、御所に火を放ち、時の孝明天皇を長州に連れて行こうと計画!!
その情報を新選組が入手します。
元治元年6月5日・・・京都三条木屋町・・・池田屋に潜んでいることを突き止めると、近藤勇、沖田総司らわずか4人で踏み込みます。
応援も駆けつけ2時間の戦闘の末、7人を殺害、4人を捕縛しました。
新選組は、彼らの配下である京都守護職&会津藩主である松平容保から絶大な信頼を得ていました。
200人を超える大組織へと成長していきます。
しかし、この時新選組は、京都守護職会津藩御預・・・あくまでも浪士の集団でした。
それでも近藤や土方は、粉骨砕身、幕府に尽くしていくのです。
どうして幕府への忠誠心が強かったのでしょうか?

それは・・・武蔵国多摩にありました。
天保5年、多摩・・・上石原村の農家の三男として生まれた近藤勇は、15歳・・・若くして天然理心流に入門。
やがて剣の腕を認められ、天然理心流の宗家・近藤家の養子となり跡を継ぎます。
甲州街道の宿場町日野・・・ここにある剣術道場に、出稽古によく通っていました。
そしてそこで、運命の出会いを果たすのです。
同じ多摩の農家の出である土方歳三です。
二人は・・・「いつか幕臣となって、幕府のために働きたい」と厚く語り合ったといいます。
幕府の直轄地だった多摩は、年貢の優遇など多大な恩恵を得ていました。
戦があった時には、兵士として参戦する”八王子千人同心”という農民たちも多く、幕府への忠誠心が強い土地柄でした。
そんな土地で育った二人が、我等こそが真の”幕府侍”であると思うことは、ごく自然なことでした。

彼等が京都に来て4年経った慶応3年6月・・・
近藤のもとに嬉しい知らせが舞い込みます。
それまでの功績が認められ、新選組隊士全員が幕臣に取り立てらることになったのです。
二人の夢がかなった瞬間でした。

しかし、その4か月後・・・第15代将軍・徳川慶喜が政権を朝廷に返上してしまいました。
慶応3年10月14日大政奉還、12月9日王政復古の大号令・・・。
およそ260年続いた徳川幕府が終わりを告げるのです。
そんな中、徳川慶喜は、自身の内大臣の辞退・所領の返上を命じる新政府の処分に反発する暴発をおさえるために京都から大坂城へ・・・それに伴い、新選組も京都を離れ、伏見に・・・
新選組は、いつでも幕府のために戦う覚悟を決めていました。

慶応4年1月3日・・・鳥羽伏見の戦い・・・戊辰戦争の始まりです。
京都伏見に近い鳥羽街道で、新政府軍と旧幕府軍が激突!!
薩摩藩と長州藩を中心とする新政府軍はおよそ5000!!
これに対し、旧幕府軍は15,000!!
数の上では旧幕府軍が圧倒的でした。
新選組は、旧幕府軍の司令部があった伏見奉行所に陣取り、薩摩軍の本陣があった御香宮神社を急襲、痛手を与えます。
しかし、その後、新選組ら旧幕府軍は苦戦を余儀なくされます。
原因は・・・鳥羽伏見の戦いで指揮を執っていたのは、局長の近藤勇ではなく副長の土方歳三でした。
半月ほど前、近藤は仲間割れした新選組隊士に右肩を狙撃され、大坂城で治療を受けていました。
この近藤の不在が、新選組が苦戦した要因でした。

戦略に長けた近藤が居なかったことで、隊士たちは戦場で臨機応変に動くことができませんでした。
新選組ら旧幕府軍は追いつめられます。
薩摩軍のはなった大砲が、伏見奉行所の火薬庫に直撃!!
大爆発を起こしたのです。
新選組ら旧幕府軍は、奉行所からあえなく撤退・・・
1月5日、淀千両松まで撤退・・・そこで敵を迎え討ちます。
新選組は得意の剣術によって善戦しますが、大砲や小銃を中心とした新政府軍の攻撃が始まると形勢は逆転・・・新選組隊士の戦死者は10人、負傷者は25人に上りました。
新選組を含む旧幕府軍は、大坂からの援軍を待つため、老中・稲葉正邦の居城である淀城に・・・体勢を立て直そうと考えます。
四方を川や池に囲まれた堅固な淀城を拠点と戦い、巻き返しを図ろうとしたのですが・・・。
新政府軍の圧力によって、稲葉家の家老が中立を決意!!
土方らは入城を拒否されます。
味方のまさかの裏切り・・・もはや、なすすべはありませんでした。

朝廷から錦の御旗を与えられ、官軍となった新政府軍の勢いが増すと、旧幕府軍の兵士たちは恐れをなし、次々と逃げ出したのです。
そんな中、大坂城で治療中だった近藤勇が動きます。
15代将軍だった慶喜に・・・
「まだ策はあります。
 このままでは東照大権現に申し訳が立ちません。」
東照大権現として崇められていた家康の名をだし、慶喜に徹底抗戦を求めますが。
1月6日午後9時・・・慶喜は夜陰に乗じて大坂城を脱出、幕府の軍艦で江戸に逃げ帰ってしまいました。
旧幕府軍の敗戦は決定的となりました。
新選組も江戸へ撤退・・・この時、隊士たちは90人になっていたといいます。
鳥羽伏見の戦いの敗戦を受け、江戸城内は、新政府に対する教順派と抗戦派に分裂!!
教順派の代表は、幕府の重役であった勝海舟でした。
勝は、新政府軍に恭順することで、徳川家を存続させようと考えていました。
一方新選組は抗戦派・・・戦うことにこだわりました。

鳥羽伏見の戦いに勝利した新政府軍は、江戸総攻撃に向けて進軍を開始します。
そんな中、新選組局長・近藤勇は幕府の直轄地だった甲州の治安維持を命じられ甲陽鎮撫隊を結成。
しかし、近藤と土方は、新政府軍に恭順しなかったことから朝敵と見なされ、命を狙われていました。
近藤勇は大久保大和、土方歳三は内藤隼人と名を変えて素性を隠すことに・・・。

また、土方は刀や槍で戦う時代は終わったと痛感、軍備を西洋化し、自らも断髪、洋服に身を包みます。
慶応4年3月1日、150人の兵を率いて甲府へ・・・
しかし、先に甲府についた新政府軍に、甲府城にいた幕臣たちが降伏したために城を奪われてしまいました。
これを聞き、甲陽鎮撫隊から脱走兵が続出し、兵は120人ほどに減ってしまいました。
それでも近藤たちは、勝沼宿まで兵を進めます。
およそ2,000人の新政府軍と戦うために!!

