日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:毛利元就

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忍者の歴史はいまから600年前の南北朝時代。
激しい争いの中、情報収集・潜入活動などの技術が発達し、「忍び」という職業として成立しました。
以降、徳川家康、武田信玄、毛利元就・・・忍びを使わない武将はいませんでした。

しかし、本当の忍者は、私たちの想像とはかけ離れています。
戦闘のプロのイメージが強いですが・・・戦いません。
今でいうスパイのような存在で、敵と対峙することよりも、生きて情報を持ち帰るのが任務でした。
戦うのは最後の手段だったのです。

さらに手裏剣はウソ・・・十字型の手裏剣は欠点だらけです。
鉄製なので重すぎる・・・軽快な動きを必要とされる忍者には不向き!!
さらに、鉄は高価なものなので、勿体ない!!投げるのを躊躇。


kunai


普段携帯していたのはクナイ!!

穴を掘る、壁を上る際の足場、武器!!
汎用性があり、武器として携帯するには最適でした。



忍者の真実其の一
忍者は黒装束を着なかった
忍者と言えば、黒装束に身を包み、華麗に潜入!!というイメージが強いですが・・・
敵地で隠密行動するのに・・・忍者とわかる黒装束は目立ちすぎる!!
どうして忍者と言えば黒装束というイメージがついたのか・・・??
それは、歌舞伎!!
江戸時代、観客が一目で忍者と認識できるように衣装を黒装束にしたのが始まりです。
その名残から、忍者=黒装束というイメージがついたのです。
では、本当の忍者は・・・??
状況によって使い分けていました。
潜入先の住民や、風景になじむように変装していたのです。
町人から情報を聞き出すときは、町人・商人・お坊さん・山伏・・・。
潜入先の方言を話せるように訓練していました。

城や屋敷の中を覗きたいときには虚無僧・・・顔を見られることなく、偵察に適していました。
城や屋敷に潜入する時は、放下師、猿楽師に・・・大名に気に入られれば、屋敷に呼んでもらえ、重要な情報を集めることができました。
これらは、七方田とよばれ、忍者の基本の変装術でした。

忍者の真実其の二
忍者は将棋が強かった。
当時の庶民の娯楽は将棋でした。
知らない土地の人と仲良くなるためには、最高のコミュニケーションツールでした。
忍者は誰とでも相手ができるように、人並み以上の腕前を持っていたといいます。

忍者の真実其の三
そして・・・将棋には勝ってはいけません。
相手のことを操り、秘密を聞き出すうえで重要なことは・・・うつけ者を演じることでした。
かしこく振る舞うと、相手は気分を害して口を閉ざしてしまう・・・。
相手を気持ちよくさせることが大切なので、将棋でわざと負けることも多かったといいます。
情報を聞き出すために、忍者はプライドを捨てていたのです。

忍者の真実其の四
潜入には穴を掘る。
鍵縄を使って城や屋敷に潜入することは、見張りに見つかる危険性があります。
なので、潜入のためには、穴を掘ってトンネルを通す・・・完成までに数か月かかることもありました。
また、壁が木造ならば、塩水を吹きかけ少しづつ木を腐らせ穴をあけていました。

忍者の真実其の五
忍術は科学だ。
実在の忍者は、超能力を使えたわkではありません。
忍術とは科学の応用なのです。
忍者は、今でも専門家しか知らないような科学的知識を豊富に持っていました。
夜の山奥で道に迷ったら・・・方角を知るために、火を起こし・・・縫い針を使って方位磁石をつくりました。
熱残留磁化という仕組みで、縫い針と水だけで方角を特定していました。

火の扱いにもなれており、忍び松明は雨にぬれても消えにくい特殊な松明でした。
独自に火薬を調合します。それに利用するのは・・・糞尿と灰汁を煮込み、冷却して火薬(硝石)を作り出していました。

忍者の真実其の六
忍者はサバイバルの達人。
時に山中に身を隠すことの多かった忍者は、サバイバル術にも長けていて、自生する植物の種類を見極め、飢えをしのいでいました。
兵糧丸というもち米や砂糖を練って作った高カロリーの非常食も持っていました。
それだけでなく、梅干しと砂糖を元に作った非常食・水渇丸で・・・酸味と唾液を分泌させ、のどの渇きを癒したといいます。

忍者の真実其の七
くのいちは存在しなかった。
女性がいたという書物は残っていません。

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深い山々に覆われた中国山地・・・
ここは、産地面積が7割を超える日本有数の山岳地域です。
備中松山城をはじめ、山城が点在する全国でも有数の山城地帯です。
鎌倉時代以来、山間の小さな領地を支配した毛利一族・・・
元就は、毛利家の次男として生を受けました。
当初、家督は長男が継ぎ、元就は支えるために分家を相続しました。
しかし、当主が僅か9歳で亡くなったために、1523年元就は27歳で毛利家の家督を継ぐことに・・・
元就は、若い頃から文学を好み、軍術奇計を嗜んでいたようです。

