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タグ:滝川一益

ここまでわかった! 明智光秀の謎【電子書籍】[ 『歴史読本』編集部 ]

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1582年6月13日、天下分け目の決戦が行われました。
明智光秀VS羽柴秀吉・・・山崎の戦いです。
合戦は僅か数時間・・・圧倒的な秀吉に、光秀は敗北しました。
本能寺の変で天下人・織田信長を討ちながら、10日余りで秀吉に敗北・・・。
後世、三日天下と揶揄されることに・・・
しかし、光秀の動きは緻密な作戦に基づいていた・・・??

戦国史上最大の事件・・・本能寺の変!!
この変は、光秀の緻密な作戦のもとに遂行されました。
1582年5月29日、織田信長は、僅かな供周りと共に安土城から本能寺に宿泊・・・
6月1日午後5時ごろ・・・光秀は1万3000の兵と共に、居城である亀山城を出陣!!
毛利攻めを行う中国方面軍・羽柴秀吉の加勢を命じられたためです。

当時、信長の家臣団は5つの方面軍に分けられており・・・
関東方面軍・・・滝川一益
北陸方面軍・・・柴田勝家
四国討伐軍・・・織田信孝
中国方面軍・・・羽柴秀吉
近畿方面軍・・・明智光秀
信長の傍で大軍を擁しているのは光秀ただ一人でした。

午後9時ごろ・・・光秀は重臣を集め、謀反の決意を語ったと言います。
光秀は信長襲撃に当たり、緻密な作戦を立てていました。
戦国時代の京都攻略は容易なものではなく・・・
というのも、町のあちこちには堀があり、櫓門、木戸門もありました。
応仁の乱以降、戦乱の巷となった京都は、要塞都市と化していたのです。
そのため光秀は、先陣にあらかじめ木戸門を開けさせておいて、軍勢が通りやすいようにしていました。
そして・・・
6月2日・・・午前4時ごろ!!信長に気付かれることなく、本能寺を取り囲んだ光秀は、一斉攻撃をかけます。
ルイス・フロイスによると・・・

”明智の兵たちは、門に達するとすぐに中に突入した。
 こうした裏切りを予想していなかったため、抵抗する者はなかった。
 信長は切腹したと言う者もあれば、邸に火を放ち死んだと言う者もあった”

戦いは僅かな時間で終わったものの・・・光秀の作戦は続きます。
次の標的は・・・本能寺の近くにいた信長の嫡男・信忠です。
織田家の家督は、既に信忠に譲られており、持ぶただが織田家の代表であり、信長の正統な後継者でした。
光秀は僅か1時間ほどの戦闘で、信忠を討ち取ることに成功!!
電光石火の早業でした。
信長が滅び、後継者もいない・・・そんな状態を作り出した光秀とは・・・??

光秀の出自は定かではなく、早くから後に室町幕府15代将軍となる足利義昭に仕えていました。
その後、信長に能力を見出され、比叡山焼き討ちを指揮し、様々な戦場で手柄を上げ、近江の要衝・坂本錠を任されるほどになります。

1575年光秀は、丹波攻めの総指揮官に抜擢されます。
都のある山城と接する国・丹波・・・山と盆地が入り組んだその土地は、統治が極めて難しく・・・
丹波平定は、中国の覇者・毛利攻略の足掛かりでした。

武将・光秀はどんな人・・・??
標高356m、周囲8キロに及ぶ巨大な山城・黒井城は、重臣・斎藤利光に命じて大土木工事を行った城です。
この城は、外枡形が2つ重なっていて、まさに光秀は築城名人です。
ルイス・フロイスも・・・光秀は勇猛な武将で、築城技術に精通していたと書いています。
羽柴秀吉やほかの武将と競い合っていたので、光秀もほかの有力武将に負けないお城を造る・・・そんな思いはありました。
緻密な作戦で成功した本能寺の変・・・光秀にとってそれは、天下をとるための一歩にすぎませんでした。

本能寺の変の後の光秀は素早く・・・
6月2日午後1時ごろ・・・光秀は今日を出立し、近江に向かって進軍します。

光秀の戦略
①近江平定
軍事的な地盤を固めます。
中国方面軍の秀吉に対抗する備えは、中川清秀をはじめとする摂津の武将達。
もともと光秀配下のために、味方に付く可能性が高いのですが、問題は近江。
北には柴田勝家、南には徳川家康が・・・近江を抑えることは光秀にとって生命線でした。
光秀は、居城・坂本城に入るとすぐに攻略を開始・・・
秀吉の長浜城や、美和長秀の佐和山城を攻略し、近江を平定し終えたのが6月4日。
6月5日・・・安土城に入城!!
近江を抑えることは、織田政権の継承者である証拠だったからです。
この光秀の軍事行動は、近江近辺の大名たちの若狭・武田元明や大和・筒井順慶を味方に付けます。

②朝廷工作
6月7日、光秀は朝廷の勅使を、安土城に迎えます。
光秀にとって朝廷を味方につけることは最重要課題でした。
主君・信長を討った光秀には大義名分がありません。
そこで光秀は朝廷に、治罰の綸旨を求めたのです。
朝敵追討という大義名分を得ることによって、光秀は官軍となるのです。

③外交(調略)
さらに光秀は、上杉、北条、毛利、長宗我部などに敵対する大名たちに密使を派遣、連携を依頼しました。

④庶民対策
光秀は今日の人々の税を免除するなど、人心収攬に努めました。
2017年、愛知県で発見された記録には・・・
「信長親子が死亡して、人々はそれに拍手し、天下が定まったと喜んだ」とあります。
光秀は勇士。
光秀は、天下人の地位を盤石にするための期間を50日、100日と見積もり、そのうちに、近国を平定しようとしていたのです。

完ぺきと思われた光秀の戦略・・・しかし、落とし穴が・・・!!
毛利との和睦交渉を成立させた秀吉が、光秀を討つべく進軍開始・・・!!
世に言う中国大返しです。

本能寺の変以降、天下取りに向けて次々と手を打ってきた光秀・・・
そんな光秀にほころびが生じます。
光秀の配下であり姻戚関係でもある丹後の大名・細川藤孝が協力を拒否。
藤孝は信長の死を知ると、髷を切り謹慎を表明していました。
摂津の武将たちも去就を明らかにしておらず、光秀は書状で説得をしています。

6月9日・・・
安土から京に戻った光秀に驚愕の知らせが・・・!!
秀吉軍がすでに姫路まで戻ってきている・・・!!
光秀と同じく、秀吉も諸国の武将に書状を送っています。
中川清秀宛ての手紙によると・・・
「今日から知らせをもたらした者が、確かに言っています。
 信長さま、信忠さまは窮地を脱したとの事・・・」と。
つまり、信長は生きているとニセ情報を流し、味方に付けようとしたのです。
秀吉を迎え討つべくどのように戦略を立てるべきか・・・??

