日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:熱田神宮

およそ460年前、大きく歴史が動きました。
1560年5月19日、尾張のおおうつけと呼ばれていた織田信長と、海道一の弓取りと称された大大名・今川義元が激突。
織田軍3000に対し今川軍2万5000・・・
しかし、信長はこれを覆して勝利し、一躍乱世の主役となりました。

1560年5月12日・・・桶狭間の戦いの7日前・・・

駿河・遠江・駿河の三国を支配下に置く今川義元は、貴族のように白塗りをして輿に乗り、2万5000ともいわれる大軍を率いて駿府から出陣!!
信長のいる尾張へと兵を進めていました。
義元がどうして尾張へ侵攻したのか・・・??
上洛のため・・・??
足利将軍家に代わって、政権を掌握しようとした義元が、上洛の途中に邪魔となる尾張の織田信長を退けようというのです。
義元が9代当主を務める今川氏は、室町幕府を開いた足利一門・吉良氏の諸流・・・

”御所が絶えれば吉良が継ぎ 吉良が絶えれば 今川が継ぐ”

と言われるほどの高い地位にありました。
当時は足利将軍家が弱体化・・・吉良氏も没落していました。
義元が天下の立て直しを目論んでいたと考えても何ら不思議はありません。
しかし、この上洛説は、現在では否定されつつあります。

江戸時代の資料には、よく上洛という文字が書かれていますが、今川氏の資料には、上洛を思わせる資料がありません。
仮に信長を退けたとしても、その後ろには美濃の再投資、南近江の六角氏、北近江の浅井・・・
一気に上洛するのは不可能でした。
よって、尾張への侵攻というのは上洛とは考えにくいのです。
その為、現在では
①織田は他の付城排除説
②尾張の今川領回復説
③三河の安定化説
があります。

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その中に、尾張奪取説もあります。
もともと織田信秀の時代から、尾張に目をつけていて、国境付近で争奪戦を繰り広げていました。
信長の勢力が拡大する前に、尾張を制圧してしまおうと考えていたのでは??

上洛のためと書かれているのは「日本戦史 桶狭間役」です。
そこには他にも今川義元がくぼ地で休息していた
信長が戦場を迂回して義元の背後から奇襲を仕掛けた
などと記されていて、”桶狭間の戦い=信長の奇跡の逆転劇”というイメージを世間に定着させました。
というのも、”軍事の権威である陸軍参謀本部が編纂した史料に間違いがあるはずがない”からです。
明治から大正昭和にかけて、多くの研究者が支持したためでした。

現在、信長研究の基本資料と言われているのが信長家臣・太田牛一が記した「信長公記」です。
ここに記されている桶狭間の戦いの内容と、「日本戦史 桶狭間役」の内容が大きく異なるのです。
「日本戦史」は、江戸時代職の仮名草子「信長記」をもとに書かれたものです。
「信長記」は、「信長公記」をベースに書かれていますが、脚色や誇張が多いので現在では史料的な価値は極めて低いとされています。
本当は、どのような戦いだったのでしょうか??

桶狭間の戦いの前日の5月18日、今川義元率いる2万5000の大軍が、尾張との国境を越え、支配下に置く沓掛城に入ります。
この頃、義元の勢力は、尾張東部にまで及んでいてもともとは織田家の城だった沓掛城・鳴海城・大高城などを手に入れていました。
これに対し信長は、鳴海城の周囲に丹下砦・善照寺砦・中島砦・・・大高城の周囲には鷲津砦・丸根砦を築いて今川軍をけん制していました。
その為、沓掛城に入った義元は、すぐに家臣たちを集めて軍議に入ります。
大高城への兵糧入れと、鷲津砦と丸根砦の攻略を命じます。
しかも、
「領と出野攻略の際は、信長が助けに来られぬよう、潮の満ちる時に合わせ出陣せよ」
信長が、居城である清洲城から大高城に近い砦に加勢に来るならば、浜辺の道をとおるのが最短ルートですが、満潮時には浸水してしまうため迂回しなければならないので到着が遅くなります。
そこで義元は、満潮時を狙って出陣せよと命令したのです。
軟弱武将というイメージが強い義元ですが、愚将ではありませんでした。
この時、大高城に兵糧を入れたのが当時義元の人質となっていた19歳の松平元康・・・後の徳川家康でした。
元康は兵糧を届けると、そのまま城に残りました。
一方その頃、清洲城にいた信長は、家臣の諜報によって今川軍が鷲津砦と丸根砦を落とそうとしていることを知ります。

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大軍を擁する今川軍の襲撃は目前・・・「日本戦史 桶狭間役」には・・・
その夜、信長が軍議を開いたと書かれています。

「すぐに出陣する!!」

「今川の大軍と対峙するのは余りにも無謀
 ここは、この清洲城で籠城すべきかと存じます」

敵は2万5000!!
しかし、出陣する信長・・・!!

