日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:石田三成

島津義弘の賭け (中公文庫) [ 山本博文 ]

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感想(4件)



日本の近代化の始まりとなった明治維新・・・その大改革の位置役を担ったのが、西郷隆盛などを擁した薩摩藩です。
しかし彼らの活躍は、あの出来事がなければなかったかもしれません。
1600年9月15日、徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍併せて8万の大軍が激突した関ケ原の戦いです。
子の天下分け目の合戦で、西軍の敗戦が決しようとしたとき、よう軍の主力部隊に突き進む隊がありました。
薩摩の島津義久率いる島津軍!!これが、後世に名を残す島津の退き口です。

島津義弘は、室町時代後期の1535年に九州の名門・島津家の次男として生まれました。
義弘は、長男・義久に代わって島津軍を率いて多くの戦に出陣。
島津の旧習制覇に向けて、八面六臂の大活躍!!
猛将としてその名を全国に轟かせていました。

秀吉の九州征討によって、薩摩国・大隅国・日向国(一部)の62万石になってしまっていたのですが・・・
当時は兄の義久が、拠点である薩摩国を、弟・義弘が大隅国を治めていました。
秀吉の命で、義久が大隅を、義弘が薩摩を治めることになったのですが・・・
それは、義弘の活躍ぶりを秀吉が気に入り、島津の代表として秀吉が扱ったのだといいます。
弟・義弘が正統の当主となったわけではないのですが・・・この微妙な関係で、義弘に大きな試練が・・・!!

1600年、豊臣秀吉亡き後、虎視眈々と天下を狙う五大老筆頭の徳川家康と、秀吉の跡継ぎの石田三成との争いが激しくなります。
一触即発の中、天下分け目の決戦に向けた激動の日々が始まりました。
先に動いたのが、大坂城にいた家康でした。
家康は五大老のひとりである上杉景勝に謀反の疑いがあるとし、諸大名に出陣を要請!!
自ら会津の上杉討伐に向け、京都の伏見城に入りました。
しかし、会津に遠征することは、政の中心であった髪型を留守にすることになり、家康にとっては危険なことでした。
家康によって佐和山城に隠居させられていた石田三成が、家康が神永を留守にするのに乗じて挙兵するかも知れなかったからです。
そこで、上方の重要拠点である伏見城を奪われないように万全を喫します。
家康の重臣・鳥居元忠を城に残し、城の守りを依頼したのは島津義弘でした。
家康が義弘に依頼したのは、猛将としての腕を見込んでのことでした。
秀吉が行った朝鮮出兵での活躍は、聞きしに勝るものがありました。
当時日本は苦戦していましたが、義弘は、秀吉亡き後の泗川城の戦いで、5000の兵で数万の明と朝鮮の連合軍を打ち破ります。
これによって、日本軍の撤退が容易になったのです。

こうして家康から伏見城の守りを依頼をされた義弘ですが、これを受けると豊臣の世を守ろうとする三成を敵に回すことに・・・。
義弘の返答に島津の運命がかかっていました。

「家康殿の命とあらばお受けいたしたいが、家中の者と相談して正式にお答えしたい。」

と、即答を避けたものの、義弘には家康の頼みを断れない大きな借りがありました。
それは、前年の事件・・・
義弘の子・忠恒が、島津家の重臣で都城8万石の領主となっていた伊集院忠棟を茶席で手打ちにしてしまったのです。
それは、主君である島津をないがしろにした忠棟の行いに業を煮やしてのことでしたが、秀吉のお気に入りを殺してしまったことで三成が激怒!!
島津と伊集院との確執は収まらず、殺された忠棟の子が、都城で反乱を起こすという事態に発展してしまいました。
それによって、島津家は苦境に陥りましたが、その際、和睦を図ってくれたのが家康だったのです。
熟慮の末、家康のために、伏見城を守ることにした義弘。
家康は、1600年6月に会津に出陣!!
家康の出陣を待っていたかのように、石田三成が動きます。
7月半ば、家康のいなくなった大坂城に戻ると大軍を集め、打倒家康を掲げて蹶起しました。
そうして西軍が大坂で挙兵したころ、義弘は200の軍勢と共に京都にいました。
遅かれ早かれ西軍が伏見城に攻め込んでくるのは明白でした。
そこで義弘は、家康との約束を守るために、伏見城に入城を申し入れます。
ところが、鳥居元忠は、あろうことか義弘の入城を拒絶したのです。
鳥居はどうして義弘の入城を拒んだのでしょうか?

これは、家康と義弘とのあくまでも口約束であって、文章が存在していませんでした。
しかも、外様大名の義弘が裏切ることを恐れたからです。
聞いていなかった鳥居元忠によっては当然のことでした。
そして、この事態が義弘に危機的状況をもたらします。
周囲は伏見城を攻撃しようとする西軍で埋め尽くされていたのです。
戦おうにも兵は僅か200!!
そこで、義弘は生き残るために苦渋の決断をします。
一転して、西軍に組することでこの危機を脱しようとしたのです。
そして義弘は、戦うからには200の兵では島津の名が廃ると、国元に至急兵を送るように申し入れます。
ところが、薩摩からの援軍はなかなか到着しません。
家康を恐れた兄・義久が兵を出すことを拒んだのです。
兄から見放されてしまった義弘・・・そんな時に駆け付けてくれたのが、義久の甥・島津豊久でした。
こうして義弘を慕うものが次々と集まり、軍勢は1500ほどに・・・。
それでも兵は足りません。
天下分け目の関ケ原の戦いは、1か月後に迫っていました。

1600年8月11日、石田三成は東軍の進軍に備えるべく、6000の兵を美濃の大垣まで進めます。
1500の兵の島津義弘も三成に従い布陣しました。
そして、8月22日、三成の命を受けた島津軍は、最前線の墨俣につきます。
すると翌日、状況が一変!!
東海道を登ってきた東軍の先鋒隊が、岐阜城を急襲!!
たった1日で落城させてしまいました。
また、東軍の黒田長政、藤堂高虎の軍勢が長良川西岸に押し寄せ、西軍の先鋒隊を打ち破り進撃!!
大垣から進軍していた三成本体にも危機が迫ります。

そこで三成は、墨俣から少し離れた佐渡で軍議を開きます。
その内容は、義弘にとって思いもよらないものでした。
それは、大垣への撤退・・・しかも、義弘に・・・
「義弘殿が一緒だと心強い、ご同行願おう!!」by三成
逃げたら、最前線の墨俣にいる島津軍は置き去りとなり、東軍が攻撃してきたらひとたまりもありません。
納得のできない義弘は、三成を突っぱねます。
すると三成は、そのまま大垣へと戻ってしまいました。
義弘は、墨俣に布陣する島津軍を救い出すべく出陣!!
無事島津の兵を撤退させたのです。
その後三成は義弘に詫びますが、このことで確執が生じたともいわれています。
それから20日後の9月14日、家康をはじめとする東軍は関ケ原に進軍!!
一方三成は笹尾山に布陣!!
島津軍はその近くに軍を構えます。
両軍が布陣を終えたのは、15日早朝!!
いよいよ決戦の火ぶたが切られようとしていました。

1600年9月15日朝・・・深い霧が立ち込める中、美濃国関ケ原で東軍7万VS西軍8万の大軍が対峙しました。

島津義弘率いる島津軍も、石田三成の陣の近くに布陣します。
そして、午前8時・・・東軍・井伊直政軍が西軍・宇喜多秀家軍に向かって発砲!!
一気に戦闘が始まりました。
しかし、義弘の島津軍は動こうとしません。
まるで東軍と西軍との戦いを傍観しているかのようでした。
その後、松尾山に陣取った小早川軍が東軍に寝返り、大谷吉継軍を背後から急襲します。
この小早川の寝返りで西軍は劣勢となっていきますが、義弘の軍は動きません。
島津軍の出撃をを今か今かと待っていた三成は、義弘の元へ伝令を送ります。
しかし・・・義弘は出撃の命を出しません。
そのうちに小西行長軍、宇喜多秀家軍の敗走が始まりました。
逃げ惑う兵たちが右往左往、大混乱が・・・!!
にもかかわらず、島津軍は動きません。
そのうち、しびれを切らした三成自らやってきて、出撃を促します。
しかし、義弘に代わって甥の豊久は答えます。
「人のことなど構う暇はござらん!!」

どうして義弘は島津軍を出撃させなかったのでしょうか?
島津軍は数が少なく、二番備え・・・先陣の次に攻め入る軍勢だったので、戦機を見極めようとしていた義久・・・。
そして、戦機が訪れなかったというのが本音でしょう。
数の少ない島津軍は、むやみに出撃すれば命を落とすことは確実でした。
そこで、少しでも勝てる機会を待っていたのですが、とうとう来なかったのです。

義弘は後に語っています。

もし、島津軍に5000の兵があればあの戦、勝っていたものを・・・!!