3月6日正午ごろ・・・両軍が激突!!
しかし、僅か2時間ほどで鎮撫隊は壊滅状態に・・・。
それでも近藤と土方は戦うことを諦めませんでした。
兵を集めながらも幕府の直轄地・流山に移動!!
この地の豪商の屋敷に陣を構え、徹底抗戦の構えを見せますが・・・予想をしなかったことが起こりました。
4月3日、新政府軍に包囲されてしまいました。
この時ほとんどの兵士たちが軍事教練に出ていたので本陣には数人しか残っていませんでした。

「最早、切腹するしかあるまい・・・」by近藤
武士として散ろうとする近藤に対し・・・
「いけません、このままでは犬死です。
 ここは運を天に任せ、出頭すべきです。
 生きていれば、きっと反撃の機会はあります!!」by土方

近藤は、土方の言葉に出頭を決意。
この時、土方が近藤に出頭を勧めたのは、大久保大和という偽名を使っていたので、新政府軍に近藤であるとバレないのでは?と思っていました。
偽名とバレたときの秘策として・・・
新政府軍と強いパイプのある勝海舟に助命嘆願の手紙を書いてもらうというものでした。
4月4日の勝の日記には・・・
「土方歳三来る 
 流山顛末を云う」
土方が勝に面会したのは事実ですが、勝が助命嘆願したという記録は残っていません。
勝海舟は教順派なので、近藤の嘆願を書くことはあり得なかったでしょう・・・
土方の目論見はハズレ・・・さらに、新政府軍の中に、元新選組隊士がいたために近藤の素性がバレてしまいました。
4月25日・・・近藤勇は朝廷に背く逆賊として、切腹を許されず斬首・・・まだ35歳でした。
切腹を許されなかったことは無念であったことでしょう。

土方はこの後、僅か残り少なくなった新選組の隊士を率いて、下総の旧幕府軍に合流・・・
そこで、旧幕府軍総督・大鳥圭介と出会います。
土方は、鳥羽伏見の戦いの実戦経験が評価され、参謀として迎えられました。
1,000人の先鋒隊を率いて、宇都宮城を一日で落とします。
新政府軍は震え上がったといいます。

近藤勇亡き後、新選組の土方歳三は、米沢、仙台と東北各地を移動していきます。
共に新政府軍と戦ってくれるよう交渉するためでした。
しかし・・・米沢藩も、仙台藩も新政府軍の遺体する降伏を決めていたのです。
東北諸藩に味方になることを断られた土方でしたが、仙台で隊士を募り、新選組は150人に増えていました。
そして・・・ここで一人の男と出会います。
旧幕府海軍副総裁・榎本武揚です。
榎本は新政府軍から開陽丸をはじめ8隻の軍艦の引き渡しを求められていました。
しかし、榎本はこれを拒否して仙台へ向かいます。
ところが仙台藩が新政府軍に降伏してしまったために、軍艦を率いて蝦夷へ向かうことを決めます。
幕府が倒れたことで生きる道を失った幕臣たちと共に、蝦夷で蝦夷共和国を建国しようと考えていたのです。
土方は榎本と蝦夷へ行くことにします。

明治元年10月20日・・・土方たちは、蝦夷の鷲ノ木浜に到着。
その後、二手に分かれて箱館の五稜郭に向かいました。
五稜郭は、幕府が箱館開港に向けて元治元年に完成させた西洋式の城郭・・・上から見ると星形が特徴です。
土方たちは、新政府の占領下にあった五稜郭を瞬く間に占拠。
中にあった箱館奉行所に陣を張ります。
さらに、蝦夷を支配していた松前藩の居城・松前城も1日で落としてしまいました。
蝦夷でもなお戦い続ける土方・・・一矢報いることが近藤勇の精神を継承する最後の誠である・・・。
勝つ、負けるという打算を超えたところに土方の境地があったのです。

衝撃の知らせが・・・最新鋭の軍艦・開陽丸が暴風雨により江差港で座礁・・・。
一隻で新政府軍の軍艦の全てを上回る能力を持つといわれていた開陽丸を失うことは大きな痛手でした。
一方、新政府軍の船は蝦夷へ・・・。
旧幕府軍は明治元年12月15日、蝦夷の平定を宣言し、「蝦夷共和国」樹立。
榎本武揚が共和国の総裁に選ばれ、大鳥圭介が陸軍奉行、土方歳三が陸軍奉行並でした。
新政府軍は旧幕府軍を一掃しようと蝦夷へ軍隊を向わせます。
明治2年4月箱館戦争開戦!!
土方は新政府軍を迎え討つために江差方面に・・・
その途中の二股口が主戦場となります。
二股口は急な崖を擁する山に囲まれ、谷底を深い川が流れる天然の要害・・・。
土方は周囲の山に塹壕を掘り、新政府軍を待ちます。
土方郡300に対し迫る新政府軍600!!
劣勢の中、戦いが始まりました。
新政府軍の猛攻にもひるむことなく、果敢に抗戦する土方!!
16時間に及ぶ戦いの中で、3万5000発の弾丸を打ち込み、見事新政府軍を退却させます。
激しい銃撃戦となった箱館戦争を含む戊辰戦争の一連の戦いは、最新鋭の銃を使った近代的な戦争の幕開けともいえました。
ミニエー銃は、フランスで開発された先込式のライフルで、銃身の内側にライフリングといわれる溝が刻まれていました。弾が自転しやすくなってより真っすぐに遠くまで飛ぶ仕組みになっていました。
有効射程距離も旧式銃(火縄銃・げべーる銃)の3倍の270㍍・・・箱館戦争ではこのような高性能な武器を使った激しい戦いとなったのです。
そして、土方はその銃撃戦で命を落とすことになります。

