日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:福島正則

主君 井伊の赤鬼・直政伝

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1600年9月15日関ケ原・・・この時、西軍に相対する東軍は、内部崩壊の危機に面していました。
その危機に立ち向かったのが、徳川四天王のひとり・・・井伊直政・・・おんな城主・次郎法師に育てられた虎松です。

徳川家康に仕え、外交交渉人としての才能を発揮し、戦場では赤鬼と呼ばれた勇ましさ・・・
その直政に徳川の命運が・・・??
徳川主力の遅参、先鋒は豊臣恩顧の福島正則・・・
前線で戦える徳川勢は井伊直政のみ!!
もしここで福島正則が先陣を切れば・・・戦は豊臣のものとなってしまう・・・
徳川のために・・・抜け駆けをして先陣を切るか??
それは同士打ちの危機でもありました。

山深く急峻な岩肌に囲まれた奥三河の地・・・
ここに、1300年の歴史を誇る鳳来寺があります。
井伊直政は、7歳から13歳までの7年間、命を狙われ・・・ここで過ごしていました。
直政は1561年、井伊谷の領主の子に生まれました。
当時の井伊家は、大国今川家に従っていましたが、直政が1歳の時に、父・井伊直親が敵対する徳川家康に内通したとして殺されてしまいます。
直政の後見となったおんな城主・次郎法師は、今川家によって領主の座を追われ、直政は殺生禁断の地である鳳来寺に匿われたのです。
耐えること・・・我慢することを学んだ直政・・・行く末の見えない中、自らの力と才覚で、運命を切り開いていきます。
1574年、今川家の勢力が衰え始めると、直政は、鳳来寺を出て母親の再婚先である浜松家の豪族・松下家に身を寄せます。
この時、浜松を支配していたのが・・・新興勢力の徳川家康でした。
1575年、直政は、鷹狩りに出た家康を路上で待ちます。
若者の面構えの立派さに目を止めた家康、自分のために殺された井伊当主の遺児と不憫に思い、召し抱えます。
急速に勢力を広げ始めた徳川家に仕えたことから、新しい人生が始まります。

この時、家康の軍団を支えていたのは、古くからの三河の武将たち・・・
後に徳川四天王と呼ばれる直政以外の人物(本多忠勝・酒井忠次・榊原康政)は皆、徳川家と縁の深い、三河武士でした。
結束の固さを誇る家臣団に突然ほうり込まれた異質な存在の直政。
常に家康のために、命を顧みない行動に出ます。
如何なるときも、家康の近くに控え、身を挺して主君を守る・・・最大の危機、伊賀越えでも、大きな働きをしたといいます。
そんな直政を、家康は寵愛しました。
しかし、直政は、武勇だけの若者ではなく・・・
1582年甲斐国若神子の戦いで、3か月に及ぶ戦いの徳川軍と北条軍。
和睦の使者として、21歳の直政が抜擢されます。
交渉にあたって直政の覚書には・・・
北条氏政の誓紙を差し出すこと。
徳川方家臣の妻子を返すこと。

若い直政の和睦締結の条書を見ると、細心なところに注意書きがいっています。
相手にいちいち了解をとる・・・
一を聞いて十がわからないと、使者は務まりません。
そんな能力を持っていることを家康は見抜いていたのです。

難しい和平交渉をまとめ上げた直政は、更なる重要任務・武田家の旧臣を徳川の家臣にという役を任されます。
直政は、主を失ったものたちの領土を安堵する取次を務め、たくさんの書状を送ります。
まさに文武両道・・・単なる武闘派ではなく、いかに戦わないで相手を屈服させるか??
その技術、能力・・・交渉役の資質があったようです。
家康は、忠誠を誓った武田旧臣数百人を直政に付け、”赤備え”を井伊が身に着けるようにいいます。
井伊の赤備えの誕生でした。

戦国時代の軍隊の力は、上杉武田がNo,1!!
その中でも、赤備えはとくに有名で、格好のいいブランド・・・責任の重い甲冑でした。
他の家臣たちは、直政に嫉妬します。
徳川四天王のひとり榊原康政は、武田の勇猛な家臣たちが直政に付けられたことを激怒、直政と刺し違えるとまで言ったといいます。
直政は、赤備えに相応しい結果を残さなければなりませんでした。
新しい直政の軍団の活躍の場は・・・1584年小牧長久手の戦いです。
信長亡き後の天下の覇権を家康と秀吉が争った大事な戦いで、23歳の直政は、自ら敵武者と組み合い、首をとるという危険を冒しています。
味方は直政をたしなめます。
「軍に将たるもの みづから手を下すべきにあらず」と。
それでも直政の激しい戦いぶりは収まりませんでした。その武勇は、赤鬼と恐れられたのです。
並みいる徳川家臣の中、際立った存在となっていく直政。。。
1590年天下人となった秀吉に家康が関東に国替えになった時、上野国に与えられた直政の所領は12万石。
四天王の本多忠勝・榊原康政が10万石、酒井忠次は隠居・・・まぎれもなく、徳川家の家臣筆頭となるのです。
時に29歳の若さでした。
やがて直政は、関ケ原の戦いで重大な決断をすることになります。

1600年9月15日早朝・・・
美濃国・関ケ原に東西両陣営15万を越える軍勢が集結しました。
笹尾山の石田三成から天満山の宇喜多秀家、松尾山の小早川秀秋、更に離れた南宮山の毛利勢まで鶴翼の陣の西軍・・・
東軍は桃配山に総大将の徳川家康、その前に軍勢の多い福島正則、藤堂、細川、黒田の陣が並んでいました。
井伊直政はその一角に布陣、近くには、直政の娘婿の松平忠吉がいました。
直政は初陣の忠吉の後見も兼ねていました。
しかし、この時家康は大きな誤算に・・・家康の焦りと怒り・・・それが、直政の選択に決定的な影響を与えます。

東軍は、もともと会津の上杉景勝を成敗する豊臣家による討伐軍だったので、豊臣家臣の大名が大半を占めていました。
その軍勢が下野の小山に向かった頃・・・三成らが挙兵!!
直政は軍をすぐに西に向けるべきだと強く進言!!
「時は既に至れり!!」
直政の固い決意を聞き入れた家康は西に向かう軍勢を二つに分けます。
東海道を進むのは、福島正則ら豊臣恩顧の大名が中心で・・・
秀忠が中心の徳川本隊は中山道を進みます。
家康は一旦、江戸に留まり、直政は家康の名代として東海軍を率います。
家康も江戸を出発しますが・・・上田で真田と戦っていた徳川本隊3万8000は、戦いに間に合いません。
家康の誤算・・・それは、徳川の主力本隊のないまま豊臣恩顧の大名の手を借りて決戦に臨まなければならなかったのです。

本隊は来ないけれど、機は熟している・・・
豊臣の大名たちが暴走してしまう・・・戦うしかない・・・!!
徳川主力軍がないまま戦うことになった徳川軍・・・
先鋒は、豊臣大名の中でも有力な福島正則となります。
もしこのまま福島正則が先陣まで果たせば・・・戦の全ては豊臣の手によってなされたものとなってしまう・・・!!
例え東軍が勝ったとしても、本当の徳川の勝利にはならない・・・
東軍で最前線にいる徳川勢は、井伊直政と松平忠吉の6000の兵のみ・・・
直政と忠吉が福島正則を出し抜いて先陣を切らなければ、徳川のメンツが立たない・・・。
しかし、戦場で先陣を横取りする抜け駆けは、軍法によって厳しく戒められていました。
家康が会津征伐の時の軍令には・・・
”先手を差し越し、軍法を背くの上は成敗すべき事”とあります。

先鋒は福島正則・・・
当時の武将たちは一番槍の高名や、誰が最初に乗り込むのか?大事な評価でした。
先陣争いで、味方同士が戦うケースも沢山ありました。
なので、先陣争いをして意思疎通が乱れてしまえば西軍に乗ぜる隙を与えてしまう・・・。

直政の選択は・・・抜け駆け??軍法を守る・・・??