東軍の優勢が明らかになると、出撃しなかった島津軍にも容赦なく攻撃が・・・!!
島津軍の前方には、見渡す限り東軍の兵!!
背後には伊吹山が立ちはだかっていました。
島津軍は絶体絶命の危機に陥ってしまいました。
義弘は家臣たちに告げます。

「老武者のわしには、伊吹山の泰山は越え難し。
 たとえ討たれると言えど、敵に向かって死すべし!!」by義弘

数々の危機を乗り越えてきた義弘も、この時は死を覚悟しました。
そんな義弘を甥の豊久は諫めます。
豊久の想いは、島津軍全員の思いでもありました。
なんとしても義弘を生きて薩摩に・・・!!

石田三成が配送を始めました。
東軍は、ここぞとばかりに西軍に襲い掛かり、島津軍も四方八方を囲まれ絶体絶命の危機に・・・!!
すると義弘は、
「皆の者、退却する・・・!!」
義弘は、関ケ原を抜け出し、国元・薩摩に戻ることを家臣たちに告げます。
しかし、退却すると言っても1500の島津軍が、東軍だらけの関ケ原でどうやって逃げるのか・・・??
伊吹山を背にした島津軍の退却ルートは4つ。
東海道を幾ルートは、薩摩とは反対方向なので却下。
中山道を西に進む?北国街道を北に進む?
伊勢街道を南に向かう??
義弘の退却路は、伊勢路から・・・!!
しかし、伊勢街道は、家康直臣の軍勢がいる最も難しいルートでした。

義弘はどうして伊勢街道を選んだのでしょうか?
中山道は小早川軍1万5000。北国街道は黒田・細川軍など2万。。。伊勢街道ルートは1万にも満たず、敵兵が少なかったと思われます。
合理的で冷静な判断でした。
しかし、精鋭ぞろいの家康の部隊を突破することは容易い事ではありません。
ここから、島津の退き口という歴史に残る壮絶な退却戦が始まるのです。
少数の島津軍はどんな戦法を使ったのでしょうか?

穿ち抜け・・・とは、島津軍が得意とする戦法で、錐で穴をあけるように敵の一点を集中攻撃をして突破する、至近攻撃です。
まず、島津軍に立ちはだかったのは猛将の福島軍!!
これを突破します。
”孫子”には、死に物狂いの兵には近寄るなとあります。
これが当時の常識だったので、福島軍が道をあける形になってしまったようです。
さらに、東軍を突き進んでいく島津軍。
その激闘を東軍の兵のひとりが書状に残しています。

まず少ない島津軍は、東軍に飲み込まれながらこれを突破!!

まさに必死の戦いで敵陣を進んだ島津軍は、進路を南にとります。
伊勢街道を目指します!!
すると、そこに敗走する三成を追う家康本隊と遭遇してしまいました。
しかし家康軍は、島津軍をやり過ごし、先頭は起きませんでした。
一説では、この時義弘は、家臣を家康に差し向けこんな口上を述べさせたといいます。

「島津兵庫入道義弘、こたび はからずも御敵となり、戦い利あらずして ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へと帰り申す。
 わが心事については、後日改めて言上つかまつるべし。」と。

本意ではない戦いではあった・・・と。

生き延びて、このまま薩摩に帰ったとしても、西軍として戦った島津家に未来はありません。
ひとまず家康に礼を尽くしておく・・・義弘のしたたかな作戦だったのかもしれません。
関ケ原の戦いで、西軍の敗色が濃厚になる中、薩摩に変えるために敵中突破し伊勢街道を突き進む島津軍!!
東軍も島津軍を逃してなるものか!!
と、徳川四天王・井伊直政、闘将・本多忠勝による追撃が始まりました。
その際、島津軍の繰り出した作戦は・・・??捨て扞でした。
殿の兵が残って、討ち死に覚悟で戦って他の兵を逃がすという決死の戦法です。
島津軍は、兵の命を犠牲にしながら、穿ち抜けを何度もしたと思われます。

「明良洪範」によると・・・東軍にも思わぬ被害が・・・
井伊直政が右肩に被弾し落馬、重傷を負いました。
島津軍も、甥・豊久が命を落とします。まだ31歳の若さでした。
島津軍は、多くの命を失いながら、かろうじて伊勢街道を逃げ延びます。
島津軍が関ケ原から20キロほどの駒野坂に達したのは、午後7時ごろのことでした。
この時、島津軍の兵の数は、100にも持たなかったといいます。
しかし、薩摩はまだはるか先・・・
鈴鹿峠を抜けるとき、東軍の追撃だけでなく落武者狩りにも遭ってしまいます。
さらに、困難を極めたのが、食料の調達でした。
足りなくなった時は、軍馬で飢えをしのいだといいます。
島津軍がなんとか大坂に到着したのは、5日後の9月20日。
兵の数はさらに減り、70人余りだったと言われています。
そして、大坂から薩摩へ・・・!!

東軍の勝利に終わった関ケ原・・・西軍として参戦した島津家の事情を聴くために、島津義弘の兄で実権を握る義久に出頭を命じます。
しかし、義久はこれを拒んで防御を固めます。
対決姿勢を崩さない島津家に家康は、9月30日、九州の諸大名に島津討伐軍の結成を命じます。
ところが、家康はいつまでたっても攻撃の命を出しませんでした。
実際、島津家と戦うことによって混乱し、反徳川が蹶起する可能性があったからです。
結局家康は、島津討伐を断念することに・・・。

驚くことに、島津家の本領安堵が決定!!
62万石のままになります。
同じく西軍として戦った毛利家は、121万石から37万石に、四国の長宗我部家に至っては、領地没収という憂き目に・・・。

家康は、島津家に対して異例にも寛大でした。
この時、重要な役割を担っていたのは、島津の退き口で負傷した井伊直政です。
関ケ原から半年、直政は島津家に書状を送り、和睦を成立させるために自分が働くことを伝えます。

井伊直政は、島津軍の強さを身に染みて知っていました。
なので、戦いたくはなかったのです。
おまけに、南九州まで行くということは、大変で、上杉や毛利とも和睦できていない今、何が起こるかわからなかったので、島津との和睦を進めました。
関ケ原の戦い前と変わらず本領安堵を認められた島津家・・・
さらに、義弘の助命を勝ち取っています。
これ以上ない和睦でした。
これによって、島津家は生き残り、雄藩として江戸時代を生きていく基礎となりました。

無謀と思われた島津の退き口は、結果として薩摩藩を本領安堵へと導きました。
しかし、家康にとって島津家を処分できなかったことは、大きな心残りだったともいわれています。
そして、その家康の心残りが後に災いをもたらします。
それは、関ケ原の戦いから267年後のこと・・・家康が築いた江戸幕府は、その家康が許した島津家の薩摩藩
ら討幕派によって終わりを迎えることになるのです。

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1600年9月15日、関ケ原の戦い・・・!!
勇名をとどろかせたのは島左近!!
石田三成の軍師として知られた天下の猛将です。
その有志は、戦場で対峙した敵からも称賛されました。
しかし、左近の実情は謎多き人物です。

