日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:武田信玄

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戦国最強・武田信玄の不思議をめぐる甲府の城下町です。
人口・190,456人、面積212.47㎢、特産はブドウ・イチゴ・ワイン。
山梨県甲府市は、四方を2000m級の山に囲まれた甲府盆地にあります。
その中央に武田神社が・・・その昔、ここに信玄の本拠地があり、ここから家臣たちと共に大きく甲府の町を発展させました。
その後、豊臣秀吉によって、新たに甲府城が建てられました。
しかし、庶民にとって、甲府はやはり信玄の町です。
そんな民に愛された信玄の町にはどんな不思議があるのでしょうか?

武田通り・・・武田信玄公にあやかってつけられています。
甲府市は、信玄公・・・武田家の町です。

疾きこと風の如く
徐かなること林の如く
侵掠すること火の如く
動かざること山の如し

ご存じ信玄の代名詞、”風林火山”の旗印の内容は・・・
戦における兵たちの心得を旗に記したといわれています。

風林火山は、孫氏の兵法を引用したものです。
孫氏とは、紀元前500年頃・・・中国春秋時代の思想家・孫武の作とされる兵法書です。
信玄は、そこに書かれていた戦に対する心得を徹底的に学んだといわれています。

武田神社は、1919年に創建されています。
武田信玄が御祭神として祀られています。
戦において、連戦連勝の信玄にあやかって、勝負事のご利益があるとされています。
武田神社に隠された謎とは・・・??
ここは、武田信玄の館でした。
難攻不落の信玄屋敷です。
甲府駅から北に二キロ・・・町全体を見守るように鎮座する武田神社。
戦国時代、この時代には、信玄が本拠地として活動した武田氏館がありました。
現在も、堀や土塁、古井戸などの信玄時代の遺構がそのまま残されています。
信玄はこの地に城を建てず、生涯屋敷住まいでした。

どうして戦上手の信玄が、平屋の屋敷に住んでいたのでしょうか?
館の周りは、三方を山に囲まれ両側には左に相川、東に藤川が流れていました。
つまり、南側以外は、天然の要害で、敵が容易に侵入できないようになっていました。
武田氏館を攻めるためには、南側だけしかありません。
その南側も橋もなく、堀で囲まれて入り口は東側にありました。
正面を塞ぎ、東側へ敵を迂回させるようにしたのです。
しかもその手前には、家臣たちの屋敷があるために、容易に近づくことができません。
万一東側・追手門にたどり着いても、門の前に三日月堀と土塁があり、その内側に味方が忍び、弓や投石で狙い撃ちできるようになっていました。
この防壁は、丸馬出とよばれ武田氏考案の鉄壁の防御システムです。
安心して外へ攻めていけたのです。

信玄が残したといわれる言葉があります。

人は城
  人は石垣
     人は堀
 情けは味方
    仇は敵なり

当時、戦国大名たちは、己の権力を見せつけるために、巨大な天守や石垣を作りました。
しかし、信玄は、堅牢な城を造ることより、町の整備にお金と労力をかけたといわれています。
400年以上たった今も、その姿を残す”信玄堤”。
川の氾濫を防ぎ、広大な新田開発に大いに役立ちました。
信玄は、家臣や民との信頼関係を築くことができれば、城などなくても強固な国づくりができると考えていたのです。

戦国最強といわれた武田騎馬隊。
最大で5万人以上いたといわれる中で、最も優れた武将24人を武田二十四将といいます。
信玄の右腕ともいわれた軍師・山本勘助を始め、武勇に優れたものが集まり、彼らの手によって、武田最強伝説が作られたのです。

最近、武田の騎馬隊にある疑問が出てきました。
それは、大きな馬に乗ってかっこよかったのではないのでは??
ポニーに乗っていたようです。
颯爽と戦場を駆け抜け、百戦錬磨といわれた武田騎馬隊がポニー集団??
今でこそ馬といえばサラブレッド・・・彼らが日本に伝わったのは明治時代です。
信玄の時代にサラブレッドは存在しません。
当時の馬は、長野の木曽馬などが一般的でした。
この木曽馬、ポニーと呼ばれることもあり、サラブレッドに比べて小柄で足も短くスピードも出ません。
そして平成元年7月・・・武田氏館から一頭の馬の骨が発見されました。
馬でありながら人のように埋葬されていたことから、武田家の中でも重要人物・・・大将クラスの馬の可能性があるといわれています。
125センチとかなり小柄で、この小柄な馬が、武田騎馬隊の馬の可能性を秘めているのです。

1575年長篠の戦いでは、信長と家康の連合軍が、当時最も恐れられていた武田の騎馬隊と激突!!
3日前、家康は武田軍を警戒して家臣に命じます。

「武田の騎馬隊がまっしぐらに突入してくるので、柵など念入りに作るように。」by家康

「関東衆(武田軍)は馬の扱いがうまい。」by信長

騎馬専用の防護柵を築いて警戒したといいます。
果たしてポニーの武田騎馬隊は、信長&家康が警戒するほど強かったのでしょうか?
孫氏の兵法は、「戦わずして勝つ!!」です。
「百戦百勝は、善の善なる者に非ざるなり」・・・つまり、百戦百勝は、最善に見えるが、勝った方も被害が出るため、戦わずに敵を屈するのが最善ということなのです。