直政は抜け駆けを決意!!
その日関ケ原は、朝から深い霧に包まれその霧が薄まっても両軍が様子見を続けて膠着状態でした。
直政は家臣に自らの陣を任せ・・・少数の兵を連れて動く!!
娘婿の忠吉の供をし、先陣・福島正則の陣の脇を抜けようとします。
これを福島正則の軍の可児才蔵が見咎めます。

「これは抜け駆けではない!!
 初陣の忠吉殿にお供をしての物見である!!」by直政

才蔵は道をあけます。
直政は忠吉と共に前進!!
偶然西軍に遭遇したという形で、敵陣に一番槍を仕掛けたのです。
1600年9月15日午前8時・・・関ケ原の激戦は、徳川勢の先陣のもと、開始されたのでした。

戦を仕掛けたのは徳川家の者がやったという証拠が残りました。
しかし、徳川氏の公子を一人無駄に殺してしまう可能性もあったのです。

直政たちの抜け駆けを知ると悔しがる福島勢は一斉射撃!!
東西両軍は激しくぶつかり合いました。
そして数時間後・・・西軍・小早川勢の裏切り、毛利勢の戦闘不参加によって東軍勝利の体制が決します。
石田三成ら主だった西軍の武将は退却・・・直政は忠吉と疲れた人馬を休ませていました。
そこへ・・・突如500騎ほどの軍勢が・・・!!
あれは味方か・・・??
敵と見るや、馬を駆り、軍勢を追撃にかかります。
忠吉も後を追います。
敵軍は、正面突破して戦場を離脱しようとする薩摩・島津義弘勢でした。
島津勢は必死の抵抗!!
多くの死傷者を出す井伊!!
敵と与して傷を負ってしまった忠吉。
直政は敵にわき腹と右腕を撃たれ馬から落ちます。
島津勢もほとんどの兵を失って薩摩に帰っていきました。

殆どの東軍の武将たちは、島津に抵抗して命をとられたら無駄死にだと思って道をあける中・・・
それも承知の島津が正面突破の中、徳川の意地を・・・!!という直政の思いが命知らずの行動に出させたのです。
その命知らずの行動が、家康からも認められ、三河武士達からも認めてもらう。。。
関ケ原の時にも、自分が島津を追いかけなければ・・・!!と、追撃したのです。
戦いは終わり、直政は傷を負ったまま家康のもとに参上・・・
家康は自らの作った薬で労い、直政の抜け駆けの罪を問うことはありませんでした。
先陣を奪われた福島正則も、あえてことを荒立てようとはしませんでした。
関ヶ原の戦後、直政は傷がいえる間もなく仕事に忙殺されます。
生き残った西軍大名との外交交渉・・・戦後処理を任されました。
島津、毛利に対しても穏便に処理するように・・・
戦場を離れれば、敵味方共に直政は信頼されていました。
毛利家当主・輝元は、直政の取りなしに深い感謝の状を送っています。
直政は関ケ原の功績で、近江・佐和山城を与えられ、18万石の領主となりました。
しかし、翌年、佐和山で没します。
関ケ原の傷の悪化が原因とされています。
まだ、40歳の若さでした。
家康は、直政を開国の元勲と称え、その後、井伊家は近くの彦根城へと移ります。
譜代一の家格となり、江戸時代の大老10人のうちの5人を輩出。。。
260年にわたる徳川政権を支え続けるのです。

死の2週間前、子供に宛てたものには・・・

「成敗利鈍に至りては 明の能く逆め睹るに非ざるなり」

とあります。

成功と失敗、賢いか愚かかはあらかじめわかることはない。
だからこそ、ひたすら行動するしかないのだ。。。



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三成の挙兵を知った昌幸。
以降、信幸は徳川に、昌幸と信繁は豊臣に付くことになる。

真田の、生き残りを賭けた大勝負が始まった。

1600年7月・・・関ケ原もいよいよですが・・・

「これより上田へ引き返す!!」by昌幸

下野・犬伏にある昌幸の陣にて・・・。
いよいよです!!

信幸の陣では・・・家康が間もなく小山に入るという知らせが・・・。

maru1













もごもごしゃべっているのは、河原綱家。
「歯が欠けただけにございます。」by綱家
って・・・とっくり投げて欠けさせたのはあなたですよ??信幸・・・??
そんなことも気にかけられないほどの緊張かしら・・・??

知らせは岩櫃城にも・・・!!

maru2












緊迫した雰囲気の中で、相変わらずのラブラブな二人です。
「軍議を開く!!諸将をすぐに呼び寄せろ・・・!!」by家康。

今回兵を挙げたのは、毛利、宇喜多の老衆です。
ま、後ろで糸を引いているのは三成ですが、やっぱりそこは、事務次官なわけで、担ぐ神輿は大名なんですよね。

で・・・諸将を集めて軍議を開くんですが・・・みんな一緒に行動しているわけではないので、”諸将を集める”こと自体が緊急事態です。
とにかく、命を懸けた何かが起ころうとしているのは、集まってくる武将たちもわかっているはず・・・!!

7月24日・・・一人で家康のもとを訪れる信幸。
父・昌幸が離反したことを伝えに来ました。

「すでに陣を払い、上田に戻りましてございます。
 以後、徳川様の命には従わぬということでございます。」by信幸

「何故お主は残った・・・??」by正純

「それがしの妻の父親は、本多平八郎殿。
 義理の父親は徳川内府様。
 それが答えにございます。」by信幸

「殊勝なことを申しておりますが、真田安房守が離反するのを見逃したことに相違ございませぬ。
 由々しき事ですぞ・・・!!」by正純

代わりに腹を切るという信幸をかばってくれる平八郎・・・
でも、正純はおかんむりですが・・・
結局は態度で示せと許してくれる家康です。

「伊豆守・・・お主の親父に去られたのは痛いが、それ以上にお主が残ってくれたことをわしは嬉しく思うぞ。
 まれにみる忠義者じゃ・・・!!」by家康
maru5













ま、この時点で信幸を許さない=信幸以下家臣たちは、上田で合流することになるでしょう。
つまり、味方が減るだけではなく、敵が増えてしまうことも必定!!
なので、家康としてははらわた煮えくり返ってるかもしれないけれど、許してしまう状況にあったと言えるでしょう。

「今後も・・・徳川家のために、身命を賭して働きとうございます。」by信幸

会議が始まりましたよ~~!!
「大坂にとって返し、秀頼公をお救い参らせ奸賊どもを打ち果たす!!」by家康

maru3













あ~、討ち果たすことはもう決まっているんですね。。。
この言葉を見てもわかるように、家康にとっても秀頼公のおひざ元で兵を挙げた三成を処罰するという考えです。
ま、本心はやっつける気満々ですが・・・
なので、ここにいる豊臣子飼いの加藤清正や福島正則なんかも、家康の策略に引っかかってしまったのかもしれませんが、全部秀頼公のためにしている事なんですよね。

どちらの命令が本当なんだろう??って、悩んでいる諸将・・・福島正則の(↑)の一言で、みんな徳川につくことになったんだけれども、この言葉、山内一豊だったというのは有名な話。
ま、今まで出て来ていませんからね・・・。
逸話だったかもしれませんけどね。

で・・・離反したのは、昌幸・信繁親子だけらしいよ・・・。

「断じて許さぬ・・・!!」by家康

上田に向かっていた昌幸と信繁は、稲たちと合流!!