江戸時代に囁かれた言葉・・・
 
三成に過ぎたるものが二つあり
         島の左近と佐和山の城

と、天下の猛将として後世に知られた知られた島左近。
どうして左近は三成に仕えることとなったのでしょうか?
ある時、秀吉は4万石の大名となった三成に、「さぞ、多くの家臣を召し抱えたであろう。」と聞いたところ・・・。

「島左近ひとり召し抱えました。」by三成
「左近は、世に聞こえたる者・・・
 そちの元に少禄でどうして奉公することができようか。」by秀吉
「4万石の半分を分かち、2万石を与えました。」by三成
これには秀吉も驚いたといいます。
三成の軍師として知られた島左近。
左近の実情は資料が少なく、これまで知られていませんでした。

しかし、2016年大きな発見あがりました。
左近の直筆の書状が大阪で発見されたのです。
名前が嶋左近清興と、実茗が分かっただけでも大発見でした。
1590年7月・・・北条氏滅亡直後に書かれた島左近の書状です。
佐竹義久に宛てた手紙には・・・
検地の実施、兵糧米の長州などの統治方法が記されていました。
緻密な政治的折衝までやっていた・・・左近の姿が、初めて明らかになりました。

豊臣秀吉によって北条氏が滅亡・・・
代わりに関東に転付したのが徳川家康です。
豊臣政権最大の領地を有する家康・・・その抑えを期待されたのが常陸の大名・佐竹氏でした。
早い段階から家康対策として、佐竹氏を味方にしておく・・・。
家康を抑え込むことが大問題で、早くからその問題を意識していました。

関ケ原の戦いの2年前・・・
1598年8月18日、左近と三成の運命を大きく動かしたのが、豊臣秀吉の死去でした。
この時、秀吉の後継者・秀頼は僅か6歳・・・
豊臣政権の実力者・徳川家康と石田三成は日に日に対立していきます。
初めて左近は、家康攻略を三成に進言します。

左近の家康戦略①
石田の家を悪む人々が、徳川に心を寄せている・・・
敵の勢力が大きくなる前に討つべし!!と。
左近の作戦は・・・
家康の領国は関東で、兵を動かすのは難しい。
一方、三成に味方する人々は畿内に多く、兵を動かしやすい。
上杉や佐竹と組み、家康のいない関東を攻撃すれば・・・家康打倒など容易い!!と。

しかし、三成は次期尚早と、左近の策を採用しませんでした。

左近は、「どんなに卑怯な手を使ってでも勝ちたい!!」場合によっては暗殺も辞さなかったのです。
しかし三成は、豊臣政権の重鎮であり、卑怯な手段で敵を倒すのは如何なものか??と、思っていたようです。

三成と家康・・・二人の対立の発火点となったのが、1599年閏3月の七将襲撃事件です。
豊臣政権の重鎮、前田利家の死んだ夜、不満を募らせていた加藤清正をはじめとする7人の武将が大坂の石田邸を襲撃!!
三成は大坂から伏見に逃れ、九死に一生を得ます。
しかし、この事件の責任をとり、三成は居城・佐和山城に逼塞を命じられたのです。
三成失脚!!
しかし、左近は、家康攻略の好機と見ていました。

左近の家康攻略②
左近の作戦は・・・
三成の失脚で家康は油断している・・・
この機に乗じて、佐和山城の兵8000を率いて、家康のいる伏見城に攻め上ります。
家康邸を包囲し、一気呵成に攻めれば、攻略など容易い・・・

しかし、またもや三成は左近の策を却下!!

左近の家康戦略③
1600年6月、家康は上杉討伐のために大坂城を出陣!!
この時、家康は東海道で江戸に向います。
左近は、家康は近江の要衝・水口に宿泊・・・夜討ちをかけようと進言します。
これに応じた三成は、すでに長束正家と申し合わせ討つ手はずである・・・と。
長束正家は、三成と同じ五奉行のひとり・・・
この機を逃してはならない!!
左近は3000の兵を率いて出陣!!
しかし、攻略を事前に察知していた家康たち一行は、水口に泊まらず通過していました。

畿内脱出を果たした家康が江戸に到着したのは7月2日。
同じ日、近江・佐和山で大谷吉継らと共に挙兵!!
そしてここから左近の新しい家康攻略が始まろうとしていました。

上杉討伐に出陣した家康の好きを狙って挙兵した石田三成。
この時、三成の戦略とは・・・??
家康は背後に上杉、佐竹という敵を抱えている。
僅か3.4万の兵で上方へ20日かかる道を上洛するのは難しい・・・
例え上洛しても、尾張と三河の国境で討ち取れる・・・
これは、天が与えた好機である!!と。

三成は、西軍を尾張と三河の国境付近に配し、ここで上洛する東軍との決戦を構想していました。
8月8日、佐和山城を出陣した三成は、大垣城、岐阜城を攻略、美濃の大名集を味方につけることに成功!!
後は、清須城の開城が急務でした。
清須城の城主は、三成を襲撃していた福島正則でした。
正則は、上杉討伐のために留守で、留守を預かる老臣は、会場要請に応じず説得工作は難航!!
そのため、三成は清須城に近い大垣城に本陣を構えました。

この時・・・左近には秘策がありました。
”今度の合戦 尾張の熱田を本陣にして、某が先手となり 一戦仕るべく候”
左近は三成に本陣を熱田に置くべきだと進言したのです。
熱田神宮の門前町として栄えた熱田・・・
江戸時代、東海道最大の宿場町でした。
東海道のルートは、熱田から桑名までが唯一の海の道・・・七里の渡しでした。
当時、熱田の辺りは干潟でした。
当日の潮の流れは・・・干潟を徒歩で渡る100㎝を下るのは、午前7時から10時までに限られています。
もし、熱田に布陣すれば、干潟が自然の防御となり、西へ向かう敵の大軍勢を食い止めることができるのではないか??
しかし、左近の進言は、またしても三成に採用されませんでした。

三成が大垣城に本陣を構えた8月11日、東軍は岡崎に到着。。。
難所とみられた熱田を過ぎ、清須城に入城します。
東軍が清須城に入ったことで、三成の東軍迎撃策は崩れてしまいました。
東軍の進軍を迎撃する西軍・・・しかし、各地で撃破され・・・岐阜城も陥落・・・
東軍には、島津や宇喜多が集結・・・!!
杭瀬川を挟んで布陣します。
9月14日、西軍に衝撃が走ります。
東軍本陣の赤坂に、金色の扇を模した馬印が・・・家康が到着したのです。
東軍総大将・家康の突然の登場に、揺れる西軍・・・
左近は最期の戦いに・・・!!

関ケ原の戦いの前日・・・9月14日正午・・・
西軍本拠地・大垣城の4キロ先の赤坂に家康が着陣!!
動揺が広がる中、軍議が開かれました。
そんな中、左近は・・・。
「このような時には、戦を致し、兵に勇気をつけなければ、味方は敗軍に及ぶべし」と。
これこそ、左近の究極の家康攻略でした。
そして、三成は、左近の進言を受け入れます。
左近は500の手勢を率いて大垣城を出陣!!
目指すは家康本陣の赤坂!!
その間には、杭瀬川が流れていました。
この川を境に両軍が布陣・・・杭瀬川の戦いです。

埼玉県行田市にある忍城・・・
城内には、不思議な関ケ原合戦図屏風があります。

sekigahara
全国でも極めて珍しく、こちらは「杭瀬川の戦い」です。

どうして、関ケ原の戦いと同じ大きさで書かれているのか??
この戦いこそが、その後を決める大切な合戦だったのでは??



 sekigahara2






「杭瀬川の戦い」では、右上に家康本陣の赤坂、左下には西軍陣地が書かれています。
左近は、杭瀬川を渡ったところで、東軍を挑発!!
東軍が突撃開始!!
いったん退却する左近!!
西軍陣地へ攻め込む東軍!!
これこそが、左近の狙いでした。
河を渡ってきた東軍を待っていたのは、西軍の一斉射撃でした。
左近が猛攻をかけます。
この時、東軍の名のある武将、30人余りを討ち取ったとされます。
慌てた家康は、家臣の井伊直政、本多忠勝に撤退を命じます。
戦線の拡大を恐れたためともいわれています。

天下分け目の前日に行われた「杭瀬川の戦い」・・・。
既にこの時、関ケ原の戦いは始まっていたのかもしれません。
ひとまず勝った左近・・・次の一手は・・・??