これこそ、信玄が生涯実践しようとしていた「戦わずして勝つ」なのです。
諜報活動、調略を重んじ、「武田軍団は強い、騎馬軍団も強い!!」と、イメージ戦略していたのです。
それはもちろん本当の強さがあってのこと。
信玄の生涯戦績は。72戦3敗です。
それだけの強さがありながら、戦わないようにしていたのは、戦いによる被害の大きさを知っていたからなのかもしれません。


北杜市には・・・味噌なめ地蔵があります。
全身味噌まみれです。
お地蔵さんに味噌を塗る部分は、自分の身体の悪い部分です。
武田信玄が信濃の国で初陣(海ノ口城の戦い)を飾った信玄が、帰り道に光り輝く地蔵菩薩を見つけ、持ち帰ったものです。
っしかし、正覚寺の前で、急にお地蔵さんが動かなくなり、仕方なくこの場所において行ったとされています。
背中には信玄が括りつけて持ち帰った二筋の縄の跡が残っています。
どうしてお地蔵さんに味噌を塗るようになったのか??
味噌は、塩分のきいた保存食で腐らない=悪くならない=これ以上悪くならなように塗っているのです。
その理由には諸説あり、コメの不作が関係しているといいます。
甲府は、山に囲まれた盆地で、味噌の原料となる米の栽培が難しかったといいます。
貴重な味噌を塗ってご利益を願ったのです。
信玄は400年後、この地蔵が味噌まみれになっているとは思いもよらなかったでしょう。

山梨には甲斐九筋があり、領地拡大を図り軍用道路として当時の武田軍にとって重要な道でした。
街道筋には狼煙が置かれました。
戦国時代は、馬での伝達が主でしたが、山で道が入り組んでいた甲州では、狼煙を重宝しました。
信玄ほど、狼煙をたくさん置いた人はいないといわれています。
記録によれば、4,5キロ置きに狼煙が置かれました。

狼煙は”狼の煙”と書きます。
それは、狼煙は、古来中国で連絡手段として生まれました。
狼の糞を燃やしたところから、狼煙といわれるようになりました。
情報を確実に伝達するためには、煙が風に流されないことが重要でした。
そのために、強い火力で、濃い煙を出すことが重要でした。
肉食動物である狼には、たんぱく質が豊富に含まれ、草木だけで燃やすより高温となり、蒸気機関車のように真っ直ぐな煙が上がったといわれています。
どのくらいの速さで届けられたのでしょうか??
新幹線と狼煙とどちらが早いのか??実験した過去があります。
新尾道駅から新大阪駅までの全長250km・・・新幹線と僅か10分ほどの差だったといわれています。


信玄が死ぬと跡を継いだのは勝頼です。
2年後には武田家の行く末を左右する長篠の戦いへ・・・
大量のてっぽうを用いた織田・徳川軍に武田軍は完敗!!
二十四将の多くはこの戦いで命を落とし、武田家を滅亡させた戦といわれています。
武田家にとって、歴史的な敗戦となった長篠の戦い・・・
二十四将の中で、四天王のひとりとして活躍した内藤修理亮は、勝頼を安全に逃がすために戦場に残る選択をします。
その時、勝頼に頼みごとをします。
形見の旗を家族に・・・!!
無事に甲斐国に戻った勝頼は、自ら内藤家に足を運び、内藤の旗を家族に渡し、気にかけたといいます。

山梨県内では、ほうとうを食べられる店がたくさんあり、家庭料理で花嫁修業の一つといわれています。
ほうとうのルーツは、武田信玄です。
ほうとうは、小麦粉を平たく練って作られています。
即席に造ることができるので、陣中の非常食でした。
戦場に運ぶ兵糧には限りがあり、携帯性や保存性が重視されていました。
ほうとうは、味噌と小麦粉さえあれば、どこでも作ることができるので信玄が広めたといわれています。
信玄が自ら刀で細く切ったことから「伝家の宝刀」=ほうとうとなったといわれています。
戦場でしっかりとした食事ができるかどうかは、戦いを左右する大事なことでした。