明治2年4月13日、旧幕府軍と新政府軍が箱館近郊二股口で激突!!
旧幕府軍を率いる土方歳三の活躍によって、一旦新政府軍は撤退しますが・・・その10日後、猛攻を仕掛けてきました。
この時も、12時間の激戦の末、土方が二股口を死守・・・劣勢にあった旧幕府軍で一人気を吐き武士の意地を見せます。
そんな中、木古内方面で戦っていた大鳥圭介の軍が総崩れに・・・そのまま新政府軍がなだれ込んでくれば土方軍は挟み撃ちとなって退路を断たれてしまう・・・。
土方は止む無く函館まで退却・・・
5月11日午前3時新政府軍による箱館総攻撃・・・!!
僅か4時間ほどで箱館の街の大部分が制圧されてしまいました。
それでもなお、瀬新選組の隊士たちは箱館湾に面した弁天台場で籠城し抵抗します。
そんな仲間たちを救うために、五稜郭から向かう土方・・・。

土方の護衛役で常に行動を共にしていた立川主税によると・・・。
”土方、兵を率いて一本木より進撃す”
そして、一本木関門から異国橋まで2キロ近く敵を追い払います。
その後、一本木関門に戻ってきた土方は、味方の兵に向かって叫びます。
「前進せよ!!この策から退く者は・・・容赦なく斬る!!」
兵士たちは誰一人退くことなく果敢に立ち向かっていきます。
ところが・・・5月11日午前10時ごろ・・・
一発の銃弾が馬上にいた土方を貫きます。
立川が駆けつけたとき、すでに土方は息絶えていました。
土方は狙撃されたとも、流れ弾が当たったともいわれています。
立川の日記によると・・・”敵丸腰間を貫き遂に戦死”とあります。
 
一発の銃弾によって命を落とした新選組副長・土方歳三・・・。
土方は誰に撃たれたのでしょうか?
松前藩は、もともと新選組を配下においていた会津藩と交流がありました。
幕府側の藩でしたが、藩内での権力闘争で新政府へ恭順するようになったのです。
箱館戦争に松前藩は新政府軍として参加していました。
そして一本木に・・・。
そしてその八番隊の中に、土方を撃った者がいるのではないか??
松前藩氏・米田幸治??
米田幸治は天保14年うまれの松前藩士で若いころから銃の名士とされ、箱館戦争時は八番隊の小隊司令士となっていました。
そんな米田が土方を撃ったという資料が残されています。
米田の孫が書いた本によると・・・。
”” 御祖父米田幸治中尉が箱館戦争において脱走幕軍豪将土方歳三を討ち取った””
米田は土方を撃ったことを家族にだけが語っていたようです。

「部下が銃を撃てなかったので、その銃を取り上げ彼の方に乗せ、太刀打ちの構えで引き金を引き、やってくる武士を撃った。
 すると馬上の武士が落ちた。
 銃撃がやんだので、武士の死体を見に行き、陣羽織を裏返すと土方と書いてあった。」

米田の証言が事実ならば、幕府のために忠義を尽くして来た土方は、かつては幕府側で味方だった者の銃弾に散ったということなのです。
土方の死から7日後・・・明治2年5月18日、箱館戦争終結。
戊辰戦争は終わりを告げます。
最期まで忠義を貫き、戦い続けた新選組・・・局長近藤勇と副長土方歳三・・・
幕府の直轄地の農民に育ち、同じ夢を見て切磋琢磨し、幕臣にまでとりたてられました。
その恩を忘れず、最期まで武士としての意地を貫き戦い続けました。

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今年の1発目は私の大好きな”歳さん”で!!

かつて、司馬遼太郎はこう言った・・・。
「京は季節の都である」
四季に彩られた都を血に染めた男・・・新選組副長・土方歳三です。
黒船来航をきっかけに、国論は攘夷と開国にわかれ・・・250年続いた徳川幕府は大きく揺らぎました。
この争乱に乗じ、幕府転覆に暗躍する藩士、浪士たち・・・。
鬼の副長土方歳三は、局長・近藤勇と輩を屠り、新選組隊士をも鉄の掟で葬りました。
幕末維新の時代・・・何が土方を駆り立てたのでしょうか? 

京都の夏の華・祇園祭・・・153年前のそのさなかに、事件は起こりました。
1864年6月5日・・・新選組が一躍その名をあげた池田屋事件です。
この時討幕を目論む一派は、京都に火を放ち、混乱に乗じ天皇を長州に連れ去ろうと計画していました。
その集会に僅かな手勢で乗り込んだ新選組・・・
凄惨な斬りあいの末、数人をその場で殺害し、多くの討幕派を捕らえました。

この時、新選組副長・土方歳三が身に着けていたのが残されています。
古くから甲州街道の宿場として栄えた日野・・・
1835年土方歳三は、武州(武蔵国)石田村に豪農の六男として生まれました。
土方が暮らした家は、歳三の兄の子孫が受け継ぎ資料館として公開されています。
土方は、この鎖帷子をつけて池田屋に駆け付けたと言います。

kusari
槍で突かれたような跡、補修された跡・・・土方の汗がしみ込んだ防具からは、自らの命と引き換えに、幕府への忠義の姿が浮かびます。


土方家には、歳三の遺品以外にも武具が伝えられてきました。
武州は天領なので、徳川に何かあったら馳せ参じる気概が農民にもあったのです。




土方が生れる1年前、局長となる近藤勇も武州上石原村に生まれています。
幼いころから剣術に秀でた近藤は、27歳で天然理心流を継承し、土方は門人として腕をあげました。
1歳違いの二人は、幕府への忠義の心を育み、激動の時代を二人三脚で歩むこととなります。

この頃、250年続いた徳川幕府は大きく揺らいでいました。
ペリー来航以来、国論は、攘夷と開国に分かれ・・・幕府は、朝廷に攘夷実行を約束したものの、道筋は見えていませんでした。
政治の中心地・京都には、強硬な攘夷派の藩士や浪士が集まり、幕府寄りの人物を殺害するなどのテロ行為に及んでいました。

そんな中、朝廷への攘夷対策言上に14代将軍家茂の上洛が決まります。
その警護のために、江戸城下で腕に覚えのある者が募集されます。
土方や近藤は迷うことなくこれに参加し、運命の地・京都へ・・・!!
京都での土方たちは、京都守護職・会津藩主・松平容保の預かりの身分となり、京都の治安維持を担うこととなります。
新選組は取締に当たり、過激な攘夷派の殺害を厭わず、討幕運動への脅威となっていきます。
新選組の命知らずの戦いと強固な結束は、厳しい大規によるものでした。

