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タグ:浅井長政

ここまでわかった! 明智光秀の謎【電子書籍】[ 『歴史読本』編集部 ]

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「わが敵は本能寺にあり!!」
主君を裏切った悪人??
光秀の実像はあまりよくわかっていません。
が・・・どうして主君を討つことになったのでしょうか?

本能寺の変の後、光秀が味方を集めようと各地に送った書状が見つかりました。
この発見で、どうして光秀が信長を討つことになったのか??に関心が集まりました。
もともと長い間浪人生活を送っていた光秀・・・そんな彼を、一国一城の主としたのが織田信長です。
信長のもとで、光秀は裁縫をいかんなく発揮します。
朝廷との交渉、戦場での活躍・・・まさに信長の右腕といえる存在でした。
いわれたことをきっちりこなす理想的な部下・・・とんとん拍子の出世でした。
しかし、光秀は突如、信長に反旗を翻します。

怨恨説、野望説、四国説、前途悲観説、黒幕説・・・真相はいまだ闇の中・・・。

天下の謀反人の真の姿とは・・・??

京都府亀岡市・・・かつて、明智光秀の居城・亀山城がありました。
町では光秀の功績を称え、毎年祭りが行われます。
もともと農家が点在する場所に、光秀が城を築き、城下町として発展させたのです。
織田信長のもとで成功を手にした光秀・・・しかし、信長に仕え始めたのは41歳の時でした。
その年で、どうして信長を主君と仰ぐようになったのでしょうか?

光秀は戦国時代を迎えていた1528年美濃国明智城主の子として生まれました。
その後、美濃国は下剋上でのし上がった斎藤道三が治めるところとなり、土岐明智家も道三に仕えることに・・・。
ところが、光秀29歳のころ・・・
斎藤道三の息子・義龍が兵を挙げ、道三を討ったのです。
そして、道三の家臣だった明智家も攻撃を受けます。
1556年、29歳の時に明智城落城・・・光秀は城から逃れます。
以来、再び明智家を再興することが、光秀の使命となります。

光秀は主君を探し、何年も諸国を渡り歩きます。
「再び我らの領国を手にするためには、力ある主君に仕えねばならぬ。」by光秀
しかし、生活は厳しく、食事にも事欠く始末・・・

そんなある日、客人をもてなすことになって困り果てた光秀・・・。
しかし、豪華な料理が・・・!!
客人の帰った後、妻に聞くと・・・長く美しかった煕子の髪を売って客をもてなしていたのです。
光秀は生涯側室を持つことはなく、煕子を大切にしたといいます。
子宝にも恵まれ、光秀の三女は、後の細川ガラシャ・・・関ケ原の戦いの際に、人質になる事を拒み、死を選んだことで有名です。

放浪生活の末、越前の朝倉義景に仕えることに・・・
すでに戦国の世、武田信玄、上杉謙信、新興勢力の織田信長も台頭しつつありました。
ある日、光秀が仕える朝倉家に、思いもよらない人物が・・・後に室町幕府の第15代将軍となる足利義昭です。
当時の室町幕府は、有力大名に牛耳られていて、足利家に何の実権もありませんでした。
義昭は、復権を望んでいました。
そこで、昔から将軍家と関わりのあった朝倉家に支援を求めてきたのです。
この時光秀は、足利義昭の家臣・細川藤孝と出会います。
二人は意気投合し、強い信頼関係で結ばれます。
足利義昭の意向を知りながら、主人・朝倉義景はなかなか動こうとしません。
遂に光秀は、細川藤孝に切り出します。

「残念ながら、朝倉家には義昭公を京に上らせ奉るほどの武力も、気力もござりませぬ。
 もっと強い力と、果敢な意気に燃えた大名を求めねばなりませぬ。
 尾張の織田信長さまがおよろしかろう。」by光秀

光秀は、仲介役として信長の元へ・・・!!
二人が対面したのは、光秀41歳、信長35歳の時でした。
信長は光秀の申し入れを承諾します。
足利義昭を将軍に就かせ、その権威を利用しようとします。
こうして信長は、義昭を擁し、京へ上ります。
1568年、上洛
義昭は室町幕府第15代将軍に・・・!!
そして光秀は、朝倉義景のもとを去り、足利義昭と織田信長に仕えることになるのです。
両属といって、二人から禄をもらっていたのです。

信長と出会った光秀は、その後、織田家臣団のTOPに上り詰めます。
信長は光秀をこう評しています。
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」
どうして信長の信頼を勝ち得ることができたのでしょうか?

信長に仕えることになった光秀は、重要な役職に抜擢されます。
京都奉行です。
都の治安維持や朝廷や公家との交渉を行う要職です。
光秀は歌会や茶会を開いては、公家たちの要望を聞きだしていきます。
貴族は、各地に荘園を持っていましたが、応仁の乱以降、武士に侵略されたその公家や調停の荘園を取り戻す仕事もやっています。
公家と光秀は親密になっていきます。

1570年、朝倉義景討伐!!

しかし、同盟関係にあった近江の浅井長政に裏切られ挟み撃ちに・・・!!
撤退することさえ難しい、信長最大のピンチに、光秀は秀吉と共に金ヶ崎の退き口と呼ばれる武功を挙げます。
撤退する軍の殿を担い、見事撤退させたのです。
続いて信長が取り掛かったのが比叡山焼き討ちです。
当時、武装していた比叡山は、戦国大名さながらの一大勢力で、信長と対立していました。
しかし、寺院や仏像を焼き、僧侶を殺すことに家臣の多くは二の足を踏みます。
そんな中、光秀は、信長の命に忠実に従います。
光秀は、比叡山を壊滅させます。
こうした光秀の働きを、信長は評価します。
そして、比叡山に近い近江・坂本に5万石の領地を与えるのでした。
光秀はここに坂本城を築城し、念願の城を手に入れるのでした。
信長の家臣の中で、一国一城の主となった最初です。
明智城の落城から17年・・・ついに光秀は、明智家再興の悲願を達成したのでした。

信長に仕える一方で、足利義昭にも仕えていた光秀・・・しかし、厳しい選択を迫られることに・・・
将軍・義昭を飾りとしか考えない信長に不安を募らせた足利義昭が挙兵!!
光秀が選んだのは信長でした。
戦いに敗れた義昭は、京都から追放され、室町幕府は事実上の滅亡!!
室町幕府を滅ぼした信長は天下統一へ・・・!!
そして、48歳の光秀に新たな命が・・・!!
丹波攻略!!
丹波国には、堅固な山城が点在し、信長をはじめ、多くの戦国武将が攻めきれずにいました。
その丹波攻略を命じられた光秀!!
しかし、他のものの援軍も命じられ、各地を転戦します。
1576年、過労によって・・・陣中で病に倒れます。
それでも復帰を果たした光秀は、5年がかりで丹波攻略をします。
信長は光秀を絶賛!!
「明智光秀の働きは、天下に誇れるものである。」by信長
光秀は、攻略した丹波29万石を加増。
元々の5万石とで34万石の大名に!!
信長につかえて12年・・・信長の右腕となった光秀なのでした。

信長は次々と支配地域を拡大!!
1582年、最大のライバルだった武田氏を滅ぼします。
天下統一に大きく近づいた信長・・・
しかし、その数か月後、本能寺で討たれることとなるのです。

どうして光秀は、信長に反旗を翻したのでしょうか?
様々な説があります。
黒幕説も・・・
・朝廷黒幕説
天下統一目前の信長は、朝廷に対し不遜な態度をとるようになっていました。
そこで朝廷が光秀をそそのかし、信長を討つように仕向けたというものです。
・幕府黒幕説
信長に追われ毛利家に滞在していた足利義昭が、後ろで糸を引いていたと言うものです。
・秀吉黒幕説
本能寺の変の後の素早い行動は、事前に光秀の動きを知っていたからというのです。