「お前たち、何をやっとるんじゃ。。。」by昌幸

「大坂から急ぎ立ち戻ったところでございます。
 上方は、石田治部様が挙兵されて、世の終わりが来たような大騒ぎ・・・

 母上様や春様は、大谷刑部様のもとに匿われておりますが、私は徳川の家臣の娘・・・
 これ以上、大坂にとどまっては危ない故、逃げて参りました。」by稲

おこうと息子達も連れて・・・

「して。。。我が夫は何処に・・・??」by稲

「源三郎はおらん。」by昌幸

「・・・父上は、徳川に背き毛利様に付つことに致しました。
 しかしながら兄上は・・・。」by信繁

「徳川に残ったのですね。」by稲

「話し合った末の事です。」by信繁

「あの方らしい筋の通し方。」by稲

「敵と味方という訳ですか・・・」byこう

おお・・・さすが稲です。

「詳しい話はあとでゆっくり・・・」by昌幸

「お城にお越しなら、夫に変わり私がきちんとお迎えせねばなりませぬ。
 支度を整えて、お出迎え致します故、しばしのご猶予をいただきとう存じます。」by稲

何か策を練っているのでしょうか・・・??稲、楽しそうです。

先に城に戻るという稲&こう&子供達

ところが・・・


maru7













「これより、一歩たりともお通しするわけにはまいりませぬ!!

 我が殿、真田伊豆守は、徳川方。
 ならば、徳川に刃向かうこの歯、すべて敵でございます!!
 お引き取りを・・・!!」by稲

「お引き取りを・・・!」byこう

おお!!かっこいい!!稲姫!!
おこうも可愛いわ・・・!!
沼田には入れないわっ!!と、頑張っとります。


「射かけよ~~~!!」by稲

「さすがは徳川一の名将、本多平八郎の娘じゃ!!
 源三郎はよい嫁をもろうたのう・・・!!」by昌幸

maru8












と、稲一番の見せ場です。

きりっとしていてカッコいい!!

ここで一つ・・・来年の「女城主 直虎」には不安しかない私です。
当時の女性はかなり資料が少なく、なんて呼ばれていたのかもよくわかんないぐらい・・・。
「花燃ゆ」も、有ったか無いか、わかんない情報を1年間詰め込んだ作品だったと思います。
私が男尊女卑感が強いのかもしれませんが、なかなか女性が活躍できなかった時代が長い間続いてきました。
江戸時代や平成の女性が強いのは、戦いのない時代だからだと思います。
反対に言うと、戦国時代や幕末、明治から昭和20年までは戦いの時代・・・は、女性が活躍できない時代だと思うのです。
なので、補佐する女・・・つまり、坂本龍馬のお龍、木戸孝允の松子・・・男を陰で支える気の強い粋な女がかっこいいと思うんですが、まさに、稲はそんなタイプかもしれません。
男女平等間のないこの時代にしっくりくる活躍というか・・・
四の五の言わず、カッコいい!!なのです。

こんな普通にかっこいい女性を書いてくれると嬉しいんですけどね・・・。

上田城では、 徳川をどう迎え撃つのか考え中・・・!!
兄・信幸が徳川についたことで、兵には動揺が・・・!!

一方、徳川では、兄・信幸が先鋒を任されていました。
ま、徳川にとって、これから信じうる人物となるのか・・・??
家康としては、試す絶好のチャンスだったでしょう。
まさに踏み絵状態ですね。
どちらも生き残るための作戦であったはずなのに、いきなりピンチ!!

「わしはお前を信じるが、僧でない者もおるのだ。
 そのための先鋒である。
 有無を言わせぬ戦いぶりを見せてみよ!!」by家康

ま、これで家康以外の・・・信幸に不満タラタラな家臣たちも、一目置くかもしれない・・・
家康のやさしさってパターンはあるかしら・・・??

沼田に入った信幸・・・


その頃上田では・・・三成から「小諸、深志、川中島、諏訪、切り取り次第」で領地にしていいという。
昌幸は・・・値をつり上げる・・・「甲斐・信濃、二か国」も要望して・・・
許可を得ることに成功!!

「よっしゃ~~~!!」by昌幸

ところで、この切り取り次第って、曲者ですよね??
明智光秀の出雲・岩見の時もそうでした。
自分でなんとか取ったらあげるよ的な考えなので、絶対くれるわけではありません。
そして、言ったもん勝ち・・・はったりで、簡単に甲斐・信濃もつけて・・・となったんでしょうが。。。
やっぱり昌幸にとっては、自分が大殿(武田信玄)と活躍した甲斐は絶対外せないみたいですね。
かなり固執してますから・・・。

この戦・・・真田が要やもしれぬ・・・と、吉継・・・徳川の最前線にいますからねっ!!

宇都宮で上杉をけん制していた秀忠は、東山道を3万の兵と共に信濃に・・・もちろん、真田を討つために・・・!!

上杉では・・・出陣しようとする景勝に・・・

「伊達や最上の動きも気になりまする。
 我らが動くのは、石田勢と徳川勢がぶつかってから。
 天下分け目の戦でござる。
 ひと月、蓋つきで勝負がつくとは思えませぬ。」by兼次

そうなんですよね・・・誰もがそう、思っていたことでしょう。
長い、長い、戦国時代・・・前回日の本を二分にした戦いはのらりくらりの応仁の乱でした。

長~い時間をかけて攻略するって誰もが思っていたことでしょう。


9月1日江戸を発った家康軍3万が、西へ向かいました。
2日後・・・秀忠が小諸城に入りました。
いよいよ上田で戦いが・・・


昌幸から信幸に書状が・・・。
どうも降伏するらしい・・・。

maru10












やってきたのは信繁!!
降伏条件は・・・??
①城は明け渡す
②兵は皆、城から帰す。
③真田安房守の命はとらない
④城はいずれ返していただく
⑤本領安堵
⑥真田安房守を今後徳川の家臣として丁重に扱う

これを認めていただけるのなら・・・という信繁。

「申し訳ございません!!」と、平謝りの信幸。

時を稼いでるとしか思えない・・・という信幸。

「これは・・・怒ってもいいのか・・・??」by秀忠

そうそう、百戦錬磨の昌幸VS凡庸ボンボン秀忠・・・
格が違うんですけど・・・ですが、ま、怒ってもいい部分は⑥かな??

小田原攻めの時もこんな感じでしたよね。
秀吉が約束守らなくって命とっちゃいましたけど・・・。

「上田を攻める~~~!!」by秀忠
怒っちゃいましたよ・・・。
交渉決裂!!

「これでよい・・・!!」by昌幸

9月9日・・・秀忠は小諸を出て染屋原に陣を敷きました。

「源三郎とは戦いたくないのう・・・」by昌幸

つぶやく昌幸に、私に策があるという信繁!!

一芝居打って信幸に砥石城を攻めさせるという。
戦っていると見せかけて、”内通者”に門を開けさせ、なだれ込んできた信幸軍が勝利するというものでした。
そして砥石城明け渡すというのです。
こうなると、信幸のメンツも立つわけですが・・・

「門を開ける役をお前に頼みたい。」by信繁

”内通者”の役は、三十郎・・・。

「そしてわれらが去っても城に残れ。」by信繁

「どういう事でしょうか」by三十郎

「内通者が一緒に逃げてはおかしい。」by信繁

「しかし・・・!!」by三十郎

「これ以降は兄上に従うのだ・・・!!」by信繁

maru15















「嫌でございます。
 三十郎は・・・三十郎は、源次郎様の下にいとうございます。」by三十郎

「お前が一番信じられる男故、頼んでいるのだ!! 
 父と兄が本気で戦うことを避けるにはこれしかない!!
 いずれ、真田がまた一つになるまでの辛抱だ!!」

泪で熱くなる三十郎・・・!!