というのが通説でした。
しかし、「信長公記」によれば、軍議は開かなかったといいます。
雑談をしただけで家臣たちに帰る様に命じました。

「運が傾くと知恵の鏡も曇ることとはこのことじゃ
 うつけもうつけ、お館様は大うつけよ
 織田家もこれで終わりかのう・・・」by家臣

信長が軍議を開かなかった理由とは・・・??
信長は、清洲城の中に内通者が入り込んでいることを警戒していました。
敢えて何も考えていないように振る舞ったのです。
戦で一番重要なのは情報・・・そう考えていたのです。

5月19日・・・桶狭間の戦い当日。
遂に、今川軍が鷲津砦、丸根砦への攻撃を開始。
丸根砦攻略の大将は松平元康!!
兵の数はおよそ1000!!
鷲津砦には、今川軍の重臣が2000の兵で攻め入りました。
清洲城にいた信長のもとに、襲撃開始の知らせが届いたのはそれから間もなくのこと・・・
信長は飛び起きて・・・幸若舞の演目「敦盛」を舞ったと言われています。
舞い終えた信長は、「出陣のほら貝を吹け!!具足をもって来い!!」そう命じて、具足をつけさせながら湯漬けをかき込むと、馬にまたがり清須城をかけ出したといいます。
この時、信長と一緒に駆け出した家臣はわずか5人・・・信長が目をかけていた小姓たちでした。
ところが。。。向かった先は・・・??

午前7時ごろ・・・向かったのは尾張領内にある熱田神宮でした。
そして、熱田神宮に入った信長は、鷲津砦と丸根砦がある辺りを見つめていました。
そこには、恐るべき戦略が隠されていました。
丸根砦、鷲津砦の援軍に向かわす、熱田神宮に入った戦略は・・・
この二つの砦と兵を捨て駒と考えていたようです。
信長は、砦の攻防戦に勝利するつもりはなく、二つの砦を犠牲にして、今川軍本陣の兵力を減らそうと考えていたのです。
今川軍の兵力を分散させなければ、勝ち目が薄いと考えていたのです。
信長は、砦の辺りから煙が上がったのを確認し、両砦が陥落したことを悟ると、熱田神宮で戦の勝利を祈願すると、後を追ってきた雑兵と共に、再び出陣しました。

午前10時ごろ・・・
熱田神宮を後にした織田信長は、鳴海城を包囲する砦の一つ善照寺砦に入りました。
そして、ここに負傷兵たちを集結させました。
兵の数は3000ほどだったと言われています。
対する今川軍は、およそ2万5000と兵力の差は歴然・・・しかも、信長がいまだ尾張一国すらまとめ切れていない駆け出しの武将だったのに対し、義元は東海三国を支配下におさめる大大名・・・兵力、国力共に、義元が大きく上回っていたため、信長の勝利は奇跡と言われてきました。

国力の差・・・国力で考えると、必ずとも3倍ではありません。
義元と信長の国力の差は、それほど大きくありませんでした。
当時の石高は明らかになってはいませんが、1598年に豊臣秀吉が行った太閤検地によると・・・
駿河・・・15万石、遠江・・・25万5160石、三河・・・29万715石=70万石
尾張は、濃尾平野が広がる肥沃な穀倉地代であったため57万1737石、よって両者の石高の差は、それほど大きなものではありませんでした。