第一 指導を背くこと
第二 局を脱すること
第三 勝手に金策を致すこと
第四 勝手に訴訟を取り扱ふこと

四箇条を背くときは
切腹を申し付くること

切腹の理由は・・・
新選組は、正式な武士ではありません。
町人、農民からも入隊していました。
本来の武士ならば、閉門、蟄居など、段階を追った処分ができましたが、彼らが差し出せるのは・・・自分の命だったのです。
新選組が殺した敵は26人ですが、約40人が粛正されています。
正式の武士に侮られないように、より武士らしく生きる・・・それが、ポリシーとなっていました。
内部の粛正を続けながら、新選組を維持し、京都の治安維持に努める土方・・・。
当時、土方が使っていた刀は・・・「大和守源秀圀」です。
直刃で、波紋が真っすぐになっており、まさに人を斬るための・・・戦うための刀でした。
近藤勇が長曽祢虎徹・・・他の隊士たちもブランド刀を好むのに、土方はブランド物よりも実際によく斬れる刀を好んでいます。
土方の愛刀の柄の中には・・・「幕府侍土方義豊戦刀」と名がきられています。
義豊とは土方の諱で、戦刀とあるので、戊辰戦争でこの刀を使ったと考えられています。
1868年正月・・・戊辰戦争は、京都郊外・鳥羽伏見で始まりました。
新選組は、銃や大砲を上手く使う新政府軍に敗れ、江戸に逃れることに!!
江戸にもどった土方は、旧幕府の役人に鳥羽伏見での戦いを語ります。
「最早、武器は砲でなくてはいけない。
 私は剣を帯び、槍を執ったが、一切役に立たなかった。」
幕府侍・土方は、西洋の最新銃器を見せつけられ、自らも洋装へ・・・!!

鳥羽伏見での敗戦後、江戸に戻った新選組は、旧幕府軍の責任者・勝海舟の配下となりました。
勝は、西郷隆盛との会談で、江戸城を無血開城に導き、徳川家の存続を図ろうとしていました。
しかし、土方は、幕府侍として応戦を考えていました。
鳥羽伏見での敗戦から3か月後・・・土方は、およそ200人の新選組隊士を引き連れて、近藤らとともに江戸川を渡りました。
仁を構えたのは、現在の千葉県流山!!
対陣の表向きの理由は、幕府寄りのこの地の反乱を鎮めるためでした。
しかし、土方の本意は、新選組を近代的な様式部隊に訓練することでした。
新選組が会津軍の一員として戦う??
時代は、洋式訓練、銃や砲の訓練・・・。
流山では・・・近藤は大久保大和、土方は内藤隼人という偽名を使っていました。
これは、新政府軍の追撃をかわすためだったと言われています。

新政府軍の動きは早く・・・土方らの流山着陣の翌日、新選組の本陣は、多数の新政府軍に取り囲まれてしまいました。
この時、隊士たちは野外訓練に行っており、本陣には土方・近藤以外には数名しか残っていませんでした。
ここまで鯛を引っ張ってきた近藤は、観念しました。

「最早これまで!!切腹いたす!!」by近藤勇

土方・・・どうする??

近藤を切腹させる??それとも、最後まで死力を尽くして新政府軍と戦う・・・??
それとも近藤を出頭させる・・・??

近藤と共に死を選ぶのか??一縷の望みにかけるのか・・・??

新政府軍に包囲され、切腹を覚悟した近藤勇・・・
この時・・・

「ここで割腹するは犬死になり。
 運を天に任せ、あくまで鎮撫隊を主張し、説破するこそ得策ならん」by土方

土方は、偽名を貫き近藤を出頭させ、生き抜くことを選びます。
近藤は、大久保大和として悠然と敵陣に乗り込みます。
土方は急いで江戸に走ります。
走った先は、旧幕府軍責任者・勝海舟の元!!
近藤出頭の翌日の勝の日記には・・・

慶応四年四月四日
土方歳三来る
流山転末を云

とあります。

土方は、勝に近藤の処遇を託し、旧幕府陸軍と合流。
新政府軍の手に渡っていた宇都宮城を様式訓練をしていた隊を指揮して陥落させます。
銃砲を駆使しての見事な勝利でした。
しかし・・・戦闘中に足を怪我した土方は、会津に入って治療に時間を有します。
そこに、追い打ちをかける悲報が・・・
新政府軍に出頭した近藤は、間もなく素性が露見し、罪人として斬首の末、首を京都三条河原に晒されました。
新政府軍の熾烈な攻撃の前に、土方が身を寄せた会津の命脈は尽きようとしていました。
しかし、土方は、近藤の最期を知って以降、常に口にしていました。

「近藤と共に死ななかったのは、ひとえに徳川家の冤を雪ぐためだ。
 万一赦されたら、何の面目をもって地下の近藤に見えんや」と・・・。

土方は、まだ戦いを終えるわけにはいきませんでした。
近藤は、「大久保大和などという者はいない」と、幕府に捨てられる形となりました。
彼らの組織自体が、幕府にとっても邪魔なものになりつつあったのです。
土方も・・・自分達は、和平路線の中で生きていくのではなく、徹底抗戦で生きていくという思いを強くしていました。
自分達が武士としての理想を追求したのにという怨念みたいなものが、近代的なエネルギーに昇華していったのです。
会津を脱出した土方は、榎本武揚と仙台で合流!!
蝦夷地を目指す決心をします。

「到底勝算あるに非らず。
 我等戦ふて快く死せんのみなり。

 吾輩は、已に死神にとりつかれたる也。
 死すへきときに死すれば則ち可なり。」と、松本良順に送っています。

かつて蝦夷地と呼ばれた港町・箱館・・・
市街地の中央に広がる五稜郭は、西洋の城郭を真似て作られ、その中心には箱館奉行所が置かれていました。
土方がここに入城したのは、1968年(明治元年)10月26日のことでした。
死神に取りつかれた男・土方は、蝦夷地でも鬼神の如く戦います。
上陸から1か月足らずで新政府に恭順していた松前藩を駆逐!!
翌1869年(明治2年)4月9日、新政府軍は大挙して蝦夷地に上陸します。
土方は、上陸地から最短ルートの山中・・・二股口で新政府軍を迎え討ちます。
敵が真下に見える場所に塹壕が作られていました。土方がそこで指揮していたのかもしれません。