毛利の居城・郡山城・・・元就は、この小さな山城を拠点にした国人領主でした。
室町幕府の元、領国支配を担ったのが、守護大名で、その代理で現地に向かったのが守護代でした。
守護代の元、土地を治めていたのが、多くの国人領主でした。
この体制が大きく揺らいだのが戦国時代で、室町幕府の権威に頼らず、実力で領国経営の実権を勝ち取っていくのが戦国大名です。
一般的に戦国大名になるコースは3つあります。
①守護、守護大名が戦国大名にスライドする
②守護代が下剋上でのし上がる
③国人領主の国人一揆による戦国大名化です。
毛利元就は、典型的な③でした。
国人領主は、その他大勢のひとりでそこからのし上がっていくのは大変でした。
当時の中国地方は、守護大名から戦国大名となり北九州まで支配した大内、さらに守護代から下剋上を為した尼子、この二つが覇権を争っていました。
国人領主の毛利は、大国の狭間にある弱小勢力にすぎませんでした。
どちらかの勢力に組していなければ生き残れませんでした。
大内と尼子の争いが・・・狭間の国人領主たちは昨日は大内に人質を差し出し、今日は尼子に礼を尽くして心休まる暇がありませんでした。
それは、力を持たない国人領主たちの乱世を生きる術でもありました。
この頃、大内の宿敵・尼子は、備中美作を制圧、播磨や備後にもその勢力を拡大していました。
当時の当主は、尼子詮久。
詮久の隆盛ぶりは・・・”向かうところ敵はなし”と記されています。
元就は、尼子に従属しました。
かつて詮久とは、義兄弟の契りを交わした仲でした。
しかし、その後、尼子を見限り大内の傘下に・・・。
大内方から有利な条件を提示されたようです。
1539年、尼子詮久、毛利討伐を決定!!
裏切り者の元就に対する詮久の報復ともいえます。
しかし、この時叔父の久幸はこう諭しました。
「元就は名将である。
 尼子が攻めかかれば負けとなり、後代までの名折れとなる。
 思いとどまるべし。」と。
それに対し、血気に逸る詮久は臆病者とののしり、その意見を退けました。

1540年9月、尼子の大軍勢3万が国境を越え、元就の郡山城へ・・・!!
大軍の襲来に窮地に陥った国人領主の元就・・・いかに立ち向かう・・・??
合戦後の本人による詳細の記録「毛利元就郡山籠城日記」
その目的は元就自身の活躍を室町幕府に報告するものですが・・・によると・・・
元就が尼子の軍勢を3万としたのは誇張と考えられてきていましたが・・・誇張ではない??
謎の解明の手掛かりとなるのが、航空レーザー測量です。
結果から読み取れるのは・・・??
郡山城の尾根筋には、兵を収容するための曲輪があります。
尼子の城跡の近くにも同じような平たん地・切岸が・・・。
土橋、竪堀・・・尼子軍の城跡は、郡山城の西側に全長6キロに及ぶ山城群を築いていたことが分かりました。
尼子は、圧倒的な大軍で毛利の郡山城を攻めてきていたのです。

尼子の圧倒的な大軍勢に囲まれた元就・・・
この時、収穫時期で、元就は事前に収穫を終わらせ、新米を一粒残らず郡山城内に搬入させていました。
元就はどこに活路を見出すのでしょうか?
尼子につく??
それとも大内につく??
苦悩する元就・・・どうする??

1540年9月5日、尼子の軍勢は無数の山城を築き、郡山城を包囲しました。
この時、籠城する毛利方の兵数は2400と伝わっています。
ポルトガルの宣教師によると・・・
敵の包囲が始まると、貴人も賤民も、権力のある者もない者も、その妻子を連れてすべての人たちが城に身を寄せることになっている。
城下の領民たちも加わり、毛利軍は総勢8000になったといいます。

元就の籠城日記によると尼子勢は城下の村々を焼き払い・・・しかし領民はそれに怯むことなく・・・
言葉戦いを合図に開戦!!
領民と共に籠城した元就は、尼子勢との全面対決を明らかにしました。

おおよそ戦は、軍勢の数によるものではない。
皆が心を一にし、行動を一にすれば大軍勢と言えども畏れることはない。

開戦から7日後・・・再び尼子軍が郡山城下にせまります。
尼子軍は城下に火を放ちます。
それに対し、元就は出撃を命じましたが、多勢に無勢毛利軍は敗走・・・。
追撃に入った尼子軍は途中の多治比川を渡りました。
その時、尼子を毛利の伏兵が襲ったのです。
大混乱の尼子勢・・・毛利勢はこの時、敵の大将を討ち取る金星を挙げました。
どうして作戦が功を奏したのでしょうか?
一つは気象条件。
秋から冬にかけて、朝霧が多く、昼近くまで霧に覆われていることがあります。
郡山合戦にの際に、視界が悪いことが影響していたのではないか?と言われています。
この敗戦によって、尼子詮久が動きます。
本陣を郡山城の本陣の正面に移したのです。
元就と雌雄を決しようとする決意表明でした。