天目山栖雲寺は、信玄の先祖が眠っている寺です。
信玄の祖先にあたる武田信満が眠る栖雲寺には、信玄ゆかりの貴重な品がたくさんあります。
経に軍配を持っている武田信玄・・・川中島の戦いは伝説として受け継がれていますが、その時、謙信の刀を受けたのも軍配だったといわれています。
どうして右手に軍配なのか??
相撲で使われる軍配ですが、元々は、戦において武将が軍を采配する道具のことです。
多くの武将の中でもひときわ軍配のイメージが強い信玄。
この栖雲寺にはたくさんのお宝が眠っていますが・・・その中に、信玄が使っていたといわれる本物の軍配があります。
普通は木や紙でつくられますが、鉄製の軍配で、鍛冶屋に武器として作らせた一点物です。
信玄が本当に鉄製の軍配を使っていたなら、伝説の川中島の一騎打ちで謙信の刀を軍配で受け止めたのも頷けます。
軍配には傷が入っており・・・謙信と交えたときの刀傷かも知れません。
信玄は38歳の時に、戦国大名でありながら出家の道を歩みます。
その時、晴信から信玄に改名。
さらに、恵林寺住職の快川紹喜を招きます。
そこで、信玄の人生を変えてしまう出来事が!!
ある日信玄は和尚がどれほどの人物なのかお経を読んでいる時に刀を突き付けます。
和尚はびくともせずに、
「一国の主たる者、そうやすやすと刀を抜いてはいけません。
 刀を抜かないということが、家臣を信頼している証で、采配をしっかりしておけばそれでよいのです。」と進言を諭しました。
己をたいそう恥じた信玄は、以来刀を抜くことなく、軍配を持つようになったのです。

武田信玄と徳川家康が変えてしまった日本の伝統文化とは??
それは「門松」です。
門松を飾る習慣は、平安時代からで、家内安全や豊作をもたらす神様が訪れる目印として松を飾ったものです。
武田流門松は、竹を削ぎ切りではなく、寸胴に切ってあります。
寸胴型門松が日本のスタンダードでした。
しかし、戦を機に新しい門松が誕生しました。
1572年三方が原の戦いで、浜松城で待ち構えていた徳川家康と上洛の途上にあった信玄との戦いで、信玄が家康を手玉に取った戦いとしても知られています。
武田軍に完膚なきまでに叩かれた家康・・・家康は無様な姿を一生忘れないようにしかみ像を書かせたことで有名です。
そんな家康に勝った信玄から手紙が・・・その手紙の内容は??

松枯れて 竹類なき 明日かな

松は松平のことで、竹は武田のことです。
松平は終わって、武田の将来は類まれなく良くなる明日である。
これを怒った家康は、返歌を送ります。

松枯れで 武田首なき あしたかな

子供じみたようにもなりますが・・・家康の返歌は、ひらがなにするとすべて同じ字で書かれています。
濁点だけで全く違う意味になります。
そして、武田の首を斬ってしまえ!!ということで、削ぎ切りの門松を送ったといわれています。
これをきっかけに、江戸幕府以降、削ぎの門松が主流になりました。

甲斐・善光寺・・・長野の善光寺と深いかかわりがります。
創建664年国宝・信州善光寺。江戸時代は、伊勢神宮と並んで、庶民の観光スポットNo,1で、一生に一度は善光寺参りといわれるほどでした。
6世紀半ばごろ、百済から持ち込まれた日本最古の阿弥陀如来像が安置されています。
そんな信州善光寺と同じ名を持つ甲斐善光寺・・・甲斐善光寺は、武田信玄が長野の善光寺を移した時からあります。
お寺には川中島の陣太鼓があります。
川中島の戦いの舞台となった川中島から信州善光寺は近く、戦いによって消失してしまう可能性がありました。
消失を恐れて、こちらに移したともいわれています。
信玄は、信州善光寺の全てを持ってきたのは、親切心だけではなく・・・
信州善光寺にある日本最古の如来像・・・それを手にすることは権力を手にすることになる。
以後、信長→家康→秀吉の手から、善光寺に戻されたといいます。
手にした彼らは、大きな権力を手に入れていきます。

山梨県甲府には、人と人とのつながりを大切にする信玄の想いが息づいていました。

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去年は盛り上がったなあ・・・真田丸!!
一応、見るだけは見ている直虎です。
直虎も、花燃ゆも・・・私が文句を言うと、旦那さんは「仕方ないやんか・・・それが史実なんやから・・・」って言います。
ああ・・・大河なんだから、というか、何も資料の残っていない直虎なんだから、いいお話を盛り込んでほしかったんですけどね

強大な武田相手に戦おうとする近藤殿に対し、兵である民を逃散させることで戦うことをやめさせようとした直虎。

naotora











それに同意した近藤殿は城を焼いちゃったよ・・・。
戦わずに城を焼く・・・武士として嫌だったろうなあ・・・。
怒って、村ごと焼きはらった信玄!!
すべて直虎・・・あんたのせいだよ。。。

隠れ里に来たみんな、これからどうする??

南渓和尚が信玄に会っています。
武田が来ると聞いて、逃散させたのは我等井伊で、近藤に敵対しているためにやったみたいなことを言って・・・
いよいよ近藤殿との関係がややこしさMax。。。民百姓も、誰も近藤殿が治めることを心良しとせず・・・われらがとってかわりたい・・・と言い出しました。

大体からして井伊谷三人衆なんだから、助けてくれるんじゃないの??
政次をいい者にしたから、話しがごっちゃになって、理解不能状態になってきたような気がする・・・。
すべては政次をいい者にしたからかも

近藤と井伊が反目しているように見せかけて、武田には井伊が治めているように見せかけて、徳川には井伊を追い払ったと言えという直虎。
了解した近藤殿ですが・・・それでいいのか??
おかしくね??