光秀自身の決断??
・四国説
四国統一を目前にしていた長宗我部元親。
信長と同盟関係にあり、その仲を取り持ってきたのは光秀でした。
しかし、一方的に信長が元親との同盟を破棄!!
領地を差し出すように命じます。
光秀は面目丸つぶれ・・・信長は四国討伐を決意!!
本能寺の変の当日、四国征伐軍が出陣予定だったのです。
光秀がこれを阻止しようとした??
・怨恨説
ポルトガルの宣教師が人々から聞いたところによると、口答えをした光秀を、信長が足蹴にした。
この理不尽な仕打ちに恨みを抱いた・・・??
・前途悲観説
この頃信長は、息子たちなど身内を重用するようになっていました。
一方で、織田家に長年仕えてきた家老二人を、最近目立った働きがないと追放!!
そして、光秀にも信長の命令が・・・
現在の領地・近江と丹波を手放し、山陰地方(出雲・石見)に移れと言うもので・・・しかも、その二つは毛利家の領地・・・実力で奪えというものでした。
この時、光秀は55歳・・・将来への不安が心を占めます。
「人を道具としてしか見ておらぬ・・・」
・野望説
本能寺の変の4日ほど前、毛利出陣のための戦勝祈願を神社でしています。
翌日、この神社で連歌会がありました。
その時光秀が詠んだ歌は・・・
「時はいま 雨が下しる 五月かな」
時は土岐明智家、雨が下は天下、しるは治める・・・
つまり、今こそ自分が天下を治める時だ!!という解釈です。

果たして、光秀の真意は・・・??

1582年6月1日・・・
この時、信長の主だった家臣たちは京都から遠く離れたところで戦っていました。信長は、僅か100人の手勢と共に、本能寺に・・・!!
光秀は、毛利攻めをしている秀吉の援護に向かうために、夜8時ごろ、丹波・亀山を出発!!
光秀の決意を知るものは僅かな者だけ・・・

「我が敵は、本能寺にあり!!」by光秀

一万を越える軍勢が、本能寺に攻め入ります。
ただならぬ物音に起きた信長は、謀反を知ります。
「相手は、何者・・・??!!」by信長
「明智光秀にございます!!」by家臣
「是非に及ばず・・・!!」by信長

信長は自害し、亡骸は、炎に包まれたのでした。

信長を討った光秀は、天下をとろうと動き始めます。
しかし、光秀の天下は僅か11日・・・後に三日天下という言葉が生れるほど、あっけないものでした。
光秀は、何を読み違えたのでしょうか?
信長、長男・信忠を討った光秀は、安土城へと向かいます。
我こそが天下人という立場を示すためでした。
しかし、信長の家臣によって、安土城への橋が落とされます。
止む無く光秀は坂本城に戻りました。
橋の復旧には3日かかりました。
その間に、各地の大名たちに書簡を書き続けます。

「信長父子の悪逆は、天下の妨げ、討ち果たし候」

信長を討ったことを知らせるとともに、協力を要請します。
3日後、橋が復旧し、光秀は安土城に入城!!
しかし、ここでも足が止まります。
光秀は朝廷からの使者を待つことに・・・。
天下人として朝廷からのお墨付きをもらおうとしたのです。
待ちに待った勅使が来るまで、3日間待ちます。
朝廷からの公認を得た光秀。
一安心ですが・・・気がかりは書状を受け取って集まってくるはずの武将たちがなかなかやってきません。
原因は、秀吉の策略でした。
本能寺の変が起きたとき、秀吉は京都から200キロ離れた備中高松城に!!
毛利勢と睨み合っていました。
信長が討たれたことを知ると、迅速に行動に出ます。
毛利勢に信長の死が伝わらないようにし、停戦!!
そして、各地の武将に書状を送ります。
「信長さまは、無事に切り抜けられた!!」
遺体が見つかっていないことをいいことに、生きているというニセ情報を流したのです。
そして、猛スピードで京都へ・・・中国大返しです。
稀に見る強行軍で、1日で70キロの日もありました。
光秀は完全に秀吉に出遅れ、協力を得られず孤立していきます。
かつての盟友・細川藤孝にも断られてしまいました。
ガラシャを細川家に嫁がせていたのに・・・藤孝は出家をしてしまいました。

いよいよ秀吉の軍が迫ってきました。
上京の途中で兵が加わり、2倍以上になった秀吉軍!!
6月13日、山崎の戦い!!
光秀の軍1万VS秀吉3万6000以上!!
圧倒的な兵力の差に、勝負は短時間でつきました。
そして光秀は、落武者狩りをしていた農民に命を落としたのです。
享年55歳。。。

ながい放浪生活に耐えた苦労人。
家族を大切にしたよき夫。
恩をアダで返した逆臣!!

かつて光秀が治めた近江坂本にある寺には一通の書状が残っています。
光秀が戦で亡くなった家臣を弔うために供養米を収めたときのものです。
当時、部下である家臣を弔うのは、珍しい事でした。
一人一人の名前、同じ量の供養米・・・身分の分け隔てなく、家臣を平等に弔った光秀・・・
中には苗字を持たない低い身分の者もいました。
天下の謀反人といわれた男の素顔は、ようやく光が当たり始めたばかりです。


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1595年7月15日、驚くべき大事件が・・・
高野山青巌寺の一室・柳の間で、豊臣秀吉の甥で政権No,2だった関白・豊臣秀次が切腹したのです。
「秀次事件」・・・通説では、秀吉に跡継ぎが生れたので、秀次はお払い箱となって高野山へ追放され、間もなく切腹したということになっています。
しかし・・・新事実が・・・??

1568年、織田信長が上洛を果たし、天下統一への足掛かりを掴んだその塗ぢに・・・尾張国大高村で秀次は生まれました。
幼い頃の名は治兵衛・・・両親は、苗字を持たない農民でしたが、やがて運命は一変・・・。
母親の弟が信長の草履番から異例の出世を遂げ、後に天下人となる豊臣秀吉でした。
一生、秀吉に翻弄される生活となります。

1571年、信長に、浅井長政との戦いの最高責任者を任せられた秀吉は、浅井家の重臣・宮部継潤を寝返らせるため裏工作に奔走!!
この時利用したのが、甥の秀次だったのです。
当時秀次はまだ4歳・・・子供のいなかった秀吉は、この甥を宮部家に養子として差し出したのです。
それは、宮部を裏切らないという証建ての人質でした。
この裏工作は成功し、宮部は織田に寝返り、浅井滅亡の引き金に・・・
秀吉は、秀次を実家に戻し・・・またもや三好に養子に・・・。
秀吉は、四国で勢力を拡大する長宗我部に対抗すべく、阿波の有力大名・三好家に接近。。。
秀次を三好康長の養子に出したのです。

さらに・・・本能寺の変で信長が死んだ後・・・清須会議でも秀次を利用。
「池田の娘をもらえ!!」と、池田恒興の娘と結婚・・・池田を味方につけたのです。
こうして秀吉は、清須会議で主導権を握り、天下統一に向けて大きな一歩を踏み出したのです。

1584年、秀吉は徳川家康と、小牧長久手の戦いで激突!!
この時、秀次は秀吉の恐ろしさを身をもって知ることに・・・
17歳になっていた秀次・・・秀吉の甥であるため、経験不足のまま一軍の大将に担がれ、合戦に臨んでいました。
羽柴秀吉軍10万VS徳川家康軍3万!!
ところが、戦は一進一退の膠着状態に・・・
そこで秀次は、池田恒興らとともに、1万6000の兵を率いて出陣!!
家康の領国・三河に向かいます。
しかし、家康に察知され、挟み撃ちに・・・激戦の末、義父・池田恒興をはじめ名だたる武将が討死・・・死者2500人・・・。
秀次大失態!!
秀吉は激しく怒り、敗北の責任をとる書状を秀次に送りつけます。

