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大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:織田信長

経済で読み解く織田信長 [ 上念司 ]

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群雄割拠の戦国時代、並み居る強敵を退けて天下統一に王手をかけたのが織田信長です。
しかし、その戦績を見ると・・・
上杉謙信・・・64勝8敗36分
武田信玄・・・54勝6敗22分
織田信長・・・151勝42敗9分
と、負け戦が多いのです。

どうして信長は戦国の世を征することができたのでしょうか??
その理由は旗印にありました。
描かれているのは・・・「永楽通宝」・・・どうしてお金を旗印にしたのでしょうか??
それは、銭の力で天下を取る・・・信長の圧倒的な力は経済力だったのです。

1559年尾張国を平定した織田信長は、桶狭間の戦いで駿河・遠江を支配する今川義元に勝利し、天下に名をとどろかせます。
その勢いはとどまることを知らず、美濃の斎藤龍興を責め難攻不落と言われた稲葉山城を制圧!!
岐阜城と改めて新しい居城としました。
天下統一に邁進する信長・・・この時34歳!!
しかし、まだまだ並の大名にすぎず、武田信玄や上杉謙信の足元にも及びませんでした。

1568年、室町幕府の再興を願う足利義昭から支援を要請された信長は、義昭を擁して上洛。
6万もの兵を以て京を制圧し、義昭を15代将軍に就任させます。
大いに喜んだ義昭は、褒美をとらせることに・・・

「此度の礼として畿内5か国の管領に任ぜよう」by義昭

信長にとっては大変な出世でしたが・・・「身に余ること」と辞退してしまいました。

義昭は・・・「管領で不足ならば、副将軍ではどうじゃ」

それでも信長は首を縦に振りません。
何が欲しいのか・・・??

「堺・大津・草津に代官を置かせていただきたい」by信長

代官を置くとは、直轄地にすることで・・・義昭はそれをあっさりと認めました。
どうして信長は副将軍の座より3つの町を選んだのでしょうか??

足利将軍に取り入れられることを拒否し、銭の力で天下統一を果たそうとするマネー戦略の一つでした。

信長のマネー戦略①地位より港町
堺は、日本最大級の港町で、物流の拠点でした。
日明貿易や南蛮貿易の外国船も数多く入港し、国際商業都市として大いに発展。
それは、京都をもしのぐ繁栄と言われ、フランシスコ・ザビエルは
「日本の殆どの富がここに集まっている」と言っています。
一方、大津と草津は、琵琶湖水運港町でした。
当時、京都と日本海を行き来するためには、琵琶湖水運で船を使うのが一般的でした。
そのため、大津と草津には、常に多くの人や物が出入りしていたのです。
信長が、義昭に所望した場所は、いずれも物流の拠点となる港町でした。
当時は、船の積み荷に関税を課していました。
大きな港となれば、莫大な関税収入を得ることができました。
これが、信長の軍資金となりました。
越後の上杉謙信の場合、柏崎港と直江津港からの関税収入は、年間4万貫・・・約60億円でした。
堺や大津などは、莫大になったでしょう。
副将軍より三つの町を選んだ理由は、港町からの莫大な税収を、軍資金にして天下を取るためでした。

1534年、信長は尾張国守護代重臣の織田信秀の長男として生まれます。
守護代とは、守護大名を補佐する立場で、尾張には二人いました。
信秀は、その守護代のひとりに仕える重臣のひとりにすぎませんでした。
信長が生まれた頃から急激に勢力をつけていきます。
そこには圧倒的な経済力がありました。
信秀は、勝幡城近くにある津島近くの港町を支配下に置いていました。
木曽川沿いの津島は、伊勢湾水運の要所で、多くの船が出入りしていました。
信秀は、ここに出入りする船に関税をかけ、莫大な収入を得ていました。
さらに信長が生まれた年には古渡城を築城、それによって伊勢湾水運によって栄えていた熱田湊の関税収入を手に入れます。
すると信秀は、伊勢神宮の下宮の仮殿造営費のために700貫(1億円)を献上。
四千貫(6億円)を京都御所の修理に献上。
圧倒的な経済力を相手に見せつけることで圧倒!!
ついに、尾張国の実質的支配者となるのです。
そんな父を見て育った信長は、「武力に勝るものがある」ことを、知っていたのです。

1560年、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取った翌日、信長は清須城で論功行賞を行いました。
真っ先に一番槍をつけた服部春安か、一番首の毛利良勝が一番手柄だろうと考えていました。
ところが、信長が一番の褒美を与えたのは戦場では目立った活躍もしていない簗田政綱でした。
簗田は信長への情報提供・・・戦った武将たちよりも情報を届けた簗田の方が手柄が上だと考えたからです。
戦国の世に置いて、武力だけにとらわれない信長は、革新的な経済政策を打ち立てていきます。

信長のマネー戦略②楽市楽座

美濃国の戦国大名・斎藤龍興を退けて岐阜城に入った信長は、1568年に岐阜城下に「楽市楽座令」を発布します。
「市の独占、座の特権は全く認めない」
市=商売を行う場所のこと。
当時は、定められた市でしか商売ができず、一の多くは寺社の境内や門前に開かれることが多く、商人たちは寺子銭(場所代)を払わなければなりませんでした。
座=商品の独占販売権を持つ同業者組合のこと。
商人たちはどこかの座に所属しなければ商売ができませんでした。
座を保護している公家や寺社に冥加金(売上税)を払わなければなりませんでした。
信長はこれらを自由化してどこでも商売ができるようにし、以前よりも安く設定した売上税のみを信長側に支払うように命じました。

楽父楽座は、南近江の戦国大名・六角義賢が観音寺城で始めたもので、信長よりも20年ぐらい早く始めていました。
更に進化したものを行った信長です。
信長の経済改革によって岐阜城下には多くの商人が集まりました。
経済は活性化し、城下町が急速に発展!!
信長には売上税ががっぽり!!
しかも、城下町のおかげで人材や物資の確保がしやすく、天下取りの土台と考えていました。

この楽市楽座には、信長の大いなる野望が隠されていました。
”天下布武”という言葉の意味は・・・
鎌倉時代以降の日本は、公家、寺家、武家の3つの権門がけん制し合っていました。
公家や寺家が莫大な税収に寄って武家に対抗できる大きな権力を持っていたのです。
信長は、公家や寺家の介入を許さない、純粋な武家政権の樹立を目指していました。
公家や寺家の既得権益を奪い、経済力を低下を図ったのです。
そして、商人たちを信長の味方につけることに繫がりました。

さらに関所を撤廃。
これもまた天下布武のためには外せません。
戦国時代の関所は税関で、公家や寺社が自領の荘園内を通る道に勝手に関所を設けていました。
通行税を課して、大きな収入源としていたのです。
そのため、関所の数は膨大で・・・
荘園が入り組んだ淀川河口から京都までの50キロの間に、380カ所もありました。
ひどいところでは、1里の間に40カ所もありました。
行商人は大変で・・・上乗せした値段が高くて商品が売れないという悪循環も・・・
そこで信長は、1568年頃から関所の撤廃を始めます。
公家や寺社の資金源を断ち、商品をスムーズに動かし経済を動かしました。

信長のマネー戦略③交通インフラの整備

戦国時代、通常戦国大名たちは敵を警戒して居城辺りはわざと悪路にしていました。
橋も架けない・・・そんな常識を・・・
1574年、命令を出しています。
・入り江や川には船を並べた上に橋を架け、意志を取り除いて悪路をならせ
・本街道の道幅は、3間2尺(約6.5m)とし、街路樹として左右に松と柳を植えよ
・周辺の者たちは道の清掃と街路樹の手入れをせよ

交通インフラの整備によって商品流通を活性化させ、財を成した商人たちから多くの税を集めることが目的でした。
道を通りやすくすることで敵に攻められやすくなる・・・そのことを、圧倒的な経済力によって強化しました。

兵農分離・・・当時の多くの兵士たちは、半農半兵の地侍でした。
普段は村に住んで田畑を耕し、合戦が始まると戦場に駆り出されていました。
そのため、農繁期の秋には出陣もままならず、長期遠征も困難でした。
「戦に専念できる兵士が欲しい」
そこで、信長が目をつけたのが、地侍の次男、三男でした。
当時は調子相続が原則で、次男、三男は長男が亡くなった時の控えで、家を継ぐことはありません。
そんな次男、三男を召し抱え、親衛隊を結成しました。
親衛隊が活躍すると、兵農分離を強化します。
召し抱えた兵士たちを城下町に住まわせて、武器ごとに集団訓練をさせます。
高い組織力と機動力で強くなっていきました。
農業からから切り離した兵士たちに生活費を支給しなければならない・・・経済的な負担は大きいものでしたが、それを実行できたのは、信長が様々な税によって収益を得ていたからです。
信長の経済力がなさせた・・・天下統一への大きな要因の一つでした。