うまいなあ・・・!!
この矢沢三十郎頼幸、信繁と同世代のように見えますが、実は昌幸の従兄弟にあたります。
3歳年上って説も、15歳以上上って説も。。。
でもって、武勇優れた男なんですが、信繁→信幸→信幸の子供達・・・と、仕える人間が変わっています。
どこで、どんなふうに変わるのか??楽しみだったんですが、ここで変わるんですねっ!!
グッとくるとってもいい演出です。

このことは、兄・信幸にも伝えられました。

前回の上田攻めでコテンパンにやられてしまっていた徳川軍・・・
ジリジリと攻める作戦のようで・・・誰か砥石城を・・・!!
とそこで信幸が自ら名乗り出ます。

「その役、どうかこの伊豆守にお任せくださいませ。
 砥石城は勝手知ったる城・・・攻めるにはそれがしを置いて他にはございません。」by信幸

親子で戦わせるのは・・・と、訝し気に言った正信でしたが、
「それもそうだなあ・・・」という秀忠・・・
信幸に本多様は、私を疑っておられるのです。と言われ、そうなのか??という始末。
面白みのない真面目な信幸にまで突っ込まれる秀忠って・・・どこまでボンクラ書かれちゃうんでしょう??

砥石城に内通者がいるので、任せてくれと自信気な信幸・・・
真田家の作戦が始まっちゃいましたよ。

城を守っているのはもちろん信繁!!
戦いが始まりました。
開門するは三十郎!!

「矢沢三十郎頼幸!!
 真田伊豆守の命を受け、只今より徳川方にお味方仕る!!」by三十郎

「ご苦労であった・・・!!」by信幸

ということで、三十郎は信幸の下へ行っちゃいました。
いろんな気持ちが交錯する中・・・勝鬨が・・・砥石城は信幸によって落城!!

この日から信幸は、砥石城から一歩も動かなかった・・・
徳川勢が上田を攻めている間、真田勢同士でぶつかることは一度もなかった。。。

おお!!素晴らしい作戦です。

結果的にこうなったのか、作戦でこうなったのか・・・そこはよくわかりません。
もともと昌幸が降伏すると言っていたのに降伏しなかったことで、信幸は徳川方にもっとこっぴどく怒られたともいわれています。
そこで、窮地に陥った信幸が砥石城攻めを進言したともいわれています。
あ・・・策を練ったのはもちろん昌幸ですけどね。
ということで、もっと情けない信幸だったのかもしれませんが、なかなかカッコいい信幸に仕上がっていましたね。
最近の存在感大です。

徳川は3万の大軍勢・・・ネックは兵糧!!
それは、正信もわかっている・・・
刈田をさせるか?させないか??これは、とっても重要です。
どの戦いでも、大軍が通った後には、何一つ残っていない(食料も女も)ということは普通でした。
庶民・・・特に農民にとっては大軍勢の戦いなんて、百害あって一利もないのです。あ・・・マイナスか・・・??

徳川の兵糧小屋を攻める小山田誠茂、刈田をさせない堀田作兵衛。
それにしても、作兵衛、ほんとカッコいいわ~~~!!

焦る秀忠・・・雨まで降ってきました。

「なるほど・・・これか!!」by正信

正信は昌幸の本当の狙いに気が付いたようです。
退路を断たれてしまいました。

そしてあくまでも裏をかこうとする昌幸・・・

「兵500を連れて、本陣の裏へまわれ。
 蚕山じゃ・・・。
 秀忠の首を取ってしまえ!!」by昌幸

「本陣まで気づかれずに攻め込めるでしょうか?」by信繁

「そのために、半月欠けて山麓から染屋原の攻め口を切り開いてきた。
 一気に突っ込めるぞ!!」by昌幸

「ここに本陣を置くのがわかっていたのですか?」by信繁

maru16















「染屋原は、上田城を攻めるには絶好の高台にある。
 ここしかないと、はなから踏んでおったわ!! 
 戦はな、源次郎。
 始める前が肝よ・・・!!」by昌幸

おお!!
戦は戦う前が肝心!!
それは、秀吉も家康もおんなじことを言ってるわ!!
特に、策謀に長けていた秀吉は100%そうだったんじゃないかしら??
昌幸も同じなのね。
戦っているときがウキウキ、とっても楽しそうです。

上田の・・・真田の全てをかけた戦いが始まろうとしていました。

「果たして総大将の首、取れますか・・・。」by内記

「取れんでもよい・・・
 秀忠は初陣じゃ・・・思い切り怖がらせてやるのよ。
 初陣で戦の怖さを思い知らされた者は、生涯戦下手で終わる・・・。」by昌幸

今までの戦いの全てをつぎ込むかのような昌幸がそこにはいました。
百戦錬磨の戦上手!!
そこに負けの二文字はありません!!

しかし・・・陣はもぬけの殻・・・
上田を攻めることなく、撤退していたのです。

血気に逸った福島正則が、石田方の儀布教を落としたのである。
これで西国の緊張は、一気に高まった。
慌てた家康は、秀忠軍に合流を急ぐよう命じた。

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勝っておった・・・と悔しがる秀忠・・・。
秀忠が関ケ原に間に合っていたら・・・というifもよく言われますが・・・最近は、あんまり変わらなかったんじゃないかなあ・・・とも思っています。
ま、恩賞を与える段になって、「豊臣恩顧ばっかじゃん!!」と家康が焦ったのは本当でしょうけどね。

9月15日、石田三成率いる8万の軍勢は、関ケ原に陣を張った。

maru12












対する徳川家康軍は9万。
天下分け目の対戦が今、始まろうとしている。

maru13












そんな中、上田では祝杯があげられていました。
どうして秀忠軍が撤退したのかも知らずに・・・。

maru17















そこへ・・・神妙な顔をして佐助登場!!
「関ケ原に於いて、石田治部少輔様と徳川内府様との軍勢がぶつかりました・・・!!」by佐助

「ついにぶつかったか・・・!!」by昌幸

「当たった~~~!!」
「甲斐、死なのは殿の物でございます!!」by etc.

「静かに~~!!
 佐助・・・続きを・・・!!」by信繁

佐助・・・何を言う・・・??

「はい・・・
 戦は朝方に始まり、昼過ぎには勝敗が決しました。
 徳川方の大勝利でございます。」by佐助

「なんだと・・・」by昌幸

「大谷刑部様はお討ち死に・・・
 石田治部様は行き方しれず・・・。」by佐助

いきなり関ケ原の戦いが終わっちゃいました。
が・・・当事者の家康さえも、こんなに早く終わるとは思っていなかったでしょう。
だって、息子・秀忠と密に連絡とってないですもんね。
だから、秀忠も関ケ原に後れちゃったわけで・・・。

誰も予想できなかった関ケ原の戦い・・・
端の方で戦っていた真田や上杉に・・・あ・・・九州勢もか・・・
だれも、昌幸のような苦虫をかみつぶしたような顔をしたことでしょう。

真田家としては、風雲急を告げる・・・急転直下の事態が待っていますが・・・。
楽しみにしています。


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戦国乱世に終止符を打ち、英雄・徳川家康が創設した江戸幕府・・・

幕府をいかに存続させるのか・・・??

家康からその難題を突き付けられたのが、二代将軍秀忠です。

しかし、秀忠は、凡庸という有り難くないレッテルを張られた人物でした。


きっかけは真田昌幸との戦い・・・第二次上田合戦にあります。

秀忠率いる3万8000に対し、真田軍2500!!