兵力の差・・・数字だけで見れば、織田軍・3000、今川軍2万5000。
8倍以上ありますが、大事なのはその質・・・兵の質が全く違っていました。

戦場で千人の死者があれば、武士はそのうち100人~150人程度・・・
つまり、戦場で刃を交えていた兵の多くは武士ではなかったのです。
戦を本業とする武士の割合はわずか1割程度で、9割は農民でした。
戦が始まった時だけ兵として招集していたため、当然武術の訓練などは受けていませんでした。
今川軍もその例にもれず、2万5000の兵のうち本当の戦力と言える武士は、2500ほどだったのです。
同様に計算すれば、織田軍にはわずか300ほどの武士しかいなかったことになりますが、戦国の革命児・信長にこの常識は当てはまりません。
信長には親衛隊と呼ばれる戦の専門集団がいました。
親衛隊は、家を継ぐことのできない武士や農民の次男や三男などでした。
日々軍事訓練を行っていた精鋭部隊だったのです。
桶狭間の戦いの頃には、700人から800人ほどいたと言われ、大きな戦力となっていました。
彼等は武器の扱いにも長けて、組織力も高く、織田軍は戦う気概も強かったのです。
つまり、奇跡が起きなければ覆せないほどの大きなものではなかったのです。

信長は、様々な下工作も行っていました。
その一つが、必勝祈願をした熱田神宮から善照寺砦に向かう際に、熱田の住民に白い木綿の布を竿に吊るして立てるよう命じていました。
それは、今川軍に織田軍の旗と見間違わさせ、多くの兵がいるかのように見せかけるための偽装工作でした。

10時ごろ、およそ3000の兵を率いて善照寺砦に入った信長でしたが、ここで思わぬ事件が起こります。
信長の家臣である佐々政次・千秋季忠が本体から離脱し、300ほどの兵を率いて今川軍の前衛部隊に突撃したのです。
しかも、あっけなく撃退されてしまい佐々・千秋ともに討ち死に!!
どうして二人は無謀ともいわれる先駆けをしたのでしょうか?

その理由について「日本戦史」にも、「信長公記」にも書かれていません。
一説には戦功に逸って抜け駆け??とも言われていますが・・・??
しかし、信長は厳しいので抜け駆けは思えません。
信長の命令による行動のように思えるのです。
「信長公記」には、この二人の動きを見て信長がすぐ中島砦に移ったとあります。
2人の先駆けは、信長本陣の移動をスムーズに行わせるための陽動作戦・・・囮だったように思えます。

勝つためには非情な作戦も厭わない信長・・・
また、「信長公記」には、信長と共に中島砦に異動した兵は2000足らずとあります。
残りの1000は、善照寺砦に残し置いたと思われますが、これも信長の策略でした。
後方からの敵襲に備えるため・・・そこに、織田軍の本陣が残っているように思わせるためでした。

桶狭間の戦いもいよいよ大詰め・・・
決戦当日の5月19日、前日に終わりに入っていた今川義元は、この日の朝、輿に乗って沓掛城を出陣・・・記録がなく、どこに向かっていたのかは分かっていませんが、おそらく大高城だと思われます。
そして、信長がおよそ2000の兵で中島砦へ移った正午ごろ、義元がどこにいたのかというと・・・??
「日本戦史」にはこうあります。

”織田家家臣の梁田出羽守が「今川義元が田楽狭間で休息中」という情報を信長にもたらした”

梁田出羽守は、諜報を担当していたといわれる信長の家臣です。
そして、田楽狭間とは中島砦から3キロ離れたところにあるくぼ地で田楽坪と呼ばれ、義元はここで休息していたというのです。
ところが、「信長公記」には、梁田が信長に情報をもたらしたという記述はありません。
義元が休息していた場所についても、”おけはざま山に人馬の息を休め”とあるのです。

現在は、おけはざま山にいたというのが通説です。
ただし、おけはざま山という名称の山がどこにもないのです。
おそらく、今の名古屋市緑区と豊明市にまたがる丘陵地帯(標高64.7m)の辺りだと思われます。
義元の本陣が、その丘陵のどこなのか??西側中腹にあったのでは??と言われています。
また、おけはざま山は、義元が出陣した沓掛城から大高城までの中間地点にあり、湧き水も豊富だったといわれるため、兵や馬を休ませるには絶好の場所だったと思われます。

休憩中の義元は、丸根砦と鷲津砦を落としたことで上機嫌・・・
謡を歌うなど、戦勝気分に浸っていたといいます。
信長は、その隙をつくのです。
「日本戦史」にはこう書かれています。

