日々徒然~歴史とニュース?社会科な時間~

大好きな歴史やニュースを紹介できたらいいなあ。 って、思っています。

タグ:西郷隆盛

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明治4年(1871年)7月14日、日本史上屈指の大改革が断行されました。
およそ、270年にわたり地方の領主だった藩が姿を消し、中央政府が治める県が置かれました。
廃藩置県です。
これにより、日本の政府権力は中央政府に一極集中することになりました。
この廃藩置県は、藩主への事前通達はなく、僅か6日の間に実行された電撃作戦でした。
実行の最後の決断をしたのが、維新三傑のひとり・大久保利通でした。
しかし、大久保は廃藩置県をするかどうか、最後まで悩み続けていました。
出来たばかりの明治政府は、経済力、軍事力ともに決定的に不足し、成功させる実力がなかったのです。
無理矢理断行すれば、諸藩は反発・・・日本は再び血みどろの内戦状態になるかもしれない・・・
躊躇すれば・・・海外からの脅威に立ち向かえないかも・・・??
どちらをとってもいばらの道でした。

薩摩藩、長州藩を中心とする新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争・・・。
およそ1年半の激戦の末、新政府軍が勝利を治めました。
幕府に代わって新しい国づくりを担うこととなった新政府軍の中心となったのが薩摩藩だった大久保利通でした。
その真っ先の課題は・・・中央政権でした。
アジアでの西洋列強の植民地化から日本を守るために、天皇のもと、国を一つにまとめる必要があったのです。
しかし、大久保の前には大きな壁が。。。全国に270あまりある藩でした。
それぞれの藩は、財力や兵力をそれぞれ保有し、それらはすべて藩主のものでした。
中央集権を推し進めるためには、財力や兵力を新政府に集めなければなりませんでした。
長州藩出身の木戸孝允と共に出した案は・・・
版籍奉還(版・・・土地、籍・・・人民)・・・まずは、土地と人民を天皇に返上させようと考えました。
しかし、版籍奉還は、藩主にとっては、既得権を喪失すること・・・諸藩が素直に応じる保証はない・・・。
大久保出身の薩摩藩の反応次第では、血みどろの戦いになるかもしれない・・・。

薩摩藩は、集成館事業を行っていました。
当時の日本の最先端の軍事工場で、大量の木炭を燃料に、大砲づくりを行っていました。
西洋式の産業技術を研究し、大砲や火薬の製造、軍艦の整備なども行っていました。
その結果、薩摩は明治に入っても、強大な軍事力を持っていたのです。
もし明治政府の強引な政策に薩摩が反発すれば・・・またもや戦乱に??
たくさん残る氏族の不平が反乱の元になる事を新政府は恐れていたのです。
薩摩をはじめとする諸藩を刺激せずに穏便に改革を進めるためにはどうすれば・・・??
土地と人民を返上させ、再交付をにおわせることにします。
さらに土地と人民の返上を迫られる藩主には、魅力的な役職を・・・知藩事です。
天皇が任命する地方長官のことで、地方を支配する権限はこれまでと変わらない上に、天皇のお墨付きが就くので、大きな名誉なことでした。
大久保たちの狙いは見事に当たり、版籍奉還に魅力を感じた藩主たちはこれに応じるのでした。
その結果、大きな反発もなく、土地と人民は天皇が所有するものに。。。
大久保たちは、少しずつ江戸時代からの地方のあり方を変更し、中央集権の第一歩に成功したのでした。

政府の発言力を強め、影響を全国に及ぼすためには、強力な後ろ盾が必要・・・!!
大久保は、薩摩藩の力に目をつけます。
カリスマ的な西郷隆盛、藩に絶大な影響力を持つ島津久光。。。
二人を新政府に参画させようと試みました。

1870年1月、大久保は、自ら説得のために鹿児島へ・・・
逆風は覚悟していたものの、新政府への風当たりは予想以上のものだったのです。
久光の説得は難航・・・政府の中央集権に協力すれば、県独自の力が失われてしまう・・・。
久光は、大久保の意見に全く耳を貸しませんでした。
親友・西郷隆盛に至っては、大久保たち新政府を痛烈に批判!!
西郷は、政府の腐敗ぶりに不信感を抱いていたのです。
高額な月収を取り、かつての大名屋敷に我が物顔で住んでいるが、何の成果も揚げていない・・・これでは、泥棒と同じである・・・と。。。

地方のやり方を重視する側からみると、政府のやり方は間違っているのではないのか・・・??
天候不順の上に、政府は財源確保のために、容赦のない取り立てを行っていました。
ふるさと薩摩の痛烈な拒絶・・・
そこで、強制的に藩制を制定。。。
財政のうち・・・10%=知藩事の給料
         18%=軍事費(うち9%は政府に上納)
         72%=藩の運営経費
政府の統制を強化しようとしたのです。

ところが・・・激しく拒絶したのは薩摩藩でした。
薩摩の代表は、鹿児島へ帰ってしまいます。
更に大事件が・・・薩摩藩士の横山安武が、政府の批判を書状に認めて自害!!
これが世間を騒がせ、さらに政府への風当たりがきつくなります。
そして、国外にも衝撃を与えます。

大久保は、再度薩摩藩を説得しようと試みます。
1870年12月、再び鹿児島を訪れます。
さらに関係は悪化していました。
ところが・・・薩摩藩は意外な・・・政府への協力を約束したのです。
西郷隆盛の新政府への参画、3000人の薩摩藩士族たちが御親兵として供出されることが決まりました。
どうして薩摩藩は態度を変えたのでしょうか??
御親兵・・・御親兵の生活費は、政府が保証することで、薩摩藩の財政負担が軽くなったのです。
戊辰戦争から帰ってきた士族たちは、やることもなくくすぶっていました。
彼らに新しい役割を与えると・・・沈静化もされる・・・一石二鳥のことでした。
大久保は、政府と薩摩藩双方に、メリットのある方法を見つけ出したのです。
薩摩藩の協力を得た新政府は、中央集権化に向けて大きな力を得ることに成功したのです。

強力な後ろ盾を得たにもかかわらず、なかなか先に進めません。
中央集権に向けての改革と関係のないところで、大久保と木戸が激しく対立。
大久保は、政府の組織改革を提案・・・しかし、木戸は大久保の案を激しく批判していたのです。
その上、政府の人事案においても二人は対立!!
度重なる対立に、大久保は爆発寸前・・・!!