しかし、本陣を移した尼子は、総攻撃をする気配がりません。
毛利を撃退するという強い意志を持っていたのは、詮久の旗本衆や一部の軍勢で、尼子に付き従ってきた多くの国人領主たちは積極的に戦う気がなかったようです。
元就は、城に籠城することなく出撃を繰り返します。
籠城する領民たちの士気を下げさせないためのものでした。
合戦が始まって一月後・・・大内の援軍は来る気配がありません。
この状況を打破する為に、元就は賭けに出ます。
自ら兵を率いて出陣!!
敵本陣めがけて突撃します。
そこにはどんな思いが・・・??
大内に対して、自分たちはこんなに戦っている!!と、見せること。
この戦いの後、大内が動きます。
1540年12月3日、大内の援軍1万が、郡山城の南に・・・!!
元就は、大内の援軍と共に尼子を急襲、敵の軍勢を撃破!!
大打撃を受けた尼子は、この合戦以降凋落の一途をたどります。
4か月以上の戦いは、元就に勝利をもたらしただけでなく、大内の絶大な信頼を受けることに・・・!!
一介の国人領主・毛利元就が、戦国の世に大きな一歩を踏み出した瞬間でした。

郡山合戦の後、領内で大きな問題が・・・
戦いは、あくまでも防衛を目的としていたので、領地が書く出しいたわけではありませんでした。
十分な恩賞を与えることのできなかった毛利元就・・・
家臣からの信頼を失おうとしていました。
その打開策として・・・1546年嫡男隆元に家督を譲ります。
体制を刷新することで、毛利家の信頼を回復させようとします。
元就が三人の我が子に向けた教訓状には・・・
三人の間に少しでもかけ隔てが出来るようであれば、必ず三人とも滅亡すると思った方が良いとあります。
一族間の繋がりこそが肝心だという国人領主だった元就の知恵でした。

1551年9月、大内義隆、謀反により討ち滅ぼされます。
もとなりは、155年10月厳島合戦で、陶晴賢を討ち、大内の領国を奪取することに成功!!

1566年11月、70歳で尼子の居城・月山富田城の戦い!!開城させ、遂に、中国10か国の大大名となりました。
ところが、隆元に向けた元就の書状には・・・
「当家を良かれと思っている者は、他国は無論のこと、当国にも一人もあるまじく候」
誰からも信頼されていないことを自覚していなければ、人の真の信頼を得ることはできない!!
元就がこの世を去ったのは、1571年6月14日、享年75。
それは、国人領主を振り出しに、見事中国山地の覇者となった生涯でした。

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知将・毛利元就―国人領主から戦国大名へ

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大小3000の島からなる瀬戸内海・・・
この海で、何百年にわたり中央権力に媚びることなく、自由に生きた一族がいました。
その一族とは、村上水軍です。
行き交う船は、彼らに関銭を払うことが掟!!
拒否すれば、誰であれ襲い略奪!!
奪い取った関銭を元に海洋貿易をし、瀬戸内最強の水軍を組織していきました。
そんな村上水軍を戦国時代に率いていたのが村上武吉!!

その実力は、陸地の名だたる大名が、武吉を敵に回すことを恐れていました。
そんな武吉を宣教師ルイス・フロイスは・・・日本最大の海賊と称しました。
群雄割拠・戦国の世に、瀬戸内海に君臨した海賊王でした。
この武吉の前に大きく立ちはだかったのが、豊臣秀吉です。
日本を一つにまとめようとしていた秀吉は、武吉が支配している海にも影響を及ぼそうとしていました。
秀吉は命じます。海の関所を停止することを・・・!!
関銭を停止するように命令してきたのです。
関銭徴収は、武吉たちが先祖代々自らの手で勝ち取ってきた既得権益です。
この権利を完全に否定したのです。
村上水軍の力を根こそぎ奪おうとする秀吉の苛烈な要求!!
村上武吉はどう応えるのか・・・!!