梁田出羽守の諜報によって義元の居場所を知った信長は、戦場を大きく迂回して義元のいる今川本陣の背後に回り込み、突然降り始めた豪雨に紛れて突撃!!
今川軍が大混乱となる中、義元の首を討ち取りました。
迂回奇襲説です。
この説が、通説でしたが・・・??
これもまた、現在は否定されつつあるのです。

というのも、「信長公記」には、信長が戦場を迂回して義元に奇襲を仕掛けたという記述はなく、さらに近年の調査により、迂回ルートを使っても今川軍に気付かれずに接近することは困難なことがわかりました。
現在有力視されているのが正面攻撃説です。

「信長公記」の記述をもとに、1982年に提唱された説で・・・
決戦当日の正午過ぎ、中島砦を発った信長は、義元のいるおけはざま山に向かって正面から進軍、途中、今川軍の前衛部隊と激突するも、これを退けて山際まで兵を進めます。
そして、義元いる本陣に、一揆に攻め入ったというのです。

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しかし、「信長公記」にも、戦いの全貌が事細かに記されているわけではないので、検証の余地はあります。
なので、その他にも側面強襲説、時間差二段攻撃説、別動隊説・・・があり議論されています。

義元の前衛部隊は、織田軍の攻撃を本陣に知らせようとしました。
しかし、信長がそれを阻止したのではないか・・・??
信長は、今川軍の連絡網を遮断していたと思われます。
その役割を担っていたのが、梁田出羽守だったのでは・・・??
情報を重視する信長が、敵の動きを把握せずに攻撃を仕掛けたとは考えにくいのです。
当時、諜報を担当する者は、敵の諜報を阻止する役目も担っていました。
梁田が今川軍の連絡係を捕殺することで、織田軍襲撃の知らせが今川本陣に届かなかったのでは・・・??
織田軍が攻めてくることを知らなかった今川軍にとっては、正面からでも奇襲だったのです。

「信長公記」には、
”激しいにわか雨が石化氷を練下撃つように降り出した
 二抱えも三抱えもあるクスノキが雨で東へ倒された”
とあります。
ゲリラ豪雨・・・風が西から東へ吹いていた・・・
織田軍にとっては追い風で、今川軍にとっては向かい風・・・
気配を隠すのに一役買っていたようです。

どうして格上の今川義元に勝つことが出来たのでしょうか??

勝因①巧みな戦術
勝因②突然の豪雨

勝因③地の利
決戦の地となったおけはざま山は、あくまでも尾張領・・・
鷹狩りなどで領内に赴くことの多かった信長には、なじみの場所・・・地理や地形も把握していました。

勝因④論功行賞
信長は中島砦からおけはざま山へと出陣する際、家臣たちにこんなことを継げています。

「敵の首や武器をとってはならぬ  
 死骸は放置せよ
 合戦に勝ちさえすれば、この場にいた者は家の名誉であり、末代までの功名であるぞ
 ひたすら励め」

武士にとって一番の武功は、敵方の首を取ることでした。
戦ののちに与えられる恩賞は、討ち取った首の数や価値で決まりました。
しかし、信長はこの戦に限ってはこれを禁じ、戦に勝ちさえすれば全員の名誉・・・全員に恩賞を与えると約束したのです。
そうすれば、味方同士の武功争いも起きません。
一丸となって打倒今川に邁進します。
そうしたワンチームの織田軍に対し、兵力を分散した今川・・・義元のいる本陣には5000ほどの兵しかいなかったのです。
そこへ、2000の織田軍が一斉に突撃!!
今川軍が慌てふためき、退却する中、義元の乗っていた輿が打ち捨てられているのを見かけます。

「義元が近くにいる・・・かかれ!!」

勝因⑤義元の誤算
そもそも、どうして義元は目立つ輿に乗って出陣したのでしょうか?
当時の武将で大名クラスで輿に乗ることが出来たのは、将軍家から許しを得た者だけでした。
高貴な身分であることを知らせるための演出だったのです。
しかし、これが裏目に出て、自分の居場所をしらせる格好の目印となってしまいました。
そして、義元を見つけた織田軍の兵たちは、周りを取り囲み一番槍をつけたのは、服部小平太!!
義元に深手を負わせましたが、最後の意地を見せる義元に膝を斬られてしまいます。
すると、毛利良勝が背後から義元に飛びついて組臥せ、遂に首を落としました。
こうして義元を討ち取った信長は、全軍を集めて勝鬨をあげ、意気揚々と引き上げていったのです。