「動かすべきを動かさずして、動かすべからざるを御動かし、ムチャクチャの御裁断
 なにぶん今日の姿にては、奮発する気も全く失せ果て申し候」

両者の対立はひと月ほど続き、政府は分裂の危機を迎えていました。
その結果、中央集権に向けた改革は置き去りにされてしまいました。

そのことで、大久保が追いつめられる悪循環が発生します。
軍事運営の現場に近い中級官僚による突き上げが始まったのです。
彼らは、政府内の混迷で中央集権が棚上げされることで、軍事・経済の改革が止まることに危機感を強めていました。
今すぐに廃藩置県を断行しなければ・・・!!
そうすれば、廃藩置県を行えば、中央集権が一気に進む??
もし、廃藩置県が断行されれば、藩は無くなりその兵力と財源は国のものとなる・・・これを天皇の命令の元に一気に・・・!!
木戸孝允、井上馨がこれに共鳴!!
そして、まさかの西郷隆盛までもが廃藩断行に同意したのです。
中央集権が足踏みのまま、現状でいる事には西郷も限界を感じていたのです。

「私情においては忍びがたいが、廃藩は天下の世運であり、この流れは最早、人の力では止めることができない」

木戸と西郷、廃藩断行に同意し、残るは大久保のみ・・・
西郷は意見を求めますが・・・ゆっくりと慎重に進めるべきだと考えて来た大久保にとっては、青天の霹靂でした。
どうする・・・??

中央集権が進まぬ今、無策でいては、国の存続すら危うくなってしまう・・・!!
大久保はついに決断します。
「篤と熟考 
 今日のままにして瓦解せんよりは、寧ろ大英断に出て瓦解いたしたらん」
大久保は廃藩置県断行に同意する決意を固めたのです。
7月9日・・・早速断行に向けた密議が・・・出席者は、大久保をはじめとする薩長出身の一部の官僚たちでした。
この計画は、明治維新に貢献のあった諸藩や岩倉具視にさえ知らされることはありませんでした。
実行に当たっての懸案事項は・・・諸藩からの反発!!
井上馨は・・・
「多少の動揺はあると覚悟せねばならぬ
 その時は、兵を用いる必要が生じるかもしれない
 その覚悟はよろしいか」
西郷は・・・
「兵は、我々が引き受ける」
場合によっては血が流れても仕方がない・・・軍事力の行使もやむ負えない・・・。
大久保も不退転の決意で大改革に臨むことになりました。

1871年7月14日、諸藩の知藩事に対し、廃藩置県の勅令が下ります。
天皇の命令という強制力を伴った通達でした。
その結果、全国に260余りあった藩はすべて廃止・・・。
県が置かれることになりました。
密議からわずか6日・・・疾風迅雷のごとくの電撃作戦でした。
急転直下の改革劇に諸藩は・・・??

大久保たちの心配をよそに・・・反発は起きませんでした。
どうして廃藩置県を素直に受け入れたのでしょうか??
廃藩を積極的に受け入れた藩もあったのです。
七戸藩は・・・東京からはるか遠方にあり、不毛の土地がおおく、年貢もあまり集まらない・・・。
このうえは七戸藩を排し、他藩の管轄下に入れて欲しかった。。。
廃藩置県になると、借金は国が肩代わりしてくれました。
抵抗があったものの・・・名より実をとった藩が多かったのです。
廃藩置県を受け入れると・・・知藩事は収入が保障され、安定した生活が得られます。
華族の称号が与えられる・・・武士から見たら、憧れの公家と同じ称号がもらえる。。。
反対する理由はありませんでした。
渡りに船だった可能性も・・・??
多くの知藩事たちが、廃藩置県を厳粛に受け止めるように藩士たちに説いています。

私情を捨て、日本という国に報いる・・・
明治の人は流血を避け、中央集権を成し遂げる重要性を一人ひとり深く理解していたのです。
大久保は、この時の心境について何も残していません。
この反応をどのように受け止めたのでしょうか??
明治政府は悲願だった中央集権の実現に成功し、これを足掛かりに地租改正、徴兵令と、改革が進み、日本の近代化が一気に幕をあけます。



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1867年11月15日、京・近江屋にて・・・
事件は午後8時から9時の間に起こったと考えられます。
幕末の風雲児・坂本龍馬が刺客に襲撃され絶命・・・。
盟友・中岡慎太郎も負傷し、二日後に絶命・・・。
世に言う龍馬暗殺事件です。

龍馬を暗殺したのは誰なのか??
薩摩藩?紀州藩?土佐藩?幕府?会津藩?新選組?京都見廻組??

今回は・・・なぜ龍馬は「近江屋」に潜伏したのか??という謎です。

幕末、ペリー来航以来、幕府の権威は失墜していました。
一方、経済力や軍事力を背景に台頭してきたのが西国の雄・薩摩藩、長州藩でした。
1866年1月21日、それまで無名だった龍馬の名が歴史に刻まれることとなります。
「薩長同盟」締結です。
全国に吹き荒れた尊王攘夷運動・・・西国の雄藩・長州藩は、幕府を力で倒し、朝廷を主体とする政権交代を画策します。
一方、弱体化する幕府を支え、朝廷との結びつき・・・公武合体運動を推進していたのが薩摩藩でした。

1864年7月19日禁門の変
幕府に組した薩摩は、京都で薩摩と武力衝突!!
長州の敗北に終わります。
以降、二大雄藩は犬猿の仲となります。
しかし、薩摩と長州が結びつけば、幕府に対抗し得る一大討幕勢力となり、朝廷を中心とした新政府を樹立することも期待できる!!
こうした中、土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎は、薩長同盟締結に向けて奔走!!
龍馬は、その仲介者として同盟成立の瞬間に立ち会うことになります。
これまで会津と同盟関係にあった薩摩が長州と密約し、武力討幕派に・・・。
同盟締結後・・・1866年1月23日寺田屋遭難事件!!
定宿・寺田屋に戻った龍馬を伏見奉行所の取り方20人が襲います。
幕府にとって要注意人物となっていた龍馬・・・。
脱し・・・急死に一生を得た龍馬は、この時の乱闘で、奉行所の役人を射殺、ほか数人に重傷を負わせます。
さらに・・・この時重大なミスを犯してしまいます。
龍馬は、薩長同盟の重要な書類を現場に残してしまっていました。
この事件によって、凶悪犯罪者として幕府に負われることとなった龍馬・・・

以降、寺田屋に潜伏することは不可能となってしまいました。
薩長同盟締結から1年後・・・大政奉還!!
幕府の権威が失墜する中、将軍・慶喜にとって大政奉還は起死回生の一手でした。
政権を朝廷に返上すれば・・・反幕府勢力の大義名分が無くなってしまう・・・!!
この大政奉還を幕府に進言したのが、土佐藩の重役・後藤象二郎です。
その背後にいたものこそ、海援隊隊長の坂本龍馬でした。
内戦を避け、平和的な政権交代が見込まれる大政奉還・・・
龍馬と土佐藩は、薩摩藩を説き伏せ、その実現に奔走しました。
とはいえ・・・この時龍馬は武力行使も止む無しと思っていたようです。

薩長だけではまだまだ足りない・・・土佐藩を討幕勢力に引き込まなければ・・・!!