山崎で戦う・・・??
京の玄関口・山崎は、天王山と淀川に挟まれた狭隘な場所・・・
西から来る軍勢は、体勢を崩し細長くならざるを得ない。。。
山崎の周辺の光秀本陣は・・・恵解山古墳。
巨大な前方後円墳でした。
発掘された戦国時代の堀跡は・・・
幅4メートル、深さ2メートルの堀は、長さ400mに及ぶと考えられています。
戦国時代には、古墳は陣になったり、お城に造り替えたりされることが多かったのですが・・・
周辺一帯を陣地として構築し、秀吉軍を迎え撃った様子が伺えます。
こうした堅固な陣地を構築することで、秀吉に一歩先んじることができる・・・。

それとも大坂の織田信孝を討つべきか??
秀吉が信孝を担ぐと、弔い合戦の大義名分となってしまう・・・!!
信孝を討つと、秀吉の大義名分がなくなり、摂津の大名たちも味方になってくれるかも・・・??

信長と信忠を討ち果たした光秀・・・しかし、信長の次男・信雄は伊勢、三男・信孝は大坂に・・・信雄は、四国の長宗我部討伐のために1万5000の兵を率いていました。
しかし、本能寺の変が起きると、各地から集められた兵が逃走、信雄は大坂に取り残されていたのです。
光秀は信雄討伐を考えていた??
秀吉の書状には・・・
「大坂に信孝さまがいるため、光秀は河内へ兵を乱入させ、早くも大坂を取り巻いて、信孝さまを切腹させようという風聞がある・・・」とあります。

信孝討伐のために、大坂に兵を向わせるのなら兵力が分散される・・・
更に、秀吉とそこで野戦となれば、勝敗はどちらに転ぶかわからない・・・
陣地を構築し、山崎で秀吉を迎え討つべきか、大坂に向かい信孝を討つべきか・・・??
光秀に選択の時が近づいていました。

6月9日、光秀、下鳥羽に出陣!!
信孝を討つために、大坂に向かおうとしていました。
しかし、この時光秀の作戦に破たんが生じました。
光秀に加勢したはずの筒井順慶が参陣を拒否・・・すでに、順慶は秀吉と通じていたのです。
一方秀吉は、姫路城を出陣し、東へ・・・!!
秀吉の動きを察知した光秀軍は、急いで山崎に向かいました。
交通の要衝として栄えていた山崎は、街道沿いに栄えた自治都市でした。
しかし・・・ここで不利な情報が光秀を待っていました。
光秀があてにしていた摂津の武将たちが秀吉に味方したというのです。
光秀軍1万余り・・・対して秀吉軍は3万数千となってしまいました。
大軍に対して三成はどういう作戦を立てたのでしょうか??
西は天王山と淀川に挟まれた狭隘地・・・南は3つの川が集まる湿地帯・・・。
秀吉軍より先に山崎に入った光秀軍は、小泉川を防衛ラインとし、大山崎の出口に陣を構えました。
これによって、天王山は無力化されたことになります。
また光秀は、淀城や勝竜寺城を後詰とし、防御を固めます。
秀吉軍は陣形が取れず、細長くならざるを得ない・・・
光秀は、大軍の利を封じたのです。
この時点での光秀の迎撃作戦は、秀吉を上回っていたと考えられます。

一方、秀吉の陣営は、歓喜に包まれています。
大坂の信孝が合流したのです。
秀吉は信孝を迎え、顔を合わせると涙し、いつまでも大声で泣き続けました。
信孝を味方に迎えることで、秀吉は弔い合戦という大義名分を得たのです。

光秀VS秀吉・・・決戦開始は、6月13日午後4時ごろ・・・
光秀の予想通り、大山崎の狭い隘路で秀吉軍は長くならざるを得ません。
光秀軍の猛攻で、秀吉軍の先陣は後退・・・狭い道に兵が溢れ大混乱に・・・!!
光秀軍は攻勢を強め、戦いは光秀の思い通りに展開していました。
このまま戦っていけば、秀吉軍は崩れ、勝利を手にすることができる・・・??
ところが、秀吉軍の別動隊が湿地帯を抜け、光秀軍の側面をついたのです。
子の奇襲によって、光秀軍の左翼が崩れ、勢いに乗った秀吉軍が、光秀本陣に迫ります。
この時、光秀は前線に向かおうとしますが・・・家臣に制せられます。
激闘は数時間で終了・・・。
再起を図るべく、近江の坂本城を目指した光秀。
しかしその途中、落武者狩りに襲われて、命を落としたと伝えられています。
光秀の天下取りは、ここに終わったのです。

京都の北にある慈眼寺には、光秀の木像が伝わっています。
力強い武将の姿は、これまでの光秀のイメージを覆すものでした。
敗者となり、謀反人の烙印を押された光秀・・・その真実は、歴史の深い闇に葬られたのです。



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明智光秀が織田信長を殺した理由は、野望説、怨恨説、黒幕説のいずれでもない。【電子書籍】[ 潮美瑶 ]

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<毛利輝元と戦国時代>歴史シミュレーション 中国大返し 毛利の追撃 (歴史群像デジタルアーカイブス)



1582年6月2日、京都で起きた本能寺の変。
天下統一を目前に控えていた織田信長が、家臣の明智光秀によって非業の死を遂げました。
この時、主君の敵討ちを果たすために、2万もの軍勢を・200キロの道程を僅か7日間で駆け戻った武将・・・それが、羽柴秀吉・・・後の天下人・豊臣秀吉です。
この時のことは中国大返しと言われ、秀吉を天下人へと押し上げた偉業と言われています。

ところが、この偉業には3つの謎があります。

①なぜ秀吉は、毛利の追撃を受けなかったのか。

1582年6月2日、織田信長が天下統一を目前にして無念の死を遂げた本能寺の変。
この時、織田家の主要家臣たちは、全国各地に散らばっていました。
筆頭家老・柴田勝家の目的は北陸制圧!!相手は北国の雄・上杉景勝!!
柴田は上杉の城を落城寸前までに追い込み、戦いを有利にしていました。
関東制圧を任されていた滝川一益は、この時すでに関東の大大名・北条氏政を事実上傘下に治めていました。
大坂にいたのは、信長の息子・織田信孝。織田家重臣の丹羽長秀と共に、四国攻めの準備をしていました。
そして・・・中国地方にいたのが羽柴秀吉!!
中国地方10か国を治める毛利輝元と対峙していました。
岡山県岡山市にある備中高松城・・・当時、秀吉は2万の兵を率いて、毛利の前線基地であったこの城を攻め立てていました。
城に立てこもる毛利勢はおよそ5000!!秀吉の作戦は水攻め!!
山の麓から近くを流れる足守川まで堤を築き、その川の水を溢れさせる・・・そして、城を水没させるというものです。
今も、秀吉が築いた堤の後が残っています。
当時の高さは8メートルに及び、3キロにわたって築いてありました。
この結果・・・もともと周囲に比べて低い所にあった高松城・・・秀吉がその地形を利用して水攻めを実行!!
落城寸前にまで追い込んでいました。
織田軍は、各地で敵と戦いを有利に展開していたのです。
そんな中での6月2日・・・本能寺の変。
絶対的カリスマの織田信長が、この世から姿を消しました。
この衝撃に、各地の状況はひっくり返ります。