圧倒的な兵力差で勝って当然のところ・・・秀忠は敗北!!

この合戦に手間取ったことで、関ケ原に間に合わないという前代未聞の大失態を犯してしまうのです。

しかし、関ケ原は流動で、家康も何もわかっていませんでした。


1598年8月18日、天下人・豊臣秀吉がこの世を去りました。

この時、秀吉の後継者・秀頼はわずか6歳・・・。

豊臣政権は、有力大名の合議制により支えられることとなります。

しかし、大老・徳川家康と奉行・石田三成との対立が・・・!!

治まりかけていた天下が再び乱れ始めます。


秀吉の死から2年・・・

1600年6月、上杉征伐。。。

有力大名・上杉景勝が城を修築、多数の浪人を集めるなど、豊臣政権への謀反の疑いが生じました。

家康は豊臣の名代として会津へ・・・!!

しかし、家康が会津に向かった隙に、三成が挙兵!!

家康に反旗を翻したのです。

この三成挙兵によって・・・東軍と西軍に分かれての戦いが日本全国に広がりました!!


家康は、「上杉征伐」参陣の武将たちの味方にすることに成功!!

さらに家康は江戸にもどって全国の武将に書状を送ります。

家康は時間をかけて東軍勢力拡大を目論んでいました。


そんな中、家康が危惧していたのが真田昌幸でした。

昌幸は、かつて徳川軍を破ったことのある稀代の戦上手!!

さらに昌幸の領国は、東軍と西軍の勢力の中間にあり、両者が連携を図るうえで重要!!

家康にとっては目の上のたんこぶとなっていました。



真田攻め総大将に抜擢されたのが、家康の三男・徳川秀忠でした。

秀忠22歳・・・これが初陣でした。

当時、家康の息子には三人の成人男子がいました。

後継者と目されていたのは秀忠・・・

「秀忠はあまりに律儀である。」by家康


この時家康は江戸の残っていました。

9月6日・・・総大将・秀忠は高台に布陣!!

徳川軍3万8000が2500の真田に迫る・・・!!

これで落ちない城はない・・・!!

秀忠にとって勝利が約束された戦いが始まろうとしていました。


徳川軍3万8000、対する真田軍僅か2500!!

初陣にして圧倒的に有利な戦いに秀忠は、上田城背後の砥石城を攻略!!

秀忠の戦術は堅実でした。


圧倒的に上田勢を包囲した秀忠軍・・・。

秀忠の勝利は誰の目にも明らかでしたが・・・両軍が場外で応戦!!

敗走する真田軍を追い徳川軍が上田城に殺到・・・

しかし、待っていたのは真田の伏兵!!大混乱の徳川軍・・・に、追い打ちをかける!!砥石城周辺に隠れていた別動隊が秀忠軍本体に襲い掛かります。

結果、秀忠軍は小諸まで撤退・・・軍の立て直しを余儀なくされました。


一方中央は、風雲急を告げる!!

家康が派遣した福島正則率いる東軍の先鋒隊が、美濃に進軍!!

8月23日勢いのままに岐阜城を陥落してしまいました。

東西両軍が濃尾平野に続々と集まってきました。

東軍の総大将不在のまま戦いが始まると、その後の発言力が弱まってしまう・・・!!

8月29日家康は秀忠に使者を・・・早馬を・・・!!

9月1日家康は急遽江戸を出陣!!

東軍の先鋒隊長・福島正則への手紙には、秀忠はおよそ9月10日にはその地に参るであろうと記されていました。

しかし、家康には2つの大きな誤算がありました。

①秀忠が真田との緒戦に敗れていたこと

②悪天候の影響で、死者の到着が遅れたこと


9月9日、ようやく秀忠のもとに使者が到着!!

緒戦に敗れた秀忠が戦略を練り直しをしている最中でした。

使者がもたらした書状には・・・

「急ぎ西上(上洛)せよ。」

作戦の変更命令です。

しかし、真田との戦いは始まったばかり・・・真田を放っておくわけにはいかない・・・どうする・・・??


徳川家にとって、秀忠軍は最も重要な軍勢でした。

秀忠軍は徳川四天王の一人・榊原康政や本多正信・・・徳川軍の精鋭部隊が主力となっていました。

一方家康軍は・・・豊臣恩顧の大名・・・福島正則・黒田長政などのいつ西軍に寝返ってもおかしくない者たちが群を構成していました。

東西決戦が行われる場合、家康の頼みの綱は、秀忠率いる徳川軍!!

すぐに西上し、家康と合流しなければ、決戦に敗れる可能性が・・・!!

初戦で敗れた上に西上する・・・??
それとも戦を継続・・・??
緒戦で敗北を喫したとはいえ徳川の兵力は真田を圧倒している・・・徳川方の勝利は揺るがない・・・??

1600年9月9日・・・秀忠の本陣で軍議が行われました。
どうする・・・??
秀忠は、真田との戦を継続することを主張したと言います。
しかし、重臣からの助言に考えを改めます。
三成さえ、滅亡させれば・・・!!

9月11日、家康は西軍勢力に対峙する清須城に・・・!!
秀忠軍の到着を待ったものの・・・秀忠が小諸を出発したのは同じ11日でした。
険しい中山道を大軍を引き連れて行軍する秀忠。。。
先を急ぐ秀忠を悩ませたのは天候でした。
雨が多く、川が氾濫・・・難所ばかりで思うように進めません。
秀忠軍が妻籠に到着したのは9月17日の事でした。
妻籠城に入城した秀忠・・・関ケ原まで130㎞!!
順調にいけば2日の距離でした。

しかし・・・秀忠はここで知らせを受け取ります。
東西決戦が2日前に終わっていたことを・・・!!
秀忠はその知らせに大いにいどろ板と言います。

どうして家康は、秀忠軍の到着を待たずに戦を始めてしまったのでしょうか・・・??
秀忠が中山道を西上していた9月15日、戦況が大きく変わりました。
それまで西軍は、大垣城を拠点に立てこもり、東軍と対峙していました。
突然西軍が大垣城を出て、関ケ原へ・・・!!
それを追って、東軍も関ケ原へ・・・!!
東西合わせて15万!!引くに引けない戦いの舞台が整ってしまったのです。
1600年9月15日関ケ原の戦い・・・
一進一退の攻防も、はじめは西軍が有利でしたが・・・小早川秀秋の裏切りに戦況は一変!!
東軍が勝利を収めることとなるのです。
家康の調略が功を奏しました。
誤算の連続だった関ケ原の戦いは、家康の大勝利に幕を下ろしました。

秀忠が到着したのは、5日後の9月20日。
家康は、面会を拒絶したと言われています。
家康は、重臣一同を集め、問いかけます。

「いずれの子に徳川の家督を譲るべきか??」

この時秀忠以外には、次男・秀康、四男・忠吉。
次男・結城秀康は、他家に養子に入っているとはいえ上杉征伐で抑えを任された武勇な武将、四男・忠吉は、関ケ原に参戦、先陣を切る活躍を見せています。
誰を後継者に指名するべきか・・・??議論は紛糾!!
しかし、家康が指名したのは、関ケ原に遅参した秀忠でした。

「乱世ならば武勇を優先させねばならぬが、天下を治めるには文徳が必要である。

 そうでなければ創業の志を守り保つことはできない。
 秀忠こそ、後継者に最適である。」

翌日、秀忠は家康に面会を許されます。
秀忠は家康に謝罪するものの、言い訳は一切しませんでした。
しかし、この大失態によって汚点を残し、凡庸と言われるようになるのです。