龍馬の書状には、武器を用意していることも書かれています。
龍馬は、大政奉還実現に向けて、平和的解決だけではなく武力を背景にした現実的な構想を描いていたのです。
1867年10月13日、慶喜は二条城において「大政奉還」を在京諸藩重臣に諮問・・・
14日、大政奉還を朝廷に上表・・・
大政奉還は、260年続いた江戸幕府の終焉を意味していました。
大政奉還という大仕事を成し遂げた龍馬の立場は危うくなっていきます。
大政奉還に激しく反発したのが、幕府側の一大勢力・京都守護職の会津藩でした。
大政奉還奏上の2日後、薩摩藩の大久保利通に宛てた討幕派の公家・岩倉具視の書状には・・・
「会津藩は狂気のごとく激怒している
 すべての元凶は、西郷、小松、大久保の三人であるため、必ず薩摩藩邸を襲撃するなどと言っている」
この時、会津は大政奉還を推進した中心人物を西郷たちと特定、藩邸の襲撃計画を目論んでいました。
翌日・・・危険を察知した龍馬は、京を離れます。
大政奉還を企画した龍馬にも危機が迫っていました。
西郷が京を後にした日・・・薩摩藩士から手紙を受け取った龍馬・・・
「二本松の薩摩藩邸にすぐ入ってください。」
「薩摩屋敷に身を潜めたならば、土佐藩に対し、実に嫌味な事です。」by龍馬
この時龍馬は、脱藩の罪を許され、土佐藩士に復帰していました。
入るなら土佐藩邸・・・もし、薩摩藩邸に入ったならば、土佐藩邸にも要らぬ疑いをかけられかねない・・・。

寺田屋にも、薩摩藩邸にも入れない・・・京の町のどこに潜伏すればいいのか・・・??

暗殺の1か月前・・・命を狙われる龍馬はどこに潜伏すればいいのか??
寺田屋は不可能、薩摩藩邸は難しい・・・
他にあった龍馬の定宿は・・・酢屋。。。
酢屋は龍馬が隊長を勤める海援隊の本部が置かれていた場所です。
龍馬にとって信頼の厚い隊士が出入りし、安心して滞在できる宿です。
しかし、酢屋は幕府に目をつけられている可能性があり・・・龍馬は新しい潜伏先を探す必要がありました。
この頃の龍馬の潜伏先候補は2つあったと言います。

一つ目は土佐藩邸・・・
セキュリティーが良く、藩邸は、幕府の役人が入ることのできない聖域・・・。
身の安全は保障される!!
1867年2月、中岡慎太郎と共に脱藩の罪を許され、藩邸に居住する権利があったのです。
しかし、デメリットが・・・門限があり、外交をやるためには他藩の人自由に会いたい。。。それができなくなってしまう。
もう一つは近江屋・・・
醤油を商う近江屋は、土佐藩邸からわずか4、5m・・・
刺客に襲撃された場合、藩邸が近くにあれば、命は助かる!!
身の安全が保障される土佐藩邸か、それとも行動を束縛されない民間の近江屋か・・・??

龍馬暗殺の10日前・・・
1867年11月5日・・・旅先から帰京した龍馬は、近江屋にわらじを脱ぎました。
しかし、周囲は、近江屋に潜伏する龍馬を心配していました。
藩邸に移った方がいいと・・・
しかし、この時すでに龍馬は、龍馬を追う、会津藩主・松平容保と、幕府の要職・永井尚志と面会していました。
松平容保は京都守護職・・・配下には新選組や見廻組などがおり、大政奉還反対派の急先鋒です。
一方永井は、大政奉還推進派。開明的思想の持ち主でした。
記録によると、龍馬は暗殺の先日まで永井の屋敷に通っていました。
龍馬は、新しい政府に旧幕府勢力も参加する体制を作るために、永井と話し合っていたのです。
永井からお墨付きをもらっていたようですが、容保に話が通っていたかどうかはわかりません。
しかし、この永井と会う事は、討幕派からは背信行為とみなされる可能性があり、決して公にはできないこと・・・。
龍馬が近江屋に移ったのは、隠密裏に仕事をする必要があったからです。
しかし・・・1867年11月15日・・・龍馬暗殺!!
刺客たちの襲撃によって暗殺・・・遺体には、大小34カ所の刀傷があったといいます。
33歳・・・短い生涯でした。

事件は、龍馬を取り巻く人々に衝撃を与えました。
一体誰が龍馬を殺害したのか・・・??
勝海舟は、下手人の名を記しています。
佐々木只三郎・・・を頭とする輩
京都見廻組の組頭で、れっきとした幕臣で形成されていました。
さらに佐々木の実兄・会津藩公用方手代木直右衛門の記録にも・・・
坂本を殺したものは実弟・只三郎なり・・・
最近は佐々木率いる見廻組の仕業が有力と言われていますが・・・
それでも疑問が・・・
佐々木たちは、どうして龍馬の居場所を特定することができたのでしょうか?

高知県高知市・・・近年発見された龍馬の新書状が展示されています。
日付は11月10日・・・福井藩重臣に宛てて書かれたものです。
その書状には「新国家の御家計」と書かれています。
新しい国の財政問題を意識し、国家の体制と財政問題に重きを置いて活動していたのです。
この書状の封筒には・・・
「坂本先生遭難直前の書状にて、他見を憚るものなり」極秘扱いにされていました。
暗殺の黒幕を示唆している???
この書状は、龍馬暗殺を指示した者の名が書かれているがゆえに封印された??
残された名は、永井尚志!!
暗殺直前まで龍馬が面会に行き、新国家の構想を談じ合っていたと考えられる人物です。
暗殺の直後にも、土佐藩重臣の日記に永井が登場します。

しかし、大政奉還の後、新政府に徳川家が参加するためには、太いパイプを持つ龍馬は必要不可欠!!
永井が暗殺を命じる可能性は低い・・・。
では・・・龍馬暗殺の黒幕は誰か??
なぜ龍馬の居場所を知り得たのか・・・??
永井がいたのは大和郡山藩邸・・・。
永井の屋敷から歩いてすぐのところに・・・なんと、佐々木只三郎の下宿先・・・潜伏先・・・松林寺がありました。

危険なエリアに毎日のように通ってきていた龍馬・・・
暗殺直前の3日間のうち11日には午前、午後の二回にわたって訪問しています。
この時永井は龍馬にこう諭しました。

「頻繁な来訪は嫌疑をかけられるので、夜中に訪問せよ。」by永井

この場所に龍馬がくるということは、旗本、会津藩にとってはらわたが煮えくり返るようなことでした。
このまま龍馬が細かい新政府構想を作り上げると、政権を維持できると思っている人たちにとっては最大の危険人物として映ったのです。
手代木直右衛門の記述には・・・
「坂本龍馬を殺したのは実弟・只三郎であり、それは某諸侯の名によるもの」とあります。
某諸侯とは・・・??会津藩藩主・松平容保と、亡くなる直前に語っています。
そして実行された龍馬暗殺・・・
安全な土佐藩邸ではなく、近江屋を選んだ龍馬。
自分の安全よりも、日本のこれからの姿を優先した結果でした。

見廻組は公務だったのか?それとも私怨による暗殺だったのか・・・??
龍馬が暗殺されたことによって得をした人物はいない・・・しかし、慶喜たちが大損をしたことだけは確かです。