火縄銃・・・信長が10歳の時、1543年にポルトガルから種子島に伝来。
しかし、強力な新兵器としてみなが興味を示すも普及しませんでした。
その理由は・・・
①弾を込めるのに時間がかかる
②非常に高価だった
からです。
鉄砲1挺=1丁30金・・・およそ50万円しました。
信長は、鉄砲を重視していました。
19歳の時に引き連れていた親衛隊は、500挺の鉄砲を持っていました。
そして、その鉄砲が活躍したのは、織田・徳川連合軍と武田勝頼軍が激突した長篠の戦いでした。

兵の数こそ織田・徳川軍が大きく上回っていたものの、武田軍には戦国最強の騎馬軍団がいました。
そこで信長は、今のお金で15億円という大金を使って3000挺の鉄砲を購入し、騎馬軍団に対抗しました。
一発撃つごとに先頭を交代し、連射を可能にしたともいわれています。
これによって長年の宿敵・武田軍を撃破!!
天下取りに大きく近づきました。
強大な経済力と境を手に入れていたこと・・・この二つが鉄砲を大量に手に入れることができた理由でした。
堺は鋳物文化が盛んであったこと、そして日本では作ることのできない火薬である硝石を手に入れやすかったことが、信長が鉄砲を存分に使えた理由でした。

信長のマネー戦略が武力に勝った瞬間でした。
その経済力のたまものの兵器・・・鉄鋼船です。
1570年、寺社勢力を削ごうとする信長に対し、石山本願寺の蓮如が立ち上がります。
各地で一向一揆が勃発!!
激闘を繰り広げるも、蓮如は次第に追いつめられていきます。
すると・・・中国地方の有力大名の毛利輝元に援助を要請!!
毛利水軍700艘を本願寺に・・・補給のために大坂湾に差し向けます。
信長は、これを阻止する為に300艘を大坂湾に・・・しかし、あえなく撃退・・・。
毛利水軍焙烙火矢(焼夷弾)によって多くが焼かれてしまいます。
信長は、配下に置いていた伊勢志摩水軍に燃えない船を作れと言明!!
こうして作られたのが鉄鋼船です。
全長23mの巨大な船でした。
当時、鉄鋼は高価なので、船全体に貼ることは莫大なお金が必要でした。
それを作ってしまった信長・・・経済力は相当なものでした。
この頃、鉄鋼船は世界中にどこにもなく、信長が初めてでした。
鉄鋼船は、焙烙火矢にはびくともせず、多数の銃を搭載していたので圧倒的な力で毛利を撃退!!
2年後の1580年には石山本願寺が降伏しました。

信長のマネー戦略④居城の移転
一所懸命・・・当時の武士たちは一つの場所でその土地を命をかけて守るというものでした。
そして、その土地をめぐっての戦いで・・・土地が最も大切でした。
そのため、自分の土地を離れる者はおらず、武田信玄、上杉謙信も一度も城を移してはいません。
しかし、信長は那古野城、清須城、小牧山城、岐阜城、安土城と、4回も城を変わっています。
理由は・・・22歳の時父から譲り受けた那古野城から清須城に移転したのは、清州が尾張国の中心だったからです。
8年後に小牧山城に移ったのは次の侵略目標の美濃に近いからでした。
美濃を攻略するとそのまま岐阜城に。
次には安土城に・・・更なる領地拡大の拠点とするため、最前線に城を築いたのです。
兵農分離のなせる業でした。

新しく城を築くには、莫大なお金がかかります。
城下町を拡大すれば、経済が活性化し、税収がアップする・・・城下町を作り、拡大し、より多くの税収を集めるために居城を移転しました。
満を持して・・・安土城!!
1576年1月・・・信長は標高200メートルの安土山に築城を開始。
この時43歳でした。安土を選んだ理由・・・
中京経済圏、近畿経済圏の両方に目を光らせ、琵琶湖を使えば京都に半日で行けること。
中山道、近江商人と伊勢商人が行き来する八風街道・・・商品流通の要所・・・経済的な発展も狙っていました。
城下町も整備し、商人たちの誘致にも知恵を絞ります。
「安土山下町中掟書」には・・・
・城下町を楽市楽座とする
・往来する商人は必ず安土に立ち寄らなければならない
・他所からに転入者も従来からの住人と同じ恩恵が受けられる
・馬の流通は安土で独占する

人々を呼び集めるために政策が書かれていました。
城にも・・・完成した安土城は七層の壮大なものとなりました。
最上階は内も外も金で輝いていたといいます。
信長はこの城を、盂蘭盆会でナイトアップ!!
人々は集まり、信長の威厳と力を目の当たりにしました。
信長は、安土を京都や堺に並ぶ大都市に成長させました。
天下統一がなされたときには、安土に遷都を考えていました。
安土城には天皇を迎えるための御幸の間がありました。
そして、その御幸の間は信長の天主よりも低いところにあったのです。
天皇をも凌駕する存在になろうとしたのでは・・・??
お金の力で天下を取る・・・それを現実のものにしようとしていた信長・・・
1582年6月2日、京都本能寺で明智光秀に襲撃されあえなく死去。
光秀は、天皇をも超える存在になろうとしていた信長を危惧し、今何とかしないと大変なことになる・・・そう考え謀反を起こしたともいわれています。
巧みな経済感覚で時勢を追い、戦乱の世を征した信長でしたが、光秀の心までは読めませんでした。


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武田勝頼―日本にかくれなき弓取 (ミネルヴァ日本評伝選)

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群雄割拠の戦国時代・・・中でも最強とうたわれた軍が・・・”甲斐の虎”と呼ばれた武田信玄の軍団です。
信玄亡き後、この軍団を率いたのは武田勝頼!!

”暗愚の凡将”と呼ばれているものの、7年もの間武田家を支え、信玄時代を超える最大の版図を獲得しています。

これには信長も・・・
「勝頼は若輩と言えど、信玄の掟を守り、表も裏もある。
 油断ならぬ敵である」

彼の人並外れた優秀さを示すのが、新府城です。

その評価は・・・??

英雄信玄亡き後、家督を相続した勝頼・・・
勝頼とはいったい何者なのでしょうか?
長野県にある諏訪大社・・・諏訪明神の総本社です。
信玄の四男として生まれた勝頼・・・勝頼の母は、諏訪明神の大祝を司る諏訪家の娘でした。
勝頼は諏訪家を継ぎ、諏訪勝頼と名乗っていました。
信玄の男子の中で、代々の信の字が使われていたいのは、勝頼のみでそのためです。
1573年4月、武田信玄死去。
武田軍が織田・徳川領内に進攻するさ中のことでした。
諏訪家を継いだ勝頼には、武田家を相続する権利はありません。
しかし、嫡男・義信は謀反のために自刃、次男・信親は体が弱く、三男・信之は夭折していました。
信玄の実質的な後継者は、勝頼の他になかったのです。
亡くなる直前・・・信玄はこう遺言したと言われています。

後継者については、勝頼の子・信勝が16歳になれば家督を譲り、それまでは勝頼が陣代を申し付ける・・・と。
陣代とは、幼い当主に代わり、軍務や政務を統轄する者のことを言います。
勝頼は、武田家を継いだとはいえ、中継ぎに過ぎないというのです。

信玄と勝頼・・・親子の関係を示す兜が残っています。

諏訪法性の兜は、勝頼が着用することとする。
その後、これを信勝に譲るべし!!

諏訪家を継いでいる男子が、武田家の当主になる・・・
名門の武田家としては、物凄い抵抗感が・・・譜代・一門衆の中にありました。
信玄は、それを承知したうえで、その立場から早く自由にしてやるために、信勝に生まれながらの嫡男・・・家督を渡すようにしたのです。
勝頼のために、信玄が考えたことでした。

竹だけを相続したとはいえ、勝頼を取り巻く状況は厳しく・・・
西には織田・徳川、北には上杉・・・と、敵勢力に囲まれていました。
信玄の死から2年後・・・
1575年5月21日、勝頼は、信玄の弔い合戦を挑みます。
長篠の戦いです。
戦国最強の武田軍の猛攻に、3000丁という鉄砲を駆使した織田・徳川連合軍・・・敵の圧倒的火力の前に、武田軍は半日で敗退!!

この戦いで、信玄以来の多くの重臣たちが討死しました。
大敗北を喫した勝頼・・・最悪の状況から巻き返しを図ります。

長篠の戦いで武田軍に快勝した織田・徳川連合軍・・・しかし、それ以上兵を進めることはできませんでした。
織田も徳川も、武田軍を強敵と見なし、深追いを警戒したのです。
その間、勝頼は着々と武田家の立て直しに奔走!!