「わが甥であることを鼻にかけ、傲慢である!!
 一時は秀次を殺そうと思った
 今後行いを改めないようであれば、首を切る」

再び同じ失態を演じたら、秀吉は自分を見限るに違いない・・・!!
秀次は・・・それ以後、武功を治めるために、獅子奮迅の働きをします。
1585年四国攻めでは副将を勤め、1587年九州攻めでは京を守り、1590年小田原攻めでは豊臣軍の先鋒として出陣し、秀吉の信頼を得ていきます。
そして・・・秀吉の養子のひとりとなったのです。

秀吉の問題は・・・実の子がいなかった事・・・
そんな秀吉に吉報が・・・
1589年側室・茶々が、鶴松を出産。
秀吉、54歳の時でした。
秀吉の喜びようは尋常ではなかったものの・・・
1591年3歳で鶴松が夭折・・・。
だれに豊臣家を継がせる・・・??
秀吉の養子は7人・・・うち、血縁関係のある者は3人・・・
秀勝は、朝鮮出兵の際に病死。
秀俊は、のちに小早川家に養子。
残った血縁関係のある養子は秀次のみ・・・
秀吉は、24歳の秀次に関白の座を譲ります。
豊臣家の後継者は秀次だと、天下の宣言したのです。
とはいっても、関白・秀次は名ばかりで、太閤となった秀吉が、実質的最高権力者でした。
1593年8月3日、茶々が再び男子を出産しました。
後の豊臣秀頼です。
57歳の秀吉は秀頼を溺愛し、この子に豊臣家を継がせたい・・・というのが望みとなりました。
しかし、秀頼を後継者とするためには、秀次に譲ってしまった関白の座を取り戻さなければならない・・・
この子が大きくなって自分がいなくなった時、秀次はそれを許すのだろうか・・・??
この頃秀吉は、秀次に約束します。
「日本を5つに割り、そのうち4つをお主に与える・・・」
秀次は、秀吉が秀頼を後継者にしようと思っていることを悟ってしまいます。
自分は豊臣政権にとって何なのか・・・??
秀頼の誕生によって、秀次の運命は再び大きく変わることに・・・。

滋賀県近江八幡市を本拠としたのは、秀次18歳の時でした。
近江の5郡を任され、43万石の領主となった秀次は、琵琶湖の東岸に城を築きます。
八幡山城です。
原野だった土地を、安土や近隣から人を集め、一から城下町を作りました。
秀次の建設プランは画期的。
今もその道幅は変わらず、碁盤の目になっています。
城下町は、敵が容易に攻め込めないよう、道を複雑に作るのが常識でしたが、近江八幡は住民が生活しやすいように碁盤の目に作られたのです。
縦12筋、横4筋の整然とした街並みで、商人、職人たちは無償で住居を貸与され、楽市楽座の特権も与えられました。
軍事より経済を優先した秀次・・・。
その結果、近江商人が生まれ、町が発展していきます。
秀次は城を守るための堀にも別の機能を持たせます。
八幡堀は東西は琵琶湖に通じており、水路・運河としての役割をし、近江商人たちの物資の運搬に非情に役立ち、近江商人たちが発展していきます。
”琵琶湖を通る船は、八幡堀を通らなければならない”と定めたことで、町はさらに賑わいます。
秀次は、ひたすら領民のためのインフラ整備に努めます。
背割という下水溝も作らせ、生活排水を八幡堀に流れるようにします。
飲料水などの上水は、良質な水が湧く遠くの水源から地中に埋めた竹の管で引き入れました。
当時としては前進なシステムです。
”開町の祖”秀次なのです。
戦が終わったら国がどうあるべきか・・・その理想郷を作ろうとしていたのかもしれません。

その矢先に秀頼が生まれました。
頑張れば頑張るほど、秀吉にとって疎まれる秀次・・・。
1595年7月3日、秀次の住まいだった聚楽第に、突然石田三成ら3人の奉行がやってきます。
秀次に謀反の疑いがあり、取り調べに来たというのです。

秀次の噂・・・
鹿狩りに名を借りて山に入り、反秀吉一派と謀反のための話し合いを持った。
戦に備え、大将用の武具を用意していた。
身に覚えのない秀次は、誓詞を認めます。
”神仏に誓って自分は無実である
 謀反の疑いは、根も葉もないこと。”
取り調べから2日後・・・
伏見城にいた秀吉は、直接話がしたいと、秀次に登城を命じます。
秀次は、無実を訴えようと伏見城に登城・・・!!
そこで思わぬ事態が・・・!!
伏見城についても中に入ることさえ叶わず・・・。
秀吉は、秀次を呼んでおきながら、弁解を聞いてしまうと許してしまう・・・??と、面会しなかったのか・・・??
ここで二人が話し合っていれば、歴史は変わっていたのかもしれません。

秀吉は弁明の機会を与えないばかりか、追い打ちをかけます。
秀吉に拒絶され、高野山へと言われてしまいました。
7月8日、言いつけに従って、紀州の高野山へ・・・!!
7月10日、従者らと共に高野山へ到着。
ところが急転直下、7月15日、福島正則らが秀次の元を訪れ、三成ら五奉行の連書による秀吉の命を届けに来たのです。
「秀次に切腹を命じる!!」
切腹に追い込まれた秀次は、高野山・青巌寺・柳の間で、28年の短い生涯を閉じたのでした。

しかし、近年新しい説が・・・??
秀吉に対する復讐説です。
謀反の疑いをかけられた秀次は伏見城を訪れますが、秀吉に面会を拒まれ高野山行きを命じられますが・・・
自らの意志での可能性もあります。
どの資料にも、「追放」という言葉がありません。
あくまで秀次の意志による出奔・・・??
当時の高野山は、入ってしまえば俗世間からの死・・・政治の世界からは引退すると意思表示だったのでは・・・??
謀反の気持ちはない!!とのアピールだったのでは・・・??
運命の7月15日、高野山の秀次のもとに、福島正則がやってきますが・・・
その手紙の一人の名前が間違っており、もう一人は伏見にいなかったので署名できない者も・・・。
手紙の信憑性に欠けるのです。
事件当時の資料によると、秀次が切腹する3日前に書かれた文書には・・・
”秀次を高野山に住まわす”=禁固刑と、書かれています。
勝手に高野山に行ってしまった秀次を、秀吉は禁固刑にしたのでは・・・??
秀吉の命令は切腹ではなかった・・・??

また、切腹の場所は・・・青巌寺は、秀吉が生母・大政所のために創建した菩提寺。。。
秀吉にとって特別な場所でした。
ここで秀次が切腹・・・秀吉が母の菩提寺を血で汚す命令をしたのか・・・??
ではどうして秀次は切腹したのでしょうか??
秀次は早く許してほしいが、いつまで・・・??
自分の無実を証明するためには切腹しかない・・・??
秀次は無実を訴えるために切腹した??

真言宗の高僧・木喰応其の書によると・・・
「関白殿、十五日の四つ時に切腹
 無実だからこのようなことになった」
と書かれています。

さらに秀次の切腹にはもっと深い意味が・・・??
積年の秀吉に対する感情の爆発・・・??
幼いころから秀吉の重圧、ストレスの中で生きてきていました。
それが最終的に命を懸けた切腹を選ばせた理由なのでは・・・??