龍馬が暗殺されたこと・・・生きていれば・・・という思いが、それが龍馬暗殺の謎を深めている・・・
今なお英雄である坂本龍馬なのです。



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今からおよそ150年前、日本に新しい時代をもたらした明治維新・・・その中心となったが、薩摩藩です。
下級藩士・西郷隆盛や大久保利通が牽引したといわれることが多いのですが・・・
藩主の座にはつかなかったものの、島津久光の影響が強くあります。

1862年・・・桜田門外の変から2年、尊王攘夷が声高に叫ばれていた時代、久光は毛槍を高々に掲げ、1000人もの武装した兵を率いて京へ乗り込みます。
前代未聞の卒兵上京でした。
当時、大名がくることさえ異例だった京都・・・無位無官の久光が京に行ったことは、歴史を変える大きな出来事でした。
従来、この上京は、久光の暴挙だとされてきました。
しかし、その実情は・・・??
朝廷、幕府、有力諸藩も加わった、挙国一致の政治体制を樹立。。。
その周到な計画の一端だったのです。
薩摩の地で、欧米列強の圧力にいち早く直面した久光・・・。
日本の危機を乗り越えるための賭けに出ました。

アメリカ商船モリソン号・・・ペリー来航の16年前の1837年、モリソン号が鹿児島に来航。
日本人漂流民の引き換えと共に、開国を求めてきました。
薩摩藩は、幕府の鎖国の方針に従って、砲撃!!
薩摩藩主の5男に生まれた久光は、この事件を20代前半で体験しています。
城下の喉元に、外国船の侵入を許したことに大きな衝撃を受けたことは、想像に難くありません。
海外の情報を貪欲に集め始めた久光・・・ほどなくして・・・
隣国・清でのアヘン戦争の知らせ・・・イギリスが清国を完膚なきまでに叩きのめしたというのです。
この戦争について久光は細かく記しています。
これ以降、越境の進出は加速していきます。
イギリス船、フランス戦が琉球に来航し、繰り返し開国を要求します。
この時期久光は、軍役方名代に抜擢され、海岸防備を任されます。
越境からどのようにして国を守るべきか・・・!!
それを示したのは、兄・斉彬でした。
斉彬は反射炉を建設、いち早く国産大砲の鋳造に乗り出していました。
その姿勢は、幕藩体制にも向いていました。オールジャパンの国防体制を・・・!!

行きついたのは、古い幕政の改革でした。
それまで幕府は内政や外交を、一部の譜代大名で行っていました。
つまり、譜代専制です。
斉彬は、カヤの外に置かれていた、外様や親藩も政治に参加することを求めました。
外国に対して、挙国一致体制を目指したのです。

実現に向けて・・・そんなさなか、1853年、黒船来航!!
幕府が大名達に意見を聞くと・・・多くの大名は、打ち払いを!!
そんな中、斉彬の意見は異彩を放っていました。
「打ち払いでは勝利は覚束ない。
 三年ほど返答を引き延ばし、軍備を整えたうえで打ち払うべきである。」
1854年、日米和親条約締結!!

食料や燃料の供給は認めるものの、通商は拒否する・・・
幕閣は斉彬の言うように、無謀な攘夷は避け、開国を先延ばしにしたのです。
ところが1858年・・・アメリカ総領事ハリスの執拗な要求に、日米修好通商条約を締結!!
時の孝明天皇は、条約承認を拒み、諸大名の意見聴取を求めていました。
これに対し、大老・井伊直弼は、独断で調印!!
さらに、井伊は、自らの方針に反するものは弾圧!!朝廷や雄藩の影響を排除した従来通りの譜代専制の幕政に戻したのです。
安政の大獄の嵐が吹き荒れるそのさなか・・・1858年7月、島津斉彬急死。
次の藩主は、久光の子・茂久に決まり、久光は後見役として藩政を支える立場となりました。

名君の死で抑えの利かなくなった薩摩藩は大混乱!!
井伊の強権政治に反対する若手下級藩士による脱藩突出計画!!
しかし、実際は、井伊の命を狙うテロ計画でした。
この危機に久光は対応を迫られます。
暴発寸前の藩士に対し、久光は茂久の名で・・・
「斉彬さまのご意志を貫き、国家を護り、朝廷への忠勤に励む。
 力を貸してほしい・・・」
ここには、機械が来たら、久光が中央政局に乗り出す。それまで待て!!
その時に、活躍の場を与える。。。という意味がありました。

感激した下級藩士は、誠忠組と名乗り、幕政改革を目指すこととなります。
辛くも暴発を抑え込んだ久光・・・
1860年3月、江戸で桜田門外の変が・・・井伊直弼の暗殺です。
井伊の首を取ったのは有村治左衛門・・・あろうことか、薩摩藩の脱藩浪士でした。
幕府の強権政治に対する反発は全国に広がり、薩摩藩にも飛び火する危険性が・・・。
一刻も早く、幕政改革に乗り出さなければ・・・!!
久光は、抜き差しならない状況に陥っていました。

江戸城の目と鼻の先で大老が暗殺されたことで、幕府の威信は地に落ちました。
幕府が選んだ道は、朝廷にすがることでした。
1860年孝明天皇の妹・和宮降嫁を要請。
公武合体による朝廷の権威をもって、譜代専制体制の延命を図ったのです。
一方、桜田門外の変は、薩摩の誠忠組にも動揺をもたらします。
脱藩突出計画が再燃・・・
幕府の反動政策と、薩摩の下級藩士の暴発・・・久光は事態の打開に動く・・・??

白羽の矢が立ったのは、開明派の水戸徳川家・一橋慶喜と、松平春嶽です。
雄藩連合に賛同する二人を担ぎ出すことで、幕政の改革をはかったのです。
しかし、藩主でもなく、無位無官の久光に何ができる・・・??
どうして幕府人事に介入できるのか・・・??

卒兵上京して幕府に改革を迫る・・・??
当時、幕府は禁令によって大名の入京を大きく制限していました。
そこで久光が考えたのが、島津家を所縁の深い、公家の近衛家から入京を要請してもらうことでした。
京に派遣されたのは、久光の腹心・大久保一蔵(大久保利通)!!
近衛忠房に打診しました。

「天皇のお考えを幕政に反映させるためには、十分な京都守衛の兵力が必要。
 我が藩が入京し、その任に当たる。」

しかし、久光にもたらされた返事はつれないものでした。
さらに足元に不安要素が・・・西郷隆盛の動向です。
西郷の久光に対する発言・・・
「恐れながら久光公は田舎者にございます。
 薩摩から一歩も外に出たことのない久光が入京したところで、誰も相手にはしてくれない・・・
 政治を変えることなどできない・・・」
というのです。

もう一つの道は・・・
薩摩同様、中央政局への関与を図っていた長州藩との提携です。
孝明天皇の和宮降嫁の条件は・・・通商条約を破棄し、鎖国に戻すことです。
しかし、一旦締結したものは破棄できない・・・。

この時、幕府に長州藩が持ち掛けたのが「航海遠略策」でした。
こちらから航海に乗り出して、交易を行えば、異国は恐れて朝貢してくるであろう・・・
積極的に海外進出し、異国を従わせるというロジックは、孝明天皇にも受け入れられ、朝廷と幕府の関係を好転させると期待されていました。

卒兵上京か??長州との連携か・・・??