北陸担当の柴田勝家・・・信長の死を知ると、自らの城・北の庄城に戻ります。
そして、これまで戦っていた上杉の反撃に備え、自らの城から外に出ることができませんでした。

関東を制圧していた滝川一益はピンチに・・・!!
これまで従っていた関東の大大名・北条氏政が信長の死を知って反撃!!
滝川は北条との戦いに敗れ、関東から命からがら逃げだします。

大坂にいた織田信孝と丹羽長秀の軍も、混乱の極み・・・
信長の死を伝え聞いた兵が、我先にと逃げ出したのです。

主君・信長の敵討ちを討つために、一刻も早く京に向かいたかった家臣たち・・・
しかし、信長の死の衝撃で、自分の身を守ることで精一杯でした。

では、どうして秀吉だけが追撃を受けずに大返しができたのでしょうか?
落城寸前まで備中高松城を追い込んでいた秀吉でしたが、このときすでに城の危機を救うべく、中国地方の覇者・毛利の援軍がやってきていました。
毛利軍は、秀吉軍を取り囲むように、総勢4万もの大軍を動員!!
後方に控えるのは、総大将の毛利輝元!!
しかし、水で囲まれていたこの城を救えずにいたのです。
そのさなかの6月4日・・・秀吉に驚くべき情報が・・・!!
主君・信長の死・・・

秀吉は事態の大きさに驚きながらも、即行動に出ます。
備中高松城城主に残っている記録によると・・・
清水宗治6月4日切腹。
秀吉が信長の死を知ったのと同じ日に切腹・・・すなわち秀吉は、その日のうちに城主の切腹を条件に、早くも毛利との和睦を成立させていたのです。
城主の切腹を見届け、大返しを始めた秀吉。
実はこの時、信長の死を隠したまま毛利と和睦を結んでいました。

和睦から2日後・・・信長の死から4日後の6月6日、毛利輝元が信長の死を知ります。
秀吉との和睦は、信長の存在が前提の和睦。
信長が死ねば、和睦を破棄して秀吉を追撃することもできたはず・・・
しかも、毛利軍は、秀吉軍2万をはるかに凌ぐ4万!!
どうして毛利は追撃しなかったのでしょうか?

「こちらは、鉄砲は言うに及ばず、弾薬も底をついている。」by輝元

なんと、毛利の援軍は、武器弾薬が底をつき、追撃どころではなかったのです。

これこそが、秀吉の戦略でした。
毛利との決戦の前から、毛利の補給路を断つ作戦を練っていたと考えられます。
実際に、軍勢は来ていたものの、毛利に秀吉との決戦に挑む力はなかったのではないか・・・??

秀吉は毛利と村上水軍の間にくさびを打っていました。
村上水軍のうちの一つ、来島村上氏が毛利氏を裏切ったのです。
その結果、毛利は、備中への補給ができなかったと思われます。

戦いの先を見据えた戦略でした。
秀吉の深謀遠慮・・・それが、衝撃の信長の死を前にしても、対応することができたのです。


②神業ともいえるスピード。

主君・信長の敵を討つために、大返しを始めた秀吉。
その距離は、およそ200キロ。
秀吉はこの距離を軍勢を率いて僅か7日間で走破したと言われています。
伝説と言われているのが出発から姫路城までのスピード。

「6月7日に備中高松から27里離れた姫路まで、1日1夜でたどり着いた。」by秀吉

つまり、秀吉は、110キロをわずか2日で姫路までたどり着いたというのです。
そもそも、2万もの軍勢が僅か一昼夜で110キロの道程を駆け抜けられるものなのでしょうか?
その日付について・・・
秀吉自身の書状には、備中高松城から7キロ離れた野殿から15キロ離れた沼城まで・・・その日付は6月5日・・・通説では、まだ備中高松城にいた日付です。
この書状によれば、5日の時点で、秀吉は既に出発しています。
さらに毛利方にもすぐに秀吉が大返しをしたと思われる書状が残っています。
満願密寺に残っている書状には・・・
「和議が整った
 羽柴は引き退き、我らも途中まで戻っている。」by輝元
とあります。

これまでの通説では、秀吉は毛利が追撃してくるのを恐れて、6日まで滞在して出発したと言われていました。
が、秀吉は、実際には毛利が追撃する能力がないことを知っていたので、6日まで高松場周辺に留まる必要はなかったのです。
6月6日に出発し、一昼夜で110キロ・・・と思われてきた中国大返し伝説・・・
親切では、6月5日に出発していた可能性が高いのです。
僅か和睦から1日で、2万もの軍勢を連れて大返し・・・という、方針の大転換を行ったことになります。

織田信長の死から5日後の6月7日・・・
秀吉は姫路城まで戻り、明智光秀の京都まであと半分の距離まで来ました。
この時秀吉はまたもや、先を見据えた行動に出ます。
身分が低い中間、小者は食料や武器弾薬を運ぶ役を担っていました。
重いものをたくさん運ぶために、速度が遅く・・・
秀吉は大返しが成功するかどうかのカギは、この兵站輸送を担う人が握っていると思っていました。
そこで、中間たちの士気を高めるために、身分にかかわらず、高い報酬を約束したのです。
人ひとり五斗・・・人ひとりが半年食べられるだけの米です。
秀吉は、いろんな場面や場所の状況を常に自分自身が把握して、大返しという大事な時期に、一番力を発揮しなければいけない小者たちこそ大事・・・秀吉の人心掌握術の優れた点です。

6月9日・・・姫路城を出発!!
しかし、その先には大きな問題が・・・。
それは、細川藤孝、高山右近、中川清秀、筒井順慶・・・織田家臣たちの動向です。
京都周辺にいた彼らの多くは、もともと信長を討った明智光秀に近い者たち・・・
つまり、これらの武将たちが光秀に味方して、秀吉に立ちはだかる可能性があったのです。
これらを操ることが、中国大返しのカギに・・・!!