幼い秀頼の後見になれる自分が死ねば、秀頼は困るのでは・・・??
そんな反抗・・・復讐があったのかもしれません。

豊臣政権の不信感につながりかねないこの事件・・・
そこで秀吉はその懸念を拭い去るために・・・秀次は大悪人だったとすることにします。
高野山に葬られていた秀次を掘り起こし、謀反人として京の三条河原でさらし首に・・・!!
””院の御所 手向けのための かりなれば 
            これをせっしゃう かんぱくといふ”
という落首が・・・!!
正親町上皇の喪中にもかかわらず、関白は狩りをして殺生を行った・・・
その関白はもちろん秀次のこと。
秀吉の思惑通り、さらし首になった秀次は悪人のイメージが・・・!!
「摂政関白」となったのです。
そして切腹から半年後の8月2日、前代未聞の事態が・・・
聚楽第で生活していた秀次の妻子たちが市中引き回しの上、三条河原に集められました。
その数三十数人・・・
正室・一の台をはじめ・・・年齢も様々・・・少女から乳飲み子まで・・・
秀次の首を拝ませると、次々と殺していきました。

あまりの無慈悲な光景に、見物人は皆涙し、役人たちも目頭を押さえたとか・・・
遺体は無造作に穴にほうり込まれました。
穴を埋めるとそこには塚が築かれ、秀次の首を納めた石櫃が置かれました。
都の人は、やがてそこを「摂政塚」と呼ぶようになるのです。

どうして罪のない妻子まで・・・??
秀次の切腹は、豊臣政権にとって想定外の出来事でした。
これをそのままにしておくと、無実の訴えを豊臣政権が認めたことになってしまう・・・。
秀次の無実を信じる者たちが生き残っていると、復讐の大義名分ができてしまう・・・。
秀吉の死後、秀頼が対象になってしまう・・・。
また、聚楽第を破壊、堀を埋め、高く積み上げられた石垣を壊し・・・徹底的に壊したので、現在聚楽第の遺構は残っていません。

秀次に近い人々や物が消え去った・・・やっと秀次事件が終わったのです。
その3年後、秀吉は62歳でその生涯を閉じました。
秀頼は僅か6歳でした。
その後、徳川家康が台頭し、政権トップの不在が関ケ原の戦いを招きました。
もし、秀次が生きていれば・・・家康は天下をとれたのでしょうか?
豊臣家滅亡のカウントダウンは、秀次の自害から始まっていたのかもしれません。




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天下統一を目指して、数々の戦で百戦錬磨だった織田信長。
しかし、信長の最大の宿敵は、武田でも、上杉でもなく・・・顕如・・・武士ではなく、浄土真宗大坂本願寺の第11世宗主です。
各地の門徒を総動員し、一揆で信長に対抗します。
信長と蓮如の10年にわたる戦い・・・石山合戦です。

1560年、今川義元を桶狭間で破った織田信長は、その後も次々と敵を撃破し、近畿を制圧!!
1568年足利義昭を奉じて、悲願の上洛を果たします。
第15代将軍足利義昭の後見人となって、天下統一に名乗りをあげました。
そんな信長の前に立ちはだかったのが、本拠地を大坂とする浄土真宗・本願寺でした。
全国に数十万の門徒を持つ本願寺は、お布施によって戦国武将以上の財力を誇り、僧兵を持っていました。
勢力拡大を狙う信長にとって、本願寺は邪魔な存在・・・。
その財力を弱めるために、畿内平定を理由に本願寺に矢銭(軍資金)を要求しました。
断れば・・・制裁が待っていました。

この厳しい要求を突き付けられたのは、浄土真宗の若き宗主・顕如でした。
本願寺は要求を呑むのか・・・紛糾するものの、顕如は理不尽な信長の求めに応じます。
すると信長は、畿内一円にある浄土真宗の他の寺にも矢銭を要求。
30億円にも及びました。
ところが信長は、浄土真宗が莫大な矢銭を納めたにもかかわらず、本願寺の大坂からの立ち退きを要求したのです。

一方で、信長は天下取りのための策略を巡らせていました。
将軍・義昭に、五か条の条書を突きつけます。
「天下の儀は信長に任せおかれたのだから、上意をうかがわずに信長の考えで処置する」
政治はすべて信長が行う・・・とあったのです。
名ばかりの将軍となってしまった義昭は、武田、浅井、朝倉、三好・・・有力大名に呼びかけ、信長包囲網を築きます。
信長は、辛くも浅井・朝倉連合軍を破り・・・ところが三好一族が阿波から大坂に進出!!
信長も大坂を目指します。
そこで、信長に反旗を翻した顕如!!
信長と顕如、10年にわたる石山合戦の始まりでした。

顕如は全国の門徒に対し、檄を飛ばします。

「信長と戦え!!戦わない者は破門に処す!!」by顕如

「信長は、上洛して以来、たびたび難題を突き付けて来た。
 さらに本願寺が大坂から立ち退かなければ、破却すると通告してきた。。。
 このうえは、身命を投げ打ち、忠節を尽くすように・・・!!」by顕如

浄土真宗門徒にとっては、信長は命に代えても倒さなければならない仏敵となったのです。
顕如が決起した理由は・・・??
矢銭を要求する信長に対し、強い不快感を抱いていました。

本願寺派第11世宗主・顕如・・・
石山合戦開戦当時27歳、大坂本願寺の住職でした。
妻は、甲斐の虎・武田信玄の正室の妹・如春尼。

かたや信長は37歳。
天下統一を目指し京に上り、畿内の制圧に着手しようとしていました。
二人が激突した石山合戦の始まりは、信長による「大坂からの立ち退き命令」でした。
どうして大坂本願寺に立ち退きを命令したのでしょうか??

大坂本願寺は、今の大坂城のあたりにありました。
寺の周りには、自治集落である寺内町を作り、税を免除するなど経済的な特権を付与。
そのため、門徒だけでなく各地から商人たちも集まりたいそうな賑わいを見せていました。
当時の大坂の地形は、今とは異なり、本願寺のあたりは島になっていました。
そのため、都市国家の様相を呈していました。
全国から多くの人が集まる大坂・・・

「本願寺は日本で一番大きい宗派である
 日本の富の大部分は本願寺の僧侶が所有している。」byガスパル・ビレラの報告書

信長の狙いは、この本願寺の富にありました。
京都や大阪に近く、経済の拠点・・・大阪の経済力が欲しかったのです。

もう一つ本願寺から取り上げたかったのが、宗教的な既得権益です。
本願寺のような宗教勢力は、武将の権力構造の外にあります。
お布施を集めたり、僧兵を集めたり・・・信長にとっては脅威でした。
政教分離の確立を徹底しようとしたのです。
大坂から本願寺を追い出すことは、信長の天下統一にとっては必須だったのです。

1570年11月、信長のおひざ元尾張と伊勢の国境・・・長島で、大規模な一揆・・・長島一向一揆が・・・
顕如の命を受けた地元の門徒たちが、信長の弟・信興の治める城を攻撃!!
しかし、信長は、浅井朝倉との戦いで、応援に行くことができません。
一揆衆に囲まれた信興は、なすすべなく自決に追い込まれてしまいました。

「顕如よ、許さん!!」by信長

半年後、信長は長島一向一揆を鎮圧すべく、自ら大軍を率いて出発!!
しかし、一揆衆の反撃にあって、鎮圧どころか苦戦!!
長島は、複数の中洲の集合体で、戦うには自然の要塞・・・地の利がありました。
葦が深く生い茂る河原での戦い・・・進軍もままならないぬかるみ。
一揆衆は、その芦原に身を潜め、織田軍を罠にかけ取り囲みます。
重い甲冑を身に着けている織田軍は思うように身動きできず、次々と倒されていきました。
ゲリラ攻撃で、信長軍を窮地に追い込んでいきます。
織田軍は防戦一方となり、名将・柴田勝家までも負傷・・・織田軍は、退却を余儀なくされたのです。

武士と門徒では価値観が違う・・・
武士達の恩賞は、「知行」「出世」でしたが・・・門徒たちは戦って死ねば「極楽浄土」が約束されていました。
信長の大軍勢をもってしても勝てない理由がそこにはあったのです。