1862年3月16日、1000人もの大軍が、薩摩を出発しました。
久光は、卒兵上京を選択したのです。
この時点で、京に入れる保証はどこにもありません。
しかし、久光は、懸命に打開策を探っていました。
藩士を京に先行させ、公家への工作を盛んに行っていたのです。
反応したのは・・・孝明天皇の側近・岩倉具視。
”諸藩が幕府を恐れ従っている中、薩摩と長州の両藩が、国家のため力を尽くしてくれることは、天の助けである”
岩倉は、””朝廷の命令を聞く幕府・・・幕府は一執行機関”に追い込んで、ゆくゆく政権そのものを奪ってしまおうと思っていました。
決め手は、久光の圧倒的な武力!!
薩摩兵は、100挺の小銃と、4門の野戦砲を携えていました。
奇しくも、京には攘夷派の志士が集結・・・
久光の上京に乗じ、京都所司代襲撃、武力討幕を計画していました。
久光と岩倉は、その鎮圧を、入京の理由にしようと思っていたのです。

薩摩を発って1か月後・・・1862年4月17日・・・薩摩兵入京。
その前日、孝明天皇から密かに下された勅命には・・・
”京に滞在すべし・・・”久光は、京都滞在の明文を得ました。
卒兵上京から1週間・・・4月23日に、久光の元へ恐るべき知らせが・・・。
伏見の寺田屋に、薩摩の誠忠組の一部が集結!!
京都所司代襲撃に向けて動き出したというのです。
久光の決断は・・・??

寺田屋事件・・・武力による鎮圧でした。
同じ薩摩の藩士を粛正したのです。
非情な決断でした。
襲撃を未然に防いだことで、孝明天皇の絶大な信頼を得る久光。
幕政改革案への朝廷の同意を獲得することに成功したのです。

1862年5月・・・久光は、勅使に同行して江戸へ出府!!
朝廷の命令と、薩摩の武力を背景にした威圧に、慶喜と春嶽の登用を飲むほかありませんでした。
無位無官の久光が、朝廷、幕府を動かしたのです。
卒兵上京の賭けは成功しました。

2年後の1864年1月・・・京都二条城で、新しい政治体制が始まりました。
久光が創設に尽力した参与会議です。
一橋慶喜を筆頭に、有力諸侯が朝廷の会議に参加し、その意向を幕政に反映させるという久光の目指す挙国一致体制そのものでした。
しかし、その前途は思わぬ形で阻まれることに・・・
火種となったのは、横浜鎖港問題です。
当時の日本は、通商条約の締結によって、箱館、長崎、横浜の三港を外国に開いていました。
そのうち横浜の開港を取りやめることで、攘夷にこだわる天皇を懐柔しようとしたのです。
久光ら諸侯の意見は、鎖港反対で一致していました。
しかし、その前に立ちはだかったのが・・・一橋慶喜でした。
対立のきっかけとなったのが・・・孝明天皇から、将軍家茂に宛てた宸翰です。

”無謀な攘夷は、朕の好むところにあらず”

あくまでも攘夷にこだわっていた天皇とは思えない内容でした。
訝しんだ慶喜が、密偵を使って調査させた結果、驚くべき結果が・・・
勅書の作成に、久光が深くかかわっていたことがわかったのです。

久光が作成した草案は・・・一字一句同じ!!
この頃の、天皇の意向は、久光の思惑を色濃く反映していました。
慶喜にとって、見過ごすことのできない事態だったのです。
久光が朝廷に近づきすぎた・・・

慶喜の頑強な抵抗の前に、久光は辞表を提出。
参与会議は僅か2か月で解体に追い込まれました。
雄藩の政治参加の青写真を描き、舞台を整えた久光の夢は潰えたのです。

失意のうちに薩摩に帰国した久光・・・
しかし、国政参加への想いが衰えることはありませんでした。
1865年、ヨーロッパへ留学生を派遣。
その一人が五代友厚です。
五代は、ベルギー商社契約を結んでいます。
ベルギー政府と薩摩藩が、薩摩領内の鉱山開発や貿易について取り決めたものです。
久光の新しい国家構想が・・・
もう、幕府そのものはなくしてしまう。。。
忠、武力の発動ではなく、外交権を奪うことで、幕府を事実上失くしてしまう。。。
朝廷のもとで、緩やかな連邦国家を作る・・・
これが、久光の日本国の在り方の青写真だったのです。
しかし、時代のスピードは、久光の予想をはるかに超えていました。

1866年、徳川慶喜が第15代将軍に・・・!!
徳川家への権力維持を図る慶喜に対し、西郷たち薩摩藩京都藩邸は、かつてのライバル・長州との提携を進めます。
天皇中心の新政権樹立に動き出していました。
そして・・・討幕の密勅が・・・!!

「賊臣慶喜を殄戮せよ!!」

それは、緩やかな改革を目指した久光の考えとはかけ離れたものでした。
裏で動いていたのは、かつて卒兵上京に尽力した岩倉具視と大久保利通でした。

1868年1月、戊辰戦争勃発!!
薩長両藩をはじめとする新政府軍は、1年以上の戦いの末、旧幕府軍に勝利!!
その結果、明治新政府は、天皇の元での中央集権体制へ向けて加速していくのです。

1871年突然の廃藩置県!!
久光の薩摩における政治基盤は、根こそぎ奪われました。
その日、久光は屋敷で花火をあげ、うっぷんを晴らしたといわれています。
政治の表舞台から退いた久光が、力を注いだのが歴史資料の収集です。
麗明館に残る玉里島津家資料は、1万2000点に及びます。
久光の命により集められたものです。
自らの手で開いた歴史の扉・・・しかし、その先に待っていたのは、思い描いていた時代ではありませんでした。



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1866年、京都のとある場所で・・・密約がなされました。
薩長同盟です。
あまりにも有名な伝説・・・
西郷隆盛と木戸孝允、面子を気にして同盟を切り出せない二人を坂本龍馬が一喝!!
同盟成立に導いたというストーリーですが・・・
近年、歴史は見直されつつあります。

ひとまず幕府に従うべきだという西郷、これ以上過酷な処分は受けないといいはる木戸・・・。
意見は食い違い、薩長は決裂寸前となっていました。
暗礁に乗り上げた交渉をまとめ上げたのは・・・龍馬ではない・・・もう一人のキーマン・・・小松帯刀!!
薩摩藩の若き家老です。

「薩摩での人物はまず小松である」by龍馬
「私が一番知っている日本人で、一番魅力ある人物」byアーネスト・サトウ
「薩摩藩の製作は、ほとんど小松が立案している:by海舟

万難を配し、長州との同盟に踏み切った帯刀、知られざるその構成期とは・・・??