この機を逃さず夜襲をかける??
しかし、百戦錬磨の家康も夜襲を警戒しているであろう・・・。
関ケ原へ転進する・・・??

1600年9月14日夜・・・
西軍最後の軍議で、左近は主張しました。
「今夜、夜襲をかけるほかない!! 
 敵に勢いをつけさせぬうちに、敵をたたくことこそ肝要である!!」
しかし・・・三成は関ケ原への転進を決断!!
そこには、小早川秀秋の動向が大きかったと思われます。

三成が大垣を出て関ケ原へ向かったのは、秀秋の謀反が露呈したため、その動きを封じるため・・・と!!
秀秋が裏切れば、大垣城が危ない・・・左近は、三成の意見に従い、関ケ原への転進が決定します。
9月15日未明・・・西軍は、無事に関ケ原へ転進。
それを追い、東軍も移動!!
東西両軍15万!!
いよいよ天下分け目の合戦の幕開けです。
左近は三成の先鋒大将として最前線で奮戦!!
左近の戦いを目の当たりにした者たちはいう・・・

左近が率いた兵士たちは、皆えりすぐりの物ばかりで、槍を合わせるとさっとのき、追撃するものを陣近くまで引き寄せ一気に殲滅するという手立てであった。
今思い出しても身の毛がたち、冷や汗の出る思いである・・・と!!

しかし、左近は乱戦のさ中、銃弾を負って重傷。
これによって左近の隊が崩れます。
これを見逃さなかったのが、松尾山の秀秋です。
島左近の陣が崩れると、秀秋は、かかれ!!と命じました。
此の一撃がきっかけとなって西軍は総崩れ・・・。
史上最大の合戦、関ケ原の戦いは僅か半日で終了したのです。
西軍は敗れ去りました。
最前線で戦った島左近は、関ケ原の戦場に散ったのです。
享年61歳でした。
そして、その凄まじい戦いぶりは、後々まで語り草となりました。

左近は本当に関ケ原で戦死したのでしょうか??
京都教法院には、島左近の墓があります。
そこには寛永9年6月26日没と書かれています。
これによると、関ケ原の後生き延びて、32年後に亡くなったことになります。

左近が生き残ったという伝説は、全国各地に残っています。
江戸時代を通じて武士の鑑と称えられた島左近。
左近の対する人々の想いは伝説となり、今もなお生き続けているのです。

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戦国の世を生き抜き、齢62にして天下人となった徳川家康。
それからおよそ10年・・・天下統一の総仕上げとする最後の戦いに挑みます。
大坂の陣です。
難攻不落の大坂城を2度にわたる合戦で攻略・・・豊臣家を滅亡へと追い込むのです。
しかし・・・炎に包まれたその城には、家康最愛の孫・千姫がいました。
その生涯は悲劇に満ちていました。

徳川家康の孫娘・千姫は1597年4月11日に京都伏見で生まれます。
父・秀忠、母はお江です。
誕生の地・御香宮神社には、貴重な品が・・・贅を尽くした神輿が残っています。
これは、千姫の初節句に寄進したものです。
その重さは2トン・・・江戸時代から昭和35年まで、祭りで実際に担がれ、人々に親しまれてきました。
そこに込めた父・秀忠の思い通り、健やかに育った千姫・・・。
しかし、千姫の行く先には数々の悲劇が待ち受けていました。

①政略結婚
千姫が生まれた頃、天下を治めていたのは豊臣秀吉でした。
祖父・家康は五大老のひとりとして豊臣政権を支える一大名にすぎませんでした。
そんなある日・・・病に伏していた秀吉に、家康はこう言われます。

「徳川殿の孫娘を秀頼の正室に迎えたい。」

秀吉は、秀頼との婚姻を持ちかけたのです。
そこにはある思惑がありました。
秀吉は、秀頼と千姫を結婚させることで、自分が死んだ後も家康を豊臣家に従わせようとしたのです。

二人の婚礼を待たずに・・・
1598年8月18日、秀吉死去。。。
その後を狙って天下取りに動いたのが徳川家康でした。
豊臣家に忠義を尽くす石田三成と激しく対立!!
そして・・・秀吉の死から2年後・・・関ケ原の戦いが起こります。
戦いに見事勝利した家康は・・・3年後に・・・1603年に征夷大将軍となります。
これによって、豊臣家の五大老から天下人へ・・・!!
徳川の世が訪れたのでした。
そんな中、家康は秀吉との約束を果たすのです。

孫娘・千姫と、豊臣秀頼との縁組です。
この時、秀頼11歳、千姫は7歳になっていました。
どうしてここに来て千姫を豊臣家に嫁がせたのでしょうか?
家康は、秀吉との約束を守ることで、豊臣家を尊重しているとアピールしたかったのです。
淀の方・・・豊臣家に忠誠を誓っていた大名たちの多くが、徳川家はまだ豊臣の一家臣だと思っていました。
彼等は、秀頼さまが成人すれば、家康は政権を返すと思っていたのです。
そんな豊臣恩顧の大名達を納得させるためにも、
豊臣家と良好な関係を保っていると見せたかったのです。

1603年7月28日、千姫、伏見から大坂城に向かいます。

この時、千姫にお供した船は、1000艘以上・・・
前田利長、細川忠興、黒田長政が警護を務めるなど、盛大な輿入れでした。

祖父・家康の思惑で、僅か7歳で豊臣家に嫁いだ千姫。
嫁ぎ先の大坂城の暮らしは・・・??
姑となった淀の方が教育しました。
豊臣家にふさわしい最高の教養を身に着けるために・・・!!
我が子のように幼い千姫を養育しました。

しかし・・・千姫の幸せは長くは続きませんでした。
祖父・家康の思惑は・・・??
家康は・・・上洛した際に、秀頼に二条城にまで来るように要求・・・
秀頼が求めに応じて対面します。
久し振りの秀頼に驚きます。
19歳になった秀頼は、身長190㎝以上の聡明な男に成長していたのです。
この時、家康70歳。。。!!
徳川家安泰のために、豊臣家を潰しにかかります。

1614年11月大坂冬の陣!!
この戦いが千姫の運命を大きく変えるのです。

②夫・秀頼との死別
秀頼を総大将とする豊臣方は、全国から寄せ集められた浪人を含め15万!!
対する徳川方は20万で大坂城を包囲!!
兵の数では劣りながらも善戦する豊臣軍!!
徳川方は、巨大な堀を前に攻めあぐねていました。
そこで・・・和睦に持ち込もうとしますが、豊臣方がこれを拒否!!
徳川方が放った砲弾が淀の方のいた御殿を直撃!!
お付きの者が死傷したことで、淀の方がおびえだし、一転して和睦を受け入れるのです。
和睦の条件は、秀頼の領地を安堵する代わりに、大坂城の堀の一部を埋めるというものでした。
しかし、家康の策略により、堀の殆どを埋められてしまいました。

すると家康は、防御力が落ちた大坂城を一気に攻め落とそうとします。
1615年5月大坂夏の陣!!
総勢5万5000の豊臣方。
それを15万という兵力で大坂城を包囲!!
数の上で一方的に勝る徳川軍が、豊臣方の武将を次々と討ち取っていきます。
そして豊臣方の立て籠もっていた城が炎上!!
中の千姫たちに危険が・・・!!
落城寸前!!
千姫は、火の手を避けるために、秀頼や淀の方、お付きの者たちと糒櫓に避難します。
侍女たちは、この時、櫓から千姫を逃がそうとしていました。
それを察してか、淀の方は千姫の振袖を膝で押さえていたといいます。

が・・・大野治長が、秀頼と淀の方の助命嘆願の為、千姫を家康の元へ向かわせたといいます。
豊臣家のために城を出たのです。

夫秀頼らの助命嘆願のために、大坂城を出て茶臼山に向かった千姫・・・。
豊臣家の命運は、千姫に託されていました。
千姫は、徳川方から攻撃されないように葵の御門入りに衣を身にまとっていました。
そして、二の丸を出たところで・・・徳川方の坂崎直盛に出会います。
この坂崎の護衛によって家康のいる本陣に・・・!!