光秀との戦争を考えると、京都と大坂との間で大きな戦争をしなければならない・・・
当然、地元の武将がキーポイントでした。
そこで秀吉は、京都周辺にいる武将たちの動揺を誘うための高度な戦術を始めます。
情報操作・・・
中川清秀に送った書状には・・・
「上様は無事に切り抜けられた・・・」by秀吉
信長が生きているというウソの情報を流して、中川が光秀と合流しないように仕向けたのです。
さらに・・・
「柴田勝家も、急ぎこちらに来るらしい。」by秀吉
動けないはずの勝家がもうすぐ来そうだと伝えているのです。
信長も生きているうえに柴田に来る・・・
この情報コントロールを前に、中川をはじめとする武将たちは、とても光秀に味方することなど出来なかったのです。
普通なら信用しないような情報でも、秀吉の交友関係の広さ・・・情報収集能力のとびぬけていることは信長の家来層には浸透していました。
ありうるのではないか・・・??全面否定のできない情報だったのです。
次々と大返しの生涯を取り除いていく秀吉・・・。

それは、織田家家臣以外にも向けられていました。
明石から家臣に向けた書状には・・・
「洲本城に菅平右衛門が入城した
 彼の城を取り巻いて攻めるべし!!」by秀吉

洲本城とは、淡路島にあった城・・・この城を押さえた菅を攻めろというのです。
菅という海賊衆は、四国の大大名・長曾我部氏の関係勢力でした。
長曾我部元親は、明智光秀と親しい関係にありました。
なので、秀吉は長曾我部と光秀の挟み撃ちを避けるために、淡路島を押さえるように命令を出したのです。
どうして1週間余りで大返しができたか・・・??
それは、すぐに大返しをすると判断したことと、次々と立ちはだかる生涯を取り除いていったからなのです。


その頃光秀は・・・??
6月5日・・・安土城と秀吉の長浜城を占拠
6月7日・・・安土城で勅使の吉田兼見と会見
6月9日上洛して正親町天皇と誠仁天皇に銀子を献上する

この光秀の行動の意図とは・・・??

朝廷は非情に利用価値があったということです。
戦国大名も、新たに支配地域を広げるとき、朝廷から官位を得、自分がそこの支配の正当性を主張したのです。
正当性に疑念を抱かれる場合・・・余計に朝廷は利用価値があったのです。
戦国時代は・・・朝廷の権威よりも「勝てば官軍」の時代でした。
本当に光秀がやらなければならなかったのは、朝廷工作ではなく、秀吉を倒し、自分の強さを天下に示すことだったのですが・・・。
戦国武将にしては・・・文化人・・・??
&やましい心が味方を増やそうと朝廷をバックにしようとしたのかも・・・??


③なぜ秀吉が信長の後継者になれたのか?

信長の死後、信長の跡取り候補は二人・・・信雄と信孝でした。
しかし、秀吉はこの二人を押さえ、信長の後継者になります。
そこには、光秀との決戦を前にした選択が・・・
1582年6月11日(信長の死から9日後)、秀吉は尼崎に到着。
明智光秀のいる京都は目前でした。
そこで、信雄にすぐそこまで来ていることを告げます。
この時秀吉は最後の選択に迫られていました。
信孝との合流です。
信長の息子を総大将に祭りあげれば、秀吉軍の士気は高まります。
が、祭り上げるためには信雄の大坂城に集まらなければ・・・??
そうなると、織田家の権威を前に、秀吉の存在が薄れてしまう。。。

そこで、秀吉はもう一つの選択肢・・・信孝と合流せずに光秀と当たる・・・!?

信長の死後10日の6月12日・・・ついに秀吉が決断!!
信孝と合流せずに、光秀と当たることを決意します。
そしてその日の夕方・・・天王山の麓で、秀吉軍と光秀軍の前哨戦が始まりました。
この日の戦いは、前面衝突する前に、光秀軍が撤退・・・
結果、小競り合いに終わりました。
しかし、主君の敵討ちのために中国大返しを成し遂げた秀吉は人々に大きな衝撃を与えました。
出来るだけ早く、自分が主君の弔い合戦に駆け付けたことを示さなければならない・・・!!
天下を確実に考えていたようです。
信長の死から11日後・・・
1582年6月13日、秀吉、光秀と決戦!!


そこには、秀吉に後れながらも大坂から駆けつけた織田信孝の姿がりました。
だれもが予想しなかった秀吉の中国大返し・・・
もはや、光秀が抵抗できるはずもありませんでした。
戦いは短時間で終わり・・・戦いに敗れた光秀は、逃走のさなか討ち死にしました。

主君織田信長の敵討ちを成した羽柴秀吉・・・その力は、主・織田家さえも凌ぐようになります。

光秀を討った後に、秀吉に宛てた織田信雄の手紙には・・・
「そちらの様子で良きよう決めて連絡してください。
 それで近くへ陣を寄せます。」by信雄

この時、秀吉は光秀軍の残党狩りをしていました。
その秀吉に自分も合流したいので、どうしたらいいのか??指示を仰いでいるのです。
秀吉が光秀を討ち、主体的に行動している・・・軍も大半が秀吉の軍勢・・・。
主人筋の信雄も、秀吉の指示を仰がなければならない関係だったのです。
主君・織田信長の息子たちは、単独で大返しを成し遂げた秀吉に従わざるを得なかったのです。
この後・・・羽柴秀吉は、織田家を飲み込み、天下人への階段を着々と上り詰めていくのです。

これは・・・信長が生きていたとしても、これが一番の正しい行動です。

秀吉はどの段階で天下を意識したのでしょうか??
本能寺の変は起こる前から知っていたのでしょうか??

秀吉が知っていないまでも、畿内でどんなことがあってもすぐに行動できるように・・・
不測の事態・・・あらゆる事態に行動できるように準備していたのではないか・・・??

他の人にはできない、秀吉の情報収集能力の凄さ・・・
信長亡き後の天下取りのビジョンを明確に描けていたこと・・・
秀吉の凄さは速度・・・情報、軍の移動、決断、外交・・・
事は自分一人ではできないということをよく知っている。
秀吉は、四方八方に人脈を・・・秀吉ファンを持っていたこと・・・
普段から気を配っていたこと・・・
人々についてきてもらえる知恵・・・人の気持ちを掴むことが凄さなのです。




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戦国最大のミステリー・・・”本能寺の変”
天下統一を目前に、非業の死を遂げた織田信長。
信長がどうして明智の謀反に気づかなかったのでしょうか??

1579年長篠の戦いで武田勝頼を破り、その3年後武田家が滅亡・・・信長は、日本の領土の半分を手にしました。
天下統一を目論む信長は、重臣たちを全国に配置!!
北陸には筆頭家老の柴田勝家、中国地方は羽柴秀吉、関東は滝川一益、近畿は明智光秀。
1582年5月29に備中高松で毛利軍と対峙していた秀吉から援軍要請がありました。
安土城を出発した信長は、その日のうちに京都に入りました。
出立までの数日、定宿としていた本能寺に!!