やっぱり、政次は悪者で良かったんだよ・・・。
そうすれば、みんなで取り返しためでたし、めでたしだったのに・・・。
何のための井伊谷三人衆なんだか、みんないつの間にか・・・粗雑な扱いじゃん。

高瀬がまたもや近藤殿に薬を盛ろうとし・・・武田の間者であることがバレちゃいましたが・・・。
間者だったのに、直親の子であるのは本当で、借金のためにそうせざるを得なかったという。
近藤殿を殺せば、武田にいいだけではなく、井伊の物になるのでは??という高瀬。。。
怒ってひっぱたく直虎ですが・・・。
井伊を再興しようとは思わん・・・ただの娘として生きよ・・・って
??これで終わり??
高瀬・・・暗殺しなきゃ、殺されるんじゃないの??

どちらにしても、なんだかんだとあやふやで・・・。
そう思うと、直親も、政次も立ち位置がグレイというか、何もかもあやふやというか・・・
白黒決めなくても、この時は味方、この時は敵!!と、はっきりと書いてくれればモヤモヤしないのにね・・・。

でもって、里に戻れるとなった民百姓たち。。。

naotora2












残念ながら焼かれてしもうたがの・・・

何で帰れるのかも、今一つわからん。

おまけに、焼き払われたから焼き畑農業出来るって喜んでる始末。。。

村を作りはじめ、勇んで村を造り始める直虎ですが・・・
そう、もうこの地は井伊の物ではない・・・!!

一生懸命村を作り直そうとしている直虎・・・龍雲丸と一緒に堺に行くことは忘れてしまっていたらしい。。。
復興を見ずして、行っていいのか??悩む直虎ですが・・・

naotora3












結局、堺行は龍雲丸に振られた形で、終わるのでした。
ああ・・・よくあるパターンです。しらける・・・。
女主人公の場合、男の方が忖度してくれて身を引いてくれるっていうご都合主義的な感じ。。。

ちなみにいつも言ってますが、私は「タイタニック」で泣けなかった女なんですが、女主人公が彼(ディカプリオ)が自分の命を捧げて助けてくれたから力強く生きなければ!!って都合よく取り過ぎているから。。。
それは、この副題のもとになる「風と共に去りぬ」も・・・。
「風と共に去りぬ」という題名は、南北戦争という「風」と共に、当時絶頂にあったアメリカ南部白人たちの貴族文化社会が消え「去った」事を意味しているんですが・・・。
我儘放題に生き抜くスカーレットに、私の大好きなレットが疲れ果てて去っていくという・・・。
男を踏み台にしてタラの地で強く生き抜くスカーレットなんですが。。。
嫌われてもそれぐらい・・・やるならそれぐらい悪者でやってくれてもいいんですよ??直虎!!
やっぱり日本的というか、主人公は善で、そのためにみんな忖度しあうという・・・。
そう、それが日本なのね。

信玄の死によって、井伊谷は再び徳川領に・・・で・・・直政登場!!
何でこっちに来たんだか・・・よくわからないのに元気に登場!!

naotora4












そこには直親の面影が・・・!!

本当の主人公のやっとこさの登場ですか・・・??
井伊直政は、三河武士・譜代でもないのに徳川四天王となった有能な男です。
知れば知るほどこの男が主役ではダメだったのか??

あ・・・男、女、男、女・・・と、主役が交互でないとダメだからか!!
そう思うと、勿体ない・・・どうやってのし上がったのか??魅力的な直政です。


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戦国大名・上杉謙信

戦国時代、最も有名な戦いの一つが川中島の戦い。
そこで、ライバル武田信玄と死闘を繰り広げた天下無双の戦国大名・上杉謙信。
その食生活はストイック。幼いころから寺で厳しい修行を行っていたので、大人になっても粗食を好み、肉を一切口にしませんでした。
「不識庵家中日用修身巻」では
”食事調菜 二種を過ぐるべからず”おかずは2種類以上取るなと粗食を薦めていました。

そんなある日・・・軍議の後、家臣たちと酒を酌み交わしていた謙信は、厠に立ちました。
ところが、いつまでたっても戻ってこないので、家臣が様子を見に行くと、謙信が倒れていたのです。
そしてその4日後、息を引き取りました。
検診の死因とは・・・??