家臣団の再編成
信玄に仕えた武田二十四将・・・長篠の戦いでは、信玄以来の多くの者が戦死しました。
赤備えで知られる山県昌景、武田四天王のひとり馬場信春、猛将・原昌胤など、描かれた重臣のうち8人が討死し、最強軍団を支えていた屋台骨は揺らいでいました。
勝頼は戦死した家臣たちの後継者選びに奔走します。
甲斐、信濃、上野・・・名のある武将の跡継ぎとして、子や孫、出家した弟を還俗させ、町人となったものも集めて2万の兵を作ります。
その成果は着実に・・・長篠の戦いの3か月後、家康が武田寮に侵入した時、勝頼は一早く1万3000を率いて出兵し、徳川を撤退させています。
これには家康も驚きを隠せません。

勝頼の巻き返し策は、外交交渉にも及びます。
当時の武田は、織田、徳川、上杉と敵対関係にありました。
勝頼は、信長と家康に対抗する為に、長年の宿敵・上杉謙信と和睦します。
どうして勝頼は、剣心と和睦したのでしょうか??
信玄の遺言には・・・
「勝頼は謙信と和議を結ぶように
 謙信は猛き武将なれば、若い勝頼を苦しめることはない
 和議を結び、謙信を頼るとさえいえば、決して約束を破ることはないであろう」
また、勝頼は、信長に追放された足利義昭の仲立ちで、毛利、北条とも手を結びます。
新たな信長包囲網を作ろうとしたのです。

更に勝頼は、本拠地を移転することで巻き返しを図っています。
信玄時代の本拠地・躑躅ヶ崎館から20キロ・・・領国の中心となる韮崎に新府城の築城を決意します。
信長、家康の大軍勢を迎え討つためには、手狭な甲府では足りないと感じたのです。
高さ100メートル以上の崖が連なる大地の上に築城された新府城・・・
東京ドーム5.5個分の巨大な土の城です。
新府城の大手門には、巨大な馬出がありました。
敵の攻撃を食い止めるばかりか、武者溜から出撃して敵に打撃を与える、守りと攻めの機能を持ち合わせた武田流築城術の代表です。

城の北側には突起物が・・・
堀の中に突き出た構造物は、出構と呼ばれています。
「横矢」という敵が迫ってくるのに対し、側面の防射(防衛射撃)をするをする場所です。
鉄砲と組み合わせて、もっとも効果的に仕える守りの工夫です。
従来の武田氏の城では、これほど発達したものはありません。
勝頼が、最後に到達した武田の城づくりの一つの到達点でした。
長篠の戦いで、鉄砲隊という火力兵器に大敗を喫した勝頼・・・
新府城に残された対鉄砲戦を意識した防御し捨て身は、勝頼の先進的な考えを今に伝えています。

勝頼にとって思わぬ事態が・・・
1578年3月13日、上杉謙信死去。
謙信亡き後、上杉家では二人の養子による家督争いが激化・・・御館の乱です。
武田の同盟者北条氏政は景虎を推し、しかし、勝頼はそれに敵対する景勝支持を表明しました。
上杉の家督相続は、景勝の勝利!!
その見返りとして、上杉領国の一部を獲得します。
武田の版図はついに日本海にまで・・・信玄時代を超える武田家最大の版図を得たのです。
しかし、上杉の家督相続により、北条との関係は悪化の一途をたどり・・・遂には破たん!!
北条は家康と同盟を締結・・・結果、勝頼は三方に敵を抱えるようになってしまいます。
1582年2月・・・北信濃の武将・木曽義政が織田方と内通・・・勝頼に反旗を翻しました。
それに呼応するように穴山梅雪も徳川方に寝返ります。
梅雪は、信玄の姉を母に、娘を正室にもつ一門衆筆頭・・・武田二十四将に数えられた重臣でした。
木曽義政の防衛していた北信濃口、穴山梅雪の駿河口に風穴があきました。
織田と徳川は、二方面から攻め入ることができる・・・!!
危機が迫っていました。
勝頼は新府城内で軍議を開きます。
この時、勝頼の嫡男・武田信勝は新府城での籠城を強く主張します。
一方、譜代衆家老の小山田信茂は岩殿城での決戦を進言!!
そして真田正幸は自ら城代を務める岩櫃城で敵を迎え討つことを進言します。
ここに、三つの山城候補が・・・!!

岩殿城・・・圧倒的な岩の壁で、強さを実感できます。
武田領の東にある岩殿城。
岩山に覆われた山城は、北条の抑えの位置にあります。
標高600メートルを超える岩殿城・・・籠城戦を戦い抜く条件を満たしているのでしょうか??

岩櫃城・・・圧倒的な断崖絶壁で、要害堅固な城であったことが分かります。
武田領の北東を守る岩櫃城・・・天然の崖に囲まれた真田正幸の居城です。
山の中腹にある本丸跡・・・独特の防御の工夫がありました。
本丸に入ってくるところに竪堀が屈曲しながら山麓に向かい長く伸びています。
少人数でも敵を攻撃できる工夫がなされています。
敵を中に引き寄せて、徹底的にたたく!!城の作り方の発想が他とは違います。

新府城、岩殿城、岩櫃城・・・特徴的な堅固な山城です。
どの城で織田・徳川軍を迎え討つべき・・・??

1582年2月14日、勝頼の運命をさゆうする大事件がおこりました。
浅間山の噴火です。天変地異は、人心を惑わします。

「神の力は人力の及ぶところに非ず。
 噴火はこれからの世が信長に従う前触れであろう。」

武田討伐の総大将は、信長の後継者・織田信忠です。
信忠率いる織田軍は、怒涛のように侵攻・・・。
武田の城を次々と陥落させていきました。
中でも勝頼を追いつめたのが、高遠城陥落の知らせでした。
高遠城は、諏訪勝頼時代、城主を務めた品の支配の拠点です。
壮絶な籠城戦の果てに高遠城は落城・・・僅か2日の出来事でした。
勝頼のみを案じ、上杉景勝は援軍を申し出ています。
これに対し勝頼は、
「2000でも3000でも、早々に兵を派兵してくれるとありがたい・・・」
武田家存続のために、なりふり構わない勝頼の切羽詰まった状況がわかります。

どの城に向かうべきか・・・??

ついに勝頼は、譜代衆家老・小山田信茂が薦めた岩殿城へ・・・!!
自ら新府城に火を放ち、不退転の決意でした。
城を後にした勝頼一行・・・新府城を出立した時5、600人いた兵士たちは、次々と逃亡。
僅か41人となってしまいました。
更に勝頼を悲劇が襲います。
岩殿城を勧めた小山田信茂が、織田方に寝返ったのです。
行き場を失った勝頼一行・・・遂には、織田軍に囲まれてしまいました。
1582年3月11日、勝頼、自刃!!享年37歳でした。

鎌倉以来続いた名門・・・武田家はここに滅亡・・・。
戦国最強とうたわれた武田軍団の終焉となりました。
勝頼の首と対面した信長は、勝頼を
「日の本に隠れなき弓取り」と、勝頼を称賛しました。
運がつき、こうなっただけのことであると・・・。

しかし、運が尽きたのは、武田だけではありませんでした。
勝頼の死からわずか3か月・・・
6月2日本能寺の変!!
信長と共に武田討伐の総大将・信忠も討死しました。

奇しくも戦国の世は、ここから新しい局面を迎えることとなります。

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戦国時代、戦いに明け暮れ野望と裏切りが渦巻くイメージですが、天下への野心よりも、家族や親友との絆を大事にし、生き抜いた武将がいました。
前田利家です。
利家とまつは、戦国一のおしどり夫婦と言われ、加賀100万石の礎を築いていきます。
しかし、その道のりは決して平たんなものではありませんでした。

戦国指折りの勇敢さで知られる前田利家・・・
しかし、気が短く、我を忘れる欠点がありました。
怒りのあまり、主人の前で人を切り殺してしまうことも・・・!!
しくじりばかりだった若き利家・・・しかし、周りの人望を集め、大名として加賀100万石の礎を築いていきます。

そんな利家を支えた3人は・・・??
最強の上司・織田信長、風雲児だった信長は、型破りな利家を可愛がりました。
そして一国一城の主となってからは、信長に倣って豊かな国づくりを推し進めていきます。

最愛の妻・まつ、敵の大軍を目の前にしてしり込みする利家を叱ります。
時には夫の代わりに自ら交渉・・・その内助の功とは・・・??