この時、信長に随行した家来150人のうち、武術の心得があったのは小姓・森蘭丸らわずか30人ほどでした。
これらは、信長の家臣の精鋭たちが各国で戦いの真っ最中だったことで、信長が無防備であったということではないようです。

当時の本能寺は、現在の本能寺より南西に600mのところ。
大きさも格別で東西140m、南北270mもある大寺院でした。
平成19年の発掘調査によって、本能寺には強固な門や石垣があり、四方には深い堀もあったようです。
本能寺は、城郭、要塞の昨日のある寺でした。
他に、信長がわずかな人数しか連れていなかった理由は、すでにこの時点で信長に逆らうものがいることは予期しておらず、約1km離れた明覚寺に嫡男・信忠が500の兵を置いていました。
安全・・・まさか、光秀が反旗を翻すなど思いも取らなかったのです。

この時信長は、朝廷より太政大臣・関白・征夷大将軍らの官職に任ぜられることになっていました。
三職推任と呼ばれるもので、朝廷も信長の力を認めているという証でした。
もはや京都に敵なし!!信長はこの時、自分が襲われるなどとは思ってもみませんでした。
6月1日、本能寺から20キロ離れた丹波亀山城から秀吉の援軍の準備を行っていました。
だれも・・・謀反のことは知りませんでした。
家臣には「信長さまが、わが軍の装備を確かめたいそうだ」と、言います。
謀反の計画がばれれば許されない!!
そして、用心に用心を重ねて本能寺へ・・・
1582年6月1日午後6時・・・
光秀軍1万3000を引き連れて、丹波篠山城を出発!!
本能寺へと向かったのでした。

どうして信長はこの大軍に気付かなかったのでしょうか??
2時間後、野条で軍議を開いた光秀。
呼ばれたのは、側近中の側近わずか数名で・・・謀反の意を告げます。
危惧する声の上がる中・・・光秀の決心に、最後は道を同じくすることを誓います。
野条・・・篠村八幡宮は、足利尊氏ゆかりの地です。
尊氏と光秀には共通点がありました。
明智家は、美濃国・清和源氏の流れをくむ土岐氏の一族で、尊氏もまた同じ源氏でした。
尊氏は慕っていた後醍醐天皇に謀反を起こしたことで有名ですが、その決意を固めたのが篠村八幡宮だっやのです。
部下たちに起請文を書かせます。
日付が変わった6月2日0時ごろ・・・沓掛に・・・。
光秀は、全員に小休止・食事をさせ・・・天野源右衛門に「不審者を見つけたら、構わず切り捨てよ!!」と命じます。本能寺に向かっていることを知られないように、怪しいものはみな切り捨てよということです。
この時、天野は農民まで斬りつけたと言われています。
本能寺まであと5キロ・・・戦の用意をさせます。火縄銃も・・・!!
謀反を知らない兵士たちがざわめきますが・・・
「今日より我が殿(光秀)は天下様にお成りになる。
 下々の者、わらじ履きの者たちまで勇み喜ぶがよい!!
 手柄の次第によって、処遇の高下を決めよう!!」と言われるのでした。

秀吉の援軍という大義名分を利用した光秀の周到な策だったのです。


本能寺の変から400年以上・・・怨恨説、信長自滅説、野望説、ノイローゼ説、朝廷守護説、救世主説、人間性不一致説、突発説、黒幕説、内通露見説、信長自殺説、信長不死説・・・いろいろ言われてきました。時代を超えて人々を惹きつけてきました。

野望説の根拠は・・・3日前に呼んだ句・・・
「ときは今 あめが下しる 五月哉」です。
どうして謀反を起こしたのか・・・??

長く伝えられてきたのは①怨恨説です。
江戸時代に書かれた「川角太閤記」に書かれています。
が・・・江戸時代に書かれた作品で・・・信長のイメージは冷酷非道となっていました。
信長=悪役というイメージ先行でした。
信長譜代の家臣でない光秀は、斎藤道三に仕えていましたが、勢力争いに巻き込まれ離散・・・放浪の末に、越前の朝倉義景に仕えます。身分は足軽でした。
転機があったのは1565年、京を逃げてきた足利義昭に信長を紹介する役目をすることとなりました。
帰蝶の母が明智の家系で、いとこ同士・・・その縁を頼ったようです。
権力を握るためにも足利家と近づきたいと思っていた信長は、橋渡し役の光秀を取り立てて自らの家臣に!!
光秀は、知識人で才覚に優れていたので、翌年には京都の政務についています。

1575年交通の要所である丹波国の攻略を4年がかりで平定!!
信長は、「丹波国での光秀の働きは、天下の面目を施した」と言われています。
褒め称え、光秀に丹波国29万石を与えたのでした。
足軽から一国の主にまで取り立ててくれた信長に対し、
「瓦礫のように落ちぶれていた自分を召し出し、そのうえ、莫大な人数を預けられた
 一族家臣は、子孫に至るまで信長さまへの御奉公を忘れてはならない。」
光秀がこれを書いたのは・・・本能寺の変の1年前のことでした。

②黒幕説
光秀の黒幕として一番有力視されているのが足利幕府15代将軍・足利義昭です。
義昭は、信長の後ろ盾があっての将軍でした。
なので、実権は信長が掌握!!
業を煮やした義昭は1573年兵を挙げますが・・・制圧され、京から追放されてしまいました。
それでもあきらめられない義昭は、旧知の仲の光秀に謀反を持ち掛けた??

③家康共謀説
信長の家康暗殺計画を光秀が利用したという説ですが・・・。
家康は、信長と20年にわたって同盟関係でした。
この頃から三河を手に入れようと思っていた信長・・・
家康を本能寺に招いて光秀に討たせる??というものです。
これに対して信長の横暴さに耐えかねていた光秀が共謀して本能寺で家康を待っていたところを討ったというものですが・・・
信長にとっても家康にとってもお互いが大切なパートナーであったことには間違いありません。
勝つという見込みのない物に、家康は挑戦しません。

そしてさらなる新説が・・・。
本能寺の変の直前、長曾我部元親と光秀の重臣・斎藤利光との間で書かれたものです。
④四国・長曾我部問題説
1575年10月、阿波国・三好氏と対立していた信長は、四国統一を目指していた土佐の長曾我部元親と同盟を結びます。
この時の取次役は光秀!!
信長は元親に約束します。
「四国における勢力圏の展開は、元親の手柄次第にせよ」
信長という強力な後ろ盾を手にし、破竹の勢いで勢力を拡大!!
阿波のみならず、四国を平定しようとしていました。
しかし、この勢いに危機感をいだいた信長は・・・
「本国の土佐と阿波の南半国は安堵するが、讃岐と伊予は召し上げる!!」としました。