小松帯刀・・・帯刀本人が愛用した薩摩琵琶。
帯刀は、若い頃、寝食を忘れてこの楽器に熱中しました。
心配した家臣が、先祖の功績に恥じぬ生き方をせよと忠告すると、涙ながらに琵琶をしまい、二度と手に取ることはありませんでした。
藩主・島津家に並ぶ名門に生まれた帯刀・・・幕末の動乱へ・・・!!

1853年黒船来航

開国を迫ります。
圧倒的な武力の前に、開国に踏み切る幕府。
この先・・・欧米諸国とどう向き合うのか・・・??
薩摩藩は、他国に先んじて、富国強兵に乗り出していました。
藩主・島津斉彬は、反射炉を建設し、大砲鋳造に乗り出します。
21歳の帯刀は、斉彬の隣で産業育成に関わります。
この経験が、帯刀の目を開きました。
壮大な造船業、製鉄業、紡績業が、鹿児島に次々に生じていきます。
日本を変えていくためには殖産興業・富国強兵だ・・・!!
自立しながら日本全体を守っていかなくては!!

斉彬の後、権力の座に就いたのは弟・久光でした。
久光は、帯刀を僅か28歳で家老に昇進させます。
家老になる1年前・・・1861年には藩命により長崎へ・・・異国人から蒸気船を学びました。

当時アメリカでは・・・1861~1865年まで南北戦争によって品薄となっていた綿・・・これに目をつけて、西国諸藩から綿を買い取って輸出!!
売り上げは18万両にのぼりました。
その利益を手に、海軍の建設に乗り出しました。
この年、薩摩藩は、5隻の蒸気船を購入しています。
同じ頃、運命的な出会いが・・・坂本龍馬です。
神戸海軍操練所の閉鎖に伴って行き場を失っていた龍馬を、帯刀は薩摩に引き取ります。
顔が広く、抜群の政治センスを持つ龍馬は、帯刀の元で、薩摩外交の一翼を担うようになります。
彼らの共通の理想・・・それは、雄藩連合です。
これまで幕府では、一部の譜代大名が政治や外交を独占!!
外様はカヤの外でした。
薩摩は、有力大名が手を組む雄藩連合を構想、実現に向けて動き出していました。
帯刀は久光の代理として京都での工作を任されます。
そこで直面したのが長州をめぐる政局でした。
その頃長州は、異国を打ち払うべしとし、外国船への砲撃を決行!!
一部の公家と結びつき、通商条約の破棄を工作していました。
幕府側は激しく反発し・・・その中心が、禁裏御守衛総監・一橋慶喜、京都守護職・松平容保、京都所司代・松平定敬でした。
薩摩はこの時幕府側について、長州と蛤御門で戦い、撃退します。
慶喜はこれに乗じて、長州排除に動きます。15万の征討軍を動かし、長州国境に迫りました。
第一次長州征伐です。

ところが・・・ここに及んで薩摩は態度を一変!!
1864年10月、上京した帯刀は、慶喜に征伐中止を宣言しています。
「ここで内乱を起こすことは、植民地化を狙う諸外国の思うつぼ・・・!!」
この薩摩の方針の変更は、京都におけるパワーバランスによるものだと思われます。
一会桑は、有力藩を国政運営に加えたくない・・・
薩摩は加えたくない・・・??
勢力との深刻な対立。。。
長州を敵に回すのではなく、恩を売っておくほうが得策なのではないか・・・??

薩摩は事態収拾へと動きます。
禁門の変を主導した長州の三家老を処刑し、幕府へ謝罪するように打診・・・。
長州がこれを受諾したことで、第一次長州征伐中止。
振り上げた拳の行先の無くなった慶喜は、苦々し気に吐き捨てます。
「芋に酔うのは酒に酔うより甚だし」と。

薩摩への警戒を強める慶喜、再起へ虎視眈々の長州、その中で京都での工作に励む小松帯刀・・・
幕末は、いよいよ風雲急を告げる・・・!!
1865年、幕府側の巻き返しが・・・
三家老の処刑では処分は済んでいないとし、将軍家茂率いる15万の軍が大坂へ・・・!!
第二次長州征伐です。
長州は、開戦を覚悟しました。
しかし、幕府は諸外国に対し、武器を売らないように要請します。
長州は、絶体絶命の窮地に陥りました。
この時の、帯刀の決断とは・・??

薩摩名義で7,300丁もの銃を購入し、長州に斡旋したのです。
長州の使者に対して・・・
「幕府の嫌疑など意に介していない。
 如何なることでも尽力する。」
この時帯刀は、幕府を排除した新しい政治体制を模索していました。

薩摩は長州との更なる提携の道を探るべく使者を派遣!!
うけて翌年、長州藩・木戸孝允が上京!!
交渉の場は、帯刀の宿舎・御花畑・・・藩邸を避けたのは、幕府に嫌疑を起こさせないための薩摩側の配慮でした。
1866年1月・・・交渉が始まりました。
帯刀の元で交渉を担当したのは西郷隆盛!!
西郷は、幕府側に対する武力も辞さない強硬派として知られていました。
しかし、会談の冒頭に発したのは・・・
「ここはまず、幕府の処分を甘んじて受け入れよ」でした。
この時点で、幕府は長州に対し藩主親子の隠退、領地10万石削減・・・を通告する見通しとなっていました。
過酷な処分を受け入れよという西郷・・・
そこには、国父・島津久光の意向がありました。

久光は、京都藩邸に使者を送り、藩士たちに厳しく自重するように命じてます。
西郷と帯刀は、長州に対して朝敵の汚名を晴らす政治工作はできても、幕府への武力行使はできない状況に追い込まれていたのです。
しかし、長州は既に臨戦態勢・・・更なる条件など受け入れられない・・・。
三家老の首級で住んでい入るはずでは・・・??
軍事支援か?政治的解決か・・・??
薩摩に置いて、久光は絶対でした。

交渉を打ち切るか・・・??
同盟締結に向かう・・・??

1866年1月20日、暗礁に乗り上げた交渉は・・・思わぬ展開に!!
きっかけは龍馬!!
御花畑に到着し、薩長両藩に交渉の継続を求めます。
龍馬の働きかけで交渉は続けられ、後は帯刀次第・・・
「私の思いが小松、西郷に通じた。感謝に耐えない・・・」by孝允
帯刀は、処分を突っぱねて、幕長戦争に突っ走る木戸の主張を受け入れたのです。
ここに、薩長同盟が成立!!

木戸の書簡には、6か条にわたって盟約の詳細が・・・

若し、幕府と長州は戦争となった場合、薩摩は二千の兵を上京させ、京都、大坂を固める!!
薩摩は朝廷に働きかけ、長州の朝敵の汚名を晴らすべく尽力する!!