1603年、関ケ原の戦いで勝利した徳川家康は征夷大将軍となり、江戸に幕府を開府!!
その2年後、家康は秀忠に征夷大将軍を譲り・・・2代将軍・秀忠が誕生します。

が、家康の影響力が強く、秀忠が権力のすべてを掌握できたわけではありません。
未だ大坂には豊臣家が存続・・・江戸幕府の権力基盤も盤石ではありませんでした。

秀忠が将軍としての地位を確固たるものとしたのは、天下取りの総仕上げ・・・1614年大坂の陣です。
この時の軍議で家康は豊臣家との講和を図ろうとしていました。
ところが秀忠が総攻めをかけ、落城すべしと三度も強硬策を主張したと言われています。

さらに落城間際、秀忠は秀頼の正室である娘・千姫の命乞いを退け、秀頼を自害へと追い込んでいます。
豊臣家を滅ぼした汚れ仕事・・・家康がやりたくなかった部分を秀忠がやって・・・それを家康は評価したのでしょう。

当時、日本に滞在していた外国人の日記にこう記されています。

「秀忠は武人ではなく 大政治家である。」と。

1616年4月17日、徳川家康死去。

父亡きあと、秀忠の政治家としての能力が開花!!
謀反のうわさが絶えない腹違いの弟・松平忠輝を改易、兄・秀康の子・忠直を改易。
危険分子を排除していきます。
また武家諸法度を発布。有力大名の取り潰しを実行・・・その中には、関ケ原の戦いで東軍の先鋒を担った福島正則を筆頭に、蒲生忠郷・田中忠政・最上吉俊・堀尾忠晴・本多正純・・・41家を改易。

取り潰した大名の多くは、家康にとって天下取りを手助けしてくれた恩義のある大名たち・・・
しかし、感情に流されることなく幕藩体制を強化していきます。

禁中並びに公家諸法度も発布・・・朝廷をも幕府の管理下に置いたのです。
朝廷が権威を取り戻すのは、明治維新となります。
1632年1月24日徳川秀忠死去・・・享年54歳。

死の間際・・・神の称号を受けたいか?と問いかけられた秀忠は・・・

「家康公は数百年続いた争乱を打平げ、古今未曽有の大仕事を成し遂げたが、私はただ先代の仕事を守るだけで、何の功績もない。
 神号を受けるなど、思いもよらない事である。」

家康の創業した江戸幕府は、秀忠により礎が築かれ、260年の平和政権へと反映していくのです。


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拾の誕生によって、関白秀次は居場所を失う。
追いつめられた秀次は、関白の座を放棄するという前代未聞の行動に出た。

受難・・・誰の受難・・・??もちろん、秀次の受難でしょう。。。

何もかもが嫌になって・・・すべてを放り出してしまった秀次・・・。
きりに説得されるも、どうしても太閤に弁明できない秀次・・・。

その頃、聚楽第では上を下への大騒ぎ!!
って、もちろん、秀次がとんずらしたことは内密に、信繁たち中での大騒ぎ!!
伏見の大谷吉継の耳に入れるため、出発するという信繁。。。


maru1












その頃、昌幸パパと信幸は、太閤に命じられてた城普請!!
弟のお情けで官位をもらったと・・・官位を返上したい信幸ですが・・・。
それよりなんか考えでもあるのか、自分が任された城普請を信幸にさっさと預けてどっか行っちゃいました。
何を想う・・・??信幸パパ!!

大谷吉継の元へやってきた信繁・・・
朝鮮から帰ってきて・・・吉継は調子が悪いという・・・。

「心当たりがある。。。」と、大坂へ行く信繁・・・聚楽第に行く吉継。
どうにもこうにも人騒がせな秀次さんです。

で、どっかに行ったって・・・吉野太夫のところでした。
その頃・・・

maru2













真田の家風には慣れたか??とか、人と話すときは相手の目を見なさい!!みたいな話をしています。
ただ・・・この時代、目を見るのは無礼だったと思うのですが・・・
そんなことは全く気にならない大河です。

その頃大坂城では・・・??
秀次君、見~付けた!!と、信繁に見つけられてしまいました。

maru3













「殿下~そこにいるのはわかっていますよ。」by茶々。
って、この殿下はこちら。

maru4













「関白殿下!!」by大蔵卿局

「聚楽第には戻れぬ!!」と、駄々をこねる秀次。。。

maru5












そして・・・京にある真田屋敷に来てしまった秀次・・・。

なんとここで、母が公家の出であることを言ってしまう信幸。
「菊亭様でございましたよね・・・菊亭晴季卿・・・」by稲
なんと、菊亭様は、秀次の妻の郷らしい・・・
妻の姉・・・??と不思議がる秀次に、
「別の菊亭かと存じます。もうこの話は・・・」by薫

なんと、この大河では、嘘をついていた設定になってましたね。
実際は、よくわからないというのが本当なんです。

そんな一言多かった稲に・・・

maru6












「無礼ではございませんか??」とこうが詰め寄ります。
そして、徳川への文を破り捨ててしまいました。
「真田の内情を伝えるのがあなた様のお役目なら、それを押し止めるのがわたくしの役目・・・!!」byこう
「おこう・・・そなた、旦那様の前の奥方だったそうですね。
 わたくしが知らぬと思ったか・・・!!」by稲
「そうであろうがなかろうが、わたくしは、真田家をお守りするだけにございます!!」byこう

おお!!こう、かっこいいですね。稲もかっこいいです。
この戦国時代、実家に嫁ぎ先の内情を伝えるのは当たり前のことでした。
その点、こうはいとこ同士だったから、そんなことはなくお気楽夫婦でいられたでしょうけど、それはそれで領地拡大なんかにはトンと無縁になってしまうし、なかなか難しいものがあります。
それに、稲は一応家康の養女ですから、こんなふうにこうがずかずかやってくることはできません。
茶々の大蔵卿局的な人に阻まれていたはずです。

表向きは流行り病とした秀次・・・。

maru7













秀次の娘・たかは何もかも知っているかのような賢い娘・・・。
信繁にマリア様を託すのでした。

太閤殿下に呼ばれた信繁・・・どうする??
「お主だけが頼りじゃ・・・」by秀次

maru8











呂宗助左衛門の話で盛り上がり中!!
話は秀次・・・ではなくって、嫁とりの話でした。
大谷吉継の娘・春!!
なんでも、秀吉は信繁を傍に置いておきたいのだという・・・。
どうする・・・??

そして・・・三成にばれていた秀次のとんずら・・・。
これもどうする・・・??

maru11












ついにばれてしまった・・・!!
分不相応の仕事をさせるのは可哀想だというのは北政所。
それでも、豊臣で残っているのは秀次だけ!!という秀吉にそれを自らの口で伝えてほしいと願い出る信繁。

しかし・・・高野山へ逃げてしまいました・・・!!

高野山・・・青厳寺・・・そこにいた秀次。。。

「生まれ変われるなら・・・もう二度と叔父上の甥にはなりたくない・・・」by秀次

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「従五位下であったかな・・・お主の位・・・何やら不服だとか・・・
よもや返上したりはせぬな。
あれは、私が関白として行った数少ない事の一つだ・・・。」by秀次

そう信幸に語る秀次。。。
もう気持ちは決まっているかのような優しい顔をしていました。
もともとこんな優しい性格なんでしょうね。

「高野山には、わしの命令で蟄居したことにしよう。
 謀反の疑いありと・・・一月ほど謹慎させてから、疑いが晴れたことにして連れ戻す。
 すぐに使いを高野山へ出し、あいつにそう伝えよ・・・!!」by秀吉

秀吉も辛そうです。
それを面白がる徳川の人々・・・!!