元親はこれを一度は拒絶するも、光秀の説得もあり承知しました。
しかし、信長は、すでに準備していた四国征伐を中止せず、三男・信孝に出陣を命じます。
予定日は1582年6月2日!!まさに、本能寺の変の当日でした。
この四国征伐を阻止するために、本能寺の変を引き起こした・・・??
この手紙そのものには、元親の苦悩があり、光秀の取りなそうという苦しみもあります。
一つの要因となりますが・・・。

⑤信長横暴阻止説
本能寺の変当日に、光秀が旧知の武将に宛てた手紙には・・・
「信長の悪虐は、天下の妨げ・・・討ち果たし候。」とあります。
悪虐??
信長は気性が激しく、目的の為ならば非道な行いも厭いませんでした。
刃向かうものは実の弟でも抹殺!!
義理弟(浅井長政)家滅亡!!
比叡山焼き討ち!!
石山合戦!!
人々が恐れおののきます。
そのうえ、信長は権威のために、天皇家の皇子を養子に迎え、朝廷との関係を強めます。
が・・・天皇家にも横暴な態度を・・・
天皇が決めていた暦、年号・・・これは、陰陽師・安倍晴明の子孫に当たる土御門家が制定した”宣明歴”が使われていました。
しかし、信長は、尾張を中心に流布していた尾張暦を勝手に使っていたのです。
二つの暦の決定的な違いは閏暦・・・。
この頃は、1年が354日の太陰暦でした。
3年に一度閏月を設けて暦のずれを直していました。
本能寺の変が起こった年も閏月です。
新年のはじめを閏1月にする宣明歴と、年の終わりを閏12月信長の暦では新年が変わってきます。
ここで、朝廷と対立したのです。
京都で公家との交流も盛んだった光秀は、公家たちの不満を耳にしていました。

時まで支配しようとしていた信長・・・!!

正親町天皇から誠人親王に譲位させ。。。
養子にしていた誠人親王の第五皇子を新天皇とし、天皇の義父として君臨しようとしていたようです。
常識人だった光秀にとっては、目に余るものがあったのです。
もう一つ許せなかったのは・・・織田氏は藤原でしたが、ある段階から平氏を名乗っています。
源氏の光秀にとって、兵士を名乗る信長が天下を取るのは許せなかったのかもしれません。
そう、幕府を開いた源義朝・足利尊氏は源氏直系なのです。

平氏が天下を取るのなら、それは阻止しなければならない・・・??
1582年5月29日、秀吉の毛利攻めの援軍として出発し、京・本能寺に宿泊!!
信長の京での目的は、茶の湯に傾倒していた信長が、これまで信長が集めてきた茶器を公家たちにお披露目することでした。

本能寺の変の1日前の6月1日・・・
信長は、本能寺に公家や僧侶など40人ほどを招き、茶会を催し、持ってきたいくつもの茶器を披露します。
ご満悦の信長は、陽が落ちるとそのまま酒宴へ!!
そこには、近くの寺にいた長男・信忠もいました。
親子は久しぶりに酒を酌み交わします・・・これが、最後とも知らず・・・。

信長が床に就いたのは、日が変わったころ・・・。
酔いしれたせいか深い眠りに・・・しかし、6月2日午前4時!!
京に入った光秀軍が本能寺を取り囲みます。
光秀軍1万3000に対し、信長軍150!!
静かな夜は、一転、修羅場と化したのでした。
喧騒で目を覚ました信長は、下々の者が喧嘩でもしているのだろうと楽観していたようです。
しかし、森蘭丸から謀反を知らされると・・・「是非に及ばず!!」と、弓をとり、次々と敵を迎え撃ちます。
しかし、肘に深手を負ってしまい・・・「もはやこれまで!!」覚悟を決めて本能寺に火を放ち、自害するのでした。

その後、光秀たちは懸命に信長の遺体を探しますが・・・髪の毛一本すら探すことが出来なかったのです。
信長の遺体は何処へ・・・!!
火災によって燃え尽きてしまった・・・??
木造建築が燃え尽きるのは1000℃、人骨が完全に燃え尽きるのには1600℃以上必要です。
この時の火災だけで完全に燃え尽きたとは考えにくいのですが・・・。
信長の家臣が持ち去ったのか・・・??
しかし、周りは光秀の兵1万3000!!そんな余裕はなかったはずです。
信長の遺体はどこへ消えてしまったのでしょうか・・・??

遺骨一本さえ残っていない・・・その手掛かりは本能寺にありました。
信長は、鉄砲を重用し、種子島→堺の豪商を介して、鉄砲や火薬を入手していました。
そして信長は、戦に大量の鉄砲や火薬を使っていました。
その保管先の一つが本能寺だったのです。
そのため、当時の本能寺には、多くの鉄砲や火薬を置く保管庫があったと思われます。
敵に自分の首をとられないために・・・遺体を晒さないために・・・
大量の火薬に火をつけ爆破!!
跡形もなく吹き飛ばしたのではないか??とも言われています。

1582年6月2日信長自害!!


人間五十年  下天のうちを比ぶれば
                  夢幻のごとくなり


短くはかない人生を、天下取りの野望に向かって突き進んだ信長・・・49年の壮絶な生涯でした。



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感想(3件)


昌幸は大勝負に出る。
滝川一益が、北条討伐に向かう隙に・・・
沼田城、岩櫃城の奪還を狙う。
だが、一益のもとには、人質としておとりがいた。

1582年6月18日・・・まだ、信長さまが亡くなってから2週間ほどしかたっていませんが・・・
状況、情勢・・・みんな色々変わってきましたよ。

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滝川一益は、上野で北条氏直と激突!!
最初は優勢だったものの・・・神流川の戦いで北条の大軍の前に総崩れとなってしまいました。

北条の情報坊主は板部岡江雪斎。
そうそう、毛利にもいるでしょう?安国寺恵瓊、織田家には沢彦宗恩・・・当時はお坊さんが情報通というか・・・
国をまたいで修行(活動)できた=難なく通れたので、情報は修行僧から・・・教育も僧から・・・ということで、かなり重宝されている僧の身分でした。

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江雪斎の報告を受け、ほくそ笑む氏政!!

その頃真田の郷では・・・

maru5











弱り目の滝川一益から祟り目、沼田城と岩櫃城奪還に向けて、活動開始!!

昌幸はおとりが人質となっている沼田に!!
しかし、おとりはおらず・・・一益が連れて行ったようです。
ああ・・・沼田城を攻めたことが、一益にばれたらどうする・・・??
と、兄・信幸の心配をよそに、「しかたないじゃん!!」といい放つ、父・昌幸!!