ここまでは、久光にとっても許容範囲ですが・・・

第五条には・・・
一(橋)会(津)勢力総勢力がこれまでのように、長州の復権を遮る場合は決戦に及ぶ・・・
つまり、決戦条項です。
久光の指示に反するかのような条文・・・そこには巧妙なロジックが隠されていました。

一会桑・・・つまり、幕府とは一言も言っていません。
薩摩が生き残るためには、長州を絶対滅ぼしてはならない!!
軍事同盟ともそうでないともとれるこの密約は、帯刀苦心の結晶でした。

1866年6月、幕長開戦!!
ついに戦闘状態に・・・!!
帯刀のあっせんした最新兵器の威力は凄まじく、長州は四方からの15万の幕府軍を撃退!!
1867年5月、京都・二条城に将軍・慶喜と久光ら有力諸侯が集まり、長州の戦後処理について話し合われました。
帯刀の書簡には・・・久光の言葉が・・・
「三家老の首級を差し出したことで、謝罪は済んでおります。」
同盟交渉の場での、木戸孝允の言葉を久光が口にしたのです。

同盟締結から1年余り・・・帯刀がいかに久光を説得したのか・・・その真相は全くわかっていません。
しかし、この時、確かに歴史は動いたのです。

薩長同盟は、その後の歴史を大きく変えました。
1868年1月3日、鳥羽伏見の戦い・・・薩長中心とする新政府軍と旧幕府軍が激突!!
新たな国家を作る戦いが始まりました。
しかし、そこに帯刀の姿はありませんでした。
この頃、持病の足の痛みが悪化し、鹿児島に戻っていました。
戦いを遠くから見守ることしかできませんでした。

「天下の大事に後れたこと、実に残念でならない。」

しかし、討幕戦争のさなかにも、帯刀は新政府の構想を・・・
より装飾性の高めた薩摩焼を作り、欧米の人にも賛美されるように・・・
薩摩焼は、1867年のパリ万博に出展されています。
その機を逃さないように・・・!!
繊細な薩摩焼は、ヨーロッパの上流階級に珍重され、ジャポニスムの潮流を巻き起こします。
宮殿などの装飾品として注文が殺到!!
当時、ヨーロッパでは日本の陶器はすべて薩摩と呼ばれるほどの人気でした。
殖産興業・・・帯刀の夢が、世界に飛翔した瞬間でした。

しかし、その夢の実現を帯刀が見ることはありませんでした。
1870年7月20日・・・病のために36年の短い生涯を閉じたのです。
維新の大業のために、命を燃やし尽くした帯刀・・・顧みられることのなかったその功績に、近年、ひかりが当たりつつあります。



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全国に26万人いる警察官。
警視庁は、東京都を管轄する警察組織です。
警察は、我々の安全と秩序を守ってくれます。
が・・・現在の組織になったのは、今から150年前!!
しかし、警察官として最初に採用されたのは、博徒などのならず者や浪人たちでした。
悪化していく東京の治安に西郷隆盛が採った策とは・・・??
西郷から治安維持を任せられたのは、川路利良でした。

江戸時代の治安は、町奉行・与力・同心・岡っ引きなどによって守られていました。
しかし、江戸幕府が崩壊し、明治となると・・・
江戸は東京となり、近代化を推し進める新政府は、旧幕府の制度を廃止していきます。
そんな中、町奉行所までもが消滅し、東京の治安は悪化の一途をたどっていました。

1870年イギリス人暗殺事件が起きて・・・町奉行所に代わるものの必要性を感じた政府。
この時、首都の治安を任されたのが、新政府の重鎮・西郷隆盛でした。
西郷はどのようにして治安回復を行ったのでしょうか?

まず、薩摩藩などから兵を出させ、市中の取り締まりをする”取締”という役職を作ります。
しかし、つきたがる者もなく・・・人数合わせのための博徒や浪人などが含まれていました。
治安を守るどころか、権力を振りかざすようになる取締・・・益々治安が悪くなっていきます。

ヨーロッパ留学から帰国した弟・従道。。。
「フランスにはポリスっちゅうもんがありもうしてな
 こいはほんに便利なもんでごわした」
そして、ポリスは、市民の保護や町の警備、犯罪の摘発を行う仕事だと教えました。
西郷は、早急にポリス制度を導入しなければ・・・!!
1871年取締→邏卒とし・・・かつて武士で、のちに士族となった身元の確かな者たちを中心に採用することにしました。
この士族の起用には、首都を守る以外に、失業した武士の補償ということもありました。
この人事を任されたのが、役人だった川路利良でした。
1834年薩摩国にうまれた川路は、藩の与力として江戸勤番となりました。
様式の銃と出会い、西洋の兵器を学ぶようになります。
1864年禁門の変で功績をあげた川路・・・その後も西郷に引き立てられ、1871年には東京府典事に就任・・・西郷は恩人でした。

そんな西郷から川路は、邏卒候補を探してくるように命じられます。
「身体強健にて 品行方正な薩摩郷士1000人を鹿児島より徴集してくるように。。。」
そして、川路1000人、西郷が1000人の薩摩の下級武士を探し、他の藩の士族1000人と合わせて3000人が邏卒として集められました。
この時、江戸を守っていた与力や同心たちも採用されています。
1872年8月23日、邏卒は国の司法省管轄となります。
地方警察が、国家警察となりました。

「警察手眼」で川路は・・・
「警察とは、国家の治療薬であり良民を保護し、内国の気力を養うもの」としています。
そんな信念のもと、川路は、近代警察づくりに邁進していきます。

しかし、問題は山積み・・・

①邏卒内のいじめ
特に深刻だったのが、薩摩藩内での間でした。
邏卒の中には、薩摩藩時代の上級武士で、天皇の護衛だった近衛兵となっていた陸軍省のエリートも含まれていました。
しかし、その扱いは、下級武士出身の邏卒と同じものでした。
エリートだった邏卒は不満を解消するように、同じ薩摩藩の邏卒にいやがらせを繰り返します。
近衛兵に絡まれてもただただ我慢!!そうなると、近衛兵出身の邏卒たちは刀を振り回し始める始末・・・。
下級武士出身の邏卒たちはいつも泣き寝入り・・・
職を辞し、国に帰るものもいました。

川路は、再三陸軍省に掛け合いますが・・・埒があきません。
結局、非番の邏卒を見張りに回らせます。

②組織の改革
江戸時代は、警察機能と司法機能が同じ奉行所管轄でした。
そのため、警保寮も司法省のもとに置かれていましたが、それでは公平さが失われるということで、西洋と同じように、警察と司法の分離を主張!!
1874年警保寮は、内務省管轄の東京警視庁となりました。
これが本格的な日本の近代警察の誕生でした。

しかし、再び問題が・・・邏卒たちが次々と辞めていきます。
政府内で起きた征韓論が原因でした。

鎖国していた朝鮮に門戸を開かせようとする征韓派(西郷隆盛・板垣退輔・江藤新平)と反征韓派(大久保利通・木戸孝允・岩倉具視)らが対立!!
その結果・・・論争に敗れた西郷らが下野してしまいました。
これに伴い、西郷を慕う邏卒たちが次々と辞表を出していきました。

警察官のうちの1/6が辞職してしまいました。
この時、川路もまた下野するのではないのか??と言われていましたが、この後始末に奔走!!
すると、川路は西郷に世話になっておきながら、信義を知らぬ薩摩の面汚し!!と、たたかれることとなります。
しかし、川路は・・・
「ポリスは、人民を守るのが役目でごわす。
 政争の道具ではありもはん。」
強い意志で、理想を貫き警視長に就任!!