そして親友・豊臣秀吉。
秀吉は、貧しい時代から苦楽を共にした仲間で、家族ぐるみの付き合いでした。
利家は、そんな親友と天下を争うのではなく、あえて家臣の道を選びました。
秀吉も、利家こそが最も大切な家臣と認めていました。
豊臣政権のナンバー2として、加賀100万石の豊かさと華やかな文化の礎を築いた前田利家。
しかし、秀吉の死後、巨大な敵が現れます。

織田信長に仕えた十代の頃、利家は手の付けられない乱暴者でした。
派手な身なりで町を練り歩き、喧嘩となれば喜び勇んで駆けつけます。
利家たちは傾奇者と呼ばれ、周りからはみ出し者として白い目で見られていました。
そんな利家が、天下統一を目指す信長の家臣として活躍、慰霊の大出世を果たしていきます。

1537年、前田利家は尾張国・荒子村の領主の四男として生まれます。
幼名は犬千代。
1551年、14歳の頃、尾張の大名・織田信長に仕えることになります。
暴れ者の利家にとって、戦は格好の場でした。
初めて戦場に出たとき・・・初心者は先輩武者がつきっきりで指導することになっていました。
しかし、利家は先輩の指導を無視し、真っ先に敵陣に斬り込んで首をとってしまいました。
これに驚いた信長は、「肝に毛が生えているようじゃ」と言ったといいます。
以来、利家は戦に出るたびに、武勇伝を作っていきました。
身長182センチで筋骨隆々の利家は、それまでの倍の6メートルを超える槍を自在に操り、”槍の又左”と恐れられました。
そんな利家を信長は、幼名の犬千代から犬、犬!!と、可愛がったといいます。
信長は、部下をよく見ていました。
利家は自分と同じやんちゃなところのあるタイプを見て、面白い男だと思ったのです。
そして利家には「信長様だから、俺を使ってくれる」という強い信念がありました。

1558年、21歳の時に結婚。
相手は、9歳年下のまつでした。
利家とまつは幼なじみで、幼くして父を亡くしたまつは、4歳の頃前田家へ。
乱暴者の利家でしたが、いつもまつのことを気にかけていました。
利発でお転婆なまつと利家は相思相愛だったといいます。
結婚の翌年には長女が生まれ・・・何より利家は家族を大切にしました。

そんな幸せからどん底に落ちたきっかけは、髪をかく道具”笄(こうがい)”でした。
ある時、利家の笄を、信長に仕える茶坊主が盗んだのです。
利家は信長に処分を願い出ます。
しかし、信長は些細なことから茶坊主を処分せず、それどころか仲間からは・・・

「たかが髪かき道具一つ、傾奇者のくせに情けない!!」

と噂され、遂には盗んだ茶坊主にまで馬鹿にされてしまいました。

「なぜ、盗まれた自分が笑い者にされねばならぬのか??理不尽な!!」by利家

遂に利家は、信長の前で茶坊主を斬ってしまいました。

余りの乱暴ぶりに怒った信長は、
「犬を討て!!」
死罪にしようとします。
その後、家臣の懸命の嘆願で死罪は免れたものの、利家は織田家から追放されてしまいました。
浪人となった利家は、家族を残し、一人放浪生活・・・
食べ物を得るのも一苦労・・・この頃の生活が、利家の金銭感覚に大きな影響を与えました。

「ともかく金を持てば、人も世も恐ろしくは思わないものだ。
 金がなければ、世も人も恐ろしくなるものだ。」by利家

なんとか信長の家臣に復帰したい信長・・・しかし、おいそれと許してくれるはずもない・・・
利家は驚くべき行動に出ます。
勝手に戦場に出て、織田軍として戦ったのです。
ここで利家は、敵方の強者の首をいくつもとり、大手柄をあげます。
当時、名誉挽回の近道は、戦で目覚ましい働きをすることでした。
利家は、体を張って信長の信頼を得、家臣に復帰したのです。

この頃利家は、生涯の親友と出会います。
織田家の家臣となっていた後の豊臣秀吉です。
年齢も近い二人はすぐに意気投合!!
秀吉とおねの仲を取り持ったのは、利家とまつだったともいわれています。

1569年、32歳の時、前田家の当主だった兄が隠居、兄が次の当主に義理の息子を指名しましたが、それに信長が”待った”をかけます。
「利家という実弟がおるであろう。
 利家に譲るがよい」by信長
この一言で、当主は利家に決まり、祝の席が設けられました。
この時、利家の武勇を褒めていた客人たちが、そんな利家を蔑ろにするとは・・・と、兄の悪口を言いはじめます。
すると利家は、強い口調で言いました。
「兄を謗れることで称えてくれる心遣いはありがたいが、そのようなお世辞は無用にしていただきたい。」by利家
褒めたつもりの客人たちは、利家に唖然としたといいます。

この頃信長は、破竹の勢いで領地を拡大していました。
天下統一への道をひた走っていました。
1575年、38歳の時、長篠の戦い!!
最強の武田の騎馬隊を封じるには、膨大な鉄砲を用いて絶え間なく攻撃を仕掛けるしかない!!
この戦で利家は、戦術の要・鉄砲隊の指揮隊長を任されました。
信長の思惑は的中し、利家たちは大手柄を立て、戦を勝利に導きました。

1581年、利家44歳の時、これらの功績から能登国を与えられます。
はみ出し者が、信長に取り立てられ、一国一城の主にのし上がったのです。

1582年、45歳の時に利家に大きな転機が・・・主君・信長が、家臣・明智光秀の謀反に斃れたのです。
本能寺の変です。
仇である光秀を討ったのは、親友の秀吉でした。
秀吉はこの功績で、信長の後継者争いに躍り出ます。
裏切りが当たり前の戦場で、器用に立ち回る才能は利家にはありませんでした。
利家は秀吉から絶大な信頼を寄せられ、政権のナンバー2になるのです。
どうして右腕になり得たのでしょうか・・・??
信長の死後、後継者を決める清須会議が開かれます。
幼い跡継ぎを立て実質的な当主の座を狙う秀吉VSあくまでも織田家を守ろうとする柴田勝家・・・
両者は激しく対立します。
その間で板挟みになる利家・・・
勝家は利家の上司であり、かつて信長を怒らせてしまった時に死罪から救ってくれた大恩人、秀吉は親友・・・家族ぐるみの付き合いでした。
11人の子供を授かった利家とまつは、四女・豪を養女に出すほどでした。
恩義をとるか、友情をとるか・・・苦渋の決断でした。

1538年、46歳の時、賤ケ岳の戦い!!
悩んだ末に利家は、恩義をとり勝家側として出陣します。
ところが戦闘が開始すると、利家は戦場から撤退するのです。
自分の城に引きこもってしまいました。
勝家に味方するも、秀吉を攻めることができなかったのです。
利家の撤退により、一気に秀吉軍の優勢に傾きます。
結果、勝家は敗走!!

この時、秀吉は勝家が敗走する途中、利家の城に立ち寄っています。
利家にその本心を聞こうとしたのです。
しかし、利家は部屋に籠って出て来ません。
秀吉に会わせる顔がない・・・??
このままでは本当の敵となってしまう??
危機感を抱いたまつは、秀吉にこう言います。
「このたびのご戦勝、おめでとうございます。」秀吉の価値をたたえることで、利家が敵対したのは本意ではないと伝えたのです。
すると秀吉は、
「豪姫も立派に大きくなっておるぞ。」と、まつの想いに気付き、娘の話に花を咲かせます。
最後に秀吉は言いました。
「勝家を討つため、利家殿のお力添えをといただきたい。」by秀吉
まつはこの申し出を、利家に相談することなく承諾します。
そして、利家に勝家を討ちに出るように促したのです。

まつが、利家に対し、これからは秀吉と一緒に・・・むしろ、秀吉の下で働いた方がいいという・・・
女性の目でそれまでの秀吉の信長から抜擢された動きを見ていて、信念を持っていたのでしょう。
戦は、秀吉軍の圧勝に終わります。