村上水軍はいつから存在しているのでしょうか??
それは謎です。
が、既に12世紀・平安時代に海賊に対する禁圧令が出されています。
古くから海賊たちは、中央政府にとって悩みの種だったのです。
中でも瀬戸内海は、朝鮮半島や中国からの船が都に向かう際の重要航路。
物資の往来も激しかったことから、多くの海賊が跋扈していました。
海の荒くれものは、陸の権力者のものであろうとお構いなし!!
海の民たちは、陸の権力者に阿ることなく自分たちの掟で生きていたのです。
そんな瀬戸内のリーダーとなったのが村上水軍!!
彼らが歴史の表舞台に躍り出たのが室町時代中期。
世は戦国時代へと突入していました。
村上水軍は、瀬戸内海の中央部、現在の山口県・上関から香川県・塩飽諸島まで170キロを支配下に置いていました。
その内部は3つの家から成り立っていました。
・因島村上氏
・来島村上氏
・戦国時代村上水軍の主となった能島村上氏
・・・武吉が頭領だった家です。

3つの村上家が協力することで、瀬戸内を遮る網を張ることができ、行き交う船から関銭を徴収していたのです。
戦国時代、武吉が瀬戸内を通る船に与えた村上の上の字が書かれた旗「過所旗」・・・行き交う船は、この旗を、関銭を払うことによって掲げ、安全を保障するパスポートとしていました。
逆に言えば、村上の許可なくしては瀬戸内海の海を通ることは許されなかったのです。
そんな武吉たち村上水軍が、瀬戸内の王者となれた秘密は・・・??

能島・・・能島村上氏が本拠地とした島です。
このあたりの潮流は、瀬戸内海とは全く違います。
まるで渓流のような激しい潮流・・・その速さは、最大10ノットおよそ時速18キロで流れています。
その動きは、潮の満ち引きによって絶えず変化していました。
このような中で育った村上水軍。
島々が密集しているこのあたりは、非情に潮の流れが激しかったのです。
この潮の流れで育まれた操縦技術が、彼らの力でした。
村上水軍は、卓越した操船技術を手に入れ、そして、瀬戸内の海賊の中でも抜きんでた存在となっていきます。

戦国時代、能島村上氏が本拠地としていたのが、この島全体を丸々城塞化した能島城でした。
島には、岩礁ピットが残っています。
岩礁ピットの総数は、能島城の周囲で400を越えています。
かなりの数の船を保有していました。
船をどれだけ持っていたのか?関銭をどれだけとっていたのか・・・??それは謎のままです。

しかし、海賊的な行為以外にも・・・
見近島からは、陶磁器の破片がたくさん(およそ1万2000)見つかっています。
中でも際立っているのが、中国、朝鮮の陶磁器の多さです。
能島村上氏が商品流通に干与していたことがわかります。
大名クラスの品々を取り扱っていました。
こうした活動を代々続けながら、瀬戸内海の王者となっていったのです。

1555年、武吉22歳の時・・・
瀬戸内海に接する中国地方では、ある新興勢力が・・・
広島県・・・安芸を拠点に勢力拡大を狙う毛利元就です。
その元就と対立していたのが、陶晴賢。
陶晴賢は、周防国を実質的に支配していた武将です。
この両者が、厳島神社がある宮島で激突!!
厳島の戦いです。
この一大決戦を前に、元就は武吉をかなり警戒していました。
小早川隆景によると・・・
「音戸の瀬戸の両側に砦を築くこと」としています。
能島村上氏が音戸の瀬戸を通過して、広島湾に侵入するのを防ごうとしたと考えられます。
元就は、武吉が敵方として参戦することを恐れ、砦を築いたというのです。
武吉の存在を恐れていた毛利元就!!

「能島村上武吉は、何としても味方に引き入れたいものだ」
「世を日に継いで調略せよ」

能島の力は、三島の村上の中で、一番強かったのです。
毛利にとって、瀬戸内の水軍の力は、他の大名と戦っていくうえで、極めて重要な意味を持っていました。
元就は、どうしても武吉を味方に付けたかったのです。

武吉の力・・・それは、室町幕府13代将軍村上義輝の知るところとなります。
この頃中国地方では、毛利と尼子が戦っていました。
それを何とかして鎮めようとした義輝は、武吉に仲介を頼みます。
能島村上氏が、将軍から「毛利に対して働きかけ出来る存在」として認められていたのです。
大名や将軍などの陸の支配者からも力を認められていた村上武吉。
日本最強の海賊として戦国の世を堂々と渡り歩いていました。

群雄割拠の戦国時代・・・それぞれの地域を代表する大名が誕生してきました。
中国地方を制覇したのは毛利家。
この頃には、毛利輝元になっていました。
そして、その毛利家を飲み込むように成長してきていたのが、東海、近畿を抑えた織田信長。
日本を一つにしようとしていた信長は、既存のルールを壊していきます。
関所を廃止、座を撤廃、楽市楽座を行いました。
信長は、旧来の支配者の既得権を否定することで、大きくなっていきました。