死者が来る前日・・・大坂へは行かないという秀次。
もう・・・豊臣の家に私の居場所はない・・・
使者は追い返してくれという秀次にできないという信繁。
大きく頷く秀次は何を想う・・・??

謹慎すれば許してくれる・・・そう使者となってきたのは福島正則でした。
しかし・・・

maru12












目をかけていたのに自害したことに、怒り狂う秀吉!!
「人の情けを踏みにじりおって!!」by秀吉

「悪いのはあいつじゃ・・・!!
 わしが怒らせたらどんなに恐ろしいか、孫七郎に見せてやる・・・!!
 秀次は、謀反が発覚してわしの命で腹を切ったことにする。
 首は三条河原に曝せ!!
 それから妻と子供はことごとく殺せ・・・!!
 謀反人の身内じゃ!!当然であろう!!」by秀吉

躊躇する三成・・・

「なんだ、その顔は・・・!!
 お前にできないのなら、わしが直々にやるまでだ!!
 いつものわしと思うな!!」

秀吉の怒りはすさまじかった。
三条河原に曝された秀次の首の前で、その子供、妻、側室、侍女に至るまで30人以上が処刑された。

ちなみに史実は・・・幼い子どもから侍女まで39人、京の三条河原に曝された秀次の首の前で斬り殺され、「畜生塚」と呼ぶ穴に投げ捨てられた。といわれています。
 


ここまでしなければならなかったのか・・・??

家臣たちにも動揺が走ります。

そんな中・・・からくり部屋を発見する信繁。。。
そこにいたのは・・・??

maru16













秀次の娘・たかでした。
どうやったら助けることが出来る・・・??

秀次を想い泣く秀吉・・・
そんな秀吉に、吉継の娘・春との婚儀を進めてくれるように願い出ます。
そして・・・妻にしようと心に決めていた女子がいる・・・と、告白します。
その女子を側室としたいと・・・それが、”たか”でした。

怒るものの・・・結局は許してくれる秀吉・・・
もし、男子が生まれた場合は仏門へ・・・という命とともに。。。

実際に、秀次の娘の一人が、信繁の妻となって子を産みます。
このたかがモデルとなっているのは確かでしょう。
でもそうすると、年齢が・・・??

が・・・このドラマでは・・・呂宗助左衛門に預け、ルソンへ・・・!!

そして秀吉には死の影が・・・!!


秀次の死に関しては、色々な説があって・・・
秀次が本当に殺生関白だったから・・・とか、
耄碌した秀吉によって・・・とか、
秀吉の痴呆によって・・・とか、
秀頼のために・・・とか、
そして自刃・・・とか・・・

色々言われています。

今回は、この自刃を取ったわけですが、秀吉による一族皆殺し・・・
これは本当にひどかったのか・・・??
よく考えてみました。
例えば有名ですが、家康は信長の命令で、長男・信康&築山殿を自刃させています。
血のつながった親子でさえ殺される・・・
これまた信康に非があったのかもしれませんが・・・でも、そんな時代です。

秀次に謀反・・・としてしまえば、一族皆殺しとなるでしょう。
ただ、恐ろしい位に秀吉に親族のいなかったことが、悲劇に拍車をかけていますね。
家康なんかは16人子供がいるので、それこそ信康がいたことすら忘れてしまいそうです。
可哀想ですが・・・。


なので、やっぱり親族が少なかったこと・・・
秀頼ひとりにすべてがかかってしまったことが豊臣の悲劇だと思うんです。
そして・・・その悲劇は、秀頼が大事な大事な秀吉によって・・・目が摘まれていってしまった・・・。
異様な悲劇に仕上がってしまいます。



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1590年豊臣秀吉が天下を統一。
しかし、加藤清正と石田三成の亀裂が関ケ原の戦いを生むこととなりました。
その真実とは・・・??

1574年長浜城・・・織田信長の家臣・豊臣秀吉がこの地で初めて一国一城の主となりました。
有能な少年が付きました。
その中に・・・加藤清正と石田三成がいました。

三成は15歳で、秀吉の身の回りの世話をする近習番という役で、抜群の計算能力を持つ勉強家でした。
二つ下の清正は、剣術の才能に・・・武芸に秀でていました。
切磋琢磨して大きくなったふたり・・・
最初に名を挙げたのは清正でした。

1583年賤ヶ岳の戦い・・・秀吉と柴田勝家が戦った戦で、七本槍として功名をあげます。
その後も武断派の中心として、秀吉の領土拡大に貢献します。
遂には功績が認められ、肥後国北半分・・・25万石の大名となりました。

三成は、胃腸が弱く、戦いでは腹を壊して戦えません。
その代わりに、豊臣の家臣随一の頭を生かし、兵員・武器・兵糧・・・兵站を担当し、裏方として活躍しました。
二人は秀吉の天下取りに貢献していきます。

1590年、秀吉は小田原討伐をし、天下取りを実現させました。
それは、清正と三成の夢が達成された時でした。


平和な世の中になったことで、戦が減ってしまい・・・武断派と入れ替わるように台頭してきたのは奉行派・・・。
その中心は三成・・・。
法治国家としての刀狩、太閤検地を実施し、豊臣政権になくてはならない存在となっていきます。
そんな三成に反発するようになっていく清正。。。

秀吉もこの関係は解っていたようで・・・
奉行派の三成には19万4千石、武断派の清正には19万5千石・・・と、武断派に優越感を持たせ、対立が大きくならないように苦心していたようです。
しかし・・・最悪の事態へ・・・!!

佐賀県唐津市には、名護屋城がありました。
1591年その築城を任されたのは、城づくりのスペシャリスト・加藤清正をはじめとする九州の大名たちでした。
清正は5か月で巨大な天主、たくさんの櫓・・・大坂城に勝るとも劣らない城を造ります。
さらに周囲3キロ圏内に120もの陣屋が築かれ、今までにない大戦の始まりを告げていました。

朝鮮出兵、明の征服です。
この秀吉の海外侵攻に燃え上がったのが・・・九州の清正でした。
小西行長と共に先陣を任されます。
奉行派に主導権を握られていた清正にとってチャンス!!

「武勲を立て、朝鮮で20か国を拝領したい!!」by清正

清正にとっては、自らの領地を拡大させる大きな夢の始まりでした。

三成は・・・大きな疑問を感じていました。

「今大切なのは・・・豊臣の世を不動のものにするための国づくり。
 新たな戦は、百害あって一利なし。」by三成

秀吉に異を唱えたものの・・・聞き入れてもらえませんでした。

1592年、日本軍・15万9千が朝鮮へと渡りました。
この大軍のうち、1万を任された清正は・・・陣頭指揮に立ち、釜山に上陸北上し、朝鮮の首都・漢城を陥落させました。
そして、朝鮮国の2王子を捕らえ、明との国境まで攻め上り、破竹の勢いでした。
武断派の面目躍如!!
朝鮮の兵士からは鬼上官、幽霊将軍と呼ばれ、恐れられました。
が・・・時間がたつにつれて戦況は様変わり・・・
民衆が立ち上がったのです。
朝鮮水軍が活躍しだすと、日本の補給路が断たれ、苦境に立たされてしまいました。
さらに、朝鮮の援軍として明の大軍が参加!!
戦況は膠着状態に入りました。
膠着状態・・・多くの兵がいるために、食料や武器がたくさんいることとなります。
この危機的状況を打開するために、秀吉に変わって朝鮮に渡ることとなった三成。

「早期終戦に向けた講和しかない!!」by三成

これが、異国で戦う武将・・・清正たちの反感を買うようになるのです。

三成は戦における消耗を最小限に抑えるために、親しかった小西行長と共に講和に向かいます。
その講和交渉の切り札が、清正が捕らえた朝鮮国王子の引き渡しだったのです。
これに猛反発した清正!!