1583年、46歳の時、二国(加賀・能登)を与えられ、居城を金沢城に移します。
最大のライバルを倒した秀吉は、残る敵対勢力と戦い、天下人への道を歩んでいきます。
秀吉に味方する利家にも戦いの火の粉は降り注ぎます。
秀吉の敵・かつての同僚・佐々成政が攻めてきたのです。
成政は利家とは何かにつけて反目していました。そう・・・笄事件の時も・・・!!
成政は、末森城を攻撃してきました。
積年の恨みを晴らすとき!! かと思いきや、利家が向かったのは机でした。
兵の数を計算します。
浪人時代にお金で苦労した利家は、大軍を動かすのにいくらかかるかを計算するのが常でした。
その間にも、成政の勢いで、末森城は落城寸前・・・!!
ところが、成政より兵の数が少ない利家は、ぐずぐずと計算するばかり・・・
遂にまつはこう叫びます。
「この度は、この金銀をお持ちになって槍をお突きになるのが良いでしょう。」byまつ
日頃、兵を蓄えるより蓄財に熱心だった利家・・・そんなに金銀が大事なら、金銀に槍を突かせたらよいでしょう。と、強烈な皮肉で尻を叩いたのです。
この檄で目を覚ました利家は、数で勝る成政軍をなんとか撃退し、城を守ったのです。
やがて、秀吉軍の火星に寄って、成政は降伏!!
夫の影日向となって働いたまつの愛情を、利家は裏切ることはありませんでした。
1585年、48歳の時、越中国を与えられ、三国を領有することとなった利家。
加賀100万石の礎となっていきます。
1590年、53歳の時、秀吉は関東を支配下に・・・天下統一!!
天下人となった秀吉は、益々利家を頼ります。
利家が任されたのは、主に大名間の調整役です。
利家は、裏表のない人物として、暑い信頼を寄せられていました。
秀吉配下の諸大名で、こんな会話がなされたといいます。

「位も石高も、利家は家康より低いけれども、5倍も人望があり、城中でも、道中でも、人々に敬われている。」

己の信じる道を進んできた利家の真っ直ぐな生き様が、秀吉政権の右腕として欠かせない存在となっていたのです。

現在でも名勝・兼六園、加賀友禅、輪島塗・・・見事な工芸品・・・北陸には加賀100万石の文化が息づいています。
その礎を築いた利家は、領国経営で卓越した手腕を発揮します。
加賀100万石の国づくりの秘密とは・・・??
1585年、48歳の時、利家は北陸3か国の強大な領地を得ました。
金沢に入った利家が初めに行ったのは・・・
「まずは、検地をおこなう
 そして、正確な石高を見定める」by利家
性格な検地こそ、領国経営の基礎。
これは織田信長を真似たものです。
前田利家は、経済の重要性をかなり認識していました。
前を走っていた、信長や秀吉を真似ています。
そして細かい検地をおこないました。
それを支えたのは、利家の得意・そろばんでした。
普段から携帯用のそろばんを持ち、米やお金の収支を計算していました。
そして、このそろばんを使う部署を作ります。
御算用場と呼ばれる経理専門の部署です。
最盛期には150人もの武士が、この加賀の経理を取り仕切りました。
年貢や支出を計算し、合理的な領地経営、無駄のない経営を行いました。

利家が経済に関心を持つようになったのは、浪人時代と言われています。
信長から追放され、酒を煽っては喧嘩の日々・・・ある時、熱田神宮の神職の基に身を寄せました。
神職に書庫に閉じ込められた利家は、こう言われます。
「強いばかりが人の道ではない。
 中国や日本の古い書物を読みなさい。」
このことがきっかけで本を読むようになり、国づくりに大いに役立てられました。
利家は後に勉強の大切さを述べています。

「武道ばかりを重んじてはいけない。
 文武二道の侍は まれだか よくわきまえて良いものを探し出しなさい。」by利家

本の重要性を終生持ち続けました。

信長に大きく影響を受けた利家の国づくり・・・しかし、信長を見習わなかったこともあります。
それは、家臣を監視する目付を置かなかったことです。
当時の大名家では、目付を置くことが当たり前でしたが、利家は家臣たちがお互いの監視をすれば疑心暗鬼になると、目付を置かなかったのです。
信長と同じく、家臣たちに強い忠誠心を望んだ利家・・・しかし、その方法は、信長とは真逆で、家臣たちに温かく接することでした。

利家は、自ら家臣たちに手紙の作法を教えます。

「どんな書状でも、筆先で相手を満足させることが大事。」

豪快な見た目からは感じることのできない細やかな心遣いで周囲からの人望を集めていきました。
こうした利家の下で、豊かな文化を花咲かせていったのです。

どうして金沢で和菓子作りが盛んになったのでしょうか?
それは、信長の影響・・・茶の湯です。
茶の湯を嗜んだ利家・・・和菓子作りは茶の湯には欠かせません。

1598年8月、利家61歳の時・・・。
天下人・豊臣秀吉が死去・・・
この時、次の天下を狙える人は二人いました。
徳川家康と前田利家です。
しかし、利家が自ら天下をとろうとすることはありませんでした。
どうして、天下のナンバー2を貫いたのでしょう。
秀吉は死ぬ間際、利家や家康を始め諸大名を枕元に呼び、遺言を託しました。

「どうか、くれぐれも息子・秀頼のことを頼む。
 私が死んだ後は、家康が政治を取り仕切り、利家が秀頼の世話役となって成人するまで面倒を見てやってほしい。」by秀吉

秀吉に後を託されたものの、利家も病に伏せることが多くなってきていました。
1599年元日、京都・伏見城に病をおして赴く利家。
そこで、7歳の秀頼と共に諸大名の新年のあいさつを受けます。
秀頼の世話役という役割を忠実に努めようとしました。
そして、秀頼を大坂城に移すという遺言を実行しようとします。
しかし、それに反対する人物が・・・徳川家康です。
諸大名の中でも家康の官位と石高は群を抜いていました。
天下は実力のある者の持ち回り・・・次の天下人を狙っていました。
秀頼の権威が高くなることを恐れた家康は、

「そう急ぐことでもない
 4月か5月でいいではないか」by家康

しかし、利家はこの意見をはねつけます。

「もう、ご遺言を忘れたのか??」by利家

正月10日、遺言通り、秀頼を大坂城に移す利家。
そこでも、秀吉の意志を忠実に守ろうとしました。
それを無視して、天下人への道を着々と進んでいく家康。
秀吉の遺言で禁じられていた大名同士の婚姻を行い、徳川の勢力拡大を図ります。
家康の行動を受け、豊臣派と徳川派に分かれて対立します。
一触即発!!
家康はいずれ自分に反対する勢力と戦いをも辞さない思いはあったようです。
天下への野望をあらわにする家康に対して、直談判を決意する利家!!
単身、家康の屋敷に乗り込もうとします。
息子が一緒に行くと進言すると・・・

「家康が我らを斬らぬということは、百にひとつもあろうはずはなく、斬るのが必定
 そんな時、そなたは兵を据え置き、出陣して、弔い合戦を行い、勝利を得ようと思わんのか。」

利家は己の命と引き換えに、家康を攻めて豊臣家を守ろうとしたのです。
しかし、言えた巣の態度は・・・利家を盛大にもてなし、ごもっともと受け入れたのです。
当てが外れた利家ですが、家康の口約束を得ただけで帰ることになってしまいます。
その2週間後・・・利家の病状が悪化・・・
利家を慕う大名が大勢見舞いに来る中、意外な人物がやってきます。
徳川家康でした。
昔から一緒に、信長、秀吉の下で苦楽を共にした仲間のひとりとして病気見舞いに出かけたのです。
豊臣政権を守るために、一生努力してきた前田利家に敬意を表すという意識がありました。
家康の訪問から1か月後・・・
1599年閏3月3日、前田利家死去・・・享年62歳でした。

利家の最期を悟ったまつはこう語りかけました。
「あなたは若い頃から多くの戦いに出て、多くの人を殺めてきたから、後生が恐ろしい。
 ですから、この経帷子をお召しになって下さい。」
しかし、利家は断ります。
「これまでに、多くの敵を殺してきたが、理由なく人を殺したり、苦しめたことはないから、地獄に落ちるはずがない。
 もしも地獄に行ったら、閻魔を相手にひと戦してくれよう。
 かえすがえすも秀頼さまのことをお頼み申す。」by利家

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雷鳴轟く京の町で・・・1591年2月28日、一人の茶人が切腹して果てます。
茶聖と称えられた千利休です。
その首は橋のたもとに置かれ、無残にも木造の足で踏みつけられるようにさらし者にされました。
命じたのは天下人・豊臣秀吉です。
しかし、もともと利休を寵愛したのは秀吉でした。