組織改革に全人生をかけるのです。
しかし、260年続いた江戸幕府の警察機能を、短期間で近代警察にかえることは並大抵のことではありませんでした。

東京警視庁は、新たに10の階級制度を設けます。
邏卒は巡査、4階級に分けられました。
当時の給料は、大警視の川路が350円。
一番下の四島巡査で4円でした。
川路はこの巡査に対する決まりを作っていきます。

警察手帳
日本最初の警察手帳は「手帳取扱心得」
明治7年8月巡査全員に配布され、常時携帯されることとなります。
その中には、所属と階級、氏名・・・紛失した場合は、厳しい処分が待っていました。
十手に変わって棍棒を採用!!
警部以上は刀を携帯できたのですが・・・これを、サーベルに替えます。
日本の近代警察を作っていきます。

町の治安を守る巡査は過酷・・・12時間勤務で、
昼番・午前8時~午後8時
夜番・午後8時~午前8時の二交代制。
警察署に当たる屯所と交番が勤務地でした。

その仕事内容は・・・
巡行・立ち番・待機でした。
巡行・・・屯所から出て交番までを30分間警邏する
立ち番・・・交番の前後左右100歩を1時間歩きながら警邏する
別の道を30分帰って・・・巡行後に1時間待機。
これを3人でローテーションでやるのです。
しかし、勤務が明けてもゆっくりと休みことが出来ず・・・1時間ごとに起こされます。
巡査たちは極度の睡眠不足に・・・!!
さぼるものも出てきました。
不正を最も嫌う川路は・・・
「夜も昼も眠ることなく、職務に専念せよ!!」
そして、巡査の不正を取り締まる見廻り役警部を作ります。・・・彼らはオバケと呼ばれ恐れられました。
「警察官は臨戦態勢を維持せよ
 寝ても覚めても警察官であれ!!」by川路

巡査の中には、昔の岡っ引きのような人もいました。
彼らは素行も悪く・・・同じように教育し、市民の信頼を得るために・・・!!
西洋との差を縮めるために・・・!!


文明開化は町に混乱をきたしていました。
明治になり郵便制度が出来、郵便箱が設置されます。
しかし、人々はこれをゴミ箱と勘違いし、ゴミを入れていきます。
これに対処するのが巡査でした。
裸同然で歩いている人、川にごみを捨てている人、家のカギを閉めていない人・・・注意しなければなりません。
新しい時代に翻弄される人々を指導しました。


川路率いる東京警視庁が、本格的に活動しだしたころ・・・不平士族の反乱がおきます。
江藤新平の佐賀の乱を皮切りに、不平士族の反乱がおきたのです。
どうしてこのような反乱が・・・??
江戸時代の武士は、藩から俸禄を得て暮らしていました。
しかし、明治となると、大名や武士階級が廃止され、大名を華族に、家臣を士族としました。
1187年3月、節の魂である刀を取り上げる廃刀令を発布。
8月にはそれまで保証されていた俸禄まで無くしてしまいました。

当時、明治政府は、公家、大名、武士たちに旧来通りの家禄、維新の時の賞俸禄を支給していました。
しかし、国家財政への負担が多く・・・秩禄処分にし、一定の額のみの支給としたのです。
収入が急になくなる・・・多くは警察官となりますが、あぶれていきます。
商売は全く上手くいきません。
武士としてのプライド、特権を失った人々・・・明治維新のために戦ったのに・・・どうして!!
旧官軍の間で反乱が各地で起こります。

各地で起きた不平士族の乱に立ち向かったのが、川路率いる警察官たちでした。

西郷は鹿児島に戻り、私学校を開いていました。
そんな西郷もまた・・・1877年2月15日教え子たちに担がれて蜂起!!
西南戦争勃発!!
この時内務卿の大久保利通は、すぐさま川路に鎮圧にあたらせます。
警察のトップだった川路は、陸軍少将も兼任し、陣頭指揮を執ることとなります。
しかし・・・大きな恩のある西郷との戦い・・・!!
川路は故郷に帰るのでは・・・??
「私情においては、まことに忍びない事であるが、国家行政の活動は1日として休むことは許されない。
 大義の前に、私情を捨てて、あくまで警察に献身する。」by川路
警察官として西郷とたたかう道を選ぶのでした。

そんな川路の懸念は・・・??
反乱軍は、示現流の使い手が多く、戦いにも慣れている・・・
刀を抜いて襲い掛かってくるはず・・・
武士出身の警察官はともかく、陸軍は農民出身者が多く・・・刀の使い方には不慣れでした。
戦いが始まると、川路の不安は的中!!
反乱軍に圧倒され、陸軍は次々と敗走!!
このままでは負ける!!
指揮官・川路は危機!!
そこで新兵力・警察抜刀隊の編成でした。
目を付けたのが、東北の士族たちでした。
旧会津藩士などを警察抜刀隊に採用し、復しゅう心を利用しました。
命を懸けて西南戦争に立ち向かっていく警察抜刀隊!!

川路も別動隊を率いて戦います。
3月20日、追い込まれた反乱軍は総崩れ・・・
9月24日、西郷隆盛が自刃するのです。
西南戦争は、政府軍の勝利に終わりました。
川路は、勲二等日重光章を授与されます。
しかし、同じ薩摩藩士を死に追いやった大久保と川路に対する非難の声は、世間はもとより政府内にあっても厳しいものでした。
しかし、誰よりも悲しんでいたのは自らの手で朋友・西郷を葬ってしまった大久保利通と恩をあだで返した川路達自身でした。

川路の生家が暴徒化した民衆によって打ち壊され、川路の親族というだけで親類たちが7人も殺され、首を晒され・・・川路は人知れず泣いたと言います。
1878年5月14日大久保暗殺!!
政府のトップが殺されたという非難は、あらかじめ暗殺に対する備えがなかったということで川路に・・・!!
すり減る川路の神経・・・
大久保の葬儀が終わると、新しい内務卿・伊藤博文に辞表を提出するものの・・・却下されてしまいました。

大警視となって5年目の1879年、川路は再びフランスへ・・・
西南戦争後の警察制度の再警備に向けて・・・!!警察官僚の育成方法を学ぶために・・・!!
しかし、心身ともに疲弊しきっていた川路は、病にむしばまれていました。
わずか4か月で無念の帰国・・・。
その5日後、川路は46歳という若さでこの世を去るのです。

人民の秩序と安全を守る優秀な近代警察を作る・・・
命がけで全うしようとした川路・・・その警察人生はわずかに8年間でしたが、その情熱と功績は計り知れないものがあります。

警察手眼に書かれています。
「警察官の精神は全て、人々を慈しみ援助すること以外にないであろう。」
「人民と接するときは、まるで子供に接するように懇切に徹しなさい。」
それは、川路がパリで観た理想の警察官の姿でした。



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