土方率いる旧幕府軍は、巧みに築いた塹壕から一日3万5000発を新政府軍に浴びせ、撃退します。
再戦でも、熱を帯びた銃身に水をかけながら堡塁を守ります。

蝦夷の陸軍の戦い、これをもって最も烈しとなす

しかし、土方の奮闘虚しく・・・他の守りが突破され、土方は五稜郭への撤退を余儀なくされたのです。

1869年(明治2年)5月11日、箱館山を越えて、新政府軍の大攻勢が始まりました。
土方は、箱館港と五稜郭の中間にあった一本木関を死守するべく指揮を執ります。
そして・・・土方歳三享年35歳・・・
奇しくも、流山でわかれた盟友・近藤勇と同じ年でした。

土方の死後1週間・・・五稜郭は新政府軍に明け渡され、日本の近世から近代への架け橋となった内戦は終わりを見るのです。

戊辰戦争の激戦地・福島県会津若松・・・戦争のさ中、山麓の寺に罪人として首を落とされた近藤勇の墓が建てられました。
それは山腹にひっそりとたたずんでいました。
この墓が建てられたときの逸話・・・
この当時、侍のような姿がよく目撃されています。
それが・・・土方歳三ではなかったか・・・??
近藤の墓と肩を並べるようにして建てられた土方の慰霊碑。
幕府への忠義に生き、盟友への信義に死んだ土方歳三・・・。
150年前、近代明治に舵を切った日本に、彼の居場所はありませんでした。


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明治維新 血の最前戦 ―土方歳三 長州と最後まで戦った男

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1867年11月15日、京・近江屋にて・・・
事件は午後8時から9時の間に起こったと考えられます。
幕末の風雲児・坂本龍馬が刺客に襲撃され絶命・・・。
盟友・中岡慎太郎も負傷し、二日後に絶命・・・。
世に言う龍馬暗殺事件です。

龍馬を暗殺したのは誰なのか??
薩摩藩?紀州藩?土佐藩?幕府?会津藩?新選組?京都見廻組??

今回は・・・なぜ龍馬は「近江屋」に潜伏したのか??という謎です。

幕末、ペリー来航以来、幕府の権威は失墜していました。
一方、経済力や軍事力を背景に台頭してきたのが西国の雄・薩摩藩、長州藩でした。
1866年1月21日、それまで無名だった龍馬の名が歴史に刻まれることとなります。
「薩長同盟」締結です。
全国に吹き荒れた尊王攘夷運動・・・西国の雄藩・長州藩は、幕府を力で倒し、朝廷を主体とする政権交代を画策します。
一方、弱体化する幕府を支え、朝廷との結びつき・・・公武合体運動を推進していたのが薩摩藩でした。

1864年7月19日禁門の変
幕府に組した薩摩は、京都で薩摩と武力衝突!!
長州の敗北に終わります。
以降、二大雄藩は犬猿の仲となります。
しかし、薩摩と長州が結びつけば、幕府に対抗し得る一大討幕勢力となり、朝廷を中心とした新政府を樹立することも期待できる!!
こうした中、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎は、薩長同盟締結に向けて奔走!!
龍馬は、その仲介者として同盟成立の瞬間に立ち会うことになります。
これまで会津と同盟関係にあった薩摩が長州と密約し、武力討幕派に・・・。
同盟締結後・・・1866年1月23日寺田屋遭難事件!!
定宿・寺田屋に戻った龍馬を伏見奉行所の取り方20人が襲います。
幕府にとって要注意人物となっていた龍馬・・・。
脱し・・・急死に一生を得た龍馬は、この時の乱闘で、奉行所の役人を射殺、ほか数人に重傷を負わせます。
さらに・・・この時重大なミスを犯してしまいます。
龍馬は、薩長同盟の重要な書類を現場に残してしまっていました。
この事件によって、凶悪犯罪者として幕府に負われることとなった龍馬・・・

以降、寺田屋に潜伏することは不可能となってしまいました。
薩長同盟締結から1年後・・・大政奉還!!
幕府の権威が失墜する中、将軍・慶喜にとって大政奉還は起死回生の一手でした。
政権を朝廷に返上すれば・・・反幕府勢力の大義名分が無くなってしまう・・・!!
この大政奉還を幕府に進言したのが、土佐藩の重役・後藤象二郎です。
その背後にいたものこそ、海援隊隊長の坂本龍馬でした。
内戦を避け、平和的な政権交代が見込まれる大政奉還・・・
龍馬と土佐藩は、薩摩藩を説き伏せ、その実現に奔走しました。
とはいえ・・・この時龍馬は武力行使も止む無しと思っていたようです。

薩長だけではまだまだ足りない・・・土佐藩を討幕勢力に引き込まなければ・・・!!

龍馬の書状には、武器を用意していることも書かれています。
龍馬は、大政奉還実現に向けて、平和的解決だけではなく武力を背景にした現実的な構想を描いていたのです。
1867年10月13日、慶喜は二条城において「大政奉還」を在京諸藩重臣に諮問・・・
14日、大政奉還を朝廷に上表・・・
大政奉還は、260年続いた江戸幕府の終焉を意味していました。
大政奉還という大仕事を成し遂げた龍馬の立場は危うくなっていきます。
大政奉還に激しく反発したのが、幕府側の一大勢力・京都守護職の会津藩でした。
大政奉還奏上の2日後、薩摩藩の大久保利通に宛てた討幕派の公家・岩倉具視の書状には・・・
「会津藩は狂気のごとく激怒している
 すべての元凶は、西郷、小松、大久保の三人であるため、必ず薩摩藩邸を襲撃するなどと言っている」
この時、会津は大政奉還を推進した中心人物を西郷たちと特定、藩邸の襲撃計画を目論んでいました。
翌日・・・危険を察知した龍馬は、京を離れます。
大政奉還を企画した龍馬にも危機が迫っていました。
西郷が京を後にした日・・・薩摩藩士から手紙を受け取った龍馬・・・
「二本松の薩摩藩邸にすぐ入ってください。」
「薩摩屋敷に身を潜めたならば、土佐藩に対し、実に嫌味な事です。」by龍馬
この時龍馬は、脱藩の罪を許され、土佐藩士に復帰していました。
入るなら土佐藩邸・・・もし、薩摩藩邸に入ったならば、土佐藩邸にも要らぬ疑いをかけられかねない・・・。

寺田屋にも、薩摩藩邸にも入れない・・・京の町のどこに潜伏すればいいのか・・・??