1522年、千利休は堺の魚屋の長男として生まれます。
幼名は与四郎といい、父・与兵衛は海産物の取引をする傍ら、倉庫を貸し付けることで財を成した堺屈指の豪商でした。
しかし、もともと千家は武家で、祖父は室町幕府8代将軍足利義政に仕え、書画や陶磁器などの目利きをしていた唐物奉行で、利休の心理眼はこの祖父を受け継いだものかもしれません。
利休が生まれた堺は、南蛮との貿易で繁栄・・・戦国大名の力に頼らず、町衆という商人たちが自ら治める独自の統治体制を形成していました。
その町衆の中で流行していたのが茶の湯でした。
社交や商談の際に必要な素養の一つだったのです。
そこで、交易で巨万の富を築いた商人たちは、「名物」と呼ばれた中国の高価な茶道具を買いあさるようになります。
商人の子・利休も、幼いころから茶の湯を嗜み、19歳の時には当代随一の茶人・武野紹鴎の弟子となり茶の世界に没頭。
更には、茶の心に通じるとして南禅寺で禅を学び、宗易という名をもらいます。
1540年父が死去・・・家督と家業を継いだ利休は、商人としても生きることとなるのです。
利休は、堺の豪商たちと頻繁に茶会をし、交流を深めます。
それによって、地位を固め、政治経済、文化を問わず、人脈を広げていきます。

そんな利休に大きな転機が訪れたのは・・・1568年47歳の時でした。
天下布武を掲げた織田信長が、美濃から上洛!!15代将軍足利義昭を擁立し、畿内を掌握!!
その信長が目をつけたのが堺でした。
商人たちに矢銭2万貫・・・今のお金にして500億とも1000億ともいわれる金額を献金するように命じます。
堺には、冨だけでなく他にも魅力がありました。
鉄砲の産地だったのです。
町衆の自治が盛んなので、自治的な部分を押さえたかったのもあります。
この堺とのパイプを強固なものにするために、茶の湯を・・・!!
商人でもあり、茶人でも名を馳せていた今井宗久・津田宗及・・・三番手として千利休を「茶頭」に起用しました。
信長は利休を茶頭として3000石で抱えます。
それだけ茶人がキーマンだったのです。

しかし、1582年、利休が61歳の時、運命を大きく変える事件が起きます。
本能寺の変です。
天下取り目前で、織田信長が命を落としてしまいました。
信長の死から10日余り・・・山崎の合戦にて、豊臣秀吉が謀反人・明智光秀を討ち取ります。
これによって、天下取りの第一歩となった秀吉が、直後に近づいたのが利休でした。
山崎に城を築き、政務を行っていた秀吉は、そこに茶室を作って利休に茶会を催すことを命じます。
利休はその時の心のうちを、茶人仲間に宛てた手紙に書いています。

「近頃迷惑なことを任ぜられて、久しく山崎に逗留している。」

こうして、信長の三番手だった利休は、秀吉の筆頭茶頭となったのです。

秀吉が利休を優遇し、取り込んだ理由は・・・??

①信長の継承
信長は、茶の湯を政治利用していました。
茶道具の銘品を、堺の町衆から強制的に買い上げ、武功をあげた家臣たちの恩賞にすることで、人心を掌握し、強い主従関係を築くことに役立てていました。
土地をもらうのが一番の恩賞でしたが、あげ続けることはできません。
土地の代わりに茶道具うを与えたのです。
そして、手柄を立てたものに茶会を開く権利を与えるという茶道御政道を行ったのです。
茶の湯は武家の儀礼の一つとなり、いつしか茶室は政治の場となっていきました。
そのやり方を秀吉は継承したのです。
そして、秀吉は、利休を筆頭茶頭に格上げしてまで取り組みたい理由がありました。

②情報力
3人の茶頭は、堺の商人です。
堺には情報が集まってきました。
家業が貸倉庫業だったので、利休のもとには、全国の情報が集まってきていたのです。

1584年3月、秀吉は敵対する勢力織田信雄・徳川家康軍と戦います。
小牧長久手の戦いです。
この時、利休は、京や堺から頻繁に戦場の秀吉と書状を交換し、秀吉の支持を周囲に伝える役目をしています。
また、秀吉が大坂城に戻ってからは、高山右近や古田織部らと密に連絡を取り、秀吉に戦況を伝えます。
右近と織部とは、茶の湯を通じて交流があり、利休は師と仰がれていました。
利休はこうした茶人ネットワークを使って、戦が終わるまで情報集めに奔走。
秀吉の天下取りに貢献することで信頼を勝ち取っていくのです。
どうしてそこまで一生懸命になったのか・・・??
茶頭は、権力者の後ろ盾が必要だったからです。
二人は運命共同体だったのです。

1585年、秀吉が関白に就任。
姓を豊臣と改め、本格的に自らの政権をスタート支えます。
すると、秀吉は、弟・秀長と同じく利休を側近とします。
利休64歳の時でした。

1586年4月、秀吉のもとへ一人の武将が訪れます。
豊後の大友宗麟です。
九州で勢力を伸ばす島津義久の侵略に脅かされていると助けを求めて大坂城へとやってきたのです。
これに対応したのが豊臣秀長でした。
「内々のことは宗易に、公儀のことは宰相がすでに存じておるため悪いことはないはず・・・」by秀長
豊臣政権では、外交は秀長が、内政は利休がすべて任されていました。

利休は、どうしてこれほどまでに権力を持っていたのでしょうか?
そのカギは秀吉の弟・秀長にありました。
秀長は、大和・紀伊・和泉に100万石を所有していました。
秀吉からの信頼も厚く、No,2として豊臣政権を取り仕切っていました。
その秀長に利休は近づきます。
一説には、大和にあった秀長の郡山城には、相当な金銭が蓄えられたと・・・それは、利休が相当な経済援助をしたからだ・・・とも言われています。
秀長と親密な関係を結び、政権の中枢に入り込んだ利休・・・。
温厚で人望の厚い秀長は、利休の良き理解者で、秀吉との緩衝材にもなりました。
そのため、利休は、関白・秀吉にまで意見のできる力を持つことができたのです。
さらに、利休には秀長に取り入ったもう一つの理由がありました。

秀吉は、この当時まだ子供がおらず、甥の秀次を後継者としていました。
利休の秀長への接近は、秀吉死後の自らの地位を確立するためだったのです。
政治の世界で秀吉に引けを取らないほどの力を手に入れた利休でした。

農民出身と言われる秀吉は、天皇の威光を利用しようと朝廷に接近します。
そして、1585年10月、禁中に参内し、正親町天皇に茶を献じることにします。
秀吉にとって重要な日・・・当然筆頭茶頭の利休に取り仕切らせるつもりでした。
しかし、問題が・・・利休は一介の町人で、官位がなかったため、禁中に入ることができなかったのです。
そこで、利休は僧侶になることを考えます。
僧侶ならば、身分に関係なく禁中に入ることができました。
そして、利休居士となるのです。
この時64歳、千利休の誕生です。

北野天満宮・・・
1587年10月1日、ここで、北野大茶湯が行われることとなりました。
茶会開催に先立ち、京、奈良、堺などに高札が立てられます。

”10月1日から10日間の日程で、北野杜で茶会を催す
 秀吉秘蔵の名物茶道具を残らず飾り、拝見に供する
 茶の湯が好きな者なら身分不問”

この時、秀吉が身分の隔てなく平等に参加を許した理由は・・・
平和の世になった・・・武士、公家などの支配者階級だけでなく、一般庶民まで平和になったことを広く知らしめようとしたのです。
秀吉が天下人であるということを知らしめる重要なイベント・・・
利休は、堺の商人たちに参加を促す手紙を書くなど、茶会成功に尽力します。
利休の取り仕切った北野大茶湯とは・・・??
組み立て式の黄金の茶室が大坂城から運び込まれます。
800の茶席が設けられ、訪れた客は1000人を超えたと言われています。

世紀の大茶会から4年・・・秀吉と利休の蜜月は終わりを告げます。
1591年2月13日、利休は秀吉から突如言い渡されます。
「京を出て堺で謹慎せよ!!」と。
すると、秀吉の正室・北政所らが利休のもとに密使を遣わし、真意を伝えます。
関白様に謝罪をするように・・・しかし、利休は頑なに謝罪することなく淀川を下って堺に帰ってしまいました。
これにたいして怒りが頂点に達した秀吉は、2月26日、京に戻るように利休に命じ、3000もの上杉の軍勢で屋敷を取り囲み、利休を逃げないようにし・・・
2月28日・・・切腹を命じられます。
秀吉側の言い分は二つ。
その一つは、たった一体の木像でした。

①利休の木像 
京都大徳寺は、利休が修行した大徳寺派の本山で、秀吉が信長の葬儀を行った寺でもあります。北野大茶湯の後、利休は大徳寺に自費を投じて山門を寄進しました。
その壮麗な佇まいから、利休の当時の財力が伺えます。
山門は金毛閣と名付けられました。
この山門の寄進に感謝した大徳寺は、山門の楼上に利休の木像を置きます。
しかし、その木造が問題となったのです。
雪駄を履いていたことが秀吉の逆鱗に触れた・・・??
「山門の下を通るたびに、利休の足の下を潜れというのか・・・??」
しかし、これは調べればすぐにわかることで、口実に利用されただけです。

本当の理由は・・・??