奪還した沼田を叔父・頼綱に任せ、信幸を岩櫃城へ!!
自分は信繁とともに一益に会うため上野・箕輪城に・・・!!
沼田城を攻めたこと・・・ばれている・・・??緊張感が走ります。

昌幸が沼田を攻めたことをまだ知らずいい人の一益に、またもやいけしゃあしゃあと嘘をつく!!
わざといかなかった北条との戦いに間に合わなかったことを謝る昌幸。
まさに下司!!

伊勢に戻る一益は、信濃を抜けるまで人質とり&きりを連れて行くという。
お酒を飲みかわす一益と昌幸・・・そこでびっくり!!

「真田殿、岩櫃と沼田の城の事だが・・・
 二つともおぬしに返そうと思う。
 そんなに驚かんでも。」by一益

「返していただけるのですか・・・??」by昌幸

上様なき後の体勢を立て直すのが急務で、上野、信濃は国衆に返してくれるという。

「この先、どの大名に頼るのか、おぬしたちで好きに決められるがよい」by一益

まさに、策士策に踊れる??いえいえ、溺れる??
そんなことならそのまま待っていればよかった・・・??昌幸!

いい炸裂な一益に、裏で岩櫃と沼田奪還に動いていた昌幸はまさに針の筵!!

読み違えてしまった昌幸・・・そうそう、嘘ばかりついていたことがばれたらババ様が危ない・・・??
って、自分が嘘ばっかりついている下司だって、よくわかっているじゃないの・・・??

そんなこんなをついに一益が知ってしまいました。

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「嘘ばかりつきおって!!」by一益
「してやられました!!」
いすを蹴る一益!!流石の一益も大激怒!!腹が立ったようです。

ばれてしまっては人質の命が危ない!!
奪還のために、信繁が小諸城に向かいます!!

「ここしないのが上策だ!!
 今宵、この城の中には滝川一益の兵と小諸の兵が入り混じっている・・・
 そこがねらい目だ!!」by信繁

でもって、小諸の兵には滝川の兵の・・・滝川の兵には小諸の兵の・・・ふりをして潜入!!

が・・・そんな浅知恵が通じるはずもなく・・・
助けに来たものの・・・きりが大事なものを忘れたと探しに戻ります。
大事なものは・・・信繁にもらった櫛だったのですが・・・
なんと、一益にあってしまいました・・・!!

maru8











ああ・・・きりのシーン・・・皆さんにかなり不評のようです。
大切なものを取りに帰ったのが信繁の櫛だというのは好感持てるんですが・・・
とりに対する態度もそうですが、とりをおんぶする信繁にやきもちを焼いたり、そんなきりをおんぶしてあげようとする三十郎頼幸・・・って、きりって何者??そんな偉いんかい・・・??みたいな感じが満々です。
1年を通して・・・そんなきりがいい女に変身していくんでしょうか??
そこを見どころの一つにして観ます。

結局一益にもばれて・・・人質は4人に・・・。
皆で伊勢までついていくことになっちゃいました。


真田の郷では、私の好きな作兵衛が武装中!!
お屋敷を守ってくれるらしいです。

小諸城から一歩も出る気配のない一益!!
その原因は信濃西部を治めている木曽義昌。
武田信玄の娘婿であったにもかかわらず、真っ先に武田家を裏切り、信長の攻撃のきっかけを作った男です。

ああ・・・こんなことをしていたら、清須会議に遅れちゃうよ・・・一益。
福島城に向かう一益!!それに同行する信繁たち・・・。
なんとかなる・・・望みを捨てなければ・・・ババ様の暗示・・・どうなる??
義昌に、人質と交換で通してほしいという一益・・・願いは受け入れられます。

6月28日・・・しかし、一益は清須会議に間に合わなくなり、時代は秀吉に微笑むのでした。
もう、二度と信濃に帰ってくることはありませんでした。

さて、木曽義昌の人質となってしまったみんな。

ご機嫌な義昌でしたが・・・ババ様を見た瞬間、顔色が・・・

「宗太郎!!」
ババ様に呼びつけられました。
実は宗太郎の子供の頃を知っているらしいババ様、みんなの前で信玄公の前でおもらししたことをばらされます。
ビンタされ、何が何かわかんなくなる宗太郎こと義昌。
恩義のある武田を裏切ったことを叱られます。

「相変わらず怖いのう・・・」by宗太郎

人質を返してやれというババ様、せめて信繁だけは返してほしい。
ババ様を助ける為にきた信繁、「そんな~~助けるために来たのに・・・」な信繁でしたがきりも一緒に代えれるみたいよ。
上からなババ様、宗太郎も大事に扱ってくれるみたい。
強いババ様、かっこいい!!


代わって・・・出浦昌相から、皆が北条に着いたと情報をもらった昌幸、出浦には北条について内情を探ってくれとお願いして・・・自分はどうする・・・??

上杉にしつこくお願いに上がる昌幸、真田を守る力はないという上杉に・・・
真田は北条に裏切ることはない・・・上杉の兵だ!!と、北条から信濃を守りましょう!!という昌幸に根負け、制止する直江兼次を押し切って、小県は守るという確約を得ることに成功するのでした。


ババ様を助けられなかった信繁・・・父に叱られます。
どうしてしくじるのか・・・??
「己の勘に頼りすぎるからじゃ・・・」
誰もが思ったはずだ・・・父上もそうじゃね・・・??
「わしも勘だけで生きておる・・・
 だが、わしの勘は、バカずっを踏んで手に入れた勘じゃ。
 それでもたまには間違える。。。」by昌幸

誰もが思ったはずだ・・・たまに・・・??と。
そう思ってほしい、三谷幸喜にはまっている・・・。

勘には頼らない、おのずと失敗の少ない兄・信幸と、勘に頼る弟・信繁・・・どちらが正しいのか・・・??
「源三郎と源次郎・・・合わせて一つじゃ
 源三郎はまちがいは少ないが、くそ真面目で面白くない。
 お前は過ちを犯すが面白い。面白くなければ人は動かん。。。
 二つで一つじゃ・・・」by昌幸

おお!!たまには的を射たいいこと言うじゃん!!

海津城に行けと言われる信繁、どうも信繁の尊敬する信尹の仕事のお手伝いのようです。
春日信達を調略し、上杉を北条に寝返らせるために・・・!!
これが、真田が北条に着くときの手土産だっ!!

これも、経験に基づく勘なのね・・・??そうよね??昌幸!!