暗殺の1か月前・・・命を狙われる龍馬はどこに潜伏すればいいのか??
寺田屋は不可能、薩摩藩邸は難しい・・・
他にあった龍馬の定宿は・・・酢屋。。。
酢屋は龍馬が隊長を勤める海援隊の本部が置かれていた場所です。
龍馬にとって信頼の厚い隊士が出入りし、安心して滞在できる宿です。
しかし、酢屋は幕府に目をつけられている可能性があり・・・龍馬は新しい潜伏先を探す必要がありました。
この頃の龍馬の潜伏先候補は2つあったと言います。

一つ目は土佐藩邸・・・
セキュリティーが良く、藩邸は、幕府の役人が入ることのできない聖域・・・。
身の安全は保障される!!
1867年2月、中岡慎太郎と共に脱藩の罪を許され、藩邸に居住する権利があったのです。
しかし、デメリットが・・・門限があり、外交をやるためには他藩の人自由に会いたい。。。それができなくなってしまう。
もう一つは近江屋・・・
醤油を商う近江屋は、土佐藩邸からわずか4、5m・・・
刺客に襲撃された場合、藩邸が近くにあれば、命は助かる!!
身の安全が保障される土佐藩邸か、それとも行動を束縛されない民間の近江屋か・・・??

龍馬暗殺の10日前・・・
1867年11月5日・・・旅先から帰京した龍馬は、近江屋にわらじを脱ぎました。
しかし、周囲は、近江屋に潜伏する龍馬を心配していました。
藩邸に移った方がいいと・・・
しかし、この時すでに龍馬は、龍馬を追う、会津藩主・松平容保と、幕府の要職・永井尚志と面会していました。
松平容保は京都守護職・・・配下には新選組や見廻組などがおり、大政奉還反対派の急先鋒です。
一方永井は、大政奉還推進派。開明的思想の持ち主でした。
記録によると、龍馬は暗殺の先日まで永井の屋敷に通っていました。
龍馬は、新しい政府に旧幕府勢力も参加する体制を作るために、永井と話し合っていたのです。
永井からお墨付きをもらっていたようですが、容保に話が通っていたかどうかはわかりません。
しかし、この永井と会う事は、討幕派からは背信行為とみなされる可能性があり、決して公にはできないこと・・・。
龍馬が近江屋に移ったのは、隠密裏に仕事をする必要があったからです。
しかし・・・1867年11月15日・・・龍馬暗殺!!
刺客たちの襲撃によって暗殺・・・遺体には、大小34カ所の刀傷があったといいます。
33歳・・・短い生涯でした。

事件は、龍馬を取り巻く人々に衝撃を与えました。
一体誰が龍馬を殺害したのか・・・??
勝海舟は、下手人の名を記しています。
佐々木只三郎・・・を頭とする輩
京都見廻組の組頭で、れっきとした幕臣で形成されていました。
さらに佐々木の実兄・会津藩公用方手代木直右衛門の記録にも・・・
坂本を殺したものは実弟・只三郎なり・・・
最近は佐々木率いる見廻組の仕業が有力と言われていますが・・・
それでも疑問が・・・
佐々木たちは、どうして龍馬の居場所を特定することができたのでしょうか?

高知県高知市・・・近年発見された龍馬の新書状が展示されています。
日付は11月10日・・・福井藩重臣に宛てて書かれたものです。
その書状には「新国家の御家計」と書かれています。
新しい国の財政問題を意識し、国家の体制と財政問題に重きを置いて活動していたのです。
この書状の封筒には・・・
「坂本先生遭難直前の書状にて、他見を憚るものなり」極秘扱いにされていました。
暗殺の黒幕を示唆している???
この書状は、龍馬暗殺を指示した者の名が書かれているがゆえに封印された??
残された名は、永井尚志!!
暗殺直前まで龍馬が面会に行き、新国家の構想を談じ合っていたと考えられる人物です。
暗殺の直後にも、土佐藩重臣の日記に永井が登場します。

しかし、大政奉還の後、新政府に徳川家が参加するためには、太いパイプを持つ龍馬は必要不可欠!!
永井が暗殺を命じる可能性は低い・・・。
では・・・龍馬暗殺の黒幕は誰か??
なぜ龍馬の居場所を知り得たのか・・・??
永井がいたのは大和郡山藩邸・・・。
永井の屋敷から歩いてすぐのところに・・・なんと、佐々木只三郎の下宿先・・・潜伏先・・・松林寺がありました。

危険なエリアに毎日のように通ってきていた龍馬・・・
暗殺直前の3日間のうち11日には午前、午後の二回にわたって訪問しています。
この時永井は龍馬にこう諭しました。

「頻繁な来訪は嫌疑をかけられるので、夜中に訪問せよ。」by永井

この場所に龍馬がくるということは、旗本、会津藩にとってはらわたが煮えくり返るようなことでした。
このまま龍馬が細かい新政府構想を作り上げると、政権を維持できると思っている人たちにとっては最大の危険人物として映ったのです。
手代木直右衛門の記述には・・・
「坂本龍馬を殺したのは実弟・只三郎であり、それは某諸侯の名によるもの」とあります。
某諸侯とは・・・??会津藩藩主・松平容保と、亡くなる直前に語っています。
そして実行された龍馬暗殺・・・
安全な土佐藩邸ではなく、近江屋を選んだ龍馬。
自分の安全よりも、日本のこれからの姿を優先した結果でした。

見廻組は公務だったのか?それとも私怨による暗殺だったのか・・・??
龍馬が暗殺されたことによって得をした人物はいない・・・しかし、慶喜たちが大損をしたことだけは確かです。

龍馬が暗殺されたこと・・・生きていれば・・・という思いが、それが龍馬暗殺の謎を深めている・・・
今なお英雄である坂本龍馬なのです。



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「龍馬、北辰一刀流 免許皆伝!!」
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2015年10月14日、剣の達人と言われてきた坂本龍馬が本当に北辰一刀流の免許皆伝を極めていた新資料が発見されたという記事が新聞に載りました。
今でも英雄とされている龍馬、真実はどうだったのでしょうか?