②利休の着服
利休は当時、自ら製作した茶道具を売るなどして莫大な財を築いていましたが、これを秀吉側は不正行為としたのです。
無価値なものを高値で売買したり、名物の唐物と交換することは、茶道具の相場をくるませる恐れがある・・・と。
実際、利休を売僧の頂上と悪徳僧だと罵倒する者もいました。
しかし、天下人の茶頭の地位を利用して高値で売り付けていたわけではなく、その利休の茶道具の素晴らしさが人々に認められて高値になっていたのです。

どちらも表向きの理由・・・??

では、切腹させた要因は何だったのでしょうか?

利休切腹の要因①朝鮮出兵
天下統一を成し遂げた秀吉は、国外に目を向けます。
狙うは大陸進出です。
朝鮮出兵は、利休切腹の翌年ですが、かなり前から予定されていて・・・利休がそれに反対したために、秀吉の怒りに触れたのでは??というのです。
利休が反対していた資料は残っていないものの、堺商人である利休にとって博多の商人が潤うことは争いとなるからです。

利休切腹の要因②石田三成の陰謀
1591年1月・・・利休切腹2か月前のこと・・・利休の絶大な支持者だった秀長が死去・・・。
これによって秀長と利休の政権システムが崩壊・・・。
反利休派の勢力が台頭します。
その反利休派が石田三成を筆頭とする五奉行でした。
太閤検地を担当し、外様大名たちに影響力を持っていた三成が、利休に代わって政権を担うようになったのです。
三成にとって、諸大名と通じている利休は厄介な存在でした。
しかし・・・追い落としたという証拠はありません。
秀長が死んでいなければ、利休は切腹させられていなかったのでは・・・??

利休切腹の要因③茶の湯の好みの違い
利休は秀吉の茶頭となってから、茶の湯の革新に取り組んでいます。
それまで大名たちが有難がっていた高価な唐物の茶器ではなく、身近な雑器を見出していったのです。
さらに、自らの理想を追求する為に、職人に命じて茶器を作成。
「利休好み」という茶道具を生み出すなど、侘茶を大成させていきます。
これに対し、黄金の茶室など秀吉は派手好み・・・
二人は合わなくなり、利休は切腹させられた・・・??
しかし、黄金の茶室は利休の設計です。僅か三畳のその中には、利休の侘びの精神が詰まっていたといいます。

真の理由とは・・・躙り口??
躙り口は、誰もが身を屈んで頭を下げて入らなけれbなりません。
武士は刀も邪魔になるので、外に置いていかなければなりません。
これは、茶室は誰もが平等を表しているのですが・・・。
僅か2畳のまで膝を突き合わせるほどの狭い空間こそが、侘びの精神の舞台だと考えました。
共に天下取りに邁進してきた秀吉と利休・・・。
その間に大きな溝ができたのは、1590年小田原討伐が終わった頃からでした。
秀吉の考えが変わったのです。
この頃から秀吉は身分制度の確立を考えるようになってきていました。
下剋上を凍結させようという目的があったのです。
そこに、平等を唱える利休は邪魔な存在となっていました。
そしてこの頃から、堺の商人も没落し、堺の役目も終わっていっていました。
秀吉が新しい社会秩序を建てるのに、最も目障りだったのが利休だったのです。

ついにその日が訪れました。
2月28日・・・
利休は、京の自宅で切腹を見届けるために来た武士と人生最後の茶の湯を催し、介錯人を頼んだ弟子にこう告げます。
「すぐには介錯するな。
 手を挙げたときに首を討て!!」
表では雷鳴が轟いていました。
秀吉の怒りか・・・利休の悔しさか・・・!!
そして、利休は腹を十文字に切ると腸を引き出し、そこでようやく首を討たれたといいます。
壮絶な最期でした。

本当は磔・・・しかし、北政所がとりなして切腹となったのです。
秀吉は持ち込まれた首を見ることもなく、京の一条戻橋に柱を立て、利休の首を鎖で括りつけると山門の木像の足で踏みつけるようにしてさらし者にしたといいます。
あまりにもひどい仕打ちでした。

しかし、秀吉はこの後、大政所に手紙を書いています。
「昨日利休の作法で食事をしましたが、趣がありました。」
4年後に、利休の子孫に千家再興を許可しています。
利休の死を悔やんでいたのでしょうか?
優れた商人であり、稀代の茶人、そして政治家でもあった千利休・・・
波乱に満ちた70年の生涯でした。
その最期は壮絶なものでしたが、利休が大成させた”侘びの美”・・・その日本人独特の美的感覚は、今も私たちの心の中に生きています。

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天下を統一して江戸幕府を開き、神君とされた徳川家康。
「鳴かぬなら 鳴くまで待とう ホトトギス」
その強靭な忍耐力は、家康最大の武器であり、天下人になり得た大きな要因の一つでした。
しかし、そんな家康でさえも耐え難い人生最大の事件がありました。

大事な跡取り息子・信康に切腹を命じた”信康自刃事件”です。
事件は織田信長の圧力に家康が屈した・・・つまり、信長が信康を殺させたのでは・・・??と、考えられてきました。
が・・・??定説を大きく覆す意外な事実がでてきました。

徳川家康と清逸・築山殿との間に生まれた嫡男・信康。
大切な跡取りを切腹させることになってしまった信康自刃事件の顛末は、家康の家臣の書いた「三河物語」に書かれています。
1579年徳川家康は、織田信長と同盟を結んだ証として、徳姫を信康の正室に迎えています。
しかし、1579年、徳姫が父・信長に書状を送っています。
そこには、夫信康と姑に対する不満や恨みが12か条に渡って書かれていました。

信康は無慈悲で非道
築山殿は悪人で私と信康を仲たがいさせようとしている
築山殿が武田勝頼と内通して織田・徳川の滅亡を訴えている

信長は、驚き、激怒!!
天下取りを邁進する信長にとって武田は難敵!!
徳川と手を結ぶようなことがあれば、窮地に陥ることは必至でした。
信長は、家康の側近・酒井忠次を呼び出します。
この時、酒井は、手紙の内容を否定しませんでした。
「即刻信康に切腹を申し付けよ!!」by信長
信長は、築山殿の処罰ではなく、信康の切腹を要求!!
家康は愕然とします。
織田と徳川は、同盟とはいえ、主従関係に近いものでした。
力の差は歴然!!
信長の命は絶対でした。
しかし、家臣たちの多くは、信長との同盟を破棄してでも信康を守るべきだと主張しました。
信康の守役・平岩親吉は、代わりに自らの首を差し出すとまでいいだしました。
苦渋の決断を迫られた家康は・・・
武田と内通していると疑われた築山殿を家臣に殺害させます。
そして、信康に切腹を言い渡したのです。
信康にとっては、まさに青天の霹靂でした。

1579年9月15日、信康切腹!!

この時の介錯人は、家康の側近で、後に伊賀忍者の棟梁となる服部半蔵正成でした。
忠義に篤い半蔵は、信康の首をどうしても落とすことが出来ず、検視役が介錯したといいます。
こうして信康の首は、信長に差し出されたのです。
この時、信康21歳でした。

これが、家康最大の苦渋として三河物語に書かれている信康自刃事件です。

しかし、この事件、謎が多いのです。

武田と徳川の内通??
信長に信康が切腹を要求した??

事件から遡ること20年、徳川家康はまだ松平元康という名で、弱小大名の松平家から強国今川家に差し出された人質として駿府に暮らしていました。
正室は、今川家当主・今川義元の姪・瀬名・・・後の築山殿です。
そんな二人の間に生まれた待望の子が、嫡男・信康でした。
幸せな結婚生活を怒っていた家康たち・・・

1560年桶狭間の戦い!!
織田信長と今川義元が激突し、義元が討死すると、今川軍として参戦していた家康は、人質生活から逃げ出せる絶好の機会とそのまま三河に帰参!!
岡崎城を今川の手から奪還します。
しかし、この時、築山殿と信康は駿府に置き去りのままでした。

「裏切り者の身内として、今川に殺されるかもしれない・・・」by築山殿

そんな瀬名姫の心配を余所に、家康は信長と同盟を結び、今川と断交してしまいます。

「今川の仇である信長と手を結んだ・・・なんということを。。。」by築山殿

そして、いつ殺されるかもわからない状態は、2年以上続いたのです。
祖の後、人質交換によって救出され、三河に移ることができたものの・・・悲劇は続きます。
嫡男・信康は家康のいる岡崎城に迎え入れられたのですが・・・
信長と同盟を結んだ家康にとって、今川義元の姪である瀬名姫は、もはや厄介者・・・。
城に入ることを許さずに、裏の尼寺で暮らすように命じました。
その尼寺が築山という場所にあったので、築山殿と呼ばれるようになりました。