1576年、信長は本願寺を攻め立てていました。
そんな本願寺を助けようと思っていた毛利輝元は、本願寺に援助物資を運び入れるよう武吉率いる村上水軍に依頼します。
1576年7月、木津川の戦い・・・村上水軍と織田水軍との間で戦いの火ぶたが切られました。
ほうろく火矢で戦う村上水軍に織田水軍は驚きます。
この戦いで織田軍を壊滅させた村上水軍の名は、世に響き渡ります。
村上水軍の強さを痛感した信長は、天下統一のためには武吉の力が必要だと感じます。
そこで信長は・・・
「望むことがあるようなら、何でもその意を叶える。」と、武吉に言っています。
来るべき毛利との戦いに。村上水軍を味方にしようと思ったのです。
その翌年、信長は中国攻めに・・・!!
信長の意を受け進出してきたのは、羽柴秀吉。
秀吉は、村上水軍を本格的に調略すようと動き出します。
武吉の息子・元吉に書状を送ります。

「先日送ってきた使者を、こちらに寄こせ。
 内緒の話をしよう。」と・・・。

実は、能島村上家では、毛利に付こうとする父・武吉と、織田に付こうとする息子・元吉の間で意見が分かれていました。
それを知っていた秀吉が、調略を仕掛けたのです。
秀吉によって親子分断の危機・・・。
そして・・・来島村上氏にも・・・。
秀吉の誘いに、来島村上通総が乗ってしまいます。
これまで一致団結して瀬戸内海を支配してきた村上水軍・・・信長、秀吉という強大な敵を前に、結束に乱れが生じてしまいました。
このまま信長によって瀬戸内海は分断されてしまうのか??
そんな時大事件・・・1582年6月、本能寺の変!!
織田家の棟梁・織田信長が、家臣・明智光秀の謀反によって非業の死を遂げたのです。
この一大政変によって、秀吉の毛利攻めは中断!!
結果、瀬戸内海は、武吉が君臨することに・・・!!
武吉人生次第の危機は去ったかに見えました。
そかし、それはつかの間の事・・・。

本能寺の変という予想だにしなかった事件で再び瀬戸内海に君臨した村上武吉。
しかし、天下は一人の男によって、信じられないスピードでまとまろうとしていました。
その男とは、武吉たち家族の分断を図った羽柴秀吉です。

信長の後を継いだ秀吉は、本能寺の変の僅か3年後には関白に就任。
事実上の天下人となりました。
天下人となった秀吉は、日本を一つにまとめていく政策を打ち出します。
太閤検地・・・これまで地域によって異なっていた田畑の広さの単位を統一

「海陸役所停止の事。
 海と陸の関所は禁止とする。」

秀吉からすれば、関銭徴収は中世だから存在しえた私的な行為・・・
このような過去の遺物は、新しい国家には必要ない!!
何百年にわたる中世の海賊の基本的な在り方を侵害されてしまう!!
秀吉が命じた関銭の禁止・・・

関銭徴収は、先祖代々作り上げた海の掟・・・。
自由な海賊としての道か、生き延びてこその道か・・・??

天下人・豊臣秀吉の関銭禁止命令に、村上武吉は・・・??
豊臣政権側は、当然会場の静謐、対して武吉側は従来の権益・・・。
お互い引けない・・・!!
関銭行為を止めない武吉。
海賊として自由に生きる選択をしたのです。
しかし、武吉の態度に業を煮やした秀吉がついに動き出しました。

「能島・村上武吉が海賊行為を行ったと聞いた。 言語道断!!」

そして、武吉の瀬戸内追放!!

武吉を先祖代々の地から追い出したのです。
福岡県糸島半島へ移された武吉。
その4か月後、秀吉は「海賊禁止令」を出します。
「今後は、船を使うものは代官が管理し、海賊行為をしないように約束させる。」
秀吉はこの法令によって、今後海は、陸の者が支配すると宣言したのです。

中世の海賊の一番代表として日本中に名前が通っていた武吉を屈服させ、本拠地瀬戸内海から追放したということは、もう中世の海の世界というものはダメということを日本全体に知らせる出来事でした。

しかし、1598年3月、天下人・豊臣秀吉死去。
二年後の1600年、関ケ原の戦い!!
この混乱を待っていたように武吉が動き出します。
この時、68歳!!
武吉が向かったのは、愛媛県にある興居島。
この時、この地を治めていた加藤義明は関ケ原の戦いで不在。
この好きに武吉は瀬戸内海を取り戻そうと考えていました。

しかし・・・突如夜襲に・・・
檄文を送った相手が裏切ったと考えられています。
彼らにとっては、武吉はもう、過去のものだったのかもしれません。
瀬戸内海にある周防大島・・・夢破れた武吉はこの地に移ります。
以降、能島村上氏はもう海賊ではなく、毛利家の一家臣として生きていくのです。
関ケ原の戦いの4年後・・・
1604年8月22日、村上武吉死去・・・享年72歳でした。
武吉の死は、日本から海賊が姿を消したことを意味していました。
以降、海は、陸の論理によって支配されることとなります。


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関ヶ原の戦い・・・
今から400年前に行われた天下分け目の戦いの、大きな謎。。。
主戦場では東軍・徳川家康と西軍・石田三成が死力を尽くして戦っていました。
しかし・・・南宮山に陣取って静観を決め込んでいたのは西国の雄・毛利家。。。
しかも毛利輝元は西軍の総大将を務めていました。


terumoto

どうして毛利家は動かなかったのでしょうか??
家康が本陣は桃配山・・・南宮山とは峰続きの場所・・・どうして敵の毛利を背にした場所に本陣を置いたのでしょうか?