1867年11月15日、この日は龍馬の誕生日であり、33歳という命を散らした日でした。
龍馬が暗殺されたのは京都。。。
1866年、討幕を画策していた龍馬の動きが幕府に察知され、命を狙われるようになっていた龍馬。
そして・・・1月22日、龍馬が潜伏していた寺田屋を、幕府の取り方50人余りが襲撃します。
龍馬はピストルで対抗するも、両手を負傷!!
それでも必死で逃げ、材木小屋で隠れているところを仲間に発見されました。
なんとか命拾いをした龍馬・・・取り方を射殺してしまったことで、京都見廻組と新選組の二つの組織から狙われることとなります。

寺田屋以降、薩摩で静養し、長崎で活動していた龍馬が6月・・・京都に帰ってきました。
このときに隠れ家は、材木問屋の酢屋でした。10月半ばには、土佐藩邸の近くの近江屋に移り・・・ここでは、土蔵に身を隠し、その情報は限られたものしか知りませんでした。

11月14日、風邪をひいた龍馬は、土蔵から母屋の二階に移ります。
11月15日・・・龍馬のもとへ土佐・中岡慎太郎がやってきました。
腹が減った龍馬は、しゃも鍋が食べたい・・・と、使いのものを買いにやります。
このとき、二階には龍馬と中岡、一階には龍馬の世話をしていた藤吉、主人・新助家族がいました。
午後8時過ぎ・・・十津川郷士を名乗るものがやってきました。
十津川郷士の中には、龍馬の知り合いがいたので、藤吉が気を緩め取り次ごうとすると・・・斬りつけられた藤吉!!
二階に駆け上がる刺客!!
刺される中岡!!斬りつけられた龍馬!!
刺客が去ったのち、一時的に息を吹き返した龍馬は中岡に・・・
「わしは脳をやられた・・・もういかん・・・」
これが龍馬の最後の言葉・・・33歳の若すぎる死でした。

龍馬を暗殺したのはいったい誰だったのでしょうか??

手掛かりは3つ・・・
①誰のものかわからない下駄
瓢亭のものだったため、新選組??
②刀の鞘
新選組・原田左之助のもの??
③犯人は「こなくそ!!」といった。
こなくそは、伊予の方言で、原田左之助は伊予出身でした。

証拠はすべて、新選組を示していました。

しかし・・・
尾張藩などが捜査に当たったところ・・・
下駄は瓢亭ではなく、鞘も原田のものではなく・・・
こなくそも、全国に似たような言葉があり、どれも証拠不十分なものでした。

さらに・・・大目付から事情徴収を受けた近藤勇は、龍馬暗殺を否定します。
もともと新選組は、不逞労使の捕縛が仕事で、殺害することはあまりなく・・・
たとえ殺したとしても、正義にために殺すので隠す必要はありません。
これらにより、新選組の犯行ではないとされました。

3年後・・・1870年に、京都見廻組だった今井信郎が龍馬暗殺は見回組の犯行だったと自供します。
襲ったのは7人・・・佐々木只三郎、渡辺吉太郎、高橋安次郎、桂早之助、今井信郎、土肥仲蔵、桜井大三郎で遊撃したと告白しました。
後の3人が見張りで、先の4人で殺害!!残された鞘は、隊士の一人が忘れたこと。。。
今井以外の6人は、鳥羽伏見の戦いで戦死したことなどを供述しました。
さらに、物的証拠が見つかります。
龍馬を斬った脇差・・・持ち主は、桂早之助でした。
実行犯は、京都見廻組だということが有力視されています。

では、どうして龍馬を襲ったのでしょうか??
今井は・・・
寺田屋事件で幕府の取り方を射殺したことへの罪の追求だ・・・??
しかし、見廻組には疑問が多くあります。
見廻組も、公務で行ったのであれば、隠す必要がないということ・・・
近江屋でいることは、限られたものしか知らなかったということ・・・
見廻組は利用されていただけで、黒幕がいるのでは・・・??

時代の先を行き過ぎていた龍馬・・・
その積極性、先見性は、色々なところで恨まれていました。
龍馬はどのようにして政治の表舞台に立ったのでしょうか??

高知県高知市・・・
坂本龍馬は、1835年11月15日、土佐藩下士の次男として生まれました。
身分差の厳しい土佐では、下級武士である龍馬が出世できる見込みはなく、龍馬自身の性格も泣き虫で気弱な少年でした。
そんな龍馬の支えとなったのは、3歳年上の姉・乙女でした。
男らしく剣術道場に通わせます。
道場で頭角を表すと・・・1853年剣術修行のために、江戸へ遊学・・・!!
入門したのは、北辰一刀流の千葉定吉道場でした。

その2か月後、黒船が来航!!

これが転機となって、尊王攘夷論に目覚めていきます。
さらに尊王攘夷を傾倒させたのが、同郷の武市半平太。
6歳年上の半平太は、文武両道で、若い下級武士たちのリーダー的存在でした。
土佐勤王党を成した半平太。
その誘いを受け、龍馬もメンバーとなり、勤王の志士の道を歩むこととなるのです。
1862年1月・・・龍馬は半平太の使いとして長州に赴き、尊王攘夷運動の先頭に立つ久坂玄瑞と出会います。

「尊王上の大義のためであれば、尊藩と弊藩が滅んでも構あ示し、海軍を作り、西欧列強に対抗しようと話します。
国のために・・・!!
スケールの大きな海舟にほれ込んだ龍馬は、弟子入りするのでした。
自分の意識の中に、土佐人→日本人へと変化した瞬間でした。

龍馬は、海舟が土佐藩第15代藩主・山内容堂に掛け合ったことで、脱藩の罪を解かれ、海舟が1863年に創設した神戸海軍操練所の補佐役として参加します。
航海術や英語を学び、見識を広めていった龍馬、訓練生たちを束ねてリーダー的存在になっていきます。
勝海舟との交流で、見識や人脈を広げたことが龍馬の財産となっていきます。
表舞台の道が開けていきます。