死因①虫気説
検診の養子である上杉景勝が家臣に宛てた手紙には、「不慮の虫気」だったと書かれています。
虫気とは、寄生虫の病気で亡くなったとされていたのです。
厠に立ったということから消化器系の病気と判断したようです。
しかし、寄生虫は、最終的に排泄物と一緒に体外に出るので、現代の医学ではよほどのことがない限り寄生虫で命を落とすことはないとされています。

死因②梅毒説
梅毒は、戦国時代に大流行し、多くの戦国武将たちの命を縮めたといわれています。
梅毒トレポネーマという細菌が起こす感染症で、主に性交渉で広がります。
謙信は30歳の時に突然風毒腫・・・腫物ができ、これが徐々に悪化し、6年後には歩行障害を起こすほどになっていました。
その原因の一つとして考えられているのが梅毒なのです。
が・・・歩行障害を起こすのは第4期・・・第4期の症状には、ほかに認知症や精神障害も見られたはず・・・
しかし、これらが無いことから梅毒ではないと考えられます。

死因③脳卒中説
上杉家公式記録「謙信公諸御年譜」によると・・・
謙信は中風=脳卒中を患っていたというのです。
脳内出血、くも膜下出血、脳梗塞・・・謙信は、戦場でも度々軽い脳卒中の発作に襲われていました。
亡くなる8年前・・・1570年、41歳の時にも、脳卒中の発作を起こしていました。
命に別状はなかったものの、手に軽いマヒが残ったといわれています。
このように、度々脳卒中を起こした原因が・・・お酒でした。
大の酒好きだった謙信は、梅干し、みそなどの塩分の高いものを肴にお酒を飲んでいました。
しかし、この酒の飲み方が、病を引き起こします。
酒が原因とされる高血圧を発症し、塩分の多い酒の肴・・・さらに、過酷な雪・・・寒さで動脈硬化がすすんでいた。。。
謙信が倒れたのは4月ごろ・・・高血圧の謙信の血管は寒さで収縮し、動脈硬化で血液の流れが悪くなっていたので血が滞り、倒れたというのです。
脳梗塞で亡くなったと思われます。

戦国大名・上杉謙信
病歴:虫気、風毒腫
死因:脳梗塞
没年齢:49歳
でした。

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1600年9月15日、日本を東西に二分した関ケ原の戦い・・・

勝者となったのは、東軍総大将・徳川家康です。
しかし、家康には大きな誤算がありました。
徳川の主力を率いる家康の三男・秀忠が決戦に間に合わないという前代未聞の大失態を犯したのです。
この時、家康はつぶやいたといいます。

「倅がいたらば、こんな事にはなっていないはずだ。」と。

家康が口にした倅とは、家康の長男・松平信康のことです。
その名は、徳川の歴史においてタブーでした。
1579年9月15日、奇しくも関ケ原の合戦と同じ日に、事件は起こりました。
21歳の信康が、織田信長の命により自害させられたのです。
世に言う”信康事件”です。
どうして信長は、家康に長男を殺害するように命じたのか?
どうして家康はそれを受け入れたのか??
それは謎です。
カギを握るのが”逆臣”!!

家康の後継者として期待された信康。
家康と正室・築山殿との間に生まれた初めての男子です。
当時、家康は、駿河・遠江・三河を有する今川家の配下にあったため、駿府に生まれました。
信康2歳・・・この年(1560年)、今川家の当主・義元は桶狭間の戦いに討ち死に、これによって家康は独立することに!!

しかし、この時大きな問題が・・・。
駿府にいる築山殿と信康が人質に取られていたのです。
人質奪還のために、家康は今川義元の妹婿の城を攻め、当主の子を生け捕り、人質の交換に成功!!
これによって一命をとりとめた信康は、駿府から岡崎に移ることになりました。
1567年信康9歳の時、信長の娘・徳姫と結婚。
信長から信の一字、家康から康の一字を与えられています。
信康は、徳川と織田の同盟関係を象徴する存在でした。

1573年12月、家康は絶体絶命の窮地に立たされます。
甲斐の武田信玄が、遠江に侵攻。
戦国最強と謳われた武田の大軍勢が襲来したのです。
徳川軍は、三方が原で武田軍と激突し大敗北(三方ヶ原の戦い)!!

しかし、翌年の1573年4月、武田信玄死去。
武田軍は撤退し、家康は九死に一生を得ます。
とはいえ、信玄亡き後も、武田の勢力が弱まることはなく、家康は信長との同盟を維持しながら、対武田の拠点となる浜松城に身を置き、背後の要・西三河の岡崎城に信康を置き、領国の防衛強化に努めています。
信康が岡崎城主となったのは12歳(1570年)の時。
幼い領主を支えるために、新たに家臣団を作り・・・
徳川は、浜松家臣団と岡崎家臣団に分かれることとなったのです。

1575年5月長篠の戦いで、家康・信長連合軍が武田に圧勝!!
この時、17歳の信康も、一軍を率いて参戦!!
局地戦で殿を務め、功名をあげます。

1579年4月、武田軍が徳川領に侵攻。
徳川と武田の国境では、緊張が高まっていました。
そのさなか、家康のもとに、信長から信じられない命令が・・・!!