家康を罵る母の言葉が、信康の父に対する反発心を生んだのではないか?
1567年5月、まだ9歳の信康が、政略結婚させられます。
その相手は・・・信長の娘・徳姫でした。
7月・・・信康が元服。
織田と徳川の同盟の象徴となりました。

1570年今川家の領地・遠江を手に入れていた家康は、岡崎城から浜松城に本拠を移すと、岡崎城を信康に譲ります。
そして、幼い信康のために、信康専属の家臣団が形成されました。
家康の後継者として嘱望されていたのです。
1573年15歳で初陣を飾ると、信康は期待に応え、武田勢を相手に幾多の武功をあげます。
「真の勇将なり
 (武田)勝頼たとえ十万の兵をもって対陣すとも 恐るるに足らず」
しかし、その一方で、正確には何があったようです。
無慈悲で非道な一面があり、些細なことで領民を手打ちにしたことがありました。

何が原因で信康は自刃となったのか??
家康にとって、公にしたいことではなかったようです。
家康が隠そうとした徳川家のタブーとは・・・??
「安土日記」には・・・
”岡崎三郎殿逆心あり”と書かれています。
岡崎三郎とは信康のことで、父に背こうとしていたというのですが・・・??
そこには、当時の徳川家の厳しい状況がありました。
1572年12月22日、家康は遠江の三方ヶ原において武田信玄と激突!!
兵力にはるかに劣っていた家康は、信長に援軍を求めましたが、信長の援軍は僅かに3000ほどでした。
結果は・・・戦国最強といわれる武田信玄に翻弄され、徳川軍大惨敗!!
命からがら浜松城に帰る際、家康は恐怖のあまり脱糞したともいわれています。

しかし、それからおよそ5か月後・・・打ちひしがれている家康に思わぬ知らせが飛び込んできました。
1573年4月12日、武田信玄が急死したのです。
これを機に、家康は反撃に転じ、武田軍が三河侵略の拠点としていた長篠城を奪還します。
これで一気に形勢逆転かと思われましたが・・・家康の前に立ちはだかったのは、信玄の跡継ぎ・・・武田勝頼でした。
1574年5月、勝頼は2万5000の兵を率いて、高天神城を襲撃、これを攻め落とし、翌年には三河に攻め入り、徳川方の城を次々と攻略していきます。
信玄の後継者の名に恥じない戦いをする勝頼・・・さらに、長篠城の奪還にも取り掛かります。
かたや防戦一方となった家康は・・・。
こうした危機的状況の中、徳川では意見の対立が起こります。
家康率いる浜松衆・・・武田との戦いを続ける
信康率いる岡崎衆・・・武田との敵対関係を見直すべきだ
としたのです。

この頃の信長は、領地こそ拡大していたものの、各地に強敵がおり、天下統一など遠い先の話でした。
1575年徳川家に大事件が起こりました。
信康の家臣で岡崎町奉行の大岡弥四郎らが、武田と内通し、あろうことか軍勢を岡崎城に引き入れ合流しようとしたのです。
計画がもれ、未然に防げましたが、家康の怒りは大きく計画に加担したものは皆極刑にされ、首謀者の大岡は、岡崎の町中にいきたまま埋められ、首を鋸引きの刑となりました。

このことは、家康の”徳川は武田とは手を組まない”という強烈な意思表示となりました。
1か月後・・・長篠の戦いで織田・徳川軍と武田軍がぶつかります。
信長は3000丁もの鉄砲で、武田自慢の騎馬軍団を撃退、重臣たちもことごとく討ち果たし、武田勝頼を這う這うの体で甲斐に引き揚げさせるという圧倒的な勝利を収めました。
家康は確信します。
武田を選ばずに、織田を選んだ自分の判断は正しかったのだ!!と。
しかし!!この長篠の戦いの勝利が、浜松衆と岡崎衆の軋轢を、ハッキリと浮かび上がらせるのです。
その軋轢とは・・・??
浜松衆と岡崎衆の軋轢は、二つの城の位置が関係していました。
浜松衆は最前線で戦い、武功と出世の機会に恵まれていましたが・・・
岡崎衆は、ケガで戦えなくなった者の後方支援のような仕事・・・裏方で、出世にも遠かったので不満がたまっていた。
出世の奇計に恵まれていた浜松衆に対し、損な役回りの岡崎衆が反発していたのです。
一枚岩ではない・・・これは、徳川家にとって由々しき問題でした。
家康の後継者である信康は、本来ならば岡崎衆を諫め、事態の改善を図る立場です。
それをしなかった信康・・・
信康も、岡崎衆こそが徳川の前線に出るべきと考えていました。
この時信康はまだ20歳前・・・家康に対するライバル心は日に日に強くなっていきます。
そして・・・1578年、信康を逆心へと向かわせたのが・・・
3月13日上杉謙信死去。
謙信の二人の養子・景勝と景虎の間で跡目争いが勃発・・・
結果、武田勝頼を味方につけた景勝が勝利します。
しかし、敗れた景虎が相模の北条家からの養子だったために、同盟を結んでいた武田と北条との関係が悪化・・・。
武田は、敵対している徳川と北条に挟まれることとなりました。
生き残りの道を模索する勝頼は・・・得意の調略を行います。

武田勝頼から築山殿に宛てた内通の文書が発見された・・・??
勝頼は、徳川との敵対関係を見直すために岡崎衆との接触を図ったのです。
この時、信康も武田と接触していた可能性があります。
徳川の将来を思えばこその武田との接触・・・
それは、父・家康を裏切るだけではなく、信長をも裏切るものでした。
そして、このことが徳姫の知るところとなり、信長に知られてしまったのです。

徳川と織田の関係は、緊迫状態にありました。
家康は徳川家を残すために・・・信康の処断を考えていると信長に伝えたと思われます。
酒井忠次が訪れたのは、その決断を知らせに行ったのでは・・・??
切腹させろと命じていない信長・・・すべては家康に託されたのです。

1579年8月3日徳川家康は、嫡男信康のいる岡崎城を訪れます。
信康と武田との接触の真偽を調べ、どのような処断を下すべきか・・・??

8月4日、家康は信康から全権を剥奪、三河の大浜城へ移し、謹慎処分とします。
9日・・・堀江城へ。
10日・・・岡崎城に松平家一族や地元の領主を集め、信康とは以後かかわりを持たないという誓約書を書かせました。
その後、信康を二俣城へ・・・!!
信康をすぐに切腹させなかったのは、家康の時間稼ぎでした。
家臣たちが信康を逃がしてくれるのでは・・・??と。
そして家康は決断を下すのです。
9月15日信康は父の命で命を絶ちました。

家康のしたこと・・・家の存続を第一と考える戦国大名としては仕方のなかったことなのかもしれません。
しかし、織田信長は、「家康殿の思い通りにせよ。」と、切腹は求めていませんでした。
死をもって償わせる必要があったのか・・・??
廃嫡、蟄居、出家・・・の選択枝があったのに・・・??

信康に切腹を言い渡す半年前に2代将軍となる秀忠が生れていた。
後継者が他にいれば、信康を生かしておく必要はなかった・・・??

浜松衆が切腹を後押ししたのでは・・・??
酒井忠次ら側近から、信康を処分すべきという声が上がっていました。
家康が人質だった時からの家臣・忠次は、家康にとって頭の上がらない存在でした。
そして・・・家臣によって暗殺されていた祖父と父・・・。
冷静沈着、老獪のイメージの強い家康ですが、実際は気が小さく悲観的だったといいます。
最悪の場合・・・信康が生きている限り、信長から責められる危険が残ると考えたのです。

「無事に育ちさえすればいいと思って育ててしまったため、成人してから教え諭しても信康は親を敬わず、その結果、父子の間が上手くいかず悲劇を招いてしまった。」

しかし、この性格が天下人とさせたのです。

信康を切腹させるとは、信長も想定外のことでした。
そして、嫡男の信康を切腹させたことで、律義者という印象を信長や秀吉に植え付けたのです。

二人の親子の間には、戦国という動乱の時代が生み出した父と子の姿、武将としての生き様がありました。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし」

重荷の一つには、信康の死があったことでしょう。

そして、関ケ原の戦いの際、秀忠が戦いに遅刻するというだいだい失態を犯した際、家康はこう言いました。

「信康がいてくれれば、こんな苦労はせずに済んだものを・・・」と。

家康は信康を死なせたことを悔やんでいたのです。
この関ケ原の戦いが起きたのが、9月15日・・・21年前に信康が亡くなったその日でした。


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