しかし、その判断は、秀忠に任せると家康は言い出しました。
父・秀忠の岡山砦に向かう千姫。
そして、秀頼と淀の方の助命嘆願をしますが・・・。

「なぜ、秀頼と共に自害しなかったのだ??
 夫を置いて一人城を出るとはどういうことじゃ!!」

と、激怒しました。

千姫の助命嘆願が受け入れられることはなく、5月8日秀頼と淀の方は大坂城の中で自害・・・豊臣家滅亡。
燃え上がる大坂城が見えた千姫・・・二人の自害を聞いて、ただただ泣き崩れたといいます。

家康は、徳川家が権力を掌握するためには、豊臣家を滅ぼすしかないと考えていました。
豊臣家と運命を共にしようと思っていた千姫は、自分だけが生き残ってしまったことに苦しみます。
病に伏せる千姫・・・。

大坂の陣の後、江戸に戻った千姫は、江戸城北の丸にあった御殿で暮らし始めましたが・・・。
夫・秀頼を救えなかったことで心に大きな傷を負い、病に伏せるようになります。
家康は・・・再婚相手を探すことにしました。
候補に挙がったのは・・・
大坂城から千姫を連れ帰った坂崎直盛。
家康は、千姫を助けたものには、千姫を嫁にやると言っていました。
ところが・・・この約束を反古にしてしまいます。
1616年正月・・・鷹狩りに出かけた家康は突然病に・・・駿府城で床に伏せっていました。
多きの見舞客の中には、孫娘・熊姫も・・・熊姫は、息子・本多忠刻とやってきていました。
忠刻は、桑名藩主・本多忠政との間にできた嫡男で、眉目秀麗と評判でした。
そんな忠刻に・・・家康は忠刻の祖父・忠勝(徳川四天王)を思い出しました。
坂崎直盛は、豊臣家五大老・宇喜多家の出身でした。
対して本多忠刻は徳川四天王・本多忠勝の孫・・・。
坂崎よりも、長く忠義を果たしてくれている本多家に嫁ぐのが幸せだと・・・千姫と忠刻の縁談を進めることにしました。

当時は夫に離縁されない限り結婚はできませんでした。
秀頼は、九州まで遁れて生き延びたという噂まで出ていましたが・・・。
このままでは再婚できない・・・と、家康は・・・。
満徳寺・・・妻が満徳寺に弟子入りすれば、夫と離縁できる習わしとなっていました。
家康は、千姫を満徳寺に入れることで、秀頼との縁を切ろうとしたのです。
千姫の場合、特別に撃場である刑部卿局が寺に入り、千姫は江戸城で修業するという形がとられました。

家康は、4月17日75歳の生涯を閉じました。
再婚する千姫の姿を見ることはなく・・・。
5か月後、千姫は本多忠刻と再婚。
桑名藩主となった本多家が、翌年姫路藩15万石の藩主となり、千姫も姫路城へと移りました。
本多家に結婚祝いとして10万石が与えられました。
忠刻は、姫路城西の丸に二人の御殿をもうけ、それを囲むように日本一の櫓を建てるのです。
夫の心遣いに癒された千姫は、長女・勝姫、嫡男・幸千代を授かります。
ようやく訪れた心の平安・・・しかし、不幸が襲います。

③相次ぐ家族の死

幸せな暮らしをしていた千姫・・・
1621年幸千代、3歳で夭折。
千姫はもう一度子宝に恵まれるようにと、城の傍に天満宮を建て、羽子板などを奉納します。
そして、朝に夕に櫓から見える天満宮に祈りました。
しかし・・・流産を繰り返します。
そんな千姫が、藁をもすがる思いで頼ったのが、占いでした。
それによると不幸の原因は、秀頼の祟りだというのです。
驚いた千姫は、秀頼のために仏像を彫らせます。

その願いもむなしく・・・子が生まれることはありませんでした。
そんな中、1626年参勤交代で江戸から戻った夫・忠刻が病に倒れてしまいました。
介抱するも・・・この世を去ってしまいました。
またしても夫に先立たれてしまった千姫・・・。
そして・・・熊姫、お江の死・・・。
愛する人々を次々と失った千姫は、この時30歳。
娘・勝姫を連れて失意の中江戸へ・・・。
天樹院となり、仏門に入ります。
そんな千姫を気にかけていたのが弟である三代将軍家光でした。
千姫には、江戸城の竹橋御殿で暮らし、500石が与えられました。
ここで、娘・勝姫と何不自由なく暮らすことに・・・
千姫は、家光の子・綱重の養育を任されたことで、大奥にも影響力を持つようになっていきます。

1628年千姫に嬉しい出来事が・・・
娘・勝姫が、鳥取藩主・池田光政と結婚。
二人の夫婦仲は良く、5人の子供に恵まれました。

千姫にはもう一人守りたい人が・・・
古都・鎌倉・・・東慶寺。
ここに千姫が守り続けた人物・東慶寺第20世住持天秀尼でした。
かつての夫・秀頼が側室との間にもうけた一人娘です。
秀頼は千姫との間に子は出来なかったものの、一男一女をもうけていました。
二人の子は、大坂の陣で大坂城から逃げだすものの、徳川に捕まってしまいました。
そして、豊臣家の血を絶やさねば・・・と考えていた家康によって、息子・国松は市中引き回しの上、京都・六条河原で斬首刑に・・・。
この時、国松は8歳でした。
娘もどうなるのか・・・千姫が家康に懇願します。
「秀頼殿の娘を、私の養女にさせてもらえぬでしょうか?」
そんな千姫の必死の嘆願に折れた家康。
娘は家康の命により、東慶寺に入れられて出家し、生きていくこととなったのです。
出家させて結婚できなくさせることで、処刑せずとも豊臣家の血を絶やすことができたのです。
千姫は終生天秀尼の事を気にかけ、何通もの手紙で強い絆で結ばれていきました。

天秀尼のいた東慶寺も縁切寺で、天秀尼はそこで夫と離縁できずに駆け込んでくる者たちの保護に努めていました。
千姫も縁切寺で救われた一人・・・。
千姫は、不幸な女性を天秀尼の寺で救いたいと思うようになります。
東慶寺の縁切り・・・二人は、東福寺の「縁切寺法」を幕府に認めてもらうため動きます。
その思いが通じ、東慶寺は幕府公認の縁切寺となり、その後200年以上、女性を守り続けました。

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家康の遺言

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ユネスコは「朝鮮通信使に関する記録」を世界記憶遺産として登録しました。
朝鮮通信使とは、江戸時代に朝鮮国王が徳川将軍家に派遣していた外交使節団のことです。
この使節団は、日本と朝鮮が互いに対等で審議を交わす象徴となっていました。
そんな友好の歴史がスポットを浴びたのです。
この「朝鮮通信使」誕生の裏には、江戸時代のはじめ、ある男のギリギリの選択があったことは知られていません。
その男とは・・・九州北部対馬島主・宗義智です。
義智が治める対馬は、日本本土と朝鮮半島の間にある島です。
朝鮮との貿易を生活の糧とし、対馬は日本本土とは違う独自の生活をしていました。
しかし、豊臣秀吉によって天下統一がなされると、対馬も本土の体制に組み込まれていきます。
義智は天下人・秀吉からとんでもない命令を受けます。
「朝鮮王朝は秀吉に服属するよう義智は説得せよ。」
というものでした。
朝鮮王朝が従う筈もない命令・・・。
そして・・・後に徳川家康からは国交回復を・・・!!