「信康に切腹させるよう家康に伝えよ。」by信長

そのきっかけとなったのが、信康の妻・徳姫が、父・信長に、夫の悪行を訴えたことでした。
信康の悪行とは・・・??
史料には、鷹狩りで意に沿わない僧侶を殺したことや、下手な踊り子に腹を立てて射殺したことが書かれています。
信康の行動は傍若無人で、慈悲の心がなく、そのため夫婦の仲は悪くなったとありますが・・・
しかし、信康と家臣との間が上手くいっていないわけではなく、揉めたこともなく・・・
粗暴な君主だったという形跡は、同時代の資料には見られません。

そして、信康のことは家康に一任していた???
信長が家康に殺せという命令を出していないのでは??
家康が、このままではいけない・・・と、忖度で殺したのでは??

当時の徳川は、武田と織田の二大大国の狭間にありました。
家康は信長と結び、武田と対峙していました。
この時、家康と対峙したのは武田勝頼。
信玄亡き後、武田の家督をついだ勝頼は、後世評価の低い武将であるが・・・
信長の評価は・・・
「勝頼は若年ながら、信玄の教えを守り、表も裏もある油断のならない相手である」と。
事実、勝頼は、父・信玄ですら攻略できなかった徳川方の高天神城を僅か1か月で落としています(1574年6月)。

徳川と武田の熾烈な奪い合いの舞台となった高天神城。
難攻不落だった高天神城・・・。
奪還を目指す徳川の猛攻を7年もはねのけた勝頼。
武田が施した数々の備え・・・横堀・・・武田の城兵は、土塁を盾にして、見下ろす形で横堀に迫ってきた徳川の軍勢に対して、鉄砲や弓、つぶてを投げて守ることができたのです。

城は、水陸交通の要所・・・家康の浜松城まで直線で僅か30キロ。。。
派は松上の喉元に刃を突き付けられるような、大きな危機を感じる場所だったのです。

家康にとって、生命線ともいえる高天神城・・・。
なんとか奪還しようとする家康ですが・・・信長からの援軍は無し・・・
10数年続いてきた徳川と織田の軍事同盟。。。
家康は、姉川の戦い、信長上洛戦、越前遠征・・・に参陣を果たしたにもかかわらず、織田からの見返りは多くありませんでした。
織田と徳川の関係は、実質的な主従関係だったのです。

そんな関係に対し、徳川家臣団の不満が一つの事件を起こします。
1575年4月、信康の家臣・大岡弥四郎事件です。
大岡弥四郎を中心とする反逆です。
密かに武田に通じていた岡崎町奉行・大岡弥四郎が、城を乗っ取り、武田に合流しようとしたのです。
事件は未遂に終わり、首謀者たちの処刑で幕を閉じました。
信康の守役も武田に内通し、岡崎奉行の三人のうち大岡を含めて2人も武田に加担していました。
さらに、正室・築山殿も加わっていたといわれています。
岡崎衆をあげて、武田家に鞍替えしようとしたものです。

武田との抗争が激化して以来、家康の浜松、信康の岡崎と家臣団は二分していました。
そこに微妙な内部対立がありました。
家康の周りには、主要メンバーで最前線で戦う。。。
しかし、信康側は、最前線で戦うことはあまりなし。。。
いつでも功績をあげられて、恩賞の利益にあずかれる可能性の高い浜松衆と、チャンスに乏しい岡崎衆との確執が、背景にあったと思われます。

この4年後・・・再び徳川家に大事件が・・・それが信康事件です。

事件の顛末を記した資料は少ない・・・
「三河の信康殿逆臣!!」
当時、岡崎にいた信康としては、先の見えない武田軍との戦い・・・いつ進軍してくるのかもわからない・・・
信康が父・家康追放、もしくは暗殺というクーデターを実行に移した場合、頼れるのは武田しかいない。。。
突如として出た信康謀反の噂・・・。
家康は、我が子・信康をどうする???

1579年8月3日、家康は岡崎城に向かいます。
信康の真意を。。。!!翌日二人は対面。
信康は家康に対し、織田を見限り武田に着くと言ったと考えられます。
一方家康は・・・厳しく問い詰めます。
苦悩する家康。。。

信康を捨て織田をとる??
このまま信長に着けば徳川は安泰。。。
この頃の信長の版図拡大は凄まじく、北陸の上杉、西の毛利に対し、織田軍が出兵し領地は膨張の一途にありました。
安土城も完成し、信長の天下は盤石になりつつあったのです。
しかし、謀反の噂が信長さまに入った以上信康に罰を・・・!!
処置を誤れば、家中が二つに割れてしまう!!


信康をとり武田と結ぶ??
家中が二つに分かれる最悪の事態は避けられるのでは??
武田はこの頃、最大の版図を獲得していました。
勝頼は、北条と対決をし、領土を拡大!!
糸魚川にまでも領土は拡大し、武田の領国は日本海にまでも達していました。
「信康事件」の前後は、武田の領土が再び拡大している時期なのです。

織田家臣団にも綻びが・・・
信長に反旗を翻す武将が続出!!
松永久秀の謀反・・・荒木村重の反乱はまだ続いていました。
が、畿内の制圧を目前の信長・・・。
信康の意見を通せば、家長としての自分の立場は・・・??