1571年9月、仏教界に衝撃が・・・
信長が、対抗勢力の一つだった比叡山延暦寺を焼き討ちしたのです。
僧侶、女性、子供に至るまで、3,000人を殺戮したのです。
浅井・朝倉との戦いで、中立を申し入れたにもかかわらず、これを拒否したことへの報復でした。
多くの戦国大名は、宗教勢力とは共存共栄でやってきていた中、信長は3つの権門。。。
①公家 ②寺家 ③武家 の公家と寺家とを排除して、武家の世界を作りたかったのです。

比叡山焼き討ちに危機を感じた顕如は、反信長勢力の結集に向けて動きます。
武田信玄を味方にし・・・
本願寺、浅井、朝倉、武田で信長包囲網を構築したのです。
戦国最強の武田軍が、織田軍に向かって進軍し始めました。


1572年三方ヶ原の戦いで、織田に組する徳川を撃破、信長は、絶体絶命の危機に・・・!!
ところが、信玄が進軍途中に死去・・・
信長包囲網にほころびが生じてきました。
これに乗じて、信長は足利義昭を追放!!
ここに室町幕府は滅亡!!
危機を脱した信長は、浅井・朝倉を殲滅!!
残る敵は、本願寺のみとなりました。

1574年7月・・・信長は、再び長島一向一揆の鎮圧に・・・
8万を越える大軍で、長島一帯を完全に包囲!!
前回のゲリラ戦に懲りた信長は、兵糧攻めに・・・!!
3か月で・・・半数が餓死・・・それでも「一揆衆すべて根切せよ!!」by信長
根切とは・・・降伏しても捕虜にせず・・・皆殺し!!
しかも一揆衆だけでなく、家族までも一人残らず殺せと命じました。
逃げられないように柵をし、火を放ち、2万もの人々を焼き殺してしまいました。
負けてもはい出て来る・・・門徒の怖さを信長は熟知していたのです。
遂に、長島一向一揆を鎮圧!!

1575年越前の一向一揆に乗り出します。
顕如は信長によって滅ぼされた朝倉の領地・越前に守護代として側近を派遣。
本願寺による領地の支配を目論んでいました。
しかし、信長がそれを許すはずもなく、ここでも殲滅作戦を実行!!
この時信長に差し出された首は、1万2000ともいわれています。
ここにきて、ようやく顕如は信長に休戦を乞い、和睦がなされました。
そしてこの和睦が、新しい領国支配のシステムを作り出すこととなります。

一向一揆を再び起こさせないために、重臣の柴田勝家を送り込みます。
これが、新しい領国支配の基礎となります。
戦国時代は領地を支配するのは土着の武士でしたが、信長はその土地と関係のない武士に一国を与え、領国支配を任せます。
それは、信長の求心力を高めるためでもありました。
信長を頂点とした統治システムだったのです。

越前一向一揆の後、信長と和睦をした本願寺の顕如・・・
しかし、顕如はまだ打倒信長を諦めてはいませんでした。
上杉謙信、武田勝頼らと新しい包囲網を築き、戦いを挑みます。
これに対し、信長もついに大坂攻めを決行!!
大軍で海と陸から本願寺を包囲!!
しかし、要害堅固の大坂本願寺・・・周囲には深い堀が張り巡らされて・・・
掛かっている橋には鉄砲隊が・・・!!
顕如は信長との全面対決に向けて、紀州の鉄砲隊・雑賀衆を雇っていました。

織田軍苦戦の一報を受けたとき、信長は京都にいました。
いそぎ信長は大坂に駆け付けて自ら指揮を執ることに・・・!!
しかし、足に流れ弾が当たり深手を負ってしまいました。
鉄砲と言う新しい武器で戦を勝ち上がってきた信長が、皮肉にもその鉄砲で負けたのです。
そこで信長は、長島一向一揆と同じく、兵糧攻めに作戦を変更!!
ところが、この作戦を邪魔したのが・・・西国の雄・毛利輝元でした。
信長と友好関係にあったにもかかわらず、瀬戸内海から木津川を通じて船で兵糧を本願寺に送っていたのです。
信長の兵糧攻め、全くの効果なし!!
輝元はどうして本願寺に味方したのでしょうか?
輝元は、信長の西国進出を食い止めようと考えていたようです。
戦況が拮抗している今ならば、信長を倒せるかも・・・??
1576年7月、本願寺の補給路を断つべく、織田水軍300艘を大阪湾に派遣!!
兵糧を積んで入ってきた毛利水軍を迎え討ちます。
これが木津川の戦いで・・・これも、織田軍は大敗!!
毛利水軍の強力な武器・・・焙烙玉(手りゅう弾)に負けたのです。
おかげで顕如は、兵糧と武器を手にすることとなりました。
撤退を余儀なくされてしまった信長・・・このまま手をこまねいているわけにはいかない・・・
顕如を倒さなければ天下統一はなしえない・・・

そこで、志摩国の九鬼水軍の九鬼義隆に命じて、焙烙玉に耐えうる船づくりに乗り出します。
鉄砲の弾も通らない・・・鉄甲船です。
ベースは当時の軍船として使われていた安宅船・・・
焙烙による攻撃を防ぐために、外側に厚い鉄板を貼り付けます。
四方には大砲を・・・!!
船の全長は30mに及び・・・世界初の鉄張り軍艦でした。

最高の攻撃力と防御力を誇る軍船でした!!
信長は、鉄甲船を6艘・・・堺に配備!!
毛利水軍に大敗してから2年後の1578年11月・・・
本願寺に物資を運ぼうと、毛利水軍600艘が大阪湾にやってきました。
鉄砲、焙烙玉で戦う毛利水軍・・・しかし、鉄甲船はびくともせず、鉄板がことごとく跳ね返します。
毛利水軍は・・・砲火を浴びて撃沈・・・完敗してしまうのでした。

信長は、本願寺の補給路を完全に立つことに成功!!
遂に、最終決戦!!
織田軍の完全包囲!!
10年戦ってきた顕如を打ち負かす、チャンスです!!
信長はこれまで一揆鎮圧に向けて大量虐殺を行ってきました。
今回も、非情な殲滅作戦を実行するのでは・・・??
しかし、信長の決断は・・・??

1580年閏3月、信長の起請文が顕如の元へ・・・
本願寺に対して、天皇の仲裁による勅命講和案を提示します。
その内容は・・・
「大坂を明け渡すならば、本願寺の存続を保証する」というものでした。
それに続けて信長は・・・
「これは、本願寺を赦免するようにとの、天皇からの仰せに従ったものである。」
どうして講和を選んだのでしょうか??
この時信長は、天下布武を成し遂げるためには、本願寺をつぶして城を立てることを考えていました。
本願寺の立つ土地と、寺内町を無傷で手に入れたかったのです。

顕如はこの和議を受け入れます。
しかし、それは、顕如の降伏を意味していました。
顕如は大坂本願寺を後にして、紀州の寺へ・・・。
その4か月後・・・主のいなくなった大坂本願寺は、失火とも放火とも区別のつかない火災によって消失してしまいました。
ここに・・・10年に及ぶ石山合戦が幕を下ろしたのでした。

この僅か2年後の1582年・・・信長は、明智光秀の謀反により本能寺の変で波乱の生涯を閉じることに・・・。
顕如との戦いに10年も費やしていなければ・・・天下を取っていたのかもしれません。
その後、豊臣秀吉は、大坂本願寺後に大坂城を築き、天下統一を果たすのです。


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群雄割拠を勝ち抜き、天下統一を果たした徳川家康。
そんな家康にも、屈辱的な戦がありました。
三方ヶ原の戦いです。
対したのは、当時最強と謳われた武田信玄でした。
家康は武田軍2万5000の兵を、1万1,000の兵で急襲しようとしますが、あえなく惨敗・・・。
圧倒的に不利な兵力で挑んだのは若気の至りだったのか?
信長のためか??