そこにはそれぞれの選択の連続がありました。

1553年1月輝元は郡山城で誕生!!
その頃、毛利家の実権を握っていたのは、祖父・毛利元就。
戦国時代きっての武将でした。
父の死によってわずか11歳で毛利家を継いだ輝元。
しかし、その実権は、元就が握り続けていました。
おまけに、頭の上がらない叔父がふたり・・・吉川元春・小早川隆景です。
祖父・元就に説教されるうえに、隆景・元春が様々に意見をしてくるので、このままでは身が持たない・・・とも言っています。
実績も経験もない輝元は、指導のもとに動くような存在だったのです。
おまけに家臣も・・・
もともと大きな家ではなかった毛利家・・・異を唱える家臣も多かったのです。
そんな輝元の支えとなったのは、豊臣秀吉でした。

秀吉は、石高に応じて様々な要求をしてきました。
そんな中、家臣の意見を聞くこともできなくなった輝元。。。
輝元は秀吉の命令を自分の権威とすることで、家臣たちを支配していきます。
豊臣政権の意向を理由に、家臣の統制や領国の統治体制を確立させていったのです。
豊臣政権の存続は、輝元の願いだったのです。

40を過ぎて・・・ようやく毛利家のTOPとなった矢先・・・
1598年8月18日・・・秀吉死去。。。
秀吉のカリスマ性で成り立っていた政権が揺らぎ始めました。
家康と三成の対立が始まったのです。

秀吉に、家康と共に秀頼に奉公すると誓っていた輝元・・・。
その一方で・・・三成や奉行たちに対して・・・三成と意を異にする者たちがいれば、三成と話し合う・・・と、約束していました。

ところが・・・毛利家の中にいた吉川広家は、輝元を補佐する立場でありながら、黒田長政と親しい関係にありました。
広家は、徳川と行動を共にするのが良作と考えていたのです。
異なる考えの輝元と広家。。。
秀吉の死去によって風雲急を告げる豊臣政権・・・!!

家康と三成の対立が深まってきます。
1599年前田利家死去!!
ここで大きく時代が動きます。
三成を討とうと細川忠興・藤堂高虎・黒田長政・福島正則らが兵を起こします。七将襲撃事件です。
この事件を利用したのが家康。
長政たちを退かせる代わりに、三成を奉行職を解任し、居城・佐和山城で蟄居に追い込みます。

この時の輝元は・・・??
涙を流し、三成の失脚を悲しんでいました。
そして、家康に対しては・・・「父や兄のように思う」と、起請文を送っています。
家康か??三成か・・・??どうする??輝元!!

家康はさらに・・・同じ大老職だった上杉景勝に謀反の疑いがあると、1600年6月16日、討伐に乗り出します。
関ヶ原の戦いの3か月前の事でした。
上杉が討伐されると、次に家康に狙われるのは自分でなないのか・・・??

輝元の選択は、”三成に味方する”でした。
毛利の外交僧・安国寺恵瓊・・・三成と密会し、輝元を西軍の総大将に担ぎ上げることを決めました。
輝元は、二日で大坂に入ると大坂城にいた家康の家臣を追い出し、西の丸に入りました。
名実ともに西軍の総大将となった瞬間でした。
そして、それを待っていたかのように、奉行は、家康を糾弾する書状を諸大名に発します。
”内府ちがいの条々”です。
家康のこれまでの行動には大義名分がないと、弾劾したのです。
豊臣秀頼に対する反逆者となってしまった家康。。。
上杉討伐を中断して江戸城に戻ります。

輝元・・・家康とどこで戦う・・・??
この時、輝元と三成の間で作戦がたてられていました。
輝元が浜松まで出陣し、進軍してくる家康を3万の兵で迎え撃つ!!
しかし、この作戦には障害がありました。
東海道の大名は、全て家康の味方・・・兵の消耗は避けたい・・・大坂城に止まる??
輝元は・・・家康について出陣している四国の大名の領地を奪おうとしていました。
大坂城に止まり、西国をしっかり押さえることが確かだと判断したのです。

しかし、家康は、西に兵を進める準備をしていました。

大坂城にとどまったまま・・・家康に加担した伊勢国の城攻めに吉川広家を向かわせます。
しかし、ここで広家は手痛い反撃に会ってしまいました。
たった1日で300名以上の死傷者が・・・!!全体の1/10の兵でした。
もともと家康につくべきだと考えていた広家。。。
このタイミングで黒田如水から一通の手紙が・・・??
「家康が大坂に向ってくるでしょう。
 みな、家康に味方するでしょう。
 あなたの考えが第一です。」と・・・。
事実、家康方は岐阜城を落城させ、勢いを増していました。

1600年9月1日、家康・江戸城を出陣!!