桶狭間の戦い自体は1日で終わりました。
しかし、信長はその戦いのため、事前にこんな手まで打っていたのです。
それは、桶狭間の戦いの3年前の1557年頃・・・
信長は、織田方から今川方に寝返った戸部城主・戸部政直の筆跡を家臣に覚えさせ、戸部が信長に宛てたように見える偽の書状を書かせます。
そして、その書状を商人に扮した家臣が義元まで届けます。
書状を読んだ義元は、戸部がまだ信長と通じていると信じ、激怒!!
戸部に切腹を命じるのです。
こうして信長は、義元の貴重な戦力を削いていたのです。
信長の桶狭間の戦いは、実に3年も前から始まっていました。

信長の勝利は、たまたまではなく、用意周到に準備をしていた当然の結果だったのではないでしょうか?
そして信長は、この桶狭間の戦いの勝利をきっかけに天下人へと駆け上がっていくことになります。

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日本最大の湖・琵琶湖・・・
その東に残る430年前の城跡・・・聳えていたのは、戦国時代の覇王・織田信長の安土城でした。
今や幻となった安土城・・・革命的な城でした。

織田信長が初めて城を手に入れたのは、1544年、11歳の時・・・父・信秀から尾張・那古野城をもらいました。
18歳で家督を継ぐと、清須城に居を移し、尾張を統一!!
新たに小牧山城を築くと、織田家の宿願だった美濃攻略を果たしました。
この後、金華山山頂に岐阜城を築き、近江・北陸にまで勢力を拡大していきました。
次々と居城を移していった信長ですが、当時の戦国大名は、一つの城を居城としているのが常でした。

信長が居城を次々と移した理由は・・・
領地が広がれば広がるほど、国境地帯、紛争地帯に駆け付けるのが難しくなります。
領土の広がりに限界が来るのです。
その時その時、一番BESTなところに自分が動いていく・・・合理的、効率的だったのです。
そんな信長が、天下取りの為に新たに築こうとしたのが安土城でした。

建設地としたのが、近江にある標高199mの安土山でした。
選んだ理由は・・・
当時の信長は、尾張・美濃が基盤でした。
京都を抑えることが重要で・・・近江・安土はその中間にあったのです。
しかも、琵琶湖に接しているために、交通の便が良かったのです。

1576年1月中旬より安土城の普請が始まりました。
惣奉行として重臣の丹羽長秀を指名!!
長秀は、ほとんどの戦いに参加し、現場での統率力に長けていました。
朝廷や豪商たちとの折衝・・・政治経済の手腕もあり、信長から全幅の信頼を得ていました。
長秀はまず、仮御座所を建設。
基礎的な工事を行いました。
工事には、畿内・尾張・美濃・伊勢・三河・越前・若狭の武士と領民を動員し、京都・奈良・堺から職人たちを呼びました。
当代一流の技術者たちによる前代未聞の築城工事となりました。
革新的な安土城・・・築城かしいから僅か1か月で信長は居城を移しています。
城づくりの常識を覆した安土城!!
その革新的なものは・・・

石垣
それまでの城の土台は、土塁が一般的でした。
そこから石の城へ!!常識を一変させたのが信長でした。
一番最初に石垣を作ったのは、小牧山城!!
小牧山城以前は、石垣はありませんでした。
自然石を積み上げた野面積みですが、段々に積んで大きな石の城に・・・
これが、信長の城づくりの原型で、のちに安土城に生かされることとなります。

岐阜城では金華山から切り出した石で、より強固な石垣を作っています。
その集大成ともいえる石の城が安土でした。
1573年4月1日四人の石奉行が任命されました。
好んで使われたのが、琵琶湖の沿岸の湖東流紋岩でした。
きめが細やかで固く、石垣に適していました。
安土山から6キロ圏内で切り出したと考えられています。
「昼夜 山も谷も動くばかり」と言われるほどの空前の大工事でした。
大きな石を使うのは力の象徴でした。

しかし、空前の石垣工事には事故も多く・・・
ルイス・フロイスは「日本史」に・・・
「特別大きな石を6.7千人で引き上げていたところ、石がずり落ちて、150人以上が下敷きとなった」と書いています。