1569年28歳の家康は、信玄と結託して今川家を滅ぼすと、その領国を割譲。
信玄は駿河を得て領土を一気に拡大、戦国最強と恐れられるように・・・
一方家康は遠江を手に入れ、三河と遠江を治める戦国大名となりました。
浜松城を築城し、本拠とします。

この二人が同盟を結んでいたのが織田信長・・・
信長はこの時、畿内まで勢力を広げ、天下統一に向かっていましたが・・・
それに待ったをかけたのが、あろうことか同盟を結んでいた信玄でした。
1572年・・・信玄は、室町幕府第15代将軍・足利義昭から信長討伐の命を受け西へ・・・
しかし、その途上で障害となる男・・・それが家康だったのです。
武田軍は、美濃、三河、遠江を攻めるべく、三隊から進軍。
信玄率いる本隊は、家康の居城・浜松城のある遠江へ・・・その数、2万5000!!
これは三方ヶ原の戦いのおよそ2か月前です。
只来城、天方城、飯田城・・・遠江の家康の城を次々と落としていきます。
そして信玄が狙ったのは・・・浜松城の目と鼻の先・・・二俣城!!
ここを落とされれば、最後の砦を失ってしまう・・・!!

信玄は、別動隊も加え、総攻撃・・・!!
同盟を結んでいた信長の援軍はなかなか来ない・・・。
この時、信長には援軍を送れない理由がありました。
京周辺で、朝倉義景、浅井長政、松永久秀、本願寺の反対勢力に囲まれて身動きが取れない状況でした。
二俣城の徳川軍は、信長の援軍を待ちながら2か月持ちこたえるも、ついに敵の手に落ちてしまいました。
3日後の12月22日早朝・・・信玄は、二俣城を発ち、南に進軍・・・。
天竜川を渡り南下・・・浜松城へと迫ってきました。
窮地に追い込まれた家康・・・どう乗り越えるのか・・・??判断に迫られます。


家康は、すぐさま軍議を開き・・・満場一致で籠城戦。
籠城戦は、城に立てこもり、ただただ攻撃に耐える・・・勝つためには、敵が疲弊しきって退くか、援軍を待って挟み撃ちにするかのみ・・・。
準備と忍耐が必要でした。

しかし、信玄は浜松城には進軍してこず、7キロ手前の欠下で方向転換し、三方ヶ原の大地を登っていったのです。
何を考える・・・??信玄!!
家康は、戦略を考え直さなくてはならなくなりました。

野戦・・・
浜松城で軍議を開いた家康は、困惑し、苛立っていました。
家臣たちを制して、「天道しだい!!」と、合戦!!
このまま城に留まり見過ごしたら、笑いものになってしまう・・・と、意地で出陣を決めたのか・・・??
家臣たちに自分の存在感を示すための意地がありました。
ここで信玄軍にやられっぱなしなら、信玄側についてしまう武将が沢山出てしまう!!
そして、信長との同盟関係・・・信長が、畿内でたくさんの敵に囲まれているところに信玄が敵として参加してしまう・・・!!
信長のためにも出陣したのです。
この頃の家康と信長の同盟は、同盟と言っても主従関係に近く、家康はその意向に逆らうことは出来なかったのです。
家康には、出陣して足止めする以外になかったのです。

徳川軍8000+織田援軍3000=1万1000
しかし、武田軍は2万5000!!
兵の数では圧倒的に不利・・・!!
家康に勝機は・・・??

信玄は、二俣城を2か月かけているため、浜松城を落とすつもりはありませんでした。
早く西へ・・・!!
午後2時ごろ・・・武田軍は三方ヶ原を抜け、祝田の坂を下り始めました。
それを知った家康は、1万1000の兵に出陣を命じます。
坂の上から攻めれば、勝てるかもしれない・・・!!
地の利を生かして勝利できると思ったのです。
祝田の坂は急で、狭く、両側に崖の迫る谷間の一本道でした。
そのため、武田軍は縦列で進むしかありません。そこを後ろから攻めようというのです。
逆落し・・・これが、家康が信玄に勝てるかもの唯一の作戦でした。

しかし・・・三方ヶ原までやってきた家康が見たのは、風にはためく「風林火山」の旗でした。
坂を下っているはずの兵が、そこにいたのです。
すべては、家康をおびき出すための作戦でした。
始めから得意の野戦に持ち込もうとしていた信玄!!
この三方ヶ原で、家康を討ち果たそうと・・・!!

三方ヶ原は、浜松城の北西に広がる南北15キロ、東西10キロの広大な大地です。
当時の絵図を見ると・・・見通しの良い草原であることがわかります。
野戦が得意な武田軍には好都合!!
信玄のおびき寄せ作戦にまんまとはまってしまった家康は、もはや戦うしかありませんでした。
当時、最強の武将と謳われた信玄・・・陣形は魚鱗!!
対する家康は鶴翼の陣!!
包み込んで打ち負かす鶴翼の陣は、相手よりも多い兵力で戦う陣でした。
鶴翼の陣・・・どうして家康は、鶴翼の陣を敷いたのでしょうか?
兵を多く見せるため・・・??
しかし、三河物語は本当・・・??
甲陽軍鑑では一斉にかかったようなのです。
意としての鶴翼の陣ではなかったのです。
三方ヶ原で対峙した両軍は、2時間睨み合います。

午後4時・・・ついに仕掛けてきたのは信玄でした。
農兵が礫を投げ、これを合図に合戦!!
1万1000の徳川軍が、2万5000の武田軍に突進!!
善戦し、一進一退を繰り返すも2時間後・・・徳川軍敗退・・・!!
家康は、僅かの護衛に守られて、浜松城へ・・・!!
追手を振り切って逃げかえっていく家康・・・!!

家康が無事に帰ることができた理由・・・
①時刻
戦が始まったのが午後4時・・・午後6時に終わっています。
戦があったのが旧暦の12月22日・・・今の暦では1月20日ごろ・・・。
日の入りは午後5時ごろ。
戦が始まった時、日はだいぶ傾いていて、佳境に入るころにはあたりは暗くなっていました。
しかも、この日月が出たのは、深夜12時を回ってから・・・。
月明りもない真っ暗闇。。。一般的には夜明けに始まる戦国時代には珍しい時刻の野戦でした。
地の利のある家康にとっては有利だったと思われます。
浜松に逃げかえるという大敗ですが、家康にとっては命が助かっただけでもラッキーでした。

②忠臣
真冬・・・ふきっさらしの三方ヶ原で、信玄に挑んだ戦い・・・家康は敗戦を覚悟すると、討死すると言って聞きません。
説き伏せたのは、古くから仕えた家臣たちでした。
その一人・夏目吉信は、家康を馬に乗るように懇願し・・・
「我こそは家康なり!!」と、身代わりになって、武田の軍勢に突っ込み討死しました。
同じく松平忠次は、甲冑を取り替え・・・家康にふんして敵中へ・・・!!
鈴木久三郎は、家康の采配を掲げ、時間稼ぎをしました。
影武者として三方が原で討ち死にしていった家臣たち・・・浜松城への命からがらの敗走劇にも、彼らの忠義をおいては語ることができません。
家臣たちは、家康を取り囲んで、武田軍からの追撃から守ったのです。

「構わず行ってください・・・!!」by本多忠勝

この戦で、徳川軍は800もの兵を失いました。
命を落とした兵は、武田軍を向いてうつぶせに倒れているか、浜松城にあおむけに倒れているか・・・
敵に後ろを見せて倒れた兵は一人もいなかったといいます。
三河の人たちは信仰心に篤く、団結力がありました。
彼らがカリスマ・家康のもと、強固な忠誠心を育んでいったのです。