自由の身となった龍馬・・・
龍馬の人脈の中には、明治維新の立役者となった者もたくさんいました。
長州藩士・桂小五郎とは剣術修行時代に出会っていたといわれています。
また、海舟の紹介で、西郷と知り合います。

龍馬は人を引き付ける魅力がありました。
もちろん、話上手であったのでしょう。しかし、龍馬が脱藩しているという自由な立場・・・藩の利害や役職と関わらない・・・ということが人脈を作っていくことになるのです。

外様大名の雄であった長州藩と薩摩藩が、1864年の禁門の変で尊王か公武合体かで対立します。
犬猿の仲となってしまった長州藩と薩摩藩・・・
その桂と西郷の仲を取り持ちます。
1866年の薩長同盟・・・時代の流れは、討幕へと傾いていきます。

さらに龍馬は・・・
幕府に代わる国家構想を作ります。
土佐藩の蒸気船・夕顔の中で、後藤象二郎に熱く語り、仕上がったのが、「船中八策」です。
大政奉還をはじめ、身分を問わず優れたものを登用すること、議会政治をすること、憲法制定、軍の強化、金銀の交換率を定めること・・・どれもみな、斬新なものでした。

これをもとに、大政奉還の建白書を作成した後藤・・・
1867年10月3日、山内容堂を通して幕府に提出!!
15代将軍・慶喜は、徳川家が生き残る道はこれしかない!!
と、10月14日、大政奉還が行われました。
江戸という時代の終焉でした。

しかし・・・その1か月後の11月15日、功労者・坂本龍馬は京都見廻組によって命を奪われてしまいました。
そして、その背後には黒幕がいた可能性が高いのです。
その黒幕の正体とは・・・??

①土佐藩黒幕説
後藤には、暗殺の実行者・今井との接点がありました。
二人は円山会のメンバーとされたからです。
暗殺の動機は・・・大政奉還の実績を後藤が独り占めしたかったため
自分が船中八策の発案者となるために邪魔な龍馬を暗殺したというものです。
しかし西郷たちも周りの人も、「船中八策」は龍馬の発案だということは知っていました。
後藤が龍馬を殺すメリットがないと思われます。

②紀州藩黒幕説
龍馬が暗殺されたとき、仲間たちが真っ先に疑ったのが紀州藩でした。
一番の動機があったからです。
発端は・・・
海援隊を組織した龍馬は、海運業に乗り出しました。
1867年4月23日、龍馬たちを乗せたいろは丸は、大量の兵器を乗せて瀬戸内海を長崎から大阪に向かっていました。
天候もよくなく・・・目の前に現れた紀州藩の明光丸!!
衝突してしまったのです。
龍馬たちは明光丸に飛び移って無事でしたが、1/6の大きさの明光丸は大破、沈んでしまったのです。
紀州藩と海援隊は、長崎で話し合います。
紀州藩は御三家の威光でかわせると思っていました。
紀州藩交渉役・三浦休太郎も余裕で出席・・・龍馬は死を覚悟して毅然とした態度で挑みます。
紀州藩側の主張は、長崎奉行の採決にゆだねるべきというものでしたが、龍馬は・・・
「蒸気船同士の事故の前例は日本にはないので、国際法にのっとってするべきだ!!」
とし、明光丸の航海日誌を持ち出し、明光丸側の過失を追求していきます。

想定外のことに紀州藩は、薩摩藩に仲介を求めます。
最終的に、海援隊に賠償金7万両(70億円)を支払うことになりました。
面目をつぶされた紀州藩は、龍馬を恨み、交渉役だった三浦が紀州藩の意を汲んで暗殺を命じたとされていますが・・・
海援隊は、三浦を首謀者とし、12月7日天満屋事件を起こします。
当時も三浦が怪しいと考えられていたようですが・・・
三浦は、海援隊に狙われるのではないか??と思い、新選組に身辺警護をさせていたようです。
そうなると、暗殺依頼も新選組にするのが普通だと思われます。

龍馬暗殺は、賠償金を支払わされたうえ・・・恥の上塗りのような・・・紀州藩にはメリットのない物かと思われます。

③薩摩藩黒幕説
龍馬と西郷の間の不協和音・・・海援隊の問題です。
龍馬が亀山社中を作る際に、西郷は多額の資金援助をし、隊士たちの給金も資金援助していました。
ところが・・・侍商法で上手くいかず、海援隊が薩摩藩の経済的負担となっていたというものです。
もう一つが大政奉還・・・大政奉還を画策していた龍馬と後藤・・・それには討幕の中心にいた薩摩藩の同意が必要だと思っていましたが・・・同意していた西郷でしたが、西郷は慶喜は大政奉還を受けるはずがない!!と思っていました。
裏で、武力による討幕を進めていたのです。
が・・・思いもよらず、慶喜が大政奉還を受け入れたことで、薩摩藩の討幕理由がなくなってしまいました。
さらに、龍馬が作った「新政府綱領八策」の中には・・・
「〇〇〇自ら盟主となりこれをもって朝廷に奉り、はじめて天下万民に公布云々・・・」
これは、〇〇〇をリーダーとして新しい政府を作るというものですが・・・ここに慶喜公が入るのでは・・・??
と思う人もいました。
慶喜を排除しようとする薩摩藩・・・慶喜の復権は裏切り行為・・・??
薩摩藩が龍馬が邪魔になったから・・・??

これのもとは、今井の処遇でした。
新政府の功労者である龍馬を暗殺したにもかかわらず、極刑になることもなく、2年で特赦により自由の身となりました。
これにも西郷が裏で糸を引いていたのでは・・・??と言われています。
しかし、大政奉還後、西郷は龍馬にあっていないので、「新政府綱領八策」のことで薩摩藩が龍馬を暗殺することはない・・・と思われます。

真相はやぶの中・・・

坂本龍馬・・・日本の未来に誰よりも先のビジョンを持っていました。
龍馬の先見性と行動力がなければ日本の未来は変わっていたかもしれません。

やっぱり、幕末の英雄なのです。

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