膨大な人員と時間と、犠牲を払って作られた石垣は、4年で完成・・・
それは、城郭全体に及ぶ壮大なものでした。
堅固な守りを固めたその石垣は、今も見ることが出来、高いものでは10mをゆうに超えます。
信長の家臣たちは、築城の技術を身に着け、石垣の城を作り上げていきます。
近代城郭の常識となっていきました。

堅固な安土城・・・
本丸の黒金門から信長の居る天守までは、巨石を積んだ石垣が、折れ曲がった厳重なものとなっていました。
しかし、大手道という真っすぐな180mの道があります。
敵に攻めてくれと言わんばかりの大手道・・・。
それは、正親町天皇の行幸を計画していたからだと言われています。
ところが、最後まで真っすぐではない・・・
ではどうして真っすぐな道だったんでしょうか??
大手道の周りには、家臣たちの家が建っていました。
家臣の居住エリアを攻めやすくして、信長との差を見せつけようとしたためと言われています。

1577年天主の建造が始まりました。
大工の棟梁には尾張時代から信長に仕え、熱田神宮の宮大工でもあった岡部又右エ門が任ぜられました。
8月24日に柱建て、11月3日には屋根葺きが行われたことから、工事は急ピッチで進められたことが判ります。
そして、1579年、安土城天守の外装がようやく出来上がりました。
地上6階地下1階の7階建て、最上階までの高さは30m以上、今の10階建てのマンションに相当したと言われています。
さらに平成元年からの発掘調査によると、金箔の瓦が発見されており、天守は豪華絢爛だったことが判ってきました。
派手好みな信長らしく、最上階の6階は、全体に金箔が張られ、屋根にも金の鯱が、5階は鮮やかな朱色に塗られていました。
5月吉日、この天主に信長は移り住みます。
戦国時代には櫓を作る建築技術はありましたが、御殿の役割はありませんでした。
城が武士の権力の象徴となった瞬間でした。

城の内部もまた、豪華なしつらえが・・・
立て板張りに黒漆の高級な書院造で、動植物や仏教世界、中国の故事などを題材とした障壁画が書かれていました。
中でも虎の障壁画は、当代随一の画家・狩野永徳とその弟子たちです。

1579年5月、安土城に居を移した信長は、主だった家臣たちを城下に呼び寄せます。
しかし、住み慣れた尾張や岐阜からの強制的な引っ越しによって、問題が起きます。
家臣の多くが故郷に妻子を置いて単身赴任していたからです。
彼らは慣れないひとり暮らしに困惑し、火を出してしまうこともありました。
当時の武士は、先祖伝来の土地を離れるという考えが出来なかったので・・・
信長は、故郷の家を焼いたり、壊したりして強制的に来させたりしています。

この時信長は、武家屋敷の建設と共に、安土城城下町を建設しています。
戦国時代、城はあくまでも軍事施設であり、生活の場ではありませんでした。
なので、城下町の発展もありませんでしたが・・・信長は、城下町を作りパイオニアとなっていきます。
信長は、城下町が経済の中心となることを重視した大名で、関所などを撤廃し街道を整備、それまでの街道を付け替えて、安土を経由するように変えています。
旅人は、安土で宿泊する決まりを設け、近江国での馬の売買を安土のみとしました。
安土にやってきた者は、誰でも商売をしていいという楽市楽座を制定。
これらの政策によって、城下町には人が溢れ、瞬く間に経済的な発展を遂げていきました。
信長が作り上げた近世城下町は、後世へと受け継がれていくことになります。

どうして天主5階は8角形でなければならなかったのでしょうか??
5階内部の装飾は・・・柱に金の龍、天井にも龍、壁にも龍があります。
中国の皇帝を連想されるシンボルの龍。
信長が龍のモチーフを利用したのは、日本の天皇を超える存在、中国の皇帝のような存在をイメージしていたようです。
安土城を建てた頃は、官位をすべて返還しており、実力で「天下布武」を進めていました。
本能寺の変直前も、太政大臣、征夷大将軍、関白・・・すべてを断っていました。
なので、すでに天皇を超えた存在だと思っていた可能性があります。
信長にとって安土城は、これから先のビジョンを示すシンボルだったのです。