後に秀吉に・・・
「徳川殿の宝は何でござるか?」と聞かれ・・・
「それがしのためには、水や火の中に入っても、命を惜しまざる者500騎ばかりおります。
これこそ、家康が身に於いて第一の宝であります。」と答えたと言います。
忠実な家臣に守られ、10キロ・・・浜松城に帰った時は、7,8騎でした。

恐怖のあまり、馬の上で脱糞した家康は・・・
「これは味噌だ。」と嘯いたといいます。
そして・・・すぐに絵師にしかみ像を描かせます。
武田に負けて悔しい表情を終生戒めとして持ち歩いたといわれています。
しかし、近年では、これは、江戸時代中期に描かれたものだという説もあります。

なんとか浜松城まで逃げおおせた家康・・・追ってくる武田軍を阻止する為に門を閉めようとした家臣に・・・
「門は開けたままにしておけ。
 そして、城内にかがり火を焚くのだ!!」
そして、徳川軍の指揮の高さを見せるために、太鼓をたたかせます。
追撃してきた武田軍は・・・
何か、計略があるかも??と怪しみ、引き返していきました。

それでも家康は、信玄の追撃を恐れ、籠城を始めます。
しかし・・・待てど暮らせど、一向に攻めてきません。
信玄は・・・浜松城へ家康を追い返せば良し・・・敵はあくまでも織田信長!!だったのです。

武田軍の追撃を恐れ、籠城していた家康・・・
信玄は織田信長を討つために西へ・・・
再び家康を攻めてくることはありませんでした。
信玄が西へと急いだ理由・・・それは、病でした。
進軍すらままならなくなった信玄は・・・三方が原から4か月後、生涯を終えました。
これを好機と見た家康!!
3年後の1575年、信長と結託し、長篠の戦いで信長と結託し、信玄の子・勝頼を破ります。
1582年・・・織田信長に攻め込まれた武田家は滅亡・・・。
この時家康は、武田家の家臣たちを召し抱えました。
信玄の強さ・・・家臣たちを取り込んだのです。
つねに七分勝ちを信条としていた信玄。
そのセオリーを学んだ家康は、天下分け目の戦いに挑みます。

関ケ原の戦い・・・徳川家康VS石田三成!!

家康は僅か半日で西軍を破ります。
この時家康の取った策こそが・・・大垣城の石田三成を関ケ原におびき出す・・・
これは、三方が原の家康と信玄だったのです。
そして、その屈辱を糧に、天下を取った家康は、江戸に幕府を開きます。
長きにわたる戦乱に終止符を打ち、太平の世の礎を築いたのでした。

戦に次ぐ戦の人生・・・73戦も戦ってきました。
天下人への道は長く、困難に満ちていました。
負けるとわかっていても挑んだ三方が原の戦い・・・信玄に完膚なきまでにたたかれたことで、多くを学んだのです。



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威風堂々・・・三重県伊賀上野城。
その男、上野城の石垣を高さ30メートルまでに積み上げる・・・
四国・今治城では幅50メートルの堀を掘削・・・
大坂では桁外れの石垣を築きました。
その男の名は、藤堂高虎。
75年の生涯で築いた城は30以上に上り、築城の名手とされています。
卓越した技術力で、裸一貫から32万石の大名へ・・・!!

一方で、高虎は、裏切り者、風見鶏と言われています。
弱い主君を見切り、強い者になびく・・・7人以上の主君を渡り歩きました。
そして、遂には天下人まで乗り換えます。
人々はその生き方を批判しました。

築城の名手と裏切り者・・・そこには、日本の未来を決める大きな選択がありました。
きっかけは主君・豊臣秀吉の死です。
秀頼はまだ幼く、石田三成と徳川家康との間に主導権争いが勃発しました。
政権闘争の闇で、三成が密かに計画したのが家康暗殺計画でした。

それを知ってしまった高虎・・・どうする・・・??


京の都に近い近江・・・
1556年、高虎は、藤堂村で生まれました。
父親は、”渡り奉公人”と呼ばれる武士で、有力な主君を探し戦功をあげながら出世をする生き方でした。
しかし、その父親が期待するほど高虎は破天荒でした。
その気性は荒く乱暴で、190センチの身長を生かして、武士として身を立てることを目指していました。
高虎が武将として頭角を現したのは僅か15歳、はじめて仕えたのは浅井長政。
目覚ましい活躍で、それは、大名である長政が礼状を出すほどでした。

「その方は、今月20日、一番首を討ち取ること、他と比べようのない戦功だった。
 今後、さらに戦功を重ねるなら、一人前に取り立てよう。」

しかし、10代半ばで体も大きく悪い意味でも目立つ存在だった高虎。
気の荒さとプライドの高さから争いが絶えず、1572年、17歳の時口論となった同僚を切り殺し、浅井長政の元を出奔。
続いて仕官した阿閉家では、働きの悪い同僚二人に腹を立て斬殺。
その後、仕えた織田信澄は、戦功にあった恩賞を出さないため見限りました。
6年の間に高虎が仕えた主君は4人・・・。
高虎はどこに行っても長続きしませんでした。
そんな高虎の生き方が大きく変わったのが1576年、高虎21歳の時。。。

思わぬ大物武将・・・羽柴秀長から、是非召し抱えたいと声がかかったのです。
秀長は、高虎の故郷・近江国を攻略した羽柴秀吉の弟でした。
高虎を召し抱えるにあたって、秀長が提示した禄高は300石。
直前の主君による待遇80石のおよそ4倍・・・
高虎は、自分の価値を期待してくれる秀長に大いに感激し、二つ返事で引き受けます。
やがて本能寺の変の後、信長の後を継いだ羽柴秀吉は天下統一を目指し、近畿一円の統治政策を進めていきます。
そんな兄・秀吉のもとで、秀長は諸大名との調整役を担っていました。
そもそも秀長は、22歳の時に秀吉に乞われて百姓から武士になっていました。
温厚で誠実、和睦や調停を得意としていました。

「政務のことは私に任されている。
 絶対に悪いようにはしない・・・」

遠江の徳川、薩摩の島津、四国の長宗我部・・・秀長は、地方の大名の相談にも応じ、解決策を見出す役目でした。
そんな秀長に出会い、高虎は武力だけではない才能を開花させていきます。
1583年、但馬を攻略した秀長は、居城造りを高虎に命じます。
高虎は但馬の前領主が築いた山城を修復、石垣を大胆に使います。
主要な建物を、5mの石垣で囲み、強固な守りを築きました。
秀長は、高虎の見事な働きに、高虎の禄高を300石から460石に引き上げ、更なる活躍を期待します。
高虎の頭の回転が速いのを見抜き、城を作らせたり、山林を管理させたり・・・高虎の力を引き出していきます。
1585年、紀州を平定した秀吉は、この地の統治を秀長に任せます。
紀州は、天下統一の要となる拠点・・・城の築城を決め、その普請奉行に高虎を抜擢しました。
後に、和歌山城となるこの城の築城を命じられた高虎は、1万人を動員し、およそ1年で完成させてしまいました。
秀長と出会ったことで、新しい才能を開花させていく高虎・・・
主君を変え、渡り歩いていた暴れん坊が、築城の名手たる武将へと変わっていったのでした。
1585年、30歳になった高虎は、家老として秀長を補佐。
その頃、秀吉は天下統一を見据え、日本全体の統治体制作りに動き出しました。
それまで日本各地の村々は、武装した怒号や荘園領主がバラバラな方法で支配していました。
支配者や領民は、勢力争いを繰り返したので、地域社会は治安が悪く生産性もあがりません。
そこで、無駄を排し、統治体制の大改革を断行する秀吉。
これが、刀狩りと太閤検地でした。
まず刀狩りで、領民すべての武器を回収し、勢力争いや一揆を防ぎ、耕作に専念させようとしました。
太閤検地は、地域でばらばらだった租税の単位を統一。
そのうえで、田畑の広さや土地の良しあしを調べ直し、大名が統治する土地の総合的な石高を算出。
その石高から年貢や兵糧、兵の数を正確に割り出し、全国統一基準で取りこぼしなく徴収を行いました。
この二つによって、秀吉は地域の支配者の力を弱め、中央集権体制を構築しようとしました。
しかし、全国に一律に税を徴収するということは、土地や作物をめぐる地域それぞれの事情が考慮されにくくなります。
年貢や兵糧を軍役が限度を超えて強制される事態を懸念して、民衆たちは各地で大規模な一揆をして抵抗します。
そんな民衆たちに厳しく臨む秀吉。
奥羽仕置き令には・・・
「仕置きに反対する者がいたなら、村という村、ことごとくなで切りにせよ。
 六十余州に固く命じ、山の奥、海は櫓櫂の続く限り、念には念を入れて執行するように。」
高虎は、他の武将に先立ち、改革の実行を任されました。
諸国に先駆け、紀州で刀狩りと太閤検地を実行することになったのです。
その時、高虎が築いたのが三重県の赤木城・・・跡が残っています。
城の周りを石垣で固め、攻め入ろうとする敵を上から攻撃できるように設計されています。
高虎は、この城を拠点に、抵抗する民衆500人余りを殺害し、太閤検地を強行!!
豊臣政権の武将として忠実に任務を遂行し、秀吉の大改革に向けて貢献したのでした。
ところがこの後、高虎の運命は大きく変わっていきます。