「我々は何のために、この過酷な戦いをやってきたのか・・・!!」by清正

最前線で戦ってきた清正にとって明との講和は耐え難いものでした。

そこへ・・・秀吉からの帰国命令が・・・!!
最も活躍し、武功をあげた清正に、帰国命令とは・・・!?
そのまま謹慎処分となってしまいました。
清正の謹慎は、三成の謀略だったのでしょうか??
清正は、告げ口と思ったかもしれませんが、三成としては見てきたそのままを秀吉に報告したというのが正しいのかもしれません。
それが三成のいいところでもあり、悪い所でもあったのです。
三成は裏方、清正は表・・・と、住む場所の違った二人、もともとは憎みあったわけではありません。
誤解にせよ、三成のせいで謹慎となったと思った清正は、益々三成を忌み嫌うようになっていきます。

1585年秀吉が関白に就任、諸大名が直接謁見したり献上品を手渡すことが出来なくなります。
その窓口となったのが側近の三成でした。
秀吉に好かれるかどうかは三成次第・・・。
古参の武将たちも、かつての近習番・三成にひれ伏せざるを得ませんでした。
三成には諸大名からのわいろが殺到!!
ところが三成は私腹を肥やすことなくはねつけます。
よく言えば清廉潔白、悪く言えば融通が利かない・・・。
主君秀吉のために働けば働くほど敵が多くなっていく三成。

しかし三成は秀吉のせいで悪者になろうとも傍を離れませんでした。
秀吉から大名を打診されたときも・・・断っています。
自分が九州に行くと豊臣政権を支える人間がいなくなってしまう・・・!!と。

秀吉の忠誠心なら加藤清正も負けていません。
朝鮮出兵時の虎退治の逸話は・・・秀吉への忠誠心と思われます。
世継ぎが出来なかったため・・・当時朝鮮に生息していた虎の肉を秀吉に献上しようとしたのです。
清正の虎退治は、清正の勇敢さを示すとともに、秀吉への忠誠心からだったのです。

朝鮮出兵の処罰で、弁明の余地も与えられず、伏見の屋敷に謹慎となった清正・・・
ひたすら法華経を唱える日々・・・。
そこへ・・・1596年慶長伏見地震が・・・!!
秀吉のいる伏見城に、甲冑をつけて一番に駆け付けたのが清正でした。
地震に乗じた反乱を防ぐために、戦支度を整えて参上したのです。
清正の忠誠心に感激した秀吉は、その場で謹慎を解きました。

三成、行長がしようとしていた講和が破談となり、朝鮮への再出兵を命じることとなった秀吉。
秀吉の命を受けた清正は、再び一万の兵を引き連れて朝鮮へと渡ります。
1597年慶長の役です。
その戦いは、前回にもまして過酷なものでした。
明・朝鮮軍の猛攻撃を受ける清正。
食料が尽きた日本軍は、苦しい戦いを続けます。
この危機的状況に三成は、援軍、食料、武器を送ろうと試みますが、朝鮮軍に海を抑えられてしまい、十分な輸送が出来ませんでした。
しかし、最前線の清正にはそんなことは解りません。
三成に対する不満が募る一方!!
1597年12月・・・明・朝鮮軍が日本軍の蔚山城を奇襲!!
劣勢に立たされたこの戦いで500人が討ち死に・・・!!
その後、包囲されてしまいます。
城内の日本軍は4500、対する明・朝鮮軍は5万7000!!
この時、10キロ離れた西生浦城にいた清正は、周囲の制止を振り切り救出に向かいます。
僅か500の兵で敵陣を突破!!
その日のうちに入城!!
しかし、ここからが地獄でした。
大量の死者を出した日本軍は、壊滅寸前。。。籠城するにも食料や武器は2,3日分・・・
しかも骨まで凍ってしまいそうな寒さで・・・凍死者が続出!!
それでも清正は弱音を吐かず励まします。
食料の尽きた城内では、紙をむさぼり、壁土を食べ・・・もはやこれまでか・・・!!
死を覚悟した清正でしたが、援軍が到着。敵を撃退してくれました。
この10日余りの籠城戦は、清正の戦いの中で最も過酷なものとなりました。
九死に一生を得た清正ですが、そこには援助をしてくれなかった清正への激しい怒りが残りました。
三成と清正の関係は、修復不可能となっていました。

天下人亡きあと、豊臣政権の後を継いだのは秀吉の忘れ形見・秀頼でした。
反目していても三成と清正の思いは同じ!!
幼い秀頼を盛り立てて豊臣政権を守り抜くことでした。
そんな二人の前に立ちはだかったのが・・・五大老筆頭の徳川家康でした。

朝鮮出兵に参加していなかったことで兵力を温存していた家康は、虎視眈々と天下を狙っていました。
1599年3月、前田利家死去・・・まさにその日に事件が勃発!!
武断派の七将(黒田長政、加藤清正、福島正則、加藤嘉明、池田照正、細川忠興、浅野長政)が三成の首をとるために挙兵・・・石田三成襲撃事件です。
直前に襲撃の知らせを受けた三成は、間一髪で難を逃れ・・・この時、仲をとりもったのが家康でした。
三成は奉行職を解かれ佐和山城に蟄居を余儀なくされました。

どうして清正たちは三成を襲撃したのでしょうか?
家康の謀略に引っかかった・・・??
秀頼を大切に思っていた清正、正則たちは、三成に丸抱えにされるよりも、家康に後押ししてもらうことを、描いていたようです。
家康にしてやられた清正!!
本当の家康をわかっていた三成と、わかっていなかった清正。。。

やがて天下分け目の関ケ原へ・・・
1600年6月、兵を東へ動かす家康・・・会津征伐へ・・・!!
三成は家康が上方を離れたのを知ると挙兵を決意します。
豊臣家を守るために、打倒家康を決意した三成・・・その心のうちを無二の親友・大谷吉継に打ち明けます。
しかし・・・
「諸大名に恨みを買っている三成殿が、決して総大将になってはならない・・・!!」と、忠告されます。
三成には人望がない・・・。
そこで三成は家安と並ぶ五大老の毛利輝元を総大将とし、西軍の陣を整えていきます。
そんな中、加藤清正にも西軍に入るように要請がありましたが・・・九州を動こうとしません。
どうして豊臣寄りの政権につかなかったのでしょうか??
三成への反発心から、九州において東軍に賛同する清正。

それがやがて豊臣家を滅亡へと向かわせます。
1600年9月15日、関ケ原の戦い!!
東軍7万4000VS西軍8万4000!!
軍勢では西軍有利も、徳川の裏工作によっての寝返り・・・結局は東軍の圧勝!!
三成は敗軍の将となりました。
密かに陣を抜け出し佐和山城を目指した三成・・・東軍の追手に捕まり京で引き回しの上、斬首となりました。
東軍についていた加藤清正は、西軍の小西行長の弟が守る宇土城に攻め入り、九州で東軍の勝利に貢献します。
1611年・・・清正は徳川の元、豊臣家を存続させるために二条城にいました。
徳川家康と豊臣秀頼の面会を実現させます。
これで秀頼さまも安泰・・・ほどなくして倒れ、50年の波乱の人生を終えることとなります。
天下をわがものにした家康は、大坂の陣で豊臣家を滅亡させてしまいました。
清正が死んで4年後の事でした。

関ケ原の戦いの3日前・・・三成が西軍の武将に送った書状には・・・

「人の心計りがたし・・・」とありました。

三成と清正・・・二人の心が通じ合い、力を合わせていれば・・・豊臣家の滅亡も、徳河の繁栄もなかったのかもしれません。




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