九州本土から130キロ離れた長崎県・対馬・・・
古代律令制のもとでは、対馬国として島で一つの国を形成していました。
日本本土から離れた地で、中央の影響を受けにくく、島は地元の豪族たちによって支配されていました。
しかし、その多くが山に覆われて・・・耕作に適した地はなく、人々が目をつけたのは貿易でした。
その相手は、対馬から50キロほどの朝鮮半島でした。
対馬にある韓国展望所からは、うっすらと島と建物が・・・釜山を見ることができます。
夜になると明かりも確認でき、朝鮮半島の人々は目に見える存在でした。
朝鮮側も、古くから対馬は無視できない存在でした。
朝鮮王朝が対馬の豪族を家臣に任命した「告身」も残っています。
どうして朝鮮王朝が、日本の対馬の豪族を家臣に任命したのでしょうか?
その裏には、当時朝鮮半島近海を荒らしていた倭寇の存在がありました。
朝鮮王朝は、成立から倭寇に悩まされていました。
根拠地の一つとして対馬が対馬と想定されていました。
なので、朝鮮王朝は、倭寇の狩猟に対して朝鮮の官職を与えて懐柔するという政策をとるのです。
これによって、彼らは、定期的に挑戦に渡って貿易をする権利を手に入れました。
身近であるがゆえに勝川rざるを得なかったのです。
微妙な関係の上に成り立っていました。
そんな対馬の豪族の中で台頭してきたのは宗氏でした。
宗氏は、倭寇を取り締まることを条件に、朝鮮王朝から特別な権利を手に入れます。
朝鮮への渡航証明書を発行する権利を独占的に担ったのです。
これによって対馬から朝鮮に渡る船は、宗氏によって管理されることとなります。
島内の豪族たちが、これまでのように自由に船を出すことができなくなったのです。

戦国時代末期、島主となったのが、宗義智でした。
義智も、朝鮮王朝との関係をうまく生かしながら、対馬の支配を確固たるものにしようとしていました。
しかし、日本の中央では・・・義智の将来を左右する政権が誕生していました。
戦国の世を一つにまとめた豊臣秀吉です。
天下人として全国の大名を従えた秀吉は、義智にも書状を送ります。

「対馬一国はこれまで通り、安堵いたす。」

義智の対馬支配は認められます。
しかし・・・条件が・・・
「次に高麗(朝鮮)の事だが、国王が日本に参れば、これまで通り朝鮮の支配を認めるが、遅れるようであれば、即時に海を渡って誅罰を加える。」by秀吉

秀吉に服属する為に使節を朝鮮に送らせるように義智に仲介を命じたのです。
これは、朝鮮王朝の立場を考えればあり得ないことでした。
当時、朝鮮国王は、明の皇帝に従うことで、国王と認められていました。
柵封体制です。
その朝鮮国王が、秀吉に従うということは、明との関係を断ち切るということでした。
それは、当時の東アジアの常識ではありえないことでした。
どうする??
義智は驚くべき作戦を立てます。
自らが使者となって朝鮮へ渡った義智は、朝鮮国王に対して日本への公式使節派遣を願い出ます。
しかし、使節の名目は、”秀吉に服従せよ”というものではありませんでした。
秀吉が、新しく天下の支配者になったことを祝福する祝賀使節を送ってくれとしたのです。
他に言いようがありませんでした。
秀吉の意図を隠し、あくまで秀吉の国土統一を祝う使節派遣を求めたのです。

宗氏はこのような大胆な外交手腕を使って、日本と朝鮮の間を渡り歩いていました。
その異色の外交を物語るものが、宗氏が偽造した朝鮮国王の印”為政以徳”です。
日本に残されていた印を、科学的検証を試みると・・・国書に押された印の朱肉の成分が宗氏の偽造印に残る朱肉の成分と一致したのです。
残されていた国書は、宗氏が偽造したものだったのです。
このような危うい行為をしながら、両者の間を渡り歩いていたのです。

1590年朝鮮使節団来日。
11月7日、聚楽第で秀吉と会見に及びます。
ところが・・・目の前の使節が自らへの服属と考えていた秀吉は、使節団に対し、とんでもない命令を下しました。
「明国全体を我が国の習俗に変えてしまおうと思う。
 わが軍が明に攻め入る際には、朝鮮もはせ参じるように。」
なんと、秀吉は朝鮮の宗主国・明を征服すると宣言!!
朝鮮に手伝うように命じたのです。
秀吉を祝いに来た使節団は寝耳に水で、受け入れられるものではありませんでした。
ここに至って交渉は決裂!!
秀吉は朝鮮出兵・・・文禄の役です。
秀吉、朝鮮王朝、双方の意図を誤魔化して、強引に会見を成立させた義智の戦略は大失敗に終わったのです。

1592年4月13日、秀吉は朝鮮半島へ軍勢を進めます。
日本軍の第一陣を率いたのは、義智の妻の父・小西行長でした。
そしてその日本軍の先導役を任されたのが宗義智でした。
この時25歳、皮肉にも、朝鮮の事情に詳しいことが災いしました。
釜山に上陸して破竹の勢いで進撃を開始。
およそ半月後には、朝鮮の首都・漢城を攻略します。
さらに、平壌まで進撃します。
しかし、進撃はここまででした。
朝鮮の宗主国・明が4万で援軍にやってきました。
明と朝鮮の連合軍は、義智ら1万5000がこもる平壌に攻め寄せてきました。
敵の大軍勢を前に、成す術のない日本軍・・・。
義智たちは、命からがら平壌を脱出し、仲間のいる漢城へ・・・!!
何とか漢城にたどり着いたのは7000の兵・・・半分以下になっていました。
最早日本軍に勝ちがないと判断した義智たちは、明との講和に向けて動き出します。
講和に当たり、明が日本に要求したのは、秀吉による降伏文書でした。
秀吉が明に降伏するならば、戦を止めても良いと言ってきたのです。
秀吉が受け入れるはずもない要求・・・。
どうすればいいのか・・・??
小西行長は、秀吉名義の国書を明に送ります。
”明国皇帝陛下の御威光のもとでは、日本など小さな存在でございます。
 是非とも日本国の王として、任命していただきたく存じます。”
秀吉が自らの過ちを認め、明に服属することを求めた・・・??
これは、偽造国書だったのです。
この作成に、宗義智が参加していたのではないか??といわれています。

義智が公式文書の偽造に関わっていたかどうかは疑問です。
しかし、この偽造国書のおかげで、休戦協定が無事成立しました。
1596年9月、明の使節が秀吉に謁見・・・
自らの降伏文書のことなど知る由もない秀吉・・・明の使節は、敵の降伏の使者と信じていました。
しかし・・・
”ここに特に なんじを封じて 日本国王となす”
秀吉を日本国王に任命する・・・つまり、柵封体制に入ることを意味していました。
秀吉は怒り心頭!!
再び朝鮮出兵を命じるのでした。

朝鮮での戦を終わらせるために企てた秀吉の降伏文書の偽造・・・
またもや、義智たちの外交戦略は失敗に終わりました。

1597年7月・・・慶長の役が始まります。
この時も、義智は先鋒を強いられます・・・!!
日本の武将たちに対して、秀吉の命令は苛烈を極めました。
”老若男女 僧侶 なで切り”

大分県にある安養寺には、朝鮮での惨状を記したものが残されています。
当時の安養寺の住職・慶念が朝鮮出兵の折に書いた日記です。
この日記には、日本軍によって多くの朝鮮人が連れ去られている様子が書かれています。
”男女老若 縄で首をくくられ 歩くのを止めた者に対しては 杖でおい立て打つ有様は さながら 地獄の鬼が罪人を 責め立てているようである”

この時、日本に連れ去られた人々は、数万人といわれています。
日本で農村の労働力に使われる場合、奴隷として売買される場合があります。
東南アジアの各地に奴隷として転売される朝鮮の人たちも沢山いたと言われています。