吉川広家どうする??

1600年9月7日・・・毛利軍・南宮山に陣を張ります。
その数1万5000!!指揮官は養子の毛利秀元!!
家康は、9月14日・・・3万の軍勢で美濃赤坂に突如現れます。
そこは・・・南宮山からほど近い場所でした。

広家・・・毛利家を守るために、家康に従います。
そして広家は、本田忠勝、井伊直政と和議を結びます。
家康は・・・いささかもおろそかにしない・・・と、毛利の領土はそのままに・・・
それは、関ヶ原の前日の事でした。
通説では、これは広家の独断であるといわれています。
が・・・15日深夜、家康は美濃赤坂から桃配山に本陣を移します。
この桃配山は、南宮山と峰続きで繋がっていました。
つまり・・・毛利軍は徳川軍の背後にあるということになってしまうのです。

momokubari


















直線距離にしてわずか3km・・・家康は毛利に対して軍事的防御もなされていないことから、あまり毛利に対して警戒心がなかったのかもしれません。
そう・・・広家の密約は・・・輝元も承知のことだったのかもしれないのです。

関ヶ原の戦い!!天下分け目の戦いが繰り広げられます。
毛利は「動かない!!」という決断をし、家康の天下は決定的なものとなったのです。
しかし・・・この動かない行動が問題となって・・・10月10日、輝元は、中国8か国から2か国への減封となったのでした。


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広島県にある世界遺産、厳島神社。
満潮時にはまるで海に浮かんでいるかのような社殿。。。
年間400万人が訪れる日本屈指の観光スポットです。

この厳島神社があるのが宮島。。。
神の島とも言われるこの島が、歴史のターニングポイントなりました。
時は血で血を洗う戦国。
一族の存亡をかけて、この地で厳島合戦を行ったのは、毛利元就。
この宮島での勝利から毛利家は大躍進、遂には天下屈指の大大名となりました。
信長・秀吉と真っ向から対立し、関ケ原では家康を最後まで苦しめた毛利家。。。

そして、明治維新の原動力となった長州を率いたのも毛利家でした。
元就以降日本を左右する存在となった毛利家。

安芸と備後しか持っていなかった毛利家が、大内家の最高実力者・陶晴賢に戦いを挑んだのが厳島の合戦でした。

”小よく大を制す”

元就は奇襲を仕掛けます。
それを支えたのは、三本の矢で知られる3人の息子・隆元・元春・隆景でした。

1497年元就は、毛利家の次男として安芸高田市に生まれます。
元就が生まれたころは、毛利家は広島県北部を支配するだけの小さな家でした。
当時中国地方は、大内氏と尼子氏が覇権争いをしていました。
大国のはざまで、毛利家は明日をもしれない状況でした。
家族運にも恵まれなかった元就は、5歳の時には母が、10歳の時には父が死去。
おまけに父が残してくれた土地を家臣に奪われてしまいました。
20歳の時には兄・興元、兄の子・・・毛利家の家督を継いだものが次々と亡くなります。
そして・・・生き残るために大内氏に頼るのでした。
元就は、長男・隆元を人質に出します。
隆元は5年にわたり、大内義隆に仕え、関係を深めていきます。

隆元の妻は、大内の養女を迎えることができました。
隆元を通じて大内家と縁続きとなった元就・・・
しかし、この行為は尼子の反発を招きます。
1540年尼子が毛利の郡山城を3万の兵で攻めるのです。
毛利軍わずか3000。。。
どうする??

普通、これだけ数が違えば籠城戦ですが・・・
城の外へ・・・!!
攻める尼子軍!!
そこに左右から毛利の別働隊が攻めます。
人数の多さに奢った尼子軍の隙をついたのです。

元就は、その後も互角に!!
大内にも援軍を依頼します。
そして3か月後・・・援軍がやって来ます。
やってきたのは、陶晴賢。
陶は、後のライバルとなる元就の戦い方を目の当たりにします。
陶の協力で尼子を退けた毛利・・・
ここから強い毛利作りが始まります。

養子作戦を展開します。
元春は、山陰の有力者、武門で有名なであった吉川に。。。
隆景は瀬戸内海の有力者小早川家へ・・・毛利家にはない水軍を持っていました。
山陰の勢力、瀬戸内海の勢力・・・強固な関係が作られていきます。
弱小だった毛利家・・・戦国の荒波を越えて行く用意が出来てきました。