ということで、この回も面白かったですよ。
あちこちにちりばめられたサインを見落とすことなく・・・と、必死に見ちゃうので、45分がすぐに終わってしまいます。
ほんと、癖になる昌幸です。




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毎週毎週楽しみの「真田丸」です。
主人公以外でも主人公級がごろごろいるこの作品、あっちこっちにお話がとんでなかなか理解も難しく・・・
でも、何回も見直してでも楽しみたいので、いい感じに歴史に詳しくなれる作品ですね。

本能寺の変から二日・・・
日本中に信長の死と言う衝撃的な知らせが伝わっていく。
信繁たちは、明智の兵に占拠された安土を脱出しようとしていました。


本能寺の変はあっという間に終わりましたが、その時の武将の気持ちの温度差を丁寧に描いてくれていて、とってもいい感じ。

そういえば、前回は松を連れて安土城を脱出したところでした。

信繁は、松やほかの女子供の人質を連れて・・・明智の軍勢から逃げていました。
ああ・・・こんなにたくさん、逃げ切れるわけないじゃん!!
と思いつつも、勢いと面白さで、今年の大河は切り抜けられそうです。

結局、女たちは散り散りに・・・松は断崖絶壁へと・・・??

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追いつめられた松・・・海に身を投げてしまいました!!

崖の下を探す信繁と茂誠・・・

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そこには松の着物がっ・・・!!

あの裏切り行為の後、真田の郷には居場所がない・・・そんな茂誠、ここに残るのでした。

「生きていてこそ、いいですか?兄上!!
              生きていてこそです!!」


主・信長を失った昌幸のもとには、滝川一益から書状が・・・!!
真田家は国衆なので、戦国大名の庇護のもとでなければ生き抜けない・・・どうする??

このまま織田に着くべきだ!!と、ず~っと、一貫して仇を討つことを進言する信幸!!
「ず~っと、申しておりましたっ!!」by信幸


一益に仇討を進言する昌幸・・・しかし、北条の手前それはできないという。。。
おまけに一益が一番信用できないのは国衆の真田なんだって!!

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なので、安土に松を人質として預けたものの・・・今回は一益のために人質を預けなければならなくなりました。
裏切らない証として・・・!!


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信長の死によって、たくさんの武将が窮地に陥っていました。
そう・・・森長可もその一人でした。


そして・・・松のことで落ち込んでいる信繁・・・

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森長可遭遇します。
そこには、案内人の出浦も一緒にいました。

「信濃の国衆たちに伝えよ。
 わしら織田方は、おぬしたちを守りこそすれ、害をなそうなどとは思っていなかった。
 わしらを追い出せば、必ずや信濃は方々から攻められ、食いつぶされるであろう。
 その時になって後悔してもすでに遅しじゃ!!」by長可


真田の動きは筒抜けの出浦に、安土のことを教える信繁!!

出浦は・・・

「素破は、目先の損得では動かぬ。
 一度家臣と決めたからには、最後まで尽くすのが、われらの流儀!!

 乱世なればこそ、われらの流儀に値打ちがでる。
 素破は戦では死なぬ。
 素破が死ぬときは、信用を失ったとき・・・!!」by出浦昌相!!

おお!!なんと渋い!!とってもかっこいい!!真田パパとは大違い!!
ココから大坂の陣へ引っ張っていくのかな・・・??

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昌幸は、小県の国衆を集めていました。
今度は滝川に着くと宣言!!
いい加減せいと怒る室賀!!
ここにいるみんなは、北条に着こうと考えているようです。

どうするべ??昌幸・・・滝川一益にはどう申し開きをする・・・??

その頃・・・小田原にも”信長死ス”の知らせが届いていました。
maru4











様々な献上品をしてきたのに、すべてが水の泡となってしまった・・・氏政。。。
そこへ、昌幸の弟・信尹がやってきました。
背後を狙わないでほしいという・・・確約を・・・!!

北条の確約した手紙を、一益に渡すと言う氏政・・・しかし、それは戦国の世のこと・・・!!
やはり、腹に一物あり!!の、北条氏政なのです。

maru3











伊賀越えから命からがら帰ってきた家康、やっとのことで登場です。
そうそう、大河Fanのみんな待ってましたよっ、家康!!

明智を討つ気はないという家康・・・兵の用意ができた!!討つべきだという本多忠勝が諫めますが・・・どこ吹く風、本多正信のマッサージとお灸・・・
「明智討伐は、誰かがやってくれるわっ!!」by家康

援軍を求めてきた一益には、兵を出すと言っておいてのらりくらりとかわす手のようです。
ま、当時の戦いの一番の勝者は優秀な兵を失わなかった者です。
だから、極力戦いを避ける!!それが一番だったのは言うまでもありません。
今回の大河では、かなり滑稽に家康を演出していますが、そんな臆病な男だったからこそ、最後まで残ったのかもしれないのです。

真田に戻ってきた信繁・・・
姉・松を助けられなかったことを父に謝る・・・
人質に出したからには・・・これもさだめだ・・・という父と兄・・・
しかし、母は到底納得することができません。
それが戦国の女のさだめ・・・。

真田はこれからどうなるのか・・・??

しかし兄は、郷をでて外を見てきた信繁がちょっと羨ましいようです。
一つだけ確かなこと・・・今、北条が攻めてきたら、真田は終わりということだ・・・
信幸は、良い武将になるだけあって、冷静に物事をみることができますね。
だからこそ、父や弟が頓珍漢でもOKなんですよ。

でもって、お勤めにあがったきりに・・・姉上のこと・・・傷口に塩を塗り込まれてしまいました。
慰めてほしかったのか、梅のもとへ・・・
そう・・・こんな時慰めてくれる優しい100点満点の子は梅なのです。

そして・・・滝川一益の信用を得るために沼田に向かうことになったとり。

「こんな年寄りでも、真田の為になるなら本望です。」byとり

6月13日、明智光秀が山崎の合戦において、羽柴秀吉に敗れました。
己の才覚だけでのし上がってきた秀吉・・・天下に一番近いのは、あの男かもしれん・・・!!
滝川一益の目がなくなった・・・ことごとく疫病神化している父・昌幸。。。


北条氏直の軍勢は、厩橋城の滝川一益に向けて進攻を開始!!
徳川の援軍はまだか・・・??真田は・・・??

「誰の下にもつかぬ・・・!!」by昌幸

そう、この要の土地・信濃、この信濃がある限り、大名たちと対等に戦える!!
奴らを操ってみせる・・・!!

滝川が北条と闘っている間に、岩櫃と沼田の城を奪い返す!!
人質のババ様も取り返す!!

「どんな手を使っても、真田を・・・この城を守り抜いて見せる!!
 大博打の始まりじゃ・・・!!」

さあ、面白くなってきましたよ!!
盛り上がってきましたっ!!
みんな、一癖も二癖もあって、いい感じです。



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