一方、日本軍も明・朝鮮軍の攻撃によって兵站を遮られ、寒さと飢えから次々と兵が倒れていきます。
そんな中・・・日本への撤退命令が出されます。
1598年8月18日、豊臣秀吉が死去したのです。
義智はふるさと対馬に戻ります。
文禄・慶長の役から6年の月日がたっていました。
久し振りの故郷は・・・荒れ果てた島の現実でした。

”朝鮮での戦いが終わった後、村には人がいなくなっていた
 戦で多くの人が死んだり逃げたりしたからである”

文禄の役で、宗氏は5,000人の軍勢の派遣を求められました。
当時の対馬の人口は、1万にも満たなかったのです。
当時は漁業中心・・・漁師たちも船の漕ぎ手として動員されていました。
人がいなくなって・・・田畑は荒れ放題、漁業も荒れ放題だったのです。
天下人秀吉に命じられた朝鮮出兵・・・。
その結果、義智は朝鮮との貿易だけでなく、島を支えていた家臣や領民をも失ってしまったのです。

秀吉の死で戦いが終わった2年後、秀吉亡き後の天下を決める戦いが・・・
1600年関ケ原の戦いです。
この時、宗義智は三成に味方をしました。
舅の小西行長の頼みに応じたものといわれています。
しかし、戦いは徳川家康の大勝利に終わり、義智は次の天下人に弓を引いた形となってしまいました。
家康からの厳しい処分は避けられない・・・??
ところが、下されたのは所領安堵・・・家康は対馬を治めることを許したのです。
その裏には、家康の意図がありました。
外国との通商貿易には義智の力が必要だと思ったのです。
家康は通商国家を考えていました。
しかし、朝鮮国と貿易を再開するにあたっては、まず戦後処理が必要だと思っていました。
戦後処理とは、外交関係の復活であり、それをやらなければ通商貿易は出来ないと考えていたのです。
家康としては、朝鮮問題の解決について、宗氏の力が絶対に必要だという判断があったのです。

対馬を安堵されたことで、家康に大きな借りができてしまった義智。
国交回復は絶対に成し遂げなければならない課題となったのです。
義智は朝鮮王朝に使者を送り続けながら、公式使節派遣の要請を繰り返します。
一方朝鮮王朝は、義智の要請に対して完全拒否を貫いていました。
しかし、遂に松雲大師と呼ばれる僧侶の派遣を決めます。
この時の松雲大師の派遣には、朝鮮の日本に対する不信が関係しています。
新しく政権をとった家康が、再び朝鮮に責めて来るのではないか?
家康政権がどのような挑戦認識か確かめる必要があったのです。

1605年義智は松雲大師を伴い、家康に謁見。
この時、家康が大師に語った内容が朝鮮側の記録に残っています。

「我は朝鮮出兵の時、関東におり、戦いに関わっていない。
 朝鮮との間に恨みはなく、ただ和を通じることを望むのみである。」by家康

朝鮮出兵は毛頭ないと語ったのです。
この時、家康は日本に連れ去られた朝鮮の人々の返還要求についても誠意を尽くすとしています。
会談を成立させた義智としても、これで朝鮮王朝の態度も軟化し、公式使節派遣も近いと安堵しました。
会談から1年余り後、義智の元に硬式使節派遣の条件が届きました。
しかし、その内容は厳しいものでした。
使節派遣の条件は、”家康が日本国王として先の戦について謝罪する国書をだすこと”だったのです。
すなわち、家康が明に服属し”日本と朝鮮が対等である”と示したうえで、国書を出して謝罪せよと言ってきたのです。
この要求を家康に取り次がなければならない・・・。
家康に謝罪国書を頼む??
家康の謝罪国書を偽造する・・・??
どちらの道を選ぶのか・・・??

朝鮮王朝が宗義智に突き付けた「日本国王としての家康の謝罪国書の要求」から数か月・・・
義智は家康の国書を携えた使者を朝鮮に送りました。
国書は残っていない・・・しかし、朝鮮王朝の記録にはその内容が記されていました。

”我々が、前の代の非を改めることは、去年松雲大師に話した通りである”

家康が謝罪する国書は朝鮮に届いたようです。
ところが、朝鮮側の記録には・・・これは偽書であると判断したと書かれています。
それは、数か月後に来たこと・・・。
対馬から江戸までの往復の期間、幕府側がどういうような判断をするか、形式上の手続きも必要でした。
つまり、そんなに早く家康国書が届くはずがないという判断があったのです。

そう・・・義智は、自ら家康の謝罪国書を偽造して送っていたのです。
朝鮮側に見破られてしまった以上・・・使節派遣の道は絶たれてしまったかに見えました・・・
が、朝鮮国王は公式使節派遣を決定します。
朝鮮側としては、自分たちが出した錠kwんが満たされた・・・
蒸し返して偽物だとなると和平が遠のいてしまう・・・。
一番の課題であったひ被虜の人々の送還が遅れる・・・これは許されない・・・。
もう一つは、北方の女真族・・・後に清国となる大きな勢力が鴨緑江を渡って侵入してきていました。
南方、北方、二つの大きな外交課題を抱えていました。
軍事情勢を少しでも安定化させるために、日本との和平を急いだのです。

偽物とわかっていても受け取る・・・。

1607年1月12日、朝鮮使節団、漢城を出発!!
そして、2月29日、使節一行は対馬に到着しました。
この時、対馬側と朝鮮側で奇妙なやり取りがあったことが残されています。

「先年の国書は、果たして家康のものか?」
「もちろんである
 なぜ、そのようなことを問うのか?」
「あの国書に押された国王印はどういったものなのか?」
「あれは、明の使節が文永の役の講和で来日した際に、秀吉を日本国王として任命する為に渡したものである。」
「あの時、日本はそれを拒否したではないか。
 にもかかわらず、その時の国王印を使ったというのか。
 日本とはよくわからない国だ。」
対馬側は、苦笑して何も答えませんでした。
以後、朝鮮側は、国書について何も触れることはありませんでした。
対馬を出発した一行は、瀬戸内海を通って大坂に上陸、陸路で江戸へ・・・!!
1607年5月6日、江戸城にて将軍に謁見。
遂に日朝国交回復が成し遂げられた瞬間でした。 
以後、朝鮮通信使は、江戸時代11回にわたって日本を訪れ、この使節は、まさに日本と朝鮮の友好関係を示す象徴となったのです。
危ういながらも役目を遂げた宗義智・・・国交回復から2年後には、朝鮮国王から貿易再開の許可も得ます。
これによって、朝鮮に攻め込んで以来、荒れ果てていた対馬は、息を吹き返していきます。
6年後、対馬の復興と日朝友好を見届けた宗義智は・・・1615年48歳でその生涯を終えたのでした。

一筋縄ではいかない国際外交の中、宗義智が繰り出した禁断の一手・国書偽造・・・。
日朝友好の象徴・・・朝鮮通信使誕生の裏には、こんな秘話が隠されていたのでした。

江戸時代、日朝友好の象徴となった朝鮮通信使・・・
その足跡が時代を超えて400年経った今、平和を語る大事な記録として新たな輝きを発している。

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1600年9月15日、徳川家康と石田三成が天下の覇権をかけて戦った関ケ原の戦い・・・。
まさに、その同じ日に、遠く出羽国で運命の戦いが繰り広げられていました。
上杉家の武将・直江兼続が最上義昭を攻撃した長谷堂合戦・・・別名、「北の関ケ原」と呼ばれています。
愛の兜で名高い直江兼続・・・この時の決断は、時代を大きく左右しました。

新潟県南魚沼市・・・雲洞庵に直江兼続の幼少期のエピソードが残っています。
兼続5歳・・・上杉謙信にその才気を見込まれ、後継者である上杉景勝の補佐役として育てられました。
兼続は5歳年上の景勝に生涯忠誠をつくし、共に戦国乱世を生き抜いていきました。