1591年、高虎を見込んでくれた秀長が病死。
やがて天下人秀吉が自らが高虎を配下に起きます。
その腕利きぶりを見込んで、伊予板島7万石の大名に抜擢します。
高虎は40歳にして、城持ち大名に出世したのです。
1595年、高虎40歳で宇和島に入ります。
ここで厳しい現実に出会うことに・・・
いざ領内を巡ってみると・・・その田畑は荒廃し、豊臣の大名を見る人々の目は憎しみに満ちていました。
高虎の前大名・戸田勝隆による刀狩りと太閤検地の強行、過度な弾圧の結果でした。
板島では大規模な一揆が発生、激しい弾圧で800人余りが捕らえられ、磔にして街道に晒されました。
戸田勝隆の兵に襲われ、2000人余りの百姓が殺されたといいます。
かつて秀吉改革の先兵として、刀狩り・太閤検地を強行してきた高虎・・・
今は、領主としてこの土地を立て直さなければならなくなったのです。
高虎は、豊臣政権の指示よりも、領国の復興を優先させます。
高虎が土地に入った4か月後・・・
荒れ地を開墾したなら、そののち1年は、年貢をとらないことを約束しています。
荒れた土地の開墾を奨励し、年貢の徴収を後回しにしたのです。
さらに力を注いだのが、民衆の信頼を回復することでした。
高虎は、地域で崇拝されてきた神社を私財を投じて厚く保護します。
領内にあるいくつもの神社を復興させていく高虎。。。
豊臣政権の一武将から、地域と共に生きる大名に・・・。
彼が求める天下の在り方も変わり始めていました。

天下の行方が急変・・・巨大な権力が集中する豊臣秀吉死去・・・
秀頼はまだ小さい・・・
豊臣官僚の五奉行と、大大名の五大老の中で、政治闘争が始まりました。
動き出したのは、政権一の実力者、五大老の徳川家康!!
大名間の婚姻の禁止といった決まりを無視し、政略結婚を進めます。
勢力拡大、政権の主導権をとる意欲を見せ始めました。
石田三成ら五奉行は、家康の行動は支障をきたすと激しく反発し、家康の行動を阻止しようとします。
高虎は難しい立場にありました。
家康は関東250万石を統治、全国一の石高を有する実力者・・・
家康は刀狩りや太閤検地を杓子定規に行うことに反対、土地の事情に応じて統治する為に、大名の裁量を拡大することを考えていました。
地方大名の事情に配慮することは、亡き主君・秀長も同様で、しかし、豊臣家直属の三成たちは秀吉の遺志を継ぎ、中央集権の仕組みをさらに推し進めることを目指していました。
あくまで中央の意志によって効率よく運営することで、安定した統治体制が築けると考えていたのです。
目指すべき道は、豊臣の世・・・??家康のまだ見ぬ国の形・・・??

秀吉の死からわずか半年・・・恐るべき情報を手に入れます。
石田三成らによる「家康暗殺計画」です。
五大老の重鎮・前田利家の病気見舞いの際に討つというのです。
大坂に屋敷のない家康は、伏見から船で八軒家の浜に来る・・・
前田利家の屋敷はそこから4キロの場所・・・
この道中で、家康を暗殺する・・・それが三成たちの計画でした。
家康を助けに行く??見殺しにする・・・??


慶長軍記によると・・・
1599年3月11日、家康は船で伏見を出発。
翌12日の朝、大坂・八軒家の浜に到着。
ところが船着き場には見慣れない駕籠が・・・あたりに人はいない・・・。
家康たちに緊張が走ったその時!!
駕籠から出てきたのは高虎でした。
「この先の道々には、家康様のお命を狙うものがいるという噂がございます。
 私が用意したこの駕籠にお乗りください。
 家康様の駕籠には私が乗ります。」
高虎を乗せた駕籠は、厳重な警護で先に出発・・・家康の駕籠は時間を置いて出発!!

前田利家の屋敷にたどり着きました。
高虎は、三成たちの夜襲に備え、大坂の自宅に家康を匿います。
警護は夜通し続き家康を守り抜きます。
この日を境に、高虎は家康支持を鮮明に打ち出します。
1600年、45歳の時に関ケ原の戦い・・・
家康と三成がついに激突!!
高虎は、三成側大名への寝返り工作に暗躍・・・家康を勝利に導きます。

1603年、48歳の時に家康が江戸幕府を成立させます。
高虎は、家康の側近に招かれ、献身的に支えていきます。
豊臣から徳川への主君の乗り換え・・・
この高虎の変わり身を、豊臣恩顧の武将たちは・・・「裏切り者」
しかし、高虎は、意に介することなく家康のもとで新たな国造りの礎を築いていきます。
関原の功績で、伊予20万石を与えられた高虎は、その復興に取り組みます。
拠点を今治に置き・・・これまでと全く違った城を・・・!!
今治城・・・平地に城を設け、御殿までの道程を、単純なものに・・・。
大名の権威を示す天守も簡素化・・・構造を規格化することで、巨大建築にかかる負担を軽減化・・・。
ほかの大名たちが天守を作るときの手本としました。
高虎は、太平の世を意識し、城を地方政治の舞台とし、設計しなおしたのです。
戦争のためのお城であると同時に、領国支配の政治のためのお城を築いたのです。

城を建設する時に必ず作ったのは城下町でした。
高虎は、城下町に職人や商人を集めるために租税を免除、経済を発展させようとしました。
そうして自ら領国の基礎を作ると、他の大名たちのところに出張し、各地を奔走します。
家康に命じられ、各地で15以上の城を作り、地方の発展に貢献したのです。
徳川政権より多大な評価を受け、三重津藩32万石の大名にまで上り詰めた高虎・・・
息子への遺言には、大名のあるべき志が・・・
「領国を将軍から預けられている間は、すべてのことに油断してはならない。」
領国は大名の私有地ではなく、あくまで将軍から預かったもの・・・大名はかりそめの主でしかない・・・
しかし、だからこそ、領国の全てに目を配り、大事にしなければならない・・・

1630年、藤堂高虎死去。
75歳・・・裏切り者と呼ばれても、自らの意志を貫き通した生涯でした。


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