信長の野望は、御幸の御間からも見受けられます。
天皇が安土城に行幸に来た際に使われるであろうこの場所・・・
信長の座主・天守よりはるかに低いところにありました。
これは、自分が現人神より上だということを周囲に見せつけるためだったと言います。
八角形の場所は、本来神聖な人を迎える場所とされていました。
天守5階の八角形は、信長が神であるということを示すためだったのです。
1581年9月、安土城は、5年以上の歳月をかけて完成!!
それは、信長の城づくりの集大成であり、天下人としての理想の城でした。

安土城天主台跡には、その柱を支えていた礎石・・・
天主台の大きさは、南北30m、東西25m、です。
また、南北20間(42メートル)、東西17間(35.7m)ともいわれています。
これこそが安土城最大のミステリーです。
もともと天主は、天主台と同じくらいかそれより小さいはず・・・なので、これでは天主がはみ出してしまいます。
懸け造り・・・清水寺のように柱を外側に出して支えていたと思われます。
天主台西側の礎石の列が、懸け造りのためのもののようです。
天主1回には、舞台となる「懸け造り」があり、そこから信長が現れる・・・
圧倒的な権力を見せつけるようになっていたと思われます。

豪華絢爛な天主・・・史上空前の城で・・・
1581年7月15日、城を数千ものちょうちんでライトアップ!!
盂蘭盆会で見せたサプライズ!!
闇夜に浮かぶ、壮麗な城・・・誰もが信長の存在を恐れ、称えたに違いありません。

天主は後に天守となります。
天の主は信長だけ・・・そういったためだと言われています。
天の主・・・誰の下にもつかない唯一無二の信長・・・独創的な信長の安土城は、その後の城郭建築の常識となっていくのです。

信長の夢の城・安土城・・・
地上6階地下1階・・・神となり、新しい時代を作ろうとしていた信長・・・
しかし、1582年6月2日、明智光秀の謀反によって、その夢は潰えるのです。
その13日後・・・主を失った安土城もまた、炎に包まれます。
火をつけたのは、信長の次男・織田信雄とも、光秀の娘婿・明智秀満ともいわれています。

深窓は未だ闇の中・・・安土城は、多くの謎を残したまま、夢幻の城となったのでした。
僅か9か月の事でした。


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織田信長は、桶狭間の奇襲攻撃において、熱田神宮の神殿に願文を納め、戦勝祈願したと言われています。

神宮の門を出ようとしたその時、二羽の白鷺が、敵方向へ向かって旗先を飛び去って行きました。
これを見た信長は、熱田神宮の加護を示す吉兆と断じ、家来を奮い立たせました。

これは、信長の作戦にのっとって、熱田神宮の大宮司が一芝居打ったのだとか。

だって、信長は、信じていないでしょう?神を!!

でも、このおかげで、家来たちは怯えを払い、士気を鼓舞して戦うことが出来ました。

このように、戦場は、生と死の極限状態の世界です。
侍たちは、常に、死と背中合わせに生きているのです。
これを払拭するために、理屈を超えた神秘的な、呪術的なものに縋ろうとしました。

そう、勝つことが出来るなら、どんなものにでもすがりつき、縁起を担いだのです。


出陣にあたっては、大将は様々な儀式を執り行いました。
代表的なのが、「三献の儀式」
出陣の門出を祝う酒の肴として、三つ重ねの盃と一緒に、三方に乗った打鮑(打つ)・勝栗(勝つ)・混布(喜ぶ)が大将の前に置かれます。
つまり、「打ち勝って喜ぶ」と縁起を担いだのです。

この祝い酒を飲み終えると、右手に弓をとり、左手に軍配を開きもち、「えいえい」と勇ましく叫び、兵が「おう」と声を和して応じました。


また、出陣の3日前から正室・側室をはじめ、女性を近付けることは禁忌とされていました。
女性に接すれば、未練が残り、精力を消耗し、戦場での働きに差支えがあるからです。

出陣の日取りは、吉日を選び、凶日とされる往亡日は避けられました。
往亡日とは、文字通り、亡びに往く日のことで、陰陽家は、春は7、14、21日、夏は8、16、24日、秋は9、18、27日、冬は10、20、30日がこれに当たりました。

方角は、死者を北枕にするところから、北を避け、出陣の方角を東、または南に当たるようにしました。

大将は、顔が東か南に向くように床几に腰を下ろし、武具も同様に置きました。


なんて忙しいんでしょう。あせあせ(飛び散る汗)
ほんとに戦ってる???

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