兼続を奉行としてほしいと言われた重臣に・・・
「兼続には、全てにおいて隙のないほど政務を命じている
 奉行に就任すれば支障が出てしまう。」by景勝

兼続に課せられた役目は・・・
天下統一の流れにどう対応していくのか??ということでした。
そんな中で、豊臣政権との交渉の結節点、上杉川側の中心に兼続が立っていました。
上杉家は、中央政権と密接にかかわることで、越後支配を盤石にしました。
これは、上杉家の大きな決断でした。

1598年1月、豊臣秀吉から上杉景勝に思わぬ命令が・・・
「越後を離れ、会津に移るべし!!」
背景には、最大の実力者・徳川家康の不穏な動きにありました。
家康は当時、関東7か国を統治、伊達政宗、最上義光ら東北の大名と関係を深めようとしていました。
秀吉が上杉家を120万石に加増して会津に移したのは、これににらみを利かせるためでした。
更にこの年、景勝は、毛利輝元・宇喜多秀家・徳川家康・前田利家らと五大老のひとりに選ばれています。
景勝は、家康をおさえるキーマンに抜擢されたのです。
ところが・・・その年の8月、秀吉が亡くなると、時代は大きく動き出します。
1599年、徳川家康は伊達政宗と縁組・・・
東国での更なる勢力拡大に動いたのです。

奉行のひとり石田三成がこれに反発・・・前田利家の力を借りて、家康の動きを阻もうと試みますが・・・
頼みとしていた利家が病死、石田三成は佐和山城に蟄居となってしまいました。
主な政敵をことごとく排除した家康は、大坂城に入り、政務を行いはじめます。
そして・・・次なるターゲットとしたのが上杉家だったのです。

1600年4月上旬・・・兼続の元へ家康の外交僧・西笑承兌から書状が届きます。
”近隣の大名家が上杉家に謀反の動きがあると訴えてきた・・・
 景勝公は神指原で築城を進めているそうだが、甚だ本当ではない。
 一刻も早く上洛し、家康公に弁明すべきだ!!”
その頃、上杉家は若松城に代わる城の工事を始めていました。
家康は、この築城が謀反の証だと糾弾したのです。

会津若松から5キロのところに、神指城跡があります。
面積50ヘクタール、東日本最大の近世城郭でした。
発掘された内堀は、浅い段階で中止されていました。
会津と新潟を結ぶ阿賀野川・・・そのすぐ脇に神指城を造っていました。
水上交通で経済を発展させ、平地に街をつくる城下町構想でした。
狙いは・・・会津と越後を水運で結ぶことにありました。
その結果、商人たちは日本海航路を使って、産物を全国に輸出することができました。
築城は、会津に一大貿易都市を築くプロジェクトだったのです。

1600年4月14日、兼続は、西笑承兌に宛てて返書を認めました。
史上名高い「直江状」です。
兼続は、15項目に渡って天下の実力者・家康に向かって真っ向から反論します。

謀反のため武具を集めているといわれるが、槍鉄砲を集めるのは田舎武士にとっては日常の事。
逆心無くば上洛せよとは乳呑子相手の話・・・何とも対応の仕様がございません。
そもそも訴えたものの究明がなければ、上洛するわけにはまいりません。
兼続は家康に対して、景勝上洛は断じて飲むことはできないと主張しました。
1600年5月・・・事態は一転和解へ・・・。
大坂からの使者からの粘り強い交渉で、景勝上洛が取り決められました。

交渉における兼続の主張は・・・??
・上杉謀反を讒言した人物の取り調べ
・秋以降の上洛
妥協し、提示しました。

しかし、その思惑は、あっけなく覆されます。
家康が一足先に届いた直江状を逆手にとって、上杉家に対して態度を硬化したのです。
6月10日漬けの景勝への書状には・・・
「即刻上洛しなければ、会津へ出兵する」と書かれていました。
両者、一触即発となってしまったのです。

1600年6月16日、家康は会津征伐に出陣!!
秀頼から軍用金と兵糧が下賜され、豊臣政権の公的出兵と位置付けられます。
作戦は・・・伊達政宗、最上義昭が会津に通じる4つの街道から進軍・・・
家康と秀忠率いる本隊は、関東から上杉の本拠地・若松城に攻め込む!!
総勢10万を超える一大作戦でした。
兼続も、城石、米沢など領内の城に防衛体制を取らせます。
上杉景勝は、軍勢を率いて若松城を出陣!!
その数5万!!上杉の存亡をかけた防衛戦が始まろうとしていました。
ところが・・・戦端が始まろうとしたまさにその時・・・思わぬ事態が・・・
石田三成が挙兵したのです。
三成は、大坂城の奉行衆を説得し、豊臣政権を掌握したうえで全国の諸大名に打倒家康の檄を飛ばしたのです。
7月24日、家康、三成の挙兵を知り、
翌25日、江戸への撤退を決定!!
小山でこの知らせを聞いた家康は、全軍に会津征伐中止を・・・そして、撤退を始めたのです。
今や、家康は賊軍となっていました。
会津に三成の使者が来たのは、8月上旬。
どんな相談が持ち掛けられたのでしょうか?

真田家に西軍に加わるように要請する書状に、上杉との密約の内容が書かれていました。
”会津の上杉には、早々に関東表に出兵するように求めている”
つまり、家康の本拠地への侵攻作戦です。
しかし、家康は退却しながらも、着々と策を練っていました。
上杉に対する情報のかく乱もしていました。

兼続は・・・??
すぐに家康を追撃する??それとも??
家康派の急先鋒、伊達政宗と最上義光は・・・??
奥羽を固めて関東を攻める??

8月25日・・・景勝が石田三成に送った書簡には・・・
奥羽を掌握した上で関東出兵を実行するという手堅い策でした。
兼続は、すぐさま伊達と最上に対して降伏勧告を出します。
ところが、最上義光は一旦承諾したものの・・・時間稼ぎに終始します。
このままでは関東侵攻作戦は水泡と帰す・・・。
9月11日、兼続は大軍を率いて最上領へ侵入。

長谷堂城は、山形城の喉元に築かれた要の城です。
9月15日、上杉軍は、城の前の高台に陣取ってこれを包囲!!
上杉勢の兵力は最上勢のおよそ10倍・・・
容易に落とせると思った兼続は、長谷堂城への攻撃を敢行しました。
ここに、北の関ケ原と呼ばれる長谷堂合戦開始!!
ところが、この戦いで上杉軍は、最上軍を上回る死者を出してしまいます。
最上は、上杉との戦いを見据え、この城の要塞化を進めていたのです。

最上勢は、城の斜面に配置された切岸と曲輪を利用して上杉軍の猛攻を食い止めます。
怯んだ上杉軍の側面を、山形から派遣された伏兵が攻撃!!
上杉軍は総崩れとなります。
結局、兼続は3度にわたって攻勢をかけるものの断念せざるを得ませんでした。

北の開戦と同じ9月15日・・・関ケ原の戦い!!
決着は僅か1日・・・東軍の圧勝でした。
最上義光のもとに、この知らせが入ったのは9月30日。
時を同じくして兼続にも西軍敗れるの報が・・・。
最早ここまで・・・10月1日、上杉軍撤退開始。
最上勢がここぞとばかりに襲い掛かりますが、兼続も周到に構築した退却用陣地から鉄砲をあめあられと撃ちかけ応戦します。
最上義光・・・総大将の負傷に浮足立つ間に、無傷で撤退に成功!!
しかし、関東へ乱入し、家康と雌雄を決するという兼続の野望はここについえたのでした。

山形にある出羽亀岡文殊堂・・・
関ケ原の2年後、兼続が開いた歌会の記録が残されています。

「新を迎え旧を送る」

図らずも、会津から米沢に国替えをされて半年・・・その歌には、多くの家臣を引き連れて新しい人生に踏み出す兼続の決意が込められていました。

米沢には、今も兼続治世の名残があります。
最上川流域10キロにわたって作られた直江石堤・・・川の氾濫から田畑を守るために、兼続が率先して指揮を執って一つ一つ石を積み上げました。
戦のための石垣づくりから、民を守る石堤作りまで・・・兼続がこの世を去ったのは、関ケ原から20年後の事です。

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