1579年8月4日、信康と対面したその日、家康は信康を岡崎から20キロ離れた大浜に幽閉。
家康は、信康を処断し、信長との同盟を維持することを決断したのです。
翌日には弓・鉄砲衆を連れて、大浜に近い西尾城へ入るように家臣団に命じます。
信康と謀反を画策した重臣たちへのあからさまな威圧です。
さらに家康は、岡崎城に家臣や三河の国衆を集め、信康と連絡を取り合わないなどの起請文を提出させます。
家康は同盟相手・信長にも事の顛末の説明をするため書状を送っています。

「信康は士道不覚悟により、岡崎城から追い出しました。」

処断されたのは信康だけではなく、信康と同じく武田との内通を疑われていた正室・築山殿が家康の家臣の手で殺害されたのです。
信康は大浜から堀江、二俣城へ・・・
家康としては信長との手前、信康を処断しなければ・・・しかし、やはり親子。。。
家康と信康の関係が意思疎通を上手くすれば、自害に及ばなくても廃嫡??と考えていたのかも??

家康は、信康幽閉の一月後、武田と敵対関係にあった北条と同盟を締結。
織田・北条・徳川による武田包囲網が完成します。
武田と全面対決の姿勢を・・・!!

1579年9月15日、信康自刃!!

21歳、若すぎる死でした。

信康自害の報告をうけた家康は、黙ったままうなだれました。
信康自決後、信康を支えた岡崎重臣たちも粛正されます。

三重県桑名市・・・ここに妖刀・村正が残っています。
信康の介錯にも村正が使われたと言われています。
家康の父・広忠、家康自身、信康・・・徳川家にまつわる人が村正に関わっているので、妖刀といわれるようになりました。
信康が自害したとき、家康は語ったといいます。

「村正は、徳川家に仇成す刀である。
 今後、刀の中に村正があれば、みな取り捨てよ。」

家康が恐れた妖刀・村正・・・。

村正の妖刀伝説が長く流布されたのは、家康の信康を自害させた後悔の想いを生涯持ち続けていたからかもしれません。
そののち、家康は信康に対して固く口を閉ざして語ることはありませんでした。

30年後・・・秀忠の妻・江に対する訓戒に信康に対する家康の想いが記されています。

「信康が生れたときは、親も若く、子が珍しく、その上発育が悪く、丈夫に育ちさえすればいいと心得、気づまりになるようなことはさせず、気ままにさせておいた。
 成人になってから、急にいろいろ教育してみたが、後に親子の言い争いのようになってしまった・・・」と。

このことで、民衆や家臣の家康に対する尊敬心は増した・・・??
家康の言葉の重みが増したのです。
徳川が15代も続いたのは・・・この信康事件の後悔からの家康の子育てにあったのかもしれません。

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いよいよこの日が来ました。
Yahoo!ニュースにもなった政次の死の回です。

家康に味方することを条件に、お家再興を取り付けた直虎・・・。
徳川は遠江に攻め込み、井伊谷城明け渡しとなったのですが・・・??

その場所にやってきたのは、酒井忠次!!
道案内をしたのは、徳川が声をかけ、井伊を恨んでいた井伊谷三人衆でした。
そうして・・・そのうち、近藤康用は、木材の一件で、井伊を恨んでいたのです。

「開門!!」と同時に射かけられた矢・・・!!

戦いが始まってしまいました。

井伊の者が射かけたと??
門を開けるように催促する忠次でした。

毎回毎回詰めが甘く、やっぱり謀れない直虎です。
この直虎の行動で、沢山の人が犠牲になっているのになあ・・・

naotora5













やったやらない、言った言わないはどうにもこうにも白黒決着がつかないのが世の常です。

但馬がやったのでは・・・??
騙されていたのでは・・・??
徳川につくと見せかけ、徳川の寝首を欠こうとしたのでは・・・??

と、忠次に責められる直虎。

でもね、普通はそう思うよ・・・直虎
おまけにまずいことに政次は逃げてしまった・・・
でも・・・逃げないと反論もなく死が待っているでしょうね・・・


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家康本隊も、井伊谷に到着。

政次の代わりに投獄された直虎。

武田はすでに駿府を落とし、氏真は掛川に逃げ落ちていました。
掛川に向かえといわれている家康。。。

徳川に申し開きをする直虎ですが・・・
聞き入れてもらえません。
というか、家康もまだ若く、そんなこんなを一人で決定できる状態ではなかったのでしょう。
掛川攻めも差し迫っていたし・・・。
この一件が、直虎に対しても負い目として後々生きてくるんでしょうね

近藤が矢を射かけていたことが、直之によって判明。。。
おまけに、傑山が拾ってきた”射かけた矢”には矢じりがありませんでした。


その頃、政次は・・・。

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川名の最後を・・・。

先を急ぐ徳川軍は掛川に・・・!!
なんと、井伊谷に留まったのは近藤の隊でした。

南渓和尚は龍雲丸たちに牢破りをさせ、直虎を逃がそうと考えていました。
そして政次のことも・・・。

が・・・なんと政次が捕まりました。
なんと、近藤を襲ったのだとか・・・代わりに牢を出される直虎・・・!!