息子たちと一緒に勢力を拡大していった元就・・・
頼みの綱の大内に陰りが見え始めます。
大内義隆が、京都との交流ばかりをし、政治を顧みなくなったのです。
山口は西の京都と言われるほど華やいでいました。
文化ばかりに力を入れ、領民を顧みない義隆・・・。
家中には不安が高まっていきます。
その中心に陶晴賢がいました。

このままでは大内が立ちいかなくなる。。。
1551年陶晴賢が主君・大内義隆に謀反を起こし、切腹させます。
クーデターを成功させた陶・・・自分の息のかかった大内義長を主人とします。
元就は、この時、陶に味方をしています。
大内がしっかりしてくれないと、毛利も巻き込まれてしまうことが解っていたのです。
毛利家のためにも、大内にしっかりしてもらわなければならなかったのです。

味方をしたことで、新たに領地をもらった元就。。。
その矢先に・・・
元就は・・・厳島神社の神官・棚守房顕から・・・陶の本心を聞きます。
陶の態度には裏があり、毛利を滅亡させたい・・・というものでした。
30年間大内に仕え、やっとのことでの勢力拡大・・・
しかし、存在感を増してきた毛利に対して陶が刃を向けてきたのです。


陶に対して不信感を持つ中・・・陶が行動を起こしました。
吉見氏を攻めだしたのです。
吉見氏は、毛利と同じく大内に従ってきていた者でした。
元就のもとには、陶から吉見攻めに参加するように命令が来ます。
その命令には陶からの申し出がつけられていました。
もし来てくれたなら、人質を4人だそう・・・と。

どうして人質を出すのか???
そんな態度に出るべきか???

①妥協案・・・戦力差のある陶に従う
三男の小早川家は、吉見攻めに参加しています。

②強硬策
当時の毛利家の当主は隆元でした。
反対する隆元の意見に対して元就も尊重しなければならない側面があったのです。
しかし、陶と戦うということは、後ろから尼子が隙をついて攻めてくるということ。。。

③大胆策・・・大内の当主を味方につける
義長を味方につければ、唯一陶を黙らせることができる。。。
しかし、陶が擁立した主君を味方につけられる???

陶に従うか?立ち上がるか??

一向に腰をあげない元就に、陶が動きます。
陶は、元就配下の亜紀の武将たちに吉見攻めに参加するように檄文を飛ばします。
このままでは毛利は孤立してしまう!!

1554年5月12日、元就は陶方の4つの城をわずか一日で攻め落としました。
陶が吉見攻めをしていた隙をついたとはいえ・・・どうしてこんなにうまくいったのでしょう?

陶に知られない様に細心の注意を払っていました。
仲間にさえ、前夜にしか教えなかったのです。
宮島も占領します。
驚いた陶は、宮島に兵を送ります。
そう、宮島は・・・陶にとっても手に入れなければならない場所だったのです。
宮島は、瀬戸内海の交通を考えるうえで、極めて重要な場所でした。
経済的な重要性と、厳島神社・・・
安芸国の一の宮がある政治的な重要性を考えると、軍事的にも政治的にも経済的にも、安芸国で覇権を確立する勢力は宮島に注目するのは当然のことでした。
そして・・・戦国時代の勢力図を塗り替えることになる厳島合戦が行われるのです。

1万の陶に対して数百の毛利・・・。
でも、城が落ちることはありませんでした。
元就は陶との戦いに備え、いろいろ策を練っていたのです。
陶方きっての武将・弘中隆兼の手紙によると・・・
毛利が船で城に援軍を入れて・・・陶は船がないのでそれを防ぐことができない。
どうしようもない!!
陶にとって水軍の不足は致命的でした。

元就は、陶に味方していた水軍に寝返りを薦めた可能性があります。
水軍の寝返った見返りの手紙に、元就は了承しています。

そして決定打は・・・
深夜、元就は、城攻めに夢中になっている陶をついて、自ら別働隊を島の裏側に上陸させます。
博打尾と呼ばれる険しい尾根を越えて、陶を奇襲したのです。

しかし、原生林を知っていた???
これを提案したのは、宮島のことを熟知している厳島神社の棚守房顕と思われます。
棚守房顕の覚書には・・・厳島合戦の数十年前に、博打尾から宮島を襲った瀬戸内の水軍のことが書かれているのです。
つまり、博打尾の情報を手に入れていた節がありのです。
遂に、陶本陣を眼下に・・・!!

1555年10月1日、元就は、陶の陣を奇襲します。
一緒に攻撃したのは、毛利軍・吉川軍、海からは小早川軍。。。
一斉攻撃です。
挟み撃ちにあった陶は大混乱!!
おまけに、水軍もないので逃げることもできません。
遂に陶は切腹して果てるのです。

その後、強大となった毛利は日本の転換期に重要な役割を果たしていくことになるのです。

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