「もう少しであったものを・・・
 もう少しで首をとれたものを・・・

 信じておられたとは、おめでたい・・・!!」by政次

と、あくまで悪に徹する政次・・・!!

naotora8












助けに来た龍雲丸にも”牢を出る気はない”という政次。

自分が逃げれば、直虎が捕まり、隠し里が暴かれ、みんなが犠牲になる・・・。
井伊には守り切れるだけの兵はない。。。

「俺一人の首で済ますのが、最も血が流れぬ・・・!!」by政次

政次がいなくなったら、誰が直虎を守るのか・・・??そう聞いた龍雲丸に、
「和尚様もおるし、お主もおるではないか・・・。」by政次

説得を続ける龍雲丸に・・・

「それこそが小野の本懐だからな・・・
 忌み嫌われ、井伊の仇となる・・・
 おそらく私は・・・このために生まれてきたのだ・・・!!」by政次

直虎に報告するも、助けに行こうとする直虎。。。

naotora4












「あの人はやりたくてやってんだよ!!
 
 井伊ってのはあんたなんだよ!!
 あの人の言う井伊ってのは、あんたのことなんだよっ!!

 小野って家に生まれたことで、振り回されたかもしれねえ!!
 辛い目にもあったかもしれねえ・・・
 けど、そんなもん、その気になりゃ、放り出すことだってできた・・・
 そうしなかったのは、あの人がそれを選んだからだ・・・!!
 
 あんたを守ることを選んだのはあの人だ。
 だから、本懐だって言えんでさ・・・!!」by龍雲丸

 
守ってくれと頼んだ覚えなどないと、寺を飛び出してしまった直虎。

あの井伊の井戸で・・・クールダウンしてきた直虎は何を思う・・・??

政次が磔にされると南渓和尚に聞いた直虎。。。

「我が・・・送ってやらねば・・・」by直虎

naotora















磔にされる政次・・・。
じっと見る直虎。。。

とっさに槍を奪って・・・

naotora3















naotora2

















「地獄へ落ちろ!!
 小野但馬!!地獄へ・・・!!
 ようも、ようもここまで我を欺いてくれたな・・・!!
 遠江一、日の本一の卑怯者と、未来永劫語り伝えてやるわ・・・!!」by直虎

「笑止!!
 未来など、もとより女子頼りの井伊に未来などとあると思うのか!!
 生き抜けるなどと思うておるのか!!
 家老ごときに容易く謀られるような愚かな井伊が、やれるものならやってみよ!!
 地獄の底から・・・見届けて・・・。」by政次


直虎によってとどめを刺され、本懐の政次。。。

白黒を
 つけむと君を ひとり待つ

天伝う日ぞ 楽しからずや

これが、政次、辞世の句でした。


直虎の真っ白な頭巾に飛び散った政次の血・・・それが、壮絶を物語っていました。
でも、直虎ってほんと、誰かの死を乗り越えることでしか成長できないのかなあ・・・なんだかそれもキツイ・・・


小野政次・・・壮絶な最期でした。
みなさん、騙されてはいけませんよ。
歴史に伝わっている小野政次は、井伊を乗っ取ろうとした悪者です。
そして、近藤殿をはじめとする井伊谷三人衆は味方のはずです。
ま、歴史といっても勝者の歴史なので、井伊谷三人衆のおかげで井伊を治めることができたのなら、家康がそんな風に仕上げたのかもしれません。
ただ、処刑されたとはいえ、小野政次の墓が残っていたり、神社があったりと・・・
本当は直虎の味方であったという見方もあってもいいのかな??って思います。

全く資料のない中で、こんな風に話を膨らませる・・・
作家さんって本当にすごいなって思うんです。

が・・・視聴者の皆さんは、政次の最期が「神回」ということでしたが、ま、神回には違いないですが・・・

私のMVPは、やはり龍雲丸です。
近藤康用が恨みに思っていた一件は、龍雲丸の一件でした。
そして、本当は処分しなければいけないところをかばったのは直虎でした。
そんな甘い直虎を許してしまったのは政次です。

直虎の詰めの甘いところを、やさしさ・・・とは言わない、間抜け?なところもすべて受け入れて、何もかも背負って逝ってくれた政次です。
そんな政次に、男として龍雲丸は負い目があるでしょう。

いろいろと思い、政次を説得する龍雲丸、直虎を説得する龍雲丸にウルっときてしまいました

やっぱりタイタニックで泣けない女は、みんなの感動シーンでは感動できない女でした



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